長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

恐ろしいのは、幽霊か?人か? ~映画『回転』~

2024年04月04日 21時00分32秒 | ホラー映画関係
 ヘヘヘイどうもこんばんは~。そうだいでございますよっと。
 いや~、花粉症キツすぎる……先月のけっこう後半まで雪が降るくらいの寒さだったのに、やっと暖かくなってきたかと思えば、すぐこれですよ! もう夜からぐずぐずよ!? 体中の水分がとめどなく鼻水として失われていく恐怖! 例年お世話になっている薬も、今年はなんだか効果が薄れているような気が……夕方の薬の切れがおそろしくってなんねぇ!! またお医者様にかからねば。

 そんな、春の訪れに喜べそうで実はそうでもない今日この頃なのですが、つい先日に私、話題の映画『オッペンハイマー』を観に行ったりしました。さすがは高度な空調設備がウリの映画館、観てる間は花粉症の症状も忘れることができてた……ような気がします。
 ハリウッドきっての硬派エンタメを得意とするノーラン番長らしく、やはりこの作品も緊張感と空想世界への飛翔のバランスがかなり巧みな3時間だと感じました。3時間よ!? この長さを1つの作品で退屈しないように見せてくのって、やっぱ偉業ですよね。まぁ、そもそも3時間クラスにする必要があるのかという作品も昨今はちまたに溢れていますが、この『オッペンハイマー』に関しては毀誉褒貶はげしい偉人の半生を描くものなので仕方がないかとは思います。
 非常に興味深い作品ではあったのですが、やっぱり核兵器誕生の経緯を真正面からとらえた難しいテーマですし、戦後のオッペンハイマーの動向に関しても私は不勉強でしたので、ちょっと我が『長岡京エイリアン』にて独立した感想記事をつづることは考えていないのですが、やはり日本人ならば観る必要のある作品なのではないかと思います。ましてや、原水爆の申し子ともいえる怪獣王ゴジラに始まる日本特撮が大好きな方ならば、自分たちの好きなジャンルが、一体どのような歴史的事実の苦い土壌から生まれ出たものなのかを知っておいて損はないのではなかろうか。少なくとも、『ゴジラ×コング 新たなる帝国』よりもこっちの方がよっぽど初代『ゴジラ』(1954年)に近い空気をまとっていると思います。ノーラン監督流に『ゴジラ』を撮ろうと思ったら、たどりたどってゴジラの「祖父」にあたるお人の生涯に行き着いちゃった!みたいな。
 ほんと、面白い作品でしたね。過去作品と比較するのならば、『アインシュタインロマン』(1991年)的なイマジネーションの世界から始まって『 JFK』(1991年)のような歴史ドキュメンタリー大作の様相を呈し、後半はオッペンハイマーという天才と、彼の引力に翻弄された叩き上げの男との『アマデウス』(1984年)のような愛憎関係を番長らしく熱く語る大河ドラマになっていたかと思います。老け役のロバート=ダウニーJr. が『生きものの記録』あたりの三船敏郎に見えてしょうがなかったよ! アジア人に似てると言われたら、ロバート殿はおかんむりかな?
 言いたいことは山ほどあるのですが、ノーラン番長作品によく登場する「ずんぐりむっくりな謎の女」枠が、今作ではまさかあの『ミッドサマー』のピューさんだったとは気づきませんでした。エンドロールでほんとにびっくりした! そしてノークレジットで特別出演したゲイリー=オールドマンの演技のすごみときたら……さすがは、世界帝国アメリカの大統領といった感じですね。引退なんかしないでぇ~♡


 さて、さんざん別の映画の話をしておいてナンなのですが、今回は核兵器とも戦争とも全く関係の無い、ある名作映画についてでございます。
 怖い……とっても怖い映画です。怖さに関して言えば『オッペンハイマー』に勝るとも劣らない作品なのですが、怖さの種類がまるで違うし、そもそもこの映画を「ホラー映画」とラベル付けしてよいものなのかどうか。取りようによってはホラーっぽい超常現象などいっさい起こっていない「サイコサスペンス」なのかもしれないんですよね……あいまい! そのあいまいさこそが、この作品の恐ろしさの本質なのです。


映画『回転』(1961年11月公開 モノクロ100分 イギリス)
 『回転(原題:The Innocents)』は、イギリスのホラー映画。ヘンリー=ジェイムズ(1843~1916年)の中編小説『ねじの回転』を原作とする。
 本作の冒頭で流れる印象的な独唱曲は、音楽を担当したジョルジュ=オーリックの作曲と、イギリスの脚本家ポール=デーン(1912~76年 代表作に『007 ゴールドフィンガー』や『オリエント急行殺人事件』など)の作詞による『 O Willow Waly(悲しき柳よ)』で、本編中ではフローラが唄う歌として、フローラ役のパメラ=フランクリンではなく、本作に別の役で出演しているイギリスの歌手で女優のアイラ=キャメロン(1927~80年)が吹替で歌唱している。
 ちなみに、この『 O Willow Waly』は本作のオリジナル曲であり、タイトルが似ているスコットランド民謡『広い河の岸辺(原題:O Waly,Waly)』や、ジャズの有名曲『柳よ泣いておくれ(原題:Willow Weep for Me)』(作曲アン=ロネル)とは全く関係が無い。

あらすじ
 ギデンズ嬢は住み込みの家庭教師としてある田舎町を訪れ、ブライハウスという古い屋敷に向かう。そこではマイルズとフローラの幼い兄妹が長い間、家政婦のグロース夫人に面倒を観られながら暮らしていた。兄のマイルズは、何らかの問題を起こして学校を退学処分になっていた。雇われて屋敷で生活して行くうちに、ギデンズは屋敷にいるはずのない男の姿を屋上で見かけたり、遠くからこちらを見つめる黒服の若い女性の姿を見かけたりと、さまざまな怪奇現象に襲われる。ギデンズはその謎を解明するためにブライハウスに関する情報を調べるが、自分の前任者の家庭教師ジェセル嬢が悲惨な惨劇に見舞われていたことを知る。

おもなキャスティング
ギデンズ先生  …… デボラ=カー(40歳)
フローラ    …… パメラ=フランクリン(11歳)
マイルズ    …… マーティン=スティーヴンス(12歳)
グロース夫人  …… メグス=ジェンキンス(44歳)
ブライ卿    …… マイケル=レッドグレイヴ(53歳)
メイドのアンナ …… アイラ=キャメロン(34歳)
クイント    …… ピーター=ウィンガード(34歳)
ジェセル先生  …… クリュティ=ジェソップ(32歳)

おもなスタッフ
監督・製作 …… ジャック=クレイトン(40歳)
脚本    …… トルーマン=カポーティ(37歳)、ウィリアム=アーチボルド(44歳)
音楽    …… ジョルジュ=オーリック(62歳)
撮影監督  …… フレディ=フランシス(43歳)
製作・配給 …… 20世紀フォックス


原作小説『ねじの回転』とは
 『ねじの回転(原題:The Turn of the Screw)』は、1898年1~4月にアメリカ・ニューヨークの大衆週刊誌『コリアーズ・ウィークリー』にて連載発表されたヘンリー=ジェイムズの中編小説。怪談の形式をとっているが、テーマは異常状況下における登場人物たちの心理的な駆け引きであり、心理小説の名作である。
 本作を原作とした映画が4作(1961、2006、09、20年版)、オペラ(1954年初演 作曲ベンジャミン=ブリテン)、バレエなど多数の作品が制作されている。また、本作の前日譚にあたる映画『妖精たちの森(原題:The Nightcomers)』(1972年 主演マーロン=ブランド)も制作されている。
 題名の「ねじの回転」の由来は、ある屋敷に宿泊した人々が百物語のように怪談を語りあうという設定の冒頭部分における、その中の一人の「ひとひねり利かせた話が聞きたい」という台詞からとられている。「(幽霊話に子どもが登場することで)『ねじを一ひねり』回すくらいの効果があるなら……さて、子どもが二人だったらどうだろう?」「そりゃあ当然ながら……二人いれば二ひねりだろう!」

主な邦訳書
『ねじの回転、デイジー・ミラー』(訳・行方昭夫 2003年 岩波文庫)
『ねじの回転 心霊小説傑作選』(訳・南条竹則、坂本あおい 2005年 東京創元社創元推理文庫)
『ねじの回転』(訳・土屋政雄 2012年 光文社古典新訳文庫)
『ねじの回転』(訳・小川高義 2017年 新潮文庫)


 いや~、うわさにたがわぬ歴史的名作でしたね! この作品。モノクロ映画の美しさの極地なのではないでしょうか。
 非常に不勉強なことに、私はこの作品を最近やっと DVDで購入して初めて視聴したのですが、ホラー映画の歴史を語る上で決して忘れることのできない名作として、この作品の名前はずいぶんと前から知ってはいました。

 いわく、あの映画『リング』(1998年)で爆発的ブームとなった「 Jホラー」の表現する恐怖表現のひとつの起源となる重要な作品であるとか。

 純然たるイギリス映画であるこの『回転』をつかまえて日本発のブームのネタ元とするとはおかしな話なのですが、死霊なりモンスターなりの「恐怖の象徴キャラ」が実体を持ってぐわっと襲いかかってくる欧米、特にアメリカ産のホラー映画と違って、いわゆる Jホラーにおける恐怖の象徴は、「視界のすみっこ」にぼんやり誰かがいるような、いるのかいないのかわからない、あいまいな空間からじわりじわりとにじり寄ってくる、その「実体のつかめなさ」にその独自性があるという分析が、私が夢中になっていたころの1990~2000年代のホラー界隈では定説のようになっていたと記憶しています。
 もちろん、最終的には貞子大姐さんなり佐伯さんのとこの母子なりが主人公の前に実体を現わしてクライマックスを迎える流れはあるのですが、どちらかというと、そこにいくまでの「呪いのビデオ」だとか「人死にがあったらしい住宅」といったお膳立てのかもし出す「不吉な雰囲気」を重視する作劇法こそが、当時の日本産ホラー映画の特徴だったようなのです。それは、『リング』よりも『女優霊』(1995年)だとか鶴田法男監督によるオリジナルビデオ『ほんとにあった怖い話』シリーズ(1991~92年)のほうが端的かと思われます。カメラのピントが合っていない所にたたずむ、あいまいなだれか。

 それで、そういった「あいまいな恐怖」を先駆的に描いていた作品としてよく名前があがっていたのがこの『回転』でして、他には『たたり』(1963年)だとか『シェラ・デ・コブレの幽霊』(1964年)あたりが伝説っぽく語られていたと思います。『シェラ・デ・コブレの幽霊』さぁ、実はもう海外版の DVDを購入してるんですが、まだ観てないのよね! 近いうちに必ず腰すえて観ようっと。

 それはともかく、まずこの映画の原作であるヘンリー=ジェイムズの中編小説『ねじのひねり』(私はこの邦題が大好きなのでこれで通します)こそが、当時の怪奇文学ジャンルの中で「恐怖の対象をあえてあいまいな描写にとどめる」という「朦朧法」の実践例としてつとに有名な作品なので、これが映像化されたときに「あいまいな恐怖」を描くのは当然のことでしょう。小説と映画という世界の違いこそあれ、人間の思い抱く恐怖をどのように表現したらよいのかと模索する試行錯誤は、まるで鳥とコウモリ、もぐらとおけらのように同じ道を目指していく収斂進化の様相を呈していたのねぇ。

 ジェイムズの原作小説『ねじのひねり』と映画『回転』との内容の違いを比較してみますと、まぁ物語の大筋の流れにさほど大きな差異は無いように見えるのですが、やはり主人公となるギデンズ先生の「追い詰められ方」、つまりはテンパり具合において、小説と映画とで印象の違いを生んでいるような気がします。

 まず原作小説『ねじのひねり』の方なのですが、こちらは上の解説情報にもある通り、後年のギデンズ先生と親しかったダグラスという紳士が、怪談会の中でギデンズ先生自身のつづった回想の手記を公開するという設定で物語が始まります。
 そのため、物語の視点は当時20歳そこそこだった若きギデンス先生からの完全一人称となっており、その彼女が古い屋敷の中で何度となく出会う、彼女にしか見えないらしい「見知らぬ男女」が、果たして幽霊なのか、それともまぼろしなのかというのが、原作小説の肝となっているわけです。

 ちなみに、怪談会の中でのある人物の話という実録形式で語られるこの物語は、現実に1898年に週刊誌で連載されるまでに、作者(ジェイムズ?)が最近死没した友人ダグラスから死の直前に託された、まだダグラスが健在だった時に2人が参加した怪談会の中でダグラスが紹介した、彼が約40年前、大学生だった時に親しくなった10歳年上のギデンズ先生からもらった、彼女が20歳だった時に体験したエピソードを回想した手記という体裁になっています。まるで『寿限無』みたいに長ったらしい、わざとエピソードの時代設定をあいまいにさせようとする入り組んだ迷路みたいな事情なのですが、ここらへんも、「友達の兄貴の彼女のいとこの先輩の体験したほんとの話なんだけどさ……」みたいな感じで始まる現代の実録怪談のご先祖様らしい、実にもったいぶった前置きですよね。作者ジェイムズはこの小説を発表した時は50代なかばですので、ダグラスが具体的に何歳なのかはわからないのですが、だいたいジェイムズと同年代かと推定すれば、その10歳年上のギデンス先生が20歳の頃に体験したということは、おおよそ半世紀前、つまり19世紀半ばころのイギリスの片田舎で起きた事件ということになりますでしょうか。そのころ、日本はまだ江戸時代でい、てやんでぇ!

 話を戻しますが、小説『ねじのひねり』は徹頭徹尾ギデンス先生視点で物語が進んでいきます。そしてそこに出てくる男女の幽霊(と、ギデンス先生が主張している存在)は、どうやらギデンス先生以外の誰にも見えていないらしいという事実がほの見えてくるのですが、ギデンス先生自身は、屋敷に住むマイルズとフローラの幼い兄妹に対して「見えているのに知らないふりをしている」という疑いの目を向けていきます。
 この状況を頭に入れつつこの小説を読んでいきますと、実はこの物語は幽霊たちが存在しなくても成立することがわかります。すなはち、ギデンス先生が見たという幽霊たちは実際にポルターガイストの如く屋敷の家具調度を飛ばしたり壁に投げつけて割ったりするでもなく、ただ現れるだけなのです。いつのまにか現れて、そこにいるだけ。それなのに、それがギデンス先生にとってはたまらなく恐ろしく忌まわしいのです。
 ギデンス先生は、この屋敷の関係者の中に、ここ1年かそこらのうちに不審死を遂げた使用人のクイントという男と、その彼とよこしまな関係にあり、その死ののちに精神のバランスを崩して自殺したという前任の家庭教師ジェセル先生がいることを知り、その2人が幼い兄妹になんらかの未練を残しているために幽霊となっているのではないかと推測するのですが、彼らは遠巻きに兄妹を見ていたり、兄妹を探して屋敷の周辺をさまようばかりで、特に何もしないでいるのです。このへんの、生者に全く何もしないけど確実にいる、襲いかかるでも呪うでもなくただいるだけという存在感が、一体何をしたいのかがさっぱりわからないだけに、ギデンス先生の理解の範疇を超えたコミュニケーション不能の恐ろしさをかもし出しているのでしょう。
 原作小説におけるギデンス先生は、親が教師ということで教育に関する素養こそ持っているものの、実践の経験は全くない若い女性に設定されています。そして、そんな娘さんに対して、彼女を甥と姪の家庭教師に雇った貴族の男性は、破格の給料を約束こそするものの、労働条件として「屋敷のことのいっさいを取り仕切り、自分に決して相談しないこと」という、働き方は自由のようでいてその反面、責任もむちゃくちゃ重い要求を課すのです。当初ギデンス先生はガチガチに緊張しながらも「それだけ信頼されてるんだな……よし、がんばるゾ☆」とはりきるのでしたが、着任して早々、寄宿制の学校に行っていて夏休み期間に帰省してくるだけだったはずの兄マイルズが「退学処分」という形で屋敷に転がり込むというトラブルが発生し、その頃からギデンス先生は幽霊たちを見るようになり、同時に兄妹が「私に何か隠し事してるんじゃないかしら……」という疑心暗鬼状態に陥っていくのでした。

 このシチュエーションを見て、ホラー映画ファンならば、あのスタンリー=キューブリック監督の超名作『シャイニング』(1980年)を思い出さない人はいないでしょう。あの映画もまた、分厚い積雪に囲まれた冬季閉業中のホテルの管理を任された主人公が、自身の作家業のスランプというきっかけから精神を病んでいき、気味の悪い幽霊たちに翻弄された挙句に自らの妻と息子に殺意さえ抱く極限状態にまで追い詰められてしまう「サイコサスペンス」という、原作者スティーヴン=キングも激おこのアレンジが施されていました。原作小説は純然たる超能力ホラーなんですけどね……

 つまり、原作小説『ねじのひねり』は、幽霊怪談の形式を採っていながらも、世間一般で言う幽霊とは、精神のバランスを崩した人が見てしまう幻覚なのではないか?という解釈も可能にしている、「幽霊の存在を信じようが信じまいが成立する」物語になっているのです。その真相をあいまいにすることこそが、作者ジェイムズがこの物語を世に出した意義であり、「いると思えばいる。いないと思えばいない。」というあやかしの存在を文学の世界に成立させた大発明だったのではないでしょうか。
 このジェイムズの筆のものすごさをイメージするだに私が連想してしまうのが、あの黒澤清監督のホラードラマ『降霊』(1999年)なのですが、あの作品でも、登場人物の一人がそういうセリフを言っているんですよね。殺人鬼ジェイソンや宇宙船ノストロモ号の中にひそむエイリアンとは全く別種の恐怖が、そこには黒々と存在しているわけです。直接危害は及ぼさないけど、確実に見る者の精神をむしばんでいく、理解不能ななにか。

 ちょっと、原作小説があまりにもすごすぎるので、本題であるはずの映画『回転』の内容に入るのがだいぶ遅れてしまいました! だいぶどころじゃねぇ!!

