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「コールドウェル」に同時突入した4機の特攻機〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

2020-12-21 | 軍艦

ピッツバーグのソルジャーズ&セイラーズメモリアル&ミュージアム、
第二次世界大戦の「パシフィック・シアター」展示です。

今日はこのなかから、一隻の駆逐艦を取り上げたいと思います。

ここには艦体を縦割りにした珍しい模型が展示されています。

USS「コールドウェル」Caldwell DD 605

USS Caldwell (DD-605) off San Francisco in June 1942

1700年後半、第一次バーバリー戦争に参加した海軍軍人、

ジェームズ・R・コールドウェル(1778〜1804)

の名前を命名された「ベンソン」級駆逐艦です。

この縦割り模型を製作したのは、フランク・メルビン・クラッツリー大尉
(Frank Melvin Cratsliey)という人で、階級から言って
艦長ではなかったかという気もするのですが、説明はありません。
第二次世界大戦が終結し、「コールドウェル」が予備役に入ってから作られたそうです。

これが、模型キットなどに一切頼らない手作り感あふれるものなんですね。
実際に操艦していた人ですから、艦内を知り尽くしています。

区画ごとにそこがなんだったかラベルをはってあるのですが、それも

C.P.O. Messroom A-202-L

Crew's Quarters A-203-L

というように、「艦内住所」を示す記号付き。
これは「中の人」ならではの仕事です。

これが中央部分。
ジェネレータや、ポンプの種類までラベルを貼って区別しています。

細部を見ると溶接が甘く歪みがあったり区画の区切りが倒れかかっていたりしますが、
それにしてもこれだけの力作を残した大尉の意欲はどこから来たのでしょうか。

前方に士官下士官の居住区があり、兵員のクォーターが
後ろのほうにあるという作りは、今年初めにご紹介したUSS「スレーター」と同じです。

ところで、「コールドウェル」の艦歴を見ると、彼女の一生には
就役直後から日本との戦いが大きく関わっていたことがわかります。

 

まず、当時サンフランシスコにもあったベスレヘムスチールで誕生後、
すぐにアリューシャン列島の奪回をねらうアメリカ軍のアッツ島支援を行いました。

1943年(昭和18年)5月4日、フランシス・W・ロックウェル少将が率いる
攻略部隊、第51任務部隊に含まれたのは、

戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」
護衛空母「ナッソー」
重巡洋艦「サンフランシスコ」「ルイビル」「ウィチタ」
軽巡洋艦3隻
駆逐艦19隻

この駆逐艦群に「コールドウェル」は加わっていたというわけです。

その後、タラワ島、ウェーク島での戦闘にも加わり、
マキン、クェゼリン、マジュロ、そしてパラオなど一連の攻撃、
トラック諸島、ウルシーでも船団護衛などを行いました。

これだけの出撃を頻繁に行っていれば、当然時期的に
日本軍の特別攻撃に遭遇することにもなるわけですが・・・・。

「コールドウェル」が特攻の洗礼を受けたのは1944年12月12日の0803でした。
場所はレイテとセブ島中間海域、そこで

「4機の日本機が同時に四方から襲いかかってきた」

のでした。

突入した機体の片翼が艦橋に激突し、残りの機体はフォクスルを破壊。
機体から外れたランディングギアはラジオルームに直接突き刺さり、
その時内部にいた全員が死亡するという惨事を引き起こしました。

それだけでなく2基の砲座、メインデッキの全てのコンパートメントは壊滅、
5基のMK15魚雷は誘発を回避するために即座に投棄されました。
他の部分は飛行機が激突した時に生じた火災でダメージを受けています。

このとき、特攻機が抱いていた爆弾2発もこの激突によって爆破し、
その結果、33名が死亡、40人が負傷すると言う大損害を受けました。

このとき亡くなった33名には、当時の艦長も含まれていたということです。

しかし、当博物館にある模型を作ったメルヴィン・クラッツリー大尉ら
乗員の必死の救助活動が功を奏して、「コールドウェル」は沈没を免れました。

そしてまずフィリピンのタクロバンに辿り着き、その後サンディエゴに回航され、
わずか60日の修理期間ののち行動に参加するまでになったのは驚くべきことでしょう。

「特攻機に破壊された」

という修理理由が、海軍の修復担当造船屋の負けじ魂に火をつけたのかもしれません。

上の写真の損害は、航空機の直接の激突によるものではなく、
搭載していた爆弾が誘発して引き起こしたものです。

このとき「コールドウェル」に激突した特攻機のうち、搭乗員の遺体が身に付けていた
94式拳銃(シリアルナンバー43465)は、今ここSSMMの展示室で見ることができます。

