長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ただのメモです ここは押さえとけ!!ラヴクラフト手帖

2023年12月29日 18時36分56秒 | ホラー映画関係
短編小説『錬金術師(The Alchemist)』(1916年11月)
・ラヴクラフトが小説家を目指す契機となった作品
・所収
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)

ショートショート『忘却 / 廃墟の記憶(Memory)』(1919年6月)
・以降のラヴクラフト作品に共通した思想が描かれている
・所収
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・紀田順一郎 角川ホラー文庫)

短編小説『ダゴン(Dagon)』(1919年11月)
・のちのラヴクラフト世界観を最初に創り出した先鋭的作品
・『クトゥルフの呼び声』(1928年)の原型
・父なるダゴンと母なるヒュドラ
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『インスマウスの影』(1936年)

断章『アザトース(Azathoth)』(1919年?月)
・『未知なるカダスを夢に求めて』の原型か
・アザトース
 「魔皇」、「万物の王」、「白痴の魔王」と呼ばれ、ラヴクラフト神話に登場する多くの神々の始祖とされる。
・所収
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『ペガーナの神々』(1905年)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『闇に囁くもの』(1931年)、『魔女の家の夢』(1933年)、『闇の跳梁者』(1935年)

短編小説『ランドルフ・カーターの陳述』(1920年?月)
・ラヴクラフト自身をモデルとした神秘学者ランドルフ・カーター(Randolph Carter)が登場するシリーズの第1作
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『ニャルラトホテプ(Nyarlathotep)』(1920年11月)
・ニャルラトホテプ
 クトゥルフ神話における重要なキャラクター。人間大で描写されている。
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『這い寄る混沌』(1921年)

短編小説『ウルタールの猫(The Cats of Ulthar)』(1920年11月)
・ドリームランドもの
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕訳 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連項目
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『蕃神』(1933年)

ショートショート『北極星 / ポラリス(Poraris)』(1920年12月)
・超古代の歴史書『ナコト写本』が初登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『恐ろしい老人(The Terrible Old Man)』(1921年7月)
・移民による犯罪を描いた物語であり、人種差別の批判を承知で著した作品。
・キングスポートが初めて舞台となった作品
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『驚異の書(Probable Adventure of the Three Literary Men)』(1912年)
・関連作品
 『魔宴』(1925年)、『霧の高みの不思議な家』(1931年)

短編小説『家の中の絵(The Picture in the House)』(1921年7月)
・「アーカム」や「ミスカトニック」が初めて登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『無名都市(The Nameless City)』(1921年11月)
・アブドゥル=アルハザードの名前が初登場する記念碑的作品
・無名都市
 アブドゥル=アルハザードが幻視して見つけた、はるか昔の都市。アルハザードは「夢の中で訪れた」とされる。古代人は、この地を「何も無い場所」を意味する「ロバ・エル・カリイエ」の名で呼び、現代アラブ人は「真紅の砂漠」と呼ぶ、イラク・クウェート付近にあるルブアルハリ砂漠の中に存在する。20世紀初頭にはクトゥルフ教団の拠点がある。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『サルナスの滅亡』(1920年)、『魔犬』(1924年)、『クトゥルフの呼び声』(1928年)

短編小説『エーリッヒ・ツァンの音楽(The Music of Erich Zann)』(1922年3月)
・ラブクラフトが「自分の物語で最高の作品」として紹介している。
・所収
 『ラヴクラフト全集第2巻』(1976年 訳・宇野利泰 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『セレファイス(Celephaïs)』(1922年5月)
・セレファイス
・クラネス
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アンブローズ=ビアス『空飛ぶ騎手(A Horseman in the Sky)』(1889年)
 ダンセイニ卿『トーマス・シャップ氏の戴冠式』(1912年)
・関連作品
 『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)、『インスマスの影』(1936年)

短編小説『眠りの神 / ヒュプノス(Hypnos)』(1923年5月)
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『魔犬』(1924年)

短編小説『魔犬 / 妖犬 / 猟犬(The Hound)』(1924年2月)
・魔導書『ネクロノミコン』が初めて登場した作品
・アブドゥル=アルハザード
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『無名都市』(1928年)

短編小説『魔宴 / 祝祭(The Festival)』(1925年1月)
・のちのクトゥルフ神話に先行した作品として重要
・キングスポートもの
・「無定形のフルート奏者」、魔導書『ネクロノミコン』、「ミスカトニック大学」の設定が初めて明確化される
・緑色の火柱
・無定形のフルート奏者
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『恐ろしい老人』(1921年)、『魔犬』(1924年)、『無名都市』(1928年)、『霧の高みの不思議な家』(1931年)

短編小説『名状しがたいもの(The Unnamable)』(1925年?月)
・ランドルフ=カーター
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)

短編小説『アウトサイダー(The Outsider)』(1926年4月)
・ラヴクラフトの代表作の一つ、初期の最高傑作
・ラヴクラフトは「最もポオの作風に似ている」と語っている。
・ラヴクラフトの心象を表した一種の自伝的小説と評され、ラヴクラフト自身も「自分はアウトサイダーである。」と語っていた。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・平井呈一 角川ホラー文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 エドガー=アラン・ポオ『ベレニス』(1835年)、『赤死病の仮面』(1842年)
 ナサニエル=ホーソーン『ある孤独な男の日記より』(1837年)
 オスカー=ワイルドの童話『王女の誕生日』(1891年)
・関連作品
 『闇をさまようもの』(1936年)

短編小説『異次元の色彩 / 宇宙からの色(The Colour Out of Space)』(1927年9月)
・ラヴクラフト自選ベスト作
・宇宙生物カラー(色彩)
 他の生物の生命力を糧とし、影響を受けた生き物は精神を病み生命力と色彩を失って灰色に変じ、最終的には崩れ去る。ガス状の生命体と推測されているが、正体も対処方法も不明。
・映像化作品
 映画『DIE MONSTER DIE!(襲い狂う呪い)』(1965年)
 映画『The Curse(デッドウォーター)』(1987年)
 映画『Die Farbe』(2010年)
 映画『カラー・アウト・オブ・スペース 遭遇』(2019年 主演ニコラス=ケイジ 監督リチャード=スタンリー)
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『From Beyond』(1920年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『忌まれた家』(1937年)

短編小説『ピックマンのモデル』(1927年10月)
・カニバリズムをテーマとした作品
・ラヴクラフト作品でも特異な一人称対話形式の作品
・リチャード=アプトン・ピックマン
 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの幻想画家
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
・関連作品
 『ネクロノミコンの歴史』、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)』(1928年2月)
・ラヴクラフトのクトゥルフ神話の代表作、中核、出発点
・ラヴクラフト自身は「そこそこの出来、自作のうち最上のものでも最低のものでもない。」と評している。
・クトゥルフ(Cthulhu)
 エインジェル教授の論文に現れる邪神。信者は世界各地におり、グリーンランド、ニューオーリンズ、南太平洋で神像が見つかっている。
・所収
 『ラヴクラフト全集第2巻』(1984年 訳・宇野利泰 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アルフレッド=テニスンの詩『クラーケン』(1830年)
 ジェイムズ=フレイザー『金枝篇』(1890~1936年)
 アーサー=マッケンの短編小説『黒い石印』(1895年)
 ロード=ダンセイニの短編小説『ペガーナの神々』(1905年)
 イギリスの怪奇小説家アルジャーノン=ブラックウッド(1869~1951年)の引用
・関連作品
 『ダゴン』(1919年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『インスマウスの影』(1936年)

短編小説『銀の鍵(The Silver Key)』(1929年1月)
・ランドルフ=カーター
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫
・関連作品
 『セレファイス』(1922年)、『銀の鍵の門を越えて』(1934年)

短編小説『ダンウィッチの怪(The Dunwich Horror)』(1929年4月)
・アンソロジーに採用されることも多く、ラヴクラフトの代表作かつ入門作として取り上げられることも多い。モダンホラー文学の先駆。自他ともに好評な自信作
・旧支配者
・ヨグ=ソトース
・映像化作品
 映画『ダンウィッチの怪』(1970年)
 映画『H.P.ラヴクラフトのダニッチ・ホラー』(2007年)
・所収
 『幻想と怪奇第2巻 英米怪談集』(1656年 訳・塩田武 ハヤカワポケットミステリ)
 『怪奇小説傑作集第3巻 英米篇3』(1969年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』(1928年)、『インスマウスの影』(1936年)

