長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

狂犬か!? 小林版犬神家、いろいろ噛みつきすぎ!! ~『犬神家の一族』2023エディション~

2023年04月30日 22時31分49秒 | ミステリーまわり
 ゴールデンウィーク!! みなさま、どうもこんばんは、そうだいでございます。
 いや~、皆さんいかがですか、ゴールデンウィークですよ。奇跡の9連休いただいてる方、いらっしゃいますか? 幸せそうですねぇ。
 私はと言いますと、カレンダー通りに月火はお仕事があるので飛び石連休になっちゃうんですが、でももう40歳を過ぎちゃうと、度を過ぎる連休も逆にキツくなっちゃうんですよねぇ。やることも無くなってきちゃうし、第一、仕事が始まる初日というか、その前日の連休最終日の気分がロー&ローになるのがイヤでイヤで、ほんとイヤ! なので、まぁまぁこのくらいでいいかなぁって感じですね。
 ゴールデンウィークと言えば、昨年はわたくし、山形県の米沢市に行って、あの伝統の「上杉まつり」の川中島合戦再現に参加したのですが、まことに遺憾ながら、今年はお客さんとして観に行くつもりです。応募締め切りを完全に見逃しちゃって……来年こそは、再びいくさ場へ!! 身体の備えは万端だったのになぁ。それにしても、合戦の日の米沢ってほんとに天気がいいですよね、毎年毎年! 昨年は寒いくらいに風が吹いていましたが、確かにピーカンでした。

 さてさて、今回の記事はお待ちかね、全国800万人くらいの横溝正史ファンが首を長~くして楽しみにしていた、まさしく黄金週間の口火を切るのにふさわしいビッグイベントを目の当たりにしての感想記でございます。
 いや~、定番中の定番、もう見飽きたよってくらいに展開が読めている超メジャーな作品といくら言っても、やっぱ、最新バージョンをやるとなったら、観ちゃうよねぇ。実家に帰ったような安心感というか、『金曜ロードショー』でジブリ作品を観るような「しあわせ」に包まれながら鑑賞いたしました。

 だが、しかし……!?


ドラマ『犬神家の一族』(2023年4月22・29日放送 NHK BS プレミアム 180分)
 34代目・金田一耕助 …… 吉岡 秀隆(52歳)
 16代目・磯川常次郎 …… 小市 慢太郎(54歳)

 『犬神家の一族(いぬがみけのいちぞく)』は、横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一作で、1949年12月~51年4月に連載された。
 本作を原作として、これまで映画3本・TVドラマ8本(2023年版を含む)・舞台2作が制作された。また、コミカライズもされている。
 作者自身は本作を、「金田一もの自選ベスト10」の第3位に推している(第1位『獄門島』、第2位『本陣殺人事件』、第4位『悪魔の手毬唄』、第5位『八つ墓村』)。
 2016年から NHKが制作を手がける「金田一耕助シリーズ(長谷川博己版『獄門島』、吉岡版『悪魔が来りて笛を吹く』、同『八つ墓村』)」の第4弾として前・後編形式で放送された。
 今回の2023年ドラマ版の内容についてはおおむね原作どおりであるが、主に以下のような変更点がある。

・犬神家の三姉妹やその子たちは戸籍上は佐兵衛の親族とみなされておらず、佐兵衛の遺言で規定されなければ相続権が無い。
・岡山県警の磯川警部が栄転して長野県警の那須署長になっている。
・冒頭で転覆しかけたボートから珠世を救出するのは金田一で、猿蔵は間に合っていない。
・犬神佐武の殺害現場が原作小説の犬神邸の那須湖畔に面した展望台でなく、湖岸の庭地になっている。
・金田一は手形押捺の場にはおらず、その時は佐武の胴体を運んだボートを別のボートで探して発見し、電話を借りようと旅館柏屋を訪ねたところ、復員兵の情報を尋ねていた磯川署長たちに遭遇していた。
・犬神佐智の遺体の状況が原作小説と異なる。また発見された廃屋は那須湖畔の単なる空き家ではなく、佐兵衛が青沼菊乃を住まわせていた家だった。
・原作小説と違って佐智は以前から珠世に好意を寄せており、そのために物語の冒頭で珠世に加えられた数件の危害事件の犯人が原作小説と異なる。
・佐智の遺体発見後の物語の重要な展開の順番が原作小説と異なる。
・原作小説と違って青沼静馬は母・菊乃を幼い時に失っており、犬神家への恨みを動機に行動していない。
・生後間もない静馬に火傷を負わせたのは原作小説では犬神梅子だが本作では松子になっており、そのことがきっかけで松子は静馬の正体に気付く。
・一連の事件の解決後、金田一はある人物の行動に疑問を抱き、その人物と対話するエピソードが付け加えられる。

主なキャスティング
犬神 松子   …… 大竹 しのぶ(65歳)
犬神 竹子   …… 南 果歩(59歳)
犬神 梅子   …… 堀内 敬子(51歳)
犬神 佐清   …… 金子 大地(26歳)
犬神 佐智   …… 渋谷 謙人(34歳)
犬神 佐武   …… 今井 悠貴(24歳)
犬神 小夜子  …… 菅野 莉央(29歳)
犬神 寅之助  …… 遠山 俊也(60歳)
犬神 幸吉   …… 坂田 聡(51歳)
野々宮 珠世  …… 古川 琴音(26歳)
猿蔵      …… 芹澤 興人(42歳)
古館 恭三   …… 皆川 猿時(52歳)
若林 豊一郎  …… 松川 尚瑠輝(なるき 31歳)
大山 泰輔   …… 野間口 徹(49歳)
宮川 香琴   …… 田根 楽子(76歳)
犬神家の女中  …… 野々目 良子(46歳)
吉井刑事    …… 大津 尋葵(ひろき 36歳)
沢田刑事    …… 永沼 伊久也(31歳)
藤崎鑑識課員  …… 木原 勝利(41歳)
志摩 久平   …… 川島 潤哉(43歳)
那須ホテルの女中・加代 …… 久間田 琳加(22歳)
那須湖の船着き場の管理人 …… 華井 二等兵(45歳)
野々宮 大弐  …… 柾 賢志(38歳)
野々宮 晴世  …… 羽瀬川 なぎ(24歳)
青沼 菊乃   …… 喜多 乃愛(22歳)
犬神 佐兵衛  …… 栗田 芳宏(65歳)
せつ子     …… 倍賞 美津子(76歳)

主なスタッフ
演出 …… 吉田 照幸(53歳)
脚本 …… 小林 靖子(58歳)


 はい~、というわけで、なんだかんだ言って、令和の御世にも数年に一度のペースで映像化されている「金田一耕助もの」作品の中でも、とりわけ世に出る機会の多いビッグタイトル『犬神家の一族』、ついに11度目のバージョンのご出来でございます。
 我が『長岡京エイリアン』でもたびたび取り上げているように、横溝正史先生の金田一耕助シリーズの中で映像化の最多を争っているのは、今回の『犬神家の一族』と、10回映像化された『八つ墓村』の両巨頭でありまして、特にここ数年来は、2018年にフジテレビで加藤シゲアキ金田一版の『犬神家』が来たと思ったら2019年に吉岡金田一版の『八つ墓村』、そうかと思ったら2020年にまさかの池松壮亮金田一で30分の短縮『犬神家』と、あたかも映画『ロッキー』のロッキー=バルボア VS アポロ=クリード戦を彷彿とさせる激しい打ち合いを繰り広げているのです。となると、次は池松金田一による30分バージョン『八つ墓村』ということになってしまうのか……!? やめて~! そんなおふざけやってるヒマがあるんだったら、私の大好きな『三つ首塔』を映像化してやってよ!! 全身黒タイツオトネ~!!

