長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第47回 「武蔵国 世田谷城」資料編

2023年12月16日 16時26分53秒 | 全国城めぐり宣言
武蔵国 世田谷城とは

 世田谷城(せたがやじょう)は、現在の東京都世田谷区豪徳寺に存在していた城郭。城郭構造は平城。天守閣は無い。東京都指定旧跡。
 室町幕府初代奥州管領となった吉良貞家(?~?)の次男・吉良治家(?~?)が、鎌倉公方の傘下となり貞治五(1366)年に上野国飽間郷に移住した後、その子孫の吉良成高(?~?)が応永年間(1394~1426年)に武蔵国世田谷郷に居館を築城した。以降はこの世田谷城が、武蔵吉良氏の代々の本拠地となった。ちなみに武蔵吉良氏は、「忠臣蔵事件」で有名な吉良上野介義央の出た三河吉良氏とは南北朝時代に分かれた別流である。
 天正十八(1590)年、武蔵吉良氏第8代当主・吉良氏朝(1543~1603年)の代に小田原征伐により豊臣氏に接収されたが、同戦役後に廃城となった。世田谷城の石垣は、のちの江戸城改修に再利用されたという。

 世田谷城は、経堂台地から南に突き出た舌状台地の上に立地し、城域の三方の麓を烏山川が取り囲むように流れ、天然の水堀となっていた。
 現在は土地開発が進み旧態は詳らかでないが、豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城阯公園まで城域が拡がっていたものと考えられている。世田谷城阯公園内から北に向けて延びる区域の、豪徳寺参道やアパート敷地の脇に空堀及び土塁が現存している。世田谷城阯公園内の石垣風の構造物は、公園整備時に造成されたものである。
 なお、豪徳寺の西に位置する世田谷八幡宮は、かつて世田谷城の出城として機能していたとみられる。
 また、世田谷城の南に位置する武蔵国奥沢城(現・世田谷区奥沢 現在の九品仏浄真寺の寺域)も、天文~永禄年間(1532~70年)に武蔵吉良氏第7代当主・吉良頼康(?~1562年)が築城した世田谷城の出城である。
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全国城めぐり宣言 第46回 「羽前国 飯塚館」資料編

2023年08月20日 09時15分05秒 | 全国城めぐり宣言
羽前国 飯塚館とは

 飯塚館(いいづかだて)は、現在の山形市飯塚町に存在していた城郭。
 南北朝時代から江戸時代初期にかけて羽前国の村山地方を中心に支配していた羽州探題・最上家の本拠地である山形城の西に位置する、200m四方の平城である。築城、廃城年代ともに不明。現在は完全に宅地・農地化しており、城郭の遺構は見られない。

 現在の飯塚地区は、山形市の西に位置する。世帯数約1200戸、人口約3300名の町で、特にキュウリの生産に力を入れている農家が多い。飯塚館の城域は地区の東側「上飯塚」にあたる。

 最上家第11代当主・最上義光(1546~1614年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて出羽国内において勢力を拡大し、出羽国南部(羽前)をほぼ統一する最上家の最大版図を築いた。義光は慶長年間(1596~1615年)に、晩年まで山形城とその城下町の拡大に注力し、山形城の城域は三ノ丸まで拡張された。その面積は235ha となり、日本国内の城郭では5番目、東北地方では最大の広さを誇った。
 最上家は当時、現在の村山地方を中心に多くの支城を構えており、それらは「最上四十八館」と称されていた。しかしその実態はよく分かっておらず、義光の時代には48を超える支城を統括していたと考えられる。飯塚館もまた、山形城の西を守る支城として機能していたと思われる。

 現在、飯塚館の主郭があったと思われる中心地には「日森ヶ岡稲荷神社」が残っている。祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。明治三(1870)年に「村社」に列せられ、上飯塚地区の産土神として崇敬されてきた。現社殿は、大正十(1921)年6月に発生した大火で焼失した後、昭和三(1928)年に再建されたものである。
 日森ヶ岡稲荷神社の創建年代もまた、飯塚館と同じく不明である。南北朝時代から戦国時代にかけて左沢(あてらざわ)城(現・大江町)を領した左沢家の武将で、のちに最上義光に仕えた日野将監定重(?~?)の屋敷神が社の元との説もあるが、永正十八(1522)年銘の「湯殿山大権現」石碑も残り、江戸時代には「崇山権現」として崇拝されていた。

