ハイど~もこんばんは! そうだいでございます。みなさま、日曜日の今日もいろいろとお疲れさまでございました! 明日からまた月曜日が始まり、火曜日に続き……えぇい、がんばるぞ~いっと!!
昨日土曜日に、久しぶりに東京に行ってまいりました。
前回に東京に行ったのが、6月に演劇鑑賞のためだったので3ヶ月ぶりの上京になるのですが、例によって判を押したかの如く、今回も演劇鑑賞が目的でございました。ほんと、いざ出かけてみれば東京なんてあっという間に行けるわけなんですが、とにかく丸1日かけて休める余裕がなかなか作れないわ、準備するのが億劫やらで……トータルで考えれば、やっぱり遠いやねぇ。近所の温泉通いだってままならない状況なんですから、新幹線を使う遠出なんて何をかいわんやですよ!
山形に居を移してから今まで数回の東京行きをやってきたわけなんですが、これまでは観るお芝居やその他の用事がお昼であることばかりだったので、行く日の前日の深夜に高速バスに乗って翌早朝に東京に着いて、用事を済ませた夕方の新幹線に乗って山形に帰る、という方法をとってきていました。まぁ、そりゃ体力的な辛さや東京に着いた朝方の徹底的なヒマさを考えれば、もっとスマートに行きも新幹線にしたほうが断然いいわけなのですが、そこはそれ、高速バスは交通費が新幹線の半額以下なんでありまして……もうちょっと、お世話になるかな!?
ただし、今回は観るお芝居が下北沢で夜7時の開演というスケジュールになっていたため、夜9時前に山形行きの最終便が出てしまう新幹線で帰ることはちょっとできないということで、これまでとは逆に行きを新幹線にして帰りを夜11時すぎ発の高速バスにするという交通手段になりました。というわけで今度も高速バスのご厄介になったわけなんですが……まぁ、いつかは東京で1泊するとかして、ゆったり往復新幹線の旅にしたいもんですわな! 本日である翌日曜日は日曜日で、予定があったのよねぇ~。丸一日なんにもなくて仕事のことを考える必要もない休日なんて、そんなもんあったかしら!? いや、けっこう最近のシルバーウィークの前半はそうだったんですけれどもね。貴重なあのひとときよ、カムバ~ック!!
そんでま、昨日は早朝6時30分発の新幹線に乗って東京に行くつもりだったのですが、週末の疲れやら東京の天気が悪そうだという予報やら、今までよりは格段に遅くなったとはいえ、9時半に東京に着いて夜までいったい何をするんだという疑問やらで、結局さらにもうちょっと遅めの新幹線に乗って行くこととなりました。もう、どうせ気ままな休日の一人旅なんだから、ギリギリまで出発おくらせちゃおう! そこらへんの発想は千葉の一人暮らし時代からさっぱり変わっておりません。
そんなこんなで昼前に東京に着いたわたくしは、千葉の津田沼まで行って個人的な用事を一瞬で済ませて、そこからここ数年間ほんとにお世話になっていた新京成線に乗って、これまたまことにお世話になった鎌ヶ谷の地をぶらぶら散歩して、そこから渋谷に向かってから、あえて京王井の頭線を使わずに徒歩で下北沢を目指すという行程をとりました。
この、渋谷から下北沢まで歩くという約45分くらいかかる地味にしんどい選択は、私がかつて劇団員だった頃に、下北沢で芝居の本番があったときに交通費を浮かすためによくやっていたもので、それだって往復で300円も節約できないせせっこましいものだったのですが、いろいろ緊張する気持ちを落ち着けながら劇場に向かい、いろいろとっちらかった真空管ブレインを整理しながら家に帰るのに、この約45分間の散歩というものは非常にありがたいものだったのでした。電車に乗って座っちゃうとすぐ寝てましたからね。リンゴかじりながら駒場とか通り過ぎていたわけです。駒場のアゴラ劇場にも大変お世話になったねぇ。
渋谷の谷から坂をのぼって上がり、ゆるやかに降りて下北沢に向かうという道を再びたどって訪れた劇場は、劇団員としても客としても何回来たのかよくおぼえていないザ・スズナリ。そして今回観るのが私が劇団員として所属していた劇団の最新公演だっていうんですから、もうなにがなにやら……
完全にひとりの客としての来訪なのでいまさら感慨深いもなにもないんですが、まぁ、夕べは劇団員として本番当日を迎えるという設定の夢、見たよね~!! 久しぶりだったなぁ。
「セリフをまったく思い出せない芝居の開演5分前に、衣装に着替えていない自分に気づく」という、ぶっちゃけありえな~い設定の定番の悪夢だったわけなのですが、必死にワイシャツに袖を通してズボンのベルトをカチャカチャやっている最中に突然、「あ、おれ、もう芝居やってなかったんだっけ……」という宇宙の真理に到達してしまい、「起きよ。」と夢を強制終了させて目覚めた自分自身に、私もずいぶんとつまんない大人になったもんだなぁ、とため息をついてしまいました。でも何回見てもヤな夢!!
ところで、実は渋谷に着いてから夕方までの時間つぶしとして、TOHOシネマズに行って映画の『進撃の巨人 エンドオブザワールド』を観て「しまい」ました。
私自身は原作マンガは3巻ぐらいまでをラーメン屋で注文を待つあいだにささっと読んだだけだし、アニメ版も実写映画版の前編もまるで観ていないというていたらくだったのですが、実写版前編のあまりの評判の悪さにむしろ興味がわいてしまい、監督の方に間接的にでもお金をあげるのは非常に癪だったのですが、まぁ来年は『ゴジラ』もあることだし……ということで、免疫を作るために後編だけ観た次第です。
まぁ、今回の話題はお芝居のほうですし、それとこの映画を比較するつもりも毛頭ないのでこっちの感想はうだうだ言いませんが、國村隼さんのバカバカしい演技しか印象に残らなかったです。お話は冒頭にご丁寧な「前編のあらすじ」があったので難なく呑み込めたのですが……なんか、連載中の原作マンガとはまったく違うという「衝撃の結末」は、「町山智浩さんが書きそうなオチを考えてみよう」ってお題で中学生が作ったのかってくらいにうすっぺら~く町山さんっぽいものだと感じました。あっそれ、私が大学生ぐらい(15年前)のときになんかで見たな、みたいな。TOHOシネマズの売店のチリドッグはおいしかったですね。
さぁさぁ、そんな個人的なあれこれはうっちゃっときまして、今回拝見したお芝居は、こちら!
三条会公演 『熱帯樹』(作・三島由紀夫、演出・関美能留 2015年9月24~27日 東京・下北沢ザ・スズナリ)
作品について
『熱帯樹』(1960年1月初演)は、裕福な資産家である夫(恵三郎)の莫大な財産を狙って息子(勇)に夫を殺させようとする妻(律子)の企みを知った娘(郁子)が、愛する兄に母を殺させようとする家族の悲劇の物語である。愛と憎しみが錯綜する男女関係を描いたギリシア悲劇的な人間関係の中に、父性愛や母性愛の不在から惹き起される家族関係の崩壊が描かれている。登場人物のひとりである郁子には、三島の亡妹・美津子(17歳で逝去)のイメージが投影されているとされている。
新潮文庫から戯曲集『熱帯樹』が刊行されていたが、現在は絶版となっている。
三島由紀夫はこの作品の後書きにおいて、当時フランスの地方で実際に起きた事件の話をフランス文学者の朝吹登水子から聞き、そこからヒントを得て執筆したと語っている。その事件は、裕福な貴族と結婚した女が、およそ20年間ひたすら夫の財産を狙い、成長した息子に実の父親である夫を殺させ、莫大な財産を手に入れていたというものだった。貴族夫婦の間には息子の他に娘(息子の妹)もいたが、年頃になった息子を意のままに操るために夫人は息子と肉体関係を持ち、それに絶望した息子は妹とも関係を持ったという。
……とまぁですね、ものすごいお話なのであります。夫を殺したい妻、母を殺したい娘、兄を虜にする妹、息子を虜にする母!
