飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

若き教師へ2

2024年05月21日 05時00分00秒 | 教師論
ある若手教師。
「道徳の授業の展開がどうもうまくいかないんです。
 どんな発問指示をすれば子どもたちが意欲的に発言したり、討論したりするのでしょうか。」
と尋ねてくる。
先輩教師に質問をしてくる若手は非常に少ない。
物事がわからないということや知らないということは別に恥ずかしいことではない。
問題は、わからないことをそのままにしておくとか、知ったかぶりをすることが問題なのだ。
無知の知という言葉が以前有名になった。
まず、人の成長は自分が無知で未熟であるということを実感すること。
そのことなしに成長へのスタートはない。

「では、自分が一度展開を作るので、そのとおりに追試してみてください。」
と言って、自分なりの実践を提示する。
本来なら、まず自分でやらせてみて、批評をするところだが、今はまずやってみせることが必要な時代だ。
すくなくとも、突き放さず、一緒に展開を考えるくらい事はしないといけない。

後日、その若手は連絡をくれる。
「子どもたちの反応は先生の指導案にあった反応と同じでした。
 予想された通りの反応がありました。」
こんなときもある。
「先生の反応とは違った展開になりました。
 自分のどこが足りなかったのか、考えています。」
板書の画像と共に事後反省の言葉を送ってくる。
その言葉は短いが、本人の授業に対する姿勢は感じられる。
授業に関する事前指導を受けても、その後の結果や反省をきちんと報告できる教師は少ない。
指導した側は、自分の指導が適切だったかどうかが気になる。
また、うまくかなかったら(この方が多いが)なぜ、予想通りにならなかったのかのフィードバックまでして一応のまとまりをみせる。

ある若手教師。
指導を受けている際に、自分なりの考えをきちんとん述べる。
なぜ、私の助言に対して、自分の考えを言えるのか。
それは事前の教材研究がきちんとなされている証拠だ。
明確な意図や目的をもって、念入りな準備をしているからこそ、当日の授業の姿が具体性をもって頭にある。
実際の子供の風景がそれに重なり、ズレが生じたときになぜそうなったのかと考える。
だから、意見の言えるのだ。
それがなければ、指導する側の言う通りに、「そうですね。」としか言いようがない。
比較対象がないのだから。
自分の意見を述べられる教師は、計画性もある。
指導が終わると次のように必ずいう。
「先生、次の授業は◯◯をしたいと思いますのでご指導よろしくお願い致します。」
そう、次の予告までして研修を終える。
経験は、何度もいうが意図的計画的に積まなければ意味をもたないことは明白だ。

若手教師をみていて感ずること。
自分も年をとったのかと思う。

saitani

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