長岡京エイリアン

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全国城めぐり宣言 第32回 「山城国 東山霊山城」資料編

2017年01月24日 21時13分02秒 | 全国城めぐり宣言
山城国 東山霊山城 とは

 東山霊山城(ひがしやまりょうぜんじょう)とは、山城国愛宕郡(現・京都市東山区清閑寺霊山町)にある霊山(標高176m)に築かれた、戦国時代の山城である。
 室町幕府第13代将軍・足利義輝によって天文二十一(1552)年に築城が開始され、翌二十二(1553)年には陥落し、廃城となったと考えられる。16世紀には東山に足利将軍家や細川管領家が、将軍山城(1520年築城)や中尾城(1549年築城)のように山城を築くことが多くなり、霊山城もその系譜に属している。
 東山霊山城の存在した霊山は、東山三十六峰の一つであり、周辺には京都霊山護国神社や臨済宗高台寺、北法相宗清水寺などが位置している。霊山の中腹には正法寺が存在している。

 天文十七(1548)年、管領・細川晴元に反旗を翻した三好長慶は、翌天文十八(1549)年の江口合戦の勝利によって入京を果たし、晴元、将軍・義輝とその父で先代将軍の義晴らは近江国坂本へ亡命した。その後、義晴・義輝父子は京奪回を期し、天文十九(1550)年に中尾城、将軍山城を築城・改修した(義晴は同年五月に死去)。しかし同年十一月、京に入った三好長慶の兵4万を前に、義輝軍は一戦も交えずに坂本へ撤退し、これらの城は自焼没落あるいは三好家の城割りによって破却された。その後も将軍・義輝と三好家の争いが続いたが、天文二十一(1552)年一月に義輝と長慶の間で和睦が成立し、十月二十七日に霊山城の築城が開始されることとなる。これは、義輝と長慶は和睦したものの、京奪還を狙う管領・細川晴元らの脅威がまだ存在していたためである。

 果たして霊山城の築城開始から1ヶ月後の十一月二十七日、管領・晴元が西岡に現れ周辺を放火し、嵯峨に着陣した。その際に、三好家の小泉秀清および中路修理らは西院城を自焼して霊山城に合流した。翌二十八日、管領・晴元は霊山城に向けて進軍した。晴元は五条坂を焼き払い、建仁寺も炎上したが、清水坂合戦で敗れたために霊山城を攻撃することはできず撤退した。

 その後も霊山城の築城は継続されたが、天文二十一(1552)年十二月、一部の幕臣が管領・晴元に内通して長慶を排除しようと画策し、翌天文二十二(1553)年二月になると彼らの手引きにより晴元が京の西北に進軍したため、長慶が問題解決のため将軍・義輝に内通者のいる奉公衆から人質を要求したことが、義輝の怒りに触れた。これによって義輝と長慶は再び敵対することとなり、三月八日、義輝は霊山城に入った。
 七月、長慶に叛いた芥川孫十郎の籠る摂津国芥川山城を長慶が攻めていた際、二十八日に管領・晴元が丹波国から軍勢を率いて侵攻し、三好家の小泉秀清が守る西院城周辺に放火した。二十九日にも西院付近で小規模な戦闘が行われ、将軍・義輝も晴元と手を組んだ。三十日に義輝が北野の右近馬場に布陣し、幕臣・内藤彦七の兵3000~4000人が三好家の西院城を包囲したが陥落させることはできなかった。
 一転、八月一日の早朝に長慶が兵2万5000を率いて上洛した。義輝は船岡山に移動し、霊山城は幕府奉行人・松田監物、醍醐寺三宝院衆(寺領をめぐって三好家と対立していた)、近江国山中村の土豪・磯谷氏が守備に当たった。
 三好軍からは家臣・今村慶満の軍勢が霊山城を攻めた。今村慶満は霊山城付近の渋谷越の流通を基盤としており、現地の地理に知悉していた。戦闘の結果、霊山城を守る松田監物は自害し、城には火の手が上がり陥落した。
 翌二日に三好軍が船岡山に迫ったため、将軍・義輝は長坂越を経由し五日に丹波国山国荘を通過して近江国龍花に到着、その後朽木へ向かった。霊山城陥落によって、将軍・義輝は5年間にわたり朽木に幽居した。

 霊山城の遺構としては、霊山の山頂を中心に東、西、南の三方向に曲輪が展開し、東側に2ヶ所、南側に1ヶ所の堀切が現在も確認できる。東側のハイキングコース「京都一周トレイル」から城跡に入ることができる。正法寺、高台寺、興正寺、清水寺などの周辺寺院の影響によって遺構の少なくない部分が破壊されている。なお、西側の曲輪には「春畝伊藤公(伊藤博文)遺詩碑」という石碑がある。

最寄り駅 …… 京阪本線清水五条駅(京都市東山区五条大橋東詰)
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全国城めぐり宣言 第31回 「山城国 将軍山城」資料編

