ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

呉~「海軍様々」の街

2012-07-17 | 海軍

先日、呉の駅前のホテルでの企画「海軍士官コスプレ」を嬉しげにやってしまったわけですが、
つまり、呉という市の名産、というか観光資源は「海軍」であるわけですね。

終戦により海軍が消滅しても、自衛隊の呉鎮守府じゃなくて地方隊があり、
元海兵団の教育隊があり、港には艦船があり、街を水兵さんや二種軍装の自衛官が普通に歩き、
江田島には旧海軍兵学校の建物がそのまま使われていて、大和ミュージアムは今日も盛況。
佐世保や舞鶴ももと鎮守府の港ですが、呉ほど旧海軍の名残りがある街ではないような気がします。
気がするだけで、実はどちらも行ったことはありません。
取りあえず今、それを知るべく、佐世保訪問の計画を立てているところです。

前回、入船山にある鎮守府長官官舎についてお話したわけですが、この入船山は、これだけでなく
歴史民俗資料館、郷土館などで呉の歴史を知ることができる施設を新たに造り、全体を「史跡」
としてこれも観光ポイントにしています。

この入口の門柱は、このようなもの。

  左側   右側

「墓石みたい・・・・」と言うと、案内の自衛隊元艦長氏の夫人と、ボランティアの解説人に
「まっさか~」「ハハハ」と一笑に付されてしまいました。
でも、これ「清心院 玉芳院の菩提のために」って書いてますよね?
清心院と、玉芳院って、誰かの戒名ではないのでしょうか。
墓石ではないけど、斎藤さんと言う人が、この二人の菩提を慰めるために、
ここに寄贈した門柱ではないのかしら。

この門柱は、どうやら大正3年に寄贈されたようです。
司令長官官舎に訪れる車は、まずここを通り、
この官舎に続く道の手前にある番兵塔で誰何を受けるのです。

 
ここで警備の番兵が、雨の日も風の日もひたすら立って任務にあたりました。
遠目にも、石の「お立ち台」に、足の形に跡がついているのがわかるでしょう?
これは、ここに立ち続けた番兵の足型そのままに、石が削れているのです。
しかし、後ろの小さな塔の内部は、木でできているのに全く傷んでもいません。
誰も見ていなくても、ずっと彼らは外に立っていたのでしょう。

官舎に続く道沿いに、このような建物があります。



これは、火薬庫。
爆発しても衝撃が上に逃げるように、側壁を堅牢な総石造りにしてある、全国でも珍しいものです。
「長官官舎の敷地内になぜ火薬庫が?」
と一瞬思いましたが、勿論これは、もともとここにあったのではなく移築、復元されたもの。
元は、あの「音戸の瀬戸」を望む休山(やすみやま)に、陸軍が建設したものだそうです。

火薬庫ですから、非常に小さなものなのですが、内部はちょっとした展示室になっています。

 九七式手榴弾。
日中戦争が起こった昭和12年に制定されたもので、「手投げ」専門。
てき弾筒に使うことはできませんでした。

 拳銃弾。



こんな形の一輪ざしがありますが(笑)、こう見えても立派な?手榴弾です。
中に火薬を詰めていたようで、それが図解で示されています。
勿論全くと言っていいほど破壊力はなかったようですが、これ、なんと驚いたことに、
大戦末期に金属不足を補うために作られたのだそうです。

以前「牛車と竹の増槽」について書いたことを思い出しました。
それにしても、釉薬をかけ、色づかいも気を遣っているように見えます。・・・手榴弾なのに。

これらがガラスケースに展示され、壁には地元の画家が描いた絵がかけられています。

 呉軍港の満艦飾。


 昔の中通り。

一緒に行った元艦長夫人は、呉に生まれ呉に育った生粋の呉人です。
この絵を見て「山の形だけは一緒」とおっしゃっていました。
なんでも、海軍のエライサンばかりが昔住んでいた、丘の上の高官専用地跡に住んでいたとか。
やはりそういう人の住宅は、今も昔も高いところに作るのでしょうか。




ところで、この絵。
整然と列を作るように一方向に向かう人々の群れ。
これは、朝、海軍工廠に通勤する人々の姿です。
ゲートルを巻いた水兵さんが、おそらく見張りのためにと思いますが、立っていますね。

これを見た艦長夫人が「皆、その当時の人にしては身なりがちゃんとしてるねえ」
解説の方が「給料も良かったんでしょうな」

それにしても、すごい人数ですが、実際海軍工廠がこの地にできてから、ここは文字通り
東洋一の規模を持つ設備の充実で、他の三つの海軍工廠(横浜、佐世保、舞鶴)全てを足したより
工員の総数が多かったと言いますから、これも当然のことでしょう。

冒頭の時計台は、海軍工廠造機部の屋上に、1921年(大正10年)設置され、
終戦のときまで工廠で仕事をする人々に時を告げていました。

復刻された四面の時計は、今も正確な時間を刻んでいます。

呉と言う街に住んで、何らかの形で海軍にかかわっていない人間はいなかったのでは、
と、工廠で働く工員の数だけを見ても思いますね。


1912年、この海軍工廠でストライキが起きました。
労働条件の改善を要求するためであったと思われますが、首謀者は検挙されています。
さらに、1818年、全国的に「米騒動」が起こり、ここ呉にも飛び火したとき、その鎮火のため
海軍陸戦隊と工廠労働者が対峙し、銃剣で刺された工員、二人が死亡したそうです。

何とこの騒動の参加者の中に、海軍の水兵がおり(と言うからには一人ではないのかも)
検挙されたという記録があるそうです。

そして、戦中は集中的に米軍がここを空襲したため、海軍工廠の関係者だけでも、
なんとおよそ1900人がその被害に遭い亡くなっています。


 

最後になりましたが、この敷地に入るとまず目に入る小さな家。
これは「旧東郷家離れ」。
東郷平八郎が1890年(明治23年)呉鎮守府長官であったとき(大佐時代)
に住んでいた家の離れをここに移築してあります。

渡り廊下で母屋と繋がっていた離れなので、おそらく東郷大佐は足を踏み入れることはなく、
おそらく使用人が寝起きしていたのだと思います。
そのせいでしょうか、ここの扱いは非常にざっくばらん。
青いジャンパーのおじさんたちは、ここの解説をしてくれるボランティアなのですが、
観光客が来るまで煙草を吸いながらここに待機していますし、
もしここで休憩したければ靴を脱いで座敷にも入れます。



戦後、呉海軍工廠の土地と設備は播磨造船所などが引き継ぎました。
呉造船所、石川島播磨重工業(現IHI)呉工場を経て、
現在はアイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド呉工場と称するそうです。



今回、呉生まれの何人かの方から「親から聞かされたのだが」という前置き付きで、
大和の建造中上に蓆が掛けられていた話を聞きました。
呉の人たちは、建造中から何らかの形で皆「大和」を知っていたようです。

「大和のふるさと」
このような大看板のかけられている、大和誕生の地ですが、大和の建造用ドックは、
1993年に埋め立てられてしまったとのこと。
この跡地は工場になってしまったそうですが、大和の修理を行った「船渠(ドック)」は現存しており、
自衛艦や米軍の艦船などが現在も使用中であるとのことです。

呉生まれ呉育ちの艦長夫人(ある意味この方も海軍関係者)によると、
呉の人々は「やたらプライドが高く、広島人などと馬鹿にしている」ということ。
このプライドの根拠と言うのが、もしかしたらずっとここが「海軍の街」で、
満艦飾の艦観式を見た話や、身内に世界一の戦艦大和を造っていた者がいる
などということと無関係ではないという気もするのですが、これはよそ者の勝手な解釈でしょうか。



呉鎮守府司令長官官舎

2012-07-13 | 海軍

先日、艦上正餐で出されたフランス料理のコースをアップしてみましたが、
あの模型が飾られていたのが、この呉鎮守府司令長官官舎です。

そのときにも説明しましたが、官舎そのものは鎮守府が置かれてすぐにこの地に建てられ、
それがゆえに、ここは「長官山」と地元の人々が呼ようになりました。
しかし芸予地震で建物が損壊。
すぐさま建て直しされたのが、この現在残っている呉鎮守府司令長官官舎です。

ここの説明をする前に、どんな長官がここに住んだのかをざっとご紹介します。
第7代長官有馬真一中将から、第32代長官沢本寄雄大将まで、約40年の間に26人。
有名どころを何人か挙げると・・・・

加藤友三郎 中将:1909年12月1日 -

伊地知季珍 中将:1915年9月23日 -

加藤定吉 中将:1916年12月1日 -

鈴木貫太郎
中将:1922年7月27日

野村吉三郎 中将:1930年6月11日 -

山梨勝之進
中将:1931年12月1日 -

嶋田繁太郎
中将:1938年11月15日 -

豊田副武 大将:1941年9月18日 -

南雲忠一 中将:1943年6月21日

最近の日本国総理官邸よりは少しはましとは言え、鎮守府長官の任期というのは
だいたい一年から一年半が相場であったらしく、主が頻繁に変わっています。

さて、この冒頭画像を見てお分かりのように、この建物はイギリス風です。
木造の骨組みを見せるように、間をレンガや漆喰でい埋めるという建築構造。

中世からヨーロッパに流行りだした様式で、フランスなども、郊外などに行くと、
今でもこういう様式の古い建物がプチホテルになって泊ることができたりします。
この様式は「ハーフ・ティンバー」と呼ばれるもので、神戸にある「うろこの家」と同じく、
屋根には天然のスレートをここもうろこのような形に切って置いてあります。

こうやって写真を見ると正面はまったくの洋館ですが、
この後ろには純和風建築の棟があり、廊下で繋がっているのです。

つまり、司令官として公式の接待や会談、会食や会議は洋館の部分で行い、
居住は全て後ろの勝手知ったる和式で行われたということですね。
いかに海軍は英国式といえども、ここに住まうのは江戸時代生まれだったりしたわけですから、
すべて洋風では困る、という要望があったのかと思われます。

海軍は組織を作り上げるにあたって、まずイギリス海軍をお手本にしましたし、
「世界の一等国」として先進国の文化を取り入れた日本の、さらに先端をいく
科学的組織としての矜持から、衣食住をすべて西欧風に整えていたわけですが、
「仕事中は仕方ないけど、プライベートでは着物を着てたたみで寝て箸でご飯を食べたい」
というのが、海軍の偉い人たちのホンネでもあったに違いありません。

芥川龍之介の「舞踏会」という話を思い出しますね。
鹿鳴館でダンスの相手をした日本の少女を見て、
「この娘も、紙の家に住んで竹の箸で米をつまんで食べているのか・・・」
という感慨を持つフランス人士官が、のちの作家「ピエール・ロティ」だった、という話。

さて、この洋風建築の表入口は、ガラスのはまった開き戸なのですが、これをご覧ください。

     

すりガラスに施された、海軍のモチーフ錨と植物を絡ませた模様が、実にエレガントです。
やはり、日本の意匠デザインのセンスは繊細ですね。
このガラスは一度も破損していない、つまり当時作られたものが現存しているのです。



執務室と応接室。



たしかこの椅子は当時のものですが、ほとんどの家具はレプリカです。

これ、なぜだと思います?

戦後、呉はオーストラリア軍を中心とする英連邦軍の占領地区となり、
この官舎は占領軍の司令長官官舎として使われました。
偏見で言うわけではありませんが、所詮これがオーストラリアの田舎者ですから(言ってるし)、
この建物の歴史的経緯など全く敬意を払うことなく、好き勝手な改造をして住み、おまけに
帰国の際は家具を持って帰ってしまったというのです。(ボランティアの解説の方談)

部屋の中も外壁も、真っ白のペンキを塗りたくり、組み木の床には
上にリノリウムを被せ、通路を作り、扉を加え、と改装しまくって帰ったわけです。
負けた哀しさ、何しろ向こうは占領軍ですから、改装にあたって日本側の許可を取るなど、
おそらく全くせずに行われたと思われます。

この応接室のピアノは当時のもので、現在もここでミニコンサートが開かれるのだそうですが、
この部屋の壁を見てください。
美しい金色をベースとした、立体的な壁紙が貼られているのがお分かりでしょうか。



これを、金唐紙といいます。
大きな木の、粉伸ばしのようなローラーの表面に手彫りで連続模様を施し、皮革や壁紙を
プレスしてできるエンボス加工によりこのような立体模様をつけます。



このように彩色したものもあり、明治時代の高級洋館建築の壁紙としてよく使用されていました。
この手法が流行ったため、明治時代にはこの壁紙を作る工場は15ほどあり、
「芸術産業」としてこの壁紙は輸出もされたようですが、
その後時代の移り変わりと共に、すたれた手法となりました。

とにかく、この貴重な金唐紙がふんだんにこの庁舎の内装に使われていたのですが、
モノを知らない田舎者ののオージーは、これを白いペンキで上から塗りつぶしてしまいました。

ハーフ・ティンバーの外壁も、同じくです。
その特徴である木の梁部分にも、遠慮会釈なく彼らは白ペンキを塗ってしまったのです。

昭和31年、日本政府に返還された後も、重要文化財として官舎はそのまま展示されていました。
しかし、その後老朽化が進み、修復を検討しているときに、建築当時の資料である
「明治38年 呉鎮守府工事竣工報告」が発見されました。

これを受けて、1991年から5年かけて、調査、解体、修復を行い、できるだけ当初の姿に
戻すべく、金唐紙もペンキを塗る前の状態に復原することに成功したのだそうです。

ちなみに、この金唐紙が壁紙として現存する建物は、全国でもわずか数か所で、
なかでもこの官邸には、洋館部のいたるところにそれが見られ、非常に貴重な資料となっています。
金唐紙の復元にあたっては、「金唐紙研究所」の職人の協力をあおぎました。
職人は、国選定保存技術保持者という特殊技術を持っているそうです。

 天井の照明器具は多分そのときのまま。

 正餐メニューの乗っていたダイニングテーブルの脚。

この猫脚細工もまた美術品レベルの貴重なものだそうです。
これは持って帰らなかったんですね。オージー。
大きすぎたってことかしら。

 

感心にも、和風建築部分を大幅に壊して改装するような不埒な真似はしなかったようですが、
それでもところどころ、鴨居の上の欄間を取ってしまっていたりして、
「これもガイジンさんがやったんですよ」(苦笑い)と説明の方はおっしゃっていました。
当時は畳の上にじゅうたんを敷いていたのかもしれない、と思ったり。