 ともあれ、令和に入って数年、今もシリーズ継続の気炎を吐いているのは、どちらも NHK BS プレミアムで制作されている吉岡金田一の長編ドラマシリーズと、池松金田一の短編ドラマシリーズにとどまっているのですが、そのうちの吉岡金田一による『犬神家の一族』が、満を持して今回、2夜連続計180分という大ボリュームで誕生したわけだったのです。前回映像化された池松金田一版の6倍の長さよ!? あらためて、池松版の「30分で『犬神家』」という企画の異常性が際立ちますね……

 ただ、今回の吉岡金田一版を最後まで観てみますと、果たしてほんとうに「異常」なのはどっちなのかと!
 見終えてから数日う~んと首をひねりまくり、「なんであそこ、そうしたん!?」と思いを巡らすだに、かつて映像化された諸バージョンの『犬神家』、例えばド定番の1976年石坂浩二版もそうですし、池松版、加藤版、そして、犯人の演技インパクトがもはや伝説の域にまで到達しているわたくし個人的にベスト犬神家の2004年稲垣吾郎版でさえもが、「あぁ、ふつうに原作小説を映像化してくれていたんだな。」と感じてしまうものがあるのです。

 おかしい! 今回の『犬神家の一族』は、な~んかおかしいぞ!!

 いやいや、横溝先生の金田一ものに限った話でなく、小説の映像化なんて、いろんな事情により「あ、そこ、そうするんだ。」という意図的なアレンジ、改変はあって当たり前の話ですし、今回もや~っぱり映像化されなかった「スキー板を履いた金田一耕助の雪山チェイスシーン」が示す如く、100% 小説の文面を映像化することなんてどだいYS 無理な話なんであります。
 ですので、多少、原作小説と違った解釈や、登場人物の行動の変更があったって全然問題ありませんし、ましてや金田一シリーズの場合、推理小説である以上、物語の根幹に関わってくるはずの「犯人が誰か」までもが、「小説と違ってたらお客さんがびっくりするから。」というムチャクチャな動機でゴリっと改変されてしまうことだって、けっこうあったわけなのです。しかも、横溝先生のご存命中に……いや~、こういうのをニコニコして「よろしいんとちゃいます?」と寛恕していた横溝先生は、ほんとうに仏さまだ!!

 ただ、今回の吉岡版『犬神家』における、特にラスト45分になってからの「あれ、あのイベント、この後にやるんだ?」という微妙な違和感から始まるドミノ倒し式の改変は、まさに観終わった後の印象を、これまでのどのバージョンとも違う「ビョーキとしか思えない」狂ったものにしているのでした。もちろん、原作小説を読んでもこんな読後感には普通ならないと思うので、そういう意味では、今回の吉岡版は、ドラマが始まってからほぼ4分の3ほど原作小説に忠実ですよ~みたいな顔をしておきながら、ラスト4分の1になって突如として全く異なる表情を見せて牙をむいてくるという、オオカミに先祖返りしたかのような狂暴きわまりない別作品に変貌してしまっていたのです。前回の池松版は、チャカチャカうるさいながらもかわいげのあるチワワみたいな『犬神家』だったのに、なぜ!?

 この異常さの原因はもう、「脚本・小林靖子」、脚本・小林靖子!! この一点につきますよね。アマゾォオン!!

 現在の日本特撮&アニメ界において、不動の地位を築く大脚本家・小林靖子。その業績のすさまじさ、特異さは、もはや言い尽くされている感もあるのでいちいち触れません。というか、実は私も全作品を観ているわけではなく、むしろどっちかというと門外漢に近い疎さなのですが、そんな私でも、あの伝説『仮面ライダーアマゾンズ』2シーズン(2016~17年)で心の臓を見事に射抜かれてしまいました。とんでもなく過酷な設定のオンパレード! それなのに、なぜか憂鬱な気分にならない、登場人物ひとりひとりの生きようとする魂の輝き!! 小林作品は、観るのにそれ相当なエネルギーを要しますが、それに倍する衝撃と感動を呼び覚ましてくれる世界なのです。

 そんな小林さんが、ついに金田一耕助ものを手がける! 期待感は嫌がおうにも高まりますが、NHK 金田一長編シリーズの4作目から途中参戦する形になるので、いったいどんな影響をシリーズに与えるのかが、非常に気になるところではありました。
 その結果として、今回の吉岡……というか小林版『犬神家』は、「はいはい、役割わかってますよ~。わかってるっつってんだろがオラァあ!!」みたいな気迫をムンムンにさせて、いろいろやたらにアグレッシブな作品に仕上がっていたのではないでしょうか。ラスト4分の1で、いきなり展開にオリジナリティが入ってくるんですよね。
 ただそのオリジナリティは、非常にさりげなく、かつ巧妙に差し込まれてくるもんですから、過去の映像化作品を何作か観ている人には「ん~? なんか違う感じかな?」とにおわせる程度ですし、原作小説を読んでいる人も「あれ、この人、そんな感じだっけ?」と、思わず本を読み返してしまうような自然な感じなのです。きわめてサイレントに、横溝先生の『犬神家』が小林靖子の『犬神家』になりおおせている!

 原作小説と小林版との見た目上の差異は先述した通りなのですが、特に私が注目する小林オリジナルのポイントは以下のとおり。

1、冒頭の野々宮珠世に対する諸々のいやがらせが、犬神佐兵衛の遺言書と全く関係の無い動機で行われている。
2、犯人が若林殺害を決意したきっかけが違っている。
3、犬神佐清が確保された経緯がオリジナル展開。
4、青沼静馬が犬神家に接近する動機が違う。
5、なにはなくともエピローグの対話シーンの追加!

 最初に、我が『長岡京エイリアン』としての、今回の小林版に対する姿勢をはっきり言ってしまいますが、

おもしろいけど、やや空回り気味か。原作小説の良さとケンカしている部分多し!

