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パパの戦地土産 Dad's War Souvenir〜戦死と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-23 | 歴史

ピッツバーグのソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム、
第二次世界大戦の「パシフィック・シアター」展示です。

前回、特攻機が4機、同時に突入したという情報について書いたところの
駆逐艦「コールドウェル」の模型の周りに展示されている
寄贈品、遺品を見ていきます。

 

■ 妻子の写真をしのばせた軍帽

士官用の軍帽はパールハーバーの「T.H」=テリトリーオブハワイ、
海軍駐留地内にある売店で購入されたものです。

当時はマジックインキというような名前を書くものがないので、
内側のポケットの中に持ち主がわかる紙を入れて置くポケットがありました。
この士官は、そこに妻と1歳くらいの子供の写真を入れていたようです。

右側にある黒くペイントされた航空機模型は、
機種を見分ける訓練のために作られたもので、
あえて色をつけずにシルエットで判断できるようにしています。

■60年後に発見されたドーリトル隊の航空機破片

「TOKYO RAIDERS」

というと、ドーリットル空襲に参加したということなんでしょうか。
「Wiskey Pete」というのを検索すると、ネバダのカジノしかでてこないんですが、
「Doolottle」を付け加えると、やはりドーリットル隊の3番機であることがわかりました。

この9月に公開された中国資本による映画「ミッドウェイ」で、
ドーリットル空襲のあと中国に逃れ、現地の中国人に助けられたシーンは、
この3番機「ウィスキーピート」の乗員のエピソードを下にしています。

グレイ機長

3機目の機長ロバート・M・グレイ中尉は、雨の夜で海岸線を把握できず
着陸は不可能として乗組員に午後10時頃ベイルアウトするよう命じました。

機長はその後燃料がなくなったので浙江省の水昌郡近くの丘の中腹に着陸。

AEジョーンズ

ジョーンズは、地元の農民によって発見され、翌朝衢州に案内されます。

マンチ

副操縦士のジェイコブ・E・マンチ中尉も丘の中腹に着陸し、
暗闇の中パラシュートにくるまって眠り、翌朝、村に降りました。

オズク

ナビゲーター兼銃撃手のチャールズ・J・オズク中尉は、パラシュートを木にひっかけ、

20歳のエンジニア兼銃撃手レオナルド・ファクター は、崖から落ち死亡しました。

この記念の盾みたいなのが何かというと、どうやら
右上に貼り付けられた金属片がドーリットル空襲から60年近く経って、
(つまり2002年ごろ?)「ウィスキーピート」不時着地から見つかったとか
そういうことなのかと思われます。

そして当時の5人のクルーに対し贈呈されたようですが、
このうち2000年ごろまだ生きていたのはオズク大尉(最終)だけでした。

■「レキシントン」爆撃機銃撃手の遺品

「レキシントン」乗組の航空隊銃撃手だったフランク・ケイカ(Caka)二等兵曹の
着用していたセーラー服が展示されています。
彼の所属した第19航空群第50部隊は、8隻の敵艦を撃沈し、14機の航空機を撃墜しました。

しかし、1944年10月25日、敵艦隊爆撃にルソンから出撃した彼の飛行機は、
空母に再び着艦することはありませんでした。

この同じ日、我が海軍の関行男大佐が初めて組織され、
命令された特攻を行っているわけですが、両者の戦闘行動とその結果に
なんらかの接点ないしは因果関係があったかどうかはわかりません。

ケイカ二等兵曹の戦死後、遺品が家族のもとに戻されました。
母親と一緒に写した写真、そしてところどころイラストが書き込まれた
携帯手帳です。

手帳の左側には彼が覚書として記した「戦果」が記されています。
右下の星四つは「ジャップフリート」として、

「星はUSS『バターン』の時に獲得した」

と説明があります。
そして、

USS「バターン」

USS「パナイ」

USS「スチーマー・ベイ」

USS「レキシントン」

と彼なりに「出世」してきたと思しき経歴が書き込まれています。

「スチーマー・ベイ」というのは聞いたことがない名前だなと思ったのですが、
「カサブランカ」型護衛空母であり、硫黄島、沖縄戦、そして
マジックカーペット作戦にも参加していたことがわかりました。

彼が「レキシントン」に転勤してきたのは9月10日のことであり、
この手帳のページに新たな名前を加えて書き込んでから1ヶ月ほどで
彼は戦死したということになります。

