長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

おもしろ要素ばっかりなのに、なぜ退屈!? ~映画『間諜最後の日』~

2024年03月20日 20時18分37秒 | ふつうじゃない映画
 どもどもこんばんは、そうだいでございます。
 え~、今回は例によって、別に誰が待っているわけでもないのに個人的になんとな~く続けている「ヒッチコックのサスペンス映画をなるべくぜ~んぶ観てみよう企画」の続きでございます。巨匠ですから作品数も多いような先入観があるのですが、よくよく調べてみると黒澤明監督みたいな感じで、それほど多いってわけでもないんですよね。だいいち、おおむね面白い作品ばっかりなので苦痛じゃないし。
 昨今のガチャガチャした最新映画もけっこうですが、たまには温故知新、昔の傑作もひもといてみないと、もったいないやねぇ。

 そんでもって今回なのですが、これは世間的な評判はどうなのかわからないのですが、個人的には「珍しくヒッチコック監督の采配がうまくいっていない作品」であると見ました。いや、それでも合格点以上のおもしろさではあると思うんですけれど!

 たまには、失敗から教訓を学んでみるというのもよろしいのではないでしょうか。
 かの松村邦洋氏も言っております。「失敗に成長あり、成功に成長なし」! けだし金言ですね~。


映画『間諜最後の日』(1936年5月 87分 イギリス)
 『間諜最後の日(かんちょうさいごのひ 原題:Secret Agent )』は、イギリスのスパイ・スリラー映画。イギリスの小説家サマセット=モーム(1874~1965年)原作の連作短編小説『アシェンデン』(1928年発表)内のエピソード『 The Traitor(裏切者)』と『 The Hairless Mexican(禿げのメキシコ人』の映画化作品である。
 ヒッチコック監督は、本編開始約8分30秒にジョン=ギールグッドと共にスイスに降り立つ乗客の役として出演している。

あらすじ
 第一次世界大戦中の1916年5月10日。イギリス帝国軍大尉で小説家のエドガー=ブロディは休暇で帰国したところ、新聞に自分の死亡記事を発見する。ブロディは「R」と名乗る軍高官のもとに連行され、Rはブロディに、中東で動乱を引き起こすためにアラビアに向かうドイツ帝国のエージェントを見つけ出し事前に排除するという極秘任務を命じた。同意したブロディには「リチャード=アシェンデン」という新たな名が与えられ、「禿げのメキシコ人」や「将軍」などと呼ばれるプロの殺し屋の協力を得ることとなる。

おもなスタッフ
監督 …… アルフレッド=ヒッチコック(36歳)
脚本 …… チャールズ=ベネット(36歳)他
製作・配給 …… ゴーモン・ブリティッシュ映画社

おもなキャスティング
エドガー=ブロディ / リチャード=アシェンデン …… ジョン=ギールグッド(32歳)
エルサ=キャリントン …… マデリーン=キャロル(30歳)
モンテスマ将軍    …… ピーター=ローレ(31歳)
ロバート=マーヴィン …… ロバート=ヤング(29歳)
ケイパー   …… パーシー=マーモント(52歳)
ケイパー夫人 …… フローレンス=カーン(58歳)
R      …… チャールズ=カーソン(50歳)
リリー    …… リリー=パルマー(22歳)


 こういう感じの基本情報なのですが、まずまぁ今回は作品を観て、具体的に「どこがどう良くないのか」を感じていただくのがよいかと思います。ですので、このブログ内で詳細に物語の経緯を説明するのも話が長くなるだけですし、最初にこの作品を鑑賞してみてのわたくしの感じたポイントをざっと羅列するところから始めさせていただきます。
 もし、まだこの作品を観たことのない方でご興味がある方がいらっしゃったら、ぜひともこれを良い契機にご覧になってみてください! いかんせん90年近く昔(!)の映画なわけですが、少なくともピーター=ローレの演技には21世紀にも通用する不思議な魅力がありますよ。


≪いつものよぉ~に 視聴メモ≫
・冒頭でしめやかに行われた軍人の葬式の直後、参列者が式場から去って行った瞬間に、蝋燭の火でタバコをふかしながら空っぽの棺桶を片付けようとする片腕の上司らしき軍人高官の一見不可解な挙動が、これから始まる物語の波乱万丈っぷりを予見しているようで興味深い。にしても、参列者の誰かが「すんません、忘れもの……」なんて言って戻ってきてもおかしくないうちから、火の点いた蝋燭をぶっ倒してもおかまいなくドンガドンガと撤収にかかる段取りがいかにもマンガチックで、ヒッチコックらしい「論理よりも印象」な演出の一端が垣間見える。むちゃくちゃやな、君!
・第二次世界大戦のロンドン空襲はつとに有名だけど、第一次世界大戦でもロンドンは空襲されてたんだ……と今さらながら勉強になった冒頭の空襲シーンなのだが、マット画による遠景描写と爆発音に薄暗い照明という地味な演出ながらも、本作が制作されたのは「第一次世界大戦のおよそ20年後」で「第二次世界大戦のわずか3年前」である。つまりはリアルにきな臭い時期に作られたわけで、娯楽作品ながらも何かしらの危険な空気をかぎ取っていたのではないかと邪推してしまう切迫感があるような気がする。ま、経験していないにしても第二次世界大戦の歴史をちょっとでも知ってる未来人が見たら、そう思っちゃいますわな。
・勝手に死んだことにされてプンスカ憤る主人公に、大英帝国の存亡にかかわる重要な極秘プロジェクトの命がくだされる!という荒唐無稽な展開が非常にテンポよく進む。う~ん、007の大先輩!
・一国の首都に敵軍の空襲が及んでいるというかなりヤバい戦況なのだが、Rのおっちゃんが泰然自若として「部屋の水槽の金魚がおびえて困るよ。ははは。」みたいに受け流しているのが実にイギリスっぽい。日本じゃ真似できんわ……
・アシェンデンに協力する怪しい二重スパイのモンテスマ将軍役のピーター=ローレは『暗殺者の家』(1934年)に続いて二度目のヒッチコック作品への出演なのだが、さすが国際的怪優と言うべきか、前作とは全く違う意味で危険な男を嬉々として演じている。前作の落ち着きまくったラスボス役も良かったが、当時若干30歳前後ということで、今作のねずみ男みたいな小悪党キャラの方が実年齢に近そうなハイテンションで元気いっぱいな演技で楽しい。そして、どっちの作品でも染谷将太によく似てる……
・アシェンデンと初めて会った時に、アシェンデンそっちのけで Rのいる官邸のメイドを追っかけまわしていた好色な将軍を見て交わしたアシェンデンと Rとのそっけない会話が実にいい。「彼は女専門の殺し屋なんですか?」-「女以外も殺すよ。」
・今作のヒロインである女スパイのエルサを演じるのも、今作が前作『三十九階段』に続いて二度目の出演となるマデリーン=キャロルで、のちにヒッチコック監督作品のトレードマークとなる「金髪美女ヒロイン」の伝統が本格的に始まる最初の女優さんということになる。彼女もまた、前作で演じた「巻き込まれ型一般女性ヒロイン」とはまるで違う、クセも裏もありまくりで元祖ふ~じこちゃ~んみたいなスパイを好演している。前作もそうとうに気丈な女性ではあったが、今作もまた別のしたたかな魅力がある。
・出会った瞬間にエルサにモーションをかける将軍だが、アシェンデンの妻という名目になっていると知って途端にブチギレて暴れ出す。この情緒不安定さが『暗殺者の家』では観られなかったローレのコメディセンスを示してくれてうれしい。ただ、それだけに将軍の「プロの殺し屋」という裏の顔の闇が深まるんですけどね……
・スイス入りした翌日にランゲンタール村の教会におもむき、イギリスに寝返ったドイツのエージェントとの接触を試みるアシェンデンと将軍。しかし教会に足を踏み入れるとエージェントはすでに……という展開はテンポがよく、死体が教会のパイプオルガンの鍵盤に突っ伏しているために音が鳴り響き続けているという音響効果もけっこうなのだが、教会の外にいても聞こえるような音量になっているので村人が異常に気付かないわけがないし、近づく前から死んでいることが丸わかりなので結果が読めてしまうのが惜しい。アシェンデンと将軍がたっぷり時間をかけて慎重にエージェントに近づく挙動とも矛盾しちゃってるしなぁ。ここは絶対に無音の方が良かったと思う。演出の明確な失敗が見られる、ヒッチコック監督にしては珍しい例ではなかろうか。
・教会に入ってくる人影を見て、慌ててアシェンデンと将軍が上階の鐘楼に登るという判断も、とてもじゃないがプロのスパイのするものではないと思う。どうやったって逃げられない状況に自分達から突っ走っちゃうんだから、それをピンチと言われても、どうにも感情移入しづらい……
・教会で袋のネズミになっているアシェンデンと将軍の苦境も知らず、その頃エルサはホテルでプレイボーイのマーヴィンに言い寄られていた……という展開は皮肉が効いているのだが、アシェンデンとエルサをすぐ別行動にしてしまったことで、「かりそめ夫婦」というおいしいにも程のある設定を早々に放り投げてしまっている感がある。もったいな!
・教会で危機一髪か……と思ったら、特になんの説明もなく夜には無事ホテルに帰ってくるアシェンデンと将軍。大丈夫だったんかーい! ま、相手はただの村人だしね。
・教会で殺されたエージェントが持っていた、ドイツのスパイの遺留品と思われるスーツのカフスボタンの主が、見つけたその日の夜に分かってしまうのも、なんだか展開が急すぎてピンとこない。早すぎて伏線にならないでしょ……あと、「温厚そうな紳士が、実は」っていう流れも前作『三十九夜』のまんまなので、新鮮味のかけらもないという。
・ドイツのスパイの疑惑が濃厚なイギリス人紳士ケイパーを引っかけるために一計を案じ、ケンカの芝居を演じるアシェンデンと将軍。この、正真正銘正統派名優のギールグッドと無国籍怪優ローレとのかけ合いが非常に面白い。ほぼ同年代なのにキャラがこんなに違うのかっていう、マンガみたいな凸凹感が素晴らしいですね。
・エルサを過剰に突き放すのは、殺人という非道に彼女を導きたくないというアシェンデンの紳士らしい思いやりからきている判断であることはよくわかるのだが、それだと無理やり夫婦としてくっつけさせられているという設定が活きてこないような気がするんだよなぁ。う~む。
・プロの殺し屋であるのにも関わらず、プライベートでは子どもを犬の鳴きマネでおびえさせるような稚気もある将軍が実に個性的で、今日びの映画なら「おサイコで魅力的な犯罪者」としてもっとクローズアップされそうなキャラクターなのだが、いかんせん1930年代の映画なので単なる変わり者くらいで描写が終わっているのが実に惜しい。一瞬の出演だが、演技じゃなく本気でローレにおびえている子役の女の子がかわいい。
・ケイパーを殺すために登山の罠にはめているアシェンデン達と、ホテルでのんきにドイツ語の練習をしているエルサ達とを交互に描写して緊張と緩和を演出するというヒッチコックのテクニックはわかるのだが、双方のパートが有機的にからんでおらず無関係なので、これが逆に観客の集中を散漫にしてしまう。エルサも何かスパイとしての活動をしていれば良いのだが、ケイパー夫人の話し相手をしてるだけだし。
・ドイツ語の練習をしながらエルサにアタックするマーヴィンと、ドイツ語の練習をしながらマーヴィンをフるエルサの応酬が実に洒落ていて面白い。そこに主人公がいないのが残念。アシェンデン硬いからなぁ!
・殺人のタイミングが近づくにつれて息が荒くなり逡巡しだすアシェンデンと、殺すことに何の躊躇もなく殺す当人に冗談を言う余裕さえある将軍とで、暗に「踏んできた場数」の差を如実に示す演出が、さすがヒッチコックといったところ。ちょっと遠回しすぎるのだが、一方のホテルで急に騒ぎ始めるケイパーの飼い犬の様子を見て顔面蒼白になるエルサという描写にも苦心のほどが見られる。エルサ、ビクビクしすぎ!
・ケイパー殺害の瞬間を直接描かないという演出はよくあるとしても、そこに「アシェンデンが遠くから望遠鏡で見届ける」という新鮮な構図を取り入れるのが、いかにもヒッチコックらしい「のぞき趣味」満点な倒錯したチョイスである。こう観てみると、やっぱりヒッチコックは日本の江戸川乱歩とセンスがかなり通じるものがある。「実は勢い勝負がほとんどで論理だてたミステリーが苦手」っていうところもね……
・お国のためといえども、本当にケイパーを手にかけてしまったことに精神的にかなりダメージを受けて意気消沈するエルサとアシェンデンなのだが、よくよく考えてみると、実際の殺人という最もダーティな部分を将軍に丸投げしておいて、なに聖人君子を気取ってるんだというツッコミも入れたくなる。いや、確かに人殺しはよくないことだけど、あんたがたもけしかけてたでしょ!? 悲しいけど、これ、戦争なのよね!
・本作の主役アシェンデンは、いかにも主人公らしく品行方正で時として冷徹な判断も下す頼もしいヒーロー然とした英国紳士なのだが、異常性格すぎる将軍と、いきがっていながらも心根は非常に繊細なエルサに囲まれて、キャラクターがかなり中途半端で淡白な存在感になってしまっている。ここが、本作最大のウィークポイントなのではないだろうか。後輩の007ほどのスーパーマンでもないし。
・さすがに、アシェンデン達の狙い通りにケイパーがドイツのスパイでした、チャンチャン……となるわけがなく、他に本当のスパイがいるということで物語は続くのだが、ここまでで映画が半分以上の45分を費やしてしまっているのが、いかにも悠長すぎるような気がする。なんか、いろいろと見どころはあるのだけれど全体的にテンポが遅いような気がするんだよなぁ。
・ケイパーをスパイだと勘違いするきっかけとなったスーツのカフスボタンの幻影がエルサの脳裏に無数に現れるあたりで、ヒッチコックお好みの表現主義的オーバーラップが使われるのだが、そこにスイスの民族楽器らしい、陶器の器に鈴かなんかを入れて転がし「しゃらしゃら……」と音を立てるやつのイメージが重なるのがおもしろい。あれ、なんて名前!?
・夜のボート上での会話で、アシェンデンが直接ケイパーを殺したと思い込んでいるエルサが一方的にアシェンデンに別れを告げたのに、アシェンデンが手をかけたわけではないと聞いたとたんに「じゃあいいや♡」と前言撤回してキスするという展開が、なんかエルサの軽さしか感じられず引っかかってしまう。将軍がこのやり取りを聞いてたら、2人もぶっ殺されちゃうぞ……
・よりが戻りすぎて、かりそめでなく本気の相思相愛夫婦になってしまったアシェンデンとエルサは、スパイ任務を辞退するという旨の R宛ての手紙を書くのだが、そんな、第一次世界大戦中の国際的謀略戦の最前線にいるスパイって、バイト感覚で辞められるもんなのか? まっとうな常識人のようでいて、任務を失敗しておきながらそんな言い分が通じると思っているアシェンデンの感覚もそうとうヤバい。
・くどき相手のエルサの電話口にアシェンデンがいるのにも気づかず、連綿と恥ずかしすぎる恋のアッピールを続けるマーヴィン。なんだよ、この緊張感の無いくだり!? 意味もなく殺されたケイパーのみたまが浮かばれぬ……
・スパイを辞めると言うアシェンデンを口説き落として再び任務に引き込んだ時に、絶望的な表情になるエルサを見つめる将軍の目に、完全に恋人を取り返した勝利のまなざしが浮かんでいるのが、単なる色モノキャラにとどまらないローレの面目躍如たる無言の名演である。そうそう、ここ、完全な三角関係なのよね。そこらへんのジェンダーフリーな浮遊感もまた、将軍の得体の知れなさを象徴している。
・ドイツ側のスパイの情報交換所となっている場所が実はチョコレート工場だったという展開につながる伏線が、実はすでに前半でさりげなくほのめかされているという丁寧さがいい感じである。あぁ、だからか!みたいな。でも、将軍がタバコをぷかぷか吸いながらチョコレートの製造ラインを見学をしていても誰もなんにも言わないのは、衛生的にどうなんだろう!?
・特にたいした変装もせず見学者として工場に入ったアシェンデンと将軍を見て、当然ながらドイツ側のエージェントたちは結託しているスイス警察に通報し、2人を一網打尽にしようとする。でも、この第2のピンチの時も、エルサはアシェンデンのそばにいないのよね! もったいなさすぎ!!
・将軍にチョコレート工場とドイツ側スパイとの関係をリークした娘リリーの彼氏カール君は、チョコレート工場に勤務していながらも反ドイツ側の人間なのだが、助けようと思ってアシェンデン達に駆け寄ったのに問答無用で将軍に殴られてしまう扱いが実に哀しい。ま、イケメンだからしょうがねっか。
・カール君からの情報で、ドイツの本当のスパイが誰なのか正体がついに明らかになるのだが、登場しているキャラたちの顔ぶれを見れば、たぶんこいつなんだろうなと容易に察しがついてしまうのが非常に残念である。意外性もへったくれもないんですよね……
・「危うし、ヒロインが悪役の手中に!」というクライマックスの展開は洋の東西を問わず定番のものなのだが、悪役が積極的にヒロインをさらうのではなく、主人公に別れを告げたヒロインから悪役にゴリ押しでせがんで転がり込むという流れがかなり新鮮で面白い。しかもマーヴィン、若干ひいてるし! さらには、エルサがマーヴィンについて行ったと聞いてエルサが真相に気づいたと勘違いしてぬか喜びするアシェンデン達も実に滑稽である。こういう各人各様のすれ違いを描かせたら、イギリス人は天下一品ですよね! 『ロミオとジュリエット』とか。
・Rさん、サウナ室でふかす葉巻はおいしいですか? しけってそう(小並感)。
・映画の残り10分での、ドイツ帝国の同盟国オスマン=トルコ帝国の首都コンスタンティノープルに逃れんとするマーヴィンとアシェンデン達との追跡戦は、さすが筋金入りの鉄ヲタともいえるヒッチコックの独擅場である。ところどころ、スキさえあれば列車のミニチュア特撮を多用するのもうれしい。おまけには、鉄道とイギリス空軍戦闘機との機銃戦まで! 大盤振る舞いですね~。
・最後にアシェンデンとエルサの笑顔で終わるハッピーエンドはけっこうなのだが、やはり「直接殺したんじゃないから許す」というエルサの判断基準は、な~んか都合がよすぎるような気がしないでもない。いや、そりゃ殺人は大罪なんだけど、同じ穴のむじななんじゃないの……?


 ……ざっと、本作を観た雑感については以上でございます。

 この映画、当然ながらめきめきと実力をつけている成長期のヒッチコック作品なものですから、当然『下宿人』(1927年)『ゆすり』(1929年)のような初期作品に比べれば別次元の見やすさと面白さが保障されています。
 そうではあるのですが、上に挙げたように前作『三十九夜』(1935年)や前々作『暗殺者の家』(1934年)に比べると「う~ん?」と首をかしげてしまうテンポのまだるっこしさと、「実行犯じゃなきゃいいのか?」という釈然としない消化不良感が残ってしまう問題があるような気がするのです。
 いや、主人公たちがチョコレート工場に潜入するあたりから終幕までの30分間くらいは全然いいのですが、そこにいくまでの流れがかったるく感じてしまうのよねぇ。

 具体的にどこがどうということはすでに言ったので繰り返しませんが、やっぱりこの原因は、主人公のアシェンデンが非常にお堅いまっとうな紳士であることによる不自由さと、そうであるがゆえにお転婆なヒロインのエルサを遠ざけてしまう相性の悪さが大きいのではないでしょうか。
 前作『三十九夜』の主人公が、やや性格が破綻しているような自己中心的な冒険者だったことによる反動でそうなったのでしょうが、なんせ今作だって十分すぎる程のアドベンチャー映画なので、主人公はそのくらいおかしな奴であるべきだったのではないかなぁ。アシェンデンはいかにも、おとなしすぎですよね。
 残念ながら今回はサマセット=モームの原作小説を読んでいないので、そこらへん映画化にあたってどういったアレンジがあったのかはわからないのですが、せっかくの国際的スパイなのに妙に地味なんですよね、映画のアシェンデンって。いや、たぶん本物のスパイは絶対に地味で目立たない方がいいに決まってるんでしょうけど!

 また、本作は後年になって振り返ってみると、第一次世界大戦よりも実は第二次世界大戦の方がめちゃくちゃ近かったというゾッとするような恐ろしさがある時期に制作された娯楽映画なのですが、「何千何万という未来の犠牲を避けるためならば殺人は許されるのか?」という、解決しようのない深すぎる問題を扱っている作品でもあります。お国のための犯罪ならおとがめなし、というのが本作で Rがアシェンデン達に保障したスパイの特権であったのですが、それでもまっとうな価値観を捨てることのできないエルサやアシェンデンは、ドイツのスパイとの対決をもって「間諜最後の日」として、悠々と退場してしまうわけです。
 これはもう、真剣に対峙したら映画中盤でのエルサのように頭がおかしくなってしまうことは必定な大問題なので、そこは娯楽映画らしく、「直接殺してないんならOK!」と割り切ってしまうエルサの選択も、ひとつの回答としてやむをえないことのような気もします。

 でも、そうなると全く浮かばれないのがプロの殺し屋である将軍の立場で、汚れ仕事の責任は全部おれにおっかぶせてお前らだけハッピーエンドかい!という怨嗟の声が聞こえてくるようです。ほんと、本作の将軍は悪役でもないのにいいとこなし!

 ただ、そんな大損こきまくりの将軍なのに、トータルで本作を観終えた後にその一挙手一投足が観客の印象に残っているのって、おそらく間違いなく、この将軍だけなんですよね。彼だけ他の登場人物たちと比べてキャラクターの深みが違うというか、解像度が段違いなような気がするのです。
 それはやっぱり、ヒッチコック監督の計算とか脚本とかがまるで感知していない部分、最終的に演じる俳優さんのその役に対する解釈と思い入れの深みが、将軍の場合はまるで違っていたのではないでしょうか。

 つまり、作中の将軍はただただ殺人を仕事の一環と受けとめて淡々とこなし、オフの時は身の回りにいるかわいこちゃんに見境なく色目を使いまくる異常な人物ではあるのですが、そういう自分が楽しく人生を生きられるのは「政府に殺人を公認されている」という、この戦時中というつかの間の異常な状況の中だけであることを、誰よりもドライに理解しているのです。だからこそ、将軍は今この瞬間の生を過剰なまでに謳歌しようとするし、同じスパイという日陰者の世界から一抜けしようとするアシェンデンを、あんなに寂しそうな目で見つめて必死に引き留めようとするのでしょう。単におかしなキャラと言うだけではない、異常者であるがゆえの哀しみと孤独をちゃんとにおわせているのが、ピーター=ローレのものすごいところなんですよね。

 だから、彼が最期に見せた不用心にも程のあるあの挙動も、ある意味では自分で死を選んだということだったのかも知れません。ドイツのスパイを始末しようがしまいが、その後にアシェンデン達が去ってしまうことは確実でしたからね。哀しいな……

 ちゃっちゃとまとめてしまいますが、本作『間諜最後の日』は、決して見て損をするというほどの失敗作でもないのですが、ヒッチコック作品にしては珍しく中盤過ぎまで退屈してしまう部分の多い作品です。ただ、コミカルながらも次第に心の闇をちらっちらっと垣間見せてくる将軍を演じるローレの目の演技と、クライマックスの鉄道と戦闘機とのミニチュア特撮のカット割りのキレには一見の価値があると思いますので、お暇な方はぜひともご覧になってみてください。ちょっと今回は停滞しましたが、ヒッチコックの映像センスが右肩上がりであることに違いはないし!

 今回は演出よりもローレさんの演技に軍配が上がってしまいましたが、次回も期待してますよ、かんとくぅ~!!
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これは……『仮面ライダー』の原型、なのかな? ~岡本喜八 映画『殺人狂時代』(1967年)~

2024年03月10日 14時11分02秒 | ふつうじゃない映画
 みなさま、どうもこんにちは! そうだいでございます。
 なにかと忙しい年度末、みなさまいかがお過ごしですか。私の住んでいる山形は、冬がなんだか遅くズレ込んで始まったような感がありまして、年が明けてからやっと雪が積もって冬らしくなったかと思ったら、3月も半ばになろうかという今になってもなかなか暖かい日がやってこない、不思議な季節になっております。おかげで花粉症のスタートも遅くなっているようなのでそれはありがたいんですが、ひな祭りだ卒業シーズンだと言っても春めいてこないのは、なんだかねぇ。

 さてさて今回の記事は、ず~っと前から取り上げたいなと思っていた、ある昔の映画の話題であります。日本の中でも『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)とか『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969年)とか『太陽を盗んだ男』(1979年)とか、「伝説のカルト映画!」と称される映画作品はあまたあるのですが、この作品もまた、栄光あるカルト映画の殿堂に悠然とその座を占める名作であると言えますね。そんな殿堂、行ってみたいようなみたくないような……


映画『殺人狂時代』(1967年2月公開 モノクロ99分 東宝)
 『殺人狂時代(さつじんきょうじだい)』は、1967年に公開された東宝製作の日本映画。
 もともとは日活で映画化されていた企画だったが諸般の事情で没となり、その権利を東宝が買い取って、小川英・山崎忠昭による日活時代のシナリオを渡された岡本監督が手直しを加えて撮影し、1966年にいったん完成した。しかし東宝上層部の判断により公開直前でお蔵入りとなり、翌67年に特に宣伝もされずにひっそりと公開された。併映にはあまり集客が見込めないドキュメンタリー映画『インディレース・爆走』(監督・勅使河原宏)が組まれ、また公開された時期が年間で最も客足が遠のく2月だったこともあり、結果として興行は東宝始まって以来の最低記録となった。監督の岡本も非常に落ち込んだという。
 しかし1980年代にリバイバル上映でされてからようやく評価され、今なおカルト映画として人気がある。作中、現在では放送禁止用語に指定されている単語がセリフとして飛び交うため、TVで放送されることはほとんどない。
 原作小説から主人公・桔梗の設定や後半の展開が変えられており、敵役の溝呂木の扱いが大幅に膨らんでいる。ド近眼でマザコンで偶然のように敵を倒していく桔梗と、奇抜なギミックを見せびらかしながら勝手に自滅していく殺し屋たちという喜劇的対決を速いテンポで見せ、残酷な殺人シーンで明るいカンツォーネを流すなど、ロマンティック・スリラーの演出が施されている作品である。
 ちなみに、岡本監督の歴史大作『日本のいちばん長い日』が公開されるのは本作公開の半年後の1967年8月。天本英世と並び称される岡本組の常連で稀代の個性派俳優・岸田森が岡本作品に初出演するのは、翌年の『斬る』からである。

あらすじ
 精神病院を経営する溝呂木省吾のもとへ、かつてナチス・ドイツで同志だったブルッケンマイヤーが訪れる。彼の所属するナチス残党の秘密結社は、溝呂木の組織する「大日本人口調節審議会」への仕事依頼を検討しているという。「審議会」は人口調節のために無駄と判断した人間を秘密裡に殺すことを目的としており、溝呂木は入院患者たちを、殺人狂の殺し屋に仕立て上げていたのだ。
 ブルッケンマイヤーは仕事を依頼するにあたってのテストとして、電話帳から無作為に選出した3人の殺害を要求した。殺害対象の1人として指名されたのは犯罪心理学の大学講師 ・桔梗信治。水虫に悩む冴えない中年男である。桔梗は自宅アパートで「審議会」の刺客・間淵に命を狙われるが、偶然にも返り討ちにしてしまう。警察にこの件を届けた桔梗だが、部屋に戻るとなぜか間淵の死体は消えていた。
 桔梗はたまたま知り合った雑誌『週刊ミステリー』の記者・鶴巻啓子、車泥棒の大友ビルと共に、桔梗を狙う「審議会」の刺客たちと対決することとなる。一方、ブルッケンマイヤーの言動に不審を抱いた溝呂木は彼を拷問し、実は目的が桔梗ただ1人であることと、その背景には第二次世界大戦中に紛失したダイヤモンド「クレオパトラの涙」の行方が絡んでいることを探り出すのだった。

おもなスタッフ(年齢は劇場公開当時のもの)
監督 …… 岡本 喜八(43歳)
製作 …… 田中 友幸(56歳)、角田 健一郎(47歳)
原作 …… 都筑 道夫(37歳)『なめくじに聞いてみろ』(旧題『飢えた遺産』 1961~62年連載)
脚本 …… 小川 英(36歳)、山崎 忠昭(30歳)、岡本 喜八
美術 …… 阿久根 巌(42歳)
録音 …… 渡会 伸(48歳)
音楽 …… 佐藤 勝(38歳)
編集 …… 黒岩 義民(35歳)
監督助手 …… 渡辺 邦彦(32歳)
技闘 …… 久世 竜(59歳)

おもなキャスティング(年齢は劇場公開当時のもの)
桔梗 信治  …… 仲代 達矢(34歳)
※映画版では「城南大学の犯罪心理学講師」という設定になっている
鶴巻 啓子  …… 団 令子(31歳)
大友 ビル  …… 砂塚 秀夫(34歳)
間渕 憲作(第1の刺客 トランプの殺し屋)    …… 小川 安三(34歳)
地下鉄ベンチの老人(第2の刺客 仕込み傘の殺し屋)…… 沢村 いき雄(61歳)
青地 光(第3の刺客 小松弓江の部下で鞭の殺し屋)…… 江原 達怡(29歳)
小松 弓江(第4の刺客 霊媒を自称する催眠術師) …… 川口 敦子(33歳)
第5の刺客 義眼の女殺し屋 …… 富永 美沙子(33歳)
第6の刺客 松葉杖の殺し屋 …… 久野 征四郎(26歳)
第7の刺客 レンジャー殺し屋ソラン  …… 長谷川 弘(39歳)
第8の刺客 レンジャー殺し屋パピィ  …… 二瓶 正也(26歳)
第9の刺客 レンジャー殺し屋オバQ  …… 大前 亘(33歳)
第10の刺客 レンジャー殺し屋アトム …… 伊吹 新(?歳)
池野(第11の刺客 ゴリラ男の殺し屋)…… 滝 恵一(37歳)
ヤス    …… 大木 正司(30歳)
ヒデの兄貴 …… 樋浦 勉(24歳)
『週刊ミステリー』編集長 …… 草川 直也(37歳)
バーのホステス …… 南 弘子(20歳)
咆える狂人 …… 山本 廉(36歳)
酒場の客 …… 西条 康彦(28歳)、阿知波 信介(26歳)、木村 豊幸(19歳)、関田 裕(34歳)
ルドルフ=フォン=ブルッケンマイヤー …… ブルーノ=ルスケ(?歳)
溝呂木 省吾    …… 天本 英世(41歳)

