長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

「自伝的映画」を言い訳にしてはいけませんね ~映画『カミノフデ』~

2024年08月31日 23時12分32秒 | 特撮あたり
 みなさま、どうもこんばんは! そうだいでございまする~。
 いや~、ついに8月もおしまいでございます。でも、それで明日からガラッと涼しくなるでもなく、やっぱり暑い日はまだまだ続くんでしょうが、さすがに私の住む山形市は、朝夕が確実に過ごしやすくなっております。その時間帯だけ切り取れば確かに、秋がもうすぐそこまで来ているといったあんばいですね。
 今年の夏も、汗かいたね~……もうちょっとラクに働けたらな~、なんて思うのですが、まぁそれが私の働き方なんだもんなぁと、なかば諦めながらあくせく動き回っておりました。ありがたいことに大病にも熱中症にもギックリ腰にもならずに生き延びているのですが、私も若くはないのでねぇ。身体は大切にしないと。

 まぁそんなわけで、元気なうちにバタバタ働いて、そのぶん週末のお休みには好きなことをということで、本日はず~っと気になっていた、この映画がつい最近に山形県内でも公開のはこびとなりましたので、観てまいりました。


映画『カミノフデ 怪獣たちのいる島』(2024年7月26日公開 74分 ツエニー)
 映画『カミノフデ 怪獣たちのいる島』は、日本の特撮ファンタジー映画。
 日本の怪獣文化の根幹をなす特殊美術造形に多大な貢献を果たした造形家・村瀬継蔵が総監督を務める。村瀬が、その造形人生の総決算としてクラウドファンディングで資金を集め、村瀬が会長を務める造形美術会社「ツエニー」が主体となって制作した特撮映画である。
 本作の登場人物・時宮健三の遺した造形物や生前のエピソード、劇中に登場する空想の怪獣などには、村瀬の実際の特殊造形体験が数多く投影されており、10代の男女を主人公としたジュブナイル的物語に加えて、村瀬の自伝的要素も本作の見どころとなっている。

 本作制作の原点は、村瀬が1975~77年に香港の映画会社ショウ・ブラザース社に招かれて特撮映画を撮影していた時期にさかのぼる。映画『北京原人の逆襲』(1977年)の撮影中に村瀬は、プロデューサーの蔡瀾(チャイ・ラン 1941年~)から次回作の構想を依頼され、中国の昔話『ふしぎな筆(マーリャンと魔法の筆)』を元にした子ども向け冒険怪獣映画のプロットを執筆した。しかし蔡がゴールデン・ハーベスト社に移籍したために計画は立ち消えとなり、香港映画としての制作を想定した物語だったことから日本へのアレンジも難しいと判断された本作は長らく凍結したままとなっていた。
 しかし、2017年に本作のプロットに興味を示した TVディレクターが、村瀬に作家・脚本家の中沢健を紹介したことがきっかけで映像化の計画が再び動き出す。当初はクラウドファンディングの形で15~30分間ほどのパイロット的短編作品を想定していたが、物語の現代日本への置き換え、日本神話の魔獣ヤマタノオロチの登場、TVドキュメンタリー番組による制作現場の密着取材企画なども交えて作品の規模は拡大していき、最終的に独立した長編映画として2020年7月に制作発表されることとなった。

 撮影は2022年2月~翌23年5月に行われた(俳優によるドラマパートの撮影は2022年6~7月)。


あらすじ
 長年、特撮界における特殊美術の造形家として活躍し、多くの特撮作品を手がけた時宮健三がこの世を去った。
 祖父である健三との間にあまり良い思い出がなかった孫娘の朱莉は、母・優子とともに、複雑な心境で健三のファンに向けたお別れ会の会場を訪れ、そこで大の特撮ファンである同級生の卓也と出会う。さらに、健三の古い知り合いだというホヅミという男から、祖父が『神の筆』というタイトルの映画を監督しようとしていたことを聞かされる。
 ホヅミはおもむろに『神の筆』で小道具として使われる予定だったという筆を取り出し、「世界の消滅を防いでください。」と言い放つ。ホヅミの言葉とともに朱莉と卓也は強烈な光に包み込まれ、気がつくと周囲はお別れ会の会場ではなく、『神の筆』のプロットにあった孤島に変わっていた。
 その島で、伝説の魔獣ヤマタノオロチが世界の全てを破壊しようとする光景を目の当たりにした朱莉と卓也は、元の現実世界に戻るために、健三が創り上げようとしていた『神の筆』の秘密に迫る冒険の旅に出るのだった。

おもなキャスティング(年齢は映画公開時のもの)
時宮 朱莉 …… 鈴木 梨央(19歳)
城戸 卓也 …… 楢原 嵩琉(たける 18歳)
ホヅミ   …… 斎藤 工(42歳)
時宮 優子 …… 釈 由美子(46歳)
スーザン  …… 吉田 羽花(わか 17歳)
時宮 健三 …… 佐野 史郎(69歳)

おもなスタッフ(年齢は映画公開時のもの)
原作・総監督 …… 村瀬 継蔵(88歳)
脚本     …… 中沢 健(42歳)
特撮監督・プロデュース …… 佐藤 大介(43歳)
音楽     …… 小鷲 翔太(?歳)
オリジナル・コンセプトデザイン …… 高橋 章(2023年死去)
怪獣デザイン …… 西川 伸司(59歳)、松本 智明(28歳)
特殊造形   …… 村瀬 文継(56歳)、若狭 新一(64歳)、松本 朋大(49歳)
背景美術   …… 島倉 二千六(ふちむ 83歳)
エグゼクティブプロデューサー …… 村瀬 直人(59歳)
メインロケ地 …… 東京都瑞穂町・瑞穂ビューパーク、スカイホール、北海道池田町・池田ワイン城


日本特撮界の生き仏さま!! 村瀬継蔵とは
 村瀬継蔵(むらせ けいぞう 1935年~)は、特撮映画における怪獣などの着ぐるみ、造形物製作者。造形美術会社「有限会社ツエニー」会長。北海道池田町(道東地方)出身。現在は東京都瑞穂町(多摩地域)を拠点に活動している。

 23歳で上京し、1957年にアルバイトとして東宝の特殊美術に参加する。アルバイトを務めたきっかけは、東宝で特殊美術を手掛けていた八木康栄・勘寿兄弟と継蔵の兄・継雄が知り合いであり、前任のアルバイトであった鈴木儀雄が学業により参加できなくなったため、八木兄弟から相談を受けた継雄が継蔵を紹介したことからであった。
 1958年に正式入社すると、同年の『大怪獣バラン』や、1963年の『マタンゴ』などの着ぐるみ造形を助手として手がけた。東宝時代は八木兄弟に師事し、特に弟の勘寿には世話になったという。ある時、継蔵が生活の辛さから特撮の仕事を辞めようと思っていることを勘寿に告げたところ、勘寿から「この仕事は子どもたちに夢と幸せを売る商売だ」と諭され、一生の仕事として続けることを決心したという。
 1965年には、知人の劇団へ移籍するという形で当時の五社協定を乗り越え、大映初の怪獣映画となる『大怪獣ガメラ』も手がけた。この仕事をきっかけに継蔵は東宝から独立して、八木勘寿の息子である八木正夫とともにエキスプロダクションを設立し、特撮TV ドラマ『快獣ブースカ』や『キャプテンウルトラ』などを担当した後、1967年には韓国初の怪獣映画『大怪獣ヨンガリ』、1969年には台湾映画『乾坤三決斗』の造形も手がけた。

 1972年にはエキスプロから独立し造形美術会社「ツエニー」を設立。折からの変身怪獣ブームに伴い特撮TV ドラマ『仮面ライダー』、『超人バロム・1』、『ウルトラマンA』、『人造人間キカイダー』などを手がけ、1975年には香港のショウ・ブラザーズ社に招かれて映画『蛇王子』の造形を担当。1977年には『北京原人の逆襲』の造形だけでなく、火だるまとなった北京原人が高層ビルから落下するシーンのスタントも自ら演じている。その後は映画『帝都大戦』(1989年)や『ゴジラ VS キングギドラ』(1991年)などのセットや造形を手がけた。

 子の村瀬文継も村瀬直人も造形スタッフとしてツエニーで活動し、文継は後に独立して自身の造形会社「株式会社フリース」を設立して活動している。2019年、継蔵がツエニー会長に就任し、直人は代表取締役として活動している。

主な参加作品、担当造形物
1958年
映画『美女と液体人間』
映画『大怪獣バラン』バランの造形
1959年
映画『日本誕生』ヤマタノオロチの造形
1961年
映画『モスラ』モスラ幼虫とモスラ成虫、小美人パペットの造形
1962年
映画『キングコング対ゴジラ』ゴジラ、キングコング、大ダコの造形
映画『妖星ゴラス』マグマの造形
1963年
映画『マタンゴ』マタンゴの造形
1964年
映画『宇宙大怪獣ドゴラ』ドゴラの造形
映画『モスラ対ゴジラ』モスラ幼虫とモスラ成虫の造形
映画『三大怪獣 地球最大の決戦』ゴジラの尾とキングギドラの造形
1965年
映画『フランケンシュタイン対地底怪獣』フランケンシュタインとバラゴンの造形
映画『大怪獣ガメラ』ガメラの造形
1966年
映画『大魔神怒る』、『大魔神逆襲』大魔神の造形
映画『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』エビラの造形
1967年
韓国映画『大怪獣ヨンガリ』ヨンガリの造形
1971年
TVドラマ『仮面ライダー』仮面ライダー1号とサイクロン号の造形
1972年
TVドラマ『超人バロム・1』バロムワンやドルゲ魔人の造形
TVドラマ『ウルトラマンA』ベロクロン、バキシム、ギロン人の造形
1973年
TVドラマ『行け!グリーンマン』グリーンマンの造形
1975年
映画『メカゴジラの逆襲』チタノザウルスの造形
1977年
香港映画『北京原人の逆襲』北京原人の造形
1991年
映画『ゴジラ VS キングギドラ』キングギドラとメカキングギドラの造形
1992年
映画『ゴジラ VS モスラ』モスラ幼虫とモスラ成虫の造形



 東京公開がまる1ヶ月前なので、感想を言うのはだいぶ遅きに失しているのですが、それでもスクリーンで観ることができたのは幸いでした。
 それにしてもさぁ、この作品、山形県の県都たる山形市では公開されてないんですよ! 車で30分くらいかかるお隣の天童市にあるイオンシネマでの公開なの。山形市にイオンシネマねぇんだず~! イオンは2つくらいあるのに。
 でも、実はこの手間のかかる隣町への映画鑑賞行、私はけっこう好きでして、車で30分くらいかけて知らない街に行くドライブが小旅行感たっぷりでいいんですよね。しかも夜の最終回を観に行くと、あの野球場何個分なんだという、だだっ広い地方イオンモールの駐車場がほぼ無人なので、どこか日常とは空気の違う異世界のゴーストタウンをさまよっている感がハンパなく、観終わった後に外に出ると、ほんとに元の世界に帰ってこれたのか判然としない浮遊感を味わうことができるのです。さらにそこに、ミルクのように濃密な夜霧でもたちこめようものなら……おかーさーん!!

 それにしても、やっぱり新作映画が東京に比べて月遅れになるというのは歯がゆい思いですけどね。まぁそれはしょうがないよ、本だって雑誌だって発売日に本屋さんには並ばない地域なんだもんなぁ。
 あ~っ、そういえば! 私、本作の公開よりも、先週の23日に公開となる映画『箱男』のほうを楽しみにしてたんですよ! 白本彩奈さ~ん!!
 それがあんた、蓋を開けてみれば山形での公開は来月の9月20日なんですって! こちらはさすがに山形市で観られるんですが、やっぱ1ヶ月遅れなのよぉ~。そんなん、同じ白本さん出演のドラマ『黒蜥蜴』の放送とか、辻村深月先生原作の映画『傲慢と善良』の公開とほぼいっしょのタイミングじゃねぇかよう!
 まぁ、待ちますけどね……別にネタバレ情報バレがどうこういうジャンルの作品でもないと思うのでかまわないのですが、忸怩たるものはあるということで。

 情報バレではないのですが、今回取り上げるこの『カミノフデ』も、東京公開からすでに1ヶ月が経っているということで、ネット上でちょっと調べると、映画を観たお客さんのレビューのような文章がたくさん出てきます。

 え~、なになに、レビュー星5つ中、「星3つ」……3つ!? 100点満点中60点ってこと!?
 あ、あの、日本特撮界のレジェンドである村瀬継蔵さんが満を持してメガホンを執った作品が60点とは……

 具体的にレビューを見てみますと、そこには「俳優の演技がひどい」、「テンポが悪くて寝そうになった」、「予算なさすぎ」、「ストーリーが弱い」という言葉が目立ちます。ただ、全レビューが「特撮造形はすばらしい」という部分だけは声を合わせているのが、さすが村瀬さんです。
 ちょっと、映画館に観に行く前にこういう情報に触れてしまうと若干、足が重くなってしまうのですが、なんてったって日本全国あまねく特撮ファンの誰一人として足を向けて寝ることができないと申しても過言ではない村瀬さんの監督作品なのですから、「やっぱ観るのや~めた!」などという選択肢など存在しえません。これはもう、観る気とかおサイフ事情とかいうものでは揺らぎようのない、信仰心の問題なのです!
 なんてったって私は、出演者の演技力なんかお子様ランチのパセリ程にも期待していない、あの「ガールズ×戦士シリーズ」の劇場版にも堂々とおっさん一人で鑑賞におもむき、親子連れの女児のみなさまの怪訝そうな視線の包囲斉射にも耐え抜いた経験がある! あの過酷さに比べれば、こんな「評判が芳しくない」だけの映画など、北海道・富良野ラベンダー畑を吹きわたるそよ風の如し!! そういえば、「ガールズ×戦士シリーズ」の劇場版もイオンシネマグループでしたね……

 そんなわけで、異様なテンションを胸中にたぎらせ乗り込んだ『カミノフデ』鑑賞だったのですが、その感想や、いかに!?


良い映画には「野望」が必要だ! そしてこの作品には、「野望」がまるでない!!


