長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第12回「備前国 岡山城」 そして、きびだんごだけが残った

2012年03月31日 15時14分48秒 | 全国城めぐり宣言
 ワ~オ! イッツジャスライカ、かぜのおとにぞおどろかれぬる!! どうもこんにちは、そうだいです~。
 あたたくなったのはいいんですけど、今日の千葉は風が強いですねぇ~。空もようも朝からどんより曇天で、予報ではそろそろ雨が降り出すというんですが、まぁ、こんなお天気も春到来のしるしですわ。

 3月ももうおしまいでございます。TBS ラジオのリスナーとしては、小島慶子さんと鎌田麻子さんに「お疲れさまでした。どうもありがとう!」と、まことに簡潔ながらお礼をのべさせていただきたいです。昨日金曜日はいろいろジーンときましたねぇ。

 そうなんですよ、春が来るんですよ。4月が近いんですよ!
 4月が近いのに、まだ3月21日の岡山城探訪の話をしてるんですよ……

 もう、いいかげんにしようや!! この回でおしまい! ここでまとめちゃうぞ~。


 さて前回に私は、現在の岡山城を語る上で欠かせない人物が、「岡山市の原型をつくった」宇喜多直家と「漆黒の天守閣を建造した」宇喜多秀家、この父子の他に「最低もう2人はいる。」と申しました。

 まずそのうちの1人は、宇喜多秀家の次に新生・岡山城のあるじとなったこのお方です。

金吾中納言・小早川秀秋(1582~1602年)

 出ましたねぇ! 戦国時代に興味のある方ならば、誰もが知っている超有名人でございます。
 ただしその実態としては、認識のされ方が「関ヶ原合戦で石田三成を裏切った卑怯者!」「どたんばで徳川家康に鉄砲隊でおどされるまで決断できなかったビビリ」「豊臣家の御曹司なのに豊臣家を見捨てた」「典型的なボンボン」「こんな人にはなりたくない」「肖像画の顔があまりに貧相」といったあたりとなっている、実に哀しいお方なのではないでしょうか。

 小早川秀秋は、その姓から見てもおわかりのように戦国時代の中国地方の覇者となった毛利元就の三男・小早川隆景の後継者でした。
 ただし、これは養子縁組によるものであって、秀秋の本当の出自は豊臣秀吉の正室・高台院おねのお兄ちゃんである武将・木下家定の五男です。
 要するに秀秋は、血こそ直接にはつながってはいないものの豊臣秀吉のれっきとした親族であり、豊臣一族との接近をはかった小早川隆景が実子のいないことを理由に秀秋をうまく取り込んだという経緯があったわけなんですね。かつて織田信長の存命中に熾烈な闘争を繰り広げた秀吉と毛利家の重臣・隆景なのですから、それくらいのことをしないと命の保障を確保することは難しかったということなんでしょうか。

 秀秋には5人の血を分けた兄弟がいたのですが、こういった形で有名大名の家に入った人物は他にはおらず、全員父親の「木下」姓を名乗っていました。つまり、秀秋のように一人前のメジャー大名になった者はいなかったということになります。それだけ秀吉が秀秋に期待するものは大きかったのでしょう。

 さぁ、ここに「豊臣家のプリンス」が2人ならびたったことになります!
 同じ中国地方で戦国時代には骨肉の争いを展開していた、「宇喜多家」のプリンス・秀家と、「毛利両川の小早川家」のプリンス・秀秋。

 仲がいいわけ、ない!!

 結局、「豊臣家の後継者あらそい」という部分は1593年の秀吉の実子・秀頼の誕生によって一区切りがつくのですが、天下統一のさまざまな戦いや朝鮮出兵などで、2人は自身の有能ぶりをアピールするために激烈なレースを継続していたようです。なっかっよっくっ、けんかしなっ♪

 そんな2人の運命の明暗がハッキリ分かれてしまったのが、何を隠そう秀吉の死後わずか2年にして勃発してしまった、天下分け目の関ヶ原合戦! 慶長五(1600)年9月15日の早朝から夕方までのノンストップバトル。

 この日本史最大級の大戦闘の結果、豊臣秀頼を擁する石田三成陣営中最大の軍勢として兵1万7千をひきいて奮戦した「豊臣五大老」宇喜多秀家は、突如として発生した小早川秀秋軍1万5千の「徳川軍としての参戦」によってあえなく敗戦。
 とらえられた秀家は、父・直家から継承した岡山城をはじめとする備前・美作国57万4千石の財産をすべて没収されて29歳の若さで伊豆諸島の八丈島に流刑という処分になり、徳川家勝利の最大のキーマンとなった秀秋のほうは、皮肉にもその秀家の領地のほとんどを丸取りして新しい岡山城主となるのでした。秀秋はそれまでは筑前国名島30万石の領主だったので、そこから備前・美作55万石への移封なのですから、破格の栄転という待遇になりますね。

 しかし! この関ヶ原合戦での大決断は秀秋の精神と肉体に甚大なストレスを課してしまったらしく、あわれ秀秋は岡山城主となってたった2年後の慶長七(1602)年10月に病死してしまいます。享年21歳! これは若いでしょ~。

 こんな感じで、どうしてもひよわで精神薄弱な印象の強い小早川秀秋なのですが、最近の研究では「関ヶ原合戦での行動は裏切りではなく、もともと石田三成との関係は険悪なものになっていた」「秀秋の決断は徳川家に自分を売り込むための積極的なアピールだった」などといった新解釈もなされるようになってきているようで、決して秀秋が大名としての資質に欠ける暗愚な人物というわけではなかったのでは……? という空気も最近は生まれつつあるようです。
 そういえば、何年か前に「関ヶ原合戦にタイムスリップした自衛隊が日本の歴史を改変しようとする」という荒唐無稽な内容の TVスペシャル版『戦国自衛隊』が放送されていたのですが、内容のできは箸にも棒にも引っかからないものであったものの、そこに登場した小早川秀秋が野望に満ちた行動的な武将に設定されていて、あの藤原竜也さんが秀秋役をギラギラした目つきで熱演していたのが非常に印象的でした。こういう解釈はおもしろいですねぇ。

 実際に、わずか2年間とはいうものの、岡山城主となった小早川秀秋が取り組んだ新天地での政策は実にてきぱきとしたものがあり、少なくとも領主としての秀秋は実にアクティブな人物だったらしいことがわかります。

 そうなんです、たった2年間でも、秀秋が現在の岡山市、そして岡山城におよぼした影響は非常に大きなものがあったんですね!

 小早川秀秋の業績とは、「天守閣以外の岡山城をほぼ完成させたこと」、これでございます。
 現在の岡山城本丸公園に見られる石垣に、戦国ふうのクラシックな「野面積(のづらづみ)」と江戸ふうのアートチックな「打込萩(うちこみはぎ)」とが両方あるということは前にも言ったのですが、要するに秀家の建造した天守閣部分に使われていたのが野面積で、それ以外の部分に使われて私がいちいち「ほほぉ~! ほっほほぉお~!!」と感動していた打込萩部分をつくった人物こそが、他ならぬ秀秋だったというわけなのです。
 備前・美作国の領主となり岡山城を手に入れた秀秋は、さっそく武士も民衆も総動員させた大土木工事を断行し、本丸から見て最も離れた外堀となる「二十日堀」を掘削し、堀を5重に囲んだ堅固な守りをそなえて1km 四方もの広さを持つ岡山城の城域を完成させました。
 そして、その堀の掘削でできた大量の土砂を岡山城天守閣の周辺に盛り、「秀家時代の本丸部分を完全に埋め立てる」かたちで、現在の公園に残っている地形を持った新しい「岡山城本丸」を作り出したのです。つまり、やたら私が感心していた本丸の「中段・表書院」などといった部分を建てたのは、秀家くんじゃなくてそのあとの秀秋だったと。

 すごい執念ですね~! さすがに天守閣には何も手は入れなかったのですが、秀秋はそれ以外の秀家の岡山城に思いっきりダメだしをしてしまったわけなんですね。そこになんらかの秀秋の個人的感情があったとしても、まぁ無理のない話ではありますよね。

 ただ、たとえば豊臣秀吉の大坂城をまるごと埋め立てて再建された徳川幕府の大坂城のように、「かつての城を埋め立てて自分ごのみの新しい城を作り直す」という事業はけっこうよくある話なのですが、この岡山城の場合はもうちょっと別に、埋め立てて新しい本丸を作らなければならない事情があったのではないでしょうか。

 それは、「秀家の本丸がせまかったから」なのではないかと。
 実は、岡山城天守閣が低層階の広くつくられた「下半身どっしり」のお城であることは前にも言ったのですが、この第1階には実に珍しいことに、殿様が定住していた『城主の間』があったのです。そのために広めに造られていたんですね。あと、岡山城天守閣は1階の断面が「いびつな五角形」になっていることでも有名なのですが、これもめいっぱいに広げて丘の頂上を使いきるための苦心の結果だったのではないかと。
 この、「天守閣に殿様が住んでいる。」という形式は、日本の城郭のパターンの中ではけっこう珍しいことなんです。たいていの場合は、殿様は天守閣に隣接して建てられているでっかい平屋のお屋敷「本丸御殿」で生活しているんですね。

 よく、TV の時代劇で殿様のシーンに入る直前に、お城の天守閣の外観カットがうつって「ドン! ドン!」とかいうもっともらしい太鼓が鳴っていたりしている映像パターンがあるので、てっきり殿様はいつも天守閣にいるのかなんて気になってしまうのですが、むりやり高層につくった天守閣はあくまで戦争用や遠望用の「やぐら」の最終発展系であるわけでして、居住には適していなくてふだんは倉庫に使われたりしていることが多かったのです。
 『志村けんのバカ殿様』なんか、まるで殿様の豪華な和室が天守閣の最上階にあるかのような演出がなされているんですけれども、そんな手間のかかる素っ頓狂なコーディネイトをやらかすのは実際には織田信長の安土城くらいしかなかったらしいのです。さすが信長。

 とにかく、岡山城の天守閣内に秀家の居住スペースが取り込まれていたということは、これはすなはち、秀家時代の本丸に別棟の「御殿」を建てる余裕がなかったということであり、ここに着目して、本丸の平地部分を拡張して「中段・表書院」を増設した秀秋の判断は実に的確! これからくる「平和の時代」の到来を明らかに見すえていたものがあったのです。秀秋、グッジョブ! 2年後に死んじゃうけど。

 ちなみに、この大改修のときに秀秋は、近所の「沼城(別名・亀山城)」にあった4階建ての天守閣を、増設した中段区域の南端にまるごと移設してきており、これを「大納戸櫓(おおなんどやぐら)」という扱いにしていました。
 この大納戸櫓は明治時代に入って解体されてしまうのですが、よそのお城の天守閣をもってきて「やぐら扱い」にしてしまうとは……秀秋の力の入れ具合が伝わってくるエピソードですね。


 さてさて! 岡山を作った宇喜多直家、天守閣をつくった宇喜多秀家ときて、ここについに岡山城の全体をつくった小早川秀秋が出揃いました。
 ここまできたら、あとは他にどんな重要な貢献を果たした殿様がいるんだという話になるのですが、いるんだなぁ~! 他にもう1人、大事な仕事をしてくれたお方が。

 その名は、池田綱政(つなまさ 1638~1714年)!!

