ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

セーラー服あれこれ

2012-10-09 | 海軍

残暑はどうにか去りましたが、なかなか余韻が消えない
「海軍リス戦隊」シリーズでございます。

え~と・・・・・これ、さりげなく何度も断っていますが、全てエリス中尉の作品じゃないの・・・
誰も突っ込んでくれないので、説明のしようがなくて・・・・。
ご意見、ご感想など、何か文句がありましたら伝言承りますので、
どうかよろしくお願いします。

さて。

突然ですが、エリス中尉の出身中学は制服がセーラー服でした。
冬は紺サージに夏は白の、今の感覚で言うとおしゃれとは言いがたいものですが、
着ているときはそれなりに気に入っていたものでございます。

割と最近、出身高校からの校内誌が届けられ、それによると、制服が改訂されたとのこと。
女子は今風の、タータンのスカートにエンブレム付きのもの、そして、男子は詰め襟を廃止して
紺ジャケグレーズボンといったものに変わっていました。
なんでもその昔家庭科の先生がデザインした、という代物で、カッコワルさは筆舌に尽くしがたく、
何度も中学のセーラー服を懐かしんだエリス中尉としては慶賀に堪えないところです。

いっとき、スカートを引きずるセーラー服が不良のトレードマークになり、
その頃、私学ではセーラー服を廃止してブレザーを採用することが流行したのだそうです。
私学は「制服の可愛さで応募する」というスイーツ受験者を狙って、有名デザイナーに
制服のデザインを依頼したりしました。

公立とはいえ、我が母校のセーラー服はいまだ健在なりや、と考えたエリス中尉、
ある日グーグルマップで学校に行ってみたところ、生徒を発見。
なんと、いまだに全く変わりなく、昔のままの制服ではありませんか。
安心したような、ちょっとがっかりしたような。

そして、男子生徒はこれも変わらず黒の詰め襟金ボタンの学生服。
しかし当時は何も考えませんでしたが、こうなってつらつら考えてみると、
この「詰め襟セーラー服」は、いずれも帝国海軍の軍服にルーツがあったんですね~。

女子は言わずと知れた水兵さん。
そして、男子は予科練の七つボタンそのままです。

ボタンのない、前テープの将校タイプの制服は、学習院ので有名ですね。
海軍将校の中には、学習院の制服をそのまま着ていた人もいたとか。
中学時代からサイズが全く変わっていなかったのでしょうか。

左から、帝国海軍、フランス海軍(現在)イギリス海軍(現在)の水兵服三種。
フランス軍はさすがというか、帽子につけられた赤いボンボンと縞のシャツ、
カラーの背中側の色が違うことや袖のラインが粋です。
だけど、あまり強そうに見えないような気もします。

「甲飛予科練の憂鬱」という項で、「飛行士官になろうと思ってきたのに、
いきなり4等水兵としてジョンベラを着せられた」ということが、
難関を突破してきた若者達をいたく失望させたという話をしましたが、
「空の少年兵」で(エリス中尉の目には)カッコよく見えていた彼らのジョンベラ、
なにしろ物資不足であまり素材が良くなく、遠目にはともかく、米仏、ましてや
アメリカ軍のものと比べると、かなり粗末なものであったようです。

ご存じとは思いますが一応説明しておくと、セーラー服は元々イギリスで生まれました。
海軍の制服として生まれたので、あの襟は、風が強いときに後ろに引っ張り上げ、
集音器代わりに使う実用だったとか、昔は長髪をポニーテールにしていたので、
洗濯のできない船の上は汚れやすい襟だけ取り替えられるデザインが便利だった
とかいう説がありますが、実のところはわかっていません。

上図は、同じ人体をひな形にしたのでほとんどシルエットに違いはありませんが(笑)、
実はイギリス軍のセーラー服が一番ズボンが「ラッパ」度が高くダブダブしています。

いずれにしても、海中に転落したときも素早く脱ぎ去ることができるように、
上も下もダブダブしているのです。

海軍ではこれをジョンベラと呼び、それはそのまま「水兵さん」の呼称でした。
ジョンベラとはJohn Bullのことなのですがジョンブルとは「イギリス人」そのもののこと。
ジョンブル・スピリット、というと日本で言う大和魂です。
いわば元祖に敬意を払ってつけられたといえましょう。

ちなみに本家ジョンブルのジョンベラの襟には三本線がつけられています。
エリス中尉の通っていた学校のセーラー服も線は三本でした。
この線は、
「ナイル、トラファルガー、コペンハーゲン」
の三大勝利を意味しているということですが、
帝国海軍がセーラー服のデザインをイギリスから拝借したとき、線を一本にしたのは、
さすがに遠慮というものだったかもしれません。

冒頭のウィーン少年合唱団がセーラー服を着ているのは、元々ヨーロッパを中心に
子供服のデザインとして1800年代の後半から爆発的に流行ったことからきています。
この場合の「仕掛け人」はビクトリア女王で、王室付きのヨットマンの制服が気に入り、
子供用に仕立てさせて我が子エドワード王子に着せたところ、大ヒット。
もともと「大人が着るもの」を、子供が着るという「コスプレ」的可愛さが受けたのでしょう。
イギリスを中心にヨーロッパ中の流行にまでなったということです。

ウィーン少年合唱団は1498年の設立という大変な歴史を持っていますが、
この「セーラー服ブーム」に乗っかって制服を変えた時期があったのでしょう。
因みに、冒頭の団員の疑問にお答えしておくと、
確かにオーストリアは海がありませんが、全欧での大流行だったので、
海のあるなしにはあまり関係なくデザインとして選ばれたのだと思います。

このウィーン少年合唱団のおかげで、セーラー服を制服に採用する日本の少年少女合唱団は
かなりの数現存しているようです。


実際に学校の制服としては1920年、大正9年頃から女子学生の制服として現れ始め、
戦時中は「セーラー服にもんぺ」が定番となっていました。

現在、制服にこれを採用している学校は一時に比べ減ったのですが、
セーラー服の売れ行きは全く減っていないそうです。
というのも「セーラームーン」をはじめとする、日本の「萌え」業界が、海外に
「Sailor Fuku」を伝え、これがコスプレ的におしゃれであるという認識が全世界に広まったからです。

タイ、サウジアラビアでは「セーラーフク」が女子校の制服に採用され、人気だとか。
元々イギリス発祥の軍服で、子供服だけでなく、女性用にもデザインされていたはずなのに、
こと女学生用のセーラー服は「日本発」ってことになってしまったらしいですね。


さて、最後に我が海軍について一言だけ。
昭和20年4月、すでに水上部隊の勢力はすっかり疲弊し、主たる戦いのほとんどは陸上基地の航空艦隊に移りました。
前年には連合艦隊司令部は東京近郊に場所を移す「オカの連合艦隊」となっていたのです。
そして、第二艦隊は戦艦「大和」を旗艦として、わずか9隻の二水戦を引き連れ、海上特攻に出撃しました。
水上艦隊最後の戦闘。

大和特攻に赴く水兵たちは、みな「艦隊の男」の象徴であるジョンベラをまとっていました。

しかし、大和は轟沈し、連合艦隊の全てが消滅すると共に、誇り高き「ジョンベラ」も消滅したのです。
乗るフネのない水兵たちはそのときから草色の第三種を着用することとなりました。

そして、そのまま、昭和二十年八月十五日を迎えます。
ジョンベラたちがネイビーブルーのセーラー服をまとうことは二度とありませんでした。


今日の海上自衛隊に採用されているジョンベラをつぶさに点検してみると、
袖の形を除いて、全く旧海軍の軍服そのままのデザインであることに気づきます。
ペンネントの錨マーク、所属艦の名前が入るのも全く同じ。

世界中の海軍が当たり前のようにセーラー服を水兵の制服にしているのですから、
変わりなくても当然なのですが、何でもかんでも「旧軍とは違います」という感じで
変えてしまった(第一種軍装カムバ~ック!!)自衛隊にしては、やるじゃない!
とついほっとしてしまったエリス中尉であります。









甲飛予科練の憂鬱

2012-10-05 | 海軍



「空の少年兵」という、海軍省制作のドキュメンタリー映画をご存知でしょうか。
以前に書いたことのある「勝利の礎」とともに一枚のDVDに収められています。
「勝利の礎」が海軍兵学校の学校生活を描いたものであるのに対し、こちらは予科練の入隊試験から、
飛行練習生としての訓練の様子をナレーション付きで説明したものです。

この入隊試験の様子についても、ブログ開設当初、一度書いたことがあります。
採用試験に水野某という占い師が出てきて、骨相を見、飛行機に乗るのに向いているかどうかを宣託し、
それによって採用を決めた、という話です。

先日、防大卒のある方に自衛隊における航空適性検査について伺ったとき、
「人相は大事なんですよ」
とおっしゃっていました。
なんでも一番重要なのが「鼻筋がまっすぐでないといけない」
のだそうで、その方も「はっきりした理由はわからないが」ということですが、
おそらく「耐圧」に重要なファクターなのではないか、とのこと。

旧軍で「人相」を観るに当たっても、もしかしたら鼻筋のゆがんだ人間には水野氏のセンサーが
「不適任」に反応していたのかもしれません。

どちらにしてもこれからいえることは、飛行機乗りの鼻筋は、冒頭画像のイケメンパイロットのように
まっすぐに通っているらしい、ということですね。



さて、この映画をあらためて観てみると、映画の最初で

「渡洋爆撃の海鷲たちがかつていかに逞しく鍛へられ飛行機を征服したか
これは
決死的な 撮影による 生きた記録である」


と、練習生より、自分たちの苦労をまず自画自賛しています。
どのように決死的であったかと言うと、カメラマンが練習機に一緒に乗り込んで、
なんと練習生のアップを撮影したりしているのです。
今ならともかく、当時のでかいカメラを、しかも狭い操縦席に持ち込んでの撮影。
カメラマンの機はきっと教官が操縦したのでしょうが、それでも接触事故なども起こりうるわけですから、
かれらは生きた心地がしなかったと思われますし、ついつい自分の苦労をタイトルで訴えてしまったのでしょう。

それはともかく、この映画の見所は、練習生たちが見せる機上での表情。
練習過程が進み、今までは後ろに乗る怖い教官が、
「一人で行って来い」
という瞬間がやってきます。
待ちに待った単独飛行です。

少し前に、現代の初飛行におけるパイロットの感慨について
読者の鷲さんにお伺いしたところ、
「その夜、感激の涙がこぼれた」
というお話を聞くことができました。
今も昔も空を目指した青年たちの初飛行における感慨はちっとも変わらないのです。


さて、カメラは飛行機に固定されているらしく、ものすごいアップで練習生の表情をとらえます。
上空に上がったとき、風圧に震えるかれの表情は、隠しても隠しきれない興奮と喜びに溢れています。

いろんな「初飛行」の話を、あちこちで見ると、最初に単独で空に上がった練習生は例外なく、

「てやんでえこんちくしょうめ!」

なんて言葉が思わず口をついてでてきたり、眼下の景色を見ながら放歌高吟するものだそうです。

この映画でその記念すべき単独飛行をフィルムに収められたこの練習生。
確かにそれは記録に残され、未来永劫人の目に触れるという光栄に浴したことになるのですが、
叫んだりわめいたり歌を歌ったり、という解放感は味わえなかったわけで、この点少し気の毒な気もします。

そのように予科練習生の実態がつぶさに見られるこの映画「空の少年兵」のフィルム。
戦後アメリカに没収されたたった一本を残して散逸してしまったわけですが、
この復刻に際しても、当時の資料がどうも見つからなかったらしく、
どこをさがしても、いつ制作されたのかがわかりません。
しかし少なくともこれは1942年(昭和17年)11月以前のものであることだけははっきりしています。

なぜか。

この映像に出てくる練習生が、みなジョンベラ、つまり水兵服を着ているからです。


冒頭画像の男前は、海軍一飛曹、木村惟雄
第一期甲種予科練習生として、昭和12年(1937年)、横空に入隊しました。

この年、海軍は、甲種飛行予科練習生制度を設けました。
予科練そのものは1929年には既に存在していたのですが、戦争開始をにらんで更なる搭乗員増員が急務となったためです。

この木村一飛曹が旧制中学四年のときでした。
ある日かれはこのようなポスターに目を留めます。

「海軍飛行士官募集―海軍省」

木村一飛曹は、当時海軍兵学校を目指して勉強していました。
空駆ける飛行士官となって国に貢献したい、という、当時の青年なら普通に持つ、憧れ半分の願望です。
このポスターの一言に、かれは飛びつきました。

厳しい競争を潜り抜けて、これから兵学校に入学できたとしても、必ずしも飛行機に乗れるとは限らない。
士官になれるのなら、甲飛も兵学校も同じではないか。
いや、こちらのほうがずっと効率的で、話が早い。

憧れの航空士官になれる絶好のチャンス、そう考え、木村一飛曹は一も二もなく甲飛受験を決めました。
そして、さっそく受験手続をして、受験。

そんな青年たちの試験の様子が、この「空の少年兵」に記録されています。
学力、体力、体格ともに選びに選ばれた最終合格者、その倍率、なんと80人にひとり。
当時の旧制高校、大学予科受験とおなじレベルで、まさに超難関校並みの倍率でした。

木村一飛曹は、兵学校を目指していたくらいですから、おそらく超優秀な学業成績であったのでしょう。
その難関の試験を突破して、晴れて甲飛練習生となります。

と   こ   ろ   が   。

横空に入隊してびっくり。
いきなり着せられたのは、水兵服。(ジョンベラ)。

「ちょ・・・・飛行士官っていうから応募したんですけど。
詰襟の短ジャケットは?
錨マークの襟章は?
そして、あの短剣は?」

恰好ばかりではありません。
士官になれるというから応募したのに、海兵団で訓練中の新兵と同じ階級の四等水兵からのスタートです。

中には完璧に勘違いしたまま、入団早々指導の下士官に命令口調で話しかけ、
いきなり殴打されて現実を知った気の毒な練習生もいたということです。

難関突破して意気揚々と誇り高く入隊してきた彼ら、おそらく一人残らず、
「話が違う!」
と心の中で叫んだことでしょう。 

要するに、飛行兵欲しさに、海軍省は、待遇も進級も「兵学校に準ず」と喧伝し、純真な青少年の心を騙したのです。
いや、騙すというのは人聞きが悪い、というなら、別の言い方で言うと

「100パーセントでないことを『確実』と思わせ、逆にデメリットは全く説明しなかった」

ということです。
ちなみに募集要項はこのようなものでした。

「きわめて短年即ち僅々約5年半にて既に海軍航空中堅幹部として、
最前線に於いて縦横無尽にその技量を発揮するのである。
次いで航空特務少尉となり、爾後累進して海軍少佐、中佐ともなり得て、
海軍航空高級幹部として、活躍することができるのである」

特務少尉は、「本ちゃん」の兵学校出とはまったくその権威、待遇に於いて似て非なるものでした。
しかも、この段階での少年たちにとって「少佐、中佐」は雲の上の人並みに憧れでしょうが、
よくよく注意してみると、それ以上の階級になれるとは一言も書かれていません。
つまり、何年務めてもそれ以上にはなれない、ということでもあるのです。

どちらにしてもどんなブラック企業ですか海軍省。

「騙された。海軍はうそつきだ」

期待を裏切られた練習生たちは、飛行隊では決して口にできない不満を、故郷に帰って発散しました。

「予科練には来るな」

そんなことを地元の出身校で堂々と言ってはばからぬ練習生が後を絶たず、不満はさらに膨れ上がり、
ついには第三期生がストライキを起こすという、前代未聞の事態に発展してしまいます。
収束させるために高松宮が仲介に入るという、これも前代未聞の始末となったこの事件は、
海軍省の制定した制度そのものに対する不備、欠陥をまさに象徴していました。

そんな彼らの不満を抑えるために、海軍省は苦肉の策として、彼らにもっとも不評であった「ジョンベラ」を廃止します。
そして、あらたに「桜に錨」の七つボタンも凛々しい、予科練の制服を制定したのでした。

この映画「空の少年兵」には、皆が水兵服で登場しています。
それゆえこれが制服制定の昭和17年11月以前のものである、と判断するわけです。

さらに、この練習生たちの訓練は霞ケ浦で行われていることから、
かれらは木村一飛曹のいた第一期生(横空)ではなく、
訓練場所が移転になった昭和14年3月以降から昭和17年11月の間に在隊した期生であるということです。

この映画の彼らが3期、つまり件のストライキ組であった可能性もあります。

さて、制服改定後、案の定というかなんというか、
「七つボタン効果」は抜群で、予科練志願者はどっと増えることになります。
海軍省にしてみれば、「お国のために戦うのに待遇もヘッタクレもあるか」といったところでしょうが、
トラブルはそれだけではすみませんでした。

甲種が制定となると同時に、それまでいた予科練習生は

「乙飛」

という名称に改称されました。
うーん。
前にも書きましたが、これはいかんのではないか?
先任者のプライドってものを全く考慮していません。

なんだかんだ言って甲種はきわめて早く昇進できました。
二か月で一等飛行兵(のちに半年に改正)、5年半くらいで少尉任官です。 
これに対し、乙種の昇進は、一等飛行兵になるのに約三年かかるのです。

おまけに乙、って何?
おつかれの乙?
学校の成績が甲乙丙でつけられていたころに、これはないんじゃない?

そんなこんなで、甲と乙の間にも当然のことながらいがみ合い、じゃなくて対立が生まれてしまうのです。
しかも、こんな不公平なことをしておきながら、当初甲乙同じ航空隊に所属させていたというのですから。
(末期には対立が深刻になって航空隊を別にした)

なんというか、戦争という外の大事に当たっているのに、
大事な大事な飛行兵にこれだけやる気をなくさせてどうする。
海軍省の理屈は、つまり「非常時であるから文句言うな」ってことだったんだと思うのです。
しかも制服ごときでなんでやる気が出たりでなかったりするんだ、と、
おそらく全員が兵学校出の海軍省幹部は苦々しく思ったことでしょう。

でも、わかってないね。

制服。呼称。

こんな、しょせん「外っつら」が、実は結構人の心を大きく動かすんですよ。
ましてや、彼らのような多感な若いころには。
ぶっちゃけ、命を懸けるべき大義だけでは、なかなか若者のハートをつかむことができないものなのです。
かれらだって一つしかない命、同じ賭けるならもう少しかっこよく死ねるようなお膳立てをしてくれよ、
と内心誰しも思うのではないでしょうか。

そして、そういうセンスのないことをやっているのが、
何を隠そう、かつて短剣詰襟に憧れて兵学校に入った連中だったりするわけですね。
彼らはつまり、そういう自分たちのかつての感覚というものをさっぱり忘れてしまったか、
あるいは憧れの的たるスマートなネイビーは自分たち士官だけで十分、とでも思っていたのでしょうか。

当初案が出た、七つボタンに佩刀、全予科練生が期待した「憧れの短剣姿」は、
兵学校の反対で実現しませんでした。


それにしてもこの映画では、どの青年もきりりとまなじりをあげ、口元も固く結び、
皆が戦う男の表情をしています。
かれらに施されたのは文武両道の、完璧な教育。
英語あり、物理あり、スポーツでは武道、水泳はもちろん、ラグビー競技をする姿もあります。

