長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

愛に満ちあふるる家族団欒のもようを、鳥瞰でお伝えいたします!!  ~三条会公演『熱帯樹』~

2015年09月27日 23時17分30秒 | 日記
 ハイど~もこんばんは! そうだいでございます。みなさま、日曜日の今日もいろいろとお疲れさまでございました! 明日からまた月曜日が始まり、火曜日に続き……えぇい、がんばるぞ~いっと!!

 昨日土曜日に、久しぶりに東京に行ってまいりました。
 前回に東京に行ったのが、6月に演劇鑑賞のためだったので3ヶ月ぶりの上京になるのですが、例によって判を押したかの如く、今回も演劇鑑賞が目的でございました。ほんと、いざ出かけてみれば東京なんてあっという間に行けるわけなんですが、とにかく丸1日かけて休める余裕がなかなか作れないわ、準備するのが億劫やらで……トータルで考えれば、やっぱり遠いやねぇ。近所の温泉通いだってままならない状況なんですから、新幹線を使う遠出なんて何をかいわんやですよ!

 山形に居を移してから今まで数回の東京行きをやってきたわけなんですが、これまでは観るお芝居やその他の用事がお昼であることばかりだったので、行く日の前日の深夜に高速バスに乗って翌早朝に東京に着いて、用事を済ませた夕方の新幹線に乗って山形に帰る、という方法をとってきていました。まぁ、そりゃ体力的な辛さや東京に着いた朝方の徹底的なヒマさを考えれば、もっとスマートに行きも新幹線にしたほうが断然いいわけなのですが、そこはそれ、高速バスは交通費が新幹線の半額以下なんでありまして……もうちょっと、お世話になるかな!?

 ただし、今回は観るお芝居が下北沢で夜7時の開演というスケジュールになっていたため、夜9時前に山形行きの最終便が出てしまう新幹線で帰ることはちょっとできないということで、これまでとは逆に行きを新幹線にして帰りを夜11時すぎ発の高速バスにするという交通手段になりました。というわけで今度も高速バスのご厄介になったわけなんですが……まぁ、いつかは東京で1泊するとかして、ゆったり往復新幹線の旅にしたいもんですわな! 本日である翌日曜日は日曜日で、予定があったのよねぇ~。丸一日なんにもなくて仕事のことを考える必要もない休日なんて、そんなもんあったかしら!? いや、けっこう最近のシルバーウィークの前半はそうだったんですけれどもね。貴重なあのひとときよ、カムバ~ック!!

 そんでま、昨日は早朝6時30分発の新幹線に乗って東京に行くつもりだったのですが、週末の疲れやら東京の天気が悪そうだという予報やら、今までよりは格段に遅くなったとはいえ、9時半に東京に着いて夜までいったい何をするんだという疑問やらで、結局さらにもうちょっと遅めの新幹線に乗って行くこととなりました。もう、どうせ気ままな休日の一人旅なんだから、ギリギリまで出発おくらせちゃおう! そこらへんの発想は千葉の一人暮らし時代からさっぱり変わっておりません。

 そんなこんなで昼前に東京に着いたわたくしは、千葉の津田沼まで行って個人的な用事を一瞬で済ませて、そこからここ数年間ほんとにお世話になっていた新京成線に乗って、これまたまことにお世話になった鎌ヶ谷の地をぶらぶら散歩して、そこから渋谷に向かってから、あえて京王井の頭線を使わずに徒歩で下北沢を目指すという行程をとりました。
 この、渋谷から下北沢まで歩くという約45分くらいかかる地味にしんどい選択は、私がかつて劇団員だった頃に、下北沢で芝居の本番があったときに交通費を浮かすためによくやっていたもので、それだって往復で300円も節約できないせせっこましいものだったのですが、いろいろ緊張する気持ちを落ち着けながら劇場に向かい、いろいろとっちらかった真空管ブレインを整理しながら家に帰るのに、この約45分間の散歩というものは非常にありがたいものだったのでした。電車に乗って座っちゃうとすぐ寝てましたからね。リンゴかじりながら駒場とか通り過ぎていたわけです。駒場のアゴラ劇場にも大変お世話になったねぇ。

 渋谷の谷から坂をのぼって上がり、ゆるやかに降りて下北沢に向かうという道を再びたどって訪れた劇場は、劇団員としても客としても何回来たのかよくおぼえていないザ・スズナリ。そして今回観るのが私が劇団員として所属していた劇団の最新公演だっていうんですから、もうなにがなにやら……

 完全にひとりの客としての来訪なのでいまさら感慨深いもなにもないんですが、まぁ、夕べは劇団員として本番当日を迎えるという設定の夢、見たよね~!! 久しぶりだったなぁ。
 「セリフをまったく思い出せない芝居の開演5分前に、衣装に着替えていない自分に気づく」という、ぶっちゃけありえな~い設定の定番の悪夢だったわけなのですが、必死にワイシャツに袖を通してズボンのベルトをカチャカチャやっている最中に突然、「あ、おれ、もう芝居やってなかったんだっけ……」という宇宙の真理に到達してしまい、「起きよ。」と夢を強制終了させて目覚めた自分自身に、私もずいぶんとつまんない大人になったもんだなぁ、とため息をついてしまいました。でも何回見てもヤな夢!!

 ところで、実は渋谷に着いてから夕方までの時間つぶしとして、TOHOシネマズに行って映画の『進撃の巨人 エンドオブザワールド』を観て「しまい」ました。
 私自身は原作マンガは3巻ぐらいまでをラーメン屋で注文を待つあいだにささっと読んだだけだし、アニメ版も実写映画版の前編もまるで観ていないというていたらくだったのですが、実写版前編のあまりの評判の悪さにむしろ興味がわいてしまい、監督の方に間接的にでもお金をあげるのは非常に癪だったのですが、まぁ来年は『ゴジラ』もあることだし……ということで、免疫を作るために後編だけ観た次第です。

 まぁ、今回の話題はお芝居のほうですし、それとこの映画を比較するつもりも毛頭ないのでこっちの感想はうだうだ言いませんが、國村隼さんのバカバカしい演技しか印象に残らなかったです。お話は冒頭にご丁寧な「前編のあらすじ」があったので難なく呑み込めたのですが……なんか、連載中の原作マンガとはまったく違うという「衝撃の結末」は、「町山智浩さんが書きそうなオチを考えてみよう」ってお題で中学生が作ったのかってくらいにうすっぺら~く町山さんっぽいものだと感じました。あっそれ、私が大学生ぐらい(15年前)のときになんかで見たな、みたいな。TOHOシネマズの売店のチリドッグはおいしかったですね。

 さぁさぁ、そんな個人的なあれこれはうっちゃっときまして、今回拝見したお芝居は、こちら!