 宇喜多直家を初代とした場合、そこから数えて第7代の岡山城主となる江戸時代前期のお方なんですが、この人がなにをやったのかと言いますと~?

 「日本三大庭園」のひとつ、国公認の特別名勝「岡山後楽園」をつくった!!

 ここ! ここが重要なんですよ……
 あの~、私、だいたい午前11時くらいに岡山城の探訪が終わったのですが、そのあとに「ついでだから後楽園にも行ってみっかぁ~。」くらいの軽い気持ちで入園してみたのですが。

 まぁ~すばらしい大庭園です! おかげで午後2時から始まるお芝居に間に合うかどうかギリギリのタイムスケジュールになっちゃったよ。

 岡山後楽園は、岡山城本丸の北と東をまもる旭川の対岸につくられた広大な大名庭園で、その面積は実に13万3千平方メートル!! ピンとこないたとえで申し訳ないのですが、「東京ドーム3コ分」!

 私をはじめ、東日本の人たちが「後楽園」と聞いてまずパッと思いつくのは、どうしても東京の文京区にある「小石川後楽園」なのですが、この東の後楽園は水戸徳川家がつくったもので、岡山の後楽園とは直接の関連はありません。
 名前が同じになったのは、命名の元ネタにした11世紀の中国(宋帝国)の古典『岳陽楼記』の有名な格言「先憂後楽(民衆の憂いの先に憂い、民衆の楽しみの後に楽しむ」がたまたまカブッてしまったからなのだそうです。君主やリーダーはかくあるべしという素晴らしいお言葉ですね。
 東の小石川後楽園ができたのは1629年で、西の岡山後楽園ができたのは1700年ということなんですが……岡山がパクッたんじゃねぇよ!?

 だいいち、小石川後楽園の広さは7万平方メートルですから、それも充分すごいですけど、岡山後楽園はその倍あるんです。

 いんや~……岡山後楽園はすばらしかった。
 また、あの日は天気がよくてねぇ。後楽園の一角には「梅」と「桜」と「もみじ」の木が100本ずつ植えられたスペースがあるのですが、まぁ~私が行ったときには明るいピンクの梅の花が満開で! すごかったですよぉ。私はやっぱり、桜より梅のほうが好きなんだなぁ。色がはっきりしてるから。桜はまだ咲いてませんでしたねぇ。今じぶんはもう満開なのかしら。

 この大庭園は中央に大きな「沢の池」をおき、その周辺にさまざまな植物や休憩所・屋敷を配した一大パノラマを形成しています。

 ぽかぽかとした陽光のもとに大勢の観光客がワイワイガヤガヤ楽しく行き交っている風景を見るとただ単にほのぼのしてしまうのですか、庭園の随所に、これを創建した殿様のぶっ飛んだセンスを感じさせるものがちらほら見えていたのには驚きました。

 いろいろあったんですけど、私が特にビックラこいたのは、沢の池の近くにあった休憩所のひとつ「流店(りゅうてん)」でした。
 ここさぁ、普通の板張りの広間のど真ん中を川が流れてんのよ! しかも実にいい形の奇石がポンっポンって置かれてたりして。

 あと、庭園の西側には沢の池とは別に「花葉(かよう)の池」という静かな杉林に囲まれた池があるのですが、そのほとりにはなんと、高さ7.5m もある巨大な花崗岩「大立石(おおだていし)」がズシンと置かれているのですが。
 この岩石はよその土地からこの後楽園にうつされる際に「90コの破片にていねいに分割して輸送され、花葉の池に搬入されてから再び組み立てられた」というものすごい処置を受けていたのです。もうなんか、現代の前衛アートみたいにきれいに割ったあとがついてるんですよ、縦横にこまかく! 映画『CUBE 』のバラバラにされた人みたい。

 ここまでして自分の理想的な世界を築き上げたかった、この庭園の創造主・池田綱政とはいったい……

 このお方は、一般には元禄時代の全国大名の「能力」を記録したといわれる謎の文書『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』の中で、「生まれつきの馬鹿」「分別がない」「特に色を好むことには限度はなく、手当たり次第に女に手を出して70人以上の子供を作った」「書物を読んでいる姿を見たことがない」などとボロカスにたたかれていることで有名な人物で、ネガティブな評価という点では小早川秀秋とかなりいい勝負をしている殿様です。

 ところが、綱政が単なる「バカ殿さま」でなかったことは、この日本有数の大庭園・岡山後楽園が現代に至るまで雄弁に物語るものであり、ただひたすら難しい文書を読むことだけが「教養」ではないということをビンビン肌で感じさせてくれるのがこの空間なのです。
 こんなところに江戸川乱歩の「パノラマ島」がほんとに存在していたとは! 大感動でした。

 ちなみに、綱政はこういった大庭園を現出せしめた元禄期を代表する「へうげもの」だったわけなのですが、ちゃんとそれに取り組む前に、かつて宇喜多秀家が強引に旭川の流路を改変したために頻発していた岡山城下の大水害を解決するべく、旭川の増水を軽減するための長さ13km にもおよぶ人口の放水路「百間川(ひゃっけんがわ)」の掘削工事を完成させています。ちゃんとやることやってるんだねぇ。

 とにかく、こんな流れで岡山城と同じくらいに重要な歴史的・文化的価値を持つ岡山後楽園にもメロメロになってしまった私だったのですが、ここらへんで昼近い陽気の下、ついにマシュマロとばかうけだけしか胃に入れていなかったエネルギー限界がさし迫ってきてしまい、あわや観光客でいっぱいの後楽園の中で野垂れ死にかという危険性も頭をよぎったのですが、ちょうどいいところに茶店があったので軽食をとることとなりました。

 そしたらさぁ……甘酒ときびだんごのセットたのんじゃったんだよなぁ。大好きだったから。

 マシュマロの次に甘酒って。ぜんぜん栄養の補給になってないんじゃない!? おいしかったけど。

 そんな感じだったので、出口ちかくの「鶴舎」にいたタンチョウヅルに「ぴげー、ぴげー」と鳴かれながら後楽園を出た私は、次に入った近所の「竹久夢二郷土美術館」で、「夢二の世界と現実世界と空腹感と寝不足」とがミックスされた幽冥のあわいに立つ非常にヤバイ状態になってしまい、ある意味では最高のコンディションで夢二ワールドと向き合うことができました。
 あんまり関係ないですけど、夢二美術館のお客さんは9割わかいおなごだった! ちっきしょ~このモテモテ野郎ぉ~。

 結局、そのへんで時間がいいころになったので、観光をきりあげて「ほんとにご飯が食べられる場所」を探したのですが観光地をいったん出ると意外とそういったお店が少なくて、よろよろとさまよった挙句に、街の道ばたによくある「ブリキみたいな金属製の板に書かれてあるお店紹介地図」みたいなものを見て、ちょっと大きな道をはずれた場所にあった「平井食堂」というお店を選びました。

 そのときは私、多分じいちゃんばあちゃんが長年経営していて「煮つけ定食」なんかがでてくるひなびた食堂かと思っていたんですけど、この平井食堂さんっていうのが実におしゃれな、その日の3つだけのメニューをチョークで入り口のミニ黒板に書いてあるっていう場所でねぇ、ご主人も私と同い年くらいの雰囲気のいいお兄さんで。

 いや~、あそこで食べた「から揚げの梅ソースかけ定食」。うまかったうまかった~!!
 ご飯おかわりしましたよぉ~、ラストにオレンジジュース追加しちゃいましたよぉ。
 うむむ、約1日ぶりに食べるまともなご飯がこんなにおいしいものだったとは。ご主人がキッチンにいなかったら私、号泣してました。

 岡山市北区、岡山城近くの平井食堂! 平井食堂! ごちそうさまでした。また必ず行きますよ~。


 とまぁ、そんなこんなで、今度は一気に食べすぎて「うぷっ、もうなんにも食べられない……」と口に手をやりながら、わたくしはお芝居を観るべく、会場のルネスホールに向かったのでありました~。


 ふ~……まぁ、こんな感じで。
 とにかく、天気がよくてあったたかったのが何よりでしたね、ほんとに!

 初めて行った岡山市と岡山城の印象は非常にすてきなものになりました。また行きたい~。

 ただ、たったひとことだけ苦言を呈させていただきたいんですが……

 岡山市、お土産が「きびだんご」ばっか!! いろんな会社のいろんな味のきびだんごがズラリとならんでて、他に選択肢がねぇんだよ!
 いや、マシュマロと甘酒が好きなわたくしなんですから不満はなんにもないんですけど、もうちょっと、新しい風を取り入れたほうがいいんじゃなかろうかと。これではきびだんごのおいしさはわかっても、星の数ほどのメジャーお菓子たちが群雄割拠する世界の広さはわからんぜよ。
 求む、「お菓子界の宇喜多直家」!! こえぇな~。


 今度はぜひとも、瀬戸内海のほうに目を向けてみたいですね!
 先月にたまたま私が本で読んだ「アート島」こと直島って、けっこう近かったんでしょ? いくいく!!