短編小説『闇に囁くもの(The Whisperer in Darkness)』(1931年8月)
・SF小説の傾向が強い、転換期にあたる作品
・地球外生命体ミ=ゴ
 惑星ユゴスから飛来した知的種族。菌類生物に近いが高度な科学力を有する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第1巻』(1974年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)、『狂気の山脈にて』(1936年)、『時間からの影』(1936年)

短編小説『霧の高みの不思議な家(The Strange High House in the Mist)』(1931年10月)
・キングスポートもの
・ノーデンス
 海の神
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ダンセイニ卿『驚異の書(Probable Adventure of the Three Literary Men)』(1912年)、『ロドリゲスの年代記』(1922年)
・関連作品
 『恐ろしい老人』(1921年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『魔女の家の夢(The Dreams in the Witch House)』(1933年7月)
・「妖術師もの」の一作
・所収
 『ラヴクラフト全集第5巻』(1987年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2023年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ナサニエル=ホーソーンの未完小説『セプティミウス・フェルトン』(1872年)

ショートショート『蕃神 / べつの神々(The Other Gods)』(1933年11月)
・ドリームランドもの
・『ナコト写本』が登場する。
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2022年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・関連作品
 『ウルタールの猫』(1920年)、『北極星』(1920年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1927年)

短編小説『銀の鍵の門を越えて(Through the Gates of the Silver Key)』(1934年7月)
・ラヴクラフトの異界幻想の極致というべき異色作
・所収
 『ラヴクラフト全集第6巻』(1989年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
・関連作品
 『セレファイス』(1922年)、『銀の鍵』(1929年)、『永劫より』(1935年)

長編小説『狂気の山脈にて(At the Mountains of Madness)』(1936年2~4月)
・「クトゥルフ神話」の歴史が最も直接的かつ密度濃く描かれた作品。「古のもの物語」の代表作。
・ロストワールドもの SF冒険小説
・ラヴクラフトの宇宙観の総決算となる「幻想宇宙年代記」
・関連作品
 『時間からの影』(1936年)
・古のもの(いにしえのもの Old One)
 樽形の胴体と五芒星形の頭部を持つ半動物・半植物的な地球外生命体。生命体がまだ存在しなかった太古の地球に到来して文明を築いた。魔導書『ネクロノミコン』には、彼らが地球の生命体を創造したと記されている。生命力が極めて強く、水陸双方の環境に適応する。超常的な力は持たないが、科学技術が非常に発達していた。南極大陸は彼らが宇宙から地球に最初に降り立った場所である。「旧支配者」とも呼ばれる。
・ショゴス(Shoggoth)
 スライムのような不定形生物で、古のものによって創造され、都市の建設などに使役されていた。力が強く、身体は形状を変えるだけでなく、一時的に様々な器官を造り出すことが可能である。やがて知性を発達させ、次第に古のものに対して反抗的になり、ついには大規模な反乱を起こした。「テケリ・リ!テケリ・リ!」という特徴的な声を挙げるが、これは古のものの発声器官を真似することで身に付けたものである。このショゴスの鳴き声は、エドガー=アラン・ポオの冒険小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1837)に登場する巨大な怪鳥の鳴き声が元になっている。
・クトゥルフの末裔(Star-spawn of Cthulhu)
 古のものよりもさらに遠い世界から現れた地球外生命体。外見上はタコに似ているが、身体が地球上の生物とは異なる物質によって構成されており、変身や体組織の再生が可能である。古のものよりも後に地球に到来し、地上の支配を巡って古のものと激しく争った。この戦いでは一時的に全ての古のものを海に追い落としている。のちに和戦がなされて領土を分け合ったが、突如として本拠地の都ルルイエもろとも海に沈んだ。
 魔神クトゥルフとは異なり、クトゥルフの末裔はミ=ゴと同列の宇宙生命体のような扱いで、「陸棲種族」などと表される。
・ミ=ゴ(Mi-go)
 外見は甲殻類に、性質は真菌類に近い地球外生命体。クトゥルフの末裔と同様、地球上の生物とは根本的に異質な生物で、変身や体組織の再生が可能である。地球に現れたのはクトゥルフの末裔のさらに後で、すでに衰退していた古のものから北方の土地を奪った。ただし、海に隠棲した古のものには手出しができなかった。現在も地球上に潜んでいる。
・ミスカトニック大学
 アメリカ合衆国マサチューセッツ州の都市アーカムで1797年に創立された総合大学。
 1930年の南極探検には、ナサニエル・ダービイ・ピックマン財団から資金援助を受けている。
・狂気山脈(Mountains of Madness)
 南極大陸に存在する未知の巨大な山脈で、山腹にある地下洞窟から奇怪な古生物の化石が発掘され、恐るべき超古代の支配者達の存在が判明した。
・所収
 『ラヴクラフト全集第4巻』(1985年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 エドガー=アラン・ポオ『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(1837年)
 マシュー=フィップル・シェイ『パープルクラウド(The Purple Cloud )』(1901年)
 エドガー=ライス・バロウズ『地底の世界ペルシダー(At the Earth's Core )』(1914年)
 エイブラハム=グレイス・メリット『秘境の地底人(The People of the Pit )』(1918年)
 オスヴァルト=シュペングラーの歴史学書『西洋の没落』全2巻(1918、1922年)
 ジョセフ=ペイン・ブレナン『沼の怪スライム』(1953年)
・関連作品
 『無名都市』(1921年)、『未知なるカダスを夢に求めて』(1926年)、『時間からの影』(1936年)

短編小説『インスマスの影(The Shadow Over Innsmouth)』(1936年4月)
・ラヴクラフトの代表作。スリラー小説の要素が強い。クトゥルフ神話体系の中核。
・ダゴン秘密教団、深きものども
・映像化作品
 TVスペシャルドラマ『蔭洲升を覆う影』(1992年)
 映画『ダゴン』(2001年)
・所収
 『ラヴクラフト全集第1巻』(1974年 訳・大西尹明 創元推理文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 アーヴィン=S=コッブ『フィッシュヘッド』(1911年)
 オーガスト=ダーレス『潜伏するもの』(1932年)
・関連作品
 『ダゴン』(1919年)、『セレファイス』(1922年)、『クトゥルフの呼び声』(1928年)、『ダンウィッチの怪』(1929年)

短編小説『時間からの影(The Shadow Out of Time)』(1936年6月)
・「大いなる種族もの」の代表作
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『狂気の山脈にて クトゥルー神話傑作選第2巻』(2020年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ウィリアム=ホープ・ホジスン『異次元を覗く家』(1909年)
・関連作品
 『異次元の色彩』(1927年)

短編小説『闇をさまようもの / 暗闇の出没者(The Haunter of the Dark)』(1936年12月)
・ラヴクラフトが生前に発表した最後の作品。ニャルラトホテプものの代表作
・ニャルラトホテプ
 闇をさまようもの。
・所収
 『ラヴクラフト全集第3巻』(1984年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『ラヴクラフト 恐怖の宇宙史』(1993年 訳・荒俣宏 角川ホラー文庫)
 『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選第1巻』(2019年 訳・南條竹則 新潮文庫)
・先行作品
 ロバート=ブロック『星から訪れたもの』(1935年)、『暗黒のファラオの神殿』(1937年)、『尖塔の影』(1950年)
・関連作品
 『アウトサイダー』(1926年)

短編小説『忌まれた家(The Shunned House)』(1937年10月)
・吸血鬼や狼男伝説をモティーフとしている
・ラヴクラフトの訃報と共に雑誌『ウィアード・テイルズ』に掲載された作品
・所収
 『ラヴクラフト全集第7巻』(2005年 訳・大瀧啓裕 創元推理文庫)
 『アウトサイダー クトゥルー神話傑作選第3巻』(2023年 訳・南條竹則 新潮文庫)
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業火絢爛たる演劇的悪夢に、令和の父子鷹をみた!! ~城山羊の会『萎れた花の弁明』~

2023年12月17日 21時08分01秒 | すきなひとたち
 え~、みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございます。
 いやはや、2023年も、なんだかんだ言ってもう師走ですよ。みなさまは、無事に年を越せそうですか? 私はもう、やり残したことが満載すぎて未練たらたらでございます。早い! 時間が経つのが早すぎますよ、40代は!

