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呉鎮守府司令長官官舎

2012-07-13 | 海軍

先日、艦上正餐で出されたフランス料理のコースをアップしてみましたが、
あの模型が飾られていたのが、この呉鎮守府司令長官官舎です。

そのときにも説明しましたが、官舎そのものは鎮守府が置かれてすぐにこの地に建てられ、
それがゆえに、ここは「長官山」と地元の人々が呼ようになりました。
しかし芸予地震で建物が損壊。
すぐさま建て直しされたのが、この現在残っている呉鎮守府司令長官官舎です。

ここの説明をする前に、どんな長官がここに住んだのかをざっとご紹介します。
第7代長官有馬真一中将から、第32代長官沢本寄雄大将まで、約40年の間に26人。
有名どころを何人か挙げると・・・・

加藤友三郎 中将:1909年12月1日 -

伊地知季珍 中将:1915年9月23日 -

加藤定吉 中将:1916年12月1日 -

鈴木貫太郎
中将:1922年7月27日

野村吉三郎 中将:1930年6月11日 -

山梨勝之進
中将:1931年12月1日 -

嶋田繁太郎
中将:1938年11月15日 -

豊田副武 大将:1941年9月18日 -

南雲忠一 中将:1943年6月21日

最近の日本国総理官邸よりは少しはましとは言え、鎮守府長官の任期というのは
だいたい一年から一年半が相場であったらしく、主が頻繁に変わっています。

さて、この冒頭画像を見てお分かりのように、この建物はイギリス風です。
木造の骨組みを見せるように、間をレンガや漆喰でい埋めるという建築構造。

中世からヨーロッパに流行りだした様式で、フランスなども、郊外などに行くと、
今でもこういう様式の古い建物がプチホテルになって泊ることができたりします。
この様式は「ハーフ・ティンバー」と呼ばれるもので、神戸にある「うろこの家」と同じく、
屋根には天然のスレートをここもうろこのような形に切って置いてあります。

こうやって写真を見ると正面はまったくの洋館ですが、
この後ろには純和風建築の棟があり、廊下で繋がっているのです。

つまり、司令官として公式の接待や会談、会食や会議は洋館の部分で行い、
居住は全て後ろの勝手知ったる和式で行われたということですね。
いかに海軍は英国式といえども、ここに住まうのは江戸時代生まれだったりしたわけですから、
すべて洋風では困る、という要望があったのかと思われます。

海軍は組織を作り上げるにあたって、まずイギリス海軍をお手本にしましたし、
「世界の一等国」として先進国の文化を取り入れた日本の、さらに先端をいく
科学的組織としての矜持から、衣食住をすべて西欧風に整えていたわけですが、
「仕事中は仕方ないけど、プライベートでは着物を着てたたみで寝て箸でご飯を食べたい」
というのが、海軍の偉い人たちのホンネでもあったに違いありません。

芥川龍之介の「舞踏会」という話を思い出しますね。
鹿鳴館でダンスの相手をした日本の少女を見て、
「この娘も、紙の家に住んで竹の箸で米をつまんで食べているのか・・・」
という感慨を持つフランス人士官が、のちの作家「ピエール・ロティ」だった、という話。

さて、この洋風建築の表入口は、ガラスのはまった開き戸なのですが、これをご覧ください。

     

すりガラスに施された、海軍のモチーフ錨と植物を絡ませた模様が、実にエレガントです。
やはり、日本の意匠デザインのセンスは繊細ですね。
このガラスは一度も破損していない、つまり当時作られたものが現存しているのです。



執務室と応接室。



たしかこの椅子は当時のものですが、ほとんどの家具はレプリカです。

これ、なぜだと思います?

