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長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

清水ミチコという暗黒星もある宇宙の片隅で起きた奇跡 ~映画『この夏の星を見る』~

2025年08月17日 20時51分02秒 | ふつうじゃない映画
映画『この夏の星を見る』(2025年7月公開 126分 東映)
 『この夏の星を見る』は、辻村深月の同名小説を原作とする映画作品。監督の山元環と脚本の森野マッシュにとっては、本作が劇場長編デビュー作となる。
 辻村深月の長編小説『この夏の星を見る』は、『東京新聞』・『中日新聞』・『北海道新聞』・『西日本新聞』各誌夕刊に2021年6月~22年8月に連載された後、2023年6月に角川書店から刊行され、2025年6月に角川文庫にて上下巻で文庫化された。

あらすじ
 世界中がコロナ禍に覆われた2020年。
 部活動を制限された中高生たちが挑んだのは、オンラインを駆使して日本各地で同時に天体観測を行う競技「スターキャッチコンテスト」。茨城・東京・長崎五島の学生たちが始めたこの活動は、やがて全国に広がって……
 茨城県土浦市の天文部で活動する高校2年生の亜紗と凛久。東京都渋谷区の中学校に通う孤独な新入生・真宙と、彼を理科部に誘う天音。長崎の五島列島で家業の観光民宿の営業継続に苦悩する円華と、その親友の小春。それぞれが、新たな出逢いを通じて空を見上げる。
 みんな、コロナのせいだった。でも、コロナじゃなければ会うこともなかった。
「この一年にも意味はあったって、特別だったって、信じられる。」
 だから、空を見上げる。心の動きを逃がさず、捕まえて、離さないで。
 手作りの望遠鏡で星を探す全国の学生たちがオンライン上で画面越しにつながり、夜空に交差した彼ら・彼女らの思いが、奇跡の光景をキャッチする!


おもなキャスティング
≪茨城・県立砂浦第三高等学校≫
溪本 亜紗  …… 桜田 ひより(22歳)
飯塚 凛久  …… 水沢 林太郎(22歳)
山崎 晴菜  …… 河村 花(23歳)
広瀬 彩佳  …… 増井 湖々(19歳)
深野 木乃美 …… 安達 木乃(19歳)
綿引 邦弘  …… 岡部 たかし(53歳)
≪長崎・泉水高等学校≫
佐々野 円華 …… 中野 有紗(20歳)
武藤 柊   …… 和田 庵(19歳)
小山 友悟  …… 蒼井 旬(18歳)
福田 小春  …… 早瀬 憩(18歳)
≪東京・ひばり森中学校≫
安藤 真宙  …… 黒川 想矢(15歳)
中井 天音  …… 星乃 あんな(15歳)
森村 尚哉  …… 上川 周作(32歳)
≪東京・御崎台高等学校≫
輿 凌士   …… 萩原 護(22歳)
柳 数生   …… 秋谷 郁甫(21歳)
市野 はるか …… 朝倉 あき(33歳)

才津 勇作  …… 近藤 芳正(63歳)
飯塚 花楓  …… 工藤 遥(25歳)
花井 うみか …… 堀田 茜(32歳)
声の出演   …… 清水 ミチコ(65歳)


おもなスタッフ
監督 …… 山元 環(32歳)
脚本 …… 森野 マッシュ(28歳)
音楽 …… haruka nakamura
主題歌『灯星(ともしぼし)』、挿入歌『スターライト』(ともに歌・suis from ヨルシカ)




≪いや~いい映画でしたわ。本文マダナノヨ≫
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地味だけど絶対に無視できないターニングポイント作! ~映画『疑惑の影』~

2025年06月12日 23時27分31秒 | ふつうじゃない映画
 はいどうもこんばんは! そうだいでございます~。
 いや~、私の住む山形もいよいよ梅雨入り……しそうになってきました。もうそろそろですかね? でも、そんなに雨も降らないしすでにあっちぃんですよ! なんかもう夏になっちゃったみたいな感じ。でも、野菜や果物さん的には梅雨が来ないとほんとに困っちゃうんで! 思いきりドザーっと降ってほしいんですけどねぇ。アイスコーヒーのおいしい季節になってまいりました。

 そんでま、今回も例によってヒッチコック監督の諸作を古い順に観ていく企画の続きなのでございますが、今回はもう、地味! あまり派手なアクションもないし、世界的に有名な名所も出てこない地味な作品ではあるのですが、観てみたらすぐにわかります、とっても重要な作品ですね!


映画『疑惑の影』(1943年1月公開 108分 ユニバーサル)
 『疑惑の影』(ぎわくのかげ 原題: Shadow of a Doubt)は、アメリカのサスペンス映画。本作は1958年にハリー=ケラー監督作品『 Step Down to Terror』としてリメイクされた。
 ヒッチコックは、当時所属していたデイヴィッド=O=セルズニックの映画制作会社の女性文芸部長の夫が思いついた原作を基にした『疑惑の影』を、ユニバーサルでの2作目として監督した。本作のほとんどのシーンは、スタジオでなく物語の舞台であるカリフォルニア州サンタローザでロケ撮影を行った。その撮影中の1942年9月26日にヒッチコックの母エマが79歳で病死し、その4ヶ月後には兄ウィリアムが52歳で亡くなった。ヒッチコックは母と兄の死に立ち会うことはできなかったが、それを機に肥満体だった自らの健康を危惧し、医師の助けを借りて食事療法に取り組んだという。
 ちなみに、ヒッチコックの体重は1939年に165kg に達した時期が最高であるとされ、本作の撮影に入る前の配役オーディション時には150kg ほど(メイキング映像でのヒューム=クローニンの証言より)、本作公開後に本格的に食事療法を開始した時点では136kg であったという。

 ヒッチコックは本編開始16分06~47秒のシーンで、サンタローザ行き列車の中でトランプのゲームをしている男として出演している(画面に映る時間は長いが顔は直接映っていない)。


あらすじ
 シャーロット=ニュートンは、カリフォルニア州サンタローザののどかな町で退屈している10代の女の子である。そんな彼女に素晴らしい知らせが舞い込んだ。彼女の母親の弟で興行師のチャールズ=オークリーが遊びに来るというのである。彼が来ると家族の誰もが、特に若いシャーロットは大喜びする。チャーリー叔父はシャーロットにエメラルドの指輪を贈る。しかし、彼女はその内側に誰か別人のイニシャルが刻まれていることに気づく。
 それから間もなく、ニュートン家に政府の調査員と称する2人の男が現れ、チャーリー叔父の写真を撮ろうとする。シャーロットは彼らが警察の潜入捜査官だと推測する。その内の一人である青年ジャック=グレアムは美しいシャーロットに好意を持ち、彼女の叔父が「メリー・ウィドウ連続殺人事件」の容疑者の一人であると説明し、捜査協力を求める。シャーロットは最初は信じようとしなかったが、彼が彼女に贈った指輪の内側に刻まれたイニシャルが、殺害された女性の一人のイニシャルと一致することを知る。

おもなキャスティング
シャーロット=ニュートン …… テレサ=ライト(24歳)
チャールズ=オークリー  …… ジョゼフ=コットン(37歳)
ジャック=グレアム    …… マクドナルド=ケリー(29歳)
サンダース刑事      …… ウォーレス=フォード(44歳)
エマ=ニュートン     …… パトリシア=コリンジ(50歳)
ジョゼフ=ニュートン   …… ヘンリー=トラヴァース(68歳)
アン=ニュートン     …… エドナ・メイ=ウォナコット(10歳)
ロジャー=ニュートン   …… チャールズ=ベイツ(8歳)
ハーブ=ホーキンス    …… ヒューム=クローニン(31歳)
ルイーズ=フィンチ    …… ジャネット=ショウ(24歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(43歳)
脚本 …… ソーントン=ワイルダー(45歳)、アルマ=レヴィル(43歳)、サリー=ベンソン(45歳)
製作 …… ジャック・ハロルド=スカーボール(46歳)
音楽 …… ディミトリ=ティオムキン(47歳)
撮影 …… ジョセフ=ヴァレンタイン(42歳)
配給 …… ユニバーサル・ピクチャーズ


 というわけで、ハリウッド時代もすでに6作目となった本作『疑惑の影』の登場でございます。

 この作品、前作『逃走迷路』から打って変わって、ありふれた日常生活に忍び込む疑惑を描く、一つの町の中で完結するような非常にミニマムな物語となっておりまして、予算規模もキャスティングの陣容もとってもつつましやか、カリフォルニア州サンタローザの実景ロケや、借りた一軒家で撮影を敢行したのも予算削減のためという、かなり地味な作品なのですが、あの『下宿人』いらいの長い歴史を誇るヒッチコックの「日常サスペンスもの」の中でも、確実に次なるフェイズへ進化していく息吹きを感じさせる新鮮な傑作に仕上がっているのです。

 詳しいことは例によって、この後にズラズラ~っと羅列した視聴メモをご覧いただきたいのですが、この作品は本当に、のちの『サイコ』を想起させる、登場人物の心理のうつろいにピッタリ寄り添う自由自在なクレーン撮影や、エドワード=ホッパーの絵画のように、家の中に無言でたたずむ人影から言い知れぬ不吉さを引き出すカット割りなどが大いに取り入れられた意欲作で、お金をかけなくとも観客の注目を引く画づくりはできるゾというヒッチコックの気概を感じさせる名品となっております。
 まぁ、タイトルの通り「疑惑」がメインの作品になっていますので、その疑惑が確信に変わった段階で映画はほぼおしまい、その後の容疑者が暴走し自滅していくくだりで急に古臭い犯罪活劇になってしまうのが非常に惜しいのですが、そこはそれ、第二次世界大戦にやっと参戦するかしないかという頃のアメリカで作られた作品ですので、時代がヒッチコック監督のセンスに追いついていなかったということで、勧善懲悪のやけにはっきりしたオチになってしまうのは仕方ないかと思います。まだ、悪役の心の闇を真正面から照射した作品が受け入れられる世の中ではなかったのでしょう。

 「ごくごく近くで生活しているあの人が、まさか殺人を!?」という設定こそ、前々作『断崖』と同じではあるのですが、舞台設定であるサンタローザや、そこに住む「古き良きアメリカの模範的家庭」をかなりリアルに接写した解像度の高さにおいて、本作はいかにもなフィクション世界のロマンスである『断崖』とはまるで段違いな、観客の肌身にじかに迫ってくる「迫真性」を持っていると思います。80年以上前の映画なのに、2020年代に観ても「あぁ~、いるいる、そういう人!」という共感を引き出せる登場人物を描くのって、ものすごいことですよね。

 イギリスはロンドンから来た異邦人であるがゆえに、「アメリカあるあるネタ」のそうとうな使い手でもあったヒッチコックのセンスが随所に光る名品です。そんなにハデで目立つ作品でもないのですが、のちの「ほんとは怖いヒッチコック」の到来を静かに感じさせる重要な一作ですので、おヒマならば、ぜひぜひ!

 いや~、戦争が始まったっていうのに、そしらぬ顔でこんなハイクオリティな映画をポンポン公開してる国なんだぜ。そりゃ勝てるわけないわな……思わず淀川長治さんな気分になっちゃいますね。