 ただそうは言いましても、今年は春に「コロナウイルスは終息してないんだけど、もういい加減、終息したことにしちゃおう。」的な流れにもなりましたし、いろいろと解放された年にもなったかと思います。少なくとも私は、なんとなくですが羽根を伸ばせたいい年だったような気はしますね。
 その一環として、夏にはコロナ禍前からの懸案だった「山梨県までドライブ旅」も楽しく果たせましたし、実はこの土日にも、数年ぶりに東京に行ってきたんですよ、一泊で。

 いや~、楽しかったんですが……私、人ごみを歩くのヘタになったなぁ~! あと、地下鉄でも混乱しまくり。
 やっぱ、何年もやらなくなると退化するもんなんですねぇ、そういう生活行動って。よもや、いやしくも関東地方でかつて15年くらいは暮らしていたこの私が、「都営地下鉄」と「東京メトロ」の違いさえわからなくなるとは……こりだがら田舎もんはダミだなやぁ~!
 振り返ると、2019年いらい4年ぶりの東京なんですよね。変わったような、変わってないような。でも、街中をゆく外国からの旅行客らしい人の割合は格段に増えたような気がする。あ、あと、どの業種でも働いてる人の外国人率、めっちゃくちゃ上がりましたよね!? そして、働いてる外国の方たちの日本語が上手、ノーストレス&親切丁寧! その反面、働いてる日本人のあんちゃんおねえちゃんのやる気のなさときたら……いや、たまたま私が行ったお店がそうだったってだけなんですが。もう、あの駅前の牛丼屋さんには一生行かない……
 それにしても、この土日の東京はばかに暖かかったですね! 太宰治ゆかりの三鷹に行くってんで、意気揚々とマントを羽織って行ったのですが(ほんとは二重廻しなのですが扱いやすいのでマントにしました)、歩いてものの数分で汗だくに! 秋どころか、春みたいな陽気でしたよね。

 そんでま、久しぶりに上京したお目当ては、こちらでございました。


城山羊の会プロデュース第25回公演 『萎れた花の弁明』(2023年12月8~17日 三鷹市芸術文化センター星のホール)


 楽しみにしておりましたよ~! 現代日本の恥部を活写するグランギニョル、城山羊の会さま定期公演!!

 ……と言いましても、まことに情けないことに私はここ5年以上も城山羊の会さんのお芝居の観劇はご無沙汰になっておりまして、最後に観たのはなんと2016年の『自己紹介読本』(初演版)というていたらくなのです。しかも、その感想を記事で立ち上げていながら、本文を一向に書き上げなかったという不実っぷり……すべては年末から年度末にかけて殺人的に忙しくなる私の仕事のせいなんでい! と、むなしく叫ばせていただきたく候。
 こんなひどい状況なので、城山羊の会さんの大ファンなんです、信じてください!と叫んだとて、『ウルトラマンA 』の北斗星司隊員のごとくに「ぶったるんどる!!」と山中隊員に殴られてもおかしくないわたくしなのですが、それでも恥を忍んで今回、そうとう久しぶりに拝見させていただきました。
 いや~、なつかしいです。まず肝心のお芝居が始まるまでの道中のもろもろが全部、なつかしい。
 JR三鷹駅の南口から階段を降りて三鷹通りを南下します。夕方6時を過ぎた冬の三鷹の街はすでに半分寝ているような状態で、たまに通り過ぎる満員のバスか通り沿いのガストぐらいしか活気のあるものはありません。太宰治の眠る墓地とやたら立派な八幡大神社を過ぎて突き当たった連雀通りを右に曲がると、お目当ての三鷹市芸術文化センターはすぐに見えてきます。
 こちらにうかがって城山羊の会さんの公演を観るのはもう何回目になるのかわからないのですが、この時間帯にこのルートを通って三鷹市芸術文化センターに向かう人って、もう目的はほぼ100%城山羊の会さんの観劇ですよね。お互いに直接会話こそしないものの、「あんたも好きね……」みたいな余計なお世話なアイコンタクトを取りつつ会場へと向かうわけなのですが、まずお芝居が面白いかどうか以前の段階で、この、他人にはおおっぴらに言えない秘密の黒ミサにおもむくような背徳感と高揚感がたまらないんですよね! 今夜はどんな惨劇を目の当たりにすることになるのかという、このワクワク……いけないですね。

 そんなことを妄想しつつ会場に入り、客席につくわけなのですが、これまた例年通りに足組が丸見えの客席裏から階段を上り、客席の最上段から目の前の舞台セットを見下ろした時点で、私は度肝を抜かれてしまいました。
 今回の舞台は、三鷹市芸術文化センターの外観なのです。つまり、「三鷹市芸術文化センター」というレリーフがついた建物の外壁と、車道沿いのバス停があるという風景。

 なんということを……これから始まる物語が「芸術文化」の「センター」で繰り広げられていいわけがないのに、そこをあえて強調するかね、しかし!? 芸術文化って何なんだろうと、観る者に重大な問題提起を喚起するヘビーなファーストパンチですね。いや、だからお芝居1秒も始まってないってば!!

 それでまぁ、いつものように客席もギューギューに詰まってお話が始まったわけなのですが、例によって三鷹芸術文化センターの支配人であらせられる森元隆樹さんの前説からシームレスに物語が始まるという流れになります。数年ぶりに公演を観る人間にとっては、この導入までもが全く変わっていないのがありがたい……もうお能の囃子方というかギリシア悲劇のコロスというか、『世にも奇妙な物語』のタモリさんのような必要不可欠な存在ですよね。えっ、森元さん、来年で還暦!? それは、来年の城山羊の会さんの公演も見逃せませんね……

 舞台設定が三鷹芸術文化センターの真ん前で、その支配人の森元さんご本人が登場するのですから、限りなく現実世界に近い状況設定から物語が始まるわけなのですが、今回の公演はこの芸術文化センター前の路上というセットが、時々パカーと開いて別の空間に変容することによって、私が拝見したどの過去公演作品よりも、人間の「本音」と「建て前」というものをはっきりと区別する効果を上げていたと思います。つまり、芸術文化センター前で繰り広げられる何気ない会話や、互いに体裁を意識しまくった茶番の数々はすべて「建て前」であり、その奥に全く違う空間が広がった時に見える光景こそが、「本音」の世界なのです。この「本音」の世界に入り込むのは性欲王国の無邪気な冒険者である木原(演・岩谷健司)と生活上の必要に迫られてデリヘルで働くことになったシングルマザーのカオリ(演・石黒麻衣)のペアと、太宰治を信奉しているらしい老カサノヴァ男のシゲオ(演・岡部たかし)とその婚約者のスミコ(演・村上穂乃佳)のペアの計4名となります。あと、クライマックスでもう一人の俳優さんがそのゾーンに出てくるのですが、そのときのあの人が果たして「人格」を持っている存在なのかは……神のみぞ知るということで。

 男女ペアが「本音」の世界に出てきて本性を表すという、この非常に分かりやすい構図から見てもわかる通り、本作は「性交って、なんなんだろう?」という千差万別な問題を、様々な世代、性別の人間から照らし出すお話となっております。それなりに適当な落としどころを見つけてのらりくらりとやっていく世渡り上手な人もいれば、自分の性欲、つまりは「生きる欲望」に忠実であろうとするあまりに周囲の人間関係をズタボロにしてしまう破滅型の人もあり……ここらへんは言うまでもなく城山羊の会さんお得意の、人間模様タペストリーの独擅場ですよね。
 特に今回でいうと、やはり周囲を引っ掻き回す特A 級戦犯といえるシゲオを演じる岡部さんの憎ったらしさと、残念ながらもそれを上回ってしまう愛らしさが光っていたわけなのですが、芸術文化センター前で息子のオサム(演・岡部ひろき)ににらまれた時の「なに? それのどこがいけないわけ?」とひらきなおる素振りを観てしまうと、「あぁ、私は今、城山羊の会さんを観ているんだな。」とか、「もうそんな季節か。年賀状書かなきゃいけないな。」とか、しみじみ感じ入ってしまうのでありました。師走の風物詩、岡部たかしさんの居直り演技。

 ただ、そういった2層構造によってコロコロ変わる人間のおかしみを楽しむばかりならば簡単なコメディ群像劇で済んでしまうわけなのですが、そういう面白さもちゃんとありつつ、それで済むわけがないのが城山羊の会さんなのでして。

 今回のお話には、その「本音」と「建て前」の世界をわりと自由に行き来できるというか、周囲の視線を気にすることも無く平然と越境できる超人キャラクターが2名も登場します。すなはち、性欲王国のオデュッセウス・木原と、本音と建て前のはざまで煩悶するカオリの身辺にちらっちらと出没する謎の人物イエス(演・朝比奈竜生)です。この2人がね……彼らが登場することこそが、この城山羊の会さんの作品が凡百の「人間模様あるあるネタ芝居」も、現代日本文学をも超越して、人類史みたいな高みにまで軽~く飛んで行ってしまうロケットエンジンになっていると思うのです。

