ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

帝国海軍と七十七

2012-07-07 | 海軍

       


元々歴史が好きだった人間が、ある時期から海軍に惹かれ、探求を始めました。
そして、それだけでは終わらず、ブログを立ち上げました。
「ネイビーブルーに恋をして」です。

その世界を形作る様式美、求めるものの精神性、機能を重んじた合理性と闊達さ。
勿論全てが上手くいっていたわけではありませんが、帝国海軍という組織が、今も昔も、
憧れの対象に足るスマートな集団であったというブログ主の考えには、
とくにここに来て下さる方々であれば賛同して下さるのではないでしょうか。

美は細部に宿る。
海軍的なものの美点の一つはその意匠の巧にもあると思います。
たとえばこの軍艦旗。

陸軍の旭日旗が、日の丸が中央にあるのに対し、軍艦旗は
この写真を見ても分かるように左側に日の丸が寄っているでしょう。
この絶妙なバランスが、何ともいえず美しい。
計算された粋です。

映画「バトルシップ」の自衛隊旗を見てお隣韓国が(笑)旭日旗と間違え大騒ぎしたそうですが、
日本人でもこの違いが分かっていない人が結構いるみたいですね。
詳細は避けますが、テレビ局関係者などには特に多いようです。

下写真は、先日護衛艦見学をしたときに、「さみだれ」の前方にいた、護衛艦「さざなみ」。
画面の奥に国旗と軍艦旗じゃなくて自衛隊旗がありますね。
手前の自衛官旗は、毎朝ちゃんと掲揚の儀式によって揚げられます。
この写真の海自旗ですが、何だか変なので「こんな旗あったっけ」
と画像を探しまくった結果、普通の旗がそう見えているだけというのが判明しました。
というか、ここは艦尾なので、普通に軍艦旗を揚げなくてはいけない場所なんですね。




さて、今日は旭日旗の話をするためにこの写真を挙げたのではありません。
海軍のことを色々調べている段階で、ある偶然に気づいたのです。
今日が
七月七日
であるというそれだけの理由で、今日のテーマを決めました。

「日本海軍と77」。

言っておきますが、無理やりです。あまり期待しないように。


その1

帝国日本海軍が生まれたのは明治元年。(1868年)
太政官制のもとに、海陸軍務課によって健軍とあいなりました。
そしてそれから77年後の昭和20年(1945年)、海軍は消滅しました。

つまり、日本帝国海軍の寿命は77年であった、というわけです。

ちょっと待て、ということは日本陸軍の寿命も77年ではないのか、と思ったあなた。
あなたは正しい。
しかし、今は海軍における77という数字の偶然の話をしているので陸軍はそっちにおいといて。
海軍が海軍省の機関になったのは1873年(明治5年)のことですが、ここから計算すると、
77という数字が出て来ないので(笑)明治元年を、この際海軍元年とします。

その2

前回、旧軍の大将に相当する海将たる海上幕僚長は、
16人いる海将のうちの一人である、という話をしました。
昭和27年(1952)の海上警備隊総監である山崎小五郎を初代とすると、
設立後の60年間に、我が海上自衛隊は30人のアドミラルを戴いてきたことになります。
これは平均すると任期二年という計算になります。

比して帝国海軍はどであったかというと、
77人が大将として信任されました。

制度的に大将はきっちり任期が一年ずつというわけではありません。
同時に何人かが存在していたり、「死後特進」として大将になった提督もいますし、
任期中に病死した提督(川村純義)もいたりするわけですから、
この77年で77人の海軍大将、というのは偶然とはいえ、不思議な一致です。

因みに初代海軍大臣は西郷従道
西郷隆盛の弟ですが、最初から大将であったわけではなく、
海軍大臣に就任後、大将に信任されたという変則人事でした。

「最後の海軍大将」というと何と言っても井上成美の名が浮かびます。
それが井上成美の言わば枕詞にもなっているのですが、
井上成美と同時に大将に昇進した人物がいます。
塚原二四三(にしぞう)です。
また、大和の艦長であった伊藤整一も、菊水作戦の後大将に「特進」していますから、
(井上、塚原より一か月前)言わば伊藤は「最後の特進大将」と言えましょう。


その3


海軍兵学校の第一期生は1870年(明治3年)に、兵学寮生徒として入校しており、
その終了は1945年(昭和45年)ですから、その歴史は通算75年。

兵学校は77期が最後の学生となっています。

ここで、「兵学校の最後の期数は78ではないのか。小沢昭一だって78期だったぞ」
と思われた方、あなたは正しい。
しかし、実はこの兵学校78期というのは正式には「予科生徒」という扱いなのです。

この期は総員4048名の大所帯。
本科だけでは、短縮された期間で教育課程を終了させることが難しくなったので、
本校生徒に必要な諸準備を完成させるために、前もって予科として人員を確保したのです。
78期生徒の入校は77期の本生徒より一週間早い日に行われました。

つまり、最後の兵学校生徒は、78期ではなく、77期なのです。


海軍の歴史が77年なんだから、大将の数も兵学校の期数も似たような数字になるだろうって?

はい、おっしゃる通りです。
ですから、この稿は、単なる「こじつけ」ですので、軽い気持ちで読み流してくださいね~。

その4

ここで質問。
日本に海軍を作った生みの親は誰でしょうか?
そう、ご存じ勝海舟ですね。

海軍兵学校の裏門の文字は、勝海舟の書の中から抜粋されたもので、
今日それも、校内の資料館で見ることができます。

勝海舟は、1823年文政6年旗本の家の長男として生まれました。

安政2年(1855)33歳のとき、長崎海軍伝習所の開設と共に入所、
海軍への第一歩を踏み出し、幕府海軍の創設に尽力します。

明治5年、海軍省の設置によって海軍大輔として明治政府に迎えられた勝海舟は、
日本海軍の創設に力を尽くし生みの親といわれ生涯を海軍に捧げました。
そして、

1899年、明治32年77歳で他界。

自らの作った日本海軍が世界に驚嘆された日本海海戦の6年前。
この海戦における圧倒的な勝利を見ることなく亡くなったのでした。

というわけで、さすがにネタが尽きたので、これにて打ち止め。
それでは皆様、ハッピー・7・7・ナイト!





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