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映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」ガダルカナル

2024-06-07 | 映画

映画「連合艦隊司令長官 山本五十六」三日目です。
本日扉絵左上の百武晴吉陸軍中将ですが、昭和17年、
ガダルカナル島奪回のために派遣された第17軍の司令官でした。

ところでこの百武という変わった名前に覚えがありませんか?

当ブログでは入手した海軍兵学校の遠洋航海記念アルバムをもとに
シリーズとしてここで紹介したことがあるのですが、
練習艦隊司令官としてこの年(淵田美津雄が在籍していた)の
遠洋航海を指揮したのが、晴吉の兄、百武三郎大将でしたね。

兄なのになぜ名前が三郎なのかというと、百武家は5人兄弟で、
三郎の上に二人(おそらく一郎か太郎、二郎という名前の)兄がいたからです。

百武家は三郎、源吾(海軍大将)そして晴吉と3人の将官を輩出しており、
三郎と源吾は海軍史上唯一、兄弟の海軍大将となりました。

晴吉陸軍中将は、兄三郎に似て眼鏡の細面ですので、
映画の百武役はあまり、というか全く似ていません。



これは三郎の弟海軍大将の五男、百武源吾ですが、
不思議なことに?こちらにそっくりです。

映画の配役担当がこの人と写真を間違えていたのではないかと思うくらい。

そして、左下の栗田健男ですが、これはもう全く、
誰がなんと言おうと似ておりません。
「全く似ていないで賞:海軍部門」を謹んで進呈します。

逆に、「そっくりで賞:陸軍部門」を差し上げたいのが今村均陸軍大将

佐々木孝丸という俳優は多才でプロレタリア作家、翻訳家などの面を持ち、
スタンダールの「赤と黒」の翻訳(フランス語)も行っています。



さて、続きと参りましょう。

ここは岩国海軍航空隊。
現在は米海兵隊が運営しており、軍民共用の岩国錦帯橋空港となっています。


訓練を終了し、これからおそらくは南方の戦地に送られる
新人航空兵たちを前にしているのは、あの木村中尉でした。


今日は山本長官が岩国基地に視察に訪れていました。


一人一人の前に立ち、前列の航空兵に飛行時間を尋ねる山本。

「220時間であります 」「230時間であります」「210時間(略)」

零戦以前のパイロットは、総飛行時間300時間でどうにか操縦がまともにでき、
500時間で列機が務まり、7〜800時間でようやく一人前、
1000時間でベテランだったそうですが、それらのベテランは
ミッドウェーの後くらいになると多くが戦死してしまい、
200〜300時間クラスが戦争に出されることになりつつありました。

■ガダルカナル攻防戦


下矢印は、エスピリッサント島に進出するアメリカ艦隊、
上からきているのはラバウルに進出した日本軍の第2、第3艦隊です。



そのちょうど間にあるのが・・・ガダルカナル島です。
両軍の凄惨な争奪戦が始まる、ということを説明しているのですが、
この図がわかりやすくて、感心してしまいました。



昭和17年8月24日の第二次ソロモン海戦の大戦果を報告するのは
大本営の平出(ひらいで)英夫報道部長

実物

ここで余談です。
2020年の朝ドラ「エール」でも扱われた戦時プロパガンダの一つに、

「音楽は軍需品なり」

というのがあり、この言葉の生みの親が平出大佐でした。

当時の音楽家にとってはこれは贅沢品と迫害されないための錦の御旗となり、
多くの音楽家がいわゆる戦意高揚のための協力を行いましたが、
彼らのほとんどは、戦争が終わるや否や慌てて?アリバイを主張したり、
あれはやむなく、などと保身のために言い訳しました。