 しっかし、今回もずいぶんと引っぱっちゃったね……まぁ、私の中にある「お城♥愛」はこれほどまでにおさえようのないものなのだ。
 次はどこだ~、いい城はいねがぁ~!! イィイ~ッヒッヒッヒ。
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全国城めぐり宣言 第11回「備前国 岡山城」 こわすぎる殿様とイケメンすぎる殿様のおはなし

2012年03月28日 22時23分59秒 | 全国城めぐり宣言
 たいへんだ!! 春が近いぞぉ~! どうもこんばんは、今日も一日お疲れさまでした。そうだいでございます~。
 いよいよあたたかくなってきましたねぇ。通り雨もたいしたことはなく、明日以降も晴天が続くみたいですから、ここで一気に春到来となるのでしょうか? もう気がつけば3月も終わりですよ。いろいろ楽しい月になってよかったなぁ。

 今日、知り合いと話をしていた中で、最近ニンテンドーDS で『ポケモン+ノブナガの野望』という驚異のコラボゲームが発売されて売り上げ17万本の大ヒットとなっていることをいまさら知ってしまいました。たぶんこれ、TV でCM バンバンやってるんですよね……本当にいまさら!

 なるほどね~。確かに聞けば聞くほど、今までなかったことが不思議に思えてしまうくらいに相性のいいコラボです。
 考えてみると、『無双』だの『BASARA 』だのでさんざんものすごいことになっていた歴史上の人物の皆様なのですから、今になって「ポケモンを使役できるようになった。」と言われても、まぁそのくらいのことにはなるか、って感じですよね。
 内容も実在の人物がほんとに登場するのではなくて、あくまでも「ランセ地方」という架空の世界で群雄割拠している「ブショー」たちといったフィクション設定になっているのだそうです。

 そんなゲームの話を聞いて、私は一も二もなく「足利義昭は出てくるの? 松ちゃん(松永久秀)は? ミーちゃん(三好長慶)は? この人たちが出るんだったら俺もDS 本体ごと買うよ!!」と、鼻息を荒くして反応したのですが、実際に現在ゲームをプレイしている知り合いは冷静に「いや、出てこないんじゃないですか……島津義弘とか上杉謙信とかほんとにメジャーな人でしかプレイできないし、大友宗麟レベルでモブキャラ扱いになってる状態ですからね。」と答えてくれました。
 なんということか……まだまだ夜明けは遠いですね。でも、ほんとに織田信長家臣団はこういったゲームでは優遇されるよねぇ~!! まぁ『信長の野望』なんですから当然ですけど。
 ゲームに夢中になるかどうかは別としても、こういった作品にエントリーされる武将たちのラインナップを見て、現在人気を集めている方々の傾向みたいなものを読むのは楽しいですね。去年の大河ドラマの内容がいろいろ物議をかもしましたが、なんだかんだいっても今は「女性の時代」なんだなぁ、ということを『ポケモン+ノブナガの野望』も感じさせてくれますね。戸次千代(べつき ぎんちよ)が前面に押し出されているゲームを子供たちが喜々としてプレイしている時代!! すばらしいですね~!


 さぁさぁ、今月ももうすぐおしまいなんで、3月最大のトピックとなった私の「岡山城探訪ツアー」もちゃっちゃと進めていきましょう! 桜もいいかげんに咲いちゃいますよぉ~。

 現在そびえ立っている岡山城天守閣は、1966年に再建されたコンクリート造りの「2代目」なのですが、全国の再建天守のご他聞にもれず建物内部は博物館になっています。六階建ての博物館!
 私が行った期間は春季特別展として「城の攻めと守り・武具が物語る武家社会の本質」といった展示が開催されていたため、入館料はいつもより多少高い800円になっていました。この特集は5月6日までやっているようですね。
 でも、この展示は良かったですね! タイトルの通り、「城郭を攻めるさいに必要になる武器」が中心になっていたため、対人というよりは対建造物といった仕様の巨大火縄銃「大筒(おおづつ)」や、城側からの火縄銃射撃に耐えながら進撃するための「鉄盾」(機動隊のジュラルミンの盾のような鉄板を2枚つなげて“く”の形にしたもの)、射撃して落下した地点で激しく炎上する作りになっている和製グレネードランチャー「焙烙火矢(ほうろくびや)」などといった、よくある普通の甲冑や日本刀がメインの展示では見られないようなものが間近で観察できたことは非常にいい収穫でした。

 この特別展示を別にしても、最上階の第6階から360°みわたす備前国の眺望は実に最高でしたねぇ~。丘の上の石垣のさらに上に20m の天守閣がたっているわけなので、山以外はほんとに周囲にさえぎるものがありません。高層ビルなんていう野暮なものはないんですね。すばらしい!
 あと、私が入館したのは開館直後の午前9時半だったのですが、まだほとんど他のお客さんがいなかった状態で最上階にのぼった時に、モスグリーンの作業服を着てモップを持ったおばさんが「はい、おはようさ~ん。」とフランクに声をかけてきてくださったことも地味に味わい深かったです。これは関東にはないサービスだ。

 天守閣博物館は当然ながら「岡山城の歴史」を詳細にひもといた常設展示も充実しており、俳優さんによる再現シーンと力のこもったナレーションで送られる物語じたての映像資料「岡山城物語」も鑑賞することができました。

 そういったつらつらを眺めていると、岡山城という建物というか土地が、実に波乱万丈な歴史をあゆんでいたことがよくわかります。戦国、桃山、江戸と、時代によってその性質と表情がまるで違っているんですね。これをロマンと言わずして一体なんと言うのでしょうか。


 まず、岡山城の原型となる城砦(じょうさい)が最初に日本の歴史の中に登場したのは、現在わかっているかぎりでは、南北朝時代の正平年間(1346~69年)に南朝方の武将・上神高直(うわがみ たかなお)の居城「石山城」としてでした。高直さんは中国地方を拠点としていた南朝の重臣・名和長年(なわ ながとし)の一族だったそうなのですが、敵の北朝方、つまりは足利幕府軍に攻められて石山城をまくらに討死されました。初登場から落城ですか……ほろ苦いデビュー!

 この上神時代の石山城は、その名の通りに岡山城本丸の土台となった丘「岡山」から300m ほど西にズレた場所にあった丘「石山」に建造されていたお城でした。石山だった地区は現在は岡山県庁や県立美術館がたっており、それ以前に開発されて岡山城二ノ丸ができていたため、丘だった痕跡はそうとう薄いものになっています。そう言われれば気持ち高くなっているか、みたいな?

 この岡山市北部の地域には、旭川の西岸に西から見て「岡山」「石山」「天神山」と3つの丘が並んでおり、それらをぜんぶまとめてひとつの城郭にしたのが「のちの岡山城」ということになるんですね。ちなみに、西端の天神山は岡山城の西ノ丸にあたる区域だったのですが、同じ岡山県でも、岡山市から見て北東にある和気郡の有名な「天神山城」とは別の土地ですので気をつけましょう。『信長の野望』とかで出てくる天神山城は和気のほうですね。

 上神高直の死後の石山城の動向はしばらく不明となってしまうのですが、もともと平安時代の昔から大河「旭川」を運行する船の停泊港(海じゃないけど)として栄えていた土地だったため、おそらくは室町時代に山陽地方を支配していた名族「赤松家」(幕府の四職のひとつ 名前聞いただけでテンションあがるなぁ!)の管轄にあったようです。重要なポイントだったんですねぇ。

 室町時代がすぎて戦国乱世の世に入ると、この土地は足利幕府の束縛をうけない在地の有力国人・松田家の手に入っており、石山城の主は松田家の重臣・金光宗高(かなみつ むねたか)となっていました。上神時代からの城域なのかは不明なのですが、この時期には石山城はすでに3つの丘を利用したものになっていたようです。

 そしてこの石山城に、岡山城の歴史を語る上で欠かすことのできない、「戦国時代」を絵にかいたような恐るべき人物が襲来することとなります。

 その名は、宇喜多直家(うきた なおいえ 1529~82年)!!

 このお方は、「戦国三大梟雄(きょうゆう)」と「戦国中国三大謀将(ぼうしょう)」のどちらにもエントリーされているという恐怖の戦国大名です……梟雄とか謀将とか、意味はよくわからなくても字ヅラからしておっそろしいですねぇ。ちなみに、「三大梟雄」の他は松永久秀と斎藤道三、「三大謀将」の他は尼子経久と毛利元就です。メンツが血なまぐさい。

 詳しい業績は長くなるので割愛しますが、直家さんは幼少期に「祖父の討死のために居城を失い、父とともに流浪している」という過酷なトラウマをかかえており、そのせいというのはあまりにも安直なのですが、暗殺と謀略と戦争を大得意とする「戦国の申し子」としか言いようのない人物に成長してしまいました。これは『ポケモン』ではメインはれねぇわ! 顔は出してるみたいですけど。

 彼が部下として仕えたのは、そのころ山陽地方を代表する戦国大名として備前国を中心に覇を唱えていた浦上宗景(うらがみ むねかげ)。この人も実に戦国らしいキャラクターで、「室町時代以来のご主人様だった赤松家を下克上で蹴散らした兄貴の浦上政宗をそのまた下克上で蹴散らして大名になる」という経歴を持っています。
 そして、そんな主人の宗景をそのまたまた下克上で蹴散らしたのが直家さんだったと。もう何回下克上するんでしょうか。

