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たがみよしひさ風、金田一耕助!? ~『貸しボート十三号』2020エディション~

2020年01月26日 20時07分13秒 | ミステリーまわり
ドラマ『貸しボート十三号』(2020年1月18日放送 NHK BS プレミアム『シリーズ・横溝正史短編集II 金田一耕助踊る!』 30分)

 『貸しボート十三号(かしボートじゅうさんごう)』は、横溝正史の中編推理小説。「名探偵・金田一耕助」の登場するシリーズの一作。『別冊 週刊朝日』1957年8月号に短編小説として掲載された後、翌1958年9月に中編化され完成した。
 なお、初映像化となる2020年のドラマ版では、市外通話が交換手による接続であるため、受信者に発信地域が判るという原作当時(1957年)の設定を排し、劇中で使用された公衆電話は1996年以降に設置されたデジタル電話式になっている。その他、「X大学ボート部の戸田寮にキャプテンとマネージャーが居住していない」、「最後の神門邸での謎解きの参加者が少なくなっている」、「原作に登場していた平出捜査主任警部補が省略され、新井刑事がその役割を担っている」などといった改変が見られる。

原作小説のあらすじ
 昭和三十二(1957)年の夏、日曜日。隅田川の川口、浜離宮公園沖に流れ着いた貸しボートから、男女の惨死体が発見された。どちらも首がノコギリで途中まで挽き切られ、ちぎれかかっていた。女の方はレインコートの下に派手なスーツを着ており、スーツの上から心臓を刃物でえぐられていたが、死因はひもによる絞殺であった。男の方はパンツひとつの姿で、死因は心臓を刃物ひと突きによるものであったが、死後、ひもで首を絞められていた。等々力警部とともに現場に訪れた金田一耕助は、犯人の最初の計画では死体の身元を分からなくするために首を切断しようとしたが、そこに余儀ない事情が突発して首切り作業を中止せざるを得なくなったと、捜査陣に説く。
 吾妻橋ぎわの貸しボート屋の店員の証言で、問題の貸しボート十三号を金曜日の晩に借りてそれきり返しに来なかった客は、金縁眼鏡をかけて、鼻下に美しいひげをはやした中年の紳士であることが判明した。すると翌々日、その中年紳士に容貌が似ている役所勤めの大木健造が出頭し、殺されたのは妻の藤子と、娘の家庭教師で X大学ボート部に所属している駿河譲治であることを申し出た。大木は否定するが、藤子と駿河の間には不倫の噂があったらしい。所轄署の平出警部補は大木を容疑者と疑うが、ボート屋の店員によると、ボートを借りた男はもう少し柄が大きかったように思う、とのことであった。
 金田一は、X大学ボート部のボートハウスが殺人の現場の可能性が高いと考え、ボートハウスがある埼玉県戸田市に、等々力警部たちと向かう。ボートハウスを検分すると、最近誰かがコンクリートをきれいに洗い落としたらしく、泥の跡も残っていなかった。いよいよボートハウスが犯行現場らしく思え、金田一は仮にここが現場であるなら、吾妻橋から戸田までボートで漕ぎ上ってくるには、よほどボートに自信のある男に違いないと考え、ボート部員たちの話を聞きにいく。
 初めは警察に対する警戒心と敵意から話そうとしなかった部員たちだったが、面談者に金田一が混ざっていると知ると、急に態度を改めた。部員たちは、金田一が神門産業の総帥・神門貫太郎から絶大な信頼を得ていることや、専務の川崎重人とも昵懇であることを、殺された駿河から聞いていた。駿河は専務の川崎の娘・美穂子の婚約者だったのだ。

主なキャスティング
33代目・金田一 耕助   …… 池松 壮亮(29歳)
21代目・等々力 大志警部 …… ヤン イクチュン(44歳)

