どんもどんも~。そうだいでございますよっ。いや~、今日は天気が良かったですね。まさに春の陽気を味わうことができました。もう寒くはならない……かな?
さあ~今日はさっそく、このたび2011年のNHK大河ドラマではなばなしくメジャーデヴューすることとなった豊臣家のプリンス・豊臣秀勝の話題をしていくこととしまっしょい。
メジャーデヴューなんて言っちゃいましたけど、もちろん豊臣秀勝という人物の存在はちょっと日本史に詳しい方なら周知の事実でしたし、だいいち秀勝さんは、ある時期には将来もっとも天下人になる可能性が高い超セレブリティとして認識されていたこともあったのです!
ところが! この豊臣秀勝、映像化作品にとんっと縁がない。
まぁ、こんなこと言っちゃうとこれまでドラマや映画の中で秀勝役を演じてこられた俳優さんに申し訳が立たないのですが……そんな人、いた?
私が調べたかぎりでは……あんまりいないんですよね。
豊臣家の若きプリンスというからには、なにはなくともその当主たる豊臣秀吉を主人公にした大河ドラマの中では最新のものとなる1996年の『秀吉』(主演・竹中直人)には出てるでしょ! と思って調べてみたのですが……
いない、みたいだねぇ。秀勝さんの兄貴に当たる豊臣秀次は出てたみたいなんですけど。ていうか『秀吉』やってたのって、もう15年前なんだ……あの頃わたしも若かった。
実の叔父さんが主人公で1年間50回ぐらいやっていたドラマにさえ出ていないとは……豊臣秀勝、なんかかなしいね。
そして、ドラマがダメならばと、私が大好きな歴史シュミレーションゲームの王道『信長の野望』シリーズも調べてみました。
今さら説明するまでもないのですが、『信長の野望』とは、天下の「コーエー」が1983年4月に発売した第1作『信長の野望』から始まる歴史シュミレーションゲームの代表的シリーズで、2009年に発売された『信長の野望 天道』まで13作がリリースされるという人気をほこっています。そろそろ今年あたりに最新第14作が出るんじゃないかと思うんですけどね~。
『信長の野望』は簡単に言っちゃうと、ゲームのプレイヤーが戦国時代に実際にいた大名の誰かになって領国をうまく経営し、日本全国を統一したらめでたくクリアというゲームです。余談ですが、私がどのシリーズ作をやってもまず最初に選択する戦国大名は「足利義昭」です。藤孝、今度はうらぎるなよ!
そんな『信長の野望』なんですが、自分がプレイする大名にも言うことを聞いてくれる家臣がいて、当然ながら自分以外にいる敵の戦国大名もみんなそれぞれの家臣を引きつれていて……ということで、なんやかんやいって日本全国に有名な戦国武将がひしめきあっている状態になっています。特に最近のシリーズ作では膨大な情報容量を処理することが可能になったため、だいたい基本的に1000名、最大で1500名くらいのおさむらいさんがゲームに出場するという活況を呈しています。
もちろん、『信長の野望』は1530年代から1610年代といったおよそ1世紀のあいだの日本を舞台にしているので、千ウン百人の武将達が一時期にみんな登場するわけではありません。死んでいく武将と誕生する武将、史実になるべく近づけた「交替」がされつつゲームが展開されていくわけです。
んで、なにが言いたいのかっつうと、その『信長の野望』の中! 最大1500名ものむっさい武将たちがギュウギュウづめになっていた中でも! 今まで「豊臣秀勝」が登場することはなかったんです……私の知るかぎりでは。
嫌われてる……のかな……