 こういうことになりますでしょうか。わかりにくい? でも多分、こういうことのような気がするんです。

 映画は総合芸術、という言葉は使い古されたものですが、それはもちろん、監督だけでなく企画プロデュース、脚本、俳優、カメラマン、照明、舞台美術、編集、衣装、宣伝、配給会社……さまざまな才能が集まり、お互いに協力し合い時には衝突しながら創り上げた精華が、ひとつの映画になるからだと思います。一人の才能ではできないという点では、他の舞台演劇やアニメ、マンガ、小説、テレビ番組、音楽、絵画……およそ世にある娯楽というものならば何でもそうだと思うのですが、やはり映画が、それに関わる業種、人間の多さで言ったら一番なのではないでしょうか。

 そして、それだけ多くの人間が集まる以上、たとえば監督がいくら剛腕で天才的才能を持っていようが、たった一人のワンマン運転で完成させることは不可能でしょう。つまりそこには、「この一大プロジェクトに便乗して己の才能を世に問おう」とか、なんだったら「監督や他の俳優を喰っちゃう勢いで名を売ってやろう!」とまで張り詰めたテンションを胸に秘めた野心家たちが集まって当然のような気がするのです。そりゃそうです、全員その道のプロなんだから。
 だからこそ、次代を超えて残るクラスの名作映画には、必ずと言っていいほど「プロデューサー VS 監督」とか「原作者 VS 監督」とか「監督 VS 俳優」とか「主人公役 VS 脇役」といった対立項で、かなりガチンコな衝突が展開される逸話が残っているものなのですが、そういったスパークが生み出す化学反応こそが、単に台本を三次元化したものにとどまらない映画ならではの輝きを放つのではないかと思うのです。
 プロとプロとの真剣勝負が、真の傑作を生みだす……言うのは簡単なのですが、私だって実生活の中では誰ともケンカなんかしたくもないし、できればチーム全員がニコニコ、和気あいあいと仕事をする現場にいたいものです。でも、全員仲良くなあなあではとうてい超えられない境地があることも、厳然たる芸術の真理だと思うのよね……それは、監督がガミガミ怒って俳優を追い詰めればいいとかいう低レベルな話ではありません。互いに丸裸になって魂に火をつけ合うような、ハイレベルな命のやりとりですよね。

 そこで私が言いたいのが、この『カミノフデ』で、それこそ神の領域に達している村瀬さんの特殊造形技術に、真正面きって戦いを挑む気概を持った他セクションの才能が、たったひとつでもあったのか?ということなのです。それはもう、「総監督・村瀬継蔵」も含めて。
 少なくとも、本作を1回だけしか観ていない私には……残念ながら、そんな才能や仕事はどこにも見えなかったですね。

 つまりこの作品を、単に村瀬継蔵という稀代の芸術家の卒寿を記念したメモリアル映像とみるのならば、まるで文句などつけようのない立派な出来になっているかと思います。本作の目玉怪獣となっているヤマタノオロチの市街地破壊シーンは、最近あまり見られなくなった実物の操演怪獣と本物の火薬を使った爆破炎上演出を全面に押し出していて、本当にスクリーンのサイズに充分に耐えうる大迫力だったと思います。ヤマタノオロチだけでなく、村瀬さんがそのキャリアの中で携わってきた大魔神、巨大北京原人、モスラ、マタンゴといった往年の大スターたちを彷彿とさせる怪獣たちの活躍もオマージュたっぷりでいい味付けになっていたと思います。冒頭でちらっと出てきた大怪獣バランの背中の表皮なんか、まんま本物でしたよね? 私も持ってる『大怪獣バラン』の DVDの特典映像でも、村瀬さん嬉々として造形の裏話を語ってらしたもんねぇ。

 でも、これは映画ですよね。順次公開という形であるにしても、単独プログラムとして全国公開されている特撮映画なのです。
 そういう形式で、千ウン百円払って観てしまうと……特撮以外の全てにおいて、ビックリするくらいに前に出てこずに、お互いに中腰になって「村瀬さん、どうぞ、どうぞ……」と気持ちの悪い譲り合戦をしている、作り笑いを浮かべたオトナの顔しか見えてこないのです、この作品。

 そして、そうやって譲られた村瀬さんが本作の総監督という立場にいるのですが、この映画、「監督」を務めてる人がほんとにいたのか?と疑ってしまうくらいに、カメラワークもセリフをしゃべってる俳優のバストショットの切り返しばっかりだし、セリフとセリフの間にある1秒くらいのしろうと感まるだしな沈黙もそのまんま OKにしてるしで、俳優の演技に演出家としての注文を付けている形跡がまるで見当たらない、ノーカット粗削りなドラマパートが延々と続くのです。この作品はもともと「上映時間74分」という、21世紀では珍しく良心的な、観客の膀胱にやさしい時間設定の映画なのですが、いやホント、ちゃんとした監督が編集したらこんなん45分くらいまでには縮められるんじゃないですか!? セリフをひとつもカットしなくても!! そのくらいに異様な「無の時間」が、そこかしこでほったらかしになっている作品なのです。

 先ほど挙げたネット上の鑑賞レビューの中では「俳優の演技がひどい」という声が多いのですが、私としては、ひどいのは俳優さんではなくて、やはりその演技に的確な修正指示、もしくは演技をもっとましに見せる映像編集をまるで施さなかったスタッフ不在の状況だと思います。10代の若者の演技がぎこちないのは当たり前のことで、大切なのは、彼らをあえてメインキャストに起用した周りの大人たちが、彼らの未来のためにどれだけ一肌も二肌も脱げるかってところなのです。ていうか、私からすれば、10代の若者たちを今回の「演技力ひどい」の戦犯に仕立て上げるのもいかがなものかと思いますよ。むしろもっとひどいのは、さらに年上で経験も豊富なはずの何人かの出演者のほう!
 あの~、今回、私がひどいと思った出演者の名前は、上のキャスト表からは意図的に消しております。個人ブログならではの裁量でそうさせていただきましたので、したがって、上にお名前のある俳優の皆様には、当『長岡京エイリアン』はなんの悪感情も抱いておりません。でも、名前の無い人には……あっ、笠井アナはいいですよ。

 いや~、特に、「お前」! お前だけは、ほんっとに……またしょうこりもなく俳優みたいな顔して出てきやがって……ほんと、性格的に断れないタチのいい人なのかどうか知らんが、こういう仕事は心を鬼にして断ってくれよ~!! あんたが出てくると、特撮界の内輪うけネタみたいな空気が一瞬で蔓延して、作品全体の品位がガタ落ちになっちゃうんだよ!! でも、覚悟してたよりも出番は少なかったので、内心ほっとしました。

 ところで今回、かなり重要な役としてがっつり主演している斎藤工さんが、エンドロール上ででかでかと「友情出演」とクレジットされているのですが、これも私、どうかと思うんです。
 いや、友情出演って、もっと軽いチョイ役じゃないんですか……たとえ本作と同じ「村瀬継蔵の代理」的な立ち位置だったのだとしても、せめて出番はあんなに多くしなくてもよかったはずですよ、友情出演なんだったら。
 それが、あんなに重要なセリフもバンバン工さんに任せきりにしちゃって……もう、主演2人の次に出ずっぱりだったじゃんか!
 下世話な話ですが、友情出演って、出演料に適正な相場とは違う何らかの変更があるんでしょ? いやダメ! あんなに頑張ってる俳優さんには正規のギャラを払わないと絶対ダメでしょ!! 工さんのお人柄にあぐらかいちゃいけませんよ。「斎藤工さんの出演料(急募)」っていうクラウドファンディングしてでも、一人のプロとして正式にオファーしなきゃあ、村瀬継蔵の名が泣くってもんよぉ。


 役者についていろいろ言ってしまいましたが、結局、この作品の何がいけなかったのかってつらつら考えてみまするに、やっぱこれ、上の情報にある通り、もともと「15~30分間ほどの短編」として構想されていたお話を長編映画にしちゃおうという、イナバの物置を10階建てのコンクリートマンションにしちゃうくらいの違法増改築な経緯に無理があったのではないでしょうか。いや、そんなんムリムリ!! そんな素体おもい切って捨てなきゃ、絶対に早晩、無理した接合部からヒビが入って全部が崩れちゃうって。

 だいたい、あのヤマタノオロチのご登場自体がもとの構想に無かったっていう段階からしてとんでもない話なんですが、そういえば確かに、本作は序盤の『神の筆』の再現世界で繰り広げられる小規模なファンタジー冒険はそれなりに構造がしっかりしているのですが、ヤマタノオロチが出てきて、死んだはずの時宮健三のイマジネーション世界を喰い荒らす役割を担うあたりから、物語は渾沌としてくるのです。

 ん? 時宮が命を与えたヤマタノオロチが暴走して時宮の世界自体を壊しちゃうってこと? 時宮の世界が壊れるっていうのは、現実世界の人々が時宮健三の偉業を忘れ去るってこと? 中盤以降は朱莉と卓也のイマジネーション世界にヤマタノオロチが出てきて大暴れしたけど、これって、現実世界の朱莉と卓也にはなんの影響があるの?

 結局、ヤマタノオロチや怪魔神も含めたいっさいの登場怪獣たちは、現実世界の朱莉と卓也に「おじいちゃんはスゴかったんだぞ」ということを伝えるためだけに用意された「劇団時宮健三」みたいな幻影でしかなかったんだろうか……それはそれで、特撮を愛する村瀬さんらしいほっこりした物語ではあるのですが、だとしたらあのヤマタノオロチの大熱演も、結局最後は怪魔神にやっつけられちゃう台本通りのアトラクショーでした~みたいな話になっちゃうし、やっぱりそこはかとなく『世にも奇妙な物語』の1エピソードみたいなこぢんまりした印象になっちゃうんですよね。う~ん、みみっちぃ!

 そうそう、そういや今作のヤマタノオロチって、「8本中現役の首は5本」なんですよ。ええ~、ゴマタノオロチ!? それって、体力フルチャージ状態の「約62~3%」のコンディションで出演してますってこと!? せっかくの、『ヤマトタケル』(1994年)以来ちょうど30年ぶりの復活だっていうのによぉ~!! ちなみに、『ヤマトタケル』版ヤマタノオロチの造形を担当したのは村瀬さんではなく、小林知己さんと東宝映像美術です。
 もうアニメ版『風の谷のナウシカ』の巨神兵みたいなもんじゃねぇか! そっか、だからガソリン呑まなきゃ火ィ吐けなかったのか……こんなんだったら、こっちも「ヤマタノオロチの首3本ぶん(超急募!!)」でクラファンすればよかったのに!!


 いろいろ言いましたが、やっぱりこの作品は、本来映画になるべきでなかったものをムリヤリ映画にしてしまったという事態が、当然の結果をもたらしてしまった、としか言えないのではないでしょうか。
 やっぱりね、「俺がこの映画をなんとかする!」とか「あたしがこの映画で一番目立ってやる!!」という野望がしのぎを削る現場でないと、いい映画なんてとうていできないと思うんですよ。もはや現代日本は、「村瀬さんのお祝いをみんなでしよ~♪」みたいなお花畑パーティを、チケット料金徴収してやれる世界ではないんですよね、哀しいけど。

 あと、最後にこれも行ってはおきたいのですが、本作を「時宮健三の遺した世界」という部分だけに照準を当てた作品にした判断は、それはそれとしていいとは思うのですが、だったら主人公になっている10代の2人の立場はどうなっちゃうんだという大問題があると思います。
 要するに、あの2人の現実世界での鬱屈というか、特に朱莉のほうがド冒頭の下校シーンであんなにつらそうな苦悶の表情を浮かべていた理由とかが一切語られないのが、非常にもったいないと思うんですね。朱莉がかなり毛嫌いしているらしい卓也の学校での特撮オタクっぷりとか、それゆえに周囲から浮きまくっている卓也なりの苦悩とか、ドラマにしたら何十分にでもふくらませられるおいしい要素はゴロゴロ転がっているはずなのに、そこにいっさい行かない脚本に疑問を持ってしまうのです。いや、長編映画にしたいんだったら、普通そこ拾うでしょ!?

 そこはまぁ、特撮映画として余計な人間パートはいらないという考えもあったのかも知れませんけどね。最近はハリウッド版『ゴジラ』シリーズみたいに、人間側のあれこれが刺身のツマくらいの重要度になってる作品も珍しくはないし。
 でも……鈴木梨央さんにあれだけ真剣に学校でうまくいってなさそうな演技させといて、そこの伏線をまるで回収しない結末はどうかと思うし、本作の「自伝的要素」を重視してそれ以外の要素を切り捨てたというお題目よりは、「脚本としてうまくまとめられそうにないから逃げた」という意図しか感じられないんだよなぁ。
 だから、最後に朱莉と卓也が「大人になったら……」と将来の夢を伝え合うやり取りも、脚本の持っていきようによっては本当に最高なシーンになるはずなのに、そこまでの経緯がいっさい語られないから、なんだか唐突にいいこと言わせましたみたいな、とってつけた感しかしないんですよね! もったいないにも程があるよ!! 10代のみそらで主人公の大看板を背負った鈴木さんにおあやまり!!

 よくよく見てみると、脚本を担当した方も作家ではあるものの、決して長編映画のスケールを得意とする脚本家のようには見受けられないし……ここでもやっぱり、「特撮界隈ですぐに連絡がついて仕事を断らなそうな人にお願いしました。」なかほりが漂ってくるんですよね。う~ん……そこに手間を惜しんじゃダメなんじゃない!?


 とにもかくにも、いろいろと村瀬継蔵さんという偉大なる才能の、「ちょっぴり正直すぎるまでにピュアな心」を、素材そのまんま無加熱無加工でドスンッと提供したような『カミノフデ』なのでありました! もうちょっと、商品にすることを念頭において見栄を張ってもいいのでは……と思っちゃうんですが、そこがわたくしめのような俗人の欲目なんでしょうかねぇ。

 せめて、ヤマタノオロチの首がちゃんと8本そろうまで待ってもよかったのでは……どうせ村瀬さん、まだまだお元気でしょ!?

 やっぱり、ワイン飲んでるようなのはダメだな!! 日本の魔獣はポン酒でいかにゃあ!!
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てかこれ、神木くん版『帝都大戦』じゃ~ん!? ~映画『ゴジラ -1.0』~

2023年11月05日 10時37分18秒 | 特撮あたり
 どもども、みなさんこんにちは! そうだいでございます~。
 みなさん、2023年の文化の日は3連休となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。私は幸いお仕事も休みでまるまるの連休となりまして、ありがたい限りでございますよ。もう思いっきり、家にたまった積ん読本の消化にまわさせていただいております。って言っても、じぇんじぇん平積みの本が減らない……でも、これは飛ばし読みすればいいってもんでもないんでね。少しずつ、少しず~つ味わって進めていきたいと思います。
 でも今年は多少、働き方を変えさせていただいたおかげで、ここ数年とんと思い出すことのなかった「読書のたのしみ」を再び感じることができているような気がします。歳もとってきたし、この頃は家に帰ってきた時点でヘトヘトの日々で、本のページを開いたらもうすぐ睡魔が襲ってきて読書がまるで進まない状態が続いていたんですよ。でも、最近はやっと最後まで読み切る体力と余裕が戻ってきたかな~と。そうそう、私の原点というか、脳みその大半は本からいただいた栄養でできているんだよな、としみじみ実感しております。

 そんなこんなでなんとな~く日々是好日なわたくしなのですが、読書以外の楽しみに関しましても、今年2023年は『シン・仮面ライダー』にキッチン戦隊クックルン10周年にプリキュア20周年記念に『ガメラ・リバース』にドラキュラ復活とねぇ、1980年代生まれで特撮やアニメ、ホラーにまみれて育った私としましてはうれしいイベントが目白押しでございました。去年も『シン・ウルトラマン』とガイガン生誕50周年祭があったし。『仮面ライダー BLACK SUN』は、まだ観てないんだよなぁ。なんか重たそうで。
 我が『長岡京エイリアン』といたしましては、このムーブメントの中に、どうしても「ゴジラさん抜きの単独の仕事でぬいぐるみ復活したおギドラさま」というトピックも入れたいのですが、いかんせん TVコマーシャルだし、第一復活されたのがよりにもよって「護国聖獣」のおギドラさまなんでねぇ。手ばなしにバンザイ三唱できないひねくれ信者がここにいます。えっ、おギドラさま、ゴジフェスのアレにも出られてんの!? でも……こっちもやっぱり忠犬みたいにかわいらしい顔のおギドラさまなのよねぇ。20年以上も前の着ぐるみなのに、よくぞ良好に保存されてたと感心しますけどね。
 そんでこれからは、水木しげる生誕100年記念ということで『ゲゲゲの鬼太郎』の単独新作映画も公開されますからね! たのすみだ。

 こんな、奇跡のような一連のイベントラッシュの中でも、話題性において特に最大規模と言ってよろしい大作映画が、ついに先日11月3日に公開されました! いや~、もうネット上では話題沸騰と言いますか、観た方々の感想レビューでもちきりですよ。そんなお祭りに泡沫ブログのうちも加わろうという算段でございます。空気に触れた瞬間にパチンと消えてしまいそうな泡沫記事ではございますが、泡も集まれば……?


映画『ゴジラ -1.0』(2023年11月3日公開 125分 東宝)


 公開日からもう少し日が経ったころに落ち着いてじっくり観たかったのですが、我慢できずにこの連休内に観てしまいました。だって、ネットで見る動画見る動画、ピー音がかかってたりネタバレ御免だったりで、気になってしょうがないんだもん……

 言わずと知れた、日本特撮界を代表し牽引する超老舗作品『ゴジラ』シリーズの通算37作目の最新作にして「ゴジラ生誕70周年記念作品」という大看板を背負った、全特撮ファン待望の一作であります。
 そうか、『ゴジラ 怪獣惑星』3部作(2017~18年)とか『ゴジラ シンギュラポイント』(2021年)とかハリウッド版モンスターバース2作(2019、21年)があったから、そんなに空いてる印象は無いのですが、『シン・ゴジラ』(2016年)から実に7年ぶりの本家新作になるんですねぇ。でも、あらためてこう観てみると昨今のゴジラファンはほんとに果報者ですよ。『メカゴジラの逆襲』(1975年)から1984年版『ゴジラ』までの9年間とか、『ゴジラ ファイナルウォーズ』(2004年)から2014年ハリウッド版『ゴジラ』までの10年間の完全空白がウソのような豊穣っぷり! ゴジラさん、老いてなお盛んなり、ですねぇ。

 そいでま、なにしろ直系の前作があの大ヒット作『シン・ゴジラ』になりますので、世間でも何かと比較されることの多い今作でございます。興行収入80億円超えの作品と比較されちゃうんですから、ハードルが高いなんてもんじゃありませんよ! ハードルのバーが雲の上にあるから見えない、みたいなレベル。
 我が『長岡京エイリアン』における『シン・ゴジラ』の感想記事は、こちらこちらでございます。え! 私、記事2つも作ってたっけ!? 長いよ~!! いや、今回もおんなじくらいになる、かな……でも前後編にはならないから、だいじょうぶ! たぶん……

 いつもだったら、ここで Wikipediaさまから拝借した『ゴジラ -1.0』についての基本情報をのっけるところなのですが、今回は省略してちゃっちゃと感想本文に入りたいと思います。ストレートに、すっぱりと。
 なんでかっていうと、私、山崎貴監督の作品を一本たりとて、ちゃんと最初から最後まで観たものがなかったんですね。なので、知らない監督の情報を羅列しても意味はないかと思うので。
 そうなんです。確か『3丁目の夕日』シリーズの何かと、くだんのゴジラ特別出演シーンを TVで観たくらいで、今まで全然観たことなかったんですよね、山崎作品。佐藤嗣麻子監督の作品のほうはよく観てるつもりですし、大好きなんですが。
 これはまぁ、単に縁が無かったということもあるんですが、監督作品が公開されてもなんだか悪評を聞く機会が多いような気がして、まず観る気が無くなってしまうというパターンが多かったのです。
 そういう悪評も、ほとんどが素人さんの声なので信用するに足るかどうかはわからないのですが、「キムタクヤマト」だの「ドラ泣き」だのと、やたらと印象に残っちゃうのが始末に負えないんですよね。実際に面白いのかどうかはわかんないのですが、怪しいものにはお金は払えないな、ということで、食わず嫌いになっていたのです。
 でも、今回ばかりは世間の評判がどうとかなんて関係なく、スルーは絶対に許されないゴジラシリーズですから! やっとこのチャンスが来たということで喜び勇んで観に行ったわけなんですが……さぁ、初山崎監督の、感想やいかに!?


おもしろかったが、怪獣映画ではない!! ゴジラ映画でもないかな!?


 一言であらわすと、こんな感じでございました、私は。
 あの、以下は可能な限りネタバレを避けるように文章をつづるつもりなんですが、いかんせんそこはエンタメ映画ですので、面白さが作品の核心に直結していることは当然ですので、できればこの記事をお読みになる奇特なあなたさまも、是非とも『ゴジラ -1.0』をお近くの劇場で楽しまれてから読んでいただきたいと請い願います! 映画館で観る価値はありますよ! ゴジラシリーズは観た後のコストパフォーマンスも怪獣級ですからね。想像力が羽ばたきます!

 わかりやすく、先ほど申した文章を3つの要素に分けて、感想をくっちゃべっていきましょう。


〇おもしろかった点

 これはもうやっぱり、タイトルの「-」に全く偽りのない、あらゆる方面での人類、というか日本人側のマイナス感、物量不足感、アウェー感ですよね。物語の舞台となる1947年の日本にまとまった戦力などあるはずもなく、駐留している GHQの軍事力にも期待できないという、歴代ゴジラ作品史上最も力のない苦境にあって、一体どうやってあの水爆大怪獣ゴジラを倒すのか!? この難題に敢然と立ち向かう戦後東京の一般市民の姿を追い、クライマックスの乾坤一擲の「わだつみ作戦」を圧倒的ビジュアルで描く、本作の中盤からラストにかけての勢いは、とってもハイテンポでストレスが少なかったかと思います。そして、まさに決死の意志を持ってわだつみ作戦に参加する、神木隆之介さん演じる主人公・敷島! 敷島のゴジラへの深い思いや、敷島の搭乗する「秘密兵器」の復活にまつわるエピソードもからんで、群像劇と主人公の復讐劇とがゴジラに一気に集中していく流れは、『シン・ゴジラ』の「ヤシオリ作戦」の例を挙げるまでもなく、「人類 VS ゴジラ」の歴史に新たなる1ページを刻む名勝負になっていたと思います。

 兵器を駆る敷島とゴジラのタイマンという、古くは『ゴジラの逆襲』(1955年)、最近はアニゴジを思い起こさせる展開は実にアツく、最先端の撮影技術を駆使して、まるで観客が搭乗席の敷島になったかのような感覚になれるドッグファイトシーンは、まさに手に汗握る本作ならではの見せ場だったのではないでしょうか。さすがは、『ゴジラ ザ・ライド』の山崎監督ですよね!
 でも、あそこで私が真っ先に連想したのは、ゴジラシリーズじゃなくて『帰ってきたウルトラマン』第18話『ウルトラセブン参上!』(1971年8月放送 脚本・市川森一)における、地球防衛チーム MATの加藤勝一郎隊長が搭乗するマットアロー2号単騎と宇宙大怪獣ベムスターとの対決でした。あれも超名シーンよ~!!
 あのエピソードでの加藤隊長も、親友だった宇宙 MATステーションの梶隊長(演・南広)をベムスターに殺されているため多分に私怨のこもった因縁があったわけですが、あのベムスターを相手に戦闘機1つでなんて……ゴジラをはじめとする東宝怪獣と円谷プロのウルトラ怪獣を比較するのは古来ご法度とされていますが、それでもあえて言わせていただきますと、今回のゴジラよりも、ベムスターと戦い続ける方が難しくね!? だってベムスターは頭の角からけっこう頻繁にビーム弾を撃つし、自分も飛べるんだぜ!? 今回のゴジラの放射熱戦は、威力は確かにすごいんですが連射はできませんもんね。ついでに言うと、敷島はいちおう確固たる作戦の一環としてゴジラを一人であおっていたわけですが、加藤隊長は特に何の公算もないままベムスターに挑んでますからね。おそらく被弾するか燃料が尽きかけたらベムスターに特攻して果てるつもりだったのでしょう。その勇気やよしなのですが……組織のリーダーとしては、どうかなぁ!? 敷島よりも加藤隊長の方がよっぽど日本軍人っぽいですよね、いい意味でも悪い意味でも。
 ちなみに、放送本編中で加藤隊長はえんえん6分もの間ベムスターとタイマンをはっていたのですが、そのあいだに帰ってきたウルトラマンが地球~太陽間を往復しているので、実際には絶対それ以上の長時間にわたってファイトを繰り広げていたと思われます。正気じゃない……

 話がみごとに脱線しましたが、ともかく、主人公・敷島の物語を強く観客に訴えかけ、恨み骨髄のゴジラへの復讐、というか自分自身へのけじめをつける成長の路程を克明に描いた今回の『ゴジラ -1.0』は、当然ながら神木さんの入魂の名演もあいまって「見せたいところがはっきりしている」大作映画にふさわしい内容になっていたと思います。ひとつの作品としてのまとまり、カラーが明確なんですよね。


●怪獣映画じゃない

 これは、どこからどう見ても戦争映画ですよね。
 こういう言い方をすると「何言ってんだ、反戦映画だろ!」と思われるかもしれないのですが、もともと戦争映画と反戦映画は白か黒かみたいな正反対の意味のジャンルじゃなくて、「反戦の意図を持っている戦争映画」っていうのが、戦後日本で制作される戦争映画のほぼ全部じゃないですか。戦争を肯定する戦争映画なんて、プロパガンダ映画ですもんね。そんなもん、民主主義国家の日本で作られるわけない……と、信じたい。
 それで、太平洋戦争で活躍して奇跡的に生還した軍艦や兵器の数々が生き生きと現役復帰してゴジラ対策に投入されちゃうと、あ、これは戦争が終わってる時期のお話なんだけど、戦争兵器のロマンを駆り立てるねらいはあるな、と思わずにはいられません。実際に、主人公の敷島も「自分の戦争は終わってない。」と言っていたし。
 今作を観てしみじみ感じたのですが、昭和ゴジラシリーズの多くを手がけた円谷英二特技監督や本多猪四郎監督は、本当の戦争を知っておられたからこそ、自身の特撮映画に出す戦車や戦闘機といった通常兵器の数々を、あえてちゃっちい作り物感まるだしで撮影していたのではないでしょうか。そこには多分、人を簡単に殺せる道具の呪われた「美」みたいなものを新しい世代の子ども達に見せたくないという、プロとしての判断があったのではないかと思われるのです。だからこそ、彼らが創案したメーサー殺獣光線車やマーカライトファープは、他の既存兵器とは一線を画す、むしろ退治しているはずの東宝怪獣たちに近い体温と生命を宿しているのではないでしょうか。それは平成 VSシリーズのスーパーX シリーズとかにも受け継がれているんでしょうけど。

 そう思うので、実在した重巡洋艦や駆逐艦がリアルに活躍するのを見て、私はなんだか複雑な気持ちになってしまうのでした。まぁ、そういう物のカッコよさを語る作品もホビーの世界にあっていいとは思うのですが、ゴジラシリーズでやるのはどうなんだろうなぁ、と。ちょ~っと、軽率なんじゃない? なんたって時系列的に、本多監督の『ゴジラ』(1954年)の直前を標榜する作品なんですから。

 あとこの映画、明らかにゴジラが「ぱたっ。」と出てこなくなる時間が中盤に2ヶ所あり(銀座襲撃の前後)、そこで展開される敷島と「巨大生物対策本部」のストーリーが長く感じちゃうんだよなぁ! そして、そこに濃厚にただよう戦後混乱期日本のひもじさ、寒さ、飢餓感、焦燥感、徒労感……
 重い、暗い! この映画は、この画面は、あまりにも重苦しすぎる!!
 いや、待てよ。私はこの荒廃した東京の重苦しさを知っている。なぜ? 1980年代に生まれ、せいぜい千葉に15年くらい住んでいたのが関の山だった純山形県民の私が、なぜにこの空気を、この土ぼこりのけむたさを、病院の薬臭さと血なまぐささを知っているのか……

 そうだ……『帝都大戦』だ!! この『ゴジラ -1.0』は、あの呪われた超怪作トラウマ SF映画『帝都大戦』(1989年)に、異様に似通った点が多いのです!! スクリーミング・マッド・ジョージ!!

 映画館で観ている最中にこの真理に思い至ったとき、私は脳天に焼け火箸を突き立てられたような衝撃を受けました(©横溝正史神先生)!
 そうだ、敷島を演じる神木さんは、かつて名子役の神木くんだった時に、かの平成版『妖怪大戦争』(2005年)において、伝説の魔人・加藤保憲と一度あいまみえていたのです! カァアトォオオ!! げろげろげろ。
 加藤が帰ってきた……しかも今度は、「キリン一番搾り糖質ゼロ」をひっかけたくらいでやにさがって中条あやみさんとアハハウフフしているような惰弱な依り代ではなくて、身長 50m、体重 2万t の水爆大怪獣に憑依してきたのだ!! そりゃ大人になった神木さんもガタガタ震えますよね。助けて麒麟送子!!

