雷ブログ

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木曽・長良・揖斐 3川分流工事

2013年04月23日 09時00分00秒 | 雷日記
こんにちは、落雷抑制システムズの松本です。

近鉄特急で四日市に通うようになり、新幹線で上流を渡っていた木曽川/長良川/揖斐川の下流の幅の広いことに驚きました。如何にも水害の多そうな地形で、この場所の歴史について調べてみました。この3つの川は昔から暴れ川であったようで、幕府は、江戸中期1750年代にこの木曽川水系の治水普請を薩摩藩に命じました。鹿児島から岐阜に工事をしに赴くなど、幕府の薩摩に対するイヤガラセですから、当然、薩摩藩では賛否両論、この命令に背き幕府へ戦いを挑む意見もあったとのことですが、「どうせ死ぬなら、洪水に困っている人を助けて死のう」とご立派な判断で幕府の命に従いました。薩摩藩は、この頃から既に幕府からこのようなイヤガラセを受けていたのですから、幕末では倒幕に活躍するのは当然でしょうね。

薩摩は900余名を派遣し、そのうちの100名弱は亡くなりました。そのうちの半分50名は幕府に抗議しての切腹であったそうです。お目付け役として派遣された幕府の役人から細かなケチをつけられて薩摩の武士は切れてしまったのでしょう。抗議の切腹なのです。抗議の主張を相手に暴力として向けるのではなく、自らの死をもって抗議するというのは、薩摩藩への迷惑を考慮してのことで、藩という枠の中での個人としての最大限の主張であったのですね。切腹という行為ですが、何故、腹を切り開くかと言えば、魂の宿るところと考えられていた腹の中を見せて身の潔白を証明するということだそうです。

士農工商という封建制度は民主主義の下では「悪」かもしれませんが、武士道の下に社会のリーダであった武士は、実に立派な行動をした人たちが沢山います。薩摩から普請奉行として900名を率いてきた薩摩藩家老「平田靭負(ユキエ)」は、薩摩藩に40万両以上の出費をさせてしまい、多くの藩士を亡くしてしまい、この工事が終わった後、切腹して責任を取ったそうです。国費を使い、部下を死なせても自分の手柄として得意げに凱旋する家老は薩摩藩にはいなかったのです。鹿児島の方々のご先祖様は立派です。薩摩のみならず、主張は違っても、会津も水戸も長州も、信念を持って行動した人たちは皆、ご立派です。身を挺してまで信念を貫くことは、残念ながら簡単には真似できません。

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