長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

今年もよろしくお願いします&雑感

2024年01月08日 09時23分04秒 | 日記
 2024年、明けましておめでとうございます! そうだいでございます~。

 いや~、ついに今年も始まってしまいましたね、今年が!! 何を言ってるんでしょうか。
 もう、日本人の平均寿命の半分くらいも通り過ぎてしまったわたくしにとりましては、もう今年が何年で自分が何歳かどうかなんか、もはや感慨が湧くわけもないことがらなのですが、まぁそれでも、特に事故もなく大病もせず新年を迎えられたことは、本当にありがたいことであります。

 特に今年は、ねぇ。ホントにホントの初日から、日本には大変な災害が巻き起こっているわけでして。ひどいことです。
 私の住む山形県もいちおう日本海側の県なので、地震の発生後にお気遣いいただくメールも知人・友人・先輩のみなさま方からいただいたのですが、うちは内陸なので本震で家が揺れただけで被害はゼロのようでした。幸運ですね。
 でも思い起こせば、2011年の千葉のアパートは、今回の比じゃなくもっと揺れてたんだっけ。あれも、ひと干支以上昔のことになったのかぁ。時が過ぎるのは……もう言い飽きました。

 そんな感じで、ちょっと今年は元日からお正月気分でなんかいられない状況になっている気がするのですが、こんな月は1月だけにしてほしいですね。ともあれ、さっさと気を引き締めて頑張ってまいる所存です。今年は雪も全然少ないことだし、どんどん外に向かって踏み出していこう!

 あっ、そうそう! 谷口賢志さん、ご結婚まことにおめでとうございます!! ほんと、令和6年のお正月の良いニュースはこれだけですよ。

 そんでま、特にここ数日で何があったとかいう訳でもないのですが、いちおう生存確認とご挨拶ということで投稿させていただきました。なので、最近の暮らしっぷりと、夕べついに始まった大河ドラマ最新作『光る君へ』の初回放送を観た感想なんぞを、チョチョイっと。


 昨年から私、現在勤めさせていただいている職場での勤務時間を調整させていただいておりまして、余裕のある時間を確保しやすくなりました。ありがたいことです。
 理由は、心身ともに若くなくなってきたからということもあるのですが、新しい働き方も模索してみたいな~と思い立ったからでありまして、現在のお仕事をセーブさせている分、いちおう新ジャンルに挑戦するための勉強を続けております。
 予定としては、今年いっぱい勉強して、できれば来年にでも独り立ちできれば……と考えているのですが、どこのお仕事も熾烈な実力勝負の世界でありましょうから、どうなることやら。でも、乗り出す以上は悔いの無いように全力で参りたいと思います。ま、まずは焦らずじっくりと。

 それで昨年からは自宅で残業に追われることも少なくなりまして、山形県に帰って来て現在のお仕事を始めてからこっち、実に7~8年以上も買うだけで積ん読状態にしてしまっていた本の数々を、ムチムチとカイコが桑の葉をはむように読んで消化しております。飛ばし読みをしても意味はありませんから、そこは腰を落ち着けてゆっくりと。
 それにしても、私も歳とったなぁとしみじみ実感してしまうのは、ベッドで横になりながら読書することができなくなったことね! 2ページくらい読んだら必ず眠くなっちゃうんですよ。嗚呼、物語に夢中になって気がつけば徹夜をしていた、あの集中力と体力は、いずこ……
 まぁそういうこともありまして、昨年は私の人生史上で初めて「趣味・喫茶店めぐり」が確立した記念すべき年でもありました。なんだ、そのシャレオツなプロフィールは!! お前もえらくなったもんじゃのう!!
 でも、人のいる空間に出向いて読まないと眠くなっちゃうんだもん……近所のお店から、手当たり次第に通う日々であります。もしあなたの町の喫茶店に、猫背で眉間にしわを寄せて文庫本にかじりついているヘンなおっさんがいたら、それはそうだいかも知れませんよ……(『魔法使いサリー』完)

 ほんと、昨年になってやっと読めた本が「2017年」の刊行だなんて、ざらですからね。読まれずに、さぞ無念だったことじゃろう……成仏してくれ!!

 「消化」といえば、もしかしたらもうお気づきという超奇特な方もおられるかも知れませんが、読書以外の時間の使い方として、我が『長岡京エイリアン』にて、主に私が山形で働き始めた2015年あたりから爆発的に増加した「 Wikipediaの記事をのっけただけで本文がちっとも書かれやしない」塩漬け記事の再始動・完成も、ほんとにおっせーペースなのですが、昨年から少しずつ始めております。
 これまた、4~5年は凍結状態になっているタイトルがゴロッゴロ横たわっていて本当になさけない体たらくなのですが、気の向いた記事からランダムにつづっておりますので、もしおヒマでしたら、「あの話題どうなってるんだろう」みたいな感じでたまに過去記事を覗いていただければ望外の喜びであります。ご覧の通りの自己満足の零細ブログでございますし需要があるかどうかわかったもんじゃないので、いちいち「20××年×月の記事を完成させました~。」みたいな通知はしませんが、地味にやっておりますので、どうぞよろしくお願い致します。

 こんな感じで、昔したためたノートやメモをひっぱり出して過去の亡霊記事の復活にも注力しております都合上、例年どおりに今年のブログ記事もアップは月1~2回ぐらいの生存確認ペースになるかと思いますが、面白い映画を観た時などに随時つづるつもりですので、長い目でお見守りください。たぶん、今年ものんきに生きていきます!

 面白い映画と言えば、昨年も映画館に足を運んでいろいろ楽しみましたので、せっかくですからランキングでもつけときますか。どうにもこうにも個人ブログだにゃ~。

≪けっこう観たんですよ 極私的2023年公開の映画ベスト10≫
1位『ベネデッタ』 監督・ポール=ヴァーホーヴェン(3月鑑賞)
2位『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』 監督・古賀豪(12月鑑賞)
3位『マッドゴッド』 監督・フィル=ティペット(1月鑑賞)
4位『バビロン』 監督・デイミアン=チャゼル(2月鑑賞)
5位『プリキュアオールスターズF 』 監督・田中裕太(9月鑑賞)
6位『地球防衛軍 4Kリマスター版』 監督・本多猪四郎(8月鑑賞)
7位『バービー』 監督・グレタ=ガーウィグ(8月鑑賞)
8位『ヒトラーのための虐殺会議』 監督・マッティ=ゲショネック(3月鑑賞)
9位『フェイブルマンズ』 監督・スティーヴン=スピルバーグ(4月鑑賞)
10位『ザ・フラッシュ』 監督・アンディ=ムスキエティ(6月鑑賞)

 ざっとこんな感じでしょうか。順当ですよね?
 「あれっ? もっと他の映画の感想、記事にしてたじゃない?」と思われる方もおられるかと思いますが、『レジェンド&バタフライ』とか『シン・仮面ライダー』とか、『ハロウィン THE END』、『ドラキュラ デメテル号最期の航海』、『ゴジラ -1.0』、『首』といったその他もろもろの作品はぜんぶ11位以下です。さんざん記事のネタにしておいてこの扱い……でも、こんなもんよね。信長だライダーだゴジラだという超有名コンテンツにあぐらをかいてるとは言いませんが、「攻め」の姿勢が足りないような気がしたので。その点、『ゲゲゲの謎』や『オールスターズF 』は、鬼太郎や現役ひろプリ組の人気に全く頼ろうとしないヒリヒリした緊張感を感じたので、そこが全然違うと思った次第です。1位は本当は2023年の映画ではないのですが、とにかく圧倒的でした。3位もそうですが、じいちゃんヤバすぎ!!