三条会公演 『熱帯樹』(作・三島由紀夫、演出・関美能留 2015年9月24~27日 東京・下北沢ザ・スズナリ)

作品について
 『熱帯樹』(1960年1月初演)は、裕福な資産家である夫(恵三郎)の莫大な財産を狙って息子(勇)に夫を殺させようとする妻(律子)の企みを知った娘(郁子)が、愛する兄に母を殺させようとする家族の悲劇の物語である。愛と憎しみが錯綜する男女関係を描いたギリシア悲劇的な人間関係の中に、父性愛や母性愛の不在から惹き起される家族関係の崩壊が描かれている。登場人物のひとりである郁子には、三島の亡妹・美津子(17歳で逝去)のイメージが投影されているとされている。
 新潮文庫から戯曲集『熱帯樹』が刊行されていたが、現在は絶版となっている。
 三島由紀夫はこの作品の後書きにおいて、当時フランスの地方で実際に起きた事件の話をフランス文学者の朝吹登水子から聞き、そこからヒントを得て執筆したと語っている。その事件は、裕福な貴族と結婚した女が、およそ20年間ひたすら夫の財産を狙い、成長した息子に実の父親である夫を殺させ、莫大な財産を手に入れていたというものだった。貴族夫婦の間には息子の他に娘(息子の妹)もいたが、年頃になった息子を意のままに操るために夫人は息子と肉体関係を持ち、それに絶望した息子は妹とも関係を持ったという。


 ……とまぁですね、ものすごいお話なのであります。夫を殺したい妻、母を殺したい娘、兄を虜にする妹、息子を虜にする母!

 上演する三条会にとって『熱帯樹』は、1997年10月に千葉市で上演された劇団立ち上げ公演の演目だったということで、三条会が上演することの多かった三島由紀夫の諸作品の中でも、特別に縁の深い戯曲なのだそうです。
 「『なのだそうです。』って、おまえ昔所属してたんだろ!」と言われそうなのですが、実は私は2001年から三条会に入ったものですので、まず立ち上げメンバーではありませんし、そもそも私が千葉市に来たのが翌1998年の春でしたので、公演そのものも観ていないので、なんとも言えないのよねぇ。でも、今回の2015年版とはまるで別物の作品だったのでしょうね。なんてったって18年のへだたりがあるんですから!
 1997年の秋といえば、私は……山形で受験勉強……のフリして深夜ラジオを聴きながら『ベルサイユのばら』のハプスブルク帝国版の台本を書いてました。バカなのね~、バカなのよ~。


 この物語の具体的な事件に関わってくるのは、妹・兄・母・父のたった4人ということで、人物相関図でいえばきわめてシンプルな四角形でしかないわけですが、その四角形の中を「殺したい」と「愛したい」の矢印がまぁ~ビュンビュン交差する交差する。
 ただし、人間関係でいうところのよく言う「ドロドロ」の最少人数は「三角関係」の3人かと思われるのですが、この『熱帯樹』でも、物語の核心で壮絶なバトルを繰り広げるのは「妹・兄・母」の3人であり、もうひとりに当たる「父」は、どことなく一歩引いた位置にいます。この、口ではああだこうだ言いながらもいまいち家族をまとめ上げることに本腰を入れようとしない家長の存在感の薄さが、なおさら他の3人の暴走をヒートアップさせているという絶妙な動力源にもなっているわけです。
 確かに、『ちびまるこちゃん』然り『クレヨンしんちゃん』然り『ドラえもん』然り、家族ドラマのおもしろさの秘訣は「親父が前に出すぎないこと」にあるような気がします。キャラクターはしっかりしていても、あくまで巻き起こる事件のツッコミ役に徹するわけですね。まぁたまにはロボットになったりもしますけど。

 ところで、この『熱帯樹』のモデルとなったのは、フランスであった実際の事件だと三島由紀夫は語っているわけですが、と同時にギリシア悲劇の『オレステイア』3部作(『アガメムノン』『コエロポイ』『エウメニデス』)の物語も強く意識していることを後書きの中で示唆しています。
 『オレステイア』3部作は古代ギリシアの悲劇作家アイスキュロス(紀元前525~紀元前456年)の代表的戯曲(紀元前458年に初演)で、アイスキュロスの活躍した時代よりもさらに古代の紀元前1200年代にあったという「トロイ戦争」に勝利した、ギリシアの諸王国連合の総帥アガメムノン(ミケーネ国王)の家族の崩壊を描いた物語です。実際にあった歴史劇というよりも、神様が登場したりして半分神話になっているような大昔のお話ですよね。映画の『トロイ』もおもしろかったですけど。

 さてこの『オレステイア』3部作でも、確かに夫(アガメムノン)を殺したい妻(クリュタイムネストラ)や、母(クリュタイムネストラ)を殺したい娘(エレクトラ)と息子(オレステス)といった家族の愛と憎しみの相克は描かれているのですが、よくよく読んでみると『熱帯樹』とはだいぶ違う印象を受けます。
 思いついた点を挙げるだけでも、例えばクリュタイムネストラが夫のアガメムノンを殺したかったのは、本音はもしかしたらミケーネ王国の権力を愛人のアイギストスと共に手に入れたかったからなのかもしれませんが、いちおうはアガメムノンがトロイ戦争の戦勝祈願のために愛する長女イピゲネイア(エレクトラとオレステスの姉)をいけにえとして殺してしまったことへの復讐という同情的な理由がありますし、アガメムノンを直接殺したのも実の息子ではなくクリュタイムネストラの愛人アイギストスです。さらに、息子オレステスが実の母親であるクリュタイムネストラを殺したのも、まず最初にクリュタイムネストラがアガメムノンを殺したからなんだ、というかたき討ちの理屈があるので、きわめてまっとうなものになっているのです。つまりはオレステスに、シェイクスピアの『ハムレット』みたいに母親を殺さなければならない大義名分がはっきりしているんですね。いや、時代的には逆! オレステスがハムレットの大先輩なのか。「母殺し先輩」……ヤな先輩!

 ところが、そんな『オレステイア』に対して『熱帯樹』は、妻が夫を殺したい理由には「娘を殺されたから」などという簡単明瞭な要因はなく、かといって財産目当てだけとも言えないような「束縛されたくないの♥」みたいなきわめて精神的な曖昧さがありますし、妻が夫を殺すために差し向けるのが実の息子という「息子=愛人」の恐るべきショートカットもあります。そして何よりも、「夫を殺したい妻」と同時発進で「母を殺したい兄妹」というベクトルが動いていて、さぁどっちが先に殺しちゃうかというデッドヒートを繰り広げる異常な疾走感があるわけなのです。なんか、全体的に時間進行が速くありませんか!? まぁ、一晩のあいだに起きた物語なのでそりゃそうなんですが。

 しかし、『オレステイア』のような正統派時代劇に比べて『熱帯樹』がきわだって印象深いのは、結局、夫が死ぬわけでもなく母が死ぬわけでもなく、挙句の果てには家を去っていった兄妹さえもが、その生死をあいまいにしたまま終幕してしまうという「な、なんだったんだ……」感があるという部分なのではないのでしょうか。
 物語の主軸にあるのは確かに「親殺し」とか「近親相姦」とかいう刺激的なテーマなのですが、まず物語の始まりからして、『オレステイア』や『ハムレット』のように具体的に誰かが死んだという発端はありません。父を母が殺そうとしているという疑惑を兄妹が持つ発端となった事件は語られるわけなのですが、それも母が弁解するように「たまたまよ!」で済ませられなくもない、気づかなければなんでもない一動作なのです。

 この『熱帯樹』の特徴はなんといっても、その膨大なセリフの洪水というか、とにかく修飾に修飾を重ねて過剰に梱包された言葉の熾烈な銃撃戦という感のある登場人物同士のやり取りで、それが戦場とか街の大通りとかじゃなくて一軒の家の中でおっぱじまってしまうのですから、そりゃもう『サザエさん』のエンディング映像の最後に出てくるピクニックのロッジのように、上下左右にぶんがぶんがと鳴動してしまうような大戦争になるのは自明の理です。