 ほんでもって肝心カナメの『回転』なのですが、こちらはある一点で、原作小説と大きく異なる変更がなされています。
 すなはち、主人公のギデンス先生がかなりの御妙齢に。アラフォー!

 単なるキャスティングの都合だろうと言われればそこまでなのですが、原作に比べて映画版のギデンズ先生が20歳も年上の、しかも演じるのが気品たっぷりの美貌と貫録を持つデボラ=カーであった場合、ギデンズ先生のキャラクター造形にどのような変化があらわれるのかと言いますと、そこには「教育に関する強い自信」と、それがゆえに「子ども達は私に嘘をついている!」という疑いを確信的にしてしまう頑固さを原作以上に強くする効果があったのではないでしょうか。

 おそらく、原作通りにギデンス先生が20歳そこそこの新人家庭教師だった場合、物語の中心にいるのは幽霊たちと子ども達の謎に翻弄され、あわれに疲弊してゆく若い娘さんだったはずです。その、ある種の万能感を持ってチャレンジしたはずの若者が理解不能な屋敷の不条理にぶち当たり挫折してゆく姿は、映画版とはまるで違う印象を観る者に与えていたことでしょう。それこそ、教え子との心の壁に苦悩するギデンズ先生を思わず応援したくなるような、普遍的なヒューマンドラマになっていたかも知れません。はたまた、日本の明治時代末期に一大オカルト旋風を巻き起こし、その渦中でもみくちゃにされた挙句、ごみのように捨てられてしまった「千里眼事件」の女性超能力者たちの悲劇を彷彿とさせる、つらい物語になっていたのかも。ヒエ~また『リング』につながっちゃった!

 だがしかし、実際の映画版での妙齢ギデンス先生はどう仕上がったのかと言いますと、正直言いまして「幽霊よりもあんたが怖いわ!!」と言いたくなるくらいに目をひん向いて「あの子たちは嘘をついてる! 私にはわかるの!!」とでかい声でつぶやき続ける、かなり危険なかほりを漂わせるヒステリックレディになっていたかと思います。そして、そういったカーさんの女優オーラに耐えうる実力を持った対抗馬として、疑惑の幼い兄妹を演じた2人の子役も、心の裏がまったく読めず、かわいらしく笑えば笑うほど薄気味悪く見えてくる恐ろしげな存在になっていました。
 つまり要は、ギデンズ先生が子ども達に淡い幻想を抱くほど青くなく、年齢的にも8~10歳くらいの子ども達との隔絶が大きくなってしまったがために、同じ「幽霊よりも人間が怖い」作品にするにしても、原作小説とはまるで違うアプローチで「人間の思い込みのかたくなさ」と「無邪気な子どもの中に潜む残酷性」を活写する作品に、映画版は仕上がっていたのではないでしょうか。
 かくいう私個人は、演じる子役さんの演技力次第で出来がだいぶ違ってくるので、子役が前面に押し出される作品はあんまり好きではないのですが、悠久たるホラー映画の歴史の中には、「子どもが怖い系」というジャンルも確立してるんですよね。そうか、この『回転』はそっち系の重要な先行作品にもなってるのか! そっちらへんで有名なのは『オーメン』(1976年)とか『ペット・セマタリー』(1989年)でしょうが、私が好きなのはやっぱ『ペーパーハウス 霊少女』(1988年)ですかねぇ。

 とにもかくにも、小説『ねじのひねり』も映画『回転』も、幽霊よりも「人間の怖さ」に焦点を当てた名作であることに違いはありません。しかし、かたや文字かたや映像ということで、人間のどこに怖さを見いだすかでまるで違うテイストの世界を築いているところに、21世紀の今もなお伝説の傑作として語り継がれるにふさわしい、双方の魅力があるのではないでしょうか。

 それに、映画版はともかく映像がきれい! ハマー・プロの怪奇映画の監督としても有名なフレディ=フランシスの手による撮影映像の巧緻な設計プランと融通無碍なセンスの世界は、どのカットを切り取ってももはや西洋絵画の域! モノクロという映像形式をまるで制約と思わせない、色が無いからこそ無限のイメージを喚起させる色の豊かさは、もうお話なんかどうでもいいやと思わせてしまう程の魔力を持っていると思います。また、夜のシーンが夜らしく見えない位に白さを強調している夜空をバックにしているので、実にあいまいな、今が昼なのか夜なのかが一瞬わからなくなる幻惑感を演出しているんですよね。ゴシックホラーだからこその思い切った挑戦、お見事!
 あと、映画版は映像作品らしく音声という点でも原作小説に無かったオリジナリティを発揮していて、フローラがなにげなく口ずさむ『 O Willow Waly』のメロディの美しさや、兄妹と幽霊たちとの過去のつながりを濃厚ににおわせるオルゴールの存在感は、物語に時間の奥行きを生む技ありな小道具になっていたと思います。辻村深月先生の『かがみの孤城』のアニメ映画にもオリジナルでオルゴールが登場していましたが、映像化作品に音のアプローチって、定番ですよね。


 さて、ここまでいろいろとくっちゃべってきて字数もかくのごとくかさんできましたので、そろそろ本記事もおしまいにしたいと思うのですが、気がつけば、部屋の隅から恨めしげにこちらを見つめて、

「あの~、おらだづのごとは、触れてもくんねぇんだべが……」

 と無言の圧力をかけてくる、2人の男女の影が。あぁ~ごめんごめん、今ちゃちゃっと言うから!

 映画版で不気味な男女の幽霊を演じていたのは、使用人クイントがピーター=ウィンガード、ジェセル先生がクリュティ=ジェソップなのですが、どちらもセリフ無しながら非常に強烈なインパクトを残していたと思います。怖いというよりは忌まわしい、憐みを誘うたたずまいなんですよね。特にジェセル先生役のクリュティさんは、顔のアップさえほぼないのに、黒い喪服ドレスを着た遠景ショットだけで「あ、この人、生きてない。」という説得力を持たせるとんでもない才能を発揮していたと思います。そんな才能、幽霊役の他にどこで役に立つわけ!? でも、撮影監督のフレディさんは、本作の翌年に自身が監督したホラー映画『恐怖の牝獣』(原題:Nightmare 1964年)にもクリュティさんを起用してるんですよね。よっぽど気に入ったんだな……山村貞子さんの遠い遠いご先祖様ですよね。そういえば、雰囲気が木村多江さんに似てるかも。
 そして、不気味ながらもどこか、野卑な使用人とは思えない気高さをたたえる顔立ちをしていたクイント役のピーターさんなんですが、私、この人を見た瞬間から「どっかで見たことあるような……」とモヤモヤしていたんですが、30代半ばだった本作の時期よりも後年のお写真を見てやっとわかりました。この人、ジェレミー=ブレット主演のグラナダTV 版のドラマ『シャーロック・ホームズの思い出』(1994年 通算第6シリーズ)の中の第1話『三破風館』で、上流社交界の裏ゴシップに精通した怪紳士ラングデール=パイクを演じておられた方だ! 日本語吹替版の声担当は小松方正!! 

 小松方正さんと言えば、太平洋戦争の終戦直後に海軍兵となって広島に配属されていたのですが、あの1945年8月6日の前日の終電で東京へ出向したために原子爆弾の惨禍をまぬがれたという、もはや唖然とするしかない超豪運の持ち主です。原爆!? よし、これで本記事の冒頭につながったぞ!! もう、なにがなんだか。
  
 『回転』、合わない人にはちと退屈な作品かも知れませんが、ホラーな雰囲気が大好きな方にはたまらない歴史的名作です。おヒマならば、ぜひぜひ~!!
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ただのメモです ここは押さえとけ!!ラヴクラフト手帖

2023年12月29日 18時36分56秒 | ホラー映画関係
短編小説『錬金術師(The Alchemist)』(1916年11月)
・ラヴクラフトが小説家を目指す契機となった作品
・所収
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)

ショートショート『忘却 / 廃墟の記憶(Memory)』(1919年6月)
・以降のラヴクラフト作品に共通した思想が描かれている
・所収
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・紀田順一郎 角川ホラー文庫)

短編小説『ダゴン(Dagon)』(1919年11月)
・のちのラヴクラフト世界観を最初に創り出した先鋭的作品
・『クトゥルフの呼び声』(1928年)の原型
・父なるダゴンと母なるヒュドラ
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『インスマウスの影』(1936年)

断章『アザトース(Azathoth)』(1919年?月)
・『未知なるカダスを夢に求めて』の原型か
・アザトース
 「魔皇」、「万物の王」、「白痴の魔王」と呼ばれ、ラヴクラフト神話に登場する多くの神々の始祖とされる。
・所収
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『ペガーナの神々』(1905年)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『闇に囁くもの』(1931年)、『魔女の家の夢』(1933年)、『闇の跳梁者』(1935年)

短編小説『ランドルフ・カーターの陳述』(1920年?月)
・ラヴクラフト自身をモデルとした神秘学者ランドルフ・カーター(Randolph Carter)が登場するシリーズの第1作
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『ニャルラトホテプ(Nyarlathotep)』(1920年11月)
・ニャルラトホテプ
 クトゥルフ神話における重要なキャラクター。人間大で描写されている。
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『這い寄る混沌』(1921年)

短編小説『ウルタールの猫(The Cats of Ulthar)』(1920年11月)
・ドリームランドもの
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕訳 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連項目
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『蕃神』(1933年)

ショートショート『北極星 / ポラリス(Poraris)』(1920年12月)
・超古代の歴史書『ナコト写本』が初登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『恐ろしい老人(The Terrible Old Man)』(1921年7月)
・移民による犯罪を描いた物語であり、人種差別の批判を承知で著した作品。
・キングスポートが初めて舞台となった作品
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『驚異の書(Probable Adventure of the Three Literary Men)』(1912年)
・関連作品
 『魔宴』(1925年)、『霧の高みの不思議な家』(1931年)

短編小説『家の中の絵(The Picture in the House)』(1921年7月)
・「アーカム」や「ミスカトニック」が初めて登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『無名都市(The Nameless City)』(1921年11月)
・アブドゥル=アルハザードの名前が初登場する記念碑的作品
・無名都市
 アブドゥル=アルハザードが幻視して見つけた、はるか昔の都市。アルハザードは「夢の中で訪れた」とされる。古代人は、この地を「何も無い場所」を意味する「ロバ・エル・カリイエ」の名で呼び、現代アラブ人は「真紅の砂漠」と呼ぶ、イラク・クウェート付近にあるルブアルハリ砂漠の中に存在する。20世紀初頭にはクトゥルフ教団の拠点がある。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『サルナスの滅亡』(1920年)、『魔犬』(1924年)、『クトゥルフの呼び声』(1928年)

短編小説『エーリッヒ・ツァンの音楽(The Music of Erich Zann)』(1922年3月)
・ラブクラフトが「自分の物語で最高の作品」として紹介している。
・所収
 『ラヴクラフト全集第2巻』(1976年 訳・宇野利泰 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『セレファイス(Celephaïs)』(1922年5月)
・セレファイス
・クラネス
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アンブローズ=ビアス『空飛ぶ騎手(A Horseman in the Sky)』(1889年)
 ダンセイニ卿『トーマス・シャップ氏の戴冠式』(1912年)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『インスマスの影』(1936年)

短編小説『眠りの神 / ヒュプノス(Hypnos)』(1923年5月)
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『魔犬』(1924年)

短編小説『魔犬 / 妖犬 / 猟犬(The Hound)』(1924年2月)
・魔導書『ネクロノミコン』が初めて登場した作品
・アブドゥル=アルハザード
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『無名都市』(1928年)

短編小説『魔宴 / 祝祭(The Festival)』(1925年1月)
・のちのクトゥルフ神話に先行した作品として重要
・キングスポートもの
・「無定形のフルート奏者」、魔導書『ネクロノミコン』、「ミスカトニック大学」の設定が初めて明確化される
・緑色の火柱
・無定形のフルート奏者
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『恐ろしい老人』(1921年)、『魔犬』(1924年)、『無名都市』(1928年)、『霧の高みの不思議な家』(1931年)

短編小説『名状しがたいもの(The Unnamable)』(1925年?月)
・ランドルフ=カーター
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『アウトサイダー(The Outsider)』(1926年4月)
・ラヴクラフトの代表作の一つ、初期の最高傑作
・ラヴクラフトは「最もポオの作風に似ている」と語っている。
・ラヴクラフトの心象を表した一種の自伝的小説と評され、ラヴクラフト自身も「自分はアウトサイダーである。」と語っていた。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・平井呈一 角川ホラー文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 エドガー=アラン・ポオ『ベレニス』(1835年)、『赤死病の仮面』(1842年)
 ナサニエル=ホーソーン『ある孤独な男の日記より』(1837年)
 オスカー=ワイルドの童話『王女の誕生日』(1891年)
・関連作品
 『闇をさまようもの』(1936年)

短編小説『異次元の色彩 / 宇宙からの色(The Colour Out of Space)』(1927年9月)
・ラヴクラフト自選ベスト作
・宇宙生物カラー(色彩)
 他の生物の生命力を糧とし、影響を受けた生き物は精神を病み生命力と色彩を失って灰色に変じ、最終的には崩れ去る。ガス状の生命体と推測されているが、正体も対処方法も不明。
・映像化作品
 映画『DIE MONSTER DIE!(襲い狂う呪い)』(1965年)
 映画『The Curse(デッドウォーター)』(1987年)
 映画『Die Farbe』(2010年)
 映画『カラー・アウト・オブ・スペース 遭遇』(2019年 主演ニコラス=ケイジ 監督リチャード=スタンリー)
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『From Beyond』(1920年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『忌まれた家』(1937年)

短編小説『ピックマンのモデル』(1927年10月)
・カニバリズムをテーマとした作品
・ラヴクラフト作品でも特異な一人称対話形式の作品
・リチャード=アプトン・ピックマン
 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの幻想画家
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
・関連作品
 『ネクロノミコンの歴史』、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)』(1928年2月)
・ラヴクラフトのクトゥルフ神話の代表作、中核、出発点
・ラヴクラフト自身は「そこそこの出来、自作のうち最上のものでも最低のものでもない。」と評している。
・クトゥルフ(Cthulhu)
 エインジェル教授の論文に現れる邪神。信者は世界各地におり、グリーンランド、ニューオーリンズ、南太平洋で神像が見つかっている。
・所収
 『ラヴクラフト全集第2巻』(1984年 訳・宇野利泰 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アルフレッド=テニスンの詩『クラーケン』(1830年)
 ジェイムズ=フレイザー『金枝篇』(1890~1936年)
 アーサー=マッケンの短編小説『黒い石印』(1895年)
 ロード=ダンセイニの短編小説『ペガーナの神々』(1905年)
 イギリスの怪奇小説家アルジャーノン=ブラックウッド(1869~1951年)の引用
・関連作品
 『ダゴン』(1919年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『インスマウスの影』(1936年)

短編小説『銀の鍵(The Silver Key)』(1929年1月)
・ランドルフ=カーター
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫
・関連作品
 『セレファイス』(1922年)、『銀の鍵の門を越えて』(1934年)

短編小説『ダンウィッチの怪(The Dunwich Horror)』(1929年4月)
・アンソロジーに採用されることも多く、ラヴクラフトの代表作かつ入門作として取り上げられることも多い。モダンホラー文学の先駆。自他ともに好評な自信作
・旧支配者
・ヨグ=ソトース
・映像化作品
 映画『ダンウィッチの怪』(1970年)
 映画『H.P.ラヴクラフトのダニッチ・ホラー』(2007年)
・所収
 『幻想と怪奇第2巻 英米怪談集』(1656年 訳・塩田武 ハヤカワポケットミステリ)
 『怪奇小説傑作集第3巻 英米篇3』(1969年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』(1928年)、『インスマウスの影』(1936年)