 結局、昨年は2~30本映画館で映画を観たのですが、ちょっと今年はそのペースは難しいかも。でも、アリ=アスター監督の最新作とか『ジョーカー2』とか、いよいよ日本公開の『オッペンハイマー』とかは必ず観る予定です。え? 『ゴジラ×コング』? 知らん。
 実はもう一つ、これは絶対に観なきゃという作品があるのですが、それは次の話題にからめて。

 いや~、大河ドラマ『光る君へ』、ついにスタートしましたね!
 60作以上の悠久の歴史を持つ NHK大河ドラマの中でも初の平安時代中期を舞台とした作品なのですが、華々しい合戦も無いし(刀伊入寇は大戦争だけど)、誰もが聞いたことはあるというレベルの歴史上の偉人も藤原道長と紫式部と清少納言くらい、出てくる奴はのきなみ藤原さんばっかという、なかなかハードルの高い作品かと思うのですが、初回からそうとうに飛ばしまくる展開でしたね! いや~大石静脚本、エンジンふかしまくり!!
 大石静作品の大河ドラマといえば、あの『功名が辻』(2006年)があったわけなのですが、登場人物たちの動向がそこそこ詳しく記録に残っている戦国時代末期を舞台とした前作と違って、今回は肝心の主人公でさえ半生がほとんどはっきりしていない位の自由度ですから、史実がどうとか堅苦しくかまえずに大石静ワールドのフィクションとして楽しむべきですよね。なんか、第1回から「ハウス世界名作劇場」なみに主人公の家庭に降りかかる悲劇……容赦ないな!
 まず、第1回は主人公の幼少時代なので、主演の吉高さんと柄本さんはまだ出てこないのですが、吉高さんの幼少期を演じるのが、あの『鎌倉殿の13人』で悲劇の大姫を演じた子役さんだって言うんだから、なんかイヤな予感がしたんだよなぁ! そしたらあの展開なんだもの。子役さん、キツすぎるだろ!!
 でも、ただ主人公を悲劇のヒロインにするだけでなく、「わたくしは帝の血を引く姫なのよ……」などという妄想を炸裂させる「ちょっとヘンな娘」というクセをつけるあたり、さすがは大石脚本という余裕を感じました。そうそう、今回のドラマの主人公は、将軍でもお姫さまでもなく「趣味で小説を書いている家庭教師」なんですもんね。そのくらいの変人で当り前よ!

 まだまだ登場人物は出そろっていないのですが、ともかく第1回の話題をかっさらっていったのは、藤原道長の母・時姫役を演じる三石琴乃さんと、うさんくさいにも程のある中流貴族・安倍晴明を演じるユースケ・サンタマリアのお2人だったかと思います。

 三石さんはもう、過去の大河ドラマにおける声優出演枠と比較しても破格の出ずっぱり大活躍でしたよね! 『軍師官兵衛』で安国寺恵瓊を演じた山路和弘さんもかなり重要だったけど、三石さんは十二単姿でゴージャスだし、娘役の吉田羊さんとどっちが母親なのか分からなくなるくらいの美しさ……とまではいかないけど、素晴らしかった。詮子がちょっと大人びすぎてるのよね。
 三石さんがお出ましになって第1回のタイトルが『約束の月』ってんですから、これはもう確信犯だろう! おい道兼、月に代わっておしおきされなかっただけ、命冥加だと思えい!!
 たぶんこれ、三石さん演じる時姫が、道長かみひろに『かぐや姫の物語』の話をするシーン、絶対にあるぞ! 非常にたのすみだ。

 そしてもう一人の大注目人物である安倍晴明(あべのはるあきら!)役のユースケさんなのですが、冒頭から登場して、本業の天文観察のお仕事風景を見せてくれます。この調子で、怨霊を調伏したり式神に酒をつがせて昼間っから飲んだくれたり、スケートリンクでくるくる回るだけが陰陽師ではないぞという、下っ端国家公務員としての実態を明らかにしてほしいと思います。でも、主人公のみひろがまだまだ幼少の段階で晴明はご覧の通りの老成っぷりですので、果たして放送第何回くらいまで顔を出してくれるのか……注目していきたいですね。
 そうとう昔の話になるのですが、ここらへんの紫式部、藤原道長と安倍晴明の時代的な世代関係は、我が『長岡京エイリアン』で映画『源氏物語 千年の謎』(2011年)を扱った時の記事で触れておりますので、お時間がありましたら是非そちらをご照覧ください。大滝秀治さんの晴明、観たかった~!!
 ちなみに、第1回の時代設定は貞元元(977)年ですが、この時点で史実の晴明は数え年57歳です。没年は寛弘二(1005)年。命みじかし、励めよ晴明!!

 さらにちなみに触れておきますと、道長の父である右大臣・藤原兼家の上司にしてライバルというポジションにある左大臣・源雅信(「まさざね」と読むのが正しい 演・益岡徹)という人物が劇中に登場しますが、その名からも予想のつく通り、彼はかの晴明のワトスン役として名高い貴族・源博雅の親戚にあたります。雅信卿のおじいさんと博雅卿のひいおじいさんが同じ宇多天皇なんですね。年齢に関しては、『光る君へ』第1回時点の貞元元(977)年でいうと雅信卿は58歳、博雅卿はドラマには出てきませんが60歳ということになります。博雅卿の没年は天元三(980)年……博雅くん、出るなら今しかない!!

 それはともかくとして、「顔が真っ白けなニヤニヤ美青年妖術師」という20年ものの古臭いイメージを一掃してもらうべく、ユースケさんには『麒麟がくる』の朝倉義景同様に頑張っていただきたいと思います。急急如律令!!
 でも、まず晴明にくっついて離れない従者の役を DAIKIさんが演じている時点で、あの実相寺昭雄監督の映画『帝都物語』(1988年)へのオマージュになっていることは間違いありませんね。志高し! いいですよ~。
 あっ、そういえば、その狩衣姿、最近どこかで見たことがあるな~と思ったら、『光る君へ』で藤原宣孝の役を演じる佐々木蔵之介さんも安倍晴明を演じたことがありましたよね(2020年のスペシャルドラマ『陰陽師』)……けっこう面白かったんですけど、なんであのタイミングで放送されたんだろう!?

 そしてそして、陰陽師・安倍晴明といえば忘れてならないのは、今年の春に夢枕獏さんの『陰陽師』シリーズの映画最新作が公開されるんですって!
 タイトル、その名も『陰陽師0(ゼロ)』!! え、えぇ~……主演・山崎賢人!? えぇ~……

 なんか、映画館でチラシを見かけた時、その古色蒼然過ぎるビジュアルイメージにかなりゲンナリして「誰が観に行くか!!」と舌打ちをしたのですが(そのくらい、私の心に映画『陰陽師Ⅱ』のトラウマは深く根差しているのです)、チラシの隅っこに小さく書いてあった、

監督・佐藤嗣麻子

 という文字を見て、俄然ぜったいに観に行こうと翻心したのでありました。それを早く言いなさい。
 でも、予告編を観るだにそうとうキッツい鑑賞になりそうなんですが……陰陽師の仕事は天気予報とカレンダー作りでしょ!!
 ここは、監督の腕を信じて耐えよう。染谷将太さんも奈緒さんも出るし、たぶん佐藤嗣麻子監督のダンナの白組さんも手伝ってくれるだろうし。

 確かに、大河ドラマに晴明が出るっていうんですから、今年2024年に晴明の映画をやらない手はありませんよね。ま、がんばって……

 最後に話を『光る君へ』に戻しますが、私は当然、毎週チェックしていきたいと思います。まず、今まで全く触れられなかった時代に挑戦するという意気込みがいいですよね。大石静脚本も、その実力を堪能させていただこうと思います。できれば『軍師官兵衛』みたいな全話視聴日記もつけたいくらいなのですが、さすがにそれはムリか。

 それに、やっぱり吉高由里子さんの活躍が大いに楽しみです!
 吉高さんといえば、TV でしょっちゅう流れている銀行の CMを観てもわかる通り、その美貌からはちょっと想像がつかないヘンな声質が個性的ですよね。でも、私はそんな彼女の「へげ声」とでも表現したくなるようなウィークポイントが最高だと思うんだよな! あれはまさに、さとう珠緒さん以来の逸材ですよ。
 なんだかんだ言っても吉高さんは朝ドラ主演の実績もある第一線の女優さんですし、紫式部は美声でなければならないなんていう縛りもありませんから、オンリーワンの魅力を発揮して走りきってほしいなと思います。ヘンな声、ばんざい!!