 時は元亀元(1570)年。その当時はまだ宗景の家来という立場だったのですが、祖父のかたき(島村盛実)やら、自分の嫁さんの父親(中山信正)やら妹のダンナ(穝所元常)らをバッタバタ血祭りにあげて勢力を拡大してきた直家は、ついにこれまた謀略で金光宗高を切腹させて石山城を手中に収めることとなりました。ついでにいうと、あわれな宗高さんの主人だった国人の松田元輝は、すでにその2年前に直家によって滅ぼされています。その松田さんだって、自分の息子と直家さんの娘とが結婚している「義理の兄弟」の関係にあったんですからね……
 いくら戦国の世とはいえ、なんなんでしょうか、この透徹した悪の美学。めでたいはずの身内の婚姻を「敵を油断させるための作戦」としかとらえていないふしがあります。こんなもん、宇喜多家と親戚関係になった時点で死亡フラグ点灯ですよ。

 直家さん、こわすぎ!! 『キル・ビル』のルーシー=リューかあんたは。
 直家さんには、実の弟の宇喜多忠家(ただいえ)という非常に優秀な腹心がいたのですが、その弟でさえ、「兄と会う時にはつねに『もしものこと』を考えて鎖かたびらを着用していた。」という逸話が残っています。なに、その兄弟!?
 大河ドラマの主人公には絶対になれないだろうけど、宇喜多直家が主人公のドラマは、いい役者さんがやったらとてつもない名作になりますよ~。
 日本の俳優さんではなかなか思いつかないですけど、ハリウッドだったらエドワード=ノートンかケヴィン=スペイシーにやってもらいたいですね、宇喜多直家。そうなったら、彼を恐れながらもついていく忠家の役はジェイク=ギレンホールあたりかな。ミスター不安顔。

 ところで、これはただ単に印象だけなんですけれども、直家さんのえじきになった方々の中には、信心深くて領民から「いいひと。」と慕われていた領主が多いような気がします。つまり、もともと人のいい土地柄だったからこそ直家さんの独擅場になったんじゃないでしょうか。これが当時の京だったら、直家さんも果たしてここまでうまくいったかどうか……まず、そのころの京には松ちゃんがいるし。戦国、こわ~い!!

 こういったキャリアなので、人間性のかけらもないトカゲかホオジロザメのような印象のある直家さんだったのですが、彼もまた領主としての眼には確かなものがあったらしく、石山城を占拠した3年後の天正元(1573年)に自身の本拠地をそこにうつし、城下に商人を大々的にまねいて備前国の商業的な利益を集中させる城下町を形成。その勢いに乗って主人の浦上宗景を駆逐し、備前国はおろか、周辺の備中・美作(みまさか)国をも統括する戦国大名になりました。言うまでもなく、「備前・備中・美作」は現在の岡山県を構成している領域です。

 つまり、宇喜多直家は最初に「岡山市」と「岡山県」の原型をつくったパイオニアだったのです。重要ですね~。

 ただし、この時点でも直家の住んでいた城は石山を中核にした旧来どおりのきわめてローカルなものでした。現在の岡山城本丸公園の地下にも直家時代の城跡はあるわけですが、発掘調査によると石垣のようなものはまだなく、戦国時代中期までのメインとなっていた「土塁」を活用したものだったそうです。それは確かにその通りで、まずは「良質な石材を確保して安全に搬送できる輸送ルートと財力」がなければ石垣のお城なんてつくれませんから。いかな戦国大名といへども、直家さんにその余裕はまだなかったと。

 余裕がないといえば、実は直家さんには自身のライフの余裕もなく、あの「本能寺の変」も半年後にさしせまった天正九(1581)年の年末に53歳という年齢で病没してしまいます(その死は翌年の正月明けまで公表されなかった)。
 まぁ、「人生五十年」といわれていた時代のことですからそれほど若死にだったとも言えないのですが、彼の最大の心残りとなったものは、やはりなんといっても一人息子の秀家くん(10歳)だったのではないかと。

 直家さんは女の子にはめぐまれたのですが男子は秀家くんしかおらず(直家の子でない義理の息子はいた)、宇喜多家も「東の織田信長」と「西の毛利元就」にはさまれて絶体絶命のところに立たされていたのです。直家さんの存命中に宇喜多家は「織田家に従属する」という選択肢をとったのですが、そのために激化してしまった毛利家との戦闘により、秀家くんをバックアップするはずだった従兄弟の宇喜多基家(直家の甥)も、直家さんの死の1ヵ月後に討死するというギリギリの状況になっていました。

 さぁ、そこにさっそうと現れたのが!! 他ならぬ「未来の天下人」こと織田家中国方面軍司令官の羽柴秀吉だったというわけ。

 残された命をふりしぼって宇喜多家の命運をあなたに預けますと直家に懇請された秀吉は、幼い秀家くんの将来はそれがしにまかせなさいと快諾し、以来、秀家くんは常に秀吉軍団の天下統一の中核に位置するルーキーとしてすくすく成長していくこととなります。
 しかし、あれほどまでに他人を信頼することを否定し続けていた直家さんが、自身の人生の終焉を迎えるにあたって、出会ったばかりの秀吉に無条件でなりふり構わずにわが子の将来を頼みこむとは……晩年の直家さんの脳裏に去来した感情は、一体どういった味わいのものだったのでしょうか。

 さて、個人的にそうとう秀吉に気に入られたと見える秀家くんは、なんと秀吉の無二の盟友である名将・前田利家の四女で秀吉の養女だった豪姫(ごうひめ 去年の大河ドラマの主人公だった「ごうひめ」とは別人)を正妻にめとり、「豊臣秀吉と前田利家の義理の息子」というとてつもない待遇を受けることとなります。なんたるラッキーボーイ!!
 ただ、ここまでの秀吉の優遇にはある裏の事情があったとも言われており、秀家くんの実の母親、つまりは直家さんの後妻だった「備前の方」こと「円融院」という未亡人(本名は不詳)の魅力に秀吉がメロメロになったからなんだとも言われておりまして……そこは「おとことおんな」の話ですから、余人には推察しかできない世界ですよねぇ。
 さきほどに言った天守閣博物館内の映像「岡山城物語」の語り手はこの円融院さんだったのですが、直接そうは言わないものの、そういった雰囲気を濃厚にただよわせた「秀吉評」を口にしていたのが実に印象的でした。「あぁ~……あそこ、そういうことになってんだ。」みたいな。
 そういえば、宇喜多秀家という人物は肖像画でも非常に目鼻立ちのはっきりしたイケメンに描かれており、身長もあの時代で170cm ほどもある「非のうちどころのない」貴公子そのもののお姿だったそうです。
 だとしたら、そのお母様も……肖像は残っていませんが、そ~と~の美人さんだったんじゃないんでしょうかね!? 秀吉コノヤロ~。

 ともかく、秀吉の天下統一のためにつかの間の平和がやってきたわけなのですが、そこで「豊臣一族のプリンス」ともなった秀家くんが着手したのが「居城の大改築」。
 秀家くんはすでに15歳になった時点で京の朝廷から「参議(さんぎ)」という官位を受けており、これは非常に乱暴にたとえるのならば、現代の「内閣閣僚」くらいのバリ高ポストです。
 この参議職の中国風の呼び方が「宰相」だったため、「備前宰相」といういかめしい別名を持つようにもなった秀家くんは、その威光にふさわしい総石垣づくりの最新鋭の大城郭と天守閣を建造する必要にせまられたというわけだったのです。

 そこで! 旧来の「石山」にかわって新しい中核部分となったのがその東側にある「岡山」だったと。
 この「新城郭プラン」ともいえる縄張り案には、秀吉その人のアドバイスもあったと言われているのですが、秀家くんはここにきて初めて「岡山に本丸を持つ城を建造する」という大改築を実行し、本丸の西側と南側には人工の水堀をめぐらせ、北から東にかけてはなんと大規模な掘削工事で旭川を拡張させてひきよせ天然の堀にするという、「四方を水でまもった小高い丘の平山城」としての新生「岡山城」を完成させたというわけだったのです。というか、それまでは「石山城」だったわけですから、正式にこのお城が「岡山城」と呼ばれるようになったのはこの秀家時代が最初だったんですね。
 驚くべきことに、このときの旭川の掘削工事で生まれた土砂を積んで岡山城本丸の「中段」の大部分と「本段」はつきあげられたのだとか! 地形、変えるよねぇ~!! 天下にその名をとどろかせる名城をつくりたいという秀家くんの気合いが伝わってきます。

 さまざまな大改装のほどこされた岡山城だったわけですが、なんといっても特筆すべきなのは前回にもさんざんベタぼめした「漆黒の天守閣」ですね! 現在あるのは2代目だとはいえ、あの美しき姿を創造したのは宇喜多秀家の偉業だったのです。ほんとにグッジョブ!


 さぁ、ここまできたわけなのですが、現在ある「岡山市という街と岡山県のおおわくをつくった」宇喜多直家と、「岡山城という城と天守閣をつくった」宇喜多秀家、その父子についてふれたわけなのでありますが。

 終わらない……終わらないよぉ~!!

