長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくり世界史 第12回『先駆け! アレクサンドロス大王』

2010年10月24日 22時17分56秒 | ざっくり世界史
 こんばんは! そうだいです。今日はどんな日でしたか~?
 私は午後に東京の茅場町に行って、知り合いの出ている舞台を観に行きました。劇団上田の俳優・春日井一平君の出演している『致富譚(ちぷたん)』です(作・演出 佐々木透)。
 お芝居の内容もおもしろかったんだけど、その前に土地と会場がおもしろかったんだよなぁ! 日曜日の午後、昭和のオフィス街ふうの茅場町には人気がまったくありません。しかも雨がふってきた! まるで、今にもビリー=ジョエルの『ストレンジャー』のイントロがかかってきそうな街の雰囲気でした。カッコえぇ!
 会場もいい感じの雑居ビルの5階でね、エレベーターなんてあるはずもない。はじめて来たビルのせまい階段をのぼってくわけですよ。聞こえるのは外を飛ぶカラスの鳴き声だけ。しみるなぁ。
 今回、フリースペース「マレビト」では同じ台本で2ヴァージョンが上演され、どちらもそれぞれ違いのはっきり出たいい2本立て公演でした。女優さん3人のやつもおもしろかったんだけど、やっぱり春日井君と作・演出の佐々木さん本人が出演しているやつのほうが好きだったかな。そっちに出ていた女優のタカハシカナコさんもよかったねぇ! 今度、彼女の所属している劇団井手食堂の公演があったら必ず観に行こう。そうか~、タカハシさんは井手さんのとこの女優だったんだ。道理でイノキの物まねがうまいわけだよ! 運動神経も良さそうだったし。

 さあさあ、そうこうしているうちに、今月もえんえんと続けてきた「ざっくり世界史」もいったんのラストを迎えることとなりました。いやぁ、先月のラストでの予告では「カエサルとかクレオパトラが出てくるところまでやりますよ」とか言ってたんですが……フタをあけてみれば、もう進まない進まない!
 ローマ帝国が始まるの、紀元前1世紀でしょ? 今の回、まだ紀元前4世紀だもん! まだ300年あるよ……まぁ、それだけ歴史の中身には、大事なことがギュウギュウにつまってるんだということで。たぶん、来月やる予定の6回分には「帝国」が出てくると思うんだけど……

 なにはともあれ、形は共和国であるものの、首都の異民族による大略奪という試練を通して、ついに領土拡大への道を歩みだすことになったローマ!
 前回まではその流れをおってきたのですが、今回は視点をちょっとずらして、イタリア半島の東・ギリシア地方にいた1人の天才を話題にしてみようと思います。
 紀元前4世紀、ローマ共和国による「イタリア統一」の気運がやっと生まれ始めたころ、その天才は、自身がわずか34歳(数え年)で急死するまでに、西はギリシア、東はインド、北は中央アジアのウズベキスタン、南はエジプトまでという広大な領土を有する史上最大・史上初の「世界帝国」を築き上げていました。
 はるか東の中国大陸で、秦の始皇帝が帝国を築くのはそのちょい後の紀元前3世紀のこと。ちょっとの差でこっちのほうが早かった!

 天才の名は、アレクサンドロス3世(紀元前356~紀元前323)。彼自身は皇帝を名乗ることはなく死ぬまで国王(兼エジプトのファラオ)だったため、「アレキサンダー大王」という通称でも超有名です。2004年には巨匠オリヴァー=ストーン監督により、3時間ものの大作としてその生涯が映画化されているのですが、私はまだ観てない!
 現在、講談社のマンガ雑誌『月刊アフタヌーン』で連載されている岩明均の歴史マンガ『ヒストリエ』には少年時代のアレクサンドロスが登場しています。岩明先生はやっぱりおもしれぇなぁ! まだ政治家にもなっていない王子様なんですが、その両眼の色が違う風貌(彼は左右で眼の虹彩の色が違っている虹彩異色症だったらしい。2次元の世界では異常に重宝がられるオッドアイというやつである)もさることながら、ただのおぼっちゃまではない異才の片鱗を早くも見せ始めています。どんだけ長い作品になるのかまったく見当もつきませんが、早く続きが見たい~!

 ローマでない国の話をするんですが、それは、アレクサンドロスの築き上げた覇業が、のちのローマ帝国に多大な影響を与えたんじゃないかと思うからなんです。すなわち、
「異民族がなんだ! 守る前にこっちから奴らを支配してしまえばいいのだ。地中海文明の子孫である我々にはそれができる!」という信念と、
「あと継ぎ問題はちゃんとしないとね……」という教訓です。