■陸軍技術士官の制服

そしてこちらは陸軍の軍服と鉄帽ですね。

ジョセフ・デライドティが1942年に632D戦車大隊に加わったのは
彼が23歳になったときでした。

ニューギニアにおいては第32歩兵師団「レッドアロー」とともに
最初に日本軍と交戦し、654日間の戦闘ののちこれを壊滅させました。



まず、左肩の階級章の下に『T』の文字があることから、
彼が技術士官であったことがわかります。
また、ユニフォームの左袖には3年半の勤務に対し
7本の「サービスストライプ」(勤務章)が付いています。

また、左胸の「リボンバー」には五つのキャンペーンスターが見られます。

■戦時ポスター

リメンバーパールハーバーの別バージョン、
「アベンジ・ディッセンバー・セブン」ポスター。

「さあ今ご一緒に」

というのは硫黄島の海兵隊旗立てシーンです。
1945年2月23日、海兵隊のマイケル・ストランクは、
6人の一人となって摺鉢山に星条旗を立てました。

ストランクは少年時代にチェコスロバキアからやってきた移民で、
父親はペンシルバニアのジョンズタウンにあった炭鉱で働いていました。

AP通信の写真家ローゼンタールの撮ったこの写真で、
ストランクは左から3番目にいて、ほとんど人の影になって見えません。

しかし、この象徴的な写真は20世紀における最も有名な
歴史の一シーンとなったのです。

ちなみにストランク軍曹はこのわずか1週間後、
味方の砲撃によって命を落としました。

■硫黄島からの勲章

マーティン・マイヤーズ海兵隊伍長は太平洋戦線において2度負傷しました。
この電報は、サイパン島からマイヤーズの両親に、彼が狙撃手に撃たれて負傷した、
ということを伝えています。
パープルハート勲章は2度目の硫黄島における負傷によって授与されたものです。

 

■アメリカ兵の『戦地からの記念品』

さて、それでは次に、摺鉢山の写真の後ろにある日本刀に注目してください。

ここには「戦地から故郷への贈り物」としてこう書かれています。

「トロフィーという言葉の歴史的な原点は、もともと
自分が倒した敵から何かを奪い取ること、というのはあまり知られていません。
しかし、古くからの言い伝えなどにはその手の話が散見されます。

多くの文化は、戦死たちが彼の敵から出会った記念に何かを奪い取ることによって
その強さをも獲得すると信じる傾向にあります。

太平洋の戦いにおいてもその傾向に全く例外はありませんでした。
ほとんどのアメリカ人がそもそもアメリカ大陸から出るのが初めてで、
初めて知るエキゾチックな文化の露出に心奪われると同時に
激しい戦闘を体験し、心的外傷を受けることになったのです。

戦争の記憶を保存することであれ、軍事占領であれ、あるいは単に
功利主義的な物を家に送ることであれ、いずれにしても
アメリカ人はさまざまな種類のお土産を集めました」

それで思い出したことがあります。
アメリカ兵が戦利品を集めるために、戦地で日本兵の死体から
めぼしいものを漁るということを知っていた日本側が、
死体に爆発物を仕込んでおいて見事に引っ掛かり犠牲者が出た、
ということがあったため、アメリカ軍上層部は下士官兵たちに

「死体のお土産漁り禁止」

という命令を出さなければならないことがあったとか。
このお土産好きが昂じて、またその根底にあった人種差別から
一部のアメリカ人は死体の首を加工して骸骨にし、
それを本土に記念品として送ったりしました。

皆さんも、もらった日本兵の骸骨を前に
お礼の手紙を書いている女性の写真を見たことがあるかもしれません。

なんとその件については、wikiにもまとめられているくらいです。

米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断

 

さて、それでいうと、アメリカ兵にとって太平洋戦線における
最も「価値の高い」お土産は、「サムライ・スウォード」つまり日本刀でした。

サムライの象徴である刀は侍出身である日本軍の士官は
その家に代々伝わる(Heirloom)百年前の刀を軍刀にしていることが多く、
アメリカ人たちの羨望の的でしたが、その刀をたった一つでも
鹵獲するのは簡単なことではありませんでした。

この刀を持ち帰ったのはシルバースターを受けた陸軍大尉ですが、
それくらいの階級でないとこういう「スペシャルな」お土産は
手に入れることはできなかったということでもあります。

この刀は2003年、SSMMに本人によって寄贈されました。

画面左の銃剣は、硫黄島の戦いに参加した海兵隊のレイモンド・アルコーンが
持って帰ってきたものです。

彼は、この銃剣を持って前進してきた敵兵と対面の格闘になり、
負傷したもののなんとか相手を打ち負かすことができました。

というわけで、彼はその銃剣を記念に持って帰り、
2歳の息子へのお土産にしたということです。

「お父さんはこれを持って襲ってきたジャップと戦って殺したんだぞ!」

「ダディソークール!」

みたいな会話があったんでしょうかね(棒)

 

そういえば、戦争から帰ってきた市民が社会に戻って経験する出来事を描いた
ウィリアム・ワイラー監督作品、

我等の人生の最良の年(The Best Years of Our Lives)

では、銀行マンだった主人公の一人が、高校生の息子に
意気揚々と「ジャップスォード」を帰宅するなりお土産に渡したところ、
微妙な顔つきであまりよろこばないどころか、

「日本人は家族との結びつきを大切にする人たちだって聞いたよ」

と暗に仕事人間だった父を非難してくるというエピソードがあったのを思い出しました。

 

故郷で寄せ書きされた日章旗や旭日旗を土産として持ち帰ったアメリカ兵が
歳をとって持て余し、それらを近場の博物館に寄付した例を、わたしはこれまで
アメリカの各地で見てきました。

軍刀ほどではないにせよ、寄せ書きの旗も記念品としては
大変人気があったようですが、ここにあるルロイ・オプファーマン二等兵のお土産は
ちょっとそれとは違うようです。

素人の手作り国旗らしく、比率もおかしいし、日の丸の色はにじんでいますが、
旗にはオプファーマン本人の手書きで

「ガダルカナル島で日本人捕虜が僕にくれた」

と書いてあるではないですか。

そのほかにも、日本兵の足袋靴、貝殻で作ったネックレス、
この左には「レターオープナー」などがあり、それらは
皆オプファーマン君が収集した「戦地土産」なのですが、
ちょっとここで面白いことがわかりました。

貝殻のネックレスの後ろにあるのは、彼が土産を送る際、
品名を申告するために制作した書類です。

品名「軍人による個人的戦利品」

名前、アメリカの郵送先住所に続き、

「ジャップシガレット」「ジャップハット」「ジャップシューズ」
「貝の首飾り」

日本兵の骸骨なんかもこうやって書類にして送ったんでしょうか。

それとも、お土産フィーバーが加熱しすぎたので、
こうやって自制心というか歯止めをかける意味の書類申告だったのでしょうか。

 

とにかく彼は、ガダルカナルの捕虜収容所でMPをしており、帰国にあたって、
日本人捕虜に何かお土産になるようなものをくれないかと
ねだったようです。

写真で彼が嬉しそうに持っている寄せ書きの日の丸は、撮られたときは
真新しい感じですが、博物館にあるものは色がすっかりにじんでしまっています。
これは、染めたものとかではなく、現地(つまり収容所)で何か赤い
インクのようなものを使って手作りしたからだと思われます。

しかもペンで書かれた寄せ書きには

「於 ソロモン群島ガダルカナル島」

以上を総合すると、捕虜の田鍋さんという人は、わざわざ彼の求めに応じて
寄せ書き風日の丸を即席に作ってあげたのではないかと思われるのです。

しかも、敵の兵士にわたす日の丸というのに、

「武運長久」

という文字までおそらく万年筆で書き込んで・・・。

田鍋さんとオプファーマンくんの間には、捕虜と看守の域を超えた
何らかの微笑ましい交流があったんじゃないかと思うのはわたしだけかな。


 

 

続く。

 

 


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3 Comments

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分捕っただけ(笑) (Unknown)
2020-12-24 08:02:09
>多くの文化は、戦死たちが彼の敵から出会った記念に何かを奪い取ることによって、その強さをも獲得すると信じる傾向にあります。

博物館なので、こう書かざるを得ないのだと思いますけど、実際は「よさげなものを分捕った」だけですよね(笑)

戦前、多くの造船所が海軍から大型艦の建造を受注すると、貴金属を用いた模型を作って記念にしており、専門の模型店までありました。浦賀船渠(後の住友重機械浦賀工場)が初めて受注した大型艦は巡洋艦五十鈴で、純銀模型がありました。