 また、飯塚館内の「鬼門」にあたる北東区域には、現在「めしつか稲荷」が残っている。この社は飯塚館が存在した当時からあったものと思われるが、成立年代については飯塚館ともども不明である。大正十年の大火で日森ヶ岡稲荷神社と同様に焼失したが、のちに再建される。現在の社祠は、2000年に建立されたものである。
 「飯塚」の地名の発祥となったと伝わるこのめしつか稲荷の祭神は、日森ヶ岡稲荷神社と同じく倉稲魂神。「めしつか」の由来は、社に供えられた握り飯が常に塚のように積まれてあったという伝説に由来する。

 現在、飯塚館の水堀の南側に位置する場所に「鶴塚」と呼ばれる竹藪がある。この塚は以下の伝説に由来する。昔、親孝行のタケという娘が崇山権現へお参りした帰りに白羽の矢で射られた鶴を拾った。タケに相談された飯塚の庄屋は、「これはタケの親孝行に免じ、崇山様が下された恵みの鶴である。一切の責めは私が負う。」と請け合い、タケが重病の父親に鶴の肉を食べさせると、父の病気はたちまち回復した。のちに山形藩の役人が鶴を探しに来たが庄屋はあわてずに、白羽の矢も鶴の骸も屋敷の隅に埋めてその上に竹を植え、タケとその家族を守ったという。その竹藪が、現在の鶴塚であるとされる。
 この伝説が史実を元にしているとするのならば、かつて飯塚館だった土地もしくはその一部は、江戸時代、1622年の最上家の改易後には庄屋屋敷に再利用されていたということになる。

 山形城三ノ丸の「飯塚口」とされていた地点(現・山形市春日町)と、現在の地名「山形市飯塚口」とは距離的にかなり離れている(約2km )。
 山形城三ノ丸の「飯塚口」は、山形県立図書館収蔵の『最上時代山形城下絵図』(作成年代不明)に、三ノ丸の十一ヶ所の出入門のひとつとして説明されている。
 しかし、奥平家が山形藩主となった時代(1668~85年)の城郭図『正保城絵図』(国立公文書館収蔵)によれば、飯塚口は「本鍛冶町口」と呼称されている。これは、この一帯がもともと最上家時代に鍛冶師が多く集住していた地区であったところが、義光の慶長年間の城下町拡張にともない、山形城を挟んで反対側に位置する馬見ケ崎川(旧水路)の北に移されたためであるとされる。その当時、本鍛冶町の民家は西の飯塚村までほぼ繋がっていたといわれている。
 また、昭和時代に春日町にあった商店の証言として、この地域は昔、飯塚村の方向から山形市中心地に来た勤め人が帰りに通った道で、店に立寄ることも多かったという記録がある。
 以上のことから、山形城三ノ丸の「飯塚口」は、飯塚地区ではないものの「飯塚館に向かう出入口」として呼称されていたようであるが、確定的な裏付け史料は残っていない。また、山形城三ノ丸の外堀の西側に飯塚村の村有地の桑畑があり、桑葉の売上金が村内で分配されたり仏堂の維持費に当てられていたという記録が残っていることから、飯塚村に縁のある土地柄から「飯塚口」と呼ばれていた可能性もある。

 館の北に、曹洞宗寺院の揚柳寺がある。楊柳寺の本尊は室町時代の作とみられる「十一面観音像」(木造座像 秘仏)で、飯塚村内外から幅広い崇敬を集めており、山形藩主・堀田相模守正春(1715~31年)の母・清水氏が元文四(1739)年五月にとばり(垂れ布)を奉納している。
 寺伝によれば、楊柳寺は元禄年間(1688~1704年)の創建とされるが、延文二(1357)年の刻銘のある板碑もあり、最上家が羽州探題として山形城を築城した時代から何らかの宗教施設が存在していたと思われる。