 アレクサンドロス3世が生まれた時代、彼の父だったマケドニア王国第25代国王フィリッポス2世は、アレクサンドロスの父らしい才能を発揮して度重なる周辺ギリシア都市国家との戦争に勝利し、ギリシア地方のほとんどを統一するという偉業をなしとげます。
 マケドニア王国は紀元前9世紀の末にギリシア地方の北に誕生した国でした。ギリシア世界と西アジアの接点に位置した国家であり、他のギリシア都市国家からも「正統じゃないよ、あれは。」と異端視されている国家でした。そのマケドニアががんばっちゃった!
 たとえば、フィリッポス2世は軍隊の主要武器に4~6メートルもある長大な槍・サリッサを導入しました。ローマ同様に集団戦法ファランクスをもちいていたマケドニア軍にとっては、いっせいに突き出した時の攻撃力と、敵の武器の届かないリーチから攻撃することの利点がおいしい新兵器です。かなり重いけど。
 ところが、そんなフィリッポス2世も敵が多かったためか、紀元前336年。47歳のまだまだこれからという時期に、何者かにそそのかされた兵士に暗殺されてしまいます(真犯人は不明。彼の正妻、つまりアレクサンドロスの実母がくわだてたという説も?)。
 おかげで、わずか21歳でマケドニア王国第26代国王に即位したアレクサンドロス。しかし、ここからの彼は戸惑いの「と」の字もない嵐のような人生を送ることとなります。
 まずは、父の急死によってギリシア各地で発生した反マケドニア勢力の蜂起をチャッチャと鎮圧してギリシアを統一しなおし、さっそく2年後の紀元前334年から、東の大国・アケメネス朝ペルシア帝国への遠征を開始します。
 ペルシア帝国! 現在のイランを本拠地としていた超大国です。ギリシア・ローマが地中海文明の子孫ならば、ペルシア帝国はメソポタミア文明の子孫。紀元前6世紀に誕生したこの帝国は大発展をとげ、当時はエジプトを支配するまでになっていました。
 ペルシア帝国の皇帝位「シャー・アン・シャー」は、単純明快な「王の中の王」という意味。ヨーロッパの皇帝とも中国の皇帝とも違う世界から生まれた皇帝です。

 そんな大帝国に青年王アレクサンドロスが挑戦状をたたきつけた! その勇気はかうが、大丈夫なのか!?
 結果は……余裕で大丈夫だった。
 アレクサンドロスは基本的に1万人の騎兵と3~4万人の歩兵という構成のマケドニア軍を直接指揮し、みずからも陣頭に立って、ペルシア帝国軍にバカスカ勝っていくのです。
 紀元前334年の初戦「グランニコス川の会戦」では4万人の敵に勝利。紀元前333年の「イッソスの会戦」では12万人の敵に勝利。紀元前331年の「ガウガメラ平原の会戦」ではなんと、25万人の敵に大勝利! あわれペルシア帝国は、紀元前330年にあとかたもなく領土をマケドニアに飲み込まれて滅亡します。
 4~5万の兵士で25万の敵に勝っちゃうんだから尋常じゃありません。アレクサンドロスの天才ぶりは、まさしくその斬新な「戦術」で発揮されました。その名も「鉄床(かなとこ)戦術」!
 よかったら説明させてほしい! 「鉄床戦術」とは、両手を使って鉄をうつ鍛冶職人のように、片方の手(おとり部隊)でうつ鉄(敵軍)を鉄床の上に引き寄せて、もう片方の手(主力部隊)で鉄をガツンと叩く戦術である。
 要するに陽動作戦なんですね。簡単に言うと、まず歩兵を敵にぶつけておき、敵が正面に夢中になっているあいだに足の速い騎兵を敵の後方にまわらせて挟み撃ちにするわけなんです。
 こう説明するといたってシンプルなんですが、これを数万人規模の兵士で実際にやるには、相当な軍隊の練度と指揮官の統率力が必要となります。アレクサンドロスがしょっちゅう戦場に出ていたのもうなずけることです。こういうのは他人まかせにできないたちの人だったんですね。
 対するペルシア軍は、人数こそ戦争のたびに増えていったものの、兵士の質やテンションは下がっていくばかりでした。寄せ集めによる必死感が哀しい……合掌。

 さて、ペルシア帝国をガツンといわしたったアレクサンドロスは、ながらくペルシアに支配されていたエジプトにも喝采をもって迎えられ、紀元前332年にはファラオにまで即位しました。
 アレクサンドロス大王はペルシア帝国の首都ペルセポリスを徹底的に破壊して廃墟にし、いにしえの都バビロンを新たなマケドニアの都に定めて遠征を続けます。
 紀元前329~327年には中央アジア・ウズベキスタンに侵攻し、紀元前326年にはついにインダス川を越えてインド入りを果たし、ヒュダスペス河畔の会戦ではパウラヴァ王国に勝利しました。
 しかし、長年の遠征にさすがのマケドニア軍もバテはじめ、インド戦線終結のメドもまったく読めなくなっていたため、大王は遠征をいったんとめることとして新都バビロンに帰還します。
 ところが……こういう人は休んじゃいけなかったのか? バビロンに帰った大王は、あんなに元気だったはずなのに突如マラリアに感染してしまい、紀元前323年6月、34年の激しすぎた人生に幕を下ろします。

 順風満帆だった世界初の帝国は唐突にこのカリスマを失うことになってしまったのですが、大王本人もまさかこの若さで自分がおさらばするとは考えていなかったらしく、その遺言は、
「最強の者が余の国を継承せよ……」
 というものでした。

 えぇ~!! なにそれ! 天下一武道会やんの? ジャンプじゃねぇんだから! 天才らしい、遺族に聞いた「リアクションに困る遺言ベスト1」の核爆弾発言でした。
 しかし、さすがは天才アレクサンドロス大王の部下たち。
「やったろうじゃねぇかァ~!!」
 ほんとにまに受けて大戦争をおっぱじめちゃった! これが世に言う「ディアドコイ(後継者)戦争」。常識で言うなら本来継承するはずだった、アレクサンドロスの血のつながった親族はマッチョな将軍たちの繰り広げる大戦争のあおりを食らって全滅。
 結局、アレクサンドロス大王の築き上げた広大なマケドニア王国は、大王の部下だった将軍をそれぞれの国王とする3つの国に分裂してしまいました。東をおさめるマケドニアと西をおさめるシリア、そして南をおさめるエジプトです。
 アレクサンドロス3世の大遠征のてんまつはこんなところなんですが、のちのち本筋のローマ帝国誕生に大きく影響してくるのが、そのうちの1つであるエジプト王国です。

 アレクサンドロスが大きな信頼をよせる重臣だったプトレマイオスが創始した、ギリシア人によるエジプト王国の38代目の国王が、あの世界3大美女の1人・クレオパトラ7世その人だったのです! う~ん、小島聖。

 さぁさぁ、このクレオパトラがどうローマの歴史にからんでくるのか! ていうか、来月のうちにクレオパトラまでいけんのか?
 続きはまた11月に! ついてきてる人がいるのかどうか不安になってきましたが、こっから! こっから有名人がいっぱい出てくるから。待っててね!
 今回も長くなっちゃった……ごめんなさぁ~い!!
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そうだいのざっくり世界史 第11回『新生! ローマ共和国』

2010年10月23日 20時49分40秒 | ざっくり世界史
 こんばんは。そうだいです。今日も平和でした~と。
 現在、私の知り合いが飛行機に乗っています。「知り合い」なんていうしゃっちょこばった表現でいうのもなんなんですが、要するにとても親しい人が仕事のために外国に移動中なんですね。たぶん、あと2・3時間くらいでつくかしら?
 なんだかヘンな感じですね。私はいつものようにさほど変化のない生活を送っているんですが、その片方で、ある人たちは空を飛んでいる最中なんですから。
 そりゃもちろん、おそらく世界中のどこかで、毎日毎秒誰かが飛行機に乗っているのが当たり前な時代ではあるとは理解しているつもりだったのですが、確実に知り合いが飛んでいるという事実に直面してはじめて実感しました。この世界は不思議だわ!
 私は、10時間ものあいだ飛行機に乗り続けた経験がまだありません。いつか乗るかなぁ。楽しいかな、それともすぐに飽きちゃうかな? どこに行くことになるのかなぁ、ワクワク!

 さーて、実際に鉄製の飛行機に乗って行く旅行へのあこがれはここまでにしておいて、まず今日のところは、妄想パワーによるイタリア時間旅行の続きとしゃれこむことにいたしましょう。ターイムスリーップ!

 時は紀元前387年7月。イタリア半島でも有数の大都市に発展していたローマの街は、建国以来最悪の状態におちいっていた!
 アッリアの合戦でローマ軍の主力を壊滅させたガリア人の軍勢がそのまま乱入し、ローマに集まっていた富をごっそり略奪してしまったのです。あぁ、ローマ400年の栄光が……
 しかし、残されたローマの人々も黙ってはいなかった。ローマには最後の切り札が残されていたのだ!

「まだじゃ……ローマにはまだあの男がおる。あいつさえ、カミルス将軍さえ戻ってきてくれればのう!」

 カミルス将軍! 彼はいったい何者なのか? それほどの期待を受けていながら、なぜガリア人が襲来した時にはアッリアの合戦にも参陣せず、さらにはローマにさえいない状況だったのか?

 ローマ最後の切り札・マルクス=フリウス=カミルス。彼を語るためには、まずローマ大略奪からおよそ10年前になる紀元前396年にさかのぼらなければなりません。
 紀元前396年。ローマ共和国でもガッチガチの軍人として知られていたカミルス将軍は、51歳にして念願の宿願を達成させます。それが、ローマの北西に隣接していたエトルリア人の都市国家ウェイイ(現在はローマ市に組み込まれている)の攻略でした。
 当時、ウェイイは都市計画や水道施設の整備された、ローマにならぶ大都市として繁栄していました。約500年後に活躍したギリシア人の歴史家プルタルコスの記述によると、人口の点ではローマを超える1000戸をようする大都市でした。
 このウェイイを攻略しようと乗り出したのがカミルス。
「あのウェイイを? 大変だよ~。あんまりそんなにムチャせんでも……。」
「大丈夫でありますっ! 今のうちにウェイイをおさえておかなければ、今後のローマの発展および拡大はありえません! とにかく自分にまかせてくれいッ!」
 あまり乗り気でないローマ世論をよそに、カミルスはウェイイ攻略を開始しました。大方の予想通りに作戦は難航し、ローマ史上初の「戦争しながら年越し」を迎えてしまいました。
「寒いよ~。将軍、もう近いんだから、早くローマに帰ろうよ~。春になったらまた攻めればいいじゃん!」
「バカもん! 我々が大変だということは、敵側も大変だということであるッ! もちっとがんばらんかい!」

 カミルス率いるローマ軍の努力が功を奏し、ついに大都市ウェイイは翌年の紀元前396年に陥落しました。輝かしい戦果です。しかし、軍規に厳しく兵士の勝手な略奪も好まなかったカミルスは、部下にはあまり評判がよくありませんでした。
 そして、占領したウェイイのあつかいについて、カミルスは政治家たちとも対立してしまいます。
「よくやった、カミルス君! ところで、ウェイイの土地は住みあきたローマよりも未来性がありそうじゃ。この際、首都機能をウェイイに移転してはいかがか?」
 カミルスのウェイイ占領後、元老院は手のひらを返したようにカミルスの戦功をたたえ、さらにはローマからウェイイに政治の拠点を移す政策を討議しはじめました。
 ところが! ここでもカミルスは元老院の意向に反対しちゃった。
「お言葉ですが、本官はローマを捨てるためにウェイイを攻略したのではありませんッ! あくまで我らの首都は、母なるローマであるべきでありますッッ!」
「なんじゃとっ! たまにホメれば調子にのりおって。カミルスくんっ、君はクビだっ!」
「クビでけっこう! しかし今はウェイイに戻らせていただきますっ。本官がいなければ、占領した場所もいつ手放すことになるかわかりませんからなッッ!」
「なにうぉお、くおのぉ~!!」
 ……このやりとりで、カミルスの声が納屋悟朗、元老院の声が永井一郎になった人。『ルパン3世』、好きでしょ!?

 それはさておき、こういった経緯などもあり、カミルスはウェイイに兵士とともに引きこもってしまいました。そんなカミルス不在の状況で発生したのが、あのガリア人との衝突と紀元前387年におけるローマ大略奪だったのです。

「許してくれカミルス! 君は正しかった……天罰じゃ。これは、わしらがローマを手放すなどということを軽々と言ったために、ローマの神々が下された天罰だったのじゃ。」

 カミルスの救援を祈るローマの人々をよそにガリア人は略奪の限りをつくし、最終的には、軍の撤退を条件にさらなる莫大な賠償金を要求します。ローマはいいなりになるしかないのか!?
 その時!

「待て待て~い!」
 ついに奇跡が起こった! ウェイイから埼玉県警の警官隊……じゃなかった、残されたローマの軍隊を率いてカミルスが帰ってきたのです! 驚くガリア人!
「な、なんだてめぇらは!?」
「ローマ共和国将軍・フリウス=カミルスだっ! ローマ人は金でなく、剣でお返しをするッ。ガリア人よ、神妙にお縄につけぇい。タイホだ~っ!」
「あ~りゃりゃ、こうなったら、お宝もってトンズラし~ましょっと。とっつぁん、ま~たねぇ~!」

 ……まぁ、ガリア人もルパンも、おなじフランスから来たということで。
 とにかく、カミルス軍の志気が高かったからか、大移動でガリア人が疲れていたからか、もしくは、略奪という目的は充分に果たしたためガリア人側に徹底抗戦する意味がなかったからか。とにかく、カミルスはガリア人をローマから追い出すことに成功しました。こうして、ローマ共和国はカミルス将軍のおかげで、首の皮1枚のところで、滅亡をまぬがれたのです。

 さて、人というものは、成功ではなく敗北の苦い経験からこそ多くを学ぶのでしょうか。
 その後のローマ共和国は、ローマ建国の伝説の初代国王ロムルスとならべてたたえられることとなった「第2のロムルス」カミルス将軍をリーダーとして、劇的な復興と変身をとげることとなります。
 当然ながら、朽ち果てていたローマ周辺の城壁は修復されて、かなり堅固なものに生まれ変わりました(そしてこれが、あとで役に立ってくるんだなぁ!)。
 カミルスはそれから5回も独裁官に選出され(任期が半年で短いから)、国力の弱まったローマに襲いかかる周辺の都市国家やガリア人に対峙し、82歳で没するまでに勝利を重ねていきました。
 そしてローマ軍自体も、ガリア人の戦法や武器を学んで変革をすすめ、ひとかたまりの集団戦だけでなく、100人ごとの編成に分かれて作戦をおこなう「マニプルス」戦術も採用していきました。

 中でも最も重要な変化は、共和国の政策が「積極的な領土拡大」に変化したことです。
「今までのような都市国家サイズでは、ガリア人のような異民族の侵入にすぐにツブされてしまう。国力を上げるためには、ローマを中心とした領土拡大が必要だ!」

 ローマ共和国は、エトルリア人都市国家はもちろんのこと、イタリア半島の背骨ともいえるアペニン山脈に住む山岳民族サムニウム人、ローマの南に位置するカンパニア地方の諸都市国家を征服していくことになります。
 紀元前340~338年の第2次ラティウム戦争では「イタリアの富士山」とも言われるヴェスヴィオ山とそのふもとの都市ポンペイを手に入れ、戦争に明け暮れた紀元前4世紀が終わる頃には、イタリア半島の中西部を統一するようになっていました。
 日本ぐらいの大きさであるイタリア半島の全体ではなく、中西部だけ。世界地図で見るとまだまだほんの点みたいな国土ではあるのですが、この時代に、のちの大帝国となる素地は形作られていったのです。ローマ史上初めて「海軍」が創設されたのも、この時期のことでした。
 相変わらず2人の執政官か臨時の独裁官が政治をつかさどる共和国の形ではあったものの、外敵からの攻撃を防ぐためにまず自分から先に攻撃をしかけるという、かなり「帝国」的な体質の国に変質したのは、まさに今回取り上げたこの時代だったわけなんです。

 あら~……ホントにすみません、今回もキリのいいところでと思ったら、こんなに長ったらしくなっちゃった! お許しを。
 こうなったのもアレなんです、いったんの区切りとなる次回に、あの歴史上の超有名人物を登場させたかったからなんす!
 場所はローマからちょっと離れまして、あの人! 『ヒストリエ』のあのお方よ。右と左で眼の色が違ってたらしい、あの大王!

 次回は、ローマを追い越して先に「帝国」を創っちゃった英雄のお話で~す。みなさん、今回も目、お疲れさまでした……
 
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そうだいのざっくり世界史 第10回『ローマ危うし! ガリア人あらわる』

2010年10月22日 15時15分55秒 | ざっくり世界史
 こんばんは~、そうだいです。今日も町は平和だったね~。気温も過ごしやすかったし、家のユリも大輪の花を咲かせたし。いい香り!

 さて、今日もチャッチャといきますかい、「ざっくり世界史」!
 おかげさまで、このシリーズも今回でついに10回をむかえました。私の大好きなヨーロッパ帝国の実態に迫ろうとしたこのくわだてでしたが、いまだに帝国の「て」の字も出てきていません。
 まぁ……気長にいきましょうね! 確実に進んではいるんで、いつかは帝国にたどりつくから。今月の分は12回までにしたいと考えています。帝国には入ら……ないかなぁ?

 さぁさぁ、今回はローマ帝国の生まれるおよそ350年前、紀元前4世紀からお話が始まります。
 紀元前509年に誕生したローマ共和国でしたが、周辺のエトルリア人都市国家との抗争や国内での平民階級プレブスの台頭などにもまれつつも、順調にイタリア半島を代表する立派な国家として成長していきます。
 序盤こそ第1次ラティウム戦争で始まった紀元前5世紀も、エトルリア人との交流を徐々に復活させながら、その後は大きな戦争もなく全体的にはおだやかに過ぎてゆきました。まぁまぁ平和。

 ところがギッチョン、次の紀元前4世紀が大変だったんだ! この世紀におとずれた大問題は、まさにローマだけにとどまらずイタリア半島全体を震撼させるものだったのです。
 その大問題というのが、北の大地からアルプス山脈を越えてやってきた異民族・ガリア人の襲来です。

 ガリア人! またの名をケルト人。古代、中央アジアからはるかな時間をかけてヨーロッパに移住してきた民族です。
 その文化も、ギリシアやイタリアの都市国家のものとはまるで違っていました。キーワードは、鉄と車輪!
 ギリシア文明の流れをくんでいたイタリア半島の青銅器文明に対して、ガリア人は中央アジア伝来の鉄器文明であり、それぞれの土地に長く定住して発展してきたイタリア都市国家に対して、ガリア人の集団は、略奪を繰り返しながら大規模な移動を続ける10以上の部族のこんがらがったかたまりだったのです。
 当然ながら、ガリア人の戦争のかたちも先日に取り上げたイタリア半島のそれとはまったく違ったもので、鉄製の強力な剣と投げ槍(ガエスム)、そして絶大なる機動力を発揮する「車輪」のついた荷台を馬がひく「戦車」を主戦力としたものだったのです。しかも、戦争中に倒した敵兵の首を切り取るという、あたたかい地中海で育ってきた人々にはまったく意味不明な習慣まで持っていたんだからさぁ大変。これは恐い!
 当時、ヨーロッパの現在でいうフランス・ドイツ・ベルギー・スイス地方などに勢力を拡大していたガリア人の部族は、ついにアルプス山脈を越えてイタリア北部に南下するようになってきていました。
 そして、現在のミラノやシエナを拠点としたガリア人に対して、隣接したエトルリア人都市国家がローマ共和国に助けを求めるようになったのです。ここで、イタリア半島の盟主を自認していたローマは、ガリア人の使者を捕らえて殺してしまうという強硬手段に出ました。
 これにはガリア人も怒った怒った! 「やったろうじゃねぇか!」とばかりに、シエナからローマに向けて24000人もの兵を進撃させていったのです。
 そのガリア軍を食い止めるためにほぼ同数のローマ軍が出撃し、ローマの北20キロに位置するアッリア川の付近で両軍が激突した合戦が、紀元前387年7月に起きたという「アッリアの戦い」でした。
 おそらく、まさに別々の文明と文明がぶつかり合うような異種格闘技戦が繰り広げられたことでしょう。巨大な集団戦のローマと、小部隊による機動戦のガリア!
 結果は、ローマの惨敗に終わりました。鉄剣と投げ槍といった戦法によって軍全体が大パニックにおちいってしまい、戦術も伝令も満足におこなえない状態になってしまったのです。

「な、なんで空から槍がふってくるんだ~!?」

 弓という武器を陸上戦であまり導入してこなかったローマ軍にとって、投げ槍という武器は今までマークしてこなかった「上」の方向から繰り出される想定外のウエポンだったのです。しかも、投げ槍の真の恐ろしさは、楯を防御に使う敵にこそ最大限に発揮されるものでした。
 つまり、たとえ投げ槍の1本目を楯で受け止めたとしても、槍のせいで楯が重くなっちゃって持てなくなる! 結果、ローマ兵は楯を自分から捨てざるをえなくなってしまい、2本目の投げ槍のえじきになるという……恐ろしいねぇ!
 2万人同士が激突したアッリアの合戦で、ほぼ全軍を投入したローマは壊滅状態。勝利したガリア軍はそのまま首都ローマに乱入し、当時のイタリア半島を代表する大都市に成長していたこの街で略奪の限りをつくしたのです。
 当時、ローマには街を防衛するための堅固な城壁が築かれて……いませんでした! 城壁はかつての王国時代、6代国王セルウィウスによって築かれた城壁があったのですが、大した必要性も感じられないまま200年がたち、肝心のこの時にはほとんど朽ち果てていたのです。「もしもの時の保険」っていうのは、「もしもの時」にならないとありがたみが出てこないものなのね! 歴史は、こういう当たり前のことをしみじみ実感させてくれます。
 ところで、私個人は「略奪」という戦略は好きではありません。被害者の立場からすると、おぞましいことこの上ない仕打ちです。しかし、別に給料らしいものももらっていなかった当時の兵士にとって、略奪は命をかけた闘いの末に手に入れたただひとつの収入源であり、ましてやそれを部族全体のエネルギー源としていたガリア人にとっては、かけがえのない行為だったのです。この略奪だけを、見た目の印象や定住民族の常識だけで判断して「野蛮」とするのは不当だと思います。だって、戦争はどんな形であれぜんぶ野蛮なんだものね!

「お、俺たちのローマが……!」

 戦力を失い、1箇所に立てこもったローマの人々をしり目にやりたい放題のガリア人。ローマの街が略奪にさらされるという事態は、まさに建国以来400年にわたってなかったことであり、先のことになりますが、次にローマが略奪にさらされるのは、およそ800年後の「ローマ帝国崩壊」の時です。

「こ、こんなことが許されてなるものか! あいつが……あいつが帰ってきてくれれば。」
「大丈夫だ、カミルス将軍にはガリア人がやってくる寸前に伝令を送ってある。」
「うおお、カミルス将軍! 早く帰ってきてくれ!」
「すまなかった、カミルス……やはり、わしらの判断は間違っておった。」

 なんと! まだローマには最後の切り札が残されていました。その名は、カミルス将軍!
 彼はいったい何者なのか!? そして、建国以来の大ピンチ・ガリア人の襲来を、はたしてローマは打開することができるのか~っ!
 あ~、しんど。

 
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そうだいのざっくり世界史 第9回『パトリキVSプレブス ローマの充実』

2010年10月21日 18時04分48秒 | ざっくり世界史
 こんばんは! そうだいです。今日はどんな日でしたか?
 いや~、行って参りました、銀座・日生劇場で上演中の舞台『カエサル』! 原作・塩野七生、演出・栗山民也、主演・松本幸四郎。
 幸四郎さん、68歳なんですよね? いやいや、若い若い! 気力の充実した壮年のカエサルを堂々と演じきっておられました。とにかく元気な幸四郎さんご本人が観られたのがとてもよかったです。
 この「ざっくり世界史」でもいつかは必ず取り上げることになるユリウス=カエサルなんですが、この舞台でも、平和好きかつ戦争好き、国民の自由を愛しつつ権力の独裁を目指すという矛盾した人物像がクローズアップされていました。こういう複雑な英雄を演じきることのできる名優もそう多くはないでしょうが、幸四郎さんは持ち前の魅力に満ちあふれた存在感でカエサルを日本で復活させていました。
 名優とは存在感なんだな、と感じる舞台でしたね。幸四郎さんの数え切れない豊富な経験によって彫りだされてきた見事な人生は、舞台と客席の距離でもはっきりと届いてくるものでした。小沢征悦さんや渡辺いっけいさん、水野美紀さんたちの演技も素晴らしいものでしたが、やっぱ別格なのよねぇ。

 さぁ、そんなカエサルを目指して、今日も今日とてローマの歴史をエーンヤコーラ。

 みなさん、「SPQR」という略語をご存じでしょうか? 実はこの4文字が、共和国時代から使用されるようになったローマという国の「紋章」というか「サイン」なんです。もともとの言葉は、
「Senatus Populusque Romanus」(セナトゥス・ポピュルスク・ロマヌス って読むのカナ~? ラテン語わかりません……)
 意味はすなわち、「元老院とローマの人民」。要するに「ローマ」という国を形作っている本質はこの2つだと言い表しているんですね。
 この「SPQR」印はローマの勢力のおよぶ地域の建造物や文書の中で無数に刻印されてきました。「ローマ」という国家自体が消滅した現在でも、イタリアのローマ市内のいたるところに「SPQR」の文字は使用されています。
 かつては演説の冒頭で「レディス・アンド・ジェントルメン」のように必ず言われていたという文句「SPQR」。今なお、世界帝国を創り上げたのはオレたちなんでぇ!というローマっ子の心意気が伝わってくる4文字です。

 さて、この「SPQR」でも並んで語られている「元老院」と「人民」。ごく簡単にいってしまうと、それぞれは身分でいう「貴族(パトリキ)」と「平民(プレブス)」ということになります。
 王国時代から、ローマの政治を担当してきたのはパトリキで構成された元老院であり、その元老院のさだめた政策にしたがってローマという国を作り、時には武器を取って兵士として闘ったのがプレブスでした。
 当時のローマでは、闘う兵士はみな、普段はそれぞれ別の職業を持って生活している健康な男子であり、専門職としての「軍人」はいなかったのです。
 必然的に、ローマの総理大臣ともいえる執政官に就任するのもパトリキ階級の人物ということが当たり前になってきていたのですが、違った身分の人々の気持ちまで考えてくれる政治家というものは、どの時代でもなかなか出てきてくれるものではないようで、共和国の発足したローマでも、さっそくパトリキ中心の政策に対してプレブスが不満をうったえるようになりました。
「元老院、元老院って言ってっけど、ほんとに戦争で戦ってんのは俺たちプレブスなんだぜ! もちっと俺たちの意見も聞けってんでぇ!」

 そうした状況の中で、前回に取り上げた「第1次ラティウム戦争」も後半にさしかかった紀元前494年。度重なる戦争に疲れ切ったプレブスのストレスがついに爆発してしまいました。
 兵士としていつものように戦争に行くはずだったプレブスが、こぞってローマの聖なる山「モンテサクロ」に引きこもるというストライキを決行したのです。
 これにはさすがの元老院も頭を下げざるをえませんでした。兵士がいないのでは戦争もへったくれもありません。プレブスの要求を呑んで和解することとなりました。
 プレブスの要求とは、自分たち平民の中から選出した「護民官(トゥリブヌス・プレビス)」を政治に参加させること。護民官は、元老院の決定した政策を拒否することができる要職で、執政官の決定も拒否することができるんだから大役です。
 この「聖山(モンテサクロ)事件」をきっかけに、ともすればパトリキ中心になりがちだったローマ共和国の政治にプレブスが加わっていくようになったのです。

 この流れの中でさらに重要なのが、第1次ラティウム戦争も集結してから半世紀たち、ようやくローマの国作りも落ち着いてきた紀元前450年に制定された「12表法」です。
 「12表法」が重要なのは、ローマ史上初めて作成された「成文法」であること。つまり、「字になっている法律」だということなんです。内容自体は古くから守られていたローマの伝統的な法律がまとめられているだけなので、特に目新しいものではありません。
 つまり、これまでは法律を知っている人から次の人への「口伝え」だけで継承されていたローマの法律が、12枚の銅板を読むことで、字が読める人なら誰でも理解できるようになったのです。これはもんのスゴいことですよ!
 今で言う「情報の開示」ということでしょうか。それまでパトリキだけで独占されていた法律の知識がプレブスにも解放されるようになり、プレブスの政治参加ボルテージは上がりっぱなしになりました。

 こうして、ローマ政治でのプレブスの重要度の拡大は進んでいき、「12表法」の1世紀後の紀元前367年に制定された「リキニウス・セクスティウス法」で2人いる執政官のうち1人は必ずプレブス出身であることが定められ、さらにそののちの紀元前287年に制定された「ホルテンシウス法」ではついに、プレブスだけの集まり「平民会」が、元老院と同様にローマの法律を制定できる権利を持つようになったのです。

 まぁ、こういった感じでローマ共和国の国内政治は安定していくことになり、イタリア半島の中部にあるちっぽけな都市国家であることに違いはないものの、国民のやる気アップによりしだいに国力を充実させていったローマは、イタリア半島を代表する国家になっていったのです。
 でもなんか、こうして見るとまさに「民主主義バンザイ」って流れで、とてもこの国が「帝国」になるようには思えないんだけどなぁ……歴史って不思議ですね。

 ところが、国内ではこうした実りある成長をとげていたローマ共和国も、国外ではある重大な問題に直面していました。
 エトルリア人とのかねあい? いやいや、そんなこともふっとんじゃうような新たな問題だったのです。もう、ラテン人だエトルリア人だといがみあってる場合じゃなかった!

 以下、次回。いち、にい、さんガリア!
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そうだいのざっくり世界史 第8回『レギッルス湖畔の合戦』

2010年10月20日 22時23分51秒 | ざっくり世界史
 こんばんは、そうだいです。今日は天気わるかったですねぇ。大雨ってわけでもなかったんですが、ずっとさめざめした雰囲気の日でした。でもそれはそれで、よし!
 実は今日のうちから、明日に銀座の日生劇場に観に行く予定のお芝居『カエサル』が楽しみでワックワクしてるんですよ。
 『カエサル』! 原作・塩野七生、演出・栗山民也、主演・松本幸四郎!
 もともとは、この公演に出演している役者の永栄正顕さんと共演したつながりでお誘いをもらった経緯があったんですが、カエサルよ、カエサル!
 まっさに、今わたくしがやっている「ざっくり世界史」に関連しまくりではないですか。もうちょっとしたら出てくるんですよ、カエサルさんが! こりゃ必見だわ。
 しかも、かの大女優であらせられる小島聖さんも高橋惠子さんも出演されるという……素晴らしい。これを観ずして2010年は締めくくられません。ちと早すぎるか?
 じゃあ、そんなこんなで今日もいってみましょう、カエサルさんの時代まであと450年! いつになったらたどりつけるんだよ……

 時は紀元前509年。イタリア半島中部にある小さな都市国家・ローマ王国。7代国王・タルクィニウス傲慢王による度重なる対外遠征への負担に耐えられなくなったローマ国民は、ついにクーデターを決行してタルクィニウスを追放してしまいます。
 これによって、およそ250年間続いたローマ王国は消滅し、国民によって選挙で選ばれた2人の執政官(コンスル)が統治するローマ共和国が誕生したわけなんですが、ここには、ただ国のかたちが変わっただけという説明ではすまされない事情がからんでいました。
 それが、ラテン人とエトルリア人との民族問題だったのです。
 当時、ローマ国民の多くはラテン人でしたが、イタリア半島中部で最も繁栄していた民族はエトルリア人だったのです。エトルリア人は古代ギリシア文明の流れもくむ先進的な文化をようしており、ローマの人々に水道橋・城壁などの高度な建築技術をもたらしたのもエトルリア人でした。
 やがてエトルリア人はローマの政治にも関わっていくようになり、いつしかローマの国王までもがエトルリア人になるようになっていました。
 もっとも、最後のタルクィニウス王が追放された直接の原因は彼の暴政によるものだったのですが、エトルリア人の国王がラテン人の国民に追い出されたというニュースは、ローマを囲むようにしてイタリア半島全体に分布していた多くのエトルリア人の都市国家に微妙な影響を与えることになりました。

「ラテン人、ちょっと、調子にのってんじゃねぇ?」

 当然のように、ローマ共和国と周辺のエトルリア人国家との関係は雲行きが怪しくなり、ローマ国内にいたエトルリア人も戦乱のにおいを敏感に感じ取って国外にのがれるようになってしまいました。
 あやうし、生まれたてのローマ共和国! 復讐に燃えるタルクィニウスが同族であるエトルリア人国家にローマ攻撃を呼びかける。さて、その結果は?