突入後の処理期間、この銃は艦長が戦死して代わりに指揮をとることになった
クラッツリー大尉が鹵獲して所持していました。

のちに、この銃は大尉のダメージコントロールの努力に対する「賞品」として
正式にクラッツリー大尉に授与されましたが、大尉は自作の模型とともに
このパイロットの遺品もどう博物館に寄贈したのです。

Type 94 Pistol.jpg

ところで、この九四式拳銃は、陸軍が開発採用した型式です。

当初、帝国陸軍の将校准士官が装備する護身用拳銃は、軍服や軍刀と同じく
自費調達の「軍装品」私物扱いだったため、各自が任意に調達していましたが、
色々不便が生じたため、南部式自動拳銃を開発した南部麒次郎が、
機構が簡単でメンテナンスしやすい同型拳銃を昭和9年、皇紀2594年、
12月12日に九四式拳銃として準制式採用したものです。

以降、九四式拳銃は将校准士官のみならず、機甲部隊の機甲兵、
そして航空部隊の空中勤務者、つまりパイロットの基本装備となりました。

 

ということからも、「コールドウェル」に特攻した航空機は
陸軍のものであることがはっきりしたわけです。

日本人のわたしとしては、このとき、一つの駆逐艦に対し
四方から同時に突入していったという特攻機について明らかにするべきだと思い、
「特別攻撃隊全史」付属の特攻隊名簿から、昭和19年12月12日に
フィリピン方面で出撃した特攻隊を検索してみました。

すると、まず、

八紘石腸隊の井樋太郎少尉
(佐賀、陸軍士官学校57期)

が、バイバイ沖で特攻戦死していることがわかりました。
石腸隊というのは千葉県にあった下志津陸軍飛行学校銚子分教場で訓練を受けた
18名からなる特別攻撃隊で、二人を除き全員が陸士卒です。

17名が日を前後して12月5日から1月8日の間に特攻散華しているのですが、
不思議なことに、この井樋少尉だけが、12月12日、単独で出撃しているのです。

あまり知られていないことですが、陸軍では特攻隊のことを

「と号部隊」

としていました。
「と」はもちろん特攻隊のとです。
「とごうぶたい」と言っても「は?特攻部隊?」と聞き返されそうですが。

そしてと号部隊結成時、第4航空軍司令官富永恭次中将
「八紘隊」をはじめとする特攻隊の命名を行いました。

富永は史学に造詣が深く、部隊名は歴史などの故事から引用、
たとえばこの「石腸隊」は「鉄心隊」とセットで、
中国北宋の政治家蘇軾のことば、

「鉄心石腸」(容易には動かせない堅固な意志を表す)

から命名されたものです。

部隊マークとして「日章」を尾翼に描いた飛行第44戦隊所属の九九式軍偵察機(キ51)

特攻機種略語は「九九襲」とあるので、

キ51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機

で特攻したことになります。

石腸隊が訓練を行ってた下志津陸軍飛行場で、
九九襲撃機と記念写真を撮る女子挺身隊。
整備かあるいは組み立て作業に動員されたのかもしれません。

井樋少尉の戦死場所となっているバイバイ沖、というのはアメリカ側の記録の

「レイテ島とセブ島の間」

という攻撃された場所とも一致しますので、4機のうちの一機が
井樋機であったことは間違いないかと思われます。

そして名簿をさらに繰っていくと、次に12月12日に特攻戦死したとあるのは

八紘隊、作道善三郎少尉
(特別操縦見習士官出身、富山出身)

であり、作道少尉もこの日単独で出撃しています。
作道少尉の八紘隊は一式戦闘機(隼)の部隊でした。

飛行第二五戦隊第二中隊のエース、大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II、1943年夏撮影)。 部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号の下桁を垂直尾翼に描いている