永年の使用ですっかり溝が摩耗してしまった敷居。
ガラスなどは全く破損しなかったらしく、当時の
「向こうが歪んで見え、ときどき気泡が入っているいびつなガラス」
がまだはめられていました。

  

便所(もちろん修復したもの)と当時のままの浴室のガラス戸。
洋館部分には見ることはできないものの、洋式の(たぶん)トイレットがありました。

このすりガラスは、長年の使用のうちに湯気が桟にたまって、その部分が透明になっています。
この窓を眺めながら、歴代長官はお風呂に浸かって謡いなどウナったのかなあ、などと想像。

 この官舎前の敷石も、当時のものです。

歴代長官を乗せた車がこの敷石の上を静々と走る様子が目に浮かびます。



ところで、最後に余談ですが、呉鎮守府の第34代長官は、岡田 為次少将です。
勿論この官舎に住まうことなど無かった、日本海軍最後の呉鎮守府長官です。
実に不思議なことに、呉鎮守府長官に昭和20年の11月15日に就任し、
わずか15日後の11月30日、鎮守府の廃止と共に退任しています。

呉鎮守府を廃止するにあたって、形だけでも長官が必要だったのでしょうか。

岡田少将は予備役に編入された直後、充員召集されてこの長官職に就かされました。
その後、呉の復員局で仕事にあたっていたのですが、
GHQのBC級戦犯裁判にかけられ、死刑判決を受けました。
岡田少将の刑は昭和22年9月、ラバウルで執行されています。







海軍艦上午餐会

2012-07-09 | 海軍


呉訪問で、元自衛官の掃海艇艦長氏が計画してくれた、「呉海軍ツアー」の〆は、入船山でした。
と言っても、艦長氏本人は自分は知っているので、と、入船山の前で我々と夫人を降ろすと、
そのままさっさと車で去っていったわけですが。

我々を案内するために予定を立て、きっちり時間まで筆ペンで書き込んだ予定表を
車のダッシュボードにテープで貼り付けて、その通りに行動するという、
徹底的な海軍体質であったこの艦長氏ですが、またそれも仕事がらか人柄か、無口で無愛想。
美味しいお好み焼き屋も、TKG(卵かけご飯)の美味だった料理屋も、
全て自分はバックれて、奥さんにアテンドを丸投げです。

というか、そういう方が我々のために「そこにいくと往時を思い出して気が重くなる」
旧兵学校見学にまで連れて行ってくれるなど、貴重な時間を費やしてくれた、ということを
今さらながらありがたく思いだすわけですが・・・・・。


さて、艦長抜きで見学に訪れた入船山。
ここは呉市の史跡に指定されています。
海軍の健軍に伴って呉鎮守府が置かれ、古代から亀山神社が鎮座していた入船山、
通称「亀山」に、洋風木造二階建ての軍政会議所兼水交社が建てられました。
1892年(明治25年)から、ここは呉鎮守府司令長官官舎として利用されていました。
そのころから通称は「長官山」となりますが、戦後はまた「入船山」と呼ばれ今日に至ります。

最初の官邸は、日露戦争直後の明治38年(1905年)、震源を安芸灘とする、
マグニチュード7.2の芸予地震が起こり壊滅的被害を受けたため、新しく建て替えられました。

それが現在ものこる、この司令長官官舎です。




この入船山の史跡については、また稿を改めるとして、今日のテーマは、
この長官官舎の内部に展示されていた、往時のダイニングテーブル(冒頭画像)の上の

午餐会のメニュウ

殺伐とした話題が続きましたので、今日は優雅に美味しく参りたいと存じます。

帝国海軍はイギリス海軍をお手本に作られたので、制度を始め、用語など、いたるところに
その名残が見られるわけですが、こと料理に関しては、海軍が熱心に導入したのは
イギリス料理ではなく、フランス料理でした。
このことは、良いものだけをこだわって取り入れるという海軍の慧眼と趣味の良さを表しています。

ここに見られる午餐は、昭和5年(1930年)装甲巡洋艦「出雲」艦上で、実際に供されたもの。
金の海軍マークのついた食器に、美しく盛られた料理の数々は、
実際の料理法に忠実に、おそらくこうであっただろうという予想のうえ再現されています。

復元については、明治41年に発行された『海軍割烹術参考書』を元に、
海軍料理研究家の高森直史氏が総合監修をしました。
それでは始めましょう



1、前菜  ソモンと西洋野菜のテリーヌ

サーモンのフランス読みがソモンです。
これはテリーヌですが、ゼリー寄せのようですね。
「Saumon Fume」はスモーク・サーモンのことです。



2、 澄羹汁  アスペラガース・スープ

澄んだあつものの汁。
スープ、という言葉が一般的でないころは、これを「ちょうかんじる」と呼んでいたのでしょうか。
コンソメスープに沈むアスペラガースが美しい。
ただし、フランス語でアスパラガスは「アスページュ」と発音します。
料理法はともかく、表記は英仏混合で行われたようですね。
基本は英語、ときどきお洒落にフランス語を使ってみる、というのは今も同じ?

3、 鱒蒸煮  ボイルド・フィッシュ(コールド・フィッシュ)

フランス語ではポワレ・ドゥ・トリュイ・ドゥ・リヴィエール、(川鱒のポワレ)。
このポワレとは「蓋をした底の深い銅鍋に、少量のフォン(だし)を入れ蒸し焼きにすること」です。
いまなら「蒸したマスの冷製」というところでしょうか。

4、 雛鳥洋酒煮込重焼  シチュード・チッキン・付合 香草

メインディッシュだというのに写真を撮り忘れました。
なぜだ・・・。
英語で「チッキン」です。
この「ッ」が、当時の日本人の英語の日本語表記へのこだわりを表わしています。
チキンは味が薄いので、洋酒と香草で煮込むのはきっと美味しいでしょう。
ただ、この料理、どうみても「鶏」の胸肉の料理だったし、英語でも「チッキン」なのですから、
それが漢字表記で「雛鳥」というのはなんだかヘンですね。
チッキンの雛鳥、ってひよこでしょ?



右から

5、  牛肉蒸焼附野菜  ローストビーフ 附合 クレソン、ホースラディッシュ

ローストビーフも、この名称が定着するまでは「牛肉蒸し焼き」だったのですね。
ん?ローストビーフって、蒸し焼きするわけではないのになあ。
外側を焼いて、内部にじっくり火を通すから、蒸し焼きと言えないこともありませんが。
それにしても、ローストビーフって、宴会で出されて美味しいと思ったことがないのですが、
何故かしら。

6、  冷菓子  レモン・アイスクリーム

7、  雑菓果  タピオカプリン 黒豆添え

8、  コーヒー

タピオカが昭和初期にデザートに使われていた、というのに少しびっくりです。
黒豆、というのは当時も「和風スイーツ」としてこのように使われていたのでしょうか。

先日エリス中尉が護衛艦「さみだれ」で頂いたのと同じカップである、最後のコーヒーですが、
おそらくこのような正餐の場合は、デミタス・カップで出されたのではないかと思うのですが、
いかがなものでしょうか。


この正餐が行われたとき、1930年当時の「出雲」艦長は星埜守一大佐
「出雲」では秋山真之(1910年)や伊地知季珍(1903年)が大佐時代艦長を務めていました。
もともとイギリスで建造された「メイド・イン・イングランド」のフネで、
日本海海戦でも活躍しましたが、1945年、終戦のわずか一か月前に米軍艦船の攻撃により
転覆着底し、同年11月、除籍されています。


この艦上正餐に舌鼓を打ったのは、当時の「出雲」の艦長以下、幹部の皆さん。
おそらく、司令などを迎えてのものであったかもしれません。
だとすれば、当然、この午餐には音楽がつきもの。
海軍軍楽隊によるBGMが、この日の卓に興を添えたはずです。

最高位である司令がナプキンを取り、最初のテリーヌを食すためにフォークとナイフを取った瞬間、
入り口でそれを見ている下士官が、階段上の軍楽下士官に眼で合図、
さらに軍楽下士官は、指揮者(軍楽隊長)に合図。
食事開始とほとんど同時に、音楽が始まるというわけです。

本日は西洋料理ですので、軍楽士官であるエリス中尉が皆さまのために特に選曲したのは、
優雅な
「美しき青きドナウ」、アン・デア・ショーネン・ブラウエン・ドナウ
(ヨハン・シュトラウス二世作曲)
でございます。
選曲にあたっては特別に、この艦上午餐会の行われた頃、1932年の演奏を見つけて参りました。
カルロス・クライバーのファーターである巨匠エーリヒ・クライバーの
「時々何もしないで見てるだけ」指揮ぶりが一見の価値ありです。

http://www.youtube.com/watch?v=m0r4YnJ4-x0&feature=related

それでは、音楽スタートと同時に、どうぞ召し上がれ。





帝国海軍と七十七

2012-07-07 | 海軍

       


元々歴史が好きだった人間が、ある時期から海軍に惹かれ、探求を始めました。
そして、それだけでは終わらず、ブログを立ち上げました。
「ネイビーブルーに恋をして」です。

その世界を形作る様式美、求めるものの精神性、機能を重んじた合理性と闊達さ。
勿論全てが上手くいっていたわけではありませんが、帝国海軍という組織が、今も昔も、
憧れの対象に足るスマートな集団であったというブログ主の考えには、
とくにここに来て下さる方々であれば賛同して下さるのではないでしょうか。

美は細部に宿る。
海軍的なものの美点の一つはその意匠の巧にもあると思います。
たとえばこの軍艦旗。

陸軍の旭日旗が、日の丸が中央にあるのに対し、軍艦旗は
この写真を見ても分かるように左側に日の丸が寄っているでしょう。
この絶妙なバランスが、何ともいえず美しい。
計算された粋です。

映画「バトルシップ」の自衛隊旗を見てお隣韓国が(笑)旭日旗と間違え大騒ぎしたそうですが、
日本人でもこの違いが分かっていない人が結構いるみたいですね。
詳細は避けますが、テレビ局関係者などには特に多いようです。

下写真は、先日護衛艦見学をしたときに、「さみだれ」の前方にいた、護衛艦「さざなみ」。
画面の奥に国旗と軍艦旗じゃなくて自衛隊旗がありますね。
手前の自衛官旗は、毎朝ちゃんと掲揚の儀式によって揚げられます。
この写真の海自旗ですが、何だか変なので「こんな旗あったっけ」
と画像を探しまくった結果、普通の旗がそう見えているだけというのが判明しました。
というか、ここは艦尾なので、普通に軍艦旗を揚げなくてはいけない場所なんですね。




さて、今日は旭日旗の話をするためにこの写真を挙げたのではありません。
海軍のことを色々調べている段階で、ある偶然に気づいたのです。
今日が
七月七日
であるというそれだけの理由で、今日のテーマを決めました。

「日本海軍と77」。

言っておきますが、無理やりです。あまり期待しないように。


その1

帝国日本海軍が生まれたのは明治元年。(1868年)
太政官制のもとに、海陸軍務課によって健軍とあいなりました。
そしてそれから77年後の昭和20年(1945年)、海軍は消滅しました。

つまり、日本帝国海軍の寿命は77年であった、というわけです。

ちょっと待て、ということは日本陸軍の寿命も77年ではないのか、と思ったあなた。
あなたは正しい。
しかし、今は海軍における77という数字の偶然の話をしているので陸軍はそっちにおいといて。
海軍が海軍省の機関になったのは1873年(明治5年)のことですが、ここから計算すると、
77という数字が出て来ないので(笑)明治元年を、この際海軍元年とします。

その2

前回、旧軍の大将に相当する海将たる海上幕僚長は、
16人いる海将のうちの一人である、という話をしました。
昭和27年(1952)の海上警備隊総監である山崎小五郎を初代とすると、
設立後の60年間に、我が海上自衛隊は30人のアドミラルを戴いてきたことになります。
これは平均すると任期二年という計算になります。

比して帝国海軍はどであったかというと、
77人が大将として信任されました。

制度的に大将はきっちり任期が一年ずつというわけではありません。
同時に何人かが存在していたり、「死後特進」として大将になった提督もいますし、
任期中に病死した提督(川村純義)もいたりするわけですから、
この77年で77人の海軍大将、というのは偶然とはいえ、不思議な一致です。

因みに初代海軍大臣は西郷従道
西郷隆盛の弟ですが、最初から大将であったわけではなく、
海軍大臣に就任後、大将に信任されたという変則人事でした。

「最後の海軍大将」というと何と言っても井上成美の名が浮かびます。
それが井上成美の言わば枕詞にもなっているのですが、
井上成美と同時に大将に昇進した人物がいます。
塚原二四三(にしぞう)です。
また、大和の艦長であった伊藤整一も、菊水作戦の後大将に「特進」していますから、
(井上、塚原より一か月前)言わば伊藤は「最後の特進大将」と言えましょう。


その3


海軍兵学校の第一期生は1870年(明治3年)に、兵学寮生徒として入校しており、
その終了は1945年(昭和45年)ですから、その歴史は通算75年。

兵学校は77期が最後の学生となっています。

ここで、「兵学校の最後の期数は78ではないのか。小沢昭一だって78期だったぞ」
と思われた方、あなたは正しい。
しかし、実はこの兵学校78期というのは正式には「予科生徒」という扱いなのです。

この期は総員4048名の大所帯。
本科だけでは、短縮された期間で教育課程を終了させることが難しくなったので、
本校生徒に必要な諸準備を完成させるために、前もって予科として人員を確保したのです。
78期生徒の入校は77期の本生徒より一週間早い日に行われました。

つまり、最後の兵学校生徒は、78期ではなく、77期なのです。


海軍の歴史が77年なんだから、大将の数も兵学校の期数も似たような数字になるだろうって?

はい、おっしゃる通りです。
ですから、この稿は、単なる「こじつけ」ですので、軽い気持ちで読み流してくださいね~。

その4

ここで質問。
日本に海軍を作った生みの親は誰でしょうか?
そう、ご存じ勝海舟ですね。

海軍兵学校の裏門の文字は、勝海舟の書の中から抜粋されたもので、
今日それも、校内の資料館で見ることができます。

勝海舟は、1823年文政6年旗本の家の長男として生まれました。

安政2年(1855)33歳のとき、長崎海軍伝習所の開設と共に入所、
海軍への第一歩を踏み出し、幕府海軍の創設に尽力します。

明治5年、海軍省の設置によって海軍大輔として明治政府に迎えられた勝海舟は、
日本海軍の創設に力を尽くし生みの親といわれ生涯を海軍に捧げました。
そして、

1899年、明治32年77歳で他界。

自らの作った日本海軍が世界に驚嘆された日本海海戦の6年前。
この海戦における圧倒的な勝利を見ることなく亡くなったのでした。

というわけで、さすがにネタが尽きたので、これにて打ち止め。
それでは皆様、ハッピー・7・7・ナイト!