 『サザエさん』……そうなのです。この『熱帯樹』は、肉親を殺したいというほどの激しい憎しみが物語を構成する要素の半分になっているはずなのに、その「相手の長いセリフにさらに長いセリフで答える」という非日常的な言葉の激烈すぎるキャッチボールの応酬によって、観る者に「そんなにコミュニケーションが取れてるんだったら、もう仲いいんじゃない?」というほっこり感を生み出すものになってしまっているのでした! これはまさに、「毒蝮三太夫効果」とでも言うべき現象です! バアちゃんまだ生きてんのかこのくたばりぞこない♡

 これはものすごいことです……憎しみをぶつけ、ぶつけられることは愛なのである!! 「愛」と「憎しみ」と言いつつも、結局すべては「愛」だったのだという、この多幸感に満ちた逆説。そりゃそうです、ほんとに嫌いな人なんて、もう顔を合わせたくも話したくもありませんよね。自分のことが嫌いで絶交した相手の口から嫌いな理由を直接聞いたことなんて、少なくとも私はほとんどありません。まず、「なんで俺のことが嫌いなんだ!」って聞ける勇気がないわけなんですけど、その勇気が振り絞れたら、それだけ相手のためにエネルギーが使えたってことなんだから、それはもうなにか別の段階に入っています。

 この、「大嫌い、大嫌い、大嫌い……大好き!! あぁ~ん♪」(作・つんく♂)の心理の舞台化こそが、『熱帯樹』がそれ以前の古典的な家族の悲劇の物語の中から抽出して精錬したテーマなのではなかろうかと思えるのですが、さすがというかなんというか、今回の2015年における三条会版『熱帯樹』は、そこを最初から最後までしっかりと作品の中央に据えつけた筋金入りのブレのなさを示してくれました。

 まず演じられる空間は、完全になんの舞台美術も施されていないような、普通の公演ではなかなか見られない板張りすっぴんのザ・スズナリが一望できる簡素さになっており、中央に1枚だけ、舞台を組む時の土台に使う一畳スペースの「平台(ひらだい)」が敷いてあり、そこには基本的に病床の娘・郁子(演・伊藤紫央里)が横たわっています。
 そして舞台の客席から見て左側には、意味ありげな2脚の作業用キャタツが並び、そのひとつは鳥かごに模してあるのか、中には赤・黄・青・緑の極彩色の着ぐるみを着たインコ(演・大谷ひかる)がいて、時折「イラッシャイマセー」とさえずっています。

 お話が進んでいくにつれて、この郁子はそうとうに裕福な家庭の令嬢で、舞台もその邸宅であることがわかってくるわけなのですが、そのへんの経済的背景や時代的背景(1960年)を、舞台美術はまったく語りません。それ自体は三条会の公演では平常通りのことなのですが、今回はさらに、郁子が冒頭で着ていたネグリジェを脱いで肌色の全身タイツ姿になることから始まり、その兄の勇(演・門田寛生)も、2人の母親である律子(演・立崎真紀子)も肌色の全身タイツを着て演技を進めていきます。全裸ではないわけですが、勝手に観る側がそう認識してしまう「お約束」の上ではみ~んなすっぱだか。持っているのは、感極まったときにのどを潤す水入りペットボトルだけ! 水がなくなったらそこらへんにポイと捨てます。

 この状況から、なんだかものすごく開放的な雰囲気をよしとしてらっしゃるご家庭なのね……という気になってくるのですが、一家の長である父親の恵三郎(演・栗山辰徳)が、全身タイツな上に頭部もフルフェイスでタイツで覆った姿で現れた時点で、お客さんの疑問は氷解します。「あぁ、ご主人がそういうご趣味なんだな。」と。
 ともかくこの状況からして、一家が非常に円満良好な関係にあることは間違いありません。親父の方針にここまで従順にしたがう家族なんて、ちょっと昨今ではなかなか見られない風景ですよね。

 特に、律子の言うことを盲信する恵三郎と、律子の殺意を訴える勇との直接対決のシーンは、どこからどう見ても「ほほえましい」としか言い表しようのない、和気あいあいとしたミニゲームの様相を呈しているのです。どういうゲームかはいちいち言いませんが、ともかくあれだけ材料のない舞台で、よくもまぁあんな遊びを思いつくもんだなぁという感じで、それでいながらも、勇の若さに圧倒される恵三郎という構図を実にわかりやすく説明するものになっていたと感じ入りました。バカバカしいけど、なんて愛に満ち溢れた空間なのだ!

 ところで、それゆえに際立ってくるのが、そんな一家団欒の空気に対して、明らかに距離感のある「ふつうの服装」をした、同居する親戚の信子(演・大倉マヤ)の存在です。あっおかしい、この人だけ普通だ!

 この信子さんは恵三郎の従妹に当たる人物なのですが、夫と死別した後に恵三郎の家に同居するようになったという経緯があり、病床の郁子にかなり慕われているらしい描写があります。
 しかし、この家庭にあって一人だけ服を着ているとは……明らかに、家長の恵三郎とは相容れない何かをいだきながら同居していることを雄弁に物語っていますね。しかもこの信子さんは常に赤い毛糸の玉を持ち歩いていて、ことあるごとに郁子に着せるための編み物にいそしんでいる! これは危機ですよ……全身タイツの家族に服だなんて! 恵三郎一家と信子さんとの決定的な溝を象徴している絶妙な演出ですね。と同時に、信子さんが家の中だけのルールにとらわれている4人を、どこかかなり離れた距離から冷静に眺めているらしい立ち位置も示していると思います。

 だからこそ、恵三郎以外の面々が物語の進行につれてどこかで服を着はじめていくという流れは、ものすごく重要な「訣別の儀式」だったのでしょう。やっぱりみんな、服は着たかったんだね……律子さんの殺意に満ちた丁寧なひとり着付けはつやっぽかったやねぇ。殺しのドレスならぬ、「殺しの留袖」!!


 でもこの、世間一般から見れば異常な格好に身を包み、異常なまでに膨大で華美なセリフをお互いにドバドバかけあっていく家族の団欒の模様は、信子さんからもお客さんからも、そしてハデな配色の着ぐるみのインコからも遠い場所にある、闇夜の一軒家にポツンと灯っている窓のあかりなのです。どこか他人が入ってはいけないようなへだたりもあり、どこかうらやましくもあり。でも、それが家族というものなんですよね。食べ物の調味料とか四季折々の節目の行事の過ごし方とか、ふとしたところで「えっ、そうなんだ!?」と驚いてしまう違いというか、家族と家族じゃない人との生活様式の隔絶は見えてきちゃうものなのです。

 ちなみに、ギリシア悲劇の『オレステイア』で妻の愛人として夫を殺す人物アイギストスは夫の従弟という血筋の人物なのですが、性別こそ違え、同じように恵三郎の従妹という信子さんが、「郁子の考え方に大きな影響を与える」という遠回しな手法ながらも、アイギストスと同じように家族の形を確実に変容させる役割を担っているのは象徴的ですね。殺人ではなく、疑念という方法で父親の権威をおびやかす影のキーマン・信子!
 愛する夫を失った世界を生き続けている信子が郁子に伝えるのは、「私たちが生きてても死んでても世界には何の影響もない」というカラッとした諦念なわけですが、それをそうと割り切れないのが若者の若者たるゆえんであって、郁子は「そんなのイヤ!」とばかりに、愛する兄と共に過激な生をまっとうする道へと歩みを進めていくのです。