 まず木原は、いちおう「ハラキ」なんていう仮名こそ使ってはいますが、芸術文化センター前の路上でも初対面の人に対して、っていうかそこのセンターの支配人(限りなく公務員に近いお方)を相手にして、出会って十数秒で「性欲どうですか?」と質問し、コロナ禍こそ自粛していたようですが、デリヘルの社長と懇意になるくらいの常連客となってホテルにいそいそと通う(一日二回も辞さない)という豪の者です。豪というか、業というか……
 そういう人物を並みの50代の俳優さんが演じてしまうと、脂ぎった嫌な俗人になってしまうか、現実味のないギャグ要員になってしまうかと思うのですが、そこをあの岩谷さんが演じることによって、岡部さん以上に愛らしい人間に見えてしまうのが不思議ですね。いや、ホテルでカオリにあんなアプローチをかけてしまう所業は、女性から見ると許せないものがあるのかも知れないのですが、そこにもどことなく「コロナ禍あけでウキウキしてるんだろうなぁ」という人間味を感じてしまうのは私だけでしょうか。なんかそこに、遠足前の小学生のような邪気のなさを感じてしまうんですよね。自らの行いに恥じるところが寸毫も無いんです。
 つまり、何を差し置いても「自分の性欲が第一!」というごんぶとな筋を一本通しているこの木原という人物には、人間世界の本音だの建て前だのという既成の価値基準などいっさい通用せず、だからこそ木原は、周囲の人間の本音も建て前もすべてを観たり聞いたりすることのできる牧師に限りなく近い「異形のひと」になる資格があるわけなのです。そうそう、昔の日本での宗教者なんて、バチカンとか国教会みたいな公式ライセンス機関なんかあってないようなもので、「そういう感じで生きてるんだったら坊さんでいいんじゃない?」みたいな資格基準だったそうですしね。そういう意味でも、木原は決して「ニセ牧師」などではないのです。

 そして、木原とはまったく別の次元での越境者となっているのが、カオリから「イエス様」と呼ばれる謎のやぼったい日本人青年なのですが、これもまた、私から観ると冗談でなくナザレのイエス本人なんじゃないかという説得力に満ちた超人だと思います。決してカオリやその他の人物たちが観ている幻覚ではないですよね。
 だって、イエスの身になってみてくださいよ……自分がいっぺん死んでから、もう2000年も経とうかというのに、いまだに世界中の無数の人達から勝手に呼び出されて泣かれたりどうでもいい人生相談を受けたりするんですよ!? そりゃあやる気も無くなるし声量も極小になるし、多少は体型もだらしなくなりますよね。お話の途中でこのイエスが、木原を指して「地獄に行くのはこいつでしょ。」と言ったかと思うと、後で「ま、それはどっちでもいいよ。」とつぶやくというやり取りがあるのですが、そういう投げやりな言い方になる気持ちもよくわかろうというものです。だって、たいていの人が落ちる地獄よりもずっとずっと果てしなく続く苦行の中に自分が今いるんですから。あの疲労感……リアリズム!
 今回の作品は、照明が暗くなっていったん暗転するといった時間的な区切りが無く、三鷹芸術文化センターの壁があるかないかという違いで空間のみが変わる演出になっています。壁が開いて「本音」の世界が顕現する、もしくは元の「建て前」の世界に戻るきっかけは、最初の木原とカオリのシーンの始まりが「木原の予約電話」で、戻るきっかけが「カオリのイエス様への懺悔」、2回目のシゲオとスミコのシーンの始まりは文字通り「イエスの起こした奇跡」ということになって、物語は本音の世界の光景を建て前の世界の人々が見守るという形で終わります。

 要するに、最初に建て前の世界から本音の世界に入るのは「木原の欲望」がきっかけで、またそこから建て前の世界に戻るのはイエス様に懺悔をしたい一心の「カオリの理性」ということで、1回目の往還は木原とカオリの、本能と理性の非常に分かりやすい対決になっています。「いろいろしてほしいなぁ。」という木原のイノセントなだけになおさら始末の悪い本能に戦慄するカオリなのですが、自分の本能はさておいて木原の部屋におもむきはしても、「当店は健全店ですので……」という建て前とイエス様にすがって本音の世界から逃走するわけなのです。わかりやすいですね。

 ところが、ここでのイエスの対応から、様相はけっこう複雑になっていきます。イエスいわく、「カオリは本当に木原の性欲を嫌っているのか?」と問われるカオリ。さらにカオリの周辺には、同じくシゲオというカサノヴァに因縁の深い女性として、シゲオの今カノのスミコと元妻のアヤノ(演・原田麻由)が登場するのですが、どちらもスタイルに差はあれど性欲に関しては非常に開明的な人間として生きているのです。
 つまりこの作品は、聖書の教えをもとに世の中にある建て前をバカ正直に守ろうとするカオリの孤軍奮闘ぶりに焦点を当てながらも、実情はそんな建て前などかなぐり捨てて実にテキトーに生を謳歌している三鷹近辺の人間模様を描くことで、果たしてどちらの生き方が「幸せ」なのかを残酷に浮き彫りにしている観察記になっているのです。カオリははたから見ると、勝手にテンパって虚空に向かって懺悔したり、泣き出したり失神したりする(「神を失う」! まんまですね)半病人の状態ですし、カオリ以外のただ一人の純情人だったオサムも、スミコとシゲオの関係を知って精神を崩壊させてしまいますし……最早、現代日本は木原が語るような「性欲王国」そのものなのかと、まるで『平家物語』や『太平記』を観るかのような無常観にさいなまれてしまいますね。いや、内容的には『源氏物語』がいちばん近いですか。

 そう言えば、この作品の序盤にチラッと出てきた中国人のツアー客も、「原発処理水の海洋放出に抗議するイタ電を間違ってかけてごめんなさい」と謝りに来たという、めちゃくちゃ2023年的なエピソードを挿入するための単なる時事ネタ要員かと思われていたのですが、終盤で日本人たちに「お詫びのしるしに」というていでお酒をふるまうあたりが実に現実的かつ効率的で、言葉がよく伝わらない分、この作品での日本人のように2時間前後もぐじゃらぐじゃらくっちゃべっていないで、物でササっと解決してしまう非キリスト教社会じこみの剛腕を垣間見た思いがしました。しかもお酒がフランス・ボルドーのメルロワインなところが世界を股にかけるパクス・中国ーナと言いますか、これまた3、40年前の日本を見るような思いがして、ここにもまた「ほろびの足音」を聞いてしまうのは、私だけでしょうか。むかしのひかり、いまいずこ……
 それが良いか悪いかは別としましても、世の中はカオリのようにマジメ正直の一点張りで自分の言い分を通そうとしてもそれは通りにくく、やはりそれなりの「つけとどけ」は必要なんですよ、というドライな法則をはっきり提示する好例だったと思います。

 そうそう、この作品にイエスが出てくることの最大のおもしろさは、そういった人情カラッカラ状態の現代日本を、何もできない、何もしないというスタンスで傍観しつつも、最後に人々に「萎れた花を見せる」という奇跡を起こすことで、「今の状態も、そうそう長く続くもんじゃないんだよ。」という人類普遍の哲理をしっかり提示してくれるという重要な役割を果たしてくれるのです。見てくれからしてどうしても神様のような特別な存在には見えないイエスなのですが、最後の最後にちゃんと「デウス・エクス・マキナ」にはなってくれるんですよね。まぁ、中盤でも地味~にカオリを蘇生させる奇跡を起こしてくれてたようなんですが。
 いずれ萎れる花ならば、思うさま欲望に忠実に咲きほこるのが良いのか、それともつつましやかに迷惑かけずにたたずむのが良いのか……人それぞれでいいと思うのですが、その百花繚乱の庭園をひとり散策する本作のイエスの姿は、どこからどう見ても芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のお釈迦様の姿に瓜二つといいますか、オーバーラップするものがあると思います。あら、こんなところにラフレシア、みたいな。

 さて、ここまで意図的に避けて感想を述べてはきたのが、この作品を観劇した方ならばほぼ100% の確率でいちばん記憶に残るインパクトを残したシーンは、やはりどうしてもラストでイエスが見せた奇跡の中に現れた「シゲオのアレがアレに」という衝撃のオチだったかと思います。オチてるか……? まさしく現代社会の混沌を象徴する演出でしたね。

 いや~……嫌な光景! その演出自体を見ると、さしてビックリするほどでもない、2人1組でやる宴会芸みたいなものなのですが、やってるのが実の父子ですからね。おぞましい!! 別に映画みたいにお金をかけた特殊技術を投入してるわけでもなく、絵画や音楽のようにじっくり時間をかけて作り上げた作品を掲げているわけでもない、それなのに、あんなにエグく、残酷で、忌まわしく、それでいてもはや笑うしかない状況を創造してしまうとは……これを舞台芸術の唯一無二の魅力と言わずして、一体何を魅力と言うのでしょうか!?
 いやホント、度肝を抜かれてしまいました。お金をかけずにここまでおぞましい地獄を召喚してしまうとは。演出の山内ケンジさんの発想力も当然すごいわけなのですが、それに賛同して演じきってしまう父子もそうとうイカレていると思わずにはいられません。俳優として演じるだけでなく、人間として何かをかなぐり捨てないとできない悪魔的な所業ですよ。どっちも、かなりイヤだったろうに……見てる客がいようがいまいが、あんなことは絶対にやりたくない!! 地獄の業火のごとき演出を堂々と演じきる父子の生きざま……まさにこれ、令和の父子鷹!! そういえば、勝海舟の股間にも父子の愛を象徴する逸話がありましたね。よし、つながった(白目)!!