 いやほんと、『帝都大戦』と『ゴジラ -1.0』、構図と雰囲気がよく似てるんですよ。
 『帝都大戦』のヒロイン……というか真の主人公・辰宮雪子(演・南果歩)は、かつて少女時代の前作『帝都物語』(1988年)において魔人・加藤保憲に拉致され東京壊滅のための大怨霊・平将門復活の依り代にされかけたという超絶トラウマをかかえた娘さんで、太平洋戦争末期の東京で夜ごとの空襲におびえながら、さらに「加藤が帰ってくる」という幻影にとり憑かれ苦悩し続ける日々を送っているのです。
 これ……戦争体験ではないけど、完全に敷島の PTSDにオーバーラップする深い心の傷ですよね。そして、最終的に自分自身が悪夢の根源にいる加藤と対峙して滅ぼすことでしか、「自分の戦争を終わらせて」新しい復興の朝を迎えられないという窮状も、実に敷島と似ているものがあるのです。
 あと1947年と45年ということで、場所もおんなじ東京だし、あらゆるロケーションが似てるんですよ。この2作はほんと瓜二つ! 男女の一卵性双生児!?
 でも、だからといって私は、この記事を読んでいるあなたに『帝都大戦』の視聴を薦めているわけでは決してありません。やめとき……全年齢で観られる『ゴジラ -1.0』の印象が、それこそこの作品のゴジラのはなつ放射熱戦レベルで吹き飛ぶくらいの衝撃 SFX残酷グロテスク描写のオンパレードですから。あと、上野耕路さんの劇伴音楽がむ~っちゃくちゃ怖いよ!! 我が『長岡京エイリアン』でも『帝都大戦』についての記事はありますが、ほんと、視聴の精神的ダメージは自己負担でね! とんでもない映画よ、まじで。
 そういえば、かわいいはかわいいんだけど、おかっぱ頭の子役の女の子がどっちも顔色が悪くてかわいそうというのも、2作に共通するポイントですね。ほんと、明子ちゃんを何度も一人にする敷島の所業だけは許せん!! もっと、女の子の心臓とおしりを安定させて抱け! 腕から落ちそうだから怖がるだろ!!

 そうそう、劇伴音楽というのならば、今作は音楽面ではほぼ0点なのではないのでしょうか。いかなプリキュアシリーズで大恩のある佐藤直紀先生とは言え、これだけは言わせていただきますぞ! 繊細な音楽なんでど~でもいいから、佐藤先生なりのゴジラマーチを出さんかい!!
 大事なところはぜんぶ伊福部先生に丸投げにしやがって……しかも、作品の大看板になっている銀座蹂躙シーンで2回も「モスラの動機」を流してやがるよ!! わだつみ作戦で勇壮な「キングコングの動機」が流れるのは100歩ゆずって受け入れますが、なんで絶望の破壊シーンで「♪ま~は~ら~」みたいな癒しの旋律が流れるんだよ~う!! これは監督の選曲センスの問題か? ちゃんと完成映像を観ながら演奏録音していた伊福部先生に謝れェい!!

 まぁ、にしてもあの魔人・加藤と戦った経験のある神木さんを今作の主人公にキャスティングしたという点は、ポイント高いですね。
 でも、だったらだったで、『帝都大戦』における斎藤洋介さんや野沢直子さんのように、虫けらのように命を散らす印象的なキャラクターがいてもいいとは思うのですが、そこらへんが今回の『ゴジラ -1.0』はいかにも手ぬるいといいますか、きれいごとになっちゃってますよね。最初はかなり陰険でいい感じだった安藤サクラさん演じる澄子も、なしくずし的に「ふつうの善人」になって生き残っちゃうし。

 ラストのラストに控えているあの展開も……ねぇ。
 「フィクションなんだから、そのくらいの奇跡あってもいいじゃん!」という判断があったのだとは思います。思うのですが……
 あなた、もし東日本大震災をテーマにした映画があったとして、あの漆黒の大津波にがっつり吞み込まれて消えた登場人物が、あとで「助かってました~。」みたいな感じで出てきたら、それ、許せる? 私はちょっと……

 山崎監督って、ゴジラシリーズ第25作の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年 以下 GMK)が大好きなんですよね。
 だって、具体的には言えませんがアレもコレも『 GMK』まんまじゃないですか。もう、リスペクトやオマージュを超えて「いいネタが思いつかないからもらっちゃいました」みたいな域にいってる気もするのですが……
 そこまで好きなんだったら、せめて『 GMK』に出てきた篠原ともえさんくらいに観客に凄惨なインパクトを与える、『帝都大戦』でいう「だいじょうぶ、病院は撃たないからっ☆」からのズダダダ!!みたいなトラウマシーンのひとつやふたつくらいは作っててほしいですよね。あれだって、大した SFXも特殊メイクも使ってないのに、人間の演技とカット割りだけであれだけの恐怖と戦争のむなしさを演出してるんですから。

 最先端の CG技術でその場にいるかのように描かれたゴジラが素足で人をどんどん踏みつぶして来るから怖いでしょ? じゃないんですよ。もっと頭を使って、カメラワークと役者さんの演技で観客の感情を揺さぶる映像を創出するのが、映画監督なのではないのでしょうか。


●ゴジラ映画じゃない

 これは、もう設定が「初代ゴジラ以前の物語」となっているので、しょうがないっちゃしょうがないのですが、「実在の危険生物」と「アニマルパニック映画の巨大モンスター」と「日本的な怪獣」をその生命力や強さでむりやり横一線に並べてしまうと、今回のゴジラは明らかに東宝や円谷プロの作品に出てくる怪獣らしくないというか、むしろ『ジョーズ』のホホジロザメ・ブルースくんとか『トレマーズ』シリーズのグラボイズのほうに近いような気がします。っていうか、1998年のハリウッド版『ゴジラ』? いや、放射熱戦が吐けるし再生能力も尋常じゃないしで、強さは段違いなのでしょうが、ちゃんと弱点のある存在なんですよね。
 これはこれで、そうしないと映画がきれいに終わらないので仕方ないのは百も承知なのですが、う~ん……オキシジェン・デストロイヤーみたいな空想兵器の出る幕も無く、人間のアイデアで殺せるゴジラ? う~ん……
 せっかく向こうのハリウッドでも日本の怪獣っぽいゴジラが定着しつつあるというのに、おおもとの日本で、な~んか今さら海外におもねるモンスター的なゴジラになっちゃうのって、海外のゴジラファンのみなさまにしてみたら、どんなもんなのでしょうか。これも時の流れなんですかね。

 あと、これだけは声を大にして申したいのですが、今回のゴジラって、そんなに怖いか?

 私はなんですが、別にそんなに怖くないんだよなぁ、あのゴジラ。いや、目の前にいたら確実にぶっ殺されるからいてほしくはないんですけど、そんなもん、昭和ゴジラシリーズのミニラだって、念入りに踏みつぶされたら私、死にますからね。
 迫力は、確かにある。迫力はあるんですが、特に肝心かなめの銀座蹂躙シーンで、怖く見えなかったんですよ。なんか世間でつとに喧伝されているほど、人間を襲っている感じがしなかったのです。
 これ、映画を観ながらなんでなのかな~って考えてみたんだけど、私なりにわかりました。

 あれ、歩いてる時のゴジラの姿勢が良すぎて、足元の人間を追ってるように見えないんですよ。大胸筋がムッキムキに発達しすぎて背筋がのびちゃってるから、顔と目線が必要以上に上がって何キロも先の向こうしか見てないようになっちゃってんのね! だから全然怖くないんだ。こっち見てないんだもん。
 プロローグの大戸島シーンも掃海艇の追撃シーンも、確かに目は人間を狙ってるから怖いんです。でも、その怖さはゴジラ的な怖さじゃなくて、やっぱ『ジュラシック・パーク』や『ジョーズ』の怖さのたぐいなんですよね。そして、巨大な怪獣ゴジラの怖さを満を持して披露するはずの銀座シーンで、ゴジラの視線がどっかいっちゃってるという。それは……ゴジラ映画である必要、あるか?

 過去歴代シリーズにおける「怖いゴジラ」をひもといてみますと、初代ゴジラとシン・ゴジラは、どんなに身体が大きくても眼球の黒目だけは下を見ているから怖かった。1984年版ゴジラは、常になんにもない頭上を睨みつけている「目がイッちゃってる感」が怖かった(着ぐるみのほう)。そして『 GMK』ゴジラは、瞳が無い白目が生む「どこを見ているかわからないからこそ、常にどこも見ている」効果というコペルニクス的発想転換が怖かったのです。
 中でも、私が最も怖いと記憶しているゴジラは、シリーズ第2作『ゴジラの逆襲』のハンドパペットのほうのゴジラなのですが、曳光弾に誘導されて沖へ離れて行き、もうちょっとで大阪湾から出ていくぞというすんでのところで、運悪く大阪沿岸の工業地帯にあがってしまった爆発の火の手に気づき「ぬ~っ」と陸地を振り返る、あのスローモーな動きの怖さと言ったら! 怖いって言うのは、こういうこと!! 絶対的な死の象徴が、自分たちを見る、ロックオンするからこそ、その時に恐怖が生まれるのです。

 だから、今回のゴジラはまるで怖くないのです。パンプアップしてマッチョになりすぎるのも考えもんですね。逆ゴジさんを見習って減量でもしてみたら?
 マッチョもそうなんですが、あたしゃ昨今の、「やたら小顔」なゴジラも、ほんっっっっとに大っ嫌いでねぇ! あのくだらないブーム、思えば『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年)くらいから洋の東西を問わずず~っと続いてるんですけど、いつになったら終わんの!?

 なんで怪獣もイケメン目指さなきゃいけねぇんだよ~! いい加減にしてくれよォ。
 どこの自然界に「小顔がイイ」なんていうルールがあるんだよ! 顔はでっかくてナンボでしょうが!! いや、1954年ひな形バージョンの「きのこ雲ゴジラ」さんほど大きくなれとは言いませんが。
 『ゴジラ VS コング』のゴジラなんか、よくあの片手のグーサイズの超小顔でコングにぶん殴られても平気でいられるなと心配になってしまうほどなんですが、ミョ~に男前で胸板の厚いイケメンゴジラ、ほんとに今作でおしまいにしてほしい。見飽きた!
 もちろん、1980年代生まれの私ですから、おそらくは山崎ゴジラがリスペクトしていると思われる平成「 VSシリーズ」ゴジラのイケメンっぷりも好きではあるのですが、やっぱ怪獣は異形じゃなきゃね! 21世紀も無数のバージョンのゴジラさんが生まれていますが、近年で異形なゴジラなんて、『 GMK』の白目ゴジラとシン・ゴジラと『シンギュラポイント』の毒蝮三太夫さんみたいに下あごがガッチリしたゴジラくらいなもんなんじゃないですか? 求む、キンゴジくらいに面白い顔の新人さん!!

 そうだそうだ、そういえば、ゴジラに限らず人間の俳優さんでも『ゴジラ -1.0』って、面白い顔の俳優さんがほぼ絶滅に近かったですよね。み~んな、おんなじようなふつうのお顔か、美男美女。強いてあげれば序盤の序盤のダークサイド安藤サクラさんぐらいかな? ものすごい顔だった人。
 顔見てても、おもしろくねぇんだよな……その点『シン・ゴジラ』は良かったよ~!? 元祖・加藤の嶋田久作さんでしょ、大杉漣さんでしょ、渡辺哲さんでしょ、塚本晋也さんでしょ。他にもピエールさんに松尾さんに柄本さん(父)に手塚さんに……市川実日子さんも、実はいい顔してるんですよね。
 たぶん、庵野監督はそういうことも考えてキャスティングしてるんだと思うんです。セリフなんかどうでもいいから、顔と表情だけで観客を引き付けられる画面を作れる俳優さんをと。
 それに比べて今作はというと、なんか、基本的にセリフ、大声でがなるでしょ? がなるのに、顔ふつうでしょ? 見たくなくなっちゃうんですよね、興奮してるふつうの人なんて。 
 よくわかんないけど、山崎監督の作品がアニメ的というのならば、そういうところに画面の平板さの原因があるんじゃなかろうか。

 BSプレミアムの金田一耕助シリーズでもさんざん言いましたが、吉岡秀隆さんはそうとうに業の深いお顔をされた方なんですよ……それをまるで活かそうとしないもんね、あれだけ出しておきながら! その無駄遣いは、映画監督としていかがなものなのでしょうか。


 ……とまぁ、言いたいことのほんの一部を羅列しただけで、いつものお字数になってまいりましたのでおしまいにしたいのですが、とにもかくにも、この『ゴジラ -1.0』は、絶対に映画館の大スクリーンで観ることをお勧めいたします。迫力は歴代シリーズでもピカイチだと思いますんで!

 にしても、ベクトルはまるで違うと思うんですが、怪獣映画でもゴジラ映画でもなく、山崎監督の作品をほぼ観たことのない私のような人間までもが「手癖だらけなんだろうなぁ、これ……」と容易に推察してしまうほどの「山崎映画」になっちゃってたという、この強引のっとり感。どうしても、あの『ゴジラ ファイナルウォーズ』の「フタを開けたら純度100%の北村龍平映画でした。」の惨劇を思い起こさずにはいられません。いや、あれがいいというファンの方が多いのもわかりますし、ファイナルウォーズ版ゴジラは、今年のゴジフェスでも大活躍ですから、もういい思い出なんですけどね。

 個性があるのはいいじゃないですか。長い長い歴史のあるゴジラシリーズなんですから、たまにはこういう作品があっても全然問題ないと思いますよ! なんてったって、私たちは『オール怪獣大進撃』や『ゴジラ対メガロ』、ミニラもジェットジャガーも歴史の1ページと受け入れているゴジラファンなんですからね。

 海のように広い寛容さを胸に、明日からもがんばってまいりましょう! ♪ま~は~ら~!!
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さそり女に『電人ザボーガー』への羨望を見た!? ~映画『シン・仮面ライダー』~

2023年03月25日 23時37分47秒 | 特撮あたり
 どもども、こんにちは! そうだいでございます~。
 いやはや、なにはなくとも花粉症……カンベンしてよ花粉症!! 今年はほんとに最悪ですね。
 おかしい、年齢を重ねると体力も落ちていくはずなのに、なんでこうも花粉症に対する不必要な体内抵抗運動だけは激化する一方なのでありましょうか。そんなに過剰に反応しなくてもいいのに……ちょっとは、「カラダ」という、同じ釜の栄養素を摂り合う秘密組織の同志である「鼻の下の皮膚」支部とか「目のまわりの皮膚」支部の惨状もおもんぱかって、液体は気持ちひかえめに分泌していただきたいと!! ホント、いい加減にしてください! 「脳みそ」本部からのおねがい!!