 だって、現在の岡山城を語る上では、この2人のあとに少なくとも「もう2人」はあつかわなきゃいけない殿様がいるんですよ!! ここはどうしてもスルーできないんだ。


 3月、終わるっつうの! でも岡山城探訪記はまだ続く~。
 『数学♥女子学園』の話はいつできるんだ~!? 
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全国城めぐり宣言 第10回「備前国 岡山城」 戦争と平和!! 2つの貌(かお)を持つマッシブおなご

2012年03月26日 21時22分21秒 | 全国城めぐり宣言
 さくぅらぁ~はァ~、まだかいなァ~♪ どうもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでした!
 いやぁ、千葉は実にいいお天気が続いているんですけど、まだまだ日が暮れると寒いですねぇ。気温も桜も、花見はまだちょっと遠いようですな。

 基本的にTV と縁のない生活をしておりますと、占い師だスピード違反だといったファッキンどうでもいい話題とも距離をおけるので非常に快適なのですが、さすがに AKB48の前田さんの発言の反響はラジオでももちきりになっていますねぇ。

 でもこれ、具体的な期限は言っていないんでしょう? じゃあニュースじゃありませんよねぇ。アイドルグループの世界で言うのならば、たとえは適当じゃないかも知れませんが、「私はいつか、寿命がきたら死んでしまいます。」と同じくらいのごくごく普遍的な発言ですよね。
 これはあれですか? 今月いっぱいで活動を終了するっていう、 AKB48のお姉さんグループにあたる SDN48だけに哀しい想いをさせたくはないっていう前田さんのはからいなんですか? むしろ思いっきりかすませてしまって相当よくない影響を与えてしまった気がしなくもないんですが。

 私が去年やった「ざっくりすぎるアイドルグループ史」の最終章からもだいぶ時がうつろって、当時は予想だにしなかったような新しい項目もワンサカ増えてきましたね~。
 ただ、よくよく振り返ってみると、人々の心に残る多くのアイドルが「メンバー卒業」という花道をあゆんで第一線を去っていくというトピックはあったものの、おおむね AKB48の覇権はゆるがず、全体的にアイドルグループ業界の雨後のたけのこのようなフィーバーぶりがじょじょに落ち着きを取り戻すようになってきた、ゆるやか~な変化ですぎた1年間だったような気がします。最も大きかったのは、やっぱりなんといっても高橋愛さんのモーニング娘。卒業でしょうか。愛称や形式上の話でなく10年間「職業トップアイドル」だったなんて! とんでもないことですよ。
 なんとなくではあるのですが、「嵐はこれからだ……」っていう予感もするんですよねぇ。

 前田さんの発言は、もちろんご本人の強い意思からきたものであることは間違いないのでしょうが、どことなく、「アイドルグループのメンバーではない自分としてやりたいことがある!」というよりも、「わたしの戦友や将来有望な後輩たちのためのことを考えると、わたしはここにいるよりも……」といったニュアンスが感じられるような気がします。こっちのほうが、周辺の人々がよく語る前田敦子さんという人間の魅力に非常にリンクしているような気がするのですが、どうでしょうか。
 とにかくさぁ、若干20歳でこんなに後進のことをおもんぱからなきゃいけないんだぜ!? 大変な人生ですよね。


 そういえば、同じアイドルグループのことでも、それとは別に最近私が非常に気になっていることがありまして。

『数学♥女子学園』のここ数週の展開が思いっっっっきり不満!!

 確か私、先月にハロプロ総出演のこのドラマを毎週たのしみにしているっていう内容のことをくっちゃべっていましたよね?
 あれはだいたい放送の第6~7回くらいまでを観た時点での雑感だったのですが……そのあとあたりから、ねぇ。

 これはもう、本当に臓腑の底から声を振り絞って叫びたい感情がふつふつと沸き上がっておるのですが、あさっての深夜に最終回をむかえるということなので、まずはそれを見届けてからゆっくりとあつかうことにいたしましょう。
 私が言いたいのは、「真野恵里菜さんをそんなに粗末にあつかうほどあなたがたは左うちわなんですか?」ということなんですけど。真野さんにかぎらず、豪華すぎる食材をあれほどまでにもったいなく調理できる作り手の神経は信じがたいですね! 無駄遣いのし放題にもほどがありますよ。徳川宗春かお前はっての。


 と、いうことで、歴史上の人物のお名前が出てきましたので、そろそろ本題の「岡山城入城記」のほうに入っていくことといたしましょう。強引っていう以前に、つなげる気がさらさらありません。

 今現在、岡山市にある岡山城本丸公園は、その名のさししめす通り、かつて江戸時代に1キロ四方という広大な城域を持っていた岡山藩政庁・岡山城のうち、その中核部分に当たる「本丸」のみを保存、一部再現したものとなっています。前回にもふれた5重にめぐらされた水堀の中でも、最終防衛ラインとなる内堀だけが残って公園を囲んでいますね。現在、何羽もの白鳥がみなもにただよっているお堀がこれです。

 余談ですけど、白鳥って近づいてよく見てみると、こわいね……思ったよりも身体のサイズが大きくて、美しい鳥というよりも、「お堀最強の生物!」といったイメージなんです。ヒマさえあれば水中に首をつっこんで何かをガツガツ食べてましたよ。


 岡山城本丸、つまり現在の本丸公園は、だいたい200メートル四方、4万平方メートルの広さを持つ土地になっています。

 こう聞くと、みなさんはどういった印象を持つでしょうか。広い? 狭い?

 このへんの感覚が私も自分でとっても楽しかったんですが、歩く前は「広い」、歩いてみると「狭い」にだんだんとシフトしていくんですよねぇ。
 これをもっと具体的に言うのならば、「散策する公園としては広い」、けれども、「人間が藩政の運営のために毎日何百人も行き来して、かつ殿様とその家族が常に居住しているお城としては狭い」ということになるのです。

 岡山城本丸は、西側と南側が内堀できれいにカットされていて、北から東にかけては「旭川」という、川幅50~100メートルほどの大河をそのまま天然の堀として活用した、四方を水に取り囲まれた標高10数メートルほどの丘「岡山」を利用して建造されています。上空から見ると真四角じゃなくてロールケーキを4分の1に切ったような、直線と曲線で構成された区画なんですね。「D」を上下で真っぷたつにしたうちの上のほうのかたちって言うとわかりやすいでしょうか? いちょう切りのダイコンみたいな。ダイコンじゃなくてもいいんですけど、そこはダイコンで。

 で、実はこの本丸の中でも区画はさらに「3つ」に分かれており、これは標高にあわせた区別になっております。

 まず、岡山駅から向かった場合の公園の正面入り口になる、再現された「内下馬橋(うちげばばし 物騒なネーミングですが私1人しかいなかったので実に静かな橋でした)」で内堀をわたって入城すると、公園の敷地は丘をぐるりと取り囲んだ「下段」という土地になっています。当時はもちろん正門「大手門」のほか、「隅櫓(すみやぐら)」「太鼓櫓」「油蔵櫓」などといった有事の防衛ポイントと平時の倉庫をかねた櫓が10棟も立ち並ぶ部分だったのですが、現在はなにも再現されておらず、絶好の散歩コースとなっているようです。ただ、東端にあたる「旗櫓」「弓櫓」跡地ではなにやら修復工事がおこなわれている様子でしたね。休日だったので作業員の方はおられませんでしたが、もしかしたらそこで往時の様子を再現する復旧プロジェクトが進んでいるのかもしれません。もう、どんどんやってちょうだい!

 そして、そこから南側の「鉄門(くろがねもん 文字通り鉄板の張られた城門)」があった階段をのぼって行った丘部分が、2番目の区画にあたる「表書院(おもてしょいん、表向御殿ともいう)」スペースです。「中段」という呼称も使用されていたようですね。
 ここは本丸の中にある丘(「岡山」という名前だった)の西半分を利用した部分で、その名の通り「おもてのお仕事」、つまりは江戸時代の岡山藩の藩政を執行していた現在の「市役所」や「県庁」にあたる超重要空間だったのです。

 この表書院には現在、そのあたりを思い起こさせる上で非常にありがたい展示となる、地面に「大広間」「台所」「詰所(つめしょ)」などといった名称と部屋割りラインとが詳細に表示された、実寸大の「表書院間取り平面図」がもうけられているのです。

 これはいいですね……建物をたて直す資金がなくとも、想像力さえあれば誰もがここでの当時の様子を眼前にありありと再現させることができるのです。いい仕事されてます!

「イヤ~、昨日呑みすぎちゃってさぁ。ムリするもんじゃねぇなぁ!」
「田中くん、今夜久しぶりにちょっとどうかね? いいお店があるんだが。」
「部長、もうこういうの、終わりにしませんか……まわりの人たちもうわさしてて、私これ以上耐えられそうにありません。」
「ごめんください、わたくし部長の山岸左近の妻でございますが、総務課の田中トメというお方は今、おられますか。」

 逃げて! トメさん逃げて~!! っていうか、江戸時代にOL はいねぇか。

 そういった妄想が無尽蔵にわきあがるわけなのですが、そんなことを考えながら早朝にマシュマロとばかうけを交互に食べている私の姿が、あの日あそこにはありました。気持ちわるい。

 この表書院をながめていちばん大きく感じたのは、やっぱり当時の日本の建築物の「サイズの小ささ」ね! 実際に部屋あとに立ったり廊下あとを歩いてみたりして実感するんですけど、ひと部屋ひと部屋がほんとにコンパクト、っていうか、現代の日本人から見ると明らかに寸法が小さいんです。
 これは実におもしろい感覚でしたねぇ~!

