ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

ターゲット ベルリン(友軍爆撃の悲劇)〜国立アメリカ空軍博物館

2024-07-15 | 航空機

バッファローネイバルパークシリーズと同時に、
オハイオの国立空軍博物館展示の紹介も再び進めて行こうと思います。

アメリカ空軍(当時は陸軍)がヨーロッパでどのような航空戦略を展開し、
その経過と最終的な結果までが資料で紹介されているこのコーナー、
前回は連合軍が慣れない?ヨーロッパでの航空攻撃で
いかに苦労し、工夫し、そして犠牲を払ったかまでお伝えしたと思います。


ところで、アメリカ空軍の主要かつ最終攻撃の標的、それはベルリンでした。

■ なぜベルリン爆撃だったのか



ドイツの首都ベルリンは、その工業的重要性だけでなく、
ルフトバッフェが何がなんでも防衛せねばならない拠点であり、
だからこそその過程で彼らに大きな損害を与えることができるからです。

米空軍は1944年3月6日、ベルリンに対して最初の大空襲を行いました。

米軍は672機の重爆撃機でベルリンを攻撃、うち69機が撃墜されました。
そして2日後、174機のP-51に護衛された462機の爆撃機で帰還しました。


米空軍のオールマン・カルバートソン中佐が1944年3月6日、
米空軍初のベルリン大空襲で使用した地図です。

赤い線は爆撃機の進路、赤い丸で囲んだ部分は対空砲の集中を示します。
細かい網目になっているということは、よほど細かく、
都市上空を隈なく網羅して進路をとったかを表しています。

戦後准将になってからのカルバートソン
ヨーロッパでの爆撃作戦にはベルリンを含め11回参加した



1944年3月6日、第447爆撃群のB-17パイロット、
ウィリアム・H・レクター少佐が、
アメリカ空軍初のベルリン大空襲で着用したゴーグルと空軍ヘルメット。

博物館写真

■ブランデンブルグ・アラド航空製造への爆撃


ブランデンブルクのアラドで炸裂する爆弾。
1944年8月4日の攻撃。

アラドArado Flugzeugwerke GmbH は、

1961年まで存在したドイツの航空機会社でした。

スミソニアンの航空博物館にあるアラド製の爆撃機を
ここでも紹介した覚えがあります。

当時アラドはブランデンブルク最大の企業であり、
戦争とヨーロッパ諸国の占領政策の結果、
多くの外国人労働者が働いていました。

1942 年にはドイツ人従業員が約 4,000 人であるのに対し、
非ドイツ人従業員は 22,000 人、その後も数は増えましたから、
アメリカ軍がアラドの工場を爆破したことで、
犠牲になったのは実はドイツ人より外国人や囚人、(ユダヤ人含む)
がほとんどだった、ということになるのです。

まあもっとも、アメリカにとっては生産の拠点を潰すことが目的なので、
なに人が亡くなろうが、そんなことはどうでもいいわけですが。

そして1944年4月18日、アメリカ軍の爆撃によって、
ハイデフェルトにあるアラド工場では
ハインケルHe 177爆撃機の生産を終了させられました。

He 177は、それまでバルト人、セルビア人、スペイン人、フランス人、
オランダ人、ベルギー人の労働で生産されていました。

この攻撃の後、ボイラー室と いくつかの設備が破壊されたため、
工場はより軽量なフォッケウルフ Fw 190だけを生産し続けました。

6週間後には生産は再開されましたが、それまで
航空機製造は別の工学工場などで代わりに行われました。

しかし1944 年 8 月 6 日(写真は8月4日とされる)の空襲により、
航空機の製造は一時的に中断され、1945年3月の空襲で
完全に生産の目処は断たれてしまうことになりました。


炎上し、対空砲火に囲まれながらも、このB-17は
編隊を維持してベルリンに爆弾を投下しています。

「マスターズ・オブ・ザ・エアー」でも、対空砲火を受けて
エンジンが破損し、パニクった副操縦士がすぐに脱出を、というのに対し、
機長はふざけるな!とすぐに怒鳴り返し、こういいます。

「任務を全うするんだ!わかったな」

そしてクルーに向かって

「飛べる限り任務を続行する!」

と叫んでいました。

この作品は、資料として残されたこのような実際の出来事を
ドラマに掬い上げて後世に残すことに注力していました。

爆撃機が狙われやすい、というか、最も攻撃に対し脆弱だったのは、

「ボムラン」と呼ばれる爆弾投下前の態勢でした。


爆撃投下のサイト(照準)を確保し、正確さを期すために、
最低数分間はまっすぐ水平飛行を続けなければならないからです。


このパイロットは、ベルリン上空で重傷を負い、
病院に搬送される前に機体下で応急手当てを受けなければなりませんでした。

車輪の前にいる人が点滴の瓶を持っています。
手前の後ろ姿がメディックでしょう。


■ B-17「ミス・ドンナ・メエ II」の悲劇


ベルリン爆撃に限らず、爆弾投下はこのように
まさにばら撒く状態で行われます。

わたしはかねがね、編隊によっては上下に機体が位置する場合、
上方の機が落とした爆弾が下方の味方機に当たらないのか、
と不思議で仕方がなかったのですが、ベルリン爆撃で
まさにその悲劇が起こっていたことが判明しました。



機体は米第8空軍第91爆撃群のB-17G。

たまたま上空から自分の機が落とした爆弾を追って
写真を撮っていたクルーがいたため、
この悲劇の直前の様子が歴史に残されることになりました。

今まさに爆弾を受けようとしているB-17です。



爆弾は左舷の水平安定板にヒットし、これを引きちぎりました。

その後、被災機は編隊から離れて落下していき、
安定を失ったため誰一人機内から脱出することができないまま墜落。

The Worst Possible Way To Lose a B-17 Bomber

Miss Donna Mae B-17


「ミス・ドンナ・メエII」の乗員。
彼らは誰一人生還することができませんでした。


続く。



最新の画像もっと見る

1 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご苦労様でした (Unknown)
2024-07-15 07:56:46
>「マスターズ・オブ・ザ・エアー」でも、対空砲火を受けてエンジンが破損し、パニクった副操縦士がすぐに脱出を、というのに対し、機長はふざけるな!とすぐに怒鳴り返し、こういいます。
「任務を全うするんだ!わかったな」
そしてクルーに向かって
「飛べる限り任務を続行する!」
と叫んでいました。

投下した爆弾が僚機を損傷させた動画を見ましたが、これだけタイトな陣形で、しかも、高射砲に撃たれる状況なら、陣形を維持したまま飛ぶのも難しいので、撃たれてソッコー機体を放棄したら、僚機にぶつかりそうだなーと思いました。ご苦労様でした。
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。