 という感じになります。
 字数の関係もありますし、今回の作品を観て良いと感じたところ、良くないと感じたところを逐一並べ立てるわけにもいきませんので、私がこれからメインで触れたいのは脚本のことになります。なので、もう一方の俳優さんがたの演技についてのことを先にざっくり言ってしまいますと、まず松子役の大竹さんと金田一役の吉岡さんの存在感と実力は、本当に素晴らしかったと思いました。
 かつて、天下の珍品と謳われるサイコホラー映画『黒い家』(1999年 監督・森田芳光!)で、あんな大爆発っぷりを見せつけ、蜷川幸雄の『メディア』をはじめとする多くの演劇作品でも凄絶かつパワフルな演技を見せつける大竹さんですから、むしろ今まで松子やってなかったんだ!とビックリしてしまうほどジャストフィットなキャスティングなのですが、あえてそこらへんの猛獣性を、最後の最後の佐清との会話まで抑えていたところに、大竹さんらしい勘の鋭さを感じました。やろうと思えば、最初っから最後まで母性だだもれの鬼子母神みたいなキャラにもなりかねない松子をあえて抑制させて、今目の前にいる仮面の男が本当に佐清なのか信じきれないでいる、実に人間的な「揺れ動き」を濃厚に漂わせるからこそ、今回の松子は一瞬たりとも目を離せない緊張感と人間臭さをはらんでいるんですね。やや天然っぽいチャーミングさのある高峰三枝子さんや、堂々たる女優力で押し切る三田佳子さんとは全く違う令和の松子像を打ち出していたと思います。ラストカットの、列車中での哀しそうなまなざしが最高でしたね。
 吉岡さんのほうは、もう、ね……吉岡さん専売特許の「目の動きが超怖い金田一」が、今回の小林脚本によって、あの長谷川博己版『獄門島』の金田一像ともリンクして、サイコっぽい方向に怖さを深化させている気がしました。あの、クライマックスの事件解明シーンでの、泣き叫ぶ梅子に対して笑いながら言う「あの、この先こういう話ばっかりなので~草」というセリフに象徴される、気遣いに全然なってない気遣いのしかたね! 金田一が周囲の人達から浮いてしまう原因は、生き方が不器用だからではでなく、もしかしたら人間性の欠如から来ているのではなかろうかと思わせてしまう言動の危険さ、笑い方の気持ち悪さに、吉岡さんの金田一解釈の現代性を感じました。「金田一は天使」などとのたまっていた市川崑監督がご存命だったら、いったいどう反応されていたことやら……天使のような悪魔の笑顔!! 宝生舞さんはおげんきでせうか。

 その他のキャスティングに関しても言いますと、やはり、原作小説でどどどんと「第一章 絶世の美人」とまで作者に太鼓判を押されていた珠世さんを古川さんが演じているという点が物議をかもしているようなのですが、そりゃまぁ、美人の基準は人それぞれでありますので……ここにも「横溝ワールドのロマン成分を親の仇のように除去する吉田演出」の端緒を観た思いがしますね。それなのに、那須ホテルの女中さんだけは1976年版を踏襲してやけにかわいいという、このアンビバレンツさ加減よ……関係ありませんが、女中さんは出てきても那須ホテルの番頭さんは画面に登場しないという部分に、そこはかとない大横溝への配慮を感じました。三谷幸喜がしゃしゃり出てくる余地は1平方mm もございません。
 古川さんに同じく、原作から大幅にパワーダウンした猿蔵のキャスティングも徹底していましたね。ご丁寧にボートの珠世さんを助けられてないんだもの! こういうところから逆に1976年版の『犬神家』を振り返ってみますと、いかにかの作品がロマンティックきわまりない始まり方をしていたのかがわかります。演出もそうですが、大音量で流れる大野雄二さんの音楽が単純明快でいいんですよね。大野サウンドの功績は大きい!! それ以降の市川金田一シリーズでも、あれほどわかりやすい音響演出はありませんから。
 ま、前回の池松版『犬神家』の猿蔵がロマンというか男汁だだもれでしたからね。たまには弁当の隅っこに取り残されたひじきみたいな猿蔵もいいんじゃないでしょうか。
 「岡山県警から長野県警の署長に栄転していた」という、磯川さんの強引な登場っぷりも話題となりましたが、「なんだチミは? 探偵ぃ~!?」みたいな序盤の警察関係者と金田一とのいざこざをスキップするシステムとしては妙案だったかと思います。小市さんの堂に入ったパートナーっぷりも良かったですしね。また、おそらくは NHK長編金田一シリーズの次回作へのフックとなるはずの「かの『本陣殺人事件』をうんぬん」発言のためには最適な人選だったわけで、特にご都合主義だなんだと目くじら立てて怒ることもないかと思います。
 脱線しますが、もし本当に次回作が『本陣殺人事件』になるとすると、金田一役が吉岡さんには、さすがになりませんよね……? かといって長谷川さんがカムバックするとも思えないし。正直なところ、池松さんが演じるのがいちばん「ヤング金田一」っぽくていい気がしますけどね。まさか、加藤シゲアキさんをさしおいて道枝くんが金田一耕助を演じちゃったりして……NHK じゃ、ありえないか。

 あと、なにはなくとも皆川さん、皆川さん!! 皆川猿時さんの古舘弁護士、最高だったなぁ。真面目だしプロフェッショナルだし一生懸命なんだけど、若林の怪しい挙動には激甘スルーというおっちょこちょいな愛嬌あるキャラクターを好演していたと思います。大河ドラマ『いだてん』でもかなり良い味を出していましたし、伊達に10年間のながきにわたり、明るい家庭を築きつつキッチン戦隊と血みどろ(トマト味)の闘争を続けていませんね。

 すみません、「俳優さんについてざっと」と言いながら、ずいぶんと字数を割いてしまいました!!

 肝心の、いろいろアグレッシブな今回の小林脚本に関して触れてみたいのですが、原作小説から大幅に改変されている要素として、「松子&犬神家」と「青沼静馬」、この2つの性質がだいぶ変わっており、その帰結として佐清もあんな感じになってしまった、という意図的な物語の「現代化」があったかと思います。そしてそれは、今回のドラマを原作小説とは全く違う土俵で戦うお話にしてしまっていたのではないでしょうか。原作と小林版とでどっちが面白いのかは人それぞれかとは思うのですが、原作小説の世界が大好きな私としましては、あまり良い気分にはなりませんでした。じゃあ、小林脚本による全く別の作品でいいんじゃないっすか、みたいな……

 具体的に言うと、まず大前提として今回の小林版では、「犬神家の一族」が「一族」とは言えない烏合の衆までに解体されてしまっています。それは生前の犬神佐兵衛が自分の愛人と私生児の一家(×3)を「親族として認めていない」という小林版オリジナルの設定が原因となっていて、それはそれで佐兵衛の底の知れない心の闇を象徴する要素として非常に効果的なものになってはいるのですが、その反面として、「じゃあ遺言書でどんなにクソミソに書かれようが文句は言えないね、佐兵衛だから……」という空気にもつながってしまうので、ドラマのように遺言書を聞いて「私たちのこと軽く扱いすぎ! ムキー!!」と三姉妹が激高する反応がむしろ不自然になってしまうのです。一族ともみなされていなかったのに何を今さら、って感じですよね。そこらへん、原作小説では「確かに好かれてはいなかったけど、さすがに遺産の何分の一かはもらえるでしょ。」という空気もたもつ絶妙な距離感が佐兵衛と三姉妹との間にはあったはずなのですが、そこをけっこう簡単に断絶させてしまう小林版の判断はどうなんでしょう。しょっぱなからタイトル全否定って……そもそも、佐兵衛以外に『犬神家の一族』なんかどこにもいねぇ!!
 だいいち、松子夫人の家庭も佐兵衛に認められていないとなると、仮面の男が佐清かどうかの手形判定をつっぱねる時の、松子の「この佐清は、かりにも犬神家の総本家ですよ。総本家の跡取り息子ですよ。」という口ぶりともだいぶ矛盾してきやしないでしょうか。1976年版での高峰三枝子さんの傲岸不遜な演技も印象的なこのシーンが、今作ではなんとも白々しく迫力の無いものになっていましたね。まさに「ちょっと早く生まれたくらいで、何言ってんだか……」みたいな感じ。小林版の設定に言わせれば、三姉妹の重要性はどんぐりの背比べであるはずなのです。原作の設定を強化したはずが、オーバー過ぎて元も子もなくなっちゃったという図式ですね。
 ついでに今回は、松子自身が「犬神の名前さえもらえなかった」という原作に無い発言もしているので、あの三姉妹は平常「犬神」という名字さえ使わせてもらっていなかった可能性すらある徹底ぶりです。例えば、夫の名字に従って「山田松子」と「中村竹子」と「小川梅子」とか……サマにならないこと山のごとし!