 あと、『光る君へ』のオープニングもなかなか斬新でしたよね。
 オープニング映像に主演の人が出ること自体は、昨今の大河ドラマでは別に珍しくもなんともないのですが、後半の盛り上がりのところで吉高さんのかんばせがやっと鮮明に映ってカメラ目線になり、そこに2回目のタイトルだめ押しドーン!という演出はちょっとビックリしました。吉高さんをグイグイ推しますね~!!

 でもあれ多分、紫式部は部屋とか外の野っぱらをうわの空でほっつき歩きながら手を上下させて、「こいつとそいつがくっついて、それをあいつが知ってドロドロの修羅場に……よし、いける!」みたいに『源氏物語』のゲスい展開を悶々と練っているところなんでしょうね。
 今も昔も、日本人は下世話なゴシップが好きよのう!

 ま、今年もしゃっちょこばらず気負わずに、自分に正直に生きてまいりましょう~。
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過分のしあわせ!!そうだい二度目の上洛 ~奈良の都もすばらしかった~

2019年01月15日 21時10分06秒 | 日記
そうだいの第二次上洛(2019年1月12~14日)
 いや~まさか、生きているうちに2度も京の都の土を踏めるとは! 職員旅行さまさまでございます……今回も、有意義な旅にするぞ!!

行程
一日目(曇天)
・天台宗 頂法寺六角堂
 …… トップバッターは、京都市街地の宿泊ホテルから歩いていける距離にあった、こちら。ほんとにビル街の谷間にひっそりとたたずんでいるといった感じだが、やはり参拝客は多い。普通の入母屋造りの本堂の斜め奥に、二階建ての六角堂が半分融合しているような形でつながっているため、巨大なサザエのような異様な迫力がある。この複雑なデザインイメージは、いい! 明治建築になるが、山形の旧・済生館病院本館に通じる空間密度を感じました。あのゴツゴツ、ゴチャゴチャ感……たまんない!!

・京都万華鏡ミュージアム
 …… さらに、歩いていける距離にあった万華鏡博物館へ。これまたささやかな印象の建物なのだが、中身は充実しまくりで、精巧な手作りカレイドスコープやらテレイドスコープの宝石箱! こちらも親子客やカップル客でにぎわっていました。宮城県・仙台の秋保温泉にある仙台万華鏡美術館も華やかで良いのですが、こちらも負けていない、古都らしいおしゃれな雰囲気がありました。

・真言宗根本道場 東寺
 …… 前回に来た時は新幹線で帰る直前だったので五重塔のチラ見くらいしかできなかった東寺を、じっくりと拝観。金堂、講堂、食堂、五重塔~!! ほんとにこれだけのオールスターラインナップが現代も楽しめるのは、素晴らしい!! この東寺一ヶ所だけで、普通の観光地だったら十二分に成立してもいいくらいの見どころ満載っぷり。薬師如来さま、大日如来さま、四天王さまといった仏教界大スターも実際に拝むことができて、もう言うことありません……こういった神社仏閣は、実際に今もおつとめをしている神人さまやお坊様がいらっしゃる場合が多いので、城郭とは違った「生きている感覚」が建物にも横溢しているのがいいですよね。どんなに古い木材でできていても、やわらかさがあるんだよなぁ。使う人がいなくなった途端に建物が朽ちて崩壊するっていうのも、わかる気がします。

・京都水族館
 …… 東寺でかなり時間を使って夕方になりかけていたのですが、無理をして最後に、歩いていける距離にあった京都水族館へ。早足での観覧になっちゃったのでゆっくりイルカショーも楽しめなかったのですが、異様にオオサンショウウオを推していたのが印象的でした。オオサンショウウオのぬいぐるみ買いたかったけど……止めておいただけ、俺も高校修学旅行の時より成長したのだなぁ。そりゃ四半世紀経ってんだから当たり前か。

二日目(晴天)
・宇治市源氏物語ミュージアム
 …… ここ、行きたかったんだよな~!! 開館直後だったのでいい感じに中も閑散としていて、かなりお金のかかっている展示物や寝殿造りの実物大セットでよみがえる平安王朝の世界を堪能することができました。展示上映の映像作品も、ホリ・ヒロシの人形劇に白石加代子さまのドラマの二本立てだぜ!? すごすぎ……平安貴族の香合再現チャレンジコーナーで完全正解したのがうれしかったけど、スタンプだけじゃなくて、なんかもうちょっと当て甲斐のあるノベリティ、ないかなぁ!?
 日本史の世界で親しんでいると、京の都に宇治なんてすぐ近所のような印象を受けるのですが、各駅停車の電車で約30分かかったのが地味に驚きでした。けっこう遠い!

・世界文化遺産 平等院鳳凰堂
 …… 来た来た来た~! 宇治と言えば、鳳凰堂!! さすがにこちらは外国人のお客さんもわんさかいて超満員でしたね~。お天気も暑いくらいのピーカンで、まさに拝観日和でしたわ。こちらもまた、うわさに聞いていた通りのコンパクトな建築だったのですが、藤原頼通殿下の執着した「極楽の可視化」システムが現代でもちゃんと機能して、多くの人を魅了していることを確認いたしました。お土産で買った「鳳凰堂の天人トランプ」が、非常に良かった。子ども、喜ばねぇ~!!

・源三位頼政公の墓
 …… 平等院のかたわらにひっそりとたたずむ、日本を代表するモンスターハンター・源頼政公の墓も忘れずにお参り。大河ドラマ『義経』で頼政を演じられた最晩年の丹波哲郎さん、かなりやつれてたけど凄絶でカッコよかったなぁ~!
 頼政公は、さすがに日本史でも以仁王の挙兵にかかわる超重要人物なので大河ドラマとかでしょっちゅうピックアップされるんだけど、肝心カナメの「大妖怪・ぬえ」が、21世紀に入ってからあんまりいいポジションで復活していないのが、ぬえで大学の卒論を書いた身としてはちょっと寂しいですね。って言っても、復活したのはアニメ第5・6期の『ゲゲゲの鬼太郎』だけなんですが、5期はよくわかんない正義の神獣になっちゃったし、6期は地獄四天王の最弱のかませだもんねぇ。もうちょっとしっかりしてヨ!! まぁ、名前をつまみ食いしただけの『ぬらりひょんの孫』よりは3億倍ましですが。

・山城国 槇島城
 …… そしてそして! 宇治に来た最大の理由は、平等院じゃなくて、こっち!! 足利家の室町幕府終焉の地・槇島城よ!! 最後の将軍・足利義昭公がここにあった槇島城に籠城し、にっくき織田信長に対して最後の挙兵を断行し、2週間ちょいで降伏した(実際の戦闘は半日弱)地なのです。これは行かないわけにはいきません。んで、実際に行ってみたんだけど……いまやここは、当時あった巨椋池(おぐらいけ)も完全に干拓されてごくごくフツーの住宅街と化し、城跡の雰囲気をいっさい感じさせないこぢんまりとした公園になっていました。親子が1~2組、お天気の良い昼近くにブランコやシーソーでたわむれている光景……なんか、平等院とは真逆のベクトルで涙が出てきてしまいました。槇島城の解説板はあったけど、ねぇ。まぁ、来てよかった。山形から宇治に来たのに、なぜか15年以上独り暮らしをしていた千葉の、そこらじゅうにあった公園のある平和な風景を思い出してしんみりしちゃいました。なんでわざわざ京都に来て、千葉のノスタルジィ!?

・法相宗大本山 興福寺
 ……ここからは、京を離れて奈良県の史跡めぐりですね。んもぉ~言うことありません。さすがは、天下の藤原一族ゆかりの氏寺!! 足利義昭公も門跡だったし、ここも行かなきゃ。中金堂、東金堂、五重塔、国宝館!! もう、おなかいっぱいでございます。阿修羅像はやっぱスゲー!!
仏像もすごいんだけど、それを守る建造物の大きさ、黒さ、そしてやわらかさが、悠久の木造建築独特の力をはなち続けていますね。感服。

・華厳宗大本山 東大寺
 ……奈良に来たからには、ここにも行っとかなきゃ! 東寺も平等院も興福寺も観光客であふれかえっていましたが、やっぱりこの東大寺がにぎわいナンバーワンですよね。だって、人海にシカがプラスされちゃってんだもんね! 熱中症やら人酔いやらに合わせて、毘盧遮那仏をはじめとする巨大な仏像のサイズ酔いにもクラクラきてしまいました。センターの大仏様で目立たないんだけど、周りにいる如意輪観音さま、虚空蔵菩薩さま、広目天さまと多聞天さまのスペシャルユニットもたいがい巨大ですよね。ここに怪獣の恐怖感を見出した奥浩哉先生は、やはり天才。

・大和国 多聞山城
 ……ここも、宇治の槇島城にならんで今回のメインスポットと目していた、あの「元祖覇王(?)」こと松永弾正久秀の政治的本拠だった城!!の、跡。実に哀しいことに、城の雰囲気を残すものは空堀跡くらいで、大部分は現在、奈良市立若草中学校の敷地になっておりますが……槇島城よりはマシよね。実際の敷地には石碑くらいしか残っていないのですが、すぐふもとの町にある若草公民館の中に、城の再現ミニチュアや資料が展示されていました。今でも、松永弾正の城は地域に愛されているんですねぇ。角川映画の『伊賀忍法帖』が公開された時は、地元のみなさんはどんなリアクションだったんでしょうかね……今でもタブーだったりして。とにかく、本丸のあった若草中学校の高さから見る奈良の町は、東大寺もバッチリ見れて最高の立地でした。多聞山城のすぐ隣に、あの聖武天皇夫妻の陵があるのも、うなずけますね。

・国営平城京跡歴史公園
 ……またしても一日があっという間に過ぎて夕刻が迫ってきていたのですが、無理をして平城宮跡にも行ってきました。大極殿とか朱雀門とか遣唐使船とか、当然復元ではあるのですが、やっぱり鮮やかな朱に彩られた実物大の迫力はいいですね! ロマンたっぷりなのですが、時間の都合で展示館に入れずに周辺をチャチャっと早足で歩いて退散しなければならなかったのが、無念! こりゃまた行かなきゃダメだな。広大な公園自体はだだっ広くて風情があるのですが、ちょっと離れるとすぐにビル街があるのが、古都なだけではない奈良県の今を伝えているようで印象的でした。さすがに、そこは山形とは全然違いますよね。

三日目(晴天)
・天智天皇山科稜
 ……今回は「足利義昭公ゆかりの地を歩く」というコンセプトで、槇島城、興福寺と来たわけだったのですが、最終日は、めでたく室町幕府第15代将軍となった義昭公が、三好三人衆の恐怖の襲来を受けた「本圀寺合戦」で有名な本圀寺を探訪することにしました。とは言いましても、実は現存する本圀寺は、義昭公が仮の幕府御所とした当時の土地(六条堀川)とは全く別の場所にあり、京の中心からけっこう離れた山科区の山の中なんですよね。でも、現存する以上はやっぱり行った方がいいんじゃなかろうかということで訪れたわけなんですが、非常に静かで自然豊かな散歩に格好の土地でした。そして、本圀寺のふもとあたりには、あの天智天皇の陵もひっそりとあったのです。参拝客は一人もいませんでしたが、帝のみささぎって、散策するには最高の空間ですね……山形には無い場所なので(古墳はいっぱいあるけど)、思いっきり、その独特な空気を感じてきました。

・日蓮宗大本山 本圀寺
 ……こちらもやはり参拝客は全然いなかったのですが、近くの琵琶湖第一疎水の方は散歩してる人もいたかな。最終日は新幹線の時間もあってあんまり長くはいられなかったのですが、朝のおいしい空気を、とってもぜいたくな場所でいただいてきましたよ。ありがてぇありがてぇ! 決して大きな寺院ではないようですが、山門や本堂がやたらと豪快な造りだったなぁ。さすが、あの加藤清正公と縁があるだけはある!


 そんなこんなで、前回は歴代足利将軍~足利義輝公ゆかりの地を、今回は足利義昭公ゆかりの地を訪れることをメインテーマに楽しんできた京都・奈良旅行でありました。2回もみやこに行っちゃったよ……過分のしあわせ!!
 次回はいつ行けることやら。今度は大坂にも足を運んでみたいね! あっ、忘れちゃいけない桃山・伏見城! まだまだ、畿内は広大だわ……



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生涯初、念願の上洛!! ~京のみやこはやはり素晴らしかった~

2017年01月10日 15時32分16秒 | 日記
そうだいの第一次上洛(2017年1月7~9日)

行程
一日目(晴天)
・世界遺産 元離宮 二条城
 ……大政奉還の二ノ丸大広間! 意外とそんなに広くはなかったけど、やっぱり幕府の威光を十二分に感じさせる格式美でした。
・臨済宗天龍寺派 等持院
 ……きたきたきた!! 夢にまで見た足利歴代将軍木像!! 霊陽院義昭公には無論のことお賽銭を寄進させていただきました。
・京都市考古資料館
 ……こういうなんでもない入館無料の施設でさえ展示品のクオリティが高い高い! 建物自体に歴史があるもんねぇ(1914年築)。
・白峯神宮
 ……崇徳帝のご聖地と思ってはりきって訪れたら、もともとその土地が幕末まで雨林公家の飛鳥井家の邸宅だったということで、蹴鞠=サッカーの聖地になってました。おどろおどろしいどころか、洛中でもまれに見る元気ハツラツでスポーティな神社に!
・晴明神社
 ……大学時代に完全にミーハーなファンであった以上、ここは行かざるを得なかった。今でも人気ありますねー。売店にあった色あせまくりの野村萬斎版『陰陽師』シリーズのポスターに涙が出ました。ろくなセリフもない式神やってたおねぇちゃんが国会議員様になる時代。おたかさんはお元気でしょうか。

二日目(大雨)
・琵琶湖疎水分線 哲学の道
 ……あの西田きたろう博士が散策したという美しい小径。私もいちおう考えごとをしながら歩いてみましたが、たぶん頭脳パン1コぶんくらいはかしこくなったと思います。
・世界文化遺産 東山慈照寺銀閣
 ……奇人変人オンパレードの足利将軍家の中でも随一のめんどくささを誇る慈照院義政公の宝箱。雨の日でもちゃんと美しいのがすごすぎる!
・山城国 中尾城
 ……慈照寺の裏山が、万松院義晴公・光源院義輝公父子の京奪回の夢を賭けた山城だったということで探訪。案内板が撤去されているという衝撃の事実と大雨にもめげず登るが、石垣がちょっと残ってるくらいで、たった2年の城の命にあはれを感じざるを得ない物寂しさでした。風雨に柔らかい土でできた階段も消えかかり、むしろ他に人がいたら怖いという観光スポットに大満足! 遭難しかけてこその山城探訪よ。
・山城国 将軍山城
 ……に行こうと思ったのですが、道を間違えてその手前の京都造形芸術大学のキャンパスをほっつき歩いただけで退散。でも、大学も山城みたいに複雑な斜面配置になってた! いい大学だなぁ。
・幕末維新ミュージアム 霊山歴史館
 ……もともとこれも義輝公の霊山城に行きたくて訪れたのですが、予想以上に充実した幕末史料の数々にたちまち夢中に。火縄銃とゲベール銃の性能の差に長州藩の快進撃も大納得。火縄銃おもいし(約5.5キロ)!!
・明治維新史跡 霊山官修墳墓 維新の道
 ……維新志士1356名が眠るというものすごい墓地。おめあてはもちろん河上彦斎さま。くずりゅーせん!!
・法観寺 五重塔
 ……でかいでかい! 小さな町並みにぬっと現れる高さ約50メートルの威容は怪獣そのもの。ブラックキングかアーストロン的なスタンダードスタイル。
・平安神宮
 ……ちょっとしか見られなかったけど、応天門はいいねぇ。
・京都市美術館
 ……やってたのは日展でしたが、展示品よりも1933年開館の建物自体が最高でした。怪人二十面相が出てきそうな古風さにメロメロ! 吉居寛子さんの彫像とナカジマカツさんの絵画が良かった。

三日目(曇天)
・上御霊神社
 ……崇徳帝に安倍晴明ときたら、残るはやっぱり崇道帝でしょ!! 朝の境内の静かな雰囲気が素晴らしかった。修復寄進になる記念Tシャツを買いました。枯れたいいデザイン。
・東寺
 ……時間がなかったのでちょびっとだけ。


 総じて大満足でしたが、足利父子の3山城は、またルートを確認しなおして再探訪だな! 金閣とか清水寺なんかは、いつでもいいや。足は常に鍛えとかないとダメだな~。
 数ある神社の中から、晴明神社を選んでチャレンジした今年初のおみくじの結果は、なんともしょっぱすぎる「末吉」……ちきしょう、蘆屋道満さまにいいつけてやるっ。
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毎日が大ピンチ!! 人間至る所に青山あり……でも、まだまだ生き抜いてくれるわ!!

2016年05月08日 00時00分15秒 | 日記
 うわ~お!! NHK ドラマ『トットチャンネル』で、あのプラチナエース3人組が奇跡の大復活!! でも、セリフがあるのは高橋さんだけでしたね……

 どうもどうも、たいっへんにごぶさたしておりますです、そうだいでございます。

 みなさま、ゴールデンウィークもようよう終わりにけりゆくようですが、元気してますか~?


 わしゃ、もうダメですわ……


 冒頭のような奇跡の出来事があったものですので、よっこらせっとそうとう久しぶりに文章をつらねてみたのですが、まぁそのぉ~、正直なところを言わせていただきますれば、とてもじゃないですが、本年2016年度は、記事を更新できる状況ではなくなっておりまして。

 端的に言えば「仕事が忙しい」の一言に尽きまして、そこはまぁ健康を損ねたとか事故に遭ったとか、記事を打てるような精神状態でなくなったとかいうネガティヴな理由でないところが本当に幸せ者なわけなんですが。

 いや、「仕事が忙しい」なんて、もう何年も前からこのブログで使いまわしてきた言い草だろうと思われる方もいらっしゃるかもしれないのですが、ホントにもう、まさか今年度がこんなに忙しくなるとは思いもよらなかったのよ、あたしゃ……

 私の仕事場は、年度がかわるたびに職場の大幅な人事異動が行われるのですが、わたくし、なにしろそこで働き始めて実質2年目のペーペーですもので、「まさかそこには行かされないだろう……数年後に認められてそこにいけてたら、オレもたいしたもんだよナ。」とたかをくくるようなものすんごい部署もあるんですよ。ところが、まさかのそこに配置されてしまったわけなのです、今年度、わたし!!

 いやぁ……ボス、なんであっしごときがそんな部署を一年間担当しきれるなんて思っちゃったのかなぁ!?

 もちろん、ふられたからには身命を賭して走り切る所存ではあります!! ありまするが、ホントかんべんして~やぁ……という想いで毎日が障害物競走みたいなとてつもない日々を邁進しております。

 もうこうなると、グチなんか言ってるヒマもありゃしません。昨年度なんかはしおらしく「オレ、このお仕事に向いてないかも……」とか、「辞めちゃったら、どんなにか楽だろうか……」なんてことをくよくよ考える瞬間もあったのですが、今年はもう、そんなこと妄想するヒマがあったら手を動かせ! 足を動かせ!! って感じでもう、「仕事はおまえが楽しくしろ!!」っていう心境なのであります。気分はもう、戦争よ!
 たとえば今なんかは、同時に考えなきゃいけないミッションが10コあるという戦況でして……同時にいろんなこと考えなきゃいけないのって、私ほんとうに苦手です。


 思い返せば、このブログを2010年だったかに始めてこのかた、劇団員だったときはお芝居にヒ~ヒ~、大震災があったときは非常事態にヒ~ヒ~、アルバイトをしていたときはスケジュール管理の大変さにヒ~ヒ~、そして去年は初めての就職にヒ~ヒ~と、いちいち弱音を吐きながらえっちらおっちら生きてきたわけですが、今年こそがダントツで生涯いちばんの忙しさ! ヒ~ヒ~じゃない、「ヒー!! ヒー!!」って絶叫してまわりの諸先輩がたに笑われながら突っ走れってなもんなんですよ。笑われてるうちは大丈夫。笑われなくなったらおしめぇよ。

 請け負った責任に対して私の実力がまるでつりあっていないのは、私も職場のみなさまがたもみ~んなご存知の共通認識ですので、そこはひとつ、「へんなおじさんの生きざま見とけやァ!!」の一念で、なるべ~く冗談にならないご迷惑だけは周囲にまき散らさないようにしながら、アハハオホホと楽しくやっていきたいと思います。


 ……というわけでありまして、まぁ……しばらくはまともな記事の更新なんて夢のまた夢であります。来年の3月までは、まぁ望めませんわな。

 先日も東京に行ってお芝居を観てきたのですが、感想記なんて、とてもとても……非常に無念であります。

 最近は休日になればいいアイデアが思いつかないものかと足しげく蔵王温泉に通いつめてぼーっと湯につかっているので、たぶん肌つやと運転テクニックは生涯でいちばん良いコンディションになっているかと思われるのですが、本ブログはまぁ、稼働率3~5パーセントという、半ば冬眠中みたいなていたらくで、なにとぞご寛恕いただきたいと存じます。


 笑顔、笑顔、クライアントと職場のみなみなさまがたのステキな笑顔だけが、日々の糧でございます。


 嗚呼、日本武道館は遠くなりにけり!! 久住さん、ちょっと丸くなりましたよね。
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あ、これ完全に読書メモですんで……気にしないでネ 上

2016年04月17日 13時38分30秒 | 日記
吉川弘文館 人物叢書・第285巻 『最上義光』 伊藤 清郎 2016年3月刊


元弘三(1333)年
六月
 後醍醐天皇(46歳)、鎌倉幕府の滅亡後に京に帰洛し天皇親政を開始する(建武政権)。
 建武政権、鎌倉幕府討滅に大功のあった武将・足利高氏(29歳)を鎮守府将軍ならびに左兵衛督に任命する。
八月
 建武政権、参議・葉室光顕(はるあき 37歳)を出羽守ならびに秋田城介、参議・北畠顕家(16歳)を陸奥守に任命する。
 鎮守府将軍・足利高氏、建武政権の命により武蔵守を兼任し、後醍醐帝より偏諱を拝領し名を「尊氏」とあらためる。
十月
 北畠陸奥守顕家、後醍醐帝の第七皇子・義良親王(のりよし 6歳)を奉じて陸奥国府・多賀城に入城する。
十一月
 北畠陸奥守顕家、多賀城に式評定衆・引付衆・政所・侍所・評定奉行・寺社奉行・安堵奉行を開設し、陸奥国内各地に郡奉行・郡検断を配置する。

建武二(1335)年
七月
 鎌倉幕府執権家の末裔・北条時行(?歳)、亡命先の信濃国諏訪で挙兵し武蔵・相模・駿河国を制圧し鎌倉を奪回する(中先代の乱)。
八月
 建武政権、鎮守府将軍・足利尊氏(31歳)を征東将軍に任命し北条時行の反乱を鎮圧させる。
十一月
 征東将軍・足利尊氏、重臣・斯波高経の嫡男・家長(15歳)を奥州管領に任命し陸奥国に派遣する。
 建武政権、鎌倉で独自に政務を始める征東将軍・足利尊氏に対して全国に征討令を発令する。
 建武政権、北畠陸奥守顕家(18歳)を鎮守府将軍に任命し足利尊氏の征討を命じる。
十二月
 足利尊氏、鎌倉に向かう建武政権の征討軍を駿河・相模国境の箱根竹ノ下合戦で撃破し上洛を開始する。
 鎮守府将軍・北畠顕家、義良親王(8歳)を奉じ兵5万を率いて鎌倉へ進撃を開始する。

延元元(1336)年
正月
 鎮守府将軍・北畠顕家(19歳)ひきいる征討軍、鎌倉を制圧し尊氏軍を追い東海道を西上する。
 足利尊氏(32歳)ひきいる鎌倉軍、上洛し京を制圧する。後醍醐帝(49歳)、比叡山に亡命する。
 征討軍、近江国から侵攻し尊氏軍から京を奪回する。
二月
 建武政権、京奪回の功により北畠顕家を鎮守府大将軍に任命する。
 尊氏軍20万、摂津国豊島河原合戦で征討軍10万に敗れ九州地方に撤退する。
三月
 鎮守府大将軍・北畠顕家、東日本の足利軍掃討のために陸奥国に下向する。
五月
 鎮守府大将軍・北畠顕家、陸奥国府・多賀城に帰還する。
六月
 足利尊氏、西日本の兵力を総動員して上洛し京を再び制圧する。
十一月
 足利尊氏、比叡山の後醍醐帝と和睦し持明院統の光明天皇(15歳)に譲位させ、建武式目を制定する(室町幕府の発足)。
十二月
 後醍醐帝、京を脱出し大和国吉野に亡命、自らの譲位を撤回し南朝政権を発足させる(南北朝時代の開始)。

延元二(1337)年
正月
 鎮守府大将軍・北畠顕家(20歳)、関東地方の足利軍をにらみ陸奥国府を多賀城から南の霊山城に移す。
八月
 鎮守府大将軍・北畠顕家、建武政権の要請を受け義良親王(10歳)を奉じ兵10万を率いて鎌倉へ進撃を開始する。
十二月
 北畠顕家ひきいる征討軍、鎌倉を制圧し奥州管領・斯波家長(17歳)を討つ。
 北畠軍、第二次上洛を開始し東海道を西上する。
 足利尊氏(33歳)、側近の石塔義房(?歳)を奥州管領に任命し陸奥国に下向させる。

暦応元(1338)年
二月
 鎮守府大将軍・北畠顕家(21歳)の上洛軍、大和国般若坂合戦で幕府軍に敗れ義良親王(11歳)を吉野朝廷へ送還する。
五月
 北畠顕家、和泉国石津合戦で幕府軍に敗れ討死(21歳)。
 吉野朝廷、北畠顕家の弟・顕信(19歳)を陸奥介ならびに鎮守府将軍に任命する。
八月
 足利尊氏(34歳)、征夷大将軍に就任する。

暦応二(1339)年
?月
 鎮守府将軍・北畠顕信(20歳)、陸奥国に下向するが幕府軍の多賀城を攻め落とせず霊山城を拠点とする。

貞和元(1345)年
?月
 将軍・足利尊氏(41歳)、奥州管領・石塔義房(?歳)を解任し、後任に吉良貞家(?歳)と畠山国氏(?歳)を任命し共同統治とする。

貞和三(1347)年
?月
 幕府軍の攻撃により南朝の霊山城が落城し、鎮守府将軍・北畠顕信(28歳)、出羽国に撤退する。

貞和五(1349)年
閏六月
 将軍・足利尊氏(45歳)と弟・足利直義(44歳)の対立が決定的となり幕府が内乱状態となる(観応の擾乱)。
九月
 将軍・足利尊氏、四男・足利基氏(10歳)を初代鎌倉公方に任命し鎌倉に下向させる。

観応二(1351)年
二月
 足利直義派の奥州管領・吉良貞家(?歳)、観応擾乱に乗じて足利尊氏派の奥州管領・畠山国氏(?歳)の居城・陸奥国岩切城を攻め国氏を自害させる。
十一月
 鎮守府将軍・北畠顕信(30歳)、観応擾乱に乗じて出羽国で挙兵し、陸奥国広瀬川合戦で幕府軍を破り陸奥国府・多賀城を奪回する。

文和元(1352)年
三月
 奥州管領・吉良貞家(?歳)、鎮守府将軍・北畠顕信(31歳)の陸奥国多賀城を攻撃し奪回する。顕信、陸奥国南部の宇津峰城に拠点を移す。

文和二(1353)年
五月
 奥州管領・吉良貞家(?歳)、鎮守府将軍・北畠顕信(32歳)の陸奥国宇津峰城を攻め落城させる。顕信、出羽国へ撤退する。

文和三(1354)年
?月
 幕府、奥州管領・吉良貞家(?歳)を解任し初代奥州管領・斯波家長の叔父・斯波家兼(47歳)を奥州管領に任命する。

延文元(1356)年
六月
 奥州管領・斯波家兼、死去(49歳)。家兼の嫡男・斯波直持(30歳)、奥州管領に就任する。
?月
 幕府、奥州管領・斯波家兼の次男(?)・斯波兼頼(42歳)を羽州管領に任命し、出羽国山形に下向させる(最上家の成立)。
 ※以上のように、本来ならば兄であるはずの斯波直持と弟であるはずの斯波兼頼との間には年齢上の食い違いが存在する。
 羽州管領・斯波兼頼、出羽国の天台宗立石寺を復興させる。
 奥州管領・斯波家兼、三男・斯波義宗(?歳)を出羽国村山地方の有力国人・天童義景(?歳)の養子に送り天童家を勢力下に置く。

永和元(1375)年
?月
 奥州管領・斯波直持(49歳)、奥州管領職を嫡男・大崎詮持(?歳)に譲り隠居する。
?月
 羽州管領・斯波兼頼(61歳)、羽州管領職を嫡男・最上直家(?歳)に譲り隠居する。
 ※直家の在世中、叔父・天童義宗の死去にともない直家は次男・頼直を天童家の養子に送り天童家支配を強化させている。

康暦元(1379)年
六月
 前羽州探題・斯波兼頼、死去(65歳)。

明徳三(1392)年
?月
 幕府、陸奥・出羽2ヶ国の統治を鎌倉公方に移譲する。

応永六(1399)年
三月
 第3代鎌倉公方・足利満兼(22歳)、次弟・足利満直(?歳)を陸奥国安積郡篠川、三弟・足利満貞(?歳)を陸奥国岩瀬郡稲村に派遣し東北地方の統治を強化する(篠川公方と稲村公方の誕生)。

応永七(1400)年
?月
 奥州管領・大崎詮持(?歳)、東北地方の大名・伊達政宗(48歳)の鎌倉公方に対する反乱に乗じて挙兵するが、鎌倉公方の攻撃に敗れ自害する。

応永九(1402)年
?月
 東北大名・伊達政宗(50歳)、鎌倉公方の命を受けた羽州探題・最上直家らの奥羽大名連合軍に陸奥国刈田城を攻められるが撃退する。

応永十七(1410)年
正月
 羽州探題・最上直家、死去(?歳)。嫡男・最上満直(?歳)が家督を継承する。
 ※最上満直、在世中に次男・満基を山形城の支城・中野城(山形城の北西)の城主とし最上本家を補佐させる。
 ※満直はさらに在世中、三男・満直(二世)を大窪城主(現在の山形県村山市中心部)、四男・満国を楯岡城主(現在の村山市東部)とし支配を北方に拡大させている。

応永二十(1413)年
?月
 東北大名・伊達持宗(21歳)、陸奥国大仏城を拠点として鎌倉公方に対して挙兵し、篠川・稲村御所を攻撃する。
 ※伊達持宗は初名を泰宗といったが、室町幕府第4代将軍・足利義持より「持」の偏諱を賜り持宗に名を改めた。以来、伊達家歴代当主は足利将軍家から偏諱を受ける慣習となる。
 鎌倉公方の命を受けた羽州探題・最上満直(?歳)ら奥羽大名連合軍、伊達持宗の大仏城を落城させ反乱を鎮圧する。

応永二十三(1416)年
八月
 羽州探題・最上満直、死去(?歳)。嫡男・最上満家(?歳)が家督を継承する。
 ※最上満家は、在世中に山形城の北方の長瀞地方(現在の山形県東根市)に支配を拡大させている(最上家の分家・長瀞家のはじまり)。
十月
 前関東管領・上杉禅秀氏憲(?歳)、第4代鎌倉公方・足利持氏(19歳)に対して挙兵し鎌倉を制圧する(上杉禅秀の乱)。

応永二十四(1417)年
正月
 室町幕府による鎮圧軍の総攻撃を受け、上杉禅秀、鎌倉で自害(上杉禅秀の乱の終結)。

応永三十一(1424)年
?月
 羽州探題・最上満家(?歳)、家督を嫡男・最上頼宗(?歳)に譲り自身は長瀞城に隠居。
 ※その後、母の実家・陸奥国芦名家の後見を受けた頼宗と、母(満家の正室)の実家・出羽国寒河江家の後見を受けた異母弟・政家(?歳)との間で対立が発生する。

貞享二(1430)年
?月
 羽州探題・最上頼宗(?歳)、家督を異母弟・政家(?歳)に譲り隠居。
 ※最上政家は在世中に室町幕府第8代将軍・足利義政より「義」の偏諱を賜り名を「義春」と改めた。以来、最上家歴代当主は足利将軍家から「義」の偏諱を受ける慣習となる。

永享十一(1439)年
二月
 第4代鎌倉公方・足利持氏(42歳)と叔父の稲村公方・足利満貞(?歳)、幕府軍の攻撃を受け武蔵国永安寺で自害する(鎌倉公方の滅亡)。

永享十二(1440)年
六月
 篠川公方・足利満直(?歳)、下総国で勃発した結城合戦に乗じて挙兵した陸奥国人に篠川御所を攻められ自害する。
 ※鎌倉公方体制の崩壊により、東北地方の統治は奥州管領大崎家と羽州管領最上家に一任されることとなる。

嘉吉(1441)元年
二月
 前羽州探題・最上頼宗、死去(?歳)。

嘉吉三(1443)年
三月
 元羽州探題・最上満家、死去(?歳)。

宝徳二(1450)年
?月
 羽州探題・最上義春(?歳)、出羽国庄内地方に侵攻し大名・大宝寺淳氏(きようじ ?歳)と戦うが生け捕られ和睦する。

享徳三(1454)年
十二月
 第5代鎌倉公方・足利成氏(21歳)、関東管領・上杉憲忠(22歳)を誅殺し京の室町幕府に対して挙兵する(享徳の乱)。

享徳四(1455)年
三月
 鎌倉公方・足利成氏(22歳)、拠点を鎌倉から下総国古河に移す(古河公方)。

長禄四(1460)年
?月
 室町幕府第8代将軍・足利義政(25歳)、羽州探題・最上義春(?歳)、出羽国庄内地方の大名・大宝寺淳氏(?歳)ら奥羽地方の諸大名に鎌倉公方・足利成氏追討令を発するが諸大名の多くは兵を動かさず。

寛正二年(1461)年
十月
 羽州探題・最上義春(?歳)、室町幕府による第一次足利成氏追討軍に出兵。

寛正三(1462)年
九月
 出羽国庄内地方の大名・大宝寺淳氏(?歳)、将軍・足利義政(27歳)の推挙により出羽守に補任される。

寛正五(1464)年
?月
 大宝寺淳氏(?歳)、上洛して将軍・足利義政(29歳)に謁見する。

文正元(1466)年
?月
 羽州探題・最上義春(?歳)、室町幕府による第二次足利成氏追討軍に出兵。

応仁元(1467)年
?月
 東北大名・伊達成宗(33歳)と陸奥国大名・国分盛行(?歳)の第一次合戦、起こる(東北地方における戦国時代の始まり)。
?月
 出羽国庄内地方の大名・大宝寺健氏(淳氏の嫡男 ?歳)、山形城で羽州探題・最上義春(?歳)と会見し友好関係を強める。

文明二(1470)年
八月
 東北大名・伊達成宗(36歳)と陸奥国大名・国分盛行(?歳)の第二次合戦、起こる。

文明四(1472)年
十一月
 東北大名・伊達成宗(35歳)と陸奥国大名・国分盛行(?歳)、第三次合戦を経て和睦する。

文明六(1474)年
三月
 羽州探題・最上義春、死去(?歳)。義春の弟・最上義秋(?歳)、家督を継承する。

文明十一(1479)年
十二月
 東北大名・伊達成宗(42歳)、対立していた出羽国大名・寒河江為広(?歳)の寒河江城を攻めるが寒さにより撤退する(出羽国における戦国時代の始まり)。

文明十二(1480)年
二月
 羽州探題・最上義秋、死去(?歳)。分家の中野満氏(義秋の従弟 35歳)が家督を継承する。
三月
 東北大名・伊達成宗(43歳)、寒河江為広(?歳)を再び攻めるが菖蒲沼合戦で大敗し重臣・桑折播磨守宗義(?歳)を討ち取られる。
 ※菖蒲沼合戦における最上家の動向は不詳だが、最上満氏は戦後に伊達成宗と共同で出羽国慈恩寺山中に桑折宗義の菩提寺・松蔵寺を寄進している。

明応三(1494)年
七月
 羽州探題・最上満氏、死去(49歳)。嫡男・最上義淳(?歳)が家督を継承する。

永正元(1504)年
七月
 出羽国大名・寒河江宗広、死去(?歳)。
 宗広の死後、寒河江家の次期当主を巡り次男・祥真(?歳)と六男・孝広(2歳)との間で抗争が発生する。
九月
 羽州探題・最上義淳、死去(?歳)。
 最上義淳の嫡男・義定(13歳)、最上家当主と羽州探題を継承し寒河江家の内紛に乗じて寒河江地方に三度出兵するが、制圧に失敗する。
 寒河江の大寺院・慈恩寺、寒河江家と最上家の戦乱により焼亡する。

永正二(1505)年
?月
 寒河江孝広(3歳)を擁する勢力、寒河江祥真とその支援勢力を滅ぼし孝広を寒河江家当主とする。

永正五(1508)年
?月
 東北大名・伊達尚宗(56歳)、出羽国上山に侵攻し羽州探題・最上義定(17歳)と対立する。

永正六(1509)年
八月
 東北大名・伊達尚宗(57歳)、陸奥国大名・国分盛綱(72歳)と出羽国大名・寒河江孝広(7歳)を勢力下に置く。

永正十一(1514)年
二月
 東北大名・伊達尚宗の嫡男・伊達高宗(のちの稙宗 25歳)、出羽国山形に侵攻し最上義定(23歳)に勝利、上山城・長谷堂城を占拠する。
 最上義定、山形城から中野城に退避。
 伊達高宗、一門衆の重臣・小梁川親朝(高宗の曽祖父・持宗の孫 ?歳)を長谷堂城主に置く。
五月
 東北大名・伊達尚宗、死去(62歳)。嫡男・高宗(のちの稙宗 25歳)が家督を継承する。

○伊達高宗(稙宗)の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力99、統率力65、知略96

永正十二(1515)年
?月
 伊達高宗(26歳)、寒河江家の仲介により最上義定(24歳)と和睦し、妹を最上義定の継室に送り最上家を事実上の支配下に置く。
 最上義定、山形城に帰還。

永正十四(1517)年
?月
 東北大名・伊達高宗(28歳)、室町幕府第10代将軍・足利義稙(52歳)より偏諱を賜り「稙宗」に名を改める。

永正十七(1520)年
二月
 羽州探題・最上義定、死去(29歳)。義定に子が無かったため、最上家当主は一時不在となる。
四月
 出羽国上山城主・上山義房(?歳)、伊達家に対して挙兵する。
 東北大名・伊達稙宗(31歳)、挙兵した上山義房の鎮圧を名目に出兵し、山形・上山・天童・高擶(たかたま)地方を制圧する。

大永元(1521)年
?月
 天童頼長、前年の合戦で伊達家に加担した立石寺(山寺)を焼き討ちする。
七月
 東北大名・伊達稙宗(32歳)、最上家ら支配下の軍勢を率いて出羽国高瀬山に布陣し出羽国大名の寒河江孝広(19歳)と対峙する。
八月
 伊達稙宗、寒河江孝広との合戦に決着がつかず撤退する。

大永二(1522)年
?月
 前羽州探題・最上義定の弟・中野義建(よしたつ ?歳)の嫡男・中野義清(?歳)の次男・長松丸(のちの最上義守 2歳)、最上家当主となる。
 ※2年前に29歳で急死した最上義定の弟である中野義建に、この時点で2人の孫がいるという状況は不自然である。
 2歳の長松丸の後見として、最上義定の未亡人(伊達稙宗の妹)が実権を掌握する。

○最上義守の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力42、統率力39、知略21

四月
 最上長松丸を傀儡とした伊達家による最上家の支配に対抗した出羽国大名・成生(なりゅう)三郎、中山朝勝、天童頼長、東根頼景(頼長の甥)が挙兵するが、伊達家の出兵により鎮圧される。

大永三(1523)年
?月
 東北大名・伊達稙宗(36歳)、室町幕府としては史上初の陸奥国守護に任命される。
 ※それまで室町幕府は、陸奥国は奥州探題、出羽国は羽州探題が統治するという体制だった。

天文四(1535)年
?月
 最上長松丸(15歳)、元服して義守と名乗り、天童頼長の焼き討ちにより荒廃していた立石寺を復興させる。

天文六(1537)年
?月
 陸奥国守護・伊達稙宗(50歳)、次男・小僧丸(12歳 のちの大崎義宜)を奥州探題・大崎義直(?歳)の養子に送り大崎家を勢力下に置く。

○大崎義直の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力46、統率力50、知略27

○大崎義宜の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力45、統率力26、知略44

天文十一(1542)年
六月
 陸奥国守護・伊達稙宗(55歳)の嫡男・伊達晴宗(24歳)、父・稙宗の独裁体制の強化に反対する勢力を率いて稙宗幽閉未遂事件を起こし、伊達家中に稙宗・晴宗父子の内乱が発生する(天文の乱)。
 天文の乱の勃発にともない、奥州探題・大崎家も晴宗派の当主・義直(?歳)と稙宗派の養子・義宜(17歳)との間で内乱が発生する。
 最上義守(22歳)、義母の兄である伊達稙宗に加勢して長谷堂城を最上家直轄に戻し、出羽国南部の置賜地方に侵攻する(最上家の実質的な伊達家からの独立)。

○伊達晴宗の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力84、統率力61、知略76

十一月
 最上義守、置賜地方を制圧する。

天文十二(1543)年
四月
 最上義守(23歳)、出羽・陸奥国境の笹谷峠まで侵攻する。

天文十五(1546)年
正月
 最上義守(26歳)の嫡男・白寿丸(のちの最上義光)、誕生する。

○最上義光の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力83、統率力73、知略86

天文十六(1547)年
?月
 伊達稙宗派の有力大名・芦名盛氏(27歳)、同じ稙宗派の大名・田村隆顕(?歳)との陸奥国中通り地方を巡る抗争から晴宗派に寝返り、稙宗派が劣勢となる。
 稙宗派の最上義守(27歳)、芦名盛氏の寝返りに乗じて晴宗派に寝返る。

○芦名盛氏の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力82、統率力84、知略78

○田村隆顕の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力44、統率力76、知略53

天文十七(1548)年
九月
 陸奥国守護・伊達稙宗(61歳)、家督を嫡男・晴宗(30歳)に譲り隠居し、天文の乱が終結する。

天文十九(1550)年
五月
 奥州探題・大崎義直(?歳)、天文の乱以来対立していた養子・義宜(25歳)を暗殺する。

天文二十四(1555)年
?月
 陸奥国守護・伊達晴宗(37歳)、奥州探題職を大崎義直から禅譲され名実ともに陸奥国を単独支配する。

永禄元(1558)年
?月
 最上義守の嫡男・白寿丸(12歳)、元服して室町幕府第13代将軍・足利義輝より偏諱を賜り最上義光と名乗る。

永禄三(1560)年
三月
 最上義守(40歳)、寒河江兼広(32歳)の寒河江城を攻めるが落とせず撤退する。

永禄六(1563)年
六月
 最上義守(43歳)・義光(17歳)父子、上洛して将軍・足利義輝(28歳)に謁見する。

○足利義輝の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力57、統率力73、知略26

永禄七(1564)年
?月
 最上義守(44歳)の次女・義姫(17歳)、伊達輝宗(21歳)の正室となる。

○伊達輝宗の『信長の野望』シリーズでのだいたいの評価
 政治力67、統率力58、知略50
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