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工作艦と「幻の急設網艦」

2015-05-14 | 軍艦

工作艦「明石」慰霊碑


みなさん、工作艦ってなんだと思います?

日露戦争の時の「旅順港閉塞作戦」みたいに、「工作」をする艦?

まあわたしは最初そうだと思っていたのですが(←)そうではなく、

クレーン・溶接機・各種工作機械などを装備し、艦船の補修・整備を行うための艦、
つまりいわば「移動工廠」とでもいうものです。


艦船の補修・整備はドックに入渠しなくてはいけませんが、
拠点から遠くに展開している場合は往復に時間がかかり、作戦展開上それは難しい。

そこで、作戦海域の近くで整備・補修が行えるようにと作られたのが工作艦です。
行動拠点の港湾や泊地内に停泊し、整備が必要な艦船に対して作業を行います。

小学生に説明するように言うならばフネのお医者さんってところですね。


「明石」は改造や改装ではなく、最初から工作艦として作られた唯一の艦でした。
その目的に応じて艦体は大変大きく、工作のための器具を行き来させるため

全艦バリアフリー

だったそうで、実に先取です。 

内部には17もの工場があり、原材料を精製する溶鉱炉から部品を鋳造する鍛冶施設、

旋盤による削り出しや製品の組み立てなどの仕上げ作業までが可能でした。
しかも搭載されていた機械は国内の海軍工廠にもないドイツ製
移動式工廠でありながら、本物よりもずっと先端の装備を備えていたのです。



「明石」さん(右から三番目)お仕事中。


開戦後はトラックを泊地に、南洋を駆け回り、多くの艦船の修理に携わりました。
当然、敵からは最重要目標としてマークされることになります。

給糧艦の「間宮」が狙われたようなものですね。

乗組員は779名のうち半分以上の443名が工作部の工員で、
軍人だけでなく一部民間人も乗り組んでいました。
これら工作艦に乗っている「兵曹」に相当する階級は


「工曹」(一工曹、二工曹などという)

とされていたそうです。
特務艦乗り組みという使命感のなせることか、「明石」の工員たちは、
海軍工廠勤務より勤務態度が良かったという話もあります。

しかし、一般人である大多数の工員もまた、アメリカ海軍の「最重要攻撃目標」
である「明石」に乗っている限り、死の危険から逃れることはできませんでした。 

昭和19年2月、トラック島を空襲した米機動部隊の攻撃で「明石」は大破。
そのあと「修理のために」パラオに回航されます。

「明石」は自分自身の修理ができなかったということなんでしょうか?

おそらく、ある程度ならできても大破してしまってはもうどうしようもなかったのでしょう。
「明石」はパラオに停泊した直後、またもや空襲に遭い、今度は着底して戦没しました。

「明石」の喪失は日本海軍にとって大変な痛手となります。

これ以降、南洋の日本軍艦船は当地で修理をすることが不可能になったため、

内地に帰ることを余儀なくされた艦船はその航路、次々と米潜の攻撃の前に喪失していきました。
 

 

ひっそりとあった、これも工作艦「朝日」そして「山彦丸」「山霜丸」の合同慰霊碑。

日本海軍は全部で5隻の工作艦を所持していましたが、
そのうち4つの碑がここ呉海軍墓地にあるということになります。

「明石」以外の工作艦は全て元からあった船を改装したもので、
「朝日」は明治時代、英国から購入され、その後戦艦として日露戦争に参加しています。

そう、「朝日」。「ア・サ・ヒ」です。 覚えてませんか?
なに、お分かりにならない?それでは。



これですよこれ。

先ほど少し「旅順港閉塞作戦」の話が出ましたが、そのとき部下の
杉野孫七兵曹を探していて下船が遅れ、戦死して軍神となった広瀬武夫少佐は、
「朝日」の水雷長をしていたことがあり、杉野は「朝日」の回航メンバーでもありました。 

「坂の上の雲」では、広瀬が、恋人のアリアズナに自分の乗っていた日本語の
「朝日」の意味を教え、彼女がそれを「ア・サ・ヒ」と繰り返すという回想をしたところで
爆死したんでしたね。とても感動的なシーンでした。(←本気で言ってますよ?)