新井刑事     …… 植村 宏司(?歳)
大木 健造    …… 岡部 尚(39歳)
大木 藤子    …… 増山 緑(33歳)
駿河 譲治    …… 朝間 優(20歳)
川崎 美穂子   …… 蒔田 彩珠(あじゅ 17歳)
八木 信作    …… 本田 慎(23歳)
矢沢 文雄    …… 奥村 皐暉(22歳)
片山 達吉    …… 小嶋 修二(20歳)
児玉 潤     …… 本田 響矢(20歳)
青木 俊六    …… 村越 亮太(21歳)
古川 稔     …… 石井 貴就(22歳)
岩下 トミ    …… 千葉 雅子(57歳)
神門 貫太郎   …… 嶋田 久作(64歳)
ナレーション    …… 石橋 静河(25歳)

演出 …… 宇野 丈良(?歳)

※短編版『貸しボート十三号』(1957年掲載)に登場している人物 …… 金田一耕助、等々力警部、平出捜査主任、吉沢警察医、関口五郎(貸しボート屋の店員)、井口健造(完成版での大木健造)、井口妙子(完成版での大木藤子)、駿河譲治、新井刑事、寮母(完成版での岩下トミ)母娘、松本キャプテン、川崎美禰子(完成版での川崎美穂子)


 さぁさぁ、ついに始まりました、池松壮亮金田一によります『シリーズ・横溝正史短編集II』!! 推理小説界の巨人・横溝正史の残した、長編作同様に多種多彩な「金田一耕助もの短編小説」の中でも、2016年に製作された前シリーズでは、金田一ものでは比較的初期にあたる時期(1947~51年)に世に出た3作を映像化していたのですが、待望の第2シーズンとなる今回の第1作は、まさに横溝先生の短編発表ペースが最盛期に入っていた1957~58年に世に出た作品となります。
 余談ですが、誤解のないように確認しておきますと、「初期」といいましてもこれはあくまで「金田一もの」の作品群の中での初期ということでありまして、戦前の大正時代から作家としてのキャリアをスタートさせていた横溝先生の経歴から見れば、すでに20年もの経験を積んでいる状態で金田一ものが始まるわけなのでありまして、作品としての質が幼いということは決してありません。最初っからベテランの筆なのね! この点こそが、金田一もののクオリティの高さを保証しているゆえんであり、同じ大横溝の筆だったのだとしても、1930~40年代に多く執筆されていた「名探偵・由利麟太郎シリーズ」とはだいぶ違う様相を呈していたのではないでしょうか。いや、由利麟太郎シリーズもおもしろいけれども!

 ところで、「金田一耕助ものの短編小説」といえばどうしても無視できないのが、その名もズバリ『金田一耕助の冒険』と銘打たれた短編集です。これは『貸しボート十三号』とほぼ同じ1956~58年に発表された短編11本をまとめたものですね。大林宣彦監督による同名の迷作映画『金田一耕助の冒険』(1979年)は、まさにこの短編集の中の一作『瞳の中の女』(名探偵金田一耕助、唯一の未解決事件!!)の「まぼろしの解決編」をえがく内容……のはずなのですが、少なくとも敬虔な横溝正史ファンの方に勧められるようなまともな作品にはなっていません。ああいうノリ、当時は目新しかったんですかねぇ……? まぁ、昭和五十四年の風俗文化を知りたい人くらいじゃないでしょうか、見て損しない人は。
 わたくしごとですが、レンタルビデオで借りてドキドキワクワクしながら初めて観た当時中学生のわたくしは、「あぁ、人生にはこういったブービートラップというものがあるのだなぁ。大人の世界は実にこわいなぁ。」という感慨を抱きながら、黒澤明の映画を3本くらい立て続けに見て目の毒の中和をはかりました。ほんと、『三国志演義』の周瑜公瑾みたいに憤死するかと思いましたよ、あたしゃ。

