長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

その潔さ……吉と出るか、それとも!? ~映画『ハケンアニメ!』~

2022年05月29日 22時48分35秒 | アニメらへん
 どもどもみなさま、こんばんは! そうだいでございます~。5月ももうそろそろおしまいですが、5月病、今年はいかがでしたか? これから来る梅雨のじめじめと、その後の猛暑地獄に耐える体力は戻りましたか~!? 私はもうダメ……

 そんな自分に気合を入れるべく、ここ1~2週間、私は週末に映画館に行っております。いや~、なんだかんだ言って、仕事帰りや休日に映画館に行って、パンフレットとコーヒーを抱えて座席でワクワクするのって、楽しいですよね。そんなにお安いもんじゃないですけど、束の間でも日常のあれやこれやを忘れる時間をもらえるっていうのは、ありがたいもんです。私にとっての温泉めぐりも、いわばそんな効果を期待しての趣味なんですが、温泉はそれ自体けっこう体力を使うもんだし、暖かい季節になるとちょ~っと行きづらくなっちゃうんで、映画館の方が、いいかな! おサイフに余裕があったらの話なんですが、ゆくゆくは私も、特に見たいものがあるってわけでもないけどとりあえず映画館に行ってみる、みたいな文化度の高いおじさんになりたいもんです、ハイ……

 さて、そんなこんなで最近は主に『シン・ウルトラマン』関連で映画館に行くようになっているのですが、今回は、ある意味で『シン・ウルトラマン』以上に、私の中での期待度が高かった作品を観に行ってまいりました。きたきた~!

 そうです、私が愛してやまない小説家・辻村深月先生の作品を映画化した、こちら!


映画『ハケンアニメ!』(2022年5月20日公開 128分 東映)

 『ハケンアニメ!』は、辻村深月によるアニメ制作現場を舞台とした小説作品である。女性週刊誌『an・an』(マガジンハウス刊)に2012年10月~14年8月に連載された。連載時から作品の挿絵は CLAMPが担当する。
 2019年10・11月に G2の脚本・演出により大阪・東京で舞台化作品が上演され、2022年に実写映画化された。

おもなキャスティング
斎藤 瞳   …… 吉岡 里帆(29歳)
王子 千晴  …… 中村 倫也(35歳)
行城 理   …… 柄本 佑(35歳)
有科 香屋子 …… 尾野 真千子(40歳)
並澤 和奈  …… 小野 花梨(23歳)
宗森 周平  …… 工藤 阿須加(30歳)
群野 葵   …… 高野 麻里佳(28歳)
根岸(制作デスク)…… 前野 朋哉(36歳)
越谷(宣伝担当)…… 古館 寛治(54歳)
前山田(脚本家)…… 徳井 優(62歳)
関(作画スタジオ社長)…… 六角 精児(59歳)
河村(作画監督)…… 矢柴 俊博(50歳)
白井(編集担当)…… 新谷 真弓(46歳)
田口(アニメ演出家)…… 松角 洋平(44歳)
星(TV局重役)…… みのすけ(57歳)
ナレーション …… 朴 璐美(50歳)

おもなスタッフ
監督 …… 吉野 耕平(43歳)
脚本 …… 政池 洋佑(38歳)
企画 …… 須藤 泰司(54歳)
編集 …… 上野 聡一(53歳)
音楽 …… 池 頼広(58歳)
主題歌『エクレール』(ジェニーハイ)
アニメーション制作 …… Production I.G
アニメーション監修 …… 梅澤 淳稔(62歳)

『サウンドバック 奏の石』
 斎藤瞳が監督として制作する、石が変形するロボット「サウンドバック」に乗って戦いに身を投じる少年少女達を描いたアニメ。
劇中アニメ制作スタッフ
監督 …… 谷 東
演出 …… 森川 さやか
キャラクター原案 …… 窪之内 英策(55歳)
メカニックデザイン …… 柳瀬 敬之(48歳)
キャラクターデザイン・作画監督 …… 大橋 勇吾
アニメーション制作 …… コヨーテ(本作公開前の2021年7月に会社解散)
アニメーション制作協力 …… 白組
声の出演(群野葵役以外)…… 潘めぐみ、梶裕貴、木野日菜、速水奨

『運命戦線リデルライト』
 王子千晴が監督として制作する、自らの魂の力で操作するバイクでレースを競い合う魔法少女達の姿を描いたアニメ。
劇中アニメ制作スタッフ
監督・絵コンテ・演出 …… 大塚 隆史(41歳)
キャラクター原案 …… 岸田 隆宏
キャラクターデザイン・作画監督 …… 高橋 英樹
アニメーション制作 …… Production I.G
声の出演 …… 高橋李依、花澤香菜、堀江由衣、小林ゆう、近藤玲奈、兎丸七海、大橋彩香


 ……いや~、とんでもない力の入れような作品でしたよ、これ!
 もう、上にあげた作品情報をご覧いただいてもお分かりかと思うのですが、「実写映画1本にアニメ映画2本」って言ってもオーバーじゃないくらいに、アニメパートのスタッフ・キャストの陣容が真剣すぎませんか!? これで、作中で流れるのは各作品5~10分くらいなんだもんね。贅沢だな~!!
 原作の時点で、この「アニメ業界トップレベルの作中作が2本!」という入れ子構造があった以上、それを実写映像化するのはそうとうに高いハードルだったかと思うのですが、そこは、さすが東映さん! 真正面からフルパワーで『サウンドバック』と『リデルライト』をアニメ化しちゃうという、採算度外視の正攻法でぶつかってくださったと思います。う~ん、『シン・ウルトラマン』の東宝という強大すぎる敵に、なんとしても一矢報いたいという執念のようなものさえ感じさせるこだわりようですね! まぁ、この5月の興行番付は、コロナやなんやかやがあってこうなったものなので、この顔合わせも想定外のものだったのかもしれませんが、消費者としては、とっても対照的で面白い好カードになったと思います。

 さて、もともとこの『ハケンアニメ!』という小説は、はっきり申せばひと昔前、10年前のアニメ業界を舞台にした作品です。
 私も、10年前にまず小説という形でこの作品を楽しんだわけだったのですが、すでにその時点で、この作品では語られていない、作者があえてカットしたと思われるアニメ業界のあれこれがあるのでは?と感じていました。
 そのことに関しては、ハードカバー版の『ハケンアニメ!』を読み終えた直後に我が『長岡京エイリアン』で検証してみたいと思ったのですが、『ハケンアニメ!』の連載当時に実際に放送されていたアニメ作品を羅列してみただけで終わってしまっていました……なんにも始めてねぇよ!!
※過去の関連記事は、こちら

 ともかく、その時に私が感じたのは、「誰がその作品を作っているのか?」という点を、辻村先生は意図的に簡略化して『サウンドバック』の斎藤瞳監督と『リデルライト』の王子千晴監督に集約させていた、ってことなんですね。
 言うまでもないことですが、アニメ作品というものはたいてい、まず小説やマンガの形での原作者がいて、アニメ化するとなるとシリーズ全体の流れを統括する「シリーズ構成」を担う総監督とメイン脚本家がいて、さらには各話の制作を受け持つ演出家と脚本家もいるし、すべての人材を作品作りにまとめ上げるプロデューサーだっているという、「船頭多くして船、宇宙に旅立つ」状態からできあがっていくものだと思います。

 そこを『ハケンアニメ!』は、「なぜ人は作品を作るのか」という、普遍的な人間の情熱の源泉を小説の形で分かりやすく伝えるために、あえてウソをついてシンプルにしているな、と感じたのです。ただ、小説の『ハケンアニメ!』では、放送されるアニメ本編の世界だけでなく、その周辺にいるアニメーターや付属商品となるキャラクターフィギュア制作会社、果てはアニメ作品を観光資源にしようと奔走する地方自治体までに語る視点を増やしているために、どっちかというとアニメ業界ではそんなに多くはないはずの「アニメ制作会社のオリジナル作品」を、しかも2つも主軸に据えているというウソっぽさをまぎらわせている巧みさはあるな、と感じていました。さすがは辻村先生。
 なので、Wikipedia において、この『ハケンアニメ!』を「お仕事小説」と定義しているのは、ちょっとどうかと思うんですよね。そこはそれ、リアリティ重視ではない味付けがされているフィクション作品であることを忘れてはならないと思います。

 そんでもって、原作連載のなんと10年後に満を持して実写映画化された『ハケンアニメ!』だったのですが、やはりこの映画版もまた、2010、20年代の日本のアニメ業界をリアルに画面に落とし込んだ作品……にはなっておりません。
 むしろ、情報量の莫大な小説よりも、もっと単純でタイトな2時間前後という枠の中で作品の熱量を伝えきるために、今回の映画版は、原作以上にウソっぽさが強くなり、人によっては「10年前の小説よりもさらに古くなってる!?」とビックリしかねないアレンジもなされているのでした。