戦後、呉はオーストラリア軍を中心とする英連邦軍の占領地区となり、
この官舎は占領軍の司令長官官舎として使われました。
偏見で言うわけではありませんが、所詮これがオーストラリアの田舎者ですから(言ってるし)、
この建物の歴史的経緯など全く敬意を払うことなく、好き勝手な改造をして住み、おまけに
帰国の際は家具を持って帰ってしまったというのです。(ボランティアの解説の方談)

部屋の中も外壁も、真っ白のペンキを塗りたくり、組み木の床には
上にリノリウムを被せ、通路を作り、扉を加え、と改装しまくって帰ったわけです。
負けた哀しさ、何しろ向こうは占領軍ですから、改装にあたって日本側の許可を取るなど、
おそらく全くせずに行われたと思われます。

この応接室のピアノは当時のもので、現在もここでミニコンサートが開かれるのだそうですが、
この部屋の壁を見てください。
美しい金色をベースとした、立体的な壁紙が貼られているのがお分かりでしょうか。



これを、金唐紙といいます。
大きな木の、粉伸ばしのようなローラーの表面に手彫りで連続模様を施し、皮革や壁紙を
プレスしてできるエンボス加工によりこのような立体模様をつけます。



このように彩色したものもあり、明治時代の高級洋館建築の壁紙としてよく使用されていました。
この手法が流行ったため、明治時代にはこの壁紙を作る工場は15ほどあり、
「芸術産業」としてこの壁紙は輸出もされたようですが、
その後時代の移り変わりと共に、すたれた手法となりました。

とにかく、この貴重な金唐紙がふんだんにこの庁舎の内装に使われていたのですが、
モノを知らない田舎者ののオージーは、これを白いペンキで上から塗りつぶしてしまいました。

ハーフ・ティンバーの外壁も、同じくです。
その特徴である木の梁部分にも、遠慮会釈なく彼らは白ペンキを塗ってしまったのです。

昭和31年、日本政府に返還された後も、重要文化財として官舎はそのまま展示されていました。
しかし、その後老朽化が進み、修復を検討しているときに、建築当時の資料である
「明治38年 呉鎮守府工事竣工報告」が発見されました。

これを受けて、1991年から5年かけて、調査、解体、修復を行い、できるだけ当初の姿に
戻すべく、金唐紙もペンキを塗る前の状態に復原することに成功したのだそうです。

ちなみに、この金唐紙が壁紙として現存する建物は、全国でもわずか数か所で、
なかでもこの官邸には、洋館部のいたるところにそれが見られ、非常に貴重な資料となっています。
金唐紙の復元にあたっては、「金唐紙研究所」の職人の協力をあおぎました。
職人は、国選定保存技術保持者という特殊技術を持っているそうです。

 天井の照明器具は多分そのときのまま。

 正餐メニューの乗っていたダイニングテーブルの脚。

この猫脚細工もまた美術品レベルの貴重なものだそうです。
これは持って帰らなかったんですね。オージー。
大きすぎたってことかしら。

 

感心にも、和風建築部分を大幅に壊して改装するような不埒な真似はしなかったようですが、
それでもところどころ、鴨居の上の欄間を取ってしまっていたりして、
「これもガイジンさんがやったんですよ」(苦笑い)と説明の方はおっしゃっていました。
当時は畳の上にじゅうたんを敷いていたのかもしれない、と思ったり。



永年の使用ですっかり溝が摩耗してしまった敷居。
ガラスなどは全く破損しなかったらしく、当時の
「向こうが歪んで見え、ときどき気泡が入っているいびつなガラス」
がまだはめられていました。

  

便所(もちろん修復したもの)と当時のままの浴室のガラス戸。
洋館部分には見ることはできないものの、洋式の(たぶん)トイレットがありました。

このすりガラスは、長年の使用のうちに湯気が桟にたまって、その部分が透明になっています。
この窓を眺めながら、歴代長官はお風呂に浸かって謡いなどウナったのかなあ、などと想像。

 この官舎前の敷石も、当時のものです。

歴代長官を乗せた車がこの敷石の上を静々と走る様子が目に浮かびます。



ところで、最後に余談ですが、呉鎮守府の第34代長官は、岡田 為次少将です。
勿論この官舎に住まうことなど無かった、日本海軍最後の呉鎮守府長官です。
実に不思議なことに、呉鎮守府長官に昭和20年の11月15日に就任し、
わずか15日後の11月30日、鎮守府の廃止と共に退任しています。

呉鎮守府を廃止するにあたって、形だけでも長官が必要だったのでしょうか。

岡田少将は予備役に編入された直後、充員召集されてこの長官職に就かされました。
その後、呉の復員局で仕事にあたっていたのですが、
GHQのBC級戦犯裁判にかけられ、死刑判決を受けました。
岡田少将の刑は昭和22年9月、ラバウルで執行されています。








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