≪いつもながらの視聴メモでござ~い≫
・オープニングが、いかにも豪華絢爛なレハールの『メリー・ウィドウ・ワルツ』(1905年)の調べに乗せて、どこかの舞踏会場で紳士淑女が手を取りワルツを楽しんでいる情景なのだが、本編の内容とおもしろいくらいに乖離しているのが興味深い。そういった上流階級の娯楽とは無縁のように見える本作の登場人物たちにとって、このワルツは一体どのような存在なのであろうか……
・ワルツのオープニングから一転して、画面の情景はニューヨークと思われるアメリカの大規模な港湾都市に移り変わり、海辺にたむろする浮浪者や朽ち果てた廃車が映る。そしてそこからさびれたアパート街に移り、車のない通りいっぱいに走り回り、草野球ならぬ「道野球」をしている子ども達を映してから、道に面したアパートの一室の窓が映り、最後にその窓の奥でスーツ姿のままベッドに寝そべっているチャーリー叔父に画面が移って物語が始まる。このように、「街全景」→「通り」→「アパート」→「部屋の中」と大→小にカメラがズームしていって最終的に登場人物に到着するという流れが非常にスマートで面白い。まさに観客の視線を画面に引き込む魔術である。ただ、当たり前ながらも本作の時点でそれぞれの情景は別場所で撮影した映像をフェイドイン・フェイドアウトで切り貼りしたぎこちないものであるのだが、ここの撮影・編集技術がさらに洗練されて、街全体から部屋の中までがあたかもワンカメで撮っているかのように洗練され抜いた最終成果が、言うまでもなくあの『サイコ』(1960年)の冒頭映像なのではないだろうか。ヒッチコックの挑戦は、すでにここから始まっていたのか! くぅう~本作の存在意義はデカいぞ!!
・車も滅多に通らないし空き地も多い、さびれた通りのアパートに住むチャーリー叔父ではあるが、なぜか部屋のそこら中に無造作に紙幣が放り投げられており、それを見たアパートの大家のおばちゃんは眉をひそめる。お金には困っていないようなのに、チャーリー叔父の表情は常にかげり、おばちゃんが語っていた先刻の「2人の男」の来訪にいっそう警戒の色を強め、持っていたコップを床に叩きつける……なんだなんだ、おもしろそうだぞ! 本作の台風の目ことチャーリー叔父を演じるジョゼフ=コットンの無言の名演もあって目が離せなくなる。
・これは本作全体で言えることなのだが、映画音楽がめ~っちゃうるさい! ヒッチコックの映像演出が120% 物語を語っているのに、音楽も音楽で「ここ大事なとこ!」とか「ここスリル満点でしょお客さん!!」みたいな感じで、フルオーケストラガンガンで通販番組の司会のようにアピールしてくるのである。トゥウーマッチ!! 本作の音楽を手がけたのは、1925年にロシアから移住して以来ずっとアメリカで活躍し、『ジャイアンツ』(1956年)や『 OK牧場の決闘』(1957年)、それ以外にもほんとに映画史に残る多くの名作の音楽を創造した名匠ディミトリ=ティオムキンで、ヒッチコックともその後何度も組んで『ダイヤルM を廻せ!』(1954年)などを飾っている重要人物なのだが、それでもやっぱ、日常に潜む犯罪に照射したミニマムサイズな本作とは相性が良くないのでは……大作映画みたいな音楽設計なんですよね。
・チャーリー叔父が「カリフォルニアのサンタローザのニュートン家(姉一家)のうちに行く」と電報で伝えた後に映画の舞台がそこに移るわけなのだが、先ほどの大→小のカメラワークと全く同じ文法で「風光明媚なサンタローザの町並み」→「笑顔で警官が交通整理をするにぎやかな大通り」→「白板壁の瀟洒なニュートン宅」→「窓」→「部屋の中のベッドに寝そべるチャーリー(シャーロット)」と画面が移り替わっていく「てんどん方式」が面白い。シャーリー叔父と全くいっしょの流れなのに、観客に与える町と人物のイメージが「陰」と「陽」でみごとに対照的なのが非常に象徴的である。もうすでに、誰が問題人物で誰が主人公なのかがはっきりわかる。ちなみに、本作では両者ともに「チャーリー」と呼ばれているのだが、まぎらわしいのでこのブログではヒロインのチャーリーの方は本名の「シャーロット」と呼んでいきます。
・ニュートン家の電話が鳴り、姉のシャーロットに「電話出て~」と言われ、思いッきり「うっせーな……」という顔をしながら電話に出る読書メガネ少女アンのキャラが非常にすばらしい。一般的な「かわいい子」ではないかも知れないが、髪に花を挿し、右手には帰ってきたウルトラマンかってくらいに主張のはげしいでかいブレスレットを着けているセンスに只者でなさを感じさせる。味があるな~この娘! 「クリスチーネ剛田」って筆名でマンガ描いてそう。
・いかにも人畜無害で実直生真面目そうな銀行員の父ジョゼフに対して「毎日がだらだらと過ぎていく……退屈そのもの。将来に夢なんてないわ。」とのたまう長女シャーロット。事件もロマンスもない平穏無事な日常に飽ききっているヒロインであるわけだが、その後の展開を考えると「そんなこと言ってるから神様がバチを与えたのでは……」と感じてしまう。いま放送してる『機動戦士ガンダム ジークアクス』のヒロインみたいなこと言ってますね。無事これ名馬!
・今作のヒロイン・シャーロットを演じるテレサ=ライトはとり立てて絶世の美人女優というわけでもないし、シャーロットのような夢見る少女を演じるにしてはちょっと年上でもあるのだが、映画が進むにつれてどんどんチャーリー叔父の闇を通じ社会を知り大人になっていく「心の成長の演技」は非常にみごとで、ヒッチコックのキャスティングは正しかったと言うしかない。初登場のベッドでの表情とエンディングでのジャックとの会話とで、ほんとに10年以上の歳月が経っているみたいな顔つきの違いがある。
・ニュートン家の末っ子である長男ロジャー(8さい)が、帰宅した瞬間に誇らしげに「薬屋からうちまで何歩だと思う? 649ほ~!!」と叫び、それをシャーロットと母エマが華麗に黙殺するという数秒の風景がまことにすばらしい。本作は「ヒッチコックが初めてアメリカを描いた映画だ」と評されることが多いが、それを如実に証明するワンカットである。アメリカを描いたというか、当時の「アメリカの家庭あるあるギャグ」を効果的に導入した作品と言うべきか。だから、これはヒッチコック流『サザエさん』とも言える作品なのではないだろうか。確かにニュートン家って、それぞれのキャラが立ちまくってるのに、一つ屋根の下にいてもぜんぜん邪魔し合わないんですよね。
・電報の内容を確認するために電話をしたエマを見て、「ママ、今の電話は大声で話さなくても聞こえてるよ。」と的確なツッコミを入れるアンに子どもならではのシニカルな視点も垣間見える。ヒッチコック流『ちびまる子ちゃん』か! でも、アンがさほど本筋に絡んでこないのが実にもったいない。
・電話でチャーリー叔父が来ることを知ったエマが大喜びで「ええ、私の末の弟なんですよ。末っ子はいつまでも甘えん坊でわがままでねェ~ホント!」と語るのを見てうんざり顔になる末っ子ロジャーという一コマが実にほほえましくうまい。フィクション作品内の家庭を見て「作者のうちもこうだったに違いない」と判断するのは大間違いなのだが、こういう非常にリアルな描写は、作中のロジャーやチャーリー叔父と同じく末っ子だったヒッチコックが実際に観た、「家族のことなら私がいちばん知ってる」とうそぶく母ちゃんの姿のトレースのような気はする。奇しくもヒッチコックの母の名前は本作のシャーロット達の母親と同じ「エマ」だし、本作の撮影中にその母がイギリスで亡くなっているというのもできすぎた符合なのだが、本作で実力派女優パトリシア=コリンジ(50歳)が演じる頑固で情に厚くやや専制君主ぎみな母親の造形は、他作品と比べても異様に彫りが深いのである。Mother of Love……ルナシーねぇ。
・「うちヒマすぎなので遊びに来て!」とチャーリー叔父に電報を打とうとして郵便局に向かったシャーロットは、まさにすれ違いでニュートン家に届いたチャーリー叔父来訪の電報を受け取る。この偶然の一致に喜ぶあまり、窓口のおばちゃんに「ねぇ……テレパシーって信じる?」と聞いて、おばちゃんが「テレグラム(電報)ですか? どうぞ。」と機械的に対応する単純なボケが、なんか妙におかしい。ほんと、夢見る少女のウキウキワクワクなんて他人にとっちゃどうでもいいよねぇ。
・機関車でサンタローザに向かうチャーリー叔父の描写で本作のヒッチコック出演シーンが出てくるのだが、具体的に彼が向かいの医者夫婦とやっているトランプゲームが何なのかが今一つはっきりしないのがもどかしい。スペードの AからK まで全ぞろいでヒッチコックの顔が青ざめているらしいので、たぶんババ抜きの最初なんじゃないか(捨てるカードがないから)と私は推測したのだが、これだとババのジョーカーがないのでそれほどダメでもないのである。それに始まったらどんどんカードは捨てられるし。そう不思議に思ってちょっと調べてみたら、スペードは「剣」がモチーフなので、人殺しの道具ということで不吉だという迷信があるのだそうだ。だから、それが全ぞろいで青ざめてたのか……なるほど。でも、日本ではあんまり浸透してない迷信ですよね。仮面ライダーブレイドとかキュアソードいるし。
・迷信といえば、ニュートン家での逗留中に割り当てられた部屋(もとはシャーロットの部屋)に入ったチャーリー叔父が、取った帽子をベッドに置こうとしたところを義兄のジョゼフに「置いちゃいけないよ!」と注意されるくだりも、ニュートン家のちょっと古臭い雰囲気を象徴していていいやり取りである。主にイタリアを中心に、ベッドに帽子を置くとベッドの持ち主に不幸が訪れるという迷信があるらしい。それはかつて、臨終をみとった医者や司祭が帽子をベッドに置いていたからだとか。勉強になるなぁ。そして、その忠告にもかかわらずベッドに帽子を投げ置くチャーリー叔父なのであった……
・さすがはニュートン家の全員から慕われているチャーリー叔父だけあって、彼はそつなく家族全員にプレゼントを贈り、その中でシャーロットに贈ったエメラルドの指輪が本作の重要なキーアイテムとなる。ただ、姉エマにプレゼントとは別に2人の両親(シャーロットの祖父母)の遺影を渡しているのも、本作の結末を予感させるようでちょっと違和感のある行動ではある。本作登場人物たちの言動はほんと、一挙手一投足に意味があり見逃せない。
・プレゼントのうち、義兄ジョゼフに贈られたのが簡素な革ベルトの腕時計で、ジョゼフがそれにかなり喜び「生まれて初めて着けるよ……職場でうらやましがられないかな!?」と語っているのが時代を感じさせる。今は「ケータイあるから着けない」を通り過ぎてスマートウォッチに戻ってきましたね。
・見知らぬ他人のイニシャルの彫られた指輪をもらった直後から『メリー・ウィドウ・ワルツ』のメロディを口ずさみ、「これなんていう曲だったっけ……?」とつぶやきだすシャーロット。最終的に彼女は思い出すのだが、そのタイトルを言おうとした瞬間にチャーリー叔父はわざとグラスの水をこぼして話題を断ち切る。なぜ叔父は『メリー・ウィドウ・ワルツ』を嫌うのか。「メリー・ウィドウ」とは「陽気な未亡人」のこと。つまり……という感じで謎は深まるのだが、ちょっとここの経緯でのシャーロットの『メリー・ウィドウ・ワルツ』の連想が、先ほど彼女が嬉々として語っていたテレパシー的であるのがいかにも皮肉である。いや、指輪から読み取ってるから、これは「サイコメトリー」か。
・チャーリー叔父の歓待で沸くニュートン家に、父ジョゼフの推理小説好き仲間である隣人ハーブがやって来るのだが、どうやらこのハーブはジョゼフ以外のニュートン家からは一様に嫌われているようで、特にアンとロジャーはあからさまに顔をしかめてハーブから離れていく。確かに、周囲の空気に気づかずジョゼフとの推理小説談義にひたすら没頭する不器用なハーブが毛嫌いされるのもよく分かるのだが、そんなハーブに本作のどの登場人物よりも強い親近感をおぼえてしまうのはなぜなのかしらん!? わかるわ~。
・同じ推理小説好きなはずなのに、ジョゼフとハーブで話がまるでかみ合わないのがとっても面白い。これもわかるわ~。私、大学んときに推理小説同好会に入ってたから。横溝正史ファンと森博嗣ファンで話が合うかって話ですよ! 楽しいですけどね。
・ニュートン家に来た夕刊新聞のある記事を読んで顔をしかめたチャーリー叔父は、近くにいたアンを呼んでむりやりに「新聞を折りたたんで小屋を作る」工作を始め、ドアの部分を開けるしぐさで「その部分」をちぎり取るのであった……実に巧妙な隠ぺい工作! しかも小屋うまい。
・咄嗟に考えたにしてはいい作戦だったはずのチャーリー叔父の新聞工作だったが、超能力レベルで察しのいいシャーロットはすかさずこれを「都合の悪い記事を抜き取るための策」だと見抜いてしまう。叔父は一瞬顔をこわばらせるが、すぐ笑顔に戻り「昔つき合ってた彼女の記事が載ってたんだよ……恥ずかしいからさ。」と釈明するのだった。これ、ウソじゃないんですけどね……
・「政府のなんとか調査委員会」の2人組が来て、アメリカの模範的な家庭とみなされたニュートン家が取材と写真撮影を受けるという話を嬉しそうに話すエマと、それに対して露骨に嫌な表情になり「写真なんて絶対ダメだ! 国中のさらし者だよ。思慮が浅いと思わないのか?」と反対するチャーリー叔父。これは当然、その2人組が自分を追ってきた刑事だと確信している叔父だからこその拒絶ではあるのだが、2020年代の今から見ると、叔父の言い分も「お国から認められた」ことを全面的かつ無批判に受け入れる思考停止状態へのまっとうな抵抗のように見える。いや~、本作のチャーリー叔父というキャラクターは、単なる悪役にとどまらぬ造形の深さがハンパない。
・2020年代現在のサンタローザは人口約18万人の都市(日本の鎌倉市くらい)だが、本作が制作公開された1940年代当時は人口約1万2千人という町レベルの規模だった。作中でも、シャーロットが誇らしげにチャーリー叔父を連れて外を歩いて、彼女の友人や周囲の通行人が叔父を珍しげに見る様子や、交通整理をしている警官が叔父の来訪を知っている描写があることからも、サンタローザという町全体が一つの家族のような空気感を持っていた片鱗がうかがえる。フィクションではあるものの、古き良き第二次世界大戦前のアメリカを今に伝える貴重な史料映像ということになるのだろうか。
・ニュートン家の中では粋で明るいチャーリー叔父なのだが、ひとたび表に出ると、銀行では窓口にいるジョゼフに「やぁ、預金使い込んでる? 銀行はどこもいい加減だからな。」と周囲がドン引きするブラックジョークをかまし、ヒマしてる未亡人のポッター夫人に会えば「こんにちは、ミス・ポッター……え? ミセス? すみませんミスかと思ってしまいました。」と見え透いたお世辞を言って笑わせるという、サンタローザの純朴な住民にとって刺激の強い言動を繰り返し、さすがのシャーロットも閉口してしまう。単にニューヨーク仕込みのジョークがきついだけなのか、それとも冗談が通じないのは承知の上で周囲の人達を混乱させるのが好きなのか。
・チャーリー叔父が刑事だとにらんでいる、くだんの「政府のなんとか調査委員会」の2人組、グレアムとサンダースがニュートン家を訪問するのだが、一階のキッチンでウッキウキで取材に応じるエマと、二階から階段の手すり越しに階下の様子をうかがっている叔父との「動」と「静」の対比が実に印象的。特に物音も立てずに無表情で下を見おろすチャーリー叔父のたたずまいは、どこからどう見ても『サイコ』のノーマン=ベイツと同種の不穏さを身にまとっている。比較すればけっこう家の作りも違うのだが、両者の「階段」を重要な境界線に設定した撮り方も、かなり似ているような気がする。
・本作のニュートン家のシーンは、実際にサンタローザにあった住宅を借りて撮影したとメイキング映像でも語られているのだが、セットを作って撮ったとしか思えないくらいにカメラが自由に登場人物に寄ったり離れたりしているのも特徴的である。今までのヒッチコック作品はカット割りで引きとアップを取り分けたり、ずっと引き固定で演劇みたいに話を進める古い手法が多かったような気がするのだが、いよいよ本作から「ハリウッドのヒッチコック映画」らしい、登場人物の心理状態に合わせてカメラが距離を変えていくタッチが始まったような気がする。明らかにフェイズが変わった感じ!
・チャーリー叔父が静かにキレてサンダースの写真フィルムを取り上げたせいで、30分もしない内に終わってしまった2人組の来訪だが、若いグレアムは実にスムーズにシャーロットとイイ感じになり、その夜に2人きりでサンタローザの町案内をしてもらうという名の初デートにこぎつける。やりますねぇ! グレアム役のマクドナルド=ケリーは決してケーリー=グラントのような完全無欠の二枚目スターという感じでもないのだが、とにかく笑顔がステキで、表情にチャーリー叔父のような裏表がないところが魅力的である。にしても、シャーロットといいエマといい、なんでこうも「よその都会から来たひと」に弱いのだろうか。まるで東京もんを見る山形人のごとし!
・本作も半分を過ぎたところで物語は大きく進みだす。出逢って数分でナンパし、数時間後の初デートにこぎつけたグレアムが、自身がチャーリー叔父を追う刑事であるという衝撃の告白をシャーロットにうちあけたのだ。え! 告白って、そっちの!? 全くひっぱりなしにすぐ正体を明かすのも実にグレアムらしいどストレートな攻め方なのだが、これによってシャーロットの叔父を見る目は大きく変わり、「そういえば……」という感じで叔父がもみ消した新聞記事を図書館で発見した彼女は、ニューヨークで世間をにぎわせている「メリー・ウィドウ連続殺人事件」の最後の犠牲者のイニシャルが、叔父からもらったエメラルドの指輪に彫られたイニシャルと同じであることを知るのだった。これによって、物語の焦点はシャーロット VS チャーリー叔父の構図にぐっと絞られてくるのだが、クロかシロかはまだわからないにしても、チャーリー叔父が容疑者であることが判明する経緯があまりにも最短ルート(刑事が教えてくれた)なのが、ちょっとヒッチコックらしくなくてもったいない気もする。まぁ、サンタローザで撮りきることを目指すような小品映画だし、しょうがないっちゃしょうがないのだが……なんかこう、さぁ!
・夜の町を図書館目指して疾走するシャーロットの姿にかぶせる BGMがやっぱりうるさいのだが、ラフマニノフみたいなピアノのゴリ押しで強引に「あハイ、いいシーンっすね……」と納得させられてしまう。問題の記事のどアップで「ジャーン!!」じゃないよ。2時間サスペンスじゃないんだから。
・本作の核心に迫る、ニュートン家の晩餐におけるチャーリー叔父の「都会の陽気な未亡人」を痛烈に糾弾する30秒ワンカットの独白シーン! 徐々に叔父の顔にズームしていき、シャーロットの「あの人たちだって人間よ?」という反論を聞いて、叔父が急にカメラ目線になって「果たしてそうかな?」とつぶやく余韻がものすごい。思えば、この映画の公開された直前にアメリカも真珠湾攻撃を受け、「未亡人が大量に生まれる時代」が始まっていたわけで、そこにこういうテーマを持ち込んでくるヒッチコック監督のセンスは相当にきわどいものがある。もうちょっと遅れてたら、この映画お蔵入りになってたかもね……
・物語の本筋には全くからんでこないのだが、チャーリー叔父とシャーロットが入った、勤務明けの兵隊さんがクダを巻いてるような場末のバーで働いている、シャーロットの幼なじみの娘ルイーズのやさぐれ感が妙に印象深い。これもまた、ヒッチコックが描きたいと思ったアメリカの一面だったのだろうか。「バイト先しょっちゅう変わるの」と語るルイーズらしく、店員の制服のサイズがまったく合っておらずだぶだぶなのが細かい!
・本作のラストまでの残り30分くらいは、大好きだった叔父が連続殺人犯であるという疑いが確信に変わったシャーロットと、その命を奪おうとつけ狙う叔父との緊張関係がメインのサスペンスドラマが展開されていくのだが、正直、シャーロットを殺そうと工作してるヒマがあるんだったら夜逃げしてでもとっととトンズラぶっこいた方がいいんじゃないかと思えてしまうので(逃走資金にも困ってなそうだし)、ここらへんから叔父の行動に合理性が無くなっている気がして、ドラマとしては質が落ちているように思える。サンタローザにいる限りグレアムたちが逐一マークしてるのは明らかだし、とりあえず通報しないと約束してくれているシャーロットをあえて殺す意味がないのである。
・映像として、クライマックスの列車内でのシャーロットとチャーリー叔父のアクションシーンは非常にスリリングで面白いのだが、やはりそこで叔父が犯行に及ぶ意味がないように感じられるので、やはり物語の帰結でそうなったというよりも、「映画として悪人には死んでもらわないと」という大人の事情で叔父が無理やり退場させられたように見えてしまう。結局、叔父が悪人であると確定するまでの演出は本当に先鋭的で面白かったのだが、確定したとたんに古臭い勧善懲悪の犯罪活劇みたいになってしまったのが、本作の致命的なマイナス点だと思う。ふろしきを畳むための展開でしかないんですよね、後半が。そこにちょっとヒッチコック一流のセンスが光る余裕はなくなってるんだよなぁ。惜しい! 実に惜しいんだけど、この失敗への反省がのちの『サイコ』を生んだのではないかという気配は、かなりある。
・ただ、後半のチャーリー叔父の行動の論理性の破綻の原因となったのは、娯楽映画としての事情とかいう単純な話ではなく、冷徹な殺人鬼である彼ですら生身の人間に戻ってしまうほどの強さを持った「エマやシャーロットのいるニュートン家の愛の引力」だったのかも知れない。一刻も早く逃げるのが最善のはずなのに、叔父は姉エマの一点の曇りもない信頼のまなざしに「自慢の弟」として応えるためにニュートン家に留まり、「あんなに敬愛してくれていたはずの姪が自分を裏切った」という絶望に憑りつかれたがゆえに、功利計算抜きでシャーロットを殺さねばという執着にひた走ってしまったのである。すべては愛のなせるわざだったのか……いや~やっぱ、この映画は深いわ!!
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ヒッチおじさん領・域・展・開!!「落ちてるんじゃねェ…めちゃ上がってるんだ」 ~映画『逃走迷路』~

