長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第43回 「羽前国 成沢城」資料編

2022年09月25日 20時56分25秒 | 全国城めぐり宣言
羽前国 成沢城とは

 永徳三(1383)年に、最上家の開祖である室町幕府羽州探題・斯波兼頼(1316~79年)の嫡男・山形右京大夫直家(?~1410年)の六男・大極兼義によって築かれたといわれる。 兼義は父・直家の命により成沢の地に封ぜられ、はじめ永徳元(1381年)年、須川のほとりに泉出城(現・山形県山形市成沢西)を築いて居城としたが、すぐに成沢城を築き移ったという。

 成沢城は須川の東岸、山形盆地の南東に位置し、蔵王山系から西へ張り出した尾根の突端部の丘(比高60m )に築かれた城で、置賜・上山方面から山形平野への入口を押える最前線に位置していた。東西350m 、南北600m の規模の城郭である。
 山城には曲輪や土塁が設置され、その間に大手道を効果的に通すことによって、巧みに防御する構造となっている。また、東に広がる平地部には城主や家臣の屋敷があり、それらを取り囲むように成沢川が流れ、さらに外側に堀が廻らされる惣構え形式の大規模な城域となっていた。
 成沢城には主な曲輪が二ヶ所あるが、標高が高い南の曲輪が本丸(主郭 東西90m 、南北35m )となり、本来山頂であったところを削って平らにしたと考えられる。現在、南の麓にある八幡神社は元はこの山頂に鎮座し、成沢城築城に際し麓に移転したと伝えられる。
 標高が低い北の峰は二ノ丸(副郭 東西35m 、南北110m )になり、二ノ丸は主に北方面に対する防御を担っていた。
 北や西の尾根筋には麓から小規模な曲輪が続き、これらと連動して敵の侵攻を防いだと考えられる。
 斜面を削る際に意図的に造られた崖のことを切岸も残っている。
 土塁も一ヶ所残っているが、本来はもっと西に向かって長く続いており、この土塁は本丸か二ノ丸のどちらかが敵の手に落ちても、残りの曲輪に敵が侵入するのを防ぐ目的で作られたと考えられる。

 成沢城の場合、街道が走る西側に城郭の正面である大手口があると考えられるが、東側にも大手口があったという伝承がある。これは、成沢城の東にそびえる信仰の山・瀧山への参道が東にあったため、その重要性から東にも大手口の伝承が残っているとみられる。

 天正六(1578)年、上山城主・上山満兼(?~1580年)は大名・伊達輝宗(1544~85年)に通じて最上義光(1546~1614年)の山形へ侵攻する。この時の成沢城主は最上家重臣・氏家尾張守守棟(1534~95年)の従兄・成沢道忠(1509?~?年)で、最上義光は伊良子宗牛(?~?年)という老将を成沢城へ送り込み、籠城を命じた。 義光は援軍として柏木山へ陣を進め、伊達・上山軍も成沢城に押えを置いて柏木山へ進軍した。両軍の先陣が松原で激突し合戦が始まったが、柏木山に伏せていた最上方の鉄砲隊が伊達氏の旗本衆めがけて撃ちかかると伊達・上山軍は乱れ、最上方の延沢能登守満延(1544~91年)と氏家守棟の軍勢が押し出すと、支えきれずに上山城まで退いた。これを「柏木山合戦」という。慶長十九(1614)年の主君・義光の没後、道忠は新当主となった最上家親(1582~1617年)を廃して家親の異母兄・清水義親(1582~1614年)を立てようとしたが、不成功に終わって陸奥国石田沢(現・宮城県塩釜市)に亡命した。
 また、慶長五(1600)年に直江兼続(1560~1620年)率いる上杉軍が最上領に攻め入った際の城主は坂紀伊守光秀(?~1616年)だったが、この合戦に勝利したのち光秀は長谷堂城主となり、成沢城には従弟の氏家守棟が入った。しかし、元和八(1622)年に最上家が国替えになると成沢城は廃城となった。

 現在、八幡神社の奥の院のある南の峰が本丸、馬頭観音の建つ北の峰が二ノ丸で、その中央から西へ下りる道を大手という。山全体に削平地が広がっており、二ノ丸の東側に下りた場所に横堀が残っている。
 城山の北側から東側へ回り込む道を進むと成沢城址公園の入口があり、駐車場も完備している。最寄り駅は JR蔵王駅。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全国城めぐり宣言 第42回 「羽前国 城輪柵」資料編

2022年09月24日 15時01分21秒 | 全国城めぐり宣言
羽前国 城輪柵とは

 城輪柵(きのわのさく)は、山形県沿海部の庄内地方北部、赤川河口と羽黒山の中間地域である荒瀬川扇状地(現・山形県酒田市城輪)に存在した古代城柵。国史跡に指定されている。指定名称は「城輪柵跡」。
 奈良時代末期に大和朝廷によって造営された出羽国国府所在地「出羽柵」の有力候補となっている。現在は保存整備事業により、政庁南門、東門、築地塀の一部が復元されている。

