飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

若き日の自分と対峙する

2024年04月24日 08時23分22秒 | 教師論
ある先生の投稿を読ませて頂いて自分の記憶と重なることがあった。
その先生の投稿は次のようなもの。

その先生は17年前に新採指導教員をされていた。
そして年齢的に責任ある立場を任され、学習指導主任等を務めていて、2年間で通算480号の通信を発行した。
主任等を任されても、定期的に通信を発行する人は少ないだろう。
号数からすると、2年間ほぼ毎日発行されていたことになる。
自分も研修主任だったときには研究通信を発行していた。

その先生は、突然過去の自分の文章と対面することになる。
驚きもし、恥ずかしくもあったという。
私も気持ちはよく分かる。
そして、17年前の通信をきっちりと保管してくれたあったことに大きな感激と感謝と喜びを感じたという。

自分自身も教師になったころはワープロというものが数十万円した時代で、そのころはデータを保管するという感覚もあまりなくて、すべて当時デジタルデータはなくなってしまっている。
かろうじて学級通信を製本していたのでその資料はだけは紙媒体で残っている。

あの頃のデータがすべて残っていればと思うこともある。
今よりは何十倍も教育にまじめにそしてひたむきに取り組んでいた時代の記録。
今それを目にすることができればどんなに自分が励まされることかと思う。

サークルの若い先生にたまに言われることがある。
「先生から頂いた学級通信はいつも教室の後ろに並べてあります。
 ときどき子供も読んでいます。」
私が、
「そういえば、この実践以前教室でやったことがある。
 授業記録も作った記憶があるのだけれど、今はないな。
というと
「それ多分が自分がもっていると思います。」
という言葉が返ってくる。
自分以上に、私の実践を大切にして、記録もきちんと取っておいてくれる先生がいる。
本当にありがたいことだ。

今の自分を支えるのは間違いなく過去の自分。
今の自分が間違いなく未来の自分を支える。

saitani

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