2025年06月10日 23時03分34秒 | ふつうじゃない映画
 ヘヘヘイどうもこんばんは! そうだいでございます~。
 いよいよ外がじめじめしてまいりました。まだ私の住む山形県は梅雨入りしてないんですが、多分今週末には入るんじゃないかという予報が出ております。天気がいいとめっちゃ暑くなるんですが、ここんとこは曇天続きなんですよね。雨も必要ではあるんですが、カラッとした日差しも恋しいやねぇ。

 最近あんまり映画館にまで行って観たいなという映画がなく、もっぱら家か喫茶店で本を読むばっかりの日々なのですが、やっと山形でも吸血鬼映画の最新作『ノスフェラトゥ』が公開される日取りが決まりまして(6月20日から)、ひそかに楽しみにしております。どっちかっつうとウィレム=デフォーさんがヴァン・ヘルシング教授を演じるっていうところに興味がありますね。かつて吸血鬼(ノスフェラトゥその人!)をやったことのある方が、その天敵になるとは……でも、『ドラキュラ』じゃない『ノスフェラトゥ』のほうのヘルシング教授って、あんまり役に立たないよね。今回はどうかな!? 少なくとも、去年だったかおととしだったかの『ドラキュラ デメテル号最期の航海』よりは面白いといいっすね。

 さて、そういう感じでクラシックなジャンルの映画に目がないわたくしが、誰からも頼まれてないのに勝手にぶつぶつと続けている「ヒッチコック監督の映画を古いほうから一作一作観ていく企画」を、今回もやってみたいと思います。けっこう久しぶりですよね! これ、ちゃんと腰をすえて DVDを止め止め観る時間と体力の余裕がないとできないんですよ……ま、プロの批評家でも何でもないしろうとの感想文コーナーですので、気楽に行きましょう。

 そんじゃ今回の作品は、こっちら~ん。


映画『逃走迷路』(1942年4月公開 109分 ユニバーサル)
 『逃走迷路』(とうそうめいろ 原題: Saboteur)は、 アルフレッド=ヒッチコック監督によるスパイサスペンス映画。自由の女神像を舞台にしたクライマックスシーンは、当時「このアングルをどのように撮影したのか?」と話題を呼ぶ撮影方法となった。この自由の女神像での場面の絵コンテはヒッチコック監督自身が描いており、自由の女神像の片腕とたいまつ部分の原寸大のセットを製作して撮影された。問題のアングルに関しては、回転する小さなサドルと、俳優の目の前から12m の高さまでカメラを引き上げることから生まれる遠近感覚を利用した特撮技術によるものだった。

 ちなみに、本作の原題『 Saboteur』とよく似たタイトルで、同じヒッチコックによるイギリス時代の監督第20作『サボタージュ(原題:Sabotage)』と混同されることがあるが、どちらも「破壊活動」という意味が共通しているものの、完全な別作品である。

 ハリウッドでの監督第4作『断崖』(1941年)の撮影中、ヒッチコックは数人の脚本家と、自身のアイデアをもとにした『逃走迷路』の脚本を制作した。この作品は破壊工作員の疑いをかけられた青年が主人公の物語である。当時ヒッチコックを雇っていたセルズニック・インターナショナル・ピクチャーズの映画プロデューサー・デイヴィッド=O=セルズニックは、この脚本をユニバーサル・ピクチャーズに売り、ヒッチコックはユニバーサルに出向して監督することにとなったが、キャスティングに口出しをすることはできなかった。ヒッチコック監督が初めてユニバーサルで制作することとなった本作は、公開されると商業的成功を収めた。この時期にヒッチコックは、ロサンゼルスの高級住宅地ベルエアにある広大な邸宅に引っ越し、ここが亡くなるまでの終の棲家となった。
 ちなみに、本作の制作中の1941年12月に真珠湾攻撃が行われ太平洋戦争が開戦し、アメリカも戦時下に入ることとなったが、ヒッチコックはイギリスに帰国することはできなかった。

 本作の撮影中、ヒッチコック監督はニューヨーク港で当時アメリカ最大級だった定期客船ノルマンディー号が火災により横転したニュースを知り、作中の爆弾テロにより横転した新造戦艦の外観として、当時の実際のニュース映像を使用している。

 ヒッチコック監督は、本編開始1時間4分31秒ごろ、ドラッグストアのショーウインドウの前で女性と話をしている男性の役で出演している。


おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(42歳)
脚本 …… ピーター=ヴィアテル(21歳)、ジョーン=ハリソン(34歳)、ドロシー=パーカー(48歳)
製作 …… フランク=ロイド(56歳)
音楽 …… フランク=スキナー(44歳)
撮影 …… ジョセフ=A=ヴァレンタイン(41歳)
編集 …… オットー=ルドウィグ(39歳)
美術 …… ロバート・フランシス=ボイル(32歳)
制作・配給 …… ユニバーサル・ピクチャーズ

あらすじ
 カリフォルニア州グレンデールの航空機製造会社で働くバリー=ケインは、軍需工場への破壊工作(サボタージュ)の濡れ衣を着せられる。工場で起きた突然の火災に際して、バリーが同僚で親友のメイソンに咄嗟に渡した消火器にガソリンが詰めてあり、被害が拡大してメイソンが焼死した事件の容疑者に仕立てられたのだ。手がかりはバリーに消火器を渡した男フライだったが、フライは工場の従業員ではなく事故後に姿を消した。
 バリーは、事件の前にフライが落とした封筒にあった住所「ディープ・スプリングス牧場」に向かうが、牧場主のトビンはフライという男など知らないと語る。しかし、トビンの幼い孫娘スージーが無邪気にバリーに渡した紙はフライからの電報で、「ソーダ・シティに向かう」と書いてあった。トビンに詰め寄るバリーだったが、トビンの通報で駆けつけた警察にバリーは逮捕される。護送中、隙をついてバリーは橋から飛び降りて逃亡し、人目のつかない小屋に避難して盲目の老紳士フィリップに助けられる。フィリップの姪パトリシアはバリーを警察に引き渡そうとするが、無実を主張するバリーに心を動かされ犯人捜しを手伝うことになり、やがて2人は愛し合うようになる。

おもなキャスティング
バリー=ケイン     …… ロバート=カミングス(31歳)
パトリシア=マーティン …… プリシラ=レイン(26歳)
フィリップ=マーティン …… ボーン=グレイザー(69歳)
チャールズ=トビン   …… オットー=クルーガー(56歳)
フリーマン       …… アラン=バクスター(33歳)
サットン夫人      …… アルマ=クルーガー(70歳)
ニールスン       …… クレム=べヴァンス(62歳)
トラック運転手     …… マレイ=アルパー(38歳)
サーカス団のドクロ男  …… ペドロ=デ・コルドバ(60歳)
サーカス団のこびと少佐 …… ビリー=カーティス(32歳)
サーカス団のひげ女   …… アニタ=シャープ・ボルスター(46歳)
フライ         …… ノーマン=ロイド(27歳)


 はいきたどっこいしょ! ヒッチコックがアメリカ・ハリウッドに活動拠点を移して2年、進出第1作の『レベッカ』(1940年)から数えて早くも5作目となる『逃走迷路』の登場でございます。ハイピッチですね~。

 ハリウッドの大物プロデューサー・セルズニックの映画会社に所属する形で渡米したヒッチコックでしたが、セルズニックの会社で制作した映画は『レベッカ』のみで、その後はしばらく、セルズニックから他の映画会社にレンタルされる派遣監督スタイルであくせく映画を作っていくこととなります。
 そんな中、後年あの『鳥』(1963年)以降の最後期作品で多くタッグを組むこととなる、アメリカ最古の老舗映画会社ユニバーサル・ピクチャーズのもとで初めて映画を制作することとなったのが、今回の『逃走迷路』でした。大事な作品ですね~。

 それまでのハリウッド時代の4作品を観てみますと、『レベッカ』~『スミス夫妻』の3作品はやっぱりどこか他人様の依頼で映画を作っているという裏事情が垣間見えるような、どこか他人行儀なまどろっこしさのある作品だったのですが、前作『断崖』あたりから、徐々にハリウッドになじんできたヒッチコックの本領が発揮される助走が始まったような気がします。そして、そのスピードがさらにのってきたのが今作『逃走迷路』なのではないでしょうか。

 とは言いましても、『断崖』と『逃走迷路』は双方ともに「ヒッチコックらしさ」がしっかり出た作品ではあるものの、その内容に関しては、だいぶジャンルが違うんですよね。
 すなはち、両者ともに映画を観ている観客の共感を誘うような、愛すべき個性や欠点のある人物たちを主人公に据えながらも、

・日常の中にひそむ犯罪や殺意の影をクローズアップした「ミニマム系サスペンス」…… 『断崖』
・市井の人間が社会を揺るがす巨悪の謀略に巻き込まれる「大風呂敷系スリラー」 …… 『逃走迷路』

 という、大きな違いがあると思うのです。
 どちらも、ヒッチコック監督がそれまでのイギリス時代の約15年間のキャリアの中で手ごたえを得て大いに名声を上げてきたジャンルであるわけなのですが、ここ新天地ハリウッドにおいても、それぞれのスタート地点となる作品が並び立ったというわけなのです。
 ちなみに、イギリス時代の作品を例に挙げますと、「ミニマム系サスペンス」に属するのは『下宿人』(1927年)『殺人!』(1930年)『第3逃亡者』(1937年)などで、「大風呂敷系スリラー」に属するのは『暗殺者の家』(1934年)『三十九夜』(1935年)『バルカン超特急』(1938年)あたりになりますでしょうか。どれもクセの強い作品でしたね~。

 そういった感じですので、これからどんどんハリウッドで量産されていくヒッチコックの超有名傑作群も、大雑把にジャンル分けすればだいたいこの『断崖』か『逃走迷路』いずれかの流れに属する作品になると思いますので、そういう意味でも、今回の『逃走迷路』はその後の数多くの名作たちの「長男 / 長女」にあたる重要作であるわけなのです。これは観ておかないとね!