いやいや!! そんなことはないはずだ! 豊臣秀勝が今までさまざまな世界でかなり不当なあつかいを受けてきていたのは、それなりの理由があったのです。
その理由とは、なにはなくとも「ややこしい」。
前回にも申しましたが、このたびめでたくEXILEのAKIRAさんが演じることとなった「豊臣秀勝」を含めまして、豊臣秀吉という歴史的巨人の周辺には、同じ「秀勝」という名前を持った3人の人間が存在していました。
正確には「豊臣秀勝」は1人だけなんですが、「羽柴秀勝」は3人いたんですね~。
さっそくご紹介いたしましょう、3人の秀勝さん! 前回は「13人の女仮面ライダー」だったもんですから、楽……
ファースト羽柴秀勝(1570~76)
・木下秀吉(34歳)と側室(南殿)との間に生まれた、秀吉の長男
・幼名「石松丸」
・秀吉は石松丸が生まれた年の6月に近江国横山城(滋賀県長浜市)の城主となっている
・1573年、秀吉は琵琶湖畔に新しい城「長浜城」(長浜市)を築城して移転
・長浜城主となった時期に秀吉は名字を「羽柴」にあらためている
・天正4(1576)年10月に石松丸は7歳で急死
セカンド羽柴秀勝(1568~85)
・羽柴秀吉の主君である織田信長の4男
・歴史上有名な信長の子たち(信忠、信雄、信孝)の弟にあたるが、母親はちがう
・1579年、12歳の時に秀吉(42歳)の養子となる
・当時、秀吉は播磨国姫路城(兵庫県姫路市)の城主となって織田家中国方面軍を指揮していた
・秀勝自身、武将として毛利家との合戦に従軍している
・1982年6月、実父である織田信長の暗殺後に行われた「清洲会議」の結果、15歳で丹波国亀山城(京都府亀岡市)の城主となる
・もともと病弱だったらしく、亀山城主となったあたりからふせりがちになり天正13(1585)年12月に18歳で死去
サード羽柴秀勝(1569~92)= 豊臣秀勝!
・羽柴秀吉の姉である木下ともの次男
・3兄弟の真ん中で、兄はのちの「殺生関白」豊臣秀次、弟は叔父である豊臣秀長の養子となる豊臣秀保
・1585年9月に17歳で近江国瀬田城(滋賀県大津市)の城主となっているが、当時の本名は不詳
・瀬田城主となった3ヶ月後、セカンド秀勝の死により「羽柴秀勝」の名前を継いで丹波亀山城主となる
・サード秀勝として秀吉の養子となるが、どうも仲は良くなかったらしい
・1586年ごろに18歳でお江の方(14歳)と結婚
・お江の方は以前に佐治一成という武将と婚約していたが一成は1584年に失脚しており、実質的な夫婦生活はなかったらしい
・1586年9月に秀吉が朝廷から「豊臣」という姓をたまわったため、秀勝も「豊臣秀勝」にあらためる
・1589年5月に秀吉の待望の次男となる鶴松丸が生まれたため、秀勝の「秀吉後継者」としての存在感は急速にうすまる
・1590年7月に秀吉から甲斐国と信濃国の支配を任されて甲府城(山梨県甲府市)の城主となるが、ていのいい左遷だった可能性がある
・1591年3月に秀吉に許され、美濃国岐阜城(岐阜県岐阜市)の城主となる
・1591年8月に秀吉の実子である鶴松丸が3歳で急死するが、その後に秀吉が後継者に選んだのは、秀勝の兄の豊臣秀次(24歳)だった
・文禄元(1592)年4月に始まった第一次朝鮮出兵に、第9軍総大将として従軍する
・秀勝の指揮した第9軍は朝鮮半島に近い巨済島(コジェド)に駐屯しており、秀勝自身が最前線に立つことはなかった
・文禄元(1592)年9月に巨済島で病死(享年24歳)
・秀勝の死後、妻のお江の方が一人娘となる完子(さだこ)を出産した
なんか……全体的に不幸じゃね!?