ハンモック・ナンバー

2012-06-27 | 海軍

文字通りのハンモックナンバーとは、自分の寝る吊り床に書かれた番号のこと。
4けたの番号のみが書かれ、それによって戦闘配置が分かる仕組みになっていました。

海軍の学業成績をハンモック・ナンバーと称するのはもう皆さんご存じのことと思います。
ついでに少しインターネットをあたると、
「ハンモックナンバーが昇進について回る海軍では、その仕組みが組織を硬直させ・・・」
と、まるでハンモックナンバー重視が日本が負けた原因のように結論付ける意見や、
「ハンモックナンバーが必ずしも軍人として優秀だったかどうかとは一致しない」
という、誰でも考えつきそうな意見に厭というほどお目にかかります。

ですからまあ、今日はそういった1たす1は2みたいな結論は抜きで、
ハンモックナンバーと実在の軍人の関係を考察していきたいと思います。


そもそも、海軍兵学校にしても予科練にしても、もの凄い倍率の試験を潜り抜けてきたという時点で
その頭脳が優秀であることは最低保障されています。
ですから、そこで例えばハンモックナンバーがテールエンド(びり)だった、と言っても、
それでも当時の日本の青年の中の一握りの超エリートの一員であったことに変わりありません。

「田舎の天才」がここに来て「あれ?俺ってもしかしたら、たいしたことないんじゃね?」
と「身の程を知る」ことにもなり、謙虚を学ぶことにもなったと思われる兵学校ですから、
このような頭脳優秀集団の中でも、恩賜の短剣組、つまり上位5人ともなると、
もうすでに努力してなれるというレベルではありません。

この「天才レベル」の短剣組から、実際にも軍人として評価された人物を挙げると、

秋山真之 17期 首位(88人中)

が真っ先に思い浮かびます。
「坂の上の雲」でもおなじみの名参謀、秋山真之は「のべつに頭が回転し続ける天才」そして
「天才であったが、さらに努力家でもあった」そうです。
日露戦争後、秋山は海軍大学で教鞭をとりました。
そこで自らの戦った日露戦争のことを
「私があの戦争で国に奉仕したのは、戦略・戦術ではなく、戦務であった」
と述べています。
すなわちこの天才にとって戦争は「学問の実戦」であったと考えられていたのでしょうか。

井上成美 37期 2位(179人中)

軍人としての評価より、終戦工作をしたことと、
海軍兵学校の校長であったころの、教育者としての評価が高いのが井上大将。
「ハンモックナンバー必ずしも軍人の資質を表わさず」の例であるともいえます。
戦が下手でも、軍人を育てることができれば、それもまた一つの軍人の業績でしょう。
因みに、音楽でもよく「名演奏家必ずしも名教師ならず」といいます。

山口多聞 40期 2位(144人中)

人物将器能力共に評価の高い、しかし悲劇の提督。
海軍大学では主席で卒業しています。
アメリカ側から「ヤマモトの後継者は彼を置いてない、しかし彼は死んでいるから大丈夫」
と言われたというほど、敵にもその勇将、智将ぶりは伝わっていました。

色々調べていてふと思ったのですが、この山口中将はじめ、首席より次席の人の中に、
有名な軍人が多いような気がします。

山梨勝之進 25期 2位(32人中)
野村吉三郎 26期 2位(59人中)
永野修身  28期 2位(105人中)



上の三人の場合は違いますが、宮様クラス、つまり皇族が同クラスにいると、
どんなに優秀でも首位はあきらめなければなりません。
自動的に宮様が一位になるからで、例えば二人宮様のいた49期は、
本来首席で卒業するはずの生徒は、三位に甘んじなくてはいけませんでした。

もしかしたら、首席というのは案外このような「裏の事情」によって選ばれることもあったのでは?
この「錚々たる2位の面々」を見ていると、ついそういう疑惑が浮かびます。



恩賜の短剣組であれば、自動的にその出世のスピードは「特急に乗ったようなもの」。
逆に言うと「恩賜の短剣だったのに出世しなかった」というのはなぜだろう、と考えてしまいます。

堀悌吉 32期 首位(192人中)

優秀な人材の集合体だった兵学校の生徒をして、「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」
と言わしめた、天才的な頭脳を持つ人物だったと伝えられます。
映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」では、予備役に回されて無聊をかこつ堀悌吉を、
同期生の山本五十六が訪問するというシーンがありましたね。

堀が左遷されたのは、軍令部の権限強化を目的として行われた「大角人事」による粛清でした。
この人事で予備役に追いやられたのは、つまりロンドンの軍縮会議における軍縮条約の推進派。
堀悌吉はそのなかでも「戦争は悪である」とはっきりした見解を持っていたと言われています。
将来の海軍大臣候補をまとめて四人葬ったこの人事に対して、山本は
「巡洋艦一個戦隊と堀悌吉とどちらが大事だと思っているのか。海軍の大馬鹿人事だ」
と怒りまくり、自分も海軍をやめる!とまで言い出しますが、それを引きとめたのも堀でした。

この黒幕には東郷元帥も名を連ねていたため、これを以て
「東郷元帥は晩節を汚した」というものもおり、例えば井上大将が言ったという、
「平時に口を出すとろくなことにならなかった」とは、これを指していたのではないでしょうか。


その東郷平八郎元帥ですがイギリスに学び、兵学校を出ていないので、
幸か不幸かハンモックナンバーは残されていません。
しかし、兵学校で主席になるようなタイプの人間ではなかったようです。

日本とロシアの関係が風雲急を告げたとき、海軍大臣山本権兵衛は、聯合艦隊司令官に
「姥捨て山」とすら言われていた舞鶴要港部司令官の東郷平八郎を抜擢しました。
これを明治天皇は不思議に思われたというのです。

意外な人事に、その理由を尋ねられたとき、山本大臣は
「東郷は運の強い男でございます」
と奏上したそうです。

このように、卒業時の成績が一生ついて回ると言っても、その後の働きによっては
鈍行から特急に乗り換えることも、現実問題としては不可能ではありません。

こんにち、日本で一番有名な提督は東郷平八郎であることを誰しも疑いませんが、
実はアドミラル・トーゴーは、特急、それも新幹線への乗り換え組だったということです。


先日散々お話した「キスカの撤退作戦」でも、ご存じのように大抜擢人事が行われました。

木村昌福 107番(113名中)

ハンモックナンバーを跳ね返すほど、実戦で働きをあげた木村少将のような軍人に共通するのは、

「自分の判断を最後まで信じる」
「いつも強運に恵まれている」

これに尽きると思います。
発令されたとき、皆が一瞬驚き、決戦終了後も世界が驚嘆した東郷の「T字戦法」。
木村少将以外は誰もが納得せず、皆が反対した、キスカ突入作戦の撤退。

ともに、数分、そして一日ずれても作戦は成功していません。
この二人に共通するのは、おそろしいばかりの運のよさでした。


三川軍一 38期 3位(149人中)

神重徳  48期 10位(171人中)

ここで、悪名高い第一次ソロモン海戦における三川艦隊の再突入問題について少し。
三川長官が勝利を収めたあとの撤退を決意したのには、先任参謀神重徳の進言がありました。
皆さんご存知でしょうから詳細は省きますが、栗田艦隊と違ってこちらは「反転せず」。


これはわたしの単なる想像ですが、この神参謀、三川長官共に、これを決意する瞬間、
その脳裏には、「東郷ターン」始め「決断の成功例」が去来していたということはないでしょうか。

ここで欲をかいてせっかくあげた嚇嚇たる戦功がフイになったとき、
「皆に非難されてもあのとき撤退しておくんだった」
と後悔する自分の姿までをシミュレーションして、その結果この帰還を選んだのでは?

三川忠一は、真珠湾攻撃の時、南雲忠一司令官に第三次攻撃を進言した人間です。

南雲忠一 36期 7位(191人中) 海大は2位

南雲忠一の第三次攻撃中止も、この三川軍一の反転も、いわば、恩賜の短剣組の
「優等生の安全運転」が結果的にに悪い形で出てしまった例かもしれません。

ある元海軍軍人などは、この三川撤退について、
「功名心からのことであれば、その罪は万死に値する」なんて言っておられます。

後世のものとしてはせいぜい「後からなら何とでも言えるよなあ」としか言えませんけど。


米内光政 29期 68番(126人中)

これほど成績の悪い者が、海軍大将まで昇進し、海軍大臣や連行艦隊司令長官に就任したのは
極めて異例のことであったとされます。
現に、若いころ米内は「首切り5分前」の職場を転々としていたそうですが、
かれの偉かったのは、その間、候補生のような初心に戻って本を読みまくっていたことでした。

米内がなぜ兵学校でこれほど成績が悪かったかというと、
詰め込み式で、何しろ量をこなすことが要求される兵学校の学業において、
自分が納得するまで一つのことを深く研究し、
問題を掘り下げていくようなアプローチをしていたからだそうです。

大器晩成型の見本のような人物で、それが決して中途半端ではなかった証拠に、
米内は次第と軍の、そして日本の中心へと望まれるような形で出ていくことになります。

面白いのは、周りの人間もこういった米内の有望なことを認めていたということです。
「彼は上手くいけば化ける」
兵学校の教官のこの予言は当たったのでした。

財部彪 15期 首席(80人中)

優秀な人物でした。
しかし、この人物は、自力ではなく、コネの助けで楽に出世する誘惑に勝てなかったと見えます。
彼がめとったのは、何と山本権兵衛の娘。
首席を見込まれてのことでしょう。

ところがこのとき、この結婚を、なんと山本大将に向かって直接、

「財部は優秀な男である。
しかし閣下の娘と政略結婚なんかしたら、
自分の実力で出世したとしてもそう思ってもらえないから、
どうかそれだけはやめてやってくれ」

とねじ込んだ男がいました。

広瀬武夫 15期 64番くらい(80人中)

ご存じ、軍神広瀬中佐、実に男前です。
ワールドワイドに愛されたこのナイス・ガイは、成績こそ地味でしたが、慧眼で、さらに
山本大将にこんなことを直接談判しに行くほど、実行力と侠気のある人物でした。

しかし。

後の軍神もこのとき、山本大将にとってはただのハンモックナンバー64番(くらい)の男。
進言は無視され、財部は結婚後、案の定「財部親王」と陰口をたたかれることになります。
岳父の威光の恩恵を被ったということでしょうか、「大角人事」の粛清は何とか逃れましたが、
その後「統帥権干犯事件」で予備役に追いやられます。

海軍大将まで出世し、海軍大臣も務め、傍目には順調な「恩賜の短剣コース」。
その人事には「女婿」という言葉が影のように付き添い、財部自身が賞賛されることはなかった
という意味では、広瀬の懸念はまさに的中したのでした。

こうしてみると、ハンモックナンバーは、出世の一つの足がかりにはなっていますが、
人間的に魅力があって、隊長としてのカリスマ性を持ち、あるいは軍神にまでなってしまう人物は、
全くそれとは無関係であるということがわかります。

広瀬武夫しかり、野中五郎しかり。


それから、今回調べて思ったのが、クラスの人数のまちまちなこと。
一口で恩賜の短剣と言っても、
18人クラス(24期)の首席と、581人クラス(71期)の首席では、
随分その価値も違ってくると思うんですが・・・。


ところで、先日「三笠艦橋の図」を別項にアップしたとき、若い航海士の
「枝原百合一」(ゆりかず)という名前が気になる、と書いたのですが、
今回ハンモックナンバーのことを調べていて、この百合一くんが、

枝原百合一 31期 首席 (173人中)

であることが判りました!パチパチパチ
でも、百合一くんは、その後中将どまりです。残念。

さてそこで冒頭の「ジパング」もどきですが、

滝栄一郎 51期 首席 (255人中)
草加拓海 51期 滝より下(255人中)

ここだけの話ですが、この「ハンモックナンバー」、
この順位について話題にするのは、海軍軍人同士のタブーとなっていたそうです。


ですから草加少佐、このとき内心かなり頭にきてたと思います。


 

 

 


海軍兵学校跡三度目見学記

2012-06-25 | 海軍

わずか一年半の間に関東からわざわざ広島県の兵学校跡に三回も行った、エリス中尉です。

怪しい。怪しすぎる。

もし、今回の案内の係員が前回、前々回と同じ人だったらどうしよう?
いくらなんでも三度目は確実に顔も覚えられているだろうからヘタすると不審者扱いかも、
と軽く怯えながら門をくぐりました。

今回、大きく違うことは、呉からフェリーで小用港に着く「兵学校の皆さんの帰省コース」ではなく、
呉から音戸の瀬戸、早瀬大橋、と橋で繋がった陸沿いを、元艦長氏の運転で行ったこと。
早瀬大橋方面からは、術科学校に近付くと、古鷹山がこんな角度から見えてきます。



水戸黄門の印籠のように、元艦長氏がIDを提示すると、術科学校のあのゲートの中に、
車ですいすいとはいって行けるのですから、これは感激。
いかに三度目でも、関係者と行くのは違う視点からの見学になるだろうという期待が募ります。

それに今回はTOも一緒で、かれにとっては当然初めての訪問になるわけですから、
艦長氏が案内コースに「術科学校」を入れてくれる話を聞いたときも、断りませんでした。

幸い?三度目は、これまでとは違う方の案内だったので、わたしもひとまず安心。

この日もご覧のように雨が激しく降っている一日でしたが、
だからこそこんな日にしかみられない兵学校跡の姿が見ることができました。
まず、冒頭写真の兵学校学生館。

美しいと思いませんか?