 それにしても、内容のボリュームという点から見て致し方ないことなのでしょうが、金田一ものの短編小説は、長編に比べて映像化される機会が非常に少ないですね。たま~にされても、古谷一行金田一の『名推理シリーズ』のようにごく一部の設定やイメージをつまんだだけという取り上げられ方なので、どんなにベテランの脚本家さんが頑張ったのだとしても、「推理小説の鬼」とも評される大横溝が丹精込めて作り上げた精緻な長編小説の世界に比べてしまうと見劣りしてしまうというか、「あぁ、そろそろネタがつきてきたのかしら。」と観る者に一抹の哀しさを感じさせてしまうものがあったのでした。

 あと、わたくし個人が推察しますに、金田一もの短編がなかなか映像化されない理由としてもうひとつ無視できないのは、作品のボリュームの軽重に関わらず、映像化されてウケるのがどうしても「田舎を舞台としたもの」である、という点なんじゃないでしょうか。そして、映像化されない金田一もの短編のほとんどが、当時の東京を舞台とした作品なのです。
 これはもう、名作との呼び声高い市川崑版『悪魔の手毬唄』(1977年)を見てもわかる通り、ノスタルジック溢れる寂寥感をたたえる自然情景、時代の奔流に巻き込まれ衰亡してゆく名家を襲う悲劇といったお膳立てが非常に絵になるんでしょうねぇ。内容よりもまず先に、物語が始まって5分もしないのに映像だけで「あっ、これ金田一耕助が出てくるやつだ!」とわかってしまう専売特許感があるわけなんです。昔のいなかのじけん=金田一耕助!! いや、『いなか、の、じけん』は別の先生の作品ですけど。

 たとえば市川崑バージョンの『女王蜂』(1978年)と、だいぶ後に作られた稲垣吾郎金田一シリーズの『女王蜂』(2006年)を見比べると一目瞭然なのですが、物語の中の事件が発生した昭和復興期の大東京をまともに映像化しようとすると、田舎で撮影する場合よりも予算と手間が莫大にかかるという事情があったのではないでしょうか。ディスカバー・ジャパンの勢いもあったのでしょうが、当時まだ全国各地で健在だった古い街並みや、時代の流れを感じさせない古都の風景をそのまま使って撮ればOK! という手軽さがあったのでしょう。
 だからこそ、稲垣版『女王蜂』のように CG技術の発達した21世紀の今こそが、これまで映像化あとまわしの辛酸をなめてきた「都会もの金田一」にとって待ちに待った好機到来にはなるはずなんです。観たいですねぇ~、最新アップデートされた『三つ首塔』とか『吸血蛾』! ちょいワル金田一耕助!!

 そうはいいましても、池松金田一の活躍するシリーズは決して「昭和の風俗文化の再現」にはこだわっていないのですが、「原作小説をほぼ原作通りに映像化」という点は、ことあるごとに強調していますよね。だとしたら、映像化されているとはいえ必ずしも「原作に忠実」とは言えなかった『人面瘡』や『幽霊座』あたりも、ぜひとも今後レパートリーに加えていただきたく!!
 なんてったって池松さんはまだ若いですからねぇ。かのジェレミー=ブレット版『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズが夢見てついになしえなかった、「全作品映像化コンプリート」を目指していただきたいものです、ムッシュ~。


 さてさて、金田一もの短編の話題は尽きませんが、そろそろいい加減にお話を今回の初映像化『貸しボート十三号』にもどしましょう。
 横溝正史先生の短編小説といいますと、今回の『貸しボート十三号』がまさしくそうなのですが、最初に短編小説として雑誌掲載されたものが、のちに大幅に加筆修正されて決定版となるパターンが多いです。先ほどに名前が出た『金田一耕助の冒険』の11本の他にも、『~の中の女』というタイトルの短編小説は実はあと3本あったのですが、それらはのちに長編小説となって完成しています。ちなみにその中の1作こそが、かの因縁深い野心作『白と黒』なわけですが、昭和三十年代の団地を映像化するのも、今はやっぱり大変なんですかねぇ。逆に新しくていいと思うんだけどなぁ~。