キ43 一式戦闘機「隼」

作道少尉の戦死場所も12日の「バイバイ沖」となっていることから、
井樋少尉、作道少尉が第一、第二の特攻を「コールドウェル」に加えた、
という可能性は大変高いと考えられます。

それから、

丹心隊の岡二男少尉(幹候9期、東京出身)

もまた、同日バイバイ沖で特攻戦死したと記録にあります。
これで三機が特定できたことになりますが、ここでもう一度
現地にある説明を読んでみると、「コールドウェル」に特攻してきたのは
4機であったとしながら、別の説明には

「トータルで5機に襲撃された」

とあります。

それを裏付けるような記録が見つかりました。
19年の12月12日に出撃した特攻機はあと2機あったのです。

戦死場所は「バイバイ沖」ではなく、いずれもレイテ島西北洋上とありますが、
西北洋上もセブとレイテの間であり、バイバイ沖であることにに違いはありません。
その二人の戦死者とは、

小泉隊 小泉康夫少尉(陸士57期、新潟出身)
    久住国男准尉(経歴なし、新潟出身)

小泉隊、と言うのはどういう経緯かわかりませんが、組織的に
特攻隊として編成されていなかった搭乗員が二人、
隊長の名前をとりあえず?つけて出撃した、というように解釈できます。

岡少尉、小泉隊の二人が乗っていたのも一式戦闘機でした。

さて、ここで「コールドウェル」に一気に襲いかかった陸軍の特攻機ですが、
調べたところ、驚くことに皆別々の基地から出撃しているのです。

石腸隊の井樋少尉が出撃したのはバコロド、
八紘隊の作道少尉はマニラ、
岡少尉はカロカン、
そして小泉隊の二人はクラーク基地。

彼らは全く別々の基地から飛び立ち、合同作戦を行ったということになりますが、
これは計画された作戦だったのでしょうか。
というか、果たしてそんな作戦が実際に可能なのでしょうか。

各基地から1機、2機ずつ出撃していることから、可能性としては
偵察機が駆逐艦を発見し、
急遽各基地から特攻機が飛び立った、
ということも考えられますが、この
ストーリーは成り立つのでしょうか。

当時の特攻出撃の事情に詳しい人ならこの可能性を論じることもできるかもしれませんが、
それにしてもたかが?駆逐艦1隻相手に各基地がこぞって特攻を出すでしょうか。


考えれば考えるほど、この「四方からの同時攻撃」は
その経緯と目的を含めて謎が多すぎるように思えるのですが、
もし、この5機(のうち4機)が上空で初めて遭遇し、
阿吽の呼吸で意気投合し、

「四方から4機が同時に突入する」

という、22〜3歳の血気盛んな青年から見ると
「痛快な」攻撃を行うことで四議一決したということなら・・?

というかわたしはその可能性が一番高いような気がしています。

サンディエゴで修復後、「コールドウェル」はボルネオ島タラカンへの侵攻支援と
護送船団の護衛をおこない、その後ブルネイ湾沖の掃海作戦で触雷をしています。

修理中に終戦になったため、沖縄上陸への輸送任務を支援した後、
ちょっとだけ東京湾に寄って(乗員に日本を見せるため?)
そのあと帰国し、予備役に入りました。

 

続く。

 



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3 Comments

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飽和攻撃 (Unknown)
2020-12-21 07:50:48
理屈の上から言うと、防御側の防御能力を超える攻撃を加えれば、攻撃側の勝ちとなります。これを飽和攻撃(防御側の防御能力を飽和させるという意味)と言いますが、具体的には対空火器の数より多くの火線(この時だと特攻機)を確保し、同時に、出来れば異方向から攻撃すれば、より攻撃側に有利となります。

陸軍がどの程度、艦船攻撃の訓練をやっていたのかよく知りませんが、いろいろなケースを試して見ると、この方法が最も効果が高いことがわかります。

当時は、AWACSのような警戒機はいなかったので、概略の敵艦隊の位置に向けて出撃して、上空で集合してから、先任機長が攻撃目標を決めて、僚機に指示を出したのではないかと思います。

