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フライトジャケットのファッション黒歴史〜国立アメリカ空軍博物館

2024-08-14 | 航空機

国立アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示をご紹介していますが、
今日は彼ら爆撃機搭乗員が着用したボマージャケット、
「A-2」についてのお話からはじめたいと思います。

■ A-2ジャケット



「ボマージャケット」というのはファッション用語として
一般名詞になっているわけですが、正式にはフライトジャケットといいます。

最初にフライトジャケットが生まれたのは第一次世界大戦時でした。

当時の飛行機はモノコックのコクピットはなかったため、
パイロットは皮革でできていて、襟が高く、裏にファーがついていて
袖口とウェストがぴったりした、つなぎタイプのものを着用しました。

第二次世界大戦が始まる頃、航空機が飛行する高度はより高くなり、
ヨーロッパでの爆撃は高度7,600m以上から行われるようになります。

前にも一度お話ししましたが、このとき気温はゆうにマイナス50℃となり、
しかも機内は断熱されていなかったので、彼らにとって
暖かい毛皮のついたフライトジャケットは必須装備だったのです。

国立アメリカ空軍の爆撃機コーナーには、
この写真のような陸軍航空隊のA-2ジャケットが多数展示されています。

「ジャケット・アート」の素晴らしい一例であるこのA-2ジャケットは、
B-26「シューティン・イン」の爆撃手・ナビゲーターが着用したものです。

ジャケット前面のパッチは、オリジナル機が配属されていた
第556爆撃飛行隊の記章です。


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9ドル98ってやっすー。
今の円なら3万6千円くらいでしょうか。

申し込みは現金かチェックを手数料45セントプラスして送ってね。

素材:アメリカ陸軍航空隊指定の、航空士に支給されているのと同じです。
しなやかな茶色のホースハイドレザー製。
革製の襟と肩章(エポーレット)。
腰部分と袖口にはダブルニットがあしらわれています。
ジッパーはコンシール(隠し)とフラップポケット付き。丈夫な裏地。
サイズは胸囲36~46までとなっております。

ご注文の際は身長と体重を明記してください。


なぜ一般人がこんなものを買えたかというと、
民間の業者がそっくりなものを勝手に作って売っていたからです。

つまりこの広告のジャケットは本物そっくりのコピー商品なのです。

実際は、軍用ジャケットを正規ルートで購入することができるのは、
陸軍航空隊に所属する現役の航空搭乗員だけでした。

マッカーサー将軍やパットン将軍、ついでにグレン・ミラー少佐
普通にこのA-2ジャケットを着用していましたが、
非航空士官は「普通のルート」では買えないというのが建前だったので、
おそらくそういった人たちは何らかのコネクションを使って
非正規に純正品を手に入れていたのではないかと言われています。

このA-2ジャケット、まずなぜ「A」かというと、
単にAIRから来ているのではないかと思われます。

そして「A-2」という名称からおわかりのように、
このタイプには旧モデルであるA-1が従前に存在しました。
A-2は、A-1の前ボタンをファスナーに、
スタンドタイプのニット襟を皮に変え、さらに喉元にカギホック、
エポーレットをつけるという変更が加えられました。

■ A-2ジャケット〜誇りと共に



それでは航空士たちにA-2ジャケットはどの時点で渡されたかですが、
彼らが基礎飛行訓練を終え、高度な飛行訓練を卒業する時、
ジャケットは卒業証書のような意味合いで授与されることになっていました。

とはいえ、一人一人が壇上で授与されるようなセレモニーではなく、
サイズ別に並べられた箱の前に並んで受け取るだけです。

最初は士官専用でしたが、いちいちデザインを変えるのもなんなので、
そのうち下士官たちにも同じものが配られるようになりました。

とはいえ、ウィングマーク同様、これを受け取る感激はひとしおで
搭乗員たちはウィングマンの誇りを持ってジャケットを着用しました。
(だからこそ、これを受け取ることができるのは搭乗員だけとされたのです)

そして、思い入れの大きさは、愛着のあるジャケットに自らが
独自のアートワークを施すという形で表されるようになります。

自らの愛機の姿や部隊マークだったり、流行りのピンナップガールだったり。
爆撃機搭乗員がよくやったのが、上着の右前に爆弾の形を描くことです。
ミッションの数に応じてそれは描き足されていきました。


陸軍搭乗員のジャケットは、持ち主がさまざまな勤務地を経るたびに、
飛行隊のパッチやランクマークが付け替えられるのが慣習だったため、
大抵のものはその部分が針穴だらけになっています。



■ 海軍搭乗員のG-1ジャケット



皆さんが一度はごらんになったことがあるこの写真。


いやー、若い頃のトム・クルーズってマジイケメンだったんですね。
昔は何とも思わなかったけど、今になって感動するわ。

じゃなくて、注目していただきたいのは彼のフライトジャケットです。
そう、ところせましと所属した部隊のパッチがはってあるでしょ?