 そういえば、私が今回のお芝居を観るために三鷹芸術文化センター(本物)にいそいそとおもむいた時、センターの建物脇にある駐車場みたいなスペースの暗がりで、出演の岡部たかしさんらしき方がタバコを吸ってらしたんですね。
 街灯も当たっていない場所にいらしたので確たる様子はうかがえなかったのですが、あの人生ゲームのコマみたいな長身の体躯は岡部さんかな~、なんて思いながら私は通り過ぎたのですが、その時かなり険しい表情で猫背ぎみに喫煙されていたのが妙に心に残りまして、その後作品を観て、その苦悶の理由がよく分かったような気がしました。そりゃ、あんな仕事をしなきゃなんないんだもの、あんな顔にもなりますわ……

 本作が出演俳優の方々の人生・人格を反映させたアテ書きである、などという妄言を吐くつもりは毛頭ありませんが、それでも、本作のシゲルとオサムをあの岡部父子が演じているという意義はそうとう甚大なものがありますし、逆にあのお2方でなければ、どんな名優が演じても、今公演ほどの効果を上げることは不可能であろうと思います。恐ろしい! 実に恐ろしい悪魔の演出です……岡部父子の、特にひろきさんの精神的負担をかんがみれば、この作品はどんなに評判になったとしても再演するべきではない禁断の作品なのではないでしょうか。ていうか、今回も14回もこれやるんでしょ!? 無理だ~! 自分の身に置き換えてみたら、絶対ムリ!!
 俳優の世界で、父子もしくは母子の相克なんていう話はよくありますし、現に本作でアヤノ役を演じられた原田さんの御父上も日本芸能史上にその名を遺す名優であらせられるわけですが、こんな形で対決した親子俳優なんて、聞いたことがねぇよ……佐藤浩市さんでもやらないでしょ!! 当たり前ですか。

 そんなわけで、この作品は序盤は性的流浪人の木原、中盤は苦悩のひとカオリ、後半は業務中に精神崩壊しかけるオサムあたりが物語の主人公なのかな?というバトンリレーが続くのですが、終盤のイエスの奇跡が起きたあたりで、実はねずみ男級に始末の悪いトリックスターであるところのシゲルが主人公=萎れた花だったという帰結にたどり着きます。そして、オサムとあんなことになっちゃう伝説へ……

 一見、登場人物たちの中で最も自分勝手で、周囲の人達の気持ちなぞ洟にもひっかけず好き放題に生きているようなシゲオなのですが、そんな彼がなぜ最後にスポットライトの中心に残ってしまうのかといいますと、それはやっぱり、聖書の教えに忠実に生きようとする、つまり愛することに真剣であるがために蓄財するヒマもなく放浪するハメに陥ってしまう、きわめて太宰治的な誠実(!?)人物シゲオという逆説的なイエス像が浮かび上がるからなのではないでしょうか。度を過ぎて誠実であるがために、誠実とは正反対の社会的廃棄物に見えてしまうという、この哀しみ!!

 だからこそ、最後のシーンで萎れたままになっている花を目の当たりにして当惑するシゲオの姿は、遊び人の末路というか人生の斜陽を如実に表す痛切きわまりないものであるだけでなく、イエスが全人類に見てほしい「愛はすばらしいが対象(スミコ)に執着することはいけない。」の、この上ない実験症例になりえたのではないでしょうか。イエスにしてユダでもある男、シゲオ……
 この、放蕩中年が放蕩老人になってゆく哀しみを残酷に、しかし誠実に描く山内さんの視点は、内容こそまるで違うかもしれませんが、あの聖タルコフスキー監督の『ノスタルジア』(1983年)とか『サクリファイス』(1986年)にも比肩しうる冷徹さと愛情に満ち溢れたものになっていると思います。蝋燭もってフラフラするとか自分の家を一軒焼くとか、いくらご本人の中に相当な論理と覚悟があろうが、世間的に見れば本作のシゲオと同様に「どうかしちゃってる人」以外の何者でもないですしね。

 ただ、ここでちょっと気になるのは、自分の気になった女性に対して正直誠実にアタックするシゲオと、気になる女性(スミコ)に対して自分の思いをなんにも表明せずに傍観しておきながら、いざその女性が婚約するとなったとたんに異様に取り乱すオサムとで、果たしてどちらが異常なのかという問題です。オサムにしてみれば、スミコの相手が父シゲオだから嫌なんだと言われそうなのですが、今回のシゲオほどではないにしても、別になんにも言ってなかったのに自分の決めたことに勝手に動揺するオサムの姿は、スミコにとってははた迷惑というか、「言いたいことあるんならはっきり言えよ」としか思えないうっとうしさに満ちたものなのではないでしょうか。だからこそ、スミコはオサムよりもよっぽどわかりやすく正直なシゲオや木原とすぐに意気投合できるのでしょう。
 ここらへんの中年男性の妙に少年っぽいタチの悪い魅力は、タイトルがまんまの、同じ山内ケンジさんがメガホンを執った映画『友だちのパパが好き』(2015年)でも活写されていたかと思います。おっさん、この迷惑きわまりなき、愛すべき存在……でも、それに同世代のフニャラフニャラした男性以上の魅力を感じてしまう女性もちゃんと描かれているんですよね。

 ただ、今回の作品では、それぞれの個性はありながらも、スミコ、カオリ、アヤノという三者三様の世代を通して、蝶よ花よと今を咲きほこるスミコにも「萎れる時は来る」という残酷な真実を暗示する意味合いで、やたら暗い悲劇の人物カオリを登場させた意義は大きかったかと思います。「執着するな」ったって、旦那がいれば子どももいるし、日々を生きるためにはお金もいるしで……そんなんム~リ~!


 そんなこんなでございまして、今回の城山羊の会さんの『萎れた花の弁明』は、最後の最後で実に城山羊の会さんらしい演劇ならではの驚愕のオチこそ炸裂しましたが、全体的には面白おかしくも、そこはかとない落日感というか無常観をしみじみ感じさせてくれる、黙示録のようにおごそかないぶし銀の一作になっていたかと思います。「いや~腹がよじれる程おかしかったよ!」とか「最後らへん涙でよく見えなかった……」とかいう単純明快なエンタテインメントではないと思うのですが、「なんか面白かったんだけど……こわっ。」みたいな、底の知れない、城山羊の会さんでしか味わえないテイスト100% の作品だったのではないでしょうか。年に一回でも、確実にこの味わいの作品を楽しめるということは、本当に幸せなことです。人生、死んだらおしまいですもんね……山内ケンジさん、これからもどうかお元気で!!

 西にデイヴィッド=リンチあれば、東に山内ケンジあり!!