敗戦後、米軍に持って行かれるのを避けるため、どうにかこうにか隠した五十鈴。現在はジャパンマリンユナイテッド新杉田にあります。住重時代にお世話になった総務のお姉さんに何十年ぶりかで新杉田で再会して「五十鈴はまだあるんですか」とお伺いしたら、見せてくれました。あの五十鈴は何歳なんだろう。
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USS「バターン」 USS「パナイ」 USS「スチーマー・ベイ」 USS「レキシントン」 (お節介船屋)
2020-12-24 10:07:50
USS「バターン」USS「パナイ」USS「スチーマー・ベイ」USS「レキシントン」
この4隻の「パナイ」を除く3隻は空母であり、艦載機搭乗員のフランク・ケイカ(Caka)二等兵曹が乗艦していた事は不思議ではありませんが艦名「パナイ」は日本海軍機に1937年12月誤爆で撃沈された河川用砲艦が該当しますので疑問でありちょっと別に最後に記します。

USS「バターン」CVLー29
軽空母「インデペンデンス」級9隻の1艦ですが建造が進んでいた軽巡クリーブランド級39隻のうち9隻を空母に転用された艦です。全て1943年に竣工しています。
基準排水量11,000t、全長189.9m、幅21.8m、吃水6.1m、タービン、4軸、100,000馬力、速力32kt、兵装12.7㎝単装両用砲2基、40㎜機銃18基等、搭載機45機、乗員1,569名

USS「スチーマー・ベイ」CVE-87
護衛空母「カサブランカ」級50隻の1艦です。
護衛空母として大量建造されましたが1942年承認されカイザー造船所1社で計画どうり1年で就役させたアメリカの工業力に驚嘆します。1943.44年就役。
基準排水量7,800t、全長156.2m、幅19.9m、吃水6.9m、レシプロ、2軸、9,000馬力、速力19kt、兵装12.7㎝単装両用砲1基、40㎜機銃8基等、搭載機28機、乗員860名

USS「レキシントン」CV-16
1942年5月珊瑚海海戦で日本雷撃機に撃沈された初代ではなく「エセックス」級24隻の1艦の2代です。
1940年から43年に建造が認められた32隻で8隻がキャンセルされました。1942年から1946年就役で実績が十分取り入れられた大型の理想的な空母であり戦後も改造され長く使用されました。
基準排水量27,100t、全長267.2m、幅28.4m、最大幅45m、吃水7.0m、蒸気タービン、4軸、150,000馬力、速力33kt、兵装12.7㎝連装高角砲4基、単装4基、40㎜機銃32~68基等、搭載機80~100機、乗員3,500名

USS「パナイ」河川用砲艦1928年就役
パネー号事件として有名ですが日華事変中の1937年12月揚子江の南京付近で日本海軍の有名な村田重治大尉の率いる九六式艦載攻撃機3機が高度2,500mの水平爆撃60㎏爆弾18個の一部が命中撃沈されました。名手が正確に小さな目標に命中させてすごい技量ですが災いとなりました。甲板に星条旗が書いてあるないの議論もありました。3名死亡、数十名負傷。
中立国の艦艇を誤爆したことで国際問題となりましたが日本海軍の対応は早く、陳謝補償を実施しました。

派遣艦隊の第3艦隊は米艦が南京付近に居る情報はありましたが現地飛行場に進出していた航空隊に情報を伝達していないミスがありましたが、米国も中国飛行場に補給するためのタンター3隻を「パネー」が護衛との形をとっていました。
誤爆でしたが故意ではないかとの国際問題となったのは同じ日に陸軍の問題児の橋本欣五郎陸軍大佐の指揮する砲兵連隊が英国の砲艦「レディーバード」を15浬上流で故意に砲撃しており、この事件も橋本大佐の指金と広まりました。
詳細は同日13空分隊長で九六式艦上爆撃機6機を率いて参加していた奥宮正武著「海軍航空隊全史」に記述されています。

ただケイカ(Caka)二等兵曹が職種や年代から河川用砲艦「パネイ」に乗艦していたのか疑問です。またパネイ名の艦艇は探し切れませんでしたが他に居たのか、航空基地にこの名称を付けて使用していたのか等不明です。
参照海人社「世界の艦船」No291、朝日ソノラマ奥宮正武著「海軍航空隊全史上下」

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黒くペイントされた航空機模型 (お節介船屋)
2020-12-24 10:45:06
双発で主翼が前縁直線、胴体細く、エンジンの形状や尾翼の小ささから日本海軍機であれば夜間戦闘機「月光」では考察します。もともとは十三試双発3座戦闘機でしたが曲折を経て夜間戦闘機となりました。

双発では陸上爆撃機「銀河」がありますが主翼形状やエンジン形状が違います。

また陸軍では百式司令部偵察機の形状が似ていますが機体上部のコックピット形状が違うように思えます。
誤りかもしれませんが楽しく考えさせて頂きました。
参照光人社佐貫亦男監修「日本軍用機写真総集」

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