実はこれ、同じ搭乗員でも海軍だけの慣習ってご存知でした?

海軍搭乗員のジャケットのことをG-1ジャケットと呼びます。

先ほども述べたように、陸軍航空隊のA-2ジャケットは、
陸軍の慣習で現在の任務先のパッチしかつけてはいけなかったのに対し、
海軍のG-1ジャケットには、第二次世界大戦のころから、
これまでに所属したことのあるすべての飛行隊のパッチを、
G-1ジャケットの余白を埋めるようにして貼ることが許されていました。

陸軍搭乗員は飛行隊を変わるたびにパッチを付け替えねばならず、
AAFののジャケット左胸は穴だらけというのが相場でした。

ちなみにこのG-1ジャケットですが、現在でも海軍、海兵隊、
沿岸警備隊と水のつく軍の航空搭乗員が着用しているものを指します。

なんでGなのかはわかりません。

アメリカ兵のことを「Government Issue」(官給品)の頭文字で
「GI」と称しますが、ここから来ているのかな。
ご存知の方おられましたら教えて下さい。

ところで、ためしにG-1ジャケット、と検索してみてください。

「G-1ジャケット ださい」

が、かなりの確率で出てくるかと思います。
そのダサいジャケットとは、このことです。



右端の三人と真ん中、左下の人が着ているのは、VB-3型といわれる
ムートンファーの襟の、まあよく映画で見るやつです。

これはライバル陸軍に張り合って作られたので、かなりいけてます。

しかしながら、この写真で左上の一団及び足組んでる人たちが着ているのが、
戦争経済対策とサービスカットを目的として普及された、
M-422Aジャケットという、
海軍服飾の黒歴史です。

高高度から爆撃を落とすのが仕事だった陸軍爆撃隊とちがって、
海軍の、特に艦載機搭乗員はそんなに高いところを飛ばないだろうってか?

いや、甲板上で潮風に吹き曝される環境でこれってどうなの。
パイロットというよりどこのガス点検の係員ですかみたいな格好です。

これはあまりのかっこ悪さに(たぶん)意識高い系搭乗員は着用せず、
よほどの海軍事情通の記憶にしか残らずに消えていきました。

世間では戦時中A-1ジャケットが人気だったこともあり、
これではいかんとやおら負けん気を出した海軍は、
戦争が終わってから改めて気合を入れたG1ジャケットを発表しました。
トム・クルーズが着ているのとほぼ同じ仕様のものです。