 城山羊の会さんの孤高の花の萎れる時は、まだまだま~だ来ないのであります。また三鷹に行けるのを楽しみにして、私も一年間がんばるぞ~☆
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全国城めぐり宣言 第47回 「武蔵国 世田谷城」資料編

2023年12月16日 16時26分53秒 | 全国城めぐり宣言
武蔵国 世田谷城とは

 世田谷城(せたがやじょう)は、現在の東京都世田谷区豪徳寺に存在していた城郭。城郭構造は平城。天守閣は無い。東京都指定旧跡。
 室町幕府初代奥州管領となった吉良貞家(?~?)の次男・吉良治家(?~?)が、鎌倉公方の傘下となり貞治五(1366)年に上野国飽間郷に移住した後、その子孫の吉良成高(?~?)が応永年間(1394~1426年)に武蔵国世田谷郷に居館を築城した。以降はこの世田谷城が、武蔵吉良氏の代々の本拠地となった。ちなみに武蔵吉良氏は、「忠臣蔵事件」で有名な吉良上野介義央の出た三河吉良氏とは南北朝時代に分かれた別流である。
 天正十八(1590)年、武蔵吉良氏第8代当主・吉良氏朝(1543~1603年)の代に小田原征伐により豊臣氏に接収されたが、同戦役後に廃城となった。世田谷城の石垣は、のちの江戸城改修に再利用されたという。

 世田谷城は、経堂台地から南に突き出た舌状台地の上に立地し、城域の三方の麓を烏山川が取り囲むように流れ、天然の水堀となっていた。
 現在は土地開発が進み旧態は詳らかでないが、豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城阯公園まで城域が拡がっていたものと考えられている。世田谷城阯公園内から北に向けて延びる区域の、豪徳寺参道やアパート敷地の脇に空堀及び土塁が現存している。世田谷城阯公園内の石垣風の構造物は、公園整備時に造成されたものである。
 なお、豪徳寺の西に位置する世田谷八幡宮は、かつて世田谷城の出城として機能していたとみられる。
 また、世田谷城の南に位置する武蔵国奥沢城(現・世田谷区奥沢 現在の九品仏浄真寺の寺域)も、天文~永禄年間(1532~70年)に武蔵吉良氏第7代当主・吉良頼康(?~1562年)が築城した世田谷城の出城である。
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遅くても、やらないよりゃマシだバカヤロー☆ ~映画『首』~

2023年12月03日 10時29分46秒 | 日本史みたいな
 こじゃんとさむいねやぁ~! どうもみなさま、こんにちは。そうだいでございます。
 もう12月ですってよ、奥さん! 早いな~。もう2023年も残り1ヶ月きっちゃいましたよ。みなさんにとっては、今年も楽しく充実した年になりましたか?
 私の住む山形もいよいよ寒さが厳しくなってきたのですが、やっぱりこの時期になっても雪がほとんど無い……というか、今シーズンまだ一度も積もるほど降ったことがないというのは、ちと異常ですわなぁ。年明けにやっと積もるくらい降るか、って感じなのかなぁ、この冬も。大人にとっては雪かきがなくなるからありがたいばっかりなんですが、子ども達にとってはさすがに、つまんないですよね。

 今年2023年も、私はといいますと御覧の通りに自分勝手、気ままに楽しく生きさせていただきました。もう不惑を越えていくとせかが過ぎ、人生の折り返し地点を回っちゃったかなという年齢になったのですが、まことにありがたいことに大した病にもかからず、身体にも目立つガタはきておらず、このままうまくいけば無難に新年を迎えられそうであります。無事これ名馬!!
 今年度から、個人的には生活にも多少の時間的余裕を持つようにし(代わりに経済的余裕がなくなってますが)、おかげさまでこの数年でたまりにたまった部屋の積ん読を、あたかもはらぺこあおむしが葉っぱをムチムチとはむかのような速度で減らし始め(©江戸川乱歩)、長年の懸案だった「片道500km の山梨ドライブ旅行」も7月に無事に終え(すんごい楽しかった!!)、しまいにゃほぼ毎週末に話題の映画を観るために映画館に通うという、自分なりに理想としていた「おっさんライフ」を堪能できるようになりました。なかなかうまくいかないことも当然のようにありますが、振り返れば心の安楽が得られた非常に幸福な一年になったかと思います。このままうまく過ごせればね……歳末こそ、気を引き締めねば!

 読書に時間をさけるようになったのもうれしいのですが、今年は比較的頻繁に映画を観られるようになったのもありがたいことで、そりゃまぁ出費は痛いには痛いのですが、いろんな作品を楽しむことができました。ちょっと手元のメモをひもといてみますと、なになに、今年最初に観た映画は、ドキュメンタリー映画の『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版』(監督・武石浩明)でしたか! けっこう渋い選択から始めてたんですね、面白かったけど。そうかそうか、『かがみの孤城』とか『すずめの戸締まり』は去年の映画でしたか。ホント、光陰矢の如しですな!

ん……あれ、この、1月に観た『レジェンド&バタフライ』って題名の映画、どういうお話だっけ……洋画かな?

 あぁ、思い出した。綾瀬はるかさんが殺人マシーンになる映画だった。旦那さんは、なんかヒマさえあればめそめそ泣く甲斐性なしだったな。
 あれ、その旦那さん、キムタクっていうか……織田信長?

 え、織田信長!? 織田信長って、私がゆうべ見た映画で、出るシーン出るシーンぜんぶで青筋と首筋おったてて、真っ白い顔で絶叫しまくってたキ〇ガイ!? キムタクとあの山王会若頭が、同一人物ぅ!?


映画『首』(2023年11月23日公開 131分 東宝)
 映画『首』は、2019年12月に出版された北野武による時代小説を原作とし、北野自身による脚本・編集・監督・主演で、出版元の角川書店の製作により映画化された作品である。R15+ 指定。
 総製作費15億円。北野武監督にとっては6年ぶりの新作映画で、2023年5月に開催された第76回カンヌ国際映画祭の「カンヌ・プレミア部門」に日本人映画監督として初めて出品された。撮影は山形県鶴岡市のスタジオセディック庄内オープンセット、岩手県奥州市のえさし藤原の郷、長野県富士見町などで行われた。
 北野武脚本・監督作品としては、『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)以来、約32年ぶりに東宝の配給作品となる。

あらすじ
 時は戦国時代末期。織田家重臣・羽柴秀吉と豪商・千利休に雇われ、謀反人と逃げ延びた敵方を探して各国を旅する抜け忍・曽呂利新左衛門は、織田信長に反旗を翻した武将・荒木村重を偶然に捕らえる。一方、丹波国篠山の農民・茂助は、播磨国へ向かう秀吉の軍勢を目撃し、戦で功を立てようとその従軍に紛れ込む。
 信長、秀吉、織田家重臣・明智光秀、信長と同盟する東海地方の大名・徳川家康までをも巻き込み、荒木村重の首を巡る戦国の狂宴が始まり、それはやがて本能寺の変へと繋がっていく。

おもなスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督・原作・脚本・編集 …… 北野 武(76歳)
製作 …… 夏野 剛(58歳)
プロデューサー …… 福島 聡司(62歳)
音楽 …… 岩代 太郎(58歳)
撮影 …… 浜田 毅(71歳)
衣裳 …… 黒澤 和子(69歳)
特殊メイク / 特殊造形スーパーバイザー …… 江川 悦子(?歳)
殺陣 …… 二家本 辰己(70歳)
能楽 …… 二十六世観世宗家 観世 清和(64歳)
製作 …… 角川書店
配給 …… 東宝、角川書店

おもなキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
羽柴 秀吉 …… ビートたけし(76歳)
羽柴 秀長 …… 大森 南朋(51歳)
黒田 官兵衛 孝高 …… 浅野 忠信(50歳)
徳川 家康 …… 小林 薫(72歳)
千 利休  …… 岸部 一徳(76歳)
荒木 村重 …… 遠藤 憲一(62歳)
服部 半蔵 正成 …… 桐谷 健太(43歳)
本多 忠勝  …… 矢島 健一(67歳)
宇喜多 忠家 …… 堀部 圭亮(57歳)
蜂須賀 小六 正勝 …… 仁科 貴(53歳)
滝川 一益  …… 中村 育二(69歳)
丹羽 長秀  …… 東根作 寿英(51歳)
安国寺 恵瓊 …… 六平 直政(69歳)
弥助     …… 副島 淳(39歳)
難波 茂助  …… 二世 中村 獅童(51歳)
明智 光秀  …… 西島 秀俊(52歳)
斎藤 利三  …… 勝村 政信(60歳)
初代 曽呂利 新左衛門 …… 木村 祐一(60歳)
丁次      …… アマレス兄(アマレス兄弟 48歳)
半次      …… アマレス太郎(アマレス兄弟 39歳)
間宮 無聊   …… 大竹 まこと(74歳)
般若の佐兵衛  …… 寺島 進(60歳)
清水 宗治   …… 荒川 良々(49歳)
織田 信長   …… 加瀬 亮(49歳)
織田 信忠   …… 中島 広稀(29歳)
森 蘭丸 成利 …… 寛一郎(27歳)
遣手婆マツ   …… 柴田 理恵(64歳)
多羅尾 光源坊 …… ホーキング青山(49歳)
為三      …… 津田 寛治(58歳)


 いや~、すごいもん観ちゃいましたねコリャ。とんでもない怪作でございました。
 だいたいみなさま、映画を観なくても、上のキャスティング表を見れば、この映画がいかに異常な映画なのかがよくわかるでしょ!?
 よく見てくださいよ、主要キャストで女性はただ一人! しかも、柴田理恵さんなのよ!? すごすぎるだろこれ……
 かと言って、この作品が漢っ気ムンムン、お色気ゼロのむくつけきマッチョ映画なのかといいますと、そうでもないのよね。なんだったら、男性俳優でお色気方面もカバーしようとしてるんですから。なぜおなごにお願いしない!?
 本作での最濃カップルとなる「光秀×村重」、西島さんが50歳過ぎてるのもそうとうなもんなんだけど、エンケンさんにいたっては還暦過ぎてるんですからね(撮影時はもうちょっと前か)!? 邪魔男爵もいろんな仕事をふられて大変だなぁ~オイ!