そして、すべての厳しい過程を終了し、卒業するかれらが敬礼をしながら歩を進める姿。
それがかれらの蛇蝎のように嫌っていた水兵服姿であるにもかかわらず、
その凛々しさ、逞しさは圧倒的迫力で心を打ちます。


ジョンベラのあなたたちは自分が思っているよりずっとかっこいいですよ。



画像の木村一飛曹は、真珠湾攻撃で初陣を飾り、その帰還後も武運強く戦い抜きました。
ミッドウェーでは被弾する直前の赤城から、板谷少佐の乗機に飛び乗って、発艦し生還しています。
赤城から発艦できた零戦は、木村一飛曹の乗った一機だけでした。



参考:零戦の栄光 より、「わが初陣の翼下に真珠湾燃ゆ」木村惟雄


板倉光馬少佐~回天指揮官の苦悩

2012-10-01 | 海軍

             

板倉光馬
大正元年(1912年)11月18日小倉市出身
海軍兵学校61期
伊54潜、呂34潜(航海長)、呂34潜、伊69潜(水雷長)を経て
伊176潜、伊2潜、伊41潜艦長
2005年(平成17年)93歳で死去


二回にわたって人間魚雷「回天」を開発し、その開発過程で殉職した黒木博司大尉と、
最初の回天戦に出撃し本懐を遂げた仁科関夫中尉についてお話してきました。
板倉光馬少佐が、その二人の回天隊の指揮官となり、その開発を、訓練を、そして出撃を
見送ったということにも触れたのですが、この回天基地のある大津島に板倉少佐が赴任したのは
昭和19年、9月1日のことでした。

前々回お話した黒木大尉の殉職はこの赴任からわずか5日後です。
この日付を見たとき、しばし信じられない思いでした。

板倉少佐は「特攻部隊を指揮できる資格など自分に無い」と渋ったものの、
命令を断ることもできず、「指揮官先頭」として自分が一番先に行くことを決意して着任しました。
早々にその意向を具申し、上官からは
「回天隊員の育成が先決である」
とそれを却下され、さらにはやる板倉少佐を、黒木大尉と仁科中尉がやはり
「今一番大切なことは回天隊員を育てることです」
と説得しにきたという一連の出来事が、全てこの数日の間に起こっていることになるからです。

あまりにも短い日々の間に、奔流のように様々なことが決定され、
ある者は生きることを定められ、ある者は死んでいきました。
あの頃、戦争のさなかに生きた人々の運命の苛烈なことに、ただ凝然とする思いです。

板倉夫妻は最初の子供をちょうどこの9月に授かっています。
仁科中尉ら回天の隊員は皆喜びました。

「自分たちは子孫を残してゆかれないけども、指揮官、坊ちゃんをしっかり育ててください」

殉職によって黒木大尉を失い、阿修羅と化して回天隊を率いていたその当時、
仁科中尉は新しく命が生まれくることに対し、このような言葉をかけました。

自分たちの死が守るものは、即ちこのような次の世代の日本人なのだ。
かれは自分の死の意義を、奮い立つような気持ちと共に確認したのかもしれません。

この二カ月後、仁科中尉の「菊水隊」は出撃しました。
出撃の際、板倉少佐が
「俺もすぐ行くからな」
と声を掛けると、仁科中尉はニコニコと笑って
「指揮官は七へん目くらいに来てください」
と言いました。

出撃12日後の11月20日、仁科中尉は戦死します。
このときの攻撃によって、油送艦「ミシシネワ」が轟沈しました。

その頃、めったに家に帰ってこない板倉少佐が呉の自宅にかえってきた様子を、
夫人の恭子さんが語っています。
軍刀も外さないまま上に上がり、畳に転がって、顔を覆って泣きながらとぎれとぎれに、

「仁科たちはいまごろ・・・・・それに俺は生きている・・・・・・・」



回天については出撃した搭乗員のインタビューを始め、「特攻の島」(漫画)も含めて
いくつかの資料に目を通しましたが、さらにインターネットでもかなりの情報を見つけました。

その段階で、あるHPを見つけました。

以前「海軍のせいで戦争は起こり海軍のせいで戦争は負け、
多くの人命が失われたのはこれ全て海軍の無能の所為である」
と、海軍ばかりを非難するサイトについて少し触れたことがありますが、
どうやらこれもその同じ作者の手になるものではないかと思われました。

回天の仕組みや、その作戦、その他詳細に図解までして検証しているので何気なく見ていたら、
説明の合間合間に、「だから馬鹿」「だから無能」「だから低脳」などの罵詈雑言と共に
「東京裁判をもう一回してこいつらを裁くべきだ」と言う文言がくまなく挟まれており、
正直、そのあまりにも感情的で冷静さを欠いた部分が、
他の、きちんと自分なりの考察をした部分を台無しにしている感は否めませんでした。
もしかしたらこの編者は海軍特攻で肉親を失いでもしたのでしょうか。

特攻で我が子を失った家族が、その身を抉るような悲しみをどう耐えたか。

戦中こそ「お国のため」「軍神」「特進」
という言葉でそれは維持されましたが、戦後、「日本誤謬論」「日本悪玉論」
(「自虐論」とは言いません。これらの提唱者は決して「自分を責めている」のではないからです)
がまるで良心的日本人の総意であるかのようになってしまったこの日本において、
最愛の肉親を失ったやり場のない怒りを、
「戦争を起こした日本」
「特攻を考案した海軍」そして
「特攻を組織した上層部」「出撃を下命していながら生き残った上官」
にかれらが向けたとしても、それはいたしかたないことであったように思われます。

昭和37年(1962)、回天搭乗員の遺族と生存者が「回天会」を立ち上げました。
その会に、板倉光馬氏と夫人の恭子さんは参加したのですが、恭子さんは何度か参加するうちに
他の参加者から何とも言えずよそよそしい、非難するような視線を投げられるのに気付きました。
会を重ねるたびにその視線に耐えてきた恭子さんでしたが、何回目かに意を決して発言しました。

板倉指揮官が最初の出撃に自分が往くことを具申し黒木大尉や上層部にとめられたこと。
子供が生まれたとき、仁科中尉らが喜んでくれたこと。
その子供が翌年亡くなったとき、人前では「自分の子供が死んだくらいで帰るわけにはいかない」
とさえ言っていた板倉指揮官が、皆に騙すように家に帰された深夜、息子の亡骸を抱いて

「あんたが生まれて、俺は何時死んでもいいと思っていたのに、どうして死んだのだ」

と泣いているのを見た回天隊員が

「人は鬼参謀で血も涙も無い人だと言うが、この人の下で死のうと思った」

と他の隊員に泣きながら語ったこと。

敗戦の報に接し自害しようとしたとき、隊員の自決があり(橋口寛大尉)
自分の使命は死ぬことではなく彼らを死なせまいとすることだと覚悟したこと。

その話が終わったとき、一人の元下士官搭乗員が進み出て
「奥さん、知りませんでした。申訳ありません」と言いながら泣きだしたのをきっかけに、
他の者も次々に恭子さんの側に来て、皆で泣いたのだそうです。


「戦争」という絶対的な罪悪の下に命を失った家族を持つ人々が、その「直接の責任」
を、誰かに求めることでその空虚の充填をしようとする心理は、ごく自然なものです。

しかし、歴史の中に組み込まれ、逆らうべくもない流れの中にある個人はあくまでも非力で、
命じるものもまた命じられ、個々の意思など全く意味を持たなかったのです。

板倉恭子さんは、戦後仁科関夫中尉の母親とも偶然の邂逅をし交流を温めました。
仁科中尉の母親によると、彼女に向かって

「あんたの息子があんなものを作らなければ家の息子は死なずにすんだ」

などと言う遺族もいたということです。

黒木大尉が回天を開発したのはこれが航空特攻に繋がることを期してのことであった、
という話を黒木大尉について語る稿でお話しましたが、実際は回天の初出撃よりも早く、
全く別の源流から神風特攻は生まれるべくして生まれました。

「自死によって未来の日本人が生きること」

これが、大西瀧治郎長官にとっても、黒木博司大尉にとっても、
日本が特攻作戦を選択するべき真の理由でした。

当時の日本人が追い詰められた状況、その精神的な揺籃からすでに
「生きることは死ぬことと見つけたり」という死生観を持っている日本人が
このような歩みを進めたのは、言わば必然というものではなかったかと、わたしは思うのです。

つまり、大西長官や黒木大尉がいなくても、
「誰かがそれをやった」
のではないでしょうか。




前述のサイトの運営者は、回天の開発者の黒木大尉さえをも、その武器としての欠陥性や、
作戦の稚拙さは勿論、特攻兵器を生み出した醜悪な思想の持ち主として断罪します。
この運営者の不思議は「陸軍」「大本営」は非難せず、そして「予備学生」を被害者としていることで、
もしかしたら、ただ「海軍兵学校」が嫌いなだけなのかと思わないでもないのですがそれはさておき。

「ひめゆりの塔の怖さ」という項でも指摘しましたが、あの時代に、あの流れに
組み込まれたものにしか説明できないことがあります。

「かくすれば かくなるものと思いつつ やむにやまれぬ 大和魂」

先日、任務の遂行に殉じた自衛官の話をしたときにもこの句を挙げました。
誰だって死ぬのは怖い。
しかし、現代においても、人はそれをも凌駕する「自死の意味」に殉じて振る舞うことがあります。