上演する三条会にとって『熱帯樹』は、1997年10月に千葉市で上演された劇団立ち上げ公演の演目だったということで、三条会が上演することの多かった三島由紀夫の諸作品の中でも、特別に縁の深い戯曲なのだそうです。
「『なのだそうです。』って、おまえ昔所属してたんだろ!」と言われそうなのですが、実は私は2001年から三条会に入ったものですので、まず立ち上げメンバーではありませんし、そもそも私が千葉市に来たのが翌1998年の春でしたので、公演そのものも観ていないので、なんとも言えないのよねぇ。でも、今回の2015年版とはまるで別物の作品だったのでしょうね。なんてったって18年のへだたりがあるんですから!
1997年の秋といえば、私は……山形で受験勉強……のフリして深夜ラジオを聴きながら『ベルサイユのばら』のハプスブルク帝国版の台本を書いてました。バカなのね~、バカなのよ~。
この物語の具体的な事件に関わってくるのは、妹・兄・母・父のたった4人ということで、人物相関図でいえばきわめてシンプルな四角形でしかないわけですが、その四角形の中を「殺したい」と「愛したい」の矢印がまぁ~ビュンビュン交差する交差する。
ただし、人間関係でいうところのよく言う「ドロドロ」の最少人数は「三角関係」の3人かと思われるのですが、この『熱帯樹』でも、物語の核心で壮絶なバトルを繰り広げるのは「妹・兄・母」の3人であり、もうひとりに当たる「父」は、どことなく一歩引いた位置にいます。この、口ではああだこうだ言いながらもいまいち家族をまとめ上げることに本腰を入れようとしない家長の存在感の薄さが、なおさら他の3人の暴走をヒートアップさせているという絶妙な動力源にもなっているわけです。
確かに、『ちびまるこちゃん』然り『クレヨンしんちゃん』然り『ドラえもん』然り、家族ドラマのおもしろさの秘訣は「親父が前に出すぎないこと」にあるような気がします。キャラクターはしっかりしていても、あくまで巻き起こる事件のツッコミ役に徹するわけですね。まぁたまにはロボットになったりもしますけど。
ところで、この『熱帯樹』のモデルとなったのは、フランスであった実際の事件だと三島由紀夫は語っているわけですが、と同時にギリシア悲劇の『オレステイア』3部作(『アガメムノン』『コエロポイ』『エウメニデス』)の物語も強く意識していることを後書きの中で示唆しています。
『オレステイア』3部作は古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロス(紀元前525~紀元前456年)の代表的戯曲(紀元前458年に初演)で、アイスキュロスの活躍した時代よりもさらに古代の紀元前1200年代にあったという「トロイ戦争」に勝利した、ギリシアの諸王国連合の総帥アガメムノン(ミケーネ国王)の家族の崩壊を描いた物語です。実際にあった歴史劇というよりも、神様が登場したりして半分神話になっているような大昔のお話ですよね。映画の『トロイ』もおもしろかったですけど。
さてこの『オレステイア』3部作でも、確かに夫(アガメムノン)を殺したい妻(クリュタイムネストラ)や、母(クリュタイムネストラ)を殺したい娘(エレクトラ)と息子(オレステス)といった家族の愛と憎しみの相克は描かれているのですが、よくよく読んでみると『熱帯樹』とはだいぶ違う印象を受けます。
思いついた点を挙げるだけでも、例えばクリュタイムネストラが夫のアガメムノンを殺したかったのは、本音はもしかしたらミケーネ王国の権力を愛人のアイギストスと共に手に入れたかったからなのかもしれませんが、いちおうはアガメムノンがトロイ戦争の戦勝祈願のために愛する長女イピゲネイア(エレクトラとオレステスの姉)をいけにえとして殺してしまったことへの復讐という同情的な理由がありますし、アガメムノンを直接殺したのも実の息子ではなくクリュタイムネストラの愛人アイギストスです。さらに、息子オレステスが実の母親であるクリュタイムネストラを殺したのも、まず最初にクリュタイムネストラがアガメムノンを殺したからなんだ、というかたき討ちの理屈があるので、きわめてまっとうなものになっているのです。つまりはオレステスに、シェイクスピアの『ハムレット』みたいに母親を殺さなければならない大義名分がはっきりしているんですね。いや、時代的には逆! オレステスがハムレットの大先輩なのか。「母殺し先輩」……ヤな先輩!
ところが、そんな『オレステイア』に対して『熱帯樹』は、妻が夫を殺したい理由には「娘を殺されたから」などという簡単明瞭な要因はなく、かといって財産目当てだけとも言えないような「束縛されたくないの♥」みたいなきわめて精神的な曖昧さがありますし、妻が夫を殺すために差し向けるのが実の息子という「息子=愛人」の恐るべきショートカットもあります。そして何よりも、「夫を殺したい妻」と同時発進で「母を殺したい兄妹」というベクトルが動いていて、さぁどっちが先に殺しちゃうかというデッドヒートを繰り広げる異常な疾走感があるわけなのです。なんか、全体的に時間進行が速くありませんか!? まぁ、一晩のあいだに起きた物語なのでそりゃそうなんですが。
しかし、『オレステイア』のような正統派時代劇に比べて『熱帯樹』がきわだって印象深いのは、結局、夫が死ぬわけでもなく母が死ぬわけでもなく、挙句の果てには家を去っていった兄妹さえもが、その生死をあいまいにしたまま終幕してしまうという「な、なんだったんだ……」感があるという部分なのではないのでしょうか。
物語の主軸にあるのは確かに「親殺し」とか「近親相姦」とかいう刺激的なテーマなのですが、まず物語の始まりからして、『オレステイア』や『ハムレット』のように具体的に誰かが死んだという発端はありません。父を母が殺そうとしているという疑惑を兄妹が持つ発端となった事件は語られるわけなのですが、それも母が弁解するように「たまたまよ!」で済ませられなくもない、気づかなければなんでもない一動作なのです。
この『熱帯樹』の特徴はなんといっても、その膨大なセリフの洪水というか、とにかく修飾に修飾を重ねて過剰に梱包された言葉の熾烈な銃撃戦という感のある登場人物同士のやり取りで、それが戦場とか街の大通りとかじゃなくて一軒の家の中でおっぱじまってしまうのですから、そりゃもう『サザエさん』のエンディング映像の最後に出てくるピクニックのロッジのように、上下左右にぶんがぶんがと鳴動してしまうような大戦争になるのは自明の理です。