 あっ、本題に入る前にちょっとすみません。
 私、上記のように本作の原作本の出版社と、映画化に際して製作・配給を担当した企業のことを「角川書店」とあえて旧名で表記しているのですが、これはもう、現在の社名の超絶ダサさが心の底から大嫌いなので、強い抗議の意味も含めて旧名で通させていただきます。
 ダサい!ダサい!!クソダサい!! なに、日本語きらいなの!? そんな社名にして泉下の角川源義が納得してるとでも思ってんのか!? 最近のグループの大失敗の数々は、絶対に荒ぶりまくってる源義の怨霊のしわざだからな!! 即刻もどせェい!!
 でもあそこ、最近は狂ったように横溝正史のマイナー小説を復刊させてくれてるしな……「 KADOKAWA、だぁ~いすき♡」と、ハズキルーペの CM並みにはりついた笑顔でエールを贈らせていただきましょう。

 すみません、少々取り乱してしまいました。

 先ほども申した通り、今年2023年は「よわよわキムタク信長」に始まり、「正統武闘派ひらパー岡田准一信長」が大河ドラマ枠で大暴れし、そして再び銀幕では「超超破滅型ブチギレ加瀬亮信長」が疾走して終わるという、織田信長大豊作な年になったと思います。みんな信長で、みんないい! 多様性信長社会 SDGs に決まっとるがやぁあ~!!
 作品の出来不出来は別としましても、「ほんとは暴君でも魔王でもなかった他力本願信長」に、「ほんとは幼なじみの家康が大好きだったツンデレ信長」に、本作の「愛情の示し方が暴力しかない哀しきヘッジホッグ信長」と、フィクションの世界ならではの百花繚乱な信長解釈があって、天界の信長さんご本人が見下ろしたら、とってもおもしろい景色が広がっていたのではないでしょうか。
 前にも我が『長岡京エイリアン』のどこかの記事で申したかもしれませんが、私そうだい個人としましては、史実の織田信長というお人は、そんなに始終激怒しているわけでも、年がら年中マントをはおって闊歩しているような新し物好きでもない、ただ他の同時代人たちと比べて「異様に勘と運が良い」、きわめてマジメな仕事人間だったと思うんですけどね。

 それで、今回観た北野武待望の映画最新作『首』だったのですが、さすが世界のキタノと申しますか、公開当初からさまざまな反響がネット上でも沸き起こっております。まさに賛否両論! 「超おもしろかった!」から「たけしも老いたな……」まで、正反対な声が轟々とうなりまくってますね。
 私が昨夜、公開から1週間が経過した時点の週末土曜日に観に行った時も、広めのスクリーンの会場は観客層はやや高めではあるのですが、熟年夫婦を中心にしたお客さんで半分以上埋まっておりました。1週間たっても客足があんまり変わらないのって、山形ではけっこう珍しいと思います。

 そんでま、ここからはつらつら~っと私が観た感想をつづっていきたいのですが、本作はホントに不思議な怪作といいますか、


異常な世界を淡々と観察し続ける、完成されたモキュメンタリー調キタノ映画


 みたいな感じになりますでしょうか、簡潔に言っちゃいますと。

 例えば、かつて我が『長岡京エイリアン』にて私は、何の因果か、この『首』のきっかり10年前に公開された、同じく信長の晩年付近の日本史をテーマにした映画『清須会議』(2013年 監督・三谷幸喜)をはっきり「おもしろくない」と評価いたしました。あっ、でも『鎌倉殿の13人』は最高よ!?
 そう評した理由は、ご覧の通りこまごまと先の記事にて述べ立てたわけなのですが、結局のところフィクション作品として「つまんない」としか言いようのない、自分のかましたギャグへの「責任感の無さ」を全編に感じたからだったのでした。滝川一益や神戸信雄をあれだけ史実からかけ離れた笑いものにしておいて責任を取らないんですよ。要するに、「この作品はパロディコントです。」というただし書きをちゃんと付けないから、私みたいなねちっこい歴史おたくが「織田家家督・信忠はどこいった」とか「三法師の母親が武田の娘なわけないだろ」とかいきり立ってしまうのです。
 つまり、あの『清須会議』における最大の失敗は、三谷さんご本人が自分でちゃーんと冒頭に明示していた、前田玄以が「動く絵巻」を開陳して広げた大風呂敷という「えそらごと」のパッケージを、ド忘れしたかのようにラストでたたまなかったこと。これに尽きると思います。最後の最後に絵巻物を片付ける玄以さえ出てきてくれたら、観客は「あそっか、史実と違ってムチャクチャでもしょうがねっか、えそらごとなんだから。」と納得してくれるはずだったのです。

 なんで『首』の感想を言ってる記事なのに三谷さんを叩いてるんだといぶかる向きもあるかと思いますが、要するに「オチ」というものはそのくらい大事なものだということなのです。オチが悪かったら全て悪し!

 その点この『首』はどうなのかと言いますと、声を出して笑えるかというとそれほどでもないのですが、最後の最後のカットでたけし演じる秀吉が叫ぶ一言は、「あぁ、これで終わりだな。」と万人が納得するオチになっていたと思います。全てが無に帰す、ゼロに還る一言。それまで131分もの時間をかけて積み上げてきたものを瞬時に破壊してしまう秀吉の感覚は決して無責任な放り投げエンドではなく、歴史的に観れば新しい価値観の台頭ともとれる革命的な言葉ですし、そこまで持ち上げなくとも、あれほどまでにさんざん馬鹿にされ、泥水すすって生きてきた老獪な秀吉の心の底からの叫びなのです。めんどくせーんだよバカヤロー!! みたいな。これに、自分の身の回りの倦み疲れた日常の煩雑さを連想して共感しないお客さんはいないと思いますよ、よっぽどのおこちゃまでない限り。
 おれも、たけしみたいに蹴っ飛ばしてやりてぇなぁ! このルサンチマン、エネルギーを人々に呼び覚まさせる扇動術こそが、芸歴半世紀を超えるビートたけしの魔力の源泉であり、その必殺技をもって締めくくりとする『首』という作品は、完成されたひとつの「領域展開」といいますか、スタンド「じょ~うだんじゃっ、ないよっ」なのです。だからもう、史実がどうこうとか、登場人物たちの生活感がまるでないとか四の五の言っても意味無いんですよ。全ての不完全さ、いい加減さが、ビートたけしの芸のうちなんだから。

 こうなっちゃうと、もうね……131分という上映時間が冗長なのも、秀長役の大森さんのアドリブ対応がへったくそなのも、寛一郎さんのカツラが合わなくて頭が縦に長いのも、「そういうもんなんだからしょうがない。」という空気になっちゃうので、くさすだけ野暮になっちゃうんですよね。
 ずるい! 殿はずるいなぁ!! でも、その老獪さが主人公の秀吉と見事にオーバーラップしちゃうんですよね。ですから、本能寺の変が起きた時の史実の秀吉が数え年46歳だったのに、その役を30歳も年上のたけしが演じるのはどうなんだという声もあるとは思うのですが、70歳を越えたビートたけしだからこそできる秀吉像というものを、本作はちゃんと見せてくれていたと思います。
 本作の後半にて、中国攻めの陣営で信長横死の報を公表しながら下手なウソ泣きをする弟・秀長の様子をうかがい、屏風の裏で忍び笑いをする秀吉という描写があるのですが、ここは単なるコント風スケッチのようでありながらも、「時代を観察し嘲笑する秀吉」という、原作者兼脚本兼監督兼編集のたけしの視点をバッチリ提示してくれる象徴的なカットだと思います。軽いようで超重要! やっぱりタケちゃんはすごいな!!

