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映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」 ブーゲンビル

2024-06-10 | 映画

始まった時には考えてもいなかったのですが、
この映画が放映時間2時間10分という超大作であったこともあり、
気がつけば場面ごとに4日に分けて紹介することになってしまいました。

山本五十六を描いた映画は、当然のことながらその最後は
ブーゲンビルで米機に撃墜された「海軍甲事件」で幕を閉じており、
本作も山本の乗った一式陸攻がブーゲンビルのジャングルに墜落し、
それを護衛隊が見送る、というシーンがラストになっています。

■南太平洋海戦


ヘンダーソン基地への艦砲射撃が成功したのを受けて、
アメリカ艦隊(青)は全艦隊をもって北上し、連合艦隊(赤)もまた
「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」を旗艦とする全機動部隊でこれと対峙しました。
(赤線青線はお節介ながらこちらで書き入れておきました)

昭和17年10月26日の南太平洋海戦です。


こ、この二人は・・・!
ミッドウェーの後しょんぼりしていた南雲&草鹿コンビではないですか。

このとき第三艦隊を指揮したのは他でもない、南雲中将でした。
この二人が「汚名返上のチャンスを」と願い出て、
山本が「温情人事」によって二人を留めたゆえの配置でしたが・・。


日本軍の攻撃によって炎上する「エンタープライズ」。

このとき日本側は損傷を受けたものの、空母「ホーネット」、
駆逐艦「ポーター」を沈没、「エンタープライズ」、重巡1隻を中破させ、
日本側は確かに「海戦では勝った」ことになりました。
南雲&草鹿の「汚名」も、返上されたといってもいいのかもしれません。

しかし・・・。


「未帰還機が多いようです」



その一例。
帰投中、機体と身体に傷を受け、持ち堪えられなくなって
海に落ちていく三上中尉(こんなちょい役に田村亮)。


最後まで声を枯らして励ましていた木村中尉は、
三上中尉の最後を敬礼で見送ります。

数字の上では日本軍の勝ちでしたが、多くのベテラン搭乗員と飛行機を失い、
そもそもこの目的であるガダルカナルの陸軍の支援には
兵力不足で結び付かなかったというのが真実のところでした。

つまりは「試合に勝って勝負に負けた」的な・・・?


もちろん兵站がそれで持ち直す事態にはならず、
ガダルカナルの陸軍は、弾薬はもちろん、食料もすでに底をつき、
「飢島」と呼ばれるにふさわしい地獄の様相を呈していきます。

■ガダルカナル撤退


この窮状を打開するために編成された第八方面軍の司令官は今村均大将。

オランダ領東インド(インドネシア)が降伏したあとは、
大本営に非難されながら寛容な軍政を敷いた人物でもあります。



旗艦の舷門で今村を迎える山本長官。

この「武蔵」という設定の船ですが、絶対海自の護衛艦だと思うんだな。
なんならサイドパイプ吹いてる人も自衛官かもしれん。
エキストラ程度ではこんなちゃんとした音は出ないはずだから。


せっかくロケで自衛艦をお借りしたからといって、
いくらなんでもこんなところでテーブル囲まなくても・・・。

この後ろの感じで、1968年当時のどの自衛艦かわかってしまう方、
もしかしたらおられませんかね?