 続いて、小林版では序盤の「ボートに穴」だとか「ベッドにヘビ」だとか「上からレンガがドスッ」だとかいう珠世さんへの嫌がらせの犯人も原作小説とは別人になっているのですが、これも、ドラマ版で嫌がらせの犯人になった人物のキャラクターに厚みを持たせる効果にはなっていたかと思うのですが、「若林が嫌がらせの犯人を、若林に遺言書の盗み読みを依頼した人間(原作小説の犯人)と同一だと勘違いして動揺した」→「だから若林の暴露を恐れて殺した」という筋立ても、なんかおかしいような気がします。だって、佐兵衛の遺言書を盗み読みさせた時点で、犯人は若林にそれをネタに一生ゆすられかねない共犯関係を築いてしまっていたわけなので、盗み読みを依頼した時点で若林を始末することは既定路線になっていたはずなのです。それを、今さら若林が動揺したから困ったとかなんとか……一連の事件の犯人が「ひとりじゃない」という意外性は別にあっても良いとは思うのですが、今回の「嫌がらせの犯人だけ別人」という小林版のかじ取りは、まず原作小説の犯人の冷徹無比な思考力を行きあたりばったりなもろさのあるものに貶めているし、「遺言書を聞いたとたんに小夜子を捨てて珠世に鞍替えする」という佐智のクズ性を「前から珠世LOVE だった」というだいぶマイルドなものにするマイナス作用が大きいと感じました。令和の佐智は、女性層の人気に色目を遣っとるのか!? 不甲斐なしィ!!

 それに加えて決定的な小林版の改変として、「青沼静馬が犬神家をそんなに恨んでない」というポイントにはビックラこきました。なにしろ、やっぱり1976年版の「おれは犬神一族に、勝ったんだァアー!!」のインパクトは絶大ですからね……
 ただしこれに関して言うと、実は原作小説でも静馬が犬神家への母譲りの恨みを吐露するというシーンは存在しておりません。それは、何を隠そう原作小説において青沼静馬の母である青沼菊乃が困窮の末に死亡しておらず「存命している」というサプライズもありますし、何よりも静馬にとって復讐心以上に困る事態となって自分の正体を明かした結果、逆上した犯人に殺されるという展開があったからなのです。1976年版に比べると随分と人間臭い最期を遂げる原作版静馬ではあるのですが、さすがに「松子の献身的な介護に、記憶の果てにいる母の幻影を重ねて愛を求める」とまで軟化してしまう小林版の静馬は、ちょ~っと菊乃の怨恨エピソードを無駄にしすぎなのではないでしょうか。あまりにも静馬が頭お花畑というか、一時の感情にとらわれ過ぎて肩すかしもいいとこのような気がするのですが……そこも過酷な従軍体験ゆえの PTSDってことにしちゃうのか。
 またしても余談なのですが、原作小説で静馬の正体がバレる直接の原因となった「急に珠世と結婚したくなくなった理由」なのですが、これこそ、『本陣殺人事件』の犯行動機と同じかそれ以上に現代の日本人にとってはピンとこない隔世の感がありますよね。いや、それ自体は現在でも解決しえない大変な障害なのですが、だからといって絶対的に珠世と結婚できない理由にはならないんじゃないかっていう……少なくとも、自分が殺されかねない「正体の暴露」と天秤にかけるものではないような気がします。そこらへんの倫理観というか社会的価値観は、原作小説の発表から約30年が経過した昭和中期の時点で風化していたようで、だからこそ、1976年版の段階でこのくだりはカットされてしまったのでしょう。でも、あれだけ犬神家を恨んでいた一方で、いっぱしに珠世との明るい家庭の甘い夢も抱いていた原作の静馬も、それはそれで人間的でチャーミングですね。
 果たして、これから「生きている青沼菊乃」が登場する『犬神家の一族』の映像化作品は生まれるのでありましょうか……これも、「珠世と結婚したくない静馬」や「スキー板を履いた金田一の雪山チェイスシーン」と同じく、きわめてはかない望みですよね。だって、いくらなんでも、ねぇ……やっぱり、横溝ワールドはロマンに満ち溢れているなぁ!

 そんでま、私が決定的に今回の小林版に疑義を抱いたのは、やっぱり「ラストの対話シーンの論拠が原作小説を元にしていない創作」になっていること! これに尽きるんですよね。
 はっきり申しますと、金田一が事件解決にたどり着いたにも関わらず、その後ある人物の行動に疑惑を抱く、そのきっかけとなる最重要アイテムが「手紙」なのですが、その手紙の使われ方が原作小説と全く違う小林オリジナルの設定なのです。

 いや、それ、いくらなんでもルール違反じゃない? 大相撲の千秋楽だけ特設リングでボクシングルールにするっていうレベルの!!

 わたし、たぶん今作の衝撃的なラストの対話に比較されることも多いであろう、長谷川版『獄門島』の金田一 VS 犯人の異様なテンションの口論シーン、あれは全く問題ないと思うんです。あれは立脚している事件の諸要素が原作小説と矛盾していないので、「もしかしたらああいう闘いが2人の間にあったのかも知れないし、それを金田一が伝記作家の横溝先生にあえて言わなかったのかも知れない。」という解釈(妄想)が成り立つからです。
 でも、今回の「手紙」は、原作小説の記述と全く違う、「そこらへんのガキンチョに託す」という重大な改変を経ているのです。これ、どうしようもない「捻じ曲げ」じゃないのかな~と。ダメじゃない!? 少なくとも、ある先行作品を原作にして、後からきてお話を考えるプロの人間がやっていい手段じゃないと思う。フェアじゃないんですよね。だから、同じ衝撃的アレンジだったとしても長谷川版『獄門島』とは全く似て非なる物だと思うのです。
 細かいことですかね……でも、原作小説が大好きな私は、オンエアを観た瞬間からモヤモヤしたものを抱える原因になったのでした。
 大竹さんや吉岡さんの演技が素晴らしかったからこそ、なおさらね……第一、この事件で犯人の自殺をみすみす見逃してしまったという金田一の大失敗が、これじゃあ全然きわだってこないじゃないですか。ていうか、映像では死なせてしまった数日後には東京でのほほんと新聞記事を読んでるという非常に悪意のある編集になってしまっているので、サイコパスとは違う意味で金田一の人間性が疑われる雑な扱いになってしまいましたよね、「しまったー!!」が。まぁ、金田一の「しまったー!!」は、こと映像化される事件の中では、よくある風景なんですけどね……

