魔人の鉞

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蒙古襲来に 高麗の抵抗があった

2020-01-23 08:56:32 | 日本史

蒙古襲来当時の朝鮮の抵抗について、教えられるところがありました。

「東アジア史のなかの日本と朝鮮」 吉野 誠著、明石書房、2004年。

石器時代から近代までの日朝関係を、冷静に概観した好著です。漢倭奴国王については「奴国」とする見解ですが、これはある意味でやむを得ないでしょう。それよりも、蒙古襲来に関して朝鮮がどうしたのか、ほとんど知らなかったことに気が付きました。

朝鮮・高麗王朝は1231年から蒙古の侵略を受け、江華島に臨時政府を設けるなどして30年近く抗戦しましたが、1258年についに降伏の礼をとり、1271年に王城を開京に戻しました。しかし三別抄という一軍が南部沿岸部に拠り、王族を立てて抵抗を続けます (121p)。それが完全に平定されたのが1273年でした。

モンゴルの国書を持った高麗の使者が初めて日本に来たのが1268年。しかし幕府も朝廷も何ら回答せず、使節を追い返してしまいました (122p)。その後、1271年9月に再び高麗からの書状が届きました。朝廷では事情が分からず、これもウヤムヤになっていました。おそらくこの文書と1268年のものとを比較検討したと思われる「高麗通牒不審条々」とい古文書が1980年代に発見されており (東大資料編纂所蔵) (124p)、 時期と内容からおそらく三別抄からの連帯を求める文書と推定されるそうです。

わが国は国書に対して「判断する情報自体がなかったというべき」とします (128p)。東アジアの情勢を知らず、朝鮮や中国、モンゴルと交渉もせず、三別抄の要請に応えることもできませんでした。しかし北条時宗の指導で迎撃の準備だけはある程度ととのえることができました。それは朝鮮が30年以上も抵抗していたことによって、日本は国内体制を整える時間が稼げたのではないか、と著者は考えています (120p)。確かに、高麗がすぐにモンゴルに臣従していたら、1230年代前半に蒙古襲来が起こっていたかもしれません。承久の乱は1221年ですから、国内が混乱した可能性は十二分にあります。

モンゴルは朝鮮などを先兵に使って1274年に文永の役、1281年に弘安の役となりますが、幸運もあって撃退することができました。2度ともモンゴル船団を台風が襲ったといわれますが、真偽ははっきりしません。ともかく日本だけが敢闘して神風で助かった、という神話が出来上がってしまいました。実際にはビルマやベトナム、チャンパ、ジャワもモンゴルの侵攻を跳ね返したそうです。私はそうしたこともほとんど知らず、何となく神風神話を半分信じていたような気がします。

蒙古襲来という国際的事件でさえ、自分の国からの視点しか持ちえないのでは情けないことです。広い視野を持ちたいものです。

 

 

 

 

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