映画では特に描かれていませんが、この二人は佐官時代から親交があり、
今村着任時の夕食会で、山本は

「大本営がラバウルの陸海共同作戦を担当する司令官が君だと聞いた時は、
誰だか同じ様なものの何だか安心なような気がした。
遠慮や気兼ね無しに話し合えるからな」


と陸海軍の側近らの前で今村に話しています。
のちに山本が戦死した際、今村はこの報に涙して悼みました。


二人が艦上で話し合ったのはガダルカナルの現状についてでした。

今村は赴任前に宮中に参内し、天皇陛下より、
ガダルカナルの将兵を万難を排しても救え、というお言葉を賜った、
と山本に告げ、山本もこれを恐懼して聞きます。


こちらは、切羽詰まったガダルカナルの参謀たちに、
総攻撃をかける機会は今でしょ!と詰められている百武司令。

「飢えで死ぬくらいならば玉砕の方がなんぼかマシです!」

ごもっとも。

しかし今の兵力では成功の見込みはまずない・・と司令は躊躇し、
困り果てて、ラバウルからの指示を仰ぐことにしました。


しかし、ラバウルの今村もこれ以上の戦力をガ島に投入することには及び腰。


業を煮やした山本は渡辺参謀を介してガ島撤退の可能性を探りますが、
陸軍側はそのメッセージを今村に伝えることすら拒否するのでした。

「武士の情けだ。
私としてはお取次ぎしかねるし、このままお引き取り願いたい」


つまり陸軍の立場からは撤退を言い出すことはできないと。
なんだろうこれ。プライドが許さない的な?

これを聞いた山本は、自分が「悪者」になって撤退を上に進言する、
そしてこれから海軍は撤退のため全力を尽くすことを決意しました。


そして海軍艦船により暗夜を利用した撤退作戦、「ケ号作戦」が始まります。
(画面はどう見ても真昼間ですが、それはこの際置いておいて)

山本は、

「動ける駆逐艦全てを投入、半数を失うかもしれぬ」

という覚悟でこの作戦に臨み、結果として駆逐艦「巻雲」を喪失、
軍艦数隻が損傷しましたが、将兵1万6000名余の撤退に成功しました。

2月7日のことでした。

■い号作戦



生前の山本五十六を撮った最後の写真として有名ですが、
これは昭和18年4月7日〜5日、南東方面艦隊と第三艦隊の艦載機により、
ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、
オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行った「い号作戦」終了時のものです。


映画は実際に残る写真に忠実な構図が取られています。
山本長官の白い第二種軍装が遠目に目立っていたのも史実通り。

このとき山本は「武蔵」を降り、ラバウルにきて自ら指揮を執りました。
艦を降りることは山本の本意ではなかったとされますが、
(『ニミッツのように艦上から指揮を執りたい』と言ったらしい)
これを説得したのは参謀長だった宇垣纏でした。

またしても歴史に「もし」はないとはいえ、このとき宇垣が反対せず、
山本がラバウルに来なかったら、海軍甲事件はあったでしょうか。

作戦は、参加航空機第11航空艦隊196機、第三艦隊184機の合計380機で、
各地の米軍港にある艦艇を攻撃するというのが目標でした。



出撃する飛行隊を見送る山本長官と幕僚たち。



艦爆隊長は、いつのまにか大尉になっていた木村でした。

ところで、映画でこの後艦爆の後席に乗り込む木村大尉は、
狭いコクピットになんと長刀を持ち込んでおります。
海軍って飛行機に長い刀は持って乗らないと思ってたけど違うのかな。

もちろん高官は事情が違い、山本長官は、撃墜された一式陸攻で
長刀を持ったままの姿で発見されているわけですが・・。



幕僚と共に帽振れをする山本。



この撮影時、渡辺元参謀ら、実際に山本五十六を知る人々が
映画の現場を見ており、おそらくは助言もしていたのですが、
全ての人々が、三船敏郎の演じる山本は
細かい所作の隅々まで本人そっくりだったと証言しています。





戦果は、駆逐艦1隻撃沈、貨物船1隻撃沈、2隻撃破、
油槽船1隻撃沈、コルベット艦1隻撃沈、掃海艇1隻撃破、
航空機は25機を損失せしめるというものでした。

しかし、我が方は零戦25機、艦爆21機、陸攻15機を失い、
戦果の割には損害が大きく、消耗度の高い作戦となりました。



幕僚を集めた山本は「い号作戦」の終了を宣言し、
それに伴い母艦飛行機隊を内地に帰す命令を下しました。



ほとんどが戦友の遺骨を抱いての帰還です。



山本五十六の敬礼は実に美しかったという証言があります。

駐米大使斉藤博が任務中客死した際、横浜まで「アストリア」が遺骨を運び、
それを遺族の立場で埠頭に迎えた犬養首相の孫犬養道子さんが、父上に、
斉藤未亡人に対するレディスファーストの身についた振る舞いを見て、

