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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

なんで今さら!? 10年前の Jホラー映画を観てみよう ~映画『零 ゼロ』~

2025年07月14日 23時40分49秒 | ホラー映画関係
 どもどもみなさま、こんばんは。そうだいでございます。
 いやもう、毎日あっぢぃくてあっぢぃくて……これもう、南東北地方も梅雨明けしてんだろ!
 私の職場では毎年、市の夏祭りで出店を出してまして、今年は再来週にその祭りがある予定なのですが、今からもう恐ろしくてなんねぇよ……どのくらいの酷暑になりそうなのか、わかったもんじゃねぇや!

 というわけで、今年もすでに梅雨明けする前から夏本番が始まっているかのような惨状に突入しているわけなのですが、今回は夏といえばこれ!ということで、ホラー映画の話題といきたいと思います。
 いや、ほんとだったら今ごろ、辻村深月先生原作の最新映画『この夏の星を見る』の感想記事でも上げてそうなものだったのですが、なんてったって肝心の映画上映が山形県ではまだなもんなので。しょうがないので別の映画にしちゃうわけです。

 この夏のホラー映画といえば、矢口史靖監督の『ドールハウス』(6月公開 主演・長澤まさみ)と、我が『長岡京エイリアン』のホラー映画関連の記事でもしょっちゅうその名が挙がる「1990年代ホラー映画界の女帝」菅野美穂さまがかなり久しぶりにこの業界におもどりになられた、白石晃士監督の『近畿地方のある場所について』(8月8日公開予定)の2作がかなり話題になっているようですね。
 どちらの監督さんも、矢口監督は TVのオムニバスドラマ『学校の怪談 春の呪いスペシャル』(2000年)内のエピソード『恐怖心理学入門』(主演・安藤政信)で、白石監督は映画『貞子 vs 伽椰子』(2016年)で日本ホラー史上にその名を残す方々ですから、決して観客の期待を裏切る出来のものにはなっていないでしょう、たぶん……このお二人に限ってそういうことはないでしょうが、近年は「え、お前ほどのビッグネームで、その出来!?」と愕然としてしまう、やたら監督の名前だけ有名なホラー映画まがいがチラホラしていますので、なんか二の足を踏んじゃうのよね。最悪、怖くなくてもいいから、少なくとも鑑賞前より気分が悪くなる映画を作るのだけはやめていただきたい。

 『ドールハウス』は、まだ映画館でやってるのかな。ちょっと観に行くタイミングを逸してしまいました。ホラー映画とは関係ないのですが、私は矢口監督の作品といえば、なんてったって『ひみつの花園』(1997年)が大好きで。主演の西田尚美さん(当時27歳)が、失礼ながら今からは想像もつかない程にかわいくてかわいくて! 予算のタイトさを全く隠そうとしないインディーズな姿勢に賛否は別れるかも知れませんが、私は大学生時代に VHSビデオを買って夢中になってました。

 そんなわけで今回は、『ドールハウス』ではなく、なぜか10年も前に公開された「ちょっと本線からはずれた」ホラー映画にスポットライトを当ててみたいと思います。
 え? なんで今さらこの作品なのかって? そりゃ、このひどい暑さを中条あやみさんの涼しげな美貌で吹っ飛ばしたいからに決まってるでしょうがぁ!! その中条さんも、今や立派な人の妻ってわけよぉ。時の流れを感じますね……


映画『零 ゼロ』(2014年9月公開 105分 角川大映)
 『劇場版 零 ゼロ』は、大塚英志によるホラー小説『零 女の子だけがかかる呪い』(2014年8月刊 角川ホラー文庫書き下ろし)を原作とした青春ミステリーホラー映画である。制作と配給は角川書店。興行収入1.2億円。

 原作小説の作者である大塚による角川ホラー文庫版のあとがきによると、本作の映画化を前提としたゲーム『零』シリーズの制作スタッフとの打ち合わせの場では、すぐにオーストラリアの幻想映画『ピクニック at ハンギング・ロック』(1975年 監督ピーター=ウィアー)の名が挙がり、そこから「女学校の寄宿舎の物語」や「少女が一人だけ生還する」といった設定が引用されたという。また、同じく寄宿制学校の物語ということで、萩尾望都の少女マンガ『トーマの心臓』(1974年連載)を翻案した青春幻想映画『1999年の夏休み』(1988年 監督・金子修介)や、「同じ演劇を繰り返し上演する」設定として、吉田秋生の少女マンガ『櫻の園』(1985~86年連載)やそれを原作とする映画(1990年版と2008年版の2作あり)のイメージも話題に上ったという。そのため大塚は、ゲーム開発スタッフの心の中に密かにあった、もう一つの『零』を小説化したと語っている。

 また大塚は、本作公開日の翌日に発売された『零』シリーズ第5作『零 濡鴉ノ巫女』のテーマが「水」であることから、本作も民俗学者・折口信夫の『水の女』(1927~28年発表)に代表される「神の花嫁」研究を物語の骨子にしたと語っている。
 原作小説は、大塚の妻で小説家の白倉由美の文章や、シンガポールのマンガ家フー・スウィ・チンのイラストもイメージ源にして執筆された。角川ホラー文庫版にはフーの挿絵も収録されている。

 監督・脚本を務めた安里麻里は、「都会的な女子高生ホラーではない、もうちょっとフィクション度の高いもの」を目指したという。ゲームの『零』シリーズが原作であることについては、「ゲームが持つ特殊な世界観は面白いチャレンジだった」と語り、また「今回の映画は女の子のために作られているような、女の子のためのホラーといってもいい側面があると思う」、「普段ホラーは見ないというような女の子にも見てほしい」と語っている。

 本作の内容はゲームの『零』シリーズとは直接の関係は無いが、主人公のミチが使用する小道具などとしてカメラが重要な役割を果たし、作中では二眼レフカメラ型、蛇腹が下開きで縦長方形のフォールディングカメラ型、左開きで横長方形のスプリングカメラ型、観音開きで横長方形のコンパクトカメラ型の4種類のカメラが登場する。
 本作の撮影ロケ地には、女学園の外観に明治二十二(1889)年竣工の旧・福島県尋常中学校「安積歴史博物館」(福島県郡山市)、女子寮の外観に明治四十一(1908)年竣工の旧・皇族有栖川宮別邸「天鏡閣」(福島県猪苗代町)、貯水場の場面に1932年竣工の旧・芦山浄水場跡(茨城県水戸市)が使用された。
 安積歴史博物館は2022年3月に発生した福島県沖地震で被災したため、2025年7月現在まで休館となっている。


あらすじ
 2月10日。ある地方の山の上にある、ミッション系の全寮制女学園。女生徒のカスミは、同級生の中でも最も美しいアヤに憧れを抱いていた。アヤは「午前0時になる千分の一秒前。写真にキスをすれば、同じ呪いにかかる。」と語る。そして写真にキスをした少女は、次々と失踪してしまうのだった。これは神隠しなのか、それともアヤがかけた呪いなのか。女の子だけにかかる呪い、その正体とは……


おもな登場人物
月守 アヤ(つきもり あや)…… 中条 あやみ(17歳)
 本作の主人公。女学園の高等科3年生。女学園の中で最も美しいと評判の少女で、周囲からは憧れのカリスマ的存在。卒業間近の2月3日から1週間、寮の部屋に閉じこもってしまう。

風戸 ミチ …… 森川 葵(19歳)
 もう1人の主人公。女学園の高等科3年生。写真撮影が趣味で、卒業後に写真家を目指して東京に上京しようか悩んでいる。友人が次々と神隠しに遭ったことを機に、アヤと共に事件の謎に迫る。

鈴森 リサ …… 小島 藤子(20歳)
 女学園の高等科3年生。同級生のアヤに憧れる。イツキの親友。好きな色はオレンジ。金持ちの御曹司との見合いの縁談が進んでいる。

菊之辺 イツキ …… 美山 加恋(17歳)
 ネイルサロンを開くことを夢見る女学園の高等科3年生の生徒。親友のイツキが憧れているアヤに嫉妬し、生徒達が失踪するのはアヤが呪いをかけたせいだと信じている。

野原 カスミ …… 山谷 花純(17歳)
 女学園の高等科3年生。ミチの友人で、アヤに憧れを抱いている。やや内気な性格。卒業後は短大に進学する予定。

藤井 ワカ …… 萩原 みのり(17歳)
 女学園の高等科3年生。アイドルになることを夢見るマイペースな生徒。眼鏡をかけている。

リツコ …… ほのか りん(17歳)
 女学園の高等科3年生クラスの学級委員長。

麻生 真由美 …… 中村 ゆり(32歳)
 女学園の教師を務めるシスター。花の園芸栽培に詳しい。弟で学園の用務員の崇と同部屋で生活している。

麻生 崇 …… 浅香 航大(22歳)
 真由美の弟で、女学園の用務員。右足が不自由で常に引きずって歩き、人との会話が苦手で寡黙。園芸栽培が得意である。

メリーさん …… 中越 典子(34歳)
 女学園のふもとの町に住んでいる、全身をゴスロリ風衣装でかためてウィッグをつけた女性。女学園の卒業生だと自称しており、彼女が在学していた頃から「午前0時の呪い」の噂は存在していたと語る。遅くとも明治時代から町にある古い写真館の家の娘だったが、現在は写真館は廃業して地元のコンビニに加工パン食品をおろす工場でパート勤務をしている。本名は草薙和美。写真撮影が趣味の小学生の息子・進がいる。

学園長 …… 美保 純(54歳)
 全学園生徒70名弱、教員シスター4名のミッション系の全寮制女学園「セイジツ学園(字が不詳)」の学園長。

唐津 九郎(からつ くろう)…… 渡辺 裕也(31歳)
 女学園の失踪した生徒5名の葬儀を執り行った業者の、スキンヘッドの男。死体に触るとその死体の声(残留思念)が聞こえる、イタコに近い霊能力を持っている。普段は不愛想だが正義感が強く、困っている人は放っておけない性格。「黒鷺宅配便」と名入れのされた黒塗りのクラシックカーを運転している。
 ※本作の原作を担当した大塚英志が同じく原作を務めるホラーマンガ『黒鷺死体宅配便』(作画・山崎峰水 2000年から角川書店のマンガ雑誌にて連載中)の主人公で、映像作品に登場したのは本作のみとなる(2025年7月時点)。

槙野 慧子(まきの けいこ)…… 柳生 みゆ(23歳)
 唐津と共に葬儀会社で働く、金髪に染めた髪の毛をハーフツインにした女性。アメリカに留学してエンバーミング(遺体衛生保全技術)の資格を取得している。陽気な性格で、アニメキャラのコスプレのような衣服を着ている。
 ※唐津と同じく『黒鷺死体宅配便』のレギュラーキャラクターで、映像作品に登場したのは本作のみとなる(2025年7月時点)。


≪原作小説と映画版との主な相違点≫
・原作小説の女学園の校名は「聖ルーダン女学園」だが、映画版の女学園は「セイジツ学園(字が不詳)」。
・聖ルーダン女学園は有名大学への進学率の高いお嬢様学校だが、セイジツ学園は大学進学の言及がある卒業生はいない(短大進学か就職)。
・原作小説のミチには、片方の目で霊が見える特殊能力があり、それを嫌って常に左右どちらかの霊が見える方の目に黒い眼帯をつけている(見える目は変わる)が、映画版のミチにその設定はなく物語の途中から両目で霊が見えるようになる。
・原作小説のカスミは高等科3年生クラスの学級副委員長となっているが、映画版ではその設定は言及されない。
・原作小説の女学園のシスターの名前は「鷺宮足穂(さぎのみや たるほ)」だが、映画版では「麻生真由美」となっている(弟の名前はどちらも崇)。
・失踪した生徒たちの遺体の発見される時間的推移と遺体の状況、リサが発見された経緯が、原作小説と映画版とで違う。
・原作小説ではアヤは謹慎の名目で女学園内の聖堂の塔に監禁されていたが、映画版では自主的に寮の自室に引きこもっている。
・原作小説ではメリーさんの本名は「山田和美」だが、映画版では「草薙和美」(息子の名前はどちらも進)。
・原作小説でいう神社が映画版の貯水場、「オフィーリアのアルバム」がメリーさんの実家の写真館の所蔵写真に置き換えられている。
・原作小説ではメリーさんと鷺宮足穂との因縁関係が明らかになるが、映画版ではメリーさんと麻生真由美との関係は全く言及されない。
・原作小説の方が唐津九郎と槙野慧子の出番が多い。2人が乗る車は原作小説ではワゴン車だが、映画版ではクラシックカー。
・原作小説では学級委員長のリツコが重要な役割を果たすが、映画版ではほぼ出番はない。
・原作小説では女学園に伝わる『オフィーリアの歌』の歌詞の内容が重要な意味を持つが、映画版では歌自体は唄われるものの物語には特に関係してこない。


 ……いや~ほんと、なんで2025年のいま、この作品を取り上げるのでしょうか。

 この映画の内容とは気持ちいいまでに一切関連が無いのですが、映画の原作にあたるゲーム版の『零』シリーズについての基本情報も、いちおう載せておきましょう。私、そもそもゲームをコーエーの歴史シミュレーションゲーム以外に全くやった経験がないので、このシリーズもぜんっぜん知らないんですよね……完全なる門外漢であいすみませぬ。


ゲーム『零』シリーズとは
 『零(ゼロ)』は、テクモ(現コーエーテクモ)から発売された日本のサバイバルホラーゲーム『零(ゼロ)』(2001年発売)を第1作とするシリーズである。シリーズ全体のブランド名は「 project zero」。
 カプコンの『バイオハザード』(1996年)のヒットから始まったサバイバルホラーゲームブームの時流にあった2001年12月に PlayStation 2で第1作『零』が発売され、日本国外版、リメイク、外伝なども含めて数多くシリーズ化され現在に至っている。
 シリーズ最大の特徴は、カメラを攻略アイテムや武器にしている点、西洋文化を背景にしたホラーゲームが多かった中で日本の文化もしくは和洋折衷の世界観にした点、幽霊や心霊現象による恐怖を演出している点などであり、映画『リング』(1998年公開)が火付け役となった Jホラーブームの時流に重なっていた。シリーズのソフト累計発売本数は、2014年時点で130万本。

 正統シリーズの第1作『零』、第2作『零 紅い蝶』(2003年)、第3作『零 刺青ノ聲』(2005年)、第4作『零 月蝕の仮面』(2008年)、第5作『零 濡鴉ノ巫女』(2014年)の5作品は、内容はそれぞれで独立しているが、登場人物の設定を中心に世界観や時間軸が繋がっている。
 時代設定は『零』が1986年、『紅い蝶』が1988年夏、『刺青ノ聲』が1988年12月、『濡鴉ノ巫女』が2000年前後となっている。『月蝕の仮面』は1980年代とされているのみで正確な時系列関係は不明である。
 正統シリーズ5作の他に、外伝作品として2012年にホラーゲーム『心霊カメラ 憑いてる手帳』(ニンテンドー3DS )が発売されている。シリーズの中では第4作『月蝕の仮面』の次に制作されたが、AR技術やジャイロセンサーなど3DS 本体の機能を駆使した作品となっている。

 ゲーム以外のメディアミックスとしては、2004年7月にゲーム第2作『零 紅い蝶』を基にしたテーマパーク向けホラーアトラクション『4D 零』、2014年には大塚英志の小説『零 女の子だけがかかる呪い』を原作としたホラー映画『零 ゼロ』、ホラーマンガ『零 影巫女』、2021年12月に第1作『零』を基にしたホラーアトラクション『デリバリーお化け屋敷 絶叫救急車 Ver.零』などが展開された。


 ……とまぁ、こういう感じですので、どうやら「少女が主人公」、「日本が舞台」、「カメラが重要なアイテムになる」という要素くらいしかゲーム版と映画版との間には関連性がないようです。なお、ゲーム版シリーズには共通して「麻生」という姓のキャラクターが登場するのだそうで、その点、映画版でも重要なキャラクターに麻生姓の人物がいるので、なにかしらのにおわせはあるのかも知れません。
 私みたいなゲーム版に全く疎い人間にとっては、映画を観ている最中に知らない要素が出てきて混乱してしまうおそれがまるで無かったので、ありがたいっちゃありがたかったのですが、それって正直、この映画が『零』を標榜する意味合いが希薄ということなのでは……これ、ゲーム版のファンの方々にとってはどうなの!? まぁ、中途半端に各方面に色目をつかった結果、『ドラゴンボール エボリューション』みたいなどの層からも支持されない激甚災害を生むよりはマシなのかな。

 映画版はおそらく、私のようにゲーム版のことを全く知らない客層も取り込むために、可能な限りゲーム版に依拠しない内容にしたのでしょうが、そうなると、そもそもこの映画が『零』である意味が限りなくゼロに近づいてしまうという、この狂おしいほどのアンビバレンツ……いちおう、この映画単体で見ても「午前零時の呪い」というオリジナル要素があるのでタイトルが『零』な理由はついているように見えるのですが、実際に観てみると、女学園内の真夜中の呪いの儀式のくだりが関わるのは映画の真ん中くらいまでで、それも実は生徒たちの連続失踪事件の真相とはさほど関係が無いブラフだったという肩透かしで終わってしまうので、そんなに題名にするほど『零』かぁ?という消化不良感が残ってしまいます。かといって、大塚さんの小説版のサブタイトル『女の子だけがかかる呪い』のほうがいいのかというと……こっちもこっちで女性層向けの作品にしてはセンスが、ねぇ。オヤジですよね。

 そいでもって、基本情報で字数もすでにだいぶかさんでしまいましたので、ちゃっちゃとこの作品を観た感想を述べてしまいたいのですが、


ぜんぜん怖くない……最初から最後まで「ジャンルが違うんで怖さで勝負してません」という言い訳がみなぎる、雰囲気映画ぞこない


 ということになりますでしょうか。言い方が非常に厳しくなってしまい申し訳ないのですが、ほんとにそんな感じなんですよ。ホラー映画としての腰が引けまくり! トム=サヴィーニ御大の爪の垢(ちょっぴりスパイシー)でも煎じて飲めい!!

