「ホーネット」の艦橋ツァーに参加したのは実は相当前、2013年のことです。
そのうちお話ししようと思いながらイベントが重なって、延び延びになっていました。
あまりにも日にちが経ちすぎて、せっかくツァーで解説員の話を聞いてきたのに、
こうして久しぶりに写真を見てもあまり思い出せることがなく(笑)、
つくづく、帰ってすぐにエントリをまとめるべきだったと後悔しています。
さて、日本では現存されているかつての軍艦は「三笠」だけだと思うのですが、例えば
学校の社会見学が行われたり、近くの園児が遠足で来たり、ということは・・・というか、
「三笠」に限らず、およそ自衛隊関係の資料館が課外授業に使われることはあまりなさそうです。
知覧の特攻記念館や広島の原爆資料館は修学旅行の目的地にもなるようですが、
(何を隠そうわたしの卒業中学の修学旅行は広島~四国で、原爆資料館見学が組み込まれていた)
それは日本の歴史の「負」の部分だけをクローズアップした”平和教育”の一環としてであって、
翻って旗艦として勝利を収めた日本海海戦を語ることになる「三笠」や9条的に「憲法違反」
の存在である自衛隊施設は対象外、というのが日本の教育現場の総意だからではないかと思われます。
この「ホーネット」博物館を訪れたとき、何組もの学校単位の見学や、
幼稚園児の群れを目撃したのですが(いずれもサマーキャンプのアクティビティだと思われる)、
日本とはこういう軍事的なヘリテイジに対する考え方が随分違うものだと思わされました。
軍事的遺跡ではあっても、歴史や軍事について「だけ」を学ぶ場所という位置付けではなく、
特に学齢層が見学に訪れることを踏まえてか、「ホーネット」艦内には
いたるところにこのような教材的説明のポスターが貼られていました。
例えばこれですが、飛行機の上昇、下降の基本的メカニズムみたいなのがわかりやすく
図解で記されています。航空力学の範疇ですかね。
機体は浮力より重力が上回った時上昇するが速度は落ちる
↓
浮力は重力より劣位になる
↓
機が下降すると浮力が失われるが速度は増す
↓
速度が増すと機に上昇するために必要な浮力を与える
↓
浮力が重力より優勢になるまで機は上昇を始める
当ブログは航空の専門家も見ておられるので、用語的に正しいのかどうか、
書くのが少しためらわれるところですが、とりあえずこう翻訳してみました。
で、それが何か?
とわたしなど思ってしまうというか、なぜ「ホーネット」博物館で
航空力学の図解を必要とするのかいまいち解説の言いたいことがわからぬのですが、
これも学校単位で訪れる見学者のための「サービス」かなあと思ったり。
わからないといえば、この近くにあった、
これも、なぜここで説明することなのか少しわかりかねます。
一応これも翻訳しておきますと、
#1 暖かい海水(26~7℃)はハリケーンにエネルギーを与え、
さらに水蒸気が湿度の高い空気と雲を作る
#2 上昇気流となる
#3 空気が上昇するため風はストームの上を外側に流れる
#4 湿った空気が嵐の雲を発生させる
#5 風が外からハリケーンを攪拌することによって規模が増大する
はい、よくわかりました。・・・・・でそれが?
とここでもおもわず真顔になってしまったのですが、航空力学はともかく、こちらの話題は
「ホーネット」と若干どころかかなり関係があったことが後からわかりました。
前のシリーズエントリで、この日本軍に沈められた「ホーネット」の後釜として急遽
「ホーネット」と名付けられたところの航空母艦が、まるで先代の仇を討つかのように、
阿修羅の様相で(というのはかなり適切でない表現かもしれませんが)宿敵の日本軍と次々交戦し、
その武功抜群を讃えられて(この表現もあまり適切ではありませんが)、
7つの従軍星章、殊勲部隊章をあたえられた全米の9隻の空母のうちの一隻となった、
というようなことを縷々お話ししたわけですが、そんな最強空母にも勝てないものがありました。
沖縄近海で見舞われた台風です。
あらあら、甲板がまるで紙のように折れてしまっていますね。
「大和」特攻となった海戦で「スーパー・バトルシップ・ヤマト」(本当にそう書いてある)は
俺たちが撃沈した!と大威張りの「ホーネット」でしたが、この坊ノ岬沖海戦後、
米軍の沖縄上陸を支援していたホーネットは台風に襲われ、あっさりと崩壊してしまいます。
この「神風」にはひとたまりもなく、彼女はサンフランシスコへの帰港を余儀なくされたのでした。
さて、アイランドツァーは最上階の艦橋にまず上がってきました。
日本の軍艦では戦闘指揮所と操舵が一緒になることはまずなく、というのは
ひとところに全てが集中しているとそこが攻撃された場合ジ・エンドになってしまうからですが、
米空母も同じ理由で役目が分散されているのだそうです。
これが「ホーネット」の「司令官の椅子」だ!