 現在、1957年発表当初の短編版『貸しボート十三号』は光文社文庫『金田一耕助の帰還』など、58年完成の中編版『貸しボート十三号』は春陽堂書店春陽文庫版『貸しボート十三号』などで読むことができます。最初は20~30ページほどの容量だった作品が、最終的には130ページあまりのボリュームにまで膨らんでいますね。
 具体的に比較してみますと、事件の概要「生首半切り擬装心中事件」はそのまんま、物語の流れも真相のからくりもほぼ全く同じなのですが、死亡した駿河譲治が所属していた X大学ボート部まわりの登場人物が一気に増え、それにともなって事件の展開に巻き込まれてしまう新人物、ミステリアスな謎「二回かかってきた同じ内容の電話」、関係者のドラマティックな自殺未遂といった様々な新要素が盛り込まれています。
 読み比べてみると、個性豊かな登場人物が押し合いへし合いする完成版のほうが面白いのは間違いないかと思うのですが、金田一耕助が最初から事件の真相を全て知っているかのようにさもつまんなそうに警察の捜査に随行し、ある遺留物を発見した時点で作者までもが「もうこれ以上は書かへんでもええよね。」といったノリでポイっと筆を放り投げてしまう短編版にも、なんとも言いようのない味わいがあります。

 ともかくこの事件は「意味不明な損壊を受けた二つの死体」という謎が第一のアピールポイントなのでしょうが、短編集はあまりにもそれ一本槍になりすぎて、数学問題のような無味乾燥のきらいもありました。完成版はそれに加えて、「若々しい大学生たちの青春と挫折」といったサイドストーリーも加えて、「誰が犯人か」といった興味を深めさせているわけで、そのあたりは今回の初映像化でも存分に描かれていましたよね。

 肝心のドラマとしての『貸しボート十三号』ですが、かなり高い割合で原作を忠実に映像化しつつ、30分というサイズにジャストフィットした非常に手堅い出来になっていたかと思います。まさに第2シーズンの「名刺代わり」といった感じの面白さでした。
 感想として「すっごくおもしろかったよ!!」とはちょっと言いがたいのですが、「いい映像化だったなぁ。」という印象は持ちました。これは、小説の魅力が「謎」である以上、そこをあまりイジらずにそのまんま描こうとする池松金田一シリーズの主旨にぴったりだったというわけですね。これを『金田一耕助の名推理シリーズ』のごとく水増し&田舎の事件アレンジにした日にゃ~、おしめぇよ。

 ただ、やっぱりそのまんまの映像化ではさすがに……という判断があったのか、今回は「金田一耕助のファッションセンスがかなりヘン」という味つけがありましたね。袖なし黒シャツの上にちょい袖まくりジャケットをはおり、ことあるごとに「Dole 」みたいな紙パック果汁ジュースを飲んでいる金田一耕助とは……でも、金田一耕助というか、「名探偵の異形性」を演出するという意味では良かったのではないでしょうか。まぁ、神門財閥にコネが無かったら証言を得るどころか気の立ってる学生に殴られかねない趣味の悪さでしたね。
 さらに、池松さんが意図的に「天才性が鼻につく」金田一耕助を強調して演じているものですから、なんだか私はその淡々として人間世界ぜんたいを小馬鹿にしたような態度に、金田一耕助よりもむしろ、あの知る人ぞ知る伝説的探偵マンガ『 NERVOUS BREAKDOWN(なあばすぶれいくだうん)』(1988~97年連載 たがみよしひさ)に出てくる天才探偵・安堂一意の雰囲気を感じたような気がしてしまいました。ほら、冒頭で吐いてるし。