 う~む。この映画、そもそも本編を観る前に基本情報を調べてみた時点で、原作者の大塚さんが『ピクニック at ハンギング・ロック』とか『1999年の夏休み』とかいうものすごい先人たちの名を挙げてるし、監督は監督で「普段ホラーは見ないというような女の子にも見てほしい」とかのたまってるしで、なんか「ホラー映画として見ないでください」って主張してる感が強いんですよね。それで実際に観てみたら、ああいう感じでしょう?
 ジャンルとして相当に難物な、監督の映像センスと俳優さんがたの高レベルで繊細な演技力が要求される「そっち方面」をあえて狙うという、その志の高さは買いたいのですが、それ、大ヒットしたホラーゲームの満を持しての実写映画化でやるべき企画かな!? 『零』シリーズのファンからしたら、よそでやっとくれって感じですよね。
 そもそも、大塚さんは「ゲーム版の制作スタッフと話してるうちにこの方向性の物語が引き出せた」と、意地悪に見れば責任逃れみたいな発言もしているようなのですが、これが本当だとしたら、それってゲームスタッフが無意識のうちに「これをゲームにしたって売れないよな」とボツにしていた構想を拾ったってことじゃないですか。いやいや、そんなぐだぐだな材料で映画作っていいのかね……ま、実際に映画になっちゃったから、いいのか。

 とにもかくにも、この映画はホラー映画なんだかファンタジー映画なんだかわかんない出来の作品になっていまして、いちおう青春ファンタジーとして観れば、なんてったって当時17歳の中条あやみさんの美貌を眺めてるだけである程度は満足できるし、福島県の2つの明治建築を外観に展開されるロケーションも素敵な作品となっています。今どきからすれば「105分」という上映時間も良心的ですよね。短くは感じませんが。
 ただその、やっぱり「ホラー映画」とか「『零』シリーズの映画化作品」として観てしまうと、厳しいところはあるんじゃないかなぁ。ネット上の評判がわりと賛否はっきり分かれてしまっているのは、この作品を「何として観るのか」という観客の想定によって左右するところが大きいからなのではないでしょうか。

 ただ、これだけははっきりと言えるのですが、この作品は「ホラー」、「ファンタジー」、「旬のアイドル青春もの」、どの方面においても「この作品でしか味わえない」という突出したなにかを持った作品にはなりえていません。ジャンルを一本に絞らずに逃げ道を作った。そのぐらぐらした姿勢のぶれが、全方位に詰めの甘さを残してしまう「器用貧乏」さ、いわば「多角的じゃなく無角的」の典型のような仕上がりを生んでしまったのではないでしょうか。あまい、丸美屋プリキュアカレーなみに甘い!!

 映画本編を最初から観ていって、他記事でやってる視聴メモのようにひとつひとつ気になるポイントを挙げていってもいいのですが、なんてったって2014年の、さほど話題にもならなかった映画を克明に追ったところでどうなんだという気もしますし、ましてや記事を前後編に分ける気にもなりませんので、非常にざっくりとではありますが、本作の詰めの甘さを象徴するような点をいくつか例示していきたいと思います。問題は他にももっといっぱいあるのですが、ほんとにちょっとだけ、かいつまんで!


〇中条あやみさんの小顔が、他キャストにとってかなりキツい
 これはアイドル映画として決して無視できない問題ですね。要するに、中条さんが異次元に小顔すぎるので、それ以外の十二分に美人であるはずの共演者の皆さんのスタイルが、相対的にふつうに見えてしまうのです。
 特に同級生役の小島藤子さんなんか、私も大好きなのですが、中条さんと並んでしまうと、なんとも難しいんですよね。中条さんにとっても不憫な話なのですが、この映画に出演して得をする女優さんが中条さん以外にいないという焼け野原な惨状が実に哀しいです……雑誌『 Seventeen』大人気モデルの競演という大看板を打ち出したアイドル映画なはずなのに、暗めな画面設計なうえに中条さん一強だから、なんだか寂しいんですよ!
 中条さんとダブル主演の森川葵さんも、やたらびっくりしたり呆然としたりする演技だらけで髪の毛もベリーショートだから、なんだか息つぎ穴から出てきたところをホッキョクグマに狩られる瞬間のアザラシみたいな表情ばっかりだし。
 ただ単体でかわいい女の子を集めたらいいって話じゃないんですね。大切なのは、並んだ時の見た目のバランスなんだなぁ。

〇監督の「引きショット多用癖」がホラーの雰囲気を致命的にそいでしまう
 具体的に言うと、中条さんが「冬枯れの沼の水面を歩いてくる」シーンと、「女学園の礼拝堂で天井から舞い降りて来る」シーンで、この作品の監督は、中条さんとそれを見て驚愕する人物の背中を丸ごと客観視する引き画面のショットを入れるのですが、これが驚くほど観客を「なんだ、ただ中条さんが来るだけじゃん。」と冷静に醒めさせてしまう逆効果を生んでしまうのです。人間が水面の上を歩いてきたり上空からふわ~と降りて来る現象は確かに超常的な現象ではあるのですが、その人間が学生服を着た華奢な少女であるという現実もまた、引きショットは平等に説明してしまうので、怖くもなんともなくなってしまうのです。中条さんだし、画としては美しいのかも知れませんが、なんだかこういう引きの画って、目の前で起きている異常現象に全く感情を揺さぶられない誰かが冷め切った視線で離れた場所から見ているようで、共感もへったくれもなくなっちゃうんですよ。
 別に美術館で絵を見てるんじゃないんですから……お話を楽しもうとしてくれてるお客さんを突き放すのはやめてほしいですよね。

〇音楽がひどい……メインテーマが『サスペリア』そっくり
 映画音楽がまるで無個性で、どのシーンでも全く印象に残らないのですが、ほうぼうの重要なシーンで意味ありげに流れるオルゴールみたいな曲が、女学園ものホラー映画の世界的な超有名作『サスペリア』(1977年)のメインテーマと瓜二つなのは、オマージュを軽く通り越して、もはや YouTubeかなんかの著作権対策でちょちょいっといじって作ったフリー音楽のようで安っぽいこと山のごとし! 流れるたびに「もうちょっと自分で工夫しろや!」という気分になってしまいます。また、よりにもよって『サスペリア』とは……いろんな大先輩にケンカ売ってんな!!

〇ゲーム版に関連は薄いくせに、全く無関係な作品のキャラがしゃしゃり出てくる
 これ、原作者の大塚さんが別で原作を務めているマンガ『黒鷺死体宅配便』の主要キャラ2人が、後半にかなり重要な役回りでゲスト出演してくることを言ってるんですけどね……
 いや、これゲーム『零』シリーズの映画化作品ですからね? それなのに、ゲーム版のキャラをさしおいて別作品のキャラが出てくるって、それ……やって誰が喜ぶの?
 百歩譲って、すでに『黒鷺死体宅配便』のほうが映画か TVで実写映像化されていて、そこに出ていたキャストがカメオ出演するとかっていう話ならば、それでも『零』シリーズのファンにとっては甚だ迷惑な話ですがありえそうな話ではあります。角川だし。
 でも、この場合はそれですらないんですよ……そんなん、本筋のマンガの実写化もまだないのによそさまの世界に突然出てくるんですから、『黒鷺死体宅配便』のファンの方々だって呆れかえりますよね。
 ほんとに、これ誰が喜ぶんだ……? 大塚さんのファンか? 大塚さんのファンにしたって、こんな筋の通らないことを「お遊びなんだから、そんな怒らないでよ。」みたいな顔して押し通す奴のファンだなんて、恥ずかしくてよそ様に言えなくなっちゃいますよね。

 いやはやこの世の中に、これほどまで観客が喜ぶビジョンが見えないゲスト出演があったとは……ま、そのゲスト出演したキャラを演じた2人のうちのひとりが、後に『ひみつ×戦士 ファントミラージュ!』で準レギュラー出演されていた柳生みゆさんだし、このくらいにしときましょ。
 ほんと、誰か止める人はいなかったのか?

〇中越典子さん演じるメリーさんのキャラがぶれっぶれ
 これは言うまでもなく、中越典子さんの演技力に難があると言いたいのではありません。ともかく、登場するシーンごとにメリーさんの人格と情緒が別人みたいに違っているのです。
 だいたい、このメリーさんのように、妙齢であるのにも関わらずしょっちゅうゴスロリ衣装に厚化粧をして町中を闊歩している人物って、なにかしら生活感のない、人間らしさを超越した「道化(トリックスター)」であり「越境者」であり、物語を終結へ導く「デウスエクスマキナ」にもなりえる存在だと思うのですが、そんなメリーさんが、ふつうに化粧を落として町のパン工場でパート勤めをして息子をちゃんと養ってるとか……どんな算段があって、そんな冷や水ぶっかけな舞台裏暴露をしちゃってるんでしょうか。せっかく作ったメリーさんの設定を、「単にそういうコスプレ趣味もある常識的な市民」におとしめてるだけなんじゃないの? いや、それはもったいないっつうか……じゃ、なんのためにメリーさんを用意した!?
 さらに、メリーさんは女学園のふもとの町に昔からある写真館の娘で、その素性が話の本筋にも関わってはくるのですが、それがなおさらメリーさんの浮遊性を地上に引きずり落とす効果も生んでしまうので、イメージ元になったと思われる実在の怪人「横浜のメリーさん」の足元にも及ばないフツー感にまみれてしまうんですよね。
 ある時は天衣無縫なコスプレおばさん(失礼ながら)、ある時は休憩スペースで疲れた表情で俯くパート主婦、またある時は息子を堅実に育て上げている母さん……こう書くと面白いキャラのようなのですが、主人公じゃないんでね。そのすべてが脈絡なくシーンごとにぶつ切りになってしまっているのです。
 うーん、これにはさすがの中越さんもお手上げでしたかね。ちゃんとキャラに血を通わせない作者の責任を、俳優さんに放り投げないでほしいですよね。


 とまぁ、その他にもいろいろ申したいことはあるのですが、それでも、繰り返しますが中条あやみさんの若き日のかんばせをぼんやり鑑賞するぶんには全く問題ない作品でありますので、お好きな方はどうぞ、という感じで。私としては、中条さんの魅力の源泉だと確信している部分がばっちり画面に収められているカットもありましたので、特にその点に関して不満はございません。ほら、冬の福島が撮影の舞台だから、観ていて十二分に涼しくなれるし。
 それ以外にも、「ノーハンドで顔からきれいにぶっ倒れる、森川さん入魂の失神アクション」とか、「水中にただよう少女が一瞬で中条さんに成長する CG演出」とか、はっとさせられるカットはあったので、中古で DVDを購入した甲斐はあったかな、と感じております。

 あぁ! あと、この映画でロケに使われていた安積歴史博物館って、2022年の地震のせいで閉鎖中なんでしょ!? そうなっちゃうと、今となっては、その端整なたたずまいをふんだんにカメラに収めた本作も史料的な価値が出てきちゃうのかもしんない。そうならないように、一日も早く復旧再公開していただきたいものですが。再開したら絶対に行きます、安積歴史博物館!

 うら若き17歳だった中条さんもそうですが、映画制作時にはあって当たり前だったものはすぐに失われ、いつしかフィルムの中にしか残っていないものになっていくんですねい。しみじみ!

 私も、一日一日の出逢いを大切に感じて生きていこう! 分不相応にしゃしゃり出ることなかれ……本日の教訓ヨ!!
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吸血鬼よりもブラック企業のほうが怖い!! ~『ノスフェラトゥ』2024~

2025年06月25日 23時52分25秒 | ホラー映画関係
 へいへいどうも! みなさんこんばんは、そうだいでございます。
 いや~、いよいよ暑くなってまいりましたが、お元気ですか~!?
 わたし、先日カンペキに体調を崩してしまいました……もうだめ! 身体が若い頃みたいにムリできなくなっちゃって。
 猛暑の中での作業でしょ、寝不足でしょ、夜中のドカ食いでしょ。一つ一つはやったことのある無理ではあったのですが、それがたまたま重なっちゃって、「なんか調子悪いなぁ。でも食えばなんとかなるか!」と思って『カリオストロの城』のルパン式に無理して食べたらよけいに悪くなってダウンしてしまいました……熱中症も何割か入っていたと思います。

 当然、その後は生活リズムを見直して今は全快バリバリなのですが、昔は何でもなかった無理が、ちょっといくつか重なっただけで簡単に機能停止におちいってしまうという事実に、恥ずかしながら生まれて初めて直面した思いで、内心けっこうなショックでした。でも、ぶっちゃけこのくらいの被害で済んでよかった……一生付き合ってかなきゃいけない病気が見つかったとかいう話じゃないのでね。
 健康は、本当にすばらしい宝物ですよ。ほんとに無理はせず、睡眠不足や暴食は厳禁でつつましやかに生きてまいりたいと思います。
 この辺の経緯を全然知らない人から、会ってすぐに「やつれた?大丈夫?」って言われましたからね……気をつけてこ、まじで。

 そんなこんなで、自業自得ながらひどい体験をした私だったのですが、最悪な状態でもなんとか仕事場から帰ってきて(体調が悪いときは自分で運転していて車酔いすんのね!)、やっとこさ家に入ったら、たまたまニンニクをふんだんに使った料理の香りが充満していて、それが完全ノックダウンのフィニッシュとなってぶっ倒れてしまったのでした。帰った瞬間、物理的にぶん殴られた感じ……
 いやぁ、ニンニクの香りって、普通の体調だとあんなにおいしそうなのに、なんで調子悪い時はあんなに攻撃的な匂いに感じちゃうんだろうか!? ものすごいクセと主張ですよね。

 ということで今回は、その時の私のようにニンニクにめっぽう弱いおじさんが登場する、この映画を観た感想をば、ひとつ。なんというグッドタイミングか……ニンニクに弱いわ、夏場に窓を開けてると夕方にコウモリが部屋に入ってくるわ、私はほんとに生身の人間なのだろうか!? 大好きが昂じるとだんだん好きな対象に似てくるって、ほんとなのねぇ。


映画『ノスフェラトゥ』(2024年12月公開 133分 ユニバーサル)
 『ノスフェラトゥ』(原題:Nosferatu)は、2024年のアメリカ合衆国のホラー映画。イギリスの小説家ブラム=ストーカー(1847~1912年)の怪奇小説『吸血鬼ドラキュラ』(1897年発表)を非公式に映画化したドイツの映画監督フリードリヒ・ヴィルヘルム=ムルナウ(1888~1931年)のサイレント映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)のリメイク作品。2015年から企画が進められ、2023年2~5月にチェコ各地で撮影が行われた。製作費5千万ドル、興行収入1億8千万ドル。

 監督・脚本を務めたロバート=エガースは、吸血鬼オルロック伯爵のキャラクター造形に関して『吸血鬼ドラキュラ』や、ドラキュラのモデルとなったワラキア公国君主ヴラド3世ツェペシュ公(1431~76年)の史話の他に、スウェーデンの映画監督ヴィクトル=シェストレムの幻想サイレント『霊魂の不滅』(1921年)からも着想を得ており、フランスの神経科医ジャンマルタン=シャルコー(1825~93年)のヒステリー研究も脚本執筆の参考にしている。またエガースは脚本に関して、ポーランドの映画監督アンジェイ=ズラウスキーの映画『夜の第三部分』(1971年)、『悪魔』(1972年)、『ポゼッション』(1981年)からも影響を受けたことを明かしている。

 オルロック伯爵役のキャスティングについてはダニエル=デイルイスやマッツ=ミケルセンなど複数の俳優が検討され、一時期は『吸血鬼ノスフェラトゥ』を題材にした吸血鬼映画『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』(2000年)でマックス=シュレック(オルロック伯爵を演じた俳優)役を演じたウィレム=デフォーも有力候補に挙がっていたが、2022年にビル=スカルスガルドがオルロック伯爵役として出演することが発表された。また、2023年1月にウィレム=デフォーらの出演も発表された。

 本作の撮影は2023年2月から中央ヨーロッパのチェコ共和国で始まり、3月には首都プラハのバランドフ撮影所でも撮影が行われた。同月末までにチェコ西部のロジュミタール・ポト・トジェムシーネム城、東部のペルンシュテイン城、プラハの退役軍人寮インヴァリドヴナで撮影が行われたほか、東ヨーロッパのルーマニア共和国西部のコルヴィン城でも撮影され、5月19日に撮影は終了した。撮影監督のジェアリン=ブラシュケは、映像について「19世紀のロマン主義を思わせる雰囲気」に仕上がっていると語っている。撮影には5000匹のラットが用意された。
 オルロック伯爵役のビル=スカルスガルドは役作りのために大幅な減量を行ったほか、オペラ歌手の指導を受けて声域を下げるトレーニングを行い、撮影には6時間かけて特殊メイクを施したという。これらの役作りに付いて、彼は「純粋な悪を呼び起こすかのようだった」と語っている。