「誰?あのスマートな軍人」

と思わず尋ねると、父上の犬養健氏は、

「五十六。山本五十六」

と答えたという話が犬養道子氏の著書に遺されています。

後世の人々が語るその姿から、山本五十六という人物は
所作立ち居振る舞いを含め、写真には写らない魅力があったと考えられます。

その魅力は女性のみならず男性をも捉えるような類のものでした。
常に着るものには徹底的にこだわったという話もあります。


「長官・・・ご無事で!」

兵学校の入学から縁があった木村大尉も内地に帰ります。



翌日、山本は前線の部隊を激励するために前線に飛ぶことを計画していました。
行き先はブーゲンビル、ショートランド。

飛行部隊の帰国を見送った後、この映画では山本は
将兵の見舞いに病院を訪問したことになっています。



怪我しているというのに長官が見にくるからと、
ベッドの上で正座をさせられている怪我人、病人を見回り、
声をかけていた山本は、一人の負傷兵から声をかけられました。

彼はかつて加治川で山本を乗せた船の船頭の息子でした。

駆逐艦「長波」に乗っていてルンガ沖夜戦で負傷したという彼を、
山本は励まし、父親によろしくと告げます。


山本を慕う従兵の近江三曹は、「後百日のうちに」という書を見つけ、
山本が死を覚悟していることを確信し、ラバウルまでやってきます。

そして、第三種軍服を持って山本の前に現れ、
前線ではこれを着てください、と懇願しました。

ところで、山本五十六乗機が撃墜されたとき、なぜ白の第二種ではなく、
カーキ色の第三種を着ていたかについては、その直接の理由について
特に記述が見つからなかったのですが、おそらく、近江兵曹のように
目立つ白では敵の標的になりやすいので、という理由で
嫌がる?山本にカーキを着せた「誰か」がいたということでしょう。

ただ、もし白を死の覚悟の表明として選んでいたのなら、人生最後の瞬間、
初めての、しかもあまり好きではない第三種軍服を着ていたことは
装いにこだわりのあった山本にとって心残りだったかもしれません。


翌日長官機の護衛につく零戦隊、森崎中尉以下6名が挨拶に来ました。



居並ぶ中に、山本は見覚えのある顔を見つけました。
岩国航空隊で、飛行時間220時間!と大声で叫んだ元気な航空兵曹本田です。

今や飛行時間を630時間に増やした本田三飛曹ですが、
仲間はどうした、と聞かれて口ごもりました。


本田に変わって零戦隊の森崎隊長が、配属された彼の同期は22名で
生き残ったのはわずか7名であると告げます。


翌日、二機の陸攻に分乗した長官一行は、ラバウルを飛び立ちました。
後ろに乗っているのは参謀飾緒を付けているので、
航空参謀であった樋端久利雄中佐か、副官の福崎昇中佐のどちらかです。

樋端大佐(死後)は伝説の俊英で「海軍の至宝」とまで謳われた逸材でした。



しかしこの飛行はあらかじめ暗号解読により米軍の知るところとなり、
日本軍が時間に正確なことを利用し待ち伏せされていました。



現れた16機のP-38ライトニングと交戦になる零戦隊。
護衛6機に対し16機、これはもう勝てそうな気がしません。



結果として、陸攻は2機とも撃墜され、護衛の零戦隊は被害なし、
アメリカ側のP-38が1機撃墜されています。



このとき長官機は避難のために緊急着陸を試みたと言われます。
長官機に乗っていたのは山本と二人の中佐、そして高田軍医少将、
機長と副機長、偵察員、電信員2名、攻撃員、
そして整備員計11名で、この全員が戦死しました。

2番機も墜落しましたが、宇垣参謀長はじめ3名が救出されています。



映画では、その後1番機は被弾し、副操縦士と、
山本の後ろの中佐はすでに銃弾を受けて死亡しているように描かれており、
山本の右肩には銃創が見えます。


ここでは、山本の遺体に背部盲管銃創があったとする報告通り、
機上ですでに戦死していたと描かれていますが、実際は、
墜落後発見された遺体の状況から、墜落しばらくは生きていたものの、
全身打撲か内臓破裂により翌日早朝ごろ死亡した可能性が疑われています。

なぜこのような齟齬が生まれたか、なぜ正確な検証がされなかったか。

それは、山本がなまじ神格化された存在だったため、
墜落してしばらく生きていたというより、機上で射撃されて即死した方が
連合艦隊司令長官山本五十六に相応しい、と周りが忖度して
その最後の姿を修正しようとしたからではないかと思われます。