しかし、1979年から2年間にわたって、海軍はまたやらかします。

時期的におそらく第二次オイルショックの頃だと思いますが、
定期的に節約病に襲われるアメリカ海軍が、またもや予算節約のため、

人気のG-1を支給するのを中止して、こんなものを押しつけたのでした。

たしかキムさんのダディがこんなの着てたわね。

しかも、搭乗員間でのG1ジャケットの交換も禁止、と要らんお達しを出し、
つまり、古着も着るな!ということにしてしまったのです。

きっと現場の不満はすごかったことでしょう。

結局、海軍長官は1981年には措置撤回を決定し、海軍、海兵隊、
そして沿岸警備隊の飛行乗務員には遡ってG-1が配られることになります。

その5年後、映画「トップ・ガン」が空前のヒット作となった時、
彼らはG-1を復活させておいて良かった、と胸を撫で下ろしたことでしょう。

映画の爆発的ヒットに伴って、トム・クルーズが着たG-1が人気になり、
ファッションとして爆発的に一般に普及するようになったのですから。


現在はいくつかのメーカーから、マーヴェリック風のもの、
マックイーン風のもの、シンプル、大まかにこの3種類が発売されています。

■ 陸軍航空隊の「節約」タイプ

ところが陸軍も、海軍のような「節約」をやらかしていました。

A-2 がアメリカのパイロットの象徴となったにもかかわらず、
1943 年にHH "ハップ" アーノルド将軍は、何を思ったか、

レザージャケットの契約をキャンセルして、その代わり
B-10やB-15 のような布のシェル・ジャケットを推しました。


海軍よりはまし

言うまでもなく、航空隊員にこのジャケットは全く受けませんでした。

布製に移行した後でも、誰もがお達しを無視して交換用のA-2を注文し続け、
それを受けて生産もこっそり?1944 年まで続けられていました。

陸軍は1943年半ばに革製ジャケットを購入するのを禁じましたが、
禁止令が出ても現場はほとんどがその通達を無視していました。

示されている多数の写真を見ればわかるように、
搭乗員にA-2の着用をやめさせることは不可能だったのです。

■爆撃機パイロットたちの遺品


上:第8空軍の無線オペレーター、ウィリアム・ニクソンSSgtが
1945年に着用していたフライトジャケット。

下:第15空軍の技術軍曹、フィリップ・ジョーンズが
1944年のプロイェシュチ爆撃のときに着用していた飛行帽。


同じくジョーンズ軍曹の当日のヘルメット。
彼がこれを着用している時に対空砲の破片が飛んできて
ヘルメットに凹みの傷をあたえましたが、
軍曹は奇跡的にも全く無傷で帰還することができました。



第8空軍のパイロット、デルバート・ケール大尉着用のA-2ジャケット。

ORDNANCE EXPRESS

は、「兵器超特急」と言う感じでしょうか。

爆弾を数えると35個ありますが、これは、
ケール大尉(当時)が1944年から1945年3月にかけて、25回どころか、
35回のミッションに機長として参加したことを指します。

ケールは22年間アメリカ空軍に勤務し、
最終的には中佐として退役しています。



こちらのA-2ジャケットも、やはり35回のミッションを
1944年の7月から10月までの3ヶ月間に達成した
S・M・アレン大尉が着用していたものです。



「ベルリン・ボム」
「アンクル・シールSHIRL」

その下の三つの爆弾には、爆撃をした35の都市名が書かれています。
真ん中の爆弾には「パリ」と言う文字も見えるのですが、
こいつらパリに爆弾落としてたのか?

SHIRLはSHILLと同義で、文字通り「シュルシュル言う」とか、
「叫ぶ」「けたたましい」「鋭い光を発する」と言う意味があります。

あえて訳すなら「シュルシュルおじさん」ってとこかな。



第8空軍の航法士、チャールズ・セトルメイヤー大尉が使用していた道具。
セトルメイヤー大尉は1943年9月から翌3月までの間に
26回のコンバットミッションを達成しました。



1944年10月から1945年5月まで任務を遂行した第8空軍のナビゲーター、
ジム・ライトが着用していたジャケット。 

左胸の爆撃手バッジの下にある青いフィールドマークは、
彼が戦闘で飛行したことを示すものです。



これは墜落したあるB-17爆撃機の酸素タンクです。


ルーマニアのプロイエシュティ上空を空襲中、
第15空軍のB-17は敵戦闘機からの攻撃で大破し、爆撃手、

デイビッド・リチャード・キングズレー中尉ら数名の乗員が負傷しました。

機長は全員にベイルアウトを命じましたが、キングズレー中尉は

パラシュートを失ったマイケル・サリバン曹長に自分のものを譲り、
本人は墜落する機体から脱出することなく死亡しました。

死後彼に贈られた名誉勲章には当時の様子がこう記されています。

「彼は負傷者に応急手当を施し、ベイルアウトの命令が下ると、
負傷者がハーネスを装着するのを手伝った。

そんな混乱の中、負傷しハーネスを見つけることができない尾部銃手に、
キングズレー中尉は、自分のハーネスを惜しげもなく外し、装着させた。

ベイルアウトする乗組員が最後に見たとき、
彼は爆弾倉のキャットウォークに立っていたという。

機体は自動操縦でしばらく飛行を続けた後、墜落し炎上した。
キングズレー中尉の遺体は後に残骸の中から発見された。」

彼は死後10ヵ月後の1945年4月9日に名誉勲章を授与され、
バージニア州のアーリントン国立墓地に埋葬されました。


続く。



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