 ってな感じで、どこの世界でも「組織の横の連携は大切ネ」という、強引きわまりないつなげ方をもちいまして、この早春に話題沸騰の、この映画の感想記に入らせていただきたいと思います。入って……いいよね? ちゃっちゃとやっちゃいましょう。
 まぁ、「話題沸騰」と言いましても、『シン・ウルトラマン』から間もないこともありますし、具体的に言うと、私の周辺では「鍋の壁にちょこちょこっと泡がついてきたかな。」くらいのくつくつ感でしょうか。ゆで卵そろそろコロコロするかぁ、みたいな。


映画『シン・仮面ライダー』(3月17日公開 121分 東映)


 満を持しての、庵野秀明さん、おんみずからによる脚本&監督作品のご登板ですね。

 庵野監督と言えば、わたくしにとって決して忘れることのできない思い出は、何と言っても、関東地方で独り暮らしをしていた時代に観に行った、池袋・新文芸坐におけるオールナイト上映企画「ウルトラマン45周年記念 『帰ってきたウルトラマン』庵野秀明セレクション10+1」(2010年9月18日開催)での、生・庵野秀明監督&生・団時朗さまトークショーへの謁見でございました。じ、自分で昔の記事をひっぱり出してビックラこいちゃった……もう10年以上前のことなのか。
 これは言うまでもなく、ステキな体験でした。個人的には、間近で見たそのお2人も当然ステキだったのですが、それ以上に感動してしまったのが、客席にいらっしゃっていた「新マン」その人・きくち英一さんに挨拶をして、握手をしていただいた、そのてのひらのあたたかさ。最高のオールナイトでしたね。
 団さんも、まさか、あのあたりのウルトラご兄弟の中で、いちばん早く光の国に旅立たれるとはねぇ。残念でなりませんが、あの日も陽気で飾りっ気のないトークが非常に印象的でした。あちらでバーベキューパーティの準備をしているのか、それとも、久しぶりに再会した「兄さん」岸田森サマと、お互い身体のことなんかいっさい気にせずおいしいお酒をかっくらっていらっしゃるのか。こちらとしても、海岸を走りながら笑顔で手を振って、送ってさしあげたいところです。

 それはともかくとして今回は、おそらく、その『帰ってきたウルトラマン』と同等に庵野監督の思い入れが強いと思われる伝説の特撮ヒーロードラマ『仮面ライダー』(1971~73年放送 全98話)の、庵野監督ご自身によるリメイクでございます。

 さて、『仮面ライダー』のリメイクと申したときに、我が『長岡京エイリアン』として無視するわけにはいかないのが、同じくさかのぼること10年以上前に世に出た『仮面ライダー』のリメイク作品である、映画『仮面ライダー THE FIRST』(2005年)と、続編の『仮面ライダー THE NEXT』(2007年)の2作であります。なつかし~!
 この2部作については、すでに過去の記事でつらつらつづっていはいるのですが、簡単にかいつまんで言いますと、私はこの2作の「キャラクターデザインとアクション演出」を高く評価して、その一方で「原典になかった平成オリジナル要素との水の合わなさ」が良くなかった、と言っていたかと思います。『THE FIRST』は「善悪のあいまいな世界観」が、単純明快なライダーアクションをなんとも感情的にすっきりしないものにしてしまっていたし、『THE NEXT』は、ショッカーそっちのけでしゃしゃり出てくる「Jホラー(化石語)」要素に物語をいいように引っ掻き回されていた感じでした。もう恥ずかしくて見てらんないよ、長い黒髪の怨霊が「ずずず……」なんて!!

 ともあれ、『仮面ライダー』の平成におけるリメイクは、そんな感じで「当時のトレンドに寄り添いすぎた。」みたいな感じで失敗……してしまっていたと思います。でもこれはこれで、平成らしくていいのかもしんないですが。やたらと線が細くて悩みまくる黄川田将也さんの本郷猛も、実に平成らしい主人公像ですよね。基本的にヒーローではないんだなぁ。そして、そこらへんに対する気持ちいいくらいのカウンターパンチとして、あの「鬼神」本郷猛のあらぶる大怪作『仮面ライダー1号』(2016年)もあるわけでして……タケシ~♡

 ほんでま、今回の「令和」リメイクであるわけです。でも、監督が庵野さんなんですから、令和100%になんてなるはずがなく、「120%昭和で令和成分は1%もしくは無果汁」というファンタみたいな映画になっていました。いや、クセの強さで言うのならば、これはネーポン映画と称するべきか……アジアコーヒ日の出通り店!! あ、ネーポンは果汁10%ですか。
 で、ごたくはここまでにしておきまして、肝心の『シン・仮面ライダー』を観た感想はといいますと、


ライダーサイドはいいんですが……ショッカーサイドが雑すぎやしないかい!?


 こんな感じでございました。わたくし、ど~にもこ~にも、ショッカーが大好きなんだよなぁ。

 映画自体は、非常におもしろかったです。庵野監督のこだわりが強すぎて娯楽作品になっていない、という声もあるようなのですが、いや、そんなにマニア向けな問題作でもないし、庵野監督お得意の「オーグメンテーション」だの「プラーナシステム」だの「ハビタット世界」だのという聞きなれない専門用語は確かに氾濫しますが、そんなのはテキトーに「こういうことかな。」程度に理解して受け流しちゃえば、物語の大筋もおおむねスッと頭に入ってくると思います。わかりやすいですよね。
 なんてったって、『仮面ライダー』の「仮面」と「ライダー」、どっちも非常に誠実かつ丁寧に描いているのが、ものすごく良かったと思います。そりゃもう、昨今の「変身おもちゃの売れ行きが一番大切」みたいな後輩新人連中の横っ面をビビビビビンとひっぱたくような単純明快さでしたよね。人を殺める異常な能力の代償として醜くゆがんだ顔を隠すための仮面。そして、1号にとっては変身のためのエネルギーを得るために、2号にとっては孤独を癒すために必要不可欠なパートナーとしてのバイクの大活躍!!

 そして、とらえようによっては完全に緑川博士の狂気に振り回される被害者になってしまった境遇を呪うことなく、震えるその身体を理性で抑え、正義の心を持った大自然の使者・仮面ライダーとして命を賭す覚悟を手にした本郷猛を演じきる、池松壮亮さんの立ち居振る舞いの説得力よ!! さすが第33代・金田一耕助の名跡を背負うだけのことやは、ある!!
 今回のリメイクは、本当に池松さんの本郷猛で、その品質がもっている部分が大きいと思います。そりゃまぁ、他の役者さんがたの演技もいいんですが、作品に占めるウェイトがあまりにも違いすぎます。当然、ラストシーンで本郷から仮面ライダーの名を継承する一文字隼人を演じる柄本さんも、そのひょうひょうとしたヒーロー感が素晴らしいわけなんですが、やっぱりそこに、冷静で優しい本郷の声が加わるからこそ、この作品は非常にあたたかい朝日のような、希望に満ちたエンディングを迎えることができると思うのです。♪ひっとりっじゃないってぇ~、すってきっなこっとっねぇ~!! あのメガネピンクの女の子がいたら、絶対この歌うたってたでしょ。
 このエンディングの「1号から2号への継承」は、原作者である石ノ森章太郎のコミカライズ版『仮面ライダー』(1971年連載)のちょうど真ん中あたりのエピソードとなる第4話『13人の仮面ライダー』の展開をベースにしているのですが、ここをエピローグに持ってきたところに、庵野監督の『シン・ウルトラマン』脚本にも通じる「人間愛賛歌」を感じることができます。ホント、思春期にあの『新世紀エヴァンゲリオン まごころを、君に』の洗礼を受けたわたくしといたしましては、あんなにほっこりしたエンドロールを観ることができるのが、心の底からうれしいわけなんですよ……ハッピーでよかったぁ~!!

 この『シン・仮面ライダー』は、本郷猛・緑川ルリ子・一文字隼人という3人の「仮面ライダーサイド」の若者たちの魂の響きあいと克己・成長の物語であると考えれば、とっても気持ちよくルートの整理された群像劇であると思います。繰り返しますが、特に本郷を演じる池松さんの演技が、いい! 砂浜でトンボを切った後の、ちょっと足元を踏み固めながらはにかんだ時の少年っぽい微笑……いいね!! これから死ぬかもしれない決戦に臨もうとする人間が、そういう一面を信頼する仲間に見せて安心させようとしている。自分の命よりも他人の安心に気をつかう人間であるという、この本郷像が、父の生きざまに見事にリンクしているんですよね。これは、庵野脚本というよりは、それを元に緻密な演技プランを構築した池松さんの功績だと思う。すごいよ、このお人は!!

 ……と、まぁ、わたくしが申しあげたいこの作品の良いところは、だいたい以上でございます。

 それでまぁ、その一方で気になったところなんでありますが、ざっと大きく分けて、3つほど。


1、それは……組織なのか? ショッカーの説得力が、なんかイマイチ。

 先ほども言ったように、この作品における悪の秘密組織「ショッカー」の存在感が、ど~にも納得いかないんです。あ、網タイツ女戦闘員が多めなのは、良いと思います。女性進出バンザイ!!
 私の考えが古いのかも知れませんが、やっぱり組織って、そりゃ改造して苦しみから解放してくれたっていう恩義も大事でしょうけど、「同じ目的に向かって時に競争し、時に協力し合う」信頼関係(共犯関係)がないとやっていけないと思うんです。たとえその目的が世界征服だとしても。
 でも、今回の『シン・仮面ライダー』におけるショッカーって、「緑川チーム」だとか「コウモリ研究室」だとか「死神グループ」とかいう派閥っぽい名前だけは出てくるんですが、結局どういうテリトリー分けをして、どういった感じで作業人員(改造人間の素体とか戦闘員)を確保する経済力を得ているのかが、さっぱりわかんない。
 いや、そのあたりの現実的な資金源がはっきりしないのは、歴代の悪の秘密組織のほとんどがそうなので見逃すとしても、「人類全員をハビタット世界に送り込む=死んでもらう」なんていうのを目標にしてる改造人間なんて、「この世の人間、一人残らずわらわにひれ伏しなさ~いオホホ!」みたいなゆかいな人たち(ハチとかさそりとか)と同舟できるわけないじゃないですか。全員ニコニコ顔で死んじゃったら、誰が女王蜂サマにおいしいワインを納入するんですかって話ですよ。
 それは……果たして同じ組織に所属していると言えるのか? っていうか、そんな利益の食い合いしかしないような奴らをポンポン生み出してる状態のものを、組織というんですか!? ライダーとか政府とかが何かしなくても、そんなの自然につぶれちゃうんじゃないの?
 そうなんですよ。この『シン・仮面ライダー』は、半分以上確信犯的に「カリスマ的なリーダーなんていない。」という、実に現代的な悪の組織のスタイルを打ち出してはいるのですが、それはすでに『仮面ライダーストロンガー』におけるデルザー軍団の教訓が指し示すように、「ありそうで一番ない」悪手なのです。かと言って、『仮面ライダー THE NEXT』みたいにヨボヨボ声の大首領さまが出てきてもどっちらけなんですけどね。

 だから、緑川イチローを、「緑川チーム初の改造人間」なんていう規模にとどめないで思い切ってショッカー大首領にしちゃった方が、いっそのことわかりやすくて良かったのかも知れませんが、そこはそれ、そうしちゃうと続編が作れなくなっちゃいますから、保険として「ショッカーいまだ健在なり」の形でおしまいにしたかったんでしょうね。そうは言っても、おそらく庵野監督自身に続編を作る意思はないと思われるのですが。コブラ男……どこまでもふびんなヤツ!
 でもほんと、イチローさんって、本郷と一文字がなんとかしなくても、そのうち死神博士か地獄大使ポジションの人が排除しちゃってたんじゃないかな。思想がアブな過ぎますよね……生産力も労働力も一切がっさい滅ぼしてどうすんだよ! そういうのはNERV かゼーレでやってちょうだい!!


2、なぜクライマックスにいくにつれて、戦闘アクションがつまんなくなるの!?