 というわけで、本題である作品の内容に入っていきたいのですが、あの、いつもならば映画に関するつれづれの他に、後半に≪視聴メモ≫ということで内容を観ていて細かく思いついたことを並べ立てるコーナーがあるのですが、今回はあまりにもシーンごとに思いつく点が多くなりそうなので、視聴メモは丸ごと割愛させていただきます。こんな見どころ盛りだくさんな映画、いちいち気になったこと羅列してたら何万字あったって足りないっすよ!

 ところで、のっけからけなすような言い方になってしまうのですが、この『逃走迷路』、実はよくよく観てみると、そんなに派手な作品ではないんですよね。各シーンを眺めるぶんには、そんなに目を引くようなインパクトのあるシーンは、「最後のあれ」まではほとんど無いに等しいのです。「最後のあれ」以外はね!
 つまり、この作品は「終わり良ければすべて良し」を体現しているというか、クライマックスでの因縁の悪役フロイの最期のインパクトに作品すべての出来を懸けているといっても過言ではない「一点豪華主義」な作品になっていると思うのです。

 まず言えることは、この作品の大部分が「イギリス時代の諸作品」の再構成でできているという点です。もちろん、単なるリメイクではなく、過去作での反省を活かしてよりクオリティの高いものになっていることは当然ですが。
 細かいことを言えば、クライマックス手前の映画館の中でのアクションは、原題が本作とよく似ている『サボタージュ』(1936年)の設定のセルフリメイクな気がします。ただ、単に映画館を舞台にしているだけでなく、ちゃんと上映中の映画を利用して印象的な銃撃戦(ブラックジョークすぎる!)に仕上げているのが、イギリス時代のリベンジみたいでいいですね。

 しかしなんと言っても本作は、「無実の罪を着せられた主人公が、ヒロインや周囲の人々の誤解を解きつつ悪の組織に立ち向かっていく」という話の流れが、あの『三十九夜』に非常に似ています。
 ただ、主人公のキャラクターがあまり観客の多くにとって共感できる点が見られない「生活感の薄い外国人(カナダ人)」という中途半端なハードボイルドヒーローだった『三十九夜』は、途中で彼の逃避行に付き合わされるヒロインがかわいそうになるくらいに自分勝手に突き進んでいく強引さがあり、それに拒否反応を示す人(特に女性?)も多かったのではないでしょうか。なんで知らん男と手錠つないで昼夜走り回ってホテルで同衾せなあかんねんと! そんな状況を経て最後に相思相愛になったって、それほんとに「愛」なんですか?っていう疑問が残りますよね。ストックホルムとか、吊り橋効果とか……

 それに対して今回の『逃走迷路』はというと、まず公開された当時のアメリカが第二次世界大戦に参戦した直後ということで、戦争のために軍需工場で真面目に働く青年ケインが主人公であり、彼をおとしいれた悪の組織がアメリカの国防をおびやかす国内ファシズム勢力であるという構図をかなりはっきりと打ち出しており、そんなケインを応援しない人なんかいるんですか!?という無言の圧力が2020年代の今観てもひしひしと伝わってくる強固な骨組みを形成しているのです。また、そんなケインを演じている主演のロバート=カミングスも当時非常に人気のあるコメディ映画スターで、この『逃走迷路』などの映画の撮影を終えた後にアメリカ陸軍航空隊(のちのアメリカ空軍)に所属し従軍、のちのロナルド=レーガン大統領とは友人関係という、好感度が非常に高い俳優さんでしたので、まずこの点で観客が本作に大いに感情移入して応援したくなる素地はできていたわけなのです。

 そしてもう一つの改善点と言えるのは、本作のヒロインであるパットことパトリシアが、重大なテロリストである可能性もあるケインを相手にしても全く引かず、それどころか車で2人きりになったとたんに逆にそれをチャンスと解釈してケインをふんじばって警察にしょっぴこうとするような豪傑娘に設定されているという点です。この、鳥山明のマンガから出てきたかのようなキャラの濃さよ! 鼻っ柱タングステン製か!? こういうヒロインだったら、ケインとの不本意な珍道中を何日続けようとも「かわいそう」という雰囲気にはなりませんよね。どてらい娘もいたもんだ。

 ただ単に「気が強い」とか「体育会系」とかいう属性のあるヒロインは、イギリス時代のヒッチコック作品にもたくさんいたわけなのですが(『暗殺者の家』とか『第3逃亡者』とか)、今作で特筆すべきなのは、そういったヒロインのたくましさが、映画のクライマックスまでちゃんとヒロインの活躍の場が与えられる脚本を生んでいるという点です。
 つまり、今までの「大風呂敷系スリラー」の諸作では、戦う相手が非常に規模の大きな組織になる展開が多かったので、男性主人公と女性主人公のどちらにも充分な見せ場や役割が割り当てられつつ最後まで映画がいくという流れは少々難しいところがありました。結局、ド派手な銃撃戦などのアクションは警察まかせで主人公たちは安全な場所に避難している、などといった展開が多かったのです。巻き込まれ型主人公って、特にものすごい特殊技能を持ってるわけでもないですからね。

 ところが本作では、「悪のファシズム組織」の中でも「首魁トビン」、「哀しき中間管理職幹部フリーマン」、「主人公と直接の因縁がある末端構成員フロイ」というふうに、非常に綿密に悪役を細分化させていますので、ふつうの一般市民であるケインとパトリシアでも、知恵を絞ってフロイくらいは追い詰めていけるということで、見せ場をしっかり用意することができたわけだったのです。主人公たちが最後まで物語の趨勢に関わる。当たり前のことではあるのですが、これほんとに重要ですよね。そして、大風呂敷を広げるスケールの大きな作品ほど、このつじつま合わせが難しくなると思うのです。

 実はこの『逃走迷路』って、結局ファシズム組織の首領であるトビンがどうなったのかは映画の中ではまったく語られず、なんだったらテロの真相を知っているフロイもあんなことになっちゃったので、「悪が懲らしめられた」とは言いがたい、「トータルでいうと正義の負け」みたいな結末なんですよね。そう考えると手放しで「おもしろかったー!」と言うべき映画ではないはずなのですが、直接ケインをひどい目に遭わせたフロイがしっかりやっつけられて終わるので不思議な爽快感が残るエンタメ良作になってしまっているのです。だまされてはいけない! 新造戦艦だって思いッきり計画通りに爆破転覆しちゃったし。

 これはやはり、中盤でトビンにいいようにあしらわれて監禁されたケインとパトリシアが、それぞれの知恵を使ってケインは火災報知器、パトリシアはルージュで書いたメモで脱走に成功し、ケインはフロイを見つけて逃走させ、パトリシアは根性のすわった演技でフロイを自由の女神像内で足止めし、最後にちゃんとフロイが自身の罪を認めた上で罰を受けるという順路がしっかり作られていたからだと思うのです。大局を見ればボロ負けなのですが、ケインとパトリシアの目で見たら愛の連携でつかんだ勝利という、だまし絵みたいなヘンな映画なんですよね。

 ここらへんの妙にリアルなトビンの逃げ勝ちっぷりには、どうしても当時、現在進行形で第二次世界大戦の真っ最中だったという、どうしようもない事情が関係しているのではないでしょうか。太平洋戦争にいたっては始まったばかりだし。
 つまり、この映画の中で首魁のトビンまで一網打尽という脚本にするのは容易いことだったのでしょうが、それでは映画で語りたかったファシズムの恐ろしさが矮小化されてしまうという懸念があったのだと思います。本作のトビンが象徴しているように、ファシズムというものは別にナチス・ドイツのようにわかりやすいワルな恰好をしている集団ばかりでなく、それとすぐにはわからない姿をしてアメリカ市民の中に溶け込んでいるものなのです。ほら、あなたの町にいる、いかにも人の良さそうな好人物、豊かな財力を持った名士たちの中にも、アメリカの転覆を狙っている悪魔の手先はいるのかもしれませんよ……こういった意識を当時の観客に持たせたいという意図のために、おそらくこの映画のトビンは罰を受けないまま野に放たれることとなったのだと思います。これもまぁ、国民に注意を喚起するという意味合いでのプロパガンダ映画ですよね。でも、それをそうと感じさせないところが、本作が『海外特派員』よりもよくできている証拠だと思います。

 とまぁ、そういった小理屈を抜きにしましても、本作におけるトビンという稀代の悪人は、この映画だけで退場させるにはもったいないような魅力にあふれたキャラクターとして描かれています。
 その態度は常に余裕しゃくしゃく、夜会服も粋に着こなしダンディな笑みを浮かべながらも、ときに異様にすごみのある冷たい表情も垣間見せ、テロ行為や暴力沙汰はもっぱら配下のフリーマンやフライ、執事のロバートに任せるというその姿は、まさにこれアニメ版第6期『ゲゲゲの鬼太郎』の、大塚明夫さん演じる妖怪総大将ぬらりひょんサマそのものでねぇかァア!! 私が惚れる理由はそこだわ……

 いくらケインが情熱たっぷりに「お前らは必ず敗れる! 僕たち勇気ある国民は立ち上がるぞ!!」と叫んでも、トビンはあくびまじりに、

「議論はそのくらいでいいかな……じゃロバート、そろそろお客さま(ケイン)をお休みさせて。」

 と語り、それに応じた執事のロバートはおもむろにケインの後頭部にブラックジャック(殴打用の凶器)を振り下ろす。
 この描写だけで、トビンという人物がケインの手に負えない次元の存在であることがうかがえるかと思います。尊敬しちゃいけないけど、美学はあるような気がしますよね。となると、執事のロバートは朱の盤か!
 本作で、このように非常に魅力的な悪役トビンを演じた俳優オットー=クルーガーさんなのですが、ご本人はアメリカ生まれなものの、そのお名前からもドイツ系の方であることは間違いなさそうです。だとすれば、そんな彼があえてこのような役を演じたというのも、あの『海外特派員』でドイツから亡命してきたばかりのアルベルト=バッサーマンが味わいのある反戦政治家を演じたように、何らかの強い意志があってのことだったのかも知れませんね。よくぞ演じてくれました……

 他の俳優さんに関してもいろいろ言いたいことはあるのですが、簡単にまとめてしまうと、本作は良い意味で「市井のしがない人々」が力を合わせて巨悪に立ち向かうというリアリティがよく出ていたキャスティングになっていたと感じました。
 要するにこの『逃走迷路』には、前作『断崖』に出てきたケーリー=グラントやジョーン=フォンテインのように絵に描いたようなハリウッドスターは登場せず、全員かなり生活感のある顔ぶれになっていると思うのです。それはもちろんケインとパトリシアもそうなのであって、特にパトリシアを演じたプリシラ=レインさんは、非常に絶妙な「絶世とまではいかないが美人」な顔立ちで体格もわりとがっちり系、気は強いが全国区レベルの CMモデルになっていることをイジられると「へへ、それほどでも……」とはにかむという、かなりリアリティのある娘さんになっているのです。でも、そこがいい~!!

 そして、ケインが逃避行の中で出会っていく「長距離トラックの運ちゃん」「サーカス団の見世物芸人のみなさん」「盲目の老人フィリップ」という面々も、それぞれがトビンに拮抗できるほどの力を持っているわけでもないのですが、全員がその心の清廉さでケインを支えていく「無垢なる国民」を代表しているわけなのです。ここらへんの、確実に主人公の正義の心を次のステージにレベルアップさせてくれるキャラの存在って、イギリス時代のヒッチコック作品にはそんなにいなかったのではないでしょうか。なんか、イギリス時代のヒッチコック作品の脇役陣って、コメディリリーフばっかりだったような気がします。

 印象深い脇役というのならば忘れてならないのが、トビンと末端テロリストたちとの間で板挟みになってあたふたばっかりしてた幹部フリーマンを演じていたアラン=バクスターの、悪のファシストに全く見えないたたずまいです。
 孫に対しては、ただひたすらに「牧場のやさしいおじいちゃん」でしかなかったトビンと同じように、フリーマンは「我が子に何をプレゼントしたらいいのか悩む妻子持ち」でしたし、フリーマンを取り巻くテロリストたちも、車の長旅でヒマになれば眠気覚ましに一緒に歌を唄うし、靴下に穴があけば針と糸で器用につくろうし、監禁しているパトリシアの要望を聞いて飲み物を買ってきてもくれるいい人ばっかりなのです。それなのに、徒党を組めば爆破も殺人もいとわない凶悪集団になってしまうという、この恐怖。
 人によれば、あのヒトラーでさえも「1対1で話せばただのいい人だった」というエピソードが残っているくらいですから、そういう意味での真のファシズムの恐ろしさを、この『逃走迷路』の悪役たちは体現しているのかもしれません。単に通常パターンの逆張りをしていい人に造形しているわけではないと思うんですよね。これは深い……!

 他にも言いたいことはたくさんあるのですが、字数もかさんできましたので最後に、やはりあの自由の女神像での「フロイの最期」について。

 ここでの非常に鮮烈な「93m の高さからの落下」のトリック映像は、確かに今現在、その映像法を知ったうえで観ると合成部分も完全に隠しきれてはいないので、多少不自然だったりチープに見えたりもするかも知れません。
 それでも、この記事のタイトルでも申したように、「演者が落ちているようで実はカメラが上がっているだけ」という180°の発想の転換は、まさしく「コロンブスの卵」に類する、天才だけが許されるレベルのアイデアなのではないでしょうか。知ってみれば理屈は簡単なのですが、まずそれを思いつくことが容易でないのです。
 落下と上昇、この地球の重力すらも逆転させてしまうヒッチコックの映像マジック!! これは宇宙超怪獣キングギドラの引力光線か、はたまた『ジョジョの奇妙な冒険』の固有領域展開系スタンドか!?

 そして、ここでも「リアリティよりもインパクトを優先する」ヒッチコックイズムは健在であり、この撮影法を採用することによって、落ちる人間が「演技をしながら」落下できるという、現実的にはあり得ない味付けをすることができるところが、本当にすばらしいのです。
 だって、このシーンの何がいちばん記憶に残るかって、フロイがカメラ目線のまんま、つまりケイン(=観客)をガン見したままゆっくりと落ちていくさまが強烈なんですよね! 実際に落ちたら顔の向きも身体の向きも変わりながら一瞬で豆粒になっていくでしょうし、この撮影法ほど明確に見えるようなことはないはずですから。
 いい感じでリアル感を出しつつ、いい感じでウソも混ぜていく。これこそが、ヒッチコック流なのでしょう。そして、そのためならばどんなに真逆な方法なのであろうと大胆に採用して現実化していく。当時の若き天才の、奔流のように噴出する才気のものすごさが瞬時にわかる「アゲアゲ落下シーン」なのでありました。アゲ~⤴(聖あげはさんふうに)!!


 こんなわけで、粋なことにアメリカを象徴する名所である自由の女神像を舞台に、またしてもものすごい映画伝説を打ち立ててしまったヒッチコック! 第二次世界大戦のまっただ中という苦境にはありますが、さて次はどのような映像マジックを見せてくれるのでありましょうか!?