短編小説『闇に囁くもの(The Whisperer in Darkness)』(1931年8月)
・SF小説の傾向が強い、転換期にあたる作品
・地球外生命体ミ=ゴ
 惑星ユゴスから飛来した知的種族。菌類生物に近いが高度な科学力を有する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第1巻』(1974年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『狂気の山脈にて』(1936年)、『時間からの影』(1936年)

短編小説『霧の高みの不思議な家(The Strange High House in the Mist)』(1931年10月)
・キングスポートもの
・ノーデンス
 海の神
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『驚異の書(Probable Adventure of the Three Literary Men)』(1912年)、『ロドリゲスの年代記』(1922年)
・関連作品
 『恐ろしい老人』(1921年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『魔女の家の夢(The Dreams in the Witch House)』(1933年7月)
・「妖術師もの」の一作
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2023年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ナサニエル=ホーソーンの未完小説『セプティミウス・フェルトン』(1872年)

ショートショート『蕃神 / べつの神々(The Other Gods)』(1933年11月)
・ドリームランドもの
・『ナコト写本』が登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『ウルタールの猫』(1920年)、『北極星』(1920年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『銀の鍵の門を越えて(Through the Gates of the Silver Key)』(1934年7月)
・ラヴクラフトの異界幻想の極致というべき異色作
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
・関連作品
 『セレファイス』(1922年)、『銀の鍵』(1929年)、『永劫より』(1935年)

長編小説『狂気の山脈にて(At the Mountains of Madness)』(1936年2~4月)
・「クトゥルフ神話」の歴史が最も直接的かつ密度濃く描かれた作品。「古のもの物語」の代表作。
・ロストワールドもの SF冒険小説
・ラヴクラフトの宇宙観の総決算となる「幻想宇宙年代記」
・関連作品
 『時間からの影』(1936年)
・古のもの(いにしえのもの Old One)
 樽形の胴体と五芒星形の頭部を持つ半動物・半植物的な地球外生命体。生命体がまだ存在しなかった太古の地球に到来して文明を築いた。魔導書『ネクロノミコン』には、彼らが地球の生命体を創造したと記されている。生命力が極めて強く、水陸双方の環境に適応する。超常的な力は持たないが、科学技術が非常に発達していた。南極大陸は彼らが宇宙から地球に最初に降り立った場所である。「旧支配者」とも呼ばれる。
・ショゴス(Shoggoth)
 スライムのような不定形生物で、古のものによって創造され、都市の建設などに使役されていた。力が強く、身体は形状を変えるだけでなく、一時的に様々な器官を造り出すことが可能である。やがて知性を発達させ、次第に古のものに対して反抗的になり、ついには大規模な反乱を起こした。「テケリ・リ!テケリ・リ!」という特徴的な声を挙げるが、これは古のものの発声器官を真似することで身に付けたものである。このショゴスの鳴き声は、エドガー=アラン・ポオの冒険小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1837)に登場する巨大な怪鳥の鳴き声が元になっている。
・クトゥルフの末裔(Star-spawn of Cthulhu)
 古のものよりもさらに遠い世界から現れた地球外生命体。外見上はタコに似ているが、身体が地球上の生物とは異なる物質によって構成されており、変身や体組織の再生が可能である。古のものよりも後に地球に到来し、地上の支配を巡って古のものと激しく争った。この戦いでは一時的に全ての古のものを海に追い落としている。のちに和戦がなされて領土を分け合ったが、突如として本拠地の都ルルイエもろとも海に沈んだ。
 魔神クトゥルフとは異なり、クトゥルフの末裔はミ=ゴと同列の宇宙生命体のような扱いで、「陸棲種族」などと表される。
・ミ=ゴ(Mi-go)
 外見は甲殻類に、性質は真菌類に近い地球外生命体。クトゥルフの末裔と同様、地球上の生物とは根本的に異質な生物で、変身や体組織の再生が可能である。地球に現れたのはクトゥルフの末裔のさらに後で、すでに衰退していた古のものから北方の土地を奪った。ただし、海に隠棲した古のものには手出しができなかった。現在も地球上に潜んでいる。
・ミスカトニック大学
 アメリカ合衆国マサチューセッツ州の都市アーカムで1797年に創立された総合大学。
 1930年の南極探検には、ナサニエル・ダービイ・ピックマン財団から資金援助を受けている。
・狂気山脈(Mountains of Madness)
 南極大陸に存在する未知の巨大な山脈で、山腹にある地下洞窟から奇怪な古生物の化石が発掘され、恐るべき超古代の支配者達の存在が判明した。
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1985年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 エドガー=アラン・ポオ『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1837年)
 マシュー=フィップル・シェイ『パープルクラウド(The Purple Cloud )』(1901年)
 エドガー=ライス・バロウズ『地底の世界ペルシダー(At the Earth's Core )』(1914年)
 エイブラハム=グレイス・メリット『秘境の地底人(The People of the Pit )』(1918年)
 オスヴァルト=シュペングラーの歴史学書『西洋の没落』全2巻(1918、1922年)
 ジョセフ=ペイン・ブレナン『沼の怪スライム』(1953年)
・関連作品
 『無名都市』(1921年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1926年)、『時間からの影』(1936年)

短編小説『インスマスの影(The Shadow Over Innsmouth)』(1936年4月)
・ラヴクラフトの代表作。スリラー小説の要素が強い。クトゥルフ神話体系の中核。
・ダゴン秘密教団、深きものども
・映像化作品
 TVスペシャルドラマ『蔭洲升を覆う影』(1992年)
 映画『ダゴン』(2001年)
・所収
 『ラヴクラフト全集第1巻』(1974年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アーヴィン=S=コッブ『フィッシュヘッド』(1911年)
 オーガスト=ダーレス『潜伏するもの』(1932年)
・関連作品
 『ダゴン』(1919年)、『セレファイス』(1922年)、『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)

短編小説『時間からの影(The Shadow Out of Time)』(1936年6月)
・「大いなる種族もの」の代表作
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ウィリアム=ホープ・ホジスン『異次元を覗く家』(1909年)
・関連作品
 『異次元の色彩』(1927年)

短編小説『闇をさまようもの / 暗闇の出没者(The Haunter of the Dark)』(1936年12月)
・ラヴクラフトが生前に発表した最後の作品。ニャルラトホテプものの代表作
・ニャルラトホテプ
 闇をさまようもの。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ロバート=ブロック『星から訪れたもの』(1935年)、『暗黒のファラオの神殿』(1937年)、『尖塔の影』(1950年)
・関連作品
 『アウトサイダー』(1926年)

短編小説『忌まれた家(The Shunned House)』(1937年10月)
・吸血鬼や狼男伝説をモティーフとしている
・ラヴクラフトの訃報と共に雑誌『ウィアード・テイルズ』に掲載された作品
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2023年 訳・南條竹則 新潮文庫)
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大魔王カンノさん、大・召・喚!! ~映画『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』~

2023年11月16日 21時24分40秒 | ホラー映画関係
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。今日も一日たいへんお疲れ様でございました!

 いや~、世間はもう、明日から公開の映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の話題でもちきりですねぇ! たのしみだなぁオイ!!
 ……え? あんまりもちきりってほどでもない? うん、実は私の周辺でも、驚くほど静かです……
 『ゴジラ -1.0』とか『オトナプリキュア』は引き続き人気ですし、再来週から公開の北野映画最新作の『首』への、不安もだいぶ入り混じったワクワク感も徐々に高まりつつあるのですが、この『ゲゲゲの謎』だけは、ねぇ……まぁ必ず映画館に観に行くにはしても、なーんか今ひとつ、ピンとこないんですよねぇ。「水木しげる生誕100年記念作品」なのに。あのさまざまな実験精神に満ち溢れていたアニメ第6期『ゲゲゲの鬼太郎』(2018~20年放送)の、満を持しての劇場オリジナル作品だというのに!
 まぁ世間的には、どうしても第6期が終わってから時間がたちすぎてるのが大きいですかね。PG12指定というのも、どの客層を狙っているのかで多少のとっつきにくさが生じているような。
 そして、なにはなくとも私にとってデカいのは、キャスティング表を見るだに「おぬら様」が出なさそうなこと! これはいけません!! え? 鬼舞辻さんは出るらしいって? それじゃあ埋まんねぇよ!!
 いや、なんだかんだ言っても楽しみにしてますけどね……本格的にコワい鬼太郎譚、見せてもらおうじゃありませんか!
 なにげに、音楽が TV版第6期の高梨康治さんじゃなくて、あの川井憲次さんになってるのも気になりますね。個人的には、『墓場鬼太郎』味が強そうなんだから是非とも和田薫先生に復活してほしかったけど。『攻殻機動隊』っぽい鬼太郎かぁ。やっぱ楽しみ!

 余談ですが、私は TV版第6期から『ゲゲゲの謎』までの3年という短くない間隙を埋めんとするせめてものレジスタンス活動として、今年になって彗星の如く登場した「レノア クエン酸 in 超消臭」CM での、第6期バージョンの猫娘を見事に実写映像化した飯尾夢奏(ゆめな 13歳)さんの功績を、この場を借りて大絶賛させていただきたいと思います。『ゲゲゲの謎』が大ヒットしたら、次は実写映像作品を飯尾さん続投でお願い致します! 他のキャスティングは誰でもいい!!
 でも、あながち冗談ばかりでもなく、こういうちょっとした草の根活動で『ゲゲゲの鬼太郎』を思い出してもらうのは、大事よね。タイトルの知名度にあぐらをかいちゃあ、おしめぇよ。

 すみません、またお話がいつまでも本題に入らず失礼をばいたしました。

 今回は、あの現在絶賛大ヒット公開中の映画『ゴジラ -1.0』の山崎貴監督……の奥様の、佐藤嗣麻子監督の伝説の一作についてであります!
 さぁさ、ちゃっちゃと情報、情報っと!!


映画『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』(1995年4月 81分 ギャガ・コミュニケーションズ)
 人気ホラーマンガ『エコエコアザラク』シリーズの初映像化作品。ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭「ヤング・ファンタスティック・グランプリ部門南俊子賞(批評家賞)」受賞。
 ラブストーリーの監督を希望していた佐藤により、ほのかな恋愛要素が重視された。
 本作において、ミサが持ち物のロケットペンダントに入れた何者かの遺髪に語りかけるシーンがあるが、次回作『エコエコアザラク2 BIRTH OF THE WIZARD』(1996年)で誰の物であるのかが判明する。このミサのロケットの描写は、『エコエコアザラク3 MISA THE DARK ANGEL』(1998年)にも登場する。

あらすじ
 東京都心にある聖華学園高等学校。2年7組の教室では、最近都内で頻繁に起きている不審死事故が話題となっていた。生徒で魔術オタクの水野は、点在する発生現場の中心に聖華学園が位置することから、一連の死が魔王ルシファを召喚するための儀式によるものであると推理する。
 そんなとき、クラスに一人の少女が転校して来た。彼女の名は、黒井ミサ。その真の姿は、絶大な黒魔術の力を秘めた魔女であった。ミサの影をたたえた雰囲気はクラスメイトの新藤を魅了し、またある者には敵意を抱かせた。
 いっぽう、7組の担任教師・白井響子は教え子の田中和美と同性愛の関係にあった。そのうわさをミサに話そうとした7組の学級委員長のみずきが急に苦しみだす。黒魔術の呪いであると看破したミサは学園内の用具置き場にたどり着き、そこでみずきの髪の毛が巻きつけられた呪いの人形を発見する。
 ミサは確信するのだった。「この学園の中に、黒魔術を使う魔術師がいる……」

おもなキャスティング(年齢は劇場公開当時のもの)
黒井 ミサ  …… 吉野 公佳(19歳)
倉橋 みずき …… 菅野 美穂(17歳)
新藤 剣一  …… 周摩(現・大沢一起 22歳)
水野 隆行  …… 高橋 直純(23歳)
白井 響子  …… 高樹 澪(35歳)
田中 和美  …… 角松 かのり(20歳)
渡辺 千絵  …… 柴田 実希(17歳)
高田 圭   …… 南 周平(17歳)
木村 謙吾  …… 須藤 丈士(16歳)
沼田 秀樹  …… 岡村 洋一(38歳)

おもなスタッフ(年齢は劇場公開当時のもの)
監督・ストーリー原案 …… 佐藤 嗣麻子(31歳)
脚本 …… 武上 純希(40歳)
音楽 …… 片倉 三起也( ALI PROJECT)
デジタルビジュアルエフェクト …… 山崎 貴(30歳)
スペシャルエフェクト …… 白組
アクション監督 …… 大滝 明利(31歳)
音響効果 …… 柴崎 憲治(39歳)
製作 …… ギャガ・コミュニケーションズ、円谷映像


おさらい! 『エコエコアザラク』シリーズとは……
 『エコエコアザラク』 は、古賀新一(1936~2018年)による日本のホラーマンガ。これを原作とした映画作品や TVドラマも繰り返し製作されている。
 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて1975年9月~79年4月まで連載するロングヒット作となった。単行本は全19巻(角川書店マンガ文庫版は全10巻)。『ブラック・ジャック』(手塚治虫)、『ドカベン』(水島新司)、『750ライダー』(石井いさみ)、『がきデカ』(山上たつひこ)、『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)などと並んで、同誌の黄金期を支えた作品の一つである。
 1980年代には『月刊少年チャンピオン』にて『魔女黒井ミサ』、『魔女黒井ミサ2』として「高校生編」を連載。さらに1993年からは同じく秋田書店のホラーマンガ雑誌『サスペリア』に居を移し、『エコエコアザラク2』を連載した。
 1998年10月~99年2月に同じく『サスペリア』にて新シリーズ『真・黒魔術エコエコアザラク』を連載した。
 2009年5月28日発売の『週刊少年チャンピオン』第26号にて、同誌の「創刊40周年記念企画」として、30年ぶりの同誌登場となる読切新作が掲載された。その後、古賀の没後も他作家によるリメイク連載が行われるなど、シリーズの人気は衰えていない。

 黒魔術を駆使する若い魔女・黒井ミサ(くろいミサ)を主人公とし、ミサに関わる奇怪な事件や人々の心の闇を描く。原作マンガの黒井ミサは、善人であれ悪人であれ場合によっては人を平気で惨殺する非情な魔女として登場し、特に自分に対する性犯罪者に対しては容赦なく報復する場面がたびたび描かれた。
 作者の古賀新一へのインタビューによれば、ミサのキャラクターは親近感のある、どこにでもいそうな女の子であることに重点をおいたとしている。
 ミサは、魔女としての残忍さと普通の中学生(シリーズ続編では高校生)としての可愛らしさを併せ持つ得体の知れないキャラクターであるが、回が進むにつれて明るい性格の少女へと変化していった。当初は怪異を起こす加害者としての立場が多かったが、連載後半では怪事件に巻き込まれる被害者になることも多くなった。また、別の悪と対決するスーパーヒロイン的要素も加味されるが、基本的には邪悪さを隠し持つダークヒロインであった。

黒井ミサの基本情報(原作マンガに準拠)
年齢  …… 15歳(中学生だが、続編シリーズおよび映像作品では高校生)
出身地 …… 東京都
家族  …… 父・臣夫、母・奈々子、亡妹・恵理(映像作品ではアンリ)、叔父・サトル、祖母(名前不明)
特技  …… 黒魔術、タロットカード占い、剣道、護身術
アルバイト歴 …… 辻占い師、看護助手、家政婦、古本屋、喫茶店など

ミサの呪文「エコエコアザラク」について
 「 Eko, eko, azarak. Eko, eko, zomelak.」という文言は、イギリスのオカルト作家ジェラルド=ガードナー(1886~1964年)が1949年に著した小説『 High Magic’s Aid』第17章に登場する歌である。発表以後、この歌詞はガードナーの影響を受けた魔女教の典礼書で頻繁に使用されるようになった。 ガードナーと共に典礼書を著した作家のドリーン=ヴァリアンテ(1922~99年)によると、古い歌でありその意味は伝承されていない。古賀新一の『エコエコアザラク』シリーズでは黒魔術の呪文のように扱われているが、ガードナーの流れをくむ魔女教では単なる歌の歌詞である。


 いや~、ついにこの作品にふれる時が来ましたヨ! 自分の中での「満を持して」感がハンパありません!!