あらすじ
 1838年、ドイツの港湾都市ヴィスブルク。
 不動産業に従事するトーマス=ハッターは、新しい土地売買の契約のために東ヨーロッパ・カルパチア山脈の奥地に棲むオルロック伯爵の居城を尋ねる。トーマス出張の間、彼の妻エレンは夫の親友フリードリヒとその妻アンナの邸宅で過ごすが、数年前に彼女の夢の中に現れた「彼」の幻覚と恐怖に、再び悩まされるようになる。それと時を同じくして、ヴィスブルクでは様々な災いが起こり始める……


おもなスタッフ
監督・脚本 …… ロバート=エガース(41歳)
撮影 …… ジェアリン=ブラシュケ(46歳)
配給 …… ユニバーサル・ピクチャーズ


おもなキャスティング
オルロック伯爵 …… ビル=スカルスガルド(34歳)
 古城で暮らす謎めいた貴族。その正体は吸血鬼(ノスフェラトゥ)で、ドイツに移住するために同国内の不動産を探している。生前に黒魔術に傾倒し、悪魔の呪いで魂を肉体に封じ込められたことで不死者ノスフェラトゥとなった。夜のみ活動することができ、朝日が昇り最初の鶏が鳴くまでに棺に戻らないと肉体ごと消滅してしまう。
 原作小説『吸血鬼ドラキュラ』におけるドラキュラ伯爵。

トーマス=ハッター …… ニコラス=ホルト(35歳)
 ドイツの街ヴィスブルクに暮らす青年。ノックの経営する不動産屋で働いている。
 原作小説『吸血鬼ドラキュラ』におけるジョナサン=ハーカー。

エレン=ハッター …… リリーローズ=デップ(25歳)
 トーマスの妻。孤独な幼少期を過ごし、そのころに守護天使に救いを求める願いをしたことでノスフェラトゥと精神的に結ばれてしまい、オルロック伯爵に狙われるようになる。
 原作小説『吸血鬼ドラキュラ』におけるミナ=ハーカー。

フリードリヒ=ハーディング …… アーロン=テイラージョンソン(34歳)
 トーマスの親友で裕福な海運業者。アンナの夫で2児の父。ノスフェラトゥの存在に懐疑的な人物。
 原作小説『吸血鬼ドラキュラ』におけるアーサー=ホルムウッド。

アンナ=ハーディング …… エマ=コリン(29歳)
 エレンの親友。夫のフリードリヒとの間に2児をもうけ、現在は第3子を妊娠中の身。
 原作小説『吸血鬼ドラキュラ』におけるルーシー=ウェステンラ。

アルビン=エバーハルト・フォン・フランツ教授 …… ウィレム=デフォー(69歳)
 スイス人の哲学者で、錬金術・神秘主義・オカルトに精通している。エレンとオルロック伯爵の精神的な結びつきを理解する唯一の人物。
 原作小説『吸血鬼ドラキュラ』におけるヴァン・ヘルシング教授。

ヴィルヘルム=ジーフェルス医師 …… ラルフ=アイネソン(55歳)
 ヴィスブルクの医師。ノスフェラトゥに悩まされるエレンの治療を担当し、恩師のフォン・フランツ教授を頼る。
 原作小説『吸血鬼ドラキュラ』におけるジャック=セワード医師。

ノック …… サイモン=マクバーニー(67歳)
 トーマスが働く不動産屋の社長だが、その裏でオルロック伯爵の下僕となっている。オルロック伯爵との土地売買の交渉人としてトーマスを起用するが、伯爵の影響で精神に異常をきたし、ジーフェルスの精神病院に入院させられる。
 原作小説『吸血鬼ドラキュラ』におけるレンフィールド。


 いや~、この映画たのしみにしてたんですよ! 結局、アメリカ本国での公開から半年以上たってやっと観られたわけなんですが、やっぱりこのくらいの上映館数の作品もちゃんと大スクリーンで観られる山形市は本当にいいですね。のちのちソフト商品か配信の形で観るのって忘れちゃうし画面はちっちゃいしで、なかなかいい出会いにはならないような気がするんだよなぁ。多少お金と手間ひまはかかっても、やっぱり映画は映画館で観るのが最高ですよね~。

 それで今回の『ノスフェラトゥ』2024なわけなんですが、この映画は上の情報にもあるように1922年のサイレント映画が元ネタで、私もこのオリジナル版は当然ながら大好きです。100年以上昔の映画なので今観ても怖いかといわれると難しいのですが、オルロック伯爵のビジュアルとノックの狂気の笑い演技は、今観てもなかなかに悪夢的ですばらしいですね。

 でも、実は私がこのオリジナル版以上にゾッコンこよなく愛しているのは、1979年にヴェルナー=ヘルツォーク監督がリメイクした西ドイツ映画の『ノスフェラトゥ』なのでありまして、オルロック伯爵役はあの伝説の「全身これ怪優」クラウス=キンスキーさま、そしてヒロインのエレンにはこれまた「怪」のつく美人女優イザベル=アジャーニという、とんでもないキャスティングの奇跡的怪作です。ぜ~んぶ「怪」がついちゃうよ! また、伯爵のせいでひどい目に遭うトーマスを演じているのが、『ベルリン・天使の詩』(1987年)二部作(クラウスの娘ナスターシャさまも出るヨ!!)や、そうとう後年にあの『ヒトラー最期の12日間』(2004年)で知られることとなる世界的名優ブルーノ=ガンツさんであることも見逃せません。チキショウメーイ☆

 この79年版『ノスフェラトゥ』はね、本当に大好きです、愛してます。ヘルツォーク監督のクセの強すぎる美学が炸裂しまくっている逸品ですよね。と言っても、私がヘルツォーク監督の作品の中で一番好きなのはこの作品ではなく『フィツカラルド』(1982年)なのですが、この監督は『アギーレ 神の怒り』(1972年)もいいし『コブラ・ヴェルデ』(1987年)もいいしねぇ……全体的に評価ゲージが振り切れている傑作ぞろい! まぁ、あくまでも私個人の中での絶賛なので、人によっては「セリフが少なくて話が全然わからない」とか「起伏がない!眠い!!」という向きも多々おられるかもしれませんが。そこがい~の!

 我が『長岡京エイリアン』でも、かな~り昔にこの79年版『ノスフェラトゥ』の話はしたので、そっちのほうの面白さは深くは触れませんが、79年版はちょっとホラーとは言いがたい「芸術的に不吉な映画」になっておりまして、そんなに怖くないという意味では22年のオリジナル版と同様なのですが、もはや「ヘルツォーク映画」としか言いようのない全く別種の映画になっていたと思います。同じ話なはずなのに、22年版と79年版はびっくりするほど味が違うんですよね。ラーメンとひやむぎくらい違う!
 そんなに触れないと言いつつ、それでも大好きなのでちょっとだけ語ってしまいますと、79年版は吸血鬼ノスフェラトゥになってしまったオルロック伯爵を、全く悪者に描いていないんですよね。ちょっとした生き方の違いで、人類全体から忌み嫌われる病原体になってしまった哀しき存在で、その永遠の生を無言で受け入れてくれるのはカルパチア山脈の厳しい自然のみ。そしてそんな伯爵が、よせばいいのに文明社会や他人との愛にあこがれてしまったがために破滅、したかと思いきや……という、冷徹に扱っているようでいて、伯爵への限りない共感と慈愛のまなざしを送り続けている79年版は、とっても心地よく不吉な映画なのです。22年版にも、今回の2024版にもないオリジナルな結末は、愛というより他ないですよね。まさかの伯爵ハッピーエンド!
 不吉な予兆に満ちた静寂、誰にも相手にされない孤独というものが、こんなに甘美であるとは……79年版は非常にヤバい映画です。毎日観ていいもんじゃないですね。

 こんな感じで、映画史的にもかなり重要な長兄(102歳年上)と、クセ強すぎてホラー映画でなくなってしまった次兄のいる超名門「ノスフェラトゥ家」の末っ子として生を受けた今回の2024年版なわけなのですが、2人の兄はどちらも偉大でありながらも、「怖さ」という点では勝負していないので、実はそんなに高いハードルにはなっていないという不思議な家庭環境の中で、一体どのような作品になったのでありましょうか!?


怖い、エグい、美し……い? でも「不吉さ」はしっかり継承している大傑作!! 


 こういう感じでございました。非常に面白かった!!

 いや~、実に見ごたえのある最新型の吸血鬼映画でした。でも、オリジナルストーリーでもなく『吸血鬼ドラキュラ』でもなく、ちゃんと『ノスフェラトゥ』でなければならない味わいのある、新しくも古めかしい、斬新で鮮烈ながらも古典的なロマンに満ちた作品でした。

 そうなんですよ! この作品、ドラキュラ系じゃダメなんですよ。その二次創作が発祥であるノスフェラトゥ系じゃなきゃいけないのです! ここを見失っておらず、ノスフェラトゥとしての独自性を大切にしていたのは本当に素晴らしかった。

 上の情報にもある通り、まず映画『ノスフェラトゥ』が、イギリスの怪奇小説である『吸血鬼ドラキュラ』のドイツアレンジ二次創作であったという事実は見逃せないのですが、その一方でクライマックスの「吸血鬼の倒し方」において、かなりオリジナルな展開が盛り込まれている点が、決して無視できません。
 『ノスフェラトゥ』が、小説&戯曲『ドラキュラ』の著作権無許可映画であることは非常に有名なのですが、これは単にムルナウ監督が海外フィクション作品の著作権許諾ルールへの認識がゆるかったことから起きてしまった単純なミスであって、確信犯的にパクったという問題ではなかったのではないでしょうか。パクったにしてはあまりにもガードが甘いのです。
 まぁ『ドラキュラ』が、映画を作る時点ですでに25年前に発表された小説だったし、そもそも文庫本にして550ページくらいある(創元推理文庫版)大長編をたかだか90分ちょいの映画(しかもセリフの無いサイレントで!)にする時点でそうとうな改変が加わることは必定だったので、ムルナウ監督側も「こうした方が映画的におもしれーぜ!」というノリで自由気ままにドイツナイズして、「だいぶ原作から変わっちゃったな。もう許可もらわなくてもいいっしょ!」と判断してしまったのが真相だったのではないでしょうか。ストーカー夫人なめんなよ!!

 なので、『ノスフェラトゥ』はある意味、原典の『ドラキュラ』以上にナチュラルにヨーロッパの滋味をふくんだ、オリジナルみの強い吸血鬼物語になっているのです。結果的にはパクリ作品なのに、原典以上に吸血鬼伝承の味わいを継承してるって、こりゃ一体ど~いうこと!? ま、『ドラキュラ』の作者ブラム=ストーカーが東欧に一度たりとも行ったことがないっていう話は有名ですしね。ヨーロッパ風カレーを日本のそば屋のおやじが厨房のありもんで作ったら、なぜか元ネタよりも本家に近いインド風カリーになっちゃったみたいな。なんだこのたとえは。

 『ドラキュラ』にない『ノスフェラトゥ』の魅力。それは、

1、長大な大河群像劇だった原作小説の大胆なダウンサイジング&ロマンあふれる退治法
2、吸血鬼伯爵の「怪物感」の強調

 この2つが大きいのではないでしょうか。

 まずポイントの1、についてなんですが、原作小説『吸血鬼ドラキュラ』は、ドラキュラ伯爵という絶対的な悪役キャラを中心軸にすえつつ、それと対峙する人間側の主人公をあえてコロコロ交代させるリレー形式にして、無名の人々が結集し団結することによって伯爵という超人を打ち倒すという壮大な群像劇となっています。小説自体も、一見なんの関連性も無いような日記、新聞記事、契約書類、電報、医療カルテなどのパッチワークという実験的な構成になっているので、その点、これをまともに忠実に映像化したら2、3時間なんかでは収まらない上映時間になることは火を見るよりも明らかです。ほんと大河ドラマ。
 しかも、人間側の主人公が代わるということはつまり、前半であんなにスリリングな体験をしてドラキュラ伯爵の恐怖を体感した不動産屋社員のジョナサンが、中盤からほぼ空気みたいな存在になって、どこからともなく現れた吸血鬼ハンターのヴァン・ヘルシング教授がいきなり物語のハンドルを奪い取ってしまうみたいな流れになっちゃうので、読者からすれば、ちょっと誰に感情移入すればいいのかよくわからないブツ切り感も生じてしまうわけなのです。まぁ、その分ドラキュラ伯爵の牽引力がものすごいのでダレルことはないわけなのですが。

 こういった原作小説の難しさもあるので、歴代の『ドラキュラ』映像化作品は、内容を2時間前後におさめるための脚本上の工夫を強いられるわけで、ある作品は人間側の登場人物を統合・簡素化し(1931年『魔人ドラキュラ』)、ある作品はヴァン・ヘルシング教授を伯爵とタイマンはれるスーパーヒーローにして物語の主軸にすえ(1958年『吸血鬼ドラキュラ』)、またある作品は伯爵とヒロインのミナ(『ノスフェラトゥ』でいうエレン)との間に、原作小説ではついぞ無かった「400年ものの愛の因縁」を創作して無理矢理まとまりのあるロマンホラーに仕立て上げる(1992年『ドラキュラ』)といった、苦心惨憺の歴史が積み上げられていったわけなのでした。どれも違って、どれもいい!!
 でも、1992年のコッポラ監督版『ドラキュラ』の原題が『 Bram Stoker's Dracula』なのは、さていかがなものかと思いますけどね。しれっと「元祖」みたいな看板出してるけど、おめーもたいがいアレンジきかせまくりじゃねーか!! 中学生時代にこれを観てから原作小説読んでビックラこいたよ、あたしゃ……でも、深夜の雷雨でネグリジェがびっしゃびしゃに濡れたミナ役のウィノナ=ライダーさんが階段を駆け降りる時の「おっ〇いぷる~んぷるん♡」をフィルムに収めてくれた功により、この1992年版『ドラキュラ』は「永世100点満点映画」とさせていただきます。コッポラ版ドラキュラを悪く言うのは、このわしを倒してからにせい!!

 こういった、なみいる「本家ドラキュラ」系の映像化作品がありつつ、なんとそれらに先んじて小説『ドラキュラ』のショートカットに挑戦した1922年版『ノスフェラトゥ』の功績には、絶大なものがあります。
 簡単に言いますと、『ノスフェラトゥ』は小説でいう前半の主人公「ジョナサンとミナ夫妻」を物語の最後まで主軸からずらさずにつらぬき通し、伯爵を倒すのもまた、夫(ジョナサン / トーマス)の敵討ちを狙うヒロイン(ミナ / エレン)にすることで、一本筋の通ったお話にしているのです。もちろん、これによって物語のスケールは原作小説とは比較にならないこぢんまりしたものになってはしまうのですが、余計なぜい肉がそぎ落とされて実に映画っぽい怪奇譚にまとまってくれるわけです。

 これによって、前半のトーマス出張パートの全体に対するパーセンテージが大きくなってしまうので、必然的に「出世をちらつかせられてヨーロッパ奥地のとんでもない僻地にぶっ飛ばされる新婚社員」という、ブラック企業全盛の現代日本すらほうふつとさせる「サラリーマン残酷物語」成分がいやがおうにも高まってしまうのは否めません。ましてや、今作は気候的にカルパチア山脈がとんでもない厳寒になっている中での出張なので、険しい山道ながらもどこか牧歌的な雰囲気も漂っていた22年版や79年版とは比較にならない不動産営業職(35歳男性)のつらさが強調されまくっているのです。
 トーマスかわいそう!! もはや吸血鬼がどうとかいう以前の恐ろしさですよ。上司のノックの口先ひとつで死にかける体験をさせられる若者の悲哀! 100年経っても全く風化しないどころか、ますますリアルに身に迫ってくるブラック企業の恐怖が、ここに!!