 くだくだと申しましたが、要するに今回の小林版『犬神家の一族』は、登場人物の個々の生きざまを小林流に掘り下げんと勇躍挑んだのは良いものの、その噛みつき具合いがあまりに苛烈で現代的であったがために、大前提の「一族」のつながりを徹底的に破壊してしまったのではなかろうかと。やっぱこれ、喰い合わせが悪かったのでありましょうか。これだったら、一族の崩壊がテーマとなっている『本陣殺人事件』のほうが小林ワールドの展開には向いているのかも知れないし、もっと言えば、一族だなんだという価値観が完全に消滅した先にお話が始まっている『仮面舞踏会』や『白と黒』のほうが断然ピッタリだったのではないでしょうか。ほらほらきたきた、『白と黒』の初映像化~!! 小林さま NHK BSプレミアムさま、どうぞよろしくお願い致し奉りまする~!!

 長い! 長いよー!! また記事が長くなってしまったのでここらへんでお開きとしたいのですが、まぁ、ともかく今回も金田一ものの映像化、ほんとうにありがとうございました!! コストパフォーマンス、非常にたこうございました。原作小説と小林版、どっちが心に刺さったのかは、観た人それぞれの話ですからね。まぁどないでもよろしいんとちゃいますのん?という、大横溝の仏の心をみならおう!!
 一番嫌なのは、可もなく不可もない無難なダイジェスト映像化よ。その期待通りにいろんな意味で超攻撃的なものではありましたが、小林靖子×横溝正史、また観てみたいですね~!

 次回は、ほんとに予告通りに『本陣殺人事件』なのかしら!? 中尾彬金田一による伝説の1975年映画版を超える最新映像化、なるか!? 実に楽しみですね。
 景気づけに、今年の秋にもやるかもしれない岡山の「1000人の金田一耕助」イベントに参加してみようかな!? それまでは、わしゃ死なんぞ☆
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思わず心配になるほどマジな完結篇!? ~映画『ハロウィン THE END』~

2023年04月16日 21時30分38秒 | ホラー映画関係
 みなさまどうもこんばんは! そうだいでございまする。
 いや~、やっと花粉症が落ち着いたかと思ったら、今度は黄砂ですってねぇ。天気はいいのに、なんとも外に出にくい春の日が続きますな。
 でも、そうこうしているうちにもう新年度の4月もなかば。ゴールデンウィークさえ間近になってしまいました。時が経つのはホントに早いもので……昨年の上杉まつりで、山吉孫次郎豊守隊の弓足軽として川中島合戦に従軍したのも、もう一年前なのかぁ。あっという間ですなぁ。できれば今年も合戦に参加したかったんだけど、先月いろいろと忙しすぎて応募期間を見逃してしまった……まことに残念!!

 時が経つのが早いと言えば、待ちに待った、「よく見ればめちゃくちゃ顔こわい!」でおなじみの、34代目・金田一耕助こと吉岡秀隆さんによる、令和2作目の『犬神家の一族』(通算11回目の映像化!)の放送も近づいてまいりました。楽しみですね~。まぁ、何が起きるのかはだいたいわかるんですが。我が『長岡京エイリアン』として最も気になるのは、「コースケをスキーに連れてって」な後半の雪山チェイスシーンの初映像化がおがめるか否かなのですが……まぁ、吉岡さんも50代だし、期待はしておりません。

 さてさて今回は、以前にも必ず映画館に観に行くと予告していた、伝説のホラー映画シリーズの完結篇『ハロウィン THE END』の感想記であります。『ハロウィン』シリーズのざっくりした概要と今回の最新(そして最後?)第13作の内容につきましては、もしよかったら前回の記事をご覧くださいませ。

 いや~、あの超老舗な『ハロウィン』シリーズが終わるっていうんですよ! 老舗も老舗、アメリカのホラー映画文化の中でも特に個性的な分野「スラッシャー映画」の源流のひとつともいえる、このシリーズであります。
 わたくしの個人的な感覚で言いますと、この『ハロウィン』シリーズのほぼ全作に登場する殺人鬼マイケル(ブギーマン)と、『13日の金曜日』シリーズのジェイソン、『エルム街の悪夢』シリーズのフレディ、そして『悪魔のいけにえ』シリーズのレザーフェイスの4名が、「スラッシャー映画の殺人鬼四天王」になるのではないでしょうか。すごいメンツだ! 1980年代生まれの私としましては、日本のものまね四天王に匹敵するワクワク感ですね。う~ん、燃えるぅ!!
 この泣く子も黙るレジェンド四天王に関する作品情報(2023年4月時点)をざっと比較してみますと、

『悪魔のいけにえ』シリーズ …… 1974~2022年、全9作
『ハロウィン』シリーズ …… 1978~2022年、全13作
『13日の金曜日』シリーズ …… 1980~2009年、全12作(『フレディ VS ジェイソン』を含む)
『エルム街の悪夢』シリーズ …… 1984~2010年、全9作+生前のフレディを描く TVドラマ1話(同上)

 という感じになります。レザーフェイス先輩も、マイケルに負けずお元気ですねぇ! 若手のジェイソン&フレディが最近とんとご無沙汰なのが寂しいな……確か私のぼんやりとした記憶では、フレディが『世にも奇妙な物語』のタモリさんのようなストーリーテラー役を演じる TVオムニバスドラマシリーズ『フレディの悪夢』(2シーズン パイロットエピソードで生前のフレディを描く前日譚が1話だけあるらしい!)もあったかと思うのですが、それはフレディ自身のお話の TVシリーズ化というわけではないようですね。
 ちなみに、この四天王に加えて、『ハロウィン』第1作に大きな影響を与えたとされる、あのアルフレッド=ヒッチコック監督によるスリラー映画『サイコ』(1960年)のノーマン=ベイツ大師匠を加えると、スラッシャー映画の古典はだいたい抑えたていになるでしょうか。今回の『ハロウィン THE END』でも、『サイコ』のオマージュカット、ちゃんとありましたね! ほんと、マイケルさん(ていうかグリーン監督)はいちいち折り目正しいんですよ。大先輩への礼儀をわきまえている!
 ちなみに『サイコ』シリーズのほうもあげておきますと、

『サイコ』シリーズ …… 1960~2017年、映画6作+TVシリーズ5シーズン

 というあんばいになります。こっちも奥が深そうだなぁ。こちらについては、我が『長岡京エイリアン』でもそ~と~昔に触れていたのでここまでにしておきますが、当然、ロバート=ブロックによる原作小説シリーズもおさえておきたいところですね。小説のほうの『サイコ2』、おもしろいよ~!