 いや~、こんなに最新作がわくわくする映画監督、2020年代の今いますかね? もしいたら教えてください!
 いたらいいな~、特に日本に! 立ち上がれ、わこうど~。
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そんなんあり~!?超強引オチな欧米風『藪の中』 ~映画『断崖』~

2024年12月16日 20時08分07秒 | ふつうじゃない映画
 ハイどうもみなさまこんばんは! そうだいでございます~。
 いや~、気が付けば、もう年の瀬が近づいてますよ。師走! 別に師でもなんでもない私までもが忙しく駆けずり回る時期になってまいりました。今年もあっという間だったな……

 いろいろと忙しいんですよ、お仕事も遊びも。こんな時に、何の脈絡もなく昔の映画なんかのんびり観てらんないんですよ!
 それなのに、いつものこの企画をやってしまうというアンビレパンツ(©内田春菊)っぷりよ……うん、いつもの『長岡京エイリアン』だ!!


映画『断崖』(1941年11月公開 99分 RKO)
 『断崖』(原題:Suspicion)は、アメリカのロマンティックスリラー映画。夫に殺されるという疑念に取り憑かれた新妻を描く。 イギリスの推理小説家フランシス=アイルズ(1893~1971年)が1932年に発表した長編犯罪小説『レディに捧げる殺人物語』を原作とする。
 製作費110万2000ドル、配給収入は北米で130万6000ドルで海外では91万9000ドルとなった。
 第14回アカデミー賞でジョーン=フォンテインが主演女優賞を受賞した。
 本作は後年、アメリカの TVドラマシリーズ『 American Playhouse』(1982~93年放送)の枠内で1988年4月にリメイクされた(第7シーズン第11話)。
 ヒッチコック監督は、本編約46分51秒頃、村の郵便ポストに手紙を入れる帽子をかぶった男の役で出演している。

あらすじ
 1938年。ハンサムだがいい加減な性格の遊び人ジョニー=エイズガースは、イギリスの列車の中で眼鏡をかけた女性リナ=マクレイドローと出逢い、彼女を散歩に誘う。ジョニーはリナに接近するが、リナはそれを不愉快に感じ警戒する。しかしリナは、父である裕福な有力者マクレイドロー将軍が自分の結婚を考えていないことを知って傷つき、自暴自棄になった末に駆け落ち同然にジョニーと結婚してしまう。
 ヨーロッパでの豪華な新婚旅行を終えてジョニーが購入した新居に入ったリナは、ジョニーが仕事も収入もなく惰性的な借金生活を送っており、リナの父の脛を齧ろうとしていることに気づく。リナの説得を受けたジョニーは、彼の従兄の不動産業者メルベックの下で働くことになるが、そこへリナの父マクレイドロー将軍の死の知らせが届く。
 将軍の遺産がほとんどもらえないことを知ったジョニーは機嫌を悪くし、友人ビーキーと共に不動産会社を設立して景観の良い断崖にリゾート地を開発する計画を立て始める。そんな中、リナの脳裏にある疑惑がよぎる……

おもなキャスティング
リナ=マクレイドロー  …… ジョーン=フォンテイン(24歳)
ジョニー=エイズガース …… ケーリー=グラント(37歳)
イゾベル=セドバスク  …… オリオール=リー(61歳)
バートラム=セドバスク …… ギャビン=ゴードン(40歳)
ビーキー=スウェイト  …… ナイジェル=ブルース(46歳)
マクレイドロー将軍   …… セドリック=ハードウィック(48歳)
マーサ=マクレイドロー …… メイ=ウィッティ(76歳)
メイドのエセル     …… ヘザー=エンジェル(32歳)
ジョージ=メルベック  …… レオ=G・キャロル(49歳)
ホジスン警部補     …… ラムズデン=ヘア(67歳)

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(42歳)
脚本 …… サムソン=ラファエルソン(47歳)、アルマ=レヴィル(42歳)、ジョーン=ハリソン(34歳)
製作総指揮 …… デイヴィッド=O=セルズニック(39歳)
音楽 …… フランツ=ワックスマン(34歳)
撮影 …… ハリー=ストラドリング(40歳)
編集 …… ウィリアム=ハミルトン(48歳)


 はい、というわけでありまして、今日も今日とてヒッチコック監督の映画を観ていく企画なのでございます。いつも通り、後半の視聴メモでだいぶ字数がかさんでしまってるんで、ちゃっちゃといきましょう。

 いや~、おかげさまでこの企画もついにヒッチコック監督作品の「第27作」となる『断崖』まできました。感慨深いものがありますね!
 なんで感慨深いのかと言いますと、ヒッチコックが監督を手がけた長編映画って、全部で「53作」なんですよ。ということは、今回の第27作がまさに半分、「折り返し」をすぎた後半戦の最初ってことになるんですね!
 やっと半分を越えました……この調子でちゃんと最後の遺作までいけるのかしら!? まぁ健康第一でのんびりいきましょう。

 ちょっと、本題の監督第27作『断崖』にいく前に、その前の第26作『スミス夫妻』(1941年1月公開)に関して。

 この『スミス夫妻』ですが、我が『長岡京エイリアン』のヒッチコック企画では独立した記事にしないでスルーしちゃいます。
 その理由は、『スミス夫妻』がヒッチコックお得意のサスペンス映画ではなく純然たる「ラブコメ映画」だからなのですが、ヒッチコック監督が非サスペンス映画を撮るのって、けっこう久しぶりですよね。イギリス時代の『ウィンナ・ワルツ』(1932年)以来10年ぶりということになるでしょうか。私、この作品もしかしたら2005年のアクション映画『 Mr.&Mrs.スミス』のリメイク元とかなのかなと思ってたんですが、タイトルが同じだけで全く無関係だそうです。なんだよ……
 この作品は、当時ハリウッドでヒッチコックを雇っていた大物プロデューサー・セルズニックが映画会社の RKOに2作ぶんヒッチコックを職人監督として貸し出していたうちの一作で、もうひとつが今回の『断崖』ということになります。
 『スミス夫妻』は、主演の売れっ子女優キャロル=ロンバードを前面に押し出したコメディ映画で、ほんのささいなことから離婚するしないの大ゲンカになった夫妻のてんまつを描く他愛もない内容の作品です。はっきり言ってヒッチコックらしさがうかがえる演出はほぼ無く、すがすがしいまでに「キャロル=ロンバードを楽しむだけの映画」になっているのが、逆にヒッチコック作品としては異色ですよね。まぁ、アイドル映画みたいなものです。
 正直、役者が2人向かい合ってしゃべる画面ばっかりで悪い意味で演劇的だし、ギャグのクオリティも高いとは言えない(若い頃のドレスを着てお尻の部分が破れるとか、デートで屋根なし観覧車に乗ってたら停電で止まってどしゃ降りに遭うとか……)のですが、翌年に不幸な飛行機事故で33歳という若さで夭折してしまうキャロル=ロンバードの美貌と演技を楽しむのなら、まぁ見て損はないかなという感じですかね。別のヒッチコック作品に出てくる彼女が見たかった。
 当時この『スミス夫妻』もそれなりにヒットしたそうなのですが、その頃のコメディ映画を観たいのだったら、ふつうに『或る夜の出来事』(1934年 監督フランク=キャプラ)とかを観た方がよっぽどいいと思います。これはよくできてますよね。『スミス夫妻』よりも昔の映画なのに、比較するのもバカバカしいくらいハイレベルですよ!

 ただ、一つだけ言っておくのならば、この『スミス夫妻』での「会話ゼリフだけのお芝居映画」というつまらなさからの反省として、「大事なシーンになればなるほどセリフ演技が少なくなる」次作『断崖』が生まれたという意義はあるのではないかと思います。『スミス夫妻』はキャロル=ロンバード、『断崖』はジョーン=フォンテインということで、どちらもかなりの美人女優が出ずっぱりな作品ではあるのですが、全く対照的な作風になっているのが興味深いですね。

 ということで本題の『断崖』に入りたいのですが、本作はアカデミー主演女優賞(フォンテイン)を獲得した作品でありまして、実は賞レースにあまり縁のなかったヒッチコック監督のキャリアの中ではノミネートこそ何度もあったものの、オスカーをゲットできたのは作品賞の『レベッカ』と、この『断崖』だけだったのです。監督賞はついに獲れなかったという。
 でも、ここからわかるのは「賞とったとかホントどうでもいい」ってことですよね。だって今、ヒッチコックの代表作は?って聞かれて『レベッカ』とか『断崖』って答える人って、いますかね? いや、どっちも面白い作品ではあるんですけど、それ以上の大傑作がゴロッゴロしてますから!
 もう最近は、アカデミー賞をとったとかいう売り文句なんて屁のツッパリにもなってない感じ、しません? 昔はもうちょっと作品の質の担保になってる感じもあったような気がするのですが、今はもう、ね~。つまんないもんは賞とっててもつまんないし、そういうのに限って3時間くらいあるし! 「無冠の帝王」だっていいじゃないですか。トム・ブラウンに栄光あれ!!

 話を戻しますが、この『断崖』は、すでに有名だったイギリスの推理小説家フランシス=アイルズ(別筆名アントニー=バークリー 1893~1971年)の長編小説『レディに捧げる殺人物語』(原題 Before the Fact : A Murder Story for Ladies 1932年発表)を原作としています。
 キャリアの初期から有名な小説や戯曲を映画化することの多いヒッチコック監督でしたが、今作の原作者アイルズは、知名度の高さでいうのならば『巌窟の野獣』、『レベッカ』そして『鳥』の原作者であるダフネ=デュ・モーリア(1907~89年)とゆうにタメを張るのではないでしょうか。でも、私が一番好きなヒッチコック映画の原作になった小説はジョセフィン=ティの『ロウソクのために1シリングを』(1936年 ヒッチコックの『第3逃亡者』の原作)ですけどね! あの小説版の犯人にはほんとにビックラこきました。

 そんでま、今回の『断崖』は上の情報にもあります通り、純然たる犯罪サスペンス映画なのですが、ちょっと原作小説『レディに捧げる殺人物語』との違いもチェックしておきましょう。
 ちょうどね、今年の9月に創元推理文庫から復刊されてたんですよ! なんというグッドタイミング。『ピクニック at ハンギングロック』の原作小説とか、創元さんはいいとこを出してくれますよね~。大好き! でも、昨今はほんとに文庫本の値段が高くなり申した……

 映画『断崖』と小説『レディに捧げる殺人物語』とを比較してみますと、ヒッチコックの原作あり映画のご多分に漏れず、この場合も「原作に忠実率だいたい40% 」という感じで、共通しているエピソードもあるが映画化されなかった部分もだいぶあるという感じです。
 具体的にいうと大きな差異ポイントは2つありまして、ひとつはリナとジョニー夫妻の「恋愛的なパワーバランス」が原作でしっかり描かれているのに映画では極力あいまいにされていること、そしてもうひとつが「結末が全く違うこと」です。結末が違うのは……ま、なんとなく予想はつきますよね。

 一つ目の恋愛的なパワーバランスというのは、映画版のほうが「リナもジョニーも相思相愛」というほんわかした基本ルールは最初から最後まで変わらず、リナが動揺するのはジョニーの金銭感覚の崩壊っぷりや殺人者じゃないか?という別の問題に由来するものがメインです。
 ところが、原作小説ではリナが「28~36歳」というかなり生々しい年齢相応の変化をとげており、その中でジョニーと物を投げ合うような大ゲンカをして、ジョニーも買い言葉で「お前なんか資産目当てで結婚しただけだ」と放言したためにリナはロンドンの実家に帰って完全な別居生活を送り、その状況で年下の画家志望のロナルドという男性と交際するが、ジョニーほどにときめかないことに気づき再びジョニーのもとに戻る……といった、そうとうにドロドロしたリアルきわまりない時間の過ごし方をしているのです。これは……レディスコミックみたいに時間感覚がぼんやりした映画版の夫婦とはまるで違いますよね。こわい。
 ですので、原作小説と映画版とでは、それを楽しむ人々の種類というか「対象年齢」がだいぶ違うような気がするのです。小説版のリナのほうが、どうしてもジョニーにときめいた記憶を忘れられず、気が付いたら30代半ばという現実に直面してジョニーから逃れられなくなり、ついに……という「詰み状態」がじっくりと着実に描かれているのです。
 映画版はそこらへんの、中年にさしかかる女性の「あたしの人生これでいいのかしら?」的な焦燥感をできるだけカットすることでエグみを抜いており、かつリナを美人実力派女優のフォンテインが演じていることで、あくまでも「ウソ、わたしの夫が殺人者!?」というセンセーショナルな問題だけに絞っているのです。エンタメ映画の選択として、この単純化はうなずけるものですよね。人生どうこうは考えても答えがないから。

 そしてもう一つの「結末の違い」はといいますと、まぁ推理小説とサスペンス映画なので具体的な説明は控えるのですが、簡単に申しますと小説版はジョニーが「限りなくクロに近い」という雰囲気をただよわせつつ最後の最後の結論は出さずに終わるの対して、映画版はなんと「すべてはリナの勘違い! ジョニーはまっしろけっけっけ~!!」という、原作を読んで映画館に行った人が全員ずっこけるような締めくくりとなっているのです。もんのすごいウルトラC 的展開!
 実はこの違いにいたるまでも映画版は周到なジョニーのシロ化を進めており、実は小説版のジョニーはリナの父マクレイドロー将軍の死にも関わっているのでは……という重大な疑惑が生じているのですが、映画版ではそこは無関係にしてスルーしています。
 余談ですが、原作小説版のリナは両親に無断でジョニーと結婚という暴挙までには出ておらず、それなりに両親の理解を得るまでの交際期間を経て結婚していますので、将軍の死後もちゃんと毎年2千5百ポンド(現在の価値でいうと約2千万円)の手当てを受ける相続を得ています。映画版の5倍よ~! まぁ、だからこそ将軍の死にジョニーの影があるわけなのですが。

 そういう感じの原作版ジョニーなのにも関わらず、映画版ではジョニーが推理小説家イゾベルに接触してやたら毒物の調べものをしていたのは、実は……ということで、映画版は180°方向転換をするような新解釈をほどこしていたわけなのです。

 ここらへんの大きな改変に関しては、他メディア化された作品についてよく言われるような「原作への敬意がない」とか「原作を読んだ人でも楽しめるように結末をオリジナルにした」とかいう理由よりも、第二次世界大戦にアメリカが参戦するかしないかというかなりキナ臭い時代にあえて世に出すエンタメ作品ということで、「ハリウッドスターのケーリー=グラントが妻殺しの殺人犯役で、しかもその罪が裁かれないまま終わる映画が作られていいわけがない」という、世界に冠たるエンタメの王道ハリウッド映画としての、当時としては至極まっとうな判断があったのではないでしょうか。多分、当時もこの映画版の結末を観てビックリこそすれ、怒る人はそんなにいなかったのではないかと思います。むしろほっとしたという反応の方が多かったのではないでしょうか。

 こういう改変について考えてみますと、やはり思い出されるのは『レベッカ』の映画版と小説版との違いで、そういえばあれも「疑惑の夫」が登場して、映画版は原作小説よりも夫の罪が軽減されていましたよね。ですから、どちらもフォンテインが主演という共通点以上に、もっと深いところで表裏一体の双生児のような関係に、この『断崖』と『レベッカ』はあるのかもしれませんね。結果、『レベッカ』でそうとう遺恨の残ったらしいエピソードの散見されるフォンテインが、『断崖』で後半ほぼ独り舞台&オスカー獲得という大逆転をつかんだのはすばらしいことだったのではないでしょうか。やったぜジョーン!!

