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WASPパイロット テレサ・ジェイムズ〜兵士と水兵のための記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-10 | 博物館・資料館・テーマパーク

ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館の展示を
時代に沿ってご紹介しています。

画面右手にあるガラスケースが創設当初からある展示ブースなのですが、
それから100年が経ち、展示するものが少しずつ増えてきて、
博物館ではかつて通路だったところにこのようなガラスケースを増設することにしました。

前にも書いたように、ここは省エネのために人感知式センサーで
人が通るたびに展示ブースにライトが当たるという仕組みです。

しかしながら、こういう通路のガラスケースには必要ないということなのか、
照明の類を全く設置していないため、大急ぎで写真を撮って歩いていると
光度不足で失敗してしまっているのでした。

たとえばこの第一次世界大戦関連の展示も、アップにしても
解説がボケてしまっていて読めなかったりします。

というわけで説明は飛ばしますが、画面の下のカラフルなマーブル模様、
これなんなんでしょうか。

第一次世界大戦、カラフルな迷彩、とくればそれは飛行機の塗装です。
いままでここで紹介してきた複葉機には、フォッカーのように
色鮮やかな迷彩柄が施されているものがいくつかありました。

この菱形のカモフラージュを、

Lozenge camouflage、トローチカモフラージュ

といいます。

当時の飛行機はプリントした布を機体に張り付けていたので、
出荷時のこれがデフォルト仕様だったということになります。

カモフラージュというと「視認性を低くする」というのが今の常識ですが、
当時はとにかく敵味方を空中で識別しやすい塗装が好まれたのです。

そして、パイロットのアイデンティティを表す手段でもありました。
あのマンフレート・リヒトホーヘン男爵も愛機を真っ赤に塗装して
「レッドバロン」と呼ばれましたが、家紋を機体に描いたり
オリジナルの模様を描いて、パイロットが誰か一眼でわかるようにしていたのです。

これは当時の空戦がまだ「やあやあ我こそは」と名乗りを挙げて戦う
騎士道的な戦いの様相を呈していたからということができますし、
もっと実用的な理由として同士討ちを防ぐ目的もありました。

ちなみにリヒトホーヘンの弟の(もちろん男爵です)ロタールも
またエースでしたが、彼の愛機は鮮やかな黄色でした。

現在はIFF(Identification Friend or Foe, 敵味方識別装置)の発達によって、
派手な色彩の国籍マークラウンデルや部隊章、士気高揚のため黙認されていた
非正規の塗装などは実戦部隊では使われることはありません。

岩国の海兵隊のパイロットに基地を案内してもらった時、
機体に塗装されたマークがあまりにも薄く地味なので、
当時そういうことを覚えたてのわたしはここぞとばかりに

「これが低視認性(ロウ・ビジビリティ)ペイントというやつなのね」

と聞いたところ、悲しそうに

「ペンキのお金がね・・・ないんだよ海兵隊には」

と返されたのはいい思い出です。
いいやつだったなあ。今どこでどうしてるのかしらブラッド。

このケースには

Origins of Our Collection

と書かれています。
これによると、

今日の訪問者は不思議に思われるかもしれませんが、
SSMMホールは、創設に関わった建築家も創設者も、
建築家ジェームズ・ホーンボスルが、アレゲニー郡の兵士の英雄にふさわしい
等身大の彫像を展示すために作ったこの場所が
アレゲニーの市民に開かれたものになるとは考えていませんでした。

しかし、オープンと同時に各地から展示品の寄贈ラッシュが始まりました。
1911年(開館した年)の5月の記録によると、最初の73件の寄贈後
現在に至るまでの間その点数は何千点にも及びます。

とあります。
できた当初、ここは南北戦争の「メモリアル」、慰霊施設という位置付けだったため、
戦争が終わるたびにヴェテランからこれほど多くの寄贈が送られてきて
立派な軍事博物館になるとは誰も予想していなかった、というのです。

ちなみに、中華ラーメン鉢の飾りのようなデコレーションが施された
エレベーターホールの上部に掛けられたこの絵が、
当博物館の「寄贈展示品第一号」なのだそうです。

ウィンチェスターの戦いにおけるペンシルバニア第14騎兵隊の突撃
Charge of the 14th Pa, Cavalry,Winchester, va. Sept 19 1864 

残された記録によると、この絵は開館したその日からここにあるそうです。

それではこの「私たちのオリジナルコレクション」とされた
展示ケースからいくつかをご紹介します。

プロシア軍の竜騎兵(ドラグーン)士官の「ピッケルハウベ」(ツノ付き帽子)
1890

第一次世界大戦前の軍用ヘルメットですが、第二次世界大戦中
アメリカ陸軍第78歩兵隊のメンバーが現地で手に入れ、
持ち帰ってSSMMに寄付したというものです。

ヘルメットの上部の毛は「ホースヘアー」(尻尾?)ということですが、
これはヨーロッパから持って帰るのも結構大変だったのでは・・・・。

このケースにある陸軍の軍服などは、ハロルド・ヒルトンという人が
ここに寄贈したものが多いのですが、ヒルトンさん、どうも戦後
占領政策で日本に駐留していたらしく、記念品として
日本のお札を持ち帰って寄付しています。

