ほんとは前回で最後までいきたかったんですけどね。思ったよりもくっちゃべってしまいまして。
もうね、ちゃちゃっとまいりましょう。
映画『ヘルハウス』が非常に面白いのは、「徹頭徹尾まじめな体裁をとっているようでいて、大事な部分がかなり変則的」というところなんです。それも、演出や脚本が拙いからほころびが見えちゃうというわけでは決してなく、どうやら意図的にゆがませているような、だまし絵的に観る者を混乱させるテクニックとしてわざとその戦法を採っている意思を感じるんですよね。それこそ、この映画の監督がエメリック=ベラスコその人であるかのような「手のひらで転がされてる感」に襲われてしまうのです。行き当たりばったりで作ってるようには見えないんですね。
私が特に感じる『ヘルハウス』のヘンなところは2つありまして、
1、ライオネルも半分オカルト要素(物質霊媒)を容認しているスタンスであること
2、主人公が誰なのかがなかなかハッキリしてこないバトンリレー群像劇であること
これらが非常に気になるというか、妙に印象に残るんですよね。
まず1、の問題についてなのですが、ライオネル博士がベラスコ邸に潜入した目的が「亡霊が本当に存在するのかどうか」であるという、本作の大前提ルールのようなものがはっきりセリフとして打ち出されているので、大部分の観客はライオネルの学術的スタンスが「超常現象全否定マン」のように思い込んでしまうと思います。ところが、いざ調査滞在を開始してみると、同行している霊媒師のフローレンスがベラスコの私設礼拝堂に嫌悪感を抱いて入れない様子を見て「強い心霊波への感受性が高いんだ。」と言ったり、フローレンスの2回目の降霊実験で採取したエクトプラズムを分析して「彼女の魂が物質化した物だ。」と言ったりと、21世紀に生きる現代人から見ると「おめぇもたいがいオカルト信者じゃねぇか!」とツッコんでしまいたくなる姿勢の中途半端さがにじみ出てくるのです。いったいどっちなの!?
ただ、こういった観る者の困惑は、ライオネルに言わせると「亡霊」と「心霊」を混同しているから生まれてしまうもののようです。
つまりライオネルは、
死んだ人間の魂が現実世界に残留することは絶対にありえないが、生きている人間の魂が現実世界に物理的な影響を与えることはあり得る。
という論理で自身の研究を進めており、ある空間で誰も触っていない物がひとりでに飛んだり壊れたり、俗に超能力者という人種が肉体からエクトプラズムを発生させたり、念力で物を触れずに動かしたりする不可思議な現象を、「目に見えない心霊波」の存在を証明することによって、電気や酸素、二酸化炭素のように説明しようとする取り組みだったのでしょう。
ちと話が脱線しますが、かなり昔に、メディア露出を解禁したばかりの小説家・京極夏彦さんが NHKのトップランナーみたいなインタビュー番組(のちに御行の又一を演じることとなる田辺誠一さんが司会をしていたと思います)に出ていた時に、明治時代以前の迷信俗説と、明治以降現代にまで続くオカルティズムとの違いを語っていたくだりがありまして、その時に、「夜中にふわふわと光る物が飛ぶ現象」を指して、「狸か狐のいたずら」と解釈するのが迷信俗説で、「宇宙人の乗っている UFO」と解釈するのがオカルティズム、と例えていたような記憶があります。そして、そのどちらも、本当にその夜に飛んでいたものの正体ではないのかもしれないし、あるいはそうなのかもしれないのです。結局、解釈した人間が納得できるのならば、どっちだっていいのではないかと。
つまり、作中のライオネル博士の立ち位置は、1970年代当時に人々の納得と指示を集めそうになっていた「人間の超能力は存在し、その可能性は無限である。」という思想に乗っかるひとつの仮説に過ぎず、その一世代前の「亡霊・幽霊・怨霊は存在し、現実世界の人間を脅かす力を持っている。」という思想の論客であるフローレンスやフィッシャーとの代替わり戦争こそが、大富豪ドイッチのプロモートしたベラスコ邸の中で行われていた調査研究の本質だったのです。まさにこれ、金持ちの道楽!! それこそ、TVカメラを入れて中継すればよかったのに。