わたしの知る限り「空の神兵」の高木東六氏はその典型だった気がします。
時世と価値観の変化を思えば、それを責めようとも悪いとも思いませんが。



その頃、陸軍部隊はガダルカナルに進出したものの、
米軍はすでに三本もの滑走路を完成させ、そこから猛攻をかけてきました。



ここトラック島の旗艦「大和」司令室では、黒島&渡辺参謀をラバウルに送り、
陸軍との話し合いを行うよう要請が行われました。

テーマは補給のための物資輸送です。
連合国軍が8月7日にガダルカナルに奇襲上陸したのを受けてのことでした。



海軍側がこのとき提案したのがいわゆる「鼠輸送」でした。
夜間、高速の駆逐艦を用いるしかなかったので、輸送量が限られ、
貨物クレーンも搭載していないことから、大型武器の運搬はできませんし、
月が明るい時期には駆逐艦が発見されやすく実行できませんでしたが、
それでも述べ350隻の駆逐艦が投入され、2万人が輸送されました。



駆逐艦で輸送を行うことを非効率的だというのは、辻政信参謀
トラック島に戦艦がゴロゴロ「遊んでいる」のだから、
大船団を組んで輸送してくださいよ、とつっかかってきます。

渡辺参謀が、駆逐艦を輸送に出すのは海軍にとっても大変な犠牲である、
少しは海軍の立場も理解してもらいたい、というと、

「しかし、ミッドウェーの失敗は海軍ですよ?
ガダルカナルだって先に手を出したのは海軍だ」

と、(海軍側にとって)ムカつくことをズバリ。


険悪になる雰囲気を宥めたのは流石の百武司令でした。

「どうか陸海心を一つにしてこの難局を乗り切っていただきたい。
それがこの百武の願いです!」

本物への似ていなさもあって、わたしもそうだったでしょうが、
この一言がなかったら、この司令官が誰だかわかる人はいなかったでしょう。
よっぽどこの時代の戦史に詳しい人でもなければ。



いよいよ「鼠輸送」が決行されることになりました。
駆逐艦は昼間敵との接触を避け、北方航路を30ノットで進みます。

駆逐艦には本格的な上陸用舟艇も積めないので、
手漕ぎの小型上陸用舟艇に物資兵員を移して、
駆逐艦の内火艇で曳航する方式が基本でしたが、時としてこの映画のように
ドラム缶に入れた食料や弾薬を縄でつないで海上へ投棄しました。

「これで一体どれくらい味方の手に届くんだろうな」

「いいところ5分の1さ」

水雷戦隊を自認する駆逐艦乗員が、自らの任務を自嘲しつついうと、
たちまち先任が、

「ガダルカナルで飢えて物資を待つ将兵のことがわからんのか!」

と怒声混じりに叱咤し、皆は(´・ω・`)となります。


物資の受け渡しのために陸軍の兵たちが海岸に集結しました。

「作業かかれ〜!」

隊長が怒鳴ると、なんとびっくり、皆海岸で服を脱ぎ出すじゃありませんか。

実際の鼠輸送では、海に流したドラム缶などの物資を、
現地部隊の大発が回収するという方法がとられていましたが、
この映画では大勢が泳いで物資を集めに行くということになっています。



大発でもしばしば回収に失敗することがあったというのに、
人が・・泳いで?



駆逐艦では物資の投下が始まりました。



まるで夜間遠泳大会。
本当にこんな生身で物資を拾いに行っていたんでしょうか。


その時、駆逐艦が連合軍に発見され、空襲が始まりました。

夜間は敵戦闘機の飛行も限られていたので、この映画のように
夜間の作業中敵飛行隊の空襲がどれくらいあったかは疑問ですが、
輸送に向かう日中の往路復路は見つかるたびに空襲を受け、
この結果、聯合艦隊はガダルカナル作戦中の半年で駆逐艦を14隻喪失、
損傷は述べ63隻におよぶ被害を出しています。

またWikiによると、駆逐艦がこれほど損害を受けた理由は、
当時の聯合艦隊の艦隊型駆逐艦が、

「缶室か機械室のどちらかに浸水すると動かなくなる」

という弱点を持っていたことでした。
たまりかねて海軍は鼠輸送専用の輸送艦、

第一号型輸送艦
二等輸送艦(第百一号型輸送艦)

を作ったほどです。
ちなみに第一号型は日本で初めてブロック工法で建造された艦でした。
必要は発明の母?