『サザエさん』……そうなのです。この『熱帯樹』は、肉親を殺したいというほどの激しい憎しみが物語を構成する要素の半分になっているはずなのに、その「相手の長いセリフにさらに長いセリフで答える」という非日常的な言葉の激烈すぎるキャッチボールの応酬によって、観る者に「そんなにコミュニケーションが取れてるんだったら、もう仲いいんじゃない?」というほっこり感を生み出すものになってしまっているのでした! これはまさに、「毒蝮三太夫効果」とでも言うべき現象です! バアちゃんまだ生きてんのかこのくたばりぞこない♡
これはものすごいことです……憎しみをぶつけ、ぶつけられることは愛なのである!! 「愛」と「憎しみ」と言いつつも、結局すべては「愛」だったのだという、この多幸感に満ちた逆説。そりゃそうです、ほんとに嫌いな人なんて、もう顔を合わせたくも話したくもありませんよね。自分のことが嫌いで絶交した相手の口から嫌いな理由を直接聞いたことなんて、少なくとも私はほとんどありません。まず、「なんで俺のことが嫌いなんだ!」って聞ける勇気がないわけなんですけど、その勇気が振り絞れたら、それだけ相手のためにエネルギーが使えたってことなんだから、それはもうなにか別の段階に入っています。
この、「大嫌い、大嫌い、大嫌い……大好き!! あぁ~ん♪」(作・つんく♂)の心理の舞台化こそが、『熱帯樹』がそれ以前の古典的な家族の悲劇の物語の中から抽出して精錬したテーマなのではなかろうかと思えるのですが、さすがというかなんというか、今回の2015年における三条会版『熱帯樹』は、そこを最初から最後までしっかりと作品の中央に据えつけた筋金入りのブレのなさを示してくれました。
まず演じられる空間は、完全になんの舞台美術も施されていないような、普通の公演ではなかなか見られない板張りすっぴんのザ・スズナリが一望できる簡素さになっており、中央に1枚だけ、舞台を組む時の土台に使う一畳スペースの「平台(ひらだい)」が敷いてあり、そこには基本的に病床の娘・郁子(演・伊藤紫央里)が横たわっています。
そして舞台の客席から見て左側には、意味ありげな2脚の作業用キャタツが並び、そのひとつは鳥かごに模してあるのか、中には赤・黄・青・緑の極彩色の着ぐるみを着たインコ(演・大谷ひかる)がいて、時折「イラッシャイマセー」とさえずっています。
お話が進んでいくにつれて、この郁子はそうとうに裕福な家庭の令嬢で、舞台もその邸宅であることがわかってくるわけなのですが、そのへんの経済的背景や時代的背景(1960年)を、舞台美術はまったく語りません。それ自体は三条会の公演では平常通りのことなのですが、今回はさらに、郁子が冒頭で着ていたネグリジェを脱いで肌色の全身タイツ姿になることから始まり、その兄の勇(演・門田寛生)も、2人の母親である律子(演・立崎真紀子)も肌色の全身タイツを着て演技を進めていきます。全裸ではないわけですが、勝手に観る側がそう認識してしまう「お約束」の上ではみ~んなすっぱだか。持っているのは、感極まったときにのどを潤す水入りペットボトルだけ! 水がなくなったらそこらへんにポイと捨てます。
この状況から、なんだかものすごく開放的な雰囲気をよしとしてらっしゃるご家庭なのね……という気になってくるのですが、一家の長である父親の恵三郎(演・栗山辰徳)が、全身タイツな上に頭部もフルフェイスでタイツで覆った姿で現れた時点で、お客さんの疑問は氷解します。「あぁ、ご主人がそういうご趣味なんだな。」と。
ともかくこの状況からして、一家が非常に円満良好な関係にあることは間違いありません。親父の方針にここまで従順にしたがう家族なんて、ちょっと昨今ではなかなか見られない風景ですよね。
特に、律子の言うことを盲信する恵三郎と、律子の殺意を訴える勇との直接対決のシーンは、どこからどう見ても「ほほえましい」としか言い表しようのない、和気あいあいとしたミニゲームの様相を呈しているのです。どういうゲームかはいちいち言いませんが、ともかくあれだけ材料のない舞台で、よくもまぁあんな遊びを思いつくもんだなぁという感じで、それでいながらも、勇の若さに圧倒される恵三郎という構図を実にわかりやすく説明するものになっていたと感じ入りました。バカバカしいけど、なんて愛に満ち溢れた空間なのだ!
ところで、それゆえに際立ってくるのが、そんな一家団欒の空気に対して、明らかに距離感のある「ふつうの服装」をした、同居する親戚の信子(演・大倉マヤ)の存在です。あっおかしい、この人だけ普通だ!
この信子さんは恵三郎の従妹に当たる人物なのですが、夫と死別した後に恵三郎の家に同居するようになったという経緯があり、病床の郁子にかなり慕われているらしい描写があります。
しかし、この家庭にあって一人だけ服を着ているとは……明らかに、家長の恵三郎とは相容れない何かをいだきながら同居していることを雄弁に物語っていますね。しかもこの信子さんは常に赤い毛糸の玉を持ち歩いていて、ことあるごとに郁子に着せるための編み物にいそしんでいる! これは危機ですよ……全身タイツの家族に服だなんて! 恵三郎一家と信子さんとの決定的な溝を象徴している絶妙な演出ですね。と同時に、信子さんが家の中だけのルールにとらわれている4人を、どこかかなり離れた距離から冷静に眺めているらしい立ち位置も示していると思います。
だからこそ、恵三郎以外の面々が物語の進行につれてどこかで服を着はじめていくという流れは、ものすごく重要な「訣別の儀式」だったのでしょう。やっぱりみんな、服は着たかったんだね……律子さんの殺意に満ちた丁寧なひとり着付けはつやっぽかったやねぇ。殺しのドレスならぬ、「殺しの留袖」!!
でもこの、世間一般から見れば異常な格好に身を包み、異常なまでに膨大で華美なセリフをお互いにドバドバかけあっていく家族の団欒の模様は、信子さんからもお客さんからも、そしてハデな配色の着ぐるみのインコからも遠い場所にある、闇夜の一軒家にポツンと灯っている窓のあかりなのです。どこか他人が入ってはいけないようなへだたりもあり、どこかうらやましくもあり。でも、それが家族というものなんですよね。食べ物の調味料とか四季折々の節目の行事の過ごし方とか、ふとしたところで「えっ、そうなんだ!?」と驚いてしまう違いというか、家族と家族じゃない人との生活様式の隔絶は見えてきちゃうものなのです。
ちなみに、ギリシア悲劇の『オレステイア』で妻の愛人として夫を殺す人物アイギストスは夫の従弟という血筋の人物なのですが、性別こそ違え、同じように恵三郎の従妹という信子さんが、「郁子の考え方に大きな影響を与える」という遠回しな手法ながらも、アイギストスと同じように家族の形を確実に変容させる役割を担っているのは象徴的ですね。殺人ではなく、疑念という方法で父親の権威をおびやかす影のキーマン・信子!