やっぱりねぇ、こう言ってしまうとミもフタもないのですが、特に目立った活躍もなく早死にしちゃわれると、ドラマにはなりづらいですよね。
ファーストは7歳、セカンドは18歳でサードは24歳。みんな若いですよ。
ドラマも出づらいでしょうけど、『信長の野望』にはなおさら必要とされない感じになっちゃうかな……だって、たいした活躍もしてないうちに退場しなきゃいけないんですからね。『信長の野望』の中で流れる時間の10年間なんか、2~3時間プレイしてたらすぐにたっちゃうもんなぁ。ファーストにいたっては、ゲームに武将として登場する資格もないうちに死んじゃうから。さすがに小学校にはいりたてくらいの子が2~3000人の兵士を指揮するわけにはいかんでしょ。「かくよくのじん、できるー?」とか言って。
ただ、ここで3人に共通して重要となってくるのが、
「本人の才能ではなく、その存在そのものに意義がある。」
というところなんです。
3人は3人とも、木下~羽柴~豊臣とみるみる巨大化していくファミリーのドンである秀吉にとって、なんとしても確保しておかなくてはならない大切な「後継者」のワクにおさまっている人物だったのです。
整理してみると、秀吉が自分の後継者にと考えていた人物の移り変わりは、
ファースト秀勝(1570~76)……セカンド秀勝(1579~85)……サード秀勝(1585~89)……次男の鶴松丸(1589~91)……甥の秀次(1591~93)……3男の秀頼(1593~)
となってるっちゅうわけなんですな。まぁ~……これだけ短い期間でコロコロ変わってるんですから、豊臣政権の未来は明るくはないですよね!
んで、いくら子どもができにくいからといって、なぜにこれほどまでに秀吉が後継者ワクに執着していたのか、セカンドに至っては自分の血縁でもなんでもない人間まで引っぱってきて養子にしなければならなかったのかというと、
後継者をちゃんと用意しておくことが、そのまま自分の家の戦国武将としての存続に関わる大問題だったからなんですね。
つまり、当時の戦国武将の跡継ぎは、現代のように単なる「夫婦のあいだにできた子ども」という家庭の問題だけにとどまらず、その家臣と軍隊、何百何千の人間とその家族をやしなってくれる当主が存在しつづけてくれるのか? 存在しているとしても、逆にやしなわれる人間側から観て「一族の命をあずけるにたる人物」なのか? という大変重要な問題になっていたのです。
ということは、いっくら秀吉さん個人の才能がズバ抜けて信頼できるものだったとしても、秀吉さんにもしものことがあった時にそれを引き継いでくれる跡目がいなかったのだとしたら、そんな無責任な上司に命をあずけることはできない、したがって秀吉につかえる価値はない、という論理になるわけなんです。
おそらく誰よりもそのへんの問題をシビアにとらえていたのが当の秀吉さんだったのだと思うのですが、上のような後継者対策の努力もむなしく、あまりにもカリスマ過ぎた彼がいなくなった後、豊臣コンツェルンはあっという間に凋落してしまいました。
話はズレますが、いわゆる日本の戦国時代が始まった理由、というのは諸説さまざまありまして、気の早い人は嘉吉元(1441)年6月に起きた室町幕府第6代征夷大将軍・足利義教の暗殺から実質的な戦国時代は始まったといいますし、おおかた一般的なところでは1467~77年に繰り広げられた「いよむなしい」応仁大乱がそのきっかけだと言われています。
ただ、私としては本当の戦国時代の始まりは、永正4(1507)年の6月に日本の首都・京で発生した「永正の錯乱」なのではないかとふんでるんだな。
「永正の錯乱」というのは、当時の日本で最大の権力を握っていた室町幕府管領(かんれい まぁ~今でいう総理大臣くらいの人?)の細川政元(まさもと)が家臣に暗殺された事件です。
政元さんは、衰退したとはいえまだまだ強大だった室町幕府の全権力を掌握していたけっこうやり手な政治家で、元気のすっかりなくなった足利将軍家をしのぐ勢いを持っていたのはもちろんのこと、あの天皇サマにたいして
「カネがないのなら、即位礼だ大嘗祭だなんて儀式やらなきゃいいんじゃなくって?」
などという、現代でもなかなか言えないような発言をズケズケいう方なのでした。
そんな、ある意味で織田信長を6~70年さきどったようなイケイケ政元だったのですが、彼が暗殺されてしまったのは、
跡継ぎ問題にやる気がなさすぎたから!!