それから、鼠輸送の最中に、つまり夜間、敵水上部隊がやってきて
夜戦になだれ込んでしまうことが数回ありました。

ルンガ沖夜戦、ビラ・スタンモーア夜戦、クラ湾夜戦などがそれです。
日本の駆逐艦は夜戦が得意だったので、これら艦隊戦には勝ち気味でしたが、
もちろん本来の目標である輸送に支障をきたしたことは否めません。

この映画でも物資どころではなくなり、輸送任務を行っていた
「叢雲」は航行不能、「夏雲」は沈没した、という設定です。

実際の「夏雲」はサボ島沖海戦に「衣笠」と合同で戦闘に当たるため、
「叢雲」は海戦で沈没した「古鷹」の乗員の救出のために出動し、
空襲によって「叢雲」は航行不能、「夏雲」は沈没しています。


司令官室の連合艦隊軍艦名簿に赤で❌をつける渡辺参謀でした。


無言で司令官室に戻り、スローテンポの「佐渡おけさ」を唸る山本。


そんな山本を心配気に眺める従兵の近江三曹。
そんな近江に、山本は、これから二種軍装を着用するから用意してくれ、
とさりげない調子で命令しました。


そのとき、「大和」に陸軍の船が着舷しました。
陸軍の船だから大発?と思いましたが、妙にモダンです。
ラバウルにこんな近代的な船があったのか?



やってきたのは陸軍参謀本部の辻政信でした。
ガダルカナルでの輸送作戦が実を結んでいないこと、
なんとしてもガ島を奪還したいことを語ります。

「後続部隊として第二師団がラバウルに集結しております。
百武司令官は『これ以上海軍に迷惑かけては』と、自ら輸送船に乗り込み、
裸の船団でガダルカナルに乗り上げるとまで申されております!」


これはどの程度史実に忠実かは少し疑問があります。
ガダルカナルの実情を無視して攻撃を強行した本人でありながら
失敗に対する対応策を迅速に行わなかったのもまた辻であり、
ここまでガダルカナルにこだわりながら、具体的な策を出しませんでした。

この誤った作戦指導が多くの人命を失う結果となったという説もあります。

そして本人はというと、現地でマラリアにかかり、
鼠輸送のため到着した「陽炎」に便乗して撤退しています。

「毀誉褒貶が激しく歴史的評価は真っ二つ」

という辻政信ですが、石原莞爾のようなキレ者というわけではなく、
戦後のCIAは、この人物について、

「政治においても情報工作においても性格と経験のなさから無価値」

「機会があるならばためらいもせずに第三次世界大戦を起こすような男」


と断じています。
軍人としての資質がなければ、真の意味での道徳心もないってことですか。



山本は、辻に

「百武司令には、乗るなら駆逐艦に乗って行くように」

と伝言させました。(意味不明)
そして、ゆっくり飯でも食っていきたまえ、などと言います。

これは実際にあったことで、辻が「大和」に山本長官を尋ねた際、
物資統制にもかかわらず山海の珍味が食卓に並んでいたのを見て、

「海軍はゼイタクですね」

と皮肉を言ったそうですし、その少し前、
トラック島泊地で第四艦隊司令長官井上茂美中将の接待で
海軍専用料亭(料亭小松)の宴席で芸者がいたことなども、
同じく不快と違和感を感じていたことを自ら書き遺しています。

料亭小松の「お国を思う覚悟の出張」(空襲による芸者の犠牲も出た)や、
山本長官のせめてもの「心づくし」など知るよしもなかったからですが、
のちにそれらのことを聞かされた辻は、

「下司の心をもって、元帥の真意を忖度しえなかった、恥ずかしさ。
穴があったら入りたい気持ちであった」

と、自分の言動を反省したそうです。
CIAからは酷評でしたが少なくとも自省できる人物ではあったようです。


ついで山本は本作中似ていないで賞大賞の栗田健男(左端)を呼びました。

「ガダルカナルの戦局を打開するために、『金剛』『榛名』で
泊地突入し、艦砲で敵飛行場(ヘンダーソン基地)を叩いて欲しい」

ヘンダーソン基地艦砲射撃

「やらせていただきます」

この映画では草鹿の反対を圧して栗田がこう言っていますが、
実際は、作戦に当初及び腰だった栗田が、山本の

「ならば自分が大和で出て指揮を執る」

という言葉でやむなく?引き受けたという経緯がありました。


そして「金剛」を旗艦とする第三戦隊が出撃しました。



このとき「金剛」「榛名」は合わせて966発の艦砲を発射し、
ヘンダーソン飛行場は半分強の飛行機が被害を受け、
個別の戦果で言うと「日本軍の勝利」となりました。



泊地艦砲攻撃を命じた第三戦隊出撃を見送る山本を、
従兵の近江兵曹は心配気に見つめ、藤井政務参謀(藤木悠)に、
なぜ長官はいつも目立つ白い第二種軍曹をしているのかと尋ねます。

山本は「大和」艦上で、

「あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候」

と言う手紙を故郷に送っていますが、次にその手紙を書くシーンが挟まれ、
白の二種軍装が山本にとっての「死装束」だったことが示唆されます。


続く。





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4 Comments

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ガタルカナル攻防 (お節介船屋)
2024-06-07 11:11:07
海戦としては昭和17年8月8日第1次ソロモン海戦、8月24日第2次ソロモン海戦、10月11~12日サヴォ島沖海戦、10月26日南太平洋海戦、11月12日~14日第3次ソロモン海戦、11月30日ルンガ沖夜戦等がありましたがこの間にも航空部隊を多く投入し、その被害も多くありました。

昭和17年8月7日ガタルカナル、ツラギが米攻略部隊によって奇襲猛攻撃によって占領されました。
米豪遮断作戦を企画し、ガタルカナル島北岸に飛行場適地があるとして7月上旬から2,500名の設営隊と250名の陸戦隊を派遣、基地建設が実施されました。ラバウルから560海里離れており、いくら長大な航続力のある海軍航空部隊でも相互支援可能な航空基地間隔は300海里程度が限度であることは戦訓からも明らかであったのに、海軍省、軍令部、連合艦隊司令部も考慮せず、全くの誤判断でした。戦略的な考えが欠落しており、この後の戦いを全く不利に推移する最大の原因でした。
8月7日ニューギニアのラビ攻撃隊台南空飛行隊長中島正少佐指揮零戦18機、四空分隊長江川廉大尉指揮陸攻18機をガタルカナル攻撃に振り向けました。零戦2機、陸攻4機が失われました。引き続き2空井上文刀大尉指揮九九艦爆9機も片道攻撃、全機失われました。8日台南空零戦15機援護の四空、三沢空陸攻26機がラバウル発、ガタルカナル泊地艦船攻撃、戦果なく陸攻18機を指揮官小谷、藤田、池田大尉ともども失いました。
8日夜三川軍一中将指揮の第8艦隊がガタルカナル北方水域で第1次ソロモン海戦で米重巡4隻撃沈、重巡1隻駆逐艦2隻大破の戦果を挙げながら、「鳥海」艦長早川幹夫大佐からの当初目標の輸送船団攻撃意見具申を三川長官、大西新蔵参謀長、神重徳参謀も無視し、引き揚げました。艦隊決戦の美学や武士道の考えで徹底的な攻撃をしないことは戦争を理解していませんでした。

空母部隊参加の第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦、戦艦「比叡」「霧島」参加戦没の第3次ソロモン海戦が大きな海戦ですがサヴォ島沖海戦を取り上げられていますのでこの海戦ですが
陸軍第2師団728名と野砲、曲射砲等重火器を水上機母艦「千歳」「日進」で輸送、護衛は第九駆逐隊「秋月」「朝雲」「夏雲」「綾波」等でその支援と飛行場攻撃で第6戦隊重巡「青葉」「古鷹」「衣笠」警戒駆逐艦「吹雪」「初雪」「叢雲」で編成され五藤存知少将指揮でした。
この第6戦隊を哨戒機、水上偵察機で発見したのはノーマン・スコット少将指揮重巡「サンフランシスコ「ソルトレークシティ」軽巡2隻、駆逐艦5隻でレーダーでも探知しましたが味方かと見誤っていました。
五藤司令官も見張りが10,000Mで艦影発見報告を味方と思い、「ワレアオバ」を繰り返して発信していました。軽巡「ヘレナ」の砲撃が「青葉」艦橋に命中、司令官等戦死、「青葉」大破、「古鷹」「吹雪」戦没、「衣笠」「初雪」反撃、駆逐艦「ダンカン」撃沈、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻撃破でした。
飛行場砲撃中止、「日進」「千歳」揚陸終了、帰航時、米艦爆の攻撃で駆逐艦「夏雲」沈没、「叢雲」航行不能でした。
この海戦は日本の伝統的戦法の夜戦が米レーダー使用の先制攻撃で敗れた海戦でした。
なお「古鷹」乗員救助を「初雪」が実施しましたが暗夜で困難を極め、518名救助、行方不明225名でした。戦死は五藤司令官等「青葉」で79名、「古鷹」33名、「吹雪」全員戦死220名でした。