 『 NERVOUS BREAKDOWN』はもう……1980年代生まれのわたくしといたしましては、語るもおそろしいトラウマといいますか、「怖いんだけどなぜか魅力的な不良のお兄ちゃん」といった感じの存在なのであります。
 なんといいましても、この作品はかわいい二頭身キャラがワイワイ出てくるのに、殺人事件でバタバタ人は死ぬし、話の展開も真相も殺伐としてるし、男女が顔を合わせたらたいていすぐにああなっちゃうしで……二頭身キャラといえば『爆笑戦士!SDガンダム』に『ハイスクール!奇面組』でしょという価値観に安住していた幼き日の私の奥歯をガタガタ言わしむる恐怖の世界だったのです。「え、そんなにテンションの低い二頭身キャラ、いていいの……?」みたいな。もうあれは、「軽薄」なんてもんじゃ片付けられません。もはや『平家物語』や『太平記』、もしくは『プライベート・ライアン』のような、人間の命の重さが羽のごとくに軽い「無常」の世界観ですよ。

 そうなんです。今回の『貸しボート十三号』は、いまだかつてなかなかドッキングすることの無かった、「横溝ワールド」と「テンションの低い人たち」という二要素を、もしかしたら初めてくっつけてしまったのかも知れない超異色作に仕上がっているのでした。それゆえ、決してナンバーワンにはなれないかもしれませんが、忘れがたいオンリーワンの光を放つ仕上がりになっているのは、間違いないでしょう。制作陣があえて作品のテンションを下げているのは、原作小説の中で最もハイテンションで個性的だったキャラクター「ギョギョギョの平出捜査主任」がまるごとカットされていたことを見ても明らかです。個人的には活躍して欲しかったんですが……吉沢警察医とコンビで。

 驚きましたね……これまで映像化されてきた横溝ワールドといえば、血を見れば「ギャー!!」、首が飛べば「ビューン!!」、意味不明な死体を見れば「何だこれは!!」、ちょっとした証拠を見つけた日にゃあ「よし!! わかった!!!」のハイテンションロマン絵巻がほとんどでしたもんね。マンガで言えば楳図かずお先生の筆圧だったわけです。
 そこにきて、たがみよしひさ先生風味なんだもんなぁ。そりゃあ異色ですわ。でも、これをもって、今まで「映像化するには地味すぎて……」と避けられがちだった原作小説の数々も、池松金田一シリーズならば大丈夫💛というサンクチュアリを見出せたかもしれませんね。
 いや、本来ならばなんてったって「生首半切り擬装心中事件」なんですから、『貸しボート十三号』も口が裂けても地味とは言えない事件なわけなんですが、昨今の放送コードの事情もありますし、そのへんの具体的な描写は丁重に回避されていた経緯もあって、全体的にタンパクなテイストになっていたのでした。本来そうとう味の濃そうな財閥の総帥・神門貫太郎氏も、嶋田久作さんという得難い存在によって絶妙な浮遊感をもつ人物になっていました。

 さすがといいますか、池松壮亮さんはそのあたりの製作意図を巧みに汲み取って、単なる鼻つまみな天才ではない、不可思議な魅力もあわせ持った「怪人・金田一耕助」をいとも簡単そうに演じ切っていたと思います。「金田一耕助=天使」というイメージが大大大嫌いな私としましては、実に嬉しいかぎりです。

 タンパクといいますか、ドライな作風という点では、かの長谷川博己金田一や吉岡秀隆金田一の活躍する吉田照幸演出による BSプレミアム版シリーズの印象が強いわけですが、そこはそれ、横溝正史の長編作の映像化である以上、結末に必ず悲劇的な「重さ」が発生するのでそれほど軽くはなりません。
 しかし、短編作となるとそうはいきませんからね。それこそ、今作における池松金田一のような「世に倦んだ天才」がスーッと横を通り過ぎるだけで事件が解決してしまうような、ドライな切れ味が発生するわけなんでしょう。なんか、嶋田久作さんが名探偵・明智小五郎を演じた実相寺昭雄監督の2作みたいなテイストですよね。

 突然ヘンな例え話をしますが、夜空の宇宙にたいする人間の想像力のはばたきを考える時、それはハリウッドの派手なスペースオペラだけでは決して語りきれるものではありません。そこにはアンドレイ=タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』や『ストーカー』も加えなければならないし、『宇宙大戦争』だって『スター☆トゥインクルプリキュア』だって加えてなんの問題もないわけです。
 同じように横溝ワールドという宇宙も、今回の『貸しボート十三号』のような淡々とした一面があったっていいじゃないか、ということなんだろうと思います。そういう点で、やっぱり池松金田一がさまざまな七変化を見せる『シリーズ・横溝正史短編集』というフィールドは、実に貴重な壮大な実験場なんですなぁ。いい時代になったもんだなぁ~!! 生きててよかった。

 ちょっぴり、今回のようなドライな金田一耕助が1クールくらい毎週つまんなそうに出てくるドラマシリーズも観てみたい気もするのですが、それはさすがにキツイかなぁ~。昔、『私立探偵 濱マイク』(2002年放送)という、神をも恐れぬ実験ずくめのドラマがありましたが、いや~……そうとう好きな人じゃなきゃ全話見ないよね。

 幸いというかなんちゅうか、どうやら次週の第2話『華やかな野獣』は、文字通りに金田一耕助が「踊る」ハイテンションの気配がいたします! 第1話からまたガラリと印象を変えるであろう、池松金田一のふり幅の大きな活躍に期待して、今週も頑張って働くことといたしましょう!! 期待してますよ~いっと。
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全国城めぐり宣言 第40回 「尾張国 清州城」資料編

2020年01月21日 23時37分41秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 清洲城 とは

 清洲城(きよすじょう)は、尾張国春日井郡清須(現・愛知県清須市一場)にあった平城である。尾張国の中心部に位置し、京・鎌倉往還と伊勢街道が合流し、中山道にも連絡する交通の要所として重視された。

 応永十二(1405)年、尾張・遠江・越前国守護の管領・斯波義重によって築城された。当初は尾張国守護所である下津城(おりづじょう 現・愛知県稲沢市下津高戸町)の別館として建てられたが、文明八(1476)年に尾張国守護代・織田家の内紛により下津城が焼失し、文明十(1478)年に尾張国守護所が清洲城に移転することになり、尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」当主・織田信秀が清須奉行として駐在した以外は常に織田大和守家の居城として存在し、尾張国下四郡を支配する尾張国守護代・織田家の本城として機能した。
 織田信秀が尾張国古渡城に拠点を移すと、尾張国守護代・織田信友が入城したが、弘治元(1555)年に信秀の嫡男・織田信長と結んだ織田信光によって信友が暗殺され、以降信長が那古野城から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間合戦に出陣するなど、約10年間清州を居城とした。永禄五(1562)年には信長と徳川家康との同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。翌永禄六(1563)年に信長は美濃国斎藤家との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。

 天正十(1582)年の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は次男・織田信雄が相続した。天正十四(1586)年に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄四(1595)年には福島正則の居城となった。
 慶長五(1600)年の関ヶ原合戦のおりには東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸国に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長十二(1607)年には家康の九男・徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。
 慶長十四(1609)年に徳川家康によって清州から名古屋への尾張国の遷府が指令されると、翌慶長十五(1610)年より清須城下町は名古屋城下に移転された(清洲越し)。清州城も名古屋城築城の資材として利用され、特に名古屋城御深井丸の西北隅櫓は清州城天守閣の資材を転用して作られたため「清州櫓」とも呼ばれる。慶長十八(1613)年、名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった。

 現在、城跡は土地開発によって大部分が消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。なお、現在城址のすぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、公園内に復元されている。
 現在存在する天守閣は、1989年に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建設された鉄筋コンクリート造の望楼型3重4階の模擬天守である。実際の創建当時の天守閣は絵図が残っていないため、その規模は不明である。そのため、模擬天守の外観や規模は想像で設計された。建造された模擬天守は桃山時代の城を再現するデザインで、江戸時代の漆喰塗廻の白い城とは異なる装飾に富んだ姿となっている。