 また、飯塚地区の西にあたる「下飯塚」区域には、薬師如来と日光・月光両菩薩による薬師三尊像を彫った石仏と、薬師如来の瑠璃光浄土を仏敵から守る十二神将の木像12体を祀る仏堂「ジュウニンツァマ(十二様)」がある。
 ここもまた、飯塚館と同様に創建当時の姿や年代については不明だが、飯塚地区の中心が上飯塚の飯塚館に移るよりも前の14世紀以前に成立したと思われる。
 口伝によると、かつて飯塚の住人は十二様堂から川を挟んだ南に位置する「元屋敷」地区に暮らしており、その鬼門にあたる北東に屋敷神として十二様を祀り敬っていた。しかし元屋敷が村の西にある須川の洪水などで住みにくくなったために、その東である現在の上飯塚地区に移り住み、元屋敷地区は一円田畑と化し、十二様堂だけが残ったのだという。それ以降、十二様堂は土地の所有者が世話するのみとなっていたが、十二様堂を崇拝して上飯塚から下飯塚に戻り住んだり分家を出す者も現れたため、明治時代末頃には2~30軒の集落となり、土地の名は十二様堂の前に集まったために「十二神将前」から「十二の前」に変化し、今日に至っている。

 飯塚館の堀の北を通り、上飯塚と下飯塚を結ぶ村道(現在の県道271号線の北に位置する)は、かつて「馬道」と呼ばれており、江戸時代は無論のこと、中世の飯塚村成立時から使われていた。
 現在もこの馬道沿いには、江戸時代末期の安政三(1856)年に建立された安産と子供の安全を祈る石造の子安観音像と、馬の供養と通行の安全を祈願する馬頭観音の石塔が残っている。

 飯塚館と楊柳寺の東を通る小道は「横道」と呼ばれ、南は上山までも通じており、キリシタン信者や宣教師たちが人目を避けて往来していたと言われ、「キリシタン道」や「バテレン道」と呼ばれていた。また、飯塚村には客死した旅の宣教師を葬った「異人塚」があるという伝説がありながらもその場所は不明であったが、1966年にこのキリシタン道と県道271号線の交差する地点の北側から凝灰岩製の六面の石塔が出土し、彫像からキリシタンの遺物であると判明した。この石塔は現在、揚柳寺の境内に祀られている。

 かつて飯塚館の西(下飯塚や元屋敷の南)には、湧水による500坪(1600平方メートル)ほどの沼「がづご沼」があり、飯塚館の西の守りであると同時に貯水池としても利用されていた。がづご沼の水深は浅く、底無し沼状の泥の中には沈んだ流木とがづご(マコモ)の根がからまり合い、なかば谷地のような状態であったという。この付近には湿地や沼地が多かったが、1970年代の耕地整理によって姿を消した。現在は、がづご沼の南東に設置されていた、沼の水神を祀る水神塔のみが残されている。
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全国城めぐり宣言 第45回 「甲斐国 谷戸城」資料編

2023年07月07日 20時23分28秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 谷戸城とは

 谷戸城(やとじょう)は、現在の山梨県北杜市大泉町谷戸にあった日本の山城。城跡が1993年に国史跡に指定されている。
 山梨県の北西部に位置し、八ヶ岳の山体崩落で形成された尾根上に立地し、標高は850m付近である。その地形を利用して同心円上に土塁や空堀を配した輪状郭群で、東西を東衣川と西衣川に挟まれ、北側が八ヶ岳の尾根に通じているため、三方を急崖に囲まれている。

 平安時代後期に、常陸国那珂郡武田郷から源義清(1075~1149年)と、その嫡男・源清光(1110~69年)親子が甲斐国市河荘(現在の市川三郷町)へ流罪された。清光の子孫は逸見荘へ土着した後、甲斐国の各地で勢力を拡大し、甲斐源氏の祖となった。
 谷戸城は清光の居城と伝わり、江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』によれば、清光は正治元(1199)年に谷戸城で死去したという。
 鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によると、治承四(1180)年8月の石橋山合戦において伊豆国で挙兵した源頼朝が敗北した直後に、北条時政・義時親子が甲斐国入国を試みたという。翌月の9月10日には、逸見義光の次男・武田信義(1128~86年)らが信濃国へ出兵して平家方と戦い、9月15日には甲斐国へ帰還し、信義とその嫡男・一条忠頼(?~1184年)らは逸見山に集結した。甲斐源氏の一族はその地において北条時政を迎えたという。逸見山の比定地は北杜市内に複数候補地があり、谷戸城もそのひとつとされる。
 戦国時代には、甲斐源氏子孫の武田信玄晴信が信濃国侵攻を開始する。当時の記録史料『高白斎記』の天文十七(1548)年9月6日の項目に拠れば、晴信は信濃国佐久郡の前山城(現・長野県佐久市)攻略のため出陣し、「矢戸御陣所」において宿泊したと記されているが、これが谷戸城を指しているかは不明である。晴信は9月7日に海野口に、9月9日には宮之上に到着し、9月11日には前山城を攻略した。
 また『甲斐国志』によれば、天正十(1582)年3月の武田家滅亡後、同年6月の本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生する。天正壬午の乱において甲斐国の武田家遺領は、三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が争奪し、家康が新府城(現・韮崎市中田町中條)を本陣にしたのに対し、北条家は若神子城(現・北杜市須玉町若神子)を本陣にした。この際、北条軍は谷戸城にも布陣していたという。