案内の方が「今日来た方たちはラッキーです。赤レンガは雨の日が美しいから」
とおっしゃっていましたが、いつもより深みを増した煉瓦の色もさることながら、
濡れた敷石に校舎が鏡のように映し出されている様子なども、こんな日ならではの情景です。

晴れているときの見学では、結構近くまで立ち寄ることが許されていたのに、
この日は通路から遠景を眺めるだけで通り過ぎました。
最初は校舎のぎりぎり近くまで行け、レンガを接写できたのですが・・。

 雨の日ならではの眼福その2。

当然のようにここの学生も傘をさすことが許されません。
例の黒いコートを着て、このいでたちで江田島を歩きます。
カバンに透明のビニールカバーをかけ、雨から保護している人もいました。

この日は土曜日で、艦長氏によると「おそらくこれから下宿にいくのではないか」とのこと。
驚きました。
兵学校時代から、江田島の人々は「下宿」と称して週末には自宅を開放し、
そこで食べたり飲んだりして羽を伸ばす学生の面倒を見た、という話があるでしょう?

そのシステムが、今も江田島には伝わっているというのです。

術科学校との取り決めなのか、飲食代はどうなっているのか(昔は民家の厚意)、
そのあたりは聞きそびれましたが、艦長氏によると、
「やっぱりちょっとの間でも学校から出て、息を抜きたいんですよ。ちょっとでも」

はあ~、そんなに息を抜きたいもんですか。

「なにしろ辛いもんなんですよ。ここの生活は」

そうなんですね。
やっぱり、四六時中監視の目が光っているこの学校内では、張りつめっぱなしなんですね。



だって、これだもの。
この「分隊点検」という文字の、おどろおどろしい字体は、何?
この字に表れているのは、学生たちの恐怖?

この分隊点検では、身だしなみがいちいち細かくチェックされて、もし「不備!」とか言われたら、
外出は一時間単位で遅れるのだとか。
艦長氏も「髭とか、ちょっとしたシワとか、もう、アラ探し以外のなにものでもないんですよ」
と、数十年前のことを今さらのように嘆息して居られました。



「地面を見てくださいよ、葉っぱや枯れ木が全く無いでしょう。
これは毎朝学生が掃除をして、砂の部分にはほうきで筋目をつけるんです」と艦長氏。
しかーし。

エリス中尉の小姑のような厳しい目は、このツツジを見逃さなかった。
季節が終わり、枯れたツツジの花がら。
今、地面は美しく掃き清められていますが、枯れたツツジはそのまま残っていますね。

兵学校時代は生徒が一つ一つ手でこれを取り去り、枯れた花がらを決して残さなかったそうです。
昔の兵学校はマニュアルではない、「心のある」掃除をしていたということでしょうか。

  

相変わらず壮麗な大講堂から見学は始まります。
ここに入ると、どこの学校の講堂にもあるあの何とも言えない古い匂いを感じます。
どうして、学校の講堂というものは同じようなにおいをさせているのでしょうか。


 

兵学校もそうですが、現在の士官候補生も、卒業式のときに成績優秀者はこの方向から
壇上に登り、恩賜の短剣を受け取り、目の高さに捧げ持って後ろに下がります。
そして式の間、ずっとそうやって捧げ持っていなくてはなりません。
晴れがましいと、それを辛いなどとは思わないのでしょうか。

今、成績優秀者の受け取るのは感状ですが、短剣ではだめなのか真剣に聞いてみたいところです。

銃刀法違反になるから
、というのが艦長氏の答えですが、なんとまあ、夢のない・・・。



誰も撮らないこの角度から写真を撮ってみました。
ヘンデルの「見よ、勇者は帰りぬ」の流れる中、この階段をここから登った短剣組。
兵学校のときも、現在も、

成績の順番に前から座るので、

これを見ている父兄には、我が子がどんな成績でで卒業するのかが丸わかりだったそうです。
因みに、案内をしてくれた元自衛官の方も、元艦長氏も、
「私は後ろの方に座っておりました」そうで・・・・。



しかし昔は、と言ってはお二人に大変失礼ですが、
「東大(一高)や京大(三高)は滑り止めだった」
という案内の方の言葉は若干誇張であるとしても、当時の男子の憧れ、それが兵学校。
たとえ後ろの方に座っていても、日本中から選ばれた俊秀の一員であったことに違いありません。

実際は「一高三高に行きたいが、実家が貧乏だったので、費用が全て国から出る兵学校に行った」
という選択のもと、兵学校に来た生徒もいたそうです。
68期のクラスヘッド、山岸計夫生徒もその一人で、兵学校に入る前は
ボーイのアルバイトをしながら夜学に通い、兵学校に在学中もらっていたお金を切り詰めて
妹を学校に行かせるために仕送りしていたそうですが、
かれもまた貧困ゆえに兵学校を選ばざるを得なかった生徒でした。

案内の方は続けて、「昔はそうでした」

「しかし、今は違います!今は元気でやる気があれば誰でも入れます!」

元艦長氏、苦笑い。
何もそんなに力いっぱい強調しなくても。
というか、それなりに難しいと聞いたことがあるのですが?



入るときに自衛官のIDを出した艦長氏ですが、ツアーの間、一度も案内係に向かって
自分が元自衛官であることを明らかにしませんでした。
身内の人間にしか分からないような質問も勿論することなく、わたしたちにだけ聴こえるように
「あのときはこうだった」「これは実はこうなんですよ」
とひそひそ説明して下さってはいましたが。

自分が若いときに過ごした場所が懐かしくないのかしら、と不思議に思っていたのですが、
どうもご本人がおっしゃるには
「あまりにもあの訓練の日々が辛かったので、今でもここに近付くとその辛さが思い出されて、
何とも言えない重たい気分になってしまう」
とのこと。
ちょっとしたトラウマになるほど、厳しい生徒生活だったんですね。

戦後、一度も江田島を訪れたことの無い元軍人が結構いるという話を聞いて、
「青春の日々を過ごした江田島に行ってみたい、という風には思わないのだろうか」
と漠然と不思議に思わないでもなかったのですが、どうやらそのうち少なくない人たちの心は
「あまりに過酷な日々だったので、あまり思い出したくない」
ということのようです。

帝国海軍の精神によって支えられた美しい切磋琢磨の場、などと知らない者が憧れるには、
当事者にとってはあまりに色々あり過ぎて、といったところかもしれません。

戦後の江田島で過ごした艦長氏ですらそうなのですから、ましてや旧軍の「鉄拳制裁付き」
学校生活は、一言では語れないほど複雑な感慨を各自に残したのに違いありません。


旧兵学校三回目見学記、後半に続きます。







海軍士官に変身体験

2012-06-22 | 海軍

今移動中なので、小ネタです。
呉に行ったとき、いつも(といっても過去二回だけ)泊るホテルのロビーに、いきなりこんなものが!



なんだなんだ?二種軍装参謀飾緒付きと第三種軍装。
近づいて見てみると、どうやらこの軍服は本物らしい。

提供中田商店。軍服マニア御用達の横須賀にあるミリタリーグッズのお店ですね。
チェックインもそっちのけで喰らいつくエリス中尉(笑)

呉にとって海軍は「観光資源」でもあるんですね。
このホテルには、中田商店から借りてきた海軍士官の軍服を着る「変身プラン」があるのです。
よく、横浜異人館とか、明治村とか、先日はどんな意味があるのか熱海の温泉ホテルで、
レトロなロングドレスを着て変身写真を撮りませんか?って企画を目撃しましたが、
あれの男性版ですよ。

「変身願望」はどんな人にも多少はあるもののようで、
そういう願望をお手軽に叶えられる変身スタジオは根強い人気があります。
昔宣材のための写真を撮るのに、この変身系のスタジオで一度撮ってもらったことがありますが、
皮膚呼吸が困難と思われるくらいファンデーションを塗りたくられ、映りが自然に見えるメイク、
というふれこみの不自然なメイクをばっちり施され、できた写真は「まるで人形」。
今ならフォトショップがありますから、ここまで準備段階で作り込む必要はないんでしょうけど。

それにフォトショップは「加工」ですが、変身は「取りあえず自分には違いない」わけで、
このあたりの高揚感が決定的に違うところです。



まん中の偉そうなおじさん、右の若い人も、よく似合っていますね。
もしかしたらモデルは支配人とフロント係、婚礼担当のお嬢さんたちでしょうか。
一式を借りるだけなら1500円。
ただし、これを着てホテルの外に出ることはご遠慮ください、ということなので、変身しても
そんなに広くもないホテルを練り歩くしかすることはありません。
そこで、当然のように別料金で写真室の記念撮影、というのが提案されているわけですが、
ただ一式を借りて、携帯で写真を撮って盛りあがって終わり、という楽しみ方も自由です。

わたしは当然のように写真室に撮影を申し込みました。




パンフレットをご覧になってお分かりかと思いますが、夏場であるせいか、
借りられるのは二種軍装と三種軍装だけです。
このプランは、昨年暮れに「聯合艦隊山本五十六」が公開されたときに始まったのだそうです。
そのときは第一種軍装も着ることができたのかな。

飛行機までの時間を利用してこの変身ごっこをすることになり、フロントで申し込みました。
実は自分が着たいわけではなく、息子に着せたかったのですが、当の息子は

「ぜ っ た い に い や だ」

とにべもなく母親の頼みを拒絶したので、仕方なく自分とTO二人での参加を決めました。
TOはねえ・・・。
なんか似合う気がしないの。軍人から雰囲気がほど遠いんですよ我が夫ながら。
まあ、技術中佐、ってところならそう見えないことはない、ぎりぎりのレベル。
わたしは勿論のことそんなもの着たところで仮装大会にしかならないし、息子の不参加で
かなりやる気が失せましたが、・・・・といいつつ、二種三種、どちらも借りてしまった(^^ゞ

「こちらが白い方、こちらが緑です」
渡された一式は異常な重さ。
そうでしょうとも、どちらも短剣からベルトから靴まで入ってるんだもの。

取りあえず三種軍装から着替えてみました。
これ、確か映画の「大空のサムライ」で、笹井中尉役の志垣太郎さんが着てたっけ。
ラバウルで。

・・・なわきゃーない、と思わずいまさら突っ込みを入れてしまったエリス中尉でした。
暑いよこれ。
ラバウルでは笹井中尉は(おそらく)その暑さのせいで飛行服姿を残していないというくらいなの。
長袖ワイシャツにネクタイ、ウールの上着。
こんな恰好で熱帯のラバウルをうろうろした日には、戦わずとも熱中症で玉砕だ。

というくらい、暑かったです。

取りあえず最終装備を付ける前に自分で写真を撮ってみました。
見てお分かりのように、サイズが大きいんです。
身長160センチの男性もいないはずはないのですが、やはり肩とかウェストとかは、
女性が着ると余りまくりでした。
しかし、この三種軍装がなかなか好評(つっても家族と写真スタッフだけに、ですが)でした。

スタッフの
「宝塚みたいですね~」
この一言を聞いた途端、

宝塚歌劇新作ミュージカル「聯合艦隊司令長官山本五十六」
グランド・レビュー「トラ!トラ!トラ!」

飛龍の甲板で所狭しと踊りまくる水兵姿のタカラジェンヌ。
迫力ある戦闘シーン。
いよいよ最後のとき、羅針儀に身体を縛り付ける山口多聞司令、加来止夫艦長。
(いずれもトップスター競演による)
飛龍に味方の魚雷が撃ち込まれる最後の瞬間、二人のデュエットが響き渡る。

「愛、それは~気高く~」「愛、それは~哀しく~」

瞬時にこれだけの情景が脳裏をよぎったエリス中尉でありました。


・・・さて。

写真スタジオで撮ったものはまだ送られてきていないのですが、わたしのもっていたカメラで
スタジオの人が写真を撮ってくれました。



お調子者夫婦。
夫婦漫才コンビ「山本五十五、五十六」(いそこ、いそろく)デビュー!
ってか?

TOは、お腹の貫録だけは将官レベルです。
やっぱり似合っていないとわたしは思ったのですが、パソコンのモニターで確認したところによると
スタジオでカメラマンが撮った写真だとそれなりにそれらしく見えていたから不思議です。
やっぱり男性って基本的に軍服が似合うものなのでしょうか。
わたしは・・・どう見てもサイズが・・・。
参謀飾緒が肩から外れかかってるし。

それにしても、これ、キャンバスのような素材で、なにしろ無茶苦茶暑かったです。
先日観た「太平洋の嵐」で、二種軍装を着こんだまま軍艦の中で宴会をする士官たち、
というシーンがありましたが、あれは絶対無いね。
クーラーもないのに、こんなもん着こんだまま狭い船室で酒飲むなんざー考えられん。

でも、短剣吊りベルトの仕組みも分かったし、二種軍装の下にはYシャツを着なくてよい
(襟に学生服のようなカラーがつけてある)ことも分かりました。
写真だけ見て今まで絵を描いていたわけですが、むしろそちらの勉強になって良かったです。



というわけでエリス中尉(襟の階級は大佐w)三種軍装立ち姿。
皮の薬莢入れ、銃のホルダー、おまけにメッセンジャーバッグのような皮のカバンも小道具に
付いていましたが、カバン以外を適当に身につけてみました。
ガンのホルダーがなぜか右腰にあるということは、写真を撮ってから気づきました(笑)

で、この飛行靴が付属でついてきたので、飛行士官のようないでたちになってしまったわけですが、
この靴が何とサイズ27センチ。
写真室まで歩くのも一苦労(脱げるから)でしたの。

スタジオの方にお聞きしたのですが、このプラン、なかなか開始以来好評のようで、
今でも結構利用者があるとのことです。
陸軍士官の恰好だってもしできるならやってみたい、なんて思う人はきっと多いと思うのですが、
少なくともそういう企画は今まで見たことはありません。
「ここは海軍の街」っていう観光的イメージがあるので海軍軍人ごっこはできますが、
陸軍となると、理由がないというか、いろいろ面倒なことが起こってくるんでしょうか。

まだしばらくやっていると思うので、特に男性の方、呉に行ったらトライしてみてね。
あなたの中の何かが変わるかも?
わたしは・・・
旧軍軍服は男のためにこそあるもので、女が着ても似合わんということだけは確認できました(笑)

因みにホテルは呉駅前、呉阪急ホテルです。(ステマ?)


ところで、本日の宝塚歌劇妄想ネタについて一言。
戦中、宝塚歌劇はわりと似たようなことをやっていたんですね。
坊主頭のカツラを被って、兵隊の恰好をさせられて・・・・・嗚呼。






どんがめ下剋上

2012-06-21 | 海軍






「真夏のオリオン」という映画をご覧になりましたか?