 清洲城の天守閣または小天守の部材を転用または移築したものとされる名古屋城御深井丸の西北隅櫓は現存し、重要文化財に指定されている。また、尾張旭市の良福寺山門は清州城の裏門を移築したものと言われ、市の文化財に指定されている。その他、名古屋市の含笑寺と長久寺の山門も清州城から移築された門として伝わっている。清洲城の障壁画は一部が總見寺(現・愛知県名古屋市中区)に移されて現存し、愛知県指定有形文化財(絵画)に指定されている。また、崇福寺にも清須城の鯱と伝わっているものがある。
 2011年に行われた周辺の発掘調査によって、平安時代の集落跡、清州城下町時代の跡、清州宿時代の遺構や遺物が発見された。

清洲城と天正大地震
 1988年に実施された五条川河川改修に伴う発掘調査で、清洲城下に新旧2回の地震による液状化現象の痕跡が発見され、新期のものは濃尾地震(1891年)、旧期のものは、天正十三(1585)年十一月二十九日の天正地震による可能性が高いことが判明した。これにより、前述の天正十四(1586)年に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、天正地震が契機だった可能性が高いと考察された。

清須と清洲
 地域や城郭の名称として表記する際に「清洲」を使う場合と「清須」を使う場合がある。どちらも正しく、同じ地域や城を示しているが、伊勢神宮領を記録した14世紀中頃の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に「清須御厨(きよすみくりや)」と記載されているのが最古の記載としているが諸説ある。『信長公記』では「清洲」、『三河物語』では「清須」と記載されている。
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全国城めぐり宣言 第39回 「尾張国 末森城」資料編

2020年01月18日 22時55分49秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 末森城 とは

 末森城(すえもりじょう)は、戦国時代、尾張国愛知郡鳴海荘末森村(現・愛知県名古屋市千種区城山町)にあった平山城である。縁起の良い名ということで「末盛城」とも書かれた。

 天文十七(1548)年、東山丘陵の末端に尾張国大名・織田信秀が築城した。三河国の松平家や駿河国の今川家などの侵攻に備えたもので、信秀の弟・織田信光が守る守山城と合わせて尾張国の東方防御線を構成するものである。信秀は、これまでの居城であった古渡城を放棄し、末森城を居城とした。天文二十一(1552)年の信秀の死去にともない、末森城主を継承したのは、三男の織田信勝(信行 織田信長の弟)であった。

 弘治二(1556)年、信勝は重臣の林秀貞、柴田勝家らとともに兄・信長に対して叛旗を翻すが、稲生合戦で敗れた。この際、信勝は末森城に籠城しており、信長は末森城下の町に火を放ったが、末森城にいた母・土田御前の介入で信勝は赦免され、末森城は陥落を免れている。
 しかし永禄元(1558)年、信勝が再び謀反を企てたことを柴田勝家が信長に内報し、信勝は信長の居城・清州城で謀殺された。これにより末森城は一時廃城となったとされるが、後に天正十二(1584)年の小牧・長久手合戦に際して、信長の三男・織田信雄が再び末森城を使用している。

 なお、天文二十二(1553)年に信勝が城内に白山社を祀ったものが廃城後も近隣の人々の信仰を受けて維持され、明治時代に入り近隣の神社と合祀されて「城山八幡宮」となっている。また、城の西北山麓に信秀の霊廟があったが、現在は名古屋市千種区四谷通にある桃巌寺内で信勝とともに供養されている。

構造
 末森城は、東山丘陵地の末端に位置する標高43メートルの丘に、東西約180メートル、南北約150メートルの規模で築城された平山城である。地形を利用して斜面の中腹に幅10~16メートルの空堀を備えていた。そのうちの内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。
 城郭の構造は、東西約43メートル、南北46メートルの本丸(東丸)と、東西約50メートル、南北43メートルの二ノ丸(西ノ丸)とに分かれていた。本丸は現在の城山八幡宮にあたり、二ノ丸跡には愛知県が1928年に建設した教育施設の旧・昭和塾堂が建っているが、後に城山八幡宮に払い下げられ、建物は2017年まで私立愛知学院大学が大学院歯学部研究棟として使用していた。また、城山八幡宮内に末森城址の石碑が建っており、城の名は末盛通として地域に残っている。
 現在でも深さ7メートルほどの空堀など、遺構がよく残っている。馬出や総構えの構造が見られることから、現在みられる遺構は1584年頃、当時尾張国を支配していた織田信雄が小牧・長久手合戦に備えて改修したものと考えられている。