 そして、郁子と勇が母親・律子との対決に敗れて家を去っていった後、信子はいちはやく2人の旅立ちに気づき、「もう2人は帰ってきません! 何もかもが終わりました……私もこの家から出ていかせていただきます。」と言い放ち、夜明けを待たずに、さらには具体的な2人の生死も確かめずに物語の舞台からそそくさと去っていくのです。
 これはつまり、本当に2人が海中に身を投じて心中したのかどうかという事実は信子にとってどうでもいいというか、むしろ、家に残った恵三郎の言うとおりに若気の至りだったために死ぬことができず、夜明け頃になってビショビショになった2人が「ただいま~……」なんて言いながらうつむき加減で帰ってこようものなら、それこそ信子の中のなにかが崩壊してしまうという恐怖があったからだったのではないのでしょうか。『熱帯樹』に登場する人物たちの中で最もロマンチストなのは、郁子でもなく勇でもなく明らかに信子なのでしょう。しかし、そのロマンに命を懸けるほど信子は若くはないし、愚かでもないのです。

 余談ですが、現在、非常に残念なことに絶版になっているという新潮文庫版の『熱帯樹』を幸い私は持っていて、そこに同時収録されている『白蟻の巣』という戯曲(1955年初演)の結末の展開が、『熱帯樹』と好対照になっていて非常に興味深かったです。そこには「あぁ、信子さんはこれが怖かったのかもな。」という皮肉たっぷりのオチが用意されています。でも、人生なんてたいていはそんなもんよね。きれいに終わるほうが珍しいんでしょう。

 そんな信子さんとはまた違う立場からこの激烈一家の傍観者となっているのが、セリフがひとつもないのにこの三条会版では女優さんがまるまる1人割り当てられているという大抜擢なインコちゃんであるわけですが、物語の主軸を担う面々を一歩離れた距離から見つめ、ひとりは時に明確に「かきまわす」意図をもって面々に波紋をもたらし(信子さん)、ひとりはまるで関係ないといった素振りで視界の端に彼らの騒動をとどめている(インコ)……この脇役タッグは明らかに、あの古典的を通り越してもはや神話的名作になりつつある高橋留美子のマンガ『うる星やつら』(1978~87年)における怪僧・錯乱坊(チェリー)と化け猫・コタツネコの組み合わせに近い、絶妙な「中心引き立たせ効果」を生んでいると見ました。
 大倉マヤさんをつかまえて錯乱坊だなんて言いがかりもはなはだしいわけなんですが、物語の傍観者(コロス?)を信子さんだけにせずに、単なる小道具扱いにもなりかねなかったインコを加えたことに、私は三条会ならではの、ギリシア悲劇とるーみっくわーるどの、三島戯曲における劇的な融合を観た気がいたしました。いや、ただ単にとばっちりを食らって死んじゃうインコがかわいそうだったからってだけなのかも知れませんが。
 そうか、勇は諸星あたるだから、あんなに無責任に2人の女性の間をふらふらしてたのか! ダーリン、今日という今日はもう許さないっちゃ!!

 付け加えれば、この作品でインコを女優さんが演じたということによって、戯曲上のインコの死を得た後の女優さんが完全にフリーな状態に開放されて、着ぐるみという死体を脱いで舞台上をふらふらと浮遊し、結果として飼われていたインコよりも鳥っぽい鳥瞰の視点から物語のクライマックスを見届ける立ち位置につくという、お客さんそのものの存在になっていたことは非常に印象深かったです。そんな、演技から解き放たれて自由に動けるはずの彼女さえもいとも簡単に圧倒してしまう、セリフにがんじがらめになった登場人物たちの「もがきの美学」!! まさにこれは、自由が不自由になり、不自由から自由が生まれるという、現実の重力法則の全く通用しない「三島プラネット」の物語であることを証明しているわけです。『ゼロ・グラビティ』もビックリよ。


 ところで、全体的にこの『熱帯樹』は、明確な事件がせいぜい親子ゲンカくらいにとどまるというミニマルな閉塞状況で、兄貴もどうにも頼りなく妹と母親の間をうろうろしている中、信子さんの言葉を頼りにした郁子だけが、ほぼ孤軍奮闘に近いかたちで妄想といえなくもない憎しみをもって両親に立ち向かうという対立構造になっています。それで家長の恵三郎もあんまりはっきりした主観を持たずに律子の言うことを信じきっているのですから、登場する男たちはとにかくフワフワしているだけで、これほどウーマンリブで男衆がパッとしない戯曲もなかなかないのではないのでしょうか。これが三島由紀夫の作であるということに少なからずびっくりしたお客さんもいたことでしょう。でも、『サド侯爵夫人』なんかもっと極端ですもんね。

 そして、今回はド直球でベートーヴェンの交響曲第9番『歓喜』がノーカットで流れ、その第4楽章『歓喜の歌』がガンガン流れる中でこの物語を締めくくったのは、死のうとしている兄妹ではなく、生に飽きていながらも死ぬこともできない信子さんなのでもなく、鈍感なふりをしてのうのうと生き残っている両親夫婦の堂々たる「熱帯樹」ポーズなのでした。
 つまり、この作品は憎しみも死へのあこがれも、語ってはいながらもまるで主軸には置いておらず、ただひたすらに愛と生のたくましさを謳うものなのです。現に、律子は子供たちを失いながらも、2人の「熱帯樹」の幻想をちゃっかりいただいたことによって新生したと、そうとも解釈できるエンディングの威容だったのではないのでしょうか。

 クライマックスの盛り上がりの中で、そんな両親の背後でいかにもな「天使の羽」を付けた兄妹がにこやかに飛びまわるという演出もありましたが、それもまた、死んだから楽になったという安直なものなのではなく、それこそ大地に根ざす「熱帯樹」の幻想から解き放たれたからこそ、翼を手に入れてあのインコと同じ鳥瞰の視点を持ったのだという、両親とはまた別の新生を象徴するものだったのでしょう。雲に~なる、雪にな~る~♪

 直球、直球、ド直球! この『熱帯樹』が、これほどまでに小細工のない人間賛歌であったとは……それを非常に明確に、ストレートに観る側に示してくれた今回の演出は、まさしく三条会のお芝居としても変化球いっさいなしの堂々たる「正調公演」だったと感じました。これがザ・スズナリで観られたということは、いちファンとしてとってもうれしい。

 確か、三条会がそれ以前に三島由紀夫の戯曲を上演したのは、2011年12月の当時千葉市にあった劇団アトリエにおける『十日の菊』のリーディング公演が最後だったと思います(演出の関美能留さんが三条会以外の場で三島戯曲を演出した公演はその後もありましたが)。それから約4年の時を経て正式公演として三島戯曲が選ばれたのは、まぁ三島由紀夫の戯曲とそれ以外の劇作家の作品とをことさらに区別するつもりはありませんが、それでもなんだか非常にうれしい。
 ちくま文庫で最近ミョ~に話題になっている三島由紀夫の小説『命売ります』じゃありませんが、三条会というものすんごい濾過システムを通って21世紀に燦然と新生するべき三島戯曲は、まだまだいっぱいあるのではないのでしょうか。

 前回公演が2014年の6月でしたから、年に1回というのはなんともファンにはつらいペースなのですが、それでも首を長~くして待っております、次回公演!!