 ガリヴァー旅行記とまではいきませんけれども、現在21世紀の日本人の平均身長は男性が171cm で女性が158cm 。それにたいして江戸時代の平均身長は、遺骨などの調査から見て男性が155~58cm で女性が143~46cm だったのだそうです。縄文時代以来の長い日本の歴史の中でも、どうやら江戸時代の平均身長がもっとも低かったみたいなんですよ。これはやっぱり、肉だとか牛乳だとかいう動物性たんぱく質・カルシウムを摂取する機会がいちばん少なかったことが原因なんでしょうかね。日本史上もっとも平和だった250年間は、そのまんま国民の食生活の規制がもっとも厳しい250年間だったということにもなるのかしら。
 なんと10cm 以上も差があったというんですからね。これは居住空間のサイズが大きく違っていても仕方ありませんやね。

 そういった事情に加えて、表書院はだいたい20m ×50m ほどの屋敷の中に「役人の事務室」「会議室」「ガードマンの控え室」「藩主の執務室」「藩主一家のための食事調理室」といった65もの部屋がギュウギュウにつまっているため、ちょっとお世辞にも広いとは言えない空間になっていたようです。

 んで、本丸の丘のうち西半分を占めているのがこの「表書院」で、そこからさらに南の「不明門(あかずのもん)」もしくは北の「廊下門」を通って階段を10m ほどのぼった上にある東側、丘の頂上にあたるスペースこそが! 天下にその威容をとどろかす「岡山城天守閣」をいただく「本段」部分なんですね~。
 ちなみにこの2ヶ所の門は現在どちらもコンクリート造りで復元されているのですが、名前の由来はそれぞれ、「不明門」がふだん使用されることがめったに無かったことから、「廊下門」が門の上部に殿様が移動するための渡り廊下があったことからとられています。他のお城でもよく見られる使用形式ですよね。

 いや~しかし、下段にいたときにはあんまり気にならなかったんですけど、さすがに中段・表書院にのぼっちゃうと、上の本段にある漆黒の天守閣がチラホラ視界に入ってきちゃうんですよねぇ。ウヒョ~! そんなにせかさないでくださいよ~。

 要するに、岡山城本丸はまず平地と変わらない高さの「下段」の中央に丘があり、そのうちの低い西半分が「中段・表書院」、高い東半分が「本段」となっているわけなのです。こうなっちゃうと、いくら4万平方メートルといえども自然に使える空間は限られてきちゃいますよね。


 いや~。ついに眼前におがんでしまいましたよ、岡山城天守閣!! ありがてぇありがてぇ。パン、パン。

 高さおよそ20m 、大・中・小3つの二階建ての棟を積み上げたかたちの重厚な六階建て。外壁は全体に黒漆をぬった下見板(したみいた)が張りめぐらされており、「烏城(うじょう)」の別名にたがわないツヤ消しブラックのシルエットに、真っ白の破風(はふ 中腹の屋根の上についている三角形の構造物)とキンキラキンのしゃちほことが絶妙なアクセントをほどこしています。かっけぇなぁ~、やっぱ!

 また、見た当日がほんとに天気のいい日だったんでねぇ。暖かいというよりも、むしろ暑いに近くなってきた晴天のもとにそびえたつ黒い城は、すばらしいインパクトをもって私の眼に飛び込んできました。う~ん、やっぱり美人だわ! 和風のなでしこ美人じゃなくてエキゾチックな南国の美女に見えるのがほんとにふしぎです。あいつのビンタはきっくぜぇ~!

 前回にも触れたように、戦国時代末期(桃山時代)の1597年いらい、太平洋戦争末期の1945年6月29日の「岡山大空襲」で焼失してしまうまで
約350年もの長きにわたって屹立していた天守閣は写真資料も多く残っていたので、1966年にコンクリート造りで再建された現在の2代目天守閣は、外見は初代を忠実に復活させたものとなっています。そのさい、初代天守閣の礎石は2代目の建造前に本段の離れた広場に移して展示されています。本段の広場はもちろん、江戸時代には歴代藩主のプライベートな邸宅が建っていた区画です。

 そのため岡山城天守閣は、姫路城や彦根城といった白壁が特徴的な「江戸時代の城」とは一線を画した「戦国~豊臣政権時代の城」のカラーを色濃く残した外観を保っており、熊本城や松本城の系統に属する威圧感のあるバトルヒロイン的な魅力をはなっています。

 戦国の豊臣城と江戸時代の徳川城との違いについて考える上で、「黒いか白いか?」という基準以外にもうひとつ、「最上階の間取りが正方形か矩形(長方形)か?」というものがあります。つまり、最上階のお顔がどこから見ても同じ形なのが豊臣城で、見る地点によって顔が大きくなったり細くなったりするのが徳川城なわけなんですね。
 これはおそらく、お城の建築技術が進化して間取りを拡大することができるようになったことのあらわれなのではないかと思われるのですが、やぁっぱり私は無骨で実直で小顔なブラック豊臣城のほうが好きだな!!

 岡山城の場合はそれに加えて、一階部分が天守閣と「塩蔵」との複合になったすそ野の広い構成になっているため、ずっしりした下半身と天をつきさす小顔の最上階とのバランスが見れば見るほど絶妙なお姿になっているのです。ワ~オ、グラマラス! バレーボールやらせたらアタックサーブをバンバンやりそう。同性の後輩にモテモテのタイプだ!

 岡山城といえばどうしても、この美しすぎる天守閣のことが先に立ってしまうのですが、なかなかどうして無視できないのが「表書院」と「本段」とを上に乗せている豪壮な石垣と、そのへりを囲う白塗りの塀ですね。
 塀は、現在の平和な時代に世間でよく見かけられるような普通のブロック塀とは比較にならないようなぶ厚さでつくられており、各所に城の内部から外に向けて火縄銃を撃ち出すための小穴「銃眼石」がもうけられています。ここから外をのぞくと、足元の石垣をよじのぼってくる足軽どもや、数十m 先で采配をふるっている馬上の敵将の姿が自然と浮かび上がってくるような気がして、マシュマロをつまむ指にもついつい力が入ってしまいます。ロマンですねい。

 だいたいフラフラしながらここらへんまで見てくるとわかってくるのですが、岡山城にはボンヤリとながらも、お互い相容れない「2つの顔」があるような気がしてきます。

 それはつまり、「戦争用の実用的な要塞」としての顔と、「平和時の外観の華麗さを重視した政庁」としての顔なんですね。

 まず、「要塞」としての岡山城を象徴するのはなんといっても漆黒の天守閣なんですが、よく見てみると、天守閣を上にのっけている石垣とそこ以外の表書院などをのっけている石垣とで、石の積み方と石自体の形がまるで違っていることがわかります。
 詳しく言いますと、天守閣の石垣は丸い形の自然石をそのまんま積みあげた「野面積(のづらづみ)」という古い形式でつくられており、そこ以外の石垣は実に精巧に平らに加工された巨大な割り石と、それらの間に小さな石を敷き詰めて強度を高めた「打込萩(うちこみはぎ)」という華麗な江戸時代最新式の形式になっているのです。

 これは簡単に言うと、天守閣の建造された時期とそこ以外の本丸部分が建造された時期に大きなずれがあったからなんですね。

 要するに、「まだまだ戦争の可能性を考えなければならなかった時代」につくられたのが天守閣で、「当面の危険が去って、ちょっとは見てくれに気を使う余裕も出てきた時代」につくられたのがその他の本丸部分だったというわけなんですね。


 岡山城は、ひとつのスペースに「2つの時代」がいっしょくたに混在した実に興味深い地になっていたんですねぇ。
 しかも! よくよく調べてみると、現在ある本丸の地下にはあの豊臣時代の天守閣に「本来ついてくるはずだった本丸」がまるごと埋まっているのだとか!? しかもしかも、岡山城の近所にはその天守閣さえもが生まれる以前に存在していた「旧・岡山城」の影までもが……

 謎が謎よぶ岡山キャッスル~。なんか、この記事も終わりが見えなくなってきてしまいました。予定の4分の1も書けてねぇ!!

 なんでしょうか、この進みのおそさ。でも、この際なので心ゆくまで岡山城探訪記をのこさせていただくことにいたします。

 もうちょっとガマンしてくださ~い! 次回! 次回こそ岡山後楽園に行きますからね~!!
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全国城めぐり宣言 第9回「備前国 岡山城」 おともはマシュマロとばかうけ

2012年03月23日 15時28分50秒 | 全国城めぐり宣言
 ずうぇえ~い! どうもこんにちは、そうだいでございますっと。
 今日の千葉は予報どおりの雨天なんですけどねぇ、やっぱり春は近いですね! そんなに寒くもないし、むしろちょうどいいくらいのおだやかな気温です。雨もそんなに強くは降らなかったしねぇ。やさしい一日だわ。

 突然ですが、TBS ラジオの人気深夜番組『金曜ジャンク バナナマンのバナナムーン GOLD』のマドンナこと、AD の「かまっちゃん(鎌田麻子さん)」が、ラジオの仕事をやめるかもしれないんだってぇ!? なんてことだ……
 やはり、尋常じゃない頻度で男どもが熱い抱擁を交わす番組の姿勢に耐えられなくなったのだろうか?
 いやいや、どうやら彼女は、故郷の福島に活動の照準を合わせることを考えて決断したのだそうです。
 具体的にどういったことをやるのかは私もまだ知らないのですが、まずはそういった勇気ある選択に踏みきった彼女の行動力をたたえたいやねぇ。
 ちょっと、今晩の放送回は聴きのがせないなぁ。これから私は仕事なんですけど、今から仕事終わりが楽しみでしょうがありません。ばかもん! 雑念を捨ててきりきり働かんかァ!!


 さてさて、そういったお話とはじぇんじぇん脈絡がないのですが、今回は久しぶりの「全国城めぐり宣言」企画、最新作でございます。

 地元・千葉県の「小弓城(おゆみじょう)」、「高品城」、「佐倉城」に続いての第4弾はななんとなぁんとぉ、それまでのラインナップには大変に失礼な物言いになるのですが、全国的な知名度がダンチな超メジャー城郭のご登場!! 思いっきり飛びましたねぇ~。

 すげぇんだぜ、すげぇんだぜ! だってさぁ、「天守閣」があるんだぜ!? 「石垣」があるんだぜ!? そしてなによりも、「他県から来た観光客」がいるんだぜぇ~!?