政元さんは政治家としては確かに素晴らしかったのですが、プライベートでは山伏みたいな「修験信仰」にハマリにハマッており、
「おれ、空とべるんだぜ! この前、天狗のおっさんに教えてもらったんだよ。マジマジ!」
というリアクションに困る発言を頻繁に繰り返していたのです。そしてそれがこうじたあまり、「女人禁制」という教義を守りすぎて我が子をいっさいのこそうとしませんでした。
そしてしまいには超テキトーに2人の後継者を近所からみつくろってしまうというしまつだったため、
「ダメだ、こいつ! ガチでついてけねぇわ。」
と家臣たちに愛想を尽かされてしまったのです。
で、入浴中の無防備な状態で暗殺されてしまった政元さんだったのですが、その権力を継承する人間がハッキリしなかったため、応仁大乱のあとでもなんとかかんとかもっていた室町幕府という政府機構は今度こそ屋台骨からガンラガンラと崩れ去り、その後ふたたびその勢いがもどることはついになかったのです。
ま、とにかく跡継ぎだけはしっかりおさえなくちゃいかん時代だったっつうことなんですな!!
話が脱線しましたが、跡目問題という、個人よりも「一族郎党」という過去の集団単位についてのことだったため、現代の民主主義っぽい社会に生きる私たちにとってはいまいちピンとこないトピックに関わる「豊臣家のプリンスたち」だったわけなんですが、今回たまたま「主人公のダンナだった。」という縁があったために、めでたく豊臣秀勝という人物が映像の世界でスポットライトを浴びるはこびとなりました。
うれしいねぇ~、5月からドラマに登場するんでしょ。え、5月?
来週じゃないか……なんとかして観たいんだけどなぁ、動く秀勝さん。なるべく長生きしていてくれぇ~、24歳まで!!
《余談ですが》
ファースト秀勝さんはその実在を疑問視する方も多いのですが、いちおう証拠もあるし、なによりも「いたほうがおもしろい」ので、我が『長岡京エイリアン』では実在する人物とさせていただきました。
ちなみに、1996年の『秀吉』ではファーストだけが登場してきています(もちろん子役)。
いっぽう、3人の秀勝さんの中でただひとりゲームの『信長の野望』に登場できていたのがセカンド秀勝さんでした(1994年に発売された第6作『信長の野望 天翔記』の1回だけ)。まぁ、『実の親父の野望』ですからね……
その時のセカンドの能力データは、手元のメモによると、
「政治力……43 統率力……46」
でした。パッとしねぇ~!!
さあ~今日はさっそく、このたび2011年のNHK大河ドラマではなばなしくメジャーデヴューすることとなった豊臣家のプリンス・豊臣秀勝の話題をしていくこととしまっしょい。
メジャーデヴューなんて言っちゃいましたけど、もちろん豊臣秀勝という人物の存在はちょっと日本史に詳しい方なら周知の事実でしたし、だいいち秀勝さんは、ある時期には将来もっとも天下人になる可能性が高い超セレブリティとして認識されていたこともあったのです!
ところが! この豊臣秀勝、映像化作品にとんっと縁がない。
まぁ、こんなこと言っちゃうとこれまでドラマや映画の中で秀勝役を演じてこられた俳優さんに申し訳が立たないのですが……そんな人、いた?
私が調べたかぎりでは……あんまりいないんですよね。
豊臣家の若きプリンスというからには、なにはなくともその当主たる豊臣秀吉を主人公にした大河ドラマの中では最新のものとなる1996年の『秀吉』(主演・竹中直人)には出てるでしょ! と思って調べてみたのですが……
いない、みたいだねぇ。秀勝さんの兄貴に当たる豊臣秀次は出てたみたいなんですけど。ていうか『秀吉』やってたのって、もう15年前なんだ……あの頃わたしも若かった。
実の叔父さんが主人公で1年間50回ぐらいやっていたドラマにさえ出ていないとは……豊臣秀勝、なんかかなしいね。
そして、ドラマがダメならばと、私が大好きな歴史シュミレーションゲームの王道『信長の野望』シリーズも調べてみました。
今さら説明するまでもないのですが、『信長の野望』とは、天下の「コーエー」が1983年4月に発売した第1作『信長の野望』から始まる歴史シュミレーションゲームの代表的シリーズで、2009年に発売された『信長の野望 天道』まで13作がリリースされるという人気をほこっています。そろそろ今年あたりに最新第14作が出るんじゃないかと思うんですけどね~。
『信長の野望』は簡単に言っちゃうと、ゲームのプレイヤーが戦国時代に実際にいた大名の誰かになって領国をうまく経営し、日本全国を統一したらめでたくクリアというゲームです。余談ですが、私がどのシリーズ作をやってもまず最初に選択する戦国大名は「足利義昭」です。藤孝、今度はうらぎるなよ!
