長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

おトクねぇ~!!  『ゲゲゲの鬼太郎 DVDマガジン』を観る  アニメ第2期 第10~13話の段

2013年08月31日 23時12分28秒 | ゲゲゲの鬼太郎その愛
 ヘヘヘイヘ~イ、どうもこんばんは! そうだいでございますよ~。みなさま、今日も一日お疲れさまでした。
 8月も、もうおしまいでございます。今年の夏も暑かったですねぇ。っていうか、たぶんこれからもしばらくは暑いですよねぇ、ええ。
 ほんとにまぁ、私に関しましても例年以上に忙しい8月になっちゃったんですが、やっぱりこれは、忙しくさせていただいているだけ、ありがたいということで! 幸せなことに、身体もそれに耐えられるだけまだまだ丈夫ですからねぇ。

 暑い夏よ、今年もありがとう! そして、クーラーのない我が環境よ、ファッキュー!!

 そういった万感の思いを込めながら、今回は『ゲゲゲの鬼太郎』アニメ第2シリーズの DVDマガジンの鑑賞記の第2弾をつづっていきたいと思います。温故知新! 今やっている『風立ちぬ』は、まだ当分上映しているだろうから、もうちょっとあとになってから観ることにしよう。

 あぁ、そうそう。本日公開になった『タイムスクープハンター』の劇場版ね。これも観ないわけにはいかない作品なんですが……なんか脚が重いゾ~!? なんでかしらねぇ、不思議ねぇ。


『ゲゲゲの鬼太郎 TVアニメ DVDマガジン 第3巻』(2013年6月25日発売 講談社)の収録内容

第10話『アンコールワットの亡霊』 1971年12月9日放送 脚本・雪室俊一、演出・西沢信孝
 原作……非鬼太郎もの短編『世界怪奇シリーズ アンコールワットの女』(1968年4月掲載)
 ゲスト妖怪……アンコールワットの亡霊オイン(声・柴田秀勝)、オインの娘、謎の老人トンボ(声・大竹宏)
 他シリーズでのリメイク……なし

 前回に扱った第7話『猫又』に引き続いて、東南アジアを舞台にした水木しげるの『世界怪奇シリーズ』の一篇を鬼太郎ものにアレンジした、異国情緒のやけに豊かなエピソードになっています。
 ただし、「猫又」という妖怪の伝承自体が日本由来のものだったことからくる、「それがなんでインドネシアの話なの?」という違和感については特になんの説明もなくスルーされていた前話にくらべて、本作はカンボジアのまぎれもない世界的遺産アンコールワットになぜか日本の戦国時代のような兜甲冑を着込んだ落ち武者の亡霊集団が出現するという違和感自体が意図的にクローズアップされているぶん、鬼太郎ファミリーが事件に興味を持ち、はるばる日本からやって来て解決に乗り出す必然性のようなものは無理なく強化されていたと感じました。

 それはそうなんですが……やっぱりこのお話も、な~んかピンとこないんですよねぇ。
 なにがピンとこないって、この作品における「敵」と「味方」が誰なのかが、わざとだったとしてもクライマックスまでモヤモヤのまんまになりすぎなんですよ。
 いや、これが原作マンガのような怪奇ロマンスふう抒情詩だったのならば、そんなに明確なキャラクター配置がなくとも「アンコールワットに鎧武者と美女」というヴィジュアルだけで充分にいいのでしょうが、これを『ゲゲゲの鬼太郎』のエピソードにしちゃったからなぁ。

 要するに、鬼太郎ファミリーが出てくる以上は鬼太郎のヒーロー然とした超能力アクションが必要になってきてしまうわけで、それを引き出すためには無念をもってさまよう亡霊の群れだけでは力不足だったというわけです。だって、亡霊たちは戦わなくとも、その無念の原因をつきとめてねんごろに弔えば消えてくれちゃうんですから。
 そういうわけでしゃしゃり出てきたのが、亡霊集団の棟梁である武将オインを成仏させまいと暗躍する策士トンボの亡霊なんですが、そのトンボっていうのがはっきりしないんだよなぁ~! 生きてるのか死んでるのかもわかんないし、鬼太郎にケンカを売ったり(それでけっこういいところまで鬼太郎を殺しかける)オインを恨む理由もあんまりわかんないんですよね。ただただ、物語をかきまわすためだけに出てきたって感じ。ともかく悪役としての説得力がなんだか足りないんですね。

 あと『猫又』もそうだったんですが、「前半に悪役だと思われていたキャラクターが実は悪役じゃなかった」という展開は、その疑惑の対象にある程度の魅力がなければ話を引っぱる要素にはならないと思うんですが、今回のオインの亡霊もまた、何もしゃべらずにさまようだけで今ひとつ牽引力にならないんですよね。悪人だろうが善人だろうが、どっちでもいいやって感じになってしまうんです。柴田秀勝さんの美声はいいんですが、やっぱり「鬼太郎サーガ」の一員になるには、亡霊になった理由がいかにも地味すぎるんですよね……

 ということで、中盤の猫娘の潜入捜査とか、日本からやって来たヘンな格好のガキンチョに対しても異様に低姿勢で協力的な現地の刑事とか、いろんなおもしろ要素のあった本作だったのですが、またしても鬼太郎ものになるにはもうひと工夫が足りないという結果になってしまったと感じました。
 でも、カンボジアのアンコールワットに落ち武者の亡霊っていうミスマッチきわまる絵には、捨てがたい魅力があると思います。次の第6シリーズで改めてリメイクされたら、すごいね!


第11話『土ころび』 12月16日放送 脚本・安藤豊弘、演出・白根徳重
 原作……マガジン版『ゲゲゲの鬼太郎』第127話(連載最終話)『土ころび』(1969年6月掲載)
 ゲスト妖怪……土ころび(声・富田耕生)
 他シリーズでのリメイク……第3・4・5シリーズ

 『妖怪城』や『妖怪大戦争』といった伝説的なエピソード群が目白押しのマガジン版『ゲゲゲの鬼太郎』の中では、あまりパッとしない印象がいなめない原作なのですが、これこそが実質的なマガジン版の最終エピソードであることはまぎれもない事実です!(ただし、『月刊マガジン』への掲載)
 いちおう、マガジン版としては読み切り作品『その後のゲゲゲの鬼太郎』が1年後の1970年7月に発表されて完結となるのですが(その次のシーズンとなるサンデー版『ゲゲゲの鬼太郎』はアニメ第2シリーズと連動して1971年から)、「鬼太郎と妖怪が対決する」という形式のエピソードは、この『土ころび』でしばしの休養ということになりました。

 そういう経緯をふまえて原作マンガを読むと、このエピソードは細かい部分で確かに意味深なポイントがあります。それはなにはなくとも、鬼太郎と対峙する土ころびという敵キャラクターが、厳密な意味では妖怪ではなく「限りなく妖怪土ころびに近くなっちゃった人間」である、ということ! ものすごい話ですよね……
 このエピソードに登場する土ころびは、実は「電工会社の工場が垂れ流し続ける排水を含んだ川の水を飲み続けた農民が変質してしまった成れの果て」だったという衝撃の事実が、マンガの途中でさし込まれる「字幕解説コマ」によって唐突にさらっと暴露されてしまうわけなのですが、水木しげるの筆はそれによって別に土ころびが普通の人間の姿に戻ってめでたしめでたしとかいう都合のいいハッピーエンドを用意することもなく、土ころびは土ころびらしく鬼太郎を喰べようとしてあえなく爆死する(鬼太郎のエネルギーを吸収しきれず)という「いつもどーり」な最期をとげます。「工業排水による犠牲者」という真相を提示しながらも、その犠牲者をまったく救済しないという水木先生の毘沙門天のような苛烈さがここでも炸裂していますね。厳しすぎるよ、ホント……

 さらに言うと、このエピソードは事件解決後に「事態を悪化させたねずみ男を鬼太郎が懲らしめる」という恒例のパターンでしめくくられるのですが、今回ばかりはねずみ男がトラブルメイカーどころか「明確に鬼太郎を抹殺しようと土ころびをけしかけている」ことによって事件が進行しているため、鬼太郎はかなり静かにブチぎれた口調で「おまえとはもう絶交だ。」と言い捨て、「鬼太ちゃん そんなつれないこというもんじゃないよ。」とすがるねずみ男を尻目に去っていきます。
 この感じで(いったんの)最終回を迎える2人の関係って、いったい……少なくとも親友じゃないし、本エピソードに関してはまごうことなき敵妖怪として鬼太郎に殺されてもおかしくなかったねずみ男の行動は、ちょっとアニメのレギュラーキャラの定義にはおさまりきらない「冷酷な悪の論理」がありました。

 そういえば、このアニメ第2シリーズをおさらいして改めて思ったんですけれど、アニメのねずみ男と原作マンガのねずみ男って、行動のスタイルというか、生き方の温度がまるで違うんですよね。アニメのほうはいかにも道化役といった感じで極端にコミカルで陽性なんですけど、原作のねずみ男はもっと無口で、クールで怖いんですよ。

ねずみ男 「人間は現在だけをたのしめばいいのだ。なぁ鬼太郎 そうは思わねぇか。」
鬼太郎  「どうも おめぇとは思想があわねぇな。」

 こんな会話をしょっちゅうしてるんだぜ、原作の2人は!? これはアニメ化はムリ!!
 個人的な感触なんですが、ねずみ男というキャラクターのこういった幅の広さは、あの広汎なる『バットマン』サーガにおけるバットマンの「永遠のあいかた」ジョーカーに通じるものがあると思います(ロビンはいろいろ乗りかえられてるでしょ)。時にお笑い担当、時に悪魔っていう、あの自由な感じ。
 だから好きなのよねぇ~。言うまでもなく、アニメ第2シリーズで大塚周夫さんが演じた若々しいねずみ男もねずみ男です。でも、大塚さんが40年後に再び演じた『墓場鬼太郎』のねずみ男もまごうことなきねずみ男なのよね。この、年齢という次元を軽々と超越した許容量。その枠を創った水木先生も、それに応えられる大塚さんも双方仲良く妖怪(=神)である、ということなんですね。フハッ!

 とまぁ、さんざん原作マンガのお話が長くなってしまったのですが、肝心のアニメ版のほうはどうなのかといいますと、実は最大の特徴だったはずの「土ころび=人間」という構図がさっさと放棄されてしまい、ふつうに工業排水によって凶悪化してしまった「本物の妖怪」土ころびを鬼太郎が退治するという流れになってしまいました。
 また、発端こそ原作どおりに土ころびを鬼太郎にけしかけるという悪役をになったねずみ男でしたが、後半では強大化した土ころびに裏切られて大ケガを負ってしまい、そもそも土ころびに加担したのも土ころびがあげると約束した金塊に目を奪われたから、という設定に変更になり、微妙ながらもちょっとは情状酌量の余地のある感じになっています。当然、次週からも引き続きねずみ男はアニメに出演するわけなので、レギュラーキャラとしては当然の修正となったわけですね。

 ただし、それらのアレンジによって、内容が「いつもの鬼太郎+社会風刺」といった印象以上の特徴を持たない、なんだか味気ないものになってしまったことは否定できず、ちゃんとそれなりにバトルも展開されるし鬼太郎もピンチにおちいるものの、かなり予定調和な雰囲気になってしまいました。
 アニメでは、鬼太郎に同行した猫娘がまず土ころびに襲撃されて、エネルギーを奪われて『ルパン三世 ルパン対複製人間』のマモーそっくりなしわくちゃ婆さんにされてしまうというオリジナル展開もあったのですが、そういうふうに身体をはった彼女も土ころびの爆死後になぜか何の説明もなく少女スタイルに戻ってるし、全体的に「甘口になりすぎた」感のある無難なアニメ化になってしまったのでした。

 でも、闇夜にまぎれて人家の発電装置を襲うシーンで、電線のスパークによってチラチラと浮かび上がる土ころびの不気味な姿とかは、けっこうよかったなぁ。確かに、深山幽谷に棲む妖怪という恐ろしさは出ていましたね。


第12話『やまたのおろち』 12月23日放送 脚本・辻真先、演出・茂野一清
 原作……非鬼太郎もの短編『やまたのおろち』(1966年12月掲載)
 ゲスト妖怪……呼子(声・富田耕生)、八岐大蛇(やまたのおろち)、解放石の中の妖怪
 他シリーズでのリメイク……第3・4シリーズ ※第4シリーズでは八岐大蛇(やまたのおろち)はぬらりひょんによって復活させられる

 私がこの DVDマガジン第3巻を購入したメインの目的が、このエピソードであります。

 原作マンガは鬼太郎ものではなく、主人公である正太という少年が古文書をたよりに、「伝説の邪神・八岐大蛇の遺跡」があるという斐伊川(鳥取・島根の県境)の上流を目指して山奥に入ってゆき、脚が木になって動けない妖怪・呼子に出会って「解放石」という宝石の中の異様な世界に引きずり込まれていくというストーリーになっています。そして、正太は自分の足が木になって新しい呼子になり、呼子だった男は人間の姿に戻って人里へ帰っていくという、この救いようのないラスト……
 この筋を読んでもおわかりのように、水木しげるの原作は解放石の中に棲む八岐大蛇よりも、むしろ解放石を持って人を呼び続ける呼子の方に焦点を当てた物語になっており、呼子だった男が「40年ぶりに人間に戻れた。」と語っているように、「必ず誰かが犠牲者になっていく」という「七人みさき」的な無限ループの恐ろしさを見事に活写した短編作品になっています。これは怖いよ~。

 でも、新しい呼子になってしまった正太の表情にはそれほど絶望の色がないというか、もともと正体不明の古文書を持ってひとりで2~3日も山奥を遺跡を捜し求め続けていたという異常すぎる設定の正太少年は、「お~い お~い」と人を呼び続ける呼子ライフを淡々と送りはじめるのでした……なんなんでしょうか、この不気味でうらやましすぎるマイペース感。まさに水木しげる。

 そんな原作にたいして、アニメ版もだいたいそれに準拠した流れになっているのですが、正太のポジションがねずみ男に変わったことによって、いつものようにヒーロー鬼太郎が呼子になりかけたねずみ男を助け出して一件落着という結末になり、原作マンガのようなバッドエンドは免れるかっこうになりました。
 ということでこれも、う~ん……普通のエピソードになっちゃいましたね。

 ただ、途中まで進行していく「呼子にされるかもしれない恐怖」とか、問答無用に襲いかかってくる八岐大蛇と鬼太郎・猫娘ペアとの総力戦アクションは見どころ満載ですごくおもしろかったですね。まぁ八岐大蛇が、その圧倒的なヴィジュアルのカッチョよさの割りにあまりにも弱すぎるんですけれども……鬼太郎の武器1コにたいして首1本がもれなく退治されていくって、どういうことよ。シューティングゲームの戦闘機かおまえは。

 原作マンガにおける八岐大蛇のデザインは、1コマでも見たら瞬時にわかるのですが、まんま東宝ゴジラシリーズの永遠のヒールスターこと宇宙超怪獣キングギドラ様(もち初代)の画像をまるパク……いやいや、インスピレーションを受けたものになっています。おおらかな時代だったのねぇ。
 それに対してアニメ版の八岐大蛇はといいますと、デザインはいかにも東映アニメの昔話に登場するような古典的な「2本角にどじょうヒゲ」の龍の首がそれぞれ8色に塗り分けられているというわかりやすいデザインになっており、原作マンガでは威勢よく引力光線……に酷似した火炎を吐いて主人公を追い詰めるのですが、アニメ版はただただゴジラとかラドンにそっくりな鳴き声で叫びながら食いかかってくるだけという若干のパワーダウン仕様となっております。

 まぁ、『ゲゲゲの鬼太郎』のエピソードである以上は鬼太郎に負けなきゃいけないんでね、八岐大蛇としても「見た目の割りにけっこうヤワい」という相当に不本意な演出になってしまったわけなのですが、お話を最後まで観ていきますと、VS 鬼太郎戦で一度敗れたはずの八岐大蛇はその直後にすぐに息を吹き返しており、おそらくは解放石の中にいる限り不死身な存在になっているとも解釈できる部分があります。
 にしても、「斐伊川の上流に八岐大蛇の遺跡がある」とか、ねずみ男に「捕まえて見世物にしてやろう」と企てられるとか、このお話の中で語られる八岐大蛇はどうにも『古事記』に記された伝説の邪神とは別物のようなチープ感があります。ツチノコじゃねぇんだから!

 このエピソードは、根本にある妖怪・呼子の見た目に似つかわしくない恐ろしさがけっこう効いているのと、なんといっても八岐大蛇が巣食っているミステリアスな宝石といった神秘的な展開が功を奏して、息をもつかせぬスリルを生み出すスペクタクル作に仕上がっているのですが、やはり「最後は鬼太郎が勝つ。」という鉄則によって原作マンガが持っていた持ち味が半減してしまったきらいがあります。それはまぁ、『ゲゲゲの鬼太郎』なんだからせんかたないことなんですけどね。

 ひとつだけ言えるのは、鬼太郎ものにならなかった原作マンガのほうがどう観ても断然おもしろいし恐ろしいということなんですよね。
 特に、アニメ化された際には技術上の都合で簡略化せざるを得なかった八岐大蛇と解放石の中の異次元世界の描写なんですが、これはもうなんといっても「頭がおかしい」としか言いようのないレベルの高さで細密画のように描かれていた原作を、機会があったらぜひとも一度は観ていただきたいと思いますね! 陸でもない、空でもない、海でもない、不気味で甘美な悪夢の空間……行ってみたいけど行ったら確実に帰ってこられなくなる世界を、水木先生はなんでこんなに説得力豊かに描けるんだろうか!?

 それはもう……知ってるからなんだろうねぇ。本当に観たことがあるからなんだろうねぇ。そういう世界を。


第13話『かまぼこ』 12月30日 脚本・柴田夏余、演出・設楽博
 原作……マガジン版『ゲゲゲの鬼太郎』第124話『かまぼこ』(1969年3月掲載)
 ゲスト妖怪……半魚人(声・兼本新吾)、巨大イカ、砂かけ婆(声・山本圭子)、子泣き爺、一反木綿
 他シリーズでのリメイク……第3・4シリーズ ※第4シリーズでは半魚人はぬらりひょんと共謀する

 半魚人と言ってもユニヴァーサルモンスターの一員になっている『大アマゾンの』半魚人さんではなく、日本の出雲地方の漁村に伝わる妖怪「海女房(うみにょうぼう)」をモティーフとした、「真ん中わけ長髪に全身ウロコ、両足の先が尾びれのような形状になっている」デザインの半魚人が活躍するエピソードですね。ただし、『かまぼこ』に登場する半魚人は男性です。そして、かまぼこの加工が職人なみにうまい! さらには人間と堂々と渡り合って商売もできるかなり高スキルな妖怪です。

 こういう妙に人間くさい妖怪がゲストであるだけに、本エピソードはいつものパターンとはひと味違う展開が多く、まず第一には、鬼太郎の敵となる半魚人が「人間世界に対しては」なんら悪事を働いていないという大きな特徴が挙げられます(労働者に対する契約違反はしてるけど)。
 なにはなくとも、この半魚人は「おいしいかまぼこを販売する」という活動で人間側から強い支持を得ており、その勢いに乗って次々と販売域を拡大し、ついには商都大阪にまで手を伸ばして莫大な利益を獲得、立派な豪邸を建ててみずからは上下スーツを着こなし、まるで人間の実業家のような生活を送るという驚異的な順応性を発揮するのでした。

 それじゃあ、そんな半魚人がどうしてまた『ゲゲゲの鬼太郎』の敵役になるのかといいますと、それはいきがかりで半魚人と偶然にケンカになった鬼太郎が半魚人の用心棒の巨大イカと闘って同化してしまい、それに乗じた半魚人が、「人間に戻してやるからかまぼこの原料になる海産物をとっつかまえてくるノルマを達成しろ。」という悪魔のような肉体労働を鬼太郎イカに課したからだったのでした。それで最初は馬鹿正直に半魚人に滅私奉公する鬼太郎イカだったのですが、いっこうに人間に戻してくれない半魚人に業を煮やして直談判したところ、半魚人はダイナマイトを持ち出してきて……というのが前半のだいたいの筋です。
 それはそうとして、このお話の半魚人は妖怪らしいことは最初の登場時にカメをかじっていたことくらいしかしておらず、あとはひたすらかまぼこを加工しているか売り歩いているか、無駄にモダンな豪邸で大好物のみつまめを食べてニヤニヤしているかで、闘うとしてもダイナマイトを使ったりして人間くさいことこの上ありません。

 よくよく考えてみれば、本件における鬼太郎はどう見ても、「正義のヒーローが平和のために戦う!」といった立場とはまるで無縁の、「プライベートで因縁をつけられてひどい目に遭った……」というスタンスで行動しており、鬼太郎も半魚人も双方ともにミョ~にほのぼのした死闘を繰り広げています。
 死闘、死闘! そりゃ死闘ですよ! だって鬼太郎はバラバラに粉砕されて妖怪再生病院送りになっちゃうし、結成して間もない鬼太郎ファミリーは総出でフル回転の活躍をするし。はっきり言って『妖怪反物』レベルの非常事態だったんですよね、この『かまぼこ』事件は。

 さて、バラバラに爆破された上に100本ぶんのかまぼこに加工されて売りに出されるという日本マンガ史上屈指の猟奇的敗北を喫した鬼太郎だったのですが、鬼太郎ファミリーの尽力によって無事、3ヵ月後に復活するのでしたが、半魚人に対する復讐のしかたは、なぜか「女装して半魚人のメイドになりすましてだまくらかす」という倒錯しまくり回り道しまくりのファニーなものとなります。

 しかしその結果、半魚人は鬼太郎から「そんなに人間になりたいんだったら、なってみろや。」という冷酷なアドヴァイスを受けてのんきに「人間改造手術」を受けてしまい、人間になったとたんに襲いかかる「納税」「経営」「老い」「死」の恐怖におびえる日々を送ることとなってしまったのでした……

 この、「妖怪よりも人間社会のほうがよっぽど怖い」というテーマをこれ以上ないくらいにわかりやすく提示したラストによって『かまぼこ』事件は一件落着とあいなるのでしたが、水木作品らしい淡白な語り口が皮肉さを強調していた原作マンガに対して、アニメ化された本作は前半の巨大イカのスペクタクルや後半の人間社会のキビしさをわかりやすく絵にした構成がとても楽しくまとまっており、これも理想的なアニメ化のお手本のような出来になっていると感じました。
 まぁ、なにはなくとも半魚人の声を実に活き活きと演じていた兼本新吾さんのおもしろさですよね! 実はこのエピソードは珍しくねずみ男がそれほど目立った活躍をしないお話なのですが(鬼太郎のプライベートな事件だから?)、その分をおぎなって余りある半魚人のコミカルかつ狡猾きわまりない言動が最高です! いいキャラクターなんですよね~。

 余談ですが、前回の『やまたのおろち』といい今回といい、斐伊川だの大阪だのと、このへんのエピソードは舞台の範囲が西日本に限定されているきらいがありますね。もちろんこれ以外のエピソードで東京を中心としたものもいっぱいあるわけなのですが、やっぱりゲゲゲの森は鳥取県にあるのだろうか……?


 まぁ、そんなこんなでこの『かまぼこ』は、いろいろと異色作の多い『ゲゲゲの鬼太郎』サーガの中でも特に異彩を放つ「番外編」のような作品で、アニメ版もそこを十二分にくみ取った仕上がりになっていたと感じました。
 決して目立つお話ではないけど、おもしろいよ~!


スペシャル特典映像『ゲゲゲの鬼太郎ゆかりの地・東京都調布市探訪 前編』(約6分)

 うん、ご当地紹介映像といった感じで、特に感想なし。



 こんな感じで観てきましたが、この DVDマガジン第3巻って、収録されてる4話中3話という異常な確率で鬼太郎が敵妖怪に喰べられちゃってるんですけど!?(土ころびと八岐大蛇と巨大イカ)
 「また胃の中かよ!!」って、当時のチビッ子たちも呆れてたんじゃないでしょうか。まさしく「敵の攻撃を受けるだけ受けつつ反撃の機会をうかがう」という、ロッキー=バルボアのような「どM戦法」が見て取れるエピソード群でした。反則的な打たれ強さ……

 そんな感じで、また次回~ぃいん。
 やっぱり文章が長ぇよ、この企画も……
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大変お世話になり申した……

2013年08月29日 22時02分59秒 | 日記
永六輔さんのラジオ番組、46年の歴史に幕 『誰かとどこかで』
 (産経ニュース 2013年8月29日付け記事より)

 タレントの永六輔さん(80歳)が46年余りにわたって出演するラジオ番組『永六輔の誰かとどこかで』( TBSラジオ系 毎週月~金曜日午前11時38~47分放送)が、来月9月で終了することが29日、分かった。永さんが同日の番組で「これまでの月曜から金曜日の放送は9月27日をもって終了し、休ませていただきます。できるだけ早く、新しい『誰かとどこかで』をお届けしたい。」と明かした。
 TBS ラジオによると、同一人物が続けた番組としては『秋山ちえ子の談話室』(1957年9月~2002年10月)の1万2512回を超えて同局制作では最長で、最終回の9月27日に1万2629回に達する。

 番組は1967年1月2日に『どこか遠くへ』のタイトルでスタート。1969年10月6日から現在のタイトルになった。月~金曜日の10分番組で、全国17局で放送されている。永さんが出掛けた旅先での話題や、聴取者からの便りに答える形で世相批評などをしてきた。
 2011年秋に永さんが足を骨折した際にも、病室で番組を収録し、休むことはなかった。

 永さんは29日の番組で「『引退しろ』という声がある一方、『ろれつが回らなくても続けて』という声もあり、それに甘えていた部分がある。医者の助言もあり、ストレスを減らすためにも、しっかり休むことにしました。」と説明した。
 TBS ラジオによると、年に3、4回、『誰かとどこかで』の特別番組の放送を予定している。1991年4月に始まり、毎週土曜日午前8時30分~午後1時に生放送している『土曜ワイドラジオトーキョー 永六輔その新世界』は続くという。



 ひょ~ひょ~ひょ~、ひょろひょろひょ~ひょ~、ひょひょひょ、ひょ~ひょろひょ~……

 いや~、ついにこの番組もおしまいとなってしまいますか。

 私はこの『誰かとどこかで』は、中高生のころの5~6年間と、2011~12年の2年間くらいの期間にしか聴いていなかったし、正直いってそれほど熱烈に内容を楽しめるほど大人でもなかったわけなのですが、可能なときは必ずラジオを『大沢悠里のゆうゆうワイド』から固定してチェックしておりました。山形時代は『ゆうゆうワイド』じゃなかったけど、確か TBSラジオと同じようにお昼前ごろに放送してたような。

 内容はよくわかんない回も多かったんだけどさぁ、とにっかく私はあの尺八演奏による『遠くへ行きたい』(作曲・中村八大)のオープニングが大好きで大好きで。いろんな有名な歌手によるヴァージョンが世に出ている『遠くへ行きたい』なんですが、やっぱり! 私が大好きなのは、いちばん心に響くのはこの尺八インストヴァージョンなんだよなぁ。
 前に坂本美雨さんヴァージョンの『遠くへ行きたい』についてつぶやいたときにもう言ったかも知れないのですが、私はこの歌の希望だけを思うさまにぶちまけている永さんの歌詞はそれほど好きじゃなくて、とにかく中村さんのメロディが大好きなんですよね。だからなおさらこのインストヴァージョンが愛らしいのかもしれないです。

 『小沢昭一の小沢昭一的こころ』とはまた違ったしめくくり方なんですが、これもまた、決断したひとつのゴールの仕方ということで。約半世紀、本当にお疲れさまでございました。遠藤泰子アナウンサーもお疲れさまでした! 大好き!!

 それにしても、ご本人が好きでやっている完全ホームな仕事を、健康上の理由や番組編成上の理由で閉めるというのは、どういう想いなのかしらねぇ……私はまだまだ、幸いにもそういう状況におちいらずにこの『長岡京エイリアン』を細々と続けていられているわけなんですが、つくづく健康っていうのは大事なんだなぁ、老いっていうのは誰にでもいつかはやってくるもんなんだよなぁ、ってしみじみ実感してしまいます。

 今のうちに自分にやれることって、どんなことがあるんだろうか。もうやれなくなっていることって、どんなことだっただろうか。


 ホームという意味では、残った『その新世界』も十二分にホームであるわけだし、なんせ4時間半もある生番組なんですから『誰かとどこかで』といいとこ勝負なしんどさかと思うのですが、やっぱり番組にたちのぼる「本気度」が違うと思うんですよね。『その新世界』のリラックスした空気ももちろんいいです。でも、聴いていて単純にカッコいいし、具体的に何をやっているのかわからない人だけど、なんとな~くモノスゴイ人なんだろうなぁ、って瞬時に感じとってしまう問答無用の磁場をおびているのは『誰かとどこかで』だと思うんですよねぇ。こういう「仕事場」があるのはとてつもないことですよ。主義主張のすべてに賛同するつもりはなくても、思わずその意見だけは黙って聴いてしまうという。


 いろんなことを考えてしまう寂しいニュースでございました。夏も、もう終わりですねい。


 ど~にかして残りの『誰かとどこかで』を聴いていきたいんですが、もうその時間に家にいることもなくなっちゃったしなぁ。っていうか、ラジオ番組も最近はほとんど聴けてないよ! 今年の夏は本当に忙しかった、いろいろと……

 思えば、私が現在のお仕事に足をつっ込むようになったのは、丸一年前の8月22日でございました。それからもう1年になりますか。っていっても、始まったばかりの頃はそれほど忙しくはなかったんですが、よもや今のような忙しい日々を送ることになろうとは。本当にありがたいことですけどね。

 さぁ、秋の気配も近づいてきた今日このごろ。空の下、桃屋の空き瓶は特にない部屋を出て残暑をのり切っていきまっしょい!!

 来月の℃-ute日本武道館も、いよいよ近づいてきたゾ~。少なくとも、そこまでは五体満足で生き抜こう!
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やっと読めました  辻村深月『島はぼくらと』

2013年08月27日 22時58分28秒 | すきな小説
 ヒエダノアレー♪ どもどもこんばんは、そうだいでございます~。みなさま、今日も一日お疲れさまでございました!

 相変わらずの忙しさでございまして……夏休みもやっと終わろうかとしている頃合いで、お仕事も平常モードに戻りそうなんですが、まだまだなんのかんのとバタバタしております。あ~キッツい夏だった! いや、気候的には、まだ当分終わりそうにない暑さなんですけどね。

 忙しいは忙しいのですが、試験も終わっていちおう通勤時間に読書はできる余裕ができましたので、2ヶ月前に「わわっ!」と購入しておきながらも、ずっと読めないでいた新刊本をやっと読了することができました。
 これは読むのを楽しみにしてました!


『島はぼくらと』(辻村深月 2013年6月 講談社)

 瀬戸内海の小さな島・冴島(さえじま)。夏休み直前の7月。
 母と祖母の女3代で暮らす、伸びやかな少女、池上朱里(あかり)。美人で気が強く、どこか醒めた網元の一人娘、榧野衣花(かやの きぬか)。父のロハスに巻き込まれ、東京から連れてこられた青柳源樹(げんき)。熱心な演劇部員なのに、思うように練習に出られない矢野新(あらた)。
 島に高校がないため、高校2年生の4人はフェリーで本土に通う。「幻の脚本」の謎、未婚の母の涙、I ターン青年・本木真斗(まさと)の後悔、島を背負う大人たちの覚悟、そして、自らの淡い恋心。
 島の子は、いつか本土に渡る。17歳。ともにすごせる、最後の季節。旅立ちの日は、もうすぐ。別れる時は笑顔でいよう。
 故郷を巣立つ前に知った大切なこと……すべてが詰まった書き下ろし長編。第142回直木三十五賞受賞後、第一作。


 出ました、辻村深月大先生!
 今までの作品が文庫版になって刊行されたり、映画『ツナグ』の公開があったりしたし、先生も各誌で連載は続けているのでそれほどブランクがあった感覚はなかったのですが、この新作、『鍵のない夢を見る』いらい約1年後の刊行になるんですね! 満を持しての書き下ろし長編であります。
 そういえば、『鍵のない夢を見る』の連続 TVドラマももうそろそろ WOWWOWで放送開始になるんでしょ? これは観たいねぇ~。観たいんですが…… WOWWOWの契約どころか家に TVがないという問題外の状況ですので、涙をのんでソフト商品化を待ちたいと存じます。特に『石蕗南地区の放火』の映像化がとっても気になりますね~。いちばん好きだったから。木村多江さんと大倉孝二さんでしょ、これはおもしろくならないわけがいだろう!! 笑うしかないシチュエーションと、そのすぐ向こうで口を開けて待ち受けている恐怖、そして、そこさえもズンッと踏みつけて生き抜いていく主人公のつよさを観てみたいね~。

 さて、そんでもってこの『島はぼくらと』なんですが、短編集と長編作品という違いもさることながら、前作の『鍵のない夢を見る』とはロケーションも作品にただよう温度も、登場人物たちをとりまく時間の流れ方さえもがもまるで違った物語になっております。
 まず、これまでの辻村作品の舞台には、東京と目される大都市や小・中・高・大の学校の中といった、行き交う人間が非常に多いシチュエーションと同じくらいの頻度で、人口がかなり少ない地方都市も、初期作品の頃から選ばれていました。短編『おとうさん、したいがあるよ』(2007年)も長編『水底フェスタ』(2011年)もそうですし、先ほどの『石蕗南地区の放火』だって、現代日本の地方のある側面をものすご~く辻村さんらしい視点から切り込んだ名品だと思います。
 それらの過去の作品で描かれた地方都市は、明確な描写がなかったとしても、東京やそれに準じた大都市とけっこう地続きになっていて、主人公をはじめとした登場人物たちが、それを実際にやるかどうかは別としても、離れようと思えばいつでも自由に離れることができる距離感覚にある地方都市でした。あと、ロケーションとして「山々に囲まれた内陸の町」といったものが多かったのではないかと思います。

 ところが今回の『島はぼくらと』は、今までの地方とは全く状況の異なる「海に囲まれた離島」が舞台となっており、主人公たちは高校への通学という一見あたりまえの日常を通じて、「本土の人々」と「島の自分たち」という立場の違いを毎日のように感じる生活を送っているのです。これは自分の生まれた島に高校がないという事情のために、往復フェリーの出航時間の都合で放課後の部活動がほぼできないという事情であるわけなのですが、部活のコミュニケーションを他の生徒同様に楽しめないという支障の重大さは、学校ライフを送ったことのある人ならば誰しもが実感のわく深刻な問題ですし、であるにもかかわらず、それを問題として提起することもできず、ただひたすら「そういうもの」として受け入れるしかない島の主人公たちの淡々とした描写は、逆に今までの辻村作品をはるかに超えるリアリティをもって、「地方」の「本土(にある大都市)」へのまなざしを浮き彫りにしているように感じられました。
 それは、登場する若者みんなが本土へ行ってみたいと願っている、みたいな単純な構図ではなく、好きにしろ嫌いにしろ、常に意識せずにはおられない複雑な存在として、物心がついたそのときから「自分たちの島」と「本土」という二項対立がある、という前提なんですね。これは、そういう環境の下で育った経験のない私としては、非常に新鮮な感覚でした。ちょっとやそっとの田舎勝負では負けないくらいの地方都市で育ったつもりの私ですが、そんなに「近くて遠い存在」として別の文化圏を意識したことはなかったもんねぇ。ましてや、将来そことここのどっちで生きていき、そして死んでいくのか、なんていう人生の問題は……30歳をとうに過ぎた今ごろになって、やっとボンヤリ考えるようになったかな、なんていうていたらくでございます。

 ここで、この『島はぼくらと』で辻村先生が活き活きと創造した、物語上の架空の島「冴島(さえじま)」について、小説の中での描写からピックアップできる限りの要素をかき集めて、その特色を羅列してみたいと思います。見落とし御免!


冴島について
 面積10平方キロメートル。150年周期で活動する火山島で、島の中央に位置する火山「冴山」が最後に噴火したのは約60年前の1950年前後。行政上は冴島村。温泉地としても有名。毎年3月ごろは濃霧に覆われる日があり、その日は学校は臨時休校になる。
 「姫路」「淡路島」「大阪」「宝塚」に近いことや「本土の県庁所在地」という記述から、冴島は兵庫県の播磨灘(瀬戸内海東部)に存在する島であると推測される。
 本土からフェリー高速船で20分、片道交通費450円。本土のフェリー乗り場から島は直接には見えない。直通便の最終時刻は本土発16時10分。2階建てフェリーの定員は約80名。
 「I ターンの島」、「シングルマザーの島」と呼ばれる。
 高台の斜面に位置する菅多(すがた)地区(新の家がある)、高台の上の冴釣(さえづり)地区(朱里や蕗子の家がある)、海岸部の濱狭(はまさ)地区(ホテル青屋がある)などで構成されている。
 島には唯一のリゾートホテル「青屋」があり、経営者は東京からやって来た青柳源樹の父。
 オープン1年になる民宿「グリーンゲイブルズ」の他にも民宿や旅館はある。
 人口3千人弱で、高校はない。村立保育園がある(園長は新の母)。
 日用品と食材を扱う「加藤商店」、湾の近くに魚屋の「魚商」がある。
 魚の一夜干しやのりの佃煮、みかんジャム、みかんジュースを加工する食品加工品会社「さえじま」が2000年代から営業している(社長は朱里の母・明実)。「さえじま」の加工場は公民館の2階ホール。創業時は社員9名だったが、現在は約20名に拡大している。
 映画館も書店もないがパチンコ屋はある。冴島郷土館と公民館がある。
 冴島小学校と冴島中学校は島の中央部に隣り合わせに建っている。
 冴島小学校はかつて毎年の卒業生が平均20名ほどだったが、終戦直後の冴山噴火にともなう島民避難の影響で平均3名にまで激減した。現在は Iターン人口の増加のために17名までに回復し、近い将来に20名を超えることが予測される(5年前の朱里の代は4名)。
 冴山の中腹に神社があり、近年はパワースポットとして観光客に人気があるが、島民はあまり行かない。
 高台に、湾と本土を見わたせる公園がある。
 新聞は配送上の都合で昼前ごろに配達される。
 冴島には古くから「兄弟」という風習があり、血縁のない成人男性同士が成年時に杯を交わして、親戚同様の親密な関係になり相互の生活を扶助しあうネットワークが現在も活きている(兄弟契約は複数の相手と交わすことができるが、女性は兄弟になれない)。


 まぁ、こんな感じだそうなんですけれども。
 架空の町やコミュニティを舞台にする、という物語の立ち上げ方は辻村先生にとってはお手の物ですし、愛読者にとっても、ある作品の舞台と別の作品の舞台とが、空間として、あるいは時間としてどういったつながりを持っているのか、ということを想像するのも密かな愉しみになっているわけなのですが、主人公と環境との関係が今作同様に非常に濃厚なものとなっている近作『水底フェスタ』と比較しても、この『島はぼくらと』は、圧倒的なディティールの細かさをもって冴島という世界に生命を与えていることがわかります。

 ちなみに上にあげたように、登場人物たちの会話の中では近畿地方の実在の都市が言及されることが多いことから、私はこの冴島が岡山・広島よりも大阪・神戸の方に近い播磨灘に存在しているのではないかと類推したわけなのですが、実際の播磨灘には、冴島の面積10平方キロサイズという条件に合致する島は存在していないようです。村長のセリフにちらっと出てきたご近所の淡路島(瀬戸内海最大の島)は「約592平方キロ」ですって。でっけー!
 ただ、播磨灘にほぼ接していると言ってもいい、小豆島(香川県 面積約153平方キロ)の北に鹿久居島(かくいじま)という島があり(岡山県備前市)、これは面積約10平方キロということで広さ的にはピッタリなのですが、本土からの距離がたったの800メートル、シカやアオサギの保護区になっていて島民は15名前後ということで、これはちょっと冴島のモデルではないな~、という感じがします。それはそれで、辻村先生がこの鹿久居島を舞台にした作品を書いたらおもしろいような気もしますけど。
 さらにもうちょっと範囲を広げれば、香川県の広島(丸亀市 面積約12平方キロ 人口約450名)、豊島(てしま 土井町 面積約15平方キロ 人口約1300名)、直島(直島町 面積約8平方キロ)あたりが冴島に似た島にあげられ、特に直島は「アートの島」という特色を活かして人口は約3200名ということで、打ち出すカラーこそ違うものの、他の地方都市にはない武器をもって独立しているという点では冴島によく似ているスタイルがあると思います。いいですねぇ~、直島! アートうんぬんもいいんですけど、私はなんといっても島にあるっていう「崇徳天皇神社」にぜひとも参詣したいものですね! キャーアキヒトさまー!!
 「島の人口」という観点からみますと、現代の日本で、この冴島のように「面積10平方キロクラスで人口3千名ほど」という状態を維持している島は全国で見てもあまり多くはなく、宮城県気仙沼市の大島(面積約9平方キロ)で人口約4千名、広島県呉市の大崎下島(おおさき・しもじま 面積約13平方キロ)で人口約3300名、先ほどの直島、愛媛県上島町の弓削島(ゆげじま 面積約9平方キロ)で人口約3200名、長崎県小値賀町の小値賀島(おぢかじま 面積約12平方キロ)で人口約3200名、熊本県天草市の御所浦島(ごしょうらじま 面積約12平方キロ)で人口約2600名といったくらいになっていて、同じ広さはあってもだいたいはもっと人口が少ない(数十~2千名弱)、という島がほとんどのようです。さらに調べてみると、面積10平方キロクラスよりずっと大きくても諸条件によって人口がもっと少ない島もざらですし、面積がもっと狭いのに人口が3千名かそれ以上という島もありますが(三重県の答志島が面積約7平方キロで人口約3千名、兵庫県の家島が面積約6平方キロで人口約5500名、兵庫県の坊勢島が面積約2平方キロで人口約3千名)。いろいろ調べてみて、その結論が「人生いろいろ、島もいろいろ。」って……なんという徒労!!

 ただ、とにかくこの時代に離島の人口を維持し、さらに増加させるということの尋常でない困難さはなんとなくわかりますし、そこを「 Iターンの島」「シングルマザーの島」という方策で成功させているという冴島の大矢村長の、かつて大阪の私立大学で経済学の教授をしていたという経歴が裏打ちする豪腕ぶり、そして、村長としては在任6期目で20年以上もその職についているという事実がもたらす「功罪」にまでしっかりと主人公の視線を向けさせている作者の筆には、単なるフィクションとは処理しきれない確かな説得力がありました。

 そう、ここが今までの辻村作品とはかなり趣が異なる点かと感じたのですが、この作品では、明確な「終結」というものは、登場するキャラクターの誰にももたらされないのです。

 『島はぼくらと』は、4つの章段で構成されたゆるやかな連作形式の長編となっております。第1章は物語の主人公である朱里とその親友の源樹、衣花、新を取り巻く冴島とそこに住む人々の紹介を行った上で、冴島にあるという「幻の脚本」を探しに来た自称作家の霧崎ハイジの巻き起こす波紋を描きます。第2章は冴島に暮らす Iターン住民の多葉田(たばた)蕗子とその娘・未菜(2歳 冴島生まれ)母子の過去と、島に訪れる蕗子の両親や、謎の中年男・椎名のエピソード。第3章は冴島の食品加工品会社「さえじま」の立ち上げに尽力した地域活性デザイナー・谷川ヨシノと島の大矢村長との衝突からのヨシノの旅立ちと、Iターンのウェブデザイナー・本木真斗の素性が明らかになる小事件。そして第4章の朱里たちの東京への修学旅行にからむ大冒険と、それによって明らかとなる「幻の脚本」の真相から、4人の少年少女のこれからをつづるクライマックス、エピローグへと続いていきます。

 そういった半オムニバス形式である上に、ひとつの章段の中でもがっつり大きな事件が発生するわけでなく、同じ時期に起きた様々な小エピソードが並列して起き、一見何の関係も無いようなそれらが次第に絡まり合って……という感じで、この作品はある意味では、それまでの辻村ワールドではあまり見られなかったような「ゆるやかな空気」に満ちたものになっています。まず辻村小説といえば、読む者の「忘れてしまいたい記憶」をゴリッゴリと掘り起こすかのような鋭利な人物描写と、徹底的に追い詰められた登場人物がその超逆境をはね返して「生きていこう」とするエネルギーを呼び覚まし再生していく、地獄のような通過儀礼を連想してしまう方も多いかも知れません。まぁ、そこが病みつきになってしまうわけなんですが……
 ところがこの『島はぼくらと』に関しては、物語の中心に位置する4人の少年少女は、それぞれに抱える実にリアルな人生の背景こそあるものの、極端に言ってしまえばごく普通の離島に住む高校生であり、小説の中軸に据えられるような大事件など特に起きず、いっさいのエピソードは彼女ら彼らの周囲を通り過ぎて行き、しかるべき時間の流れに従って4人はふつうに高校を卒業し、冴島と自分、そして他の3人と自分との関係の変化を受け入れていくのです。

 ふつう! ふつうの話だこれ!! でもそこが、いい!!

 これ、それまでの辻村ワールドとは明らかに違う空気が流れていますよ。いや、厳密に言えば辻村先生はこの『島はぼくらと』にいたる前段階として、短編集『ロードムービー』(2008年)で「ふつうの人々を描く」というテーマにチャレンジしていたように思えます。そしてそれらの短編で手ごたえを得たうえで、満を持して冴島とその住民の世界を精緻に創造する作業に入ったのではないでしょうか。
 そう考えてみると、この『島はぼくらと』は、けっこう『ロードムービー』のきれいな裏返しであると納得できる構図になっています。要するに『ロードムービー』というのは登場人物が非日常な世界に出て旅をするお話なわけですが、『島はぼくらと』はその真逆で、登場人物がずっと住み続けている日常世界に「非日常な風」が吹き過ぎてゆくというお話なのです。人が動くか世界が動くか、地動説か天動説かという違いなだけ! いや、「だけ」で済む違いじゃねぇか。

 なんか、こういう「人と世界」の、どっちもそんなに大きくは変わらないけど着実に時は過ぎて影響は与えあっていくという微妙な距離感を想像するときに、私の脳内にいつも必ず浮かぶイメージに、子どもの頃に観た、藤子不二雄A の『まんが道』のドラマのオープニングか何かの、主人公たちが画面中央で道を歩いて、その横を他の登場人物たちや印象的な風景とか建物が行き過ぎていく光景を連想してしまいます。でもこれって、私みたいな大した事件にも巻き込まれずになんとなく生きてきた人間にとっては、いちばんしっくりくる「人生のイメージ」なのでありまして、なんか気になるな~と思った人が早々にはるか彼方に消えていってしまって、後でふと「あの人なにしてるかな……」と思いを馳せたり、そうかと思ってたら突然道の先からその人がひょっこり出てきたりするという人生の出逢いの面白さを、最も的確に表しているような気がするのです。いっさいは、私の傍を過ぎ去ってゆく……

 そうは言いましても、この『島はぼくらと』にだって、高校生でありながら脚本コンクールで最優秀賞を取れる程の作品を書いてしまう才覚を持つ新や、自己主張の激しい俗物そのものの霧崎ハイジ、気のよさそうなおっちゃんのようで実はえげつない権力を行使する大矢村長といった感じに強烈な印象を残すキャラクターは登場しますし、第4章の修学旅行中の怒涛の展開にいたっては、読んでいて「そんな奇跡、ある!?」と叫びかねないファンタジックな高揚感に満ち満ちています。まさか、終盤のいいところであの人が出てくるとはねぇ……でも、それが単なるファンサービスにとどまらずに、実にその人らしいエネルギッシュな活躍をしてくれるのは非常に痛快ですね。これって、まさにこの4人のような、この世界にまだまだ希望を抱いている幼い頃に、誰しもが「あぁ、ピンチの今、あこがれのあの人が助けに来てくれたら最高だな……」なんて夢想していた奇跡そのものですよね。でも、それは単なるご都合主義なのではなく、主に朱里の熱意と新の不動の意志がもたらした必然の対価であることは間違いないでしょう。
 いやそれにしても、自分の脚本をパクられても微塵も動じず、伝説の脚本家の手になる幻の作品にも怖気づかずにアップデートに挑む新くんって、精神力どうなっとんの!? 今作中最大のバケモンだな……でも、この力の原動力って、「僕はこの好きなことでは絶対に誰にも負けない。明日は、今日よりもっと良い作品を書ける。」という新の自信ですよね。それが口先だけでなく、ちゃんとすぎる程の内実を伴っていることは作中で証明されているわけなのですが、このたくましさはそのまま、辻村先生がこの作品を読む少年少女に見せたい、そして持っていてもらいたい「未来へ続くちから」そのものなのではないでしょうか。

 作品中の登場人物をもって作者を語ることは絶対に慎重であるべきことですが、それを承知の上で言わせていただきますと、『島はぼくらと』の中で、その精神のあり方が最も辻村先生に近いのは新くんなんじゃなかろうか。その後の辻村先生のさらなる活躍を観るだに、その無尽蔵なエネルギーの原点、はじまりの特異点には、おそらく新くんのような、ごくごくフツーで、それでいて胸の内に異様な熱さのマグマを秘めた子どもがいるのだろうなぁ。
 いやいや、辻村先生に近いのは新くんじゃなくて、第4章に出てくるスペシャルゲストだろうと思われる方もいらっしゃるでしょうが、そっちの方はあくまでも4人を助けるスーパーヒーローといいますかデウスエクスマキナなのでありまして、強引に解釈するのならば、辻村先生の過去のキャラクター化が新くんで、理想の具現化がスペシャルゲストさんなのではないでしょうか。いかな先生といえども、いちいち彼女のように少年少女のねがいに応えていたら休む暇もなくなってしまいますからね……

 とまぁこんな感じで、この『島はぼくらと』は、辻村先生の作品群の中では、その日常感というか爽快感が、他にない唯一無二の存在感を放っているさわやかな作品です。なんか、デビューからずっと張り詰めた空気の中で全力投球を続けてきた辻村先生が『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(2009年)あたりでひとつの頂点に達して、少しひと息ついてから、この『島はぼくらと』でスポーン!!と自分の中の「天井」を吹き飛ばして、さらなる高みへと上昇を始めたような気がします。小説家になって10年、ついにここから新たなフェイズへと入っていく扉となる重要な作品、それこそがこの『島はぼくらと』なんじゃないでしょうかね。

 だいたい、これくらいで私の言いたいことはあらかた言ったのですが、このような少年少女に広く読んでいただきたい作品の中にも、やはり辻村ワールド名物の毒気たっぷり社会見学ツアーは用意されています。私にとって特に印象に残ったのは、蕗子さんが冴島にやって来たいきさつと、第4章のスペシャルゲストキャラがつぶやいた霧崎ハイジへの脚本評でした。

 オリンピックの銀メダリストとなった蕗子さんの周辺に吹きすさぶ無数の人間の賞賛と欲望の嵐の恐ろしさは、かなりのリアリティをもって克明に描かれています。「有名になると親戚が増える」という現象が、無邪気に、しかし容赦なく蕗子さんの生きるエネルギーを奪い取っていく。それなのに、奪い取っている側はただ何気なく軽口をつぶやいているだけ、しかも飽きたらすぐ忘れるという、この被害と加害にかかる負担の理不尽すぎるアンバランスさは、なにもオリンピック選手だけに限らない、誰にでも襲いかかりうるネット社会の恐怖を簡潔に語っていますよね。この問題は、ここだけで独立した一つの作品になってもおかしくない重さを持っていますよ……冴島の人々のおかげでご両親とも再会できたし、この蕗子さんの場合は救われて現在の日々を手に入れているわけなのですが、そこにいたるまでには、本土での過酷すぎる闘いがあったのでしょう。そこから生まれた未菜ちゃんという命もまた、奇跡。

 もうひとつの霧崎ハイジ評ですが、「ごちゃごちゃ探偵役がうんちく垂れる場面以外は、かなりいい」という言葉は、ある意味で、狭い解釈でのミステリー小説ジャンルからの脱却を、辻村先生がフィクションの中ではっきり明言した瞬間であるような気がします。当然、ごちゃごちゃ言う探偵役を付け足した霧崎の卑劣さを見越した発言であるわけなのですが、それ以上に辻村ワールドが目指すものが、「小説の中」というせせこましい井戸の中をこぢんまりと整理する機能しかない名探偵なぞ必要とせず、もっと広い意味でのミステリーである「人間の不思議さ」を見つめる小説であることを宣言していると、私は読んじゃうんだなぁ。ミステリー小説との決別といってしまうと、かなり大げさな言い方になってカチンとくる向きもあるかも知れないのですが、そもそも、人間のヘンなところが生むトラブルを「謎」というのならば、この世の小説のほとんどがミステリーですもんね。人間が人間たる理由を問い続ける辻村先生のスタンスに、デビュー時からブレは1ミクロンも無いと思いますよ。

 『島はぼくらと』、非常にいい小説だと感じました。これから、辻村先生がどういった新作を世に出していくのか、可能性は計り知れません。でも確実に言えるのは、これから生まれるどの作品のどの登場人物にも、必ずこの『島はぼくらと』に出てくる冴島のような故郷と、平々凡々な、それでいてとっても暖かい過去の思い出があるという、人間味あふるる厚みがある、ということです。悪役にだって、脇役チョイ役にだって。

 様々な個性と才能、ジャンルが氾濫するこの世の中において、オンリーワンの世界をつむぎ続ける辻村深月先生の、次なるディケイドの展開を楽しみにしましょう! 行ってらっしゃ~い!!
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おトクねぇ~!!  『ゲゲゲの鬼太郎 DVDマガジン』を観る  アニメ第2期 第5~9話の段

2013年08月20日 23時00分41秒 | ゲゲゲの鬼太郎その愛
 ヘヘイヘ~イ! どうもこんばんは、そうだいでございますよ~ん。みなさま、今日も一日、暑い中ほんとうにお疲れさまでございました。
 8月もなかばを過ぎまして、前半にくらべればいくぶん気温もおとなしくなってきた感じはあるんですが、相変わらず暑いもんは暑いということで! 熱帯夜はホントにカンベンしてほしいですね。

 さて、今年の夏最大の山場だった資格試験もいちおう終わったわけなんですが、家にたまった DVDの山の鑑賞処理が、いっこうに進んでおりません!!
 理由は「暑くて観る気にならない!」ということも含めていろいろあるんですが、やっぱり仕事が忙しい! という大問題が第一であります。ありがたいことでございますけどねぇ。
 世間一般でいう夏休みの時期、私のお仕事は忙しいのなんのって。現在、私の担当している部署は平常時の5~8倍忙しくなっています。それが来月9月の第1週くらいまでは続くわけよ。月例の報告会のときに、自分で報告しててビックラこいたよ、あたしゃ……

 そんなわけで、家に帰っても即効で眠りについて、早朝に起きて出勤するという健康的な日々を送っているので、晩酌でもたしなみながら楽しみにしていた DVDをゆっくりと眺めるなんていう余裕なんか、土台あるわけがないっつうのよ! 毎晩、『日曜洋画劇場』とか『金曜ロードショー』を見つめながらウイスキーの水割りを飲んでいた我が父よ、あなたは強かった。

 まぁそれに加えまして、やっぱり個人的には大いに不本意な結果に終わった資格試験のこともありまして、しかもその正式な成績通知が来月にならないとわからないということなので、どうにもこうにも気持ちが落ち着けられない状況が続いているところでして、なんだかのんびりと作品を楽しむ気になれないんですよね、今。おちおち『風立ちぬ』も観に行けない精神状態なんですよ。必ず映画館で観るつもりではいるんですけどね。
 もうね、こんな私の気分は、おそらく来月上旬の一大イベント「℃-uteの日本武道館初コンサート」まで晴れない感じなんでしょうねぇ。おそらくその決戦に臨場してやっと心の重しがずっしんと落ちる流れになるんじゃないのでしょうか。そこで私の夏は終わるんでしょうが、振り返れば、今年もオレの夏休みはまるでなかったぜ、コンチクショー!! できれば9月にささやかなお休みをいただきたいねぇ。

 あっ、そういえば、家の DVDは観れていないんですが、仕事のなりゆきで、前からいつか観よう観ようと思いながらおざなりになってしまっていた、細田守監督のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』(2012年)をやっと観ました。
 ちょっと仕事の一環として観たので画面に集中することができず、はっきり作品全体を把握したとは言えない状態だったんですが、おもしろかったですね、はい。主人公が自分の理想の通りに行かなかった現実をはっきりと受容して肯定するという、ものすごくアニメ的でないクライマックスにやけに感動してしまいました。単純なハッピーエンドでないという時点で、もう私としては100点満点。なんてったって「家族」がテーマの物語なんですからね、そりゃそうです。

 物語のスケールでいったら、どうしても『サマーウォーズ』に比べて見劣りしてしまうのかも知れませんが、監督が明らかに今までのキャリアの中で自分の作品に入れていた「きれいごと」に満足していないという攻めの姿勢が観られたのが本当に気持ちよかったですね。前半の恋愛関係の甘ったるい雰囲気が、子どもの誕生と突然の別れでどんどん生臭くなっていく展開も、細田監督一流の構成センスと作品世界で非常に味わいやすくなっていたと思います。
 まぁ、なんてったって後半の自然描写の水墨画のようなシンプルさと美しさですよね。子どもの名前だけでなく「雨」と「雪」がとても効果的に作品に入り込んでいたのが素晴らしかったですわ。「夏」だけじゃあない細田ワールドの新境地!

 ちょっぴり怖くもあるんですが、細田監督の次回作に大いに期待したいと思います。いったいどんな次元のアニメになるんだろうか? アニメの「きれいごと」と闘いながらもアニメであり続けるという厳しい選択肢を、ぜひともこれからも貫いていってほしいと思います。今度は必ずスクリーンで観ます。すいませんでしたァ!


 さて、そんなこんなでやっと今回の本題に入るんですが、同じアニメでもむっちゃくちゃクラシックなアニメ作品のお話。

 何を今さらって感じなんですが、今年の5月から、アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の第2シリーズ、第1シリーズの全話を収録対象とした DVDマガジン『ゲゲゲの鬼太郎 TVアニメ DVDマガジン』(隔週刊 講談社)の刊行が開始されました。第2シリーズが全話ぶん刊行された後に第1シリーズの刊行が始まるというヘンな順番なのですが、来年までまる1年続いていく予定のようです。

 そんでもって、『ゲゲゲの鬼太郎』といえば「猫娘ヒストリー」だとか「ぬらりひょん・妖怪総大将への道」だとかいう実に自己マンな企画をやらかしていた私も黙ってはいられないということで、フハッと鼻息を荒くしたわけだったのですが、いくら安くてもさすがに全巻全話をチェックするのはしんどすぎるし観る時間もないということで、自分の特に興味のあるエピソードが収録された巻だけを購入しておくということにしていました。
 こういう DVD主体の隔週刊雑誌に注目するのは、『ゴジラ』シリーズとか「変身人間シリーズ」とか『血を吸う』シリーズとかが2000円という脅威の価格で限定販売されていた『東宝特撮 DVDコレクション』(2009~12年 全65巻 ディアゴスティーニ)以来なんですが、それよりもさらにお得な1600円! 映画の VHSビデオが平気な顔して1本1万5千円とかで売られていた私の青春時代からしたら、実にいい世の中になったもんです…… THE・隔世。

 現在、随時刊行されているのは初カラー作品となったアニメ第2シリーズなのですが、それではざっと、第2シリーズの基本情報をまとめてみましょう。


アニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』第2シリーズ とは
 1971年10月~72年9月放送。全45話。前作アニメ第1シリーズ(1968年1月~69年3月放送 全65話)から2年半後の製作。スタッフ、キャストはほぼそのままで初めてカラー作品となり、前作と同様に高い支持を得た。平均視聴率は17.0%。
 第1シリーズの完全な続編という位置づけであるため、エピソードのリメイクは行われなかった。そのため、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』以外の水木しげる作品を原作にアレンジしたエピソードが全体の約半分を占める(第1シリーズでは終盤の第62話『海じじい』、第63話『なまはげ』の2エピソードのみが非鬼太郎もの原作だった)。これらの作品はもともと単体で物語が完結しているために鬼太郎がストーリーに介入する余地が少なく、「正義のヒーロー鬼太郎が悪い妖怪をやっつける」という子ども向け番組としての基本コンセプトから外れて、鬼太郎が単なる傍観者で終わってしまう話や、非常に怖く救いのない話も続出した。その反面、風刺色や怪奇色の強い大人向け作品を取り上げたことにより、水木作品の持つピュアなエッセンスの忠実な映像化に成功した。原作の意図をよく理解したスタッフは当時の風俗や世相などを取り入れ、風刺やアイロニー、人間の業の深さなどを描き切り、他のシリーズには見受けられない強いメッセージ性と独特の深い味わいを持ったシリーズとなった。
 また、東映動画のアニメ『タイガーマスク』(1969~71年)を終了した製作スタッフが合流していることなどにより、第1シリーズに比べて劇画調のタッチの作画が増え、異色のエピソード群をさらに特徴あるものに仕上げている。
 モノクロ作品であるために再放送の少なかった第1シリーズと違い、第2シリーズは夏休みの子ども向けアニメの定番作品としてその後何度も再放送され、リアルタイムでない世代のファンも多く生み出した。

おもなキャスト
ゲゲゲの鬼太郎 …… 野沢 雅子(35歳)
目玉の親父   …… 田の中 勇(39歳 2010年没)
ねずみ男    …… 大塚 周夫(42歳)
猫娘      …… 小串 容子(?歳 猫娘の声優としては2代目)


 とまぁこんなわけなんですが、周知の通り、この第2シリーズは今や鬼太郎ファミリーにとって必要不可欠な「萌え担当」要員となった猫娘が、初めてレギュラー出演することとなった重要な作品でありながらも、と同時に、先の第1シリーズで原作マンガどおりのあっさり感でリタイアしてしまったために我がいとしのぬらりひょん様が1秒たりとも出演していない唯一の作品でもありました。であるがゆえに、私としても「なんだ、第2シリーズかよ……」というがっかり感もないと言えば嘘になっていたのですが。

 だが、しかし。思い起こせば私が生まれて初めてアニメの鬼太郎に出会ったのは、親か児童館の先生がレンタルビデオ店から借りてきた第2シリーズがきっかけでした。その素地があった上で、リアルタイムの吉幾三な第3シリーズの洗礼を浴びて現在にいたるわけ。それじゃあ軽視するわけにはいきませんやね。
 しかも、上の解説にもあるように、第2シリーズはその「第1シリーズの直接の続編」という縛りがあったがゆえに、深刻な原作不足を解消するために水木しげるの「非鬼太郎もの」を苦心して鬼太郎ものに変換するという努力が大いになされたシリーズでもありました。その中には多くの異色の傑作が生まれ、それ以降の第3~5シリーズで他の原作マンガと同じようにリメイクされたエピソードも少なくありません。

 それじゃあ、なるべくチェックしなくっちゃあね!

 というわけで、自分が購入した巻だけを扱うのではなはだ穴だらけな感じにはなってしまうのですが、だいたい「非鬼太郎もの」を原作とするエピソードを収録した巻を観た簡単な感想のようなものを、これからぽつぽつと我が『長岡京エイリアン』でつづっていきたいと思います。

 これぞ温故知新! 予定通りに刊行されていけば、第1シリーズのモノクロぬらりひょん様がおがめるのは11月のころですか。遠いようであっという間なんだろうなぁ……


『ゲゲゲの鬼太郎 TVアニメ DVDマガジン 第2巻』(2013年6月11日発売 講談社)の収録内容

第5話『あしまがり』 1971年11月4日放送 脚本・柴田夏余、演出・高畑勲(36歳)
 原作……マガジン版『ゲゲゲの鬼太郎』第126話『妖怪あしまがり』(1969年6月掲載)
 ゲスト妖怪……タヌキ妖怪あしまがり(声・富田耕生)、あしまがりの使役する気体妖怪、妖怪花の精(声・杉山佳寿子)
 他シリーズでのリメイク……第3シリーズ(1985~88年)※あしまがりはぬらりひょんの用心棒として登場する

 第1シリーズの製作に間にあわなかったマガジン版『ゲゲゲの鬼太郎』の末期エピソードをアニメ化したものですが、1話だけで完結していながらも鬼太郎をけっこういいところまで苦しめる妖怪あしまがりとの激闘を非常にうまく30分の内容にふくらませた名編だと感じました。
 なんといっても、肝心のバトルシーンを無駄に長くするという安易な演出を避けて、第2シリーズのオリジナリティともいえる猫娘の活躍を前半に用意して、自然破壊のむなしさや妖怪花のミステリーの描写に時間を割いたのが実にうまいですね。猫娘のロマンチックな部分が早くも全開になっていたと思います。ねずみ男とのツンデレ関係がしっかりできあがっているのも、なんという先見の明か!

 原因はどうであれ、現実にホテルの営業を妨害されて困っている人間側の味方にならずに、同じ「滅びゆく種族の生き残り」である妖怪花の精に一も二もなく力を貸す鬼太郎。その行動原理が非常にはっきりと言及されているエピソードだと思います。正義の味方が必ずしも人類の味方であるわけではないという重要なお話ですね。
 「正義」に正直な鬼太郎、「金」に正直なねずみ男、「酒」に正直な妖怪あしまがり。それぞれの原理がぶつかりあう後半の展開はとても手に汗握るものがあるのですが、しょせんは鬼太郎のゲタを見落としてしまったあしまがりの完敗ということで一件落着となります。鬼太郎強すぎ……

 この戦いで、人類の立場につけいってあしまがりに鬼太郎退治を依頼した張本人は他ならぬねずみ男。はっきりいって鬼太郎に殺されてもおかしくない戦犯っぷりなんですが、あしまがりとの決戦のあいまにゲタでビンタをしたり、落下時にクッションにしたりするくらいのお仕置きで許してやっているようです。この第2シリーズって、ねずみ男がいなければ成立しないエピソードが多いんですよね。死んでもらっては困るということなんでしょうか。寛大だ!

 上のように、本作での妖怪あしまがりは、人間語を話し衣服を着た化け狸と、それが鐘と太鼓と銅鑼を鳴らして使役する気体妖怪とのペアなのですが、さすがは約20年後に『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)を世に問うた高畑勲監督だけあって、少ないセル画ながらも、不敵な戦巧者である化け狸が実に活き活きと描かれていました。酒を呑むしぐさが本当においしそうなのよね~! 富田耕生さんは、こういう自信過剰気味な悪党の役がうまいうまい。


第6話『死人(しびと)つき』 11月11日放送 脚本・安藤豊弘、演出・茂野一清
 原作……非鬼太郎もの短編『妖怪魍魎の巻 死人つき』(1967年2月掲載)
 ゲスト妖怪……魍魎(声・渡辺典子)、土精、魍魎の仲間、つるべ火
 他シリーズでのリメイク……第5シリーズ(2007~09年)

 第2シリーズで、初めて「非鬼太郎もの」が原作となったエピソードです。鬼太郎ものにも魍魎が登場するエピソードはあるのですが(マガジン版第69話『モウリョウ』)、こちらは別の個体の魍魎が出てくる話ですでに第1シリーズでアニメ化されていました(第31話『もうりょう』)。
 『死人つき』の原作マンガは、19世紀のロシア帝国の文豪ニコライ=ゴーゴリがロシアの魔女伝説をもとに著したという短編『ヴィイ』(1835年)を日本の物語にリライトしたもので、魔法陣に隠れた人間が妖怪の目に見えないという設定や、それを見破る邪眼を持った土精の存在は濃厚にヨーロピアンな香りをおびていますね。とはいっても、完全にキリスト教的でないところに、スラヴ民族文化ならではの豊潤なミックス感があると思います。

 何を隠そう、今回この DVDマガジンの第2巻を購入した私のいちばんの目的はこの『死人つき』でありまして、萌え萌え作画に加えてかなりコメディ要素の強かった第5シリーズの中でも異様に怖いエピソードに仕上がっていた第64話『もうりょうの夜』のオリジンが第2シリーズの本作だということを知り、どうしてもこの目でしかと観たいという思いがあったのでした。

 それで満を持して観たわけだったのですが、まぁやっぱりそこはそれ、いくら怖い話だといっても『ゲゲゲの鬼太郎』ですからそんなにドギツい描写はなかったのですが、真夜中の森をほほえみながら歩いてくる白装束の娘だとか、実は彼女が3日前に死亡していたということが判明する展開、そして毎晩その彼女の死体がむっくりと起き上がって婚約者(ねずみ男)を探しさまよい、ついに現れる魍魎の本性!
 たしかにいちいち古典的でベタではあるのですが、あぁ、私はいま正真正銘の怪奇譚を楽しんでいるのだなぁ、という充実感がひしひしと湧いてくる素晴らしい傑作になっています。

 いうまでもなく、このエピソードの原作はゲゲゲの鬼太郎のような万能ヒーローの活躍しない、実録怪談的な伝承であるはずなのですが、後半に実にうまく鬼太郎と魍魎軍団との大立ち回りが差し込まれているため、鬼太郎サーガの一編としてまったく破綻のない構成になっているのも見逃せないポイントですね。鬼太郎の出番もちゃんとあり、死人に求婚されるという絶妙な役回りにねずみ男も大いにハマッています。そして誰よりも、魍魎から人間を守る魔法陣の知識を駆使するのが目玉の親父であるという役割分担がものす~っごくしっくりきてるんですよね!
 う~ん、ヒーローとトラブルメイカーとマスター。鬼太郎ファミリーは本当に完成されているうまいメンバー構成なんですよね。猫娘は……このお話ではあんまし出番がなかった。


第7話『猫又』 11月18日放送 脚本・雪室俊一、演出・新田義方
 原作……非鬼太郎もの短編『世界怪奇シリーズ 猫又の恋』(1968年7月掲載)
 ゲスト妖怪……猫又ジーダ(声・千葉順二)、ボロゴン島の妖狐
 他シリーズでのリメイク……なし

 前話の魍魎と同じように、本作の主要な存在となる妖怪「猫又」もまた、鬼太郎もの原作の中ではマガジン版第77話『ばけ猫』(アニメ第1シリーズ第41話ですでにアニメ化)や、のちの『鬼太郎の世界お化け旅行』第13話『ベルサイユの化け猫』(1976年7月)や『新ゲゲゲの鬼太郎』第8話『猫町切符』(1978年8月)など、数え切れないほど多くの名エピソードに登場しているモティーフですね。水木先生はほんとうに猫が好きねぇ!
 ただし、先の『ばけ猫』に登場した化け猫の正体が、人間の自動車社会の発展によって急増した轢き逃げなどで非業の死を遂げた動物たちの死霊の集合体であった、つまりは「猫」とも言いがたい存在であったのに対して、本エピソードに登場した化け猫は50年生きて妖力を持つようになった、尻尾の二股に分かれた正真正銘の「猫又」であるということからも、むしろこっちのほうが正統派の「化け猫もの」であるという印象が強いですね。

 ちなみに、私そうだい自身は猫どころかペットを飼育した経験がまったくないので猫に関する知識は皆無なのですが、ちょっと調べてみたら現代日本における飼い猫は平均寿命がおおよそ15歳で人間でいう70歳代くらい。野良猫になると体力が衰え始めてきた4~5歳くらい(人間でいう30歳代後半)が寿命なんですって。シビアねぇ~!
 それで猫の寿命の公式ギネス記録が「34歳」で、だいたい20歳くらいが人間でいう100歳代だっていうんですから、猫の尻尾が分かれるらしい50歳という猫又認定ラインがどんだけハードルの高い厳しいものなのかということがわかります。そりゃあまぁ、人間語を話したり2本足で立つくらいはできなきゃあ割に合いませんよね。

 『世界怪奇シリーズ』の一篇として発表された原作マンガを鬼太郎ものにアレンジするため、物語は東南アジアのインドネシアの奥地にあるボロゴン島に住む猫又ジーダが自分の娘エリーメにつきまとうので何とかしてほしいという依頼のために、島の有力者バンダがはるばる日本の鬼太郎のもとにまでやって来るという発端となります。原作では、猫語の研究家である男が、「投げても木に絶対に当たらない糞」を探すために自分からボロゴン島にやって来るという筋なのですが……もうなんか、原作はどこからツッコんだらいいのかわかんない!! こんなストーリーを思いつく人のことを「天才」と呼ばずしてどう呼んだらいいのでしょうか。きぃちがいじゃがしかたがない。

 物語を見ていくと、鬼太郎一行が「エリーメにつきまとう猫又ジーダの謎を追う」という展開から、実はジーダの行動はエリーメを独占したいという欲望からきたものではなかったという意外な真実が発覚し、クライマックスでは身の丈数十メートルはあろうかという怪獣級の巨大妖怪・妖狐と鬼太郎とのバトルアクションが繰り広げられるという息をもつかせぬ内容になっていました。

 ただ、展開は文句なしにおもしろいのですが、このエピソードを『ゲゲゲの鬼太郎』の一篇として観たときにどう感じるのかと考えてみると……どうにも印象が散漫になっちゃうんですよね。
 要するに、この作品はやっぱり『猫又の恋』という原題の示すようにあくまでも猫又が中心となった物語であるがために、最終的に妖狐を倒していいところを持っていくのは猫又なんですよね。鬼太郎はどう脚色されて登場しても、どうしても添え物になってる感がいなめないんです。日本ではあんなに無敵なちゃんちゃんこもゲタも妖狐の息を止めるにはいたっていないし、ただ妖狐の強大さと猫又ジーダの身を挺した勇気ある行動を強調する説明役にしかなっていないという物足りなさが残るんですよね。
 「猫又」ということでそれを擁護するような立場につく猫娘も、発言は確かにオリジナリティがあっていいんですが文句を言うにとどまる中途半端な扱いになっているし、ねぇ。

 ともかく、この作品はシリーズ初の海外ものエピソードということでヴィジュアルは新奇さに満ちていて見飽きないのですが、ただでさえ成立しているひとつの物語に鬼太郎ファミリーが混ざってしまったことで、ちょっと話がこんがらがってしまってどこを楽しんだらいいのかがわからない混線をまねいてしまった感じがしました。考えてみたら、この事件の解決者は中盤に突然登場してくる「謎の老僧」で充分なわけでして、日本からわざわざやって来た鬼太郎さまご一行の立ち位置はどこにもなかったのよね……

 ゲゲゲの鬼太郎というキャラクターをどう作品にからませるのかというポイントを考えた場合、この『猫又』は前話『死人つき』とかなり好対照な結果を招いていたと思いました。
 物語自体はおもしろかっただけに、非常に残念! のちのアニメシリーズでもリメイクされることが絶えてないという事実も、非常に賢明な判断かと。原作どおりの鬼太郎ものでないスタイルがいちばんいいお話ですよね、やっぱ。


第8話『マンモスフラワー』 11月25日 脚本・辻真先(39歳)、演出・蕪木登喜司
 原作……非鬼太郎もの短編『マンモスフラワー 巨大な花』(1965年10月掲載)
 ゲスト妖怪……マンモスフラワー、あかなめ(声・北川米彦)、つるべ火、一反木綿、塗り壁
 他シリーズでのリメイク……第3シリーズ、第4シリーズ(1996~98年)

 これまた非鬼太郎もの原作のアレンジエピソードであるわけなのですが、社会風刺以外の何者でもなかった物語の中に、「マンモスフラワーを発生させた妖怪あかなめ」というキャラクターを差し込んだのは、鬼太郎ものへのアレンジという意味で大正解だったと思います。明確なマンモスフラワー大量発生の原因を作らないと、事件がまるで解決しないですもんね。
 このエピソードに登場する、「ちょっとベロが長いくらいのいかついおっさん」という体格の妖怪あかなめは、水木しげるのマンガにもイラストにも出てこないアニメオリジナルのデザインなのですが、同じ第2シリーズで第28話『あかなめ』(1972年4月放送)、ひいてはその原作となったサンデー版『ゲゲゲの鬼太郎』第9話『あかなめ』(1971年11月掲載)に出てくる巨大あかなめとはまったく関連のない知的なキャラクターになっていて、けっこうかっこいいです。鬼太郎に退治される対象ではなく、現代日本文明への警告者になってるんですね。

 鬼太郎が出てきても、原作の通りにこの作品の持ち味は、都会の日常に「悪夢のような」非日常が現出するというハプニングにこそ意味があるわけなので、冒頭に異常な力の入れ方をもって克明に描写される「マンモスフラワーの気持ち悪さ」は実に的を得た演出だと感じました。
 いいおとぎ噺を観た、っていう感触でしたね。

 でも、私としてはこの作品もまた、鬼太郎ものになってしまったことで失われてしまった原作マンガの「衝撃のラストコマ」オチこそが最高にして至高の終わり方だと思うのよね……あれはやっぱ、水木先生だからこそできる締めかたですよ、うん。


第9話『髪さま』 12月2日放送 脚本・柴田夏余、演出・山口康男
 原作……マガジン版『ゲゲゲの鬼太郎』第113・114話『髪さま』(1969年1月連載)
 ゲスト妖怪……髪さま(声・北川米彦)、毛目玉(声・矢田耕司)
 他シリーズでのリメイク……第3シリーズ、第5シリーズ

 この作品はまさしく原作マンガからして鬼太郎ものの充実した傑作エピソードであるし、20分ほどのアニメ作品にするのに最も無理がない(と私が勝手に解釈している)週刊連載2話ぶんというサイズがとっても的確な、原作にかなり忠実な一編に仕上がっていたかと思います。

 なので、特に記すこともないわけなのですが、相変わらず淡々としたノリの原作の中から、島を支配する地方神「髪さま」のいけにえにされてしまった少女(「美」はつかない)とそれを嘆き鬼太郎に事件解決を依頼するカラスのカー坊、そのいっぽうで因習に従い少女を積極的に髪さまに捧げようとする島民の不気味な忠実さ、そして髪さまの使いとして暗躍する謎の生命体「毛目玉」のコミカルさといったあたりがひとつひとつ実に丁寧に抽出されてバランスよく配置されていたのが素晴らしかったです。後半に活躍する「まったく役に立たない警察機動隊」のなぜかニセ外国人口調な隊長もいい味出してます。

 いけにえという実にじめじめした因習が残る島の物語ということで前半こそ確かに重苦しい雰囲気が続くのですが、怒り狂った髪さまが発現するたたりが「人間の頭髪を奪い去って島民総ツルッパゲ地獄にする」という恐ろしすぎる能力であったがために、後半になってどうにも笑うしかない展開におちいるという、実に水木しげる的なカオスが炸裂するのは、まさしく素晴らしいの一言に尽きますね。
 人間の頭部から鳥のように飛びたっていく黒髪を老若男女がおろおろと追いかける大混乱といい、集合してひとつの巨大な怪物となった髪が機動隊のヘリや船を襲撃するアクションの見事なアニメ化は文句の言いようがなかったのですが、私はそれもともかくとして、浮遊する自分の髪の毛を追いかけて外にまろび出る大人たちの後ろに、ひときわ小さな髪のかたまりをハイハイでおいかけるハゲた赤ちゃんがしっかりいるという芸の細かさにやけに感動してしまいました。これがまた、一瞬画面の隅にいるだけの扱いなんだけど、かわいいんだよなぁ~!! 神は細部に宿る。まさしくその証左を観た思いでした。

 実はその後あっさりと鬼太郎に退治されてしまう髪さまなんですが、そういう部分をアクションの継ぎ足しではなく、原作の持ち味のふくらませでカヴァーする製作陣の心意気に非常に感じいった傑作エピソードでした。これこそ、マンガの理想的なアニメ化のかたちなんじゃないんでしょうか!


スペシャル特典映像『水木しげる最新撮り下ろしインタビュー 後編』(約7分)

 ちょっと DVDマガジンの第1巻を購入していないのでインタビューの全編を観たわけではないのですが、少なくともこの後編における水木先生のアニメ第2シリーズへの言及は、7分間におよぶ内容の中でも、

「別になんとも思わないですね、別にね。」
「結局、ある程度金ができればねぇ、別にどうでもいいんですよ。その……評判が悪かろうがなにしようが、別に平気です。」

 これくらいでしたね。っていうか、これも特に第2シリーズについての発言じゃあないね。

 もう、まっとうな水木しげるファンならば、現在の水木先生に『ゲゲゲの鬼太郎』に関するサービス的なコメントは期待しないのが当たり前ですし、ともかく今年収録のこのインタビュー映像で元気なお姿が観られた。それだけでいいんじゃないでしょうか。
 それ以上に、まったく DVDマガジンに関係のないいつもの昔話や近況報告で、

「戦争でもう私は、死に合うところにばっかりいたからね。」
「バナナはあれ、神の果物ですよ。きっとね。」
「人が馬鹿に見えるよね、もうね。」

 といった爆弾発言がポンポン飛び出ていたのが、毎度おなじみのことながらもやっぱりうれしかったですね。
 現在の水木先生を見ると、いつも「そういう老後を迎えたい!」と感じてしまうんですが、そうなるためには若い頃の地獄のような苦労と天才的センスが必要なんですよね。結局は、時間を無駄にしなさんなってことなんですな。

 多くの先生のファンキーな答えの中でもひときわ力強かったのは、『ゲゲゲの鬼太郎』が誕生から半世紀を超えた今現在でも絶大な人気を集め続けている、その秘訣を尋ねられたときに答えた、

「自分がおもしろいと思うことを、描く。
 人におもしろく思われようとかなんかっちゅうことは、三流です。すぐ消えます。一年以内に消えます。」

 という言葉でした。
 すっごく重たいですよね……今は1年どころか、3ヶ月くらいで消えるアニメ作品が氾濫してる環境が常態になってるんですからね。
 とにかく確かなのは、アニメ第2期『ゲゲゲの鬼太郎』が、製作後40年を経た今でも十二分に楽しめるアニメ作品になっているということ。これを超一流と言わずになんと言えましょうか。

 そして、それは水木しげるという巨大すぎる山にいどんだ多くのプロフェッショナルたちの登攀の記録でもあるわけなのです。


 本来ならば鬼太郎ものではなかった原作マンガの換骨奪胎という道を選んだ、アニメ第2期『ゲゲゲの鬼太郎』の数々のエピソード群。
 そのひとつひとつを噛みしめる旅に、これからもしばしお付き合いくださいませ~。
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竹中秀吉またキター!! これは……スゴいね。

2013年08月16日 22時56分48秒 | 日本史みたいな
竹中直人、NHK 大河ドラマで豊臣秀吉役 18年ぶり、『軍師官兵衛』で
 (時事ドットコム 2013年8月16日付け記事より)

 来年放送の NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の新たな出演者2名が16日発表され、豊臣秀吉を竹中直人(57歳)、織田信長を江口洋介(45歳)がそれぞれ演じることが決まった。このうち竹中は、1996年の大河ドラマ『秀吉』(原作・堺屋太一)で主演し、個性的な人物表現で話題を呼んだが、18年ぶりに同じ役で再登板することになった。

 竹中は記者会見で、「自分がもう一度、大河ドラマで秀吉を演じることになり、びっくりしている。18年前は39歳ぐらいで若かったので、若い時に戻れるのは楽しみ。」と笑顔を見せた。
 一方、「(秀吉の)若いころから演じなければいけないから、また走らないといけないなあ……18年前のようにふんどし一丁になるみたいだし、いろんなことが心配。」とも。それでも、「前にイメージした秀吉とは違う世界観になるのかな。(どう演じるかは)何も決めず、現場での『直観力』を楽しみにしている。」と、撮影に臨む心構えを話した。
 さらに、大河ドラマで主役を演じた先輩として、主演の岡田准一(32歳)に「事故とけがのないように。根性で乗り切ろうとすると大変な落とし穴が待っている。」とアドバイス。これを受け、岡田は「(演じる官兵衛は)秀吉さまと一緒に駆けずり回る役なので、けがのないよう一緒に走りたい。」とし、「竹中さんは本番直前まで違う話をしていると噂で聞いている。竹中さんがやることを受けながら、考え過ぎずにお芝居していきたい。」と続けた。
 また信長役の江口は、「衣装合わせで『ああ、(信長は)こういう役か』と(自分の中で)動き始めた。戦国のトップを走った男を楽しみながら演じ、自分なりの新しいものが出せたら。」と抱負を語った。
 NHK によると、大河ドラマでは過去に、故・緒形拳さんが『太閤記』(1965年)と『黄金の日日』(1978年)で豊臣秀吉を、津川雅彦(73歳)が『独眼竜政宗』(1987年)と『葵 徳川三代』(2000年)で徳川家康を演じた例などがあるという。担当プロデューサーは竹中の起用理由として、「秀吉が一番似合うのは誰かと考えたとき、竹中さんだった。」と説明した。


『秀吉』(1996年)のおもなキャスト(カッコ内の年齢は放送当時のもの)

羽柴 秀吉    …… 竹中 直人(39歳)
秀吉の正室・おね …… 沢口 靖子(30歳)
羽柴 秀長    …… 高嶋 政伸(29歳)
浅井 茶々(淀殿)…… 松 たか子(18歳)
秀吉の母・なか  …… 市原 悦子(59歳)
秀吉の姉・とも  …… 深浦 加奈子(35歳 2008年没)
竹中 半兵衛   …… 古谷 一行(52歳)
前田 利家    …… 渡辺 徹(34歳)
石田 三成    …… 小栗 旬(13歳 子役だったが2009年の『天地人』では成人後の石田三成を演じる)→ 真田 広之(35歳)
蜂須賀 正勝   …… 大仁田 厚(38歳)
加藤 清正    …… 高杉 亘(31歳) ※『琉球の風』 (1993年) 以来2度目の加藤清正役
織田 信長    …… 渡 哲也(54歳)
明智 光秀    …… 村上 弘明(39歳)
徳川 家康    …… 西村 雅彦(35歳)
足利 義昭    …… 玉置 浩二(37歳)
荒木 村重    …… 大杉 漣(44歳)

黒田 官兵衛 …… 伊武 雅刀(46歳)
 秀吉の毛利攻めあたりから登場。元は播磨国の武将・小寺家の重臣でありながら信長に仕え、嫡子・松寿丸(のちの黒田長政)を人質として預けている。当初は周囲をかえりみない傲慢な態度と言動で煙たがられ、秀長から「あの者は人を苛立たせる。」と言われてしまう。秀吉の古くからの軍師である竹中半兵衛をライヴァル視し、彼の献策を真っ向から否定するなどの描写も見られた。それを見抜いた半兵衛から、軍師のあり方を諭される。後年は打って変わって深謀遠慮な人柄に変貌し清洲会議などの場面で重きをなしている。

安国寺 恵瓊    …… 中条 きよし(49歳)
小西 行長     …… 小西 博之(36歳)
信長の母・土田御前 …… 三條 美紀(67歳)
柴田 勝家     …… 中尾 彬(53歳)
丹羽 長秀     …… 篠田 三郎(47歳)
瀧川 一益     …… 段田 安則(38歳)
森 蘭丸      …… 松岡 昌宏(18歳)
佐久間 盛政    …… 遠藤 憲一(34歳)
安藤 守就     …… 塚本 信夫(62歳 『秀吉』放送中の1996年10月に死去)
斎藤 利三     …… 上條 恒彦(55歳)
本多 正信     …… 宍戸 錠(62歳)
今川 義元     …… 米倉 斉加年(61歳)
斎藤 道三     …… 金田 龍之介(67歳 2009年没)
浅井 長政     …… 宅麻 伸(39歳)
松永 久秀     …… 秋間 登(46歳)
山中 幸盛     …… 梅垣 義明(36歳)
千 利休      …… 仲代 達矢(63歳)
石川 五右衛門(本作では秀吉の幼なじみだったというオリジナル設定)…… 赤井 英和(36歳)


描かれなかった秀吉の晩年
 『秀吉』の内容は、秀吉が栄華を極めていた文禄四(1595)年の春(秀吉59歳)で終了し、甥・秀次一家の惨殺や第二次朝鮮出兵(慶長戦役)などの晩年部分は描かれなかった。なお、竹中直人本人は、2003年の『秀吉』再放送での特別インタビューの際に、「天下を取った後の堕ちてゆく秀吉を演じたかった。」と発言している。
 本編の最終回は、秀吉が正室おねの機嫌をとるために大坂城内で催した架空の花見会と、そこに顔を出した豊臣秀次、石田三成や淀殿、徳川家康らの面々が華やかに描かれる。そして最後には一人となった秀吉が亡き母に辞世を伝え、不意に現れた段々畑に挟まれた坂道を、沈みゆく夕陽に向かって一人駆け登っていくという、彼自身と一族の最期を暗示するラストシーンが描かれた。


現時点で決まっている『軍師官兵衛』キャスティングとの比較

黒田 官兵衛
 岡田 准一(32歳)= 伊武 雅刀(46歳)
竹中 半兵衛
 谷原 章介(41歳)= 古谷 一行(52歳)
秀吉の正室・おね
 黒木 瞳(52歳)= 沢口 靖子(30歳)
荒木 村重
 大杉 漣(44歳)= 田中 哲司(47歳)
足利 義昭
 玉置 浩二(37歳)= 吹越 満(48歳)
石田 三成
 小栗 旬(13歳)&真田 広之(35歳)= 田中 圭(29歳)
明智 光秀
 村上 弘明(39歳)= 春風亭 小朝(58歳)
織田 信長
 渡 哲也(54歳)= 江口 洋介(45歳)
豊臣 秀吉
 竹中 直人(39歳)= 竹中 直人(57歳)



 さぁ、盛りあがってまいりました!!

 なるほどなるほど、竹中秀吉の再登板! そうきましたか~。
 世間のごく一部からは「マンネリ」「露骨な視聴率対策」という批判もあがっているようですが、そんな見もしないうちからぶつくさチャチャを入れるようなクソの役にも立たない声は無視して、我が『長岡京エイリアン』では全面的に来年度の大河ドラマ『軍師官兵衛』を応援し、その動向に注目していくことにしたいと思います。やったれやったれーい!!

 とは言っても、別に私は19年前の『秀吉』の内容を強く支持しているわけでもありません。確かにおもしろいドラマではあったしキャスティングも最高に近い顔ぶれがそろったとは思うのですが、史実を映像化したとはとてもじゃないけど言えないアレンジの数々には、むしろ反面教師として学ぶところが大いにあった作品だと記憶しています。
 ともかく、「秀吉と石川五右衛門が旧友だった」という設定とか、明らかに秀吉よりも人物スケールが数ランク小さく描かれている徳川家康とダーイシ三成とか(黒田官兵衛もそうでしたね)、まさしく「講談の『太閤記』のドラマ化」といったほうが的を得ているような波乱万丈、荒唐無稽な展開のつるべ打ちで、晩年のドンガラガッシャンがまるごとカットされている最終回から見ても、こんなに豊臣秀吉を美化した(ヴィジュアルじゃなくて中身を、です)作品が大河ドラマになっていいのか? という疑問を、当時の私も高校生ながら強く抱いていました。豊臣政権のプロパガンダ映像かっての!

 それはもう、秀吉以上にカリスマ化されていた織田信長像もそうだったわけなのですが、こちらも、年齢的には信長を演じることができるギリギリ最後のチャンスだったかと思われる渡哲也さんの気迫の名演が大いに光っていましたね。
 でも、私がそもそも日本の歴史に興味を持つきっかけとなったいくつかの起因のひとつには、確実にこの『秀吉』を観て感じた「信長って、そんなにスゴいやつなの?」という疑問があったし、そのネガとして「足利義昭がこんなにバカ殿なはずはないんじゃないか?」という思いもあったのでした。

 そうそう、私はやっぱり役者としての『秀吉』での玉置浩二さんの存在感は大好きなんですが、これは『秀吉』における足利義昭のキャラクター造形を賛美するものでは断じてありません。そのキャスティングについては「ありがとう。」というほかはないのですが、義昭公を不当に貶めているとしか言いようのない脚本の幼稚さには、今思い出しても体温が0.5~1℃くらい上昇してしまう怒りが湧いてきます。
 義昭公がそんなに自分の「征夷大将軍」という位にあぐらをかくわけがねぇじゃねぇか……この前にも触れた話になるんですが、義昭公はたった3年前に武士になったばっかの人なんですよ? 10~20代のほとんどを坊さんとして過ごしてきた人なんですよ? そして何よりも、自分以上に将軍らしかった兄(足利義輝)が暗殺されたからこそ、戦国の世にかつぎ出されてきた人だったんですよ? その、有為転変の半生……それがあんなおバカさんになれるはずがないんだって。

 そんな思いも込めて、一人で孤独にぽつぽつ考えてきたことの集積が、現在絶賛製作停止中の「オレ大河ドラマ『洛炎戦国記』」なんでありますが、その完成なんか待たずに、ぜひとも来年の『軍師官兵衛』で、吹越満さん演じる真実の足利義昭公が現れることを強く期待したいと思います。ガンバレガンバレみーつーるー!!

 ふりかえれば、1996年の『秀吉』は平均視聴率30.5%、最高視聴率37.4% ですか……たった20年弱のあいだに、NHK 大河ドラマの視聴率もだいぶ変わってまいりました。

 今のところ、大河ドラマで最後に「平均視聴率20% 台」を記録したのは2009年の『天地人』。それ以降は10% 台がずっと続き、去年の『平清盛』にいたっては、大河ドラマ史上最低の平均視聴率「12.0% 」を記録する事態になってしまいました。今年の『八重の桜』も内容はもちろん健闘してはいますが、今現在33話放送された時点での平均視聴率は「15.0% 」、最高視聴率は初回の21.4% で、回ごとの平均視聴率が20% をこえたのはその初回だけという寂しい状況になっています。鳥羽伏見戦争も終わっちまったしよう……

 昨年の『平清盛』を観てもわかるように、視聴率の高低と作品の質の良い悪いが必ずしも比例するわけではないのですが、「回ごとの最低視聴率が22.2% 」だったという『秀吉』のころに比べると、あまりにも哀しすぎる状況におちいっている昨今の NHK大河ドラマ! 『軍師官兵衛』でぜしとも! 挽回をはかっていただきたいと思います。

 上にもまとめたように、『軍師官兵衛』ではおそらく、『秀吉』でついに語られることのなかった「晩年の堕ちた秀吉」が竹中直人さんによって演じられるはずです。内容的にも『秀吉』に直接地続きな作品にはならないはずだし、私としてもなってほしくはないのですが、ある意味では竹中さんの俳優としての悲願が約20年ぶりに実現化する素晴らしい機会になるはずです。年齢的にも前回よりもぐっと演じやすくなっているはずだし! 「太陽の子ではいられなくなった竹中秀吉」の最晩年に注目したいと思います。これはも~、わたくしといたしましてもおよそ6~7年ぶりに「全話チェックを目指す」大河ドラマになりそうですね。家に TVがないという問題は、まぁなんとでもなる!!

 あ、そうだ。今回のキャスティング発表で「信長」「秀吉」「光秀」は発表されたわけなんですが、いよいよ最後に残った「徳川家康」は、いったい誰が演じることになるんでしょうかね!? 官兵衛にもっと縁が深い天下人は、そりゃもう秀吉であるわけなんですが、官兵衛の最大のライヴァルとなった天下人は家康であるわけなんですから、これはもう竹中・江口なみに気合いの入った人選になるはずです。
 まぁ、信長が40代の江口さんで秀吉が50代の竹中さんなんですから、おそらくはそのくらいの年代の俳優さんに白羽の矢が立つはずです。北大路欣也ちゃんクラスの大御所とか、まさかの津川雅彦3選(民放ドラマもあわせれば6選!!)というサプライズにはならないでしょう。
 わたくし個人としては、ぜひとも高嶋政宏さんに2002年『利家とまつ』以来の再選で演じてほしいのですが、もしかして、『秀吉』に乗っかっての西村雅彦大復活もありうるか!? 『秀吉』での家康描写は異常なまでの縮小解釈だったし、当時の西村さんの演技も「なんだかなぁ~」な消化不良感が残ったしね。もしそうなったら、竹中さん以上の入魂の演技が観られることでしょう。

 う~ん、いろいろ家康案を考えているうちにふと気がついたんですが、昨今の日本の俳優さんって、男女関係なく「カッコよく太っているひと」って、あまりにも少ないですよね。デブじゃなくて「固太り」っていうイメージの人ね。私自身は、ちょっと自分の生活上の問題もあってか、ぜんぜん太ることができない性質の人間なので、太っているおじさんやおばさんが本当にうらやましいです。ホントよ!?
 あ~、じゃさじゃさ、ジュリー! 沢田研二さんに家康やってもらおうよ! おもしろいよ~、きっと!! ちょんまげ似合わないだろうけど。


 そんなこんなでまぁ、キャスティングのことも気になるっちゃあなるんですが、思えば『軍師官兵衛』は「九州の関ヶ原合戦」にスポットが当たる作品にもなるはずですよ。

 なにからなにまで、楽しみねぇ~!! ウンウン。
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