「真夏のオリオンという曲をめぐって、米軍駆逐艦の艦長と伊潜の間に、数奇な触れあいが」
という、今の日本映画にありがちな、ご都合主義満載お涙ちょうだいな映画ではありますが、
全体的によくまとまっていて、わたしは好きです。
なかでも、潜水艦と駆逐艦の対決を戦闘シーンのメインにしているあたりが、新しい切り口で
戦争もののエンターテインメントとしては上出来だと言っていいかもしれません。

しかし、まあ、これが魅力でもあったりするのですが、この映画、「どんがめ乗り」たちが
なんというか、小奇麗すぎるんですね。

どんがめ。
海軍では潜水艦をこう呼び、どんがめ乗り自らもこのように自称していました。
もともとは、その鈍重な動きを揶揄してネーミングされたものです。

霞ヶ浦などで飛行学生がシゴかれるとき、ヘタな操作をしたり、もたもたしたりすると、
「鈍感!どんがめに行けどんがめに!」
と罵られたものだそうです。
鈍感、というのは今と少しニュアンスが違う気がしますが、つまりは「どん臭い」ってことでしょう。
同じ陛下の股肱に対して失礼もいいところですが、飛行機に乗ろうというような傾向の学生が、
海中をのろのろ潜る潜水艦を「鈍感なやつが乗るもの」と決めてかかるのも仕方ありません。

おまけにこの勤務、衣食住全てが、人類の忍耐の極限に挑戦するが如く過酷なのです。
特に衛生面。


「真夏のオリオン」の伊潜の皆さんが、航行何日目になっても、全員つるつるの顔をしており、
特に艦長の玉木宏など、一応汗などかいているものの、近づいたらドルチェ&ガッバーナの
「ブルー」の香りがしてきそうなくらい爽やかな顔をしているのですが、これは映画ならではで
きつい、臭い、暗い3K職場の実態とはかけ離れた印象です。

伊号の行動期間はだいたい一ヶ月半から二ヶ月半。
この間、受け持ちの海区(なわばり)の中を潜航したり浮き上がって充電したりしながら
辛抱強く敵が現れるのを待ちます。
潜水艦は速度が遅くて、艦船を追いかけることができないので、
大抵、待ち構えるか、迎え撃つ、という戦法をとるわけです。

昼間はほとんど浮き上がることなく、夜陰に乗じてこっそり浮上する毎日、
乗員は何日間も太陽を浴びずに、じめじめと湿った艦内にじっとしているのです。

このため、ビタミンと紫外線の不足で、全身が脚気症状になったり、視力が落ちたりします。
皆若いので、上陸して二週間もすれば元通りになったそうですが、
年配の艦長や下士官は、よほどの体力がないと務まらないでしょう。

映画には、若い軍医中尉にビタミン剤を渡されたベテラン下士官(吉田栄作)が、
反発から「飯食ってるから必要ない」などというシーンがありますが、もしベテランであれば、
潜水艦勤務のビタミン欠乏状態についてよく知っているはず。
このような台詞は決して出てくるはずはないのですが。


細かいことですが、近頃の映画って、こういう描写が本当にアマいですよね。


特に不人気で志願が少ないのが上層部の悩みの種でもあった潜水艦勤務ですが、
そのわけは、飛行機のような華やかさも、軍艦は勿論駆逐艦のような勇ましさも無く、
ひたすら海中で
隠密行動をとるという地味な兵種で、おまけに、
わずかの故障や被害であっという間に
全員が戦死してしまう、という
「逃げ場の無さ」となにより閉塞感が忌避されたものでしょう。


同じ危険で死亡率の高い航空でも、どこまでも広がる空の解放感と、海中の密室では、
どうしても前者に志望が集中するものと思われます。

それは決してイメージだけのことではありませんでした。
その危険さは、佐久間艦長の遺書で有名になった潜水艦事故であまねく知れ渡っていましたし、
実際に潜水艦勤務になった者は、この事故をいつも心のどこかで意識していたでしょう。
潜水艦に乗る限り常に死と隣り合わせ、といった考えから逃れることはできなかったのです。


潜水艦任務というのは常に隠密行動が本分で、最低限の戦況報告や指示を受ける場合を除き、
基地への無線連絡は基本的にしないことになっていました。
現在位置を探知されたり作戦が解読されることを避けるためです。
基地では艦が任務機関が過ぎても帰ってこなくなって初めて、その潜水艦の犠牲を知るのです。

・・ここで気づいたのですが、映画「潜水艦イ―57潜降伏せず」で、わたしがしびれたシーン、
つまりあの映画のクライマックスでもあるのですが、池部良扮する伊潜の艦長が
「伊57潜は降伏せず 只今から戦闘に入る」と基地に打電するシーンは、
この事実にてらすと、つまりありえなかった、ということになりますね。(がっかり)



しかし、このような過酷な勤務でありながら、いや、過酷な任務であるからこそ、
彼らはどんがめ乗りであることに誇りを持ち、強い連帯感で結ばれていました。
それは、他の大型艦や、個人技の航空には無い、一蓮托生の覚悟からきていました。

撃沈されたり艦に何かあれば、艦長から兵まで、一人残らず一緒に死んでいくのです。
共に死ぬと決めた同志の精神的な結びつきは、あるいは血より濃いものであったでしょう。

潜水艦には、「甲板整列」がありませんでした。
「男たちの大和」にも描かれた、あの「ヘタするとリンチ・タイム」が無かったのです。
軍隊における陰湿な、苛めとしごき、それによって渦巻く下級の者の怨嗟と仕返し。
そんなことをしているほど潜水艦は、いわば暇ではなかったのです。

艦長士官から下は水兵に至るまで、全員が同じ事業服で、暑ければFU一丁の食事タイム、
その食事の用意も、手が空いているものがする。
士官も自分で洗濯をしなくてはいけないし、時にはギンバイさえする。

陸軍に驚愕された「上下関係の(理由あっての)緩さ」が海軍の本領ですが、
潜水艦はそんな海軍の中でもありえないくらい「皆平等」でした。
死ぬのも確実に同時ということが骨の髄まで沁みついていると、組織とはこうなるのでしょうか。

潜水艦では全員で輪投げに興じ、負けた者がたとえ兵曹長であっても、
下級の者の「牛殺し」(デコパッチン)を逃れることはできません。

つまり、兵隊にとっては上がむやみやたらに身近に思える分、
上に行くほど「損した気がする」わけです。
まともに考えたら、何のために難しい兵学校まで出たのか、と思うくらいの割の合わなさです。

だから志望が少なかったのか、という理解も成り立ちますが、ところがどっこい、
士官たちは、そんな一見馬鹿馬鹿しいどんがめ勤務を、皆誇りにさえしていたというのです。
そして下の者たちも、そんな緩い階級差に乗じて士気がたるむかというととんでもなく、
だからこそ「一緒に死ねる」と本気で思えたのだそうです。

ここで、海軍で最も割の合わなかったと思われる、潜水艦艦長について。

潜水艦には士官は勿論のこと、艦長ですら個室が無かったというのです。
「イー57潜降伏せず」では、広い艦長室で、池部良が机の上の写真立てから家族の写真を抜き、
軍服のポケットにいれるという、これも私の好きなシーンがありましたが、
個室どころか、実は艦長は蚕棚と呼ばれる(これは現在の自衛艦でもほぼ同じ)ベッドに兵と同じように寝ていました。
ですから艦が揺れてよろめき艦長の顔に手をついてしまった、などという無礼狼藉は日常茶飯事。

大事にされすぎてリューマチになってしまった山本五十六は例外としても、
だいたい潜水艦艦長の少佐クラスは、脚を使って働かなくなるので
そろそろ体力の衰えが気になってくるお年頃。

一般に他の配置になった少佐なんぞより、ずっと足腰もできていたそうですが、それでも、
若いぴちぴちの水兵さんには基本的に動きがついていくことができず、
急速潜行で艦に飛び込むときには頭上に兵が降ってきたり、半ズボンの脛を痣だらけに
していたり、が潜水艦艦長の日常だったそうです。

しかし、それを考えると、「真夏のオリオン」で少佐が玉木宏って・・・・・。
そもそも少佐にしては若すぎませんか?あれじゃせいぜい大尉でしょう。

池部良は年齢的にはOKですが、だからといって冒頭の漫画を池部良で再現するのは
別の意味でヘンですね。

しかも、潜水艦長の指令は、他の配置より「一蓮托生」の結果を大きく左右します。
「不沈戦艦」と言われた伊41板倉光馬艦長は、何度も危機一髪の死地を脱出していますが、
ご本人が戦後述懐するような「少しの運のよさ」からだけではなく、
「艦長の決断」によって艦が救われたと思われる事例が数多くあります。
中には、もし板倉艦長でなかったら助からなかったのではないかと思われる例も。
板倉艦長については、また別の日に書きたいと思います。


ところで、今4巻まで出版されている佐藤秀峰氏の漫画「特攻の島」は、今佳境に入っています。
的(回天)に取り残された渡辺二飛曹を、敵中浮上して救うことを決断する伊潜艦長。

「恐れるな・・・時間はまだたっぷりある・・・・浮上オ!!」


最初はただのオヤジだと思っていたこの艦長が、やたらかっこいいんですけど。

今をときめく漫画家である佐藤秀峰氏が回天搭乗員を扱った漫画を描いていることや、
「真夏のオリオン」と「ローレライ」という二本の映画が潜水艦をテーマにしていること、
そして、ここで描かれた爽やかな二人の艦長(玉木宏、役所広司)を通じて、この、
一見地味でどん臭い兵器である潜水艦乗りのカッコよさを実は再認識しようとしているのか?
もしかしたら、日本の戦争ものが「潜水艦」にも目を向け始めているのか?
もしかしたら、ちょっとしたブームか?
とちょっぴり期待しないでもないのですが・・・まあ、たまたまだろうなあ。



この戦争で、総数139隻の潜水艦が参戦し、そのうち乗員ともども127隻が失われました。
そのうち24隻は、いつ散華し、どこで永遠の眠りについているかもわかっていないそうです。







「海ゆかば 日本海海戦」 行進曲軍艦

2012-06-18 | 海軍

      

なんと一つの映画で4日連続記事を書いています。
戦争もの、海軍もの、そして軍楽隊もの。

このブログにとってドンピシャリの語るべき内容がこれだけそろっているという映画もまたとなし。
映画の筋にはろくすっぽ触れず、音楽を中心にお話を進めたらこうなってしまいました。



行進曲「軍艦」 瀬戸口藤吉作曲

いよいよ日本海大戦に臨む聯合艦隊。
伊東四朗演じる丸山隊長のタクトが一閃、
旗艦三笠艦上では、この海戦に先立つこと5年前に作曲された行進曲軍艦が演奏されます。

さっそく大疑問なのですが、前回まで説明してきたように、
軍楽隊は出航の際の儀式に演奏をした後、楽器を艦艇の格納庫に収納し
「諸子が次に楽器を演奏できるのは、日本がこの海戦に勝利したその時である」
と厳命されていたはず。

なぜここであらためて演奏をしていいことになったのでしょうか?

史実によると、丸山寿次郎隊長以下26名の軍楽隊が行進曲「軍艦」を演奏したのは、
三笠が佐世保軍港を出航したときです。
これ以降、軍楽隊は映画にも描かれているように、楽器を収納し、砲塔伝令、艦橋の信号助手、
そして負傷者運搬の猛訓練に入ったとされていますから、実際には出航時に国旗を打ち振る
群衆に答えるような形で演奏された「軍艦」が、最後の演奏になった軍楽兵もいたわけです。

しかし、この映画では前回のブログに書いたように、ストーリー上
「主人公の東郷司令への直訴により、三笠艦上で慰安演奏会が一度だけ行われた」
ということにしたので、物分かりのいい東郷司令が、この後
「一度楽器を出してきたのなら、士気を鼓舞する為に一度『軍艦』をやりんさい」
と言ったとしても、自然だよね?ってことで、ここに「軍艦」の演奏を持ってきたのでしょう。

海軍軍楽隊を描くのならば、軍艦行進曲を演奏しなければ、それを描いたことにはなりません。
どこで「軍艦」を演奏するシーンを挿入するかについては、おそらくもっとも制作者が侃々諤々、
論議を尽くしたものと想像します。


つまり、劇の後半に「見どころ」を間配るために、わざわざ決戦前に演奏したという設定にしたと。
出航時、軍楽隊は後甲板に円陣を描いた隊形で「軍艦」を演奏し見送りに答えた、という
記録が残っており、このシーンはそれを再現しています。

軍楽隊は、割り当てられた仕事だけでなく、万が一砲員が全員戦死してしまったとき、
最後の最後まで戦い続けるために、代わって砲を操作することを義務付けられていました。

したがって、彼らは砲兵としての臨時訓練をも砲兵長の指導の下で受けさせられました。

この軍艦の流れる中、画面は順に、一戦に備える三笠の艦上を追います。
明治天皇の御真影に礼をする東郷長官。
「石炭捨て方」、つまり艦を軽くするための余分な燃料を廃棄。
甲板、艦内の拭き掃除。
兵器の手入れ。
甲板に消火用の水と砂の桶を配置。
最後の入浴。
これは、バスに5人ずつ順に並んでつかり、「交代!」と言われればさっと前に進み、
後ろから次の5人が入る、という当時の軍艦内の兵の入浴を再現してくれています。
ついでに、認識票をつけた全裸の兵が、褌をつける様子も説明してくれています。



ところで、以前「甲板士官のお仕事」という項で「棒きれ持ってズボンまくり上げた甲板士官」
という話をしたのを覚えておられるでしょうか。
この映画で絵に描いたような甲板士官が登場するシーンがありました。

うーむ。まさにこれは甲板士官そのもの。
ガッツ石松のカマタキ松田と、佐藤浩市のジャクりオオカミの殴り合いに呼応して、
大乱闘になってしまった下士官兵たちをシメるために飛んできました~!

