長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

うん……観た、観た  映画『信長協奏曲』

2016年01月27日 23時42分54秒 | 日本史みたいな
映画『信長協奏曲』(2016年1月公開 126分 東宝)

 『信長協奏曲(のぶながコンツェルト)』は、石井あゆみによるマンガ作品。『ゲッサン』創刊号(2009年5月刊行 小学館)から連載中。第57回小学館漫画賞・少年向け部門を受賞。コミックスは2016年1月の時点で13巻が刊行されており、物語は天正六(1578)年三月の上杉謙信の死去(信長45歳)まで進んでいる。
 2014年からは「フジテレビ開局55周年プロジェクト」として TVアニメ(2014年7~9月放送)・実写 TVドラマ(2014年10~12月放送)・実写映画(2016年1月公開)の3媒体で同時企画・随時展開で映像化された。
 映画版は全国325スクリーンで公開され、公開初日2日間で動員は約49万人、興行収入は約6億1千万円を記録した。


あらすじ
 勉強が苦手な高校生のサブローは、ひょんなことから戦国時代の天文十八(1549)年にタイムスリップしてしまい、そこで出会った尾張国那古野城主・織田信長に、病弱な自分の代わりに信長となって生きてくれと頼まれ、織田信長として生きていくこととなる。
 当初は周囲から困惑され裏切りや暗殺の危機にさらされるが、誤解や偶然が重なり飄々と切り抜ける。このことから家中や領民から支持され、家老の平手政秀の死をきっかけに本気で天下統一を志す。室町幕府第十三代将軍・足利義輝との謁見を果たし、尾張・美濃2ヶ国を制覇して京に上洛後、敵対した足利将軍家・朝倉家・浅井家・武田家やその他の隣国大名を打ち破っていく一方、楽市楽座・産業振興・兵農分離などを推し進め領地経営も成功し、近江国に安土城を完成させ天下人へ駆け上がりつつあった。
 ある日、サブローはふと手にした歴史の教科書で、自分(織田信長)がもうすぐ死ぬ運命にあることを知る。予言された死が迫りくる中、サブローは運命に抗い生き抜こうと決意した。その思いの表れとして、帰蝶との正式な結婚式を企画する。その会場は京・本能寺……


主な登場人物
サブロー / 織田 信長 …… 小栗 旬
 本作の主人公。勉強の苦手な普通の高校生だったが、戦国時代にタイムスリップしてしまい、顔、声、体格がそっくりだった本来の織田信長に出会い、彼の頼みで信長として生きていくはめになる。歴史を変えてはいけないという認識は持っており、日本史の教科書を参考にするなどして、織田信長として天下を取らないといけないと思っている。だが、飄々として物事にこだわりがない性格に加え、あまり歴史のことを理解していないため、自然体で生活している。しかしながら、図らずも自身の振る舞いが史実通りになっていく。ちなみに、サブロー(三郎)は史実の織田信長の通称でもある。
 平然と危なっかしい真似をしたり、戦国時代に来て早々に経験のなかった乗馬をこなすなど身体能力は高い。礼儀作法に疎く、現代の言葉を使い周囲を困惑させることもあるが、独特な発想と高いカリスマ性や行動力を発揮させ、織田家の領地拡大につれて武将としての風格を備えていく。ただし朝廷外交の際は、本物の織田信長に参内してもらっている。その一方で、自分を過剰に慕う妹のお市には強く物を言えないなど、織田家の身内に甘い面を見せているほか、敵味方の意識が薄く、基本的に相手と戦うよりは仲良くすることを選ぶ。
 本能寺の変で織田信長が死ぬという歴史的事実をあまり正確には把握していない。
 なお、本作では信長の側室や子女は登場しておらず、史実における側室・吉乃は明智光秀の正妻となっている(光秀が織田家に仕える前に死去)。ちなみに史実では、弘治三(1557)年に嫡男・織田信忠が、永禄元(1558)年に次男・信雄、三男・信孝が生まれている。その他、長庶子・信正が天文二十三(1554)年に、四男・羽柴秀勝が永禄十一(1568)年に生まれている。
 TVドラマ・映画版では、逃げ癖がある、強がりを言ってしまい後で落ち込む、死のうとしている相手に命の大切さを熱く語るなど、原作に比べて非常に人間臭くなっている。

明智 光秀 …… 小栗 旬(二役)
 本物の織田信長。聡明だが病弱。サブローからは「ミッチー」と呼ばれる。織田家を出奔する際に出会った自分そっくりのサブローに、織田信長として生きていくことを託して尾張を去ってしまう。各地を放浪する中、明智家の養子に迎えられ、明智光秀を名乗る。その後、信長の噂を聞き、力になるためサブローの前に再び現れる。周囲の混乱を防ぐため普段は頭巾で顔を覆っており、必要に応じてサブローの影武者となる。織田家中をまとめ上げる四宿老のひとりに選ばれる。サブローとは強い絆で結ばれており、松永久秀の発言から偶然にサブローの正体を知った時以来、彼のためだけに生きると決意している。死別した前妻の吉乃との間に息子が二人いる(のちの織田信忠と信雄?)。また、娘の珠(のちの細川ガラシャ夫人)が生まれていることも語っている。
 TVドラマ・映画版では、サブローと入れ替わった理由は原作とは異なり熾烈な跡継ぎ争いから逃れるためとなっており、秀吉の正体に気づきつつも共謀して暗躍するなど、より野心的な性格となっている。

帰蝶 …… 柴咲 コウ
 信長の正室。美濃国大名・斎藤道三の娘。本物の信長とはうまくいっていなかったが、サブローにはベタ惚れする。優しく穏やかな性格で誰からも慕われている。サブローに深い愛情を抱き、戦乱でサブローが行方不明となった時は食事も睡眠も取らずに衰弱していた。
 TVドラマ・映画版では気が強い性格になっている。そのためサブローと口論になることも多い。

お市 …… 水原 希子
 信長の妹。幼い頃からサブローによくなついている。容姿は皆が認めるほど美しいが、お転婆で落ち着きがない。渋りつつも織田家のために浅井長政に嫁ぎ、三姉妹を産む。嫁ぎ先の浅井家が織田家によって滅ぼされる際に、実家の織田家に戻された。夫の長政よりもサブローが好きで、夫の死後でも信長を慕う態度は変わらず、サブローを兄以上に思っている節が見られる。サブローからは「おいっちゃん」と呼ばれる。

池田 恒興 …… 向井 理
 織田家の重臣。信長(現在の光秀)の乳兄弟。一度はサブロー暗殺の企みにも荷担したが、サブローが時折話す断片的な史実を大望と勘違いして感銘を受け、以降は補佐に徹するようになる。サブローを諫める役を果たしてはいるものの、常識人であるがゆえに振り回され、苦労が絶えない。サブローからは「恒ちゃん」と呼ばれる。

柴田 勝家 …… 高嶋 政宏
 元は織田信長の弟の信行の側近だったが、天下統一を狙うサブローと、兄の追い落としのみを望む信行との器の違いを目の当たりにし、信行を見限ってサブローについた。恒興と同じくサブローに振り回され、苦労が絶えない。織田家の四宿老のひとりに選ばれる。サブローからは「シバカツさん」と呼ばれる。

丹羽 長秀 …… 阪田 マサノブ
 織田家の重臣。無口・無表情で、秀吉でさえも対応に困る人物。織田家四宿老のひとり。安土城の普請総奉行も務めた。

前田 利家 …… 藤ヶ谷 太輔(Kis-My-Ft2)
 織田家の重臣。幼名は犬千代。やんちゃ。槍の名手でもある。立場ができるにつれて、荒々しい森長可を諌めるなど比較的落ち着いてきた。

佐々 成政 …… 阿部 進之介
 織田家の重臣。前田利家とは反対に真面目で責任感が強く、利家といつも喧嘩になる。

森 長可 …… 北村 匠海
 織田家の重臣。荒々しい気性の持ち主。

羽柴 秀吉 …… 山田 孝之
 序盤は東海地方の大大名・今川義元の間者として登場する。農民から商人になった木下藤吉郎を殺してその名と経歴を奪ってサブローの前に現れる。木下藤吉郎を名乗る以前は「田原伝二郎」と名乗っていたが、これも本名ではない。
 織田家に馬番として潜り込みながら、密かに織田信行に謀反を勧めるなど暗躍していた。しかし桶狭間合戦の際は、誤報を流してしまったために今川軍を大敗させてしまう。その後は、自分自身が力をつけて信長を倒すと決意する。
 表向きは愛想のよい有能な忠義者のふりをしているが、本性は腹黒く冷酷で、サブローへの復讐の機会を待っている。サブローにその有能さを認められて出世してゆき、織田家四宿老のひとりに選ばれ、名を羽柴秀吉と改める。
 TVドラマ版では、さらに信長の父・信秀を暗殺したり、斎藤義龍を焚きつけて道三への謀反を起こさせたりした。また、幼少期に自分の住む村が信長(本物)の手勢に滅ぼされたことが信長を憎む理由になっている。サブローからは「サルくん」と呼ばれる。

蜂須賀 正勝 …… 勝矢
 美濃国の土豪。織田家の美濃攻めの際、一夜城造りで秀吉に協力し、以降その配下となる。

徳川 家康 …… 濱田 岳
 三河国の大名。幼少時代、人質として尾張国でサブローとともに遊ぶ。この時の名は松平竹千代で、今川家の人質となったのちに松平元康と改名する。今川家が三河を支配していた時代は今川方の武将であったが、今川義元がサブローに滅ぼされたことによって織田家と同盟を結ぶようになり、徳川家康と名を改める。好色で、見るからに人のよさそうな外見をしている。幼少時代にサブローからもらった21世紀のエロ本『えろす』を家宝にしており、それによって女に目覚めたとサブローに語っている。お市に密かに想いを寄せている。

松永 久秀 …… 古田 新太
 大和国の大名。実は21世紀の日本のヤクザだったが、戦国時代にタイムスリップしてから30年間、「主君殺し」や「将軍殺し」といった悪名を馳せながら畿内地方一の実力者にまでのし上がった。サブローが上洛すると即座に降伏するが、初対面の時でも背中の刺青を見せて驚かそうとするなど態度が大きかった。この時のリアクションから、信長の正体を知る。学がないため歴史には疎いが、うだつの上がらなかった平成時代を嫌い、弱肉強食の戦国時代を気に入っている。拳銃を所持した状態で戦国時代に来ており、護身用に携行している。同じ未来から来た者同士とはいえサブローに常には肩入れせず、時には裏切りもする。 織田家のほとんどの家臣からは蛇蝎の如く嫌われているが、森長可からは理解されている。石山本願寺に呼応してサブローに対して謀反を起こし、織田軍に本拠の信貴山城を囲まれ、降伏の使者・森長可に信長への餞別として拳銃を手渡し、城ごと爆死した。
 TVドラマ版ではタイムスリップした時期は2005年と設定されており、サブローから『笑っていいとも!』の放送が終了したことを聞いて驚いていた。また、映画版では原作とは違う展開を経て最期を迎えている。

沢彦 …… でんでん
 明智光秀(本物の信長)が幼少時代から師と仰ぐ和尚。光秀とサブローの秘密を知る人物のひとり。サブローに「天下布武」と「岐阜」を提案する。


主なスタッフ
監督 …… 松山 博昭(42歳)
脚本 …… 西田征史、岡田道尚、宇山佳佑
音楽 …… 高橋 拓(41歳)
撮影 …… 江原 祥二(60歳)

主題歌
Mr.Children『足音 Be Strong』




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土浦の中心で愛を叫びながら日本の食を考える  ~百景社アトリエ公演『近代能楽集』うち4作~

2016年01月25日 01時26分48秒 | 日記
 え~、みなさま、2016年明けまして誠におめでとうございます!! そうだいでございまする。
 いまさら新年のあいさつなんですけれどもね。なんだかんだいって1月ももう終わろうかっていうタイミングでやっと、よ。

 今年に入って最初とそれに続く記事を見ていただいておわかりのように、私は30代なかばにして初めて「職員旅行」という心おどるイベントに参加させていただける栄誉に浴しまして、これまた生まれて初めて九州地方の土を踏む旅に、新年早々行ってまいりました。いい土地でしたね~。福岡は、さすがの大都市でしたねぇ! 飛行機に乗るのも10年以上ぶりだったから楽しかったなぁ。

 そういったイベントも正月明けからドカンとあったわけなのですが、それに加えていつもいつも忙しい忙しいとわめきっぱなしのお仕事も当然さっさか始まりまして、相も変わらず我が『長岡京エイリアン』の更新にとっては実に厳しい日々がスタートしてしまいました。お城のことなんか、いったいいつまとめられるのやら……福岡城での、色があせきってパッサパサになった『軍師官兵衛』の PRのぼりが味わい深かった。あっそうそう、水天宮でおみくじをやったら大吉だったんですよ! ヤッター!! これもひとえに、ずっと平宗盛さまのファンだった御利益かな!? 光栄のゲーム『源平合戦』で平宗盛で天下統一できた時には泣いたね~。まぁ、といっても宗盛は水天宮では祀られてないんですけどね……そんな宗盛だから、大好きなんだー!!

 そんな感じで私の年は明けたんですが、のっけから今年は、去年とはひと味違った忙しさになりそうな予感がムンムンなのでありまして、なんとなく。
 個人的には、同じ忙しいにしてもこっちのほうがいいかな、といった感じの新展開が立て続けにおっぱじまった、という胸騒ぎに包まれております。地に足がついていないような気分なのに時だけがスイスイ進んでいく、このミョ~なスピード感は気をつけなければいけませんね。注意一瞬、事故一生よ!
 事故といえば、なんだかんだいってわたくしのペーパードライバー時代(15年間)を抜きにした実質ドライバー歴も、ようやっと「まる1年」となりおおせました。中古車なんで内部の修理はしょっちゅうなんですが、なんとかかんとかギリッギリ! 外側の修理が必要な事態にはおちいらずに2年目に突入しております。いや、これは山形が初心者ドライバーに非常に優しい交通事情だからなのでありまして……でも、ホンットに雪国は二輪駆動車に厳しいよね! 降雪対策は、より寒い夜になってから「あ、忘れてた。」じゃ済まされませんから。屋根の上の雪もかける長柄のカーブラシ買っとかないとなぁ。


 さてさてそんな中ではありますが、昨日24日日曜日は例によりましてお芝居を観るために遠出してまいりました。といっても、おもむいたのはいつもの大東京ではなく、山形から見ればその手前となる茨城県の土浦市でありました。
 なもんで、今回はいつもよりも新幹線に乗る距離も短くなりそうだし、ちょっとは交通費も浮くんじゃないかとふんでいたのですが、フタを開けてみたら結局、山形から土浦に行くためにはしっかり上野まで新幹線で行ってから常磐線で北上しなけりゃいかんのでした。なんか宇都宮とか大宮から東に行くルートのほうが高くつくんですよね。土浦市に限った話なのかもしれないけど、時間にしても距離にしても、茨城県は山形からは、東京以上に遠かったのだ! どういうことなんだ……バスにしたって、必ず東京か仙台経由になっちゃうしなぁ。

 当初、私は23日の土曜日に自動車で山形から土浦に行って、お芝居を観てからホテルで一泊して翌日に帰るという計画を立ててもいたのですが、土曜日に大事な用事が入ったため、やむなく断念して24日の日曜日じゅうに新幹線で往復するという強行プランとあいなりました。車で山形~土浦っていう片道350キロの旅も魅力的ではあったのですが、今回は見送りということで。長距離ドライブも、またやってみたいね~。
 というわけで、今回は車での旅よりは肉体的にはラクな往復どっちも新幹線というぜいたくな選択になったのでしたが、これはこれで意外と大変というか、時間調整がギリギリなんでした。月曜日は不動のお仕事日なんでねぇ。

 そんなこんなで、今回土浦にて拝見したお芝居は、こちら。


百景社アトリエ祭2016 『近代能楽集』(演出・関美能留、作・三島由紀夫)茨城県土浦市・百景社アトリエ
『卒塔婆小町』
『葵上』
『邯鄲』
『綾の鼓』


 うおお、今年1発目の観劇に、まことにふさわしいこの演目! 短編サイズとはいえ、1日で4本分もの「三島由紀夫型日本語」を摂取するんですぜ!? これは中毒症状を起こすレベルの過剰摂取ですわ!! 『おかんメール』とか伊坂幸太郎を読んで中和しなきゃ。

 今回の公演は、劇団「百景社」が2013年から土浦市にかまえている劇団アトリエで1~2月に開催されている「百景社アトリエ祭2016」の第1弾として1月23日から上演されているもので、三島由紀夫の戯曲集『近代能楽集』に収録されている8作品を全て一挙に披露するというとてつもない企画となっています。8作品を一気にですぜ!? これがまぁ~どんなに大変なプロジェクトなのかは、どれかひとつの作品を観ただけで充分に察せられるはずです。そりゃまぁ短編なので上演時間のボリュームはそんなにあるわけではないんですが、なんにしろ「濃度」がハンパないんですよね! そんじょそこらの2時間くらいのお芝居が飲みやすいジュースだとするのならば、『近代能楽集』はひとつひとつがドロッドロのエスプレッソブラックコーヒー! セリフの重力が、同じ言語であるはずなのにふだんの日常で使われる日本語の倍はあるというか、しゃべってる役者さんの口からセリフごとに「ぼはっ! ぼはっ!」と大輪のバラの花がこぼれ落ちてくるかのような、もう笑うしかない全力勝負、キメ球に次ぐキメ球という異常なペース配分になっているんですね。いちいち口がふさがって息もできやしねぇ!!
 これはねぇ、この大変さは喜劇にするしかありませんわな。そういう意味でも、『近代能楽集』は全編がハイテンションの「お祭り騒ぎ的な笑い」に満ちた作品集になっていると思うんです。ギャグで笑うという性質のものではなく、その登場人物ひとりひとりの全力すぎる生きざま、それらの妥協という文字の存在しないがゆえの目も当てられない正面衝突のもようが、不謹慎ながらも笑ってさしあげるしかない、というか、それしか傍観する客にできることはないという、演劇というものや三島ワールドというものと、私たちの生きる日常世界との決定的な次元の違いを楽しむべき作品集なのです。まさしく、アトリエ祭にこれ以上にふさわしいものもないでしょう。まつりだワッショイ!

 この『近代能楽集』というのはまぁ、かつて役者でありましたわたくしめにとりましても非常に思い出深いタイトルであるのですが……そこらへんのことをぶつくさ語ってもオッサンの昔話にしかならないんでね! そのあたりはきれいにはしょってしまいますけれども。

 いっぽう、百景社さんの土浦のアトリエに関しましては、私はかつて2013年6月に三条会の『ひかりごけ』、2014年2月に関美能留さんとスズキシローさんの二人芝居『太宰治ですみません(仮)』を観劇するために訪れてはいましたが、そこを本来のホームグラウンドとしている百景社の役者さんがたが、フルメンバーで思うさまに暴れまわるアトリエ公演はまだ観たことがなかったのでありまして、演出は三条会の関さんが務めるわけですが、今回初めてそれがかなったのでありました。百景社の役者さんの一人芝居や、三条会の公演への客演は最近も拝見していたのですが、舞台上の百景社のみなさんの勢ぞろいを観るのは……もう何年ぶりになるのでしょうか。失礼ながら、そうとうにご無沙汰しておりました。


 今回、百景社版の『近代能楽集』は、全8作のうちまず4作がこの23・24日に上演され、来月2月に残る4作も上演。なんと2月11日にはそれら8作をまとめて1日かけて上演するというとてつもない企画も予定されているのだそうです。『近代能楽集』が一気にぜんぶ観られる!? 役者さんもお客さんもこりゃ大変だぞ……やっぱり終盤はみんなで黄色いTシャツを着て『サライ』なんだろうか。でも、この一挙上演の日は観に行けそうにないんだよなぁ。非常に残念!
 また、そのうち『卒塔婆小町』と『葵上』の2作は、さらに翌3月、アトリエを飛び出して岡山県岡山市でも上演されるそうです。

 24日の日曜日、午前9時すぎに山形を発った当初は、どうやら関東地方にも相当な寒波が押し寄せてきているらしいという前日からの報道を知って、まさか新幹線が動かないとか、そういうことは……と心配していたのですが、山形も確かに雪は降っているもののそれほど大したものではなく、上野を経由してお昼前に着いた土浦の地も、雪なんぞどこにも見当たらない冬の快晴になっておりました。
 よかった……2年前の2月に土浦に来たときは、そりゃまぁとんでもない大雪の日の翌日で! 前日は真夜中ぶっ通しで新雪の雪道地獄を歩き詰めるわ当日は電車のダイヤが狂いまくるわで、体力的にもスケジュール的にもひどいもんでしたからね! 今となっては、なつかしい思い出です。

 ただ、さすがは寒波の真っただ中と言いますか、強く吹きつける風が冷たいのなんのって! 百景社アトリエは、JR土浦駅の西口から西へ国道125号線をまっすぐ歩いて行って、土浦城のあった亀城公園から右に曲がってまたまっすぐ行けばだいたい近くというわかりやすい道順なのですが、30分という時間が非常に長く感じられる向かい風の容赦ない厳しさよ! これがうわさの「筑波おろし」というやつなのか……山形ではなかなか出くわさない、湿度のまるでない乾燥した寒風が吹きすさびます。やっぱり関東なのねぇ~。

 途中で昼食をとりつつも滞りなく到着した百景社アトリエは、客席満員の状態になっておりました。そうこなくっちゃ!
 私が観た24日の公演は、『卒塔婆小町』+『葵上』を1公演、『邯鄲(かんたん)』+『綾の鼓』を1公演として、午後2時からと4時からの1日2回公演という形式をとっており、上演時間は『卒塔婆小町』+『葵上』で75分、『邯鄲』+『綾の鼓』で100分ということになっていました。
 ちなみに、今回の『近代能楽集』公演は「新潮文庫版の収録順に上演する」ということで、本来ならば『邯鄲』から始まる順番だったのですが、24日は日曜日なので、翌日に仕事があるお客さんも多かろうという配慮から、上演時間の長い『邯鄲』+『綾の鼓』をお芝居の開演時間としては早めの午後4時からの後半戦に持ってくるという、わたくしにとりましてはひじょ~にありがたい措置が取られていました。ほんとにありがたかったです……午後5時以降からの開演になってたら、ちょっと観るのを諦めなきゃいけなかったかも知れない。いつもお世話になってるから文句は言えないんですが、山形新幹線の本数はやっぱ少ねぇよ~。

 三島由紀夫の『近代能楽集』は、各作品の発表年代を見てみると、『邯鄲』が1950年9月(初演は同年12月)、『綾の鼓』が1950年12月(初演は1952年2月)、『卒塔婆小町』が1951年12月(初演は1952年2月)、『葵上』が1953年12月(初演は1955年6月)ということで、この4作品に限って言えばあの『潮騒』も『金閣寺』もまだ書いていなかったピッチピチ20代の三島さんの手によって生み出された作品です。あらためて、ものすごいことです……確かに『邯鄲』は「若い人が書いたんだろうな」という印象が持てる作品ではあるのですが、『綾の鼓』の後半部分の残酷すぎる展開や『葵上』の確立しすぎた言語センス、そして『卒塔婆小町』の幽明相半ば、現実と個人の思い出とがスープのように溶けあった世界の広がりは、少なくともある作家さんのキャリアの最初期のものとはとても信じられない完成度を誇っているのではないのでしょうか。も~んのすんごい!

 そんなわけで私が観た日は『卒塔婆小町』から上演が始まったのですが、のっけから『卒塔婆小町』か! おそらくは『近代能楽集』の中でも最も有名な作品のご登場ときたもんだ!

 この『卒塔婆小町』に限らないのですが、今回の『近代能楽集』の上演はおしなべて、演出の関美能留さんが主宰する三条会のアトリエ公演企画で約8年前に試みていたさまざまな実験を、新たに百景社の役者さんがたを通じて再び舞台化している点を基調としながらも、さらに百景社のアトリエ公演ならではのオリジナリティも加えて発展させたものになっていると感じました。

 「さまざまな実験」なんて他人事みたいな書き方をしていますが、実はかくいうわたくしめも、そのめくるめく日々の末席に加わった者だったのでありまして……
 なつかしいですねぇ、公園のベンチで彼氏がデジタルカメラで彼女を撮っている伏線が、のちのち詩人と小町の世界に同化していく流れ。そして、平井堅の『瞳をとじて』(2004年)の大洪水!

 今回の百景社バージョンを観ても再確認したのですが、『卒塔婆小町』という戯曲は、ふつうにセリフを読んでいくと詩人と老婆の理屈っぽい口論から始まるし、かと思えば中盤から2人のパワーバランスも乱高下するのでなかなか難解な物語のようにも感じられてしまうのですが、つまるところはそのぐっちゃぐちゃ具合を感じて楽しむジェットコースター的アトラクションだと思うんです。
 それはつまり、「どこからどう見ても老婆の走馬燈だったはずなのに、そこに勝手に乱入してきた詩人の走馬燈になっちゃった!」みたいなありえないハプニングが、老婆と詩人のどちらが死にたかったのかとかいう比較からの論理的結果ではなく、単なる詩人の「好きだー!!」という一瞬の感情だけで起きてしまったこととまさに同じで、「考えるな、感じろ」の世界なんですよね。老婆が若返ったとか詩人が深草少将になったとかいう細部を気にしているとあっという間に置いて行かれてしまうスピード感に満ちているわけです。

 しかし、その恐るべき「どっちが死ぬのかチキンレース」の末に、「また生き残ってしまった……」というむなしさと共に物語の序盤と同じ生活を始める老婆の姿による幕引きこそが、この『卒塔婆小町』が『近代能楽集』随一の傑作になり得ている理由なんだと思うんです。死ぬことよりも生きることのほうがずっと苦しいとか、「愛」をめぐる「生」と「死」の表裏一体の関係とか。「私を美しいと云えば、あなたは死ぬ。」って、どんだけ~!?

 そして、これは今回の百景社バージョンで初めて加えられた演出かと思うのですが、詩人の「愛」が、結局はジュージュー焼けたお肉を食べたいと思う感情と同じだという冷徹なオーバーラップが示されていたのにはおそれいりました。「若き日の小町の美貌に身を焦がす鹿鳴館の紳士たち」というモブキャラ陣が、ほんとに鉄板で身を焦がしてる焼肉なんだもんね! これが一流の社交界における恋愛というものなのか……苛烈すぎる。

 やっぱおまえも肉欲かよ! まぁ肉欲だよな! という諦念を込めたまなざしで、詩人の目の前に焼肉をチラつかせる老婆の哀しみ……だからといって、品性も「いっしょにごはんも食べたい、タレもつけたい。」という人としてのグルメ感覚もかなぐり捨ててただひたすらに焼きたての肉だけを食べる詩人の姿を軽蔑しているわけではなく、むしろその後先を考えなさすぎる「若さ」へのあこがれもコミコミの視線であったことは言うまでもないでしょう。
 もうちょっと落ち着いて食べていればベロもやけどせずに済むものを……認めたくないものです、若さゆえのあやまち!!

 そういえば、詩人の語りに添えられる音楽が、過去に使われてきたレッド・ツェッペリンの『天国への階段』(1971年)ではなくキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』(1969年)になっていたことも百景社版の特徴だったのですが、どちらもロマンあふるる世紀の名曲であることはいわずもがななのですが、『クリムゾン・キングの宮殿』が頭の中に流れている詩人のほうが詩人としての未来が開けているような気がしました、なんとなく。『天国への階段』は盛り上がりへの助走が長いし、その助走の哀しさですでにおなかいっぱいになっちゃうという感じがして、老婆を言い負かすというよりも自分の世界にひたりきってしまっているきらいがあるのではなかろうかと。老婆なんか忘れて家に帰っちゃいそうな陶酔感があるんですよね。それよりは外側への力が大きくなっている今回の選曲のほうが、この詩人らしいという気がしました。んまぁ~名曲。

 そんなスピーディな感覚にあふれた『卒塔婆小町』に続くのが『葵上』なのですが、こちらは一転して静かな密室劇のような始まり方をして……やっぱりふたを開けてみれば、あっという間に男と女の回想とも妄想ともつかないイメージの混ざり合った刹那的な燃焼の物語になっています。『卒塔婆小町』もそうなのですが、他人の頭の中にできているはずの情景にいともたやすくダイブしたり、ダイブされた側もそれを当たり前のように受け入れて盛り上がってしまうというノリの良さはものすごいと思います。汗が飛び交うカーニバルのようでもあり、命を賭けた闘いのようでもあり。

 ただ、『葵上』はホントにわかりやすいというか、どう見てもコントにしか映らないバカバカしい展開の末に、とばっちりを食った奥さんが突然死んでしまうというラストを迎えてしまいます。
 この流れは原典となった謡曲の『葵上』とほぼ同じというか、さらにその原点となった『源氏物語』の生霊エピソードそのままなわけですが、愛する人を失ってしまう光源氏の悲劇的な人生を象徴する有名なエピソードであるはずなのに、『近代能楽集』では男の徹底的な無責任さが強調されて、死んだ奥さんも必ずしも愛人の生霊にとり殺されたというよりは、むしろ奥さんのほうから「もうええわ!」ってなもんで去っていったように見えるのが、なんともブラックな笑いに満ちています。ロマンスが有り余るんだかなんだか知りませんが、やっぱりここでも愛の才能のある男はズルい。
 ただ、そのズルい男の役を百景社の村上厚二さんが演じているというのがみそで、軽薄なプレイボーイらしい歯の浮くような言葉をどんなに繰り返しても、果ては病気の妻の寝ているベッドの中で愛人と一緒になるためにパンツいっちょの姿になろうとも、どこか一本通った芯があるというか、ぶれない男らしさがあるんですよね。なんか、「他の男だったら許せないが、彼は何か理由があってそうしてるんだろう。」という免罪符を持っているような気にさせる雰囲気があって、そしてそれこそが何をやっても許されるズルい男の、ルックス以上に重要な必須条件だと思うのです。生きていること自体が罪なプレイボーイを村上さんが演じているというキャスティング、一見サプライズのようにみえて実は至極当然な選択であるのだな、と非常に納得できる作品でした。


 さて、この『卒塔婆小町』と『葵上』は、合わせてひとつの公演と銘打たれてもまったく違和感のないつながりというか、表裏一体性のある物語だったし、どちらでもデジカメと『瞳をとじて』が効果的に使用されている共通点があったのですが、そのいっぽうの、本来この公演の幕開けを飾る2作となっていた『邯鄲』と『綾の鼓』は、どうだったのでしょうか?

 これが、実によかったんだなぁ! 特に『邯鄲』は、『近代能楽集』8作上演企画のオープニングに本当にふさわしい作品になっていたと思います。
 『邯鄲』と『綾の鼓』は、確かにクライマックスで『近代能楽集』ならではのひとひねりが効いてはくるのですが、あの『卒塔婆小町』ほどの急展開もなく、『葵上』ほどの三島ワールド(ヨット! ヨットの帆!!)の奔流もない、非常に単純な構造の物語になっているきらいがあります。
 しかし今回の百景社バージョンは、そのへんの単純さをむしろポジティブにとらえて、『邯鄲』には日本風朝食、『綾の鼓』にはカレーライスという実にわかりやすい比喩を用いて臨んだことが大いに奏功していると感じました。

 そして、これまたなつかしいことに、2008年1月の下北沢ザ・スズナリ上演版の『メディア』(原作・エウリピデス)いらい久々に、関美能留演出に「明確な振り付けのある群舞」が戻ってきた! これにはさすがにビックラこきました。
 でも、これは懐古的な気分になるものではなく、百景社単独公演の演出を初めてするのだからオープニングはやっぱりこれで、という実にまっとうな動機に基づいた、きわめて祝祭的なダンスになっていたことにひどく感動いたしました。『ドリフ大爆笑』のオープニングに匹敵するしっくり感のある、ステキな笑顔のならぶ群舞でしたね。

 それにしても、なにゆえ群舞があの曲になったのでしょうか……しかしよくよく考えてみれば、『邯鄲』の次郎くんが独裁政権を樹立したのならば、絶対に具体的な政治機構そっちのけで全力を傾注してこういう華撃団を作りそうな気はしますね。
 邯鄲の仙人がクライマックスで指摘した次郎くんの「生きながら死んでいるのに死にたくない」という矛盾点も、それは仙人の主観というたったひとつのカメラ目線から見てそう映っただけなのであって、仙人の持っているような既存の価値観を否定することを生き甲斐にしていると考えれば、次郎くんの人生に矛盾などひとつも存在しえないわけです。
 それはたぶん、現代の「なんで恥ずかしげもなくコスプレしてイベントなんかに出るんだろう……」とか、「なんで寝る間も惜しんで同人誌なんか作ってコミケに行くんだ?」とか「恋人も作らずにアイドルに働いたお金をつぎ込むなんて、狂ってる!」という視線や非生産性があるからこそ燃えるという「おたくの道」に通じる方向性を持っているのではないのでしょうか。明確な目的地はないんだけど、とりあえず混沌の大海の上で否定の風を真っ向から受けて満々と帆を張るヨット!
 うむ、これがあの名曲の選曲理由だったということなのか! あの子どもじみた次郎くんも、間違いなく「生きないことが生き甲斐」という『卒塔婆小町』の老婆の分身、すなはち三島由紀夫の描くロマンの化身だったわけであり、彼はすでに60年後の現代の若者を予言していたのだ……ていうか、昔から日本の若者は変わってないのかしら。

 ところで話を戻しまして、食べ物。そうなんです。そろそろいい加減に、今回の公演でいちばん感銘を受けたポイントに触れなければ。

 『邯鄲』は、その物語の進行とともに「卵焼き」「納豆」「焼きのり」「焼きじゃけ」「梅ぼし」「ごはん」「みそしる」が一堂に会するという感動的な日本風朝食の叙事詩ともなっていて、『綾の鼓』もまた、華子の「カレー」と岩吉の「ライス」がエンゲージできるのかできないのか、という駆け引きに後半の展開がオーバーラップされています。

 これがすごいんですよ。『邯鄲』は、まるでブルース=リーの『死亡遊戯』のように次郎が各階層の相手と対峙していくというシーン構成になっているのですが、ふつうにそれをやると、ひとつひとつはおもしろくなっても展開がブツ切りになるので、クライマックスへの高まりという点が弱くなる。そこに「ひとつのメニューの完成」という明確な目標を創出して、さらにはそれを、自由気ままな夢の旅に出かけている次郎を待つお菊の存在をキープさせ続けるキーワードにしているという心尽くしはもう……つまり結論から言うのならば、『邯鄲』は発表から実に66年後の2016年、今回の関演出で初めて完成した、と言えるのではないのでしょうか。

 そしてさらに素晴らしいのが『綾の鼓』とカレーライスとの邂逅で、岩吉の華子に思いの通じない無念さというものが、「カレーをかけてもらえないライス」という悲劇的にもほどのある存在によって、観る者の心にすさまじいリアリティをもって迫ってくるわけなのです。
 できたてあつあつのカレーを目の前にしながらも、ライスだけをかみしめる岩吉のせつなさ……これこそが、自死してもなお己を殺した張本人への未練を捨てきれずにいる彼のせつなさを克明に体現しているのです。

 思えば、今回の4作の上演を通じて、各作品で重要な役を演じた百景社の俳優・国末武さんの胃の中には、

「焼肉だけの約2時間後に焼きじゃけだけ、さらにその約1時間後に白ごはんだけ」

 という、FBIのベテラン検死官でも頭をひねらざるを得ない「すれちがいの悲劇」が生じているわけで、「おれたち、もっと幸せな出逢いができたはずだよな……」というせつなさの嵐が巻き起こっているのです。内臓までせつなさのステージになっているとは……役者さんって、すごい。

 さすが、あの『ひかりごけ』で「詰め襟学生服とマクドナルドハンバーガー」という比喩をもって極限状況での飢餓感を舞台化しきった関演出です。今回は『卒塔婆小町』を「焼肉」、『邯鄲』を「日本風朝食」、『綾の鼓』を「カレーとライス」とドッキングさせるという妙技をほどこし、『近代能楽集』を2016年にアップデートさせることに成功しました。『葵上』は……病院の中だから、食べ物の話はひかえたんでしょう。


 そんなこんなで、私は他の『班女』やら『弱法師』やらを観ずに4作品だけを観たのですが、たぶん後半の4作品もすさまじいことになっているんだろうなぁ。今回コンプリートできないのは実に無念なのですが……生きていれば必ずまた観る機会にはめぐりあえるはず!
 来たる2月11日の「全8作上演マラソン」も頑張ってほしいですねぇ。

 百景社さん、ステキな舞台ほんとうにありがとうございました! これからも日本風朝食みたいな「しっくりきてるけど個性派ばっか」な顔ぶれで走り続けてくださいね!!


 ……それにしても、夜の土浦はタクシーが少ない! 駅まで全力疾走しなかったら新幹線に間に合わなくなるとこだったわ……関東はやっぱ、田舎モンに厳しかとこばい!!
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全国城めぐり宣言 第28回 「筑後国 柳川城」資料編

2016年01月17日 21時35分20秒 | 全国城めぐり宣言
筑後国(ちくごのくに)柳川城(やながわじょう)とは……

 柳川城は、福岡県柳川市本城町に存在した城。江戸時代には柳川藩の藩庁が置かれた。別名、舞鶴城。本丸は国史跡に指定されている。西鉄天神大牟田線・柳川駅よりバスまたはタクシーで10分。

 柳川城は、戦国時代初期の大名・蒲池治久(かまち はるひさ)によって文亀年間(1501~04年)に築城された城郭で、城下町は現在の柳川市の原型となった。別名の「舞鶴城」は、鶴が舞うように美しいという城の外観による。
 城郭構造は平城で、寛政三(1791)年に作成された『御家中絵図』によると、外堀に囲まれた「御家中(現在の柳川市城内)」地区の中央やや南西よりに本丸と二ノ丸が東西に並んでおり、内堀を隔てた三ノ丸が本丸と二ノ丸を取り囲み、その外側に武家屋敷が展開していた。三ノ丸には藩主・立花家の一族や家老の屋敷、御厩屋、天満宮、長久寺、常福寺、三ノ丸蔵が置かれた。
 掘に囲まれた天然の要害をなし、城内、市街には無数の堀が縦横に交わり今も柳川の堀川として現存する。蒲池家の城主時代に「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と大友家の陣中で歌われた戯れ歌にもあるように、攻略に3年はかかる九州地方屈指の難攻不落の城と謳われた。

 天守閣は、徳川大名の田中吉政が城主となった慶長六(1601)年に、石垣に囲まれた本丸南西隅に造られた。江戸幕末~明治期に撮影された古写真や史料によると複合式5重5階の層塔型天守であったと考えられており、最上階が肥後国熊本城天守閣などのように雨戸で廻縁(まわりえん)を覆う内縁高欄であり、破風の配置は福山城天守閣や徳川家大坂城天守閣に類似するものであったと推測されている。明治五(1872)年に失火もしくは放火によって焼失した。
 柳川城の櫓は、絵図によって本丸各隅に二重櫓が1基と三重櫓が2基、城内に多聞付き二重櫓が4基あったことが推定されている。
 なお、柳川藩では大奥の機能は江戸後期以降、本丸御殿内ではなく城外の御花畠の御殿にあった。

 天守閣も含めた城郭の主要施設は、明治五年一月の火災により櫓1基、土蔵、厩、城門3棟を残して焼失した。城跡は柳川高等学校と柳城中学校の敷地となり、遺構は天守台跡、石垣、堀が柳川城本丸跡として残っている。天守台跡は柳城中学校の運動場の一角にあり、地元では「へそくり山」と呼ばれ、その勾配が運動部員のトレーニング場として利用されている。このへそくり山の一画には、柳川市出身の詩人・北原白秋(1885~1942年)の句碑が建立されている。
 柳川市の北部に隣接する大川市に柳川城の辻御門が移築され、現存している。

歴史
 戦国時代初期、筑後国南部の領主である蒲池治久が、本城・蒲池城(同じく柳川市内)の支城として築いたものだったが、蒲池家が筑後国全域を統一する戦国大名となった後に、治久の嫡男・鑑久(あきひさ)あるいは孫の鑑盛(あきもり)が柳川城を本城とした。現在も残る城の構造を造ったのは鑑盛である。城の周囲に水路を縦横に張り巡らせた九州屈指の難攻不落の城とされる。鑑盛は兵法者で知将であったが、築城家としても技量が高かったことを示している。
 蒲池鑑盛の次男・蒲池鎮漣(しげなみ)が城主の時代、天正九(1581)年に肥前国の戦国大名・龍造寺隆信とその重臣・鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めたが落城させることはできなかった。同年五月に鎮漣が龍造寺隆信に謀殺され蒲池家が滅亡した後は、鍋島直茂や龍造寺一族の諫早家晴が城主となった。大友家の勇将・立花道雪は、柳川城を懸命に攻めたが落とすことができず悔しがったという。

 豊臣秀吉の九州征伐後は、立花道雪の養子である立花宗茂が筑後国南部13万石の城主となり秀吉に仕えた、慶長五(1600)年の関ヶ原合戦の際は、鍋島直茂が再び柳川城を攻めた。立花宗茂は激戦の後、黒田如水や加藤清正の取り成しで降伏開城している。
 関ヶ原合戦の戦後処理により石田三成側だった立花宗茂は領地を失い、三河国岡崎城主の田中吉政が筑後一国32万5千石に加増転封され柳川城主となる。吉政は筑後国の首府に相応しく城地を拡張した。しかし吉政の没後に田中家が改易になると、立花宗茂が10万9200石を与えられ再度柳川城主となり、以降、柳川城は立花家の居城となった。
 元禄十(1697)年、柳川城の西方に藩主別邸「御花」が造営された。その後、御花は会所として使用され、さらに柳川城本丸御殿から大奥の機能が移転され、「御花畠」と命名された。
 明治維新以降も増改築を繰り返し、明治四十三(1910)年に建築された迎賓館「西洋館」とそれに続く本館、日本庭園である「松濤園」が現存している。
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全国城めぐり宣言 第27回 「豊前国小倉城&長門国赤間神宮」資料編

2016年01月15日 23時25分22秒 | 全国城めぐり宣言
豊前国(ぶぜんのくに)小倉城(こくらじょう)とは……

 小倉城は、現在の福岡県北九州市小倉北区に存在した城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。JR九州の西小倉駅から徒歩で10分、小倉駅から徒歩で15分。

 小倉城は13世紀中期(鎌倉時代中期)に紫川(むらさきがわ)の河口西岸にあった丘に築城されたといわれ、近世の江戸時代前後に戦国武将の毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造りの城郭を築き、江戸幕府大名の細川忠興が南蛮造りの天守閣などを建てた。
 本丸を中心に、南に松丸、北に北ノ丸、それらを囲むように二ノ丸、三ノ丸、外郭が配された梯郭式平城であった。建造物は、野面積みの石垣の上に大天守と平屋の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、各所に狭間3271を配していた。城下は、城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し城内に町を取り込んだ総構え形式を採っていた。現在、一部の石垣と堀が残り、天守閣・櫓・庭園と大名屋敷が再建されている。天守閣の内部は郷土資料館として利用されている。

 天守閣は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守であった。大天守は、最上階の外廻縁(そとまわりえん)が徳川幕府への遠慮により重数を少なく見せるため、また雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りである。さらに最上層の入母屋破風を除き、破風を用いないものであった。現在、建造されている唐造りの天守閣はこの小倉城と周防国岩国城の天守閣の2例しか存在せず、どちらも昭和時代の再建によるものである。
 かつての天守閣は天保八(1837)年に失火によって本丸御殿とともに焼失し、天守台には「御三階櫓」と呼ばれる櫓を建て、天守閣の代用としていたとされる。現在見られる天守閣は、1959年に『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』などの史料をもとに鉄筋コンクリート構造によって復興された。最上層以外の破風構造などは地元観光面への考慮から要望によって付加されたもので、大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などの破風が見られる。
 2004年の発掘調査により、篠崎口から清水門の外堀で畝堀(うねぼり)と堀障子(ほりしょうじ)が発見される。これは忠興時代に造られたものと考えられている。

歴史
文永年間(1264~74年)
 緒方大膳亮帷重が居城した、というのが初見とされる。
元徳二(1330)年
 黒崎土佐守景経が居城。後に守護大名・大内家の持ち城となる。
嘉吉二(1442)年
 太宰少弐頼冬が占領し、文明年間(1469~86年)には菊池家が居城とした。
永禄十二(1569)年
 毛利家と同盟し大友家と対立していた岩屋城主・高橋鑑種が大友家に降伏し、小倉城に領地替えとなる。
天正十五(1587)年
 高橋鑑種の養子・高橋元種が豊臣秀吉の九州征伐に小倉城を開城。豊臣秀吉の重臣であった毛利勝信が豊前国小倉6万石を与えられ小倉城に入城する。この当時の城の様子は史料がなく不明。なお、勝信の嫡男・勝永にも豊前国に1万石が与えられている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となる。
慶長五(1600)年
 関ヶ原の戦いで石田三成に加担した毛利勝信・勝永父子は改易処分となり、論功行賞で細川忠興が豊前国を領する。忠興は初め中津城に入城したが、豊前一国40万石の大名の居城として、1602年から7年かけて毛利家の小倉城を改築し、そこに居城した。なお、この際に城下町も整備され紫川で東西に二分し、西は侍町、東は町人や下級武士の町とした。
寛永九(1632)年
 細川家が肥後国に移ると、譜代大名として播磨国から小笠原忠真が15万石を領して小倉城に入り、以後、小倉藩藩主の居城となる。
天保八(1837)年
 失火により本丸御殿と天守閣が焼失し、それ以後天守閣は再建されなかった。
文久三(1863)年四月
 江戸幕府の攘夷政策にともなう海防強化のため、城の外郭で海からの入口に当たる紫川の河口両岸に東浜台場と西浜台場を造営。
慶応二(1866)年
 第2次長州戦争での小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城へ撤退。同年八月一日、小倉藩は小倉城に火を放ってさらに撤退し、藩主は肥後国熊本藩に退避。家老ら藩首脳陣は小倉の南の香春(かわら)で指揮を執った。
慶応三(1867)年
 長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし小倉城を含む地域は引き続き長州藩の領有となり、小倉城は再建されなかった。


長門国(ながとのくに)赤間神宮(あかまじんぐう)とは……

 赤間神宮は、現在の山口県下関市阿弥陀寺町に存在する神社である。旧社格は「官幣大社」。平安時代末期の壇ノ浦合戦で幼くして崩御した安徳天皇を祀る。
江戸時代までは「安徳天皇御影堂」といい、仏式で祀られていた。源平合戦で滅亡した平家一門を祀る塚があることでも有名であり、怪談『耳なし芳一』の舞台でもある。JR下関駅から徒歩で10分。

 平安時代前期の貞観元(859)年に、阿弥陀寺として開闢された。
 寿永四(1185)年三月二十四日の壇ノ浦合戦で入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、建久二(1191)年、朝廷は赤間関(現在の下関)に安徳帝の御影堂を建立し、帝の母である建礼門院平徳子ゆかりの尼僧に奉仕させた。以後、勅願寺としての崇敬を受ける。
 明治時代の神仏分離政策により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また明治二十二(1889)年七月、歴代天皇陵の治定に際し、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が「擬陵」として公式に治定された。天皇社は1940年8月に官幣大社に昇格し「赤間神宮」に改称した。
 太平洋戦争の空襲により社殿を焼失したが、1965年4月に新社殿が竣工した。

平家一門の墓(七盛塚)…… 壇ノ浦合戦で滅亡した平家一門の合祀墓(供養塔)。平知盛、平教盛ら一門14名の供養塔が並び、名前に「盛」の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する。
水天門 …… 神社の神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門。「水天」の名称は、安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる。
文化財 …… 『長門本平家物語』20巻(重要文化財)、『赤間神宮文書』(重要文化財)

先帝祭
 安徳天皇の命日である毎年5月2~4日(新暦)に行われる年中行事。2日には平家落人の子孫らの参列のもと御陵前での神事を始め、平家一門追悼祭などがある。翌3日には、平家の遺臣・中島四郎太夫が漁師に身をやつして平家再興を計り下関に潜伏、先帝の命日には威儀を正して参拝したという故事に因んで、その子孫に端を発する「中島組」という漁業団体員が参拝する「中島組参拝の式」が行われる。それに次いで「上臈・官女参拝の式(上臈道中)」となるが、これは壇ノ浦合戦の後に地元の住民に救助された建礼門院平徳子の侍女たちが、住民に養われつつ御陵に香花を手向け、先帝の命日には容姿を整えて参拝したことに縁由するという。その後、妓楼を営むようになった住民が、侍女たちやその遺族も没したために、抱える遊女たちにその宮廷装束をまとわせて参拝させるようになり、これが江戸時代に至って、当時存在した稲荷町遊廓の遊女によって受け継がれて現在の上臈道中となったといい、吉原の花魁に模した太夫が禿(かむろ)、上臈、稚児、警固(けいご)らを従え、下関市中を外八文字を踏んで歩く。その他、檀ノ浦では源平合戦の再現合戦が行われる。例祭の翌々4日には神幸祭が行われる。
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全国城めぐり宣言 第26回「筑前国 福岡城」&「筑紫国 鴻臚館」 資料編

2016年01月12日 18時13分10秒 | 全国城めぐり宣言
筑前国(ちくぜんのくに)福岡城(ふくおかじょう)とは……

 福岡城は、福岡県福岡市中央区城内に存在した城。別名・舞鶴城、石城。江戸幕府の外様大名であった福岡藩黒田家の居城だった。国指定史跡。日本100名城第85番。

 福岡城は梯郭式平山城の城郭である。築城当時の史料が少ないため、築城時の城郭は現在の姿とは大幅に異なるとされる。普請奉行は黒田家重臣で後に江戸城や徳川家大坂城の築城にも加わった野口佐助一成である。城地に選ばれた福崎丘陵(当時の那珂郡警固村福崎)は、那珂川を挟んだ博多の西に位置する。構造は本丸を囲むように二ノ丸、その外に大きく三ノ丸と南丸が配され、47の櫓と10の門を配し縄張りの範囲は約25万ヘクタールに及ぶ。西日本では大坂城に次ぐ最大級の規模の城郭で、同じ九州地方に存在した肥後国熊本城よりも巨大であった。東側の那珂川を堀として高い石垣を南北に長く築き、また西側は干潟の「草ヶ江」を大きな池沼堀として活用した。この大堀は現在、「大濠公園」として整備されている。城下町は城の北側(博多湾側)に東西に長く開かれた。現在、大濠公園と道路を挟んだ東の本丸跡は、桜の名所としても有名な「舞鶴公園」となっている。太平洋戦争後、福岡城は城址として公園化され、主にスポーツ施設が多く造られた。
 築城の際、福崎という地名は黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名にちなみ「福岡」と改められた。現在、城跡には3棟の門と4棟の櫓が現存し、多聞櫓とそれに続く二ノ丸南隅櫓は国指定重要文化財に、伝潮見櫓・下ノ橋大手門・祈念櫓・母里太兵衛友信邸長屋門が福岡県指定文化財に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されている。また、多聞櫓に続く二ノ丸北隅櫓も戦後に復元されているが、急激に開発が進み、城内には東西を遮る道路、全国でも珍しい住宅私有地、公営競技場、裁判所、市立美術館といった施設が建築され、城郭遺構の破壊は広範囲に及ぶ。福岡市は2013年、20~30年の長期計画で福岡城の復元整備などを行っていく計画を発表し、2014年、城内の舞鶴中学校跡地に展示施設「福岡城・鴻臚館案内処 三の丸スクエア」をオープンさせた。

 慶長五(1600)年、豊前国中津16万石を領していた戦国大名の黒田孝高・長政父子は、関ヶ原合戦の功績により筑前一国52万3千石を得て、かつて大友家重臣の立花家が築城し、小早川隆景が改修した名島城に入城した。その後、黒田家は立地条件から城下町を拡大する余裕の無かった名島城を廃し、福崎丘陵に新城を築いた。慶長六(1601)年に築城が開始され、7年後の慶長十二(1607)年に完成した。
 以降、黒田家の歴代藩主により二ノ丸御殿や西ノ丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間(1848~61年)に、第11代藩主・黒田長博により大改修が行われた。
 江戸幕府崩壊後の明治四(1871)年、明治政府による廃藩置県により福岡城旧下屋敷に福岡県庁が置かれて福岡城は廃城となり、明治六(1873)年の廃城令発布により日本陸軍第6軍官に属する。その後、多くの建造物が解体もしくは移築された。
 大正九(1920)年、祈念櫓が北九州市八幡東区の大正寺に観音堂として移築されたが、昭和五十八(1983)年に再び元の地に戻された。
 昭和六十二(1987)年、三ノ丸跡地の平和台球場一帯から、平安時代の朝廷の外交施設であった鴻臚館(こうろかん)の遺構が発見された。
 平成十二(2000)年、不審火により下ノ橋大手門の一部が焼失したが、修復工事がおこなわれ、平成二十(2008)年11月1日に一般公開された。

天守閣の存在について
 従来の通説では、正保三(1646)年に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』に天守閣が描かれていなかったため、江戸幕府への配慮から黒田家は福岡城天守閣を造築しなかったとされていた。
 しかし近年、豊前国小倉藩主・細川忠興が三男・忠利へ宛てた元和六(1620)年三月十六日付の書状から、「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った。」という内容の、天守閣の存在を窺わせる記述が発見されたことによって、天守閣があった可能性が示されている。当時、徳川家大坂城の普請のために全国の有力諸大名が築城に駆り出されていたことから、天守閣を解体し築城資材として譲渡することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。
 現在、福岡城や鴻臚館の整備・活用を目的とする NPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守閣の想像図面を製作し、本格的木造建築による再建にむけて運動を展開、将来的には、天守閣をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や大濠公園の一体的な整備を構想している。ただし、九州大学大学院の服部英雄教授(日本中世史研究)は、天守閣について「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」とする非実在説を主張している。
 また服部教授は、不審火によって焼損し2008年に復元された下ノ橋大手門についても、仕切が大きく作られて門の幅が比較的狭くなっている構造について、「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要がある。復元された構造は、史実と異なるのではないか」との異説を示している。


筑紫国(つくしのくに)鴻臚館(こうろかん)とは……
曖昧さ回避 この項目では、平安京・難波・筑紫の3箇所にあった平安時代に設置された外交施設の鴻臚館について説明しています。

 鴻臚館は、飛鳥時代から平安時代にかけて設置されていた、朝廷の外交および海外交易施設である。平安京・難波・筑紫の3ヶ所に存在していたとされ、前身としては筑紫館(つくしのむろつみ)や難波館(なにわのむろつみ)と呼ばれていた。
 「鴻臚館」という名称は、6世紀中盤の北斉帝国時代から中国大陸に存在していた中央官僚機関「九寺(きゅうじ)」の内の外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐帝国の時代になってその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥、「臚」は伝え告げるという意味で、合わせて「鴻臚」は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。なお、九寺における「寺」とは「役所」という意味であり、宗教施設としての寺院が外交機関を兼ねていたということではない。

 筑紫国(現在の福岡県西部)の鴻臚館は、現在の福岡県福岡市中央区城内に存在しており、のちの福岡城の敷地内に位置していた。遺構が見つかっている唯一の鴻臚館である。
 筑紫国の外交施設の原型は、『魏志倭人伝』の作成された3世紀末に遡るとされる。福岡県北西部の糸島半島にあったとされる伊都国(いとこく)には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。ただし、施設名や詳細な場所についての記録は残っていない。

筑紫館
 筑紫国で発生した磐井の乱(527~28年)の終結後、宣化元(536)年に飛鳥朝廷は、那津のほとり(現在の博多湾)に、九州地方の支配と中国大陸の諸国との外交を担う行政機関「遠の朝廷(とおのみかど)」を設置した。推古十七(609)年には「筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)」の名で『日本書紀』に登場している。白村江会戦の翌年664年に、遠の朝廷はより内陸の大宰府(現在の福岡県太宰府市)に移転され、那津のほとりには大宰府の出先機関のひとつとして、海外交流および国防の拠点機能が残された。
 この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館および宿泊所として機能し、海外からの使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や平安京へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府には約16キロメートルの距離があったが、そこには最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が8世紀まで敷設されていたとされる。また、筑紫館は海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられていた。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館は、他にも外国商人らの検問・接待・交易などに用いられていたとされる。

大宰府鴻臚館
 「鴻臚館」という名称は、入唐留学僧だった円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和四(837)年における記述に初めて登場する。
 天安二(858)年には、留学僧・円珍が唐の商人・李延孝の貿易船で帰朝し、鴻臚館の北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。鴻臚館の国際外交施設としての機能は、菅原道真により寛平六(894)年に遣唐使制度が廃止された後にも強まっていった。
 当初、鴻臚館における通商交渉は朝廷が運営していた。商船の到着が鴻臚館から大宰府に通達されると、大宰府から平安京の朝廷へと急使が向かう。そして、平安京から唐物使(からものつかい)という使者が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中の皇族や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げ、残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商完了までの3ヶ月~半年間、鴻臚館に滞在することとなり、宿泊所や食事は鴻臚館が提供した。延喜三(903)年には、朝廷による公式な買上前の貿易を厳禁とする太政官符が発行されており、貿易が官営から私営に移行しつつあったことが窺える。延喜九(909)年以降は、唐物使に代わって大宰府の官僚が交易の実務を直接担当することとなった。
 貞観十一(869)年の新羅入寇の後、朝廷は警固所として鴻臚中島館を増設し、大宰府の兵力を移した。また1019年の刀伊入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これも鴻臚館の警固所を指しているとされる。
 その後も、鴻臚館は北宋帝国・高麗・遼といった諸外国の商人と交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社らといった有力寺社や有力貴族による私的な貿易が盛んになって現在の博多から箱崎にかけての沿岸地域が交易の中心となり、当時は「大宋国商客宿坊」と名を変えていた鴻臚館での貿易は衰退していき、永承二(1047)年に火事があったという記述を最後に、大宰府鴻臚館の存在は文献上から消えることとなる。

建設位置と発掘調査
 江戸時代に福岡藩の学者は、鴻臚館の存在していた位置を博多部官内町(現在の福岡市博多区中呉服町付近)と唱え、この説は大正時代まで広く信じられていた。
 しかし、当時の九州帝国大学医学部教授・中山平次郎(1871~1956年)が、『万葉集』の記述などを検討して福岡城跡内説を提唱した。中山は、『万葉集』の中で遣新羅使が筑紫鴻臚館で詠んだという歌に「志賀の浦」や「志賀の海人」を詠んだものが多いことや、「今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴き」という歌の内容から、博多湾の北部にある志賀島(しかのしま)を望むことができ、山の松にいるセミの鳴き声を聞ける場所は博多部には無いとして、付近の高台という立地条件から福岡城跡を推測した。
 当時、福岡城跡には帝国陸軍歩兵第24連隊が駐屯していたが、1915年の博多どんたくによる同連隊の開放日に中山は兵営内を踏査して古代の瓦を表面採集し、1926年から福岡城跡内説を論文で展開していった。
 戦後の1949年、歩兵第24連隊兵営跡地には平和台野球場が建設されたが、1957年に改修工事が行われた際に約3000点の陶片が出土した。そして1987年の球場外野席改修工事に伴う発掘調査で、それまで破壊されたとみなされてきた遺構の一部が良好な状態で発見され、残る遺構も同様に残存している可能性が急浮上した。
 平和台球場は、福岡ダイエーホークスが1993年に本拠地を福岡ドームに移した後、歴史公園整備事業の開始に伴って1997年に閉鎖した。その後、スタンド等の建築物を解体した1999年から本格的な発掘調査が続けられており、2004年5月には国史跡に指定された。
 発掘調査によって木簡や瓦類が出土し、他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペルシアガラスが出土し、鴻臚館の時代的変遷も確認できるようになった。ただし、9世紀後半からの遺構は福岡城の築城によって破壊されている。奈良時代のトイレ遺構の寄生虫卵分析により、豚や猪を常食していた外国人のトイレと日本人のトイレが別々に設けられていたことが判明している。さらに、男女別のトイレであり、トイレットペーパーには籌木(ちゅうぎ)という棒片が使われていたことも判明している。
 発掘調査が終了した南側の遺構には1995年に「鴻臚館跡展示館」が建てられ、検出された遺構や出土した遺物が展示されている。

難波の鴻臚館
 難波の鴻臚館は難波津(なにわつ)にあったとされ、現在の大阪府大阪市中央区にあったと考えられる。
 古墳時代から畿内地方の重要な港として機能していた難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体六(512)年12月に百済王国の使者が朝鮮半島南部の任那地方の割譲を求めて滞在していたという記述がある。これが、外国使節を宿泊させる難波津の施設の初見である。
 欽明二十二(561)年には、「難波大郡(なにわのおおごおり)」にて百済と新羅の使者を接待したという記述があり、推古十六(608)年には、隋帝国皇帝・煬帝の大使・裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫館に滞在させ、その間に難波の「高麗館(こまのむろつみ)」に新館を建造して歓迎の準備を整えたという記述がある。
 「鴻臚館」という名称が難波館に用いられ始めた年代は定かではないが、『続日本後紀』によると、承和十一(844)年十月に難波鴻臚館が摂津国国府の政庁に転用され廃止されたという記録が残っている。

平安京の鴻臚館
 平安京の遷都が延暦十三(794)年だったため、平安京の鴻臚館は3つの鴻臚館の中で最も新しく設置された迎賓施設となる。
 設立当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていたが、東寺・西寺の建立にともない弘仁年間(810~24年)により北の七条大路に朱雀大路をまたいで「東鴻臚館」・「西鴻臚館」として移転された。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東に位置する。
 平安京の鴻臚館は、主に中国大陸東北部に存在していた渤海王国からの使節を迎賓していた。日本海の北航路を経由して来訪した渤海使は、「能登客院」(現在の石川県羽咋郡志賀町)や「松原客院」(現在の福井県敦賀市)に滞在してから京に上った(発掘調査から、現在の秋田県秋田市に存在していた出羽国秋田城にも同様の迎賓施設があったことが判明している)。渤海使は京の鴻臚館で入朝の儀を行った後に、宮廷の財産を管理する内蔵寮(くらりょう)と交易し、次に都の有力者と、その次に京外の者と交易を行った。しかし、9世紀前半に朝廷は経済的負担の大きい渤海̪使との交易を外国商人の私的交易と解釈して公的に迎賓しない方針に転換し、東鴻臚館は承和六(839)年に典薬寮所管の「御薬園」へと改められ廃止された。渤海王国が遼帝国の侵攻によって926年に滅亡した後に施設の機能はさらに衰え、残る西鴻臚館も鎌倉時代に消失した。一説によると、延喜二十(920)年に廃止されたとされる。
 11世紀初頭に成立したとされる王朝文学『源氏物語』の『第1帖 桐壺』には、鴻臚館に滞在していた高麗の占術師が登場している。なお『源氏物語』は、作者とされる紫式部の時代から見て約100年前の10世紀前半を作中の年代として執筆されたと推定されている。
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