 さて、このようなトーマス夫妻のクローズアップによってあおりを食らうのは当然、そのぶん大幅に出番を減らされる後半の主人公たちであるわけでして、特に本家ドラキュラ系では吸血鬼ハンターの名をほしいままにしているヴァン・ヘルシング教授(単独主人公のホラーアクション映画もあるくらい!)が、ノスフェラトゥ系のフォン・フランツ教授になると途端に、実戦では何の役にも立たないモブお爺さんになってしまうという弊害がありました。

 ところが今回の2024年版のすばらしいところは、この「ヴァン・ヘルシング教授のデバフ問題」にも独自のフォローを加えている点なのでありまして、今作ではなんと、エレンに例の「身を挺しての吸血鬼退治法」をアドバイスしたのは教授だったという、それなりに重大な役割を持たせるアレンジを加えているのです。これはいいですね!! これで教授にも立つ瀬ができます。79年版なんか、役に立たないうえに警察にとっつかまってたもんね。
 この貢献度の大幅な上昇は、当然ながら今作で教授を演じたのが、ご本人もかつて番外編的作品『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』(2000年)でノスフェラトゥを演じたことのある名優ウィレム=デフォーさんだったという事実も大きな影響を与えている気がします。そらそうよ、あのデフォーさんを呼んでおいて何の役にも立たないお爺さん博士にするわけがないですよね!
 それにしてもしみじみ感じ入ったのですが、デフォーさんもいいお爺さんになったな……なんか髪型と口ひげもあいまって、ずっと稲川淳二にしか見えなかったもんね。デフォーさんって、けっこう小柄なんですね(身長169cm らしい)。全然そんな印象なかった。顔の迫力が190cm くらいだもんなぁ。

 ともかく、『ノスフェラトゥ』はお話のサイズを、あくまでも「世にも怪奇な体験をした夫婦のはなし」の範疇におさめているので、ある意味で現代の日本でずっと流行っている「実録系怪談」のご先祖さまと言える、映画として実にすわりのいい形になっていますし、なおかつ肝心カナメの伯爵の退治法についても、むくつけき男どもが伯爵の寝ている棺桶を追いかけ回して、太陽が出て伯爵が動けない内に胸に杭を打って首をぶった切るとかいう、原作小説の実もフタもない正攻法ではなく(こっちのほうが実に効率がいいのですが)、美しい新妻が自らの若さと血液をもって吸血鬼を夜明けまでにベッドに釘付けにするという、これをロマンと言わずして何と言おうという艶っぽい作戦にしているのが本当にすばらしいです。
 いや~、このオチを考えついた時点で、もう『ノスフェラトゥ』は『ドラキュラ』の二次創作なんかではありえなくなっちゃってるんですよね! だって、どっからどう見ても『ノスフェラトゥ』オチのほうが美しいに決まってるんだもん。

 まぁ実際に考えてみれば、エレンが一体何時間伯爵を引き留めなきゃいけないんだというキビしさもあるのですが、そこはそれ、ロマンですから。そういえば、これまた今回の2024年版独自のアレンジとして、夜明けの一番鶏が鳴くちょっと前に、伯爵が顔を上げて朝が近いことに気づきつつも、何かを諦めたかのように再びエレンの胸に顔をうずめるという一瞬の描写がありました。これも良かったですね! 伯爵はエレンの真意に気づき、彼女の献身的な愛もまたかりそめであることを知りつつも、そのつかの間のしあわせに殉じて自ら破滅の道を選んだのです……哀しい! 実に哀しいなぁ!! でも誰にだってそういう、後先考えずに「もうどうなってもいいや……」な感じになっちゃう瞬間って、ありますよね。深夜の大食い超厳禁! 夜店のタンメン!!

 ついついポイント1、の話が長くなってしまいましたが、もうひとつの2、に関して言いますと、原作小説では恐ろしい容貌をした老人から、血を吸うたびに若返り貴族然とした紳士になっていく伯爵というスーパーヒーローっぽい要素があったのですが、『ノスフェラトゥ』ではそこがカットされて最初から最後まで人間離れした「コウモリ+ネズミ+人間÷3」みたいなおぞましい外見になり、それに加えて、原作ではそれほど強調されていなかった「大量のネズミを介して街に死の疫病をまき散らす伯爵」という属性が前面に押し出されて、伯爵の不吉さと人外感が原作以上に強調されているという独自性があります。
 特に、「吸血鬼=ペスト」というイメージの融合が今回の2024年版と79年版ではかなり意図的にクローズアップされていまして、79年版では無言の葬列と棺桶の散乱した街、そして真夜中の無人の広場をひらひら~と実に楽しそうに舞い踊る伯爵という間接的な描写で死の嵐がえがかれていましたが、今作では脇役のハーディング一家が、いたいけな2人の幼子にいたるまで伯爵と疫病の犠牲になっていくという直接的で容赦のないエピソードで語られていました。
 ちなみに、22年版も79年版もハーディング一家にあたるキャラの皆さんは完全なるモブにとどまっており、今作ほどひどい目に遭うことはありませんが、観客の記憶にも残らない空気と化しています。どっちがいいんだか……
 ちなみにちなみに、今作でいうアンナ=ハーディングにあたる原作小説『吸血鬼ドラキュラ』の第2ヒロインことルーシー=ウェステンラが、物語中盤の中ボスのような吸血鬼と化してかなりすごい名シーンの主役となることは、コッポラ版『ドラキュラ』でも有名ですね。血ゲボブッシャーでキャハハハハ☆ これに比べたら、人間としてすんなり死ねた今作のアンナのほうがいくばくか幸せか。

 また、イギリスで生まれたドラキュラ伯爵には、まだ百歩譲ってカッコよさや若返りの魔性をともなった魅力があったのですが、『ノスフェラトゥ』のオルロック伯爵には、ただひたすら死のもたらす恐ろしさとけがらわしさ、共感を全く持たせない虚無しかないのです。ここらへん、歴史的に本当にペストの恐怖が蔓延したドイツならではの伯爵アレンジと言えるのではないでしょうか。そして、実際に東欧で伝承されていた吸血鬼のロマンもへったくれもない汚さ、気持ち悪さに近いのは、明らかにドラキュラ伯爵よりもオルロック伯爵のほうなのです。

 そういう意味で、ヘルツォーク監督流にあいまいに死の恐怖を描いた79年版よりも、より直接的にエグく血なまぐさく伯爵の害毒を描いた2024年版は、どっちが良いのかは別としても、『ノスフェラトゥ』の独自な面白さをアップデートする、非常に意義のあるリメイクになったのではないかと思います。
 でもほんと、なんてったって元ネタが100年以上前のサイレント映画なんですから、リメイクも何もないんですよね。もう2024年版はどこからどう見ても、22年版とも79年版とも違う独立独歩な擬古典ホラー映画なんですよ。「古くさそう」とか「吸血鬼映画あんま知らないし」とかいう先入観で敬遠するのは全くの損です。ぜひともご覧いただきたい!

 ……とは言いつつも、そこはそれ、ここはひねくれまくったブログ『長岡京エイリアン』ですので、このまま絶賛で終わらせずに「ここはど~かな~」な点をいくつか言わせていただきますと、

やっぱり……ヒロインが……ロマン作品にしては……

 あの~、エレン役のリリーローズさん、なんでそんなに身体はってんの?
 まぁ、その全身痙攣ダンスといい、ベロを辛子めんたいこのように怒張させた顔面ショッキング演技といい、20代のみそらとはとても思えない覚悟の決まった体当たりな姿勢は実に好感が持てるのですが、「あなた、こんな仕事をして、これからどうやって生きてくつもりなの……?」みたいな、実家のお母さんみたいないらぬ心配を抱いてしまう身の捨てっぷりようなのです。それはもう、映画を観ずともちょっと検索したら画像が出てくるんですけど……ものすごいですよね。親父のジョニーも、『エルム街の悪夢』(1984年)でそんなには身体はってなかったよ?

 いや、わかります。イザベル=アジャーニだとかウィノナ=ライダー(親父ジョニーとの因縁!!)だとか、ポランスキー監督の『吸血鬼』(1967年)のシャロン=テートだとか、とかく先達の吸血鬼映画に出てくるヒロインは絶世の美女率が高いですから、そこに挑戦するのにいくばくかの危機感をおぼえたのは無理もないことなのです。
 でも、だからといって、全然違う方向性のインパクトを狙って「そっち」に行っちゃうとは……いや、確かに唯一無二のヤバさを持ったヒロイン像は間違いなく確立してくれましたが、純粋に伯爵が魂を奪われるほどの美女なのかと言われますと、その……

 でも、今作のエレンは現代にも通じる「生きづらい心の傷を負ったひと」という側面がだいぶ強調されていますので、リリーローズさんのアプローチに誤りはないと思います。誤りはないのですが……時代を超えて愛される映画って、そういうヒロインでいいのかな!?
 なんか、今回の『ノスフェラトゥ』を観て、直接の関係はないのですが、あの伝説の怪映画『ポゼッション』(1981年)って、イザベル=アジャーニさんがあの美貌でああいう役をやったから伝説になってるんだな、ということをつくづく認識しました。どの女優さんがああいうムチャクチャな演技をしてもいいって話じゃないのね。

 もうひとつの苦言としましては、2024年版のオルロック伯爵の姿が、醜いながらも若干、人間っぽい要素を残しているという中途半端さが気になりました。つるつる頭に真っ白い顔、ギョロっとした目つきにとがった耳と前歯という、22年版と79年版に共通していた独特すぎる容姿でなく、原作『ドラキュラ』前半の「口髭の老人」イメージをだいぶ残した、どれが一番近いかというと、あのジェス=フランコ監督の『ドラキュラ 吸血のデアボリカ』(1970年)でクリストファー=リーさまが演じた原点回帰伯爵が最も近いようなデザインになっていたのが、なんか残念に感じました。なぜそこでドラキュラ系に歩みよっちゃうの!? そこは頑固にノスフェラトゥ系メイクで通していただきたかった。
 ただこれに関しましても、伯爵の禿頭にちょびっとだけ残っている髪の毛がきれいな七三わけのように額に貼りついているあたり、口ひげや、伯爵の指先までピンと伸ばした片手の大きな影が街を包み込むイメージショットともあいまって、あの20世紀最悪の独裁者を大いに意識したデザインになっていると感じました。それはわかるんですが、なんかそうなると伯爵の異形性が薄まるような気がしてねぇ。ちょっと、ほんのちょっとですが残念でした。


 以上、他にも言いたいことはいっぱいあるのですが、字数も字数なのでここまでにいたしとうござりまする。要するに、かなり正統派で面白い吸血鬼映画が観られてよかったな~ってはなし!

 いや~、ついおととしに『ドラキュラ デメテル号最期の航海』(2023年)の感想記事で「ドラキュラ全編を映画化しとくれ!」なんて言ってたら、その斜め上をいく感じで『ノスフェラトゥ』の最新バージョンが出てきてくれて、吸血鬼ものファンとしては本当にありがたいばかりです。

 この調子で『フランケンシュタイン』とか『狼男』とか『ミイラ男』とかもどんどんリメイクして、元祖「モンスター・ヴァース」作品も復活してください! こちとら、マーベルなんちゃらとか DCなんちゃらのクロスオーバー作品なんか、とっくの昔に飽き飽きしてるんでぇ!! ただし、『バットマン』の単独シリーズのみ可とする。

 全裸のコウモリ男メイクとか、今作のもふもふファーで防寒バッチリ外套姿とかもいいけど、そろそろ黒燕尾服に黒マント(裏はもちろん真紅!)のベッタベタな伯爵にもご復活いただきたいと!!
 今回の2024年版も異例の大ヒットとなったようですので、夢は広がりますね! なにとぞ、よろしくお願い致しまする~。

 あそれ、どらどら、きゅっきゅっ、どらきゅら~♪
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恐ろしいのは、幽霊か?人か? ~映画『回転』~

2024年04月04日 21時00分32秒 | ホラー映画関係
 ヘヘヘイどうもこんばんは~。そうだいでございますよっと。
 いや~、花粉症キツすぎる……先月のけっこう後半まで雪が降るくらいの寒さだったのに、やっと暖かくなってきたかと思えば、すぐこれですよ! もう夜からぐずぐずよ!? 体中の水分がとめどなく鼻水として失われていく恐怖! 例年お世話になっている薬も、今年はなんだか効果が薄れているような気が……夕方の薬の切れがおそろしくってなんねぇ!! またお医者様にかからねば。

 そんな、春の訪れに喜べそうで実はそうでもない今日この頃なのですが、つい先日に私、話題の映画『オッペンハイマー』を観に行ったりしました。さすがは高度な空調設備がウリの映画館、観てる間は花粉症の症状も忘れることができてた……ような気がします。
 ハリウッドきっての硬派エンタメを得意とするノーラン番長らしく、やはりこの作品も緊張感と空想世界への飛翔のバランスがかなり巧みな3時間だと感じました。3時間よ!? この長さを1つの作品で退屈しないように見せてくのって、やっぱ偉業ですよね。まぁ、そもそも3時間クラスにする必要があるのかという作品も昨今はちまたに溢れていますが、この『オッペンハイマー』に関しては毀誉褒貶はげしい偉人の半生を描くものなので仕方がないかとは思います。
 非常に興味深い作品ではあったのですが、やっぱり核兵器誕生の経緯を真正面からとらえた難しいテーマですし、戦後のオッペンハイマーの動向に関しても私は不勉強でしたので、ちょっと我が『長岡京エイリアン』にて独立した感想記事をつづることは考えていないのですが、やはり日本人ならば観る必要のある作品なのではないかと思います。ましてや、原水爆の申し子ともいえる怪獣王ゴジラに始まる日本特撮が大好きな方ならば、自分たちの好きなジャンルが、一体どのような歴史的事実の苦い土壌から生まれ出たものなのかを知っておいて損はないのではなかろうか。少なくとも、『ゴジラ×コング 新たなる帝国』よりもこっちの方がよっぽど初代『ゴジラ』(1954年)に近い空気をまとっていると思います。ノーラン監督流に『ゴジラ』を撮ろうと思ったら、たどりたどってゴジラの「祖父」にあたるお人の生涯に行き着いちゃった!みたいな。
 ほんと、面白い作品でしたね。過去作品と比較するのならば、『アインシュタインロマン』(1991年)的なイマジネーションの世界から始まって『 JFK』(1991年)のような歴史ドキュメンタリー大作の様相を呈し、後半はオッペンハイマーという天才と、彼の引力に翻弄された叩き上げの男との『アマデウス』(1984年)のような愛憎関係を番長らしく熱く語る大河ドラマになっていたかと思います。老け役のロバート=ダウニーJr. が『生きものの記録』あたりの三船敏郎に見えてしょうがなかったよ! アジア人に似てると言われたら、ロバート殿はおかんむりかな?
 言いたいことは山ほどあるのですが、ノーラン番長作品によく登場する「ずんぐりむっくりな謎の女」枠が、今作ではまさかあの『ミッドサマー』のピューさんだったとは気づきませんでした。エンドロールでほんとにびっくりした! そしてノークレジットで特別出演したゲイリー=オールドマンの演技のすごみときたら……さすがは、世界帝国アメリカの大統領といった感じですね。引退なんかしないでぇ~♡


 さて、さんざん別の映画の話をしておいてナンなのですが、今回は核兵器とも戦争とも全く関係の無い、ある名作映画についてでございます。
 怖い……とっても怖い映画です。怖さに関して言えば『オッペンハイマー』に勝るとも劣らない作品なのですが、怖さの種類がまるで違うし、そもそもこの映画を「ホラー映画」とラベル付けしてよいものなのかどうか。取りようによってはホラーっぽい超常現象などいっさい起こっていない「サイコサスペンス」なのかもしれないんですよね……あいまい! そのあいまいさこそが、この作品の恐ろしさの本質なのです。


映画『回転』(1961年11月公開 モノクロ100分 イギリス)
 『回転(原題:The Innocents)』は、イギリスのホラー映画。ヘンリー=ジェイムズ(1843~1916年)の中編小説『ねじの回転』を原作とする。
 本作の冒頭で流れる印象的な独唱曲は、音楽を担当したジョルジュ=オーリックの作曲と、イギリスの脚本家ポール=デーン(1912~76年 代表作に『007 ゴールドフィンガー』や『オリエント急行殺人事件』など)の作詞による『 O Willow Waly(悲しき柳よ)』で、本編中ではフローラが唄う歌として、フローラ役のパメラ=フランクリンではなく、本作に別の役で出演しているイギリスの歌手で女優のアイラ=キャメロン(1927~80年)が吹替で歌唱している。
 ちなみに、この『 O Willow Waly』は本作のオリジナル曲であり、タイトルが似ているスコットランド民謡『広い河の岸辺(原題:O Waly,Waly)』や、ジャズの有名曲『柳よ泣いておくれ(原題:Willow Weep for Me)』(作曲アン=ロネル)とは全く関係が無い。

あらすじ
 ギデンズ嬢は住み込みの家庭教師としてある田舎町を訪れ、ブライハウスという古い屋敷に向かう。そこではマイルズとフローラの幼い兄妹が長い間、家政婦のグロース夫人に面倒を観られながら暮らしていた。兄のマイルズは、何らかの問題を起こして学校を退学処分になっていた。雇われて屋敷で生活して行くうちに、ギデンズは屋敷にいるはずのない男の姿を屋上で見かけたり、遠くからこちらを見つめる黒服の若い女性の姿を見かけたりと、さまざまな怪奇現象に襲われる。ギデンズはその謎を解明するためにブライハウスに関する情報を調べるが、自分の前任者の家庭教師ジェセル嬢が悲惨な惨劇に見舞われていたことを知る。

おもなキャスティング
ギデンズ先生  …… デボラ=カー(40歳)
フローラ    …… パメラ=フランクリン(11歳)
マイルズ    …… マーティン=スティーヴンス(12歳)
グロース夫人  …… メグス=ジェンキンス(44歳)
ブライ卿    …… マイケル=レッドグレイヴ(53歳)
メイドのアンナ …… アイラ=キャメロン(34歳)
クイント    …… ピーター=ウィンガード(34歳)
ジェセル先生  …… クリュティ=ジェソップ(32歳)

おもなスタッフ
監督・製作 …… ジャック=クレイトン(40歳)
脚本    …… トルーマン=カポーティ(37歳)、ウィリアム=アーチボルド(44歳)
音楽    …… ジョルジュ=オーリック(62歳)
撮影監督  …… フレディ=フランシス(43歳)
製作・配給 …… 20世紀フォックス