つまりこの「朝日」は、旅順港閉塞作戦で「工作船」となり、その後改装されて
全く違う意味の「工作艦」にされたということです。
だれがうまいこといえと、と海軍省の中の人がウケを狙って決めたに違いありません。(ゲス顏)

改装されて工作船になった「朝日」ですが、日露戦争で広瀬武夫が載っていたというだけあって、
もうすでに老朽艦(1900年竣工)のお婆ちゃんです。
ゆえに速度が遅く、米潜水艦の格好の餌食となってしまいました。


1942年、シンガポールで任務に当たっていた「朝日」は自身の修理と移動のため、
内地に帰国する途中、米潜水艦「サーモン」の攻撃を受けて転覆沈没しました。

多くが救助されましたが、それでも数十名もの戦死者を出しています。


あと二つの工作艦「山彦丸」「山霜丸」は共に山下汽船の貨物船を改造したものでした。

山彦丸

「山彦丸」は昭和16年徴用と同時に工作艦となり、南西方面で任務に就いていました。
トラック島から船団を編成し横須賀に航行中、鳥島沖で米潜「スティールヘッド」の
魚雷を機関室に受けて航行不能となり、艦長以下そこにいた全員が戦死。
その後曳航中に船体が切断し、沈没してしまいました。

また「山霜丸」は1941年徴用されたもので、こちらは元々徴用後輸送任務についていましたが、
昭和18年、ここ呉で特設工作船に改造工事を受けました。
昭和19年、サイパンから横須賀に向う途中、米潜水艦の魚雷を受け、
やはり艦長以下船員3名が艦橋で戦死しています。


海軍の所持していた5隻の工作艦のうち、あと一隻は「関東」といいます。
これも明治年間の建造で、日露戦争の時にロシアから鹵獲した「マンチュリア」とう船を改造して
工作艦としたものですが、こちらは戦前(1924年)、福井県沖で岩に激突して沈没したので、
ここに唯一慰霊碑がないというわけです。

このとき「関東」の乗員は99名全員が死亡しています。




軍艦「初鷹」の碑

自然石の立派な基礎がある大きな慰霊碑なのでなんとなく空母かなと思ったのですが、
じつは「初鷹」は当初、急設網艦という艦種として建造されました。

工作艦ならこれだけでなんとなく意味はわかっても、この言葉から
その役目をすぐに答えられる人はあまりいないかもしれません。(わたし含む)

世界の海軍にとって、第一次世界大戦後最も脅威となったのは潜水艦です。
やってくる敵を深海に潜んでじっと待ち、近づいては魚雷を打ち込んでくる恐ろしい敵。
それ自体の消耗率も高かったのですが、潜水艦の攻撃によって沈んだ船はとても多く、
アメリカ海軍では特にUボートの投入以後、潜水艦への危機感は高まる一方でした。


そこで艦隊の停泊する泊地を潜水艦の攻撃から守るために、防潜網を張ることが考え出され、

日本はこれを敷設するための艦を世界で最初に造ったのです。
こういうのを真っ先に思いついて、実際に造ってしまうあたりが日本人だなあと思わずにいられないのですが、
世界初の急設網艦「白鷹」は、なぜか就役の時には「急設網艦」ではなく「敷設艦」とされます。

新たに「初鷹」「蒼鷹」という
二隻の「初鷹型」急設網艦も、敷設艦に区分けされたので、
「急設網艦」というものは海軍史上一つも存在しない「幻の艦種」ということになります。 

wiki 


ここに慰霊碑のあるのはその「初鷹」型敷設艦の一番艦。
急いでいたので正面の写真が撮れずわかりにくいのですが、立派な石碑には凝った字体で
「軍艦初鷹慰霊碑」の文字が彫り込まれ、その傍には第4代艦長土井申二大佐と、
第5代艦長である尾崎隆少佐の名前が刻まれています。

おそらく慰霊碑建造の時に生存していた艦長経験者は6名のうちこの二人だけだったのでしょう。

昭和14年に播磨造船所で起工され就役した「初鷹」は、開戦後は南遺艦隊として
あの「落下傘部隊」で有名になったパレンバン攻略作戦を支援しています。

防潜網を敷設するのが目的で作られたといっても「初鷹」のように比較的大型なものは
艦隊に随伴し、前進基地で輸送任務、対潜哨戒を行うのがが主な任務でした。
「敷設艦」は英語で「マインレイヤー」といい、機雷の敷設が「本業」です。

「初鷹」は触雷で小破したこともあり、最後は米潜「ホークビル」の雷撃で沈没しています。
どちらに対しても「専門家」であった「初鷹」ですが、これを自らが避けることはできませんでした。


「初鷹」の同型艦は「蒼鷹」「若鷹」。
「蒼鷹」も米潜「パーゴ」の雷撃に没し、「若貴」は敵潜の雷撃で艦橋を切断した状態で終戦を迎えています。