2017年01月21日 18時39分12秒 | 全国城めぐり宣言
山城国 将軍山城 とは

 将軍山城(しょうぐんやまじょう)は、山城国愛宕郡(現・京都市左京区北白川清沢口町)にある瓜生山(標高301メートル)に築かれた、戦国時代の日本の山城である。別名、北白川城(きたしらかわじょう)、瓜生山城(うりょうさんじょう)、勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう)とも呼ばれている。
 将軍山城は、瓜生山の山頂を本丸とし、近江国より上洛する際の前線基地としての役割を担っていた。公家・鷲尾隆康の日記『二水記』の永正十七(1520)年五月三十日の条によると、室町幕府管領・細川高国が初めてこの城に陣を構え、その際に戦勝を祈念して将軍地蔵を勧請したのが城名の由来となった。その後、将軍地蔵は宝暦十二(1762)年に現在の日本バプテスト病院の西側(左京区北白川瓜生山町)に移転され、信仰の対象となっている。

 永正十六(1519)年十一月二十一日~翌永正十七(1520)年二月二日の第一次越水城合戦で三好之長に敗れた室町幕府管領・細川高国は、京を離れ近江国円城寺に亡命していたが、近江国守護・六角定頼、丹波国守護代・内藤貞正の援軍を得て、同年五月二日、初めて瓜生山山頂に陣を構えた。
 大永七(1527)年二月十二~十三日の桂川原合戦で細川澄元に敗れた管領・高国が再び近江国へ逃亡すると、高国の将軍山城は六角定頼の援助のもと家臣・内藤彦七が城主となっていたが、大物崩れにより享禄四(1531)年六月六日に高国が自害すると細川晴元軍に奪取された。

 天文十五(1546)年の冬になると、室町幕府第12代将軍・足利義晴と新管領・細川晴元が対立するようになり、将軍・義晴が自らこの城を大幅改修した。城に米や普請人夫を徴発したり、太さ五、六寸の竹の徴用を命じたことが様々な史料から確認でき、将軍山城はその修築の際に要した労働力や資材の調達を文献で裏づけることができる稀有な中世城郭である。室町幕府は将軍山城の修築のために洛中・洛外の寺社や権門を通じて京都近辺の人夫をほぼ総動員の形で徴発したものと思われる。
 こうして修築をした将軍山城であったが、翌天文十六(1547)年三月三十日に義晴は征夷大将軍位を息子・足利義輝に譲り自らは大御所となり、管領・晴元を討つべく洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城したものの、晴元の重臣・三好長慶軍が同年七月十二日、相国寺に2万の軍勢で陣をはり周辺地域を焼き討ちした(舎利寺合戦)。同月十九日、義晴・義輝父子は将軍山城を自焼させ、近江国坂本へ亡命した。
 その後、室町幕府は拠点を中尾城(1549~50年)、霊山城(1552~53年)へ移したため、将軍山城は部分的にしか使用されなかった。

 永禄四(1561)年三月十八日、三男の孫八郎信輝に和泉国守護代・松浦家を継がせ、後見として和泉国岸和田城に入っていた、「鬼十河」と恐れられた猛将・十河一存(畿内大名・三好長慶の弟)が死去した。
 これに乗じて紀伊および河内国守護・畠山高政は挙兵して岸和田城を包囲し、これに呼応して近江国守護・六角義賢も家臣・永原重澄に命じ同年七月二十八日に将軍山城に派兵し、義賢自身も神楽岡付近に陣をはり上洛を伺った。この時、六角軍は総勢2万であった。
 これに対して三好長慶軍は、息子の摂津国芥川山城主・三好義興らと兵7千で梅津城・郡城へ、大和国信貴山城城主・松永久秀の兵7千を京・西院小泉城へ入城させ、勝軍山城と対した。
 同年七月から十月までは小規模な交戦であったが、十一月二十四日、三好軍は白川口に、松永軍は将軍山城にそれぞれ来襲し挟撃した。三好軍は白川口を突破し、畠山・六角軍に呼応して挙兵した管領・細川晴元軍が陣取っている馬淵に押し寄せての戦闘となった。この時、三好軍の武将・三郷修理亮が討ち取られたが細川軍の損害も大きく、薬師寺氏や柳本氏などが討死した。
 一方、松永軍は城を守る永原重澄を討ち取り将軍山城を陥落させ、いよいよ六角義賢が陣取る神楽岡へと兵1万をもって突撃した。六角軍は家臣・三雲三郎に命じて弓兵300をもって高所より一斉射撃を加え、松永軍は多数の死傷者を出し敗走した。義賢は直ちに追撃戦を展開しようとしたが、重臣・蒲生賢秀が大軍を持って追撃することの不可を説き、追撃戦を中止させた。

 永禄十二(1569)年一月六日、前将軍・足利義栄を擁していた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らは、織田信長が擁する室町幕府第15代将軍・足利義昭を京・六条本圀寺に襲撃したが(本圀寺の変)、この2日前の同月四日に三好三人衆は東福寺近辺に陣を置くと、翌五日に洛東や洛中周辺諸所に放火して将軍・義昭の退路を断っていた。この際に将軍山城も放火されているため、この時に将軍山城は足利将軍家や織田家の非常時における詰めの城の役割を果たしていたと推測される。
 その後、元亀元(1570)年九~十二月の志賀の陣に際し、織田家重臣・明智光秀が将軍山城に入って数ヶ月間、比叡山延暦寺を牽制したが、織田信長の京支配が確立するとその軍事的意義を失い、廃城になったと見られている。