 なんか、フォンテインがいかりや長介で、「もしも夫がちょっとヘンだったら」というテーマの『ドリフ大爆笑』内のコントコーナー『もしもシリーズ』の中の2篇として『レベッカ』と『断崖』がある、みたいな妄想をしてしまいました。♪ふぁ~ん ちゃちゃら ちゃちゃちゃちゃ ちゃちゃら ふぁ~ん♪

 まとめにもなっていませんが、本来、ジョニーがほんとに毒殺犯なのかどうかをはっきり明確に描かない、芥川龍之介の『藪の中』みたいな描法をしていた原作小説を、思いきりマンガみたいなわかりやすい描線に変えて、結末もかなり無理くりハッピーエンドに仕立てた『断崖』は、そうとうおかしな作品になりかねない危険な賭けにでた作品だったと思います。いや、でも小説の映画もどっちにしろ『藪の中』に比べたらルートがだいぶわかりやすいのが、いかにも欧米って感じですけどね。

 それでも、映画版もこれはこれでアリかなという不思議な名作に仕上がっているのは、ケーリー=グラントとジョーン=フォンテインという現実離れしたスターの共演にした「大人のおとぎ話」化戦略と、あの伝説の「光る牛乳」に象徴されるヒッチコックの才気のたまものなのではないでしょうか。
 余談になりますが、映画版の方で非常に印象的なシーンの多くは、原作小説には無かったオリジナルなエピソードです。具体的には、冒頭の「列車の中でのめっちゃ無礼なジョニーとリナの出逢い」や「両親の会話を盗み聞きして憤慨した勢いでジョニーと初キスするリナ」、「感情がぐちゃぐちゃになって泣くリナを笑わせようとする、ジョニーとビーキーの赤ちゃんをあやすような激烈にムカつく対応」、そして「言葉遊びゲームで偶然に出る『 MURDER』の文字」。これぜんぶ、映画オリジナルなんですよ。でも、これらは「この登場人物だったらそうするかも」と思わせる、原作の人物造形をある程度尊重し敷衍させたやりとりかと思いますので、そんなに違和感は生まれないのではないでしょうか。「想像を楽しむ小説」と「視覚で楽しむ映像作品」との表現の違いの範疇だと思いますし、この映画『断崖』ではそれらが非常に奏功していると思います。わかりやす過ぎて多少、子どもっぽくもありますが。

 でも、やっぱりあの『レベッカ』の姉妹編的作品なだけあって、まだまだヒッチコック流全開という感じにまではなっていないんですよね! だって、お話の2/3がただのロマンス映画なんだもの。

 ということで、ヒッチコックらしさがハリウッドでついに余すことなく発揮される作品の到来は、また次回ということで!
 さぁいよいよ、おじさんの黄金時代がは~じま~るぞぉ~!!


≪視聴メモで~っす≫
・本作の公開は1941年11月ということで、まさにアメリカが日本軍の真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦に参戦する1ヶ月前というとんでもないタイミングなのだが、当然ながら1932年発表の推理小説を原作とする本作に、戦争の気配はみじんも感じられない。嗚呼、前々作『海外特派員』の緊張感はいずこに……ちなみに作中での電報の日付から、この映画版は「1935年の3月はじめ」から物語が始まる設定となっている。
・若くはないものの、登場した1カット目から観客の目を奪う二枚目ハリウッドスターのオーラをだだもれにしているケーリー=グラントの別格感がすばらしい。失礼ながら、今までのヒッチコック諸作の男性主人公のみなさんとは比較にならないゴージャスさがある。その一方で、いくらおばさんくさい恰好をして地味なメガネをかけていてもその知的な美貌を隠すことができていないフォンテインもさすがである。
・列車での同乗者のタバコの副流煙で気分が悪くなったというていを装いながら上級の指定席に座り込み、それを車掌にとがめられ差額を請求されたら赤の他人であるリナに肩代わりしてくれとすがりつくというジョニーのクズさがハンパない。まぁ、でもケーリー=グラントだしな……と思わず許してしまいそうになる、この色男っぷり! ほんと、別の人がジョニーを演じてたら開始2~3分のこの時点で視聴をやめてたかもしんない。
・ジョニーはその甘い外見の通りに相当に名うてなハンサム紳士だが、彼が電車で乗り合わせたリナもまた、地元で知らない者はいない名門マクレイドロー家の令嬢だった。ジョニーの狩人のような眼が光る……! 演じるケーリー=グラントの魅力でワクワク感が高まる。嵐の予感!
・見た目もジョニーに対する態度もそっけなくツンツンなリナだったが、ジョニーはリナが読んでいた本の中に、しおり代わりに自分の写真が載った新聞記事の切れはしがはさんであるのを見てニヤリと笑う。「脈あり……!」意外と落ちやすいかも。
・ウキウキでジョニーたちと教会に行く娘リナの様子を見て不思議に思う母マーサを演じるのは、ヒッチコックのイギリス時代の最高傑作といっていい『バルカン超特急』(1938年)でのミス・フロイ役で有名なメイ=ウィッティ。今作ではあんまり出番がないのが残念。
・教会に行くというのは完全なる方便で、その途中でかなり強引にリナを連れて2人で誰もいない田舎道にしけこむジョニー。出会って数時間ほどの午前中の段階でリナの髪の毛はいじるは身体をベタベタさわるは……たぶん現代どころか1940年代当時でもアウトな所業におよぶクズっぷりに拍車がかかる。ほんと、ケーリー=グラントじゃないと映像化はムリですね。
・異様なまでに急接近してくるジョニーにドン引きしたリナは自宅に戻るが、そこで両親であるマクレイドロー将軍夫妻の「あいつ(リナ)は恋愛に奥手そうだし、結婚はしばらくはないだろ。」という発言を盗み聞きしてしまい、ついカッときてジョニーの唇を奪って交際を始めてしまう。ここで、ヘンなのがジョニーじゃなくてリナだというふうに立場が一瞬で逆転するスピード感がマンガのようである。レディスコミックだね~。
・リナの父で、女性問題だいかさまギャンブルだと浮ついたニュースの多いジョニーに悪印象しか持っていない頑固なマクレイドロー将軍を演じているのは、イギリスで「サー」の叙勲を受けている名優セドリック=ハードウィック(1893~1964年)。え! 「ハードウィック」!? そうなんです、このセドリック卿はグラナダTV 版『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズ(1984~94年)の2代目ワトスン役でつとに有名な俳優エドワード=ハードウィック(1932~2011年)のご尊父なのです! そういえばエドワードもちょいちょいハリウッド映画に出ていたが、お父様もハリウッドスターだったのね。でも彼もまた、本作では出番がちょっとしかないのが残念。
・自分のことを恋愛ベタだと思っている両親にあてつけるかのように、ジョニーからきた電話に嬉々として出るリナ。しかしそれ以来1週間ジョニーからの連絡はぱったり止まり、リナはジョニーの写真を眺めたり自分から電話をかけたり郵便局の自分宛私書箱を調べたりと、いったん距離を置く「飢餓戦術」に見事にひっかかり、勝手にジョニー一途になっていく。ジョニー、恐ろしい男やでぇ!
・自邸でパーティがあっても「頭痛い……パーティ出たくない……」とうなっていたリナが、ジョニーからのパーティ行くヨという電報を読んだ瞬間にケロッと治ってニッコニコでドレスを選び出すという描写が、それを演技達者なフォンテインがやっているだけに余計に面白い。20代中盤という絶妙な年齢のわりに小娘みたいな挙動がバカっぽいけど、そこがチャーミングですよね。
・大好きなジョニーがパリッとした正装姿でパーティに来て、呆れかえる両親や友達連中を尻目に私と踊ってくれて、高級車でドライブに連れて行ってくれる。そして車の中で……というマンガみたいな展開が、まさにリナが見ている白昼夢のようで、始終酔っぱらったようなにやけ顔になっているリナがなんだか気の毒にすら見えてくる。だって、このまんまうまくいくわけないもんね、これ、ヒッチコック映画だから……始まってまだ30分も経ってないから……
・もう何回すんねんというくらいにジョニーとのキスを重ねるリナなのだが、そんな彼女を演じているのが、あの『レベッカ』で夫との冷え冷えとした新婚生活に苦悩するヒロインを演じたフォンテインなので、まるで本作が『レベッカ』のパラレルワールドのような不思議な世界に見えてくる。やっぱ、結婚するならしかめっ面のローレンス=オリヴィエよりこっちよね~!
・ついにリナは家を飛び出し、両親の許可を得ないままジョニーと結婚してヨーロッパのイタリア、フランスへと新婚旅行に出てしまう。ここらへんの経緯を2人のキャリーバッグに貼られたご当地ステッカーで説明する演出が非常にスマート。
・夢のような気分で新婚旅行を楽しみ、ジョニーが購入したというメイド付きの新居での生活を始めるリナだったが、ついにここで知りたくなかったジョニーの素顔を見てしまう。ジョニーはまるで生活能力のない無職の借金常習者で、新婚旅行の費用1千ポンド(現在の貨幣価値にして約800万円)も新居の購入費も、すべて知り合いからの借金で捻出したものだったのだ。一気に顔の青ざめるリナだが、ジョニーは「これからは君が用立ててくれればいいさ☆」と底なしの笑顔を見せる。こ、こわい……サイコ方面とは違うのだが、自分の置かれている、地獄に落ちる断崖の一歩手前のような状況に全く気づいていないジョニーの麻痺っぷりが恐ろしすぎる!! そんな現実、知りたくなかった……でも、これぞヒッチコック映画!
・マクレイドロー家から送られてきた結婚祝いの椅子セットにジョニーが閉口するくだりはちょっとしたコミカルなシーンだが、こういうところで「借金大好きで伝統に無関心なジョニー」と「借金を恥として嫌い伝統を重んじるリナ(マクレイドロー家)」という価値観の大きな溝をはっきりと提示してくれる脚本が非常に巧妙である。さて、現代においてはどちらのほうが正常なのか……
・ジョニーの親友で、リナにうっかりジョニーが競馬を止めていないことをバラしてしまう中年男ビーキーを演じるのは、フォンテインと同じく『レベッカ』以来のヒッチコック作品出演となるナイジェル=ブルース。この人いつもうっかりしてるな。ナイジェルといえば言うまでもなくベイジル=ラズボーン版シャーロック=ホームズシリーズ(1939~46年)での功罪相半ばする「うっかりワトスン」役なので、できればセドリック卿と共演してほしかった! ワトスン VS ワトスンの父!!
・両親が結婚祝いに贈ってくれた先祖伝来の椅子セットを、事前に断りもなく知らないアメリカ人に売ってしまったと語るジョニー。しかもくだんの椅子は、近くの町にある古道具屋のショーウィンドウに飾られていた……その発言が全く信用できないジョニーのふるまいにいよいよ心が離れそうになるリナだったが、競馬で2千ポンド(今でいう1600万円!)もうけたジョニーは椅子セットを買い戻し、リナは喜びの笑顔を見せるのだった……でも、それでええんかリナはん!? 今回たまたま結果オーライになっただけですよ……たまたま当たったから良かったけど、旦那さん1レースに200ポンド(160万円)賭けたって言ってるよ。
・その後もジョニーは「競馬はもうやめる」と言っていたが、平日の昼間に競馬場でジョニーを見たという友人のチクリから疑念を再燃させたリナは、ジョニーが勤務しているはずの不動産屋に行き様子を伺ってみる。すると、なんとジョニーは1ヶ月半も前に不動産屋の金2千ポンドを持ち逃げした疑いでクビになっていた……え? じゃあ、競馬で2千ポンド当てたっていう話も……リナの心はもうズタボロ!
・いよいよジョニーと別れようと心に決めるリナであったが、折悪しくリナの父マクレイドロー将軍が死去したとの報が届き、離婚の話はいったん保留となる。この時の電報の日付が「1938年7月」となっているので、つまりジョニーとリナの結婚生活は3年ちょっとは続いていたということになる。よく続いたもんだな!
・マクレイドロー邸での遺産相続発表の結果、リナには毎年500ポンド(400万円)の手当と将軍の肖像画が贈られることに。ゼロではないにしても、将軍の妹(リナの叔母)一家には計6千ポンド(約5千万円)の遺産が贈与されているので、これはもう事実上の勘当扱いであることに違いなく、ジョニーが失望を隠さず自暴自棄な態度になるのも仕方のないことである。でも生前から関係は最悪だったと思うので、何もかもジョニーの自業自得よ。
・不動産屋をクビになって間もないのに、ジョニーは性懲りもなく近所の海岸の土地をビーキーの出資で購入してホテルリゾートにすると言い出し、その意図をはかりかねるリナは再び不信感を再燃させる。そんな中、アルファベットの書かれた積み木を使った言葉遊びゲームでたまたま「 MURDER(殺人)」の文字を作ったリナは、土地の下見と称してビーキーを海岸の断崖に連れ出し、背後から突き落とすジョニーの姿を妄想して失神してしまう。映画も半分を過ぎてやっとサスペンスらしい雰囲気が漂い出す重要なシーンなのだが、ちょっとヒッチコックにしては妄想シーンが陳腐(落下するビーキーのバストショットくらい)なのが逆に珍しい。のちにさまざまな傑作で悪夢的妄想を映像化していくキャリアを考えると、かなり「らしくない」処理である。どったの?
・失神から目を覚ましたリナは、いても立ってもいられなくなり車をぶっ飛ばして断崖に様子を見に行き、悄然として帰宅する。ここのくだりは情緒不安定になったリナを描くだけのシーンなのだが、セリフ無しで約2分半ももたせる演出が、ヒッチコックがサイレント映画出身の職人であることをそうとう久しぶりに思い出させてくれる。でも、ここが面白いのは映像演出よりもフォンテインの表情の演技のおかげなんですけどね。一人でオープンカーを飛ばす思いつめた表情の横顔が、かっこいいのなんのって! ぷれいばっ、ぷれいばっ♪
・夫の殺意はわたしの勘違いか……と安心させておいてからの、唐突なビーキーのフランス・パリでの不審死。そしてそこには正体不明な「英語をしゃべる男」の影が……いよいよサスペンス映画らしくなってきたわけだが、ここらへんからいきなり寡黙になるジョニーと、セリフ無しの表情演技だらけになるリナとがつむぎ出す緊張関係がすばらしい。ここまでの1時間くらいの流れと温度差が違いすぎてカゼひく!
・映画の本筋とは全く関係ないのだが、ホジスン警部と一緒にリナを尋ねる郡警察の若いベンスン刑事(演ヴァーノン=ダウニング)が、リナの家の壁に掛けてある抽象的な静物画の前でいちいち立ち止まり絵を凝視する姿がミョ~に印象に残る。ヒッチコック監督、これにはどんな意味が……? なんか、ここだけ後年のデイヴィッド=リンチ監督の世界を連想させる「ふしぎな間」がただよっている。わけわかんないけど、面白いからヨシ!!
・目撃者の証言によると、ビーキーは飲み屋で「英語をしゃべる男」に無理にブランデーの一気飲みを強要された末に急死したという。その男が夫ジョニーではないかと疑うリナは、近所の女流推理小説家イゾベルのもとに相談に行くが、イゾベルもまた、ビーキーの死は意図的な殺人であると見ていた。ここでいきなりアガサ=クリスティみたいな味のあるキャラが前面に出てくるのがやや唐突なのだが(それ以前のシーンでちょっとだけ顔は見せている)、当然ながらこのイゾベルは、フランシス=アイルズの原作小説『レディに捧げる殺人物語』にも登場する。そういえばクリスティも、自身の「エルキュール=ポアロ」シリーズの中に女流推理小説家アリアドネ=オリヴァを登場させているので、「ご近所のおばさん推理小説家」という設定は推理小説にはうってつけのキャラクターだったのかも知れない。なんか、男の作家さんよりも話しやすいのかな。男だと松本清張とかいささか先生みたいだしね。
・イゾベルがリナに話す「リチャード=パーマー」という毒殺犯のモデルは、「19世紀で最も有名な犯罪者」「毒殺王子」と呼ばれたイギリスの犯罪者ウィリアム=パーマー(1824~56年)であると思われる。このパーマーは、まさに「酒飲み勝負」で相手を急死させたり競馬で借金した相手がパーマーの家で不審死したりと、本作のジョニーのキャラクター造形に大きな影響を与えた存在のようである。たぶん、当時この映画やアイルズの原作小説を読んだ人の多くも、パーマーの事件を即座にイメージしていたのではないだろうか。実録ヴィクトリア朝犯罪史!!
・ある朝、リナはついに、自分に相談もなしにジョニーがリナに多額の生命保険金をかけていることを知り、いよいよ疑念が確信へと変わっていってしまう。表向きは変わらず愛妻家でいるジョニーなのだが、ジョニーとキスをした時のリナの表情が、映画の序盤と今とでびっくりするほど違うのが、さすがフォンテイン、この作品でオスカーを掴むだけのことはある名演! 本作でのケーリー=グラントはヒッチコック作品史上最もハンサムな男性主人公だが、ジョーン=フォンテインは間違いなくヒッチコック作品史上最も知的なヒロインである。
・ジョニーへの不信から心身ともに衰弱しきったリナは熱を出して丸一日寝込んでしまう。見舞いに来たイゾベルと「絶対に検出されない毒」の話をした後、ジョニーが就寝前の牛乳の入ったグラスを持ってきてくれても、リナは全く手をつけることができないのだった……リナの疑惑を見事に象徴する挿話なのだが、ここで炸裂するのが、もはや世界映画史上の伝説となっている「光る牛乳」の演出である。すなはち、毒が入っているかもしれない牛乳の恐怖を映像化するために、ヒッチコックは牛乳の入ったグラスに豆電球を入れて光らせ、わざと電気を消した暗い家の階段をジョニーが牛乳を持って上ってくることで、漆黒の闇の中から真っ白な牛乳を持った黒い人影が迫ってくるという象徴的な画を作り出すことに成功したのである。まさしく、リナのイメージを現実の映像に変換するという表現主義的技法! ヒッチコックのキャリアの原点であるサイレント映画の世界に立ち返るような奇想である。でも、ほんとに牛乳の中にライトを入れたら光るのかな……こんど試してみよう! じゃあコーヒー牛乳は? 森永カルダスは? キッコーマンの豆乳は!? よし、これでこの夏の自由研究はきまりだ!!
・ジョニーとの2人きりの生活に耐えられなくなったリナは、カゼを理由に2~3日実家に帰ろうとするが、ジョニーは車に乗せていくと言って運転を申し出る。そして2人の車は、海岸沿いの断崖の道へ……ここらへんの流れるように断崖のクライマックスにつながっていくお膳立てが非常に小気味いい。観客の動悸を上げていくようなアップテンポな音楽もぴったりである。さぁ、ジョニーは本当に殺人者なのか? リナは助かるのか!? 衝撃の結末は……え~!? そんなん、あり!? よくぞまぁ、そんな感じのエンディングに持ってこれましたね! ハリウッド映画ならではの「力技」、ここにきわまれり!!
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9割がた「龍」なんだけど……最後の最後で蛇尾ったワン ~映画『八犬伝』~

