ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「外人石工」の彫った狛犬〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-08 | お出かけ

以前、コメント欄でさんぽさんに「蜜柑の碑」を教えていただいたとき、
よこすかシティガイドのHPを貼っていただきました。
ふと興味を惹かれるツァーを見つけ、参加したのでそのご報告です。

NPO法人よこすかシティガイド協会は、平成14年発足したボランティアガイドの
団体で、去年法人化してNPOとなったばかりです。

横須賀の観光案内を企画して行っており、シーズンには週1〜2回の割で
ツァーが行われているようです。
こういうツァーに参加するのも米軍基地内ツァーだけだったので、
その雰囲気も含めてどんなものか大変興味がありました。



集合場所は横須賀中央駅前コンコース。
この日は初夏といってもいい晴天でした。
ツァーは基本雨天の時には中止になるようです。



防衛団体のロナルドレーガン見学、そして術科学校見学と
最近横須賀づいていますが、前回から横須賀周辺にはこのような
ジャズを演奏しているおじさんの像がそここにあるのに気付きました。
なぜ上半身裸でサックス吹いているのか教えてくれるかね?



集合時間の30分前から皆集まっていたようです。
来た順に3つのグループになって時差をつけて出発。
わたしはもちろん一番最後の組になりました。

ところで、平日の昼間、朝9時半から2時までのツァーに参加できる
となると、いきおい参加する年齢層は決まってくるわけで、
16歳の息子がいるわたしが文句なく一番若くて、
ツァーガイドのおじさんがわたしを「こちらのおじょうさん」と
呼んだくらい全員が高齢層、おそらく平均年齢65くらいと思われました。
(ちなみにこのおじさんはみのもんたではない)



で、駅から商店街を15〜6人がぞろぞろ移動するわけ。
狭い商店街のアーケードなので、当然普通に歩いている人が
この団体に迷惑しているようすがわたしなど気になって仕方ないのですが、
なんかみんな片側に寄らないんだな。 



なんか見たことあるなあと思ったら、つい先日横須賀鎮守府庁舎の公開で
帰り歩いて帰った商店街でした。

商店街の中にも昔ながらの建物がそのまま残されていることがあり、
これなど外壁に青銅を使っている古い建物です。
昔は旅館だったとガイドの方が言っていました。



このツァーの最初の案内地が「平塚貝塚」。
貝塚とともに全身を伸ばした「伸展葬」で発見された
男性の人骨などが発見されたそうですが、
今そこ近辺は開発されてすっかり住宅地になっています。

つまりその住宅地を見たわけです(笑)

そこを臨むアーケード沿いに、この民家があって、
確かガイドは「発見者の自宅」と言っていたような気がするのですが、
発見者って、当時小学校5年の子供だったっていうし・・。

あ、その子供がここに住んでたってことかな?



このツァーの面白いところは、見学するところが「歴史的名所」に
限らず、一般住宅の建築様式も含むことです。
これも商店街のなかのカメラ屋さんなのですが、この装飾タイルの床が
古いものなのだとか。



同じカメラ屋さんのステンドグラスは、先日旧長官庁舎で見た
同じ作家の手によるものにも見えます。
これも古いものだそうですから、可能性はありますね。



次に訪れたのは小さな鳥居のある中里神社。
天照大神と宇賀御霊尊がご祭神で、1817年に創建されました。



明治41年(1909)に再建されたという本殿。



お鈴を取り替えたのか、古いのがただポツンと置かれていました。



拝殿の軒下に、すっかり風雨にさらされて文字の消えた額がありましたが、
これは大正11年にかけられたもので、当時の歌人、松竹庵梅月の弟子が
当地をテーマに詠んだ詠の俳額なんだそうです。

わたしが解説でピンと引っかかったのは、この梅月という歌人が

海軍工廠に勤めていた

という一言。

「海軍工廠で何の仕事をやってたんですか」

とガイドの人に聞いたのですが、

「・・・あまり詳しく聞かないように」

とのことでした。orz
そこで独自に調べた結果(ツァーの間もiPadでも調べられる)


●梅月の句作は数万、門弟は、全国に七千人近くいた
●明治7年(1864)、本県中郡に生まれ、本名は石井広吉
●21歳で立机(りゅうき=宗匠つまり師匠)となる
●日清戦争直後、横須賀に来た梅月は、田浦町三丁目の静円寺近くに住み、
海軍工廠へ務める傍ら、門下の指導に専念
●工廠で働きながら、門弟の指導や全国的な仲間づくりに励むー方、
隣近所の子供たちの育成に尽した

ということまではわかりましたが、肝心の『工廠で何をしていたか」

はどこにも出てこず全くわかりませんでした。
技術者や工員ではなく、事務職だったのではないかと思われます。

ちなみに梅月の出版していた俳誌は

「軍港の友」

その最後は、昭和14年(1939)、日中戦争で北中支に転戦する
将兵の慰問を行うため中国に渡りましたが、彼地でマラリヤを病み、
それが元で3年後、68歳で亡くなったというものです。