そして、人に死を命じるなら自分がまず征くべきであると考え、
板倉光馬少佐のように自死の道を選ぼうとし、実際にもそうした指揮官たちもいました。

その指揮官たちの苦悩も顧みず、低劣なもの言いで、ただ断罪し非難するこのサイトの運営者は、
自分が仮にその時代に指揮官の立場で、命令を受けなければ板倉少佐のように
・・・・・・例えば、
「無駄な特攻は出さないでほしい」と具申し、
激昂した上層部の抜いた白刃に囲まれたとしたら、どのようにふるまえたというのでしょうか。

「そんな仮定はありえない」

ともしそういう立場にある自分すら想像できない、というのなら、
そもそも戦争で戦った人々を糾弾する資格は、あなたには、ない。










「宜候」な人たち

2012-09-29 | 海軍



元海幕長と途中で終わってしまった会話の続きをするべく、今一度個人的にお目にかかって
そのときには銀座の「宜候」にお連れする、という野望を語ってみたわけですが、
防大卒の経営者O氏との会合が決まり、もしかしたら海幕長がいらっしゃるかもしれない、
という流れになったとき、うちのTOがここを予約しました。

たびたびこのブログに行きがかり上登場しているこの、エリス中尉の連れ合いであるところの
戸籍上の夫という役割のTOですが、実は前にも言ったように、
ツマがこのような世界にのめり込んでいることは知っていても、その情報をこうやって、
ブログという形で世間様に垂れ流しているとは夢にも思っておりません。

読まれていると思えば書けることも書けなくなるので、このことは今後も言うつもりはありませんが、
もし知ったらどんな反応をするでしょうか。
とにかくそれにもかかわらずこうやってツマの喜びそうな情報をせっせと集めてきては、
実際にもそれを行動に移してくれるわけでございます。

それにしても、毎日山のような本やなんかを傍らにPCに黙々と向かっている連れ合いに、
そんなに一生懸命いったい何をしているのか一度も尋ねないというのは、
かれなりの遠慮か、無関心か、はたしてどちらなのでしょうか。

と、どうでもいい話から始まりましたが、今日はその「ヨーソロ」探検記と参ります。

知る人ぞ知るこの「ヨーソロ」、銀座の老朽化も限界と言ったビルヂングの地下、
くねくねと狭い階段をB2まで下りきったところにありました。

「今晩首都直下型地震が来ないことを祈るしかないね」

思わずそのような言葉が口をついて出ました。
冗談抜きで、もし地震が来たらまず間違いなく階段はふさがれ、
運良く生き残ったとしても、この狭い空間にいる人々は、
助けが来るまでおつまみの乾パンと水割りで生きていかなくてはならないでしょう。



店内は「フネの中」という設定のインテリア。
本当に狭く、そういう意味でも「艦隊の兄さん」気分を満喫できます。
至る所に貼られた写真は、よく見ると所属団体の名称入り。
製鉄関係の会社が多いのは「フネ」もつくっているからでしょうか。



割烹着がかわいらしいこの店のママさん、ではなく「艦長」さん。
「国防婦人会」のコスプレか、それとも元々こういうファッションの方でしょうか。
どういういきさつでこのようなマニアックなお店をやっておられるのかは知りませんが、
お店のHPには山口多聞司令のご子息、という方が推薦の辞を呈しているほどなので、
やはり本物の「海軍さん」の関係者ではないかと思われます。
店中に貼られた軍艦旗、ゼット旗。
館長さんは、二つに分かれている部分の真ん中にかかった「コスプレ用軍服」を片付けてくれています。



士官用の第一種第二種第三種はもちろんのこと、セーラー服や事業服、予科練の制服も。
取りあえずなりたい位の海軍軍人にいつでも変身可能。



こういうところですから、ちゃんと襟の階級章も各種揃っております。
壁を見る限り、写真を撮るときに上から下まで着替える人も多いようです。

大日本国防婦人会の札のある棚は、ボトルケース。
ここはもし「桜に錨」さんが観ておられたら解説を願いたいのですが、おそらくこれは個人の物入れ?
スピーカーと言い、天井に掛けてある軍刀と言い、全て本物っぽいです。



これ、コピーとかじゃないんですよ。
いいのか?こんなところ(失礼)にこんな貴重な写真が。
この歴史的な会合の写真を撮った日、どうやら雨が降った後らしく、地面が濡れていますね。
それにしても海軍がこの会議の後わざわざ記念写真を撮ったのは、やはりこの会議が
「歴史を変えるもの」であるという認識の元にだったのでしょうか。

これを見ていたら、同行のO氏が
「このときの電報の一次コピーお送りしましょうか」
「ぜひぜひ!」

興味の無い人間には何の価値のないこれらのモノや写真も、
エリス中尉にとってはまるで宝の山に入ったよう。

 あれ?善行章が下に向いている?
こんな下士官のマークあったっけ、とふと考えていると、O氏が
「これは自衛隊の制服ですよ」
そうでしたね。
自衛隊はgoodマークをイギリス風の下向きに変えたんでした。
これは海士長(leading seaman)の袖章。
試験を受けてこの上の三等海曹になれば、そこからはいわば「正社員」。
一本線の「三等海士」からこの海士長までがいわゆる「水兵さん」です。



これも、線が二本あるので、旧軍のものではありませんね。
ところで、自衛官は士官であれば礼装用にサーベルを持つのだとO氏に伺いました。
やっぱり要所要所では海軍そのままなんですねえ、海上自衛隊・・・。

 なぜか船窓には潜水艦の写真が。

 複製という意味でしょうか。
水兵帽の裏に貼られていたシール。

ところで、ここに元海幕長をお連れするというその真意が
「途中になってしまった話をするため」なのであれば、
まったくここはそういう用途に向いていない、ということが入店3分後にわかりました。

原因は、これ。

 そう、カラオケです。

我々のように数人で来ている客はなく、一人、あるいは二人で来て、
勝手知ったる様子でカラオケのメニューを入れ、軍歌を歌いまくる、
どうやらここの常連客の楽しみは、ここにあるようで・・・・
この破壊的な音量のせいで通常の会話は全く不可能。
ここに来たら、マイクを持ったもの勝ち、なのでした。

暖簾のように軍服の掛かったハンガーの向こうは、どんなお客がいるのか全く見えず。
聞こえてくるのは
「太平洋行進曲」「ラバウル航空隊の歌」「若鷲の歌」などの誰でも知っている軍歌。
ここではスタンダードですが、おそらく他のスナックやバーでは、こういうものを歌えない。
デモ歌いたい!
そういう方々が集まってくるのかと思われました。
その中にめったやたらに軍歌の上手い方がいました。
3~4人でマイクを回しているのか、何回にいっぺんかその人が歌うたびに

「この人上手いですね」
「なんか歌手みたいですね」
「歌手って言っても、昔のポリドール専属みたいな雰囲気ですね」

とひそひそ言い合うほど、その方の歌には「軍歌心」が溢れていました。

「こういう面白いところがあるのでネタとしてお連れする」
という態度でここに訪れた我々、30分も経った頃にTOが
「じゃ、そろそろ帰りましょうか」
と帰り支度を始めると、機関室のドアそのものを使ったトイレから出てきたO氏夫人に
「え~!もう帰るんですか~」
となつく酔っ払い。
ええい、この方を誰と心得る。下がりおれい無礼者。

そこでふと、「ここで一曲歌ってブログネタに」
と不埒な考えが頭をかすめたエリス中尉でございます。

「あの、一曲歌って帰っていいですか」
「え!何を歌います?」
「大東亜戦争海軍の歌」
「へっ?」
「♪きょーかーんさけーたーりしーずみーたーりー♪って歌です」
しばらく詳しいお客さん(士官帽着用)が探して下さったのですが、
「ありません・・・」
「・・・・じゃ、愛国行進曲でいいです」

イントロ開始。

このへんから、
「え、誰が歌うのこれ」
「女の子が歌うの?」
盛り上がる酔っ払いども。

エリス中尉、仮にも音楽関係者の末席を汚すからには、
カラオケというものをあまりたしなみません。
ですから、カラオケで、しかも軍歌を歌うのは生まれて初めての経験だったわけですが、

いや~。気持ちのいいものですなあ。

ここに来て知らないもの同士肩寄せ合って狭い穴蔵のような地下二階で、
ウィスキーと乾パンを前に何時間もいられるというのが、
この「軍歌を歌う楽しみ」のためであるというこの方々の気持ちが、
マイクを握ったとたん100パーセント理解できたですよ。

「江田島健児の歌」とか先ほどの「大東亜戦争海軍の歌」なんてのをカラオケに入れてくれていれば、
銀座に来るたびに通ってもいいなあ、とちらっと思いました。



ところで、このバー「ヨーソロ」ですが、狭い店内のいろんなところに、
わたしが部屋に貯め込んでいるような海軍関係の本がさりげなく積んであります。
その中に、
「日本海軍食生活史話」とか、「回天写真集」なんて超貴重な本があるのを、
スルドイエリス中尉の目は見逃しませんでした。

「あ、これほしいなあ・・・・食生活史話だって。
何回か通ったら一ヶ月くらい貸してくれないかなあ」
「貸してくれるんじゃない?」

しかし、欲しい!と思ったものを我慢することが基本的にできないエリス中尉、
取りあえず、奥付を写真に撮り、帰ってインターネット検索してみました。
古書店で2万円~5万円の範囲です。
モニターを見ながらため息をつきつつ
「一番安いのでにまんえんか・・・・・」
「また行って見せてもらえば?」(TO)
「・・・・・・そうだね」

口ではそう言いながら同時に「購入」のクリックをするエリス中尉。

ああっ、いけないことだとはわかっているのにカラダが勝手に・・・・・買っちゃった。
しかもTOに断りも無しに。

この冬、セーター一枚買うのをやめればいいのよね!