2024年11月11日 09時24分56秒 | ふつうじゃない映画
 はいはいど~もみなさま、おはようございます! そうだいでございまする。いや~、いよいよ秋めいてまいりましたねぇ。

 さてさて、今年の秋、だいたい映画『箱男』くらいから始まりました、極私的な「秋のおもしろ新作ラッシュ」も、ついにおしまいを迎えることとあいなりました。『黒蜥蜴2024』でしょ、『カミノフデ』でしょ、『傲慢と善良』でしょ、『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』でしょ……うん、こうやって振り返ってみると、ぜんぶがぜんぶ大当たり!というわけでもなかったのですが……まぁ、新作なんてそんなもんですわな。

 そいでま、今回取り上げるのは、それら秋の強化月間の掉尾を飾る、この一作でございます。


映画『八犬伝』(2024年10月25日公開 149分 キノフィルムズ)
 『八犬伝』は、山田風太郎(1922~2001年)の長編小説『八犬傳』(1982~83年連載、現在は角川文庫より上下巻で発刊)を原作とする映画作品である。
 江戸時代の読本(よみほん)作者・曲亭馬琴(1767~1848年)の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』(1814~42年)をモチーフに、28年もの歳月を費やし失明してもなお口述筆記で書き続け全106冊という大作を完成させた馬琴の後半生や浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849年)と馬琴の交流を描く「実の世界」と、『南総里見八犬伝』作中での、安房国大名・里見家にかけられた呪いを解くために八つの珠に引き寄せられた八人の剣士たちの運命を描く「虚の世界」との2つの世界が交錯する物語となっている。
 本作の撮影は、香川県琴平町の旧金毘羅大芝居(金丸座)、兵庫県姫路市の姫路城・亀山本徳寺・圓教寺、滋賀県長浜市の大通寺、山梨県鳴沢村などで行われた。

あらすじ
 時は江戸時代後期、文化十(1813)年。
 人気読本作家の曲亭馬琴は、親友の浮世絵師・葛飾北斎に新作読本の構想を語り始める。それは、由緒正しい大名・里見家にかけられた恐ろしい呪いを解くために、里見の姫が祈りを込めた八つの珠を持つ八人の剣士たちが運命に引き寄せられて集結し、壮絶な合戦に挑むという、壮大にして奇怪な物語だった。
 北斎はたちまちその物語に夢中になるが、馬琴から頼まれた挿絵の仕事は頑なに断る。しかし頻繁に馬琴を訪ねては物語の続きを聞き、馬琴の創作の刺激となる下絵は描き続けるのだった。やがてその物語『南総里見八犬伝』は、馬琴の生涯を賭けた仕事として異例の長期連載へと突入していくが、物語も佳境に差し掛かった時、老いた馬琴の目は見えなくなってしまう。苦悩する馬琴だったが、義理の娘のお路から「手伝わせてほしい」と申し出を受ける。
 馬琴は、いかにして失明という困難を乗り越え、28年もの歳月を懸けて物語を書き上げることができたのか? そこには、苦悩と葛藤の末にたどり着いた、強い想いが込められていたのだった。

おもなキャスティング
曲亭 馬琴 …… 役所 広司(68歳)
葛飾 北斎 …… 内野 聖陽(56歳)
滝沢 お路 …… 黒木 華(34歳)
滝沢 鎮五郎 / 宗伯 …… 磯村 勇斗(32歳)
滝沢 お百 …… 寺島 しのぶ(51歳)
渡辺 崋山 …… 大貫 勇輔(36歳)
葛飾 応為 …… 永瀬 未留(24歳)
四世 鶴屋 南北  …… 立川 談春(58歳)
七世 市川 団十郎 …… 二世 中村 獅童(52歳)
三世 尾上 菊五郎 …… 二世 尾上 右近(32歳)
丁字屋 平兵衛   …… 信太 昌之(60歳)
歌舞伎小屋の木戸番 …… 足立 理(36歳)

里見 伏姫   …… 土屋 太鳳(29歳)
犬塚 信乃   …… 渡邊 圭祐(30歳)
犬川 壮助   …… 鈴木 仁(25歳)
犬坂 毛野   …… 板垣 李光人(22歳)
犬飼 現八   …… 水上 恒司(25歳)
犬村 大角   …… 松岡 広大(27歳)
犬田 小文吾  …… 佳久 創(34歳)
犬江 親兵衛  …… 藤岡 真威人(20歳)
犬山 道節   …… 上杉 柊平(32歳)
大塚 浜路   …… 河合 優実(23歳)
玉梓の方    …… 栗山 千明(40歳)
金碗 大輔 / 丶大法師 …… 丸山 智己(49歳)
金椀 八郎   …… 大河内 浩(68歳)
里見 義実   …… 小木 茂光(62歳)
扇ヶ谷 定正  …… 塩野 瑛久(29歳)
船虫      …… 真飛 聖(48歳)
網乾 左母二郎 …… 忍成 修吾(43歳)
赤岩 一角   …… 神尾 佑(54歳)
大塚 蟇六   …… 坂田 聡(52歳)
犬田屋 文吾兵衛 …… 犬山 ヴィーノ(56歳)
姨雪 世四郎  …… 下條 アトム(77歳)
姨雪 音音   …… 南風 佳子(60歳)
足利 成氏   …… 庄野﨑 謙(36歳)
横堀 在村   …… 村上 航(53歳)
河鯉 守如   …… 安藤 彰則(55歳)


おもなスタッフ
監督・脚本 …… 曽利 文彦(60歳)
製作総指揮 …… 木下 直哉(58歳)
撮影    …… 佐光 朗(66歳)
音楽    …… 北里 玲二(?歳)
配給    …… キノフィルムズ


 いやぁ、八犬伝ですよ。ここにきて、日本文学史上に燦然と輝く大名作『南総里見八犬伝』を原作とした作品のご登場でございます!

 私はねぇ……『南総里見八犬伝』には、ちとうるさ……いというほどでもないのですが、色々と思い入れはあるんですよね。
 まず、大学時代に専攻ではないのですが『南総里見八犬伝』研究の大家である先生の講義や実習を受けたことがありまして、まぁ真面目に受講していなかったので身につくものはほとんど無いダメ学生だったのですが、最低限、曲亭馬琴のことを「滝沢馬琴」と呼んでは絶対にいけないというルールくらいは覚えました。
 その後、千葉暮らしの劇団員だった時に劇団の公演で『南総里見八犬伝』を元にした舞台の末席に加えさせていただきました。なんてったって千葉県ですから、そりゃ『南総里見八犬伝』はやりませんとね。里見家とは直接の関連は無いのですが、千葉市は亥鼻公園にある天守閣を模した外観の千葉市立郷土博物館を前に、物語の登場人物を演じることができたのは、分不相応ながらも良い思い出であります。その頃、下北沢の古書ビビビで購入した岩波文庫版の『南総里見八犬伝』全10巻を読破したのはうれしかったなぁ~。江戸文学、がんばれば読めんじゃん!と。
 そして、最近ともいえないのですが、6、7年前に仕事の関係で『南総里見八犬伝』にまた関わることがありまして、その時は原書に加えて、学研から出ている児童向けコミカライズや、講談社青い鳥文庫、角川つばさ文庫のジュブナイル版などを参考にしました。あと、2006年の TBSスペシャルドラマ『里見八犬伝』(主演・滝沢秀明)や1983年の映画『里見八犬伝』(主演・薬師丸ひろ子)も当然、観ました。映画の『里見八犬伝』はクソの役にも立ちませんでした。
 惜しむらくは、NHKで放送されていた伝説の連続人形劇『新八犬伝』(1973~75年放送 人形制作・辻村ジュサブロー)を観れていないことなんですよねー。人形はジュサブローさんの美術展で観たことあるんだけどなぁ。

 まぁ、そんなこんなで要は、わたくしは『南総里見八犬伝』が大好きだということなのであります。好きなキャラは籠山逸東太(こみやま いっとうだ)です!

 そんな私が、今回の映画『八犬伝』の公開を心待ちにしていたことは火を見るよりも明らかであったわけなのですが、ここで注意しておかなければならないのは、本作が曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の直接の映画化作品では決してない、ということです。ややこしや!

 そうなんです、上の Wikipedia記事にもある通り、この映画はあの「忍法帖シリーズ」で戦後昭和のエンタメ界を席巻した人気小説家・山田風太郎の長編小説『八犬傳』を原作としているのです! そして、山田風太郎にはこの『八犬傳』の他にもう一つ、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に想を得た『忍法八犬伝』(1964年連載)という奇想天外忍術時代小説も存在しているのです! うわ~、沼また沼!! 八犬伝ワールドは広大だわ……

 え? 読みましたよ……そりゃあーた、『八犬傳』も『忍法八犬伝』も、どっちも読んだに決まってるじゃないですか。残念ながら映画を観るまでには間に合わなかったのですが、どっちも読みましたよ、だって面白いんだもん!!