 さて、こうしてざっと並べてはみましたが、これらスラッシャー映画の有名シリーズはおしなべて、シリーズ全作の時間軸が一貫していることなんか、全然ありません! 必ず途中で設定がリセットされたりまるっとリメイクされたりして、「第~作と第~作はつながっていない。」とか、「これまでの設定は無かったことにしてください。」といった、天地創造レベルの破壊と再生を繰り返したうえでの、この歴史なのです。
 この理不尽きわまりない感じ、日本における『ゴジラ』シリーズのリセット、リセット、なんかあったら即リセットの荒波にもまれ、「あのミニラが成長したのがこのゴジラかな?」とか、「昭和のおギドラさまと91年ギドラがもし戦ったら!?」などといった、現実世界でいっさい役に立たない妄想作業を常としてきたわたくしといたしましては、懐かしき揺りかごのようなカオスっぷりですね。それがたとえシリーズ中盤の中だるみもいいとこな低予算作品だったのだとしても、この世にオギャーと生まれてきた以上、その価値は必ずどこかにある! むしろ、そのダメさ、問題児さ加減こそが魅力となることすらあるのですからね。

 そんでま、今回の『ハロウィン THE END』に関しましては、なにはなくとも超名作な1978年の第1作『ハロウィン』の内容のみを継承して展開された、グリーン監督による第11作以降の三部作の完結編となるわけなのです。ですので、シリーズの第2~10作を観る必要はまったく無し、むしろ観ない方が混乱しなくていいという、復習&ゲオめぐりが苦手な方にも親切な設計となっております。
 かくいうわたくしも、実は『ハロウィン』シリーズについては、なんと第1作しか観ていないという門外漢だったのですが、グリーン監督の前2作の内容については、あっさりとではありますが今作の中で映像モンタージュやローリーの独白を通しておさらいされていますので、最悪、カーペンター監督の第1作さえおさえとけば充分に楽しめる作品に仕上がっていると思います。とっつきやすいなぁ~。やっぱスラッシャー映画はこうじゃなきゃ!

 今回の完結篇は、私にとってはいろんな意味で予想外な展開や演出が、けっこういっぱいありました。非常に野心的で、巧妙で、繊細な造りの作品でしたね。かなり興味深い傑作だとは思ったのですが、その内容にはちょっぴり寂しくなる部分もあり……まさに、現代における「ホラーアイコン」という存在の現状と限界をまざまざと感じさせるものでした。
 またいつもの流れですが、私が観ていて気になった点をつらつらと羅列してみることにいたしましょう。


1、完結篇で新キャラを中心にすえてくる、その大胆さ!

 グリーン監督はなかなかの策士だなと思わずうなってしまったのが、冒頭のエピソードで、それまでのマイケルとローリーの因縁の対決とまったく関係の無い、フツーの大学生コーリーの身に降りかかる不幸な死亡事故の経緯をねちっこく語るという奇策でした。『ハロウィン』関係ねぇ! いちおう、申し訳程度に登場人物の言葉の端々に忌まわしいマイケル事件のことは出てくるのですが、その恐怖の連続殺人鬼マイケルがちゃんと逮捕されていないというのに、ろくな護身術も心得ていないようなメガネ大学生に大切な一人息子と邸宅の管理を任せて、おめかししてハロウィンパーティに出かけるという冒頭の金持ち夫婦の精神構造がさっぱり理解できません。

 ここよ! この、「ハロウィンの夜にかぎって大暴れする殺人鬼がどこにいるのかわからないのに、ハロウィンの行事はしっかり楽しむ」という、何があっても、特段なんの魅力もないように見えるありふれた町ハドンフィールドから決して出ていこうとせず、自分たちの生活習慣を変えようとしない人々の矛盾だらけの生活! この異常性を許容できるかどうかが『ハロウィン』シリーズを楽しめるかどうかの分水嶺なのです。今作の中盤で、ニコニコしながら歩いているだけのローリーをつかまえて「あんたがおびき寄せたマイケルのせいで家族が半身不随になった!」とか恨み節をまくしたててたおばさんだって、だったらそんな町出ていきなさいよと言いたくなります。でも、だぁれも引っ越そうとはしないんですよね。これを「フィクション作品の設定上の限界(ハロウィンの夜に町の人がみんな武装して家に立てこもったり、相次ぐ引っ越しでゴーストタウンになったりしたら話が回らない……)」とみるのか、「案外、人間ってそのくらい鈍感なもんなのかも。」とみるのか。最初っから、この作品は大いなる問題を提起してくるわけなのです。

 話が脱線してしまいましたが、冒頭ではなんの特徴もない若者であったコーリーが、殺害容疑の濡れ衣を着せられてしまったことで、被害者家族をはじめとする、ハドンフィールドのほぼ全住民の悪意を一身に受けてしまったことにより心に黒々とした闇を抱えてしまい、今作のヒロインであるローリーの孫娘アリソンの愛に揺らぎながらも確実にマイケルに近い怪物に変貌していくという「闇堕ち」のプロセスは、今回の物語の骨子となっています。物語中盤でのマイケルとの遭遇さえなければ、コーリーは確実にアリソンと共にハドンフィールドを去り、それこそ倉本聰作品のような人間ドラマの主人公となっていたことでしょう。コーリーは吉岡秀隆なのだ!! そうか、だから吉岡さんの顔はこわいんだ。

 このあたりの、伝統ある『ハロウィン』シリーズの完結篇でありながらも、殺人鬼マイケルを物語の中心に据えないグリーン監督の大胆な舵さばきは、ともすれば観ている観客に「これ、この作品でやる意味ある?」という不安を抱かせる危険な手かと思うのですが、まずグリーン監督の演出に迷いがないことと、ローリー役のジェイミーさんの出番がかなり多いので古参ファンも納得できること、そして何よりも、コーリーを演じるキャンベルさんの演技力がびっくりするくらいに高いことによって、充分に見ごたえのある物語の牽引力を発生させていたのではないでしょうか。キャンベルさん、いいね! もっさりしたヒース=レジャーといった感じで、スラッシャー映画に出るのがもったいなく感じるほどの自然さで、堕ちていく人間の哀しみを演じきっていたと思います。まぁ、そんなこんな言っても、最終的にはああなっちゃうんですけどね!

 全然関係ないですが、「ローリー」と「コーリー」って、日本語字幕だとほんとにまぎらわしい……性別も年齢もまったく違うので間違えようがないんですが、ちょっとややこしかったです。ローリーっていうのも、日本人にとってはなんか「男性」のイメージがありますからね、関西弁の……『ムジカ・ピッコリーノ』の斎藤アリーナさん、お元気かな。


2、ちゃんと加齢しているローリーとマイケル、そのギリギリ最後の戦い!

