長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

辻村深月の『スロウハイツの神様』を待ちながら

2011年04月20日 13時28分19秒 | すきな小説
 そうだいはちからをためている。
 どうもこんにちは~。なぜ力をためているのかは、たぶん次回の『長岡京エイリアン』で報告することになるかと。うまくいけば……

 いや~昨日はこまっちゃいましたね! 関東はもう冬じゃなかったですか、夜なんか特に!? 寒かった寒かった。
 まさか4月になって分厚いコートをまた着ることになろうとはね。それでもまだ寒かったくらいなんだから。

 昨日は私、日中はアルバイトで夕方からは東京でお芝居を観るという予定があったんですけど、昼間と夜とでそんなに変わるもんですか?ってくらいに気温がガタ落ちに落ちましたね。
 昼間は普通に春めいてあったかいくらいだったのにな~。アルバイトが終わってから駅に向かっている途上で一天にわかにかき曇ってまいりまして、それまでは薄着だったんですけど、これはもしかしたらと思って急いで家に帰ってコートをひっかついできたのが大正解でした。
 昨日が最後の「寒の戻り」になるといいんだけどなぁ、ほんとに。

 寒暖の差のはげしい中、自転車で走り回ったり電車で東京に行ったりしたのもなかなか身体が疲れたんですけど、昨日はずいぶんと身体をこまらせちゃいましたね。
 なにがこまらせちゃったって、やっぱり昨日やったアルバイトの内容がね! 楽しいんですけど、文字通り心身ともに疲れるものなんですよ。
 いろんなことをかんがみて、そしてなによりもヒミツにしておくのが楽しいのでアルバイトの具体的な内容は言わないのですが、これ、「アルバイトやってま~す。」っていう感覚でやるとほんとにつまんない、真剣勝負でやることを要求してくる内容なんですよ! いや、ただ勝手に私が楽しくやるために全力でやってるってだけなんですけど。
 こういう疲れ方をするお仕事は、なかなかお目にかかったことがなかったなぁ。ほんとに「心身ともに」エネルギーを使うんだなぁ。
 朝から日が暮れるまで催事用テントを200コ組み立てるとか、人間的にあわない人と2人っきりで作業をするとかっていうのは、「身体」か「精神」かどっちかの消耗で済みますからねぇ。
 ホントにおもしろいお仕事です。来週にもやる予定があるんで、いろいろと作戦を立て直してまたがんばんぞ!


 そんなアルバイトもありまして、夕方に私が電車に乗って向かったのは、東京の中野。
 観たのは、中野の劇場・スタジオあくとれでやっていたルクウズルームの公演『ゴドーを待ちながら』(演出・佐々木透)です。
 スタジオあくとれは地下にある定員80名ほどのささやかな空間なのですが、昨日の夜からの公演は満員になっていましたね。
 そりゃそうだよ~、それぞれキャリアのある5人の役者さんが出ているお芝居で、昨日と今日の2回しかやんないんだもの。しかも、わたくしごとでいうと5人の役者さんのうち3人と知り合いだったもんですから、客席にいる面々も見知った方々ばっかりでなんだか変な居心地だったな。

 肝心のお芝居のほうはというと、まぁ~わけがわかんなかったんですよ。
 ただ、多くの方がご存じの通り、『ゴドーを待ちながら』は1953年にフランスで初演された不条理演劇の古典的作品(作 サミュエル・ベケット)。わけわかんないのは当然なんです。
 当然なんだけど。う~ん、今回観た公演は、その「わけわかんなさ」を前提にしちゃったような気がするんだよなぁ。わけわかんない世界って、わけわかんないのが当たり前になっちゃったらいけないと思うんだけど。
 「おもしろいことは、まじめにやればやるほどおもしろい」って、ありますよね。「おもしろいこと」のおもしろさに気づいていない人がまじめにやるからこそ、それが「おもしろいこと」としてさらに引き立ってくるんじゃないかと思うんです。
 だから、私としては「すべてのシュールは笑いと同じ。」とまでは言わないけど、『ゴドーを待ちながら』だからこそ! 有名な古典中の古典だからこそ、シュールという部分にアグラをかいてほしくなかったんだなぁ~。
 私個人としては、ごくフツーに「え? なんかヘンですか?」というくらいにそしらぬ顔でやる肝の太いお芝居が観たかった。
 そこらへんでまず違和感を持ってしまったんですけど、それがいかんかったのか、物語が進行していっても役者それぞれのカラーの違いだけしか目に入ってこなくなっちゃって。
 おのおの味のある役者のみなさんが集まったし、それぞれのおもしろさが観られる局面もあるにはあったんですけど、正直言って演出が今回のメンツをどうあつかったのか、あつかってどういう作品にしたかったのかが私にはわかりませんでした。

 もったいないっちゅうかなんちゅうか。この時代、人と人とが出会うチャンスはほんとに大事にしないとねぇ!


 ガラッとお話が変わりまして、最近わたくし、読書量がじょじょに増加しつつあります。

 まぁ~なんてったって、劇団員としての活動がなくなりましたから。部屋にTVないですから。時間と体力的余裕があるある。
 読解力と知的レベルがどうなのかという核心的問題はおいといて、私そうだいは小学校時代から常に本をかたわらにおく生活を送って参りました。
 いつでも私の部屋の視界のどこかには5~10冊平積みになった本があり、それを上から読んでいく作業と、同時に新しく買ってきた未読の本を下にさし入れていく作業をニヤニヤしながら続けてきていました。気持ち悪いです。暗いです。Darker than Darkness です。

 だいたいは古今東西の(おおむね「古」が多い)小説を読んできて積み重ねてきた習慣だったのですが、ここ数年は読みやすいという理由から、もっぱら小説じゃないムック本やら新書サイズのHow to本を読むことが多くなってきていました。マンガを読む量は基本的に一定なんですけど。
 しかし、気は熟した! 大好きでず~っと関連書籍を買いあさってきていた「歴史ブーム」もここにきてひと段落の感がしてきたし、なによりも私に小説を読みきる体力がもどってきたのです。いざまいら~ん!

 っつうことで、今月に入ってからすでにいくつかの本を読んできているわけなのですが、今回はこちらのお話をしてみようかなぁと。


辻村 深月 『スロウハイツの神様』(2007年 講談社)

 いやあ。いいですね。
 作品自体いつ読んだっていいものなんですけど、私としては今この時期に読むことができてとてもよかった。
 私は辻村さんの作品は、去年にこの『長岡京エイリアン』で取り上げた『V.T.R.』(2010年)までに単行本化されたものはすべて読んでいます。
 この『スロウハイツの神様』も、最初に講談社ノベルスから新書版で発行された4年前に1回読んでいたのですが、今回は去年に文庫版であらためて出版されたものを読み直してみました。
 
 ……しみるなぁ。

 脚本家、漫画家、画家、映画監督。それぞれの夢を追う若者が共同生活をしているアパート。そして同じ屋根の下には、ベストセラー小説や大ヒット漫画の原作などで当代一の人気作家となっているチヨダ・コーキも住んでいます。
 自分達の環境を、かつて実在した伝説のアパート「トキワ荘」に重ねあわせて生きていく彼ら、彼女たちだったのだが……という群像劇が『スロウハイツの神様』です。

 しかしこの作品は、とてもじゃないけど「群像劇」なんていうさっぱりした表現ではかたづけられない、それこそお互いにぶつかりあって血と涙が噴き出すような出来事に満ちています。
 もちろんそれは、「切磋琢磨!」とか「お互い、言いたいことはちゃんと言おう。」とかいう集団や社会での共存をめざして生じたものではありません。そんなにおだやかで理性的なものじゃねぇんだ。