愛する夫を失った世界を生き続けている信子が郁子に伝えるのは、「私たちが生きてても死んでても世界には何の影響もない」というカラッとした諦念なわけですが、それをそうと割り切れないのが若者の若者たるゆえんであって、郁子は「そんなのイヤ!」とばかりに、愛する兄と共に過激な生をまっとうする道へと歩みを進めていくのです。
そして、郁子と勇が母親・律子との対決に敗れて家を去っていった後、信子はいちはやく2人の旅立ちに気づき、「もう2人は帰ってきません! 何もかもが終わりました……私もこの家から出ていかせていただきます。」と言い放ち、夜明けを待たずに、さらには具体的な2人の生死も確かめずに物語の舞台からそそくさと去っていくのです。
これはつまり、本当に2人が海中に身を投じて心中したのかどうかという事実は信子にとってどうでもいいというか、むしろ、家に残った恵三郎の言うとおりに若気の至りだったために死ぬことができず、夜明け頃になってビショビショになった2人が「ただいま~……」なんて言いながらうつむき加減で帰ってこようものなら、それこそ信子の中のなにかが崩壊してしまうという恐怖があったからだったのではないのでしょうか。『熱帯樹』に登場する人物たちの中で最もロマンチストなのは、郁子でもなく勇でもなく明らかに信子なのでしょう。しかし、そのロマンに命を懸けるほど信子は若くはないし、愚かでもないのです。
余談ですが、現在、非常に残念なことに絶版になっているという新潮文庫版の『熱帯樹』を幸い私は持っていて、そこに同時収録されている『白蟻の巣』という戯曲(1955年初演)の結末の展開が、『熱帯樹』と好対照になっていて非常に興味深かったです。そこには「あぁ、信子さんはこれが怖かったのかもな。」という皮肉たっぷりのオチが用意されています。でも、人生なんてたいていはそんなもんよね。きれいに終わるほうが珍しいんでしょう。
そんな信子さんとはまた違う立場からこの激烈一家の傍観者となっているのが、セリフがひとつもないのにこの三条会版では女優さんがまるまる1人割り当てられているという大抜擢なインコちゃんであるわけですが、物語の主軸を担う面々を一歩離れた距離から見つめ、ひとりは時に明確に「かきまわす」意図をもって面々に波紋をもたらし(信子さん)、ひとりはまるで関係ないといった素振りで視界の端に彼らの騒動をとどめている(インコ)……この脇役タッグは明らかに、あの古典的を通り越してもはや神話的名作になりつつある高橋留美子のマンガ『うる星やつら』(1978~87年)における怪僧・錯乱坊(チェリー)と化け猫・コタツネコの組み合わせに近い、絶妙な「中心引き立たせ効果」を生んでいると見ました。
大倉マヤさんをつかまえて錯乱坊だなんて言いがかりもはなはだしいわけなんですが、物語の傍観者(コロス?)を信子さんだけにせずに、単なる小道具扱いにもなりかねなかったインコを加えたことに、私は三条会ならではの、ギリシア悲劇とるーみっくわーるどの、三島戯曲における劇的な融合を観た気がいたしました。いや、ただ単にとばっちりを食らって死んじゃうインコがかわいそうだったからってだけなのかも知れませんが。
そうか、勇は諸星あたるだから、あんなに無責任に2人の女性の間をふらふらしてたのか! ダーリン、今日という今日はもう許さないっちゃ!!
付け加えれば、この作品でインコを女優さんが演じたということによって、戯曲上のインコの死を得た後の女優さんが完全にフリーな状態に開放されて、着ぐるみという死体を脱いで舞台上をふらふらと浮遊し、結果として飼われていたインコよりも鳥っぽい鳥瞰の視点から物語のクライマックスを見届ける立ち位置につくという、お客さんそのものの存在になっていたことは非常に印象深かったです。そんな、演技から解き放たれて自由に動けるはずの彼女さえもいとも簡単に圧倒してしまう、セリフにがんじがらめになった登場人物たちの「もがきの美学」!! まさにこれは、自由が不自由になり、不自由から自由が生まれるという、現実の重力法則の全く通用しない「三島プラネット」の物語であることを証明しているわけです。『ゼロ・グラビティ』もビックリよ。
ところで、全体的にこの『熱帯樹』は、明確な事件がせいぜい親子ゲンカくらいにとどまるというミニマルな閉塞状況で、兄貴もどうにも頼りなく妹と母親の間をうろうろしている中、信子さんの言葉を頼りにした郁子だけが、ほぼ孤軍奮闘に近いかたちで妄想といえなくもない憎しみをもって両親に立ち向かうという対立構造になっています。それで家長の恵三郎もあんまりはっきりした主観を持たずに律子の言うことを信じきっているのですから、登場する男たちはとにかくフワフワしているだけで、これほどウーマンリブで男衆がパッとしない戯曲もなかなかないのではないのでしょうか。これが三島由紀夫の作であるということに少なからずびっくりしたお客さんもいたことでしょう。でも、『サド侯爵夫人』なんかもっと極端ですもんね。
そして、今回はド直球でベートーヴェンの交響曲第9番『歓喜』がノーカットで流れ、その第4楽章『歓喜の歌』がガンガン流れる中でこの物語を締めくくったのは、死のうとしている兄妹ではなく、生に飽きていながらも死ぬこともできない信子さんなのでもなく、鈍感なふりをしてのうのうと生き残っている両親夫婦の堂々たる「熱帯樹」ポーズなのでした。
つまり、この作品は憎しみも死へのあこがれも、語ってはいながらもまるで主軸には置いておらず、ただひたすらに愛と生のたくましさを謳うものなのです。現に、律子は子供たちを失いながらも、2人の「熱帯樹」の幻想をちゃっかりいただいたことによって新生したと、そうとも解釈できるエンディングの威容だったのではないのでしょうか。
クライマックスの盛り上がりの中で、そんな両親の背後でいかにもな「天使の羽」を付けた兄妹がにこやかに飛びまわるという演出もありましたが、それもまた、死んだから楽になったという安直なものなのではなく、それこそ大地に根ざす「熱帯樹」の幻想から解き放たれたからこそ、翼を手に入れてあのインコと同じ鳥瞰の視点を持ったのだという、両親とはまた別の新生を象徴するものだったのでしょう。雲に~なる、雪にな~る~♪
直球、直球、ド直球! この『熱帯樹』が、これほどまでに小細工のない人間賛歌であったとは……それを非常に明確に、ストレートに観る側に示してくれた今回の演出は、まさしく三条会のお芝居としても変化球いっさいなしの堂々たる「正調公演」だったと感じました。これがザ・スズナリで観られたということは、いちファンとしてとってもうれしい。
確か、三条会がそれ以前に三島由紀夫の戯曲を上演したのは、2011年12月の当時千葉市にあった劇団アトリエにおける『十日の菊』のリーディング公演が最後だったと思います(演出の関美能留さんが三条会以外の場で三島戯曲を演出した公演はその後もありましたが)。それから約4年の時を経て正式公演として三島戯曲が選ばれたのは、まぁ三島由紀夫の戯曲とそれ以外の劇作家の作品とをことさらに区別するつもりはありませんが、それでもなんだか非常にうれしい。
ちくま文庫で最近ミョ~に話題になっている三島由紀夫の小説『命売ります』じゃありませんが、三条会というものすんごい濾過システムを通って21世紀に燦然と新生するべき三島戯曲は、まだまだいっぱいあるのではないのでしょうか。
前回公演が2014年の6月でしたから、年に1回というのはなんともファンにはつらいペースなのですが、それでも首を長~くして待っております、次回公演!!