 これ、不思議なんだよなぁ。映画って、後半にいくにつれて、敵が強くなるにつれて、どんどん盛り上がっていくものだと思うんだけどなぁ……やっぱりこれも、私の考え方が古いのか?
 具体的に言いますと、私としましては、この作品内でアクション的にいちばん面白かったのは、VS 蜂女戦でした。その後は、あんまりピンとこないか、暗くて見えにくい戦いばっかりで、ねぇ。
 あ、途中ですみません! 『シン・ウルトラマン』の感想記事でもそうでしたが、我が『長岡京エイリアン』において、いわゆる「シン」シリーズで庵野さんが改めた「禍威獣」だの「なんとかオーグ」だのという言葉遊びはいっさい採用せず、原典通りの呼称で通させていただきます。理由は、原典をわざわざ改める必要性も面白さも感じないからです。

 その蜂女戦も、高速移動する蜂女の残光をネオン上に表現する感じはとっても良いと思ったのですが、なんで「スズメバチの毒」という、いかにもありそうな要素が劇中に全く反映されなかったのでしょうか……いや、わかりますよ!? そこで蜂女も毒を持ってきちゃったら、あのエピソードのきれいなオチにいきませんからね。
 でも、毒系の武器も無いし、毒への耐性も無い蜂女って、どうなんだろ……確か、シン・仮面ライダーチップスのライダーカードでも「刀に猛毒が塗ってある」って書いてあったから、楽しみにしてたんですが。これだったら、あの和智正喜先生の小説版『仮面ライダー』の蜂女の方がよっぽどハチっぽいですよね。

 ただ、今回の『シン・仮面ライダー』におけるアクション演出は、どの改造人間戦でも、ちょっと凡人には理解しかねる「はずし」が多すぎるような気がします。蜂女戦も、2対1の日本刀アクションの時に、カメラが3人に近すぎて太刀筋が見えにくいのなんのって! もうちょっと離れたところから観たかったですよ。『キル・ビル』みたいにすれば、西野さんも最高に映えたはずなんだけどなぁ。

 だいたい、冒頭のバイクとダンプカーの爆走カーチェイスからして、ダンプカーが停車していたパトカー2台を事もなげに蹴散らすっていう、昔の『西部警察』みたいなアクションドラマだったら何個かのカメラでアップ撮影して繰り返し流しそうな瞬間を、遠景空中撮影でさーっと流しちゃってるじゃないですか。正気を疑いますよ……何百万かかってるんだってとこを、そんな、もったいない! いや、もしかしてあそこ、CG なのかな?
 それで、「2対11の VSにせライダー戦」にいたっては、最悪のまっくらトンネル内での展開ですもんね。なんで!? なんで暗闇で処理すんの!? コミカライズ版でも外で戦ってたよ!? 雨だったけど。

 わかんない……また引き合いに出しますが、ことバトルアクションに関して、この『シン・仮面ライダー』は、『仮面ライダー THE FIRST』と『仮面ライダー THE NEXT』に圧敗していると思います。そりゃもうあーた、『THE FIRST』と『THE NEXT』のアクションは、その道ウン十年のプロの職人さんがたの仕事ですから! 屋敷内の大乱闘で、伸ばしたヒザをボギッと逆方向に踏み折られていたにせライダーさん、めっちゃくちゃ痛そうだった~!! そういうとこ! そういう生々しい痛さが、いくら血しぶきがあがっても血へどを吐いても、今回の『シン・仮面ライダー』にはいっさい感じられなかったのです。そこの違い、大きいですよね。

 最後の VSイチロー戦も、なんか長期戦に持ち込んだらパワー切れで勝てました、みたいななし崩し感、ありましたよね。そんなに強そうじゃないんだよなぁ。波動攻撃を受けてライダー2人が血を吐くっていうのも、ハビタット世界に連れてかれて笑顔で死ぬ人たちっていう伏線とぜんぜんつながってなかったし。
 なんだかんだ言って最後は話し合いで決着がつくっていうのも、そりゃまぁ締め方としてきれいなのかもしれないけど、あの実写版『キューティーハニー』(2004年)からまるで変わってないなぁ、みたいな既視感と脱力感に襲われました。あの映画の VSゴールドクロー戦が、庵野監督の実写版ベストバウトなんじゃないですかね。お金、かかってたねぇ。

 あと最後に、これだけは言っておきたい。

カマキリカメレオン、天狗の隠れ蓑を捨てて戦って、どうする!? あと、隠し武器のカマ、リーチ短すぎ!!

 あいつ、本物のあほやで……これにはさすがに、モニターで見ていたであろう死神博士と開発チームご一同も、そろって開いた口がふさがらなかったことでしょう。改造人間2体ぶんの手術開発費、返せコノヤロー!! クモ先輩も草葉の陰で泣いているぞ!


3、『シン・仮面ライダー』なのか『シン・石ノ森章太郎ランド』なのか、はっきりしてくれ!!

 これ、実は内心、ほっとしている部分もあるのです。あぁ、庵野監督は、『シン・仮面ライダーV3』を作る気はないのだな、と。

 今回の『シン・仮面ライダー』って、これまでの『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』にも増して、原典となった作品以外のフィクション作品から引用されたとおぼしき「雑味」が多いような気がするんですね。ちなみに、『シン・ウルトラマン』は『ウルトラマン』やその周辺の公認二次史料書籍(でたらめ)にヒントを得ている部分が多く、『シン・ゴジラ』は主に1984年版『ゴジラ』を意識している部分が非常に多いものの、「形態変化するゴジラ」という新要素は、「作品ごとに顔つきも大きさも性格もコロッコロ変わるゴジラ」という楽屋落ちネタを逆手に取ったアイデアだと思います。だからこそ、一般の人にもマニアの心にもささる面白さとなったのでしょう。あと、東日本大震災の記憶を巧妙に思い起こさせる国難のイメージも上手に取り入れていたし。

 それに引き換え今回はと言いますと、ラスボスたる緑川イチローの変身イメージは、『仮面ライダー』サーガとは直接の関係の無い『イナズマン』(1973~74年放送)を、ショッカーの改造人間たちの活動を無言で見守る不気味な紳士ロボット「ケイ」は『ロボット刑事』(1973年放送)を、その前身であったと語られる車椅子のロボット「ジェイ」の外見は『人造人間キカイダー』(1972~73年放送)を元にしたものになっているように思われます。それらの作品の共通点は、「石ノ森章太郎原作の特撮ヒーロー番組である」ということです。
 そして、イチローとその妹ルリ子(母は違うそうですが)の兄妹の因縁は、『仮面ライダーV3』の主人公・風見志郎とその妹・雪子のネガとも見える愛情関係ですし、イチローの白いマフラーと、回転するタイフーン機構が2つ並んでいるベルトなんかはまるまる V3のイメージと重なります。確かに、ダブルライダーを向こうに回してあんなに貫禄のある対処ができるんですから、あのイチローさんが単に「アマゾンの毒蝶ギリーラ」とかコミカライズ版の数少ない「ライダーに倒されなかった改造人間」である蝶だか蛾だかよくわかんない改造人間だけを元にしているわけがないでしょう。ドクガンダーのリファイン……にしては、もふもふ成分が足りないですよね。

 要するに、『仮面ライダー』単体が好きなマニアにとっても、『仮面ライダー』もなんにも知らない一般の若い人たちにとっても、「うん? なにこれ?」と戸惑ってしまうイメージが過剰に詰め込まれてしまっているので、「石ノ森章太郎原作による1970年代の特撮番組が好きな人」がストライクゾーンという、そりゃ間口もせまいわなという設定になっているのです。そりゃそうでしょう、私も『ゲゲゲの鬼太郎』に悪魔くんとか河童の三平が出てきたら、一瞬は盛り上がるかもしれませんけど、なんかしらけてしまいます。そんなサービス、重心がブレるだけでなんの特にもならないのです。庵野監督は、『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』(2011年)という映画のラストバトルにおけるどっちらけなゲストパートは見ていないのかな? あれ、あんな尻切れトンボなお茶のにごし方をして、誰がよろこんだの?

 そりゃあなたね、こんなニッチな作品が『シン・ゴジラ』の80億円とか『シン・ウルトラマン』の40億円に匹敵する大ヒットになるのは、そもそも無理な話なんじゃないの? 「仮面ライダー」シリーズ映画作品の興行記録である19億円(『劇場版仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』)を超えたら、御の字なんじゃないかなぁ。
 べつに、そこらへんの諸作を入れなくてもいいはずなのにねぇ……たぶん庵野監督は、そこらへんの石ノ森作品系の「シン化」は、仮面ライダーシリーズの後続作もひっくるめてもうやりませんよ、という意思を明らかにしたかったのではないでしょうか。そりゃ、もういいですよね。「シン屋さん」じゃないんですから。

 ところで、『仮面ライダー』以外の作品からの本作へのイメージの引用ということで、私としてちょっと見逃せないのは、作中のさそり女の、なんとも中途半端な「半分スケキヨ」みたいなのぺ~っとしたゴム製のフルフェイスマスクのデザインなのですが、これもまた、同じく石ノ森章太郎原作の特撮ヒーロー番組『快傑ズバット』(1977年放送)に出てきた悪の組織の大幹部格のゲストキャラがよくやっていた半分マスクがイメージ源となっているようです。
 そうではあるのですが、わたくしといたしましてはそれ以上に、石ノ森作品ではないものの、あの「日本特撮ヒーロー番組史上最高のリメイク」とも讃えられる2011年の映画化も話題となった、『電人ザボーガー』(1974~75年放送)における番組前半の悪の組織「Σ(シグマ)団」を統べるラスボス・悪之宮博士の「顔の半分がサイボーグ」というバカバカし……いやさ、業の深いメイクを想起せずにはいられません。

 この、なんともチープで不格好で、そもそも石ノ森先生が『仮面ライダー』シリーズに導入することを許さなかった半ゴム仮面メイクを、お客さん置いてけぼりでダダ滑りすること承知の上でさそり女におっかぶせた、庵野監督のシンの意図とは……?

 これはもうひとえに、「日本のエンタメ界の未来を担うシン・なんとかかんとかブランド」とか、「エヴァの庵野が次に何を見せてくれる!?」とかいう、常人ならば1秒として耐えられないような、メガトン怪獣スカイドンも真っ青の超絶重圧プレッシャーの中で生き続けている庵野監督の、「なんのプレッシャーもない、なんの期待もされない、ただ人を『くっだらねぇなぁ~オイ!』と笑顔にしてくれる世界へのあこがれと嫉妬」の、なんとも哀しすぎるあらわれなのではないでしょうか。嗚呼、時代の寵児ともてはやされる稀代の天才ゆえの苦悩、ここにあり!!

 そして、思い出していただきたい。『シン・仮面ライダー』であんなに真顔で緑川弘博士を演じていた塚本晋也監督(俳優じゃなくてまず監督!!)は、あのリメイク版『電人ザボーガー』で緑川博士と同じポジションの「正義のヒーローの開発者」となる大門勇博士を演じた竹中直人さんの盟友であり、俳優としては竹中監督作品の常連でもあるのです! どっちが監督なんだか非常にややこしいけど、『119』は最高だ!! 塚本さんに関しては、あの絶対に笑うところではない往年の緑川家の家族写真の中で見せる、明らかにかつらであるとしか思えない不自然にフッサフサな頭髪も、ある意味で竹中さんの異次元コント世界への憧憬であるとも解釈可能でしょう。可能なの!!
 それに加えるダメ押しとして、リメイク版『電人ザボーガー』でくだんの悪之宮博士を演じたのが、何を隠そう『シン・仮面ライダー』で大いに男を上げた一文字隼人役の柄本佑さんの父・明その人であるというところにも、何かしら因縁めいた善悪表裏一体の相関関係を感じ、戦慄せざるを得ません。佑さん、ほんとにいい俳優さんですよね! 『ハケンアニメ!』も非常によかった。

 まぁそういった、庵野監督の心の叫び&ガス抜きが、あの一見なんの意味もないように見えるさそり女のくだりには潜んでいるのですな。ですから、あのさそり女の挿話は、庵野監督にとっては絶対にカットするわけにはいかない、蜂女の能力を大幅に弱体化させてまでもねじ込まなければならない重要なシーンだったのでしょう。単なる『シン・ウルトラマン』のキャスティングにからめたファンサービスじゃないんですね。まぁ実際、劇場内で笑い声があがった数少ない場面のひとつでしたが。
 余談ではありますが、原典『仮面ライダー』において、かつてメイン登場人物(本郷猛)の親友だったという非常にドラマチックな前歴を持っていた改造人間は、他ならぬさそり男だったのです。その関係をまんま盗み取ってしまった「蜂女ひろみとルリ子」のエピソードに、さそり女もみごと一矢報いたわけで、両者には本作で新たな因縁が生まれてしまいましたね。同じ組織どうし、仲良くして~!!
 さらに余談。緑川ルリ子の親友ひろみという人物は原典にもコミカライズ版にも登場する準レギュラー的な人物なのですが(演・島田陽子!)、コミカライズ版ではあの蝙蝠男のせいでかなり残酷な最期を迎えてしまいます。改造されたほうが幸せだったのか、どうだか……

 あんな仕事を堂々と受けてくれた長澤まさみさんは、ほんとに度量の広いお方です。菩薩じゃ……伊達にモスラ呼んでませんよね。

 そんなこんなで、『シン・仮面ライダー』、そうとうクセの強い作品だけど、庵野監督「最後のシン作品」になることを切に願いつつ、いち特撮ファンとして「よくがんばりましたね。お疲れさまでした!」と暖かい拍手で迎えいれたいと思います。

 個人的には、基本的に男のおじさん(私もそうです)ばっかりだった劇場の中で、お父さんと一緒に見に来たらしい小学生くらいの男の子が、息をはずませながら興奮ぎみに、
「最初っからエンジン音全開だったね! ぶぉん、ぶぉおん!!」
 とお父さんに話していた姿を見て、心底うれしくなりました。

 そう。仮面ライダーの物語は、それで、いいのだ。
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しみじみ感動…… 映画『空の大怪獣ラドン 4Kデジタルリマスター版』 ~資料編~

2022年12月18日 14時30分50秒 | 特撮あたり
映画『空の大怪獣ラドン』(1956年12月26日公開 82分 東宝)

 『空の大怪獣ラドン』は、東宝制作の怪獣映画。
 キャッチコピーは「空飛ぶ戦艦か! 火口より生れ地球を蹂躙する紅蓮の怪鳥ラドン!」
 初のカラー東宝怪獣映画である。正月向け興行の特撮作品としては『透明人間』(1954年)以来であった。
 核の象徴としても位置づけられていたゴジラと異なり、ラドンはより生物的な側面が強調されている。物語の前半は炭鉱での連続殺人事件の捜査に費やされ、ラドンが登場するのは後半に入ってからである。前半で描かれる暗い坑内での陰惨な事件と、後半の青空を超音速で飛ぶラドンとその追撃によるスピーディな展開が、カラー作品ならではの色彩設計を活かした対照的な構成となっている。
 ラドンが衝撃波で破壊する西海橋は、本作公開の前年に完成したばかりだった。劇場公開後、西海橋や阿蘇山を訪れる観光客は明瞭に増えたとのことで、以後の怪獣映画のロケ地として完成まもない注目の新ランドマークが宣伝も兼ねて怪獣に破壊される伝統の先駆けとなった。また、怪獣に壊される建物は現実の所有者にお伺いを立てると非承諾となることが多いが、本作では「壊されることで有名になる」と現実の所有者が喜んで承諾した町興し映画の側面もあるという点がDVDのコメンタリーで言及されている。
 原作者である黒沼健により、少年雑誌『中学生の友』1956年10月号の別冊付録として小説『ラドンの誕生』が掲載された。ただし、これが脚本の原型となった原作なのか、原作をノベライズしたものかは明らかになっていない。書籍『ゴジラ来襲』によれば、黒沼は検討用台本を執筆していないという。