そう考えると、「柔道 VS プロレス」とか「貞子 VS 伽椰子」レベルに俗っぽいマッチメイクのように感じられてしまうし、実際に霊の存在も霊媒も超能力もぜんぶひっくるめて「信じる人だけ信じてればいいオカルト」と同じ引き出しに突っ込んでしまっている人の多い21世紀から見ると、この『ヘルハウス』におけるライオネルの主張は、いかにもオカルト肯定とも否定ともつかないぼんやりとしたものに見えてしまうのではないでしょうか。ライオネル本人は「一緒にすんじゃねぇ!!」と泉下で激怒するでしょうけれども。
まとめて言いますと、ライオネルの立場がヘンに見えるのは、観る者がライオネルを「オカルトを全否定する人間」と勘違いしてしまうからなのであり、彼が本質的には、大槻義彦教授ではなくだいぶ福来友吉教授よりの人物なのであると考えれば、さしておかしくは見えてこないのではないでしょうか。ただそうなると、本作において「まともな人」は誰一人としていないということになってしまうので、それはそれで、この映画のコワ~いところがはっきり見えてきてしまうかも……ベラスコ邸をダシに異常極まりない「蟲毒」をこころみた大富豪ドイッチこそが、この物語の大元凶なのか! やっぱ生きてる人間がいちばん恐ろしい!!
さて、そうなってくると、ライオネルがその学者人生を賭けて開発した超兵器「リバーサー」が、本当にベラスコ邸の怨霊どもに効いていたのかが気になるところなのですが、作品を観ますと、「いちおう効いてはいた?」みたいな、絶妙にあいまいな演出処理がされていたように見えます。
すなはち、リバーサーは確かにベラスコ邸内にいたらしい下っ端の幽霊たちの消滅には成功していたのですが、リバーサーのような電磁波装置が持ち込まれることを生前に見越していたエメリック=ベラスコが準備していた「あるトリック」によって逃げ延びたベラスコ本人の怨霊には届かなかった、という解釈がされていたのでした。だから、瀕死のフローレンスががんばって遺したダイイングメッセージを解明して、ライオネル達がそのトリックを見抜いてさえいれば、ベラスコ本人も漏れなくリバーサーの餌食になっていた可能性は、ちゃんと示唆されているのです。やったぜライオネル!!
ただここで気になるのは、そのベラスコが準備していたトリックというものが実に物理的なものなので、ベラスコの考え方が、ライオネルの「超能力世代」と、フローレンス&フィッシャーの「幽霊世代」のどちらも取り入れた、非常にニッチかつハイブリッド、はっきりいってご都合主義な思想になってしまっていることです。電磁波の一種として幽霊がこの世に実在するんだよ、ということを、ほかならぬベラスコご本人が、おのれの身をもって証明していたわけなのです。
もしかして、生きている時代とタイミングが悪かっただけで、ベラスコとライオネルとフローレンス&フィッシャーは、実は相性がバツグンにいいメンツだったのかも知れない……「ふたりとも、仲ようしちゅうがぜよ!!」とかなんとかいって、ベラスコが間に立って(立てないけど)ライオネルとフローレンスは固い握手を交わすことができていたのかも知れないのです。やっぱ、エメリック=ベラスコは生まれるのが早すぎた異端児だったのだなぁ。オカルトの夜明けは近いぜよ!!……って、半世紀前に言われても、ねぇ。いい時代でしたね。
さぁ、話がだいぶしっちゃかめっちゃかになってきましたので、問題2、のほうにいきましょう。
作中に登場する人物の誰一人としてまともな人がいないことに加えて、もう一つ、この作品の異様な「すわりの悪さ」を増長させている要因として、観客の感情移入するべき主人公が誰かわからなくなる「主軸のバトンリレー」が挙げられるでしょう。これは、巧妙な伏線設定や描写のペース配分が計算され尽くさないと成功しない、挑戦的な演出ですよね。