 ここもグリーン監督三部作の大胆なところだなと感じたのですが、ローリーはおろか、肝心かなめの殺人鬼マイケルまでもが、ちゃんと1978年の『ハロウィン』を起点にして歳をとってるんですよね! これ、何気になかなかないことですよ。
 だって、マイケルって1957年の10月生まれなんでしょ? ってことは、今作の2022年時点では65歳前後ですよ。そして、ちゃんとは映りませんが、あの白いマスクをはがされたマイケルの素顔もその年相応の老いっぷりを匂わせていますし、だいいち前作『ハロウィン KILLS』で受けた重傷がもとで、4年間も地下水道に引きこもっているという情けなさを露呈してしまっています。そりゃ、若い頃みたいに寝てサッとは治りませんよね……

 そうなんですよ、これ、ネタバレになるのであんまり深くは言えないのですが、今作のマイケルは弱い、弱い! もうそのまんま地下の穴ぐらで余生を送ってお迎えさんが来ても……と思っていたところを、ほんとに無理やり復活「させられて」しまうのです。だいたい、今作で殺される人って、おおかた別の人の被害者ですもんね。半隠居の身をひっぱり出されるわ、他人の罪はひっかぶせられるわ、挙句の果てにゃコンディション最悪なのに宿敵ローリーのホームに連れてかれて超アウェー戦を設定させられて予想通りにコテンパンに惨敗し息の根を止められるという諸行無常……まぁ、これまでの悪行の数々を振り返れば、確かにハドンフィールドを恐怖のズンドコに叩き込み続けた殺人鬼マイケルにふさわしい末路ではあるのですが、こと今作に限って言えば、マイケルはまさに「サーカスで無理くり芸をさせられる瀕死のクマ」といったていで、往時の恐ろしさはどこへやら、涙を絞るみじめさしか感じられない姿をさらしているのです。

 これ、ちょっとホラー映画界の大スターであるマイケルさんのガチファンの方々が観たらグリーン監督を訴えるんじゃなかろうかと危惧してしまうほどの徹底ぶりで、『シン・仮面ライダー』の庵野監督もかすむ過酷な采配だと思うのですが、よくよく考えてみますと、別にグリーン監督は13作の歴史を持つ殺人鬼マイケルのキャラクターに完全な引導を渡すというわけではなく、あくまでも自身が設定した「第1作の設定だけを引き継いだ三部作の中のマイケルを殺す」という方針なわけなので、この作品において、ローリーと同様の時間世界の中でふつうに老いて体力が衰えていくマイケルがいるのは、まったく問題の無いことなのです。

 逆に言えば、私はロブ=ゾンビ版の第9・10作は全く観ていないのでそちらには触れませんが、第1~8作の旧シリーズにおけるマイケルには、ローリー以上に異様な体力のインフレをたぎらせて命を狙ってくる「ルーミス医師(演・ドナルド=プレザンス!!)」という、何をされても死なない『こち亀』の両さんかラーテルの擬人化のような天敵がいたために、自身もやむなくジェイソンやフレディのような不死身化に踏み切らずを得なかった、とも解釈できるわけで、そういう意味では、「ローリーはマイケルの妹」という設定も含めて旧シリーズには一貫した距離を取っているグリーン監督の三部作ではありますが、最後の最後に「マイケルをまっとうな老人に戻しておっ死んでいただく」という、実に粋な計らいを用意したことで、遠回しに旧シリーズのマイケルと、そっちのファンへの鎮魂歌としての意味も添えてくれたのではないでしょうか。いつまでも不死身の呪縛に縛られ続けずに、もう休んでいいんだよ、と……

 そういえば、ハドンフィールドの悪意の象徴ともいえる地元ラジオの DJも、放送の中で「レザレクション」って言ってましたもんね。ニクいね、グリーン監督!


3、出てくる人出てくる人、嫌なやつばっか! マイケルにとどまらないハドンフィールドの狂気

 これはもう、ひどいもんでしたね! でもまぁ、こうもしないと、後半からクライマックスにかけての登場人物ほぼ全員の殺戮ラッシュが見てられなくなっちゃいますもんね。殺される人たちが「まぁ殺されても当然かな。」と観る者を納得させてしまう所業に走ってしまうのは、爽快感を旨とするスラッシャー映画にとっては大切なお膳立てなのです!
 にしても、コーリーをいじめ抜く、大してカッコよくもかわいくもないリア充グループといい、アリソンにパワハラしまくる医者とその愛人ナースといい、町中にゴシップにまみれた低劣な悪意を際限なくまき散らす DJといい、登場人物のほぼ全員が「同じ町や職場・学校にいて欲しくない、からまれたくない」嫌な奴ばっかりなのには、現実社会の縮図を見る思いがしますね。そして、それらが絶妙に法に触れないがためにのうのうと町にはびこり続けているというあたりにも、ものすっごくイヤなリアルさがあります。
 その一方で、作品中にはコーリーの父やホーキンス保安官のような、主人公グループにあたたかいまなざしを送る「悪意なき人」もいるっちゃいるのですが、コーリーの父は、息子に異常に執着する子離れのできないコーリーの母には文句も言えず追従するだけですし、ホーキンス保安官も、ローリーへの愛情こそ間違いなく本物ですが、物語の中で独りでマイケルに立ち向かっていく彼女を宿命から救うようなことは一切せず、あらかた事が済んでからノコノコ現場に現れるという役の立たなさを露呈してしまいます。ただ、今作におけるホーキンス保安官のこの不思議な透明感は、保安官というよりはギリシア悲劇のコロスや、原作小説ほぼ無視で純然たるホラー映画になってしまった1977年映画版の『八つ墓村』において渥美清が演じた金田一耕助に近いような「神っぽい傍観者」にまで昇華してしまっているような気がします。
 なんか、「今まで何してたんだコノヤロー、早く助けに来いよ!!」とは面とむかって言えない空気があるのです……あと、日本好きみたいだし、そんなキツいことは言えないよね。


4、結局、マイケルが出てくる意味があんまりない!

 つまるところ、この作品の舞台となる2022年の時点で、ハドンフィールドにおける「悪意」はあらかたマイケルの肉体から放出されて町の住民やコーリーといった他の人々に転移してしまっています。そして当のマイケルはというと、前作で負った傷のせいで4年も再起不能状態をさまよっているという、旧シリーズのルーミス医師が聞いたら『ドラゴンボール』のベジータかアニメ第5期『ゲゲゲの鬼太郎』の青野武ぬらりひょんのように「お前を殺すのは俺だけだ! だから生きろ!!」とか言って介護に来そうな瀕死状態になっているのです。もう、おからよ、おから! かっすかす。そういえばマイケルの白いマスクも、なんか粉ふいてるみたいだったし。

 日本の妖怪伝承に「七人みさき」という怖いものがありますが、私がこの作品を観ていて強く連想したのはまさにこれで、要するに前作のクライマックスの2018年の時点で、マイケルの肉体に宿っていた「悪意」はすでにマイケルから離れており、今作で新たな別の人間に宿主を変えていたのではないでしょうか。なので、今作でヒーコラヒーコラいいながらそれらしいことをやっていたマイケルは、マイケル本人でありながらももはや往時の勢いなどあろうはずもない、「マイコーりょう」にも劣る物まね芸人レベルにまで堕してしまっていたのです。
 うむむ……それはそれで、理路整然としたひとつの「終わりの物語」として成り立ってはいるのでしょうが、なんか哀しすぎるよなぁ。私個人は、そういう展開は大好きですし、多いとは言わないながらも、このジャンルの小説や映画ではたま~に出てくるパターンではあるのですが、今回ほど徹底的に「ご本人がおとしめられる」のは、珍しいのではないでしょうか。ここで、本人じゃない完全な偽物でしたというオチだったらグリーン版マイケルの物語は延命できていたのでしょうが、そこをそうしなかったからこそ、今作は「THE END」たりえているのです。
 にしても、マイケルにとってこれほど出た甲斐の無い作品もありゃしませんよね……いくら超人とはいえ、60代半ばのローリーを相手にして、あそこまで手こずる老醜の残酷さよ。まさか、アメリカのスラッシャー映画から「もののあはれ」を感じさせられてしまうとは! ホラー映画も成熟したものであることよ。


5、ハロウィンの映画なのに、なんで春の公開なのかって? 観ればわかるさ!!