〈原作小説『なめくじに聞いてみろ』との相違点〉
・特殊技能を持つ殺し屋を養成した黒幕が、原作では桔梗信治の父・桔梗信輔であり、信輔は物語が始まる一ヶ月前に死亡している。
・原作の信治は山形県の山奥(桔梗信輔一家の戦時中の疎開先)から上京したばかりであり、アパートに入居しているが定職は無い。
・原作の鶴巻啓子は雑誌記者ではなく、調査会社「トオキョオ・インフォメイション・センター」の社員。
・原作での第1の刺客・トランプ使いの間渕との対決の場は、東京・世田谷区の遊園地・二子多摩川園(1985年に閉園)。
・原作の第2の刺客・仕込み傘の殺し屋は大竹という名前の長身の男で、スリの能力に長けた女マネージャーの妻がいる。
・原作では信治の協力者として鶴巻啓子と大友ビルの他にスリの名人の佐原竜子が登場する。
・原作での第3の刺客は、桔梗信輔が開発した殺人マッチを使用する占い師・弓削。
・原作での第4の刺客は、映画版の第6の刺客にあたる松葉杖の殺し屋・水野で、その死後は、水野の同性愛の恋人である美青年が復讐のために桔梗信治をつけ狙う。
・原作での第5の刺客は、映画版の第3の刺客に当たる殺人ベルト使いの柴崎。
・映画版の第5の刺客は、原作での第6の刺客(義手の女殺し屋)の設定と第9の殺し屋(眼帯の浮浪者)の殺人法がミックスされている。
・原作での第7の刺客は、殺人針の使い手のニセ刑事。
・原作での第8の刺客は、映画版の第4の刺客にあたる霊媒師の小松弓江だが、殺人の手法が違う。
・原作での第10の刺客は、毒入りカプセルの使い手。
・原作での第11、12の刺客は映画版の第12、13の刺客と同じ人物だが、どちらも殺人の手法が違う。
・原作での秘密組織「人口調節審議会」に所属している殺し屋は、第7、10、11、12の刺客の4名のみ。
・映画版の溝呂木省吾は、原作版の桔梗信輔と溝呂木とブルッケンマイヤーをミックスしたキャラクター設定になっている。
・原作版の溝呂木省吾は、上野の西郷隆盛像を想起させる大柄の男。


 いや~、ものすごい作品ですよ、これ。
 なんとなく、先ほど挙げたような他のカルト映画のみなみなさまと比べると話題に上る機会が少ないというか、インパクトが薄いような気もするのですが、ちょっと観てみてごらんなさいな。かなり面白いですよ~。
 まず、監督が岡本喜八さんということで、すでにかなりの高さのクオリティが確証されていることは間違いないのですが、この作品はあえて人の命を丸めたティッシュ程度の軽さにしか捉えていないといいますか、人間ドラマだのテーマ性だのと言った、本来ならば岡本喜八作品のキモにもなっている部分を気持ちいいくらいにポイっと捨てて、もう一つの喜八ワールドの特色である「映像テンポの軽快さ」に100% 全振りした内容となっています。
 ちなみに、私そうだいが一番好きな岡本喜八作品は『赤毛』(1969年)ですねぇ、やっぱ。キャラクターのマンガみたいな軽快さと、彼ら彼女らの運命の悲惨さのバランス感覚が奇跡的にすばらしいんです。結末、何回観ても泣いちゃう……
 余談ですが、岡本喜八監督ご自身は2002年まで現役バリバリで活躍されていたので(2005年没)、1980年代生まれの私からしてもリアルタイムに楽しめる映画監督だったのですが、映画館で観る機会はついに無かったんだよなぁ。いっつも TVの映画劇場かレンタルビデオかで……私の精神的成長が間に合わなかった! 喜八監督お許しを!!

 それで、くだんの『殺人狂時代』なのですが、いちおう蛇足を承知で注意させていただきますと、ある意味で喜八版よりも毒味の強いチャールズ=チャップリン主演・監督の同じ邦題の大問題作『殺人狂時代』(1947年)とは全く関係がありません。チャップリン版もものすごい伝説の一作なんですけどね……これには、タイトルが似ているということで『黄金狂時代』(1925年)と同じ捧腹絶倒のノリを期待してワクワクしながら視聴した小学生時代のそうだい少年も度肝を抜かれましたね。喜劇王、こわすぎ!!

 脱線した話を喜八版『殺人狂時代』に戻しますが、そもそも、私がどうしてこの作品を気にするようになったのか、その経緯を話します。

 つい最近のことなのですが、私はどうして、庵野秀明さんの一連の「シン」作品群に対して「なんか、みんなおんなじだなぁ。」という感覚を持ってしまうのかを考えていました。『シン・ウルトラマン』(2022年 庵野さんは脚本担当)しかり『シン・仮面ライダー』(2023年)しかり。もっとさかのぼれば『キューティーハニー』(2004年)の頃から感じていた既視感です。

 これらの作品に共通する要素はなにか。その答えは、「悪役の逐次投入パターン」の、悲劇的ともいえる遵守っぷりです。哀しい!!

 なんで悪の組織とか悪の親玉って、自分の手ごまを1コ1コ、個別に完成し次第投入しちゃうんだろうか。週1くらいのペースで新作改造人間か怪獣が作れるんだったら、1~2ヶ月くらいストックをためてみて、7~8体いっきに正義のヒーローにぶつけた方がいいんじゃなかろうか!?

 これ、特撮ヒーロー番組を観たことのある人だったら、誰でも2~3話観ていれば思いつく作戦なんじゃないのでしょうか。でも、悪の組織のえらい、もしくは頭のいい人達は、ついぞこの戦法を採用したためしがない! なぜなぜ Why ヴィラン・ピーポー!?
 そのくせ、一回ヒーローに負けた手ごまは、だいぶ後に思い出したようにまとめて再生させてドバドバっと出してはくるのですが、この「一回負けている」という点が大きくて、ヒーローに対する脅威度はびっくりするくらいにゼロに近くなってるから覆水盆に返らずですね。戦法の知りようのない完全新作をぶつけなきゃ、いくら束にしたって意味無いんですよう! 改造ベロクロンⅡ世、My Love!!

 わからない……悪の組織や悪の親玉は、なぜそんな、自分たちの勝算を限りなく低くする戦略しかしないのでしょうか。特撮ヒーロー番組やアニメにうとい私の記憶にある限り、手持ちのコマを全部いっきに投入する作戦を実行したのは『機動戦士ガンダム』のコンスコン少将くらいかと思うのですが、どうしてその手を使おうとしないのでしょうか……ま、コンスコン少将もボロ負けしてたけど。

 これはもう、悪の組織の首領が「わざとその戦略(全戦力の投入)を採用していない」としか言いようがないですよね。
 その理由としては、まぁぶっちゃけてしまえば「ヒーローが負けたら番組が終わっちゃうから」という身もフタもない大哲理が内在しているからではあるのですが、あくまでフィクションの世界の中での理屈としては、「悪の組織の内部で幹部クラス同士の足の引っ張り合いがある」とか、「首領がヒーローのある程度の成長を『実験観察』として望んでいる」とかいう、複雑な事情が絡んでいることが多いようです。なりほど。

 さてさて、そしてお話は庵野さんの諸作に戻るのですが、私が先に挙げた3作を例に取りますと、必ずしも全てに「明確なラスボス」が存在しているわけでもなさそうなのですが、ポツ、ポツ、と単体の敵キャラが個別に主人公に襲いかかるという流れが頑ななまでに一貫しています。そもそも、庵野さんの作品ということで言うのならば『新世紀エヴァンゲリオン』からしてそうであるわけなのですが。

 この流れ、週1放送という形式のある TVシリーズならば話もわかるのですが、90~120分くらいのひとつのまとまりになっている映画作品でこの形式を踏襲するのって、一体どういう了見なのでしょうか? これはおそらく、TV番組という形式が生まれる以前からすでに「敵キャラの逐次投入」という文法が、フィクションの世界で存在していたからなのではないのでしょうか。

 とすれば、それはもう「連載小説」というか「続きもの小説」の盛り上がり&ひっぱり演出として逐次投入法が開発されていたとしか考えられません。
 そうなると、『仮面ライダー』や『ウルトラマン』に代表される「週1敵キャラ登場の法則」の起源が、本作の原作である都築道夫の連載小説『飢えた遺産』(のちに『なめくじに聞いてみろ』に改題)で如実に提示されている「1回のエピソードで異常な殺人法を持つ殺し屋が1人登場する」というパターンにあることは、メディアこそ違えどもエンタテインメントのあるジャンルの系譜として、まったく理の当然であるわけなのです。なるほど、昔のエンタメの主戦場だった新聞や雑誌が、昭和中期に TVに変わっていったことの一つの表れであるわけですし、その過程の中で双方に変換しうる別エンタメ=映画作品として、この喜八版『殺人狂時代』も生を受けたということなのですな。わかりやすい!

 もちろん、『飢えた遺産』が「敵キャラの逐次投入」パターンの始祖であるわけはなく、もっとずっと昔から、その形式にのっとったフィクション作品は世界中に存在していたはずです。今パッと思いつくだけでも、連載小説で言えばまず山田風太郎の『甲賀忍法帖』(1958~59年連載)から始まる「忍法帖シリーズ」の異能忍者敵キャラの百花繚乱ぶりははずせませんし、「ヘンな敵キャラが出てくる奇想天外な冒険物語」という特色で言うのならば、イギリスの小説家イアン=フレミングの「007シリーズ」(1953~64年 12の長編小説と2つの短編小説集)の世界的大ヒットを無視するわけにはいきません。本人はもちろん生身の人間であるのですが、明晰な頭脳と精力的な肉体、そしてムンムンにただよう「英国紳士の色気」で八面六臂の大活劇を演じる国際的凄腕スパイ・ジェイムズ=ボンドの存在感は、明らかに日本の正義のヒーローたちに通じる「ロマン」を漂わせているような気がします。
 ちなみに、喜八版『殺人狂時代』が制作されたのは1966年だということなのですが、その時点で「007シリーズ」はご存じの通り、初代ボンドことショーン=コネリーの主演で4作制作されており、当然、ボンドをつけ狙う世界規模の悪の秘密組織「スペクター」もすでにしっかりと映像化されております。スペクター!! 本作の溝呂木省吾ひきいる「大日本人口調節審議会」とか『仮面ライダー』のショッカーの直系の先輩ですよね。

 こういったことをずらずらっと時系列順にならべてみますと、まず、当時「ヘンな敵キャラを各個撃破していく正義のヒーロー」という形式のエンタメ作品が確立、ヒットしていたことがよくわかります。そして、すでにジェイムズ=ボンドという正攻法のスーパーヒーローが世界を股にかける大成功を収めている状況であった以上、スリラー冒険小説『飢えた遺産』を映画化するにあたり、主人公・桔梗信治を、原作通りにわりと序盤で相当な腕を持つ殺人術の達人という正体をバラしちゃう路線を「とらなかった」喜八監督のアイデアは、全く無理のない判断であると言えるのです。それじゃあまんま、ボンドや、本来この作品が映画化されるはずだった日活アクション映画のヒーロー系主人公の後追いになってしまいますからね。
 その結果、喜八版の桔梗信治には、都会のおんぼろアパート住まいの冴えない大学講師というオリジナル設定が付け加えられたわけなのですが、演じたのが魅惑の低音ボイスびんびんの仲代達也34歳ということもありまして、後半でコネリー・ボンドもかくやというスーパーヒーローっぷりを開放してくれます。
 でもまぁ……正直、前半のダメ講師・桔梗という設定は、現に襲い来る異常な殺し屋集団を「偶然のてい」であるにしても右に左にいなして返り討ちにしてしまっているので、「どうせ仮の姿なんでしょ」という後の展開がバレバレな感じになっていますので、意外性はそんなには無いというか、喜八監督がわざわざ脚本に取り入れる程効果的に機能しているようには見えません。単純に、言動がもっさもっさしている主人公はテンポが悪いし……

 余談ですが、このように物語の構造の部分では山田風太郎エンタメ小説や007シリーズの系譜を引き継ぎ、のちの『仮面ライダー』へとつながる位置にある本作と原作小説なのですが、「抜けたところもあるが異性にも同性にもやたらとモテるヒーロー」という主人公の魅力的なキャラクター造形という点で言えば、これは明らかに、本作の形ばかりの劇場公開後の約半年後にマンガ連載の始まった、あの『ルパン三世』(原作モンキー・パンチ)の先輩にもあたる作品なのではないでしょうか。ひゃ~、私の「怪獣」ジャンル以外で好きな作品が、ぜ~んぶこの作品をジャンクションにしてつながっちゃってるよ!! ただし、「(演技ではあるのだが)まぬけなヒーロー」という桔梗信治の属性は原作小説版ではなく喜八版オリジナルの設定で、その反対に喜八版ではヒロインが1人であるのに原作小説版では信治をめぐって2人の魅力的な女性がバチバチするということでモテ要素は原作版の方が強いので、ルパン三世ほどキャラクターがはっきりしているわけでもありません。でも、そう考えるとおんぼろ自動車を乗り回し、男女の相棒を連れて夜の街を駆ける仲代達也の姿がルパン(緑ジャケットの1st 版でしょう)のように見えてくるのも不思議ですね。髪の毛も、長くも短くもない微妙なヘアスタイルだし。

 そして、喜八版のもう一つの大きな変更点は何と言っても、桔梗信治と対決する「ラスボスが誰か」という点です。これはデカいぞ!

 映画版の大ボスは言うまでもなく、自身の経営する精神病院への入院患者をナチス・ドイツ仕込みの殺人哲学で異常な殺人法を習得した「大日本人口調節審議会」の所属殺し屋に養成してしまう院長・溝呂木省吾なわけなのですが、ネタバレぎりぎりで言っちゃいますと、溝呂木は大ボスであって「ラスボス」ではありません。この、「首領を倒したはずなのに、まだ刺客が!?」という意外な展開が、推理小説家としての原作者・都築道夫の面目躍如といった感じでいいですね。
 その流れで映画版の中で桔梗に襲いかかる刺客は溝呂木も含めて「13人」ということになるのですが、上の情報でまとめたように、原作小説『飢えた遺産』における異常な殺し屋集団の「開発者」は溝呂木とは全く別の人物(桔梗信治の父)で、しかもその人物は物語が始まった時点ですでに死亡している……というか、その人物が死亡したことで『飢えた遺産』の物語が始まるというシステムになっているのです。その設定がある上で、原作小説でも溝呂木省吾と「人口調節審議会」はいちおう別に登場するのですが、溝呂木はあくまで殺し屋の中の一人でしかなく、審議会も溝呂木が結成したきわめて自己満足的な美学にのっとった小規模な集まりでしかありません。

 要するに、原作『飢えた遺産』の主人公・信治は、あくまでも自分や12人の人間を、社会の裏街道でしか生きることのできない異常者に変えてしまった父の「遺産」を消去しようとする個人的な「遠回しの復讐者」でしかなく、そもそも元凶たる首領(父)が死んでいる以上、どうしたって信治が完全勝利することはできないという、きわめてビターな結末が待っていることは間違いないわけです。
 ここらへん、一連の事件の元凶が死んでいるという「死に逃げ」パターンは他のフィクション作品でもたま~にある設定なのですが、有名なところでは『犬神家の一族』もある意味でそうでしょうし、もっとわかりやすいもので言えば映画『機動警察パトレイバー』の第1作目(1989年)の天才プログラマー・帆場暎一なんか、もろにそうですよね。
 そして、庵野さんの作品で言えば『シン・仮面ライダー』でもその設定が踏襲されている感はあるのですが、人間としての首領本人は死んでるっぽくても、その遺志を継承した存在がちゃんといるらしいので、必ずしも「死に逃げ」とは言えない中途半端さがあると思います。なんか、その煮えきらなさが続編制作への未練みたいで、あんまりスマートじゃないですよね。

 それはともかくとして、そういった感じで主人公の極私的かつ不毛な復讐の物語として、軽快な中にもある種のほろ苦さをたたえていた原作小説に対して、喜八版は「稀代の異常俳優・天本英世」を生きた悪の組織の首領に持ってくることによって、非常に単純明快で映画的な「異常 VS 異常」の一大ページェントに変容させることに成功しおおせたのではないでしょうか。苦味なし! 観終わった後に残るものも一切ナシ!!

 いや~、この映画をカルトたらしめているのは、やっぱ天本さんの演技とも言えないリアルな狂気演技、これしかないですよね。
 だいたい、「殺し屋たちが精神病院の院長に調教された患者」っていう、この令和の御世ならば口にしただけでお縄をちょうだいしそうなムチャクチャな設定だって、原作小説にはどこにもない喜八オリジナルだからね!? 別に都築道夫さんの原作小説にお蔵入りになる原因があるわけじゃないんだからねっ。

 天本さんの活き活きとした悪人演技。もうこれだけを楽しむ映画ですよね、最高です……最高にイカレてます!!
 わかりやすく言うのならば、「死神博士じゃなくて地獄大使系アッパー悪の幹部を演じている天本さん」って感じになりますかね、喜八版の溝呂木省吾って。でも、なんたって天本さんなんですから、とにかく植物系の色気がハンパない! ファッション、持ち物、語り口、すべてに完成されすぎた漆黒の美学がゆきわたっているのです。くをを~♡
 演じているのが死神博士の天本さんで、スペインのフラメンコのように情熱的に自身の殺人哲学を語る熱っぽさは地獄大使のようで、しかもその前歴はゾル大佐も所属していたナチス・ドイツに通じているというのですから、喜八版の溝呂木はのちの『仮面ライダー』のショッカー3大幹部のよくばりセットみたいなキャラクターですよね! あれ、ブラック将軍は……?

 いろいろくっちゃべっているうちに、いつものように字数もかさんできましたのでそろそろおしまいにしたいと思うのですが、この喜八版『殺人狂時代』は、特撮ヒーロー番組の主人公サイド……ではなく「悪の秘密組織サイド」が大好きな方ならば、絶対に観て損はしない作品だと思います。確かに、喜八監督作品の中ではやや軽さが過ぎるいびつな作品だし、登場する人物たちは別に特殊能力を持ったスーパーヒーローでも人体改造を施されたミュータントでもないのですが、ともかく「俳優業そっちのけで自分の好きなことに邁進している人」がいる映画が、どれだけ楽しそうに見えるのかがよくわかる好例なのではないでしょうか。こんな英世みたことない!! 死神博士とか『 GMK』とか『平成教育委員会』とかだけで記憶されるべきお方ではないのです。すごいよ~。
 あと、ライダーライダーと言っていますが、あくまでもこの映画は東宝作品ですので、ウルトラシリーズで顔なじみになる俳優さんがた(一平ちゃんの西条康彦さん、イデ隊員の二瓶正也さん、ソガ隊員の阿知波信介さん)がチラッと出てくるのもお得ですよ。阿知波さん、完全なる一発芸キャラを楽しそうに演じちゃってるよ! 阿知波さんに限らず、この映画「とりあえず勢いで。」が多すぎるのよ……

 喜八版『殺人狂時代』は、ほんとに時代のあだ花と言いますか、1960年代中盤の日本の狂騒的なまでの活況ぶり、混乱っぷりを、低予算ながらもバッチリ記録した作品になっていると思います。同じ喜八監督の『日本のいちばん長い日』とか、同時代の黒澤明監督作品とかのウェルメイドな大作のみで昭和を振り返るばかりでなく、たま~にこういうバロック(ゆがんだ真珠)をめでてみるのも一興なのではないでしょうか。

 監督、俳優、時代、全てが若い!! そのエネルギーの奔流には、公開後半世紀以上が経っている令和の現代でも、見る人の心をつかむ魔力があると思いますよ。

 ま、倫理的には3アウトどころか即刻試合中止レベルの作品ですけどね……デンジャラ~ス!!
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