それを疑う理由は、実際に発見された遺体の腐敗具合から、
山本がしばらく生きていたことが当時から推測されているのにもかかわらず、
軍医が墜落現場における検死の際、軍服を脱がそうとしたところ、
渡辺参謀が強い口調でそれを制止し、それをさせなかったことがあります。

長官を敬愛する彼らにとっては、正確な死因を追求し記録に残すよりも、
神・山本の物語を完璧に紡ぐことが優先されるべきだったのでしょう。


日本側で山本の死因がはっきりしていなかったように、
アメリカ側でも正確な撃墜状況は長らくわからなかったそうで、現在は
撃墜した「候補者」二人の共同ということに落ち着いているそうです。

映像もないので真実は永遠に謎のままです。


しかし、発見されたとき山本は座席に座り、
軍刀に手をかけていたことだけは確かです。



零戦が見守る中、ジャングルに墜落し黒煙を上げる長官機。


滂沱の涙を流しながら敬礼する零戦隊の六人でした。

「昭和18年4月18日、長官山本はブーゲンビル島の上空において戦死した。
真珠湾攻撃より1年4ヶ月、日米開戦に極力反対した山本五十六は、
志と違い、皮肉にも彼自身戦争遂行の重大責任を担い、
自らの死によってその節をまっとうしたのである。」

ナレーターはこれも聞いてびっくりの大物仲代達也でお送りしました。



終わり。


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5 Comments

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人たらし (Unknown)
2024-06-10 07:55:10
>この「武蔵」という設定の船ですが、絶対海自の護衛艦だと思うんだな。

うしろの内火艇をぶら下げているダビットが、腕の部分が可動式の重力ダビットなので、自衛隊の船に見えます。海軍の時代はほとんど固定式のラジアルダビットでした。

>この後ろの感じで、1968年当時のどの自衛艦かわかってしまう方、もしかしたらおられませんかね?

今村均の横にあるのはアスロックランチャーなので、間違いなく現代の艦船です。アスロックがあるのは「あまつかぜ」「やまぐも」型「たかつき」型「たちかぜ」型「ちくご」型「はつゆき」型「あさぎり」型「はたかぜ」型及び「あぶくま」型と多数ありますが、山本五十六の座っているうしろの構造物に登るラッタル、アスロック装てん用のラマーレールと弾庫(扉)から「やまぐも」型ではないかと思われます。

>このとき山本は「武蔵」を降り、ラバウルにきて自ら指揮を執りました。艦を降りることは山本の本意ではなかったとされますが(『ニミッツのように艦上から指揮を執りたい』と言ったらしい)これを説得したのは参謀長だった宇垣纏でした。

連合艦隊司令部のような大きな組織の場合、参謀と下士官を含めるとかなりな人数になり、元々、司令部を想定していない航空隊に移動ということになると、宿舎や食事の手配等、受入側は大変です。現場の部隊に比べると、相当量の通信を捌くことになりますが、現場の部隊が処理を兼務するので、それもかなりな負担になります。戦艦は、元々、司令部を想定して作ってあるので、施設も乗員数も、受入可能になっています。

>後世の人々が語るその姿から、山本五十六という人物は所作立ち居振る舞いを含め、写真には写らない魅力があったと考えられます。

山本五十六という方は、人間的な魅力が群を抜いてあったというか、平たく言ってしまうと「人たらし」だったんじゃないかと思います。それまで海軍という大きな組織全体が「米海軍を待ち受けて、艦隊決戦で一挙に葬る」という戦略で動いて来たのに、短期間でこれを引っくり返せたのは、驚くべき手腕です。理屈だけでは無理で「人たらし」の才能がないと出来ないと思います。

とは言え、アメリカの領土を直接攻撃したことが、アメリカを怒らせ、ひいては戦争で散々な目に遭ったので、もっと違ったやり方があったんじゃないかというのは、ずっと頭の中にあります。山本五十六がいなければ、日本の運命も変わっていたんじゃないかと。それだけの人だからこそ、映画になったり、小説になるんだと思います。
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南太平洋海戦 (お節介船屋)
2024-06-10 11:37:42
ガタルカナルに上陸した第2師団の総攻撃に呼応して攻勢作戦とすべく前進部隊第2艦隊司令長官近藤信竹中将指揮旗艦重巡「愛宕」「高雄」「妙高」「摩耶」、戦艦「金剛」「榛名」、空母「隼鷹」、護衛部隊軽巡「五十鈴」駆逐艦9隻、油槽船4隻、機動部隊第3艦隊司令長官南雲忠一中将旗艦空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」重巡「熊野」、駆逐艦8隻、前衛部隊戦艦「比叡」「霧島」重巡「利根」「筑摩」「鈴谷」軽巡「長良」駆逐艦5隻、油槽6隻の編制でした。

サボ島沖海戦で第6戦隊のガタルカナル砲撃が失敗した後も10月13日戦艦「金剛」「榛名」が40分920発砲撃、15日第5戦隊「妙高」「那智」「足柄」「羽黒」「摩耶」が20㎝砲弾で砲撃を実施、80機近い米航空機に損傷を与えました。

10月22日陸軍第2師団総攻撃の予定が進まず、23日、24日と順延されました。24,25日と攻撃しましたが敵陣を抜くことが出来ず、被害が甚大となり、失敗しました。

陸軍攻撃に呼応して軽巡「由良」駆逐艦4隻をガタルカナルに突入させましたが敵機攻撃で「由良」沈没、駆逐艦損傷でした。

前進部隊、機動部隊が南下していましたが25日夜米夜間接触機が接触していることにきずいていませんでした。この接触機が爆弾投下でようやく分かり、反転、26日早朝索敵機が敵発見、関少佐指揮零戦27機、艦爆22機、艦攻(雷撃)18機が発艦、米索敵機が空母「瑞鳳」攻撃、1弾飛行甲板後部命中「瑞鳳」避退。村田重治少佐指揮第2次攻撃隊、零戦16機、艦爆20機、艦攻(雷撃)12機発艦、第1次攻撃隊途中で米攻撃隊と接触、一部撃墜、第1次攻撃隊米空母「ホーネット」爆弾5発、魚雷2本命中、行動停止となりました。
米攻撃隊は前衛部隊攻撃「筑摩」爆弾3発被弾、敵第2次攻撃隊は「翔鶴」攻撃、爆弾4発被弾、約4時間余りで火災鎮圧、北方に避退しました。
村田少佐の第2次攻撃隊は「エンタープライズ」に爆弾3発命中
第1次、2次攻撃隊とも被害大きく両指揮官、艦爆隊指揮官阪本明大大尉ともども37機が帰らず、帰投できた40機もほとんど被弾していました。
 
前進部隊の角田少将指揮の第2航空戦隊から零戦12機、艦爆17機が「エンタープライズ」攻撃、命中なし。

第3次攻撃隊零戦10機、艦爆2機、艦攻13機、第2航空戦隊第2次攻撃隊零戦6機、艦爆4機が攻撃、「ホーネット」魚雷1本、爆弾2発命中、大傾斜したが沈没に至らず。
前進部隊がこの戦場に到着、「巻雲」「秋雲」魚雷攻撃、撃沈したが米艦隊は避退したので夜戦はありませんでした。
ただ戦果を誤り、「ホーネット」、駆逐艦1隻撃沈、「エンタープライズ」撃破であったのに、大本営発表は空母4隻、戦艦1隻、艦型不詳1隻撃沈と発表してしまっています。

被害は「翔鶴」「瑞鳳」被弾損傷、艦載機69機被弾墜落、23機不時着、関、村田少佐、阪本大尉等搭乗員4割が戦死しました。
参照新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」、PUP文庫奥宮正武著「真実の太平洋戦争」、中公文庫千早正隆著「連合艦隊興亡記」

なおガタルカナル戦での航空機被害は約900機、搭乗員の戦死は陸攻等は5~7名の搭乗員であり2,400名となっており、もはや海軍航空部隊の再建は望み薄ですがこの後もニューギニア戦線が陸軍主体である戦いであるにもかかわらず、東条首相が豪語した陸軍航空部隊は1度出動しましたが一式陸攻が誘導したのも関わらずバラバラとなり、なんら戦闘に寄与せず、その後も全く出動もしていません。

>この後ろの感じで、1968年当時のどの自衛艦かわかってしまう方、
もしかしたらおられませんかね?
この映画見ていませんのでエリス中尉が添付された写真2枚で判断します。
1968年後ろのアスロック発射機の搭載護衛艦は「あまつかぜ」「たかつき」「きくづき」「やまぐも」「まきぐも」「あさぐも」の6隻しかありません。
「たかつき」「きくづき」は艦橋前であり背景に写っている構造物が違いますし、「やまぐも」「まきぐも」「あさぐも」はアスロック発射機の前が第1煙突がそのままありますので違います。
淘汰したところ「あまつかぜ」が就役後、昭和42年改造でアスロック・ランチャーを中央部に装備しており、その前部の構造物に管制室の窓が見え、右から左上部へラッタルが見えていますので「あまつかぜ」と判断しました。
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ガダルカナル撤退 (お節介船屋)
2024-06-10 14:37:13
大本営は「イサベル島沖海戦」と名付けました。
昭和18年2月1日第1次撤収、第38師団、第17軍直轄一部部隊、海軍部隊、戦傷者
    2月4日第2次撤収、第2師団、第17軍直轄部隊
    2月7日第3次撤収 残余部隊
駆逐艦1隻で約500名、12隻で約6,000名収容予定で泊地上空警戒で零戦等で米機来襲を撃退、サボ島近傍の米艦隊を艦爆隊攻撃、バヌング島付近で旗艦「巻波」攻撃され航行不能となるが、エスペランス撤収隊駆逐艦8隻、カミンボ撤収隊駆逐艦4隻、警戒隊駆逐艦7隻が1日夕刻突入、カミンボ隊第38師団大部分を2時間で収容、エスペランス隊米魚雷艇2隻と接触1隻撃沈、「巻雲」触機雷損傷沈没、軍直轄隊、海軍将兵、戦傷者3時間で収容、脱出、早朝米機20数機来襲、回避運動被害なし、ブーゲンビル島エレベンタ着、揚陸陸軍5,164名、海軍250名。
2月4日輸送隊1隻損傷1隻沈没のため警戒隊から2隻輸送隊とし、警戒隊増強し、ショートランド出撃、米機64機攻撃されたが上空警戒零戦17機が応戦10機撃墜したが「舞風」至近弾航行不能となる。エスペランス撤収隊駆逐艦7隻、カミンボ撤収隊駆逐艦4隻、警戒隊駆逐艦9隻が4日夜突入、エスペランスで「磯風」に17軍百武司令官等収容、第2師団2時間余りで収容、5日昼エレベンタ着陸軍5,458名、海軍519名揚陸。
2月7日撤退を見破られ危険な作戦となるとして第1隊8隻、第2隊10隻で編成、第1隊エスペランスとラッセル島南方海域警戒とカミンボ守備隊撤収、第2隊はラッセル島に支援上陸した部隊撤収と北方警戒で出撃、途中米艦爆攻撃、「磯風」砲塔前部と艦尾損傷舵故障、カミンボ陸軍2,224名、海軍25名収容、レッセル島で陸軍352名、海軍38名収容、8日朝エレベンタ着、7日間の撤退作戦終了。