 まず、我が『長岡京エイリアン』と『エコエコアザラク』シリーズとの関わり合いを、「そんなんどうでもいいから早く感想言え」という声をガン無視して話させていただきますと、まずやっぱり、この「黒井ミサ」というキャラクターに青春時代からメロメロになっていた私は、同じく現代日本ホラー文化史において「ホラークイーン」の座を争っていた『リング』シリーズの山村貞子さん、『呪怨』シリーズの佐伯伽椰子さん、『富江』シリーズの川上富江さんに、このミサさんをアシスタントに交えましたエセ鼎談企画を、当ブログのかなり初期につづりました。なつかし~! ここで記した情報も、だいぶ古くなり申した……
 そしてこれに飽き足らず、数ある『エコエコアザラク』シリーズの中でも、特に思春期の私を魅了した映画版『エコエコアザラク』3部作のレビューをせんとくわだてた時もあったのですが、今回扱う『1』の後続作となる『2』(ただし内容は前日譚)『3』(ただし監督も主演も交代)の記事こそおっ立てたものの、Wikipedia の情報をのっけただけで当ブログ定番の「塩漬け」となっていたのでありました……うわ~ん、仕事で超忙しかったんだよう! 許してミサ様。

 私に限らず、当時のホラー映画ファンに相当な衝撃を与えたこの『エコエコアザラク』3部作だったのですが、私にとって最も思い入れが深いというか、いちばんガツンときたのは、今回の第1作でした。やっぱりすごいです、この作品。
 オイオイ、じゃあなんで一番好きな第1作をいの一番にブログで扱わなかったんだよ? といぶかる向きもあるかと思われますが、この理由は単純なことで、内容をちゃんと確認するために買おうとした DVDソフトが、この第1作だけ当時めちゃくちゃ高かったからなのでした。びんぼくさ!!

 とまぁ、そんな経緯にもなっていない経緯をへて、この2023年に『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』をレビューさせていただきたいと思います。DVDをふんぱつして購入したのは2018年のことだったのですが、買っといてよかったよ! 今もっと高くなってんだもん。

 それはともかく、公開2週目にして興行収入20億円を突破している『ゴジラ -1.0』の感想を先日つづっておいて、その次に記事にしたのがなんでまた四半世紀以上前の美少女ホラー映画なのかといいますと、それは言うまでもなく、このメッセージを満天下に訴えたいからなのであります。

山崎貴監督よりも、奥さんのほうがスゲーんだぞ!!

 ほんと、これだけ。そして、佐藤嗣麻子監督の堅実な映画技術と、その美学を突き通す意志の強さに、なんと「1995年の菅野美穂さん」というニトログリセリン級の起爆剤が投下されたことによって、とんでもない奇跡の超傑作となってしまったのが、この第1作なのであります。
 いやいや、別に私は、当時の菅野美穂さんのアイドル的人気を懐古的にほめたたえたいのではありません!

 映画『富江』と『催眠』(ともに1999年)、そしてこの『エコエコアザラク』の菅野さんは……こわすぎ!!

 いや、今作の菅野さんを怖いというのは完全なるネタバレになってしまうのですが、もうそんなんどうでもいいですよ! とにかく私は、一人でも多くの人に、「1990年代後期の菅野美穂」という、この人ほんとにやばいんじゃないかという顔を時々見せていた天才の狂気を、この『エコエコアザラク』を通して知っていただきたい、そして畏怖していただきたいのです。たんに鼻声で爬虫類っぽい顔立ちで、豪放磊落にガハハと笑う女優さんじゃないってことなのよォ。
 いまや、いいポジションの大物女優さんですけどね……もう、ああいう役はおやりにならないんだろうなぁ。その後も、フジテレビの時代劇『怪奇百物語』中の『四谷怪談』(2002年)とか、TBS の大型時代劇『里見八犬伝』(2006年)とかでたま~に怖い役もやってましたが、すでに何かが「憑いてる」感じは薄れていたような気はします。

 なんか、「悪役の演技がうまい」とかいう範疇じゃないんですよね。「神がかってる」とはよく言いますが、神だかなんだかよくわからない何かと歯車がかみ合っちゃって、得体の知れない存在が写り込んだ鏡のような「媒体」になっちゃってる恐ろしさというか。完全に開けてはいけない扉が開いているというか。
 こういう、本人の計算と実力以上の「なにか」をまとっている女優さんって、まぁ今パッと思い出せる限りだと、『ピクニック at ハンギングロック』(1975年)のアンルイーズ=ランバートさんとか、『ポゼッション』(1980年)のイザベル=アジャーニさんとか、日本でいうと『ツナグ』(2012年)の橋本愛さんがそうだったような気がします。男性俳優さんで言うのならば、『シャイニング』(1980年)のジャック=ニコルソンと『帝都大戦』(1989年〉の嶋田久作さん、『ダークナイト』(2008年)のヒース=レジャーははずせませんよね!

 美貌、迫力、危険性……そういう「域」に入り込んだ人の魅力は作品によってさまざまだと思うのですが、菅野さんについて言うと、その魅力は「無垢な残酷性」! これに尽きると思います。
 あの目! 自分でその命をどうとでもできると踏んだ相手を見る時の、嬉々としてキラキラ光る、あの目!! もう楽しくて楽しくてしょうがないという表情で、「どう苦しませてから殺しちゃおうかな~♡」とつぶやきながら、トンボやカエルを引きちぎったり踏みつぶしたりする子どもの無垢な笑顔……
 まさに、人間の道徳、倫理というせせっこましい重力から「ふわわ~っ♪」と飛び立ってしまっている恐怖の天使こそが、1990年代の菅野さんの正体だったのです。あの目もすごいんだけど、笑った時にズラリと並ぶ白い歯も怖いんだよな……ほんと、文楽人形でいたいけな美少女の顔が一瞬で鬼の形相に変身する「ガブ」っていう頭(かしら)がありますよね? あれ、そのもの! くる、くるとわかっていても見るたびに衝撃を受けちゃう。

 だもんで、はっきり言っちゃうと、この記事で何万字を費やして本作の良さを語りつくしても、「いいから一回観てみて。」に勝る言葉は無いのであります。菅野さん、菅野さん! かの魔王ルシファもビビる菅野さんの狂演を見よ!! いや、ストーリー上はああいう力関係になっちゃってますが、悪魔よりも怖いのは、悪魔を必要とする人間の欲望ですよね。そ~れを17歳の女の子がやっちゃうんだもんなぁ! まいっちゃいますよ。

 いちおう今回の記事は、後半にいつも通りの「映画本編視聴メモ」を羅列しておしまいとしたいと思います。その中で佐藤嗣麻子監督の才能の素晴らしさと、大魔王カンノの恐怖はかいつまんで申していきたいと思うのですが、ここでちょっと、主人公なのに菅野さんのためにそうとうかわいそうな追いやられ方を喫してしまっている映像版初代ミサこと、吉野公佳さんについて。ほんと、『バットマン』(1989年)のマイケル=キートンもかくやというスルーっぷり! でも、ちゃんといい雰囲気は出しているんですよ。陽はまた昇る!!

 私もそうだったのですが、まず映画の良さをうんぬんする前に本作を観始めたお客さんの多くが感じたのは、原作マンガのファンであればある程「これ、黒井ミサかぁ?」と疑問を抱いてしまう違和感だったかと思います。まるで別人!
 まず中学生でなく高校生という時点でだいぶ違いますし、時代設定も原作通りややバイオレンスながらも牧歌的な1970年代ではなくリアルタイムばりばりの1990年代中盤であるというアレンジがあるわけなのですが、とにもかくにもミサがほとんど笑わない鉄面皮のクールビューティになっているのが、かなり面食らう改変になっていたのではないでしょうか。原作マンガの黒井ミサは、確かに魅力的ではあっても、顔だけを見れば特に「美」がつくほどのこともない普通の少女ですし、冗談をとばせばギャグシーンも難なくこなす陽気さも見せることがあったのです。それがどうしてあんな、常に肩を怒らせた寡黙で不機嫌そうなおなごに……現代だったら絶対にビリー=アイリッシュ好きそう。当時はビョークかしら。
 これはやっぱり、原作マンガの設定にそれほど依存せずに、自由に描きたい世界を創造した佐藤嗣麻子監督の意向によるものが大きいのではないでしょうか。『攻殻機動隊』の主人公・草薙素子とか『ゲゲゲの鬼太郎』サーガにおける猫娘とか、原作と派生作品とでキャラクター造形がじぇんじぇん違うというキャラクターは他にもいますが、それに匹敵するレベルで本作での黒井ミサをまったくの「別人」にしてしまったのは、ひとえに「いいから私に任せて!」という確固たる信念を持って挑戦した佐藤嗣麻子監督の勇気の勝利だと思います。いいのいいの、ちゃんと面白いんですから!
 これを「原作テイストの無視」と感じてしまう方もいるかと思いますが、ラストシーンでのミサの哀しみを見るだに、映画をきれいに締めるのは「生き方の不器用なミサ」ですし、無数の表情を見せる原作ミサのある一面だけを抽出したという解釈をすれば、決して無視ではないでしょう。より原作に準拠した映像版ミサは、後年に別作品で出てきますし。

 とかく佐藤嗣麻子監督の作風とアトミック大魔王カンノの存在感にかすんでしまいがちな吉野ミサなのですが、本作の陰性の魅力と哀しみを生み出す上で決して欠かすことのできない最重要パーツであることは間違いないと思います。
 あの狂騒の1990年代の中にあって、ひとり愁いを満々とたたえる、深く刻まれた涙袋よ……だれだ「くま」って言った奴は!? 呪ってやる!!


≪まいどおなじみの~、視聴メモでございやす≫
・冒頭の OL逃走シーンからスピーディなカメラワークでいい感じなのだが、最初の鳥瞰ショットで OLが突き飛ばした2~3人のあんちゃんグループが、次の OLを正面に捉えたショットに切り替わっても後ろの方で怪訝そうに振り返っているのが、地味ながらも誠実な撮り方をしていてすばらしい。ふつうこういう群衆シーンって、時間が経過していくからカットが切り替わると歩いてる人が全然違う顔ぶれになっちゃうじゃない。2台カメラを使っているのか、もしくはちゃんとエキストラを止めて撮り直してるんだろうなぁ。えらい!
・声優を加えたりして、ローブのフードをかぶった「真犯人」の正体はぼかしているが……儀式の現場が比較的明るいので、顔の下半分だけでも誰だかわかるよー! いや、のっけからバレてるとしても、クライマックスの真犯人の演技はすごいんですよ。
・フィルム撮影による曇天のようなもやっとした色調と、アリプロジェクトの片倉さんの陰鬱な中にも気品のある音楽が非常にマッチしていて、オープニングからいやがおうにも期待感が増す。片倉さんこそ、もっといろんな映像作品で音楽を手がけていただきたい! でもあれですね、佐藤嗣麻子監督作品って、4K デジタルリマスターとかしないほうがいい作風なんだろうなぁ。
・風紀指導と称して女子高生をべたべた触る教師の沼田を演じる岡村さんの手つきが笑っちゃうほどいやらしい! 一瞬、実相寺昭雄監督の作品かとみまごうばかりの手指のねちっこさ。いや、こんなの90年代だったとしても「イヤな先生」どまりじゃなくて犯罪者でしょ……
・冒頭で敵役が「とんでもない魔力を持った奴が来る」とふって、歩いてくる主人公の足や後ろ姿でひっぱっていき、満を持して振り向きざまにミサが名乗るところでタイトルがやっと出るという、この一連の流れの美しさ! 決して新味があるわけでもない実にオーソドックスな導入なのだが、これをてらわずにちゃんと正面きってやれるっていうことが、佐藤嗣麻子監督の確かな実力を物語ってるんですよ。漢らしい!
・朝のホームルーム前に教室で2~3人のクラスメイトを集め、東京都の地図を広げてオカルト話を熱心にする生徒・水野。かなりかんばしいオタク臭をはなつ場面のはずなのだが、演じているのが声も良くてちょっと不良の雰囲気もあるイケメン高橋直純さんなので、スクールカースト底辺感が微塵も感じられない! ダウト!! それを証拠に、話聞いてんの全員女子だし……ヘアスタイルも、それ寝ぐせでもくせっ毛でもなく、完全にトッポいスプレーセットじゃんか~! さりげにイヤーカフもしてるし! この偽物め!! たぶん、当時の大槻ケンヂさん的なモテるオタクを意識したキャラクター造形だったのではないかと。大槻さんとは全く方向性が違うけど。
・水野が説明に使用していた地図をよく見ると、本作の舞台となる聖華学園の所在地が、東京都港区の国道246号線(青山通り)の南、都道418号線(明治神宮外苑西通り)と都道413号線(赤坂通りとみゆき通りの中間地点)の交差する付近、すなはち、東京都心最大の心霊スポットと言っても過言でない、あの「青山霊園」に非常に近い土地にあることがわかる。こういう一瞬しか見えないような設定にも、これ以上ないくらいおあつらえ向きな場所を選んでくる制作陣のプロフェッショナルな力の入れ方に脱帽せざるを得ない。宗教がまるで違うけど、そんなとこで黒魔術やっちゃダメー!! 天海大僧正もビックリよ。
・オタク水野の一般高校生らしからぬテクニシャンな語り口に、クラスのリア充代表の新藤たちも思わず聞き入ってしまう。いやいや、そこは「何言ってんだオメー!」とかせせら笑って本を奪い取るところでしょ!? なんだこの映画、オタクに異常にやさしいぞ……この後、全部水野の夢でした~みたいなバッドエンドオチが待ってるのか? 逆にこの生ぬるさが、観る者(オタク)の不安を掻き立てる。しかし、ほんとに水野を演じる高橋直純さんは上手ですね……そりゃ声優さんでもやってけるわ。
・2年7組担任の白井先生のふわっと立った前髪も、令和から見ると非常になつかしいのだが、教室の照明がやや黄色っぽい蛍光灯なのも、思わず目頭が熱くなるものがある。朝っぱらなのに、なんか定時制みたいな感じ……
・今どきの女子高生で、制服姿にカチューシャのヘアバンドつけてる人って、まだいるんですかね。まず校則でダメか。ともあれ、このちょっと冒険しているワンポイントで、みずきが学級委員長と言っても決してお堅いばかりの人間ではないというキャラクターがほの見える。考えてるな~、すみずみまで!
・基本的に無表情でズンズン歩く長身のミサと、その一歩前をちょこちょこすまして歩く小柄なみずきの身長差がすばらしい。この映画、セリフ以外の「雰囲気」で語る情報量が潤沢で油断ならないぞ! さすがは佐藤嗣麻子監督。
・ミサが劇中で最初に魔術を使うところで、ポーズを決めた時に「ピキュン!」という非常にアニメチックな効果音が鳴り響くのが、特撮ヒーロー番組か1980年代に大流行したキョンシー映画を彷彿とさせてかなりなつかしい。基本的に低温な印象の画作りが目立つ本作なのだが、要所要所の大事なところでこういうミーハーな演出が入るのも、バランスが良くてポイントが高い。そして、その直後のミサのパン……なんと巧妙な映像設計か!! これに魂を奪われない男がいるだろうか、いやいない!!
・キャラクター設計上の都合とはいえ、ぎこちない硬質な演技の続く本作のミサなのだが、だからこそ、時々ちょっと口元が緩んだところを見ただけでものすごく得をした気分になる。う~ん、すべては佐藤嗣麻子監督のたなごころの上か! 演技がうまい以外の俳優の魅力の引き出し方を本当によくわかってらっしゃる。
・とかく目力で言うと2代目ミサこと佐伯日菜子さんが話題になりがちなのだが、初代の吉野さんも十分すぎる程に目力がハンパない。人の心をえぐるような強烈な眼光……なんか、NHKの『人形劇 三国志』の川本喜八郎作の人形みたいな人間離れした目よ! たとえが昭和!!
・屋上に続く階段の最上階踊り場という、「密談と言えば、ここ!」な場所で沼田先生を呪う儀式を行おうとする水野グループ。儀式に使われる(原宿で買った)わら人形を見てミサがにやっと笑うところが、「よかった、みずきを呪詛した物じゃない。」という安堵でなく、どう見ても「これだから素人は……」みたいなプロ目線からのあざけりにしか見えないのがたまらない。所詮は原宿……
・水野グループの誰かが隠し撮りしたらしい、沼田先生の顔写真が非常にいい表情をしている。こういう絵に描いたようなゲスい悪役って、現実世界には掃いて捨てたいくらいにいるのに、フィクション作品の中ではとんと見なくなりましたよね……どんな悪役も、実は同情の余地があるみたいな背景を語られて中途半端になっちゃう。ドラマ『人間・失格』の斎藤洋介さんくらいにすがすがしいまでのワルはいないのかと! 江口のりこさんの今後のご活躍に期待したい!!
・呪いでみごと沼田先生の腸を冥土送りにしたミサに2年7組の女子たちは拍手喝采。メンツ丸つぶれになった水野は、揶揄する新藤に「うるせぇ!」と叫び、入口の壁をバン!と叩いて教室から出ていくが、それに女子たちがいっさい反応していないのが、水野の存在感と声量の小ささを象徴している。くじけるな、少年。
・カーテンを閉め切った美術室の中で、「ほんとにこれ一般映画なんですか」と思わず目を疑うような痴態をけっこう長め(約2分10秒)に繰り広げる、白井先生と田中さん(たぶんここらへんが劇場公開版ではカットされた部分かと推察されます)! 特に『ウルトラマンティガ』を見て育った人が見たらショックは甚大なのではないだろうか。イルマ隊長~! 前からあやしいあやしいとは思ってたけど、やっぱり!!
・復讐の炎に燃える水野の策か、たちまち学園中に広まってしまったミサの過去に関する黒いうわさ。ミサはひとり屋上で、胸に隠し持っていたロケットペンダントの中の髪の毛に哀しく戸惑う思いを打ち明ける。この時点でミサが本音を語ることのできる人間は学園内に誰もいないので、物を相手にしてという奇策を使ってでも、10代の少女らしい弱さを正直に吐露するシーンを入れるのは、ミサを感情移入しやすい物語の主人公にするために絶対不可欠な演出である。そうしないと寡黙でとっつきにくい異能者になりすぎちゃうから。ここもすばらしいバランス感覚!
・さすがは黒井ミサ、スポーツ万能のイケメンに「俺と付き合わない?」と告白されても、こともなげに「私のまわりにいる人はよく死ぬから、かまわないで。」と断れる女子はそうそういないだろう。ケンシロウみたいな、自らの宿命への諦念を感じる。これをちゃんと演じきれる吉野さん、やっぱただもんじゃない!
・白井先生が放課後の追試の告知をするシーンで絶対に見逃してはならないのは、それを聞いている時のみずきの表情である。一見、心ここにあらずというか、カメラが回っているのに気づいていないかのような「無」の状態で虚空を見つめているのだが、のちのちの展開から振り返ると、かなり恐ろしい感情が心中に渦巻いていることがよくわかる。モブのような位置にいても、ちゃ~んと菅野さんは演技してるわけよ! ほんとすごい、この17歳。
・田中さんを操り人形のように支配する手練といい、一人になった時にこれ以上ないくらいにワルい笑みを浮かべる様子といい、本作の白井先生はかなり教科書的に優秀な「限りなく疑わしいデコイ」ポジションをまっとうしているキャラクターである。まるで2時間サスペンスの中尾彬か萩原流行のような美しき伝統を堂々と取り入れるのも、佐藤嗣麻子監督の「直球ストレート勝負」な漢前っぷりの証左ではないだろうか。惚れる!!
・陽が落ちた学校校舎に鳴り響く重々しい13点鐘、そしていつの間にか教室の黒板に記されていた「13」の文字! ここ、この日常から非日常へ転換を、セリフも BGMも使わずに映像のカット割りだけではっきり観る者に知らしめるテクニックが素晴らしい。う~ん、ワクワクする! 佐藤嗣麻子監督には、今からでも全然遅くないから辻村深月先生のデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』を映像化していただきたい!! でも、本作の時点でもう半分くらい映像化してるか。
・後半を展開を見ていてしみじみ思うのだが、なんで1990年代の中盤に、1970年代にはやった『エコエコアザラク』が映像化されたのかって、そりゃもう当時大流行していた「学校の怪談」ブームに乗っかるのに最適だったからですよね。でもこれ、シリーズ化された東宝の映画『学校の怪談』よりも早く作られてるから(『エコエコ』が1995年4月公開で『学校の怪談』は同年7月公開)、こっちのほうがブームの起爆剤となったのか? でも、なにかとアダルトだからブームの本流とは言い難いか。
・1学年で7組もある規模の高校のわりに、美術室や職員室がのきなみふつうの教室と同サイズのせまっ苦しさなのはなぜ……と気にするのはなしだ! いろいろスタジオのやりくりが大変なのでしょうね……それにしても職員室のブラウン管テレビと灰皿がなつかしくてしょうがない。
・一気に5人もの登場人物たちが惨殺される職員室のシーンも、よくよく見ると「音楽」、「減っていく黒板の数字」、「ドアを内側から叩く生徒」、「照明」、「血のり」だけでちゃんと盛り上げて描いているのが、怖くなるよりも感心してしまう。やっぱ、必要なのは金より知恵よね! 佐藤嗣麻子監督の旦那さま、そうですよね!!
・水野の「守る? なんにもできなかったくせに。」という非難に、思わず胸のロケットを握りしめるミサの描写がものすんごくいい。確実にミサの過去に、大切な誰かを守れなかった哀しい経験があったんだなと思わせる演出! 気になりますよね~、ロケットの毛髪の主。
・本作において、ミサが一貫して自分の使う黒魔術に対して「負い目」を持っているのが非常に興味深い。とはいえ、転校して早々に沼田先生に呪いをかけているので新藤たちはミサがちょっと違う人種であることは充分認識しているのだが、それでも周りに聞こえないように小声で呪文を詠むという抵抗が、魔女に徹しきれないミサの未熟さを象徴しているようでかわいらしい。あと、屋上に続く扉を開けたような手ごたえを感じて「やった!」みたいなとびっきりの笑顔を見せるところも、いいね! 開けられなかったけど。
・もうとにかく、本編時間残り13分からの菅野さんのブーストのかけ方がものすごすぎる! こりゃもう実際に観ていただくより他ないのだが、魔王ルシファの召喚が目的と言うが、あんたもう召喚してるんじゃありませんかってくらいの大迫力でミサにせまる! アイドルじゃあないよね~、その笑い方!!
・ミサの質問に対しての「はい」という意味の菅野さんの「フハハ!」という笑いが大魔王の風格に満ちている。こわ~! けどお茶目。
・本作は、いまや『シン・ゴジラ』や『ゴジラ -1.0』で世界的に知られる、山崎貴ひきいる VFXプロダクション「白組」が特撮に参加している作品なのだが、実際に CGを使用しているカットは本当に数えるほどしかないのが、映画特殊技術の歴史を見るようで印象的である。スピルバーグの『ジュラシック・パーク』第1作(1993年)だって、よくよく見ると CG恐竜の出演カットは意外と少ないもんね。ほとんどのアクションが血のり、ダミー人形、送風機などの伝統的な手作りスプラッタ映画方式で作られているだが、肉体が粉になって飛ばされるミサのあたりから、急に作品が変わったかのように惜しげもなく投入されていく CG作画の力の入れようは、まさに現在の白組を予感させるものがある。ま、召喚された魔王ルシファのお姿はご愛敬ですが……『孔雀王』(1988年)を観たときも、ラスボスがあんな感じだったからガッカリしたっけなぁ~!
・最期数秒の断末魔というのをいいことに、菅野さんがアイドルとしても女優さんとしても17歳のうら若き女の子としてもいかがなものかという顔を見せてくれるのが、サービスといってよいのかどうか……それを見せられて喜ぶ人は少ないですよね、いや、私は喜ぶけど。
・本作のラスボスの末路が、『ジョジョの奇妙な冒険』第3部のラスボスの敗因とおんなじくらいに「ごくごく自然な道理」な感じがして、ミサと同様に観る者にやるせない無力感をもたらす。大将、そりゃ無理ってもんですわ……相手わるすぎ。
・恐怖の夜が明け、朝焼けの屋上にひとり立つミサ。そして、朝もやの中、歩いてゆくミサの後ろ姿にしっとりとかかるエンディングテーマ。最高ですね! やっぱり、ダークヒーロー、ダークヒロインはひとりで地平線の彼方へ去ってゆくもんなのだなぁ。佐藤嗣麻子監督、最後の最後までわかってらっしゃる。