 ここで発生する衝突の数々は、起点としては確かに先にあげたような、互いに違っていながらもそれでいて互いをなんとなく意識してしまう世界であるがゆえの微妙な距離感が関係しているのですが……
 結局はね、どこででもごく自然に発生することのような気がするんだなぁ。真剣に生きよう、つまり自分や他人の生み出すエネルギーがなんなのか、そしてそれをどう利用するべきなのかを真剣に考えようとしている人が2人以上あつまったのなら、どこででも。
 『スロウハイツの神様』の中で展開されるエピソードのすべては、特別なことでもなんでもない、ただの動物じゃない「人間」、でも根っこはどうしようもなく動物である「人間」がいやおうなしに起こしてしまう呼吸のような出来事ばっかりなのねぇ。

 ところで今の私にとっては、10年間続けてきたものをやめたばっかりの今の私にとっては、辻村さんのいろんな作品の中でも、特にこの『スロウハイツの神様』がいっちばん!「読みにくい」小説になっていました。
 誤解しないでくださいね、「読みにくい」ね。「読みづらい」ではゼッタイにありません!

 最初の1ページ目を読み始めるのにも何ヶ月かという変な時間が必要だったし、上下巻あるうちの下巻の中盤までは、いろんなシーンに自分の記憶をオーヴァーラップさせてしまったりしてやたら気が重かったりもしました。
 現金なもので、のうのうと生きていた4年前に読んだときにはそんなこと全然なかったんですけどね。まぁ、それだけ年をとったってことなのかしら。

 ただ、それだけに! 今回読んだ時には、下巻の後半のスピード感が実に気持ちよかった。感動しましたね。
 1回読んだはずなんですけど、新鮮に入ってくるんですよねぇ、すべての風景が。それこそ最初に読んだときには、
「おお~、さすがは辻村深月。」
 くらいにしかびっくりしていなかったんですが、まぁ、それだけガキンチョだったんですね。

 今回、2回目に読んでみて本当に感じたのは『スロウハイツの神様』の物語そのもののおもしろさよりも、その世界が持っているふところの広さ、登場人物達それぞれのささいな行動によって見る見るうちに変わっていく空気の表情の数々がとても豊かであることです。

 辻村深月の作品の世界は、まさに神も、神のような万能の力を持ったキャラクターもどこにもいない世界です。実際に、「神なんかいない。」というさみしい考えを持って生きようとする人間もしばしば登場します。
 でも、ある人が何かのために走り出す時、自分が守っていたなにかをなげうってでも行動したいと決断した時、その人の姿は辻村さんの筆によってまばゆいばかりの光をはなち、それを目撃した人の目には間違いなくそれが「神」以外の何者でもないものの姿に見えるのです。

 つまりはそれが辻村深月の世界に現れる「奇跡」であり、そのためにキャラクターたちの周辺には過酷な「日常」が吹きすさび続けるわけなんですなぁ。
 『スロウハイツの神様』は、そのあたりが私みたいなポンスケにもわかるくらいに明確に描かれた作品だと思うんですね。それだけに、前半はなにかと身につまされるエピソードも多くあるわけなのですが……ホントに辻村先生の筆は容赦がねぇ!
 たぶん、何年かたってから読むとまた変わってくるんだろうなぁ。すでに今からそれが楽しみだったりもします。


 辻村深月っていう作家さんは……不思議です。
 自分の世界の中で、簡単に「神を設定する」という手段に走らずに、作品のすべてを使って一瞬の「神が見える風景」を描こうとする細密画家のように繊細な精神と、
 現実の世界の中で、一途に「神が見える瞬間」が確かにあることを信じて、その輝きを読む人に力強く訴え続けていく九州男児のようにごんぶとな精神と。

 次の作品を読むのが本当に楽しみな作家さんです。
 辻村深月、辻村深月! 私のパソコンでは出ないんですけど、ほんとは「辻村」の「辻」は旧字体だから一画多いですよ~。
 どうでもいいですね~、どうでもいいですよ~だ!
コメント
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