なおネズミ輸送作戦中昭和17年11月30日に起こったルンガ沖夜戦は第2水雷戦隊司令官田中頼三少将指揮の警戒駆逐艦3隻、ドラム缶輸送駆逐艦5隻がガ島泊地に突入、警戒艦「高波」が敵(重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻)発見、米艦隊はレーダーで掴んで、魚雷発射していましたが、旗艦「長波」田中司令官から「投入やめ、戦闘用意」「全軍突撃せよ」「魚雷戦用意」、「高波」魚雷敵艦命中、「高波」集中攻撃を受ける。輸送部隊は魚雷攻撃の邪魔になるドラム缶投棄、魚雷攻撃、米ライト少将旗艦重巡「ミネアポリス」艦首切断、「ノーザンプトン」沈没、「ニューオルリンズ」「ペンサコーラ」大破。
ドラム缶輸送失敗で、「高波」沈没でしたが米重巡1隻撃沈、3隻大破の戦果でした。なおドラム缶輸送のため予備魚雷は下しての作戦で第2次攻撃は出来ませんでした。
12月3日再度出撃でドラム缶1,500個をガタルカナルへ輸送されました。ロープで繋がれたドラム缶は大発で引っ張り、陸上からこのロープを手繰り寄せる揚陸となっていました。
ガタルカナル補給の東京急行は45回、潜水艦は25回のも及びました。引き返したことが6回以上ありますがこれを含まず。
田中司令官はガタルカナル補給指揮7回、橋本信太郎少将は実に17回も実施していました。撤収の3回も橋本司令官が警戒隊の指揮を実施しました。
海軍機の損失を前コメントしましたが900機は開戦時の41%の被害でしたがそれ以上に2,362名の戦死搭乗員は熟練者が多く空戦のみでなく、劣悪な衛生状況で天狗熱、マラリア等で戦病死も多く、長大な往復で疲労困憊での墜落等もあり、全くこの後の航空戦が作戦として成り立たなくなってしまいました。
空母2隻、戦艦2隻、重巡3隻、軽巡2隻、駆逐艦13隻、潜水艦9隻、輸送船多数が戦没し、それ以上の艦船の損傷がありました。
ベテラン搭乗員、優秀な指揮官が戦死で航空攻撃の戦果も過大になって、その後の戦況判断にも大きな錯誤を生じています。
参照新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」、中公文庫千早正隆著「連合艦隊興亡史」
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山本五十六 (お節介船屋)
2024-06-11 09:58:50
多くの本が出ていますので列挙してみます。
有名なのは新潮社阿川弘之著「山本五十六」でしょう。
光人社戸川幸夫著「人間提督山本五十六」、光和堂反町栄一著「人間山本五十 六」、光文社山本善正著「父山本五十六」、徳間書店生出寿著「凡将山本五十六」、文春文庫吉田俊雄著「四人の連合艦隊司令長官」光人社「良い指揮官良くない指揮官」、朝日ソノラマ奥宮正武著「太平洋戦争と十人の提督」、文春文庫半藤一利著「指揮官と参謀」等神的なものから平凡な人物まで多くの人によって語られています。
全部を読んだわけではありませんが昭和の時代ものを多く著書されている半藤一利氏が「山本五十六の最大の欠点は、人間に対する不信ないしは偏愛にあったと思われる」と記しています。軍令部と連合艦隊司令部の反目するぎくしゃくとした作戦指導は山本の性格からも起因した人の和がうまくいってなかった面がありました。
航空部隊への先見の明は秀でていましたが海戦劈頭その実力を真に理解したのは米海軍であり、消耗戦となる戦いを山本自身も理解不足であり、指揮官としてその素養が問われたのではと思います。米内光政大将は「茶目ですな」と言った酒は飲まず、博打や曲芸も上手い、変わった面白い性格が作戦や用兵にも出て、色々な批判や評価となっていました。
いずれのしても実戦部隊の長として悪くも良くも太平洋戦争の初めの作戦から方向まで決定ずけた人物でした。
返信する
イソロク (ウェップス)
2024-06-12 09:01:12
昭和特撮には厳しい中尉の評価ですが、実はこの作品私がホームビデオを買ってもらって(TV放映を)録画した最初の特撮作品なんです。好きなシーンを繰り返したり静止させたりできるのにエキサイトしたものです。それまでは、これらのシーンは目の前を過ぎるだけの物でしたので、今のデジタル高画質CG映像と比べるのは酷でしょう。水の特撮は特に難しく、この映画でもヨークタウンのミニチュアは全長13mあり「太平洋の嵐」の赤城の上部を作り替えた物です。この上に三船敏郎と円谷英二が乗って談笑している宣伝スチールがあります。
最近Xに「#誰が本物を連れてこいと言った」というハッシュタグで原作とイメージが合致しているキャラを挙げるのが見受けられます。その点からは、三船五十六が本物以上に本物らしいとしてイメージが定着してしまっているのでしょう。「ミッドウィ」でも制作者の第一声が「ヤマモトはミフネに」だったのにも伺えます。
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