飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

若き教師へ1

2024年05月20日 05時02分09秒 | 教師論
教師人生の後半は自分の教師修業をすることはもちろんだが、若手の指導をする機会が出てくる。
若手を指導するということは難しい時代になった。
厳しい指導というものが受けれられなくなったことも一因である。
ハラスメント言う言葉が世の中に一般的になり、人に不快な感情を与えることはいけないことであり、犯罪にもなる。
この自体は悪いことではないと考えている。
自分も若い頃、今でもあるが、謂れのない理由で誹謗中傷されたこともあった。
ただ単に自分の価値観に合わないという理由で、いじめをうけたこともあった。
理不尽だとはおもったが、反発はしなかった。
それは、その私に因縁をつけてくる教師はその程度の人間でしかないと思ったからだ。
そんなくだらない人間のために時間を使うのも意味のないことだし、そもそも自分は他にやりたいこともたくさんあった。
それは唯一つ、子供が成長できるような良い授業がしたいということだけだった。
だから、つまらない人間に反論している時間はなかった。
そういう教師は、即記憶から消し去り、二度と近づかないことが得策。

どうせ話してもわかりあえることはないと思ったし、そういう人間に対しては、
「そういう考え方もあるんですね。勉強になります。」
とでも言って、その言葉はゴミ箱に捨てていた。

厳しさイコール悪という価値観が一般化している現在、人は優しくなければいけない。
厳しさとはなんだろう。
それは不快の感情に耐える力であると自分は思う。
その不快を前へ進むエネルギーにかえていく力、それこそが成長の種ではないだろうか。
厳しさとは、自分が考えている以上の力を引き出してくれる環境に自分を置くということ。
優しさの中では、自分のもっている能力を引き出すことは難しい。
ますます能力差が顕著になり、教室でいえば、勉強のできる子はどんどん伸びていき、そうでない子は現状にとどまるか、自分の隠れた才能に気づかないまま終わることになる。
教育とはもともと、Educate引き出すという意味である。
その引き出す役目を負うのが教師であり、厳しさをもった指導者なのだ。
まちがってはいけないことも一つだけある。
それは「優しさを欠いた厳しさはない」ということ。
厳しさの前提は優しさであり、指導を受ける人間の尊厳を傷つけたり、人格を否定するようなことがあってはならない。

若い教師の指導をし、能力を引き出していくことは指導者側の人間的、教育的の成長なくしてはありえない。
ただ、指導を受ける側の姿勢も前提として必要不可欠になってくる。

ある若手教師。
「先生、今年は国語の教材研究の仕方を身に着けたいと考えています。
 何か、この本は読んでおいた本はありますか。
 あったら是非、紹介してください。」
この教師は、自らテーマをもって教師修業をしようという心構えをもっている。
自分が学んだ本を数冊選んで渡そうと考えた、一冊に絞って渡した。
このあたりの配慮は必要だ。
いい意味での効率性というものは現代の教師は持っていたほうがいい。
以前の私達の時代とは環境が違っている。
本当に忙しいのだ。
無駄な努力はないと思うが、しなくてもいい努力はある。
その意味のない努力は避けていかないと心だけが疲弊するような生き方になる。
「先生にお借りした本は絶版になっていたので、古本で買いました。
 届いたら先生の本はお返します。」
と言ってきたが、数日後。
「先生、本は届きました。
 でもやっぱり先生の本をしばらく貸してもらえますか。
 お借りした本には線が引いてあって、そこを中心に読むとわかりやすいので。
 ずるですかね。」
と言った。
自分にも覚えがある。
自分の場合めったに本を借りて読むということはしない。
本は自分で購入して読むものと思っているからだ。
しかも、読んだ本はいつ役に立つかわからない。
そのためにも手元においておきたいからだ。
よく本を読んで役に立たなかったという教師がいる。
こういう教師は本の読み方を間違っている。
一冊の本を読んで、一行でもためになる文をあればそれはその本の買った意味があるのだ。
本全体がためになるなんてことはほとんどない。
また、そのときにはつまらないと思っても、何か別のテーマについて研究したときにはすごく役にたつこともある。
本を借り読むばあい、その本を読んで前に先生が引いた線が残っているということは、その先生のフェイルターを通っているいること。
まして、力量のある先生、尊敬する先生のフィルターならなおさら有意義である。
そして、そこを中心に読んで、印象にも残る。
その点で、その若い先生が、「借りた本の方がためになる」という考えをおしえられることなく気付いた感性は素晴らしいことでもある。
でも、そのこに気付く教師はほとんどいない。

saitani





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