 東宝プロデューサーの田中友幸は、本作のきっかけは当時超音速ジェット機が話題になっていたことであり、「ゴジラを超音速で飛ばしたら」という発想であったと述べている。後年、田中は本作を「夢の高揚期に生まれた大好きな作品」と語っている。
 原作者の黒沼健は、田中が黒沼の小説のファンであったことから起用された。田中によれば、本作の検討台本には黒澤明も助言したといい、黒澤の意見は「等身大のメガヌロンと巨大なラドンとの大きさの対比」や「季節感」など、細かい部分でかなり脚本に採り入れられたという。
 設定では阿蘇地方の炭鉱からラドンが生まれるが、活火山である阿蘇周辺に炭鉱は存在しないため、ロケは長崎県北松浦郡鹿町町の日鉄鉱業加勢炭鉱で行われた。物語冒頭で事務所前に集合した鉱夫たちは、同炭鉱の鉱夫がエキストラとして大挙出演したものである。
 西海橋の撮影でも、地元バス会社の協力によりエキストラを多数動員した避難シーンが撮影された。
 撮影を務めた有川貞昌によれば、佐世保上空を飛ぶラドンを見上げる民衆のシーンはゲリラ撮影が行われた。トラックの幌にカメラを隠し、一般人のふりをした助監督や照明スタッフが上空を仰ぎ、周囲の人々も空を見るように誘導していた。
 主演の佐原健二は、本作での演技について監督の本多猪四郎から「普通の芝居では誇張があるが、特撮ものでは逆にリアルな芝居の方がいい。」とアドバイスを受け、以後も特撮作品を演じる際の指標になったと述懐している。記憶喪失の演技では、目の焦点を常にぼかすという芝居を考案し、本多からも褒められたという。白川由美と抱き合うシーンでは、白川が照れて演技できずにいたところ、本多が自ら佐原に抱きついて演技指導を行い、場を和ませていた。
 トロッコの撮影では、引っ張っていたウインチが緩んで脱線し、乗っていた佐原が負傷した。しかし、佐原は2日程度しか休めないまま撮影に復帰し、そのことを知った先輩俳優の鶴田浩二は東宝演技課に怒鳴り込んだという。
 本作では、総製作費2億円のうち60パーセントにあたる1億2千万円が特撮に費やされた。
 当時のカラーフィルムは感度が低く、緑のものは青く映ってしまうため、美術助手の井上泰幸は東宝初のカラー特撮映画『白夫人の妖恋』(1956年7月公開)同様、色彩には気を使ったと述懐している。また助監督の浅井正勝によれば、照明の電力が足りず、他の作品の撮影が終わった午後6時から撮影を行う昼夜逆転の状態であったと述べている。さらに照明が強いため、熱でミニチュアが溶けたり火薬が発火してしまうことなどもあったという。前半での大地崩落シーンは、ミニチュア撮影と作画合成を併用しており、緑の山間が一瞬にして赤土に変わる視覚効果を強調している。
 ラドンに破壊されて崩壊するビル内で人が逃げているシーンは「鏡をミニチュアのビルの中に置き、人物を映す」という古典的な方法で撮影されている。
 西海橋のセットは、580平方メートルのプール上に約16メートルの1/20サイズで作られた。当初は赤く塗装されていたが、本番前になって実物が銀色であることが判明したため、スタッフは徹夜でこれを銀色に塗り直したそうである。また、橋の中央部をピアノ線で吊っており、これを切ることで自重で崩落する仕掛けとなっていたが、本番でピアノ線が映ってしまい、特技監督の円谷英二の指示により編集で処理することとなった。
 博多の街のセットは、防犯上の理由から図面の提供を断られたため、美術助手の井上らが実際に博多を歩き、4日間かけて歩幅や敷石の枚数などを記録して図面を起こした。東宝撮影所の第8ステージに建てられたメインセットは、基本的には1/25スケールであったが、手前側は1/10や1/20スケールとすることでパースを出している。炎上する商店街のセットは、大プールの上に1/10スケールで建てられた。このシーンは、翌年『地球防衛軍』に流用された。
 当時、岩田屋には改装工事の足場が設置されており、美術アルバイトであった飯塚定雄や三上陸男らはここまで作らなくてもよいと考えていたが、井上の指示により足場も再現している。飯塚と三上は、カメラに映らないと考えたウインドウに当時のコンドームの広告を再現して設置したが、円谷が急遽カメラ位置を変更したため慌てて消したという。井上によれば、岩田屋の建て込みには43日かかったが、撮影でラドンに壊されるのはあっという間であったと述懐している。
 ラドンが起こす突風は、飛行機のエンジンを改造した扇風機によって表現された。突風で吹き飛ぶ屋根瓦は、ボール紙を用いてミニチュアの屋根に乗せている。突風で飛ばされるジープのミニチュアは、中でラッカーを塗った筒に塩酸が流れる仕組みとなっており、壊れる際に化学反応によって煙を発生させている。
 西海橋や岩田屋のシーンでは、ラドンの着ぐるみを内部の中島春雄ごとピアノ線で吊り下げるという危険なワイヤーアクションで撮影されており、映画界での使用としては最初期と見られる。また、ピアノ線による操作で画期的と評されたのが、自衛隊機の表現である。『ゴジラ』では黒い幕を背景にして固定された状態のミニチュアから火薬を仕込んだロケット弾を発射させていたが、本作では真昼の青空を背景にしてピアノ線で操作されたミニチュア機からロケット弾が発射されていた。このような「ミニチュアを飛ばしながら発砲させる」という表現は「発砲時の反動でミニチュアが揺れてしまう」というアクシデントを起こしやすいが、それを最小限に抑えるために円谷はミニチュアの機首部、左右の主翼付け根、翼端、尾部など、複数個所にさまざまな角度からピアノ線を張って操作するという、より高度かつ複雑な技術を考案して撮影に臨んだ。
 ラドンと空中戦を繰り広げる F-86Fセイバーの撮影には、ミニチュアだけでなく実物大モデルも用いられている。円谷の要望により特殊美術の入江義夫が実機の資料と写真から図面を起こしたが、キャノピーの透明部分は当時の技術では制作できず、アメリカ空軍から本物のパーツを借用している。入江は実物ゆえに芝居部分に迫力が出たと評しているが、透明部分がブルーバック合成で抜きにくくなるなどの苦労もあった。
 MGR-1地対地ロケット弾「オネスト・ジョン」搭載車両のミニチュアは、当時多忙であった郡司模型に代わり山田模型社が制作したが、木製ゆえにミサイル発射時の火薬で燃えてしまうというトラブルが発生している。特殊美術の入江義夫はこのトラブルをきっかけに、火を用いる撮影には金属製のミニチュアでなければならないと考え、それ以降は郡司模型製の金属モデルを多用するようになった。オネスト・ジョンの登場は、当時日本の米軍基地に配備される予定であったことが問題視されていた世相を反映したもので、当時の自衛隊にはミサイル車両は配備されていなかった。

 ラストシーンの阿蘇山は、200坪・高さ10メートルのオープンセットが建てられ、製鉄会社から溶鉱炉の釜を借りて熔鉄を溶岩に見立てて、リアルな噴火のメカニズムを再現している。井上によれば、熔鉄は予想以上に重く、コースを外れて流れてしまったり、熱で舞台の荷重が燃えてしまうなどのアクシデントも多かったという。この手法は、後に『日本誕生』でも用いられた。
 当初、噴火する阿蘇山上空を2匹のラドンが弧を描いたまま飛ぶシーンで終わる予定だった。だが、溶鉄を溶岩に見立てたために撮影現場は高熱に包まれ、その熱は本番中にラドンを吊っていたピアノ線を焼き切ってしまい、操演不能になった。特技監督の円谷英二は操演スタッフのアドリブだと思ったため、撮影の有川貞昌らに「まだ、まだ、まだ」と叫んで撮影を続けさせた。撮影終了後に操演スタッフから事情を聞いたが、撮り直さないことに決定した。円谷は、「ああいう絵は撮ろうとして撮れるものじゃない」と述べたという。


あらすじ
 炭鉱技師の河村繁は、阿蘇付近の炭鉱に勤務していた。ある日、坑道内で原因不明の出水事故が発生。それに続いて炭鉱夫らが水中に引き込まれ、惨殺死体となって発見される事件が相次ぐ。当初は河村の友人で行方不明の炭鉱夫、五郎が犯人と目されていたが、まるで日本刀で斬られたかのような被害者の傷痕に警察や監察医も首を傾げるばかりだった。やがて出現した真犯人は、巨大な古代トンボの幼虫メガヌロンだった。村に出現したメガヌロンに警官のピストルでは歯が立たず、河村は警察が要請した自衛隊と共にメガヌロンが逃げ込んだ坑道に入る。しかし機関銃の発砲の衝撃で落盤が発生、巻き込まれた河村は坑道内に姿を消してしまう。
 やがて阿蘇では地震が発生、阿蘇山噴火の前兆かと付近一帯は騒然となる。だが、地震によって出来た陥没口で調査団が発見したものは、落盤事故から奇跡的に生還したものの、記憶喪失となっていた河村であった。時を同じくして、航空自衛隊司令部に国籍不明の超音速飛行物体が報告された。確認に向かった自衛隊の戦闘機を叩き落とした飛行物体は、さらに東アジア各地にも出現、各国の航空業界を混乱に陥れていた。一方、阿蘇高原では家畜の失踪が相次ぎ、散策していたカップルが死亡する事件が起きる。若い恋人の心中かと思われていたが、彼らが残したカメラのフィルムには、鳥の翼のような謎の影が映っていた。
 入院していた河村の記憶は戻らないままだったが、恋人キヨの飼っていた文鳥の卵の孵化を見たことをきっかけに、失われていた恐ろしい記憶が甦る。落盤で坑道の奥に閉じ込められた彼が見たものは、地底の大空洞で卵から孵化し、メガヌロンをついばむさらに巨大な生物だった。柏木久一郎博士により、その生物は翼竜プテラノドンに極めて類似したものと判明。博士の調査団は河村の導きで地底の大空洞へ向かい、そこで巨大な卵の殻の破片を発見する。計算機によってはじき出された卵の大きさから、巨大生物はソニックブーム(衝撃波)を起こすほどの飛翔力を持つと推測された。調査団が改めて阿蘇に赴いたその眼前で、古代翼竜の大怪獣ラドンが飛び立つ。


登場する怪獣
ラドン
 身長50メートル、翼長120メートル、体重1万5千トン。飛行速度マッハ1.5。
 出身地は、阿蘇山付近の地底。
 スーツアクターは中島春雄。
 ゴジラ、モスラと共に「東宝三大怪獣」と称される。
 翼竜プテラノドンが突然変異した怪獣。名前もその略称が由来になっている。しかし、プテラノドンと比べるとさまざまな差違があり、その後頭部に生えている1本の角状の突起がラドンの場合は2本に分かれて生えているうえ、クチバシは鳥類のそれに近い形状で、鳥類にもプテラノドンにも無い歯が生えている。腹部には針のようなゴツゴツとしたウロコがある。尾はプテラノドンのように細い皮膜が付いたものではなく、楕円状にゆるく拡がっている。着地しての直立二足歩行が可能で、翼を広げたままで陸上走行を行うことも多い。超音速で飛ぶ巨体は周囲にソニックブームを巻き起こし、市街を破壊する。
 水爆実験の放射能や火山ガスによる異常気象の影響で現代に復活した。劇中でプテラノドンとの関連性を示すような発言があるが、直接は明言されていない。
 阿蘇山付近の炭坑の奥にある洞窟で誕生し、古代トンボの幼虫メガヌロンを捕食していた。阿蘇山から出現し、航空自衛隊のF-86戦闘機と大規模な空中戦を展開して追撃を振り切った後、佐世保や福岡に降り立って暴れ回る。このとき、口から煙のようなものを吐いている。
 巣の描写や餌の存在など、核を象徴したゴジラよりも、生物としての描写が強調されている。また、ラドンの破壊描写はゴジラのような暴力性ではなく、人間の攻撃に対する抵抗の表現ともなっており、ラドンも被害者であるとの面を示唆している。製作の田中友幸は、ラドンは無敵のゴジラよりも恐竜に近く、強力な怪獣であっても人類が倒すことのできない存在ではないと位置づけている。
 ラドンの声にはコントラバスの音と人間の声を素材として加工したものが使われている。
 本作のラドンは、背中に緑と黄色のラインが入っている。
 頭部造形は利光貞三、胴体は八木勘寿、八木康栄による。スーツの翼は、天竺布にラテックスを塗っているため重量があり、人の手では支えられないため、炭火で炙って曲げた竹を入れて支え、さらにピアノ線で吊っている。
 造形物はスーツのほか、上半身のみのギニョールとサイズの異なる飛行モデルが数種類作られた。東宝特撮映画で怪獣の飛び人形が制作されたのは本作が初であり、布ベースのものや針金の芯に紙を貼ってラテックスを塗ったものなどが用いられたとされる。ラストシーンは、ピアノ線が切れて落下する様子がそのまま用いられた。
 ラドンの幼体は、手踊り式のギニョールモデルで表現されている。
 ラドンの飛行により発生する飛行機雲は、作画合成で表現された。
 演じた中島は鳥の動きを研究し、初出現シーンでは毛づくろいのように翼をついばむ動きを取り入れている。一方で、足の形が鳥のような逆「く」の字にはならないため、足元が映らないよう意識していた。また、特撮班カメラマンの富岡素敬は、ピアノ線が多く塗装で消す作業も大変であったため、アップではピアノ線が翼の影に隠れるようなるべく下から上方を映すなどの工夫を行ったという。
 岩田屋の上に出現するシーンや西海橋をくぐるシーンなどでも中島が入ったままスーツを吊っている。西海橋のシーンでは、ワイヤーが空回りして7メートルほどの高さから落下する事故が起きたが、下に水を張っていたため大事には至らなかった。
 自衛隊との戦闘シーンでは、ミニチュアのロケット弾による火や煙が覗き穴から入ってしまい、中島は唇に火傷を負った。後にその対策として、中に風防を入れたり、体に石鹸水を塗るなど試行錯誤を行ったという。