でも、実際に「脚を開け!歯をくいしばれ!」と言って愛の鉄拳を振るうのは、
士官じゃなくて右側にいるスマートな下士官なんですよね。
それにしてもこのシーン、確かに巷間伝わる伝統的な甲板士官スタイルではあるけれど、
どうして裸足なのが、この士官さんだけなのかと・・・・。
軍隊に詳しくなければ、右の皮靴の下士官の方が偉い人だと思ってしまいそうです。
実際にも、年齢は士官より上なのには間違いありませんが。

 

こういうシーンを、映像で観たい!
史実を描いた映画を観る楽しみはここにあります。
実際にこの電文を打つとき、ツートントンしている横に秋山参謀がいるはずはないのですが、
それでも、こういうシーンを観てなんとなく百人一首の下の句が出てくる前に分かったような、
「これこれ!」というちょっとした愉悦を感じる人もいるのではないでしょうか。

それにしても、この横内正さんの秋山参謀は無茶苦茶はまり役だなあ・・・。
モッくん出現にいたるまで、歴代で最高の秋山役ではないだろうか。



敵艦発見の報を受け、みな戦闘態勢に入ります。
軍艦行進曲を演奏し終わった軍楽隊は駆け足で着替えを始め、海軍手ぬぐいを額にきりりと。



「諸君の命は、今日、こん伊地知がもらう。
私も死ぬから、みんなも思い切ってやっちくれ!」
艦長の訓示の後、張り裂けんばかりの声で万歳三唱。
狭いフネの上ですが、皆さん手を高々とあげてバンザイしています。

この部分の撮影も記念艦「三笠」の上で行われたようですが、この撮影のとき、
どうやら横須賀はものすごい強風だった模様。
セーラー服の襟がバタバタはためくほどで、本当らしさ満点です。



 

愈々(いよいよ)合戦のとき。
三笠艦上では杯を交わす儀式が各場所で行われます。
東郷司令はじめ将官たちは日本酒をグラスで。



フネの底の機関室でも同じように茶碗での乾杯が。
うーん、この映画でのガッツさん、かっこいいぞ。



ケースメート(砲郭)を、この映画では砲員の持ち場という意味で使用していました。
杯を交わした後、砲に清酒をかける大上一曹。

 

そして揚がるZ旗。

「皇国ノ興廃 コノ一戦ニアリ 各員一層 奮励努力セヨ」

秋山真之参謀考案、この世紀の名信号旗文。
これを全艦にメガホンで伝令するのも軍楽隊員の役目。



それを受けて復唱し、あるいは緊張する各部署。
この医務室の軍医たち、そして負傷者運搬に割り当てられた軍楽兵たち。
後ろにクラリネットのガタさん(緒方軍楽下士)がいます。

 

世紀の一瞬、東郷ターン、敵前大回頭を支持する東郷長官(を演じる三船敏郎)。
もうなんかね、三船敏郎でないとできない演技ですよ。
演技と言っても、三船さん、この映画で実は大したことはしていないんですよね。
じーっと空をにらんでるのがほとんどのシーンで。
だけど、本当に、これはもうこの人でないとだめ。

だいたい今、この瞬間の東郷平八郎を演じるのにふさわしい男優が、
日本の映画界に果たしていますか?

ところで、最近どこかで、
「東郷長官は、このとき実は『面舵』と言いながら手を左に回したのだけど、
回りの(多分加藤参謀長)が気を利かせて『取り舵』に修正した」という説を読んだんですよ。

多分、この証言が間違いだと思う(思いたい)んですが、これが海軍軍人の書いていることで、
無下に単なる妄想だと言いきれないところがあって・・・。
どなたかこの件についてご存知の方、いませんか?


 

戦闘がはじまり、艦内は修羅場となります。



東郷司令が「一ところに皆で集まっていることはなか」といったので、分散した将官ですが、
なんだかここの人たちはやられてしまっています。
よく東郷さんのいたところは無事だったなあ・・・。
負傷者運搬の兵たちも、「大丈夫でありますか?」「大丈夫ですか?」「大丈夫か?」
と相手によってかける声も微妙に区別しています。

まあ、このあたりの描写については、おそらく皆さんもご覧になった「坂の上の雲」に詳しいので、
これ以上はやめますが、戦闘中、甲板士官が、下士官が、仲間内で、
「がんばれーっ!」「がんばれ!」
と叫びあう。
頑張れという言葉が、本当の意味で使われる、ってこういう場合なんだろうなあ・・・。





戦死する大上一曹。白目剥いてます。
緒方先任も、眼をやられてしまいました。
「おめえのラッパ、上行って皆に聴かせてやれ・・・・・・」がくっ。



決戦が雌雄を分け、喜びあう松田兵曹始めボイラー室の面々。
ここの兵たちは、弾を撃つわけではなく、ただ艦底でフネを動かし続けるのが戦闘。
艦がやられたら、まず助かることなく一緒に沈んでいく持ち場です。

従って、機関部の勤務をする者たちは、恬淡というより無頼というか、妙に肝の据わった
人物が多かったとどこかで読んだことがあります。



艦橋の皆も、感無量の面持ち。
三十分で勝負はつきました。



砲員の持ち場に戻ると、生き残ったのはわずか三名。
三名共に呆然自失の態で機能停止しています。
そこで源太郎は一世一代の演奏を・・・。

「映画 海ゆかば オリジナルテーマ曲」 




終止符をつけてしまいましたが、これはAメロです。
砲員たちが、このトランペットの音色に我に帰ったようになり、再び最後の戦闘に突入する。
負傷して呻く兵たちをうち眺める悲痛な表情の秋山参謀、相変わらずの東郷司令(笑)。
もう三船敏郎、ほとんど演技してません。立ってじっとしているだけの簡単なお仕事です。

とにかく、大変良いシーンなのですが・・・・・・いかんせん、このメロディが・・・。

いい曲なんですよ。
譜面が読める方は、哀愁を帯びたこの旋律が御理解いただけるかと思います。
だがしかし、譜面を読める方なら、これもお分かりかもしれませんが・・・・・このメロディ、
まるで裕次郎の歌うムード歌謡みたいではないですか?
明治時代に、こんな曲調の旋律があるわけない、とあえて突っ込んでみる。


エンディングでこれが「海ゆかば」に変わる。「海ゆかば」が終わってから、
さらにその後一度思い出すかのようにこの旋律をリフレインする。
この音楽の演出も、実に心憎いものです。

しかし、ここで皆さんに悲しいお報せがあります。

国民歌謡「海ゆかば」が、信時潔によって作曲されたのは1937年。
昭和12年です。
当然日本海開戦時にはこの曲は存在していません。
ですからこそ、源太郎がいきなり「海ゆかば」をトランペットで奏で始める、
という展開にならなかったのですが、それを言うなら、このタイトル自体が無茶よね。



交響曲第4番ヘ短調作品36 第一楽章」 P.I.チャイコフスキー作曲


これは映画の中で使われたのではなく、この映画の予告編に使われていました。
このファンファーレの「運命の警告」を意味するテーマの勇壮な、そして悲愴な響きは、
この映画の内容そのものです。

そのあまりのはまり具合に思わず我が意を得たりとひざを叩いてしまったのですが、
この曲が

ロジェストヴェンスキー指揮 レニングラード・フィルハーモニー

演奏のものであることに、10ルーブル5カペイカ。






映画「海ゆかば 日本海大戦」 家路

2012-06-17 | 海軍

いよいよ明日は開戦という夜、東郷司令の特別の計らいによって、
三笠艦上で慰安演奏会が行われることになりました。

勿論そんな事実はどこにもないのですが、軍楽隊が主人公の映画なので、
特別に造られたストーリーです。
それに、もしかしたら、一度くらいあったかもしれないじゃないですか・・・。慰安演奏会。



横須賀にある記念艦「三笠」上で夜ロケされたこの演奏会シーン。
息をのんで楽団を見つめる将兵たち。
砲身にまたがっている人たちが計10人くらいいますね。

この、全く史実にないエピソードが、いや、史実に無くとも、この映画の最も美しいシーンだと、
わたしは断言いたします。

交響曲第9番第二楽章「家路」 アントニン・ドボルザーク作曲

トランペット奏者が主人公なので、最初の「遠き山に陽は落ちて」のメロディを、
トランペットが演奏していますが、本来はイングリッシュ・ホルンのメロディです。
イングリッシュホルンとは、別名コールアングレ、ホルンとついていますが、オーボエ族です。
オーボエ奏者がこの曲の出てくる時は持ちかえて演奏します。
そして、この曲が全てのイングリッシュホルンを使用する曲で最も有名なものです。

この有名な旋律の流れる中、一人一人の兵隊たちの表情が映し出されます。
その故郷の美しい景色と共に・・・・・。



千葉県、房総半島でしょうか。
「軍楽兵が兵隊ならば、トンボチョウチョも鳥のうち~!」
「音楽芸者が戦えるかい!」
などと軍楽兵たちを馬鹿にしていた水兵たちですが・・・・・。



長良川か、茨城県潮来か・・・。



越中、富山県境の出身。
「越中の人間は意地汚いさかい、残飯の食い過ぎで腹痛おこすんや」
とからかわれていた兵隊さん。




源太郎は越後出身。新潟ですね。
「越後の三助が、プカプカドンに出世したっちゅうわけか」
などと言われていました。
かれの思い出すのは自分のために鯛を買ってきた健気なセツの姿です。



京都。
前に立てば戦死か否かを占ってくれる「ネズミ大明神」に奥さんをあてがうために、
ネズミ探しに源太郎と島田を突き合わせた兵隊。
この役者さんが芸達者で、名前が知りたくて調べたのですが、配役が明記されているのは
ちょっとしかでていない三笠の将官の役ばっかりなんですよね。
軍隊のヒエラルキーがこんなところにも・・・・。
多分、高月忠さんだと思う。




この兵隊さんは、関西弁でしたので、これは紀伊半島の沿岸沿いかもしれません。
この俳優さんは掛田誠さん。(ですよね?)




京都府、天橋立ですね。



緒方先任の故郷は鎌倉でしょうか。



ガッツさん、マジ泣き。
これ、仕込みの涙じゃないんですよ。
右目に涙があふれてくるのをカメラがしっかり捉えているのです。
写真は・・・もしかしたらガッツ石松こと鈴木石松さんの故郷、栃木の田舎かもしれませんね。




可愛い軍楽兵の島田くんの故郷。
東京出身という設定ですが、明治時代は東京もほとんどこんな光景だったのでしょうね。



大物登場。
秋山真之参謀の故郷は、ご存じ愛媛県松山市。
それにしてもこの秋山参謀はそっくりである。
誰かと思えば横内正さん、初代格さんではないか!

ジャクりオオカミ、大上一曹の故郷は南部、つまり岩手の貧しい村。
人事の心証が悪くしてまで金貸しなどやってがめつく金を貯めるのも、全て故郷に田畑を
買って、いつか弟を呼び戻すという夢を持っていたからでした。
ただの嫌な奴じゃないのよ。



この演奏はたっぷり4分以上、つまり原曲の中間部分、嬰ハ短調に移行するまでのA部分を
なんと全曲演奏します。
いかにこのパートが映画の重要な部分であるかということなのですが、

ここで、皆さんに悲しいお報せがあります。

この、ドボルザークの第9交響曲が作曲されたのは1893年のこと。
日本海大戦が1905年のことですから、作曲されて12年経っており、
この映画の音楽担当者は安心してこの曲を選んだのかと思われます。

しかし、実際はこの曲が日本に入ってきた、つまり日本初演は実は1920年のこと。
日本海大戦のなんと15年も後、作曲されてから27年目にして日本人はそれを聴いた、
ということが今日判明しているのです。

勿論、この演奏会自体が映画のための創作には違いないのですが、それでも、少しは
整合性というか、「もしかしたら・・・」みたいな希望が欲しかったなあ・・。

それにもかかわらず、ここは素晴らしいシーンです。
全部写真を撮ってしまったのですが、これを音楽と共に見るのと、ただ写真を見るのとでは、
全く受ける感動が違いますので、このシーンのためだけにもこの映画を観てほしいと、
皆さまに切にお願いしたいくらい、感動しました。


映画「226」で、処刑される軍人たちが、いちいち奥さんのことを思い出しまくるシーンがあって、
そのカットがどれも冗長なため、「これはいくらなんでもやり過ぎだろう」と鼻白んだものですが、
こういうワンカットだけのシーンであると、なぜか自然に感情移入してしまいます。

それまで卑猥な冗談で笑ったり、下級兵いじめをしていた兵たちも、また一人の人間であり、
彼を愛し愛される者がいる故郷があるということが、
一瞬のカットでありながら雄弁に語られるのです。




拍手も鳴り止まぬ中、一人抜け出す大上。
「おらあ、おっかねえ!死にたくねえ!
フネさおろしてくれ!国さけえらしてけれ!」
号泣する彼を見守る源太郎は・・・。



沖田は、これも本当に、眼を真っ赤に充血させて泣いています。

「大上さん、国や海軍のために戦うんじゃないがや。
あんたは、田んぼや畑のために戦かやいいがね。
しっかりしてくだせえや、砲員長。
あんたが戦ってくんなきゃ生きて内地に帰れねえですけ」

いろんな男優の戦争映画における演技を観てきましたが、このシーンは両者ともに名演です。


それにしても、惜しまれる・・・・・・。沖田浩之・・・・・。



次回最終回、ようやく日本海大戦です。





海軍短刀

2012-06-11 | 海軍

「海軍さんはMM」という稿で、中指を駆使して描いた、真継不二夫撮影の兵学校生徒。
ツールを使って再チャレンジです。
先日訪れた教育参考館の、東郷元帥の遺髪を納めてある階段を上がった正面での撮影です。
いろんな著者がその表紙や装丁に使っていることからも、
いかにこの写真が、まるで鏡面の湖に映る月のような冴え冴えとした内面の美しさを
余すところなく表現しているかがわかろうというものです。

くっきりした二重の眼を伏せがちに、しかし指先までぴんと張り詰めた精神の緊張を表わす姿勢。
何者でもない一個の石となって、わが身の全てを崇高な奉仕の使命に捧げんとする無私の心が、
今、この瞬間、端正なその美貌に姿を借りて立っている・・・。
この青年と同じ日本人であることを、心から誇りに思える、そんな立ち姿です。


そしてかれの腰の短剣がその姿に与うる精彩のいかに大きなものかもお分かりでしょうか。
本日のお話はこの短剣です。


陸軍士官の軍刀に相当するこの短刀は、

一旦軍籍に身を入れたる諸子は、今日武士となりたるものにして、
其の形こそ違へ、短剣は即ち日本刀に相当するものなり。
故に常に武人たるの誇りを持して短剣の手前、言行を慎み、
之に依って自己の魂を練磨すべし。