またこのガタルカナル戦での4か月でわが航空部隊は空母艦載機も含め、基地航空隊の大部分を失いました。特に艦上爆撃機、陸上攻撃機、水上機はほぼ全滅でした。
その後もニューギニア戦線での海軍航空部隊の消耗が激しい戦いでした。特に「い」号作戦となずけた連合艦隊の航空部隊全部をラバウル方面に集めての攻撃は空母部隊を含めても350機であり、その凋落が著しく、山本五十六長官の戦死へとつながりました。

参照新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」、中公文庫千早正隆著「連合艦隊興亡記」、朝日ソノラマ奥宮正武著「海軍航空隊全史」
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辻政信 (お節介船屋)
2024-06-07 12:08:25
石川県出身、名古屋幼年学校1番、中央幼年学校2番、陸軍士官学校1番、陸軍大学校3番の成績でした。
服部卓四郎と辻政信コンビは関東軍作戦主任と作戦参謀でノモンハン事件を主導して、敗北、責任を問われないで昭和15年10月服部大佐は参謀本部作戦班長に就任、辻を17年3月作戦班に移動させました。服部作戦課長となりますが辻を長く使用しました。
この辻は強硬論を唱え、スタンドプレーをやりたがる性格であり、服部がそれを助長しました。開戦時シンガポールで華僑虐殺事件を起こした後、大本営派遣参謀でガタルカナルで地形を無視した無謀な総攻撃で多くの犠牲者を出しますが川口清健司令官に責任を押し付けて、病気の名目で駆逐艦で逃げていました。参謀でありながら指揮を実施する等問題の人物であり、戦後は連合軍の追及を恐れ、潜伏していましたが参議院議員となりましたが、東南アジアで行方不明となりました。
幕僚が指揮をする軍隊では最も悪いタイプでしたがはっきりしたことは分かりませんが後ろ盾に東條が居たようで首にならず、要職に付けたこの人事は陸軍の汚点です。

>自省できる人物ではあったようです。
全く間違いです。弁舌達者であり、品行が良く、褒める人もいますが、上司の行動や料亭の支払伝票を調べ、弱点を握って、自分の横暴を黙認させたり、司令官の決済を受けず、命令を発したりしており、山下奉文は「我意強く、小才に長じ、いわゆるこすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男なり。」と記しています。戦後も服部ともども文書、資料を改ざんし、戦争や作戦、命令責任を全く感じておらず、その言も信用できませんでした。

