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日蓮の寺と海軍「千島艦事件」〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-09 | 海軍


こういった「市民参加型」の歴史探訪ツァーに参加するのは夫婦二人でなければ
大抵は一人。
想像したように、写真が目的でフル装備できたような人は少なくともおらず、
かろうじてわたしのグループにはわたし以外に一人、コンデジではない
カメラを携えてきた男性がいたのみです。

いわゆる亀爺はこういうのには参加しないのかもしれませんね。

アメリカだとこれが一緒に移動している間に誰彼なく話しかけ、
和気藹々となるわけですが、ここは日本、夫婦参加の二人とか、
ツァーにもう二人同行しているボランティアのガイドさんに
メインのガイドから遠いところで話しかける以外は、見事に黙々と、
特に移動の時などは押し黙って列が進みます。

団体でワーワー騒ぎながら歩くのは論外ですが、日本人の団体は
本当に空気を読みまくるというか、人見知りだなあと感じました。

さて、そんな団塊の世代の実態を観察しているうちにも
さくさくと行程は進みます。



上町教会からしばらくいったところに、一見モダンな教会が。
ここは特にツァーに含まれていたわけではありませんが、
日本キリスト教会の前を通ったとき、ガイドの方が

「戦後進駐軍のアメリカ人に追いかけられた女性がここに逃げ込んだらしい」

という、噂ともなんともつかない話をしました。
調べたところ、そういう話は表向き残っていませんが、
横須賀で生まれ育ったというその方がどこかで聞いたことのある話なのでしょう。



さて、この次は日蓮宗寺院である「龍本寺」へ。
正式には「猿海山龍本寺」というそうです。

日蓮上人は京都で修行をしましたが、関東地方でも
辻説法などの方法で布教を行いました。
ここで日蓮の弟子が開山したのがこの龍本寺です。



本堂の立派な門の飾りには、舟があしらわれています。
その下側には寺の名前にもなった龍がいますね。

日蓮伝説によると、日蓮が房総から布教の地を変えるため、
鎌倉まで舟で移動する途中海が荒れ、船底に穴が開き海水が入ってきました。
聖人が題目を唱えると、一時に風波がしずまり、
船底の穴には、あわびが密着して海水の侵入が防がれていたということです。

この木彫には嵐の中題目を唱えている日蓮上人の姿が見えます。



本堂の屋根を望遠で撮ってみました。
鳥避けにまるでまつげのように(笑)針が設置してあります。


いつもは本殿は公開されていないのだそうですが、今日は
本殿に改修工事が入っていたせいか、中に上がって見学することができました。



日蓮宗というのは感じですがこういう装飾に凝るような印象があります。
まるでシャンデリアのような本堂の照明が華やかさで目を引きます。



創建当時からあるのかどうかはわかりませんが、お猿さんの木彫りが。
猿というのは大変日蓮伝説にとって重要なアイテム?で、
例の嵐の後アワビが舟の穴をふさいで沈まなかった日蓮の乗った舟は、
豊島という小さな島にたどり着きました。

日蓮上人がこの島に上陸すると、どこからともなく一匹の白猿が近づいてきて、
法衣の袖を引き、陸の方を指しました。

それが現在の横須賀です。

猿が指差したからといってそこに行ってみようと思った日蓮の
真意は今にして思えばなんだったのでしょうか。
真面目に考えないように、と言われそうですが。

日蓮は船で、白猿の指示した岬へ向かいましたが、
ひどい遠浅の浜で、船がそれ以上進みません。
そこになぜか、すそをからげて船に近づいてきた人がいました。
いまでも横須賀にある石渡家の先祖・石渡左衛門尉でした。

この人の足から血が流れているのを見て、日蓮は題目を唱えました。

するとそれからこの浜で取れるさざえには、角がなくなったそうです。
浅瀬のサザエには元々角ができない、という説がありますがそれはスルーで。

ちなみにサザエの角はとれましたが、石渡左衛門尉の血は止まらなかった模様。
というか、目の前で人が怪我してるのにサザエの角とってる場合か?
という説もありますがこれもスルーで。 


ところで猿が出てきた豊島ですが、他でもない、
現在猿島と呼ばれているあれです。



右側に黒い厨子が安置されているのですが、その中には
船の穴を塞いだアワビが安置されているという話でした。

ただしこのアワビは嵐の時に穴をふさいだのとば別のアワビです。
日蓮上人という人はあまり派手に辻説法で他宗教を非難するので、恨みを買い、
ついに佐渡に島流しされています。
その際、日蓮上人を亡き者にしようとして船には穴が開けられていたのですが、
またもやその穴はアワビに塞がれていたというのです。

つまり、日蓮上人は二度もアワビに船の穴をふさいでもらって助かったのです。

貝類がよく登場するのは、信仰していた人々が横須賀の漁民に多かったからでしょうか。





本堂の欄間に相当するところにはこのような彩色された絵があしらわれていましたが、
どうもこのシーンは日蓮上人がお亡くなりになったところを描いているようです。

日蓮上人は1282年、60歳で病気のため亡くなっていますが、
60歳というのは当時にすれば長生きでしょうか。



寺の見学を終えた私たちグループは、山門とは違う出口から
目もくらみそうな階段を降りて行きました。
雨の降る日はとても怖くて降りられないような急な階段です。



階段を降りていったところ、冒頭写真の「お穴様」がありました。
お穴様とは、日蓮上人がこの地にやってきた時に修行した洞窟だそうです。
ご存知と思いますが、

「南無妙法蓮華経」

というのは日蓮上人が唱えた言葉で

法華経の教えに帰依をする」

という意味です。

日蓮が21日間篭り、大願成就の祈念を行なったと伝えられる座禅窟です。
その後、日蓮は当初の目的地だった鎌倉へと向かったとあるので、
この地に立ち寄ったのは日蓮にとってはちょっとしたアクシデントだったことになります。



洞窟というより洞穴ですね。
21日間修行をしたと言っても、弟子が掘った穴に座っていただけではないのか、
などというとバチが当たりそうなので言いませんが(言ってるけど)

内部はだいぶ修復を繰り返されて今では天井はコンクリートばりです。
御祈祷のための椅子が設置されているあたりが親切です。



おそらくこの奥に鎮座しているのが日蓮上人のつもり。
当時の日蓮上人を描いた絵を見ると、どれも目がぱっちりしていて、
今でいうかなり濃い顔だったのではないかと思われます。

「日蓮と蒙古襲来」という映画では長谷川一夫、1979年の
「日蓮」では萬屋錦之介が日蓮を演じており、わたしの思い込みだけでなく
日蓮が目力のある人であったと伝えられているようですね。
それでいうと、これはあまり日蓮に似ていそうにありません。

さて、わたしたちが龍本寺に到着したとき、最初のグループがまだ見学をしていました。
一度に50人くらいが本堂に入ることはできないので、わたしたちはしばらく待たされました。



その間、わたしはお寺の手水場からまっすぐ伸びる小道の向こうにある
墓所を眺めるともなく眺めていたのですが、ふと勘が働きました。

横須賀のお寺なら、もしかしたら海軍関係者の古いお墓があるかもしれない。

いや、そこまで具体的に考えていたわけではないのです。
後から考えるとそれはまさに「引き寄せられた」としか思えない
自然さで、わたしは脇目も振らず一つの大きな墓石に向かっていました。



実は近づきながらすでに視界に「海軍」の文字を認めていたのかもしれません。
「海軍機関士」、つまり軍艦の機関士5名の慰霊碑ではなく「墓」です。

なぜ5名が合同で墓所に入っているのかというと、おそらくそれは
遺骨がなかったからではないでしょうか。

ドキドキしながらわたしはそーっと後ろに回ってみました。



全文漢字でしかも花崗岩に彫り込まれた文字は読むのに大変苦労しましたが、
それでもこの機関士たちが「千島」の乗員であったこと、全員が溺死したこと、
そしてこの碑の揮毫を行ったのが、このブログでも2回取り上げたことのある
伊藤 雋吉(いとう としよし)海軍中将であることはその場で読み取れました。

伊藤中将は達筆で有名で、いろんな揮毫を請け負ったそうですが、
1895年(明治28)、この碑が建立されたころは、海軍中将のまま
共同運輸という会社の社長を務めていたことになっています。
おそらくやはりこの揮毫は達筆を見込まれたからに違いありません。


さて、調べたところ、この5名の機関士は千島艦事件といって、
1892年11月30日に日本海軍の水雷砲艦「千島」がイギリス商船と衝突、
沈没した事件による犠牲者であるらしいことがわかりました。

全文漢字ですが、苦労してわかるだけ翻訳してみます。

帝国海軍千島はフランスの造船会社によって建造された。
完成したので愛媛県興居島の海峡付近を航行していたところ、
イギリスの商船「羅弁那号」(ラヴェンナ)と衝突し、死者を多数出した。
ときに明治25年11月30日のことであった。

ここからは翻訳できなくて諦めました(おい)
とにかく、そのときに溺死した5名の機関士たちは職に命を賭したので、
その名をここに残す、というようなかんじ(適当)です。

このときに殉職した「千島」の乗員は74名でしたが、この5人の機関士だけが
ここ葬られている理由についてはよくわかりません。
この5人が横須賀の造船所から選抜されたという記録はあるようなので、
つまり横須賀出身の「千島」乗組員は彼ら5人だけだった可能性があります。


この「千島艦事件」が特異であったことは、近代化された日本が初めて

海外の法廷に訴訟を行ったという案件だったことです。

イギリスで行われた裁判の結果、第一審は日本側の勝ちでしたが、
85万円の賠償を求めて判決が10万だったので、これをどちらも不服とし、
再審をしたところ、第二審ではなんとイギリスの船会社(P&O)の全面勝訴。
上告しようとするうちにイギリスが和解を申し出、それを受けた日本は
和解金 90,995円25銭(1万ポンドだったので)でそれを受け取りました。

こんなことなら第一審でやめておいたらよかったのでは・・・。 



一部アップしてみました。
「仏国造船会社」「興居島海峡」「機関士溺死者五人」
などの文字が確認されます。

ちなみにこの「千島」という船は通報艦として作られました。

エミール・ベルタンが、自ら信奉するジューヌ・エコール思想に基づいて設計を行い、
1890年にフランス、ロワール社サン・ナゼール造船所で起工し、1892年に竣工。
最大船速22ノットのはずが試運転で19ノット程度しか達成できなかったため、
1年ほど引渡しが遅れています。

引渡しのためにフランスを出港し、アレクサンドリア、スエズ運河、
シンガポールを経由して、1892年11月24日に長崎に到着したあと、
11月28日に長崎から神戸に向けて出港し、30日に事故に遭遇しました。



ところで、さっきの日蓮上人の最後の姿が飾られていたような本堂の天井近くに、
古くて説明も何もない写真の額二つ掲げられているのに気がつきました。

こちらは写真そのものがぼんやりとしていて、人が並んでいることしかわからないのですが、



もう一枚のこの写真には、明らかに旭日の海軍旗が写っています。
そしてぼんやりとではありますが、後ろにかけられた幟には

「(海?)軍忠死者」

という文字が読めるのです。
皆の後ろにある物体もなんとなく軍艦をかたどったものに見えなくもありません。


前列に座っている5人の若い婦人たちは機関士たちの未亡人で、
学帽を被った少年は遺児だと考えれば、この千島事件の
殉職者の葬式の時に撮られたものである可能性が高くなります。

残念なことに右側の幟に何が書いてあるかは全く読めません。
そう思って先ほどの集合写真を見ると、同じ時に撮られたようですし、
海軍旗のようなものもあるように思えます。
(後列左から3番目と4番目の人の間)


以上はおそらくわたしだけがたまたま発見したことですが、
これが正しいのかどうかは全く想像に過ぎないため確信は持てません。

ただ、日頃から海軍海事に傾倒していることが、これらのことを
今回引き寄せたのかなあ、と少し我ながら不思議ではあります。

今にして思えば、一人で墓石を見に行ったあたりからなにか
導かれていたような気がするんですよね・・。
というわけでこれも何かのご縁、5名の海軍機関士たちの
お名前を最後に記しておきます。


伊藤房吉

山田基

横田鎌三郎

安藤茂廣

田子七郎


合掌。