そんな『信長の野望』なんですが、自分がプレイする大名にも言うことを聞いてくれる家臣がいて、当然ながら自分以外にいる敵の戦国大名もみんなそれぞれの家臣を引きつれていて……ということで、なんやかんやいって日本全国に有名な戦国武将がひしめきあっている状態になっています。特に最近のシリーズ作では膨大な情報容量を処理することが可能になったため、だいたい基本的に1000名、最大で1500名くらいのおさむらいさんがゲームに出場するという活況を呈しています。
もちろん、『信長の野望』は1530年代から1610年代といったおよそ1世紀のあいだの日本を舞台にしているので、千ウン百人の武将達が一時期にみんな登場するわけではありません。死んでいく武将と誕生する武将、史実になるべく近づけた「交替」がされつつゲームが展開されていくわけです。
んで、なにが言いたいのかっつうと、その『信長の野望』の中! 最大1500名ものむっさい武将たちがギュウギュウづめになっていた中でも! 今まで「豊臣秀勝」が登場することはなかったんです……私の知るかぎりでは。
嫌われてる……のかな……
いやいや!! そんなことはないはずだ! 豊臣秀勝が今までさまざまな世界でかなり不当なあつかいを受けてきていたのは、それなりの理由があったのです。
その理由とは、なにはなくとも「ややこしい」。
前回にも申しましたが、このたびめでたくEXILEのAKIRAさんが演じることとなった「豊臣秀勝」を含めまして、豊臣秀吉という歴史的巨人の周辺には、同じ「秀勝」という名前を持った3人の人間が存在していました。
正確には「豊臣秀勝」は1人だけなんですが、「羽柴秀勝」は3人いたんですね~。
さっそくご紹介いたしましょう、3人の秀勝さん! 前回は「13人の女仮面ライダー」だったもんですから、楽……
ファースト羽柴秀勝(1570~76)
・木下秀吉(34歳)と側室(南殿)との間に生まれた、秀吉の長男
・幼名「石松丸」
・秀吉は石松丸が生まれた年の6月に近江国横山城(滋賀県長浜市)の城主となっている
・1573年、秀吉は琵琶湖畔に新しい城「長浜城」(長浜市)を築城して移転
・長浜城主となった時期に秀吉は名字を「羽柴」にあらためている
・天正4(1576)年10月に石松丸は7歳で急死
セカンド羽柴秀勝(1568~85)
・羽柴秀吉の主君である織田信長の4男
・歴史上有名な信長の子たち(信忠、信雄、信孝)の弟にあたるが、母親はちがう
・1579年、12歳の時に秀吉(42歳)の養子となる
・当時、秀吉は播磨国姫路城(兵庫県姫路市)の城主となって織田家中国方面軍を指揮していた
・秀勝自身、武将として毛利家との合戦に従軍している
・1982年6月、実父である織田信長の暗殺後に行われた「清洲会議」の結果、15歳で丹波国亀山城(京都府亀岡市)の城主となる
・もともと病弱だったらしく、亀山城主となったあたりからふせりがちになり天正13(1585)年12月に18歳で死去
サード羽柴秀勝(1569~92)= 豊臣秀勝!