そしていつかは、公演を観終えた直後の興奮をいったんホテルとかで落ち着けて、翌日にゆったりと東京見物でもして帰るような旅程を組みたいもんですねェ~。風情もへったくれもないトンボ返りプラン、もういや~ん!! と言いつつも、まだしばらくはやるだろうけど。
昨日土曜日に、久しぶりに東京に行ってまいりました。
前回に東京に行ったのが、6月に演劇鑑賞のためだったので3ヶ月ぶりの上京になるのですが、例によって判を押したかの如く、今回も演劇鑑賞が目的でございました。ほんと、いざ出かけてみれば東京なんてあっという間に行けるわけなんですが、とにかく丸1日かけて休める余裕がなかなか作れないわ、準備するのが億劫やらで……トータルで考えれば、やっぱり遠いやねぇ。近所の温泉通いだってままならない状況なんですから、新幹線を使う遠出なんて何をかいわんやですよ!
山形に居を移してから今まで数回の東京行きをやってきたわけなんですが、これまでは観るお芝居やその他の用事がお昼であることばかりだったので、行く日の前日の深夜に高速バスに乗って翌早朝に東京に着いて、用事を済ませた夕方の新幹線に乗って山形に帰る、という方法をとってきていました。まぁ、そりゃ体力的な辛さや東京に着いた朝方の徹底的なヒマさを考えれば、もっとスマートに行きも新幹線にしたほうが断然いいわけなのですが、そこはそれ、高速バスは交通費が新幹線の半額以下なんでありまして……もうちょっと、お世話になるかな!?
ただし、今回は観るお芝居が下北沢で夜7時の開演というスケジュールになっていたため、夜9時前に山形行きの最終便が出てしまう新幹線で帰ることはちょっとできないということで、これまでとは逆に行きを新幹線にして帰りを夜11時すぎ発の高速バスにするという交通手段になりました。というわけで今度も高速バスのご厄介になったわけなんですが……まぁ、いつかは東京で1泊するとかして、ゆったり往復新幹線の旅にしたいもんですわな! 本日である翌日曜日は日曜日で、予定があったのよねぇ~。丸一日なんにもなくて仕事のことを考える必要もない休日なんて、そんなもんあったかしら!? いや、けっこう最近のシルバーウィークの前半はそうだったんですけれどもね。貴重なあのひとときよ、カムバ~ック!!
そんでま、昨日は早朝6時30分発の新幹線に乗って東京に行くつもりだったのですが、週末の疲れやら東京の天気が悪そうだという予報やら、今までよりは格段に遅くなったとはいえ、9時半に東京に着いて夜までいったい何をするんだという疑問やらで、結局さらにもうちょっと遅めの新幹線に乗って行くこととなりました。もう、どうせ気ままな休日の一人旅なんだから、ギリギリまで出発おくらせちゃおう! そこらへんの発想は千葉の一人暮らし時代からさっぱり変わっておりません。
そんなこんなで昼前に東京に着いたわたくしは、千葉の津田沼まで行って個人的な用事を一瞬で済ませて、そこからここ数年間ほんとにお世話になっていた新京成線に乗って、これまたまことにお世話になった鎌ヶ谷の地をぶらぶら散歩して、そこから渋谷に向かってから、あえて京王井の頭線を使わずに徒歩で下北沢を目指すという行程をとりました。
この、渋谷から下北沢まで歩くという約45分くらいかかる地味にしんどい選択は、私がかつて劇団員だった頃に、下北沢で芝居の本番があったときに交通費を浮かすためによくやっていたもので、それだって往復で300円も節約できないせせっこましいものだったのですが、いろいろ緊張する気持ちを落ち着けながら劇場に向かい、いろいろとっちらかった真空管ブレインを整理しながら家に帰るのに、この約45分間の散歩というものは非常にありがたいものだったのでした。電車に乗って座っちゃうとすぐ寝てましたからね。リンゴかじりながら駒場とか通り過ぎていたわけです。駒場のアゴラ劇場にも大変お世話になったねぇ。
渋谷の谷から坂をのぼって上がり、ゆるやかに降りて下北沢に向かうという道を再びたどって訪れた劇場は、劇団員としても客としても何回来たのかよくおぼえていないザ・スズナリ。そして今回観るのが私が劇団員として所属していた劇団の最新公演だっていうんですから、もうなにがなにやら……
完全にひとりの客としての来訪なのでいまさら感慨深いもなにもないんですが、まぁ、夕べは劇団員として本番当日を迎えるという設定の夢、見たよね~!! 久しぶりだったなぁ。
「セリフをまったく思い出せない芝居の開演5分前に、衣装に着替えていない自分に気づく」という、ぶっちゃけありえな~い設定の定番の悪夢だったわけなのですが、必死にワイシャツに袖を通してズボンのベルトをカチャカチャやっている最中に突然、「あ、おれ、もう芝居やってなかったんだっけ……」という宇宙の真理に到達してしまい、「起きよ。」と夢を強制終了させて目覚めた自分自身に、私もずいぶんとつまんない大人になったもんだなぁ、とため息をついてしまいました。でも何回見てもヤな夢!!
ところで、実は渋谷に着いてから夕方までの時間つぶしとして、TOHOシネマズに行って映画の『進撃の巨人 エンドオブザワールド』を観て「しまい」ました。
私自身は原作マンガは3巻ぐらいまでをラーメン屋で注文を待つあいだにささっと読んだだけだし、アニメ版も実写映画版の前編もまるで観ていないというていたらくだったのですが、実写版前編のあまりの評判の悪さにむしろ興味がわいてしまい、監督の方に間接的にでもお金をあげるのは非常に癪だったのですが、まぁ来年は『ゴジラ』もあることだし……ということで、免疫を作るために後編だけ観た次第です。
まぁ、今回の話題はお芝居のほうですし、それとこの映画を比較するつもりも毛頭ないのでこっちの感想はうだうだ言いませんが、國村隼さんのバカバカしい演技しか印象に残らなかったです。お話は冒頭にご丁寧な「前編のあらすじ」があったので難なく呑み込めたのですが……なんか、連載中の原作マンガとはまったく違うという「衝撃の結末」は、「町山智浩さんが書きそうなオチを考えてみよう」ってお題で中学生が作ったのかってくらいにうすっぺら~く町山さんっぽいものだと感じました。あっそれ、私が大学生ぐらい(15年前)のときになんかで見たな、みたいな。TOHOシネマズの売店のチリドッグはおいしかったですね。
さぁさぁ、そんな個人的なあれこれはうっちゃっときまして、今回拝見したお芝居は、こちら!
三条会公演 『熱帯樹』(作・三島由紀夫、演出・関美能留 2015年9月24~27日 東京・下北沢ザ・スズナリ)
作品について
『熱帯樹』(1960年1月初演)は、裕福な資産家である夫(恵三郎)の莫大な財産を狙って息子(勇)に夫を殺させようとする妻(律子)の企みを知った娘(郁子)が、愛する兄に母を殺させようとする家族の悲劇の物語である。愛と憎しみが錯綜する男女関係を描いたギリシア悲劇的な人間関係の中に、父性愛や母性愛の不在から惹き起される家族関係の崩壊が描かれている。登場人物のひとりである郁子には、三島の亡妹・美津子(17歳で逝去)のイメージが投影されているとされている。
新潮文庫から戯曲集『熱帯樹』が刊行されていたが、現在は絶版となっている。
三島由紀夫はこの作品の後書きにおいて、当時フランスの地方で実際に起きた事件の話をフランス文学者の朝吹登水子から聞き、そこからヒントを得て執筆したと語っている。その事件は、裕福な貴族と結婚した女が、およそ20年間ひたすら夫の財産を狙い、成長した息子に実の父親である夫を殺させ、莫大な財産を手に入れていたというものだった。貴族夫婦の間には息子の他に娘(息子の妹)もいたが、年頃になった息子を意のままに操るために夫人は息子と肉体関係を持ち、それに絶望した息子は妹とも関係を持ったという。
……とまぁですね、ものすごいお話なのであります。夫を殺したい妻、母を殺したい娘、兄を虜にする妹、息子を虜にする母!