機数が少ない場合、それぞれバラバラに攻撃したら、各個撃破されてしまいます。命を賭けているので、出来るだけ成功の確率が高い方法を取ろうと誰しも考えると思います。

クラッツリー大尉は、ちょうど「ケイン号の反乱」の主人公のキースと同じ経験をされているのですね。キースも日本軍の特攻を受けて、人として一皮むけます。自分を成長させてくれた思い出の船を模型にして残したかったんだろうと思います。
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DD-605コールドウエル (お節介船屋)
2020-12-21 10:21:46
ベンソン級24隻の1艦です。このクラスは1938年計画で8隻、1941年計画で24隻計32隻が1940年6月から1943年2月までに就役しました。
「コールドウエル」は1942年6月就役で1965年除籍となっています。
戦没艦は3隻、3隻が戦後外国に譲渡されました。その他26隻は1965年から1972年にかけて除籍されています。
発射管が新設計の5連装2基を装備しており、機関配置が缶・機・缶・機の分散配置で抗堪性が向上していました。
ただトップヘビーで主砲のシールドを廃止したり、電測兵器の増強で2番発射管や3番主砲を撤去したりしています。
「コールドウエル」の戦績は参照文献にはありませんが、特攻機3機の突入被害のフレチャー級DD-586[ニューコム」の詳しい被害状況が文献にありますが、1機が後部煙突上部構造物破壊、ほぼ同じ個所に1機で中央部上甲板に破孔、2基の魚雷発射管、40㎜機銃等舷外に脱落、3機目が前部煙突突入でガソリンをばらまき広範囲火災、消火援助で横付けたフレチャー級DD-481「リューツ」に撃墜された特攻機が艦尾に墜落爆発しました。
中央部破壊、前部機械室、後部缶室、後部機械室に進水し、両舷外板も皺状になりましたが沈没せず、船体破孔当て板で塞ぎ排水、両舷の縦強度補強し、サイパン、真珠湾経由でサンフランシスコに帰投しています。
このように特攻機は上部に突入となり、なかなか沈没させられなかったことが多いです。
要目
基準排水量1,620t、全長106.17m、幅11m、吃水4.01m、蒸気タービン2軸、50,000馬力、35kt、兵装12.7㎝38口径単装砲5基、12.7㎜機銃10基、53.3㎝5連装魚雷発射管2基、爆雷投射機1基、爆雷投下軌条2条、乗員191名
参照文献海人社「世界の艦船」No496,岡田幸和著「艦艇工学入門」
返信する
キ51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機 (お節介船屋)
2020-12-21 13:38:16
キ51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機は昭和12年12月陸軍から三菱に対して地上にある敵機及び地上の敵軍の襲撃に使う襲撃機の試作が内示、昭和13年2月正式に指示がされました。
最大水平速度420㎞/h以上、重量2.7t以下、発動機ハ―26Ⅱ、爆弾15㎏12個または50㎏4個、前方固定銃2基、後方旋回銃の要求でした。
藤田雄蔵陸軍少佐の指導で河野文彦技師が計画、大木喬之助技師が設計主務で進められ昭和13年12月同一機種で武装の変更で襲撃と偵察に使用することとなりました。
試作は昭和14年6月完成、テストで振動と低速時の失速の問題があり、動力部調整等改良を加えられました。
昭和15年から生産を開始し、昭和18年に発動機を換装し、引込脚とする等性能向上を計画しましたが中止となりましたが両機合わせて1,472機が生産されましたがその後も生産が続行されたようです。
実用性能は良好で部隊でも好評で日華事変から大東亜戦争全般で中国、マレー、ビルマ、フィリピン等で飛行場、陣地襲撃や偵察に活躍しましたが武装、航続力の不足が指摘されました。主に中国戦線での使用で太平洋の島嶼部での使用は出来ませんでした。
昭和19年末から250㎏爆弾を胴体下に取り付け特攻機として使用された機がありました。
要目
単発、低翼、固定脚、発動機ハー26Ⅱ、940馬力、全幅12.1m、全長9.21m、全備重量2798㎏、最大速度424㎞/h(3,000m)、実用上昇限度8,250m、航続距離1,060㎞、12.7㎜機銃2基、7.7㎜旋回銃1基、爆弾200㎏~250kg 、乗員2名
参照光人社佐貫亦男「日本軍用機写真総集」
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