 わたし、最近の『ゴジラ -1.0』みたいな「監督兼脚本」が当たり前のようになっている風潮は全く好きではないのですが、今回の『首』に関して言えば、ここまで原作者の言いたいことが気持ちよく伝わるんだから、これは同じ人がやる方がいい稀有な例なんだろうな、と思います。でもこれは、監督のほうの手腕がそうとうのもんでないと無理な変換でしょうけど。

 ちょっと話が変わりますが、私の持論として、21世紀に活躍する俳優さんが、だいたい20世紀以前の「歴史上の人物」を演じる場合、その年齢は「史実の10歳くらい年上がちょうどいい」と思っています。それは、人生経験的にも生物としての平均寿命の高齢化的にも、健康医学の向上といった点でも。多くの人々にとって、現代は「人生五十年」ではないわけです。
 そういう意味で、年齢が晩年の信長とほぼ同じはずの加瀬亮さんは、ちょっと若すぎて見えますよね。逆に秀吉と家康はやっぱり本能寺の変前後にしては老けすぎていると思うのですが、たけしと小林薫さんの「小牧・長久手合戦」を観てみたい気はします。
 ただ、そういう上下のブレはあっても、本作に出演する俳優さんがたの多くはもうバッチリどストライクの全盛期と言いますか、秀吉のネガともとれる無名の農民・茂助役の獅童さんとそろり役のキム兄は無論のこと、秀長役の大森さんも官兵衛役の浅野さんも、なんだったらちょっとだけしか出てこない安国寺恵瓊役の六平さんにいたるまで、「今撮らなくていつ撮る!?」という最高の演技を見せてくれていたと思います。『アウトレイジ』三部作では、ちょっと無理して頑張ってるかな、という息切れ感のあるベテラン俳優の姿もちらほら見られたのですが、今作は全体的に若返っているというか、キャスティングで大成功を確定させている面が大きいと思うんですよね。
 なので、確かに「たけしが秀吉!? 遅すぎるだろ!」と感じる人もいるのは分かるのですが、作品全体としてはたけしの実年齢をおぎなって余りある万全の態勢で作られている、脂ののりきった絶好のタイミングの一作であることは間違いありません。

 キャスティングでいえば、さすがたけしと言いますか、そろり役のキム兄と最終的に対峙する役の人が、よりにもよって「あの人」というのも、日本お笑い演芸史の東西対決と言いますか、なんか「ヒトシ VS タケシ」の代理戦争を見るかのようでおおっと手に汗握るものがありましたね! まぁ、ここでたけしの側で出るのが軍団のどなたかでないのが、そこはかとなく寂しくもあるのですが……
 あと、個人的に本作の中でいちばん気になっていた登場人物が、実はキム兄とはまた違った角度での「ヒトシの代理人」といった感じでキタノ映画に出向して来た堀部圭亮(言うまでもなく放送作家・竜泉)さん演じる宇喜多忠家で、終始どのシーンでも「借りてきたネコ」のようなカッチンコッチンの姿勢と表情でいたのが、ある意味でたけし=秀吉に匹敵するほど中身と役とが一致し過ぎていて笑ってしまいました。また、宇喜多忠家という「板ばさみ人生」というか、どこでどう生きても常に目上にコワい誰かがいるザ・苦労人な武将を堀部さんが演じているというのが、おもしろうてやがて哀しきキャスティングになっているんですよね! この『首』の世界線での宇喜多直家って、どんなヤバい人だったんだろうなぁ……配役するなら、やっぱ演じるのは椎名桔平さん一択でしょ! こわ~!!

 こんなことつぶやいても仕方ないんですが、私の勝手な理屈で言うのならば、本能寺の変前後の頃の秀吉をたけしが演じるのならば、それは50代半ばごろ、つまりは2000年代前半ということで、ちょうどキタノ映画で言うと『 BROTHER』(2001年)とか『座頭市』(2003年)を制作していたころで、俳優面で言うと『バトル・ロワイアル』(2000年)とか『血と骨』(2004年)に出ていたたけしになるわけです。
 ホ~ラかっこいいでしょ、めっちゃくちゃ見たいでしょ!? やっぱ、髪の毛染めてタップダンスやってる場合じゃなかったんだって! 『御法度』(1999年)から直行で秀吉もやるべきだったんだってぇ~!!
 でも、それはそれで、今年の『首』よりもだいぶナルシスティックで主観的な秀吉像になっていたろうし、第一、周辺に集まる俳優陣も、本作程に心身ともに充実したメンツにはなっていなかったかも知れないんでねぇ。それはもう、今回の『首』と20年前の『座頭市』のどっちにも出演している浅野忠信さんの成熟度を見ても明らかだと思います。今の方がだんぜん、いい!
 そういう意味では、本作は2000年代のキタノ映画とは趣が変わってプロの俳優さんの比率がだいぶ上がった現在だからこそ完成度も上がった、と言えるのかも知れません。キム兄の、たけし派でないからこそみなぎりまくっていた緊張感も良かったわけだし。やっぱり、いくら遅い遅いと言われようが、この『首』は今のタイミングで世に出るのが最高なのです!!
 ただ一点、大杉漣さんの出ている『首』も、観たかったような気はします。人間、先立つ不孝だけはやりたくないもんですな……

 少なくとも私にとって、今回の『首』はとっても満足のいく内容のものでしたし、その力技を押し通す勢いに元気ももらい、「ビートたけし健在なり!」という手ごたえを感じさせるものとなりました。
 でも、本作は始まって十数秒の時点で、苦手な人にとってはかなりキツい残酷描写が展開されますし、女性がいない分、戦国時代に「一流武士のたしなみ」として流行していたという衆道、同性愛の愛憎が露骨に絡む内容にもなっているので、最後の最後までドギツい描写がどこかで必ず出てくる作品となっています。もうタイトルからして『首』なので、全く覚悟せずに観に来るお客さんもそうそういないかとは思うのですが、それでも耐え切れず脱落してしまう人がいても、それは仕方のないことかと思います。ほいほい人に勧められる作品ではない、ということですね。

 以下は、そんなに気になったわけでもないけど少しばかり不満に感じたことをば。

・本能寺の変前後の歴史的出来事のどこをピックアップするのか取捨選択を行った結果、登場人物のうち誰かのエピソードが中途半端になってしまうことは仕方のないことなのですが、荒木村重の「その後」に全く触れないまま映画が終わってしまうのは、非常にもったいないと感じました。あの後の村重の生きざまこそが一番面白いと思うんですけどね……それとも北野監督、もしかして続編『首 びよんど』を制作する腹づもりなのか!? いずれにしても、エンケン入魂の村重はもうちょっと長く観たかったような気がしました。有岡城攻防戦での、喉がカッスカスに枯れ切ってもなお「逃げるなー! 逃げるなー!」と絶叫し続ける村重の姿は、もう地獄そのものでしたね。
・画面の色彩配置が、なんか全体的にふつうだったような。冒頭の「切り口とカニ」とか、高松城攻防戦下の豪雨の中を傘をさして歩く官兵衛とか、絵になりそうなカットはいくつもあるのですが、それぞれが断片的であるため散漫であんまり効果的と言えず、かつてのカラー映画時代の黒澤映画にあったような「えらいもん観てもーた」的な毒々しいインパクトが無かったように感じました。そもそも黒澤映画と比較すること自体が無理難題なのですが、それでも、もうちょっと一矢報いるくらいの冒険は観たかったような気がします。黒澤和子の衣装も、もはやそこらじゅうの時代劇で見られるような「ちょっとおしゃれなデザイン」くらいにまでありふれたものになっちゃいましたしね……明智光秀だから水色か紫、織田信長だから黒、羽柴秀吉だから黄色って……ベタですよね。

 そして、この映画はあくまでもビートたけしの芸を観る映画としてよくできているのであって、かつて万人が恐怖したような得体の知れない不条理、理屈の全く通らない火山噴火か台風のような「死の美しさ」を描いていた北野武の映画とは、全く別種のものになっていたと思います。その点を物足りないと感じている人は、けっこうおられるのではないでしょうか。
 言ってみれば、キタノ映画は絵画であり、今回の『首』は落語だと思います。そのくらいの別次元のものになっているってことですね。でも、それは仕方のないことだとも思えます。天下御免のビートたけしも歳はとるし、いつまでも気が狂わんばかりに過酷な世界で闘い続けてもいられないでしょう。

 にしても、今回の『首』の、娯楽映画としての完成度は間違いないと思います。アレルギー物質も塩分も辛みも徹底的に除去されている病院食のような時代劇ばかり観ていてもう飽き飽き!という方はぜひとも映画館に足を運んで、2023年のたけしの挑戦状に立ち向かってほしいと思います。

 そうそう、ホント、「こんなえいがに まじになっちゃって どうするの」の世界なんですよね……ブチギレるのは加瀬亮信長に任せといて、私たちはわろとけ、わろとけ~!!
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