とある年の機関学校入学の訓示にもあるように、武士の魂の刀に相当するものでした。
海軍士官にとって、短剣は誇りと栄誉の象徴となったのです。
同時に、この短剣姿は「粋な海軍士官」のトレードマークとなり、憧れの的になります。

「白い夏用詰襟の第二種軍装を佩いた海軍士官の姿は、
多くの女性の心を魅了して止まなかった」(旧日本陸海軍『軍刀』より)

・・・・・・・・・そうでしょうとも。
しかし、ここで我が意を得ているばかりでは話が進みませんので、
女性とこの短剣の関係については別の日に回すことにします。
女性ばかりでなく、青雲の意気に燃える青少年たちにとっても、この短剣は憧憬の対象でした。
「短剣を吊りたい」
実はそれが一番の士官志願動機だった、と戦後告白している人はたくさんいます。

あの短剣とスマートなネイビーブルーや純白のジャケットが海軍の軍服でなければ、
いくら兵学校が「一高、三高、海兵陸士」と当時の優秀な若者の目標の一つであっても、
兵学校のみならず予備士官や短現士官にも志願が殺到することはなかった、と、言えないでしょうか。
そして兵学校が陸士より人気だったことの一つに
「学生でありながらほとんど士官と同じ仕様の軍服、そして陸士のゴボウ剣ならぬ海軍短剣」
があったことは否めません。

人は、どんなことでもまず外側からその本質を知ろうとするわけですから、
海軍への憧れイコール短剣への憧れであったと断じても、
当事者たちから何らのお叱りも受けないとわたしは信じるのですが、いかがでしょう。

だいたい、あの井上成美大将ですら、海軍志願の動機は
「海軍士官の短剣姿だった」と言っているではありませんか。

そして念願なって夢にまで見た短剣を吊る日、少年の感激は一生忘れ得ぬほどに大きなものになります。


それでは、何故海軍は短剣なのか。
明治から大正にかけて近代化し、軍艦の内部構造が複雑になってくると、
その艦内で長剣をブラブラさせての行動は、迅速さを欠くことにもつながります。
そのうえ多数の士官が長剣を吊って艦橋に上がると、コンパスの指針が狂ってしまいます。
それまで、短剣は「士官のタマゴの印」として兵学校生徒だけが使用していたのですが、
この理由で、お偉いさんもフネの上では短刀を吊ることになったのでした。

本日画像の、教育参考館にあるブロンズのドアに施されたのは、日本海海戦の様子なのですが、
上から二番目の仕切りに見られる東郷元帥は、長剣を帯びているのです。
(この絵で確かめずに、東条鉦太郎作『三笠艦橋之図』で調べてくださいね)
皇室の御加護を願い、連合艦隊の指揮権の象徴、そして勝利への祈願をこめての名刀佩用でしたが、
なんと。
「コンパスが狂うのでおやめください」と言った幕僚がいたそうです。
ここにもいたよ。日本的官僚的ジョブズを怒らせた関空の税関職員みたいな人が。

空気読め、と周りは誰もこの幕僚の進言を止めなかったのでしょうか。
案の定、長官には断固退けられたそうです。そりゃそうでしょうな。


海軍士官の象徴であった短剣ですが、リベラルで科学的をモットーとする海軍、陸軍のように
「陛下の武器に何かあれば切腹」
というような極端な物質崇拝を押し付けるようなことは無かったようです。
「万が一短剣を無くしても、切腹なぞしないように」
と、短剣を紛失して責任感を感じるあまり自決未遂をした生徒が出たとき、お達しが出ました。

先祖伝来の短刀をしつらえたり、名刀を仕込む凝り性の、あるいは経済的に余裕のある士官もいましたが、
官給の刀そのものはステンレス製で、あまり切れなかったと言われています。

しかも、熱望してなった三校出身者と違い、召集されてなった準士官などは、
あまり短剣そのものに対する思い入れもないものか、ある下士官の話によると
「見せてくれといったら断られた。
構わず引き出したら、ザラザラという音がして錆びの塊が出てきた」
という具合。
兵学校出のそれはさすがにどれも「ピカピカに磨きあげられていた」そうです。

嫌われ者の士官は、短刀のサヤに塩を入れる、という嫌がらせをされました。
少し気付かないでいると、直ぐに錆の塊に化してしまいそうです。
わざわざ精神的な象徴をこうやって辱める、というのは悪戯と言うには悪質すぎて、
よほどの恨みでもあったのかと言いたくなります。


戦争も末期になってくると、刀に使う金属は悉く供出されて無くなってしまいましたから、甚だしきは
「セルロイドの短剣」
「柄、刀一体型」(つまりガワだけで抜けない。玩具より酷いかも)
といったものを吊らざるを得なかったそうです。


これだと、たとえ士官が集団で艦橋に押しかけたとしても、
コンパスが狂うことはまず無かったでしょうけど。








ハワイ・ヘラルド ミッドウェー記事原文

2012-06-06 | 海軍

REMBERING THE BATTLE OF MIDWAY

Japanese ZERO Pilot Kaname Harada Speaks of Lessons Learned

It was been 68 years since the Battle of Midway was fought,
but 93-year-old Kaname Harada, a former Japanese Zero fighter pilot,
still remembers the action vividly.

Harada was one of 21 zero pilots who attended a June 4 symposium at
the Pacific Aviation Museum on Ford Island to commemorate the annyversary of the battle,
which is widely regarded by World War II historians
as the turning point of the Pacific campaign.

But while Harada shot down five American torpedo planes--
a barely escaped
with his life--he does not consider himself so lucky.

"He sees the faces of the pilots he shot down and it's replayed over and over
in his mind and he feels is a heavy burden that he has carried all these years,"
said historian Dan King, who served as Harada's interpreter at the symposium,
which was attended by about 150 people,

"Although he won all those dogfights, he feels that, possibly, he was the loser."

Harada entered the Japanese Imperial Navy flight school in 1935 and
pursued a career as a fighter pilot because they were allowed to fly
as a
"lone wolf".

He turned out to be so talented that he graduated from flight school
at the
top of his class in 1937--a distinction that earned him
a pocket watch from the emperor, which he still has today.

Harada went on to provide air cover for four Japanese aircraft carriers
during Japan's Dec.7,1941,attack on Pearl Harbor,
although he did not drop any bombs or torpedos.


Six months later,Harada was assigned the job of defending the same
four Japanese carriers that had been involved in the Pearl Harbor attack--
but his time in the Battle of Midway, which lasted from June 4 to June 7,1942.

Harada's Zero fiter plane,which was heavyly armed,
but offered little protection from attack,
took off from the deck of the Soryu just as dawn was breaking on June 4.

The carrier was eventually destroyed by enemy fire.
Harada's damaged as well, forcing him to land on the Hiryu---
--the last functional Japanese carrier.

Shortly after taking off from the Hiryu in a new plane,
the carrier exploded, leaving Harada with no plane to land.

He circled the area for three hours, until his fuel ran out,
forcing him to ditch his plane in the ocean.

Finally, four hour later, around 7 in the evening,
Harada was picked up by the Japanese destroyer Makigumo.
Were it not for a stroke of luck, however, Harada said he would have been dead
by the time the ship made its rounds and found him floating in the water.

It turns out that while Harada was waiting for a new plane to be readied for him
on the deck of the Hiryu, he had put his pistol down on a nearby table.
In the commotion of battle, he forgot to pick up the weapon and take it with him
whin he boarded his new aircraft.

"When they said there's a plane ready, he rushed up and ran aut and left
the pistol on the table, and that's how he's here today,"
King told reporters.

"If he would have had that pistol with him when he was in the water,
he would have killed himself."

But when the medic on-board the Makigumo began treating him
instead of the many injured men who had lost their arms or legs,
Harada came to a horrific epiphany about the realities of war.

"The doctor said, 'No, no, you are in better shape than all these guys,
so we're gonna patch you up and put you back into battle.
The guys whose arms and legs are missing, they're basically useless,
so we're gonna leave them alone," King relayed.

"When you're involved in war, it's like we're not humans--we're like weapons;
we can be disposed of and used."

By the time the fighting was over, the U.S. Navy had inflicted roughly
2.500 casualties on the Japanese side, compared to 307 American casualties.

Harada said after returning to Japan, the military personnel who had survived
were isolated for over a month to prevent information about the devastating
loss from reaching the public.

Harada would, however, go on to fight in the Battle of Guadalcanal,
where he registered nine solo kills and 10 shared ones.

Sixty-eight years after the Battle of Midway, Harada and over 100
World War II veterans from the United States and Japan
visited the tiny coral atoll, which today is a national wildlife refuge,

to pay resupects to the soldiers who lost their lives in the conflict.

"We had Hawaiian leis and we went out on a boat and
we put the leis out
on the water and he(Harada) read a speech that he had

(ここまで)

 


ミッドウェー海戦記念式典

2012-06-04 | 海軍

         
だいぶ前のことになりますが、頼まれてハワイ・ヘラルドの新聞記事を翻訳しました。
ある海軍の元搭乗員の方がご自身の載ったその新聞記事を見せていただいたのですが、
そのときに
「送ってきてもらったのはいいんだけど、英語で何て書いてあるか読めなくてさ」
とおっしゃるので、僭越ながら翻訳をして差し上げたのです。

そして、一度はその記事をアップしたのですが、諸事情により当時、一度削除。
裏で色々あったための配慮でしたが、この記事の削除を惜しむコメントが多く、
記事としても皆さまに非常に興味深いものであると思われるので、
問題部分を変更したうえであらためてアップすることにしました。

1943年6月5日(アメリカ標準時で4日)、ミッドウェー海戦が起こってから、
今年で69年目になります。



今をさかのぼること二年前。
2010年の6月2日から二週間、ハワイ、ミッドウェーで日米合同慰霊祭が行われました。
そのときに戦闘に参加した日米両軍の元軍人が集まり、現地で慰霊を行ったほか、アメリカ航空博物館ではミッドウェー・シンポジウムが行われました。
そのときに日本から参加したのは全国から二十一名だったそうです。

この記事を下さった方は、御夫婦で参加されたそうですが、
夫婦参加はこの方たちだけだったそうです。

歴史的にふりかえると日本の大敗に終わったミッドウェー海戦。
そこにいた当事者の口から出る戦闘は、生々しいものです。
今日は少し長文になりますが、このハワイ・ヘラルドの記事を翻訳して御紹介します。



ハワイ ヘラルド 2010年6月18日

「ミッドウェー海戦の記憶」
日本ゼロ・パイロット ハラダ・カナメその教訓を語る


ミッドウェー海戦が戦われてから68年、日本の零戦搭乗員であったカナメ・ハラダは
九十三歳にもかかわらずその戦闘をはっきりと記憶している。

原田は、第二次世界大戦戦史家が「太平洋戦線における分岐点であった」
と位置づけるこの戦いを回顧する為に行われた記念式典に伴い、
フォード島にある太平洋航空博物館で、六月四日に行われたシンポジウムに参加した
二十一人の零戦搭乗員のうちの一人である。


この時ハラダは5機の米軍爆撃機を撃墜しているが、彼自身は
危険から辛うじて逃れることができたのを幸運だったとは考えていない。

「彼は撃ち落とすときに見た敵搭乗員の顔がいまだに脳裏から離れず、
それからずっとそれが心の重荷になっているのです」
約150名が参加したシンポジウムの間、ハラダの通訳を務めた
歴史家のダン・キングは言う。

「全てのドッグファイトで勝利をおさめたのにもかかわらず、
彼は、ことによると敗者になっていたのは自分かもしれない、
といつも感じていたそうです」

ハラダは、1935年帝国海軍の海軍操縦練習生となり、
戦闘機パイロットとしての経験を積むが、
それは彼らが「一匹狼」であることをゆるされていたからであった。
彼は操練35期を首席で卒業し、このとき恩賜の懐中時計を授与されているが、
今日もそれはハラダの手許にある。



この記事のカナメ・ハラダとは、零戦搭乗員に詳しい方ならおそらく「エース列伝」のたぐいで
一度は名前をご覧になったと思われる、原田要中尉のことです。

後半、「一匹狼」lone wolf と言う部分が今ひとつよくわかりませんでした。
団体のうちの一人としてではなく、個々が
「戦闘機パイロット」として一国一城の主として戦闘を行っていた、と言う意味でしょうか。
それにしても、「何十年の間脳裏を去らない撃墜したパイロットの顔」という言葉は・・・。
あまりにも重い十字架です。


1941年12月7日、真珠湾攻撃において、
(真珠湾攻撃は日本時間8日未明なので、米側の文献では常に7日と書かれてあるハラダは4隻の機動部隊上空直衛の任務にあたるも、爆撃も雷撃も行わなかった。
6カ月後、ハラダは真珠湾攻撃のときのものを含む4隻の護衛任務を任されるが、
これが1942年6月4日から7日まで行われたミッドウェー海戦であった。


このとき翻訳した新聞記事はもう一つあって、
こちらには真珠湾攻撃についてこのような原田氏の述解を加えています。

1941年12月7日、原田はハワイに哨戒のため飛行するが、
オアフ攻撃には参加していない。

「彼は自分が攻撃隊から外されているということを知った時、怒り狂ったそうです」
キングは言う。
「日本の搭乗員は守備より攻撃を重んじるものだからです」


翻訳のニュアンスとして、こうとしか訳せなかったのですが、
「怒り狂う」というのは当時の搭乗員の感情としてはいかがなものかと言う気がします。
「残念でたまらなかった、悔しかった」
と言うのが日本人のメンタリティには近いのではないかと思います。


最小の防御設備しかないが、重量の爆装を帯びた原田の零戦は
このとき6月4日に沈められた蒼龍から発艦した。


もう片方の新聞は
「重い装備とごく最小の防備、それはまるで『空飛ぶマシンガン』だった」
と零戦についてこのように説明しています。


船団はこのとき敵の爆撃により壊滅的な打撃を受ける。
原田の機は日本側の船団で辛うじて機能していた空母飛龍に着艦をした。
そこで新しい機に乗り換え発艦したとたん、飛龍は大炎上。

彼はその海域を3時間旋回し、燃料を使い果たしてから海上に不時着を図った。
四時間の漂流の後、七日夕刻、原田は駆逐艦「巻雲」に救助される。
幸運であったとしか言いようがないが、
駆逐艦に拾われるまでの時間、彼は死ぬことを考えていたという。