というわけで、「ヨーソロ」、
TOにとっては非常に危険な場所であることが判明したのでございました。

ツマのやっているブログと同じく、かれはそれを全く知りませんが。




笹井中尉と三輪車

2012-09-13 | 海軍













「さとん」さんから68期海軍史についてのお訊ねがあったとき、
ある軍事雑誌の特集で掲載されていた笹井中尉の未公開写真のことを書いたら、
さとんさんは当然これを知っておられ、
「笹井中尉の三輪車に乗った姿が可愛くて癒されました」
というコメントをして下さいました。

それについてエリス中尉が

あの雑誌の笹井中尉の三輪車写真ですが、解説の方が何も知らなかったらしく、
写真に「当時三輪車を持っている家庭は無かった」と、
まるで笹井家が金持ちであるような描き方をしていますが、
あれにはわたくし異論があります。


後ろに写っている建物から、あれは笹井中尉の父親の、造船士官であった笹井大佐が
若き日呉に赴任して官舎に住んでいたときの写真だと思うのですがどうですか?
(どう見ても個人宅にはみえないでしょう?)

きかん気の強い子供だった笹井中尉が、他の上官の子供を泣かせたりして、

大佐や母上が謝りに行ったそうですが、
これは官舎住まいならではのエピソードではないですか。
三輪車は笹井家の所蔵していたものではなく、
官舎全体で士官の子弟のために持っていたものではないかな、という推理をしています。

と書いたところ、さらにさとんさんから、このようなコメントを頂きました。

私も官舎か何かのような気もしますが、笹井中尉のお父様は大学も出ていますし、
だからと言ってお金持ちにはイコールってわけではないですが、
大佐ともなるとかなりの給与があったことは間違いないです。
三 輪車の撮られた時期は、お父上も海軍に入って15年以上ですし
お金には余裕があったでしょう。
私は、あの三輪車は本人の所有だと思っています。
官舎であれ ば士官の子供ばかりでしょうから共有するまでもなく
高価であっても買い与えることができたとふんでいます。
一枚の写真で色んな推察が出来るのは楽しいです ね。


今となっては検証しようの無いこういったこと(しかも興味の無い人間にとってはどうでも話)
を、こうやってあれこれ議論できるのは、まったくブログならではの楽しみです。
さらに、この「どうでも話」について記事を書いてしまう、というのも、ブログならでは。


笹井醇一少年が三輪車に乗っているという写真ですが、眉根を寄せたきかん気の強そうな表情が
実に笹井中尉らしくて、思わず微笑んでしまう「なごみ写真」です。

それはともかく、以前、「川真田中尉の短ジャケット」という項で、
この特集の写真欄に付けられたコメントがあまりにひどい、という話をしたことがあります。
笹井少尉候補生の写真説明に、「兵学校の休みに撮られたと」書いていることなどです。


この三輪車の写真に付けられたコメントも、突っ込みどころ満載です。
まずは、

(この写真は笹井中尉の)小学生時代と思われる。

いや、これどう見ても小学生じゃないと思うの。
見たことのある方、そうですよね?
わたしも子供を持つまでは、乳幼児の年齢なんて全く分からなかったけど、今なら分かる。
この写真の笹井少年はせいぜい四歳でしょう。

新宿区上落合の自宅の庭で撮影。

なぜか言い切っています。
しかしながら、さとんさんとのやり取りにもあったように、
後ろに写っているのは、その造りから、どう見ても個人宅には見えません。

この筆者は、上落合は、笹井家の最終住所であり、
笹井中尉が生まれたのは東京の青山であったことを知らずに書いているようです。


笹井少年が上官の子供を泣かせたのでご両親が謝りに行かねばならなかった、
というエピソードからも、これが官舎であるのは確実でしょう。

コメントには呉と書きましたが、笹井賢二氏は、佐世保に赴任したこともあります。

因みに笹井家は、佐世保の官舎住まいの後、またもう一度青山に戻った形跡があり、
それは笹井少年が青山小学校を卒業している(卒業名簿にも名前がある)ことからわかります。

つまり整理すると、笹井家は、

青山―呉―佐世保―青山―新宿

と移動したということになります。


ところで、佐世保海軍工廠の人事部長が井上四郎という中佐で、
造船大尉であった笹井氏の上司でした。

この縁から、井上少佐は笹井中尉の母上の妹を、あの大西瀧治郎とお見合いさせています。
大西長官の結婚は36歳のとき、つまり1927年。
笹井中尉はこのとき9つです。
当時の、ことに造船士官は昇進も早くはありませんでしたが、それでも、
9歳のときに大尉なら、笹井中尉が4歳のころ、賢二氏は中尉であった可能性もあります。


わたしが「三輪車は官舎の共有物、あるいは借り物だったのではないか」と考えたのは、
官舎住まいの中尉大尉であれば、いくら海軍軍人でもあまり経済的余裕は無いからです。
単純に考えても、一般的に、現代でも世の小さい子供を持つ若い夫婦、ことに勤め人は、
例外なくあまり家計に余裕はありません。(一般的に、ですよ)

いまならともかく、当時超高級品の三輪車を買うことができたか?という疑問ですね。

ましてや上官の子弟がいる官舎敷地内で、高級品の三輪車を息子に乗せるというのは、
「海軍士官の妻」の項でもお話したように、縦社会の、「出る杭になるのを怖れる」
当時の(今もかな)日本人としては、あまりありえないことに思えるからです。



もっとも、母上の実家は名家ですから(御典医の家系で、父は一橋大学の創立者)、
もしかしたらそのオジイチャマが初めての男の孫に買ってやった、ということも考えられます。

つまり、どう考えても真実はわからないまま、というのが結論です(笑)


それにしても、笹井中尉は、素晴らしい環境に資質を持って生まれてきたのですね。
あの時代に生まれていなければ、軍人ではなく医者にでもなっていたのでしょうか。


さとんさんがおっしゃるように、笹井家の所有であっても全く不思議はないのですが、
わたしはあえて「三輪車は官舎の子供の共有だった」と考えてみます。
冒頭漫画のようなことがあったのではないかなあ、と、ふと思いついてしまって、
どうにもそれが頭から離れなくなってしまったもので・・・・・・。

つまり、ブログならではの無責任な妄想ですので、あらかじめご了承ください。


それにしても、刊行物の写真につけるキャプションを書く人は、お金をもらっているんだから、
せめてちゃんと調べて、本当のことを書いていただきたいと思うの。







1948年、ロンドンオリンピックとレパルス撃沈

2012-08-22 | 海軍

オリンピックの政治利用という五輪憲章に違反して問題になっている韓国サッカーチーム。
最初こそ韓国国内世論は「よくやった」「金メダルより価値がある」
と、竹島について領有権を主張するプラカードを掲げた選手を英雄扱いしていたものの、
とたんにIOCから「待った」が入り、五輪憲章違反でメダルはく奪の危険性が出てくると、

「あの選手が嬉しさのあまり度を失った」
(その後チーム全員がそのカードを国旗に乗せて行進)

「会場に投げ込まれたプラカードを拾った」
(客席から用意されたプラカードを受け取っている写真あり)

という苦しい言い訳を始め、果ては全ての原因は日本にある、日本が苦情を申し立てたせいだ、
という「全ての原因は日本」というおきまりのコースを突き進んでいるようです。

さらには、沙汰を待つ状態でありながらIOCに、アポイントなしで押しかけ、

日本がこれまでしてきた数々の悪行と、ドクト(竹島)は我が国のものであるという
歴史的正当性を縷々説明しようとした」

が、誰もいなかったため受付の人間に説明して帰って来たといいますから、
事情を知った世界中のまともな国はこぞって、

「いや、どちらに正当性があるかが問題なのではなく、
そういう領土問題があるということをオリンピックで主張することに問題があるんだが」

と首をかしげていると思われます。



究極の「オリンピックの政治利用」は、ご存じ1936年のベルリン・オリンピックで、
これは完全なヒトラーとナチスの国威発揚政治ショーと成り果てたわけですが、
それに続くはずの1940年の東京オリンピックは、日中戦争の影響から日本政府自らの判断で
返上され、幻の大会となりました。

冒頭画像はこのときに作られていた東京大会のポスターです。
埴輪のモチーフが、何か暗さに満ちているように見えるのは結果を知っているからでしょうか。

さて、今回オリンピックはロンドンで行われましたが、ご存じのようにこれは初めてではありません。
1948年、世界大戦が終わってその記憶も生々しい三年後、ロンドン大会が開催されました。


その大会に、敗戦国である日本とドイツは参加を拒否されていたのをご存知でしょうか。


モスクワ大会のときや、ロスアンゼルス大会のときのような「ボイコット」ではありません。
開催側からの、拒否です。

その理由は、日本については

1937年、戦争を理由に自国開催を返上した

ドイツについては

1939年にポーランド侵攻し、東京大会の代替地であるヘルシンキ大会を開催不可能にした


ということになっているわけですが、ちょっと待った(笑)

ポーランドに侵攻したのはドイツだけですか?違いますね?
いつも機に乗じてこういうときには強気に出てくるソ連だって、やってますね?

それに、敗戦国だから、と言うならイタリアはどうなんですか?
ムッソリーニがガソリンスタンドにぶら下げられたから、もう「反省済み」ってことですか?


全く、この大国のジャイアニズムと自国に都合のいい「マイルール」ぶりには、呆れますわ。
東京裁判が
「同じ戦争中のルール違反も、連合国は戦争だからOK,日本がやると戦犯」
という「マイルール」に貫かれていたように、ここでも大国イギリスの恣意な判断基準が
丸見えであることは皆さんにももうおわかりですね?

つまり、ドイツに対しては「ベルリンオリンピックの政治ショー」の懲罰としての参加禁止だったのです。
では日本は?