 そしていつかは、公演を観終えた直後の興奮をいったんホテルとかで落ち着けて、翌日にゆったりと東京見物でもして帰るような旅程を組みたいもんですねェ~。風情もへったくれもないトンボ返りプラン、もういや~ん!! と言いつつも、まだしばらくはやるだろうけど。
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在りし日の名曲アルバム  鬼束ちひろ『 DOROTHY 』

2015年09月23日 23時51分45秒 | すきなひとたち
鬼束ちひろ『 DOROTHY 』(2009年10月28日リリース UNIVERSAL SIGMA )

 『 DOROTHY(ドロシー)』は、鬼束ちひろ(当時29歳)の5thオリジナルアルバム。
 4thアルバム『 LAS VEGAS 』(2007年)から2年ぶりとなるアルバム。14~17thシングル『蛍』、『 X 』、『ラストメロディー』、『帰り路をなくして』、『陽炎』の5曲を収録。シングル『帰り路をなくして』リリース以降の本人非稼動のプロモーション活動は本作においても続き、一切のプロモーション活動が行われなかった。
 オリコンウィークリーチャートで最高10位を記録した。


収録曲
全作詞・作曲 …… 鬼束 ちひろ
プロデュース …… 坂本 昌之

1、『 A WHITE WHALE IN MY QUIET DREAM 』(1分24秒)
2、『陽炎』(5分58秒)
3、『 X 』(5分2秒)
4、『ストーリーテラー』(5分41秒)
5、『 STEAL THIS HEART 』(4分41秒)
 本作は、アルバムのリード曲として PVが制作され、これは3rdアルバム『 Sugar High 』(2002年)収録曲『 King of Solitude 』以来久々となるアルバム曲 PVとなった。
6、『 I Pass By 』(3分21秒)
7、『帰り路をなくして』(6分55秒)
8、『 Losing a distance 』(5分15秒)
9、『ラストメロディー』(4分57秒)
10、『蛍』(5分59秒)
11、『 VENUS 』(7分19秒)




《本文まだです!!》
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楽しいリベンジ!  ~タルコフスキーの『鏡』を、寝ないでちゃんと観よう~

2015年09月18日 23時49分46秒 | ふつうじゃない映画
 どもども、みなさんこんばんは! そうだいでございますよ~っと。
 いや~、山形の夏も暑いやねぇ。9月もなかばになっているわけなんですが、まだ秋の訪れを実感できない残暑が続いております。千葉の暑さともまた違ったものがあるんですが、さすがに朝晩になると気温も落ち着いてくれるのが救いでしょうか。私にとっては実に18年ぶりの山形の夏になるんですが、こんなもんだったような、昔はもう少しお手柔らかだったような……高校時代は、もっぱら自転車たち漕ぎで汗だくになりながら市内を駆けずり回っていましたからねぇ。自動車って偉大……今さらながら!

 さてさて今回のお題は、私にとりまして長年の懸案となっておりました、ある映画についてのあれこれでございます。
 さっそくまいりましょう、こちら!


映画『鏡』(1975年3月公開 108分 ソヴィエト連邦)
 映画『鏡(原題・ЗЕРКАЛО)』は、アンドレイ=タルコフスキーによる自伝的要素の強い映画である。同時に、ロシアの現代史を独特の手法で描き出した作品でもある。タルコフスキーのキャリアにおいて、その中心をなす代表作である。
 タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。
 『鏡』のなかで、タルコフスキーは父アルセニーの詩を繰り返し朗読するが、父と主人公アレクセイは鏡を通じて互いに写り合う像となっている。アレクセイの母マリアとアレクセイの妻ナタリアも鏡像関係にあり(同じ女優が演じている)、更にアレクセイ自身とその息子イグナートも互いに鏡像となる(少年時代のアレクセイとイグナートは同じ子役俳優である)。
 タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、そもそも彼の映画の思想そのものが魔術的だとも言える。


あらすじ
序章
 ユーリという青年が吃音の矯正訓練を受けている TV画面の情景から始まる。女医が話しかけるが、青年はうまく話せない。女医は青年を緊張させ暗示を与えつつ、解放した瞬間に「ぼくは話せます。」と言うようにと指示する。女医の言葉に合わせて青年が鏡像のように言葉を繰り返したとき、彼はうまく話すことができるようになる。

第1章 記憶
 物語は過去にフラッシュバックし、アレクセイの幼年時代に戻る。まだ若かった母マリアが農場の柵に腰かけていると、医者と自称する見知らぬ男が現れ、母と意味ありげな謎めいた言葉を交わし、風の吹くなか遠ざかって行く。その後、タルコフスキー監督自身が、父である詩人アルセニー=タルコフスキーの詩を朗読する声が流れる。
 物語は、成人したアレクセイの日常を描く現代へと進む。妻との離婚問題に直面し退廃的に精神の絶望に陥って行くアレクセイだが、ふとした言葉や出来事が、彼を過去の記憶の情景へと引き込んで行き、現在は過去の記憶に浸食される。
 過去と現在を往復しながら、作者であるタルコフスキーの記憶と共に、ロシア(当時はソヴィエト連邦)の歴史、過去の政治体制などが描き出されている。祖父の別荘で納屋が燃えた事件。このとき以来、父は家族を去ったのだった。母が印刷所で校正係を務めていたとき、印刷物の校正ミスをしたかと思い、早朝に活版の文字を確認しに出かけた情景。誤植が政治的意味を持つとき、人の生命にも関わった、スターリン独裁時代のソ連の記憶であった。

第2章 歴史
 現在のアレクセイの部屋で、スペイン人たちが闘牛について話している。記録映画の映像が現れ、スペイン内戦時代の様々な情景が流れて行く。またソヴィエト最初の成層圏飛行船の成功を祝う人々の姿が映し出される。
 ある日、部屋にいた老婦人の要望に応え、アレクセイの息子イグナートはプーシキンの書簡を朗読する。それは、モンゴル帝国の圧倒的な破壊と暴力に対する防波堤となったロシア地方の、ヨーロッパ・キリスト教文明史における存在意義に関する一節であった。老婦人は部屋のなかのテーブルに向かい紅茶を飲んでいる。イグナートがわずかの時間席を外して部屋に戻ると老婦人の姿は消えている。紅茶のカップも消えているが、テーブルの上にはついさっきまでカップが置かれていた湯気の痕跡があり、それも見る見るうちに消えて行く。

第3章 交錯
 アレクセイは息子イグナートとの会話を通して、少年時代に雪の積もる冬、射撃場で軍事訓練を受けたことを思い出す。再び第二次世界大戦中の記録映像に映る、濁った川を渡ろうとする兵士たちや、行軍する兵士たちの映像が流れる。ベルリンの陥落と軍人の遺体。広島・長崎の原子爆弾のキノコ雲。毛沢東語録を手にした中国人群衆が押し寄せる文化大革命。中国とソ連の国境紛争であったダマンスキー島事件(1969年)の情景。そして再びアレクセイの少年時代へと時間は戻り、軍服を着た父が唐突に帰ってきてアレクセイをを胸に抱く。さらに時間は現在へと戻り、成人したアレクセイは息子イグナートに、父である自分と母ナタリアのどちらを取るか迫る。
 アレクセイはナタリアとの対話を経て、夢に見た少年時代へと思いを巡らせる。母と共にモスクワから疎開した田舎で、財政的に行き詰まった母が、手持ちの宝石を売って家計の足しにしようと、アレクセイ少年を伴って交渉に出かける情景である。美しい田園風景の記憶、そして貧しい身なりの少年が垣間見た、豊かで暖かい家庭。宝石を売りに訪れた家でランプの明りに照らされたアレクセイは鏡を見つめながら、家財を手放そうとする母を許す。しかしそれは彼が許しているというより、鏡に映った自己の姿の深奥を観照するなかに、彼ら母子の営みを見守る神の赦しが顕現しているようである。

