長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第45回 「甲斐国 谷戸城」資料編

2023年07月07日 20時23分28秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 谷戸城とは

 谷戸城(やとじょう)は、現在の山梨県北杜市大泉町谷戸にあった日本の山城。城跡が1993年に国史跡に指定されている。
 山梨県の北西部に位置し、八ヶ岳の山体崩落で形成された尾根上に立地し、標高は850m付近である。その地形を利用して同心円上に土塁や空堀を配した輪状郭群で、東西を東衣川と西衣川に挟まれ、北側が八ヶ岳の尾根に通じているため、三方を急崖に囲まれている。

 平安時代後期に、常陸国那珂郡武田郷から源義清(1075~1149年)と、その嫡男・源清光(1110~69年)親子が甲斐国市河荘(現在の市川三郷町)へ流罪された。清光の子孫は逸見荘へ土着した後、甲斐国の各地で勢力を拡大し、甲斐源氏の祖となった。
 谷戸城は清光の居城と伝わり、江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』によれば、清光は正治元(1199)年に谷戸城で死去したという。
 鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によると、治承四(1180)年8月の石橋山合戦において伊豆国で挙兵した源頼朝が敗北した直後に、北条時政・義時親子が甲斐国入国を試みたという。翌月の9月10日には、逸見義光の次男・武田信義(1128~86年)らが信濃国へ出兵して平家方と戦い、9月15日には甲斐国へ帰還し、信義とその嫡男・一条忠頼(?~1184年)らは逸見山に集結した。甲斐源氏の一族はその地において北条時政を迎えたという。逸見山の比定地は北杜市内に複数候補地があり、谷戸城もそのひとつとされる。
 戦国時代には、甲斐源氏子孫の武田信玄晴信が信濃国侵攻を開始する。当時の記録史料『高白斎記』の天文十七(1548)年9月6日の項目に拠れば、晴信は信濃国佐久郡の前山城(現・長野県佐久市)攻略のため出陣し、「矢戸御陣所」において宿泊したと記されているが、これが谷戸城を指しているかは不明である。晴信は9月7日に海野口に、9月9日には宮之上に到着し、9月11日には前山城を攻略した。
 また『甲斐国志』によれば、天正十(1582)年3月の武田家滅亡後、同年6月の本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生する。天正壬午の乱において甲斐国の武田家遺領は、三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が争奪し、家康が新府城(現・韮崎市中田町中條)を本陣にしたのに対し、北条家は若神子城(現・北杜市須玉町若神子)を本陣にした。この際、北条軍は谷戸城にも布陣していたという。

 江戸時代の文政八(1825)年に記された村方明細帳にも記録が残ることから、当地は江戸時代から城跡と認識されており、1976年に山梨大学考古学研究会による測量調査が行われた。1982年には一部の発掘調査が実施され、堀跡など一部の遺構が確認され、青磁片や内耳土器、洪武通宝などの遺物が出土している。
 北東や西側は内部に横堀を伴う土塁があり、南側斜面には帯状の郭が数段にわたって広がり、防御施設が集中している。北は方形の平坦地が開け、内部には三角形の主郭部がある。

 現在は、谷戸城跡の北西角に隣接して、谷戸城を含む北杜市内の考古遺跡および出土品を解説展示する「北杜市考古資料館」が設置されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全国城めぐり宣言 第44回 「甲斐国 若神子城」資料編

2023年07月06日 23時02分46秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 若神子城とは

 若神子城(わかみこじょう)は、山梨県北杜市須玉町若神子にあった中世の山城で、現在は城跡が残り、山梨県北杜市指定史跡となっている。現在の山梨県北西部に位置する須玉町の、西川と湯川に画された三本の尾根上に立地し、北城(北ノ丸)・古城(本丸)・南城(南丸)の三つの城郭から構成される。

 江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』によれば、築城主は甲斐源氏の祖にあたる源新羅三郎義光(1045~1127年)であり、義光から三男・武田冠者義清、その嫡男・逸見冠者清光に伝えられたとしている。
 戦国時代には武田家の信濃国侵攻における国境の拠点として重要視され、佐久・諏訪口方面からの狼煙の中継点、陣立ての地として利用されたという。武田家の滅亡後、武田家遺領をめぐる天正十(1582)年六月の天正壬午の乱では、信濃国から相模国の大名・北条氏直が甲斐国へ侵攻し、若神子城に本陣を起き周辺の城砦に布陣した。これに対し三河国の大名・徳川家康は、現在の山梨県韮崎市中田町中條に所在する新府城に本陣を置き、七里岩台上の城砦に布陣し、北条軍と対峙した。その後、同年十月に徳川・北条同盟が成立し、氏直は甲斐国都留郡から撤兵した。その後の若神子城の廃城年は不明である。

 若神子城のうち、北城は小手指坂の南に位置し、規模は東西100メートル、南北400メートルで、西側と南側に土塁が残されている。古城は西側の尾根上に位置し、規模は東西100メートル、南北200メートルだったが、明治時代に破壊されている。南城は台地東側の張り出し部分に築かれ、廃城後は東漸寺の土地になっていたという。南城も1982年に破壊を受け、茶臼や常滑焼の破片など遺物が出土している。同年には公園建設のために古城で発掘調査が実施され、薬研堀や掘立柱建物跡が検出された。その後1984年には北城の発掘調査も行われ、柱坑列が検出されたほか内耳土器やかわらけなどが出土したが、時代を特定できる遺構・遺物は見られなかった。
 北城・古城・南城のいずれも、北側の防御が手薄であることが指摘されている。
 地名の遺称として、古城北東の沢が「たつのくち」、南城東側の沢が「新羅くぼ」と呼ばれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする