《これは、前回に同じく2008年3月にそうだいが体験した記録の続きです》
さて、目指す小弓城のある南生実町は、千葉県の千葉市内。私の住んでいる町からも地図で見ると10キロ圏内の距離ということで、のっほほ~んと2~3時間くらい自転車に乗っていればたどり着けるだろう、と完全にナメてかかって出発したのですが……この油断が大きな間違いだったことに気づくまでにそれほどはかかりませんでした。出かけた時間は、よく晴れたぽかぽか陽気のお昼過ぎ。
出発してから30分ほどがたち、JR千葉駅などのある千葉市の市街地から離れていくにつれて、だんだん道の起伏がはげしく上下するようになり始めてきたのです。
坂道をのぼって、そのあとにくだったと思ったら次の坂道。それをまたのぼったら、ちょっとおりてまた坂道!
春の陽気にたいする想いが「あたたかいなぁ。」から「あっついよコンチクショーイ!」に変貌をとげていくのを肌で感じながら、自転車全力立ちこぎでの坂のぼりを、映画『耳をすませば』のクライマックスを頭にうかべつつ4~5回くりかえしました。なのに、自転車のうしろには誰も乗っていないさみしさよ……
さみしいといえば、道沿いの風景もみるみるうちに民家が減っていき、気がつけば、山と林だけがひたすら続くカントリーロードになっていたのですが、そんな山道を、人とも車とも滅多にすれ違うことのないまま1時間ほど行くと、今度は最近にできたばかりのような雰囲気の、閑静な住宅地がたちならぶ地域にたどり着きました。
それが、目的地である小弓城のある南生実町だったのです。ここまで自転車汗だくで4時間かかりました。たいして道に迷うようなロスもなかったはずなんですが、まさかこんなにかかるとは……
しかし! ここからも肝心カナメの小弓城にたどり着くまでに、町の人に道をたずねるなど少々の手間を要したのですが、日が暮れる前についに! ついに到着いたしました、戦国時代の関東地方を駆け抜けた風雲児・小弓公方の本拠地、小弓城!
いまは……自治体のつくった解説ボードが1つ。墓地の前に。
小弓城は標高20メートル、広さ500メートル四方の小高い丘の上に築かれていたということで、その丘そのものは現在も残っているのですが、城があった敷地は墓地、畑、神社、なんかの工場などと非常に有効に再利用されており、そこにお城があったということは、わずかに千葉の史跡指定の解説ボードだけが語るのみでした。
まさか……まさか、そんなはずは! あの小田原城の北条家に対抗した男の中の男・足利義明の本拠地が、このようにこぢんまりとした丘であったとは……あまりに小規模! あまりに脆弱!!
いや、待てよ……ハタと思い当たることがありました。
この足利義明は、小弓城の主となってから20年後に、北条家との合戦に敗れて討ち死にしてしまうのですが、その合戦のあった場所はここ小弓城ではなく、同じ千葉県でもかなり北にいったところにある、市川市の国府台(こうのだい)だったのです。そのため、義明さんが敗れたこの合戦のことは「第1次国府台合戦」(1538年10月)と呼ばれています。ちなみに、「第2次国府台合戦」はそのおよそ20年後に起きた北条家と里見家との合戦で、これら2つの「国府台合戦」に勝利した北条家は、関東地方での覇権を揺るぎないものとしました。
「う~ん。この城じゃ勝てないよなぁ、やっぱ。」
かつて、強大な敵に勇気をもって挑んだ男の、ナマのボヤきを耳にしたような気がした私は、不思議な満足感を胸にいだいてこの小弓城(だったところ)をあとにしました。
余談ですが、畑のど真ん中にあった伊藤園の自販機でジュースを買おうと思って近づいたら、畑のはしっこで作業をしていた農家のおじさんから、
「うおぉ~いぃ、それ、うごいてねぇよ~い。」
と、あたたかいお声をかけていただきました。そんなに日常的に壊れてんだ……なんとかしてよ伊藤園さん。
そのあと私は、小弓城の北1キロほどの場所にあった「生実城」の城跡もたずねてみました。小弓城と生実城。読み方はどっちもおんなじ「おゆみじょう」。この2つの違いは?
かつての解釈では、戦国時代前期にあったお城が「小弓城」のほうで、足利義明の死後にこの地を占領した原家(当時、千葉県北部に勢力を持っていた千葉家の親族)が新たに「生実城」を築城してそこに移り住んだとされていました。
ところが、21世紀に入ってからの発掘調査の結果、「生実城」からも戦国時代前期の遺物が大量に出土したことから、現在では「小弓城」と「生実城」は同時に存在していて、義明さんも原一族も、周囲の街道の監視用と住居用など、それぞれの使い道でどちらも利用していたのではないか?という説が有力になってきています。
地理的な関係上、小弓城を「南おゆみ城」とするならば「北おゆみ城」とも呼ぶことのできる「生実城」は、南おゆみ城以上に平たい丘を敷地としたお城でした。
城を守る要害は沼地と空堀くらいしかなく、はっきりいって戦争にはまるっきり不向きなようにも感じられる北おゆみ城なのですが、街道や町の中心地に近かったため、江戸時代に入ってからも、この地をおさめた生実藩主・森川家の代々の陣屋(小さな城のこと)として長らく使われていきました。ちなみに、南おゆみ城のほうは、平和な時代になってからはじょじょに使用されなくなっていったようです。町からもちょっと遠いしねぇ。
丘のような土地の形状は今も残っている南おゆみ城なんですが、北おゆみ城のほうは町に近かったせいもあり、住宅地化のあおりをもろにくらってほとんど城跡らしいものはありませんでした。
ただし、こういう時にありがたいのは、敷地内に藩主・森川家の信仰していた神社や森川家代々の菩提寺が残っていることで、こういう伝統を重んずる施設の中には、お城の形跡を残しているものが残っている可能性が非常に高い!
案の定、神社の裏手には、幅10メートル、深さ5~6メートルはあろうかという空堀がほぼそのままの形で残っていました。これはいいねぇ!
興奮して堀の底まで降りてみようとしたのですが、日が暮れかけて薄暗くなっていた上にけたたましく警報ベルが鳴ってしまったので、やむなく断念しました。でも、逆にお城の説明を聞き出そうかと思って、ベルが鳴ったあとに人が来るのを待ってみたんですが、結局10分たってもだぁれも来なかった……自分の中にあった「セキュリティシステム」というものへのイメージに大きな疑問符を投げかけられた気分になりました。
あと、お城には直接の関係はないのですが、森川家の菩提寺である重俊院というお寺の敷地に、森川家が建てたという山門(仁王様が2人立っていたりする、2階建ての正門)が保存されていたのですが、今にもちょっとした衝撃で『8時だヨ!全員集合』的に倒壊しそうな雰囲気が、それだけの歴史の重みを感じさせてくれてとても素晴らしかったです。またこの山門、私が「山門」と聞いて想像したサイズのちょうど2分の1なのね! それでも充分に立派なものなんですが、その軽くめまいをおぼえるパースペクティヴの狂いも最高でした。
はい~、こんな感じで、記念すべき「全国402城探訪計画」の第1弾は無事に終了いたしました。
総じて良かったね! 肝心のお城自体はあとかたもなかったんですが、そのあとのかおりみたいなものは充分に味わえました。それだけでけっこう! ま、ちゃんとしたお城も見たいですが、それはまた、いつかということで。
2つのおゆみ城、良かったですよ。南おゆみ城ちかくの郷土資料館さん、道を教えていただきありがとうございました! いただいた南生実町の史跡マップ資料もとっても役に立ちました。
いやぁ、帰り道にコンビニで買って食べたロシアパン(でっかいコッペパンに砂糖ペーストをのっけただけのやつ)がうまかったうまかった!!
さて、目指す小弓城のある南生実町は、千葉県の千葉市内。私の住んでいる町からも地図で見ると10キロ圏内の距離ということで、のっほほ~んと2~3時間くらい自転車に乗っていればたどり着けるだろう、と完全にナメてかかって出発したのですが……この油断が大きな間違いだったことに気づくまでにそれほどはかかりませんでした。出かけた時間は、よく晴れたぽかぽか陽気のお昼過ぎ。
出発してから30分ほどがたち、JR千葉駅などのある千葉市の市街地から離れていくにつれて、だんだん道の起伏がはげしく上下するようになり始めてきたのです。
坂道をのぼって、そのあとにくだったと思ったら次の坂道。それをまたのぼったら、ちょっとおりてまた坂道!
春の陽気にたいする想いが「あたたかいなぁ。」から「あっついよコンチクショーイ!」に変貌をとげていくのを肌で感じながら、自転車全力立ちこぎでの坂のぼりを、映画『耳をすませば』のクライマックスを頭にうかべつつ4~5回くりかえしました。なのに、自転車のうしろには誰も乗っていないさみしさよ……
さみしいといえば、道沿いの風景もみるみるうちに民家が減っていき、気がつけば、山と林だけがひたすら続くカントリーロードになっていたのですが、そんな山道を、人とも車とも滅多にすれ違うことのないまま1時間ほど行くと、今度は最近にできたばかりのような雰囲気の、閑静な住宅地がたちならぶ地域にたどり着きました。
それが、目的地である小弓城のある南生実町だったのです。ここまで自転車汗だくで4時間かかりました。たいして道に迷うようなロスもなかったはずなんですが、まさかこんなにかかるとは……
しかし! ここからも肝心カナメの小弓城にたどり着くまでに、町の人に道をたずねるなど少々の手間を要したのですが、日が暮れる前についに! ついに到着いたしました、戦国時代の関東地方を駆け抜けた風雲児・小弓公方の本拠地、小弓城!
いまは……自治体のつくった解説ボードが1つ。墓地の前に。
小弓城は標高20メートル、広さ500メートル四方の小高い丘の上に築かれていたということで、その丘そのものは現在も残っているのですが、城があった敷地は墓地、畑、神社、なんかの工場などと非常に有効に再利用されており、そこにお城があったということは、わずかに千葉の史跡指定の解説ボードだけが語るのみでした。
まさか……まさか、そんなはずは! あの小田原城の北条家に対抗した男の中の男・足利義明の本拠地が、このようにこぢんまりとした丘であったとは……あまりに小規模! あまりに脆弱!!
いや、待てよ……ハタと思い当たることがありました。
この足利義明は、小弓城の主となってから20年後に、北条家との合戦に敗れて討ち死にしてしまうのですが、その合戦のあった場所はここ小弓城ではなく、同じ千葉県でもかなり北にいったところにある、市川市の国府台(こうのだい)だったのです。そのため、義明さんが敗れたこの合戦のことは「第1次国府台合戦」(1538年10月)と呼ばれています。ちなみに、「第2次国府台合戦」はそのおよそ20年後に起きた北条家と里見家との合戦で、これら2つの「国府台合戦」に勝利した北条家は、関東地方での覇権を揺るぎないものとしました。
「う~ん。この城じゃ勝てないよなぁ、やっぱ。」
かつて、強大な敵に勇気をもって挑んだ男の、ナマのボヤきを耳にしたような気がした私は、不思議な満足感を胸にいだいてこの小弓城(だったところ)をあとにしました。
余談ですが、畑のど真ん中にあった伊藤園の自販機でジュースを買おうと思って近づいたら、畑のはしっこで作業をしていた農家のおじさんから、
「うおぉ~いぃ、それ、うごいてねぇよ~い。」
と、あたたかいお声をかけていただきました。そんなに日常的に壊れてんだ……なんとかしてよ伊藤園さん。
そのあと私は、小弓城の北1キロほどの場所にあった「生実城」の城跡もたずねてみました。小弓城と生実城。読み方はどっちもおんなじ「おゆみじょう」。この2つの違いは?
かつての解釈では、戦国時代前期にあったお城が「小弓城」のほうで、足利義明の死後にこの地を占領した原家(当時、千葉県北部に勢力を持っていた千葉家の親族)が新たに「生実城」を築城してそこに移り住んだとされていました。
ところが、21世紀に入ってからの発掘調査の結果、「生実城」からも戦国時代前期の遺物が大量に出土したことから、現在では「小弓城」と「生実城」は同時に存在していて、義明さんも原一族も、周囲の街道の監視用と住居用など、それぞれの使い道でどちらも利用していたのではないか?という説が有力になってきています。
地理的な関係上、小弓城を「南おゆみ城」とするならば「北おゆみ城」とも呼ぶことのできる「生実城」は、南おゆみ城以上に平たい丘を敷地としたお城でした。
城を守る要害は沼地と空堀くらいしかなく、はっきりいって戦争にはまるっきり不向きなようにも感じられる北おゆみ城なのですが、街道や町の中心地に近かったため、江戸時代に入ってからも、この地をおさめた生実藩主・森川家の代々の陣屋(小さな城のこと)として長らく使われていきました。ちなみに、南おゆみ城のほうは、平和な時代になってからはじょじょに使用されなくなっていったようです。町からもちょっと遠いしねぇ。
丘のような土地の形状は今も残っている南おゆみ城なんですが、北おゆみ城のほうは町に近かったせいもあり、住宅地化のあおりをもろにくらってほとんど城跡らしいものはありませんでした。
ただし、こういう時にありがたいのは、敷地内に藩主・森川家の信仰していた神社や森川家代々の菩提寺が残っていることで、こういう伝統を重んずる施設の中には、お城の形跡を残しているものが残っている可能性が非常に高い!
案の定、神社の裏手には、幅10メートル、深さ5~6メートルはあろうかという空堀がほぼそのままの形で残っていました。これはいいねぇ!
興奮して堀の底まで降りてみようとしたのですが、日が暮れかけて薄暗くなっていた上にけたたましく警報ベルが鳴ってしまったので、やむなく断念しました。でも、逆にお城の説明を聞き出そうかと思って、ベルが鳴ったあとに人が来るのを待ってみたんですが、結局10分たってもだぁれも来なかった……自分の中にあった「セキュリティシステム」というものへのイメージに大きな疑問符を投げかけられた気分になりました。
あと、お城には直接の関係はないのですが、森川家の菩提寺である重俊院というお寺の敷地に、森川家が建てたという山門(仁王様が2人立っていたりする、2階建ての正門)が保存されていたのですが、今にもちょっとした衝撃で『8時だヨ!全員集合』的に倒壊しそうな雰囲気が、それだけの歴史の重みを感じさせてくれてとても素晴らしかったです。またこの山門、私が「山門」と聞いて想像したサイズのちょうど2分の1なのね! それでも充分に立派なものなんですが、その軽くめまいをおぼえるパースペクティヴの狂いも最高でした。
はい~、こんな感じで、記念すべき「全国402城探訪計画」の第1弾は無事に終了いたしました。
総じて良かったね! 肝心のお城自体はあとかたもなかったんですが、そのあとのかおりみたいなものは充分に味わえました。それだけでけっこう! ま、ちゃんとしたお城も見たいですが、それはまた、いつかということで。
2つのおゆみ城、良かったですよ。南おゆみ城ちかくの郷土資料館さん、道を教えていただきありがとうございました! いただいた南生実町の史跡マップ資料もとっても役に立ちました。
いやぁ、帰り道にコンビニで買って食べたロシアパン(でっかいコッペパンに砂糖ペーストをのっけただけのやつ)がうまかったうまかった!!