終章
 まだ若い母マリアと父が、夏の白夜の夕暮れの中、田園の草の中で寝そべり、これから産まれる子は男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年のアレクセイと妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子らを逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、勘の鋭い若い母マリアもその後を予感し涙する。 十字架の前に赦しを請い、赤の他人である通りすがりの医師に心を動かす多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母を捨てて、もはや性の対象ではない老母と幼年時代の美しい記憶に回帰するというエディプス・コンプレックス的解釈もされている。このような、時空の秩序を越えた情景のなかで物語はクライマックスを迎える。
 かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸の枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出逢い、別れ、そして新しい未来へと進んで行く。


主なスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督 …… アンドレイ=タルコフスキー(42歳)
脚本 …… アンドレイ=タルコフスキー、アレクサンドル=ミシャーリン
撮影 …… ゲオルギー=レルベルグ
音楽 …… エドゥアルド=アルテミエフ(37歳)
主題曲
ヨハン・ゼバスティアン=バッハ『オルガン小曲集』より『古き年は過ぎ去りぬ』(1713~16年)
挿入音楽
ジョヴァンニ・バティスタ=ペルゴレージ『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』より『我が肉体死すとき』(1736年)
ヘンリー=パーセルの歌劇『インドの女王』第4幕より『 They Tell Us That Your Mighty Powers』(1695年 歌唱なし)
バッハ『ヨハネ受難曲』より合唱『主、我らを統べ治め』(1724年)

主なキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
少年時代のアレクセイ/アレクセイの息子イグナート …… イグナート=ダニルツェフ(13歳)
母マリア/妻ナタリア               …… マルガリータ=テレホワ(32歳)
幼年時代のアレクセイ               …… フィリップ=ヤンコフスキー(6歳)
父                        …… オレーグ=ヤンコフスキー(31歳)
通りすがりの医者の男               …… アナトリー=ソロニーツィン(40歳)
リーザ=パーブロブナ               …… アーラ=デミドワ(?歳)
印刷工場の上司                  …… ニコライ=グリニコ(?歳)
マリアが訪問した家の主婦ナデージダ        …… ラリッサ=タルコフスキー(36歳 タルコフスキー監督夫人)
成人したアレクセイの声              …… イノケンティ=スモクトゥノフスキー(50歳)
詩の朗読                     …… アンドレイ=タルコフスキー


 出た~! 世界映画史上にその名を残す、ものすんごい映像詩の巨人・タルコフスキー監督の第5作となる映画作品です。
 アンドレイ=タルコフスキー。私にとっては、千葉の一人暮らし時代に出逢った様々な刺激の中でもトップクラスに衝撃的で、映画というジャンルの無限の可能性を教えてくれた才能でございます。大好き!
 とは言いましても、実にお恥ずかしいことに現時点で私が観たことのあるタルコフスキー作品は、SF映画に分類される『惑星ソラリス』(1972年)と『ストーカー』(1979年)の2作と、この『鏡』のたった3作だけなのです。情けなや!!
 それで、よくよく調べてみたらタルコフスキー監督の遺した映画は全部で「8作」ということでしたので、ここは山形での生活もなんとなく落ち着いてきたことですし、一念発起して全作の DVDソフトを購入してコンプリートしようじゃないかという流れに、今になってやっとたどり着いた次第なのでありました。ええ、遅いですよ!? でもやらないよりゃましでしょ! ということで。

 私にとっての初タルコフスキー体験となった、学生時代に大森の映画館の特集上映で観た『惑星ソラリス』についてのあれこれは、ずいぶん前に我が『長岡京エイリアン』でもすでに触れました。いや~、あれは本当に最高な出逢いでしたね。関東地方での一人暮らしを始めてみたばっかりで右も左もわからず、どこを見回しても山が存在せず(山形盆地の民にとってはとんでもねぇカルチャーショックだず!!)、しじゅう血のような潮のかほりが吹きすさぶ千葉市に恐れおののいていた私に、ものすごい郷愁を呼び覚ましてくれたと共に、「東京はこんな作品も娯楽にしてるのか!!」と、世界に冠たる1千万都市、メガロポリスTOKYO の格の違いを見せつけてくれた衝撃体験でした。しかもさぁ、『惑星ソラリス』に加えて、あの伝説の SFアニメ映画『ファンタスティック・プラネット』(1973年 フランス)の2本立てだったもんですから、もう帰り道フラッフラでしたよ! 東京は恐ろしかとこばい!!
 当然ながら、「世界には『惑星ソラリス』という、とんでもない SF映画がある」といううわさだけは聞いていたのですが、まさかこれほどまでにものすごい作品だったとは……学生時代の私にとっては、この『惑星ソラリス』と、テアトロ新宿で観た実相寺昭雄監督の『 D坂の殺人事件』(1998年)、そしてなにげなく深夜に TVをつけた時にやっていたアニメ『 lain』が、「私的3大『都会の洗礼』作品」となります。あと、中野かどっかの劇場で観劇したナイロン100℃の『Φ(ファイ)』も、まず山形では観られない類のトンガリ具合があって衝撃的でしたね~。

 その後、『ストーカー』はでっかい2本組の VHSビデオを新宿で買って自宅で視聴したのですが、これもうわさにたがわぬ『惑星ソラリス』以上の「何も起きないがゆえに、何が起きてもおかしくない緊張感」みなぎる大傑作でした。とてつもない思想、技術、そして映像美……
 そして、これまた本ブログで触れた通り、さらにのちに私は2010年になって、池袋の新文芸坐で親友と連れ立って『惑星ソラリス』、『ストーカー』、そして『鏡』の3本立てになるタルコフスキー・オールナイト上映会にいそいそと出かけたのですが、そこで唯一、初めて観る作品だったはずの『鏡』のほぼほぼ全編でグースカ寝るという痛恨の事態を招いてしまったのでした……痴れ者が! でも、2時間半の映画を2本観た後に夜明け近くの『鏡』なんで……カンベンしてつかぁさい!! はっと気がついた時には映画はあらかた終わっていて、呆然としながら新文芸坐から出た時の、池袋の朝の光のまぶしさよ。

 それ以来、自分の心の中でかなりの遺恨となっていた『鏡』を、あらためて購入する DVDの1本目に選んだのは自明の理というものでしょう。今回はちゃんと睡眠をとって、自宅で腰を据えて堪能させていただきますぞ! 5年ぶりのリベンジに、思わず鼻息も荒くなります。


~108分後~


 いやはや……ものすんごい体験をしてしまつた……

 なんと言い表せばよいものなのか。映像を詩的とか魔術的とか、通りいっぺんの言い方にしても、結局先人の方々のリフレインになっちゃいますしねぇ。
 観た後の感覚を率直に言うのならば、「一向に出発しないのにぐわんぐわん横揺れだけするジェットコースター」という感じになります……わかる!?
 ただ横揺れするだけの遊具じゃないんですよね。ちゃんと目の前には何百メートルという高さまで登るレールがあって、それがうねうねと周囲を回って、自分たちが今座っている乗り物の後ろまでつながっているのです。それなのに、全っ然スタートしない! スタートしないのに、なぜか乗り物は激しく横にぐわらぐわら揺れる!! なぜ!?
 それは、自分が身体を強く横にゆすっていたからなのであつた。