観客はまず、冒頭から出ずっぱりで顔を出し、ベラスコ邸潜入チームのリーダー的存在となっているライオネルを主人公として見るのですが、いざベラスコ邸に入って寝泊まりを始めて見ると、実際に邸内の「何者か」が積極的にモーションをかけてくるのはフローレンス一択であることが明らかになってきます。この謎に関して、当のフローレンスは「ダニエル=ベラスコの霊が若い女性である自分に助けを求めているから」と解釈するわけなのですが、そういった霊との不思議な交流から、中盤では物語の主人公はフローレンスであるかのようなシフトチェンジが行われていきます。ていうか、ライオネルの視点のシーン設定がいきなり減るんですよね。さすがにむくつけきオッサンで最後までひっぱるのは無理だったか……
ところが、そのフローレンスもまた、ライオネルに代わって調査チームを牽引しようとするリーダーシップはまるでなく、「なんでわかってくれないの、ムキー!!」とヒステリックになるばかりで、主人公になるにはちょっと共感がわきづらい人格設定になっており、邸内の心霊現象と調査チーム内のぎすぎすがエスカレートしていくばかりの展開に、観客は大いに不安を覚えることになるわけです。さすがにそこでアル中しろうとのアンさんが乗り出すわけにもいかないし、どうにかならないのかと煮詰まってきた、そのとき。
そうなんです、最後に出てくるのが、過去のベラスコ邸調査での大失敗が原因でメンタルが完全に引きこもり気味に陥っていたフィッシャーというわけなんですね! そして、そのきっかけがライオネルの「お前なんにもしてないな」発言だったり、フローレンスのなかば自殺行為的な除霊チャレンジの失敗だったりするのですから、一度挫折した人間が、周囲のハッパを浴び、ヒロインの苦境を見かねて再び立ち上がるという、非常にアツい展開となっているのです。全ての敗者たちの遺志を受け継いで、意を決してメガネをはずす男、ひとり!!
この映画を最後まで観れば誰でもわかると思うのですが、フィッシャーを演じるロディ=マクドウォールさんの演技力というか、演技プランの巧みさは、明らかに他の出演俳優さんがたに比べてワンランク以上高い解像度を持っています。最初に曇天の地方駅に降り立った時の、うつむき加減な横顔からして、「行きたくねぇ……」という気持ちが言下ににじみ出まくりで、ベラスコ邸に乗り込んでからもセリフはほぼありませんが、それを補って余りある、おびえた目の演技の繊細さ! さらにその目が、しじゅうかけているメガネのレンズの分厚さのために大きく見えている小道具効果も、非常にニクいですね。そして、「なんとしてもエメリック=ベラスコを滅ぼす!!」という意思を固めた時に、やっと視線が定まってメガネをはずすというアプローチも、とっても魅力的です。
こういった感じで、弱々しい敗者がトラウマに立ち向かうことでおのれを内面から変身させ、驚異の大逆転で巨悪を倒すという展開の爽快感は、それまでの本作の「ヘンさ」をまとめてチャラにする正統派勧善懲悪な活劇を観ているようで、単なる幽霊屋敷ものホラー映画にしておくには実にもったいない感動があると感じました。いわば『エヴァンゲリオン』シリーズのシンジ君や、『鬼滅の刃』の竈門炭治郎の祖先といった感じでしょうか。メガネキャラという点で観れば、「大長編」仕様の野比のび太の原型?
マクドウォールさん、いいですよね! 私が初めてこの方の存在を知ったのは、同じくホラー映画の『フライトナイト』(1985年)での、実に人間味のあるなんちゃって吸血鬼ハンター役でなのですが、TVドラマの『刑事コロンボ』の傑作エピソード『死の方程式』(1972年)での犯人役も、すっごく良かったですよね! ともかく、快活なしゃべりと軽快で品のある身のこなしが印象的な俳優さんです。
その彼が、そういった動性のいっさいを封印して、陰気で寡黙なフィッシャーを演じるのですから、こりゃクライマックスでドカンとはっちゃけないわけがないのです! 彼の高い演技力があってこその、あの私設礼拝堂でのエメリック=ベラスコとの激突シーンですよね。現在の観点から見ると、大した SFXも使っていない撮影のはずなのですが、ともかくマクドウォールさんの表情のみで、その凄絶さを描き切っていると思います。すごいよ!
余談ですが、エンディング前、エメリックとの対決から生還してアンとともにベラスコ邸を去る間際に、フィッシャーがさりげなく、ライオネルの遺したリバーサーを起動させていく描写には、いろいろと考えさせられるものがあります。
これはつまり、日本における武士道の「残心」のように、討滅したはずのベラスコの怨霊に対して、最後まで注意を怠らない集中力を込めた行為でもあり、リバーサーの開発に命を懸けたライオネルへの敬意の表れのようにも見えるのですが、そういったフィッシャーの行動の解釈の他にも、もうひとつの事実を示していることは見逃せません。
すなはち、あの稀代の怨霊ベラスコの呪力をもってしても、リバーサーには触れることすらできなかった……!?
そうなんです。私も今回、DVD を観直してみて「あれ、そういえば?」と思ったのですが、ベラスコがその呪力で爆発させてライオネルを血祭りにあげたのは、あくまでライオネルが片付けようとしていた、フローレンスの降霊術の時に使用した計器類だったのであり、肝心のリバーサーはまったくの無傷だったのです。だからこそ、ラストでふつうに「ウィイーン……」と音を立てて起動していたんですね。
あの極悪非道なベラスコのことですから、ライオネルのプライドをズタボロにするためにも、なにはなくとも虎の子のリバーサーをぶっ壊すのが常道のはずなのですが……つまりそれって、リバーサーはほんとのほんとに、大怨霊でも手出しのできない最強兵器だったってことなんじゃないの。
気になる……その後、無傷のリバーサーがどこへ消えたのかが。でも、おそらくはドイッチ産業が接収してその恐るべき機能を解析し、なにかの軍事兵器にでも転用されたのではなかろうか。あらゆる電磁波攻撃を反射させるなんて、まず心霊現象の除霊には使用されないでしょうね。
え……反射? もしかして、イギリスのドイッチ産業から流れ流れて、日本の三友重工にその理論が供与され、その結果生まれたのが、あのゴジラの放射能火炎さえをも威力を倍増させて跳ね返す陸上自衛隊所属の機動兵器「スーパーX2」だったりしちゃったりなんかしちゃったりして……
イギリスの純正ホラー映画が、結局日本伝統の特撮SF映画につながっちゃったよ! やっぱりこの映画、ヘンなんだな~!!
もうね、ちゃちゃっとまいりましょう。
映画『ヘルハウス』が非常に面白いのは、「徹頭徹尾まじめな体裁をとっているようでいて、大事な部分がかなり変則的」というところなんです。それも、演出や脚本が拙いからほころびが見えちゃうというわけでは決してなく、どうやら意図的にゆがませているような、だまし絵的に観る者を混乱させるテクニックとしてわざとその戦法を採っている意思を感じるんですよね。それこそ、この映画の監督がエメリック=ベラスコその人であるかのような「手のひらで転がされてる感」に襲われてしまうのです。行き当たりばったりで作ってるようには見えないんですね。
私が特に感じる『ヘルハウス』のヘンなところは2つありまして、
1、ライオネルも半分オカルト要素(物質霊媒)を容認しているスタンスであること
2、主人公が誰なのかがなかなかハッキリしてこないバトンリレー群像劇であること
これらが非常に気になるというか、妙に印象に残るんですよね。
まず1、の問題についてなのですが、ライオネル博士がベラスコ邸に潜入した目的が「亡霊が本当に存在するのかどうか」であるという、本作の大前提ルールのようなものがはっきりセリフとして打ち出されているので、大部分の観客はライオネルの学術的スタンスが「超常現象全否定マン」のように思い込んでしまうと思います。ところが、いざ調査滞在を開始してみると、同行している霊媒師のフローレンスがベラスコの私設礼拝堂に嫌悪感を抱いて入れない様子を見て「強い心霊波への感受性が高いんだ。」と言ったり、フローレンスの2回目の降霊実験で採取したエクトプラズムを分析して「彼女の魂が物質化した物だ。」と言ったりと、21世紀に生きる現代人から見ると「おめぇもたいがいオカルト信者じゃねぇか!」とツッコんでしまいたくなる姿勢の中途半端さがにじみ出てくるのです。いったいどっちなの!?
ただ、こういった観る者の困惑は、ライオネルに言わせると「亡霊」と「心霊」を混同しているから生まれてしまうもののようです。
つまりライオネルは、
死んだ人間の魂が現実世界に残留することは絶対にありえないが、生きている人間の魂が現実世界に物理的な影響を与えることはあり得る。
という論理で自身の研究を進めており、ある空間で誰も触っていない物がひとりでに飛んだり壊れたり、俗に超能力者という人種が肉体からエクトプラズムを発生させたり、念力で物を触れずに動かしたりする不可思議な現象を、「目に見えない心霊波」の存在を証明することによって、電気や酸素、二酸化炭素のように説明しようとする取り組みだったのでしょう。
ちと話が脱線しますが、かなり昔に、メディア露出を解禁したばかりの小説家・京極夏彦さんが NHKのトップランナーみたいなインタビュー番組(のちに御行の又一を演じることとなる田辺誠一さんが司会をしていたと思います)に出ていた時に、明治時代以前の迷信俗説と、明治以降現代にまで続くオカルティズムとの違いを語っていたくだりがありまして、その時に、「夜中にふわふわと光る物が飛ぶ現象」を指して、「狸か狐のいたずら」と解釈するのが迷信俗説で、「宇宙人の乗っている UFO」と解釈するのがオカルティズム、と例えていたような記憶があります。そして、そのどちらも、本当にその夜に飛んでいたものの正体ではないのかもしれないし、あるいはそうなのかもしれないのです。結局、解釈した人間が納得できるのならば、どっちだっていいのではないかと。
つまり、作中のライオネル博士の立ち位置は、1970年代当時に人々の納得と指示を集めそうになっていた「人間の超能力は存在し、その可能性は無限である。」という思想に乗っかるひとつの仮説に過ぎず、その一世代前の「亡霊・幽霊・怨霊は存在し、現実世界の人間を脅かす力を持っている。」という思想の論客であるフローレンスやフィッシャーとの代替わり戦争こそが、大富豪ドイッチのプロモートしたベラスコ邸の中で行われていた調査研究の本質だったのです。まさにこれ、金持ちの道楽!! それこそ、TVカメラを入れて中継すればよかったのに。
そう考えると、「柔道 VS プロレス」とか「貞子 VS 伽椰子」レベルに俗っぽいマッチメイクのように感じられてしまうし、実際に霊の存在も霊媒も超能力もぜんぶひっくるめて「信じる人だけ信じてればいいオカルト」と同じ引き出しに突っ込んでしまっている人の多い21世紀から見ると、この『ヘルハウス』におけるライオネルの主張は、いかにもオカルト肯定とも否定ともつかないぼんやりとしたものに見えてしまうのではないでしょうか。ライオネル本人は「一緒にすんじゃねぇ!!」と泉下で激怒するでしょうけれども。
まとめて言いますと、ライオネルの立場がヘンに見えるのは、観る者がライオネルを「オカルトを全否定する人間」と勘違いしてしまうからなのであり、彼が本質的には、大槻義彦教授ではなくだいぶ福来友吉教授よりの人物なのであると考えれば、さしておかしくは見えてこないのではないでしょうか。ただそうなると、本作において「まともな人」は誰一人としていないということになってしまうので、それはそれで、この映画のコワ~いところがはっきり見えてきてしまうかも……ベラスコ邸をダシに異常極まりない「蟲毒」をこころみた大富豪ドイッチこそが、この物語の大元凶なのか! やっぱ生きてる人間がいちばん恐ろしい!!
さて、そうなってくると、ライオネルがその学者人生を賭けて開発した超兵器「リバーサー」が、本当にベラスコ邸の怨霊どもに効いていたのかが気になるところなのですが、作品を観ますと、「いちおう効いてはいた?」みたいな、絶妙にあいまいな演出処理がされていたように見えます。
すなはち、リバーサーは確かにベラスコ邸内にいたらしい下っ端の幽霊たちの消滅には成功していたのですが、リバーサーのような電磁波装置が持ち込まれることを生前に見越していたエメリック=ベラスコが準備していた「あるトリック」によって逃げ延びたベラスコ本人の怨霊には届かなかった、という解釈がされていたのでした。だから、瀕死のフローレンスががんばって遺したダイイングメッセージを解明して、ライオネル達がそのトリックを見抜いてさえいれば、ベラスコ本人も漏れなくリバーサーの餌食になっていた可能性は、ちゃんと示唆されているのです。やったぜライオネル!!