・羽柴秀吉の姉である木下ともの次男
・3兄弟の真ん中で、兄はのちの「殺生関白」豊臣秀次、弟は叔父である豊臣秀長の養子となる豊臣秀保
・1585年9月に17歳で近江国瀬田城(滋賀県大津市)の城主となっているが、当時の本名は不詳
・瀬田城主となった3ヶ月後、セカンド秀勝の死により「羽柴秀勝」の名前を継いで丹波亀山城主となる
・サード秀勝として秀吉の養子となるが、どうも仲は良くなかったらしい
・1586年ごろに18歳でお江の方(14歳)と結婚
・お江の方は以前に佐治一成という武将と婚約していたが一成は1584年に失脚しており、実質的な夫婦生活はなかったらしい
・1586年9月に秀吉が朝廷から「豊臣」という姓をたまわったため、秀勝も「豊臣秀勝」にあらためる
・1589年5月に秀吉の待望の次男となる鶴松丸が生まれたため、秀勝の「秀吉後継者」としての存在感は急速にうすまる
・1590年7月に秀吉から甲斐国と信濃国の支配を任されて甲府城(山梨県甲府市)の城主となるが、ていのいい左遷だった可能性がある
・1591年3月に秀吉に許され、美濃国岐阜城(岐阜県岐阜市)の城主となる
・1591年8月に秀吉の実子である鶴松丸が3歳で急死するが、その後に秀吉が後継者に選んだのは、秀勝の兄の豊臣秀次(24歳)だった
・文禄元(1592)年4月に始まった第一次朝鮮出兵に、第9軍総大将として従軍する
・秀勝の指揮した第9軍は朝鮮半島に近い巨済島(コジェド)に駐屯しており、秀勝自身が最前線に立つことはなかった
・文禄元(1592)年9月に巨済島で病死(享年24歳)
・秀勝の死後、妻のお江の方が一人娘となる完子(さだこ)を出産した
なんか……全体的に不幸じゃね!?
やっぱりねぇ、こう言ってしまうとミもフタもないのですが、特に目立った活躍もなく早死にしちゃわれると、ドラマにはなりづらいですよね。
ファーストは7歳、セカンドは18歳でサードは24歳。みんな若いですよ。
ドラマも出づらいでしょうけど、『信長の野望』にはなおさら必要とされない感じになっちゃうかな……だって、たいした活躍もしてないうちに退場しなきゃいけないんですからね。『信長の野望』の中で流れる時間の10年間なんか、2~3時間プレイしてたらすぐにたっちゃうもんなぁ。ファーストにいたっては、ゲームに武将として登場する資格もないうちに死んじゃうから。さすがに小学校にはいりたてくらいの子が2~3000人の兵士を指揮するわけにはいかんでしょ。「かくよくのじん、できるー?」とか言って。
ただ、ここで3人に共通して重要となってくるのが、
「本人の才能ではなく、その存在そのものに意義がある。」
というところなんです。
3人は3人とも、木下~羽柴~豊臣とみるみる巨大化していくファミリーのドンである秀吉にとって、なんとしても確保しておかなくてはならない大切な「後継者」のワクにおさまっている人物だったのです。
整理してみると、秀吉が自分の後継者にと考えていた人物の移り変わりは、
ファースト秀勝(1570~76)……セカンド秀勝(1579~85)……サード秀勝(1585~89)……次男の鶴松丸(1589~91)……甥の秀次(1591~93)……3男の秀頼(1593~)
となってるっちゅうわけなんですな。まぁ~……これだけ短い期間でコロコロ変わってるんですから、豊臣政権の未来は明るくはないですよね!