メガヌロン
 体長4.5~8メートル、体重700キログラム~1トン。
 出身地は、阿蘇山付近の地底、炭鉱。
 その容姿は、巨大なヤゴ(トンボの幼虫)である。阿蘇山麓にある炭鉱に出現し、水没した鉱内で炭鉱夫や警察官を腕の鋭いハサミで殺害する。メガヌロンが炭鉱住宅に出現したことで存在が発覚した。拳銃や機関銃では致命傷に至らない程度の防御力を持っており、事件を起こした個体は追跡してきた警察官や炭鉱夫を殺害した後に封鎖されていた炭鉱へ逃亡するが、石炭を満載したトロッコの列を河村によって激突され、1体が倒される。その後、五郎の遺体を収容中にもう1体が出現するが、自衛隊の機関銃による銃撃と突然の落盤に遭い、その後の生死は不明。
 地下空洞のラドンの巣周辺にも別の個体群が繁殖していたが、孵化したラドンの雛にすべて捕食された。
 メガヌロンの登場場面は、炭鉱内でうごめく怪奇性、殺害された死体の描写による猟奇性など、ゴジラなどの巨大怪獣とは異なる等身大の恐怖が強調されており、後半の青空の下でスピーディに描かれるラドンとの対比ともなっている。
 原型製作は利光貞三。着ぐるみは3人で演じる約5メートルサイズのものが造られた。先頭に入っていたスーツアクターは手塚勝巳。そのほかは中島春雄、広瀬正一、大川時生。2体登場するシーンでは、片方が下半身を隠しているため、上半身のみの造形物とみられる。そのほか、大中小計10個のミニチュアが制作された。


おもなキャスティング(年齢は公開当時のもの。故人である場合、没年は省略しています)
河村 繁    …… 佐原 健二(24歳)
キヨ(五郎の妹)…… 白川 由美(20歳)
西村警部    …… 小堀 明男(36歳)
柏木 久一郎  …… 平田 昭彦(29歳)
南教授     …… 村上 冬樹(45歳)
大崎所長    …… 山田 巳之助(63歳)
井関記者    …… 田島 義文(38歳)
五郎(キヨの兄)…… 緒方 燐作(31歳)
若い男     …… 大仲 清二(22歳)
若い女     …… 中田 康子(23歳)
警察署長    …… 千葉 一郎(27歳)
武内幕僚長   …… 津田 光男(46歳)
阿蘇ホテル支配人、メガヌロン、ラドン …… 手塚 勝巳(44歳)
防衛隊幹部、ラドン、メガヌロン …… 中島 春雄(27歳)

おもなスタッフ(年齢は公開当時のもの。没年は省略しています)
製作 …… 田中 友幸(46歳)
原作 …… 黒沼 健(54歳)
脚本 …… 村田 武雄(48歳)、木村 武(45歳)
音楽 …… 伊福部 昭(42歳)
特技監督 …… 円谷 英二(55歳)
監督   …… 本多 猪四郎(45歳)
製作総指揮 …… 森 岩雄(57歳)
造形チーフ …… 利光 貞三(47歳)
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祝・ガメラ復活しそう企画 便利屋怪獣ギャオス 嗚呼、傷だらけの人生!!

2022年12月01日 23時36分22秒 | 特撮あたり
ギャオスとは
 ギャオスは、大映の怪獣映画『ガメラ』シリーズに登場する怪獣。コウモリのような羽根を持つ飛行生物である。
 直立歩行が可能で、前足が翼となっている。翼はコウモリのように数本の指骨に支えられ、その間を皮膜がつないだ構造に見えるが、コウモリにおける親指1本が遊離している位置には自由に動かせる指が3本ほど存在する。頭部は上方からの視点だと歪んだ六角形に見え、鼻先や後頭部両側後方が尖っているため、形状は「初心者マーク」と同じである。尾はあまり長くないが、先端が魚類の尾鰭に近い扇状になって縦向きに付いている。
 ガメラシリーズでは、ガメラ以外で唯一、昭和と平成の時代をまたがって映画作品に登場している怪獣であり、その他のマンガやゲームなどの媒体作品でも、ガメラの敵役怪獣の中で出演回数が最多におよぶ。

超音波怪獣ギャオス
 身長65m、翼長172m、体重25t。飛行速度マッハ3.5。出身地は日本列島の中部大断層地帯(フォッサマグナ)の地下空洞。
 ガメラシリーズ第3作『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(1967年)に登場する。
 尾は短く、ジェット戦闘機の垂直尾翼に似ている。口からは何でも切断する300万サイクルの衝撃波「超音波メス」を発射するが、これは音叉の役割をする二股の頸椎から発振するため、太く短い首は正面でほぼ完全に固定された構造となっており、普通の動物のように振り向くことができない。あらゆる動物を食する肉食性であり、特に人間の血肉を好む。
 頭部からは光のシグナルを発するうえ、空腹時は頭部の後ろが緑に、体調が危機に陥ると頭頂部が赤に発光する。夜行性で、太陽光線の紫外線を浴びると体細胞が破壊される弱点を持つが、再生能力は非常に高く、切断・欠損した部位も短時間で再生できる。光の他に炎も苦手とされるが、胸から放出する黄色い消火液で鎮火できる。血液はくすんだ色合いのピンク。
 名称は、英一少年の「ギャオーと鳴くからギャオスだ」という発言から命名された。
 主に空を活動域にしており、地上では活動が緩慢である。一方、ガメラは水中や地上では自由に動けるものの、空ではギャオスの機動力におよばないという風に、両者の活動の差がその戦いに影響を与える。英一少年を襲おうとした際にガメラと対決し、物語の後半では名古屋に飛来して名古屋城や新幹線などを襲う。
 フォッサマグナ付近の地下空洞で眠っていたらしく、富士山の突然の爆発によって復活すると、そこへ飛来したヘリコプターを地下空洞から発射した超音波メスで切断し、その搭乗員を捕食する。やがて夜間に空洞から外へ飛来し、人間や家畜を襲う。ガメラとの初戦では強力な超音波メスを放って近寄らせなかった。
 造形物は翼を広げたタイプと翼を折りたたんだタイプの着ぐるみ2体に加え、操演モデルと実物大の足の指が作成された。そのうち、翼を広げたタイプの着ぐるみは後に宇宙ギャオスに流用された。

宇宙ギャオス
 『ガメラ対大悪獣ギロン』(1969年)に登場。身体が銀色の光沢を持つこと、血液が濃い紫色をしていることを除けば、過去のギャオスと変わらない。この種は複数登場した。
 反地球の第10惑星テラは原子力を利用して文明を発達させていたものの、原子炉の爆発の影響によって宇宙ギャオスが生まれ、次々にテラの住人を襲って捕食するようになった。
 ギロンとの戦闘では得意の超音波メスを放つものの、ギロンの包丁のような頭部で反射され、右足を切断されてしまう。今度は空中から背後に迫るが、ギロンの背面斬りで左翼を切断されて墜落したうえに右翼も切断され、身動きが取れなくなったところで首を切断され、ついに死亡する。肉は酷く臭いらしく、ギロンは殺した個体を切り刻んで食べようとしたが、あまりの臭さに食べるのをあきらめている。
 過去のギャオスと違い昼間に活動し、血の色が紫色。ガメラとは戦っていない。
 着ぐるみは『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(1967年)の翼を広げたタイプを流用。着ぐるみのほか、ギニョールや操演モデルも使用されている。

『宇宙怪獣ガメラ』(1980年)のギャオス
 宇宙海賊船ザノン号にコントロールされ、名古屋を襲撃する。登場シーンはすべて『ガメラ対ギャオス』(1967年)の映像の流用である。

平成ガメラ3部作のギャオス
超遺伝子獣ギャオス
 身長85m、翼長185m、体重75t。飛行速度マッハ4.2以上。
 『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年)に登場。劇中では当初「鳥」と呼ばれていたが、後にガメラの背中にあった古代の石板に記された碑文を解読した結果、「ギャオス」と呼称されるようになった。
 平成ガメラ3部作では、はるか太古に滅亡した超古代文明による遺伝子工学の産物であり、目的は不明であるがのちの『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』で「増えすぎた人口を減らすため」という説が提唱されていることからも、一貫して「餌は人間、敵はガメラ」という設定である。人間だけでなくブタやイヌなども食することが示唆されているほか、共食いすら行う。昭和版のギャオスは首を動かせなかったが、今作でのギャオスは問題なく動かせるうえ、超音波メスも首を動かしながら発射できる。体細胞のうち染色体は大きいものが1対のみで、無駄な塩基配列がない完全な構造となっている。また、卵生で孵化直後は全員雌であるが、さまざまな生物の遺伝子情報が入っているため、性転換できる。これにより単独で産卵、繁殖することが可能である。孵化直後から体長は数メートルとすでに人間よりも大きいうえに成長速度が非常に速く、翼長については約15メートルから数日後には46メートルの亜成体となり、さらに185メートルの成体に成長する。体格も昭和版よりも格段に巨大化しているうえ、成長に伴って凶暴性も増していく傾向があり、食糧不足になると同種間での共食いも始め、弱った仲間や死んだ仲間に平然と食らいつく。
 昭和版に比べると体色は赤く、頭はやや平たく幅広くなり、眼は目立たないものの蛇や猫のような瞳孔で、より動物的なプロポーションとなり、地上での活動も自由自在でガメラとも格闘戦で互角に渡り合っている。昭和版では動かなかった首も、何ら問題なく動かせる。地上を走り、翼を振り回して殴りかかり、低く飛び上がって足の爪で攻撃することもでき、設定ではこの爪から神経毒を分泌する。また、昭和版と同様に光が苦手で活動は主に夜間が中心となるが、夕暮れ時に飛び回るシーンがあることから、昭和版よりは幾分耐性があるらしく、細胞の破壊が起こる様子はないようである。強力かつ迅速な自己進化能力を持っており、成体になると眼の辺りに無数の水晶体で作られた遮光膜が発生し、苦手だった太陽光にも耐性ができ、光の反射によって目が赤く光って見えるようになる。終盤におけるガメラとの戦いでは、昼間にもかかわらず普通に活動できている。しかし防御力はあまり高くなく、成体になってもガメラの火球攻撃に耐えることはできない。敵からの攻撃に対しては、空中を飛翔して回避することが主である。飛行速度は昭和版と同じくガメラを上回り、可変翼戦闘機のように「空中で羽根を折り畳み、空気抵抗を減らす」ことによって、その速度をさらに増すことも可能である。捕食する際には相手を手掴みして口へ放り込む昭和版と違い、直接口で食らいついて貪る。体液は宇宙ギャオスのような紫色であり、これは後に登場するギャオス・ハイパーも同様である。超音波メスは、音波を収束させて放つビームのような描写がなされており、その影響か劇中ではケージを切断する際に収束した音波がケージを振動させていた他、近くにあった吊り橋のワイヤーロープの留め具が外れたり、腕時計の文字盤のガラスが割れたりする描写があった。
 当初は長崎県五島列島に出現し、嵐の夜に姫神島の小さな集落を壊滅させた。この時点での体長は数メートルで、3体が確認されている(姫神島の洞窟でも、仲間に食害された死骸が2体発見されている)。
 スーツアクターは、ギャオスの体格の細さから、女性の亀山ゆうみが起用された。
 造形物は着ぐるみがアクション用とアップ用の2体作られ、前者は『3』のギャオス・ハイパー爆破シーンに流用された(頭部のみ現存)。そのほか、ギニョールや操演モデルなどが製作された。
 なお、ギャオスのデザインには西洋のドラゴンや中国の龍のイメージが投影されている。

ギャオス・ハイパー
 体長88m、翼長190m、体重78t。
 『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』(1999年)に登場。
 前作『ガメラ2 レギオン襲来』(1996年)のレギオン戦でガメラが大量の「マナ」を消費した影響により、世界中にある耐久卵が一斉に孵化したことが示唆されている。『大怪獣空中決戦』のギャオスに比べて体格はよりシャープかつ動物的なものとなり、体色も黒っぽくなっている。両翼の上部には新たに肘が形成されており、被膜を支える指のうち2本が肘の先から生えているほか、翼の皮膜のない3本の指の1本が親指のように生えている。また、飛行能力のみならず繁殖力も大幅に増大しているほか、爪に猛毒を持つ。
 物語の冒頭で、東南アジアにて幼体の死骸が確認できるほか、メキシコにおいても成体の目撃が報告される。日本には渋谷近辺に『大怪獣空中決戦』のギャオスと同じサイズにまで成長した個体が2頭出現するが、1頭は画面登場の時点でガメラのプラズマ火球によって墜落したうえ、全身に大火傷を負って眼球が飛び出すなどの深刻なダメージを受けた状態であり、墜落した後に着陸してきたガメラにとどめを刺された。もう1頭はガメラと渋谷にて交戦し、プラズマ火球の連射を回避しながら超音波メスを放つなどの高い戦闘力で渋谷が壊滅するほどの激戦を展開する。なお、世界中に大量発生したその他のギャオスもガメラによって倒されていたことが、劇中の台詞で示唆されている。
 ラストではギャオス・ハイパーの大群が日本に向かって飛来するシーンが描かれる。
 造形物は着ぐるみではなく、すべてギニョールや操演モデル。幼体の死骸は実物大の造形物である。

『小さき勇者たち ガメラ』(2006年)のギャオス
 体高30m、翼長90m、体重500t。
 1973年にガメラと戦った怪獣。成体4頭の群れで出現し、集団で襲いかかってガメラを苦しめたが、ガメラの最後の手段である自爆に巻き込まれて全滅した。その後、ギャオスの再発生は確認されておらず、具体的な出自などについてもまったく触れられていない。
 設定上では歴代個体と同様、強靱な生命力を持っている。本作で後に登場する怪獣ジーダスは、ギャオスの死骸を食べた爬虫類が変異したものと設定されており、人肉を好む性質など共通点も多い。
 造形物は『ガメラ3』と同様にぬいぐるみはなく、すべてギニョールや操演モデルである。また全身モデルはなく CGで表現されている。体色と翼の構造はギャオス・ハイパーとほぼ同じだが、被膜のない指が2本になっている。

『GAMERA』(2015年)のギャオス
 ガメラ生誕50周年記念でKADOKAWA制作、石井克人監督の CG映像作品『GAMERA』(2015年10月公開)に登場。本作でも平成3部作のように群れで東京を襲撃し、逃げ惑う人々を追い回しては捕食する姿や、共食いする姿が描かれている。超音波メスを発射している個体も背景に複数いた。
 3DCG で表現されてより細身になり、背中に1列の背鰭が骨状に隆起して並ぶほか、歴代ギャオスとの最大の違いはそのドラゴンを思わせる姿(尾が細長く頭部や舌も鳥類よりはヘビなどの爬虫類に近いうえ、口先などが幾分丸みを帯びている)にある。ガメラに倒される際には、ギャオス・ハイパーのように眼球が飛び出る描写がある。

ギャオスの亜種
イリス
『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』に登場。作中ではギャオスの変異体と見なされているがその経緯は一切不明で、その容姿はギャオスとは程遠い。


≪その、うす汚れ切った生きざま……愛さずにはいられない!! 本文マダナノヨ≫
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