 ……長々と失礼いたしました。
 ともかく、この『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』は、81分という小兵でありながら、いや、その短さであるからこそ、佐藤嗣麻子監督の「ここは絶対におさえる」という映像美学が頭からしっぽの先までぎっちり詰まった至高の傑作となっております。
 そりゃまぁ予算の少なさは推し測れるわけなのですが、アイデアとセンスでどうとでもしてやるという気合を感じることができます。漢!!

 そして、監督の才覚もさることながら、「大事なところに1990年代の菅野美穂さんを召喚した」という奇跡の一手が、この作品をもう1フェイズ上の伝説に昇華させたことも忘れてはなりません。

 これ以降も『エコエコアザラク』シリーズは連綿と続いていくわけなのですが、まさに魔女の物語らしく、第1作たる本作がこれ以降に与えた「呪縛」は、そ~と~に高いハードルとしてのしかかってくるのでありました……
 そのうち、続編の第2・3作に関する我が『長岡京エイリアン』の記事も、ちゃんと完成させてまいりたいと思います。もうちょっとお待ちになっておくんなせぇ! 菅野美穂さんのさらに超気持ち悪い大怪作『富江』も、忘れてはおりません!

 セーラー服と黒魔術、バンザイ!! 結局はそこよね。
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小説全部やってくれ!! ~映画『ドラキュラ デメテル号最期の航海』~

2023年10月27日 18時58分26秒 | ホラー映画関係
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。
 いや~、今年2023年も後半戦に入りまして、ハロウィンの季節が近づいてまいりましたね。みなさまのまわりでも盛り上がってますか、ハロウィン!?
 うちの地元・山形では、ぜんぜん盛り上がってねぇず……

 確かに100円ショップや雑貨屋さんではハロウィンコーナーって毎年できてて、そこは秋の風物詩として一応定着しているようなのですが、実際に魔女やドラキュラの扮装をして外を練り歩いている子どもがいるのかっていうと、ねぇ……東北地方はもう寒ぃし。
 うちの近所の上山市という所では、秋に「かかし祭り」っていうのをやるんですよね。まぁ、そこらへんが収穫祭という意味では海外のハロウィンに近いものがあるでしょうか。でも収穫を祝うというのはわかるんですが、そこに「化け物の扮装をする」っていう要素が加わる途端に、多くの日本人にとっては「?」となっちゃうんでしょう。
 その一方で、東京やらなんやらという大都会では、ハロウィンの仮装行列って盛り上がりますよね。あれやっぱ、寒ぐねぇがらやれんだべなぁ。特に娘っこだづはバニーだナースゾンビだって薄着になっがらなぁ……山形じゃまんず無理だべね。

 秋は年末に向けてなにかといろいろ忙しくなる季節なのですが、そんな中でもヘンな扮装をして一夜の余裕を楽しむハロウィンという行事の気持ちに、あこがれはありますけどね。非日常の空気を楽しむという点で、やっぱりハロウィンは正真正銘のお祭りなんだと思います。
 ということで今回はハロウィン企画といたしまして、ちょうどこの時期に山形市の映画館でかかっていた、この季節にぴったりの映画をお題にしたいと思います。こちら!


映画『ドラキュラ デメテル号最期の航海』(2023年9月公開 119分 アメリカ)

おもなスタッフ
監督 …… アンドレ=ウーヴレダル(?歳)
原作 …… ブラム=ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』第7章『デメテル号の航海日誌』(1897年)
脚本 …… ブラギ=シャット Jr.(?歳)、ザック=オルケウィッツ(?歳)
撮影 …… トム=スターン(76歳)
音楽 …… ベアー=マクレアリー(44歳)

おもなキャスティング
クレメンス医師      …… コーリー=ホーキンズ(34歳)
アナ           …… アシュリン=フランシオーシ(30歳)
エリオット船長      …… リアム=カニンガム(62歳)
エリオットの孫トビー   …… ウディ=ノーマン(14歳)
ヴォイツェク一等航海士  …… デイヴィッド=ダスマルチャン(46歳)
オルガレン二等航海士   …… ステファン=カピチッチ(44歳)
ペトロフスキー二等航海士 …… ニコライ=ニコラエフ(41歳)
ラーセン二等航海士    …… マーティン=フルルンド(?歳)
エイブラムス二等航海士  …… クリス=ウォーリー(28歳)
調理師のジョセフ     …… ジョン・ジョン=ブリオネス(?歳)
ドラキュラ        …… ハビエル=ボテット(46歳)


 いや~、なんという好タイミング! ハロウィンといえば、やっぱりこのお方ですね! ♪どらどらきゅっきゅっ どらどら~。

 ドラキュラ、わたし大好きです!
 吸血鬼が大好きという話は、我が『長岡京エイリアン』でも過去に名優クリストファー=リーの訃報とか、小野不由美原作の本格的吸血鬼アニメ『屍鬼』についての記事とかで、すでに触れていたかと思います。そうそう、『屍鬼』の主題歌を唄ってたのが BUCK-TICKさんだったんですよねぇ。しみじみ。

 そこらへんで、具体的に吸血鬼という空想生物……というかジャンルのどこが好きかについては、あらかた語ったかと思うので繰り返しませんが、文学は無論のこととして、やっぱり吸血鬼文化の華は映画ですよね!
 吸血鬼映画なんて、もう数え上げればキリがないほど無数にありまして、私も好き好きと言っていながらも、今現在も新作がどんどん生まれているこのジャンルの作品すべてをチェックしているわけではないので大きな口は叩けないのですが、それでもあえて私の中での各部門ベストを挙げるのならば、

ビジュアル(美術)ベスト …… 『ドラキュラ』(1992年)
ドラキュラ俳優ベスト   …… 『吸血鬼ドラキュラ』(1958年)
ロマン風味ベスト     …… 『ノスフェラトゥ』(1978年)
不吉さベスト       …… 『吸血鬼』(1932年)
トラウマエロ度ベスト   …… 『処女の生血』(1974年)
日本の吸血鬼映画ベスト  …… 『呪いの館 血を吸う眼』(1971年)

 っていう感じになりますかね~。いや、ほんとに吸血鬼ってたくさんの要素が複雑にからんで成り立ってるキャラクター! 恐怖、ビジュアル、ロマン、不吉さ、そしてエロさ。
 こうして観てみると、吸血鬼っていうものはどうしたってキリスト教圏の産物ですよね。日本でももちろん吸血鬼文化は栄えてはいるのですが、先述の『屍鬼』にしろ上に挙げた『血を吸う眼』にしろ、ルーツを海外に求めないと説得力は生まれないんですよね。あとは岸田森サマとか岡田真澄さんとか、外見で強引に存在感をつけないと、日本での吸血鬼の跳梁は難しいですかね~。

 ともかく、さかのぼればなんと1913年の草創期から映画の題材になっているという吸血鬼は、1世紀を過ぎた今もなお、生ける人間たちを恐れさせ、魅了し続ける存在となっているのです。その命は、まさしく不死!
 そして、その輝かしい血みどろの歴史に、いま新たなる1ページが! というわけで、この『デメテル号最期の航海』なわけなんですが。

 この作品、いまひとつ話題にならない。

 なんでか全然わからないのですが、原作小説『ドラキュラ』(1897年)の一部をがっつり映像化している作品だというのに、Wikipedia でもドラキュラ関連の映画作品の中にまったく名前があがらないのです(2023年10月現在)。『ドラキュラ ZERO』(2014年)とか『レンフィールド』(2023年)とか、けっこう自由に『ドラキュラ』から離れている作品も名を連ねているのに、よっぽど原作に準じていると標榜している本作だけは無視されちゃっているのです。なんで真面目な子がつまはじきにされるのか……

 この映画『デメテル号最期の航海』は、何度も言うようにあまたある吸血鬼文学の中でも最も有名なキャラクター「ドラキュラ伯爵」の登場する長編怪奇小説『ドラキュラ』(作者・ブラム=ストーカー)の中の「第7章」のみをピックアップしてひとつの作品に仕上げたものです。
 ある作品の一部だけをつまみとって約2時間の映画になんて、できんの!? と思われるかもしれませんが、小説『ドラキュラ』はかなりボリュームたっぷりな一大スペクタクル長編でして、とりあえず手元にある創元推理文庫版をみてみましても、注釈ぬきの本文のみで543ページあります。なかなかのもん!

 ちなみに、今現在の日本で入手しやすいものだけでも『ドラキュラ』の訳書はかなりたくさんあり、この作品の今なお衰えぬ人気を雄弁に物語っております。以下、こんな感じ。
・創元推理文庫版『吸血鬼ドラキュラ』(1971年出版 平井呈一・訳)
・水声社版『ドラキュラ 完訳詳注版』(2000年出版 新妻昭彦&丹治愛・訳)
・角川文庫版『吸血鬼ドラキュラ』(2014年出版 田内志文・訳)
・光文社古典新訳文庫版『ドラキュラ』(2023年出版 唐戸信嘉・訳)
リライト小説
・角川文庫版『髑髏検校』(1939年出版 横溝正史・作)
・講談社版『菊地秀行の吸血鬼ドラキュラ』(1999年出版 菊地秀行・作)
・小峰書店版『ドラキュラ』(2012年出版 リュック=ルフォール・作、宮下志朗&舟橋加奈子・訳)
・集英社みらい文庫版『新訳 吸血鬼ドラキュラ・女吸血鬼カーミラ』(2014年出版 長井那智子・訳)

 どうです、よりどりみどりでしょ!
 私も全バージョンを持ってるわけじゃないんですが、やっぱり初の完訳版となった平井呈一大先生の創元推理文庫版と、フランスのバンド・デシネ作家ブリュチの雰囲気たっぷりの挿絵がすばらしい小峰書店の絵本版がイチ押しですね。絵本っていっても怖すぎて子どもに読ませられねぇ!
 あと、なにげに角川文庫版の表紙絵もいいですよね。山中ヒコさんによるイラストなのですが、一見ドラキュラらしくなくてピンと来ないのですが、小説を読んでみると、主人公のひとりジョナサン=ハーカーがロンドンのど真ん中で若返ったドラキュラ伯爵を見て心底恐怖する瞬間であることがわかるわけです。にしても、あのあっさり顔の美男子が、年とると手毛もじゃもじゃで眉毛つながりで息むちゃくちゃ臭いおじいちゃんになるんだもんね……加齢って、やーね。
 余談ですが、平井大先生が『ドラキュラ』の完訳版に先駆けて抄訳版を日本で初めて出版したのは1956年なのですが、それよりもずっと古い戦前にすでに『髑髏検校』を世に問うている横溝正史神先生は、やっぱスゲーな! あれ? 我が『長岡京エイリアン』でも、この『髑髏検校』をレビューしようとしてそのまんま塩漬けになってしまっている記事があったような……そっちの完成は、いつかな!?

 さらに余談になるのですが、今回の『デメテル号最期の航海』の日本公開に歩調を合わせたかのように、詳しい注釈のうれしい光文社古典新訳文庫版が今月出ています。思い起こせばおよそ30年前、私が思春期の頃にコッポラ監督版の『ドラキュラ』が公開された時も、確か新書版で小説『ドラキュラ』というか映画のノベライズ(竹生淑子・訳 ソニー出版)が出ておりまして、読みやすくショートカットされていることもあって、私は夢中になって読んでおりました。子どもにはちょうどいいサイズでしたよね! 文章だから、モニカ=ベルッチのエロエロ女吸血鬼とかウィノナ=ライダーの雨でネグリジェスケスケのたゆんたゆんとかいう不純な刺激もなかったし。ちきしょう!!

 とにもかくにも、一読瞭然、小説『ドラキュラ』はふつうの一人称もしくは三人称の語りによる小説ではなく、複数の登場人物の日記や手紙、当時最新技術だった蝋管式蓄音機による録音メモ、新聞記事などの断片資料が時系列順にならんで一つの物語を形成するという、かなり実験的かつアグレッシブな作品となっております。そこらへんをコッポラ版の『ドラキュラ』はなんとか映像化しようと四苦八苦していたのですが、たいていのドラキュラ映像作品は群像劇リレー形式をきれいさっぱり無視してドラキュラ本人か最初の主人公のジョナサン、もしくは後半の主要人物である吸血鬼退治の専門家ヴァン=ヘルシング教授あたりを主人公にすえたダイジェストとなっているわけです。小説全体をまるごと忠実に映像化するのは至難の業なんですな。

 そんな長大な小説『ドラキュラ』の中でも、今回スポットライトが当てられることになったエピソード「デメテル号の航海」とは、7月6日に東ヨーロッパの黒海沿岸にあるブルガリア公国(実質ロシア帝国領)の港湾都市ヴァルナから、イギリスのロンドンに向けて出港したロシア船籍のデメテル号という輸送貿易船が、8月8日から9日にかけての深夜に船長1名のみの変死体を乗せた異常な状態で、ロンドンからだいぶ北に離れたイングランドのウィトビーに座礁漂着したという事故の報を、たまたまウィトビーに来ていたメインヒロインのミナ=マリーが伝え聞くというだけの挿話です。
 こういった感じの間奏曲的なポジションで登場人物がまったくからまず、「ドラキュラがヨーロッパから海を渡ってイギリスに上陸したらしい」という情報だけがほのめかされる第7章は映像化の機会が特に少なく、有名作で言うとコッポラ版『ドラキュラ』でデメテル号の惨劇らしき映像モンタージュがトータル1分足らずセリフ無しで流れたくらいが関の山で、ヴェルナー=ヘルツォーク版『ノスフェラトゥ』では船員の死体と、ペスト菌を保有した大量のネズミを乗せたデメテル号が漂着する異様に静かなカットが印象に残るのみ。ベラ=ルゴシ主演の『魔人ドラキュラ』(1931年)やクリストファー=リーの『吸血鬼ドラキュラ』にいたっては、ドラキュラが船に乗ってイギリスにやって来るくだり自体が丸ごとカットされているしまつです。
 そんな中でも、デメテル号内での恐怖を比較的ちゃんと映像化しているのが、『ノスフェラトゥ』のリメイク元である最初期のサイレント映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)で、実は諸事情あってこの作品は21世紀現在、62分短縮版と94分復元版の2バージョンが存在しているのですが、どちらにしても、しっかり尺を割いてデメテル号の船内で跳梁する吸血鬼(ドラキュラじゃないけど実質ドラキュラ)と、それに恐れおののく船長と一等航海士の姿を描いています。やっぱ元祖は偉大なり!

 そして、この古典的作品『吸血鬼ノスフェラトゥ』について忘れてはならない……というか忘れたくてもインパクトがありすぎて忘れられなくなる重要ポイントが、いわゆる「ノスフェラトゥ型吸血鬼」の原点でもある、ということなのです。演じるはマックス=シュレック!
 ノスフェラトゥ型吸血鬼というのは、まさに読んで字のごとく、この『吸血鬼ノスフェラトゥ』で創始された吸血鬼のビジュアルパターンなのですが、一見してわかる通りの「禿頭」、「とがった耳」、「ネズミのように異常に長く伸びた前歯」、「死者のように真っ白い肌の色」といった外見的特徴を持った吸血鬼のことです。当然、ベラ=ルゴシやクリストファー=リーで定着した「黒マントと黒服もしくは夜会服」、「オールバックになでつけられた豊かな黒髪」、「長身で貴族的な身のこなし」、「異常に長く伸びた八重歯」といった特徴の「ダンディ紳士型吸血鬼」とは、まるで異なる系統のビジュアルなわけです。
 当然、世間で人気があるのは後者の方で、ハロウィンでド定番の扮装パターンになっているのはもちろん、コントで手っ取り早く吸血鬼が出てくるとすれば絶対に格好は黒マントに黒髪ですし、手塚治虫や藤子不二雄のマンガから今年のマクドナルドの CMにいたるまで、いつの時代でもまんべんなくお出ましになるのはカッコいい紳士タイプです。
 それに対してノスフェラトゥ型はといいますと、確かに知名度においては圧倒的に不利ですし、第一ハロウィンでわざわざハゲヅラをかぶってわしゃドラキュラじゃと言い張るような猛者も少ないと思うのですが、やはり100年前に世を驚愕させた『吸血鬼ノスフェラトゥ』のインパクトは絶大で、上述の『ノスフェラトゥ』以降も、スティーヴン=キングのホラー小説『呪われた村』(1975年)の映像化作品である『死霊伝説』(1979年)や、『吸血鬼ノスフェラトゥ』の撮影背景を大胆にアレンジした問題作『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』(2000年)などで、思い出したようにたま~に復活するのが、いかにも陰気で不気味なノスフェラトゥ型なのです。中には、さっそうとマントを翻して闊歩するダンディ紳士型のようでいて実は……?といった意外性のある、やはりスティーヴン=キング原作の『ナイトフライヤー』(1997年)のような作品もあります。全体的に「わかってる人はノスフェラトゥ型だよね!」というマニアックな人気がある感じですね。


 そんな中で、やっと本題、今回の『デメテル号最期の航海』の話になるわけなのです。長い! 前置きが長すぎるよ!! でも、この歴史の厚みこそが吸血鬼文化よ!
 そう、この作品に登場するのは、明らかにノスフェラトゥ型の最新アップデート版なのです。これはネタバレにならないでしょ。だって、ドラキュラ役が、あのハビエル=ボテットさんなんですよ!? そんなん、彼がフツーに貴族然とした紳士に落ち着くわけがないじゃないですか!

 話を戻しますが、この作品の原作は、創元推理文庫版で言うと全体で543ページある小説の中のほんの一部、たった16ページの文章だけになります。新聞『デイリーグラフ』紙の8月8・9日付記事の切り抜きと、難破したデメテル号の船内に残されていた航海日誌のうちの7月6日~8月4日の記述だけがその内容すべてなわけで、そこに登場するのは、映画の冒頭で座礁したデメテル号の事故調査にあたる港町ウィトビーの警察関係者と、デメテル号船員の「ペトロフスキー」、「エイブラムス」、「オルガレン」、「一等航海士」、そして日誌を書いてデメテル号にひとり死体となって残っていた船長のみとなります。なお、原作小説によると船長はロシア人らしく(名前は言及されず)、日誌もロシア語で書かれています。「船員5名、航海士2名、コック1名、船長」の計9名がデメテル号の乗組員だと書かれているため、上記の他に船員2名と航海士1名とコック1名がいたはずですが、彼らの名前までは語られていません。

 対して今回の『デメテル号最期の航海』での乗組員はイギリス人のエリオット船長、原作通りのヴォイツェク一等航海士、ペトロフスキー、エイブラムス、オルガレン、コックのジョセフ、その他にラーセン二等航海士、エリオット船長の孫のトビー、飛び入りで航海に参加したクレメンス医師の計9名となる……はずなのですが。

 ここからは、小説『ドラキュラ』になかった映画オリジナルの要素についての話になりますが、ふつうに小説の当該箇所を映像化するだけでは、主要登場人物が全員死亡のバッドエンドまっしぐらですし、そもそも何者に襲われているのかさえ一切わからないまま死ぬという、脇役にしてもあんまりな扱いになってしまいます。しかも、映画は冒頭の大嵐シーンでデメテル号の座礁漂着した無残な船体と生存者絶望視のありさまをがっつり描写していますので、結論がもう出ちゃってる前提で、約2時間どうやって観客の興味を持続させていくのか、そうとう巧妙な舵取りが必要となっていくわけですね! 自分で自分を追い込んでるな~!!
 そこで実にうまく本作に組み込まれたオリジナル要素こそが、「クレメンスの飛び入り乗船」と「謎の密航者アナ」のふたつだと思うのです。

 要するに、船員全員が死亡という原作の描写に矛盾することなく希望の残るラストにするために、新聞記事と航海日誌という間接的な記録資料で成り立っている原作の特質を逆手にとって、「急場のアルバイト採用だったのでクレメンスは記録されなかった」という離れ業をやってのけたわけです。なるほど~! うまくやったもんです。そして、クレメンスが誰でもいい以上、ヨーロッパに新天地を見出そうとした先進的な黒人さんであってもいいじゃないかと。作品に新風が入りましたね。
 そして、オリジナル主人公クレメンスの登場以上に重要だったのがアナという紅一点キャラの追加で、なんとドラキュラ伯爵が「長旅のおべんと」感覚で持ってきていた地元トランシルヴァニアの村娘という、クレメンス同様のウルトラC で、この物語に参加してきたわけなのです。
 このアナの存在は当然、19世紀の輸送貿易船の常識としては考えられなかった「船に女性が乗ってる!?」という状況を作り出すことで、映画としても画面にアクセントが加わりますし、吸血鬼作品らしくほのかなロマンスも生み出す効果があると思います。でも、今作の船内状況はかなり切迫して衛生的にもギリギリなものですので、それでもあえてわけわかんない病人のアナにアプローチをかけようというオットコ前な船員はおらず、一様にヒロイン扱いせずに忌み嫌っていたのが印象的でしたね。アナふんだりけったり!
 また、アナ役の女優さんが絶妙に美人すぎないのもいいんですよね。ひたすら薄気味の悪い密航者という感じです。

 ヒロインの機能が無いというのならばアナの存在意義はどこにあるのかと言いますと、それはもう、今作の中での解説者、つまりはこのデメテル号に潜む恐怖の存在が何者なのかという肝の部分を、わかりやすく船員たちと観客に伝えてくれる役割なんですよね。これは重要です!
 つまりこれ、出てくるドラキュラ伯爵が定番のダンディ紳士型だったら、いつもの調子のよさでクレメンスか船長あたりを相手にして「冥途の土産に教えてやろう! わしはこれこれこういう目的で帝都ロンドンに引っ越すのじゃ。」みたいな聞いてもいない解説を自分からとうとうと語ってくれるはずなのですが、いかんせん今作の伯爵は恐怖一辺倒で比較的寡黙なノスフェラトゥ型ですので、めんどくさいからアシスタントのアナちゃんにかわりに説明してもらいました、という事情があったのでしょう。アナちゃんは『お笑いマンガ道場』の川島なお美さんかっつうの! イエーイ、令和にこの例え☆
 冗談はさておき、アナの説明をもって今作のドラキュラがますます無口になり、それによって「話の通じない絶対的恐怖」感が増強されたことは間違いないです。ウーヴレダル監督は、とにかく神経質なほどに、ハロウィンなどでの看板キャラとなり親しみさえ湧く存在になっているドラキュラ伯爵というイメージを一掃したかったのでしょうね。怖さマシマシ!
 イメージ払拭というのならば、「十字架持ってりゃなんとかなる。」という吸血鬼対処法を気持ちいいくらいにぶっ飛ばして襲いかかる伯爵の強引さも実に印象的でしたね。これ、確かに十字架自体は好きじゃないんでしょうけど、「触んなきゃいいんだろ、触んなきゃよう!」みたいな勢いで体当たりをかまして、十字架を吹き飛ばすか人間を気絶させるかしてからゆっくり血を吸うという、今作のドラキュラさんの非常にドライな対応に、実際の私達の生活の中での「クマ対策の鈴とかラジオの音」にも通じる問題点を感じたのは、私だけではないでしょう。え、私だけ!?

 すなはち、クマが人間の出す騒音を避けるのは、「人間の弱さ」を知らないからなのです。知らないからビビるだけなのであって、人間が自分たちクマと比較して格段に弱い生物であることを知ってしまった(人を殺してしまった)クマがもしいた場合は、音を立てようが何しようが全く効果はないといいます。
 これと同様に、十字架を持っている人間が弱い、つまり吸血鬼にビビりまくっているとしたら、十字架を持っていても意味は全く無いのでしょう。吸血鬼の脅しに屈しない確固たる意志を持った人間が掲げるからこそ、十字架は吸血鬼を退ける霊験を発揮するというシステムなのではないでしょうか。だから、そこら辺に落ちてた棒っきれと棒っきれを垂直に交差させれば吸血鬼は逃げ出すよ、なんていうことはあるわけないのです。「お前なんか怖くないぞ、お前なんか神の摂理に背いてるだけの寂しい異常者なんだぞ!」と胸を張って論破できる人じゃないと吸血鬼はやっつけらんないんだろうなぁ。ですから、敬虔なる禅宗信徒である私なんかは、ヴァンパイアハンターになれる資格はありません。

 なんか、今回の記事は吸血鬼モノへの愛情のパトスがほとばしりすぎて、いつも以上に支離滅裂なものになっちゃってますね……結局、映画の感想ほとんど言ってないじゃん!

 それでも字数が相変わらずのいい加減にしなさいラインを超えようとしていますので、そろそろまとめに入ってしまうのですが、今回の映画『デメテル号最期の航海』は、非常に手堅い秀作だと思います。
 そうなんですが、どうしても「壮大な物語の中の一部分のみを映像化した」スケールの小ささが否定できず、一つの作品としての完成度は申し分ないのですが、結局は「悪者が退治されない(物語が終わらない)」という消化不良感が残ってしまう作品であると感じました。いや、そりゃドラキュラ伯爵がイギリス狭しと大暴れするのはこの映画が終わってからなんで、しょうがないんですけどね。
 ウーヴレダル監督が、今作を制作するにあたって吸血鬼映画と同様に参考にしたという、あの超名作 SFホラー映画『エイリアン』(1979年)を例に挙げるのならば、ラストであのエイリアンがのうのうと地球に行っちゃうバッドエンドになっていいんですか?それで一つのエンタメ作品のオチにしていいんですか?って話なんですよね。終われないだろ~!

 だとしたら、あなた……やっぱこのウーヴレダル監督とボテット伯爵のペアで、今作の前後の『ドラキュラ』全部を映画化するっきゃないよね~!!

 やってほしいな~。いや、たぶん今作がヒットしたら、そうする腹づもりなんじゃないの? でも、これヒットしてるかな……

 でも、今作は本当にほぼ完全再現されている実物大の帆船セットのリアル感も雰囲気満点ですし、登場する俳優さんがたもうまい人ばっかりなんで、満足度は非常に高いと思うんですよ。特に、トビー少年を演じた子役のウディくんが上手なんだよなぁ! この子は将来有望だぞ。
 あと、ちゃんとドラキュラ伯爵が怖いというのも大事ですよね。そして、怖さがパワー推し一辺倒なんじゃなくて、濃霧の中や帆船の帆の向こうでばっさばっさと羽ばたく姿がほの見えたりする幻想性をまとってるのも高ポイントですよ! そうそう、今回の伯爵って、ノスフェラトゥ型なのにネズミ系じゃなくてコウモリ系なんですよね。ネズミは序盤で船から逃げちゃうんだもんね。

 ただ、なにかと原作小説にこだわっていながらも、どうにもこの作品の煮えきらないのは、ウィトビーのどこかにいるはずの原作小説の超重要人物ミナ=マリーが映画にいっさい登場しないとか、原作通りならば座礁したデメテル号から跳び出していくはずの、犬か狼のような野獣に変身したドラキュラ伯爵の姿がまったく描写されていないとかいう、そのくらいのファンサービスはしてほしいな~というポイントを完全無視しているところなんですよね。な~んか冷たいんだよなぁ。「続き、あるかもよ!?」くらいの見栄は張ってもいいと思うんですけどね。

 これだけじゃ終わんないですよね!? 期待してますよ~、ウーヴレダル監督!


 最後に蛇足ですが、人間、あこがれてると夢はかなうんだなぁ~と私がしみじみ感じた体験を、ちょっとだけ。

 私、何度も言うように吸血鬼が大好きなんですが、今年の夏、自分の部屋で寝ていてふと目を覚ましたら、闇の眷属たるコウモリちゃんたちがキーキーパタパタ、へやじゅうを飛び回っておりました……

 私の部屋、壁に通気口があるから、日中のあまりの暑さに避難していたやつらが、そこから入ってきたみたいなのね。コウモリが飛び回る寝床って……いや~、これで吸血鬼に一歩近づいたネ! よかったよかった。

 「飛びねずみ」とはよく言ったもので、日本のコウモリってちっさくてかわいいですね。ごみ袋ぶん回して全員捕まえて外に逃がすの、大変だったよ~。素手で触るのは、危険だからやめようね!
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みんな~!道徳の時間ダヨ。 ~ホラー映画のほうの『バーニング』(1981年)~

2023年06月03日 21時21分01秒 | ホラー映画関係
 おばんでごぜぇやす、そうだいでございます~。みなさま、梅雨前のつかの間のうららかな日々、いかがお過ごしでしょうか。でも、最近は線状降水帯の発生とか妙な群発地震とかで、おだやかな時が徐々に少なくなっているような気がしますね。大切にしないとなぁ、こういうひとときは。

 上岡龍太郎さんがみまかられたとか。
 自分からこの話題を言っておいてなんなのですが、実は私自身は、世間でいう上岡さんのすごさが今一つわかってないガキンチョだったんですよね、上岡さんが TVによく出ていた当時は。小中学生だった私には理解が追いつかない、世の中のウラ事情を見通した皮肉と説教をたれる関西のオジサンという印象でした。
 私が思春期真っただ中だった1990年代に、言うまでもなく上岡さんは数多くの TV番組に出ていたのですが、『探偵!ナイトスクープ』の初代局長もさることながら、私にとって最も重大なインパクトを残した上岡さんの出演番組はといいますと、なにはなくとも日本テレビ系深夜の平日帯番組『 EXテレビ』(1990~94年 0~1時放送)なのでありました。はい、エロ目的以外の何者でもございません!
 正直、いやらしいものを1秒でも長く見たいだけの山形のこわっぱにとって、とうとうと話し続ける上岡さんは邪魔でしかなかったのではありますが、それでも、「まぁ、この人あってのこの番組みたいだし……」と、親父の説教か校長先生の朝礼の話を聞くがごとき熱の無さで受け流していたものです。
 要するに上岡さんは、よくわかんないながらも「オトナとオトナ社会の代表」みたいな感じに見えていたのですが、当時あんなに輝いていた TVの世界が、上岡さんにとって代わるほどの哲学も色気も無い人達ばっかりになってからも、ずいぶんと時間が経ちました。果たして今、ああいう批判上等の気概を持つオトナは、日本のどこかにまだ生き残っておられるのでしょうか。
 関係ないけど、かのおすぎとピーコのお2人の現況を聞くだに寂しい気持ちになりますし、いよいよ、有名人の訃報に触れて我が身の残り時間に思いをはせる頃合いになってきたような気がします。『タモリ倶楽部』も、もうないしさぁ! 若くねぇなぁ、おいらもよう!!

 さてさて、そんなわけで今回は、TVのバラエティ番組や洋画劇場でうら若き女性のお色気シーンを見ては、「フケツ!」と言いながらも両目の録画機能をスイッチオンにしまくっていた呪わしき青春をしのんで、1980年代の若い人にとってはたまらない娯楽コンテンツのひとつだったホラー映画、その中でもひときわ輝いていたアメリカンスラッシャー映画の「あだ花」ともいえる、この作品に触れてみたいと思います。元気いっぱい!!


映画『バーニング』(1981年5月公開 91分 アメリカ・カナダ合作)
 『バーニング( The Burning)』は、1981年制作のホラー映画。
 ハーヴェイとボブのワインスタイン兄弟が設立したエンターテインメント製作会社「ミラマックス」の初期作品のひとつ。トム=サヴィーニが特殊メイクを担当している。また、ジェイソン=アレクサンダー、フィッシャー=スティーヴンス、ホリー=ハンターのデビュー作品でもある。
 アメリカ合衆国では、1985年5月に配給元によって一部の劇場でのみ公開され、1年半以上あとになって『 Cropsey』というタイトルで再上映されたが、製作費150万ドルに対して興行収入は約70万ドルと振るわなかった。
 イギリスで本作は猥褻刊行物法違反により押収され、暴力的なビデオに指定された。この映画における殺人鬼クロプシーの狂気に満ちた殺人シーンや、女性の身体をハサミで切断するシーンは、イギリスにおいて問題となった。
 日本公開時、日本での映画配給会社となった東宝東和は、劇中に登場する殺人鬼クロプシーに「バンボロ」という独自の名前を命名した。そして、「全米緊急指名手配中」や、絶叫で声帯や鼓膜が傷ついた際に「絶叫保険」を用意するなどといったキャッチコピーを掲げた。

 なお本作は、前年に第1作が公開された『13日の金曜日』シリーズと、キャンプ場で連続殺人事件が起きるという設定が共通している。また、トム=サヴィーニが特殊メイクを担当している点も同じである。


あらすじ
 湖畔のブラックフット・キャンプ場の管理人で大男のクロプシーは、陰険な性格のために人々から嫌われていた。ある夜、キャンプ場の少年たちがクロプシーを驚かせようといたずらを仕掛けたが、少年たちの予想以上に驚き慌てたクロプシーは火だるまとなり、大やけどを負ってしまう。
 その5年後。退院したクロプシーは、娼婦を大型の縫製バサミで惨殺した後、かつて自分が管理人を務めていたキャンプ場の廃墟の残る湖に戻ってきた。そして、自分に大やけどを負わせたかつての少年たち、果ては無関係の人々までをも、その手にかけていく。

おもなキャスティング(年齢は公開当時のもの)
トッド(リーダー)…… ブライアン=マシューズ(28歳)
ミシェル(委員長肌)…… リア=エアーズ(24歳)
アルフレッド(陰気)…… ブライアン=バッカー(24歳)
グレイザー(不良)…… ラリー=ジョシュア(29歳)
デイヴ(男前デブ)…… ジェイソン=アレクサンダー(21歳)
エディ(女好き)…… ネッド=アイゼンバーグ(24歳)
サリー(朝シャワー)…… キャリック=グレン(?歳)
カレン(心配性)…… キャロライン=ホーリハン(?歳)
ウッドストック(スナイパー)…… フィッシャー=スティーヴンス(17歳)
タイガー(ボブカット)…… シェリー=ブルース(?歳)
マーニー(男好き)…… ボニー=デロスキー(?歳)
ソフィー(かわいい)…… ホリー=ハンター(23歳)
ダイアン(パーマ)…… ケヴィ=ケンドール(?歳)
フィッシュ(のっぽ)…… J.R=マッケーニー(?歳)
ローダ(ふくよか)…… エイム=シーガル(?歳)
監督の先生(無能)…… ジェフ=デハート(?歳)
病院の用務員(外道)…… マンスール=ナジウラー(27歳)
病院の医学生(気弱)…… ジェリー=マギー(?歳)
街の娼婦(おばはん)…… K.C.タウンゼント(39歳)
クロプシー(はさみ)…… ルー=デイヴィッド(?歳)

おもなスタッフ(年齢は公開当時のもの)
監督 …… トニー=メイラム(38歳)
脚本 …… ピーター=ローレンス(?歳)、ボブ=ワインスタイン(27歳)
製作 …… ハーヴェイ=ワインスタイン(29歳)
音楽 …… リック=ウェイクマン(32歳)
編集 …… ジャック=ショルダー(35歳)
特殊メイク …… トム=サヴィーニ(34歳)
製作 …… ミラマックス


 いや~、やっと観れました、この映画! 感慨深いものがありますねぇ。
 なんか、いま『バーニング』っていうタイトルで作品を検索すると、5年くらい前に韓国で制作された映画の方が圧倒的にヒットしちゃうんですけど、私が今回取り上げているのは、そっちじゃなくて1981年に制作された B級スラッシャー映画のほうです。はい、村上春樹なんか全然関係ないです! バンボロが出てくるやつです!! バンボロじゃないけど。
 この映画『バーニング』に登場する殺人鬼クロプシーが「バンボロ」と改名させられてしまった強引極まりない経緯は上に引用した通りなのですが、あくまでもこれは1981年に日本で劇場公開された際の宣伝演出の一つに過ぎなかったようで、その数年後に TVの洋画劇場で日本語吹替版が放送された時には、殺人鬼の名前は原典通りにふつうにクロプシーと呼ばれていました。ちぇっ。

 この映画の宣伝素材などでよく使用される、園芸用の枝切りバサミを両手で高々と掲げて逆光を浴びるクロプシーの姿は非常にインパクトがあり、私が子どもの頃に本屋さんでよく売られていたケイブンシャあたりのホラー映画紹介百科本でも特に印象的な存在になっていたのですが、ジェイソンやフレディといった殺人鬼界隈のスター勢と違って続編も制作されなかった『バーニング』は、TV放映される機会もレンタルビデオ店に置いてある可能性も圧倒的に少なく、私にとっては長らく「知ってはいるけど見たことない伝説の作品」リストの筆頭に挙がっていたのでした。あとは、『悪魔の沼』とか『バイオ・スケアード』とかですかねぇ。そんなに今すぐ見たくはないけど、ちょっと気になって心の片隅に引っかかってる、みたいな。
 むしろ、私にとってのバンボロは、間違いなく『来来!キョンシーズ』(1988年放送 TBS)に登場した、ラスボス・コウモリ道士が使役する最終兵器「バンボロキョンシー」のことでしたからね。そのネタ元となった『バーニング』なんか、追憶のかなたに消え去ってしまっていたのでした。
 さぁ、今回ついに、そんな伝説の一作の封印を解いたわけなのですが、ちゃっちゃと観た感想を一言でまとめてしまいますと、

ぜんぜん退屈しない、充分に楽しめる作品だった! 納得いかない部分は多いけど。

 という感じでございました。面白かったですよ、これ! 正直、期待値はそんなに高くなかったのですが、作り手がけっこうやる気を持って取り組んでいるなという、エネルギーというか勢いみたいなものが伝わってくる、若々しい野心作でしたね。決して「傑作」とは言えないんですが……

 ただこの作品、自信を持って「おもしろいよ!」と主張するのは無論やぶさかではないのですが、いかんせん、視聴する手段が限られているんでねぇ。いくらおススメしたところで、レンタルショップを駆けずり回って借りるか、現在そんなに安い価格帯にもなっていない中古ソフトを購入するかしなければならないんですよね。そこが、40年も前にひっそりと公開されてヒットしなかった映画の哀しいところなのです。内容的にも今のコンプライアンス云々から見ると、 BSでも昼間のテレ東でも放送される可能性はまずないと思います。それは、グロテスクな描写が問題なんじゃなくて、やたらと女性の裸体や男性のお尻が出てくるからなんですけどね。かといって、ポルノ映画に分類されるかというとそんなに振り切れてもいないという中途半端さなんですよね。

 ですので、具体的な映像や画像はよその紹介サイトやブログ様にお任せしまして、本ブログでは本ブログらしく、面白く感じたポイントを本編映像の時系列順に羅列して、この作品の魅力を片鱗だけでも感じ取っていただけたらな、と思います。
 ほんと、確かにシリーズ化できなかった事情もよく分かるのですが、単に『13日の金曜日』の無数の類似商品のひとつ、と片付けるにはもったいない個性があるんですよね!


〇嗚呼、ほろ苦き青春の思ひ出!! 『バーニング』視聴メモ
・ログハウス調のキャンプ棟、夜の森に響き渡る虫の鳴き声、天パにボーダーライン柄のやんちゃな少年たち……なにもかもが、なつかしい! ていうかこれ、別の有名ホラー映画シリーズでさんざん見たことあるやつ~!!
・レザーフェイスにブギーマン、ジェイソンにフレディといった筋金入りの超有名殺人鬼キャラに見慣れた者にとっては、本作の殺人鬼(に将来なる人物)が、オープニングで間抜けに寝込んでいる姿からその描写が始まるという演出が、かえって斬新に感じられる。さぁ、この人間臭さが吉と出るか凶と出るか……?
・この映画を観る若者は、いたずらを仕掛けた少年グループに感情移入すると思うのだが、年齢が管理人クロプシーの方に近くなった身からすると、冒頭の大やけどシーンが恐怖にしか感じられない。ただただ、かわいそう……クロプシーが具体的にどういうイヤな男だったのかも描写されてないだけに、なおさら。
・全身大やけどでもなんとか死ななかったという奇跡の生還を遂げてるのに、入院先の病院でも「怪物だ」とかなんとか言われて、職員の間でなかば見世物小屋のような扱いを受けているクロプシー……彼の怨念を設定する上で必要不可欠なくだりであることはわかるのだが、倫理の「り」の字もない職員のド外道ぶりがステキすぎる。やっぱ1980年代は、キャラ描写が良くも悪くも突き抜けてるなぁ! 余談ですが、その職員をむんずと掴むクロプシーの腕が、山形県新庄市の春を告げる風物詩である、子もちニシンの焼き魚「カド」のようで非常に食欲をそそる。醤油かけていただきたい。
・あ~、これ! このオープニングテーマ、聴いたことある! さすがは老舗プログレバンド「イエス」のリック=ウェイクマン。この作品にはもったいないほどに抒情性豊かなテーマ曲が非常にすばらしい。ホラー映画史上に残るべき名曲。作品自体は、残るかな!?
・オープニング後、退院したクロプシーがさっそく第一の殺人を犯すシーンが描かれるが、クロプシーが最初から娼婦を殺すつもりだったのか、娼婦がクロプシーを拒否したから逆上して衝動的に殺したのか、その初動のきっかけがどちらなのかがはっきりしないのが引っかかる。5年も地獄の苦しみを味わった積年の恨みからすれば前者のようにも見えるが、そもそもクロプシーが手にした大型バサミが、偶然娼婦の家にあった物だったことを考えると後者の可能性も捨てきれないし……まぁどっちでもいいわけだが、クロプシーの心理的にドラマティックなのは後者の方ですよね。
・娼婦役の女優さんには大変申し訳ないのだが、ノーブラタンクトップの娘さんの生足祭りという「お客さんの大半が求めていたもの」がや~っと登場するのが、本編開始から13分後という硬派な采配が、すでにこの映画の興行成績における茨の道ゆきを暗示しているような気がする。10分間も野郎かオバハンばっかりというのは、やっぱり厳しかったか……
・5年の時が流れ、古巣の湖に帰ってきたクロプシーが、どこから用意したのかわからない新品ピカピカの枝切りバサミを握って最初に狙ったのは、森に飛んで行ったソフトボールの球を探しに来た少女タイガーだったのだが、初手で殺害に失敗しているのが、演出とはいえ非常にもどかしい。なにやってんだと殺人鬼の諸先輩がたにベンチで叱責されかねない大失態だが、退院したてだしね……
・別に個性もへったくれもないモブ女子高生のひとりのはずなのに、ベッドで寝込んで顔の半分しか見えていない段階ですでに他を圧倒する美貌を見せつけているという、少女ソフィー役のホリー=ハンターの殺人鬼クロプシー以上に広範囲な殺傷能力に戦慄してしまう。まだ一言もしゃべってないのに、すごすぎ、この娘!!
・朝シャワー中に謎の気配におびやかされる少女サリーのくだりが、スラッシャー映画の古典『サイコ』へのオマージュ風で非常にいい感じなのだが……クロプシーさんよう! まだ寝てた!?
・物語のトリックスターとなる、陰気で消極的な少年アルフレッド。常にうつむき加減な暗い表情が実にいい味を出しているキャラクターなのだが、湖でのカナヅチシーンを見てみると、意外と中肉中背で大人っぽい体型であることに気づく(実際に当時10代だったフィッシャー=スティーブンスの細身が近くにあるだけになおさら際立つ)。演じるブライアンさんは当時20代中盤。こいつ……ほんとは泳げるな!? 気をつけろ、ベテランだぞ!
・たいていのスラッシャー映画において、デブキャラは基本的に品性下劣で殺されても仕方がない愚鈍な生物という差別構造が定着しているのだが、本作におけるデブ枠のデイヴ(名前!!)は、親友のためなら不良キャラへの復讐も辞さない漢気を持つ社交的で陽キャな人物である。いいか女子、選ぶならこういう男だぞ!!
・男子デブ部門のデイヴが気を吐く一方で、それに呼応するかのように、出番こそ少ないものの、女子陣でのデブ担当となるローダが不良のグレイザーに得意の突き押しをかまして湖に叩き込むという連携もまた、痛快でいい仕事をしている。この2人には、生き残ってほしい……
・グループのリーダー格トッドの話す怪談によると、5年前にクロプシーの管理していたブラックフット・キャンプ場は、彼が大やけどを負った際に焼亡して廃墟となったというのだが……管理人の住居が燃えたのはわかるにしても、キャンプ場全体が運営できなくなるほど延焼するなんてこと、ある!? それに、いちおう死亡者が出たわけでもないんだし、閉鎖はやりすぎなのでは……ま、都市伝説あるあるで、話に尾ひれがつきまくった結果なのかな?
・やや潔癖症ぎみな21世紀の日本に生きる者として見ると、いくら若気の至りとはいえ、早朝の薄暗い湖で、じめじめした泥の上に脱いだ服をほうり出して裸で泳ぎ出すエディとカレンの所業は、エロいと感じる以前にいろいろ常軌を逸しすぎていてドン引きしてしまう。いや、絶対ムリでしょ! 殺人鬼のうわさとか関係なく、害虫とか寄生虫とか細菌とか! さすが1980年代のアメリカの若者……ていうか、それを演じる当時の俳優さんがたは、怖いものなしだな! ハングリーすぎ!!
・あのークロプシーさん……すでに本作の上映時間の半ばを越えてる(48分)っていうのに、やってるのは殺人1件と、女子高生の衣服を盗むいたずら1件のみですか。これはちょっと、リハビリ中にしても気が長すぎやしませんか。どっちかっていうと、全裸で森をさまようカレンの方が数百倍身体を張った仕事してますよね。カレンを演じたキャロライン=ホーリハンさんのその後の人生に、幸多からんことを! 敬礼!!
・トッドが主体となって急造したいかだが出発するシーンで、モブの一人として岸辺から手を振るソフィー役のホリー=ハンターさんのおみあしが非常になんちゅうか……健康的であることが判明する。おいキャメラマン、そこは遠景じゃなくてズームだろうが! 仕事して!!
・映画が始まって2/3が経過した時点(59分)になって、やっとクロプシーが殺人鬼としての真価を発揮する「5人瞬殺シーン」が展開されるのだが、さすがはトム=サヴィーニというか、血のりをふんだんに使った特殊メイクと、今までの停滞っぷりを一掃するスピーディなカット割りに、思わず息をのんでしまう。さすがに低予算ぶりは隠しきれないが、たったの30秒間に凝縮されたサヴィーニの鮮やかなテクニックは、やっぱり脂のりまくりである。
・「I ♥ NY」バッジって、1980年にはもうあったんだ……地味にびっくり。
・なんで、警察がヘリコプターで救援に駆けつけることを、引率の先生じゃなくていち生徒のミシェルが知ってるんだよう! 先生、電話通報くらいやってよ~!!
・アルフレッドが迷い込んだ、森の中の石窟寺院のようなコンクリート廃墟が、ロケ地としてとっても魅力的なのだが、これ、設定上はクロプシーが管理していたブラックフット・キャンプ場の跡地っていうことになるのかな? ちょっと、キャンプ場にしては味がありすぎるような……
・興奮を最高潮に持っていくべき、クライマックスでの廃墟内を舞台としたクロプシーとトッドの最終対決シーンなのだが、女優さんの追加撮影ができなかったのか、その場で発見されるカレンの遺体の映像処理が雑すぎたり、一回落下したはずのトロッコの位置がいつの間にか元の場所に巻き戻っていたりと、尺を埋めるための編集処理がむちゃくちゃすぎて、「ぷしゅ~。」と空気が抜けるような脱力感に襲われてしまう。なんだかなぁ。
・今作における、殺人鬼クロプシーの犠牲者は9名でした。これを多いとみるか少ないとみるか……