この慰問というのも何をもって将兵の慰めとしていたのかわかりません。
このころは俳句も歌舞謡曲のような「慰問」のカテゴリだったのでしょうか。

いずれにせよ、かつて海軍工廠に勤めていたことと、この戦地慰問には
それを志願するにあたって何らかの因果関係があったと思われます。

梅月が中支に渡る前の壮行会で撮られたらしい写真が
このページの真ん中ほどにあります。

ふるさと横須賀 松竹庵梅月

このような老人を慰問のためとはいえ戦地に送るというのは
無謀というか無茶にしか見えませんが、
ご本人の固い意志からだったのだろうなと思わされます。



横須賀の街には京都とは全く違う、このような廃屋が結構たくさんあります。
ガラスの感じから見て昭和2〜30年の間の築でしょうか。
同行の参加者が、右端の出っ張りを指して

「こういう家は廊下の端に必ずトイレがあったんだよな」

などと懐かしがっていました。



次の見学地は「横須賀上町教会」。
現在は幼稚園として使われているので中を見ることはできませんが、
昭和6年に建てられたこの教会本堂は国の登録有形文化財になっています。

昭和6年というとまだ100年も経っていません。
ヨーロッパはもちろん、アメリカでもボストンなどでは
200年前に建った教会が街ごとにあって、特に文化保護もされていないわけですが、
日本という国は、その歴史の長さの割に、特に建築が残されない国だと思います。

もちろん地震や戦争で多くが喪失したという面はありますが、
それ以上に
「土地がない」「財政がそれを支えられない」というだけの理由で
この世から永遠に消えてしまった歴史的な建築物がどれほどあることか・・。

建築ではありませんが、冒頭の「平坂貝塚」にしても、現在は
民家の敷地内にあるらしく、すでに一般人が見ることはできなくなっています。



この教会は家具や照明器具にいたるまでが当時のもので、
オルガンもそのまま置かれているのだそうです。



教会の建っている造成地の壁も昔のまま。
当時は砂利をそのまま入れて使ったんですね。



そのまま上町商店街の裏道を歩いていきます。
こういう昔からの家にも普通に人が住んでいます。



ここも思いっきり築年数の経った家ですが、現在ITサポートセンター。

建物の横にカギ型の釘が幾つも突き出していますが、
これはガイドさんによると「火伏せ」といって「火除け」だそうです。

「具体的にどう役に立つのか知ってます?」

と逆にガイドさんに皆が聞かれてしまったのですが、検索しても
「火伏せ」とは火除けのまじないという意味しかでてきません。



こちらの青銅の外壁を持つ家の側壁にもたくさんのカギが。

わたしの想像ですが、建物が密集しあった当時の街では、
一旦火事になったら建物を倒してでも延焼を防ぐしかなく、
そのため外壁にカギをつけておいていざとなったら倒壊させたのかな、と・・。

どなたかこのカギについてご存知の方がいたら教えてください。

 

次の予定地は「深田台神明社」ですが、
山門?に建てられている石柱にはなんか別の文字が・・・。


で、この石柱を寄贈した人の名前が「小泉又市」とあるので、
皆が「小泉さんの親戚だ!」と断定的に言い切っていたわけです。
確かに小泉元首相のおじいさんは「小泉又次郎」という政治家で
飛び職人から横須賀市長、逓信大臣にまでなった「豪傑」でした。



一番左小泉純一郎、その右又次郎。
一番右の男前は婿の小泉純也
小泉家のイケメン血筋はこの純一郎のパパによってもたらされた模様。

で、調べてみたんですが、小泉又市という人、小泉家の家系に出てきません。
又次郎さんの名前からみて、こちらがお兄さんだったのかなという気もしますが・・。



さて、この神社、横須賀独特の住宅街の中の細い道の石段を
登って行ったところにあり、その手前に

「納 御神燈」

とありますが、肝心の御神燈はどこにあるかわかりませんでした。
この神社は1871年、もとあった米が浜に陸軍の砲台が作られることになったので、
ここに移転してきたのだそうです。



で、この鳥居の手前、片側にだけ鎮座する狛犬さん。
気のせいかそのシェイプもユニークですが、それもそのはず、
この狛犬、台座には英文で作者名が刻まれているのです。



ガイドの方にライトで照らしてもらったのを撮りました。
現地では暗くて全く読めなかったのですが、こうしてみると

Carved by B. Chifiyei (ーB.以下まったくの推測ーによる彫刻)


と読めないこともありません。
当時石を彫るのは大変だったらしく、最初の彫り始めと最後では
まったく気合の入り方が違うのが哀しいですが(笑)
とにかく、これを彫刻したのはこの外人さんだったということらしいです。

彫ったは彫ったけど、芸術家ではなく単なる「石工」だったらしく、
とにかく今では作者についてわかる何の資料も残されていません。

言われてみると、狛犬の風情が「バタ臭い」という気がしないでもありません。 
横須賀の有力者がちょっと変わった狛犬を置いてみようと 依頼したのでしょうか。 



そして、この台座には又次郎の名前がちゃんと刻まれています。

でもおかしなことに気づきました。
神社移転の1871年というと、又次郎さんはまだ6歳のはずなんですよね。

狛犬の設置は少なくとも小泉又次郎が横須賀市長になった
1907年前後でないとおかしなことになってしまいます。

というわけで、これもわたしの想像ですが、この狛犬は当時
明治政府が採用していた「お雇い外人」の関係者が、何らかの縁で
移転に際して作ったもので、ずっとここにぞんざいに置かれていて、
30年経ってから、横須賀地元の有力者が何かの記念にあたり
あらたに台座を作って現在に至る、という経緯だったのではないでしょうか。


続く。