私たちは明治維新は素晴らしい大改革だったと教えられてきましたが、それは官軍史観に過ぎなかったようです。
「日本を開国させた男 松平忠固」 関 良基 (せき よしき) 著、2020年、作品社。
日米和親条約につづく日米通商航海条約の締結に際し、大老井伊直弼が無勅許調印を断行したとされていますが、実は無能と言われた当時の幕閣・官僚には開明派が多く、中でも老中松平忠固 (ただかた) がその中心人物だった、という事を丹念に跡付けています。
彼らは、攘夷で一戦して負けたらアヘン戦争の清国の2の舞になるので、無傷のうちに対等な条約を結んで開国するほかないと考えていました。そして国力を培うべきと。
阿部正弘が老中首座のとき、徳川斉昭を幕府海防参与に登用しましたが、これがご存じのようにゴリゴリの水戸派攘夷論者でした。老中の一角で断固開国派だった忠固 (当時は忠優と称す) は度々斉昭と論戦し論破し、斉昭をして切歯扼腕させたという事です。(52p)
条約交渉では岩瀬忠震・井上清直たちの毅然とした交渉が近年称賛されるようになっていますが、彼らも独断でできたわけではありません。幕閣が松平忠固らを中心にしっかり開国路線で固まっていて、斉昭らの攘夷派を抑えていたからこそ、素晴らしい交渉ができたのではないでしょうか。
そして改めて日米通商航海条約 (安政5年、1858) をみると、これは不平等でもなんでもない、きわめて対等な条約になっているというので、驚きました。(151p~)
著者によれば関税率は20%でこれは先進国の標準で、アヘン戦争後の清国はたった5%でした。日本側の申し出による再交渉の権利もあり、関税自主権があったという事になります。領事裁判権は双務的で、当時の状況を考えれば許容範囲と思える。
唯一、外国貨幣の流通を許したことが金銀交換比率の違いによる金貨の流出を招いたことが失策でしたが、これは強いられたのではなくむしろハリスの忠告を無視したため (165p) で、事後的に改善せざるを得ないことになりました。
つまり、安政の日米通商航海条約は対等な条約でした。それが関税を5%に下げられ、自主権を失ったのは長州藩による外国船攻撃と下関戦争 (1864) の敗戦後という事です。長州藩など討幕のために攘夷を口実とするいわゆる攘夷派は朝廷の不平貴族とつるんで攘夷決行を幕府に宣言させ、その期日に外国船攻撃を実行したのです。そして惨敗すると、それは幕府の命令だと言って責任を転嫁したのでした。わざと負けたのではないかと思うほどの完敗でした。
その結果、敗戦側の幕府は追い込まれ、賠償金を取られた上に平等だった日米通商航海条約は不平等条約に変化させられ、関税率は5%と清国並みにさせられてしまった。これは当初幕府側の危惧した状況を攘夷派がわざと作り出した、という事になります。攘夷・討幕派にとっては、負けても幕府が困るので結果オーライだったのです。
そして明治政府は、攘夷攘夷と唱えながら討幕後はたちまち開明派に寝返った。明治維新は国のためなどではなかった。単に権力欲だったというほかはありません。
明治の元勲・伊藤博文は横浜公使館襲撃のテロリストでした。そのくせに、自分たちが敗戦したためだったものを、幕府が無能無知だったからこんな不平等条約を作ってしまったので、その改正のために維新政府が悪戦苦闘した、というストーリーをでっち上げ、国民を教育したのです。どこまでも、嘘と策略で塗り固めた、盗人猛々しい歴史と言わなければなりません。
国のためというなら、対等な条約を結び開国に転じた幕府を打倒する理由はなかった。坂本龍馬の船中八策 (これは彼の発案ではなさそうですが) に従って、幕府・諸侯・諸士の共和で開国すればよかったはず。それでは困るので、討幕を目標にした薩摩が竜馬を暗殺したという説が出て来るわけです。私はその可能性は70%ありと思います。
また攘夷派だが佐幕=幕府協調路線の孝明天皇の逝去も暗殺説があるほどです。