表向きの理由は「自国での開催返上」ですが、これもどうなんでしょうか。

念願の東京大会をヘルシンキと争って勝ち取ったものの、日本国内では中国戦線の長期化から、
「もしオリンピックをすることになったら、満州の選手は参加させるのか」
などといった問題から、陸軍の「陸軍内から選手を出すことへの懸念」など、反対意見が噴出し、
最終的には国内の足並みが揃わないまま大会辞退を決めました。

しかし、それだけが理由ではなく、このとき中国に大きな利権を持っていたアメリカのIOC委員が、
東京大会のボイコットを強く訴えたうえ辞任すると言う騒ぎを起こしているのです。

つまり、日本が東京大会を返上したから、というのは全く理由の根本ではなかったということです。

実は、このとき日本の参加を拒否したのはIOCではなくイギリスそのもので、その理由が
帝国海軍がマレー沖海戦で撃沈したプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの遺恨であったという説があるのです。


1941年12月10日、開戦直後のマレー半島東方沖で、我が海軍航空部隊とイギリス海軍が
戦闘を行い、制海権確保のために派遣した英海軍の戦艦二隻を日本海軍航空部隊が沈めたうえ、
英国東洋艦隊を二時間で壊滅させました。

このことは、戦史のうえで「大鑑巨砲主義の終焉」を示す出来事とされているのですが、
それだけではなく、このことは
「黄色い猿と侮っていた日本人が、ヨーロッパ人の科学の粋を集めた戦艦を沈めてしまった」
ということにより大きな意味合いを持っていました。

プリンス・オブ・ウェールズに特別の愛着を持っていたらしいウィンストン・チャーチルの

「戦争全体を通してあのような衝撃を自分に与えたことはほかにない」

という回顧録の言葉は有名です。

しかも、「敵兵を救助せよ!」の著者である惠隆之介氏によると・・・・、

ところが英国海軍東洋艦隊将兵を感動させることが起こる。
帝国海軍航空隊は戦いの雌雄が決するや、指揮官機の信号で一切の攻撃を中止、
英国護衛駆逐艦による救助活動を一切妨害しなかったばかりか、
母港シンガポールへ残存部隊が帰還するまで上空より護衛したのである。

確かに、駆逐艦「エレクトラ」が571名、「ヴァンパイア」がテナント艦長と従軍記者を含む
225名を救助されたのは、英海軍が日本海軍をこれ以降「偉大な海軍」と認めるようになった、
実に大きなできごとであったようです。

さすがは武士道の継承者である帝国海軍。と言いたいところですが、

ちょっと待った(笑)

鹿島航空隊所属、レパルスを雷撃した一式陸攻乗り組みの須藤朔著の「マレー沖海戦」によると、
このとき海軍が何もしなかったのは英軍による美しい誤解とは少し事情が異なり、
実は日本軍はこの時すでに魚雷や爆弾を使いはたしており、さらに燃料が少なかったからだ、
ということで、それを聞いた元ウェールズ乗り組みの機関長をがっかりさせたらしいのですが、

・・・・じゃ、燃料が少ないのになぜ護衛をしたのか?

不思議なのはそれなのですが、
その真偽については本題ではないので今は脇に置きます。


問題は、この戦艦の撃沈を根に持って、
イギリスは日本のロンドンオリンピックの参加を拒否した、という「裏の理由」の真偽です。

戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は両艦の沈没した海域に飛び、
機上から海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表しました。

このようなエピソードと、皆が理由はどうあれ賞賛した海軍の「武士道」のおかげで、
イギリス海軍は、ショックではあったがそれを以て真珠湾のように遺恨をもったというわけでも
なかったと、全体的には言えるかと思います。

その遺恨は果たしてオリンピックの日本拒否の理由なのか。

わたしは、全く個人的な意見ながら、この理由もまた「裏の表向きの理由」だと思っています。

マレー海沖海戦の結果がもたらしたのは大鑑巨砲主義の終焉だけではありません。
なんといっても、歴史家アーノルド・トインビーのいうところの

「(その結果は)特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。
それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。
何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、
この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。
1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。
この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、
1967年のヴェトナムに明らかである。」
(ウィキペディア)

に尽きるでしょう。

つまり、大きな声では言えないものの「欧米諸国の絶対的権力が支配する世界の終了」
それが、人道的理由から自分たちの側より自発的になされたものではなく、
日本という本来被支配側の有色人種の代表によって、しかも武力によってもたらされたということが、
権力を奪われた当の大国イギリスにとって許しがたかったからではないのでしょうか。

政治的、歴史的遺恨を、一見このような公正に見えなくもない理由を被せて
堂々と晴らしてみせるというあたりが、長年弱肉強食の大国主義で揉まれた「Great Britain」。
伊達に自分で「偉大な」などと名乗っているわけではありません。
同じ「大」を自分で国名に付けてしまう恥ずかしい国でも、
あまりにも馬鹿馬鹿しく単純ですぐに底が割れ、突っ込みどころ満載の今回の韓国の件などとは、

「所詮黒さの桁が違うわい」

って思ってしまうのはわたしだけでしょうか。

もちろん今回の韓国の行為に何の抒情酌量の余地もなく、もしIOCが何の罰も与えなけれは、
オリンピックは領土問題を抱えている国が次々と確信犯的アピールをする場になることは確実。
ここはきっちりと落とし前をつけて、再発防止に努めていただきたいものです。


イギリスがかつてオリンピックの日本参加を拒否したのだって、表向きは
「世界平和を乱した国への懲罰」だったのですから。






大日本帝国海軍の優れた光学技術

2012-08-19 | 海軍

今日は実はお休みをいただくはずだったのですが、カメラを買ったことから話題が広がりを見せ、
何人かの方からわたしの全く知らなかったカール・ツァイス(アメリカではカール・ザイス)の
レンズについて色々教えていただきました。

検索の過程で「戦争とカメラ」などという面白そうな本の題名を知り、ますます興味を持ったところ、
以前海軍搭乗員とカメラについて記事を書いたときにコメントをいただいた秋山さんから、
くわしい説明をいただきましたので、それを紹介します。

コメント欄でご覧になっているとは思いますが、この件について頂いた他の方のコメントを
初めてご覧になる方のために挙げて最後に秋山さんのを掲載します。


リュウTさん

司令長官が使用されていたツァイスの双眼鏡は三笠に実物があります。
(今も展示されているか不明ですが、多分今も展示されていると思います)

ソニーの高級カメラ(ビデオカメラ含む)は大方ツァイス製のレンズを採用してます。
ツァイスの光学機器(双眼鏡とか顕微鏡とか)は悔しいことに
日本製(ニコン等)よりも優れているそうで。

ツァイスの東西分裂物語とか興味深い話を知ると、ますます愛着が(ry

ただ、ここまで書いてナニですが、メイド・イン・ジャーマニーとは限りません。
ライセンス生産という物がありまして。
規格に則って管理・生産された物なので、本国生産と何ら変わらないのですが。
ただ、さすがにチャイナではないはず。
相応の設備と技術と人間の信頼性(コレ重要)が無ければ規格に合格しない(はず)。
多分、日本製。コシナが製造していると思われますが、確証ありません。

「いいお買い物ですね!」mizukiさん

とてもいいカメラです。
リュウTさまのおっしゃる通り、ソニーのツァイスレンズは、
ソニーミノルタとカールツァイスがデザインし、日本のCOSINA社が作っております。
日本の技術の結晶ですね!
セカンドライフでも写真を嗜む方が多く、こちらでは手振れとピンボケがおこりません。
お友達の作品をご紹介いたします。
http://www.koinup.com/Hiroko/



「大日本海軍の優れた光学技術」Akiyanさん

ツァイスレンズの話題から「三笠艦橋の図」にみる光学兵器の話題に思わず
コメントしたくなりました。
いぜん「海軍パイロットとカメラ」でコメントさせていただいた、秋山と申します。

すでにご承知の通り、東城鉦太郎作画の「三笠艦橋の図」は、
中央に長官の東郷平八郎大将(後に元帥海軍大将)、その後ろに測距儀(レンジファインダー)
を覗く測的係長谷川清少尉候補生(後に海軍大将)が描かれています。
その長谷川清少尉候補生が覗いていた英国バーアンドストラウド社製の測距儀と
ほぼ同じ時代のモデルを調査研究しました。
http://akiroom.com/redbook/kenkyukai11/kenkyukai201105.html

さて本題の、ドイツのツァイス社製と、日本の製品、例えば日本光学工業製(現在のニコン)
を比べてどちらが優れているかですが、当時の実物を揃えて検証してみました。

結果は、専門家によるレストアが正確に行われているものは、
どちらも素晴らしい性能を有していることが複数の人間による目視官能試験で実証されまし
た。
いずれも、70年以上前の製品の話です。
本日アップしましたので、ご確認ください。

http://akiroom.com/redbook/kenkyukai12/kenkyukai201206.html

ツァイスの光学製品は私も大好きで、ルーペ1つとっても、明らかに使い勝手、
光学性能が優れているため、持っているだけで豊かな気分になれます。



以上です。

頂いた記事の中の5番、

「しかしこの双眼望遠鏡の機種の多さを含めた異常な発達は、
発展途上の電探に対するあだ花でもあり、
また日本における電探発展の足を引っ張った可能性も感じられる。」

という考察と、

最末期の極度の物資不足の中でも主目的である光学性能には
妥協をしない設計を貫き通した姿勢


という一文に感動しました。

今回検索していて「戦争とカメラ」という本が発行されているのを知り、帰国したら読んでみようと
思っていたのですが、このような観点から戦争を語った本を出していただきたいですね。


それにしても、エリス中尉が店頭で「カール・ツァイス」という名前を見て、
全く知らないなりに何か「これはきっといいものに違いない」と思ったのは、
実に正しい嗅覚であったということではないですか!