50円札、10円札、50銭も当時はお札だったんですね。
終戦直前は日本は金属不足でしたから当然かもしれません。

ブルーのカードは入浴&ディナー配給パスで、ヒルトン氏が
帰国した船の中で使用したものです。

カードの下部分に数字とパンチ穴が数字31まで空けられており、
彼の船内生活が31日に及んだことを表しています。

太平洋戦に詳しい人ならおそらくどなたもご存知、
あのガナルカナル島の戦いが行われた、

ヘンダーソン飛行場(Henderson Field)

のサインです。
元シービーズ(設営隊)勤務の少尉が持ち帰り寄付しました。
ヘンダーソン飛行場はもともとソロモン諸島のホニアラに日本軍が
3ヶ月の突貫工事で作り上げた

ルンガ飛行場

でしたが、8月、米軍の海兵師団が上陸、戦闘を繰り広げ、
その結果飛行場も米軍が占領することになりました。

ルンガ飛行場をヘンダーソンとしてその整備を行ったのが
アメリカ軍第一設営隊、シービーズでした。

サインを持ち帰ったマドゥーという少尉は民間技術者で、
ガダルカナルをアメリカが日本から奪取した翌年、
飛行場にコントロールタワーと司令塔を新設する工事のため
派遣されていったのだということです。
(マドゥー少尉は前列左端ではないかとなんの根拠もなく思うわたし)

彼は島を去るときに椰子の木にかかっていたこの看板を持ち帰ったそうですが、
おそらくそのときには終戦となっていたのかもしれません。

ヘンダーソン飛行場は現在軍民兼用の国際空港、
ホニアラ国際空港となっています。

「SSに寄贈されたものは厳密には軍事関係だけではありません」

として、このケネディ大統領の首は、地元アーティストの

Ivo Zini(イボジニ?)

という人が制作し、家族が寄贈したものです。
このイボさんについて調べてみると、こんな写真が出てきてしまったんですが・・

zini

イボジニさんがイボ死にしてる〜!

しかし、この人の情報はどこを探しても英語では出てこず、
イタリア語のみ、イタリア語の個人のwikiもありません。

イタリア語の自動翻訳でいくつかの情報を解釈したところによると、
イボさん、ある日映画を見に行って極右過激派のテロに遭ったことがわかりました。

しかしなぜイボさんがテロで殺されなくてはならなかったのか、
そこのところは全くわかりませんでした。<(_ _)>

 

このケネディの頭部は手作業で彩色されており、髪の毛に至っては
一本一本手で植毛し、目玉にはガラスが入っているという力作です。

博物館の説明では「地元のアーティスト」となっているのですが、
これは間違いで、イボさんは活動をイタリアで行っていたはず。

しかも言葉の端々からケネディの頭をここに飾ることに対しては

「なんかわからんけど寄贈されたので仕方なく」

みたいな困惑した空気が感じられるのですが、経緯を想像するに、
イタリアの遺族関係者が彼の死後遺品を整理したとき、

「ケネディの頭部・・・うーん・・・
これはやっぱりアメリカ大統領だからアメリカに寄贈すっか」

「んだんだそうすべえ」

ということでここに来たとしか考えられません。

 

さて、今日最後にご紹介するブースは、「航空関係」です。

ここにもあった。ノルデン照準器です。

このブログで海外の軍事博物館の展示品を紹介してきた歴史上、
わたしがこのノルデン照準器の写真をアップするのは、これで
少なくとも4回以上ではないかと思われるくらい、どんな場所にもあります。

ご存知のようにノルデン照準器はカール・ノルデンとセオドア・バースが
1930年に開発した爆撃用の細密照準器ですが、その後の当ブログ調べによると
最高機密扱いだったわりには実戦であまり役に立たなかったという噂もあり、
戦後どの博物館にも現存しているのは、あまり使えないので
思ったほど重用されなかったせいかという気がします。

というか、アメリカ軍が細密攻撃を行う必要があったのは
一時期だけで、特に東京ではルメイの起用で無差別爆撃に切り替えられましたから、
照準器などお呼びでない?これまた失礼(略)というものになり下がっていたとも考えられます。

当初は敵の手に渡るなら破壊するようにとまでパイロットは厳命されていたそうですが、
結局こんな理由で使わなくなったのでこれだけあちこちに現物が残る結果になったのかと。

次に展示されているボマージャケットの背中のペイントをご覧ください。

BUST'R'(バスター)

は、ノルマンジー上陸作戦に参加していたB-17重爆撃部隊第95部隊
第336飛行隊の爆撃手のケネス・エバンスの息子に因んでつけられた名前です。

このボマージャケットはピッツバーグ出身のパイロットだった
チャールズ・レイディ・スノーデン三世大尉が着用していたものです。

彼の操縦する機体は1944年の6月、ロシア上空の任務で攻撃を受けました。
負傷者を脱出させることが不可能と判断したスノーデン大尉は、
B-17をイギリス領土まで飛ばしてそこで墜落させることを選択し、
その結果クルーを誰一人として失うことなく生還させることに成功しています。

