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ワスプの赤道まつり〜空母「ワスプ」の戦後

2016-05-17 | 軍艦

アラメダの「ホーネット」博物館の展示をご紹介してきましたが、
そろそろ終わりに近づいています。
いろいろなアメリカ海軍の軍艦ごとに展示がされているわけですが、
空母「ワスプ」(USS Wasp, CV-18コーナーにやってきました。

「ワスプ」というと、どうしても(特にジパングの読者などは)、
日本が撃沈したあの、と思ってしまうわけですが、
その違いについて以前ここの展示を元に書きましたね。

ワスプ」メモリアル

つまり今日の写真は、そのとき(2014年)に撮り損なって、見覚えのない
展示品や写真を翌年もう一度行ったときに撮ったものです。



そのページを読んでいただければ、「ワスプ」が戦後しばらく日本に滞在していて、
1952年になってようやくアラメダに帰港することができた、と書きましたが、
この年、掃海駆逐艦「ホブソン」と衝突して「ホブソン」は沈没、
「ワスプ」の艦首部分は大きく引き裂かれるという大事故を起こしています。

「ホブソン」は艦長以下172名が沈没によって殉職しました。


これらが展示されている博物館となった空母「ホーネット」もそうですが、
先代が沈められた同名艦は、恨みはらさでおくものかとでもいった強い復讐心のせいか、
それともこのころになると、日本の国力がジリ貧になってくるのと相乗効果で
イケイケの戦果を挙げることができたのか、とにかくこの「ワスプ」も、
ウェーク島、サイパン・テニアン、そして本土攻撃と負けなしでした。

「ワスプ」が初めて日本軍によって損傷を与えられたのは、昭和20年3月19日の
いわゆる「九州沖航空戦」でのことになります。

ちばてつやの戦記漫画「紫電改のタカ」では、このときの空戦に主人公である
滝城太郎が所属する松山基地の第343航空部隊(通称『剣部隊』)が迎撃し、
主に滝城太郎の機転によって(基地上空に飛来した風船爆弾を空港に大規模な火を放ち
取り除いて出撃を可能にするという)大勝利を収めた、というシーケンスがあります。

このとき、米軍機動部隊の航空機と源田実大佐の剣部隊が交戦したのは史実です。
(風船爆弾は創作ですが)

「紫電・紫電改」約60機(3個飛行隊の可動機全機)が松山周辺上空で迎撃し、
日本側は、F6Fヘルキャット戦闘機など50機あまりを撃墜、
損失は被撃墜・未帰還16機とし、海軍航空隊「最後の大勝利」と言われてきましたが、
米軍の記録によると未帰還機・修理不能機数は日本側とほぼ同数だったそうです。


この日の損害が大きかったのはむしろ室戸岬に近づいていた空母だったでしょう。
マーク・ミッチャー率いる機動部隊は、 日本側の出撃可能な全航空兵力による反撃に遭い、
前日の18日は特別攻撃隊によって「フランクリン」「イントレピッド」「ヨークタウン」、
19日には「ワスプ」は「フランクリン」と共に大破しています。

ゲイリー・クーパー主演の映画「機動部隊」について書いたことがありますが、
主人公が艦長という設定であった空母(フランクリンがモデル)は、恐ろしい
「カマカゼ」(笑)によって戦闘不可能になり、戦線離脱を余儀なくされました。

このときのことを、日本のウィキでは「ワスプ大破」と記しているのですが、
どういうわけか英語の「ワスプ」のページにはこのようにしか書かれていません。

During this week, Wasp was under almost continuous attack
by shore-based aircraft and experienced several close kamikaze
attacks.
The carrier's gunners fired more than 10,000 rounds
at the determined Japanese attackers.

この週、「ワスプ」は沿岸基地の絶え間ない攻撃にさらされ、
数機の神風攻撃機の接近に遭った。
ガナーは繰り返しやってくる日本軍の攻撃に対し1万回以上にわたる砲撃を行った。

そしていきなり「4月13日、ワスプは爆弾ヒットの損害を修理するため帰国」
となっております。

日本側のWikipedia筆者はえてして、日本軍の、特に特攻隊による米軍の損害を
僅少に記す傾向があり、このことを「特攻の成果を矮小化する動き」
とわたしは穿った見方をここで披露したことがありますが、英語でも
個人が製作するWikipediaの記述では、特攻の被害が軽微であるかのように、
あるいは全くスルーして書いていなかったりすることが多いのに気づきます。


日本とアメリカではそうする理由は全く別ですが。




のちに「ワスプ」は日本近海で一機の特攻機の攻撃を受けました。
突っ込んでくる特攻機を発見したのは一人の機銃手でしたが、かれは
自分の方に向かってくる飛行機の操縦席を狙い続け、搭乗員が死亡するのが見えました。
しかし惰性を持った特攻機はそのまま「ワスプ」にむかってきたので、
機銃手はこんどは飛行機の翼だけを狙い、船への激突を防いだという話があります。

終戦1週間前の、8月9日のことでした。



さて、戦後修理を済ませた「ワスプ」は、一旦保管されていましたが、
1951年に再就役したとたん、「ホブソン」との衝突事故を起こし、
またまたドック入りとなりました。