原作小説『ねじの回転』とは
 『ねじの回転(原題:The Turn of the Screw)』は、1898年1~4月にアメリカ・ニューヨークの大衆週刊誌『コリアーズ・ウィークリー』にて連載発表されたヘンリー=ジェイムズの中編小説。怪談の形式をとっているが、テーマは異常状況下における登場人物たちの心理的な駆け引きであり、心理小説の名作である。
 本作を原作とした映画が4作(1961、2006、09、20年版)、オペラ(1954年初演 作曲ベンジャミン=ブリテン)、バレエなど多数の作品が制作されている。また、本作の前日譚にあたる映画『妖精たちの森(原題:The Nightcomers)』(1972年 主演マーロン=ブランド)も制作されている。
 題名の「ねじの回転」の由来は、ある屋敷に宿泊した人々が百物語のように怪談を語りあうという設定の冒頭部分における、その中の一人の「ひとひねり利かせた話が聞きたい」という台詞からとられている。「(幽霊話に子どもが登場することで)『ねじを一ひねり』回すくらいの効果があるなら……さて、子どもが二人だったらどうだろう?」「そりゃあ当然ながら……二人いれば二ひねりだろう!」

主な邦訳書
『ねじの回転、デイジー・ミラー』(訳・行方昭夫 2003年 岩波文庫)
『ねじの回転 心霊小説傑作選』(訳・南条竹則、坂本あおい 2005年 東京創元社創元推理文庫)
『ねじの回転』(訳・土屋政雄 2012年 光文社古典新訳文庫)
『ねじの回転』(訳・小川高義 2017年 新潮文庫)


 いや~、うわさにたがわぬ歴史的名作でしたね! この作品。モノクロ映画の美しさの極地なのではないでしょうか。
 非常に不勉強なことに、私はこの作品を最近やっと DVDで購入して初めて視聴したのですが、ホラー映画の歴史を語る上で決して忘れることのできない名作として、この作品の名前はずいぶんと前から知ってはいました。

 いわく、あの映画『リング』(1998年)で爆発的ブームとなった「 Jホラー」の表現する恐怖表現のひとつの起源となる重要な作品であるとか。

 純然たるイギリス映画であるこの『回転』をつかまえて日本発のブームのネタ元とするとはおかしな話なのですが、死霊なりモンスターなりの「恐怖の象徴キャラ」が実体を持ってぐわっと襲いかかってくる欧米、特にアメリカ産のホラー映画と違って、いわゆる Jホラーにおける恐怖の象徴は、「視界のすみっこ」にぼんやり誰かがいるような、いるのかいないのかわからない、あいまいな空間からじわりじわりとにじり寄ってくる、その「実体のつかめなさ」にその独自性があるという分析が、私が夢中になっていたころの1990~2000年代のホラー界隈では定説のようになっていたと記憶しています。
 もちろん、最終的には貞子大姐さんなり佐伯さんのとこの母子なりが主人公の前に実体を現わしてクライマックスを迎える流れはあるのですが、どちらかというと、そこにいくまでの「呪いのビデオ」だとか「人死にがあったらしい住宅」といったお膳立てのかもし出す「不吉な雰囲気」を重視する作劇法こそが、当時の日本産ホラー映画の特徴だったようなのです。それは、『リング』よりも『女優霊』(1995年)だとか鶴田法男監督によるオリジナルビデオ『ほんとにあった怖い話』シリーズ(1991~92年)のほうが端的かと思われます。カメラのピントが合っていない所にたたずむ、あいまいなだれか。

 それで、そういった「あいまいな恐怖」を先駆的に描いていた作品としてよく名前があがっていたのがこの『回転』でして、他には『たたり』(1963年)だとか『シェラ・デ・コブレの幽霊』(1964年)あたりが伝説っぽく語られていたと思います。『シェラ・デ・コブレの幽霊』さぁ、実はもう海外版の DVDを購入してるんですが、まだ観てないのよね! 近いうちに必ず腰すえて観ようっと。

 それはともかく、まずこの映画の原作であるヘンリー=ジェイムズの中編小説『ねじのひねり』(私はこの邦題が大好きなのでこれで通します)こそが、当時の怪奇文学ジャンルの中で「恐怖の対象をあえてあいまいな描写にとどめる」という「朦朧法」の実践例としてつとに有名な作品なので、これが映像化されたときに「あいまいな恐怖」を描くのは当然のことでしょう。小説と映画という世界の違いこそあれ、人間の思い抱く恐怖をどのように表現したらよいのかと模索する試行錯誤は、まるで鳥とコウモリ、もぐらとおけらのように同じ道を目指していく収斂進化の様相を呈していたのねぇ。

 ジェイムズの原作小説『ねじのひねり』と映画『回転』との内容の違いを比較してみますと、まぁ物語の大筋の流れにさほど大きな差異は無いように見えるのですが、やはり主人公となるギデンズ先生の「追い詰められ方」、つまりはテンパり具合において、小説と映画とで印象の違いを生んでいるような気がします。

 まず原作小説『ねじのひねり』の方なのですが、こちらは上の解説情報にもある通り、後年のギデンズ先生と親しかったダグラスという紳士が、怪談会の中でギデンズ先生自身のつづった回想の手記を公開するという設定で物語が始まります。
 そのため、物語の視点は当時20歳そこそこだった若きギデンス先生からの完全一人称となっており、その彼女が古い屋敷の中で何度となく出会う、彼女にしか見えないらしい「見知らぬ男女」が、果たして幽霊なのか、それともまぼろしなのかというのが、原作小説の肝となっているわけです。

 ちなみに、怪談会の中でのある人物の話という実録形式で語られるこの物語は、現実に1898年に週刊誌で連載されるまでに、作者(ジェイムズ?)が最近死没した友人ダグラスから死の直前に託された、まだダグラスが健在だった時に2人が参加した怪談会の中でダグラスが紹介した、彼が約40年前、大学生だった時に親しくなった10歳年上のギデンズ先生からもらった、彼女が20歳だった時に体験したエピソードを回想した手記という体裁になっています。まるで『寿限無』みたいに長ったらしい、わざとエピソードの時代設定をあいまいにさせようとする入り組んだ迷路みたいな事情なのですが、ここらへんも、「友達の兄貴の彼女のいとこの先輩の体験したほんとの話なんだけどさ……」みたいな感じで始まる現代の実録怪談のご先祖様らしい、実にもったいぶった前置きですよね。作者ジェイムズはこの小説を発表した時は50代なかばですので、ダグラスが具体的に何歳なのかはわからないのですが、だいたいジェイムズと同年代かと推定すれば、その10歳年上のギデンス先生が20歳の頃に体験したということは、おおよそ半世紀前、つまり19世紀半ばころのイギリスの片田舎で起きた事件ということになりますでしょうか。そのころ、日本はまだ江戸時代でい、てやんでぇ!

 話を戻しますが、小説『ねじのひねり』は徹頭徹尾ギデンス先生視点で物語が進んでいきます。そしてそこに出てくる男女の幽霊(と、ギデンス先生が主張している存在)は、どうやらギデンス先生以外の誰にも見えていないらしいという事実がほの見えてくるのですが、ギデンス先生自身は、屋敷に住むマイルズとフローラの幼い兄妹に対して「見えているのに知らないふりをしている」という疑いの目を向けていきます。
 この状況を頭に入れつつこの小説を読んでいきますと、実はこの物語は幽霊たちが存在しなくても成立することがわかります。すなはち、ギデンス先生が見たという幽霊たちは実際にポルターガイストの如く屋敷の家具調度を飛ばしたり壁に投げつけて割ったりするでもなく、ただ現れるだけなのです。いつのまにか現れて、そこにいるだけ。それなのに、それがギデンス先生にとってはたまらなく恐ろしく忌まわしいのです。
 ギデンス先生は、この屋敷の関係者の中に、ここ1年かそこらのうちに不審死を遂げた使用人のクイントという男と、その彼とよこしまな関係にあり、その死ののちに精神のバランスを崩して自殺したという前任の家庭教師ジェセル先生がいることを知り、その2人が幼い兄妹になんらかの未練を残しているために幽霊となっているのではないかと推測するのですが、彼らは遠巻きに兄妹を見ていたり、兄妹を探して屋敷の周辺をさまようばかりで、特に何もしないでいるのです。このへんの、生者に全く何もしないけど確実にいる、襲いかかるでも呪うでもなくただいるだけという存在感が、一体何をしたいのかがさっぱりわからないだけに、ギデンス先生の理解の範疇を超えたコミュニケーション不能の恐ろしさをかもし出しているのでしょう。
 原作小説におけるギデンス先生は、親が教師ということで教育に関する素養こそ持っているものの、実践の経験は全くない若い女性に設定されています。そして、そんな娘さんに対して、彼女を甥と姪の家庭教師に雇った貴族の男性は、破格の給料を約束こそするものの、労働条件として「屋敷のことのいっさいを取り仕切り、自分に決して相談しないこと」という、働き方は自由のようでいてその反面、責任もむちゃくちゃ重い要求を課すのです。当初ギデンス先生はガチガチに緊張しながらも「それだけ信頼されてるんだな……よし、がんばるゾ☆」とはりきるのでしたが、着任して早々、寄宿制の学校に行っていて夏休み期間に帰省してくるだけだったはずの兄マイルズが「退学処分」という形で屋敷に転がり込むというトラブルが発生し、その頃からギデンス先生は幽霊たちを見るようになり、同時に兄妹が「私に何か隠し事してるんじゃないかしら……」という疑心暗鬼状態に陥っていくのでした。

 このシチュエーションを見て、ホラー映画ファンならば、あのスタンリー=キューブリック監督の超名作『シャイニング』(1980年)を思い出さない人はいないでしょう。あの映画もまた、分厚い積雪に囲まれた冬季閉業中のホテルの管理を任された主人公が、自身の作家業のスランプというきっかけから精神を病んでいき、気味の悪い幽霊たちに翻弄された挙句に自らの妻と息子に殺意さえ抱く極限状態にまで追い詰められてしまう「サイコサスペンス」という、原作者スティーヴン=キングも激おこのアレンジが施されていました。原作小説は純然たる超能力ホラーなんですけどね……

 つまり、原作小説『ねじのひねり』は、幽霊怪談の形式を採っていながらも、世間一般で言う幽霊とは、精神のバランスを崩した人が見てしまう幻覚なのではないか?という解釈も可能にしている、「幽霊の存在を信じようが信じまいが成立する」物語になっているのです。その真相をあいまいにすることこそが、作者ジェイムズがこの物語を世に出した意義であり、「いると思えばいる。いないと思えばいない。」というあやかしの存在を文学の世界に成立させた大発明だったのではないでしょうか。
 このジェイムズの筆のものすごさをイメージするだに私が連想してしまうのが、あの黒澤清監督のホラードラマ『降霊』(1999年)なのですが、あの作品でも、登場人物の一人がそういうセリフを言っているんですよね。殺人鬼ジェイソンや宇宙船ノストロモ号の中にひそむエイリアンとは全く別種の恐怖が、そこには黒々と存在しているわけです。直接危害は及ぼさないけど、確実に見る者の精神をむしばんでいく、理解不能ななにか。

 ちょっと、原作小説があまりにもすごすぎるので、本題であるはずの映画『回転』の内容に入るのがだいぶ遅れてしまいました! だいぶどころじゃねぇ!!

 ほんでもって肝心カナメの『回転』なのですが、こちらはある一点で、原作小説と大きく異なる変更がなされています。
 すなはち、主人公のギデンス先生がかなりの御妙齢に。アラフォー!

 単なるキャスティングの都合だろうと言われればそこまでなのですが、原作に比べて映画版のギデンズ先生が20歳も年上の、しかも演じるのが気品たっぷりの美貌と貫録を持つデボラ=カーであった場合、ギデンズ先生のキャラクター造形にどのような変化があらわれるのかと言いますと、そこには「教育に関する強い自信」と、それがゆえに「子ども達は私に嘘をついている!」という疑いを確信的にしてしまう頑固さを原作以上に強くする効果があったのではないでしょうか。

 おそらく、原作通りにギデンス先生が20歳そこそこの新人家庭教師だった場合、物語の中心にいるのは幽霊たちと子ども達の謎に翻弄され、あわれに疲弊してゆく若い娘さんだったはずです。その、ある種の万能感を持ってチャレンジしたはずの若者が理解不能な屋敷の不条理にぶち当たり挫折してゆく姿は、映画版とはまるで違う印象を観る者に与えていたことでしょう。それこそ、教え子との心の壁に苦悩するギデンズ先生を思わず応援したくなるような、普遍的なヒューマンドラマになっていたかも知れません。はたまた、日本の明治時代末期に一大オカルト旋風を巻き起こし、その渦中でもみくちゃにされた挙句、ごみのように捨てられてしまった「千里眼事件」の女性超能力者たちの悲劇を彷彿とさせる、つらい物語になっていたのかも。ヒエ~また『リング』につながっちゃった!

 だがしかし、実際の映画版での妙齢ギデンス先生はどう仕上がったのかと言いますと、正直言いまして「幽霊よりもあんたが怖いわ!!」と言いたくなるくらいに目をひん向いて「あの子たちは嘘をついてる! 私にはわかるの!!」とでかい声でつぶやき続ける、かなり危険なかほりを漂わせるヒステリックレディになっていたかと思います。そして、そういったカーさんの女優オーラに耐えうる実力を持った対抗馬として、疑惑の幼い兄妹を演じた2人の子役も、心の裏がまったく読めず、かわいらしく笑えば笑うほど薄気味悪く見えてくる恐ろしげな存在になっていました。
 つまり要は、ギデンズ先生が子ども達に淡い幻想を抱くほど青くなく、年齢的にも8~10歳くらいの子ども達との隔絶が大きくなってしまったがために、同じ「幽霊よりも人間が怖い」作品にするにしても、原作小説とはまるで違うアプローチで「人間の思い込みのかたくなさ」と「無邪気な子どもの中に潜む残酷性」を活写する作品に、映画版は仕上がっていたのではないでしょうか。
 かくいう私個人は、演じる子役さんの演技力次第で出来がだいぶ違ってくるので、子役が前面に押し出される作品はあんまり好きではないのですが、悠久たるホラー映画の歴史の中には、「子どもが怖い系」というジャンルも確立してるんですよね。そうか、この『回転』はそっち系の重要な先行作品にもなってるのか! そっちらへんで有名なのは『オーメン』(1976年)とか『ペット・セマタリー』(1989年)でしょうが、私が好きなのはやっぱ『ペーパーハウス 霊少女』(1988年)ですかねぇ。

 とにもかくにも、小説『ねじのひねり』も映画『回転』も、幽霊よりも「人間の怖さ」に焦点を当てた名作であることに違いはありません。しかし、かたや文字かたや映像ということで、人間のどこに怖さを見いだすかでまるで違うテイストの世界を築いているところに、21世紀の今もなお伝説の傑作として語り継がれるにふさわしい、双方の魅力があるのではないでしょうか。

 それに、映画版はともかく映像がきれい! ハマー・プロの怪奇映画の監督としても有名なフレディ=フランシスの手による撮影映像の巧緻な設計プランと融通無碍なセンスの世界は、どのカットを切り取ってももはや西洋絵画の域! モノクロという映像形式をまるで制約と思わせない、色が無いからこそ無限のイメージを喚起させる色の豊かさは、もうお話なんかどうでもいいやと思わせてしまう程の魔力を持っていると思います。また、夜のシーンが夜らしく見えない位に白さを強調している夜空をバックにしているので、実にあいまいな、今が昼なのか夜なのかが一瞬わからなくなる幻惑感を演出しているんですよね。ゴシックホラーだからこその思い切った挑戦、お見事!
 あと、映画版は映像作品らしく音声という点でも原作小説に無かったオリジナリティを発揮していて、フローラがなにげなく口ずさむ『 O Willow Waly』のメロディの美しさや、兄妹と幽霊たちとの過去のつながりを濃厚ににおわせるオルゴールの存在感は、物語に時間の奥行きを生む技ありな小道具になっていたと思います。辻村深月先生の『かがみの孤城』のアニメ映画にもオリジナルでオルゴールが登場していましたが、映像化作品に音のアプローチって、定番ですよね。


 さて、ここまでいろいろとくっちゃべってきて字数もかくのごとくかさんできましたので、そろそろ本記事もおしまいにしたいと思うのですが、気がつけば、部屋の隅から恨めしげにこちらを見つめて、

「あの~、おらだづのごとは、触れてもくんねぇんだべが……」

 と無言の圧力をかけてくる、2人の男女の影が。あぁ~ごめんごめん、今ちゃちゃっと言うから!