実は単に権威とイメージに弱いだけなのだけど、結果が良かったので自画自賛。


本日のタイトルは秋山さんのコメントに付けられていたものをそのまま拝借しました。

秋山さんのコメントに貼られていた研究会の様子は、
全くその世界に造詣のないわたしものめり込むように読んでしまいました。
なんといってもこういう研究にかける人々の情熱が伝わってきます。

日本の技術力、あらゆるモノづくりを支える力ということを、このように表わす言葉があります。

「ただ、自分の考えたことを研究し、発明し、
それを自分のコミュニティの中で面白がるためだけに発表する。
コミュニティの中ではその技術は磨かれ、完成されていくが、本人たちは
その中で楽しんでいるにすぎない。
ある日、そこで展開する世界を他の国の人間が見てその技術に驚愕する」

草の根でこのような「こだわる人々」が全ての分野にいる、というのが日本なんですねえ。
そのこだわりがモノづくりの国を生んで来たのだとあらためて知ることになり感無量です。


短剣を吊りて来ませよ

2012-08-15 | 海軍


久しぶりにお兄さまに会える!
「富貴子さんの素敵なネイビーのお兄様」といって
クラスメートの間でファンクラブまでできている自慢の兄。
あ、出てきたわ。でも何だか変だわ。
なんだかスタイルが間が抜けているというか・・・・・アッ!
「兄さん、短剣は?」
「おう、富貴子・・・え?短剣・・・・・

忘れてきたああ」

これは実は実話です。

海軍軍人の誇りの象徴をうっかりどこかに忘れてくるこのお兄様は特殊な例としても、
一般人ですらそれが無いと「何か違和感」」を感じるほど、
短剣は士官姿に画竜点睛となるアイテムでした。



象徴としての刀だからこそ、官給の仕様に甘んじることなくオリジナルをしつらえる士官がいた、
という話をかつてしましたが、それは元々受け継がれる名刀があるような家の出身である場合です。

兵学校71期卒で第四〇五飛行隊付、第八次「多」号作戦で戦死した江尻慎大尉は、
兵学校時代、家伝の名刀「辻村兼若」を軍刀に仕立てることについて、
家との手紙のやり取りでかなり詳しくこのようなことを語っています。
この場合は、短刀でなく軍刀の話のようです。

軍刀に関してお考え違いしないでください。
儀式刀は別として、指揮刀と軍刀は同じもので、
軍刀兼指揮刀であれば、儀式刀のほかは一本でいいのです。
ですから、兼若を儀式刀にし、助広を軍刀とすれば他には必要ありません。
さらに最近は刀剣の不足により、教官方も軍刀を以て
儀式刀に代用する方が多いので、軍刀一本でも結構です。
指揮刀を特に購入する必要はありませんのでよろしくお願いします。

軍刀外装は陸軍とは違います。
つまり、陸軍の鞘は茶色のようですが、海軍はだいたい黒か紫紺なのです。
また、柄だけ軍刀式に改装し、鞘は昔のままの上に
黒皮をかぶせただけのもあるようです。

なので、海軍軍刀の取り扱いに慣れた刀剣商に相談すれば、
適当にやってくれるものと思われます。
それらしき刀剣商が分からなければ、水交社に依頼すればいいということです。
なお、服装、拳銃、眼鏡などは一切ご心配ご無用です。

長い引用ですが、陸軍軍刀や当時の金属不足にも触れており、
興味を持たれる方のために
その部分を全部掲載しました。

江尻家は旧家であったので、このようなちゃんとした刀が家に伝わっていたようです。
一口に海軍軍人、兵学校生徒といってもその出自は様々ですから、
うっかり置いてきてしまったり、錆びさせてしまう者がいる一方、
「武士出身」士官もいたのです。


同じ軍服でも、ヨーロッパの一流仕立屋に特別注文していた陸軍の西竹一少佐や、
三越に軍服を仕立てさせていた軍人もいたようなもので、
何にでも「こだわる人はこだわる」ということです。
「こち亀」の中川巡査も、制服はピエール・エロダンデザインの特別誂えでしたし(笑)


ネイビーや白の軍服に短剣。

その姿が当時の女性、お嬢さんのみならず粋筋のお姐さん方のハートを鷲づかみにしたという話は、
くどいくらい語ってきました。


孝は短剣を外すと仏壇の前に正座し、両手を合わせて挨拶をした。
まだ小学生の光子は短剣が珍しい。
「あら、これが有名な短剣なの。ピカピカして、本当に切れるのかしら」
「なあに、切れはせんよ。鉛筆を削ったり、果物の皮をむく程度よ」
孝は短剣の刃で自分の頬をこすってみせた。
「ああ、恐ろしか・・・・」
光子は目を丸くして兄を眺めていた。

(「蒼空の器」豊田穣著より)



鴛渕孝大尉の妹光子さんが、豊田氏のインタビューで語った内容であると思われます。
兄弟が兵学校生徒となった女性、たとえ小学生にとってもそれは興味の的だったようです。


さて、冒頭画像の歌の文句は「軍隊小唄」海軍バージョン。
これは、当時の軍歌にありがちなパターンで、似たような歌詞で陸海空の替え歌をもつもの。
「女は乗せない」の後が、「戦車隊」になっているものもよく聞きますね。
これが、今見ると、「あるある」の宝庫なので、少し寄り道ですがこの歌詞を挙げます。


1、いやじゃありませんか軍隊は カネのお椀に竹の箸
  ほとけさまでもあるまいに 一膳飯とは情けなや

2、腰の軍刀にすがりつき つれてゆきゃんせどこまでも
  連れてゆくのはやすけれど 女は乗せない戦闘機

3、女乗せない戦闘機 みどりの黒髪断ち切って
  男姿に身をやつし ついていきますどこまでも

4、七つボタンを脱ぎ捨てて 粋なマフラー特攻服
  飛行機枕に見る夢は 可愛いスーちゃんの泣きぼくろ

5 大佐中佐少佐は老いぼれで といって大尉にゃ妻があり
  若い少尉さんにゃ金が無い 女泣かせの中尉殿


特に5番の「我が意を得たり感」は半端ないですね。(個人的に)



2番の「男姿に身をやつし」ですが、アメリカでは身をやつさなくても、

女性が、それも愛する夫の操縦する戦闘機に乗った例があります。
アメリカのP-38戦闘機乗り、いわゆるトップガンであったリチャード・ボングは、
美人の愛妻
マージ・バッテンダール・ボングを後席に乗せて出撃しました。
マージは

「死ぬのも全然こわくなかったわ。夫と一緒でなければ乗らなかったと思うけど」


などと、感想を述べています。

「連れてゆきゃんせどこまでも」と頼んだのがマージだったのかは本には書いていません。


ところで、たかが唄の歌詞につっこむのも何ですが、艦のコンパスを狂わす長刀がNGだったように、
一般に戦闘機乗りは、計器が狂うので刀を機内に持って乗ることはありませんでした。
しかし、陸軍の特攻では長刀を携えて機上に上がるシーンが多数残されていますし、
海軍特攻でも梓特攻の銀河隊の隊長が長刀を持って最後の写真を撮っていたりします。

あくまでも「通常の戦闘に向かうときは」ということで、特攻に向かうときは
あえて軍刀を携えていったのかもしれません。


とはい平常の戦闘では、自決用というなら、海軍はむしろ拳銃を装備していたようですから、
「腰の短刀にすがりついてお願い」しても、二重の意味で無理だったわけですね。


最後にある歌を紹介しましょう。

 短剣を 吊りて来ませよ

     海のごと 深き夜空に 迎え火を焚く


平成の世になってから詠われた詠み人知らずの一首だそうです。


毎年心をこめて焚く迎え火のひとは、彼女の兄か弟か、婚約者であったのか、
あるいは夫でしょうか。


そのひとは、南洋か、沖縄の、夜空の色と同じ紺碧の海に散ったのでしょうか。


戦後数十年が経ち、かつての乙女が今や銀髪の老婆となっても、

彼女の瞼にその日現れるその海軍士官は、
いつも若々しい頬に微笑みを湛えているのでしょう。


そして、純白の第二種軍装の男の腰には、
かつて憧憬の的だった海軍短刀が凛凛しくも佩されて、

そのうつくしくもせつない記憶が老いた彼女の瞳ををまた濡らすのかもしれません。











海軍士官の妻

2012-08-07 | 海軍





セシル・ブロックという英語教師が、江田島の海軍兵学校で教鞭を取った
三年間の想い出をもとに著した本「英人の見た海軍兵学校」の初版を持っています。
奥付に記された発行年月日は昭和18年の8月。

本の序には海軍大本営報道部、某海軍少佐の
「大東亜戦争開戦劈頭のハワイ海戦、マレー沖開戦以来、帝国海軍の挙げた戦果は
実に全世界を震撼する嚇々たるものであった」
などという言葉が入っており、戦時の出版であることをあらためて実感します。
(このセシル・ブロックの本についてはまた別の日にお話します)

26歳の独身青年であったブロック先生の観察は、兵学校生徒だけでなく、
一般の日本人や日本の風土にも及ぶのですが、その中で興味深いのは、
日本の婦人に対する素直な驚きが描かれた部分です。

婦人、と言っても、ブロック先生の見る日本婦人のほとんどは、
江田島の官舎にいる、教官の妻たち。
つまり、海軍士官を夫に持つ婦人たちです。

ブロック先生が仲介役となって、本国イギリスの巡洋艦バーウィックが友好のため
江田島を訪れたことがあります。
このとき、歓迎の午餐会が催され、兵学校教官の妻たちも列席しました。