 江戸時代の文政八(1825)年に記された村方明細帳にも記録が残ることから、当地は江戸時代から城跡と認識されており、1976年に山梨大学考古学研究会による測量調査が行われた。1982年には一部の発掘調査が実施され、堀跡など一部の遺構が確認され、青磁片や内耳土器、洪武通宝などの遺物が出土している。
 北東や西側は内部に横堀を伴う土塁があり、南側斜面には帯状の郭が数段にわたって広がり、防御施設が集中している。北は方形の平坦地が開け、内部には三角形の主郭部がある。

 現在は、谷戸城跡の北西角に隣接して、谷戸城を含む北杜市内の考古遺跡および出土品を解説展示する「北杜市考古資料館」が設置されている。
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全国城めぐり宣言 第44回 「甲斐国 若神子城」資料編

2023年07月06日 23時02分46秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 若神子城とは

 若神子城(わかみこじょう)は、山梨県北杜市須玉町若神子にあった中世の山城で、現在は城跡が残り、山梨県北杜市指定史跡となっている。現在の山梨県北西部に位置する須玉町の、西川と湯川に画された三本の尾根上に立地し、北城(北ノ丸)・古城(本丸)・南城(南丸)の三つの城郭から構成される。

 江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』によれば、築城主は甲斐源氏の祖にあたる源新羅三郎義光(1045~1127年)であり、義光から三男・武田冠者義清、その嫡男・逸見冠者清光に伝えられたとしている。
 戦国時代には武田家の信濃国侵攻における国境の拠点として重要視され、佐久・諏訪口方面からの狼煙の中継点、陣立ての地として利用されたという。武田家の滅亡後、武田家遺領をめぐる天正十(1582)年六月の天正壬午の乱では、信濃国から相模国の大名・北条氏直が甲斐国へ侵攻し、若神子城に本陣を起き周辺の城砦に布陣した。これに対し三河国の大名・徳川家康は、現在の山梨県韮崎市中田町中條に所在する新府城に本陣を置き、七里岩台上の城砦に布陣し、北条軍と対峙した。その後、同年十月に徳川・北条同盟が成立し、氏直は甲斐国都留郡から撤兵した。その後の若神子城の廃城年は不明である。

 若神子城のうち、北城は小手指坂の南に位置し、規模は東西100メートル、南北400メートルで、西側と南側に土塁が残されている。古城は西側の尾根上に位置し、規模は東西100メートル、南北200メートルだったが、明治時代に破壊されている。南城は台地東側の張り出し部分に築かれ、廃城後は東漸寺の土地になっていたという。南城も1982年に破壊を受け、茶臼や常滑焼の破片など遺物が出土している。同年には公園建設のために古城で発掘調査が実施され、薬研堀や掘立柱建物跡が検出された。その後1984年には北城の発掘調査も行われ、柱坑列が検出されたほか内耳土器やかわらけなどが出土したが、時代を特定できる遺構・遺物は見られなかった。
 北城・古城・南城のいずれも、北側の防御が手薄であることが指摘されている。
 地名の遺称として、古城北東の沢が「たつのくち」、南城東側の沢が「新羅くぼ」と呼ばれている。
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全国城めぐり宣言 第43回 「羽前国 成沢城」資料編