んで、いくら子どもができにくいからといって、なぜにこれほどまでに秀吉が後継者ワクに執着していたのか、セカンドに至っては自分の血縁でもなんでもない人間まで引っぱってきて養子にしなければならなかったのかというと、
後継者をちゃんと用意しておくことが、そのまま自分の家の戦国武将としての存続に関わる大問題だったからなんですね。
つまり、当時の戦国武将の跡継ぎは、現代のように単なる「夫婦のあいだにできた子ども」という家庭の問題だけにとどまらず、その家臣と軍隊、何百何千の人間とその家族をやしなってくれる当主が存在しつづけてくれるのか? 存在しているとしても、逆にやしなわれる人間側から観て「一族の命をあずけるにたる人物」なのか? という大変重要な問題になっていたのです。
ということは、いっくら秀吉さん個人の才能がズバ抜けて信頼できるものだったとしても、秀吉さんにもしものことがあった時にそれを引き継いでくれる跡目がいなかったのだとしたら、そんな無責任な上司に命をあずけることはできない、したがって秀吉につかえる価値はない、という論理になるわけなんです。
おそらく誰よりもそのへんの問題をシビアにとらえていたのが当の秀吉さんだったのだと思うのですが、上のような後継者対策の努力もむなしく、あまりにもカリスマ過ぎた彼がいなくなった後、豊臣コンツェルンはあっという間に凋落してしまいました。
話はズレますが、いわゆる日本の戦国時代が始まった理由、というのは諸説さまざまありまして、気の早い人は嘉吉元(1441)年6月に起きた室町幕府第6代征夷大将軍・足利義教の暗殺から実質的な戦国時代は始まったといいますし、おおかた一般的なところでは1467~77年に繰り広げられた「いよむなしい」応仁大乱がそのきっかけだと言われています。
ただ、私としては本当の戦国時代の始まりは、永正4(1507)年の6月に日本の首都・京で発生した「永正の錯乱」なのではないかとふんでるんだな。
「永正の錯乱」というのは、当時の日本で最大の権力を握っていた室町幕府管領(かんれい まぁ~今でいう総理大臣くらいの人?)の細川政元(まさもと)が家臣に暗殺された事件です。
政元さんは、衰退したとはいえまだまだ強大だった室町幕府の全権力を掌握していたけっこうやり手な政治家で、元気のすっかりなくなった足利将軍家をしのぐ勢いを持っていたのはもちろんのこと、あの天皇サマにたいして
「カネがないのなら、即位礼だ大嘗祭だなんて儀式やらなきゃいいんじゃなくって?」
などという、現代でもなかなか言えないような発言をズケズケいう方なのでした。
そんな、ある意味で織田信長を6~70年さきどったようなイケイケ政元だったのですが、彼が暗殺されてしまったのは、
跡継ぎ問題にやる気がなさすぎたから!!
政元さんは政治家としては確かに素晴らしかったのですが、プライベートでは山伏みたいな「修験信仰」にハマリにハマッており、
「おれ、空とべるんだぜ! この前、天狗のおっさんに教えてもらったんだよ。マジマジ!」
というリアクションに困る発言を頻繁に繰り返していたのです。そしてそれがこうじたあまり、「女人禁制」という教義を守りすぎて我が子をいっさいのこそうとしませんでした。
そしてしまいには超テキトーに2人の後継者を近所からみつくろってしまうというしまつだったため、
「ダメだ、こいつ! ガチでついてけねぇわ。」
と家臣たちに愛想を尽かされてしまったのです。
で、入浴中の無防備な状態で暗殺されてしまった政元さんだったのですが、その権力を継承する人間がハッキリしなかったため、応仁大乱のあとでもなんとかかんとかもっていた室町幕府という政府機構は今度こそ屋台骨からガンラガンラと崩れ去り、その後ふたたびその勢いがもどることはついになかったのです。
ま、とにかく跡継ぎだけはしっかりおさえなくちゃいかん時代だったっつうことなんですな!!
話が脱線しましたが、跡目問題という、個人よりも「一族郎党」という過去の集団単位についてのことだったため、現代の民主主義っぽい社会に生きる私たちにとってはいまいちピンとこないトピックに関わる「豊臣家のプリンスたち」だったわけなんですが、今回たまたま「主人公のダンナだった。」という縁があったために、めでたく豊臣秀勝という人物が映像の世界でスポットライトを浴びるはこびとなりました。
うれしいねぇ~、5月からドラマに登場するんでしょ。え、5月?
来週じゃないか……なんとかして観たいんだけどなぁ、動く秀勝さん。なるべく長生きしていてくれぇ~、24歳まで!!
《余談ですが》
ファースト秀勝さんはその実在を疑問視する方も多いのですが、いちおう証拠もあるし、なによりも「いたほうがおもしろい」ので、我が『長岡京エイリアン』では実在する人物とさせていただきました。
ちなみに、1996年の『秀吉』ではファーストだけが登場してきています(もちろん子役)。
いっぽう、3人の秀勝さんの中でただひとりゲームの『信長の野望』に登場できていたのがセカンド秀勝さんでした(1994年に発売された第6作『信長の野望 天翔記』の1回だけ)。まぁ、『実の親父の野望』ですからね……
その時のセカンドの能力データは、手元のメモによると、
「政治力……43 統率力……46」
でした。パッとしねぇ~!!