 映画版で不気味な男女の幽霊を演じていたのは、使用人クイントがピーター=ウィンガード、ジェセル先生がクリュティ=ジェソップなのですが、どちらもセリフ無しながら非常に強烈なインパクトを残していたと思います。怖いというよりは忌まわしい、憐みを誘うたたずまいなんですよね。特にジェセル先生役のクリュティさんは、顔のアップさえほぼないのに、黒い喪服ドレスを着た遠景ショットだけで「あ、この人、生きてない。」という説得力を持たせるとんでもない才能を発揮していたと思います。そんな才能、幽霊役の他にどこで役に立つわけ!? でも、撮影監督のフレディさんは、本作の翌年に自身が監督したホラー映画『恐怖の牝獣』(原題:Nightmare 1964年)にもクリュティさんを起用してるんですよね。よっぽど気に入ったんだな……山村貞子さんの遠い遠いご先祖様ですよね。そういえば、雰囲気が木村多江さんに似てるかも。
 そして、不気味ながらもどこか、野卑な使用人とは思えない気高さをたたえる顔立ちをしていたクイント役のピーターさんなんですが、私、この人を見た瞬間から「どっかで見たことあるような……」とモヤモヤしていたんですが、30代半ばだった本作の時期よりも後年のお写真を見てやっとわかりました。この人、ジェレミー=ブレット主演のグラナダTV 版のドラマ『シャーロック・ホームズの思い出』(1994年 通算第6シリーズ)の中の第1話『三破風館』で、上流社交界の裏ゴシップに精通した怪紳士ラングデール=パイクを演じておられた方だ! 日本語吹替版の声担当は小松方正!! 

 小松方正さんと言えば、太平洋戦争の終戦直後に海軍兵となって広島に配属されていたのですが、あの1945年8月6日の前日の終電で東京へ出向したために原子爆弾の惨禍をまぬがれたという、もはや唖然とするしかない超豪運の持ち主です。原爆!? よし、これで本記事の冒頭につながったぞ!! もう、なにがなんだか。
  
 『回転』、合わない人にはちと退屈な作品かも知れませんが、ホラーな雰囲気が大好きな方にはたまらない歴史的名作です。おヒマならば、ぜひぜひ~!!
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ただのメモです ここは押さえとけ!!ラヴクラフト手帖

2023年12月29日 18時36分56秒 | ホラー映画関係
短編小説『錬金術師(The Alchemist)』(1916年11月)
・ラヴクラフトが小説家を目指す契機となった作品
・所収
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)

ショートショート『忘却 / 廃墟の記憶(Memory)』(1919年6月)
・以降のラヴクラフト作品に共通した思想が描かれている
・所収
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・紀田順一郎 角川ホラー文庫)

短編小説『ダゴン(Dagon)』(1919年11月)
・のちのラヴクラフト世界観を最初に創り出した先鋭的作品
・『クトゥルフの呼び声』(1928年)の原型
・父なるダゴンと母なるヒュドラ
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『インスマウスの影』(1936年)

断章『アザトース(Azathoth)』(1919年?月)
・『未知なるカダスを夢に求めて』の原型か
・アザトース
 「魔皇」、「万物の王」、「白痴の魔王」と呼ばれ、ラヴクラフト神話に登場する多くの神々の始祖とされる。
・所収
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『ペガーナの神々』(1905年)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『闇に囁くもの』(1931年)、『魔女の家の夢』(1933年)、『闇の跳梁者』(1935年)

短編小説『ランドルフ・カーターの陳述』(1920年?月)
・ラヴクラフト自身をモデルとした神秘学者ランドルフ・カーター(Randolph Carter)が登場するシリーズの第1作
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『ニャルラトホテプ(Nyarlathotep)』(1920年11月)
・ニャルラトホテプ
 クトゥルフ神話における重要なキャラクター。人間大で描写されている。
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『這い寄る混沌』(1921年)

短編小説『ウルタールの猫(The Cats of Ulthar)』(1920年11月)
・ドリームランドもの
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕訳 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連項目
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『蕃神』(1933年)

ショートショート『北極星 / ポラリス(Poraris)』(1920年12月)
・超古代の歴史書『ナコト写本』が初登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『恐ろしい老人(The Terrible Old Man)』(1921年7月)
・移民による犯罪を描いた物語であり、人種差別の批判を承知で著した作品。
・キングスポートが初めて舞台となった作品
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『驚異の書(Probable Adventure of the Three Literary Men)』(1912年)
・関連作品
 『魔宴』(1925年)、『霧の高みの不思議な家』(1931年)

短編小説『家の中の絵(The Picture in the House)』(1921年7月)
・「アーカム」や「ミスカトニック」が初めて登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『無名都市(The Nameless City)』(1921年11月)
・アブドゥル=アルハザードの名前が初登場する記念碑的作品
・無名都市
 アブドゥル=アルハザードが幻視して見つけた、はるか昔の都市。アルハザードは「夢の中で訪れた」とされる。古代人は、この地を「何も無い場所」を意味する「ロバ・エル・カリイエ」の名で呼び、現代アラブ人は「真紅の砂漠」と呼ぶ、イラク・クウェート付近にあるルブアルハリ砂漠の中に存在する。20世紀初頭にはクトゥルフ教団の拠点がある。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『サルナスの滅亡』(1920年)、『魔犬』(1924年)、『クトゥルフの呼び声』(1928年)

短編小説『エーリッヒ・ツァンの音楽(The Music of Erich Zann)』(1922年3月)
・ラブクラフトが「自分の物語で最高の作品」として紹介している。
・所収
 『ラヴクラフト全集第2巻』(1976年 訳・宇野利泰 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『セレファイス(Celephaïs)』(1922年5月)
・セレファイス
・クラネス
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アンブローズ=ビアス『空飛ぶ騎手(A Horseman in the Sky)』(1889年)
 ダンセイニ卿『トーマス・シャップ氏の戴冠式』(1912年)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『インスマスの影』(1936年)

短編小説『眠りの神 / ヒュプノス(Hypnos)』(1923年5月)
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『魔犬』(1924年)

短編小説『魔犬 / 妖犬 / 猟犬(The Hound)』(1924年2月)
・魔導書『ネクロノミコン』が初めて登場した作品
・アブドゥル=アルハザード
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『無名都市』(1928年)

短編小説『魔宴 / 祝祭(The Festival)』(1925年1月)
・のちのクトゥルフ神話に先行した作品として重要
・キングスポートもの
・「無定形のフルート奏者」、魔導書『ネクロノミコン』、「ミスカトニック大学」の設定が初めて明確化される
・緑色の火柱
・無定形のフルート奏者
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『恐ろしい老人』(1921年)、『魔犬』(1924年)、『無名都市』(1928年)、『霧の高みの不思議な家』(1931年)

短編小説『名状しがたいもの(The Unnamable)』(1925年?月)
・ランドルフ=カーター
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『アウトサイダー(The Outsider)』(1926年4月)
・ラヴクラフトの代表作の一つ、初期の最高傑作
・ラヴクラフトは「最もポオの作風に似ている」と語っている。
・ラヴクラフトの心象を表した一種の自伝的小説と評され、ラヴクラフト自身も「自分はアウトサイダーである。」と語っていた。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・平井呈一 角川ホラー文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 エドガー=アラン・ポオ『ベレニス』(1835年)、『赤死病の仮面』(1842年)
 ナサニエル=ホーソーン『ある孤独な男の日記より』(1837年)
 オスカー=ワイルドの童話『王女の誕生日』(1891年)
・関連作品
 『闇をさまようもの』(1936年)

短編小説『異次元の色彩 / 宇宙からの色(The Colour Out of Space)』(1927年9月)
・ラヴクラフト自選ベスト作
・宇宙生物カラー(色彩)
 他の生物の生命力を糧とし、影響を受けた生き物は精神を病み生命力と色彩を失って灰色に変じ、最終的には崩れ去る。ガス状の生命体と推測されているが、正体も対処方法も不明。
・映像化作品
 映画『DIE MONSTER DIE!(襲い狂う呪い)』(1965年)
 映画『The Curse(デッドウォーター)』(1987年)
 映画『Die Farbe』(2010年)
 映画『カラー・アウト・オブ・スペース 遭遇』(2019年 主演ニコラス=ケイジ 監督リチャード=スタンリー)
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『From Beyond』(1920年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『忌まれた家』(1937年)

短編小説『ピックマンのモデル』(1927年10月)
・カニバリズムをテーマとした作品
・ラヴクラフト作品でも特異な一人称対話形式の作品
・リチャード=アプトン・ピックマン
 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの幻想画家
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
・関連作品
 『ネクロノミコンの歴史』、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)』(1928年2月)
・ラヴクラフトのクトゥルフ神話の代表作、中核、出発点
・ラヴクラフト自身は「そこそこの出来、自作のうち最上のものでも最低のものでもない。」と評している。
・クトゥルフ(Cthulhu)
 エインジェル教授の論文に現れる邪神。信者は世界各地におり、グリーンランド、ニューオーリンズ、南太平洋で神像が見つかっている。
・所収
 『ラヴクラフト全集第2巻』(1984年 訳・宇野利泰 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アルフレッド=テニスンの詩『クラーケン』(1830年)
 ジェイムズ=フレイザー『金枝篇』(1890~1936年)
 アーサー=マッケンの短編小説『黒い石印』(1895年)
 ロード=ダンセイニの短編小説『ペガーナの神々』(1905年)
 イギリスの怪奇小説家アルジャーノン=ブラックウッド(1869~1951年)の引用
・関連作品
 『ダゴン』(1919年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『インスマウスの影』(1936年)

短編小説『銀の鍵(The Silver Key)』(1929年1月)
・ランドルフ=カーター
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫
・関連作品
 『セレファイス』(1922年)、『銀の鍵の門を越えて』(1934年)

短編小説『ダンウィッチの怪(The Dunwich Horror)』(1929年4月)
・アンソロジーに採用されることも多く、ラヴクラフトの代表作かつ入門作として取り上げられることも多い。モダンホラー文学の先駆。自他ともに好評な自信作
・旧支配者
・ヨグ=ソトース
・映像化作品
 映画『ダンウィッチの怪』(1970年)
 映画『H.P.ラヴクラフトのダニッチ・ホラー』(2007年)
・所収
 『幻想と怪奇第2巻 英米怪談集』(1656年 訳・塩田武 ハヤカワポケットミステリ)
 『怪奇小説傑作集第3巻 英米篇3』(1969年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』(1928年)、『インスマウスの影』(1936年)

短編小説『闇に囁くもの(The Whisperer in Darkness)』(1931年8月)
・SF小説の傾向が強い、転換期にあたる作品
・地球外生命体ミ=ゴ
 惑星ユゴスから飛来した知的種族。菌類生物に近いが高度な科学力を有する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第1巻』(1974年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『狂気の山脈にて』(1936年)、『時間からの影』(1936年)

短編小説『霧の高みの不思議な家(The Strange High House in the Mist)』(1931年10月)
・キングスポートもの
・ノーデンス
 海の神
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『驚異の書(Probable Adventure of the Three Literary Men)』(1912年)、『ロドリゲスの年代記』(1922年)
・関連作品
 『恐ろしい老人』(1921年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『魔女の家の夢(The Dreams in the Witch House)』(1933年7月)
・「妖術師もの」の一作
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2023年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ナサニエル=ホーソーンの未完小説『セプティミウス・フェルトン』(1872年)

ショートショート『蕃神 / べつの神々(The Other Gods)』(1933年11月)
・ドリームランドもの
・『ナコト写本』が登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『ウルタールの猫』(1920年)、『北極星』(1920年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『銀の鍵の門を越えて(Through the Gates of the Silver Key)』(1934年7月)
・ラヴクラフトの異界幻想の極致というべき異色作
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
・関連作品
 『セレファイス』(1922年)、『銀の鍵』(1929年)、『永劫より』(1935年)

長編小説『狂気の山脈にて(At the Mountains of Madness)』(1936年2~4月)
・「クトゥルフ神話」の歴史が最も直接的かつ密度濃く描かれた作品。「古のもの物語」の代表作。
・ロストワールドもの SF冒険小説
・ラヴクラフトの宇宙観の総決算となる「幻想宇宙年代記」
・関連作品
 『時間からの影』(1936年)
・古のもの(いにしえのもの Old One)
 樽形の胴体と五芒星形の頭部を持つ半動物・半植物的な地球外生命体。生命体がまだ存在しなかった太古の地球に到来して文明を築いた。魔導書『ネクロノミコン』には、彼らが地球の生命体を創造したと記されている。生命力が極めて強く、水陸双方の環境に適応する。超常的な力は持たないが、科学技術が非常に発達していた。南極大陸は彼らが宇宙から地球に最初に降り立った場所である。「旧支配者」とも呼ばれる。
・ショゴス(Shoggoth)
 スライムのような不定形生物で、古のものによって創造され、都市の建設などに使役されていた。力が強く、身体は形状を変えるだけでなく、一時的に様々な器官を造り出すことが可能である。やがて知性を発達させ、次第に古のものに対して反抗的になり、ついには大規模な反乱を起こした。「テケリ・リ!テケリ・リ!」という特徴的な声を挙げるが、これは古のものの発声器官を真似することで身に付けたものである。このショゴスの鳴き声は、エドガー=アラン・ポオの冒険小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1837)に登場する巨大な怪鳥の鳴き声が元になっている。
・クトゥルフの末裔(Star-spawn of Cthulhu)
 古のものよりもさらに遠い世界から現れた地球外生命体。外見上はタコに似ているが、身体が地球上の生物とは異なる物質によって構成されており、変身や体組織の再生が可能である。古のものよりも後に地球に到来し、地上の支配を巡って古のものと激しく争った。この戦いでは一時的に全ての古のものを海に追い落としている。のちに和戦がなされて領土を分け合ったが、突如として本拠地の都ルルイエもろとも海に沈んだ。
 魔神クトゥルフとは異なり、クトゥルフの末裔はミ=ゴと同列の宇宙生命体のような扱いで、「陸棲種族」などと表される。
・ミ=ゴ(Mi-go)
 外見は甲殻類に、性質は真菌類に近い地球外生命体。クトゥルフの末裔と同様、地球上の生物とは根本的に異質な生物で、変身や体組織の再生が可能である。地球に現れたのはクトゥルフの末裔のさらに後で、すでに衰退していた古のものから北方の土地を奪った。ただし、海に隠棲した古のものには手出しができなかった。現在も地球上に潜んでいる。
・ミスカトニック大学
 アメリカ合衆国マサチューセッツ州の都市アーカムで1797年に創立された総合大学。
 1930年の南極探検には、ナサニエル・ダービイ・ピックマン財団から資金援助を受けている。
・狂気山脈(Mountains of Madness)
 南極大陸に存在する未知の巨大な山脈で、山腹にある地下洞窟から奇怪な古生物の化石が発掘され、恐るべき超古代の支配者達の存在が判明した。
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1985年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 エドガー=アラン・ポオ『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1837年)
 マシュー=フィップル・シェイ『パープルクラウド(The Purple Cloud )』(1901年)
 エドガー=ライス・バロウズ『地底の世界ペルシダー(At the Earth's Core )』(1914年)
 エイブラハム=グレイス・メリット『秘境の地底人(The People of the Pit )』(1918年)
 オスヴァルト=シュペングラーの歴史学書『西洋の没落』全2巻(1918、1922年)
 ジョセフ=ペイン・ブレナン『沼の怪スライム』(1953年)
・関連作品
 『無名都市』(1921年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1926年)、『時間からの影』(1936年)

短編小説『インスマスの影(The Shadow Over Innsmouth)』(1936年4月)
・ラヴクラフトの代表作。スリラー小説の要素が強い。クトゥルフ神話体系の中核。
・ダゴン秘密教団、深きものども
・映像化作品
 TVスペシャルドラマ『蔭洲升を覆う影』(1992年)
 映画『ダゴン』(2001年)
・所収
 『ラヴクラフト全集第1巻』(1974年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アーヴィン=S=コッブ『フィッシュヘッド』(1911年)
 オーガスト=ダーレス『潜伏するもの』(1932年)
・関連作品
 『ダゴン』(1919年)、『セレファイス』(1922年)、『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)

短編小説『時間からの影(The Shadow Out of Time)』(1936年6月)
・「大いなる種族もの」の代表作
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ウィリアム=ホープ・ホジスン『異次元を覗く家』(1909年)
・関連作品
 『異次元の色彩』(1927年)

短編小説『闇をさまようもの / 暗闇の出没者(The Haunter of the Dark)』(1936年12月)
・ラヴクラフトが生前に発表した最後の作品。ニャルラトホテプものの代表作
・ニャルラトホテプ
 闇をさまようもの。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ロバート=ブロック『星から訪れたもの』(1935年)、『暗黒のファラオの神殿』(1937年)、『尖塔の影』(1950年)
・関連作品
 『アウトサイダー』(1926年)

短編小説『忌まれた家(The Shunned House)』(1937年10月)
・吸血鬼や狼男伝説をモティーフとしている
・ラヴクラフトの訃報と共に雑誌『ウィアード・テイルズ』に掲載された作品
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2023年 訳・南條竹則 新潮文庫)
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大魔王カンノさん、大・召・喚!! ~映画『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』~

2023年11月16日 21時24分40秒 | ホラー映画関係
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。今日も一日たいへんお疲れ様でございました!