上演する三条会にとって『熱帯樹』は、1997年10月に千葉市で上演された劇団立ち上げ公演の演目だったということで、三条会が上演することの多かった三島由紀夫の諸作品の中でも、特別に縁の深い戯曲なのだそうです。
「『なのだそうです。』って、おまえ昔所属してたんだろ!」と言われそうなのですが、実は私は2001年から三条会に入ったものですので、まず立ち上げメンバーではありませんし、そもそも私が千葉市に来たのが翌1998年の春でしたので、公演そのものも観ていないので、なんとも言えないのよねぇ。でも、今回の2015年版とはまるで別物の作品だったのでしょうね。なんてったって18年のへだたりがあるんですから!
1997年の秋といえば、私は……山形で受験勉強……のフリして深夜ラジオを聴きながら『ベルサイユのばら』のハプスブルク帝国版の台本を書いてました。バカなのね~、バカなのよ~。
この物語の具体的な事件に関わってくるのは、妹・兄・母・父のたった4人ということで、人物相関図でいえばきわめてシンプルな四角形でしかないわけですが、その四角形の中を「殺したい」と「愛したい」の矢印がまぁ~ビュンビュン交差する交差する。
ただし、人間関係でいうところのよく言う「ドロドロ」の最少人数は「三角関係」の3人かと思われるのですが、この『熱帯樹』でも、物語の核心で壮絶なバトルを繰り広げるのは「妹・兄・母」の3人であり、もうひとりに当たる「父」は、どことなく一歩引いた位置にいます。この、口ではああだこうだ言いながらもいまいち家族をまとめ上げることに本腰を入れようとしない家長の存在感の薄さが、なおさら他の3人の暴走をヒートアップさせているという絶妙な動力源にもなっているわけです。
確かに、『ちびまるこちゃん』然り『クレヨンしんちゃん』然り『ドラえもん』然り、家族ドラマのおもしろさの秘訣は「親父が前に出すぎないこと」にあるような気がします。キャラクターはしっかりしていても、あくまで巻き起こる事件のツッコミ役に徹するわけですね。まぁたまにはロボットになったりもしますけど。
ところで、この『熱帯樹』のモデルとなったのは、フランスであった実際の事件だと三島由紀夫は語っているわけですが、と同時にギリシア悲劇の『オレステイア』3部作(『アガメムノン』『コエロポイ』『エウメニデス』)の物語も強く意識していることを後書きの中で示唆しています。
『オレステイア』3部作は古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロス(紀元前525~紀元前456年)の代表的戯曲(紀元前458年に初演)で、アイスキュロスの活躍した時代よりもさらに古代の紀元前1200年代にあったという「トロイ戦争」に勝利した、ギリシアの諸王国連合の総帥アガメムノン(ミケーネ国王)の家族の崩壊を描いた物語です。実際にあった歴史劇というよりも、神様が登場したりして半分神話になっているような大昔のお話ですよね。映画の『トロイ』もおもしろかったですけど。
さてこの『オレステイア』3部作でも、確かに夫(アガメムノン)を殺したい妻(クリュタイムネストラ)や、母(クリュタイムネストラ)を殺したい娘(エレクトラ)と息子(オレステス)といった家族の愛と憎しみの相克は描かれているのですが、よくよく読んでみると『熱帯樹』とはだいぶ違う印象を受けます。
思いついた点を挙げるだけでも、例えばクリュタイムネストラが夫のアガメムノンを殺したかったのは、本音はもしかしたらミケーネ王国の権力を愛人のアイギストスと共に手に入れたかったからなのかもしれませんが、いちおうはアガメムノンがトロイ戦争の戦勝祈願のために愛する長女イピゲネイア(エレクトラとオレステスの姉)をいけにえとして殺してしまったことへの復讐という同情的な理由がありますし、アガメムノンを直接殺したのも実の息子ではなくクリュタイムネストラの愛人アイギストスです。さらに、息子オレステスが実の母親であるクリュタイムネストラを殺したのも、まず最初にクリュタイムネストラがアガメムノンを殺したからなんだ、というかたき討ちの理屈があるので、きわめてまっとうなものになっているのです。つまりはオレステスに、シェイクスピアの『ハムレット』みたいに母親を殺さなければならない大義名分がはっきりしているんですね。いや、時代的には逆! オレステスがハムレットの大先輩なのか。「母殺し先輩」……ヤな先輩!
ところが、そんな『オレステイア』に対して『熱帯樹』は、妻が夫を殺したい理由には「娘を殺されたから」などという簡単明瞭な要因はなく、かといって財産目当てだけとも言えないような「束縛されたくないの♥」みたいなきわめて精神的な曖昧さがありますし、妻が夫を殺すために差し向けるのが実の息子という「息子=愛人」の恐るべきショートカットもあります。そして何よりも、「夫を殺したい妻」と同時発進で「母を殺したい兄妹」というベクトルが動いていて、さぁどっちが先に殺しちゃうかというデッドヒートを繰り広げる異常な疾走感があるわけなのです。なんか、全体的に時間進行が速くありませんか!? まぁ、一晩のあいだに起きた物語なのでそりゃそうなんですが。
しかし、『オレステイア』のような正統派時代劇に比べて『熱帯樹』がきわだって印象深いのは、結局、夫が死ぬわけでもなく母が死ぬわけでもなく、挙句の果てには家を去っていった兄妹さえもが、その生死をあいまいにしたまま終幕してしまうという「な、なんだったんだ……」感があるという部分なのではないのでしょうか。
物語の主軸にあるのは確かに「親殺し」とか「近親相姦」とかいう刺激的なテーマなのですが、まず物語の始まりからして、『オレステイア』や『ハムレット』のように具体的に誰かが死んだという発端はありません。父を母が殺そうとしているという疑惑を兄妹が持つ発端となった事件は語られるわけなのですが、それも母が弁解するように「たまたまよ!」で済ませられなくもない、気づかなければなんでもない一動作なのです。
この『熱帯樹』の特徴はなんといっても、その膨大なセリフの洪水というか、とにかく修飾に修飾を重ねて過剰に梱包された言葉の熾烈な銃撃戦という感のある登場人物同士のやり取りで、それが戦場とか街の大通りとかじゃなくて一軒の家の中でおっぱじまってしまうのですから、そりゃもう『サザエさん』のエンディング映像の最後に出てくるピクニックのロッジのように、上下左右にぶんがぶんがと鳴動してしまうような大戦争になるのは自明の理です。