ただここで気になるのは、そのベラスコが準備していたトリックというものが実に物理的なものなので、ベラスコの考え方が、ライオネルの「超能力世代」と、フローレンス&フィッシャーの「幽霊世代」のどちらも取り入れた、非常にニッチかつハイブリッド、はっきりいってご都合主義な思想になってしまっていることです。電磁波の一種として幽霊がこの世に実在するんだよ、ということを、ほかならぬベラスコご本人が、おのれの身をもって証明していたわけなのです。
もしかして、生きている時代とタイミングが悪かっただけで、ベラスコとライオネルとフローレンス&フィッシャーは、実は相性がバツグンにいいメンツだったのかも知れない……「ふたりとも、仲ようしちゅうがぜよ!!」とかなんとかいって、ベラスコが間に立って(立てないけど)ライオネルとフローレンスは固い握手を交わすことができていたのかも知れないのです。やっぱ、エメリック=ベラスコは生まれるのが早すぎた異端児だったのだなぁ。オカルトの夜明けは近いぜよ!!……って、半世紀前に言われても、ねぇ。いい時代でしたね。
さぁ、話がだいぶしっちゃかめっちゃかになってきましたので、問題2、のほうにいきましょう。
作中に登場する人物の誰一人としてまともな人がいないことに加えて、もう一つ、この作品の異様な「すわりの悪さ」を増長させている要因として、観客の感情移入するべき主人公が誰かわからなくなる「主軸のバトンリレー」が挙げられるでしょう。これは、巧妙な伏線設定や描写のペース配分が計算され尽くさないと成功しない、挑戦的な演出ですよね。
観客はまず、冒頭から出ずっぱりで顔を出し、ベラスコ邸潜入チームのリーダー的存在となっているライオネルを主人公として見るのですが、いざベラスコ邸に入って寝泊まりを始めて見ると、実際に邸内の「何者か」が積極的にモーションをかけてくるのはフローレンス一択であることが明らかになってきます。この謎に関して、当のフローレンスは「ダニエル=ベラスコの霊が若い女性である自分に助けを求めているから」と解釈するわけなのですが、そういった霊との不思議な交流から、中盤では物語の主人公はフローレンスであるかのようなシフトチェンジが行われていきます。ていうか、ライオネルの視点のシーン設定がいきなり減るんですよね。さすがにむくつけきオッサンで最後までひっぱるのは無理だったか……
ところが、そのフローレンスもまた、ライオネルに代わって調査チームを牽引しようとするリーダーシップはまるでなく、「なんでわかってくれないの、ムキー!!」とヒステリックになるばかりで、主人公になるにはちょっと共感がわきづらい人格設定になっており、邸内の心霊現象と調査チーム内のぎすぎすがエスカレートしていくばかりの展開に、観客は大いに不安を覚えることになるわけです。さすがにそこでアル中しろうとのアンさんが乗り出すわけにもいかないし、どうにかならないのかと煮詰まってきた、そのとき。
そうなんです、最後に出てくるのが、過去のベラスコ邸調査での大失敗が原因でメンタルが完全に引きこもり気味に陥っていたフィッシャーというわけなんですね! そして、そのきっかけがライオネルの「お前なんにもしてないな」発言だったり、フローレンスのなかば自殺行為的な除霊チャレンジの失敗だったりするのですから、一度挫折した人間が、周囲のハッパを浴び、ヒロインの苦境を見かねて再び立ち上がるという、非常にアツい展開となっているのです。全ての敗者たちの遺志を受け継いで、意を決してメガネをはずす男、ひとり!!