この任務で勲章を受け、帰国したスノーデン大尉でしたが、
終戦のわずか1ヶ月前、夜間訓練の事故で命を落としました。

Clipping from The Pittsburgh Press - Newspapers.com

検索すると彼が死亡した時の新聞記事が出てきました。
ちなみに彼の住所として書かれているアスピンウォールは、ピッツバーグでも
比較的裕福な層が住む高級住宅街とされています。

このケースで真っ先に目を引くのは長身の女性パイロットのマネキン。
繋ぎのフライトスーツにキャンバスのバッグ、編み上げのブーツに
フライトキャップという装いです。

スーツの下にはちゃんと陸軍規定のシャツにネクタイ着用。

これは、

WAFS(Womens Auxiller Flying Squadron)女性補助航空部隊

WASP(Womens Airforce Service pilots)女性空軍任務パイロット

のパイロットであった、

テレサ・ジェームズ(Theresa James)

が着用していたフライトスーツです。
ここでも何度か言及してきたように、第二次世界大戦中、アメリカ陸軍は
航空機の輸送やテストなどを行う女性パイロット部隊を保持していました。

それがWAFSであり、のちのWASPです。

ワフスがワスプに変わったわけというのは、おそらく参加者を広く募る観点から
より当事者性の強い(かっこいい)名称にする必要があったからではないか、
とわたしは勝手に思っているのですが思っているだけですすみません。

彼女ら女性パイロットは戦争という特殊な事情のために集められたので
短い訓練期間で戦闘を含まない航空任務に投入されました。

ピッツバーグ出身のテレサ・ジェームスは、アメリカで最初に
軍航空パイロットになったうちの一人です。
彼女が入隊したのは1942年の10月、1944年の12月にWASPが
解散すると同時に除隊しました。

WASPの解散がこの時期になったというのは、おそらくアメリカ側には
勝利が見えてきて女性の手を借りずとももう大丈夫、と判断したからでしょう

 

最後に彼女のバイオグラフィをご紹介しておきます。
彼女が単独飛行を行うようになったのは1933年、19歳のときです。

女性としてだけでなく当時先駆的なパイロットだったテレサ・ジェイムズは、
ピッツバーグに生まれ、そこで育ちました。
実家は花屋さんでしたが、どういうきっかけか空に興味を持つようになった彼女は
若い女の子の身で飛行訓練を受けて兄を驚かせました。
そして、最初の女性飛行教官となり、商用輸送免許を取得しました。


当時のパイロットの「常道」として、彼女は飛行機に乗るお金を稼ぐため、
ペンシルベニア、オハイオ、ニューヨーク周辺の航空ショーに出演し、
スタント飛行を行っていました。

彼女の専門は、

2マイルの航行距離の間にに26回スピンし、地上300mで機首をあげる

だったそうです。

彼女は1941年に彼女の生徒だったジョージ・ "ディンク"・マーティンと結婚しました。
ディンクはその後陸軍航空隊で飛行教官、爆撃機のパイロットになっています。

ある日彼女は陸軍のハップ・アーノルド将軍から、国内輸送任務に携わる
女性パイロット部隊への参加を打診する電報を受け取り、
1942年10月6日にWAFSに宣誓し入隊しました。

すでに操縦のベテランであったせいか、彼女は最初から大きな任務を任され、
アメリカの東西両海岸を繋いで軍用機を飛ばした最初のWAFSパイロットとなります。

 

しかし、航空がきっかけで結ばれた彼女と夫を引き裂いたのは飛行機でした。

1944年初頭のこと、夫のディンクの飛行隊が海外に派遣されますが、
搭乗機
B-17は1944年6月22日に撃墜されたという知らせを受けました。

しかし彼女は夫が捕虜になって生存している可能性に一縷の望みをかけながら
WASP解散後、実家の花屋で働いていました。

戦後、彼女は夫の行方を知るためにフランスまで行っています。

1984年、彼女はパリ郊外のジョアン・ヴィル・ルポンで、ついに

ディンクの墜落の目撃者とコンタクトを取ることに成功しましたが、
彼が撃墜された40年後になって初めて夫に何が起こったのかを知ったのでした。


1939年に彼女は「99人の女性パイロットの会」に加わり、
また、「P-47サンダーボルトパイロット協会」
フロリダの女性パイロット協会「グラスホッパーズ」そして
「シルバーウィングス」協会の終身会員でもあり、さらには
 1980年に「パンチョ・バーンズ」航空賞を受賞しました。
(パンチョ・バーンズについてはこのブログでも取り上げ済みです)

 

彼女のWAFSのユニフォームはワシントンDCのスミソニアン博物館の
国立航空宇宙博物館に寄贈され、フライトスーツはここSSMMで見ることができます。

この先駆的な、他に類を見ない女性飛行士は、人生の最後まで空を飛び続けました。
そして2008年7月27日、94歳で最後の飛行を行ったあと、フロリダで静かに亡くなりました。

彼女の遺灰はピッツバーグに持ち帰られました。
彼女が働いていた実家のフラワーショップはまだ親族によって経営されているそうです。

 

続く。