『サザエさん』……そうなのです。この『熱帯樹』は、肉親を殺したいというほどの激しい憎しみが物語を構成する要素の半分になっているはずなのに、その「相手の長いセリフにさらに長いセリフで答える」という非日常的な言葉の激烈すぎるキャッチボールの応酬によって、観る者に「そんなにコミュニケーションが取れてるんだったら、もう仲いいんじゃない?」というほっこり感を生み出すものになってしまっているのでした! これはまさに、「毒蝮三太夫効果」とでも言うべき現象です! バアちゃんまだ生きてんのかこのくたばりぞこない♡
これはものすごいことです……憎しみをぶつけ、ぶつけられることは愛なのである!! 「愛」と「憎しみ」と言いつつも、結局すべては「愛」だったのだという、この多幸感に満ちた逆説。そりゃそうです、ほんとに嫌いな人なんて、もう顔を合わせたくも話したくもありませんよね。自分のことが嫌いで絶交した相手の口から嫌いな理由を直接聞いたことなんて、少なくとも私はほとんどありません。まず、「なんで俺のことが嫌いなんだ!」って聞ける勇気がないわけなんですけど、その勇気が振り絞れたら、それだけ相手のためにエネルギーが使えたってことなんだから、それはもうなにか別の段階に入っています。
この、「大嫌い、大嫌い、大嫌い……大好き!! あぁ~ん♪」(作・つんく♂)の心理の舞台化こそが、『熱帯樹』がそれ以前の古典的な家族の悲劇の物語の中から抽出して精錬したテーマなのではなかろうかと思えるのですが、さすがというかなんというか、今回の2015年における三条会版『熱帯樹』は、そこを最初から最後までしっかりと作品の中央に据えつけた筋金入りのブレのなさを示してくれました。
まず演じられる空間は、完全になんの舞台美術も施されていないような、普通の公演ではなかなか見られない板張りすっぴんのザ・スズナリが一望できる簡素さになっており、中央に1枚だけ、舞台を組む時の土台に使う一畳スペースの「平台(ひらだい)」が敷いてあり、そこには基本的に病床の娘・郁子(演・伊藤紫央里)が横たわっています。
そして舞台の客席から見て左側には、意味ありげな2脚の作業用キャタツが並び、そのひとつは鳥かごに模してあるのか、中には赤・黄・青・緑の極彩色の着ぐるみを着たインコ(演・大谷ひかる)がいて、時折「イラッシャイマセー」とさえずっています。
お話が進んでいくにつれて、この郁子はそうとうに裕福な家庭の令嬢で、舞台もその邸宅であることがわかってくるわけなのですが、そのへんの経済的背景や時代的背景(1960年)を、舞台美術はまったく語りません。それ自体は三条会の公演では平常通りのことなのですが、今回はさらに、郁子が冒頭で着ていたネグリジェを脱いで肌色の全身タイツ姿になることから始まり、その兄の勇(演・門田寛生)も、2人の母親である律子(演・立崎真紀子)も肌色の全身タイツを着て演技を進めていきます。全裸ではないわけですが、勝手に観る側がそう認識してしまう「お約束」の上ではみ~んなすっぱだか。持っているのは、感極まったときにのどを潤す水入りペットボトルだけ! 水がなくなったらそこらへんにポイと捨てます。
この状況から、なんだかものすごく開放的な雰囲気をよしとしてらっしゃるご家庭なのね……という気になってくるのですが、一家の長である父親の恵三郎(演・栗山辰徳)が、全身タイツな上に頭部もフルフェイスでタイツで覆った姿で現れた時点で、お客さんの疑問は氷解します。「あぁ、ご主人がそういうご趣味なんだな。」と。
ともかくこの状況からして、一家が非常に円満良好な関係にあることは間違いありません。親父の方針にここまで従順にしたがう家族なんて、ちょっと昨今ではなかなか見られない風景ですよね。
特に、律子の言うことを盲信する恵三郎と、律子の殺意を訴える勇との直接対決のシーンは、どこからどう見ても「ほほえましい」としか言い表しようのない、和気あいあいとしたミニゲームの様相を呈しているのです。どういうゲームかはいちいち言いませんが、ともかくあれだけ材料のない舞台で、よくもまぁあんな遊びを思いつくもんだなぁという感じで、それでいながらも、勇の若さに圧倒される恵三郎という構図を実にわかりやすく説明するものになっていたと感じ入りました。バカバカしいけど、なんて愛に満ち溢れた空間なのだ!
ところで、それゆえに際立ってくるのが、そんな一家団欒の空気に対して、明らかに距離感のある「ふつうの服装」をした、同居する親戚の信子(演・大倉マヤ)の存在です。あっおかしい、この人だけ普通だ!
この信子さんは恵三郎の従妹に当たる人物なのですが、夫と死別した後に恵三郎の家に同居するようになったという経緯があり、病床の郁子にかなり慕われているらしい描写があります。
しかし、この家庭にあって一人だけ服を着ているとは……明らかに、家長の恵三郎とは相容れない何かをいだきながら同居していることを雄弁に物語っていますね。しかもこの信子さんは常に赤い毛糸の玉を持ち歩いていて、ことあるごとに郁子に着せるための編み物にいそしんでいる! これは危機ですよ……全身タイツの家族に服だなんて! 恵三郎一家と信子さんとの決定的な溝を象徴している絶妙な演出ですね。と同時に、信子さんが家の中だけのルールにとらわれている4人を、どこかかなり離れた距離から冷静に眺めているらしい立ち位置も示していると思います。
だからこそ、恵三郎以外の面々が物語の進行につれてどこかで服を着はじめていくという流れは、ものすごく重要な「訣別の儀式」だったのでしょう。やっぱりみんな、服は着たかったんだね……律子さんの殺意に満ちた丁寧なひとり着付けはつやっぽかったやねぇ。殺しのドレスならぬ、「殺しの留袖」!!
でもこの、世間一般から見れば異常な格好に身を包み、異常なまでに膨大で華美なセリフをお互いにドバドバかけあっていく家族の団欒の模様は、信子さんからもお客さんからも、そしてハデな配色の着ぐるみのインコからも遠い場所にある、闇夜の一軒家にポツンと灯っている窓のあかりなのです。どこか他人が入ってはいけないようなへだたりもあり、どこかうらやましくもあり。でも、それが家族というものなんですよね。食べ物の調味料とか四季折々の節目の行事の過ごし方とか、ふとしたところで「えっ、そうなんだ!?」と驚いてしまう違いというか、家族と家族じゃない人との生活様式の隔絶は見えてきちゃうものなのです。
ちなみに、ギリシア悲劇の『オレステイア』で妻の愛人として夫を殺す人物アイギストスは夫の従弟という血筋の人物なのですが、性別こそ違え、同じように恵三郎の従妹という信子さんが、「郁子の考え方に大きな影響を与える」という遠回しな手法ながらも、アイギストスと同じように家族の形を確実に変容させる役割を担っているのは象徴的ですね。殺人ではなく、疑念という方法で父親の権威をおびやかす影のキーマン・信子!