交通
 名古屋市営地下鉄東山線・覚王山駅(名古屋市千種区末盛通)で下車し、徒歩で約5分。
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全国城めぐり宣言 第38回 「尾張国 古渡城」資料編

2020年01月17日 21時26分21秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 古渡城 とは

 古渡城(ふるわたりじょう)は、尾張国大名・織田信秀が尾張国愛知郡(現・愛知県名古屋市中区橘)に築城した平城である。天文十七(1548)年に廃城となった。信秀の嫡男・織田信長が元服した城として知られている。

 天文三(1534)年、織田信秀が東南方に備えるために築城した。信秀は今川家の武将・今川氏豊から奪った尾張国那古野城を嫡男の吉法師(のちの織田信長)に譲り、この城を新たな拠点とした。
 東西140メートル、南北100メートルの平城で、四方を二重の堀で囲んでいた。天文十五(1546)年、吉法師は古渡城にて13歳で元服する。天文十七(1548)年、美濃国に侵攻した信秀の留守を狙い、尾張国守護代・織田信友の重臣・坂井大膳らが古渡城下に攻め寄せ、この際に城下町は焼かれたが、落城はしなかった。同年、信秀は末森城を築いて移ったため、古渡城はわずか14年で廃城となった。
 遺構として、真宗大谷派名古屋別院の敷地内にある古渡城跡碑と、古渡城の堀跡を利用した下茶屋公園(真宗大谷派名古屋別院に隣接)がある。

交通
 名古屋市営地下鉄名城線・東別院駅(名古屋市中区大井町)の4番出口より徒歩で5分。
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全国城めぐり宣言 第37回 「尾張国 勝幡城」資料編

2020年01月15日 23時40分44秒 | 全国城めぐり宣言
尾張国 勝幡城 とは

 勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)にまたがる勝幡地区にあった平城。
 稲沢市の指定史跡で「勝幡城址」と「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の石碑と、「文化財史跡勝幡城址」の木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。

 永正年間(1504~21年)頃、尾張国清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定が、尾張国の海西郡を手中に治めた際に、平安時代後期の尾張国権守・大中臣安長の邸宅跡に勝幡城を築城した。
 この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定または息子の織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。
 天文元(1532)年、信定の跡を継いだ信秀は今川家の武将・今川氏豊から尾張国那古野城を攻め取ると那古野城に移り、勝幡城には家臣の武藤掃部雄政を城代として置いた。
 翌天文二(1533)年、公卿・山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記『言継卿記』に記している。このことから、商業地の津島を支配下に置いた織田弾正忠家の経済力が窺える。

 宝永五(1708)年に著された『尾州古城志』によると、信秀の嫡男・信長は天文三(1534)年にこの勝幡城で産まれたとされている。
 弘治元(1555)年、信長は主家の織田大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、勝幡城代の武藤雄政を尾張国野府城へと移した。それにより勝幡城は廃城となった。

構造
 勝幡城は二重の堀で囲まれていた平城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定される。慶安三(1650)年頃に尾張藩が作成した『勝幡村古城絵図』によると、本丸は東西29間(約52m )、南北43間(約77m )の方形で、幅3間(約5m )の土塁に囲まれていたと記されている。三宅川と日光川が合流する三角州となっているが、現在の日光川は江戸期に萩原川が大規模に掘削され流れを変えられたものであり、また、城郭の多くの部分が現在の日光川の流域に位置するため、当時の縄張りは窺い辛い。
 1979年に、櫓台とされる位置の地下3m から基石が発見され、愛西市佐織支所に保管されている。

交通
 名鉄津島線・勝幡駅(愛知県愛西市勝幡町五俵入)で下車し、徒歩で約10分。
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