 いや~、世間はもう、明日から公開の映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の話題でもちきりですねぇ! たのしみだなぁオイ!!
 ……え? あんまりもちきりってほどでもない? うん、実は私の周辺でも、驚くほど静かです……
 『ゴジラ -1.0』とか『オトナプリキュア』は引き続き人気ですし、再来週から公開の北野映画最新作の『首』への、不安もだいぶ入り混じったワクワク感も徐々に高まりつつあるのですが、この『ゲゲゲの謎』だけは、ねぇ……まぁ必ず映画館に観に行くにはしても、なーんか今ひとつ、ピンとこないんですよねぇ。「水木しげる生誕100年記念作品」なのに。あのさまざまな実験精神に満ち溢れていたアニメ第6期『ゲゲゲの鬼太郎』(2018~20年放送)の、満を持しての劇場オリジナル作品だというのに!
 まぁ世間的には、どうしても第6期が終わってから時間がたちすぎてるのが大きいですかね。PG12指定というのも、どの客層を狙っているのかで多少のとっつきにくさが生じているような。
 そして、なにはなくとも私にとってデカいのは、キャスティング表を見るだに「おぬら様」が出なさそうなこと! これはいけません!! え? 鬼舞辻さんは出るらしいって? それじゃあ埋まんねぇよ!!
 いや、なんだかんだ言っても楽しみにしてますけどね……本格的にコワい鬼太郎譚、見せてもらおうじゃありませんか!
 なにげに、音楽が TV版第6期の高梨康治さんじゃなくて、あの川井憲次さんになってるのも気になりますね。個人的には、『墓場鬼太郎』味が強そうなんだから是非とも和田薫先生に復活してほしかったけど。『攻殻機動隊』っぽい鬼太郎かぁ。やっぱ楽しみ!

 余談ですが、私は TV版第6期から『ゲゲゲの謎』までの3年という短くない間隙を埋めんとするせめてものレジスタンス活動として、今年になって彗星の如く登場した「レノア クエン酸 in 超消臭」CM での、第6期バージョンの猫娘を見事に実写映像化した飯尾夢奏(ゆめな 13歳)さんの功績を、この場を借りて大絶賛させていただきたいと思います。『ゲゲゲの謎』が大ヒットしたら、次は実写映像作品を飯尾さん続投でお願い致します! 他のキャスティングは誰でもいい!!
 でも、あながち冗談ばかりでもなく、こういうちょっとした草の根活動で『ゲゲゲの鬼太郎』を思い出してもらうのは、大事よね。タイトルの知名度にあぐらをかいちゃあ、おしめぇよ。

 すみません、またお話がいつまでも本題に入らず失礼をばいたしました。

 今回は、あの現在絶賛大ヒット公開中の映画『ゴジラ -1.0』の山崎貴監督……の奥様の、佐藤嗣麻子監督の伝説の一作についてであります!
 さぁさ、ちゃっちゃと情報、情報っと!!


映画『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』(1995年4月 81分 ギャガ・コミュニケーションズ)
 人気ホラーマンガ『エコエコアザラク』シリーズの初映像化作品。ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭「ヤング・ファンタスティック・グランプリ部門南俊子賞(批評家賞)」受賞。
 ラブストーリーの監督を希望していた佐藤により、ほのかな恋愛要素が重視された。
 本作において、ミサが持ち物のロケットペンダントに入れた何者かの遺髪に語りかけるシーンがあるが、次回作『エコエコアザラク2 BIRTH OF THE WIZARD』(1996年)で誰の物であるのかが判明する。このミサのロケットの描写は、『エコエコアザラク3 MISA THE DARK ANGEL』(1998年)にも登場する。

あらすじ
 東京都心にある聖華学園高等学校。2年7組の教室では、最近都内で頻繁に起きている不審死事故が話題となっていた。生徒で魔術オタクの水野は、点在する発生現場の中心に聖華学園が位置することから、一連の死が魔王ルシファを召喚するための儀式によるものであると推理する。
 そんなとき、クラスに一人の少女が転校して来た。彼女の名は、黒井ミサ。その真の姿は、絶大な黒魔術の力を秘めた魔女であった。ミサの影をたたえた雰囲気はクラスメイトの新藤を魅了し、またある者には敵意を抱かせた。
 いっぽう、7組の担任教師・白井響子は教え子の田中和美と同性愛の関係にあった。そのうわさをミサに話そうとした7組の学級委員長のみずきが急に苦しみだす。黒魔術の呪いであると看破したミサは学園内の用具置き場にたどり着き、そこでみずきの髪の毛が巻きつけられた呪いの人形を発見する。
 ミサは確信するのだった。「この学園の中に、黒魔術を使う魔術師がいる……」

おもなキャスティング(年齢は劇場公開当時のもの)
黒井 ミサ  …… 吉野 公佳(19歳)
倉橋 みずき …… 菅野 美穂(17歳)
新藤 剣一  …… 周摩(現・大沢一起 22歳)
水野 隆行  …… 高橋 直純(23歳)
白井 響子  …… 高樹 澪(35歳)
田中 和美  …… 角松 かのり(20歳)
渡辺 千絵  …… 柴田 実希(17歳)
高田 圭   …… 南 周平(17歳)
木村 謙吾  …… 須藤 丈士(16歳)
沼田 秀樹  …… 岡村 洋一(38歳)

おもなスタッフ(年齢は劇場公開当時のもの)
監督・ストーリー原案 …… 佐藤 嗣麻子(31歳)
脚本 …… 武上 純希(40歳)
音楽 …… 片倉 三起也( ALI PROJECT)
デジタルビジュアルエフェクト …… 山崎 貴(30歳)
スペシャルエフェクト …… 白組
アクション監督 …… 大滝 明利(31歳)
音響効果 …… 柴崎 憲治(39歳)
製作 …… ギャガ・コミュニケーションズ、円谷映像


おさらい! 『エコエコアザラク』シリーズとは……
 『エコエコアザラク』 は、古賀新一(1936~2018年)による日本のホラーマンガ。これを原作とした映画作品や TVドラマも繰り返し製作されている。
 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて1975年9月~79年4月まで連載するロングヒット作となった。単行本は全19巻(角川書店マンガ文庫版は全10巻)。『ブラック・ジャック』(手塚治虫)、『ドカベン』(水島新司)、『750ライダー』(石井いさみ)、『がきデカ』(山上たつひこ)、『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)などと並んで、同誌の黄金期を支えた作品の一つである。
 1980年代には『月刊少年チャンピオン』にて『魔女黒井ミサ』、『魔女黒井ミサ2』として「高校生編」を連載。さらに1993年からは同じく秋田書店のホラーマンガ雑誌『サスペリア』に居を移し、『エコエコアザラク2』を連載した。
 1998年10月~99年2月に同じく『サスペリア』にて新シリーズ『真・黒魔術エコエコアザラク』を連載した。
 2009年5月28日発売の『週刊少年チャンピオン』第26号にて、同誌の「創刊40周年記念企画」として、30年ぶりの同誌登場となる読切新作が掲載された。その後、古賀の没後も他作家によるリメイク連載が行われるなど、シリーズの人気は衰えていない。

 黒魔術を駆使する若い魔女・黒井ミサ(くろいミサ)を主人公とし、ミサに関わる奇怪な事件や人々の心の闇を描く。原作マンガの黒井ミサは、善人であれ悪人であれ場合によっては人を平気で惨殺する非情な魔女として登場し、特に自分に対する性犯罪者に対しては容赦なく報復する場面がたびたび描かれた。
 作者の古賀新一へのインタビューによれば、ミサのキャラクターは親近感のある、どこにでもいそうな女の子であることに重点をおいたとしている。
 ミサは、魔女としての残忍さと普通の中学生(シリーズ続編では高校生)としての可愛らしさを併せ持つ得体の知れないキャラクターであるが、回が進むにつれて明るい性格の少女へと変化していった。当初は怪異を起こす加害者としての立場が多かったが、連載後半では怪事件に巻き込まれる被害者になることも多くなった。また、別の悪と対決するスーパーヒロイン的要素も加味されるが、基本的には邪悪さを隠し持つダークヒロインであった。

黒井ミサの基本情報(原作マンガに準拠)
年齢  …… 15歳(中学生だが、続編シリーズおよび映像作品では高校生)
出身地 …… 東京都
家族  …… 父・臣夫、母・奈々子、亡妹・恵理(映像作品ではアンリ)、叔父・サトル、祖母(名前不明)
特技  …… 黒魔術、タロットカード占い、剣道、護身術
アルバイト歴 …… 辻占い師、看護助手、家政婦、古本屋、喫茶店など

ミサの呪文「エコエコアザラク」について
 「 Eko, eko, azarak. Eko, eko, zomelak.」という文言は、イギリスのオカルト作家ジェラルド=ガードナー(1886~1964年)が1949年に著した小説『 High Magic’s Aid』第17章に登場する歌である。発表以後、この歌詞はガードナーの影響を受けた魔女教の典礼書で頻繁に使用されるようになった。 ガードナーと共に典礼書を著した作家のドリーン=ヴァリアンテ(1922~99年)によると、古い歌でありその意味は伝承されていない。古賀新一の『エコエコアザラク』シリーズでは黒魔術の呪文のように扱われているが、ガードナーの流れをくむ魔女教では単なる歌の歌詞である。


 いや~、ついにこの作品にふれる時が来ましたヨ! 自分の中での「満を持して」感がハンパありません!!

 まず、我が『長岡京エイリアン』と『エコエコアザラク』シリーズとの関わり合いを、「そんなんどうでもいいから早く感想言え」という声をガン無視して話させていただきますと、まずやっぱり、この「黒井ミサ」というキャラクターに青春時代からメロメロになっていた私は、同じく現代日本ホラー文化史において「ホラークイーン」の座を争っていた『リング』シリーズの山村貞子さん、『呪怨』シリーズの佐伯伽椰子さん、『富江』シリーズの川上富江さんに、このミサさんをアシスタントに交えましたエセ鼎談企画を、当ブログのかなり初期につづりました。なつかし~! ここで記した情報も、だいぶ古くなり申した……
 そしてこれに飽き足らず、数ある『エコエコアザラク』シリーズの中でも、特に思春期の私を魅了した映画版『エコエコアザラク』3部作のレビューをせんとくわだてた時もあったのですが、今回扱う『1』の後続作となる『2』(ただし内容は前日譚)『3』(ただし監督も主演も交代)の記事こそおっ立てたものの、Wikipedia の情報をのっけただけで当ブログ定番の「塩漬け」となっていたのでありました……うわ~ん、仕事で超忙しかったんだよう! 許してミサ様。

 私に限らず、当時のホラー映画ファンに相当な衝撃を与えたこの『エコエコアザラク』3部作だったのですが、私にとって最も思い入れが深いというか、いちばんガツンときたのは、今回の第1作でした。やっぱりすごいです、この作品。
 オイオイ、じゃあなんで一番好きな第1作をいの一番にブログで扱わなかったんだよ? といぶかる向きもあるかと思われますが、この理由は単純なことで、内容をちゃんと確認するために買おうとした DVDソフトが、この第1作だけ当時めちゃくちゃ高かったからなのでした。びんぼくさ!!

 とまぁ、そんな経緯にもなっていない経緯をへて、この2023年に『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』をレビューさせていただきたいと思います。DVDをふんぱつして購入したのは2018年のことだったのですが、買っといてよかったよ! 今もっと高くなってんだもん。

 それはともかく、公開2週目にして興行収入20億円を突破している『ゴジラ -1.0』の感想を先日つづっておいて、その次に記事にしたのがなんでまた四半世紀以上前の美少女ホラー映画なのかといいますと、それは言うまでもなく、このメッセージを満天下に訴えたいからなのであります。

山崎貴監督よりも、奥さんのほうがスゲーんだぞ!!

 ほんと、これだけ。そして、佐藤嗣麻子監督の堅実な映画技術と、その美学を突き通す意志の強さに、なんと「1995年の菅野美穂さん」というニトログリセリン級の起爆剤が投下されたことによって、とんでもない奇跡の超傑作となってしまったのが、この第1作なのであります。
 いやいや、別に私は、当時の菅野美穂さんのアイドル的人気を懐古的にほめたたえたいのではありません!

 映画『富江』と『催眠』(ともに1999年)、そしてこの『エコエコアザラク』の菅野さんは……こわすぎ!!

 いや、今作の菅野さんを怖いというのは完全なるネタバレになってしまうのですが、もうそんなんどうでもいいですよ! とにかく私は、一人でも多くの人に、「1990年代後期の菅野美穂」という、この人ほんとにやばいんじゃないかという顔を時々見せていた天才の狂気を、この『エコエコアザラク』を通して知っていただきたい、そして畏怖していただきたいのです。たんに鼻声で爬虫類っぽい顔立ちで、豪放磊落にガハハと笑う女優さんじゃないってことなのよォ。
 いまや、いいポジションの大物女優さんですけどね……もう、ああいう役はおやりにならないんだろうなぁ。その後も、フジテレビの時代劇『怪奇百物語』中の『四谷怪談』(2002年)とか、TBS の大型時代劇『里見八犬伝』(2006年)とかでたま~に怖い役もやってましたが、すでに何かが「憑いてる」感じは薄れていたような気はします。

 なんか、「悪役の演技がうまい」とかいう範疇じゃないんですよね。「神がかってる」とはよく言いますが、神だかなんだかよくわからない何かと歯車がかみ合っちゃって、得体の知れない存在が写り込んだ鏡のような「媒体」になっちゃってる恐ろしさというか。完全に開けてはいけない扉が開いているというか。
 こういう、本人の計算と実力以上の「なにか」をまとっている女優さんって、まぁ今パッと思い出せる限りだと、『ピクニック at ハンギングロック』(1975年)のアンルイーズ=ランバートさんとか、『ポゼッション』(1980年)のイザベル=アジャーニさんとか、日本でいうと『ツナグ』(2012年)の橋本愛さんがそうだったような気がします。男性俳優さんで言うのならば、『シャイニング』(1980年)のジャック=ニコルソンと『帝都大戦』(1989年〉の嶋田久作さん、『ダークナイト』(2008年)のヒース=レジャーははずせませんよね!

 美貌、迫力、危険性……そういう「域」に入り込んだ人の魅力は作品によってさまざまだと思うのですが、菅野さんについて言うと、その魅力は「無垢な残酷性」! これに尽きると思います。
 あの目! 自分でその命をどうとでもできると踏んだ相手を見る時の、嬉々としてキラキラ光る、あの目!! もう楽しくて楽しくてしょうがないという表情で、「どう苦しませてから殺しちゃおうかな~♡」とつぶやきながら、トンボやカエルを引きちぎったり踏みつぶしたりする子どもの無垢な笑顔……
 まさに、人間の道徳、倫理というせせっこましい重力から「ふわわ~っ♪」と飛び立ってしまっている恐怖の天使こそが、1990年代の菅野さんの正体だったのです。あの目もすごいんだけど、笑った時にズラリと並ぶ白い歯も怖いんだよな……ほんと、文楽人形でいたいけな美少女の顔が一瞬で鬼の形相に変身する「ガブ」っていう頭(かしら)がありますよね? あれ、そのもの! くる、くるとわかっていても見るたびに衝撃を受けちゃう。

 だもんで、はっきり言っちゃうと、この記事で何万字を費やして本作の良さを語りつくしても、「いいから一回観てみて。」に勝る言葉は無いのであります。菅野さん、菅野さん! かの魔王ルシファもビビる菅野さんの狂演を見よ!! いや、ストーリー上はああいう力関係になっちゃってますが、悪魔よりも怖いのは、悪魔を必要とする人間の欲望ですよね。そ~れを17歳の女の子がやっちゃうんだもんなぁ! まいっちゃいますよ。

 いちおう今回の記事は、後半にいつも通りの「映画本編視聴メモ」を羅列しておしまいとしたいと思います。その中で佐藤嗣麻子監督の才能の素晴らしさと、大魔王カンノの恐怖はかいつまんで申していきたいと思うのですが、ここでちょっと、主人公なのに菅野さんのためにそうとうかわいそうな追いやられ方を喫してしまっている映像版初代ミサこと、吉野公佳さんについて。ほんと、『バットマン』(1989年)のマイケル=キートンもかくやというスルーっぷり! でも、ちゃんといい雰囲気は出しているんですよ。陽はまた昇る!!

 私もそうだったのですが、まず映画の良さをうんぬんする前に本作を観始めたお客さんの多くが感じたのは、原作マンガのファンであればある程「これ、黒井ミサかぁ?」と疑問を抱いてしまう違和感だったかと思います。まるで別人!
 まず中学生でなく高校生という時点でだいぶ違いますし、時代設定も原作通りややバイオレンスながらも牧歌的な1970年代ではなくリアルタイムばりばりの1990年代中盤であるというアレンジがあるわけなのですが、とにもかくにもミサがほとんど笑わない鉄面皮のクールビューティになっているのが、かなり面食らう改変になっていたのではないでしょうか。原作マンガの黒井ミサは、確かに魅力的ではあっても、顔だけを見れば特に「美」がつくほどのこともない普通の少女ですし、冗談をとばせばギャグシーンも難なくこなす陽気さも見せることがあったのです。それがどうしてあんな、常に肩を怒らせた寡黙で不機嫌そうなおなごに……現代だったら絶対にビリー=アイリッシュ好きそう。当時はビョークかしら。
 これはやっぱり、原作マンガの設定にそれほど依存せずに、自由に描きたい世界を創造した佐藤嗣麻子監督の意向によるものが大きいのではないでしょうか。『攻殻機動隊』の主人公・草薙素子とか『ゲゲゲの鬼太郎』サーガにおける猫娘とか、原作と派生作品とでキャラクター造形がじぇんじぇん違うというキャラクターは他にもいますが、それに匹敵するレベルで本作での黒井ミサをまったくの「別人」にしてしまったのは、ひとえに「いいから私に任せて!」という確固たる信念を持って挑戦した佐藤嗣麻子監督の勇気の勝利だと思います。いいのいいの、ちゃんと面白いんですから!
 これを「原作テイストの無視」と感じてしまう方もいるかと思いますが、ラストシーンでのミサの哀しみを見るだに、映画をきれいに締めるのは「生き方の不器用なミサ」ですし、無数の表情を見せる原作ミサのある一面だけを抽出したという解釈をすれば、決して無視ではないでしょう。より原作に準拠した映像版ミサは、後年に別作品で出てきますし。

 とかく佐藤嗣麻子監督の作風とアトミック大魔王カンノの存在感にかすんでしまいがちな吉野ミサなのですが、本作の陰性の魅力と哀しみを生み出す上で決して欠かすことのできない最重要パーツであることは間違いないと思います。
 あの狂騒の1990年代の中にあって、ひとり愁いを満々とたたえる、深く刻まれた涙袋よ……だれだ「くま」って言った奴は!? 呪ってやる!!