このクリスマスカードの年号は1955年となっており、トナカイやサンタに
顔をすげられてしまっているのは、「ワスプ」の幹部であろうと思われます。
おそらくサンタクロースが艦長でしょうね。

冒頭のペナントは、1956年に行われた「極東クルーズ」のもので、
日本と台湾に就航したことがわかりますが、この年「ワスプ」は
CVからCVS、つまり対戦空母に変更されています。

ペナントにCVAとあるのは「攻撃空母」( Aはアタックの意)を意味し、
もしかしたら「CVS」(SはもちろんサブマリンのS)になる前だったからかも。


蛇足ですが、わたしは今回、CVは戦前の空母のことで、

C  CRUISER (巡洋艦規模の大きさの船)

V  VOLER (フランス語の”飛ぶ”)

C + V=(飛行機が)飛ぶ大型船=空母

だったことがわかりました。
てっきりCはキャリアー、Vはベッセル(船)だと思ってましたよ。ショック。 



少し時間は遡って1952年。
「ワスプ」がホブソンとの衝突事故を起こしたのは4月26日ですが、その後
10日で修理を終え、(なんと破損した艦首をホーネットの古い艦首部分と取り替えたらしい)
6月にはジブラルタルのタラワ、地中海に向けて航海を行いました。

ここにある一連の写真は、そのときの「赤道まつり」の様子です。
ありったけの船にあるシーツやタオル類で仮装した人たち。 
一番左は「ロイヤルジャッジ」だそうです。
女装する権利はやはりイケメンに限ります。 



画面下では、まるで西欧の拷問道具のような板に首とつっこまされ、
しかもズボンを脱がされて棒で叩かれている人が!
いじめか?



部分拡大図。やっぱりいじめられている。血まみれだし。
首をこんな風に固定して足元がこれって、実はすごい危険なんじゃないの?

うーん、アメリカ海軍の赤道まつり、なんだか殺伐としていますなあ。



ニコニコしながら整列しています。
艦長からの「本日の殊勲賞」とかの発表を待っているとみた。



両側から何かを投げられる中、走り抜けたら勝ち?みたいなゲーム。
走っている人の顔が必死です。



これは怖い。椅子に座った人を「処刑人」が死刑執行している。
マスクを被らされた人を椅子ごとプールに突き落としている瞬間なんですが、
プールといっても腰の高さもないので、これ危険なんじゃあ・・。

と、今頃言ってもどうしようもないですけど。

まあ、この2ヶ月前に大事故の大惨事を経験しているので
これくらいなんとも思わなくなってるってことなのかもしれませんが。



アメリカ人はこういうの好きですね。
息子が夏に参加するキャンプでも、毎週の「打ち上げ」で、くじにあたった参加者は
カウンセラー(先生)に水をかけたり、泡を顔に塗りたくる権利がもらえます。

ここでもかわいそうな犠牲者がわざわざドクロの旗を持たされ、
顔中に泡を塗りたくられております。



笑えねえ(笑)

後手に縛られ、床に転がされた人の顔は、白黒なので
わかりませんが、おそらく真っ赤なのではないでしょうか。

すでに戦争は遥か昔のことになり、よほどのベテランでないと、
実際にこの船で戦闘に参加した乗員はいなかったでしょうが、
それだけに何かこの殺伐とした笑いが不気味です。



この方は本物の従軍神父さんでしょうか。
右の人のTシャツには「ロイヤルCOP」とあります(笑)
あんたらロイヤルネイビーじゃないだろっての。

神父さん?が持っているのは「クライングタオル」。
これで涙を拭くようにゴールで持っているということだけはわかった。



もっと笑えねえ(笑)

なんか二人の人がすごく急いでいるっぽいので、どうもこの棺?を
今から二人でどこかに運んでいく競争かもしれません。



いやいやいやいや(笑)

あなたたち、それぜんっぜんしゃれになってませんから。
甲板でやってるから多分赤道まつりの出し物なんだろうとは思いますが、
この写真だけ単体で見せられたら、これ大事故かなんかで
甲板での緊急手術でも行ったのかと思ってしまいますよ。

やばい。この感覚はやばすぎる。


さて、冒頭写真の「極東クルーズ」に日本の旗があるので、
彼女がそのクルーズで日本に来た時の話をしておきます。

1956年の4月、サンディエゴを出発した「ワスプ」は真珠湾に向かい
まずそこで検査とトレーニングを受けました。
グアム経由で6月4日にまず横須賀に到着しました。
そのあと岩国を訪問し、8月いっぱいまで横須賀を起点に極東をエンジョイしていました。
(例の”ベビさん”を読んできたワスプの乗員も何人かいたかもしれません)

ところが、このとき、中国近海で海軍の哨戒機が撃墜されるということがあり、
ワスプはその捜索に参加するために現地に向かうことになりました。
搭乗員が捜索で発見されるということはなく、「ワスプ」はそのまま神戸に寄港、
横須賀に一旦立ち寄ってすぐに「極東クルーズ」を切り上げて帰っています。

1972年に退役、廃艦となるまでに28年と長寿をまっとうした「ワスプ」は、
第二次世界大戦の殊勲鑑ということでか、朝鮮戦争にもベトナムにも参加せず、
クルーズを行い、宇宙飛行士の揚収をしたりして悠々自適の晩年を過ごしています。