「ホーネット」は旗艦でもあったので、艦隊司令が坐乗し指揮を執る艦隊用の指揮所と
艦長が指揮する操艦用の艦橋は別になっていたはずです。
冒頭にもお断りしたように、このアイランドツァーに参加してから日が経って
記憶がすっかり薄れてしまったので断言はしませんが、ここは艦隊指揮所の方です。
レイテ沖海戦は、連合国側からは延べ734隻の艦船が参加していますが、
このときの「ホーネット」は、第3艦隊38任務隊の4つのタスクグループのうち、
第1群の旗艦として、空母ワスプを含む約40隻の陣頭に立っています。
このとき「ホーネット」に艦隊司令として坐乗したのが、
ジョン・S・マケイン中将
でした。
共和党のマケインさんのお祖父ちゃん(シニア)で、息子のマケインJr.も
大将まで出世した海軍軍人ですが、この元祖マケインのアナポリスでの成績は
全く奮わなかった(116人中79位)ということでです。
51歳でなぜかパイロットを任命されるなど、出世の王道をひた走ったわけではありませんが、
部下を鼓舞させるようなカリスマ性のせいか、はたまた飲む・打つが豪快だったせいか、
いつのまにか(笑)海軍少将に昇進し、アーネスト・キング大将という後ろ盾を得て、
キングの肝いりで創設された航空部の司令官の座と中将への昇進を手に入れることになります。
とにかく、「ホーネット」のマケイン中将は、この海戦で退却する栗田艦隊に痛打を浴びせ、
その後38任務隊の司令であったマーク・ミッチャーを蹴落として(?)代わりに司令官となりました。
艦隊司令としての彼の仕事はほとんどが「神風との戦い」に尽きました。
「フランクリン」「ベローウッド」「レキシントン」をことごとく特攻隊にやられ、
マケインはいかにこの恐ろしい攻撃を回避すべく作戦の陣頭指揮を取り、ある程度それは功を奏したのですが、
同じ「神風」でも、前半でもお話しした「自然の神風」には敗北を喫することになったのでした。
海戦終了して司令官になったばかりの第36任務隊は、沖縄海域で「コブラ」という名の台風に遭遇しますが、
あの「レッドブル」こと猛将ウィリアム・ハルゼー提督が
「台風を避けずに中を突破する!」
と力強く言い切ったのに対し、マケインはもみ手をしながら(かどうかは知りませんが)
「そうです!台風何するものぞ!さすがはハルゼー閣下!あんたは大将!」
(といったかどうかは知りませんが)追認してしまったのが運の尽き。
案の定艦隊は大自然の威力には到底太刀打ちできず、駆逐艦3隻がこれにより沈没してしまいます。
国民に人気があったので更迭とまではいきませんでしたが、この責任を問われて
ハルゼーはスプルーアンスと交代、我らがマケインはもう一度ミッチャーと交代して
38任務隊司令から元の第1群司令に格下げとなりました(T_T)
しかしハルゼーとマケインコンビの不幸はこれに止まらなかったのです。
沖縄戦が始まった時、またしてもハルゼーはスプルーアンスと、マケインはミッチャーと
交代しており(このあたりの人事が全く理解不可能なのはわたしだけでしょうか)、
艦隊の指揮を執ったのですが、この二人が組むとなにかネガティブなものを引き寄せるのか、
(後者の名前のせいだ、と思うのはわたしが日本人だからでしょうか)
第38艦隊の進路に再び大型の台風が接近していることがわかりました。
さあ、今回はどうする、ハルゼーとマケイン!
「台風の只中を突破するっていうのも今考えたら無茶だったな」
「そうですよ閣下。今回は進路を予想した上でちゃんと避けないとですね」
「・・・きさまあ、何を上から目線で言ってやがるんだ!
前回俺の意見に全面的に賛同してたのはどこのどいつだこのマザー◯ァッカー野郎」
「伏字で罵らないでくださいよ~。今はそんなこと言っている場合じゃないでしょ」
「うむ、そうだな・・・・で台風の進路はどうなっとる」
「ここがこうでこうくるはずですから、この際台風の南にまわり込みましょう!」
というような会話ののち(かどうかは知りませんが)二人が予測した台風の進路は
大外れ。
「きいさまああ!全くハズレやのうて大当たり、台風直撃やないかい!」
「閣下!落ち着いてください!今はそれどころでは」
「きさまがこの責任を取って今すぐ台風から抜け出せ!
たった今から戦術指揮をきさまに全て移譲する!」
「ひええええ」
という会話の後(かどうかは知りませんが)マケインはハルゼーに変わって艦隊指揮をとり、
なんとか台風から抜け出したのですが、被害は甚大でした。
・・・・・それが、前半でお話しした「ホーネット」の甲板破損、「ベニントン」も同じく大破、
重巡「ピッツバーグ」は艦首をもぎ取られて漂流という災難だったのです。
この「ハルゼー・マケインコンビ」は今度こそ厳しく訴追されました。
ハルゼーはまたも国民の人気を理由になんとか首の皮一枚つながったようなものですが、
マケインの方は後ろ盾だったキング大将からも見捨てられ、更迭の通知を受けます。
その時には病に侵され体重が45キロになるなど憔悴しきって、帰国したらすぐに退役しようと
決意していたマケイン中将は、「最後の花道」として戦艦「ミズーリ」艦上の
日本の降伏文書調印式に参列し、帰国と同時にこの世を去りました。
この参列はハルゼーの好意(か罪滅ぼしかは知りませんが)により実現したと言われています。
合掌。
艦橋の指揮所窓からは、かつて軍港でありここから「ホーネット」が出撃した
アラメダの港湾地域が一望に広がっています。
向こうにうっすらと見えているのが、このときわたしが車でここに来る時渡ってきた
サンマテオブリッジという連絡橋で、方角でいうと南になります。
かつてマリアナ海で「七面鳥撃ち」をした航空機や本土空襲に向かう飛行機の発着はじめ、
坊ノ岬沖での「大和」の沈みゆく姿、初めて月着陸を果たした人類を乗せたカプセル、
そしてマケイン中将を苦しめた二度の「神風」・・・・・・・。
いたるところにひびの入ったガラスは、それら全ての出来事を、この艦橋に映してきたのです。
続く。