愛する夫を失った世界を生き続けている信子が郁子に伝えるのは、「私たちが生きてても死んでても世界には何の影響もない」というカラッとした諦念なわけですが、それをそうと割り切れないのが若者の若者たるゆえんであって、郁子は「そんなのイヤ!」とばかりに、愛する兄と共に過激な生をまっとうする道へと歩みを進めていくのです。
そして、郁子と勇が母親・律子との対決に敗れて家を去っていった後、信子はいちはやく2人の旅立ちに気づき、「もう2人は帰ってきません! 何もかもが終わりました……私もこの家から出ていかせていただきます。」と言い放ち、夜明けを待たずに、さらには具体的な2人の生死も確かめずに物語の舞台からそそくさと去っていくのです。
これはつまり、本当に2人が海中に身を投じて心中したのかどうかという事実は信子にとってどうでもいいというか、むしろ、家に残った恵三郎の言うとおりに若気の至りだったために死ぬことができず、夜明け頃になってビショビショになった2人が「ただいま~……」なんて言いながらうつむき加減で帰ってこようものなら、それこそ信子の中のなにかが崩壊してしまうという恐怖があったからだったのではないのでしょうか。『熱帯樹』に登場する人物たちの中で最もロマンチストなのは、郁子でもなく勇でもなく明らかに信子なのでしょう。しかし、そのロマンに命を懸けるほど信子は若くはないし、愚かでもないのです。
余談ですが、現在、非常に残念なことに絶版になっているという新潮文庫版の『熱帯樹』を幸い私は持っていて、そこに同時収録されている『白蟻の巣』という戯曲(1955年初演)の結末の展開が、『熱帯樹』と好対照になっていて非常に興味深かったです。そこには「あぁ、信子さんはこれが怖かったのかもな。」という皮肉たっぷりのオチが用意されています。でも、人生なんてたいていはそんなもんよね。きれいに終わるほうが珍しいんでしょう。
そんな信子さんとはまた違う立場からこの激烈一家の傍観者となっているのが、セリフがひとつもないのにこの三条会版では女優さんがまるまる1人割り当てられているという大抜擢なインコちゃんであるわけですが、物語の主軸を担う面々を一歩離れた距離から見つめ、ひとりは時に明確に「かきまわす」意図をもって面々に波紋をもたらし(信子さん)、ひとりはまるで関係ないといった素振りで視界の端に彼らの騒動をとどめている(インコ)……この脇役タッグは明らかに、あの古典的を通り越してもはや神話的名作になりつつある高橋留美子のマンガ『うる星やつら』(1978~87年)における怪僧・錯乱坊(チェリー)と化け猫・コタツネコの組み合わせに近い、絶妙な「中心引き立たせ効果」を生んでいると見ました。
大倉マヤさんをつかまえて錯乱坊だなんて言いがかりもはなはだしいわけなんですが、物語の傍観者(コロス?)を信子さんだけにせずに、単なる小道具扱いにもなりかねなかったインコを加えたことに、私は三条会ならではの、ギリシア悲劇とるーみっくわーるどの、三島戯曲における劇的な融合を観た気がいたしました。いや、ただ単にとばっちりを食らって死んじゃうインコがかわいそうだったからってだけなのかも知れませんが。
そうか、勇は諸星あたるだから、あんなに無責任に2人の女性の間をふらふらしてたのか! ダーリン、今日という今日はもう許さないっちゃ!!
付け加えれば、この作品でインコを女優さんが演じたということによって、戯曲上のインコの死を得た後の女優さんが完全にフリーな状態に開放されて、着ぐるみという死体を脱いで舞台上をふらふらと浮遊し、結果として飼われていたインコよりも鳥っぽい鳥瞰の視点から物語のクライマックスを見届ける立ち位置につくという、お客さんそのものの存在になっていたことは非常に印象深かったです。そんな、演技から解き放たれて自由に動けるはずの彼女さえもいとも簡単に圧倒してしまう、セリフにがんじがらめになった登場人物たちの「もがきの美学」!! まさにこれは、自由が不自由になり、不自由から自由が生まれるという、現実の重力法則の全く通用しない「三島プラネット」の物語であることを証明しているわけです。『ゼロ・グラビティ』もビックリよ。
ところで、全体的にこの『熱帯樹』は、明確な事件がせいぜい親子ゲンカくらいにとどまるというミニマルな閉塞状況で、兄貴もどうにも頼りなく妹と母親の間をうろうろしている中、信子さんの言葉を頼りにした郁子だけが、ほぼ孤軍奮闘に近いかたちで妄想といえなくもない憎しみをもって両親に立ち向かうという対立構造になっています。それで家長の恵三郎もあんまりはっきりした主観を持たずに律子の言うことを信じきっているのですから、登場する男たちはとにかくフワフワしているだけで、これほどウーマンリブで男衆がパッとしない戯曲もなかなかないのではないのでしょうか。これが三島由紀夫の作であるということに少なからずびっくりしたお客さんもいたことでしょう。でも、『サド侯爵夫人』なんかもっと極端ですもんね。
そして、今回はド直球でベートーヴェンの交響曲第9番『歓喜』がノーカットで流れ、その第4楽章『歓喜の歌』がガンガン流れる中でこの物語を締めくくったのは、死のうとしている兄妹ではなく、生に飽きていながらも死ぬこともできない信子さんなのでもなく、鈍感なふりをしてのうのうと生き残っている両親夫婦の堂々たる「熱帯樹」ポーズなのでした。
つまり、この作品は憎しみも死へのあこがれも、語ってはいながらもまるで主軸には置いておらず、ただひたすらに愛と生のたくましさを謳うものなのです。現に、律子は子供たちを失いながらも、2人の「熱帯樹」の幻想をちゃっかりいただいたことによって新生したと、そうとも解釈できるエンディングの威容だったのではないのでしょうか。
クライマックスの盛り上がりの中で、そんな両親の背後でいかにもな「天使の羽」を付けた兄妹がにこやかに飛びまわるという演出もありましたが、それもまた、死んだから楽になったという安直なものなのではなく、それこそ大地に根ざす「熱帯樹」の幻想から解き放たれたからこそ、翼を手に入れてあのインコと同じ鳥瞰の視点を持ったのだという、両親とはまた別の新生を象徴するものだったのでしょう。雲に~なる、雪にな~る~♪
直球、直球、ド直球! この『熱帯樹』が、これほどまでに小細工のない人間賛歌であったとは……それを非常に明確に、ストレートに観る側に示してくれた今回の演出は、まさしく三条会のお芝居としても変化球いっさいなしの堂々たる「正調公演」だったと感じました。これがザ・スズナリで観られたということは、いちファンとしてとってもうれしい。
確か、三条会がそれ以前に三島由紀夫の戯曲を上演したのは、2011年12月の当時千葉市にあった劇団アトリエにおける『十日の菊』のリーディング公演が最後だったと思います(演出の関美能留さんが三条会以外の場で三島戯曲を演出した公演はその後もありましたが)。それから約4年の時を経て正式公演として三島戯曲が選ばれたのは、まぁ三島由紀夫の戯曲とそれ以外の劇作家の作品とをことさらに区別するつもりはありませんが、それでもなんだか非常にうれしい。
ちくま文庫で最近ミョ~に話題になっている三島由紀夫の小説『命売ります』じゃありませんが、三条会というものすんごい濾過システムを通って21世紀に燦然と新生するべき三島戯曲は、まだまだいっぱいあるのではないのでしょうか。
前回公演が2014年の6月でしたから、年に1回というのはなんともファンにはつらいペースなのですが、それでも首を長~くして待っております、次回公演!!
そしていつかは、公演を観終えた直後の興奮をいったんホテルとかで落ち着けて、翌日にゆったりと東京見物でもして帰るような旅程を組みたいもんですねェ~。風情もへったくれもないトンボ返りプラン、もういや~ん!! と言いつつも、まだしばらくはやるだろうけど。