 結果として、ローマ共和国はタルクィニウスの人望のなさに助けられることとなりました。タルクィニウスの呼びかけにエトルリア人国家が今イチのってこなかったのです。
 タルクィニウスが追放されたのは紀元前509年でしたが、彼がエトルリア人諸国家の支援を得て始めた「第1次ラティウム戦争」の開戦は、11年後の紀元前498年を待たなければならなかったのです。
 まぁ、それもそうですよね……もともとタルクィニウスがローマ国民に嫌われた理由は、強引なまでにまわりの国家への戦争を続けていたからだったのです。同じエトルリア人のよしみとはいえ、たとえ手助けして国王に復帰させても、その恩を忘れてすぐ自分の国に攻め込んで来かねない狂犬に力を貸すものはあまりいなかったでしょう。11年。本格的な戦争が始まるまでのこのブランクは、ローマ共和国にとって態勢をととのえる願ってもない猶予期間となったのです。
 ぼちぼち、そんな感じの低いテンションで始まったエトルリア人の周辺国家とローマ共和国との第1次ラティウム戦争(「ラティウム」とは、要するにローマを含めたイタリア半島中部の地方名です)だったのですが、そんな状態でタルクィニウスが黙っているはずがありません。

「ええい、もうよい! ワシみずからが先陣に立つ! 軍隊かせ!」

 とばかりに、エトルリア人国家の1つであるトゥスクルム王国の軍隊を借りてローマに仕掛けたのが、第1次ラティウム戦争最大の決戦ともいえる、紀元前496年の「レギッルス湖畔の合戦」だったのです。
 レギッルス湖は、ローマの30キロほど東の地にありました。その湖畔で、戦争好きのタルクィニウス率いる軍勢と新鋭のローマ共和国軍が激突することとなったのです。さぁ、どっちが勝つか!?
 ローマの運命を左右したこの決戦なのですが、残念ながら紀元前5世紀の出来事だったため(日本は弥生時代!)、具体的な日時や軍勢同士の規模ははっきりとしていません。ただし、タルクィニウスが戦場に現れると聞いて、対するローマ軍の戦意も高まったことは間違いありません。

 当時のイタリア半島で行われていた戦争のかたちは、青銅でできた鎧と大きな楯、そして槍で武装した「重装歩兵」が主戦力となるものでした。だいたいあとは、似たような武装をした兵士が馬に乗った「騎兵」部隊がそれをサポートするという編成です。
 重装歩兵の戦法は、軍隊がひとかたまりになって楯を前面にズラっとならべて身を守りながら、槍を突きだして相手に突進していくという「ファランクス戦法」。「ファランクス」とは「丸太」のことです。丸太のように勢いよく前方に激突する超シンプルなやり方! これは1000年ほど前の古代ギリシア時代から伝わっていたヨーロッパ伝統の戦法です。現代日本の私たちが想像するとしたら、ジュラルミンの楯をたてていっせいに前進する警察の機動隊のイメージが最もそれに近いでしょうか。
 おそらく、どちらの軍勢も似たような戦法をとったと思われるレギッルス湖畔の合戦だったのですが、互角にやりあっていた戦況も、しだいに戦争経験の豊富なタルクィニウスの方に有利に動いていきます。
 重装歩兵のファランクス戦法の弱点は、前面以外の方向からの反撃に対応できないところにありました。軍隊がひとかたまりなので、陣形を変えるのに時間がかかるのです。
 それを突いたタルクィニウスは、素早くローマ軍の後方にまわって奇襲をかけ、ローマの執政官も経験したことのある将軍を討ち取ったのです。

「よっしゃあ! 見たか若僧ども、ダテに戦争ばっかやってきたわけじゃないんじゃあ!」
「んだとぉ! じゃこっちも奇襲でぇ!!」

 戦争上手なタルクィニウスでしたが、対する若いローマ軍も、戦場での対応は早かった。今度はローマ軍の大将だった独裁官(ディクタトル)・ポストゥミウスが、親衛隊の精鋭をタルクィニウス軍に潜入させ、タルクィニウスとともに軍隊を指揮していたトゥスクルム王国の王子を討ち取ってしまったのです。

「あっ、大変だぁ! おらが王国の王子様がおっ死んじまっただ!」

 よそもののタルクィニウスよりもトゥスクルム軍の兵士にとって大事だった王子が殺されたことにより、タルクィニウスの軍は総崩れ。こうむった損害も大きかったものの、ローマ軍はからくもこの合戦でタルクィニウスを撃退することに成功したのです。
 自らの力で「王」を捨てたローマの人々は、逆に「王」が強い影響力を持っていることを逆手にとった作戦でこの合戦に勝利したわけだったのです。反則スレスレだけど、かしこい!
 さすがにここでの敗戦にガックリきたタルクィニウスは、翌年の紀元前495年に異国の地で死去。彼の引き起こした第1次ラティウム戦争も、紀元前493年にローマ共和国と周辺のエトルリア人国家との和睦という形でいったんは終息しました。

 こうして当面の危機を脱することに成功したローマ共和国だったのですが、休む間もなく今度は、中から外から新たな問題が……
 新生したローマの受難の時期は続きます。がんばれローマ、負けるなローマ!
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