 ここも、まさかこの映画から「あはれ」の感情を惹起させられてしまうとは……とビックラこいてしまったポイントのひとつでした。
 マイケルが老いていれば、当然、それに相対するヒロインたるローリーさんも老いているわけでありまして、本作はまさに、ローリー、というか、それを演じるジェイミー=リー・カーティスさんの、「ハロウィン」シリーズにおける「THE END」を物語るものとなっていました。
 ローリーというキャラクターは、かつてロブ=ゾンビ版のリメイク二部作で別の女優さんが演じられているので、決してジェイミーさんの専売特許でもないわけなのですが、少なくとも、ジェイミーさんがローリーを演じるのは今作が最後なのかな、という雰囲気はたっぷり漂っており、そもそも今作の構成が「自叙伝を執筆しているローリーの一人称」というものになっていることからも、グリーン版三部作の最後であると同時に、ジェイミーさんのシリーズ卒業作品になっていることは明らかです。
 確かに、今どきの60代女性ですし、ましてや天下のハリウッド女優さんなんですから、あんなに老けこまなくてもいいようなものなのに、絶対にプライベート以上に老いた演技をしていたのは、間違いなく「元気なうちにきれいなピリオドを打ちたい」というジェイミーさんの女優魂を感じさせるものです。だからこそ、シリーズの看板たるマイケルがあの情けないにも程のあるていたらくだったとしても、この作品は十二分に見ごたえのあるものになっているのです。

 余談ですが、ジェイミーさんといえば、その苗字のひとつである「リー」が示す通り、あの「すべてのスラッシャー映画のいできはじめのおや」ともいえる、ヒッチコック監督の『サイコ』(1960年)において「史上初のスクリーミング・クイーン」となった女優ジャネット=リーの娘さんであります。その点をかんがみれば、この映画はローリーの最後というよりは、ジェイミーさんの最後の作品として大きな意味のあるものなのかもしれません。このシリーズにおける「ローリーとマイケル」の因縁以上に、「ジェイミーさんとアメリカンスラッシャー映画」の因縁を断つ! その気概の象徴として、今作の序盤とエピローグをサンドイッチする形式で語られた、「この騒ぎが終わったら、一緒にジャパンの桜を観に行こうよ。」という何気ない会話は、なにがなんでも必要不可欠なやり取りだったのではないでしょうか。まさにこれは、死にゆくマイケル(古き良きスラッシャー映画)と、生きてゆくローリー(ジェイミーさん)の「決別」を終局の章段なのであります。

 そう考えるとあ~ら不思議、この映画のエピローグで路上に腰掛けて語らい合うホーキンス保安官が後白河法皇、ローリーさんが建礼門院徳子に見えてきませんか? Oh,イッツ、大原ミユキ~!!


6、デートムービーに向かないスラッシャー映画って、どうよ!?

 そんなこんなでまぁ、私個人は大いに感じることの多かった『ハロウィン THE END』でありまして、いろいろあるものの、一つのシリーズのキレイな「終わりの物語」としてちゃんとオチてるなぁ~と感心したのですが、出来が綺麗すぎて、ちょっと気になったことが。

 映画館に観に来ていた若いお客さん方(特にカップル)にとっては、いまいちピンときていなかったかも……

 上映終了後、白髪の目立つ感じのナイスミドルな人達はおおむねニコニコして席を立っていたのですが、いかにも「貞子系の超怖いホラー映画を観に来ました」という感じの4~5人の高校生男子グループは、なんだか消化不良な表情を浮かべて「そんなに怖くなくてよかった~。」とか言ってたし、映画が始まる前にポップコーンを持って座りイチャイチャしていたティーンの男女カップルにいたっては、エンドロールが始まるやいなやそそくさと立ち去って行ってしまっていました……デートで映画を見に行くときの作品選びって、大切ね~!!

 う~ん、作品作りに賭けるグリーン監督の心意気やよしなのではありますが、伝統あるシリーズの締め方の美しさにこだわるあまり、このジャンルの作品としていちばん大切にしなければならないはずの「頭からっぽにしてギャーギャー言いながら楽しむわこうどたち」の満足度を、少々おざなりにしてしまった感は否めないと思います。純朴きわまりないジャパンの東北地方の子ども達でさえこの反応なのですから、東京なりアメリカなりの若者たちにとって、果たしてこの作品が「ちょっとこのシリーズの昔のやつ、ちゃんと観てみよ!」と思わせる「幸せな出逢い」となりうるものになっているのかどうか……

 ちょっとこの作品、過去の流れのダイジェスト解説も丁寧にしてはいるのですが、「ハロウィン」シリーズを知らないというか、積極的な興味のない人は観なくてもいいですよ、みたいな敷居の高さも醸し出してしまってはいます。
 そうではあるのですが、その一方で、このシリーズは結局、どこまでいっても「グリーン監督三部作」の THE ENDでしかないので、旧シリーズのファンを完全に満足させるものでもないことも確かなのです。悪く言ってしまえば、どっちつかずのアイウォンチュウなんですね。
 旧シリーズっていうか、もっと言うと「ルーミス博士ファン」ですよね。あの、どこまでもエネルギッシュにマイケルを追いかけて、他人がなんと言おうが彼にしがみついていこうとした、そしてそれが高じて自ら人間を超越してしまったルーミス博士…… MY LOVE♡
 まず、そもそもその彼が「いない」グリーン監督三部作である時点で、カーペンター監督の『ハロウィン』に魂をゾッコン奪われてしまった私にとっては、ちょっと物足りないといいますか。
 だいたい、今作のパンフレットも買って読んでみたのですが、1000円近い値段のするちゃんとした内容なのに、そのどこにもルーミス博士の「ル」の字もないもんね! 権利の問題もあるのかも知れませんが、旧シリーズの最大級の功労者であるルーミス博士って、そんな軽さでいいのかなぁという気分にはなりました。


 ……とまぁ、いろいろくっちゃべってきた本作ではあるのですが、どうせあと10年くらいしたら、何事もなかったかのような顔をして、あの無表情な白いマスクを被った若々しいマイケルがハドンフィールドに帰ってきて、グリーン監督の物語とは全く違う世界線の『ハロウィン』第14作が世に出るんでしょうけどね~。それでこその老舗シリーズだと思いますし、今回の反動として、カーペンター監督やローリーの呪縛から解放された自由闊達な作品も観てみたいような気もするのです。

 その時はぜひ、ジェイソン=ステイサムさんかドウェイン=ジョンソンさんにルーミス博士を演じてもらいたいなぁ! 元気のないこの時代だからこそ、アブラギッシュなルーミス博士サーガのご復活を~!!
コメント (2)
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