 一辺約720メートルの築地塀で区切られた正方形の外郭と、その中央に一辺約115メートルの築地等で囲まれた政庁(内郭)部分によって構成される、総面積52万平方メートルの遺跡である。外郭の各辺中央にある門からは、政庁中心に向かって幅9メートルの大路が伸び、政庁の配置もこれにあわせた律令制官衙様式(正殿・後殿東西脇殿や後殿に付属する東西脇殿)となっている。内郭の東西南北各築地の中央には八御門が開いていた。
 政庁遺構は、その建築様式において大きく4期に分けられ、前半2期においては掘立柱建物、後半2期では礎石建物へと変わる。また、第4期では板塀から築地塀への変化が見られる。

 歴史上における文献上の初見は、勅撰史書『続日本紀』(797年成立)の和銅二(709)年七月一日の記事に見られる、「蝦夷征討のため諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬した」という内容の記事である。これにより、築城年は不明であるが709年にはすでに出羽柵が存在していたことが判る。
 当時の大和朝廷は、東北地方の蝦夷征服活動を進めており、日本海沿岸方面では、和銅元(708)年に越後国の北に出羽郡がたてられた後、和銅五(712)年に出羽国が置かれた。この出羽郡設置時期に前後して出羽柵が設けられたことによって蝦夷征服の軍事拠点が確保され、出羽国へ昇格する契機となったものと考えられる。設置当初の出羽国の国府機能も出羽柵が果たしていたようである。当時、陸奥国や出羽国に置かれた「柵」は、城柵であると同時に、その周辺地域を統治する行政機関としても機能していた。
 また『続日本紀』には、和銅七(714)年に尾張・上野・信濃・越後各国から民200戸を出羽柵へ移住させたこと、その後も716年に信濃・上野・越前・越後各国から各100戸、717年にも信濃・上野・越前・越後各国から各100戸、719年には東海道・東山道・北陸道から200戸を出羽柵へ入植させたという記事が見える。柵戸の出羽国への移住は総計で1300戸におよんだ。柵戸は公民の身分となった。
 これらの入植政策は、蝦夷を教化し出羽国の開発・開拓を促進するために行われたものであり、また律令制支配を東北地方にまで徹底し、城柵への兵力の供給源とした。

 その後、天平五(733)年十二月二十六日、出羽柵は秋田村高清水岡(現・秋田県秋田市)へ移設された(『続日本紀』の記事より)。これに伴って出羽国府も秋田へ移されたのかについては諸説あるが、考古発掘によれば出羽柵が「秋田城」へと改変された760年頃に、出羽国府も秋田城へ移されたと推測される。

 勅撰史書『日本三代実録』(901年成立)の嘉祥三(850)年十月十六日の記事によると、出羽国で大地震があり。津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったと記されている。その後の史実における城輪柵の動きは不明であるが、中世に入る前に廃城していたとみられる。

 現代に入り、初めて発掘調査が行われた1931年以前にも、現地の「城輪」という地名から遺跡の存在が推測されていた。

・『往古此辺に官人の居城ありて、城外に祭れる神を城輪と称し、城地の内を城の内(きのうち)と称せしを後世城を木に改けるにや』(進藤重記『出羽風土略記』1762年)
・『柵戸の遺跡とも疑はるる節あり』(吉田東伍『大日本地名辞書』1907年)

 これらの他にも、歴史学者の喜田貞吉(1871~1939年)は「城輪・木の内」以外にも「本楯(遺跡中心部から北西2.5キロメートル)」・「新田目(北西2.0キロメートル)」・「政所(南東0.8キロメートル)」・「門田」といった地名が近隣に存在することから、古代政庁の存在を推測している。また須恵器や瓦、礎石と思われる石が出土したことから、阿部正巳によって出羽国国分寺説も提唱された。
 1931年、文部省嘱託の上田三平による発掘調査により、25センチメートル角の角材が密接して並ぶ遺構が検出される。ほぼ正方位による一辺約720メートルの方形を成しており、外郭には門や櫓が存在していたことが判明した。翌1932年に国史跡に指定。
 1964年、酒田市教育委員会による予備調査が行われ、遺跡中心部の「オ(大)畑」と呼ばれる、周辺水田よりも1メートルほど高い台地部分から掘立柱建物跡と礎石建物跡、2つの異なる時代の遺構が検出される。翌1965年に文化財保護委員会(現・文化庁)による発掘調査が行われ、正殿、西脇殿、南門など主要な遺構配置が判明した。
 1984年から保存整備事業が開始された。
 アクセスは、JR酒田駅からバスで約20分。
 現在は毎年8月に、篝火の下で民俗芸能などが演じられる文化イベント「国府の火まつり」が行われている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする