ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

トラック・パインと井上成美大将〜料亭小松の物語

2016-05-27 | 海軍

正面玄関からみて左を塀沿いに歩いて行くと、料亭「小松」の
敷地の終わるところにこのような勝手口があります。
ここから出入りの商人が商品を運び入れたりしたのでしょう。

塀の上の小屋根をささえる金具は今日すっかり錆びてしまっていますが、
唐草模様を描き、かつてはこれも粋だったのだろうなと思わせます。

さて、 海軍士官たるもの遊ぶときもスマートに、決して二流三流の店に
コソコソ行ったり怪しげな店の敷居をまたぐな、というのは初級士官となって
最初に厳しくいわれることだったそうです。

今と違って若い海軍士官がフネを降りて行くところといったら映画か料亭くらい。
特に軍服を着ているときの行動は人目もあるので厳しく律しざるを得ません。
というわけで安心できる小松のようなレスに毎日足を運ぶことになります。 

あまりにも度々なので、ほとんど皆予約をせずにいきなり店に行き、
もし席がなければ女中部屋やプライベートスペースで飲みながら時間を潰し、
偉い人が出て行ったらそちらに移るというような調子だったそうです。

今ならカラオケといったところですが、このころも酔えば
芸者さんの三味線で「軍港節」「磯節」 などを歌い、
また芸者さんに踊りを手ほどきしてもらって一緒に踊ったり・・。

新呉節(軍港節)


「死んでも命があるように」

って、どこかで聞いたことがありますが、この歌の一節だったんですね。

このような海軍士官の遊びを「Sプレー」と申しました。
「S」が「シンガー」あるいは「シスター」(姐さん)を意味する芸者の隠語で、
エスさんの方も士官のことを「山本ニイさん」「草鹿ニイさん」
などと親しみを込めて呼んで、ほのぼのとしたものであったといわれ、
明らかに今の金銭の介在する男女関係とは違う暖かさがあった、というのが
当時のエスプレーを知る士官たちの一致した意見でした。

海軍士官は決して「ホワイト」(素人)に手を出すな、遊ぶなら
「ブラック」(玄人)にせよ、と耳にタコができるほど聴かされているので、
エスに対しては「遊び相手」と割り切っていたというわりには、
士官の方も相手の人格を尊重していて、無体なことは御法度であったようです。

前にも一度書いたことがありますが、海軍軍人と芸者の関係は、ごく限られた
レスという世界でのみ有効なものなので、どちらも割り切っていて、
料亭の中だけでバーチャルな恋愛(ただし深い)を楽しんだのです。

士官の方は好きな芸者ができると、芸者の了解を得て「インチ宣言」をします。
それによって、自分の周りの士官との無用な軋轢を避けるわけです。
その独占権は彼女を宴席ではべらせるときに限られ、彼女が他の宴席で別の「インチ」
にはべることまで嫉妬するなどとは野暮の極みとされました。

芸者の方では「それが商売」なので、自分をインチと宣言する士官を
たくさん抱えていてもなんら責められることはありませんでした。
士官も心得ていて、実際に連合艦隊が入港して、インチ士官同士がバッティングして
(それを海軍用語で「コリジョン」(衝突のこと)と称します)
コリジョンが起こっても、やり手の女将がなだめると、実にあっさりと
出直したり、一人で飲んで帰ったり、つまりこだわらないのが粋だったのです。


巷の小唄にも「かと言って大尉にゃ妻があり」とあるように、仮想恋愛を含む
エスプレーを行う士官というのは大抵が少尉・中尉クラスです。

当時の海軍料亭の飲み代は芸者をあげても今のように高額ではなかったようですが、
ただでさえ小唄のごとく「若い少尉さんは金がない」のに、毎日のような飲み食い。

いったい支払いはどうなっていたかというと、やはり”あるとき払い”。
月末に月給が出されたらそれを持って飲みに来て払う、というのが普通でした。



士官の方も甘えがあるのか、上陸すると押しかけて飲むだけ飲み、
飲み終わるとさっさと艦に帰ってしまうのが常だったのですが、女将の方も
最初の頃こそ困って気に病んだりしていたものの、相手が踏み倒す心配もなく、
出港前には

「俺にマイナス(ツケのこと)があっただろう」

といって飲みに来ては多めに払ったり、中には給料袋の封を切らず
そのまま女将に渡す士官がいたりで、次第に気にしなくなったようです。

マイナスに関してはこんな話があります。

日清戦争が起こり、軍艦はすべて出航してしまい、横須賀の街から
海軍軍人の姿が消えてしまいました。
まさに街から火が消えたようになり、飲食業は軒並み開店休業状態。
日頃「あるとき払い」システムを取っていた小松もこれには困りました。
ツケを払わないまま皆が戦地に行ってしまったのですから、
永遠にとりはぐれる可能性もでてきたのです。
途方に暮れていると、思いがけないことが起こりました。


戦地の士官たちから毎日、小松に何十通という為替が届き始めたのです。

「生きて帰ったらまた飲みに行くよ」

という簡単な手紙と共に・・・。 


このような海軍軍人たちの小松に寄せる心と信頼関係が、その後、
昭和の世の戦争において、前線に小松が支店を出すという心意気につながりました。
それがWikipediaにも項を立てて解説のある「トラック・パイン」です。

「トラック・パイン」は小松の海軍料亭の意地を示したものでした。

トラック諸島は開戦前から第4艦隊の根拠地となっていましたが、
昭和17年8月以降連合艦隊旗艦の根拠地となりました。

 小松のトラック支店出店は、第四艦隊司令長官であった井上成美中将が、

「トラックには下士官用の料亭しかないので、小松の支店を出してくれないか」

と直枝夫人に要請したのがきっかけでした。
それは17年2月のシンガポール陥落のあとで、発案は井上中将でしたが、
話は鎮守府から直接あったとのことです。

支店についてはシンガポールに開設される話もありましたが、
シンガポールは陸軍が多く、直枝夫人の


「陸軍の方のお気持ちはあまりわかりませんから」

というひとことで、海軍軍人しかいないトラックに決まったのでした。

開業は昭和17年7月でしたが、直枝夫人の夫が女中と芸者衆を連れて行ったところ
場所はここ、といわれるもそこにはなにもなく、皆アンペラ(むしろ)

の上で寝て、飲み水もろくにないところに家を建てるところから始めたのです。
できるだけ内地の雰囲気をそのまま再現しようと、畳、建具、蚊帳、
そして部屋にかける額まで持っていきました。

芸者衆を横須賀から連れて行こうとしたところ、鎮守府の方から

「それでは横須賀が困るから絶対によしてくれ」

と強く(笑)要望が出たので、横浜や東京で人を集め、一ヶ月で
横須賀の踊りを覚えさせ「横須賀芸者」として送り込みました。 

暑いところなのに芸者さんは着物を着なければいけない、というので
1日に2〜3回着替えられるように着物と、髪結いも二人連れて行きました。

トラック・パインができたころ、ここにはソロモンに向かう軍人で賑わいました。
南方に行くことが決まった時点で、たいていの軍人は覚悟を決め、
もう二度と日本女性を見ることはないだろうという気持ちで日本を後にしていました。
そんな彼らですから、トラック・パインのさながら横須賀小松をそのままもってきたような内装、
そして美味い料理、内地とほとんど変わらぬ芸者たちに目を見張りました。

彼らにとってここが文字通り最後の内地であり、ここを一歩出ればそこは戦場。
誰もが決して口に出さなかったけれど、皆「これが最後かもしれない」
と内心思いながらトラック・パインでの一夜を楽しんだのです。

以前「クラスヘッド・モグ」という項で、66期のクラスヘッド、
坂井知行大尉がここトラック・パインで一夕の宴席を過ごし、
ラバウルに進出して一週間も経たずに戦死した話を書いたことがあります。
パインの酒席で坂井大尉は”米軍機など鎧袖一触、モノの数ではない”という
自信をみなぎらせており、皆も彼に期待していただけに、
そのあっけない戦死は関係者に
強い衝撃を与えた、という話でした。

坂井大尉のように、このトラック・パインが”最後の内地”になってしまった
青年士官は決して少なくはなかったのです。



直枝夫人はトラックに2回行っていますが、その2回目の来訪時、
小松の従業員のための退避壕が何一つ用意されていないのに驚き、
根拠地隊司令官に食ってかかりました。

「なんのために子どもたちをこんな遠くまで連れてくるんですか?
あなた方の命も大切ですが、この子たちも命がけで来ているのだから、
いざ空襲に備えて防空壕の一つも完備したものを作っていただかないと、
すぐ引き揚げさせちゃいますよ!」

海軍の要請で来たのに、しかも軍の退避壕はちゃんとあるのに、
こちらにはなにもしてくれない
では困る、とガンガン言ったのです。
すると司令官は

「悪かった。早速造らせる」

女将は治らず、 

「 悪かったじゃないですよ!
横須賀では豊田(副武)さんが先頭に立って、 長官ご自身がどこに退避したら良い、
ここは疎開させるようにと指示して回っていらっしゃるのに、 
ここは戦場に近いというのに、なんで呑気なことをしていらっしゃるんですか!」

女将の呆れたのは不思議なくらいの現地ののんびりぶりでした。
それから彼女は現地の病院に行き、院長にこんなことを頼みました。

「うちの子たちに包帯巻きの練習をさせていただけませんか。
空襲を受けたら商売どころではないし、そちらも手が足りなくなるでしょうから」

それを聞いて院長は殊の外喜び、そのような指導を従業員に行い、
実際に彼女らが包帯巻きで奉仕する日は本当にやってきました。
彼女はのちに南方から引き揚げてきた士官から

「あんたのところの店の子に包帯巻いてもらったよ」

とその指導が役に立っていたことを知らされています。


小松が店を開いたのはトラック諸島の「夏島」です。
トラックには春夏秋冬の名前がついた島がありましたが、夏島は
飛行場や病院のある、いわば根拠となる島でした。

昭和19年2月17〜18日、二日にわたる大空襲がトラックを襲いました。
アメリカ海軍が「南方の真珠湾」と胸を張ったこの空襲には、

「海軍丁事件」

という名前がついています。
(Wikipediaには小松が被害にあったのは3月30日とあるが、おそらく間違い)

なぜ空襲が「事件」と呼ばれたかというと、海軍はこの直前から
通常黎明・薄暮に一日2回行っていた哨戒を黎明の一回だけにし、
もし警備の手を緩めなかったら敵空母の早期発見によってトラックから
艦艇をパラオに避難させていたところ、それをせず、空襲によって
多数の艦艇と航空機を失う結果になった『人災』だったからです。

ちなみにこのとき失われた艦艇はというと、戦闘艦艇は

軽巡洋艦 - 阿賀野、那珂

練習巡洋艦 - 香取

駆逐艦 - 舞風、太刀風、追風、文月

小型艇 - 第24号駆潜艇、第29号駆潜艇、第10号魚雷艇

補助艦船はほとんど避難させないまま被害にあったので、

特設巡洋艦 - 赤城丸
特設潜水母艦 - 平安丸
特設駆潜艇 - 第十五昭南丸
海軍特設給油船 - 第三図南丸、神国丸、富士山丸、宝洋丸
海軍特設給水船 - 日豊丸

その他海軍輸送船 - 愛国丸、清澄丸、りおでじゃねろ丸、瑞海丸、
国永丸、伯耆丸、花川丸、桃川丸、松丹丸、麗洋丸、大邦丸、西江丸、
北洋丸、乾祥丸、桑港丸、五星丸、山霧丸、第六雲海丸、山鬼山丸、
富士川丸、天城山丸(航空燃料輸送に使用)

陸軍輸送船 - 暁天丸、辰羽丸、夕映丸、長野丸

と多数でした。
ちなみにこれは沈没した艦艇のみで、損壊艦艇は別となります。

爆発する愛国丸



しかしこのとき、なぜトラックでは警備の手を緩めたのでしょうか。
ここにこんな説があるのです。

陸軍参謀本部の瀬島龍三や服部卓四郎らと海軍軍令部の
伊藤整一次長一行が南方視察行の帰路トラックに立寄っており、
16日の晩に夏島の料理屋で宴を催していたことを挙げる者がある。(wiki)

この「夏島の料理屋」って、トラック・パインのことですよね?
これについては551空の飛田真幸飛行隊長(67期)の言によると

「司令部が接待をしているのに部隊だけ警戒配備でもあるまい」

という空気と、さらに警戒心が弛緩していた傾向があったというのです。
防空壕も作らず、なんだか呑気な気がした、という女将の感じた懸念は
決して思い過ごしではなかったということになります。

このときに、瀬島の回顧によるとパインには「泊まった士官もいた」
そうですが、彼らは一日の差で難を免れたことになります。

翌日の空襲によってトラック・パインは滅茶苦茶にやられ6人が犠牲になりました。

従業員は6人の遺骨を抱いてパラオに避難しましたが、
そのパラオが次に空襲に遭ったため、結局台湾廻りで3ヶ月かかって
命からがら
日本に帰ってきたのでした。


ところで戦後、営業を続けていた小松に進駐米軍が客としてくるようになったとき、
女将は井上成美大将に頼んで従業員に英語を教えてもらっています。

「海軍がお世話になった店だから」

と井上大将は二つ返事で引き受け、ビジネス英語を従業員に仕込んだそうです。



かつてトラックに「パイン」がありました。


戦地で出撃していく海軍軍人たちを励まし、慰め、そしてあるときには
最後を見送って海軍料亭の役目を果たした小松ですが、
殉職者を6人も出すという悲劇でその幕を閉じることになりました。



井上大将はこの結果を受け、もしかしたらトラック・パインの出店が
自分の要請であったことを
内心苦にしていて、そのせめてもの償いをしようと、
1時間に1本しかないバスに乗って毎週小松にやってきていたのかもしれません。