そして討幕の過程では、暗殺、策謀、偽綸旨、偽錦旗などなんでもありのデタラメぶり。あの西郷が江戸で騒擾を起こさせ、討幕の契機にしたのはほぼ確実。要するに権力欲むき出しです。権力を取ればこんどは汚職・横暴のしたい放題で、節度倫理などかけらもない始末。西郷は金銭に潔癖だったらしいが他はダラシがない。
勝てば官軍、結果オーライ、誤魔化せない方が無能、という無節操国家・明治日本がアジア太平洋戦争で破滅したのは、ある意味で良かったのです。
司馬遼太郎氏は、明治国家は青年のようで素晴らしかったが、日露戦争後からおかしくなった、「異胎」 の国家になったと言っていますが、とんでもない浅見です。日露戦争後の日本も明治国家の直系で、他人の子ではありません。
日清戦争前にすでに、朝鮮王宮占領で国王を虜にして戦争につながる指令を出させ、戦後はロシア寄りの朝鮮王妃を惨殺するというとんでもない事件を起こしています。その犯人は結局無罪放免。何が初々しい青年なものですか。チンピラと言っても過言ではありません。国際法を順守したと言っても、ごまかせる物は徹底的に誤魔化しているのです。
司馬氏は都合の悪いことは無かった、見なかったことにしているだけです。そんな司馬氏はあくまで作家。文学作品を書いているので、読む人=日本人を心地よくしようというのはある意味で当然ですが、歴史家だ、司馬史観だと持ち上げるのは大変な間違いです。
明治は良かった、敗戦日本は本当の日本じゃないという司馬史観は、日本人にとって心地よいものですが、それでは本当のことが見えてこない。いやなものは見たくない、というダダっ子のようです。日本国民は被害者だ、といってアジア諸国民の被害に目をふさぐのも同様です。そうした姿勢では本当の歴史と、本当に大切なものを忘れてしまうでしょう。
司馬遼太郎を徹底的に批判しなければ、本当のことは見えてこない。私は浅学ですが、この頃そう確信するようになりました。
「日本を開国させた男 松平忠固」 関 良基 (せき よしき) 著、2020年、作品社。
日米和親条約につづく日米通商航海条約の締結に際し、大老井伊直弼が無勅許調印を断行したとされていますが、実は無能と言われた当時の幕閣・官僚には開明派が多く、中でも老中松平忠固 (ただかた) がその中心人物だった、という事を丹念に跡付けています。
彼らは、攘夷で一戦して負けたらアヘン戦争の清国の2の舞になるので、無傷のうちに対等な条約を結んで開国するほかないと考えていました。そして国力を培うべきと。
阿部正弘が老中首座のとき、徳川斉昭を幕府海防参与に登用しましたが、これがご存じのようにゴリゴリの水戸派攘夷論者でした。老中の一角で断固開国派だった忠固 (当時は忠優と称す) は度々斉昭と論戦し論破し、斉昭をして切歯扼腕させたという事です。(52p)
条約交渉では岩瀬忠震・井上清直たちの毅然とした交渉が近年称賛されるようになっていますが、彼らも独断でできたわけではありません。幕閣が松平忠固らを中心にしっかり開国路線で固まっていて、斉昭らの攘夷派を抑えていたからこそ、素晴らしい交渉ができたのではないでしょうか。
そして改めて日米通商航海条約 (安政5年、1858) をみると、これは不平等でもなんでもない、きわめて対等な条約になっているというので、驚きました。(151p~)
著者によれば関税率は20%でこれは先進国の標準で、アヘン戦争後の清国はたった5%でした。日本側の申し出による再交渉の権利もあり、関税自主権があったという事になります。領事裁判権は双務的で、当時の状況を考えれば許容範囲と思える。
唯一、外国貨幣の流通を許したことが金銀交換比率の違いによる金貨の流出を招いたことが失策でしたが、これは強いられたのではなくむしろハリスの忠告を無視したため (165p) で、事後的に改善せざるを得ないことになりました。
