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酒飲み提督は誰だ〜料亭「小松」の物語

2016-05-22 | 海軍

横須賀の米が浜にある「小松」。
パインと呼ばれて海軍軍人のオアシスになっていたレス(料亭)です。 

現在の海上自衛隊の艦艇では夕食が午後4時半となっています。
4時半に夕食なんか食べたら夜お腹が空くんじゃないかと思うのですが、
そこは「夜食」というもので補うのでご心配なく。
冬に見学した掃海母艦でも、食堂にはおにぎりが置いてあり、
これを小腹の空いた人はつまむというのが慣例のようです。

で、この4時半夕食の慣習ですが、旧海軍時代からのものなんですね。
海軍時代は4時45分だったそうですが、なぜか現在は切り上げです。
理由はわかりません。

昔は夕食の後上陸が許されていたのでこの時間だったそうです。
半舷上陸 (乗員の半数を当直に残し、半数を上陸させること)とか
入湯上陸(文字通りお風呂に入るのが目的。一日置きに許される上陸)
で下士官兵は上陸が許されています。

士官はというと自由ですが、そうなると当時のことですから
レスの灯が無性に恋しくなって「運動一旒!」と声をかけてしまう。
そうすると、同じように思っていた者がぞろぞろ背広に着替えて集まってくるのです。

前にも一度書きましたが、海軍軍人は外で飲むとき背広に着替えることが多く、
軍服で飲みに行くことをあまりイケてると思わなかったようです。
隆とした背広を誂え、帽子をかぶって上陸することも海軍の「粋」であり、
オンとオフを切り替えるための大事なスイッチでもありました。

その点、陸軍は酒席にも長刀を「がっちゃんがっちゃんいわせながら」
やってくるので、海軍はそれを「野暮」だと見ていました。
陸軍は陸軍で、海軍がわざわざ着替えるのを

「ケシからん、軍服を着ないでちょろちょろと隠れて悪いところに行く」

と非難していたそうです。
まあ、何かにつけて反目し合っていたんですね。

着替えるといっても、毎日のことになると簡単に、上着だけを
たとえば夏の第2種軍装であれば白いズボンの上に上をグレーとか
紺ブレ?とかにして出かけるのです。
ところで夏はいいけど冬は上にどんな背広を合わせたのか、気になります。
ネイビーのズボンに合う別色の背広って難しそう・・。

陸軍と海軍の違いというのはいろいろありますが、上官と部下の距離感というのも
やはり海は狭い艦内で行動を共にするということからか、大変近いのが海軍、
きちんとしすぎるくらい間をおくのが陸軍、となっています。

東郷元帥に甲板掃除をする水兵が「どいてください」と直接言ったので
それを見ていた陸軍の偉い人が卒倒するくらい驚いたという話がありますが、
海軍ではたとえば飲むときも、副官は同じ部屋で同席。
もちろん上座と下座の違いは厳格だったと思いますが。

これも、海軍副官が陸軍副官(東条閣下の副官)に

「あんたら長官と一緒でよく飯がのどを通りますな」

と感心されたというか呆れられたという話があります。
現代の自衛隊でももちろん偉い人と部下が一緒にご飯を食べますが、
その階級の開きによっては

「カレーがのどを通らない」

というくらい緊張するものらしいですから、戦前の海軍は軍隊として
少し規格が外れていた(といっても陸軍と違うというだけですが)
というしかありません。

ところが海軍軍人はこのことを「それもまた勉強」としており、
若い軍人に上のものの振る舞いを見、話を聞いて何かを得る場として
あえてそれを公開していた節があります。

海軍将官でも、お酒が好きな人、そうでもない人がいるわけですが、
及川古志郎などはあまり好きでなかったといいます。

及川古志郎

吉田善吾大将(海軍大臣も務めた)はお酒好き。

吉田善吾

嶋田繁太郎もいける口。

嶋田繁太郎

米内光政は超酒好き。



おっとこちらでした。

米内光政

酒好きというより「酒豪」でならしたというくらいだったそうです。
wikiでは「酒が米内か、米内が酒か」というタイトルで、米内の酒豪ぶりを
それだけで一つの項にまとめてあるくらいです。

「小松」ではお酒を注ぐと杯をおかずにグイと飲み、
さらに酌ぐとまた一気に開けるので、杯はいつもカラ。

酒の席でもあまり喋ることのない無口な方で、黙ってこの調子で
グイグイとやるのが米内長官の酒でした。

あまりの強さに、ある日若女将(山本直江夫人)が芸者衆に

「誰か米内さんを酔いつぶさせたらご褒美をあげるわ」

と言いだしました。
酒に強く、これまで一度も酔いつぶれたことのない芸妓が、
その難題に挑戦し、さしつさされつが始まったのですが、
若女将が様子を見に行くと、なんと米内長官の膝枕で
酔いつぶれて寝ている彼女の姿が。

「しようがないわね。
わたしが米内さんを酔わせるといっていたのに醜態演じちゃって」

若女将がこぼすのに、米内、

「いいよ、いいよ、そのままにしておけ」

にこりと笑って言ったのだそうです。

「連合艦隊司令長官山本五十六以下略」という映画で、米内光政を演じた
柄本明は、気味が悪いほど軟弱に描かれており、女好きを強調していましたが、
実際の米内はとにかく芸者衆にMMK(もててもてて困る)で、
芸者のストーカーなどもいたという話です。

ただ、このころの海軍士官というのは「遊ぶときにはブラックときれいに」
遊び、それを酒の席以外に引きずらなかったので、映画の柄本演じる米内のように
任務中にもそれを匂わすような醜態は見せなかったはずです。

ちなみに米内がもてたという件については、わたしはこの写真を見て納得しました。




東條英機が陸軍大臣だったときの海軍大臣は嶋田繁太郎。
東条の副官というのは当時飛ぶ鳥を落とす勢いの権勢を振るったものですが、
それでも宴会のときには副官は同席などあり得ません。
陸軍側が主催する合同宴会では、副官は隣の部屋でお酒を飲みます。
しかし、海軍の嶋田が主催の宴会だと、副官は同席しなくてはいけません。

そこで陸軍副官の「あんたらよく飯がのどを通りますな」となるのですが、
海軍の副官だって好きで同席するんじゃありません。
現代の海自でも「カレーがのどに通らない」くらいですから、
この時代の副官だってお酒くらい別室で気楽に飲みたいに決まっています。

このことを当時の豊田貞二郎の副官が長官に向かって

「こんなことはうち(海軍)だけですがね」

といったのだそうです。
こういうことを長官に直々にいうこと自体陸軍には信じられないことでしょう。
ともかく、それに対する豊田の答えは

「これもお前たちの教育だ」

だったそうです。

豊田貞二郎

そして、

「つまらなくて肩がこるかもしれんが、ここにいて、
上のアドミラルたちがどんな話をしているか聞くのが君たちの勉強だから
絶対に逃げてはいかん」

と諭したのだそうです。 
そんなことを言われたらもう二度と文句は言えませんね(笑)

そのうち若い参謀や副官も慣れてきて、窮屈だとは感じなくなってくるので、
偉い人たち(艦隊の長官たちとか)の会議の後の宴会でも、末席で
適当にやっていると、若い芸者さんたちは年寄りよりも若い方がいいので
末席に集まってくるわけです。

一般に、繁くレス通いをするのはなりたての少尉と中尉までで、
だいたいは中尉の三年目くらいで所帯を持ち大尉は勉強があって足が遠くなり、
中佐、大佐になると単身赴任が多くなるのでまたやってくるのですが、

 ♪大佐中佐少佐は老いぼれで〜

という唄にもあるように、芸者さん方にからはもうすでにジジイ扱いなので、モテません。
「小松」などでは、たとえインチ(馴染み)や好きな士官が来る日でも、
上の人を立てて接待しないといけない、と言い聞かされていたようですが、
芸者さんも所詮若い女性、どうしても自分たちと近い世代と話す方が
気が合うし楽しいに決まっています。

で、艦隊司令長官が居並ぶ宴席でも末席に芸者さんが集中するわけですが、
偉い人たちもそこのところはかつて来た道なので鷹揚に

「おーい秘書官、ひとりふたりこっちに回さんか」

と冗談交じりに言って決して場はわるくならないのです。
いかにも海軍らしいリベラルな空気を表していますね。



陸軍と海軍の違いというのは、大臣の伊勢神宮参拝にも表れました。
陸軍大臣の参拝には列車も特別車両を用意して移動します。
秘書官の他には部長クラス、局長クラス、課長クラスが3人、
それにお付きのものが加わって総勢15〜6人になってしまうのです。

対して海軍大臣の伊勢参拝は秘書官と二人っきり。
そんなぞろぞろ行ってもしょうがないとか、特別車両なんて勿体ないとか、
海軍には海軍なりの合理的な理由があってそうなったのでしょう。

ただし、こうなるとたった一人で随行する秘書官が大変なんだな。

当時は東京から伊勢神宮まで行くのに一昼夜かかりましたから、
東京駅から出発する寝台車でいくわけです。
その道中、地元の管轄警察署から護衛の警官が乗り込んでくるわけです。

いまならシークレットサービス、SP(PはポリスのP)がずっとついていますが、
当時はそういうシステムではなかったんですね。
これはいまでもそうですが、警察は管轄下のことしかやりませんので、
たとえば神奈川を通過している時には神奈川県警から警備が乗り込みます。
で、各県の県境ごとに、護衛が交代するわけです。

交代した警官はその旨随伴員にそのことを報告しないといけないので、
県境に来るたびに交代が来て降りる警官に寝台車で寝ているのを起こされます。

「護衛変わります!」

と敬礼するのに、1円札のチップを何枚か用意しておいて

「ご苦労様でした、まあいっぱい飲んでください」

と渡すのが眠くてとても辛かった、という秘書官の告白があります。
それにしても、当時の警官はチップを受け取ったんですね。
今なら収賄とかに抵触して大変なことになりそう。

 

ちなみに本項で「秘書官」として各大臣の思い出を語っているのは
福地 誠夫(ふくち のぶお、1904年(明治37年)- 2007年(平成19年)) 
元海軍大佐、そして元横須賀地方総監。

文中にもあるように、戦中は海軍大臣秘書官として歴代の海軍大臣に仕え、
戦後は海上自衛隊退官後、記念艦「三笠」の艦長を務めていました。


子息の福地健夫氏は父親と同じ横須賀地方総監を経て海幕長に。
2007年に103歳という長寿で老衰のため亡くなる前に、
息子が海上自衛隊のトップになったのを見届けたことになります。




参考文献*「錨とパイン〜日本海軍側面史〜」外山三郎著 静山社