 ……とまぁ、ざっとこんな感じでございます。まぁ、だいぶ粗削りではあるのですが、常に賑やかで退屈しない映画なんですよね。たぶんこれ、役者さんが実際楽しんで撮影に参加していたんじゃなかろうか。

 以下、作品を観終えた上での感想をまとめていきたいのですが、なにはなくとも、出てくるメインキャラたちの性格設定にメリハリがあって、みんな魅力的なんですよね。そこがまず、いい! 男の、特にモテない陣の活き活きさが、演技じゃないみたいですばらしいです。
 とはいっても、やっぱり見逃せないものとして、女優さんの脱ぎっぷりが実にいいです。特にカレンさん! そして、そんなカレンさんが、別にスラッシャー映画あるあるの、脳みそバーニングな不純異性交遊大好きっ娘というわけでなく、むしろ奥手でごく常識的な良識を持った女性であるという所も、なかなか深い人物造形なんですよね。そんなカレンさんが、どうにも移り気なプレイボーイの彼氏エディにそっぽを向かれることを恐れるあまり、泣きたい気持ちを押し殺してエディのノリについていき、その結果、湖畔の林間学校の生徒の中で最初にクロプシーの毒牙にかかってしまうという不運が、非常に理不尽なのです。いや、そこは断然、殺されるのはエディのほうでしょ! ま、間もなくエディも殺されるけど。

 理不尽!! 言ってしまった。そうなんです、この映画、パク……じゃなくて、インスピレーション元の『13日の金曜日』ゆずりの定番テーマとなっている、「若者は常識と節度を持って遊びましょう。」や、「いじめ、ダメ、絶対!!」をしっかりおさえ、なんなら『13日の金曜日』を超える人物造形の深みを見せながらも、どっちかっていうと優等生タイプなカレンさんは真っ先に犠牲者になるし、若者のくだらないいたずらのために人生を狂わされてしまったクロプシーは、そのいたずらグループの元メンバーに容赦なくぶっ殺されてしまうし、ラストに至っては、その元メンバーが何食わぬ顔で「映画の主人公、ボクですけど、なにか?」みたいなドヤ顔で彼女のもとに悠々と生還してエンドロールとなるのです。

 理不尽すぎる……なんなんだ、この胸に去来する無常観は! 若者のお色気パートも、満を持して現れるスラッシャー描写パートも充分に見ごたえがあるのですが、「加害者がもと被害者」という物語の根本の救済がまるでないことからくる「善悪の価値観のねじれ」が、どうにもこうにも消化しきれずに心に残る、世の理不尽を教訓とする映画。それこそが、この『バーニング』の真の姿なのです。

 つまりこの映画の理不尽の源泉は、ほかならぬ殺人鬼クロプシーの、他のスラッシャー四天王をはじめとする殺人鬼キャラではあまり触れられない「リアルさ」にあります。カフカの『城』の主人公レベルに理不尽まみれの絶望的境遇にある弱者クロプシーの末路。そこに寄り添うがために生まれる誠意のあかしこそが、この映画の理不尽さなのです。

 まず冒頭で語られる5年前の失火事件の顛末なのですが、クロプシーが管理人時代に、具体的にキャンプ場の子ども達にどういったいじめを行ったのかが、第三者的な視点からはいっさい描かれません。劇中で語られるのは、いたずらをしかける側の若者たちの一方的な雑言ばかりで、「殴られた」とかなんとか言ってはいますが、本当にクロプシーがその復讐を受けるに足りる悪行を重ねているのかどうかは、意図的に語られないまま火だるまにされてしまうのです。
 この流れ、最初に観た時に「いじめの描写はめんどくさいからカットしたのかな?」と思っていたのですが、5年後にクロプシーにまつわる怪談を語るのは、中心人物ではないにしてもクロプシーを焼くこととなったいたずらグループの元メンバーだし、その張本人が、クロプシーに対する謝罪の意識のこれっぽっちもない誇張表現をもってクロプシーを「怪談の殺人鬼」に仕立て上げているくだりを観て、ああこれは作り手が意図的にクロプシーの実像を語らないのだな、と感じました。実際にクロプシーがどんな管理人だったのか、それはまるで明らかにならない。それなのに、いたずらグループ側の主張と、いかにもいじめたくなるようなクロプシーのだらしない顔と寝姿しか映画に出てこないのですから、そもそもクロプシーが、マイケル=マイヤーズやジェイソン=ボーヒーズのように異常な先天的悪意や超人的な肉体をもって物語の主人公になるような素養が無い「ふつうのおっさん」だった可能性は濃厚なのです。もともと、シリーズ化したりホラーアイコンになるわけがないリアルさこそが、殺人鬼クロプシーの唯一無二なオリジナリティなんですね。それをあーた、「全米緊急指名手配中殺人鬼バンボロ」だなんて……涙が出てきますよ。

 殺人鬼クロプシーに異様にまとわりつくリアリティに関して突き詰めると、彼に関する疑問のほとんどは氷解します。すなはち、彼は5年間もの長きにわたって治療を続けてきた全身大やけどから退院したばっかの病後人なのです。そして、そんな彼が退院したその夜に速攻で娼婦をほふって殺人鬼になってしまった以上、選ぶのは「最悪の体調とうまく付き合いながらの殺人」。つまり、クマやライオンといった常態的に出会った人間から血祭りにあげていくパワーごり押しタイプではなく、「自分の狙った相手だけをじっくり追いかけるか、もしくは効率的な罠を仕掛け、決定的な瞬間にだけ全力を発揮して仕留め、また潜伏して体力を温存する」という、暗殺カマキリタイプ!

疑問その1、なぜ湖畔に到着しても2~3日間殺人を開始しなかったの? …… 体力回復と若者たちの行動パターンの分析に集中していたから。
疑問その2、なぜカレンさんを最初の犠牲者に選んだ? …… カレンさんがか弱い女の子だったから。
疑問その3、なぜカレンさんの衣服を盗んだ? …… カレンさんを完全に孤立させるため(恥ずかしがって他人に助けを求められない消極性を見透かしている!)。
疑問その4、なぜ、いちばん恨みを持っているはずのいたずらグループの元メンバーを殺さなかった? …… そもそもいたずらをした犯人が誰かを知らない。

 どうですか皆さん、このヘタレ感! これこそが、クロプシーのスラッシャー四天王に勝るオンリーワンの魅力なのです。
 クロプシーが前半になっかなか湖畔での殺人を開始しないもどかしさは、もはやコントの域に達しているのですが、無理をせずに様子見に徹していたのは間違いありません。第一、彼が殺人を開始したのは、元気ハツラツな若者たちや引率の大人たちが100人くらいひしめいているウォーターストーンキャンプ場から、最年長クラスの16名がカヌー旅のために「やっと離れた」瞬間に始まっているのです。
 湖畔で殺すのは女性が一人でいるとき(カレン、サリー)か、自分の仕掛けた罠に獲物がかかったとき(いかだ5人衆、グレイザー)という慎重さと、それに相反して、「ここで会ったが百年目!!」のはずの元メンバーがのこのこやって来ても額をちょっと斬って気絶させるだけという間抜けさ(=元メンバーを認識していない)という、ちぐはぐな二律背反性のリアルさ。こここそが、殺人鬼としてのクロプシー像の深さなのです。クロプシーが元メンバーを認識していないというのは、一見すると不思議なようにも思えるのですが、当たり前です、彼はいたずらをしかけた犯人が誰なのかさっぱりわからないまま火だるまになったし、入院中も犯人捜しどころじゃなかったのですから。その一方で元メンバーのほうも、最後の最後に廃屋でクロプシーの「素顔」を見るまでは、殺人鬼があの5年前の管理人だなんて思いもよらなかったのではないでしょうか。「え……退院したの? ごめん、おれ、勝手にお前を怪談のネタにしてたわ……メンゴ☆」みたいな。ふてぇ野郎だぜ!!

 とにもかくにも、殺人鬼クロプシーの前半の殺人ペースの鈍さや犯行のしどろもどろ感は、決して作品の拙さから来ているのではなく、「被害者だった人間が突如として異常な復讐者になったとき、彼はどう行動する?」という想定に基づいた克明なシミュレーションの成果であると考えた方がいいでしょう。そういう意味で、クロプシーは本質的にスラッシャー四天王とは全く違うタイプ、どっちかというと『ジャッカルの日』(1973年)のジャッカルさんによっぽど近い、できることにちゃんと限界のあるリアルな暗殺者なのです。ほんとカマキリ。『シン・仮面ライダー』のカマキリカメレオンも、ちったぁクロプシーさんの慎重さを見習えバカヤロー!!

 さてさて、いつものように論調がヒートアップしてきましたし、字数も1万字をゆうに超えてしまいましたのでそろそろお開きにしますが、この作品、凡百の『13日の金曜日』フォロワーとは片付けられない人物造形の深さとはまた別に、「あのトム=サヴィーニが特殊メイクを担当!」という見逃せない要素があります。
 上記のような経緯で、序盤の娼婦殺害以降、殺人シーンが後半に入るまでなかなか出てこない本作なのですが、なにはなくとも湖上でいきなり展開される「5人瞬殺シーン」のカットの切り替わりの鮮やかさと、予算内にしっかり収めた特殊メイク効果の的確さが非常に印象的です。イギリスで問題視されたという残酷描写なのですが、よくよく見ると直接的なカットは「喉もとに突き刺さるハサミ」や「指を切断された手」といったあたりが一瞬見えるくらいで、あとは絶叫する俳優たちの表情とハサミを振り上げるクロプシーのショットの応酬で間接的に惨劇を想像させるテクニックをうまく利用しています。『ゾンビ』のような直接ズビズバ描写というよりは、『サイコ』のシャワーシーンに近い「におわせ演出」なんですよね。実際、当時の技術なものですから、よ~く見てみると刃物の突き刺さる喉も指の無い手もなんか質感がヘンですし、血の噴出するおでこも、もっこりふくらんでいるように見えるのですが、そこをあんまり長く見せないのがうまいんですよね! その道のプロは、その時点におけるわ我が手の限界も知悉しているのです。さすがはサヴィーニ!!
 あと、引っ張りに引っ張って最後にやっと登場する「クロプシーの素顔」も、そうとうにインパクトのあるグロテスクなものになっているのですが、これもチラッチラッとしか映らないのが、彼の奥ゆかしさと哀しさを象徴していていいですね。諸先輩がたのように仮面をかぶればヨシという図太さは持ち合わせていないという……

 以上のように、この『バーニング』は、決してスラッシャー映画の主流に位置する作品ではありませんが、「トム=サヴィーニが関わっている」や「女性の脱ぎっぷりが良い」、もしくは「ホリー=ハンターが出ている」といったポイントだけにとどまらず、

世の中、なにが善でなにが悪かだなんて、わかったもんじゃないよ☆

 という、生きていくうえで最も大切な「道徳」を教えてくれる、実に印象深い一作であることは間違いありません。その点で、何十年たっても決して色あせない「人生の真理」を説いてくれる永遠の生命、普遍性を獲得している稀有な作品なのです。
 そう考えてみれば、エンディング直前に蛇足のようにリフレインする「クロプシーの怪談」も、たかだか5年ほどしか経っていないのに実像からだいぶ離れてしまうクロプシーの都市伝説化を描いているのですが、最早ほんとうのクロプシーがどのような人物だったのか、廃屋で焼け死んだのかどうかだなんてどうでもよくなっていて、その代わりにクロプシーは永遠の存在になったんだよという、ある意味ハッピーエンド(か!?)を象徴しているのかも知れませんね。『よたかの星』みたいな。
 そう見ると、あの、柱に寄りかかって立ったまま炎上するクロプシーの姿が、背中に刺さった枝切りバサミと、顔面にめり込んだマサカリのシルエットのせいでまるで十字架のように見えたのも、決して偶然ではないでしょう。我が身を犠牲にして不滅の存在になったクロプシー……宗旨は違いますが、思わずこのシーンを観ていて合掌してしまいました。

 あと、最後の最後にもうひとつだけ! 私が入手したこの映画の DVD、1985年に TVで放送された洋画劇場の日本語吹替版も収録されているのですが、声優陣がめっちゃくちゃ豪華です! これは必聴!!
 特に、登場キャラの中でもひときわ気弱なカレンさんの声を、あの榊原良子サマが演じておられるのがすばらしい。そうそう、このお方は、こういった実に女性らしい細やかなゆらぎの演技も当代一なんですよね!

 それにしても、そんな榊原さんのカレンを狂わせるダメんずな彼氏エディ(グループいちのプレイボーイなのにそんなにカッコよくないののもまた、良し!!)の声を演じるのが、あの「ブライト艦長」こと鈴置洋孝さんなのも、なにかの因縁めいたものを感じさせて最高ですね。

 あの大佐を差し置いて、宇宙一タカビーな摂政殿下を籠絡するたぁ、いい度胸だ! ちきしょう、ミライさんに言いつけてやるぅ!!
コメント (3)
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