 そうなんです、まさしくこの映画『鏡』は、観る者一人一人の心の遍歴を写す鏡。鏡はそこにあるだけで、自分からは別に何もしません。もしそれを見て激しく心を動かすものがあったとしたのならば、それは観る人が自分で自分の像に、心を動かす「何か」を見いだしているだけのことなのです。

 なるほどね~。ということは、5年前の私は、まだまだ自分の半生を振り返っても、特になんの感慨もわいてこずに退屈して眠くなってしまうようなお子ちゃまだったということだったのかしら。何かものすごく納得できるような気がする……
 かと言って、たかだか30代そこそこの自分が観た今回の『鏡』が最高に面白いってわけでもないはずなんですよ。だいたい家庭も子供も持ってないしね! もしも家庭を持ってから観たら、また違う味わいになるんでしょうねぇ。

 わかりやすく例えると、『惑星ソラリス』は『スター・ウォーズ』の真逆の SF映画ですし、『ストーカー』は『エイリアン』あたりの真逆になるでようか。とすれば、今回の『鏡』の正反対に位置するのは何かと思いを巡らせれば、「主人公が半生を振り返る」という文法にこだわるのならば、それはやっぱり時代はだいぶズレますが『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)になるのではないでしょうか。
 かの作品と比べれば一目瞭然かと思われるのですが、ふつう過去と現在を行き来するドラマを作るのならば、過去編と現在編を誰が見ても違いが分かるようにきっちり区別するのが定石であるはずです。『鏡』も、序盤こそおとなしくモノクロとカラーでシーン分けをしたりして一見時間の区分を観やすくしているように見えるのですが……「あれ、この子アレクセイ? イグナート?」というひっかかりが出てきたかと思うと、一瞬にして常識的な構造など存在しない異次元世界に突入してしまうのです。こわ~!!

 今作『鏡』は、半分以上タルコフスキー監督の自伝的作品といった感じなのですが、監督の半生を編年体で描くような大河ドラマ的なベタな作りであるはずがなく、かといって監督の視点から彼自身が体験した印象的なエピソードをピックアップしてつづるような紀伝体の形式も取っていないのです。
 じゃあ一体全体どんな構造なのかと言いますと、まさしくタルコフスキーお得意の表現パターンともいえる「水」のごとく、自分自身が変幻自在に姿を変え時空を超え、時には自分以外の母マリアや息子イグナートの肉体や脳をも取り込んで主観視点を変えていくという、『ターミネーター2』の T-1000か、虫好きの子ども達にとっては衝撃のトラウマ生物であるハリガネムシのごとき融通無碍な、もはや構造とも言えない超構造になっているのです。例えがひどい! 閲覧注意!!

 アレクセイでもあり、母でもあり、息子でもあるというこの主格のメタモルフォーゼは、確かに見る人によっては非常に混乱する横揺れ感がありますし、よくよく観てみると、タルコフスキー監督はかなり巧妙に物語の中に徐々に「破綻」を混入させており、最終的には画面に映っている情景の時間軸がいつなのかが全くわからない、過去と未来、別の時代の同じ人格がいたるところに混在するカオス状態となって完結します。でも、これは当然ながら監督の腕が足りないとか、時間や予算などでの制作上の制約があったからとかいう破綻ではもちろんなく、タルコフスキー監督が「人間の記憶なんか混在して当たり前でしょ。」という確信をもって映像化した、非常に理路整然とした混沌であるわけなのです。混沌を創造するもの、これすなはち神! 映画の神に敢然と挑まんとする者、タルコフスキー!!

 要するに、数百数千年、へたしたら数億年の時を経て地上に流れ出してきた水の流れが、その土地に住むさまざまな人々の生き様や喜怒哀楽を通り抜け、次第にその色や粘性を変えていくさまを108分で描き切った作品こそが、この『鏡』なのでありましょう。
 なので、この大河を楽しむためには、いちいち赤が混ざっちゃったとかにごってきたゾとか細かいことなんぞ気にせずに、尽きることのない奔流の、一瞬として同じ表情を見せることのない無常の美を見つめることが一番なのではないでしょうか。すごい! タルコフスキー meets 鴨長明!!

 いや~、やっぱりタルコフスキー監督の水好きには意味があったのだなぁ。自分でもあり、他人でもある! タルコフスキー監督は『新世紀エヴァンゲリオン』をさかのぼること20年以上前、すでに人類補完計画のありようを世に問うていたのだ。ま、提唱したところで所詮、世界人類には早すぎたわけなのですが……

 他の作品を観ていないので確たることは言えないのですが、本作は、少なくとも『惑星ソラリス』や『ストーカー』に比べると外的、政治的味わいが強いといいますか、わりと唐突に昔の歴史的な記録映像が流れだしてきます。そしてそれ以上に、バッハをはじめとするバロック音楽がふんだんに使用されていることからもわかる通り、キリスト教のかおりが非常に強いのも、今作の特徴なのではないのでしょうか。

 でも、いや、だからこそと言うべきなのか、本作はキリスト教の教えに沿わないような、どっちかというとロシア土着のやおよろずの神、みたいな自然の不思議な力がやたらと雄弁に前に出てくるような気がするんですよね。
 それに、「きれいごとだけで世の中生きてられっかよ!」みたいな、常にふてくされた表情でロシアの大地をつかつか闊歩する母マリアの姿も、宗教音楽で語られるような聖母マリアとはまるで違った女性像を提示しているような気がするのです。だいたい、消えたダンナに多少の未練は残してるとしても、アレクセイたちを育てるためにさっさと独立していきますもんね。

 でも、最後の最後のカットで老母マリアの歩く草原のはるか向こうに意味ありげに十字架をかたどった電柱がつっ立つカットの、その傍らにポツンとたたずむ若い母マリアの人影が、なんか猫背ぎみに腕を組んでタバコをスパーと吸ってるように見えたのは印象的でしたね。あれは、上の Wikipedia記事に挙げたような「十字架の前に赦しを請」うている態度にはじぇんじぇん見えないのですが……どっちかというと、「罪を背負って生きてくか~、めんどくせぇけど。」みたいなたくましさが、あんなに遠目でもビンッビンに伝わってくる雄姿でしたね。母は強し!!

 くだくだ申しましたが、タルコフスキー監督は、その身に深くしみ込んだキリスト教の思想を受け入れ、ダ・ヴィンチの画集に象徴されるようなヨーロッパ文化にあこがれを抱きつつも、最後にはそれを捨てて、ロシアの広大な大地に根ざす原始的な信仰に回帰していくかのような物語を描いているような気がします。ただ、最後の最後まで成人した現在のアレクセイが顔を出して主体的に動き出さないのは、やはりキリストの犠牲なくして現代文明の誕生なし、その長い長い不在を舞台設定に置きたかったからなのでしょうか。それとも、いずれ自分も父親のような「ダメおやじ」に堕してしまう、実際になりつつある、という宿命をかみしめ、また恐れているからなのかも知れませんね。そういったあたりに正面から挑んでいったのが、次作『ストーカー』での主人公のダメダメっぷりなのかも!? 自分がライオス王になってしまったとしみじみ自覚しているタルコフスキー監督にとって、自身がオイディプスに還ることができる場は映画の世界だけだった、ということなのでしょうか。

 でも、日本でタルコフスキー監督が人気なのも、わかったような気がしましたね。バッハだバロックだとヨーロッパ宗教的な味付けも多い作風なのですが、その本質にはきわめてアジア的なアニミズムが根ざしていることが、『鏡』ではっきりしたからです。理性と本能、静と動、理論と感情。その2大勢力の葛藤こそが、タルコフスキー作品の魅力の源なのですね~。タルコフスキー監督がもし芥川龍之介のキリシタンものを映画化していたら、どんなに美しい作品になったことか! 『奉教人の死』とかねぇ。遠藤周作の『沈黙』は、まんますぎて逆にだめですか。

 だいたい、日本の宗教でのイコンは仏像だとか神像だとかもあるにはありますが、神社の中のご神体の多くは「鏡」ですもんね! 製作技術的にどうしても写る像が歪んでしまうとかかすんでしまうとかいう事情もあるのでしょうが、昔の鏡は観る者をそのまんまはっきり写せない物がほとんどでしたし、鏡に写るものに神を見いだす文化は、日本でもふつうだったのでしょうなぁ。それじゃ相性もいいはずですよ!