参照文春新書「昭和陸海軍の失敗」
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ダメージ・コントロール (お節介船屋)
2024-06-07 16:49:42
>艦隊型駆逐艦が、「缶室か機械室のどちらかに浸水すると動かなくなる」
艦艇の防御と抗堪性能はそれぞれの国が独自の計画方針と設計基準を設けて、その内容は秘や取扱注意となっており、日本海軍駆逐艦は従来缶室と機械室がそれぞれグループで配置されいずれかのグループに被弾すると行動の自由が失われていました。丁型駆逐艦すなわち松型からシフト配置で第1缶室、前部機械室、第2缶室、後部機械室配置として推進軸も右と左を別々とするため推進軸の長さや傾斜が違い、工作上難しいのですが被弾しても推進力が失われ難いメリットがありました。ただこれぐらいの大きさの艦で後部機械室等に被弾すれば前部機械室からの推進軸にも被害があり、推進力や浮力が失われます。丁型は被害にしぶといとは言われましたが。
大型艦は艦内外の重要区画を装甲で覆うことができますが小型艦艇は水密区画の適正な配置、損傷時のダメコン対策用諸装置(消火、注排水、通風、散水、応急機材)の装備の間接防御法での実施となります。
特に艦運用者のダメコン教育、訓練が大きく作用します。
隔壁によって水密区画を細分化し、損傷区画を大きくさせないで、非損傷区画の予備浮力で生存率を高めます。中小艦艇の沈没は水線下の被害で浸水量と予備浮力の差で決まりますので、被害の大きさと位置によってはどのようにしても沈没することもありますので一概にシフト配置が良いとは言えないと思います。
アメリカ海軍は小艦でも最小どの1区画に浸水してもそれに対抗できることとされています。300ftまでの艦は隣接2区画浸水でも対抗できることとされていました。艦種によりますが船長の15%に及ぶ外板破孔の浸水に対抗できることと謳われていました。また米海軍は「ベンソン」級駆逐艦からシフト配置とされていました。
ドイツ巡洋戦艦の強靭性やダメコンが賞賛され、第1次大戦後アメリカ海軍はドイツ、イギリスの戦訓からダメコンの資料作成と教育指導を確立しました。日本海軍も研究し、大型艦の防御については設計に反映されましたが、ダメコンについて用兵者と技術者は別個に研究し、復原性能説明書や注排水要領図等は作成されていますがアメリカのような総合的な検討で分かりやすいダメコンブック作成教育とはなっていなかったようです。
直接防御、間接防御、ダメコン教育習熟で大きく左右されますが軍艦にとって武器等配置や艦内配置、区画等で被害局限での生存率が決まってきます。大型艦といえども火災の拡大や火薬庫、ガソリン等可燃物への被害で最悪となることは、1982年英ミサイル駆逐艦「シェフィールド」、2020年米強襲揚陸艦「ボノム・リシャール」火災大損傷廃艦にも見ることができます。

なおブロック建造法や先行艤装は「大和」建造時から採用されていましたが海防艦と輸送艦の量産の急造法としてフルサイズの木造模型を陸上に作り、徹底したブロック工法で急造されました。また工事簡易化も実施され直線構造やプレス工程省略、艤装品の代用品使用等徹底されました。溶接制限の撤廃は遅れていましたがそのようなことは許されないほど沈没が多くなっていきました。
参照海人社岡田幸和著「艦艇工学入門」、光人社「写真日本の軍艦駆逐艦Ⅱ」、福井静夫著「日本駆逐艦物語」「日本軍艦建造史」
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参謀 (Unknown)
2024-06-09 05:42:38
有名な辻政信ですが、参謀なのに、のこのこ南方まで出張って行って、海軍に意見したというのが、今の感覚から見ると不思議で、陸軍はどういう組織だったのか、よくわかりません。

参謀はあくまでも指揮官のスタッフであり、命ぜられたことをやるだけで、自己の意思を持たない。持ってはならない。指揮官に「靴を舐めろ」と命ぜられたら、舐めるのが参謀(今の表現だと「幕僚」)だというのが、今の教育です。

自衛隊には、いろいろな問題がありますが、参謀(幕僚)の在り方で問題を起こしたことはないので、この教育は陸海空三自衛隊で徹底されていると思います。

栗田健男は、レイテ海戦での「謎の反転」が象徴するように、とかく逃げることが多く、消極的だという印象が強いですが、察知出来る危険は事前に回避するというのが船乗りの重要なスキルなので、軍人として危険に立ち向かうというより、船乗りの本能が強かったのでしょう。キャリアのほとんどが海上勤務だったと思います。

その点、山本五十六は、船がどうなろうとも、目的達成を至上に考える軍人気質が強かったのでしょう。でないと、なけなしの空母をすべて投入するような作戦は考えられません。駐在武官や海軍省、航空本部の勤務が多く、船方気質ではなかったと思います。
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