飛龍の甲板で新しい機を待っていたときに、
拳銃を近くのテーブルに置いたことが彼を死の運命から遠ざけた。
戦闘の興奮の中で、彼はそれを装着するのを忘れていたのである。

「機が用意できた、というのを聴くや、彼はすぐさま飛び上がりました。
そのとき拳銃がテーブルに置いたままであったことが、彼を今日在らしめているのです」
キングはこう報告した。

「もし彼が拳銃を持っていたら、海中を漂っていたとき彼は自決していたでしょうから」



巻雲艦上では、腕や脚を失った重傷者を差し置いてハラダの治療が施された。
原田は戦争の現実に震撼した。

「軍医が言ったんだそうです。
『いやいや、貴様はここのみんなよりちゃんと手も脚もついとる、
だからあんたを手当てして戦闘に戻さんといかん。
脚や手を無くした兵は基本的に役に立たんから、放っておくんだ』」
キングはこう続ける。

「戦争に組み込まれるというのは、人間としてではなく
兵器として使い捨てられるということなのです」


戦闘が終了したときには、
アメリカ海軍は日本側におよそ二千五百名の犠牲を出す打撃を与えていた。
比べて米軍側の犠牲は三〇七名である。

帰国してから一カ月以上、搭乗員たちは敗戦を隠ぺいするために隔離されていたと
原田は言う。

しかしながらハラダはその後もガダルカナルの空戦場で戦い続け、
そこで単独10機、共同撃墜1機を記録している。

ミッドウェー開戦から68年後、日米両国から、
ハラダをはじめとする百人を越す元軍人たちが小さな珊瑚環礁を訪れた。
ここは、今日国際自然保護対象であり、
戦いで失われた将兵たちに敬意を払う地となっている。

「ハワイのレイを携え、ボートでそこに行って弔辞を読んだ」

(8ページに続く)



さて、この後、8ページでは慰霊祭の模様が語られるのだと思います。
思います、と言うのは、この続きを訳すため
「8ページ以降送ってください」
と手紙を出した(勿論メールはなさらないので、スネイル・メール、つまり文通)のですが、

「この続きは、先日の会合席上で出席していたアメリカ人に見せたら、彼が
『欲しい』と言うのであげてしまい、ありません」

・・・・・orz

何と言うか・・・全く、こだわらないって言うのか・・・。

でも、実際の体験があまりに強烈過ぎて、それを再現した形式的な記憶のよすがなど
全く問題としていない、ということなのでしょうね。

最後にこの部分のもう一方の新聞記事を挙げます。




ミッドウェー環礁は世界的な自然保護区域にあり、
米国野生生物、魚類保護局の管理、保護下にある。

環礁はホノルルの約1250マイル北西に位置する。

旧日本軍人たちは慰霊のために続いてオアフをも訪れた。
ミッドウェーのこの海戦では日本側に2500名の犠牲者があったと言われている。
米軍側は約300名の命が失われた。













ある海軍軍人の(笑)終戦後

2012-06-02 | 海軍

ある海軍軍人の(笑)シリーズ、その2です。

冒頭画像文中の「中馬」とは、真珠湾攻撃の軍神となった中馬大尉です。
この中島艦長がブログをやっていたらこんなだったかな、と創作してみました

伊潜艦長、少佐で迎えた昭和20年8月14日。
中島氏は「1m長い潜望鏡が着荷したので喜々として?元の潜望鏡を引きぬいて」いました。
(お断りしておきますが、上記はエリス中尉の脚色でも何でもなく、原文ママです。
画像の文章も、顔文字以外は原文通りです)
しかしそのとき、中島少佐はすでに同期の艦長から、15日に無条件降伏の噂を聞いていました。
嬉々として潜望鏡を抜いている場合じゃないようにも思えます。

とりあえず少佐は厚木航空隊に行き15日の御詔勅を聞きました。
噂を聞いていたので、そこにいた誰もが敗戦を理解こそしましたが、同時に全員が戦争継続を決意。
その準備に少佐は武器の確保にあたります。
その日軍需部に行くと魚雷、陸戦用兵器、とにかく頼めば何でもくれたということです。
軍需部も継続の意思を持ってその日を迎えたということだったのでしょうか。


というわけで、引きぬいてしまった潜望鏡を新しいのに付け替えなくてはいけません。
しかし抜くことはできてもつけることはできない中島少佐でした。

光学部に頼みに行くも、「もう終戦だから」と彼らは仕事を拒否。
こちらには抗戦の様子は全くなし。
軍内部でも、現在言われるように、いろんな動きがあり、部署の受け止め方も様々であったようです。
中島艦長は技術士官を軍刀で脅かし、←直ちに取り付け復旧作業を完了し(させ)ます。

ところが、8月17日、横空に行ってみると、そこにいた皆にもう戦意は全くなく

ガックリ(しつこいようですが本当にこう書いてある)。

厚木の徹底抗戦への動きから、横空も当然そうなっているものと思っていたら、
こちらは全くそうではなかったので拍子抜けしてしまった、ということでいいでしょうか。
実に淡々と書かれているのでつい何の気なしに読んでしまうのですが、
実はこの中島少佐は厚木からなんの指示もなければ伊潜での単独行動まで覚悟していたようなのです。

しかし、この方にかかっては、全てが不思議に牧歌的に見えてしまうのは何故でしょうか。

この頃より毎夜、付近艦艇から衣類を頭に結び、泳ぎ着き同行を懇願する者多し

徹底抗戦を望むものが個人的にそういう動きを持つ部署に集結し、動こうとしていた、
という当時の空気を伝える貴重な証言のはずなのですが、

だめだ・・・この「衣類を頭に結び」が余計だ・・・。
なぜこのことをわざわざこの緊迫した状況の描写に加えなくてはいけないのでしょうか。
そもそも冒頭の「潜望鏡を引き抜いていた」というのも、なんだか余計じゃないですか?

やっぱり、この方、少し、皆とモノの見方が違うんじゃないでしょうか。

中島少佐はその後「降伏は海軍では習わなかった」と司令部に陳情に行ったものの、
説得され、乗員を道連れにする艦での単独行動を断念。
中島少佐はやっと敗戦の事実を受け入れました。

「戦争に負けて帰ってまいりました。あげてもらえますか」

親戚の家に身を寄せることになった中島氏の玄関での第一声です。
この頃、NHKのラジオではベートーヴェンの「運命」と歌謡曲「誰か故郷を思わざる」が
しきりに流されたということです。

さて、ここからが問題です。

中島少佐は陸戦隊として南方に従事していたときも、相変わらず飄々と激戦を戦い抜いていました。
例えばこんな具合です。

迫撃砲の集中射撃を受け、幹部全滅し、最高司令官になったかと心配するも、
司令部はいち早く後退しており、浦部参謀より大尉に進級したかと思ったと「ニコニコ」して言われる

落下傘が元で、陸軍伊藤支隊との仲悪く、全く困る。そののちスリアワセ良好となる

これ、陸軍との仲が悪かったのが落下傘のせい、ということなんですが、どういった理由でしょうか。
このあたりも何気なく言っていますが「歴史的証言」ですね。そして、

セレベス軍司令官直率部隊に先回りし、夜襲で捕虜にする

そう、戦後、このころの戦歴が問われることとなったのです。

巣鴨大学に入校、成績優秀につき、22年2月「セレベス」島「マカツサル」大学に留学、
重労働学を実地に専攻する


BC級戦犯では、当時やられた側の「復讐のために」中隊長クラスが捕虜の死を問われ、
多くの将兵が「公務死」しました。
資料によると5700人が裁判を受け、そのうち1000人弱という多数が死刑になっているのです。
ひょうきんな言い方で当時を振り返る中島氏ですが、不起訴になり帰国したのが何と2年半後。
その間裁判を受け、毎日のように仲間が処刑されていく刑務所で重労働に就いていたというのです。


しかも帰って来てから、戦犯を免れた元軍人に対し、世間はどんな扱いをしたか。
この方がどんな想いをしながら戦後を生きてきたのかが慮られます。

しかし。

御安心ください。
最後まで「こんな人」であった中島氏、またこんな風に手記を結んでいるのです。

花も実もある余世が楽しめそう。

おそらく、戦後の混乱期を通じて、この方は持ち前の明るさとユーモアでそのときそのときを
精一杯生き抜いてこられたのでしょう。
そして老境に差し掛かり、人生を振り返って、やっぱり何となく人とは一味違うとぼけた、しかし
考えようによっては最も強力な、何でも笑い飛ばしてしまうその精神で切り開いた人生を
・・・やっぱりこういう人間は、こんな風に語るものなのでしょう。

ボケを少なくし、美しく老いたい。
「死ぬまで健康」が目標。

まだ「ぽっくり寺」には祈願していない。

きっと、祈願せずとも中島氏は希望通りに美しく老い、ぽっくりと幸せに旅立たれたに違いありません。

おっと、まだ生きておられたりして。

 


ある海軍軍人の(笑)回想録

2012-06-01 | 海軍

戦後、往時を回想して書かれた回想録は、それが出版されたものではなく、ましてや
ゴーストライターによって名文でリライトされたドラマティックなものでなくても、
それだからこそ真実に迫るものをあらわしています。

亡き戦友や、級友に鎮魂をこめて綴られた文章は、職業作家の筆からは決して産まれてこない
巧まざる思いが、読むものをして涙ぐませることもしばしばです。

しかし。

「この世の出来事について語るのに『絶対』はない」

というこの世の真理に照らすと、いや照らすまでもなく、同じ学校に学び、同じ戦争を体験し、
過酷な戦場と友を失うすさまじい体験をしていながら、何故か
それを語ると全てが笑いに包まれてしまう、といったタイプの人間が時おり現れるものです。

今日紹介する「ある海軍士官」は、まさにそのお手本のような軍人です。
眉根を曇らせながら、凄惨な、あるいは過酷な、そして時には感動的な体験の続く文集を読んでいるとき、
突然この方の文章に触れ「笑い虫」に襲われてしまったことを白状しましょう。

本人は決してふざけているつもりはないのですが、この方の思いだすことがそもそも
「なぜよりによってその話を・・・」
と言うようなことばかり。
シリアスなことも書いているのにまたそれが激しく他人事。
そして兵学校から終戦まで怒られっぱなし。


まずは兵学校時代の想い出は以下のようなもの。

映画撮影に来校した俳優の海軍大尉に新入生ゆえ区別がつかず、敬礼してしまった
サインを欲しがり活を入れられた

増食(ご飯の増加)が欲しいと思った

艦隊実習時駆逐艦の動揺の少ない煙突付近に座を占め、くすねた乾麺を相川と大いに食べた

・・・・・・なんだか、いやな予感がしてきませんか?

しかし、厳しく精神主義的な兵学校の教育ばかりを語られるより、こういう生徒もいた、
ということの方がずっと面白いですね。なんだかほっと安心すると言いますか。

ところで、他ではあまり聞いたことのない潜水学校での訓練についてこの中島生徒は語ってくれています。
なんと、冬季、潜水訓練をするのだそうです。
厳しい!厳しすぎる。
それも、潜水して水雷艇のスクリューを触ってくる、というものです。
この方は入校当初「赤帽」だったのですが、この訓練では

寒さで息続かず、スクリューに手届かず、今でも残念
ということで、すでに赤帽は克服していたようです。それにしても凄いですね。

そして、少尉候補生の時。

「森永キャラメルを甲板で食べていてげんこつを食らった」
「マニラで外人を艦内案内していたが、もてあまし途中で逃げる」
←おい
霞空の航空適性で「アシ!アシ!アシ!」で(機を横滑りさせた)適性に失格した


まあ、航空に行かなかったのは本人と海軍のためにもよかったのでは、と思わずにはいられません。
何となくですが。


しかしここからがよくわからないのですが、この方は駆逐艦に乗ったり、水雷艇に乗組んだり
通信士になったり、あるいは陸戦隊の隊長になったり潜水艦に乗ったり、と
けっこう一貫性の無い配置を任されているのです。
なぜか「軍法会議判士」(裁判員ですね)などもさせられ、七回出廷しています。


そうかと思ったら「落下傘部隊に推薦してやるといわれ、平身低頭して謝絶する」
などという経歴もあり、しかも、一度ならず
「臨時考課表が真っ赤にされ、一度などは海軍を辞めさせるときつーいお叱りを」
うけたりしているのです。
このときの理由は上官にたてついたことらしいです。
いやー、なんだか、よくわからないことだらけですが、こういう人も・・・いたんでしょうね。

そして、そういうダイナミックな海軍人生の途上

(潜水学校学生時)
深夜校内で放歌高吟した件で校長より陛下の赤子の安眠を妨害したとお叱りを受け
たり、

海賊から押収した温州ミカン数百樽を黄色くなるまで食べ
たり

「なんら関係ない」ミッドウエイ作戦(関係ないか?)を3000哩離れた孤島で知り、
そのころ同期生に会ったところ、ヤシ油のせいか
「貴様は土人臭い」といわれてそちらの方に「ショック」を受け
たりしながらも、決して軍人として戦意が無いわけではなかったようです。
それどころか昭和二〇年、同期のどんがめ乗りを呉で見送った後、
自分も第一線(つまり激戦地)に勤務することを司令に上申しているのです。

同じ体験をして、同じ国を思う真剣な気持ちと責任感を持っていても、決して深刻な物言いをしない、
いわば極めて軍人らしくない飄々とした人だったようです。

病気で戦線を退かされそうになったときも
「軍医長に頼み込み、あるいは脅かし、体格丙」にさせても現役にとどまろうとしているのです。

そのやり方はともかく、裏腹に垣間見えるこの戦わんかなの意気。




ある日、敵大船団北上中の報があり、それを深夜飲み屋で聞いた中島氏、
いや中島艦長。早駆け帰艦でことに当たります。
(ご紹介が遅れましたが、この方は中島さんとおっしゃいます)

北上していた大船団と見えたのはなんと夜光虫の大軍団だったそうです。
「艦長は傍から見ているほど楽ではない」
となぜか、そんな感想を持ちます。
夜光虫だったからラッキーなわけで、本当に敵船団だったら楽とか楽ではないとか、
それどころではなかったようにも思いますが。


そんな中島少佐にもひとしく昭和二〇年八月一五日はやってきます。
この一見呑気な海軍少佐の迎えた終戦とは・・・・?

 

以下続きます。乞うご期待。