 それにしても、しっかりした筋立てを持つ原作小説のある『惑星ソラリス』や『ストーカー』に比べて1時間前後短いとはいえ、今回の『鏡』はシーンごとの時空がピョンピョン飛び跳ねてしまうのでなかなか集中力のいる視聴になりました。あらためて振り返ってみると、池袋・新文芸坐さんの3本だてオールナイトの並び順、けっこう鬼だぞ! 集中力がいちばん途切れがちになる夜明け前に『鏡』て!! そういう苛烈な責め方が、いかにも東京らしいよなぁ。

 ただそれでも、タルコフスキー作品名物の「起きそでなんにも起きない」と「水ぜめ、水ぜめ、また水ぜめ!」の演出は健在すぎるほどに健在で、射撃場での子どものいたずらで投げられた手榴弾が爆発しないとか、母マリアが大雨の外から印刷工場に入って出勤のタイムカードを切ったのに、また外に出てずぶぬれになりながら自分の部署にダッシュするといったひとこまは、もはや笑わせにきているとしか思えない監督の心づくしを感じました。あれだけあおっておいて爆弾の一つも炸裂しないとは……「舞台に拳銃があったら、それは必ず発射されなければならない。」という名言を残したチェーホフと同じ国に生まれた映画監督とは思えない、ケンカを売るかのような演出! そういえば作中でもチェーホフの戯曲の登場人物が茶化されていたけど、監督はチェーホフ的な演劇論がお嫌いなのかな? そうだろうなぁ。
 ほんと監督は、水が好きだよねぇ。でも、本作はまるで透明の怪獣が森や草原を通り過ぎていくかのように、生い茂る草木がざわざわとなびいていく風の動きをカメラに収める演出も特徴的でしたよね。序盤の通りすがりの医者のシーンなんか、どこからどう見ても不審者にしか見えない自称医者の男が、去り際の草原の動きでいっきに「まれびと神」にまで持ち上がってっちゃったもんね! 結局なんだったんだ、あのオヤジは!? 農場の柵、ちゃんと直してから行けや!!

 ま、そんなこんなで数年来の遺恨だった『鏡』をやっと最後まで観たわけだったのですが、やはりタルコフスキー監督の代表作と言われてもおかしくない濃度の作品だったかと思います。でも、難解だと思いだしたら果てしなく難解になる不思議な一作でした。まさに、考えるな、感じろ!!
 「自伝」と言って、これほどまでに正直に時空が混在した感覚を映像化するのは、やっぱり天才の仕事ですよね。実際、過去が現在の生き方を激しく揺り動かすのはよくあることだと思いますし、現在が過去の出来事を都合のいいようにゆがめるのも日常茶飯事ですよね。結局は、どちらも独立しては成りたたないものなのです。

 でも、タルコフスキー作品に登場する俳優さんがたはほんとに魅力的ですよね。前作『惑星ソラリス』で観た顔がちょいちょい出てくるのもうれしかったのですが、ほぼ主演格で出ずっぱりだった母マリア役のテレホワさんもさることながら、少年時代のアレクセイが好きだったという赤毛で唇の切れた少女もかわいかったなぁ。あの酷寒のロシアの地で、さすがに生足ではないにしても短めスカート絶対領域ファッションを断行するとは……根性ありますね!

 今作でも、女性のたくましさと男性のダメダメさを痛感したタルコフスキーワールドなのでありました。おやじぃ~!

 父ちゃんはな、父ちゃんはな……父ちゃんなんだぞ!!(『正調 おそ松節』より)
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在りし日の名曲アルバム  鬼束ちひろ『陽炎』

2015年09月12日 22時16分21秒 | すきなひとたち
鬼束ちひろ『陽炎』(2009年9月2日リリース UNIVERSAL SIGMA )

時間 11分13秒

チャート最高順位13位(オリコン)

 『陽炎(かげろう)』は、鬼束ちひろ(当時28歳)の17thシングル。
 本作も前作『帰り路をなくして』と同様に、「レコーディングの都合」として公式サイト以外でのプロモーション活動は行われなかった。CD ジャケットのイラストは、画家の東學(あずま がく 当時45歳)による書き下ろしの墨画で、鬼束本人をイメージして描かれている。鬼束が東の墨画に感銘を受け、直接個展に赴いてオファーしたことから、本作でのコラボレーションが実現した。


収録曲
作詞・作曲  …… 鬼束ちひろ
プロデュース …… 坂本 昌之

1、『陽炎』
 バンドサウンドを主体としたロックバラード。「日本の美」をテーマに、春夏秋冬の情景を取り入れたラブソングとなっている。

2、『愛の台詞』
 ロックンロール色の強い楽曲。歌詞にはマリリン=モンロー、ジェイムズ=ディーン、エルヴィス=プレスリー、ジーン=ハーロウといった往年のスターたちの名前が登場する。




《本文まだまだ》
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在りし日の名曲アルバム  鬼束ちひろ『帰り路をなくして』

2015年09月03日 23時07分44秒 | すきなひとたち
鬼束ちひろ『帰り路をなくして』(2009年7月22日リリース UNIVERSAL SIGMA )

時間 10分34秒

 『帰り路をなくして(かえりみちをなくして)』は、鬼束ちひろ(当時28歳)の16thシングル。
 本作は「レコーディングの都合」を理由に、公式サイト以外でのプロモーション活動は行われなかった。オリコンウィークリーチャート最高13位を記録した。


収録曲
作詞・作曲  …… 鬼束ちひろ
プロデュース …… 坂本昌之

1、『帰り路をなくして』
 ピアノ、ストリングス、およびバンドサウンドで構成されるバラード。歌詞は本人曰く、「仕事に、人生に疲れた男たちの応援歌」として、「光と闇」をテーマに制作された。

2、『 I Pass By Darksmoke Version 』
 英語詞による楽曲。これまで主にピアノやキーボードを用いて作曲を行ってきた鬼束にとって、初めてギターを用いて作曲した作品。アコースティックギターのみによる構成で、本作のオリジナルバージョンは、同年10月28日発売の5thアルバム『 DOROTHY 』に収録されることとなった。本作のギター演奏は、フュージョンバンド「 PARACHUTE(パラシュート)」のギタリストで、スタジオミュージシャンとしても活動している今剛(こん つよし 当時51歳)によるものである。




《イヤンなっちゃう本文マダヨ》
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