 そうなんですよ。今までの3城には天守閣なんか無かったし、東日本の城郭なので石垣も使用されない「土塁」メインのコーディネイト。佐倉城だけは、言ってみれば江戸時代の「千葉県庁」にあたる存在だったために城郭地域も整備されていて現在は観光地にはなっているのですが、いかんせん現存でも再建でも目立った建造物が無いため、どちらかというと敷地内にある「国立歴史民俗博物館」にお客さんをとられているというていたらくだったのです。

 小弓城はその城域のほとんどが農地になっていたし、高品城にいたってはまるまるマンションの下じきに。

 思えば、「おれは本当に城を探訪しているのだろうか……」という根源的な疑問と闘いながらあゆみ続けた、この『長岡京エイリアン』の長期計画シリーズ「全国城めぐり宣言」だったのですが、ついに今回は、どこからどう見ても「ジャパニーズお城!!」な大スターのご登場でございます。


「備前国 岡山城」(岡山県岡山市北区)


 出ました~! 言わずと知れた「豊臣五大老」宇喜多秀家(1572~1655年)の居城としてつとに有名な、「日本100名城」の「第70番」にあたる山陽の名城でございます。

 うへへへ……城だ、城だよぉ~。しかも、まっくろけっけ、褐色の肌がまぶしい「戦国城」!! 色白でおしとやかな「江戸の城」じゃないんだなぁ。

 残念ながら、21世紀の現在に観ることができる岡山城の天守閣は1966年に建造されたコンクリート造りの復元なのですが、その威容はつい最近、太平洋戦争まで存在していた「本物」を極力忠実に再現したものになっています。木造じゃないからってナメんなよって話なんですよね。

 写真資料をながめるだに、岡山城のスタイルはかなり美しいバランスのとれたナイスバディで、最上階の第六階が絶妙なバランスの「小顔」になっています。私のゆがみまくった眼からたとえさせていただければ、「日本100名城界のビヨンセ=ノウルズ」と言ってさしつかえないのではないでしょうか。ついでに言うなら、播磨国の姫路城はそりゃも~「キング・オブ・ポップ」マイケル=ジャクソンですよね。

 ところで、岡山城といえば、言わずもがなその別名は「烏城(うじょう)」。烏城といえば、同じ別名を持っている名城に信濃国の「松本城」があります。こちらも岡山城に負けない漆黒のお城なんですけど、松本城は「烏城(からすじょう)」と呼ばれています。

 このネーミングセンスはかんなり正鵠を得ているところがあり、同じ真っ黒な鳥でも「う」は細身で「からす」は少々ワイルドでごつい。
 その通りに、松本城は最上階・第六階が比較的大きな造りになっているため、顔ががっちりできた無骨な印象になっています。やっぱりそういうところから観れば、松本城はライオネル=リッチーということになるでしょうか。いや、ご本人はそんなに顔は大きくないらしいんですけど。っていうか、さっきからなんでたとえが外国人ばっかなんだよ!!

 ともあれ、そんな美しき岡山城の実物を拝めるというのですから、先日の岡山行きは非常に期待値の高いものとなりました。この旅の直接の契機となった、前回にふれた舞台『晴れ時々、鬼』にはいくら礼を言っても言い足りません。


 そんなわたくしが意気揚々と乗り込んだ岡山行きの交通手段は、「夜9時新宿発、翌朝7時30分岡山着の深夜急行バス」! お値段重視で座席は「4列シート」のやつ!!

 ……やっぱ、きつかったっす。

 そもそも、そのくらいの長時間をバスで移動っていうのは、実家の山形に帰省するときにもよく使う手段だったのでなれているつもりだったんですけど、まぁ~なるべくなら避けたいものの……安いからねぇ!
 今回は筋肉痛がするほどひどくはなかったんですけど、いかんせん春分の日前だったので座席が満員で、うしろにシートは倒せないし隣は「麒麟の田村さん似の大柄な男性」だったりしてねぇ。けっこう肩身がせまいまま10時間バスに揺られてしまいましたよ。

 でも、やっぱり行く場所が生まれてはじめての「山陽・備中国」だったんでねぇ。近所の「山陰・因幡国」、つまりは今でいう鳥取県に行ったことはあったんですけど、山陽はまったく未踏の地でしたから。
 眠れないことを逆手にとって、カーテンをちょちょっとめくりながら、

「武蔵、相模、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、山城、摂津、播磨、そして備前!! ウヒヒ~っ♪」

 と、別にどういったこともない、出ては消え出ては消えする変わり映えしない高速道路の灯りを眺めていました。眠れなくてけっこう!!

 バスの中といえば話題はぜんぜん関係ないんですけど、午前3時をすぎたあたりから車内の至るところで、

「へぷちっ。へぷちっ。」
「ズッビッズッバ~。ズッビッズッバ~。」

 という、思わず「ぱっぱっぱっや~」と合いの手を入れたくなってしまうような、春ならではの鼻の音が聞こえてくるようになってきました。みなさん、発車前に飲んでおいた花粉症のお薬がきれてきたんでしょうねぇ。
 もうね、岡山の1コ手前にあたる姫路に着いて空もしらじらと明けてきたころには、「そんなに関東を離れるのが悲しいのか?」「このバス、車内放送で『ビルマの竪琴』でも流してんのか?」というくらいの鼻すすりの大合唱になっていました。

 まぁ、自分はまだ発症してないからこんな「対岸の火事」みたいなことをぬかしてますけど、明日は我が身ですからね……花粉症は怖いですよねぇ。

 バスは神戸から高速を降りて普通道に入ったのですが、なんといってもおもしろいのは、車窓から見える風景が日本の町並みであることは間違いないわけなんですけど、どこかしらに間違いなく「関東じゃない空気」が流れているってところなんですよね。

 神戸はやっぱりソフィスティケイトされたカッコいい街なんですけど、同じ港湾都市でも横浜とは一目で違いがわかる感じがありまして。ちょっと降りてみないと確たることは言えないものの、「ああっ、遠いところに来ちゃった!」という実感はすぐにわいてきました。

 そして、夜が明けて姫路をすぎると風景は一瞬にして山がちな地方色に! 低い山がえんえんと連なる道になったのですが、これはこれで私の故郷の東北とはまったく色合いが違うんですよねぇ。奥羽山脈はもっとけわしくて、人里と山がこんなに近くに共存している風景は意外と少ないと思うんですよ。姫路から岡山へと向かう途上は、その日は実におだやかな表情をしていました。

 とはいえ、これは逆の見方をするのならば、「山に分断された人里が無数に点在している」ということになります。
 つまり、ひとたびこの地方を征服しようというのならば、ひとつひとつの勢力圏を各個撃破でプチプチつぶしていかないといけないということになります。東北のように、山のふもとの大きな盆地をドカンと占領したらなし崩し的にその地域を総取りできるというわけにはいかないんですなぁ。

 なるほど……あの羽柴秀吉軍団が播磨国以西の制圧に大きな時間と労力をかけなければならなかった理由がよくわかりました。今ちょうど、マンガの『センゴク 天正記』でやってるところですよねぇ。やっぱこういうのは、実地に観てみねぇとわかんねぇもんだなぁ。

 そんなこんなで、脳内を500年前に着実に戻している私をよそに、バスはスケジュール通りに朝7時30分、JR 岡山駅前に到着しました。


 いや~、ついに着きました、岡山県岡山市! 駅のロータリーには堂々の「ももたろう像」が屹立しています。

 岡山市。とってもよかったですねぇ。全体的にとっても「なつかしい」んです。それでいて間違いなく「知らない街」なの。

 結局、今回私がいた時間はたかだか半日ほどだったので岡山市のすべてを楽しんだとは言いがたいんですが、新しい部分と伝統的な部分とがいい感じにまじりあっているステキな街でした。

 なんてったって、まず目に入るのは路面電車ですよ。

「んぎ~……がったん、がったん。」

 という聞きなれない音が遠くから響いてくる環境は、自動的に「知らない街」感を呼び起こしてくれて実に新鮮でした。乗り込むヒマはなかったけど。
 地元の方には当たり前の風景なんでしょうけど、路面電車はいいねぇ~。これからも続けていってほしいですねぇ。

 私が目指す岡山城は、岡山駅の東口からさらに真東にまっすぐぶち抜かれている「桃太郎大通り」を約1キロ、15分ほど歩いた先にあります。

 当時、戦国時代から江戸時代にかけて大名の居城、もしくは藩の政庁として機能していた岡山城は広さおよそ1キロ四方、その中核部分となる「本丸御殿」にいたるまでに実に5重もの水堀をたたえた天下の名城でした。城域はざっくり言えば同心円状に「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ曲輪(くるわ)」、「三ノ外曲輪(そとくるわ)」と広がっていたようです。

 そのうち、明治維新後から現在にいたるまでに残されている区域は「本丸」のみで、そこ以外は岡山県庁、放送局、県立美術館、学校などが建ちならぶハイソで伝統ある「丸ノ内」地区となっています。
 ここの雰囲気がまたいいんですよね……それほど高くはないものの古めかしい真四角なビルがうっそうと建っている静かな街のはしばしに、おしゃれな喫茶店や飲み屋さんがちらりほらり。

 私が到着した朝7時半はまだ寒かったのですが、しばらく歩いて岡山城本丸公園が見えてきたころには太陽も高くなり、だんだんとぽかぽかしてきました。今日は探訪日和のあったかい日になるぞぉ~。私は運がいい。

 いちおう、公園に入る前によけいに周辺をほっつき歩いてみて、すぐ近くにあるお芝居が上演される予定だった「ルネスホール」を確認したりして、8時すぎに満を持して本丸に入城させていただく運びとなりました。キンチョーするなぁ~。

 岡山城の名前の由来となった「岡山」というのは、天守閣のたっている場所にある標高10数メートルそこそこの丘のことなのですが、これは駅側から見て本丸区域のいちばん遠い北東に位置しているため、公園の入り口からはまだ天守閣の威容は見えません。ひっぱりますねぇ。

 公園の入り口付近には、かつて「二ノ丸対面所」があったという敷地に有名な「林原美術館」があります。ブギーナイトはやってないけど歴史ファンにはたまらない!
 対面所というのは要するに、江戸時代の岡山城の城主であった岡山藩主・池田家やその代理人が、他藩もしくは幕府の要人と会見するときに使用されていた迎賓館のような施設でした。現在の美術館にはその時代以来の建造物は残っていないのですが、明治時代によそから移築されたいかめしい武家屋敷の正門がそのまんまの姿でお客さんを出迎えています。

 ここはねぇ……藩主の池田家に伝わっていた「池田本 洛中洛外図屏風」を所蔵しているひっじょ~に重要な歴史美術館なのでありますがァ!!
 無念なことに、時間の都合で入館できませんでした……メインのお芝居鑑賞の時間をのぞいて正味10時間もあったはずの今回の岡山探訪なんですけれども、林原美術館に行く余裕がないほどにそれ以外の部分で楽しみきってしまいました。まぁ、しょうがねっか!