この映画を最後まで観れば誰でもわかると思うのですが、フィッシャーを演じるロディ=マクドウォールさんの演技力というか、演技プランの巧みさは、明らかに他の出演俳優さんがたに比べてワンランク以上高い解像度を持っています。最初に曇天の地方駅に降り立った時の、うつむき加減な横顔からして、「行きたくねぇ……」という気持ちが言下ににじみ出まくりで、ベラスコ邸に乗り込んでからもセリフはほぼありませんが、それを補って余りある、おびえた目の演技の繊細さ! さらにその目が、しじゅうかけているメガネのレンズの分厚さのために大きく見えている小道具効果も、非常にニクいですね。そして、「なんとしてもエメリック=ベラスコを滅ぼす!!」という意思を固めた時に、やっと視線が定まってメガネをはずすというアプローチも、とっても魅力的です。
こういった感じで、弱々しい敗者がトラウマに立ち向かうことでおのれを内面から変身させ、驚異の大逆転で巨悪を倒すという展開の爽快感は、それまでの本作の「ヘンさ」をまとめてチャラにする正統派勧善懲悪な活劇を観ているようで、単なる幽霊屋敷ものホラー映画にしておくには実にもったいない感動があると感じました。いわば『エヴァンゲリオン』シリーズのシンジ君や、『鬼滅の刃』の竈門炭治郎の祖先といった感じでしょうか。メガネキャラという点で観れば、「大長編」仕様の野比のび太の原型?
マクドウォールさん、いいですよね! 私が初めてこの方の存在を知ったのは、同じくホラー映画の『フライトナイト』(1985年)での、実に人間味のあるなんちゃって吸血鬼ハンター役でなのですが、TVドラマの『刑事コロンボ』の傑作エピソード『死の方程式』(1972年)での犯人役も、すっごく良かったですよね! ともかく、快活なしゃべりと軽快で品のある身のこなしが印象的な俳優さんです。
その彼が、そういった動性のいっさいを封印して、陰気で寡黙なフィッシャーを演じるのですから、こりゃクライマックスでドカンとはっちゃけないわけがないのです! 彼の高い演技力があってこその、あの私設礼拝堂でのエメリック=ベラスコとの激突シーンですよね。現在の観点から見ると、大した SFXも使っていない撮影のはずなのですが、ともかくマクドウォールさんの表情のみで、その凄絶さを描き切っていると思います。すごいよ!
余談ですが、エンディング前、エメリックとの対決から生還してアンとともにベラスコ邸を去る間際に、フィッシャーがさりげなく、ライオネルの遺したリバーサーを起動させていく描写には、いろいろと考えさせられるものがあります。
これはつまり、日本における武士道の「残心」のように、討滅したはずのベラスコの怨霊に対して、最後まで注意を怠らない集中力を込めた行為でもあり、リバーサーの開発に命を懸けたライオネルへの敬意の表れのようにも見えるのですが、そういったフィッシャーの行動の解釈の他にも、もうひとつの事実を示していることは見逃せません。
すなはち、あの稀代の怨霊ベラスコの呪力をもってしても、リバーサーには触れることすらできなかった……!?
そうなんです。私も今回、DVD を観直してみて「あれ、そういえば?」と思ったのですが、ベラスコがその呪力で爆発させてライオネルを血祭りにあげたのは、あくまでライオネルが片付けようとしていた、フローレンスの降霊術の時に使用した計器類だったのであり、肝心のリバーサーはまったくの無傷だったのです。だからこそ、ラストでふつうに「ウィイーン……」と音を立てて起動していたんですね。
あの極悪非道なベラスコのことですから、ライオネルのプライドをズタボロにするためにも、なにはなくとも虎の子のリバーサーをぶっ壊すのが常道のはずなのですが……つまりそれって、リバーサーはほんとのほんとに、大怨霊でも手出しのできない最強兵器だったってことなんじゃないの。
気になる……その後、無傷のリバーサーがどこへ消えたのかが。でも、おそらくはドイッチ産業が接収してその恐るべき機能を解析し、なにかの軍事兵器にでも転用されたのではなかろうか。あらゆる電磁波攻撃を反射させるなんて、まず心霊現象の除霊には使用されないでしょうね。
え……反射? もしかして、イギリスのドイッチ産業から流れ流れて、日本の三友重工にその理論が供与され、その結果生まれたのが、あのゴジラの放射能火炎さえをも威力を倍増させて跳ね返す陸上自衛隊所属の機動兵器「スーパーX2」だったりしちゃったりなんかしちゃったりして……
イギリスの純正ホラー映画が、結局日本伝統の特撮SF映画につながっちゃったよ! やっぱりこの映画、ヘンなんだな~!!