 まぁちょっと、本題の映画版の感想に入る前に、そこら辺の原作小説との内容の違いについて、整理してみましょう。


≪原作と映画版との主な相違点≫
・有科香屋子の年齢設定が、原作では35歳だが映画版では36歳。しかし原作は『リデルライト』の完成する約1年前から物語が始まっているため、『リデルライト』完成時点での香屋子の年齢は同じ36歳ということになる。
・王子千晴の年齢設定が、原作では32歳(『運命戦線リデルライト』完成時は33歳)だが、映画版では36歳。『光のヨスガ』を制作したのは、原作では24歳の時で、映画版では物語の時点での瞳と同じ28歳の時。
・王子の『光のヨスガ』から『運命戦線リデルライト』までの期間は、原作では9年だが、映画版では8年。
・フィギュア会社「ブルー・オープン・トイ(ブルト)」の企画部長・逢里哲哉の出番が映画版では大幅に減らされており、有科香屋子との接点が描写されない。ブルト関連のエピソードは映画版ではほぼ語られない。
・フリーのアニメーターの迫水、スタジオえっじの江藤社長、小説家のチヨダコーキとチヨダの担当編集者の黒木、『運命戦線リデルライト』の音響監督の五條、行城の妻、ブルトのフィギュア造形師の鞠野カエデとその娘、選永市民と「河永祭り」の関係者が、映画版では登場しない。
・原作で語られるアニメ監督の野々崎努の存在が映画版では語られず、王子の設定に取り込まれている。
・『運命戦線リデルライト』の制作進行担当の川島加菜美の出番が大幅に減らされている。
・行城理は、原作ではブランド物のポロシャツにジーンズというラフな普段着で勤務しているが、映画版では常にスーツ姿で勤務している。
・斎藤瞳の年齢設定が、原作では26歳だが映画版では28歳。
・瞳は、原作では2年前にアクションゲーム『太陽天使ピンクサーチ』のゲーム内アニメを手掛け話題になるなどのキャリアを積んでから『サウンドバック』の監督になっているが、映画版では無名の新人監督。
・瞳は、原作では東京都内の有名私立大学・X大学法学部卒業後にトウケイ動画に就職しているが、映画版では国立大学を卒業して地方公務員になってからトウケイ動画に転職している。
・王子が失踪後に香屋子と再会したのは、原作では製作発表記者会見の5日前で、映画版では製作発表記者会見の当日。
・王子が香屋子と再会した時に渡した『運命戦線リデルライト』の脚本は、原作では最終話分まであるが、映画では最終話分のみできていない。
・『運命戦線リデルライト』と『サウンドバック』の製作発表記者会見は、原作では別々に記者会見を開いているが、映画版では合同記者会見。
・『運命戦線リデルライト』の放送時間は、原作では木曜深夜0時55分からだが、映画版では土曜夕方5時からで『サウンドバック』と同じ時間帯。原作において、初回放送は『リデルライト』の方が先であったが、番組編成上の都合により最終回は『サウンドバック』の方が『リデルライト』よりも1週早かった。
・瞳がトウケイ動画の入社面接で答えた、アニメ業界で働きたいと思うきっかけとなった作品が、原作では野々崎努監督の『ミスター・ストーン・バタフライ』劇場版だが、映画版では王子の『光のヨスガ』。
・瞳の好物が、原作ではミスタードーナツのフレンチクルーラーだが、映画版ではチョコエクレア。
・原作に登場した声優の美末杏樹が映画版に登場しないため、美末の設定が映画版の群野葵に組み込まれている。
・並澤和奈は、原作ではメガネをかけているが映画版では普段はかけていない。
・和奈が瞳や行城と面識を持つきっかけとなった雑誌『アニメゾン』の表紙イラスト騒動は、原作では『サウンドバック』の放送開始後に起きるが、映画版では放送開始前に起きる。
・『サウンドバック』制作スタッフにおいて、原作で登場するのはシリーズ構成担当の結城と宣伝プロデューサーの越谷と各話演出の大内のみだが、映画版では各現場スタッフが名前付きで登場し、結城と大内は登場しない。映画版では越谷に大内のキャラクターも取り込まれている。
・トウケイ動画の根岸は、原作では行城の先輩にあたるプロデューサーだが、映画版では『サウンドバック』の制作デスク。
・『サウンドバック』の作画監督の名前が、原作では後藤だが映画版では河村。ただし、原作の後藤は作中にほとんど登場しない。
・関は、原作ではアニメ原画スタジオ「ファインガーデン」で働く原画担当の社員だが、映画版では原画も行うファインガーデン社長。ちなみに、原作でのファインガーデン社長は古泉という男性で、関とは別人。
・宗森周平は、原作では新潟県選永市(えながし 架空の自治体)観光課の職員だが、映画版では埼玉県秩父市観光課の職員。ちなみに、原作で宗森がアニメ聖地巡礼の勉強のために視察した地方自治体の中に「埼玉県 C市」が含まれている(おそらく2011~19年の長井龍雪監督による「秩父三部作」に関連してのことと思われる)。
・宗森と和奈の住む自治体で行われている祭りのメインイベントが、原作では選永川の舟下りだが、映画版では『塔の上のラプンツェル』みたいなランタンフェスティバル。
・「ハケンアニメ」の判断基準のひとつとして語られるのが、原作では DVD売り上げ枚数だが、映画版では放送視聴率。
・映画版で語られるのは、原作の第3章「軍隊アリと公務員」の半ばまで(全体の2/3ほど)。そのため、『サウンドバック』と『運命戦線リデルライト』が放送終了した後の選永市の河永祭りのエピソードは語られないが、『サウンドバック』のオープニング主題歌を元にしたという舟下りの「舟謡(ふなうたい)」の歌詞の内容が、映画版で流れる劇中挿入歌『 Be who you gotta be.』(原詞・辻村深月)の歌詞に反映されている。


 いっぱいありますね~!! でも、これは小説と映像作品との、表現形式の違いから生じる仕方のない選択ですよ。そりゃ、『ハケンアニメ!』を全編まともに映像化しようとしたら、2クールぶんくらいの連続ドラマにしないといけなくなっちゃうし、キャストも倍以上になっちゃうだろうしなぁ。チヨダ・黒木ペアとか鞠野ゲリ……じゃなくてカエデさんも、そうとうな売れっ子俳優さんを起用しなきゃいけなくなるだろうし。

 こうやって羅列してみますと、今回の映画版は、意外と大胆にアレンジを加えていることに気がつきます。また、『サウンドバック』と『リデルライト』のアニメ本編放送終了後の選永市のエピソードや鞠野カエデさん関連といった非常においしい要素もばっさりカットしているので、小説と映画版とで、観終わった後の印象がけっこう違うと感じた方も多いのではないのでしょうか。小説の『ハケンアニメ!』って、選永市の展開でそれまでの全ての登場人物たちの苦労が報われ、オールキャストが勢ぞろいして大騒ぎの大団円といった感じで、辻村作品としては珍しいくらいにハッピーエンドな締め方になっていると思います。そこらへん、もしかしたら映画版の、斎藤監督がたった一人で「ものづくりのしあわせ」を静かに噛みしめるラストとはだいぶ雰囲気が対照的なのではないでしょうか。

 そうなんです、今回の映画版『ハケンアニメ!』は、「主人公は斎藤瞳ひとり」という視点に集約させるために、多くの才能の集まりとしてのアニメ作品を語る原作小説の群像劇スタイルから、だいぶ離れた作品に仕上がっているのです。

 往々にして、ここまで小説から離れた構造になると、辻村先生の作った強固な「枠」が外れて、作品自体が迷走しかねない危険性があったかと思うのですが、今回に関しての、約2時間という映画の制約に応えるために「主人公を1人に絞った」という選択は、まったくもって大正解だったと私は感じました。
 そして、この主人公の一本化が成功した理由は、たったひとつ! 斎藤瞳監督役の吉岡里帆さんがよかった!! ここ! ここに尽きるのよね。

 はっきり言って斎藤瞳という人物は、20代のみそらで夕方5時台放送のアニメ枠のシリーズ構成・総監督を担当するという、現実の世界ではなかなか存在しえないバケモン的天才です。いやいや、そんなの『サザエさん』や『ドラえもん』に匹敵する名作を、マンガ原作連載という前提なしで現出せしめよ、って言ってるような異常な要求ですよ……ムリムリ!! パラケルススじゃないんですから。
 ただ、そんな彼女が、徹底的に悩み、苦しみ、寝るのも惜しんで、「なんで私はものを作ってるんだ? 誰のために?」という問いにまじめに向き合い、その末に彼女なりの答えを見つけ、周囲の人の理解を勝ち取りながら、カイコのように文字通り身を削って作品をつむぎ出していく徒手空拳のさまを、ただひたすらにカメラに写し取ること。その泥臭い歩みの記録に集中したことが、今回の映画版の熱量の異様な高さにつながったのではないでしょうか。アツい! そりゃもう『ロッキー』みたいに熱いんだ、画面からにじみ出る情熱が、業が!!

 要するに吉岡さんが、斎藤瞳の非凡さをあえて薄めにして、理不尽な圧力に屈して自分の思うようにならないことも多い世の中を、それでも歯を食いしばって生きているすべての人にとって「刺さる」リアリティを持った生身の人間として演じ切っていること。こここそが、今回の映画版『ハケンアニメ!』最大の見どころだと思うのです。

 その点、そういった全面的主人公の斎藤瞳に対して、周囲の行城理や対抗陣営の王子・香屋子ペアをはじめとした他キャストの皆さんは、少々デフォルメされすぎたきらいもあります。まぁ、もともとが CLAMPさんが挿絵を描いているような方々なんですから、それを生身の俳優さんがたが演じるとしたら、アウェー感は否めませんよね。でも、みなさんステキな存在感を持つキャラクターになっていたと思います。特に行城さんの人物設定は原作とはだいぶ異なったものになっていましたが、だからこそ、ダウンした瞳監督を介抱した時の会話や、エンドロールの後の「おたのしみ」などで観られた行城の素顔は、とっても温かみのある意外性に満ちていたのではないでしょうか。

 でも私としましては、残念ながら今回の映画版では出番は思ったよりも多くはなかったけど、和奈を演じた小野花梨さんと、宗森を演じた工藤阿須加さんのペアが特に良いと感じましたね!
 以前、私、同じ辻村先生原作の『ツナグ』の映画版を観た時に、原作小説では「言下のやりとり」だったのが良かったな、と感じた部分を、映画版ではしっかりセリフに変換して演じられていたのを観て、「あぁ~、まぁ、そんなもんよね……」とちょっとした諦念を感じていたのですが、今回の和奈と周平のやりとりで、原作小説でも印象的なやりとりだった「リア充」に関する認識の違いを和奈が感じるところを、補足セリフもナレーションもなく、完全に和奈を演じる小野さんの目の演技だけで処理していたのには、本当に感動しました。あれは監督の演出というよりも、小野さんの演技力に全幅の信頼を置いた監督との信頼関係がすばらしかったですね! 小野さんを起用した時点で、映画版『ハケンアニメ!』は神に愛される作品となっていたのだ!!

 そんな感じで、原作のあまたある見どころの中から、勇気をもってたったひとつ「斎藤監督の闘い」という部分をチョイスして徹底的に掘り下げた映画版『ハケンアニメ!』の英断を大いにたたえ、「リアルじゃなくてもいいじゃないか!」という開き直りに賛意を表したいと思うのでありました。その潔さや、よし!!

 ただ、ちょっと一つだけ気になったくだりがありまして、映画の前半、クセの強い『サウンドバック』スタッフ陣とのコミュニケーションに苦慮する斎藤監督が、原作では登場しなかった脚本家・前山田という人物と打ち合わせ中に対立するシーンがありました。そこで前山田は、

「後で効いてくる非常に重要な伏線として、劇中で寺の鐘の音を鳴らしたい。」

 とかなんとか言うのですが、斎藤監督が本編のテンポの邪魔になるから描写しないと応じたために、2人の間に非常に険悪な空気が流れてしまいます。ここ、のちのちの展開や両者の関係性を考えると、ちょっとおかしいんじゃないかと感じました。
 だって、こう言うからには、前山田の頭の中には『サウンドバック』の全体的な構造ができあがってるってことですよね? つまり、このやり取りを観た人の多くは、見るからに大ベテランの風格もある年配の前山田さんが構想した『サウンドバック』を斎藤監督がアニメ化するのかと思い込んでしまいます。だからこそ、自分の脚本を強引に修正してしまう斎藤監督に前山田も憤慨してしまったように見えるのです。
 ところが、原作でも映画版でも、『サウンドバック』の構想を担当しているのは斎藤監督なんですから、前山田が監督を差し置いて鐘の音がどうこう言う立場ではないことが、映画のクライマックスに向かうに従って露呈してきます。『サウンドバック』最終回での相当無茶な脚本変更においても、前山田は特に異論をとなえるでもなく、斎藤監督が口述する登場人物のセリフを聞いて台本の形にまとめる役割しかもらっていないのです。

 ここよ! 本来のアニメ業界ならたぶん、前山田の役割の人は、斎藤のようなアニメ監督とは違う人物であり(シリーズ構成とか原作者とか)、それこそドラマティックなバチバチのバトルが展開されてもいいいはずなのですが、『ハケンアニメ!』の場合は、内容のシンプル化のために泣く泣く省略されていたんでしょう。つまり、前半の斎藤監督の四面楚歌ぶりを際立たせるために、前山田の役割が前半と終盤とで全く違うスケールになってしまったのです。前半ではシリーズ構成のメイン脚本担当のように見えていたのに、フタを開けてみればただの台本起こし役だったというわけです。そこらへん、徳井さんらしいっちゃあ、徳井さんらしい。
 斎藤監督の苦心を演出する一環として、脚本部門からの抵抗勢力を入れたくなった気持ちもわからんではないのですが、そこは監督に対するシリーズ構成という超難敵を入れるなら入れる、入れないなら入れないでハッキリしてほしいな、とちょっぴり感じました。

 以上、非常に楽しく感動させてもらった映画版『ハケンアニメ!』だったのですが、現代はとかく「人からどう見られているか」を気にしながら生きなければいけない世の中なのだな~、と深く感じました。
 新人監督としてナメてかかられまいとする斎藤監督。伝説の監督というレッテルを忌まわしく思いながらも、「ハワイ旅行しながらちょちょいのちょいで書き上げたゼ☆」という新たな伝説を捏造しちゃう王子監督。互いに同業のライバルとして負けまいと水面下での努力に明け暮れる行城と有科。オタクとしての生き方を世間のリア充どもに馬鹿にされていると思い、いつの間にか勝手に自分で壁を築いていたことに気づいた並澤と、それを気づかせてくれた宗森、アイドル声優という不安定極まりない生き方を余儀なくされる中でも、自分の携わる作品を真剣に愛そうとする地道な努力を続ける群野葵……

 周囲の目という正体の無い敵を相手に、誰の共感も必要としない我慢と苦労を続ける登場人物たち。その日々を、斎藤監督を中心に据えながらも、まめにすくいあげる視点が随所にあるのもまた、映画『ハケンアニメ!』の魅力であると思います。だからこそ、あのシーンでの斎藤監督の「私はかわいそうじゃない!!」というセリフが、単なる負け惜しみでなく魂の叫びとして、多くの観客の心に「刺さる」のではないでしょうか。あの長回しカットは、女優としての吉岡さんのキャリアの、現時点での精華だと思います。すばらしい!


 世の中じゃあ、東宝の『シン・ウルトラマン』のほうが優勢かも知れませんが、どっこい東映の『ハケンアニメ!』も、っていうか、『ハケンアニメ!』の方がおもしろいぞ! 感動できるぞ!! ということを声を大にして叫びまして、今回の感想のおしまいにしたいと思います。子どもに見せるのなら、だんぜん『ハケンアニメ!』のほうがいいです!

 あの日、私が最初に『シン・ウルトラマン』を観に行ったとき、前の上映回が終わって中から出てきた野球帽の小学生男子の釈然としない表情が、いまだに忘れられません。「ウルトラマンとゼットン、結局死んだの? 死んでないの?」みたいな。

 少年よ、いい歳こいたオジサンたちのわがままムービーなんか見てないで、『ハケンアニメ!』を観てくれ!!

 ……などと、生涯最初に観たアニメが『エリア88』、特撮映画が1984年版『ゴジラ』だったために心に深いひねくれ属性を植え付けられてしまったオジサンがのたまっております。まぁ、ヘンな作品も、それはそれでいいよね。
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まごころ星人を、君に ~映画『シン・ウルトラマン』の感想 後編~

2022年05月21日 22時10分18秒 | 特撮あたり
≪本ブログは、2022年5月現在公開中の映画『シン・ウルトラマン』の感想を好き勝手につづるものですが、いち特撮ファンとしてど~しても譲れない異常なこだわりから、一部の登場人物や用語の表記を意図的に改変しています。どうしようもねぇ昭和野郎だとどうか哀れに思し召し、ご了承くださいませ。≫

 そんなこんなでまぁ、大ヒット上映中の『シン・ウルトラマン』を観た感想の続きでございます。
 前回の記事で、わたくし個人として「おもしろくない。」と感じた3つの理由のうちの2つまでくっちゃべってきたわけなのですが、いよいよ最後の3つ目に触れる前に記事の字数がいつもの1万字に達してしまいましたので、カラータイマーピコンピコンということで一時撤退させていただきました。やっぱさぁ……ラインの色が赤から緑って、しっくりこないよねぇ!? それ、成田亨先生の構想にはありませんよね!? 結局、カラータイマーを撤廃した意味がなくなってんじゃないの。なんなんだ、その見事なまでの墓穴の掘りっぷりは!?

 前回も言いましたが、3つ目の理由は、今までの2つとはちょっと異質なものだと感じました。前の2つは、たぶん作り手としてはあんまり意図的に出しているものではないような気がするのですが、この3つ目だけは、作り手が、特に言えば脚本を担当した庵野秀明さんその人が、かなり意識的にあえて出している「おもしろくなさ」だと感じたのです。そして、そこまでして、おもしろさを捨ててまで描こうとしたその要素こそが、『シン・ウルトラマン』を世に問おうとした本質であると思うのです、あたしゃ。


3、脚本がおもしろさを狙っていない。

 この作品の脚本を通して庵野さんが問いたかったこと。それは、「あなたは『自分と異なるもの』をどこまで受け入れられるのか?」という問題提起だったのではないでしょうか。
 私が思うに、この『シン・ウルトラマン』におけるシン・ウルトラマン(便宜上、初代ウルトラマンと区別するためにこう呼称します)は、お話が進んでいくにつれて、どんどんその超能力に科学的説明すなはち現実味がついて超人でなくなっていき、最終的には、世界人類のほとんどが知らないうちに宇宙空間でひっそりとゼットンと対決し、結局両者ともに「この世からいなくなる」というフェイドアウトのような結末に(いったん)なります。その姿は、「ウルトラマンがんばれ!」と地上の人類(だいたい日本人)が応援する中で、迫りくる大怪獣を華々しく退治する初代ウルトラマンとはまったく違う異質なもので、はっきり言えば「ヒーロー」とは呼べない不気味なもの、いわば「モスマン」や「人面犬」のような得体のしれない類の世界の方がしっくりくるような気さえします。
 そこらへん、同様に表情がまったく変わらない初代ウルトラマンでも、その「雄々しさ」や「苦戦っぷり」を活き活きと伝えていた「ヘアッ!」や「ジュワッチ!!」といった肉声をシン・ウルトラマンがいっさい発しないところに、庵野さんの意図がはっきり込められていると思います。『シン・ウルトラマン』の世界に、人類がいたらいいなと願う神様やヒーローはおらず、ただ、意図の汲み取りにくい無言の「異様なひと」がいるだけなのです。

〇善人でもなく、悪人でもない「異人」ウルトラマン

 なんだかわからないけど、人類の文明を脅かす大怪獣や宇宙人を全力で倒してくれる「異様なひと」ウルトラマン。
 ただし、日本の全エネルギーを吸い尽くしかねないシン・ネロンガをスペシウム光線で撃滅したり、シン・ガボラの放つ放射能ビームを中和させた上に遺体までも持ち去って処分してくれるという異様なまでの献身っぷりに、アサミ隊員ら科特隊のメンバーは「なんらかの意志」を感じ取ります。そしてそれは、ウルトラマンの仮の姿となっているカミナガ隊員との交流を通じて、「地球人類を守る」という確固としたウルトラマンの信念による行動だったことが明らかとなるのでした。

 守る。とにかく地球人類を守る。人類の日常生活を壊そうとする怪獣から守る。人類を滅ぼそうとするシン・ザラブ星人から守る。人類を騙して地球の支配権を奪おうとするシン・メフィラス星人から守る。天体兵器ゼットンを発動させて地球を太陽系ごと処分しようとする「あのひと」から守る。それが自分の属する「光の星」の掟に背く行為なのだとしても守る。守る対象の地球人類のほとんどがその貢献に気づいていないのだとしても、守る、守る、守る!!

 大丈夫か、シン・ウルトラマン!? もはやその姿は、「守る」という強迫観念に憑りつかれているようにすら見えてしまうアブナイ域に達しています。当然、そうまでして守る理由は物語の中で明らかとなるのですが、それはあくまでもシン・ウルトラマンが地球人類という生命体に興味を持つことになった、なんとなくもっと詳しく知りたくなったという「きっかけ」でしかないのです。その点、宇宙凶悪怪獣ベムラーの追捕という任務執行中にハヤタ隊員を事故死させてしまったのを申し訳なく思ったから自分の命を預けた、という初代ウルトラマンの動機とは、ちょ~っとニュアンスが違うんですね。初代ウルトラマンはあくまでも「光の国」(原典は光の星でなく光の国)の一員という立場を捨ててはいないのですが、シン・ウルトラマンは場合によっては仕事を捨ててでも興味のあるものの保護に邁進するという、地球人から見ても光の星から見ても常軌を逸した「異様さ」があるのです。いわば公務員と芸術家みたいな、本質の違い?

 これを言ってわかっていただける方がいかほどいらっしゃるのか不安なのですが、シン・ウルトラマンって、その行動の利害を無視した異様さ・危うさと、それを引き換えに手に入れている「唯一無二の輝き」が、あの天才やなせたかし先生の手によって生まれた「初代アンパンマン」(1970年発表)のそれに近いと思います。世界の人気者になっているカッコいい有名ヒーローたちに馬鹿にされながらも、砲弾が飛び交う紛争地帯に飛んで行って、そこで飢餓に苦しむ孤児たちに自分の焼いた手作りパンを配り続けるという行為を、死ぬまでやめなかった小太りの中年男、アンパンマン。そして誰の理解を得ずとも、全宇宙を敵に回しても、自分の行動を、想いを貫こうとする異人シン・ウルトラマン。この2人には、どこか似ている孤高さがあるような気がするんですよね。初代アンパンマンも、現行のあんぱんまんのような子どもウケのする要素は意図的に廃されています。

 シン・ウルトラマンの、にわかには親しみづらい「哀しきモンスター」っぷりは、奇しくも庵野さんが声優を務めたジブリ映画『風立ちぬ』(2013年)の堀越二郎のキャラクターともオーバーラップする部分が多いのではないでしょうか。あくまで実在の人物でなくアニメの中の堀越二郎の話なのですが、知らない子どもに自分のお菓子「シベリア」をあげようとしてキモがられるさまなどは、コミュニケーションの苦手な、それでも澄み渡った清い(それがゆえに危ない)心を持っている異人っぷりを際立たせているではありませんか。

 つまり、『シン・ウルトラマン』はヒーローもの特撮のようでありながらも、実はまごころひとつを武器にして闘い続ける、誰とというと、敵味方関係なくコミュニケーションの取りづらい周囲の他者すべてと闘い続ける修羅の道を選んだ、いや、その道しか許されなかった異常人の姿を描くヒューマンドキュメンタリーなのです。まぁそりゃ、おもしろさを追求するわけにはいきませんよね。ドン引きする周囲の人を描かなきゃいけないもんねぇ。
 う~ん、シン・ウルトラマンは、ブッダであり、キリストであり、宮沢賢治であり、現代の即身仏であるのか。その常軌を逸した「身の捨てっぷり」に意味があるのか無いのかは、その死後に生きる人類全員でよく考えて決めるべきことなのだ……深いなぁ~!!

 つまり、庵野秀明さんは、21世紀も20年代に入ったこの令和の御世に「いまだかつて現れたことのなかった新たな異端児」を生み出し、その規格外の愛情、まごころを受け入れる覚悟が人類にあるのか、また、守られるに足る価値があるのかという問いを投げかけているわけなのです。
 だからまぁ~、『シン・ウルトラマン』の「シン」は、『新約聖書』のシンなんでしょうかねぇ。いかにも考察好き界隈がわきそうな連想なので、言うのもこっぱずかしいですが。本質的に、光の国のウルトラ兄弟と光の星のシン・ウルトラマンがまるで違う印象を持たせるのは、そういう理由だったんですね。要するに集団の幸せか個人の信念か。宗教が違うのです。

 そんなことよりもさぁ、私が気になってしょうがないのは、庵野脚本の次のようなとこなんっすよ、ええ!!


〇子どものいない世界『シン・ウルトラマン』

 ここ! ここがいちばん気になるポイント。
 なんでなんだろ……なんで『シン・ウルトラマン』には、子どもの姿がほとんど見えないんだろう!?
 冒頭でカミナガ隊員が助けたランドセル姿の小学生とか、メフィラス星人とカミナガ隊員が会話しているシーンで映っていた公園の子ども達とかは、ほぼ誰が演じてもいいようなモブ扱いでしたよね。あとはぜ~んぶ、いい歳こいたおじさんおばさん、政治家のおじいちゃんばっか! ヘタしたら20代の男女も、フナベリ隊員ぐらいでほとんどいなかったような。その若手枠のフナベリ隊員ですら、ミョ~に所帯じみた雰囲気の人物に描かれていたし。別に悪意はないんだろうけど、カメラのどこをどういじくったら早見あかりさんがあんなにもっさりして見えちゃうんだろうか!?

 そして、なんで!? なんで、メフィラス星人のエピソードをチョイスしておきながら、子どもが一切メインストーリーにからんでこないの!?
 わからない……庵野さんほどの特撮愛に満ちた方が、「メフィラス星人の相手に子どもを選ぶ」という天才・金城哲夫のアクロバティックな脚本の妙味を、なんでああも簡単に切り捨ててしまうのだろうか。おかげでシン・メフィラス星人のエピソードは、おそらくは金城哲夫が「それじゃおもしろくもなんともねぇな。」と回避していたつまんなさに見事ハマってしまったではありませんか。政治家ばっかでつまんねー!!

 庵野秀明さんにとって、「特撮世界における子ども」とは、一体どんな存在なのだろうか。いなくてもいいような軽さのものなのか? 『ウルトラマン』のホシノ少年は、『帰ってきたウルトラマン』の坂田次郎くんは、そして『ウルトラQ』の次郎少年(『ゴメスを倒せ!』)なり三郎少年(『鳥を見た』)なりピー子ちゃん(『虹の卵』)は、そんなにいとも簡単にカットしていいものなのか!?
 前回にも触れましたが、『シン・ウルトラマン』の冒頭の『シン・ウルトラQ』パートは、それこそサービス精神満載でテンポも最高な導入になったのですが、よくよく振り返ってみると、「あれ、リトラは?」とか「え、ぺギラ駆除されちゃったの?」とか、そもそも『ウルトラQ』最大の持ち味である「市井のなんでもない人々が力を合わせて天災に打ち克つ物語」がまるごと無いものにされている点で非常に納得のいかないものが残ります。そこを除去しといてゴメスがうんぬんパゴスがかんぬんと言われても、そんなの『ウルトラQ』をリブートしたとは言えないのです。
 まぁ、あの映像が、政府がいろいろ情報操作をしながら作成した外部向けの公的資料であると考えたらいいわけなんでしょうが、せめて一の谷研究所は科特隊にからんでこないとダメでしょ! 「地球にやってきた宇宙人第0号」の称号をセミ人間から奪っちゃうのも、大人げないよねぇ~。

 ともあれ、少なくとも『ウルトラQ』や『ウルトラマン』において、半世紀前に特撮作品を作っていた方々がいちばん大切にしていた部分は、そこにある「夢物語」としての荒唐無稽なワクワク感だったと思うのですが。当時の庵野少年だって、そこがあったから特撮の世界にすんなり入り込めたのではないのでしょうか。その要素を『シン・ウルトラマン』に取り入れないというのは……庵野さんは、次世代を担う特撮ファンを作ることには興味がないのか? そこがわからない!!
 それでいて、ぬけぬけと「空想特撮シリーズ」の御旗を振りかざすというのは、おこがましいにも程があるのでは? 『シン・ウルトラマン』のどこらへんに「空想」の悦びがあったというのでしょうか。一介の女子バレー選手が身長57m の怪獣とバレー対決を繰り広げ、どっかの寺子屋の塾講師の青年がロープとナイフだけで宇宙大怪獣改造ベムスターを瀕死に追い込む『ウルトラマンタロウ』でさえ「空想特撮シリーズ」の大名跡は襲わなかったんですよ!? そこらへんの重みをちゃんとわかっていただきたい。

 一方、樋口監督はというと巨大アサミ隊員のタイトスカートの中が見えたとか、女性の身体のにおいがどうとかで勝手に盛り上がる「思春期型特撮ファン」なていたらくという……なんだよその、文科系部室のダベリ場感!?
 『シン・ウルトラマン』と『シン・ゴジラ』を観比べるだに、樋口監督と庵野さんとでは、同じ「特撮愛」だとしても、それぞれのグッとくる観点と言いますか、それにあこがれている各人の「精神年齢」が違うような気がします。
 つまり、樋口監督は、それこそ中高生の部室のような、同好の士が集う限られた空間の中で「あれはああいう意味なんだよな!」とか「オレだったらあれはこういうアングルで撮りたいね!」と、時を忘れて語りつくす体験を、その特撮の才を愛でる最高のゆりかごとして育ってきたような「キャッチーさ」と「女性へのほのかな幻想」があるような気がします。それがこじれた結果が、巨大フジ隊員を気持ち悪くリブートした巨大アサミ隊員がらみの物議なのではないでしょうか。
 それに対して庵野さんはどうかといいますと、思春期以前の、ともかく異形で巨大なものに対する信仰に近い愛といいますか、自分があれこれアレンジしたいとかエッチに解釈したいとかいう邪念など生まれる余地もない、子どものような「あこがれ」と、その子どもの時に生まれて初めてゴジラやウルトラマンを観た時の自分自身の衝撃を、いかにして他者にわかってもらうのかという永遠のテーマに独りで取り組んでいる姿が、その才能の原点にあると思うのです。周囲の人間が大騒ぎしようがメッタメタに大批判されようが、庵野さんの作風に揺らぎがないのは、庵野さんの仕事の最終的な判定人が「庵野さんご本人」だからなのでしょう。この唯我独尊感は……スゴイ! っていうか、その姿がシン・ウルトラマンそのものじゃないか!!

 だからといって、ドラマの中に「生き生きと活躍する子ども」をいっさい登場させないというその態度は、逆にあまりにも子どもっぽ過ぎないか!? ウルトラマンの世界は庵野少年だけが独り占めってか! いやいやそこはさぁ、金城、千束、上原、市川、佐々木といったいくたのレジェンドさまの後ろ姿を拝して、ちょっとは子どもを空想世界にいざなうマネくらい、してもいいじゃねぇかよう! 今の子どもたちにも夢を見させてくれよ~!!
 でも、こういう作品を世に出してるのが当代随一のお2人なんですもんね……グウの音も出やしません。そんなに子どもを出したくないんだったら、『シン・ウルトラマン』じゃなくて『シン・恐竜・怪鳥の伝説』でもやったらよかったんじゃないですか? 東宝じゃないけど! 恐竜も怪鳥も出てこないけど!!

 ただ、「特撮博物館」というロマンたっぷりの大企画を現実化して、かつ大成功させたお2人のことなんですから、きっと、また別の作品で思いっきり子ども向けに振り切ったものを見せてくれるかも、っていう期待も持っちゃうんですよね。いつになるかわからないけど……
 もしよ? もし、庵野さんが、いつかあの『帰ってきたウルトラマン』をリブートするんだったら、それは子ども(次郎くん)を出さないわけにはいきませんよね。さすがにそこは入れるよなぁ!? まぁそこにいくまで、当面『ウルトラセブン』や『怪奇大作戦』で子どもが大いにフィーチャーされることはないかもしれないけれども。

 余談になりますが、今回の『シン・ウルトラマン』でも、「円谷プロのリブートと言ったらやっぱこれっしょ。」といった軽率さで、いわゆる実相寺アングルな画面構成が多用されていたのですが(科特隊基地でよく使われていた、やたら低い位置のデスク上や事務機器のスキ間から発言している人物を撮影しているカッティング)、これだって、子ども向け番組としての意味がちゃんとあると思うんですよ。
 創始者である実相寺昭雄監督自身がどう理論づけておられたのかはこの際おいておき、私として強く感じる印象を述べますと、あの画面構成は、明らかに「視聴者( TVの外側にいる人)」と「物語(ウルトラシリーズの世界)」にはっきりした境界線を引くものであり、人類文明や地球そのものの危機に対抗する世界有数のエリートたる地球防衛組織の隊員たちの極秘作戦を「枠外からのぞき見している感覚」から本能的な緊張感を引き出すという重要な効果があると思うのです。そして、そのアングルが大人の視点よりも意図的に低くなっている、こそこそと隠れながら見ているようになっているということは、視聴者全員が番組を観ているあいだだけ無意識のうちに「子ども」に還元されてしまうという、とんでもないトリック演出なわけなんですよ、たぶんね! あとあれよ、異常などアップで登場人物の顔を接写するのも、大人の身体が大きく見える子どもの感覚だからなんじゃない、たぶんよ!?
 あのヘンなアングルが、あまねく視聴者の子ども時代における、「オトナ同士の意味のよくわからない会話を盗み聞きしていた体験」にリンクするからこそ、単なる奇をてらった演出でなく、映像作品を手がける人間ならばなんとなくやってみたくなる魅力を持ち続けるものになっているのではないのでしょうか。
 ただ、だからといってまんま使用意図もわからずバンバン採用しちゃうと、今回の『シン・ウルトラマン』のように「あぁ~、ファンサービスね。」程度の残念な効果にとどまってしまうわけです。だって、巨大アサミ隊員のタイトスカートの中が気になったり、平和な時期が来たらいかにもそれっぽいけど中身が何にもないジャズBGM なんかが脳内に流れるような子どもなんかいないからです。子どもを徹底的に排除している人が使っていい演出方法ではないと思うんです、実相寺アングルって。もちろん、実相寺監督が子どもが観ていい作品ばっかりを作ってるわけないのは周知の事実で、そここそが実相寺昭雄の唯一無二の魔力の源泉であるわけなんですが。
 いろいろ言いましたけど、要するに私が言いたいのは、樋口監督が実相寺アングルをマネするなんて、分不相応にも程がある!!ってことなんであります。そんな暇があったらとっとと「実相寺アングル」、「中野爆発」、「川北ビーム」、「板野サーカス」みたいな「樋口なんちゃら」を創始していただきたいと。もしかしたらもうあるのかも知れませんが、寡聞にして私はまったく聞いたことがありません。「樋口絵コンテ」? でもそれ、完成作品じゃ見れないしねぇ。
 あと、これ別に樋口監督のせいじゃないかもしれないけど、科特隊のマスコットのぬいぐるみ、全然かわいくないんだよ! ちったぁ『ウルトラQ 星の伝説』(1990年)の実相寺ちな坊を見習えい!!

 あれか、庵野さんと樋口監督のお2人は、この『シン・ウルトラマン』を反面教師として、「 VS ゴジラシリーズ」に対する「平成ガメラ3部作」みたいな対抗新人が爆誕することを期待しているのかな!? その輪廻に、私は大いに期待した~い!!


 ……とまぁ、こんなわけで今回も2つの記事にわたりいろいろ言いたい放題やりましたが、やっぱり庵野さんのからむ作品は、コストパフォーマンスが素晴らしいですよね!! おもしろいおもしろくないは、ぶっちゃけ関係ない。
 作品の内容の賛否はこの際ほんとにどうでもよくて、結局それを起爆剤にして観た人の思索や、観た人たち同士の議論がこれだけ活発になされるというのは、やっぱり庵野さんの本質が、周囲の世界に嵐のような波風を沸き立たせる「台風の目」だからなんでしょう。
 そういう庵野さんの性質にとって、先人の遺産を磨き直す『シン』シリーズの商法は非常に水の合ったものなのでしょうが……そんなに「自分」がなくていいものなのかなぁ~、とちょっぴり心配になっちゃったりもしてしまいます。まぁ、エヴァンゲリオンがもうあるからいいやってスタンスなのでしょうか。

 お次の『シン・仮面ライダー』、予告編じゃそんな雰囲気はまるでなかったけど、今度こそ令和の子どもたちがワックワクするような作品を期待しておりますよ、庵野監督~!!
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宇宙からきた変なヤツ!! ~映画『シン・ウルトラマン』の感想 前編~

2022年05月14日 22時47分07秒 | 特撮あたり
≪本ブログは、2022年5月現在公開中の映画『シン・ウルトラマン』の感想を好き勝手につづるものですが、いち特撮ファンとしてど~しても譲れない異常なこだわりから、一部の登場人物や用語の表記を意図的に改変しています。どうしようもねぇ昭和野郎だとどうか哀れに思し召し、ご了承くださいませ。≫


 ど~もみなさま、こんばんは! そうだいでございます~。
 いや~、あっというまに終わっちゃいましたね、今年のゴールデンウィークも。みなさまはいかがお過ごしでしたか?
 今年はなんだか、私の場合は平日出勤がちょいちょい差しはさまれちゃって、お得感の少ない連休だったのですが、それはそれなりに充分に満喫しましたねぇ、ハイ。

 できればちゃんと独立した記事にしたいのですが、私はこのゴールデンウィークを利用して、長年やりたかった夢をかなえまして。
 今年、3年ぶりに開催された山形県米沢市の「上杉まつり」(4月29日~5月3日)の最終日のイベント「川中島合戦再現」に、上杉軍の足軽として従軍してきたんですよ。コロナ対策の関係で上杉・武田両軍の動員兵数は少なかったのですが、戦場の迫力はすごかったですよ。みごとに日焼けしちゃったけど、楽しかったなぁ。
 甲冑オール赤備えの武田軍は、遠目の陣容こそ非常に怖かったですが、抜刀して実際に接近してみると、ピッチピチの女子高生やハイテンションな外国の方で構成されている部隊が多かったので、意外と若々しくておもしろかったですよ。でも足軽具足とはいえ、何百メートルも走るとそうとう息が上がりますね! わらじ履きはクッション性ゼロなので、股関節がガッタガタになりました。

 ああいう歴史イベントは、話せる人と一緒にいたほうが楽しいやねぇ! 関東からいらっしゃったという上杉謙信ファンの色白美人な娘さん、初対面にもかかわらず、正体不明な私との気さくなトークにのってくれて、どうもありがとう! 約束どおり、来年にも必ずまた戦場で逢いましょう!!
 その方、ゲームの『戦国無双』シリーズで上杉謙信のファンになったとおっしゃってたんだけど、そんな娘さんに私、岩明均の『雪の峠』をぜひ読むようにと薦めちゃったよ……少々びっくりするかも知れないけど、好きな人のことはなるべくいろんな面を知っておいた方がいいやねぇ。『信長の野望』シリーズでさんざんひどい目に遭わされてきた私にとっての上杉謙信のイメージは、まさにそっち寄りですよ。こわすぎ!! ベルセルク!!

 そんな感じの川中島レポートを、えっちらおっちら空いた時間につづろうかと思っていたのですが、そんな久闊を叙するヒマもなく、我が『長岡京エイリアン』としては決して無視するわけにはいかない映画がついに公開! これはちょっとスルーできないなということで、今回はこの映画を観た感想を問わず語りにくっちゃべっていきたいなと思います。来週末には『ハケンアニメ!』の公開もあるしね。忙しいな!!


映画『シン・ウルトラマン』(2022年5月13日公開 113分 東宝)

 1966~67年に放送された特撮 TVドラマ『ウルトラマン』を現代に置き換えたリブート映画であり、タイトルには「空想特撮映画」と表記される。円谷プロダクション、東宝、カラーが共同で製作し、企画・脚本の庵野秀明、監督の樋口真嗣など『シン・ゴジラ』(2016年)の主要製作陣が参加する。キャッチコピーは「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。」、「空想と浪漫。そして、友情。」。
 ゆるめの世界観にしたかったことから、政府系組織内外の設定などは『シン・ゴジラ』に比べてかなりフィクション寄りとなっている。

 本作でのウルトラマンのデザインコンセプトは、初代ウルトラマンをデザインした成田亨が1983年に描いた油彩画作品『真実と正義と美の化身』が元になっている。成田と彫刻家の佐々木明によるオリジナルデザインへの回帰を図った結果、カラータイマーや目の下部の覗き穴、スーツ着脱用ファスナーに伴う背ビレ部分が排され、マスクからボディ、グローブ、ブーツまでシームレスに繋がっている。
 長い手足と痩身の身体は、初代ウルトラマンのスーツアクターを担当した古谷敏のスタイルを色濃く投影し、当時の塗料では表現しきれなかった金属のようなメタル感が意識された皮膚感となっているなど、宇宙人の雰囲気を強くしている。3DCG描写であるからこそ可能な表現として、基本動作などは初代ウルトラマンの映像をトレースしたり、古谷のモーションキャプチャーのデータを元にしている。ウルトラマンの CGモデルは、古谷の体型データから作成された。
 ウルトラマンの体表のラインは、成田が描いた様々な絵画やイラストからのシャープなイメージを融合させている。初代ウルトラマンの胸にあったカラータイマーは、後から制作の都合で付けられた経緯があったことから無くなっている。初代でも活動制限時間は明確に描かれていないため、本作でも制限時間は明言されていないが、エネルギー残量が乏しくなると体色の赤い部分が緑に変化するものとなった。ウルトラマンを CGアニメーションで作った後に、ウエットスーツを上から着せたような歪みやしわを加えている。
 本作でのウルトラマンの地球飛来時の顔は、初代ウルトラマン Aタイプ(第1~13話で使用されたマスク)のものに近づけられ、体色は全身銀色が採用された。

おもなキャスティング、用語
怪獣特設対策室
 通称「科特隊」。日本に次々と出現する巨大不明生物「怪獣」に対抗するために防災庁とともに設立された専従組織。
 制服は特にないが、オレンジ色の腕章をしている。
カミナガ隊員 …… 斎藤 工(40歳)
 本作の主人公。警察庁公安部から科特隊に出向した作戦立案担当官。
 専用デスクの上には消波ブロックのミニチュアを並べている。
アサミ隊員 …… 長澤 まさみ(34歳)
 公安調査庁から科特隊に出向した分析官。
 専用デスクの上には余計な物を何も置かないようにしている。
タキ隊員 …… 有岡 大貴(31歳)
 科特隊に所属する、城北大学理学研究科非粒子物理学専攻の非粒子物理学者。
 専用デスクの上にはエンタープライズや『サンダーバード』など、怪獣がメインで登場しない特撮作品の模型が置かれている。
フナベリ隊員 …… 早見 あかり(27歳)
 文部科学省から科特隊に出向した汎用生物学者。
 専用デスクの上には生物学関連の書籍やグッズが置かれている。
タムラキャップ …… 西島 秀俊(51歳)
 防衛省防衛政策局より出向した科特隊隊長。
 専用デスクの上には科特隊のマスコットキャラ「 KATO太くん」のぬいぐるみが置かれている。
ムナカタ参謀 …… 田中 哲司(56歳)
 科特隊の室長。
加賀美 …… 和田 聰宏(そうこう 45歳)
 警察庁警備局公安課所属。カミナガ隊員の元同僚。
小室防災大臣 …… 岩松 了(70歳)
大隈総理大臣 …… 嶋田 久作(67歳)
狩場防衛大臣 …… 益岡 徹(65歳)
中西外務大臣 …… 山崎 一(64歳)
内閣官房長官 …… 堀内 正美(72歳)
首相補佐官  …… 利重 剛(59歳)
早坂陸自戦闘団長 …… 長塚 圭史(47歳)
政府の男   …… 竹野内 豊(51歳)
ザラブ星人  …… 津田 健次郎(声の出演 50歳)
メフィラス星人 …… 山本 耕史(45歳)

おもなスタッフ
監督 …… 樋口 真嗣(56歳)
脚本・総監修 …… 庵野 秀明(61歳)
監督補 …… 摩砂雪(61歳)
副監督 …… 轟木 一騎(53歳)
准監督 …… 尾上 克郎(62歳)
VFXスーパーバイザー …… 佐藤 敦紀(61歳)
デザイン …… 前田 真宏(59歳)、山下 いくと(57歳)、竹谷 隆之(58歳)
ウルトラマン・怪獣・宇宙人オリジナルデザイン …… 成田 亨(2002年没)
ウルトラマン CG原型モデル …… 古谷 敏(78歳)
音楽 …… 宮内 國郎(2006年没)、鷺巣 詩郎(64歳)
 ※『エヴァンゲリオン』シリーズや『シン・ゴジラ』での候補曲から、未使用に終わっていた音楽も使用されている。
主題歌『 M八七』(作詞・作曲・歌 - 米津玄師)
配給  …… 東宝


 いや~、ついに公開されてしまいましたね。まさか、ほんとに庵野秀明さんが制作にかかわった『ウルトラマン』の公式作品が、しかも「円谷プロ」と「東宝」の奇跡のタッグで世に出てしまうとは! 作品の内容云々を言う前に、まずその時点で感慨深い。
 思えば6年前、『シン・ゴジラ』の感想をつづった時に私は、作中における日本政府とフランスとのミョ~な蜜月関係から、『シン・ゴジラ』の直接的な続編の形で『シン・ウルトラQ』を経由した『シン・ウルトラマン』が、庵野さんの手で必ず制作されるはずだと予想していたのですが、まぁこれは、半分当たって半分外れたという結果になったでしょうか。ちゃんと『シン・ウルトラQ』やってましたよね! 30秒もしないで終わっちゃったけど。
 あれ、権利やなんかの理由もあるんでしょうが、直接の続編じゃなくてモヤッとしたパラレルな処理になってるのが惜しいなぁ! 謎の政府要人役の竹野内さんとか総理役の嶋田久作さんとか、出オチで笑っちゃう「シン・ゴメス」とかのサービスはありましたが、あくまでも2016年の「巨大不明生物ゴジラ災害」のあった日本とは別の世界という扱いになっているのが、いかにももったいない。でも、シリーズ作同士どころか、同じタイトルの中でもエピソード同士で設定のつながりに整合性がないのが「ウルトラシリーズ」の伝統ですからね。『ウルトラマンレオ』になった瞬間に、『ウルトラマンタロウ』の防衛チームZAT の超絶科学どこいっちゃった!?みたいな。そりゃMAC も壊滅しますわ。組織間の引き継ぎって大切!!

 あっ、申し遅れました。この記事では、いわゆる「ネタバレ回避」はせずに好き勝手に感想を進めていきますので、映画を観る前だから真相に迫ることは知りたくないという方は、読まずにお戻りください。
 ていうか、私つらつらと思いまするに、映画はなんてったって映像作品なのですから、「あれが登場する」とか「あれが実はこれ」とかいうネタを文章でバラしたところで、映画の魅力を減らすことにはならないと思うんですよ。『シン・ウルトラマン』を観るか観ないかの判断にネタバレは関係ないんじゃなかろうかと。これが同じ文章の世界、特に推理小説(とその映像化作品)だったら問題は致命的になるかも知れませんが、大事なのは制作陣があれやこれを「どう映像化しているか」ってことなんじゃなかろうかと。だとしたら、予備知識に何が入ろうが、結局は作品そのものを観なきゃ話は始まらないのです。ソフト商品化を待てない人は、ともかく映画館へ行くっきゃない!

 私も、座席の込み具合やネット上のレビューが落ち着いてきたころにのんびり観ようかなんて思っていたのですが、特撮ファンの宿命といいますか、いざ公開日の13日金曜日になると居ても立ってもいられなくなり、仕事が終わるやいなや、景気づけに一人焼肉をした後に意気揚々と21時30分からの最終回を観に行きました次第です。いや~、盛況なのは当然でしたが、お客さんが見事に男ばっかりでしたよ! それでも、私みたいなオッサンというよりも大学生みたいな若者がメインだったのはちょっぴり安心しました。やっぱりなんだかんだ言っても、「ウルトラシリーズ」は現役最新作がコンスタントに出ているだけあって、ファン層が若いね! そこが「ゴジラシリーズ」ファンから見ると、ちょっとうらやましい。

 んでまぁ、『シン・ウルトラマン』を観てきたわけなんですが、ともかく、いち特撮ファンとしてまず1回だけ観た段階で印象に残った点を羅列していきたいと思います。まぁ、少なくともあと1回は観に行くだろうな。

 『シン・ゴジラ』は誰に対しても「おもしろいよ!」と言い張る自信はあるのですが、今回の『シン・ウルトラマン』に関しては、「まぁ観てみてよ!」とは言えても、おもしろいとは、ちと言えないものがあったかしら。

 おもしろいと思えるかどうかは、ほんとに人によりけり。ただ作り手の「世界」はかっちり出来上がっている作品なので、それを観ることによって湧き上がった感情を、こじゃれたカフェかどっかでエスプレッソでもすすりながらじっくりと自己分析することによって、自分の「好きなもの」や「許せないもの」を認識する格好のリトマス試験紙にはなるのではないでしょうか。これって、映画にしろ演劇にしろ小説にしろ、エンタテインメントのしごくまっとうな楽しみ方ですよね。そういう意味で、この『シン・ウルトラマン』はまず及第点はいっているのではなかろうかと。

 『シン・ウルトラマン』が、少なくとも私にとってはおもしろくなかった理由は、大別すると3つほどあったように思えました。

1、オリジナル『ウルトラマン』の魅力に勝っている点がほぼない。
2、監督の演出バランスが悪い。
3、脚本がおもしろさを狙っていない。

 う~ん、どれも致命的~!!
 でも、それでも私は、この作品を観ることを人に薦めたいとは思うのです。それは、「3、」において、脚本がおもしろさを捨ててまで訴えたかったことに、ちょっとだけながら感動してしまったからなのです。その話は最後にとっときましょう。
 まずは、いつもの流れにのっとりまして、おもしろくなかった3点をひとつずつ詳しくさぐっていきましょう。


1、オリジナル『ウルトラマン』の魅力に勝っている点がほぼない。

 これはすごいね~! なにがすごいって、55年後に作られたエンタメ作品に余裕で完勝できている『ウルトラマン』がものすごいんですよ。
 メフィラス星人も「天体制圧用最終兵器」ゼットンも、半世紀前の造形の方がカッコイくない!? そりゃあ、オリジナルのメフィラス星人は子ども相手にすぐキレるボテ腹体型のおじさんですし、ゼットンも科特隊ビルの窓ガラスを割ってぼやを起こすくらいの火球しか吐きません。でも、中に人間が入らなけらばならないという制約の中で作られ、その上で、同じように中に生身の人間の古谷さんが入っているウルトラマンと泥臭い格闘を繰り広げるからこそ、敵としての「手強さ」がひしひしと伝わってくるのです。ウルトラマンと対峙してじりじりと間を詰める悪質宇宙人メフィラス星人の指先のわななき、抵抗するウルトラマンの腕をしつこく払って目も鼻も口もない顔を「ぐぐぐっ」と近づけてくる宇宙恐竜ゼットンの無言の圧力。これらに限らず、幾多の大怪獣・宇宙人たちとの命のやりとりを克明に描写した『ウルトラマン』の映像の力に、一瞬でも勝てたカットが、果たして『シン・ウルトラマン』における5体の精鋭怪獣&宇宙人との戦いの中にあったでしょうか。シン・ガボラのドリル頭&しっぽとか「花びら超回転ビーム」とかは、いかにもぬいぐるみでは実現が難しいギミックで「おっ。」とは思いましたが、しょせんは前座怪獣の立場なので、大御所でありながらも身体を張って大奮発の5変化を見せたシン・ゴジラはおろか、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序』の第6の使徒(ラミエル)の足元にも及ばないかと思いました。
 怪獣の怖さって、一瞬で太陽系を滅ぼせる破壊力とか、巨大化したはずのウルトラマンさえ米粒のように見える大きさとかいう「強さのインフレ」で言えるものではないことは、『シン・ウルトラマン』制作陣のどなたもご存じのはずなのですが……
 唯一、敵としての「怖さ」を語れる存在だったのはメフィラス星人の人間態を演じた山本耕史さんの不気味な紳士的演技だったのですが、それが正体を現したとたんに、おしゃれなユーロカーみたいな威厳のかけらもない姿になっちゃうんだもんねぇ。居酒屋でらっきょうなんかつまんでないで、もっとメシ食って貫禄だせ!! でも、2代目くらいまでは太らないでね。ゼットンだって、私は「ブモー。」な2代目の方がシン・ゼットンの1兆倍は魅力があると思います。

 もうひとつ、オリジナル『ウルトラマン』の魅力を思い出させるだけで、『シン・ウルトラマン』のオリジナリティをかすませる効果しかなかった重大な要因として、『シン・ゴジラ』における伊福部昭サウンド以上にフル活用されていた宮内國郎サウンドと、それに対して耳に残るところがまったくなかった鷺巣音楽のしけっぷりがあったかと思います。
 いや、もちろんいい音楽なんですから宮内さんの BGMはどんどん再活用していいわけなんですが、それに対抗して奮起するはずの鷺巣詩郎さんの音楽、どこで使われてました!? いつもの絶望感をあおる合唱ばっかりで、もうぜんっぜん印象に残ってない!
 その点、どこをとっても重インパクトの塊といっていい強敵・伊福部先生を相手にしても、『シン・ゴジラ』における鷺巣音楽は、少なくともゴジラ VS 陸上自衛隊の緊迫感あふれる戦闘シーンや、あの「内閣総辞職ビーム」発射シーンにおいて、素晴らしい仕事をしていたと思います。ああいった感じの、『シン・ウルトラマン』といえばこれ!というオリジナルな BGMがあったのかといえば……みごとに無かったですよね。
 ただこれは、メフィラス星人戦からゼットンとの最終決戦に向かうまでが顕著なのですが、今回の『シン・ウルトラマン』は「盛り上げるところこそ重苦しい音楽を」という挑戦もあったようですので、鷺巣さんの調子が悪かったとばかりいうのも酷なのでしょうけど……結局、テンションの上がる「宮内サウンド無法地帯」にしてしまった現状に、いいことはなかったのではないでしょうか。じゃあ『ウルトラマン』観ようよって話になっちゃいますもんね。

 話が脱線しますが、私は奇しくもいま、使用される音楽に関して『シン・ウルトラマン』とまったく同じ不満を、現在放映中の『金田一少年の事件簿』最新シリーズに対しても強くいだいています。初代・堂本少年の事件簿に夢中になって、見岳章さんのサントラまで購入した私としましては、そんなに過去の音源をバンバン使うんだったら、音楽担当者に見岳さん以外の名前をクレジットするなと言いたい。使うならがっつり使う、使わないなら新しい道枝少年にぴったりのオール新曲で勝負する! そういういいとこどりで中途半端なの、お母さんいちばんダイッキライ!!

 やたら先達『ウルトラマン』の良さを際立たせるだけで、まるで「自分がない」超謙虚映画。それが『シン・ウルトラマン』なのです。ウルトラマン単体だけじゃなく、この映画全体が「異常にいいひと。」なんだよなぁ! おもしろさを過去作品に譲るとは……それ、ひとつの独立した娯楽映画と言えるのか!?


2、監督の演出バランスが悪い。

 こりゃも~、今に始まったことじゃないですよね。
 この作品は、ちまたでも多少物議をかもしているように、監督がおもしろがって提示しているギャグ展開が、お客さんの多くにとってそんなにおもしろくないというセンスの齟齬が生まれています。『シン・ゴジラ』では、せいぜいルー語を話す石原さとみさんくらいにしか見受けられなかった、「アニメではすっと入るけど、実写で役者さんがやるとなんかこっぱずかしくて見てられない」やり取りが妙に目立つんですよね。
 アサミ隊員が自分のデジタルタトゥーに一喜一憂した末に「よっしゃー!!」と絶叫するシーン、フナベリ隊員がテーブルいっぱいに広げられた駄菓子をむさぼるシーン、タキ隊員が VRゴーグルをかけて一人トークをしているシーン。それらは、アニメでやると違和感なくニヤリとしてしまうようなちょっとしたキャラクターの味付けシーンなのですが、ああいう風にいちいちカット割りしてじっくりやられると、いかにもトゥーマッチになってしまうんですよね。こういうの、実写で絶対にやるなっていう話じゃなくて、岡本喜八監督とかがやるともっとスマートで、ちゃんとおもしろくなるはずなんですけれどね。

 そしてそれ自体は、監督がギャグパート以上にシリアスパートをじっくり描いているのならば、バランスが取れて目立たなくなるはずなんですが、この監督、こういうアニメ仕込みの得意なディフォルメ展開はしっかり撮るのに、脚本の本質に迫る「カミナガ隊員(の中のウルトラマン)の地球人としての成長」とか、「ウルトラマンが地球に残ることを決めたきっかけ」周辺の描写はめちゃくちゃおざなりにしてませんか? その後の展開にかなり重要な関わりを持つはずの「現場に子どもが!」のあたりの雑な展開なんか、まるでコントみたいな飛ばし演出になっちゃってるじゃないですか。『シン・ゴジラ』の「現場におばあちゃんが!」とは雲泥の差の、緊張感の欠如。子どもも救助されたあとはいっさいお話にからんでこないし。昭和ウルトラシリーズへのリスペクトを込めた作品とは思えない粗雑な扱い。ホシノ少年的な展開、そんなに嫌いなんですか!? 「フィクション寄り」って標榜してるんだったら、思いきってそこまでいけばいいのに。

 あと、ギャグセンスが『ウルトラマン』での飯島監督や実相寺監督のそれと違って、いかにも品がないような気がします。
 「巨大アサミ隊員」のくだりとか、「ニオイで探索」のくだりとか、自分と他人の区別もつけずにおしりをパーン!と叩くアサミ隊員のクセとか。それ自体、別にあってもいいとは思うんですが、描き方がしつっこいから鼻につくんじゃないでしょうか。
 なんか「昨今のコンプライアンス的にアウト。セクハラだ!」みたいな批判もあるようなのですが、いやいや、そんなこと以前に撮り方が品もテクニックもないからダメなんじゃないですか? ニオイだからといって、カミナガ隊員がアサミ隊員の身体に鼻を近づけるさまをそのまんま映してなにがおもしろいんだよう!!
 そこ、飯島監督だったらたぶん、ニオイをかぐ様子なんか直接には撮らないかカミナガ隊員の背中越しのショットだけにして、あとはタムラキャップが空咳をしながら他の2人を肘でこづいて、3人仲良く視線をそらすという演出にするのではないでしょうか。あとはアサミ隊員の「えっ、ちょっ……」、「そんなに嗅がないで!」みたいなセリフだけを言ってもらっときゃいいのです。秘すればこそ花! そっちのほうが断然イイじゃないですか!! どうイイのか?って話は、それこそ真のセクハラなのでなしだ! ともかく、半世紀以上前の『ウルトラマン』よりも、現在の樋口演出の方が単純でひねりがないのは間違いないでしょう。あきれるほどに子どもっぽい。
 だいたい、そこに帰結させるためだけに、天下の長澤まさみさんにその前のシーンから「シャワー浴びてない」ってセリフをしつこく言わせるのが、無粋というか、気持ち悪いにも程があるのでは? そんなの伏線とは言わねぇよ。

 唯一、タイトスカート姿のまんまの巨大アサミ隊員の足元からの仰角カットを受けて、真剣な表情のタムラキャップが「もっと近くに行ってみよう!」と言う映像のつながりに私はクスリときましたが、それ以外のあれやこれやは……第一、身体を張ってる長澤さんがそんなに魅力的に見えないというのはダメなんじゃないだろうか。実相寺監督の桜井浩子さんとか、飯島監督のひし美ゆり子さんくらいにちゃんとキレイに撮らなかったら、女優さんがかわいそうじゃないですか!! 2時間近くある本作の中で、長澤さんがきれいに見えたのはほんとのラストの1カットだけでしたよ。

 ほんと、樋口監督は、あの金子修介監督と一緒に「平成ガメラ3部作」を撮っておいて、いったい何を学んできたのだろうか。金子監督はすごいよ~。『ガメラ3』では、あんな不憫な役だった仲間由紀恵さんでさえもちゃんと美人でしたからね。あっそうか、だからムナカタ参謀は、仲間さんのかたき討ちで科特隊室長となって怪獣退治に心血を注いでいるのか! なんという夫婦愛!!
 ムナカタ参謀といえば、平成版の『怪奇大作戦』で牧史郎父子役だった西島さんと田中さんが仲良く共演しているのはうれしいですね。お2人とも、押しも押されもせぬ大俳優におなりんさって……

 お話を本筋に戻しましょう。私の勝手な印象なんですが、今回の脚本のテイストって、もしかしたら本質的に樋口監督のセンスとは合わないのかもしんない。でも、だからといって監督演出も100%庵野さんでいったらかなり重たい作品になってしまい、しまいにゃ完結しなかったかもしれず。ともかく、『シン・ウルトラマン』として作品が完成したのは樋口監督の良くも悪くも「売り物としていちおう仕上げる」フットワークのおかげなのではないでしょうか。いいコンビ……なのか?


3、脚本がおもしろさを狙っていない。

 ここが、こここそが! 『シン・ウルトラマン』の不思議な魅力の本質だと思うんですが……
 字数がかさんできちゃいましたんで、続きはまた次回にいたしましょうか。ごめんなさ~い!!

 庵野秀明さんって、ほんとに不思議な作家さんですよね~。私の中では、アンディ=ウォーホルに通じるものが大いにある方だと思います。
 周囲はいっつも天地を揺るがす大騒ぎ。でも、騒ぎを起こすご本人はいつでも醒めていて、台風の目のように静謐&うつろ……
コメント (2)
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