 余談ですが、そこに所蔵されていた「洛中洛外図屏風」は元和(げんな)年間、つまりは豊臣家が「大坂夏ノ陣」(1615年)によってついに滅亡した直後の京都の様子を描いているのですが、私が前におとずれた下総国の佐倉城あとにある歴史民俗博物館が所蔵している2種類の「洛中洛外図屏風」は室町時代末、足利幕府がかろうじて健在だった時期の京都をえがいています。

 すごいね~、なんとなくの順番だったのに佐倉城と岡山城が「洛中洛外図屏風」でつながっちゃいましたヨ!? まぁ、林原美術館にも歴博にも入らずに城ばっかしか観てなかったから関係ねぇけど。

 さぁ、いよいよこのわたくしが岡山城の本丸に足を踏み入れるときがやってまいりました。

 朝日が陽光にかわり、公園をかこむ堀のみなもも輝きをましてきます。まだ早い時間なので私以外の人影は見えないのですが、堀をぼんやりとただよっている白鳥たちが「ガベー、ガベー」と私の来訪をむかえてくれています。意外とオッサンみたいなお声なんですね……

 こんな日程なので朝食などとっているヒマはなく、私はおもむろにカバンからひっぱりだした、実家から弟づてでさずかったマシュマロと、お菓子のしょうゆせんべい「ばかうけ」を交互につまみながら意気揚々と岡山城探訪にしゃれこむこととあいなりました。


 糖分と塩分、そして城!! 他になにがいるというのか。しいてあげれば愛がほしいのだが、それはいつでもいいだろう。


 っつうことで、岡山城探訪の核心に迫る興奮の本編は、まったじっかい~。

 岡山後楽園も、もちろん行きましたよ~。
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帰ってきたぜ……へろへろで!!

2012年03月21日 15時49分30秒 | 日記
 ヘヘイヘ~イ。どうもこんにちは、そうだいでございます。
 今日もまた、いいお天気でしたね~。もう春でいいんじゃないか? という気もするのですが、まだまだ気象予報の見方では決定的な感じじゃないのだそうで。やっぱり日が暮れると寒くなっちゃうんでしょうか。

 いや~、でもねぇ、春分の日、昨日3月20日の岡山県岡山市はひっじょ~に!! 春らんまんでしたよぉ~。
 ほんとにね、行ってよかったです、岡山! 体力、おサイフ、ともに多少のムリをしてでも行った甲斐はじゅうぶんにありまくりでした。


 前にもふれたように、今回、20日をまるまる1日岡山市で過ごすという計画を思い立った直接のきっかけは、そこ、岡山県岡山市だけでしか、しかも2日間1回ずつしか上演されていなかったお芝居を観に行くためでした。

ルネスホール特別企画『晴れ時々、鬼』(演出・関 美能留、作・大戸 彰三)

 ルネスホールは岡山市にある、ふだんは音楽コンサートや美術展などの場になっている多目的ホールなのですが、大正11(1922)年に建造された旧・日本銀行岡山支店を改築してホールにしているという、ちょっと珍しい雰囲気の空間になっています。

 私のつたない記憶の中では、千葉市中央区中央にある千葉市美術館の「さや堂ホール」(もとは1927年に建造された旧・川崎銀行千葉支店)や、横浜市中区関内の「バンカート」(もとは1929年に建造された旧・第一銀行横浜支店)が似たような前身をもっている空間なのではないかと思っていたのですが、実際に岡山のルネスホールも、古代ギリシア様式を意識した外観と、石造りの巨大な円柱・エンタシスにささえられた吹き抜けで天井の高い内装が、両者をパッと思い起こさせてくれる印象がありました。

 さてそうなりますと、壁や床といった部分も硬質な大理石や御影石が張りめぐらされ、音の反響の大きな広い空間となってしまうため、生の楽器の演奏にはピッタリでも、演劇での役者のセリフは普通の劇場以上に空間いっぱいに反響してうまく聴き取りづらくなるのでは……という余計な心配も一瞬、頭をよぎってしまいました。ましてや、出演する役者のみなさんは、今回の公演に向けて去年からおこなわれていたワークショップに参加して、今年の1月から稽古を開始したという岡山県民の方々だというのだそうですから。

 だが、しかし。
 そんなことを気にする心配は、じぇ~んじぇんなかったですね!

 も~、なんだかんだ、あーだこーだ言う前にとにかく大前提なのは、「おもしろかった」!! それだけ!
 わざわざ千葉から岡山に行っただけのものは、そりゃもうおつりでベガスに行って豪遊できるくらいにいただきましたよ。気分は!

 これは、こうやって観たお芝居のことを、少なからぬ(?)人数の他人が見るかもしれないこのブログにつづっている人間としては非常にイヤミな言い草なのですが、私はあの『晴れ時々、鬼』が、たとえ撮影した映像資料という形で残されたにしても、そこではすくいとることができない「あの3月19・29日に1回ずつしか観ることができなかったなにか」に接したことを、めっちゃんこ嬉しい優越感をもって世間に自慢したいのです。要するに、この記事であの作品の具体的なよさを伝えるつもりはないし、そんなことできないの!

 観た人は大ラッキーで、観られなかった人は超残念。まとめてしまえばこれしかないんです。

 だったら、なんでそんな文章をわざわざつづるのかというと、それが演劇というものの「すごみ」だからなんじゃないかということを、今回あらためて強く感じたからだったんですね。とにかく、むき身のそれに出逢えた稀有な体験だったと。

 ある時間にある場所に居合わせた人でしか共有できない幸せがある。文章でも写真でも映像でも伝えられないそれが一瞬でも現れることを期待して、奇跡的な確率を超えて集まった大勢の人間たちがひとつになることのものすごいパワーというか。

 要は心意気っていうんですかねぇ。「東京や大阪に対する岡山」とかいう小さな枠におさまらない「いらっしゃ~い!!」な感じに圧倒されたんだなぁ。それは、私が遠路はるばる来たから特別に感じたことなんじゃなくて、その場に来た人全員に無心に振り向けられた愛情なんじゃないかと。無心とこられたら、感動するしかないでしょ!


 ただし、地元の人々の笑顔が前面に出ているだけなのならばそれは演劇である必要はなく、全国各地、おそらくは毎日どこかで必ずもよおされている町おこしソングの合唱でも地元の伝統芸能でも物産展でもよかろうもんということになってしまうのですが、そこのレベルを数段飛び越えて、そうそう簡単にはやれそうにない唯一無二、空前絶後な2日間だけの奇跡をあの岡山ルネスホールで生み出したのが、やっぱりなんと言っても演出の力量だったのではないかと。

 わたくし、別に演出の劇団に所属していたことのある人間だからこんなことを言っているのでは毛頭ありません。持ち上げてるぅ? とんでもハップン歩いて2分ですよ! 観たらわかる。

 いろいろ、あれがよかったこれがすばらしかったと言いたいことは山ほどあるのですが、きりがないのでひとつだけ挙げておきますと、とにかく私は、この作品が最後に持ってきた感動の「種類」にいたく感じ入りました。

 この『晴れ時々、鬼』は、タイトルやチラシなどでの情報からもわかる通り、古代日本の「吉備国」(現在で言う岡山県全域と広島県の東半分をさす地方名)につたわる鬼の伝承と、それをもとに作られたとされる日本昔話の超メジャータイトル『ももたろう』に独自の解釈をほどこした内容となっています。
 んで、私はこの作品を観る前に、絵に描いたような勧善懲悪の『ももたろう』をもとにしている以上、作品が「正義と悪の逆転した、悪側から見た悲劇の物語」になるのではなかろうか、もしそうだったとしたら、わざわざ千葉からやってきてそういう辛い結末の感慨にふけりながらサヨウナラはしんどいなぁ……などと勝手に懸念していたのですが。

 これがねぇ、見事に裏切られてしまいました!! 非常に前向きでありながらも、同時に主人公の哀しみがズビズバ伝わってくる、静かであり、かつ壮絶なラストシーンだったと思います。過酷な現実はちゃんとありつつも、そこにおかれた主人公の姿を俯瞰カメラで終わりにしていないのです。
 主人公が最後にあえて勇気をもって選択した、「他人と共有できないものの見方が生み出す険しい生き方」をああいった方法で舞台にのせるとは。完全に参りました。

 この感動にいたる約1時間半の道のりを、すべて岡山県民の皆様が演じきっておられるというのもとてつもないことですしねぇ。
 ワークショップや数ヶ月間の稽古をへて一般の方が舞台に上がるという形式はあまたあるかと思うんですけれど、「演劇」のすばらしさの核心にここまで迫った作品に役者として参加できるなんてこたぁ、そうそうめったにあるもんじゃないと思うんだなぁ、あたしゃ。

 「奇跡」、「奇跡」と、使いすぎるとありがたみが薄くなってしまうのが「奇跡」なのですが、あれは「奇跡」でいいんじゃない!? そうだよ、きっと!

 そうしみじみ感じながら千葉への帰路についた、今回の『晴れ時々、鬼』観劇記だったのでありました~。

 うらやましくなりました? なった方は、ぜひとも次のチャンスに賭けることをおすすめいたします。これからは「ライヴ」の時代でございますよ!



《次回予告》
 そして、時間はその日の早朝にさかのぼる。

 深夜急行バスで岡山市に到着した時刻は午前7時半。『晴れ時々、鬼』の開演時刻は午後2時。
 このあいだの6~7時間をどうやって過ごすかって?

 そりゃもォ~あなた、備前国を代表する漆黒の名城・岡山城(今はコンクリート製)を探訪するに決まってるじゃあ~りませんか!!

 っつうことで、次回は千葉県からズドバビューンと飛んでしまった「全国城めぐり宣言」の第4弾「岡山城編」なのであった。

 朝食がわりにマシュマロをつまみながら、戦国乱世に想いをはせろ~。
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