2022年09月25日 20時56分25秒 | 全国城めぐり宣言
羽前国 成沢城とは

 永徳三(1383)年に、最上家の開祖である室町幕府羽州探題・斯波兼頼(1316~79年)の嫡男・山形右京大夫直家(?~1410年)の六男・大極兼義によって築かれたといわれる。 兼義は父・直家の命により成沢の地に封ぜられ、はじめ永徳元(1381年)年、須川のほとりに泉出城(現・山形県山形市成沢西)を築いて居城としたが、すぐに成沢城を築き移ったという。

 成沢城は須川の東岸、山形盆地の南東に位置し、蔵王山系から西へ張り出した尾根の突端部の丘(比高60m )に築かれた城で、置賜・上山方面から山形平野への入口を押える最前線に位置していた。東西350m 、南北600m の規模の城郭である。
 山城には曲輪や土塁が設置され、その間に大手道を効果的に通すことによって、巧みに防御する構造となっている。また、東に広がる平地部には城主や家臣の屋敷があり、それらを取り囲むように成沢川が流れ、さらに外側に堀が廻らされる惣構え形式の大規模な城域となっていた。
 成沢城には主な曲輪が二ヶ所あるが、標高が高い南の曲輪が本丸(主郭 東西90m 、南北35m )となり、本来山頂であったところを削って平らにしたと考えられる。現在、南の麓にある八幡神社は元はこの山頂に鎮座し、成沢城築城に際し麓に移転したと伝えられる。
 標高が低い北の峰は二ノ丸(副郭 東西35m 、南北110m )になり、二ノ丸は主に北方面に対する防御を担っていた。
 北や西の尾根筋には麓から小規模な曲輪が続き、これらと連動して敵の侵攻を防いだと考えられる。
 斜面を削る際に意図的に造られた崖のことを切岸も残っている。
 土塁も一ヶ所残っているが、本来はもっと西に向かって長く続いており、この土塁は本丸か二ノ丸のどちらかが敵の手に落ちても、残りの曲輪に敵が侵入するのを防ぐ目的で作られたと考えられる。

 成沢城の場合、街道が走る西側に城郭の正面である大手口があると考えられるが、東側にも大手口があったという伝承がある。これは、成沢城の東にそびえる信仰の山・瀧山への参道が東にあったため、その重要性から東にも大手口の伝承が残っているとみられる。

 天正六(1578)年、上山城主・上山満兼(?~1580年)は大名・伊達輝宗(1544~85年)に通じて最上義光(1546~1614年)の山形へ侵攻する。この時の成沢城主は最上家重臣・氏家尾張守守棟(1534~95年)の従兄・成沢道忠(1509?~?年)で、最上義光は伊良子宗牛(?~?年)という老将を成沢城へ送り込み、籠城を命じた。 義光は援軍として柏木山へ陣を進め、伊達・上山軍も成沢城に押えを置いて柏木山へ進軍した。両軍の先陣が松原で激突し合戦が始まったが、柏木山に伏せていた最上方の鉄砲隊が伊達氏の旗本衆めがけて撃ちかかると伊達・上山軍は乱れ、最上方の延沢能登守満延(1544~91年)と氏家守棟の軍勢が押し出すと、支えきれずに上山城まで退いた。これを「柏木山合戦」という。慶長十九(1614)年の主君・義光の没後、道忠は新当主となった最上家親(1582~1617年)を廃して家親の異母兄・清水義親(1582~1614年)を立てようとしたが、不成功に終わって陸奥国石田沢(現・宮城県塩釜市)に亡命した。
 また、慶長五(1600)年に直江兼続(1560~1620年)率いる上杉軍が最上領に攻め入った際の城主は坂紀伊守光秀(?~1616年)だったが、この合戦に勝利したのち光秀は長谷堂城主となり、成沢城には従弟の氏家守棟が入った。しかし、元和八(1622)年に最上家が国替えになると成沢城は廃城となった。

 現在、八幡神社の奥の院のある南の峰が本丸、馬頭観音の建つ北の峰が二ノ丸で、その中央から西へ下りる道を大手という。山全体に削平地が広がっており、二ノ丸の東側に下りた場所に横堀が残っている。
 城山の北側から東側へ回り込む道を進むと成沢城址公園の入口があり、駐車場も完備している。最寄り駅は JR蔵王駅。
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