≪まいどおなじみの~、視聴メモでございやす≫
・冒頭の OL逃走シーンからスピーディなカメラワークでいい感じなのだが、最初の鳥瞰ショットで OLが突き飛ばした2~3人のあんちゃんグループが、次の OLを正面に捉えたショットに切り替わっても後ろの方で怪訝そうに振り返っているのが、地味ながらも誠実な撮り方をしていてすばらしい。ふつうこういう群衆シーンって、時間が経過していくからカットが切り替わると歩いてる人が全然違う顔ぶれになっちゃうじゃない。2台カメラを使っているのか、もしくはちゃんとエキストラを止めて撮り直してるんだろうなぁ。えらい!
・声優を加えたりして、ローブのフードをかぶった「真犯人」の正体はぼかしているが……儀式の現場が比較的明るいので、顔の下半分だけでも誰だかわかるよー! いや、のっけからバレてるとしても、クライマックスの真犯人の演技はすごいんですよ。
・フィルム撮影による曇天のようなもやっとした色調と、アリプロジェクトの片倉さんの陰鬱な中にも気品のある音楽が非常にマッチしていて、オープニングからいやがおうにも期待感が増す。片倉さんこそ、もっといろんな映像作品で音楽を手がけていただきたい! でもあれですね、佐藤嗣麻子監督作品って、4K デジタルリマスターとかしないほうがいい作風なんだろうなぁ。
・風紀指導と称して女子高生をべたべた触る教師の沼田を演じる岡村さんの手つきが笑っちゃうほどいやらしい! 一瞬、実相寺昭雄監督の作品かとみまごうばかりの手指のねちっこさ。いや、こんなの90年代だったとしても「イヤな先生」どまりじゃなくて犯罪者でしょ……
・冒頭で敵役が「とんでもない魔力を持った奴が来る」とふって、歩いてくる主人公の足や後ろ姿でひっぱっていき、満を持して振り向きざまにミサが名乗るところでタイトルがやっと出るという、この一連の流れの美しさ! 決して新味があるわけでもない実にオーソドックスな導入なのだが、これをてらわずにちゃんと正面きってやれるっていうことが、佐藤嗣麻子監督の確かな実力を物語ってるんですよ。漢らしい!
・朝のホームルーム前に教室で2~3人のクラスメイトを集め、東京都の地図を広げてオカルト話を熱心にする生徒・水野。かなりかんばしいオタク臭をはなつ場面のはずなのだが、演じているのが声も良くてちょっと不良の雰囲気もあるイケメン高橋直純さんなので、スクールカースト底辺感が微塵も感じられない! ダウト!! それを証拠に、話聞いてんの全員女子だし……ヘアスタイルも、それ寝ぐせでもくせっ毛でもなく、完全にトッポいスプレーセットじゃんか~! さりげにイヤーカフもしてるし! この偽物め!! たぶん、当時の大槻ケンヂさん的なモテるオタクを意識したキャラクター造形だったのではないかと。大槻さんとは全く方向性が違うけど。
・水野が説明に使用していた地図をよく見ると、本作の舞台となる聖華学園の所在地が、東京都港区の国道246号線(青山通り)の南、都道418号線(明治神宮外苑西通り)と都道413号線(赤坂通りとみゆき通りの中間地点)の交差する付近、すなはち、東京都心最大の心霊スポットと言っても過言でない、あの「青山霊園」に非常に近い土地にあることがわかる。こういう一瞬しか見えないような設定にも、これ以上ないくらいおあつらえ向きな場所を選んでくる制作陣のプロフェッショナルな力の入れ方に脱帽せざるを得ない。宗教がまるで違うけど、そんなとこで黒魔術やっちゃダメー!! 天海大僧正もビックリよ。
・オタク水野の一般高校生らしからぬテクニシャンな語り口に、クラスのリア充代表の新藤たちも思わず聞き入ってしまう。いやいや、そこは「何言ってんだオメー!」とかせせら笑って本を奪い取るところでしょ!? なんだこの映画、オタクに異常にやさしいぞ……この後、全部水野の夢でした~みたいなバッドエンドオチが待ってるのか? 逆にこの生ぬるさが、観る者(オタク)の不安を掻き立てる。しかし、ほんとに水野を演じる高橋直純さんは上手ですね……そりゃ声優さんでもやってけるわ。
・2年7組担任の白井先生のふわっと立った前髪も、令和から見ると非常になつかしいのだが、教室の照明がやや黄色っぽい蛍光灯なのも、思わず目頭が熱くなるものがある。朝っぱらなのに、なんか定時制みたいな感じ……
・今どきの女子高生で、制服姿にカチューシャのヘアバンドつけてる人って、まだいるんですかね。まず校則でダメか。ともあれ、このちょっと冒険しているワンポイントで、みずきが学級委員長と言っても決してお堅いばかりの人間ではないというキャラクターがほの見える。考えてるな~、すみずみまで!
・基本的に無表情でズンズン歩く長身のミサと、その一歩前をちょこちょこすまして歩く小柄なみずきの身長差がすばらしい。この映画、セリフ以外の「雰囲気」で語る情報量が潤沢で油断ならないぞ! さすがは佐藤嗣麻子監督。
・ミサが劇中で最初に魔術を使うところで、ポーズを決めた時に「ピキュン!」という非常にアニメチックな効果音が鳴り響くのが、特撮ヒーロー番組か1980年代に大流行したキョンシー映画を彷彿とさせてかなりなつかしい。基本的に低温な印象の画作りが目立つ本作なのだが、要所要所の大事なところでこういうミーハーな演出が入るのも、バランスが良くてポイントが高い。そして、その直後のミサのパン……なんと巧妙な映像設計か!! これに魂を奪われない男がいるだろうか、いやいない!!
・キャラクター設計上の都合とはいえ、ぎこちない硬質な演技の続く本作のミサなのだが、だからこそ、時々ちょっと口元が緩んだところを見ただけでものすごく得をした気分になる。う~ん、すべては佐藤嗣麻子監督のたなごころの上か! 演技がうまい以外の俳優の魅力の引き出し方を本当によくわかってらっしゃる。
・とかく目力で言うと2代目ミサこと佐伯日菜子さんが話題になりがちなのだが、初代の吉野さんも十分すぎる程に目力がハンパない。人の心をえぐるような強烈な眼光……なんか、NHKの『人形劇 三国志』の川本喜八郎作の人形みたいな人間離れした目よ! たとえが昭和!!
・屋上に続く階段の最上階踊り場という、「密談と言えば、ここ!」な場所で沼田先生を呪う儀式を行おうとする水野グループ。儀式に使われる(原宿で買った)わら人形を見てミサがにやっと笑うところが、「よかった、みずきを呪詛した物じゃない。」という安堵でなく、どう見ても「これだから素人は……」みたいなプロ目線からのあざけりにしか見えないのがたまらない。所詮は原宿……
・水野グループの誰かが隠し撮りしたらしい、沼田先生の顔写真が非常にいい表情をしている。こういう絵に描いたようなゲスい悪役って、現実世界には掃いて捨てたいくらいにいるのに、フィクション作品の中ではとんと見なくなりましたよね……どんな悪役も、実は同情の余地があるみたいな背景を語られて中途半端になっちゃう。ドラマ『人間・失格』の斎藤洋介さんくらいにすがすがしいまでのワルはいないのかと! 江口のりこさんの今後のご活躍に期待したい!!
・呪いでみごと沼田先生の腸を冥土送りにしたミサに2年7組の女子たちは拍手喝采。メンツ丸つぶれになった水野は、揶揄する新藤に「うるせぇ!」と叫び、入口の壁をバン!と叩いて教室から出ていくが、それに女子たちがいっさい反応していないのが、水野の存在感と声量の小ささを象徴している。くじけるな、少年。
・カーテンを閉め切った美術室の中で、「ほんとにこれ一般映画なんですか」と思わず目を疑うような痴態をけっこう長め(約2分10秒)に繰り広げる、白井先生と田中さん(たぶんここらへんが劇場公開版ではカットされた部分かと推察されます)! 特に『ウルトラマンティガ』を見て育った人が見たらショックは甚大なのではないだろうか。イルマ隊長~! 前からあやしいあやしいとは思ってたけど、やっぱり!!
・復讐の炎に燃える水野の策か、たちまち学園中に広まってしまったミサの過去に関する黒いうわさ。ミサはひとり屋上で、胸に隠し持っていたロケットペンダントの中の髪の毛に哀しく戸惑う思いを打ち明ける。この時点でミサが本音を語ることのできる人間は学園内に誰もいないので、物を相手にしてという奇策を使ってでも、10代の少女らしい弱さを正直に吐露するシーンを入れるのは、ミサを感情移入しやすい物語の主人公にするために絶対不可欠な演出である。そうしないと寡黙でとっつきにくい異能者になりすぎちゃうから。ここもすばらしいバランス感覚!
・さすがは黒井ミサ、スポーツ万能のイケメンに「俺と付き合わない?」と告白されても、こともなげに「私のまわりにいる人はよく死ぬから、かまわないで。」と断れる女子はそうそういないだろう。ケンシロウみたいな、自らの宿命への諦念を感じる。これをちゃんと演じきれる吉野さん、やっぱただもんじゃない!
・白井先生が放課後の追試の告知をするシーンで絶対に見逃してはならないのは、それを聞いている時のみずきの表情である。一見、心ここにあらずというか、カメラが回っているのに気づいていないかのような「無」の状態で虚空を見つめているのだが、のちのちの展開から振り返ると、かなり恐ろしい感情が心中に渦巻いていることがよくわかる。モブのような位置にいても、ちゃ~んと菅野さんは演技してるわけよ! ほんとすごい、この17歳。
・田中さんを操り人形のように支配する手練といい、一人になった時にこれ以上ないくらいにワルい笑みを浮かべる様子といい、本作の白井先生はかなり教科書的に優秀な「限りなく疑わしいデコイ」ポジションをまっとうしているキャラクターである。まるで2時間サスペンスの中尾彬か萩原流行のような美しき伝統を堂々と取り入れるのも、佐藤嗣麻子監督の「直球ストレート勝負」な漢前っぷりの証左ではないだろうか。惚れる!!
・陽が落ちた学校校舎に鳴り響く重々しい13点鐘、そしていつの間にか教室の黒板に記されていた「13」の文字! ここ、この日常から非日常へ転換を、セリフも BGMも使わずに映像のカット割りだけではっきり観る者に知らしめるテクニックが素晴らしい。う~ん、ワクワクする! 佐藤嗣麻子監督には、今からでも全然遅くないから辻村深月先生のデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』を映像化していただきたい!! でも、本作の時点でもう半分くらい映像化してるか。
・後半を展開を見ていてしみじみ思うのだが、なんで1990年代の中盤に、1970年代にはやった『エコエコアザラク』が映像化されたのかって、そりゃもう当時大流行していた「学校の怪談」ブームに乗っかるのに最適だったからですよね。でもこれ、シリーズ化された東宝の映画『学校の怪談』よりも早く作られてるから(『エコエコ』が1995年4月公開で『学校の怪談』は同年7月公開)、こっちのほうがブームの起爆剤となったのか? でも、なにかとアダルトだからブームの本流とは言い難いか。
・1学年で7組もある規模の高校のわりに、美術室や職員室がのきなみふつうの教室と同サイズのせまっ苦しさなのはなぜ……と気にするのはなしだ! いろいろスタジオのやりくりが大変なのでしょうね……それにしても職員室のブラウン管テレビと灰皿がなつかしくてしょうがない。
・一気に5人もの登場人物たちが惨殺される職員室のシーンも、よくよく見ると「音楽」、「減っていく黒板の数字」、「ドアを内側から叩く生徒」、「照明」、「血のり」だけでちゃんと盛り上げて描いているのが、怖くなるよりも感心してしまう。やっぱ、必要なのは金より知恵よね! 佐藤嗣麻子監督の旦那さま、そうですよね!!
・水野の「守る? なんにもできなかったくせに。」という非難に、思わず胸のロケットを握りしめるミサの描写がものすんごくいい。確実にミサの過去に、大切な誰かを守れなかった哀しい経験があったんだなと思わせる演出! 気になりますよね~、ロケットの毛髪の主。
・本作において、ミサが一貫して自分の使う黒魔術に対して「負い目」を持っているのが非常に興味深い。とはいえ、転校して早々に沼田先生に呪いをかけているので新藤たちはミサがちょっと違う人種であることは充分認識しているのだが、それでも周りに聞こえないように小声で呪文を詠むという抵抗が、魔女に徹しきれないミサの未熟さを象徴しているようでかわいらしい。あと、屋上に続く扉を開けたような手ごたえを感じて「やった!」みたいなとびっきりの笑顔を見せるところも、いいね! 開けられなかったけど。
・もうとにかく、本編時間残り13分からの菅野さんのブーストのかけ方がものすごすぎる! こりゃもう実際に観ていただくより他ないのだが、魔王ルシファの召喚が目的と言うが、あんたもう召喚してるんじゃありませんかってくらいの大迫力でミサにせまる! アイドルじゃあないよね~、その笑い方!!
・ミサの質問に対しての「はい」という意味の菅野さんの「フハハ!」という笑いが大魔王の風格に満ちている。こわ~! けどお茶目。
・本作は、いまや『シン・ゴジラ』や『ゴジラ -1.0』で世界的に知られる、山崎貴ひきいる VFXプロダクション「白組」が特撮に参加している作品なのだが、実際に CGを使用しているカットは本当に数えるほどしかないのが、映画特殊技術の歴史を見るようで印象的である。スピルバーグの『ジュラシック・パーク』第1作(1993年)だって、よくよく見ると CG恐竜の出演カットは意外と少ないもんね。ほとんどのアクションが血のり、ダミー人形、送風機などの伝統的な手作りスプラッタ映画方式で作られているだが、肉体が粉になって飛ばされるミサのあたりから、急に作品が変わったかのように惜しげもなく投入されていく CG作画の力の入れようは、まさに現在の白組を予感させるものがある。ま、召喚された魔王ルシファのお姿はご愛敬ですが……『孔雀王』(1988年)を観たときも、ラスボスがあんな感じだったからガッカリしたっけなぁ~!
・最期数秒の断末魔というのをいいことに、菅野さんがアイドルとしても女優さんとしても17歳のうら若き女の子としてもいかがなものかという顔を見せてくれるのが、サービスといってよいのかどうか……それを見せられて喜ぶ人は少ないですよね、いや、私は喜ぶけど。
・本作のラスボスの末路が、『ジョジョの奇妙な冒険』第3部のラスボスの敗因とおんなじくらいに「ごくごく自然な道理」な感じがして、ミサと同様に観る者にやるせない無力感をもたらす。大将、そりゃ無理ってもんですわ……相手わるすぎ。
・恐怖の夜が明け、朝焼けの屋上にひとり立つミサ。そして、朝もやの中、歩いてゆくミサの後ろ姿にしっとりとかかるエンディングテーマ。最高ですね! やっぱり、ダークヒーロー、ダークヒロインはひとりで地平線の彼方へ去ってゆくもんなのだなぁ。佐藤嗣麻子監督、最後の最後までわかってらっしゃる。


 ……長々と失礼いたしました。
 ともかく、この『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』は、81分という小兵でありながら、いや、その短さであるからこそ、佐藤嗣麻子監督の「ここは絶対におさえる」という映像美学が頭からしっぽの先までぎっちり詰まった至高の傑作となっております。
 そりゃまぁ予算の少なさは推し測れるわけなのですが、アイデアとセンスでどうとでもしてやるという気合を感じることができます。漢!!

 そして、監督の才覚もさることながら、「大事なところに1990年代の菅野美穂さんを召喚した」という奇跡の一手が、この作品をもう1フェイズ上の伝説に昇華させたことも忘れてはなりません。

 これ以降も『エコエコアザラク』シリーズは連綿と続いていくわけなのですが、まさに魔女の物語らしく、第1作たる本作がこれ以降に与えた「呪縛」は、そ~と~に高いハードルとしてのしかかってくるのでありました……
 そのうち、続編の第2・3作に関する我が『長岡京エイリアン』の記事も、ちゃんと完成させてまいりたいと思います。もうちょっとお待ちになっておくんなせぇ! 菅野美穂さんのさらに超気持ち悪い大怪作『富江』も、忘れてはおりません!

 セーラー服と黒魔術、バンザイ!! 結局はそこよね。
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