つまり、安政の日米通商航海条約は対等な条約でした。それが関税を5%に下げられ、自主権を失ったのは長州藩による外国船攻撃と下関戦争 (1864) の敗戦後という事です。長州藩など討幕のために攘夷を口実とするいわゆる攘夷派は朝廷の不平貴族とつるんで攘夷決行を幕府に宣言させ、その期日に外国船攻撃を実行したのです。そして惨敗すると、それは幕府の命令だと言って責任を転嫁したのでした。わざと負けたのではないかと思うほどの完敗でした。
その結果、敗戦側の幕府は追い込まれ、賠償金を取られた上に平等だった日米通商航海条約は不平等条約に変化させられ、関税率は5%と清国並みにさせられてしまった。これは当初幕府側の危惧した状況を攘夷派がわざと作り出した、という事になります。攘夷・討幕派にとっては、負けても幕府が困るので結果オーライだったのです。
そして明治政府は、攘夷攘夷と唱えながら討幕後はたちまち開明派に寝返った。明治維新は国のためなどではなかった。単に権力欲だったというほかはありません。
明治の元勲・伊藤博文は横浜公使館襲撃のテロリストでした。そのくせに、自分たちが敗戦したためだったものを、幕府が無能無知だったからこんな不平等条約を作ってしまったので、その改正のために維新政府が悪戦苦闘した、というストーリーをでっち上げ、国民を教育したのです。どこまでも、嘘と策略で塗り固めた、盗人猛々しい歴史と言わなければなりません。
国のためというなら、対等な条約を結び開国に転じた幕府を打倒する理由はなかった。坂本龍馬の船中八策 (これは彼の発案ではなさそうですが) に従って、幕府・諸侯・諸士の共和で開国すればよかったはず。それでは困るので、討幕を目標にした薩摩が竜馬を暗殺したという説が出て来るわけです。私はその可能性は70%ありと思います。
また攘夷派だが佐幕=幕府協調路線の孝明天皇の逝去も暗殺説があるほどです。
そして討幕の過程では、暗殺、策謀、偽綸旨、偽錦旗などなんでもありのデタラメぶり。あの西郷が江戸で騒擾を起こさせ、討幕の契機にしたのはほぼ確実。要するに権力欲むき出しです。権力を取ればこんどは汚職・横暴のしたい放題で、節度倫理などかけらもない始末。西郷は金銭に潔癖だったらしいが他はダラシがない。
勝てば官軍、結果オーライ、誤魔化せない方が無能、という無節操国家・明治日本がアジア太平洋戦争で破滅したのは、ある意味で良かったのです。
司馬遼太郎氏は、明治国家は青年のようで素晴らしかったが、日露戦争後からおかしくなった、「異胎」 の国家になったと言っていますが、とんでもない浅見です。日露戦争後の日本も明治国家の直系で、他人の子ではありません。
日清戦争前にすでに、朝鮮王宮占領で国王を虜にして戦争につながる指令を出させ、戦後はロシア寄りの朝鮮王妃を惨殺するというとんでもない事件を起こしています。その犯人は結局無罪放免。何が初々しい青年なものですか。チンピラと言っても過言ではありません。国際法を順守したと言っても、ごまかせる物は徹底的に誤魔化しているのです。
司馬氏は都合の悪いことは無かった、見なかったことにしているだけです。そんな司馬氏はあくまで作家。文学作品を書いているので、読む人=日本人を心地よくしようというのはある意味で当然ですが、歴史家だ、司馬史観だと持ち上げるのは大変な間違いです。
明治は良かった、敗戦日本は本当の日本じゃないという司馬史観は、日本人にとって心地よいものですが、それでは本当のことが見えてこない。いやなものは見たくない、というダダっ子のようです。日本国民は被害者だ、といってアジア諸国民の被害に目をふさぐのも同様です。そうした姿勢では本当の歴史と、本当に大切なものを忘れてしまうでしょう。
司馬遼太郎を徹底的に批判しなければ、本当のことは見えてこない。私は浅学ですが、この頃そう確信するようになりました。
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