 将軍山城に関しては、西隣にある東山新城の城郭部分と将軍山城の城郭部分がそれぞれどの範囲なのかが議論になっている。また幾度も焼失と修築を繰り返しており、当初の東山新城の城郭部分が修築後には将軍山城に組み込まれ一体化したり、東山新城の曲輪の一部では修築の痕跡がなく放置されていることが問題を複雑にしている。『図説中世城郭事典』(1987年)の解説によると、瓜生山の山頂部分の曲輪群については、東側に長大な空堀が設けており、この空堀と主郭(本丸)との間には数段の削平地があるが、防御的色彩に欠けるため居住的な空間だったと考えられる。また主郭の南方尾根にも数段の削平地が認められるが、土塁も認められず、削平の配置にも規則性に欠け、切岸も甘い。これらのことから、この瓜生山山頂部は時代がやや古いものと考えられ、天文十五~六年の義晴・義輝父子の普請であると見られている。
 しかし、『図説近畿中世城郭事典』(2004年)によれば、山頂部分の曲輪群の遺構については東側に長大な箱状横堀・坪堀を設け、さらに2本の横堀・馬出機能を果たす小曲輪・土橋・2ヶ所の長枡形虎口と連携した複合防御パーツの配置が認められることから、むしろ強固な防御装置群を構築していると評価しており、結論として元亀元年の織豊系普請であるとし、山頂部の居住空間は義晴・義輝時代のままとしながらも、周辺の曲輪群については明智光秀城主の時期に修築された可能性を示唆している。

 また、瓜生山の南方600メートル、標高212メートルの地点を中心に曲輪が4つある。このうち3つの曲輪はまとめて「東山新城」と呼ばれ、若狭国守護・武田家が築いたとしているが、享禄四(1531)年以降の記録には表れてこない。この3つの曲輪に関して『図説中世城郭事典』は、将軍山城以前の城郭とは考えられず、現存遺構は享禄の東山新城をその後に大幅改修したものか、そもそも武田家の東山新城ではないとしている。実際に、この3つの曲輪の中にも土橋と大竪堀による複合パーツ、枡形パーツがあるとの分析から、織豊系普請の遺構が確認できるとし、東山新城と呼ばれているかなりの部分が明智光秀時代に改修されたものとしている。ただし部分的な曲輪には足利義輝、六角義賢の改修遺構も存在している。
 これらの現状から『図説中世城郭事典』は、現存遺構に時期差が認められるため、天文~元亀に登場する将軍山城は一定の場所を指す呼称ではなく、京・北郊の北白川山地に随時築かれた城郭をまとめて指す言葉だったのであろうと結論付けている。

城跡へのアクセス
 叡山電鉄一乗寺駅(京都市左京区一乗寺里ノ西町)から真言宗狸谷山不動院(京都市左京区一乗寺松原町)に向かい、徒歩15分で瓜生山山頂へ。
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全国城めぐり宣言 第30回 「山城国 中尾城」資料編

2017年01月18日 14時06分44秒 | 全国城めぐり宣言
山城国 中尾城 とは

 中尾城は、現在の京都府京都市左京区浄土寺に存在した城。
 天文十八(1549)年六月の江口合戦に敗れた室町幕府管領・細川晴元は、京へ退却すると、室町幕府第13代将軍・足利義輝とその父で先代将軍の足利義晴を奉じて京から亡命し、近江国守護・六角定頼を頼り琵琶湖西岸の坂本へ移動した。代わって晴元に勝利した畿内大名・三好長慶が七月に上洛、将軍を失った幕府に代わり京の執政を行うようになる。幕府権威の失墜に危機感を募らせた先代将軍・義晴は京復帰を計画し、同年十月十八日に洛外・東山にある慈照寺銀閣の裏に位置する標高280mほどの山に中尾城の築城を始めた。翌天文十九(1550)年五月四日に義晴は病没するが、子の将軍・義輝も打倒長慶を誓い、六月九日に管領・晴元と共に中尾城へ入城。七月八日に東山の麓の吉田・浄土寺・北白川へ出兵した。
 中尾城の築城にあたっては二重の壁の間に石を詰めたことが、当時の足利将軍家にかなり近い人物が著した記録『万松院殿穴太記』に記されており、これが鉄砲防御対策が文献に記された最古の事例とされる。

 同月十四日、三好長逸・弓介長虎(長逸の子)・十河一存ら兵1万8000の三好軍が上洛、幕府軍も応戦して市街戦となった。しかし、主力の晴元は吉田に、援軍の六角軍は北白川に留まり動かなかったため、足軽兵100のみが出撃する小規模な戦闘に終わった(東山合戦)。この時、三好長虎の与力1名が幕府軍の鉄砲の射撃に当たり討死したとの報を公家・山科言継が日記に書いた記録が、日本初の鉄砲使用例とされている。
 東山合戦は小規模な戦闘となり、両軍の主力がそれぞれ大山崎、中尾城へ引き上げたためさほどの進展は見られず、十月二十日に三好軍が再上洛し東山の幕府軍と交戦したが、これも小規模な戦いであった。しかし、十一月に入ると長慶は積極的な攻勢に踏み切り、十九日に中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火して威圧、二十日には将軍・義輝を援護する近江国に松永長頼軍を向かわせ、大津・松本周辺を放火させた。三好軍が琵琶湖周辺に進撃したために、後方を脅かされることを恐れた将軍・義輝は撤退を決断、二十一日に中尾城を自焼し坂本、次いで北の堅田へ逃れた。中尾城は2日後の十一月二十三日に三好軍が入城し破却された。

 中尾城の遺構は、現在も慈照寺銀閣裏の尾根づたいに確認できるが、道標などはない。銀閣寺の側を流れる谷川筋を登りつめると、大文字山と南北に伸びた尾根続きになっており、ここが二重に掘り切られ、頑丈な土橋がかかる。登城者は蛇行する堀切の中を通って正面土橋に上がる構造となっている。土橋を渡った先はこぶ状の土塁が現在も残っており、もう一本の堀を越えて山頂の中尾城主郭(本丸)への道が続く。堀を越えて進むと右手に出丸の丘が突出している。ここは二重堀切を見下ろす位置にあり、登ってくる敵を真上から迎撃する機能があるとみられる。主郭へ向かう途中にもう一本堀切を渡る。『穴太記』にみえる三重の堀切とは、ここと先ほどの二重堀を合わせた指摘と思われる。
 50m×25m ほどの広さの主郭には、尾根筋に幅の広い土塁状の高まりが現在も残るが、単なる自然地形であった可能性もある。北の尾根続きの堀切も角度が甘く、ゆるやかな傾斜となって北郭に向かっている。城の東口から下には小さな曲輪が何段か残り、山麓へ降りる道があったらしい。西口は南北から坂道が落ち込むような構造となっている。

 北郭も主郭と同規模の長方形の曲輪で、京都市街に向かって土塁が構えられている。主郭斜面と北郭との間には井戸状の窪みが残る。井戸跡の傍らにも門状の歪みがあり、東斜面に降りる道が続いている。北郭の西側には土塁を越えて支峰へ降りる道があり、急斜面を降りる道の左右に武者溜りのような曲輪がある。道と武者溜りの間には山を削った切岸があり、支峰から侵入した敵からは城内の様子が窺いにくくなっている。この道は鞍部をはさんで 支峰頂上に至り、大文字登山口の駐車場横に降りている。北郭から北へは一段落ちて細長い尾根が伸びているが、人工的な施設はない。尾根の先端からは近江国へ続く志賀越が垣間見える。なお『穴太記』には四方に池を掘って水をたたえたとあるが、現在は確認できない。

 中尾城は、天然の尾根を利用した連郭式城郭であるが、築城技術が未熟で、自然地形を削りならした他には急峻な地形に頼ったのみの部分が多く、現状から『穴太記』の描く情景を思い浮かべるのは難しい。
 探訪する手段としては、哲学の道(京都市左京区)からお土産坂を通って慈照寺門前に向かい、門前を左に曲がった先にある八神社(左京区銀閣寺町)を右折する。駐車場を抜けて大文字山への登山道を進む。登山道が谷川を渡る地点から川沿いに登ると三重の堀切に続くが、こちらの道は現在はダムにさえぎられて通過できない。 谷川を渡る地点から大文字への道を登り続け、最初の小尾根に出たところにある看板の背後から続くわき道を進み、小川筋を登っていくと尾根に出られる。ここを左に行くと急傾斜が一気に降りており、三重の堀切にたどり着くことができる。また、大文字登山道入口の駐車場脇にある保安林の入口から支峰をたどって主郭に続く道も別にある。

※中尾城を探訪するにあたり、駐車場を抜けた登山道の入口に「嗚呼 中尾城!!」という特徴的なフレーズで始まる案内板があるという事前情報を得ていたのだが、私そうだいが探訪した2017年1月の時点で、看板は半ば撤去されたような状態で倒されていました。嗚呼……

 最寄りの駅は、京阪電鉄・叡山電鉄出町柳駅(京都市左京区)。
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全国城めぐり宣言 第29回 「京 二条城」資料編

2017年01月15日 22時58分06秒 | 全国城めぐり宣言
恩賜元離宮 二条城(Wikipedia 記事をもとに作成)

 二条城(にじょうじょう)は、京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町(旧・山城国葛野郡)にある、江戸時代に造営された日本の城。京都市街地にある平城で、同じ名称の建築物は足利将軍家・織田家・豊臣家・徳川家によるものがあるが、現存する城は徳川家によるものである。後の近代において明治六(1873)年の廃城令により「存城処分」を受け、二条城は京都府庁や天皇家離宮として使用された後、1939年に京都市に恩賜され現在に至る。
 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。

 日本の歴史において、「二条城」と呼ばれるものは複数ある。

1、室町幕府第13代将軍・足利義輝の御所。「二条御所武衛陣の御構え」と呼ばれていた。永禄八(1565)年に完成しない内に「永禄の変」により廃棄された。
2、室町幕府15代将軍・足利義昭の御所として、織田信長によって作られた城(1569~76年)。本来の二条通からは遠く離れていたが、平安京条坊制の「二条(二条大路と中御門大路(現・椹木通)に挟まれた地域)」には城域の南部がわずかに含まれるため、「二条」の名を冠して呼ばれる。
3、織田信長が京に滞在中の自身の宿所として整備し、後に皇太子・誠仁親王に献上した邸「二条新御所」(1576~82年)。この「二条」は二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる。
4、羽柴(豊臣)秀吉の「二条第・妙顕寺城」。秀吉は主君・信長の在世中にも3、の隣接地に屋敷を有していたが、天正八(1580)年に信長に没収され太閤・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも、本能寺の変の際に近衛家家人の逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後、本拠地を摂津国大坂に定めた秀吉は京における拠点として、現・二条城の東200メートル、中京区小川押小路付近に「二条第」を構えた(1583~86年)。当時そこにあった妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。聚楽第の完成まで秀吉の政庁として使われ、普段は重臣の前田玄以が在城した。現在は、地名に「古城(ふるしろ)町」、「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。
5、徳川家康が京の守護および上洛時の宿所として造営した城。後の近代には宮内省所管「二条離宮」となる。現存する二条城は4、の城である。

 1、と2、は同じ場所に造られたが連続性はない。2、と3、は同じものと見られていたが、『信長公記』その他の史料および発掘結果、残存地名などを根拠として、現在では別のものとするのが通説となっている。2、と3、は5、と区別するために「旧二条城跡」と呼ばれている。


歴史
 慶長六(1601)年五月、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は上洛時の宿所として京・大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、十二月に西国の諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。慶長七(1602)年五月に御殿・天守閣の造営に着工し、翌慶長八(1603)年三月に落成。天守閣は慶長十一(1606)に完成した。
 慶長八(1603)二月十二日、家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、三月十二日に竣工間もない二条城に入城、同月二十五日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、京御所への行列を発した。それに続き、二十七日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長十(1605)年に家康の息子の第2代将軍・秀忠が、元和九(1623)年に孫の第3代将軍・家光が踏襲するが、曾孫の第4代将軍・家綱以降は行われなくなった。
 慶長十六(1611)年、二条城の御殿(現・二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見が行われる。慶長十九(1614)年の大坂冬の陣において二条城は大御所家康の本営となり、伏見城から出撃する将軍・秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ進軍した。
 元和五(1619)年、将軍・秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(実際には秀忠が高虎の考案した2つの案から一方を最終選定しただけ)。元和六(1620)年六月十八日、徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
 寛永元(1624)年、徳川家光が将軍、秀忠が大御所となり、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守閣も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城天守閣が移築された。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代19家が石垣普請を担当した。翌寛永二(1625)年から、二条城には将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。のち元禄十二(1699)年に二条城代は廃止され、その職務は二条在番が一括担当することとなった。
 寛永三(1626)年、後水尾帝の行幸は九月六日から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築され、その他多くの建物が解体撤去された。
 寛永十一(1634)年七月、大御所秀忠の死後に将軍・家光が兵30万7千を率いて上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
 その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延三(1750)年には落雷により天守閣を焼失。さらに京の町を焼き払った天明八(1788)年の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。万延元(1860)年に発生した地震により、御殿や各御門、櫓が傾くなど、さらに大きな被害を受けた。

 文久二(1862)年閏八月、交代制だった二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視・折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構え政務を執っていたため、将軍不在時の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。
 同年、第14代将軍・家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復され、本丸には仮御殿が建てられた。翌文久三(1863)年三月に将軍・家茂は第一次上洛を果たす。慶応元(1865)年に将軍・家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため摂津国大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応二(1866)年の夏に死去する。同年、江戸の幕閣によって次期将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく十二月に、二条城において第15代将軍拝命の宣旨を受ける。
 翌慶応三(1867)年九月、将軍・慶喜は宿所を京の若狭小浜藩邸から二条城に移す。十月には大政奉還、将軍職返上、十二月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時、二条城には旗本を中心とする徳川家直属の兵5000、会津藩士3000、桑名藩士1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄・永井尚志と水戸藩士200が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で混乱が生じる。この件は永井の機転により、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。
 翌慶応四(1868)年一月に鳥羽伏見合戦が勃発する。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、同月五日に朝廷の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官府が設置された。二月三日、明治天皇が初めて行幸し、白書院で幕府討伐の詔を発した事により、二条城は新政府の新しい中央政庁として機能する。三月、明治天皇が再び行幸し、四月十七日、本丸に仮皇居、二の丸に太政官府を造営する案が命じられた。明治三(1870)年の東京奠都後、二条城は留守官の管轄下に置かれる。翌明治四(1871)年に二の丸御殿は京都府庁舎となり、明治六(1873)年に二条城は陸軍省の所管に移された。

 明治十七(1884)年七月、二条城は宮内省の所管となり「二条離宮」となる。翌明治十八(1885)年から明治二十五(1892)年にかけて二の丸御殿の修理が行われる。明治二十六(1893)年から翌二十七(1894)年にかけて、明治天皇の意向により京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸の御殿群を二条離宮本丸へ移築し、本丸御殿とした。その後、明治期には皇太子時代の大正天皇が10回滞在され、離宮としても重要な役割を果たす。
 大正四(1915)年、大正天皇即位礼の饗宴場として二条離宮が使用され(現・清流園にて)、それに伴い南門が増築された。
 1939年、京都市に下賜され、翌1940年に「恩賜元離宮二条城」として一般公開される。

 1952年、文化財保護法の制定により、二の丸御殿6棟が国宝に、東大手門など22棟の建物が重要文化財に指定される。翌1953年には二の丸庭園が特別名勝に指定された。1994年、ユネスコ世界文化遺産に「古都京都の文化財」として元離宮二条城が登録される。
 2006年、日本100名城の第53番に選定される。


立地について
 二条城は、かつて古代に平安京大内裏であった場所の南東と、大内裏の南にあった禁園(天皇の庭園)「神泉苑」にまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。
 家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地域が当時、比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる「聖なるライン」の交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち京御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。

縄張
 縄張の形式は、本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式平城」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式平城」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(現・堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第一次二条城の絵図面類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわかっていない。
 将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は、「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」、「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。


国宝・二の丸御殿について
 二の丸の中心的建造物である国宝・二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄(くるまよせ)」が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍(とおざむらい)」、「式台(しきだい)」、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院(くろしょいん)」、「白書院(しろしょいん)」と呼ばれる6つの建物が、南東から北西へ雁行に並び、入側や渡り廊下で接続され一体となっている。又、築城当時の柱の銅版は金箔押しであり、現存している柱より遥かに華やかなものであった。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。現在、檜皮葺となっている唐破風車寄の屋根は、明治修理により瓦葺きから檜皮葺となった。

 徳川家康が二条城の造営に着手したのは慶長六(1601)年であるが、現存する二の丸御殿の建物群はその20数年後の寛永期に大改修されたものである。二の丸御殿が寛永期に新築に近い改修を受けていることは川上貢らの調査で判明しており、建物内の障壁画についても寛永期の作であることが土居次義、武田恒夫らの研究で明らかになっている。
 遠侍および車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が国宝に指定され(遠侍および車寄は1棟に数える)、これらの建物の各室の床(とこ)、床脇(棚)、帳台構、襖、障子腰、長押上壁などには狩野探幽ら狩野派の絵師による障壁画が描かれている。各建物の屋根は現在は瓦葺きであるが、当初は杮葺きであった。貞享三(1686)年に建物の破損検分を行った記録ですでに瓦葺きであったので、屋根葺き材の変更時期は1686年以前である。
 日本の城郭の御殿は明治以降に破却されたものが多いなかで、二条城二の丸御殿は、一部に改変や破損があるとはいえ、元来からのオリジナルの建物と障壁画がともに現存するという意味で大変貴重な存在である(名古屋城本丸御殿の場合は、障壁画は大部分が現存するが建物は太平洋戦争の空襲で焼失した)。

 遠侍は、二の丸御殿のうち最も手前に位置し、かつ、最も大規模な建物である。棟を南北に向けた入母屋造、瓦葺きの建物で(二の丸御殿の諸殿は全て入母屋造、瓦葺き)、面積は1,048平方メートル。登城した大名や家臣らの控えの場となった建物である。平面は正方形に近く、間取りは東西・南北とも3列構成で、北東に位置する勅使の間(上段・下段に分かれる)から逆時計回りに、一の間、二の間、三の間、柳の間(四の間とも)、若松の間、帳台の間があり、これらに囲まれた中央部には芙蓉の間と物置がある。物置以外の各室に障壁画があり、いずれも金地濃彩である。勅使の間は上段が21畳、下段が35畳。上段には二間半幅の押板形式の床(とこ)と棚、帳台構を備えるが、付書院はない。このような大規模な御殿の主室に付書院を設けないのは異例である。床に向かって左の入側境(通常、付書院の設けられる位置)には腰高障子を嵌める。画題は上段が楓、下段が檜の大樹を主とした金地濃彩画である。一の間、二の間、三の間の障壁画の画題はいずれも竹虎図で、これらの室には虎の間の別称がある。玄関にあたる遠侍の障壁画に虎を描くことは名古屋城本丸御殿などにも例があり、来訪者を威圧する意図があるという。

 式台の間は、遠侍の西に接して建つ東西棟の建物である。面積は332平方メートル。登城した大名らの取次の場となった建物で、手前に式台、その裏手に老中一の間、老中二の間、老中三の間がある。各室の障壁画はいずれも金地濃彩である。式台の間は48畳で、床(とこ)、棚、付書院等の設備はない。式台の間の障壁画は松の巨木を描く。
 二の丸御殿大広間は、式台の西に接して建つ南北棟の建物である。面積は784平方メートル。二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式が高く、将軍の表向きの対面に用いられた、公式的・儀礼的空間である。一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間からなる。一の間は48畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備え、天井はもっとも格の高い二重折上格天井とする。障壁画は式台の間と同様に松の巨木を主題とする。

 蘇鉄の間は、式台と黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物である。明治期に板敷に変更されているが、江戸時代には畳敷の部屋であった。
 黒書院は、蘇鉄の間の北西に接して建つ東西棟の建物である。「黒書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「小書院」と呼ばれていた。面積は569平方メートル。大広間が公式的・儀礼的な表向きの対面の場であったのに対し、黒書院は内向きの対面の場であり、将軍の御座所でもあった。規模は大広間より一回り小さい。一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなり、二の間、三の間、四の間は障壁画の画題から、それぞれ桜の間、浜松の間、菊の間ともいう。一の間は24畳半で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。このうち、棚を北面東端から東面北端にかけて矩折り(L字形)に配置するのが特色である。一の間の天井は格天井だが、大広間の一の間のような二重折上とはしていない。障壁画は式台、大広間と同様に松を主題とするが、床貼付絵は松に梅、柴垣、小禽鳥などを配し、松樹には残雪を表すなどして早春の季節感を表す。さらに床脇(棚)の壁貼付の竹図と合わせて松竹梅を表している。

 白書院は黒書院の北に建つ南北棟の建物で、御殿の建物群のうちもっとも奥に位置する。黒書院とは渡り廊下を介して接続する。「白書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていた。面積は318平方メートル。大広間や黒書院に比べて規模が小さい、内向きの建物である。将軍の休息所、寝所として使用され、本来は将軍と夫人、おつきの女中のみが入ることができた間であった。障壁画は他の諸殿が金地濃彩を主としているのと異なり、白書院の障壁画は淡彩が主体となっている。間取りは黒書院と同様、一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間、付属の間(指出の間)からなるが、規模は黒書院より小さい。一の間は15畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。一の間の天井は格天井だが、二重折上としていないのは黒書院一の間の天井と同様である。障壁画は淡彩の山水画で、中国の西湖の情景を表したものである。

 外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただし、南門は1915年に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の城門ではない。正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(埋門)と南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に二条城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられ、行幸後に再び櫓門に戻された。

本丸御殿について
 本丸御殿は、二条離宮時代に京都御苑にある京都御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)を、明治天皇の意向により1893~94年に移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。しかし、この本丸御殿(旧宮邸)は幕末には明治帝の父・孝明天皇の仮皇居となっていたことや、皇女・和宮親子内親王はこの御殿に暮し、ここから江戸へ嫁いでいるという由緒ある御殿である。また、移築された本丸御殿は主に皇太子時代の大正天皇が10回滞在された等、離宮としても重要な役割も果たした。
 過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年の春を最後に公開を中止している。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、庭園や池が現存している。本丸御殿の南には、洋風庭園がある。

天守閣跡
 創建時の天守閣は、『洛中洛外図屏風』では二条城の北西部分(現在の清流園の辺り)に複合式望楼型5重5階天守として描かれている。この天守閣は慶長期に家康によって現在の二の丸の北西隅に建てられたもので、大和国郡山城天守閣の移築であるという説がある。記録には小天守や渡り廊下の記述があり、天守曲輪を形成していたと考えられる。この天守は3代将軍・家光の時に行われた寛永の大改修時に淀城に再び移築された。移築された淀城天守は図面が残されているので、慶長度天守の復元は可能である。
 これに代わって新たに造られた本丸の南西隅に、前年に一国一城令によって廃城とした伏見城天守閣が移築された。この寛永期天守は、取付矢倉が付属する複合式層塔型5重5階天守であったが、寛延三(1750)年に落雷で焼失して以来、再建されなかった。現在は天守台のみが残る。天皇が行幸で昇った唯一の天守閣となる。

移築建造物
・神奈川県横浜市中区の三渓園に、二条城から聴秋閣(三笠閣)が移築されて現存し、国の重要文化財に指定されている。
・京都市東山区にある豊国神社の唐門は、寛永大改修に際して金地院以心崇伝が第一次二条城の唐門を下賜されたものを、明治時代になって金地院から譲られ移築したもので、国宝に指定されている。
・東京都世田谷区にある世田谷観音寺内の阿弥陀堂という三階建ての望楼型建築物が、二条城本丸からの移築と伝わる。二条城内の櫓とは建築方法や外見が大きく異なるため、風流を嗜むものと思われる。

特別名勝・二の丸庭園
 別名「八陣の庭」。小堀遠州の代表作として挙げられることも多い桃山様式の池泉回遊式庭園(中心に池を配し、その周りを歩いて鑑賞する庭園)である。池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東(大広間)側、第3正面は北(黒書院)側という三正面式の設計である。
 1953年に特別名勝に指定された。

現地情報
 京都市営地下鉄東西線二条城前駅から徒歩1分。
 入城料……一般800円(二の丸御殿を観覧する場合は別途500円必要)、中高生 400円、小学生 300円
 展示・収蔵館の入館料 …… 小学生以上100円
 開城時間 …… 8時45分~16時(閉城17時)、二の丸御殿観覧時間 …… 8時45分~16時
 展示・収蔵館開館時間 …… 9時~16時45分(受付16時30分まで)
 休城日 …… 年末12月29~31日
 二の丸御殿休殿日 …… 毎年1・7・8・12月の毎週火曜日、正月三が日、12月26~28日(当該日が休日の場合その翌日を休城日とする)
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生涯初、念願の上洛!! ~京のみやこはやはり素晴らしかった~

2017年01月10日 15時32分16秒 | 日記
そうだいの第一次上洛(2017年1月7~9日)

行程
一日目(晴天)
・世界遺産 元離宮 二条城
 ……大政奉還の二ノ丸大広間! 意外とそんなに広くはなかったけど、やっぱり幕府の威光を十二分に感じさせる格式美でした。
・臨済宗天龍寺派 等持院
 ……きたきたきた!! 夢にまで見た足利歴代将軍木像!! 霊陽院義昭公には無論のことお賽銭を寄進させていただきました。
・京都市考古資料館
 ……こういうなんでもない入館無料の施設でさえ展示品のクオリティが高い高い! 建物自体に歴史があるもんねぇ(1914年築)。
・白峯神宮
 ……崇徳帝のご聖地と思ってはりきって訪れたら、もともとその土地が幕末まで雨林公家の飛鳥井家の邸宅だったということで、蹴鞠=サッカーの聖地になってました。おどろおどろしいどころか、洛中でもまれに見る元気ハツラツでスポーティな神社に!
・晴明神社
 ……大学時代に完全にミーハーなファンであった以上、ここは行かざるを得なかった。今でも人気ありますねー。売店にあった色あせまくりの野村萬斎版『陰陽師』シリーズのポスターに涙が出ました。ろくなセリフもない式神やってたおねぇちゃんが国会議員様になる時代。おたかさんはお元気でしょうか。

二日目(大雨)
・琵琶湖疎水分線 哲学の道
 ……あの西田きたろう博士が散策したという美しい小径。私もいちおう考えごとをしながら歩いてみましたが、たぶん頭脳パン1コぶんくらいはかしこくなったと思います。
・世界文化遺産 東山慈照寺銀閣
 ……奇人変人オンパレードの足利将軍家の中でも随一のめんどくささを誇る慈照院義政公の宝箱。雨の日でもちゃんと美しいのがすごすぎる!
・山城国 中尾城
 ……慈照寺の裏山が、万松院義晴公・光源院義輝公父子の京奪回の夢を賭けた山城だったということで探訪。案内板が撤去されているという衝撃の事実と大雨にもめげず登るが、石垣がちょっと残ってるくらいで、たった2年の城の命にあはれを感じざるを得ない物寂しさでした。風雨に柔らかい土でできた階段も消えかかり、むしろ他に人がいたら怖いという観光スポットに大満足! 遭難しかけてこその山城探訪よ。
・山城国 将軍山城
 ……に行こうと思ったのですが、道を間違えてその手前の京都造形芸術大学のキャンパスをほっつき歩いただけで退散。でも、大学も山城みたいに複雑な斜面配置になってた! いい大学だなぁ。
・幕末維新ミュージアム 霊山歴史館
 ……もともとこれも義輝公の霊山城に行きたくて訪れたのですが、予想以上に充実した幕末史料の数々にたちまち夢中に。火縄銃とゲベール銃の性能の差に長州藩の快進撃も大納得。火縄銃おもいし(約5.5キロ)!!
・明治維新史跡 霊山官修墳墓 維新の道
 ……維新志士1356名が眠るというものすごい墓地。おめあてはもちろん河上彦斎さま。くずりゅーせん!!
・法観寺 五重塔
 ……でかいでかい! 小さな町並みにぬっと現れる高さ約50メートルの威容は怪獣そのもの。ブラックキングかアーストロン的なスタンダードスタイル。
・平安神宮
 ……ちょっとしか見られなかったけど、応天門はいいねぇ。
・京都市美術館
 ……やってたのは日展でしたが、展示品よりも1933年開館の建物自体が最高でした。怪人二十面相が出てきそうな古風さにメロメロ! 吉居寛子さんの彫像とナカジマカツさんの絵画が良かった。

三日目(曇天)
・上御霊神社
 ……崇徳帝に安倍晴明ときたら、残るはやっぱり崇道帝でしょ!! 朝の境内の静かな雰囲気が素晴らしかった。修復寄進になる記念Tシャツを買いました。枯れたいいデザイン。
・東寺
 ……時間がなかったのでちょびっとだけ。


 総じて大満足でしたが、足利父子の3山城は、またルートを確認しなおして再探訪だな! 金閣とか清水寺なんかは、いつでもいいや。足は常に鍛えとかないとダメだな~。
 数ある神社の中から、晴明神社を選んでチャレンジした今年初のおみくじの結果は、なんともしょっぱすぎる「末吉」……ちきしょう、蘆屋道満さまにいいつけてやるっ。
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