 正直申しまして、山田風太郎の2作品のうち、面白いのは圧倒的に、映画化されなかった方の『忍法八犬伝』のほうなのですが、こちらはもはや「メディア化なんてクソくらえ!!」とばかりに、撮影技術的にも放映倫理的にも映像化300% 不可能な桃色忍術合戦のオンパレードになっており、山田風太郎の小説かエロゲーの中でしかお目にかかれないようなバカバカし……幻惑的なイリュージョンが目白押しの一大絵巻となっております。すばらしすぎる。そりゃ角川春樹も映画化しないわ。
 ちなみに概要だけ触れておきますと、こちらの『忍法八犬伝』は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の続編のような内容となっており、馬琴の物語で大団円を迎えた里見家と八犬士の子孫たち(約120年後 里見家当主は里見義実の9代あとの里見忠義)が、江戸時代初期の「大久保忠隣失脚事件」(1613年)に連座して改易された史実を元にした……んだかなんだかよくわかんない崩壊劇となっております。でも、史実を最大限遵守したタイムスケジュールになってるのがすごいんだよなぁ。
 ほんと、ものすごい「里見一族の滅亡」ですよ。あの、八犬士たちの高潔な志はどこにいったんだと……まさに国破れて山河在りといったむなしさで、ペンペン草ひとつ残らない気持ちいいまでのバッドエンドは、まさに山風ならではのニヒリズムといった感じなのですが、そのラストシーンに、読者の誰もがその存在を忘れていた「あの人」がふらふらと通りすぎるというオチは、もう見事としかいいようがありません。あ~、君いたね~!みたいな。ほんと、読者をたなごころでクルクル回す手練手管ですよね。曲亭馬琴もすごいけど、山田風太郎も相当やっべぇぞ!!

 え~、いつも通りに脱線が長くなりました。

 それで今回映画化された小説『八犬傳』についてなのですが、こちらはほぼほぼ、映画版と同じ筋立てとなっております。つまりは「江戸時代の曲亭馬琴パート」と「南総里見八犬伝パート」のか~りぺったか~りぺったで物語が進んでいくスタイルですよね。

 ほんで、この『八犬傳』は1980年代前半の小説ということで、山田風太郎の還暦前後の作品ということもあってか、約20年前に『忍法八犬伝』に見られた全方位に噛みつくごときアグレッシブなストロングスタイルはさすがに鳴りをひそめて、かなり忠実に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の世界をなぞりつつ、その一方でそういった「正義の叙事詩」を世に出した、出さなければならなかった馬琴の実人生を克明に小説化した端整な物語となっております。うん、映画化するんなら絶対こっちのほうだわ。

 ただ、ここで大きな問題となってくるのが、この小説『八犬傳』のあまりにも落ち着きすぎた締めくくり方なのでありまして、端的に言ってしまうと、「馬琴はなんとか『南総里見八犬伝』を完成させましたとさ。おしまい!」みたいな感じで、かなりスパッと終わっちゃうんですよね。正直申しまして、「風太郎先生、電池切れたな……」と察せざるを得ない、余韻もへったくれもないカットアウトなのですが、小説はそれでいいとしても、2時間30分も観客を引っ張り続けた映画は、そうはいきませんやね! 今作は、そういうところでかなり苦労したのではなかろうかと。

 実のところ、私が今回の映画作品を観て強く感じたのも、「この風呂敷、どうやってたたむんだろう?」というところ、ほぼ一点でした。

 だって、『南総里見八犬伝』のダイジェストに加えて、失明してもなお執筆をやめなかった馬琴の生涯を描くんでしょ? 主演、役所広司さんと内野聖陽さんなんでしょ!? 玉梓の方を栗山千明姫が演じるんでしょ!? 面白くならないはずがないじゃないですか。
 だとしたら、その際限なく豪華絢爛になってしまった物語をどう締めるのか。ここが唯一最大の課題だと思うんですよ。そして、残念ながらその解決策は、肝心カナメの原作小説には存在していないのです……どうする!?

 そんでま、それに対する映画版オリジナルのエンディングは、確かに用意されていました。されてはいたのですが……
 う~ん、THE 無難!! まぁそうなるかなという、100人が考えたら80人くらいが思いつきそうな『フランダースの犬』オチとなっていたのです。

 いや、うん、わかる! だいたい、原作の風太郎先生がほっぽっちゃってるんですから、それよりひどい締め方にはなりようもないはずなのですが、も~ちょっとこう、ねぇ! そんな小学生向けの学習マンガみたいな安全パイじゃなくて、「令和に『八犬伝』を世に出した曽利文彦ここにあり!!」みたいな、観客に爪跡を残す伝説を創ってほしかったなぁ、と。

 惜しい! 実に惜しいんですよね。そこまでけっこう面白かったんですから!
 まず、正義をつらぬく八犬士たちが悪をくじいて平和を勝ち取るという『南総里見八犬伝』の世界に反して、やることなすこと上手くいかず家庭もほぼ崩壊という悲劇に見舞われる曲亭馬琴という対立構造が非常に興味深く、なんとか息子の嫁お路の献身的な協力を得て『南総里見八犬伝』を完結させた馬琴ではありましたが、その怪物的な創作エネルギーの犠牲になったかのようにこの世を去って行った息子・宗伯や妻・お百の存在価値とは一体なんだったのかというところが、映画『八犬伝』なりの大団円を迎えるためのキモだったと思うのです。

 ところがどうでい! あんなエンディングじゃあ、馬琴は浮かばれたとしても、宗伯やお百の魂魄は地上に縛られたまんまじゃねぇんですかい!? そんな自分勝手なカーテンの閉め方、あるぅ!? 寺島しのぶさんが化けてでるわ!!
 とにかくどんな言葉でもいいから、苦悶の表情を浮かべて死んでいった宗伯やお百に対する馬琴の姿勢のようなものは見せてほしかったです。あれじゃ馬琴自身がボケて2人のことを忘れちゃってる可能性すらある感じでしたからね。カンベンしてよ~!!

 いや~、ほんとこの映画、最後の最後までは面白く観たんだよなぁ。特に現実の江戸世界のパートに関しては、もう文句のつけようもないくらい最高のキャスティングと演技で、いつまでも、2時間でも3時間でも観ていられる感じだったのですが。

 主演の役所さんも内野さんも当然すばらしく、お路役の黒木華さんも言うまでもなく最高だったのですが、私が特に目を見張ってしまったのは、「フィクションだからこそ正義が勝つ!」という創作哲学を堅持する馬琴に大いに揺さぶりをかける、「悪が勝つのが現実じゃござんせんか」理論を展開したダークサイドの売れっ子作家・四世鶴屋南北を見事に演じきった立川談春さんの大怪演でした。これ、ほんとすごかった!
 正義至上主義の馬琴に対して、へらへらと嗤いながらも昂然と反駁する舞台奈落のブラックすぎる南北……絵的にも、地下から見上げる馬琴と地上の舞台装置から顔を逆さまにして見下す南北ということで、まるでトランプのカードのような対称配置が非常に面白い会話シーンだったのですが、ここ誇張表現じゃなく、あの『ダークナイト』(2008年)を彷彿とさせる正義と悪の名対決だと思いました。それで、正義派の馬琴が結局は南北に言い負かされた形で終わっちゃうんだもんね! 南北もまた、ものすごい才能だったのね~。

 ところで、史実の南北は馬琴の12歳年上だったらしいので、実際には『スター・ウォーズ』サーガの銀河皇帝パルパティーンみたいなヨボヨボのじいさまが、「ふぇふぇふぇ……馬琴くんも、まだまだ若いのぉ。」みたいな感じであしらう雰囲気だったのかも知れませんね。ま、どっちでも面白いけど!
 余談ですが、映画のこのシーンで、馬琴と北斎を舞台奈落に案内する、いかにも歌舞伎の女形さんっぽいナヨッとした木戸番さん(演・足立理)がいたじゃないですか。「あの、そろそろ蝋燭が消えます……」って言ってた人。
 あの人、風太郎先生の小説にもちゃんと出てくるのですが、小説ではなんと、江戸時代でもかなり有名な「あの人」の仮の姿という設定になってるんですよね! 話がややこしくなるので映画でカットされちゃったのは仕方ないですが、気になった人はぜひとも原作小説を読んでみてください。いや~、化政文化、激濃な才能が江戸に集まりすぎよ!!

 まぁまぁ、こんな感じで馬琴の現実パートはほんとに面白かったんですよね。

 もちろん、それに対する『南総里見八犬伝』パートも負けずに楽しかったのですが、やっぱりまともに全部映像化するのは絶対にムリということで、犬村大角の発見以降の物語の流れがいきなり雑になってしまったのは、予想はつきつつも、やっぱり残念ではありました。いや、しょうがないんですけどね!
 この、『南総里見八犬伝』における「犬村大角が出たとたんにザツ化問題」は、八犬士を探すために東日本各地に散った主要メンバーが、再び安房国(房総半島のはしっこ)に集結するまでの「帰り道でのなんやかやがめんどくさすぎ」であることと、八犬士の大トリである『ドラゴンボール』の悟空なみにチートなスーパーヒーロー少年・犬江親兵衛の登場&加入を物語るパートの「規模が京都まで拡大してめんどくさすぎ」であることが起因しているわけなのですが、これをまともに追うわけにはいかない大抵のダイジェスト小説や映像作品は、このあたりをまるっとはしょって、「まぁ色々あったけど八犬士が集まって、玉梓の方が転生した悪者をやっつけたヨ!」という、まさに今回の映画版がそうしたような雑な RPG的展開に堕してしまうのです。

 いや、しょうがねぇよ!? しょうがねぇけど、この場合、いちばんの被害を被ってしまうのは、満を持しての大活躍をほぼ全てカットされてしまう犬江親兵衛くんなのでありまして、今回の映画を観た人の多くも、「なんだ? あの唐突に馬に乗って現れた親兵衛ってガキは?」という印象を持ったかと思います。親兵衛かわいそう! さすがの藤岡マイトくんをもってしても、あのとってつけた感を拭い去ることはできなかったでしょう。
 あと、最後の八犬士 VS 玉梓の方の決戦シーンも、なんだかほんとに典型的な RPGの魔王の城といった感じで、右手だけムッキムキになって定正を締め上げる玉梓も、な~んかチープになっちゃいましたよね。あれ、 CGでちょろっとでもいいから、ムキムキになった腕を袖の中にしゅるっと引っ込める描写を入れたらよかったのに、それをやらずにムキムキ腕の造形物を着けた栗山さんだけを撮っちゃうもんだから、コントみたいな肉じゅばん感が増しちゃったと思うんだよなぁ。あそこ、残念だったな……どうせ栗山さんなんだから、思いきって20年ぶりにあの射出型モーニングスター付き鎖鎌「ゴーゴーボール」を復活させればよかったのに! 栗山さん、たぶん喜んでやってたよ!?
 「八犬士が玉を集めたら勝てました。」っていうのも、ねぇ。ちょっと安易だけど、まぁフィクションなんだから、しょうがねっか。

 それはまぁいいとして、こちら『南総里見八犬伝』パートで輝いていたのは、やはり実質主人公格である「名刀村雨丸」の使い手・犬塚信乃を好演した渡邊圭祐さんと、今年の NHK大河ドラマ『光る君へ』であんなにか弱い一条帝を演じたのに、本作では一転して悪辣非道な中ボス・扇ヶ谷定正を嬉々として演じていた塩野瑛久さんのお2方でしたね。

 いや~、渡邊さんはほんとにいい俳優さんですね! まさか、『仮面ライダージオウ』であんなに怪しげな3号ライダーを演じていた彼が、大スクリーンでこんなにもド正統な正義のヒーローを演じきる日がこようとは……非常に感慨深いです。
 古河御所・芳流閣における古河公方のリーサルウエポン犬飼現八との対決なんか、CG による誇張も非常にいいあんばいで手に汗握る名勝負だったのですが、あそこ、小説ではかなりタンパクに描かれているのですが、映画版は現八の武器である捕縄をうまく使って、いったん屋根から転落した信乃が捕縄を命綱にして城壁を垂直に走り、また屋根に登ってくるというムチャクチャなアクションを映像化してましたよね。あれ、絶対に小説版の『魔界転生』へのオマージュでしょ! やりますねぇ!!
 渡邊さん、かっこよかったなぁ~。アクションもカッコいいんですが、ふと俯き加減に黙り込むと、あの天本英世さんをちょっと思い出させるような知性もにじみ出るんですよね。これからの活躍にも期待大です! 祝え、大名優の誕生を!!

 いっぽうの塩野さんなのですが、完全にやり慣れていないド悪役を、ムリヤリ悪ぶって演じているという不自然さが、「実は小物」という定正のキャラクターと妙にリンクしていて最高だなと思いました。これはキャスティングの勝利ですね! こんな定正、絶対に根っからの悪人じゃないもの! ちょっと酒グセと女性の趣味が悪いだけなんだもの。

 その他、『南総里見八犬伝』パートに出ている俳優さんで気になった人と言えば、2024年の映像界でいきなり有名になった河合優実さんが実質ヒロインの浜路を演じている点なのですが、いやいや、こっちのパートはフィクション世界なんですから、なんでそんなに「リアルな」お顔立ちの河合さんがヒロインを演じてらっしゃるのかな、という疑問は残りました。どう見たって現実パート顔でしょ。馬琴の近所の娘さんって顔じゃないの……いや、もうこれ以上は申しません。

 ヒロインと言えば、かつてあの『るろうに剣心』3部作で、あれほどキレッキレのアクションを見せていた土屋太鳳さんが、本作ではまるで身体を動かさない伏姫を演じるベテラン感をみなぎらせていたのにも、時の流れを痛感して感慨深くなりました。そうよねぇ、もうお母さんなんだものねぇ。


 と、まぁ、そんなこんなでありまして、もともと『南総里見八犬伝』ファンである私にとりまして今回の映画『八犬伝』は、直接の映画化作品ではないにしても、おおむね期待した以上に満足のいく作品でございました。単純に、観ていて楽しかった!
 ただ、それだけに惜しいのは、やっぱり最後の締め方なんですよね。そこさえ、他の作品に無い「なにか」を提示してくれさえすれば、邦画史上に残る完全無欠の名作になったはずなのですが……そこが非常に残念でなりません。役所さんだったら、どんな展開でも対応できたはずなのに、なんであんなに無難な感じになってしまったのか! まさにこれ、龍頭蛇尾。

 でも、現状可能な限り、最高級の逸材が集結した豪華絢爛な映画作品に仕上がったことは間違いないと思います。小さな画面じゃなくて大スクリーンで見ることができて良かった~!!


 いや~、『南総里見八犬伝』って、ホンッッッットに! いいもんでs……

 あ、思い出した。うちの積ん読に、あの桜庭一樹さんの『南総里見八犬伝』オマージュの『伏 贋作・里見八犬伝』(2010年)が未読のまま塩漬けになってたわ……プギャー! これ、『伏 鉄砲娘の捕物帳』(2012年)っていうアニメ映画にもなってるの!? エー、あの桂歌丸師匠が馬琴を演じてたの!?

 こここ、これを読まずして、観ずして『南総里見八犬伝』ファンだなどとは片腹痛し! おこがましいにも程がある!!

 また、出直してまいります……やっぱ『南総里見八犬伝』は広大だワン☆
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