会場では、すでに男性の賓客は席についており、婦人たちが入る番なのですが、
校長夫人がやってくるまで誰も動こうともしません。
平社員や講師助教授が、上司や教授の夫人にペコペコしなくてはならない、
この「夫の地位は妻の地位」の構図はここでも当然のように生きていたようですが、
日本社会では当たり前のことでも、ブロック先生の目には実に奇異なことに映ったようです。

余談ですが、うちのTOがある社会貢献型クラブに入会した時のこと。
「会員婦人会という、親睦を兼ねた、ボランティアの会があるのだが、参加しませんか」
というお誘いを同時に頂きました。
会長は誰が聞いても知っている大会社の社長夫人。
皆で集まって何をするっていうのですか、と、こわごわ聞いてみると、
「老人ホームに寄付するおむつを皆で縫います。茶話会や歌舞伎鑑賞も」

もう、瞬時に慎み畏み御辞退申し上げた次第ですが、ただでさえ怖い女性だけの団体の、
しかも名士やら有名人やらの奥さんがひしめいている世界にわざわざ飛び込んで、
その大奥のような女社会の荒波に揉まれようっちゅう勇者がこの世にいるであろうかと
心から疑問に思った次第でございます。(いるから会が存在してるんですが)

教官の奥さん同志の「女の戦い」については、ある士官がこのように語っています。

「教官の夫人同士の見栄の張り合いが傍目にも目立ち、どんなものを着るかとか、
何を持っているかがお互いの関心事になったりする傾向をかねてから憂えていたので、
自分の妻にはそのような集まりに出かけることそのものを禁じた。

ところが、そのときにははいはいと言うことを聞いていた妻が、戦後になって
『あの時に午餐会に参加できなかったのは残念だ。あなたのせいだ』
と言いだし、そしてその愚痴を聞かされ続けて現在に至る」


さて兵学校の午餐会ですが、校長夫人が副官に促されて歩きだした後、誰が後に続くのかで
婦人たちの間に騒ぎが起こります。


夫人達は、たがいにお辞儀をしあい、片手を丁寧にゆつくり動かしながら、
「どうぞ、どうぞ」
と言ひあつてゐるばかりであつた。
やがてその中の一人が、水の中へでも飛び込むやうな様子をして進み出、
他は皆これに従つて中に入つた。

ブロック先生、呆れてます。
誰か一人が、もし、何のためらいもなく校長夫人の後に従うようなことがあったら、
後から彼女は皆に「でしゃばり」と言われるかもしれないことを、
そしてそれが彼女らの最も恐れることであることを、
おそらく若いイギリス人であるブロック先生は夢にも知らなかったに違いありません。
しかし、それからがまた大変。

彼等が食卓のところに来ると、またまた何度もお辞儀をし、
「どうぞどうぞ」と言いあって後、上官の夫人から順次に着席した。

ちゃっちゃと上官の夫人から座ったらんかい、というブロック先生の声が聞こえてきそうです。
でも、その上官の夫人といっても、いろいろその中で順列があるわけで、
若し何のためらいもなく席に着いたりしたら後から皆にでしゃばりと(以下略)

今書いていて思ったんですが、こういう風に物事を見る人間は、少なくとも
「上流婦人ボランティアおむつ作りの会」には絶対参加すべきではありませんね。

ブロック先生は知っていたかどうかわかりませんが、
当時海軍士官の奥さんになれるのは、いわゆるちゃんとしたお家のお嬢さんだけ。
家柄は勿論、社会的に地位が高いとされている層に「別嬪さん」が集結するのは自然の理。

この午餐会の写真が残されていますので、ちょっとご覧くださいます?




全員とは言いませんが、なんだか綺麗な人ばっかりではないですか?
ブロック先生もこのあたりには素直に感動し、

「一体日本人女性ほど礼儀正しく親切で魅力ある夫人は見たことがない」

赴任した時に訪れた教官たちの夫人についても

「美しい日本婦人がどこにいっても女中の後に出てきて」

などと、激賞しています。
彼女らが決して「日本の平均的夫人」ではないと知っていたかどうかは、わかりません。
しかし、ブロック先生が彼女らを美しいと思うのは、
夫人達がいつも和服を着ていた所為でもあるかもしれません。

立派な制服が軍人の士気に大きな影響を与える、というイギリスと違って、
日本の海軍士官の軍人はたいてい生地も仕立てもあまりよくない軍服を着ている。
そもそも、元来日本人に洋服は似合わないのだ。
彼らは機会さえあれば和服を着たがるし、男でも女でも和服を着た姿は品位がある。

「洋服の国の人」であるブロック先生の、日本人全般に対する批評は辛辣です。
しかしこれは、特に当時の日本人に対する評としては、正鵠を射ているともいえましょう。

特に江田島のような礼節のやかましい場所では、
日本婦人はさらに従属的な待遇を受けている。

彼女らの唯一の存在理由は男性に奉仕することであって、然も日本の男は
彼女らを召使のように取り扱う。

海軍士官の夫人である彼女らを見て、「男に仕える日本女性」の伝説が
このイギリス青年に一層強く印象付けられたようです。

そこで冒頭の漫画です。
「女性は男性の付属品であり従属物である」というのは社会通念でもありましたから、

「士官に敬礼したら後ろを歩いていた夫人にもニコニコして頭を下げられ、
『かみさんに敬礼したんじゃないわい!』と屈辱を感じる」
下士官兵がいても、全く当時としては不思議ではありませんでした。

ところで、軍隊内の中で敬礼したの欠礼したのと、争いの種になるほどに、
この「敬礼問題」は精神的にいろんな禍根を残したようです。
連合艦隊の停泊地では、別の艦のペンネントを目印にイチャモンをつけ殴り合い、
見物人は自分の艦の水兵を応援し、などということがしょっちゅうあったと言います。
それは大抵、敬礼がきっかけで始まりました。

まあ、ベルサイユ宮殿の中でもマリー・アントワネットが声をかけるのかけないので、
国体ひいてはフランスとオーストリアの仲すら危うくなった、って話もありますし、
我々の日常生活においても、
「先に『おはようございます』という言わないで軋轢が起きる」なんてレベルの話もあります。

社会の潤滑油のはずの挨拶がもめごとのタネになるというのも人の世の常。

旦那が士官でもカミサンは上官じゃねえ!一緒になって敬礼に反応するなよ!
下士官などは、上陸地で夫婦連れの士官に出会うたびにムカついていたようです。

士官の奥さんにしてみれば、向こうが挨拶しているのに知らん顔するのは失礼、
という感覚かもしれませんが、知り合いならともかく、軍隊内の部下ですからねえ・・。
それが余計なこととは夢にも思わない人が多かったのでしょう。

部下思いだった戦闘四〇七飛行隊長の林喜重大尉は、上陸のとき軍服を着ませんでした。
街を歩いていて年配の下士官が家族と一緒に歩いているのに遭遇すると、
年若い自分にも彼等は敬礼をせねばなりません。
それは家族にも見せたくない姿であろうと、気を遣ってのことであったそうです。

冒頭漫画の水兵の歯ぎしりも、プライドが大きな意味合いを持つ軍隊社会なればこそ。
因みに、下士官の夫人達は、そのような場合、知らん顔をしていることが多く、
下級の者にとっては、こちらの対応の方がずっとありがたかったということです。







駆逐艦「梨」物語

2012-08-03 | 海軍









内容から何からやる気のない4コマで申訳ありません。
このエピソードは駆逐艦「梨」の物語にとってさほど重要でないのですが、
チョイネタとして作成してみました。

本土防衛も激しさを増した昭和二十年、瀬戸内海で日本軍はグラマンを二機撃墜。
それそのものは大きな戦果であったのですが、その後米軍のカタリナ飛行艇が一機飛来、
駆逐艦「梨」大砲の射程距離ぎりぎりに着水し、海中の搭乗員を救出して悠々と去っていきました。
向こうも必死ではあったでしょうが、何しろ鈍重な水艇に内海まで侵入を許したばかりか、
黙って去っていくのを見ているしかなかったというこの出来事は、
当時の我が軍がいかに防衛においてアメリカ軍からなめられていたかということを表わしています。

駆逐艦「梨」。
昭和19年から建造された「松型駆逐艦」に続く「橘型駆逐艦」で、昭和20年3月に就役、
終戦直前の7月28日、山口県光基地沖で回天と合同訓練中、米軍の攻撃を受けて沈没しました。

松型というのが、フネ不足の海軍が取りあえず数だけは何とか調達するために
わずか5カ月で作りあげた戦時量産型の駆逐艦でありました。
この型は松、竹、梅に始まり、

(松型)桃、桑、桐、杉、槇、樅、樫、榧、楢、櫻、柳、椿、桧、楓、欅、

(橘型)橘、堵、樺、蔦、萩、菫、楠、初櫻、楡、、椎、榎、雄竹、初梅

の(全部読めました?)32隻が就役にこぎつけました。
重複する木は「雄竹」「初櫻」にするなど、ネーミングに苦労の跡が偲ばれます。

本日の主人公「梨」。
決して果物ではなく「梨の木」という意味の命名ですが、
何となく軍艦にしては迫力を欠くと思われませんでしたか?

木の名前をシリーズにし、「雑木林」と呼ばれていた松型ですが、
これ以外にも建造中止になったり、全く未成のまま終戦を迎えた40ほどの船になると、
だんだん植物のサイズが小さくなり、
「薄」(ススキ)「野菊」
などという、健気に咲く野の花にまでなってしまっていました。
まだ命名されていなかった4143、なんていう仮の名前を持つフネが、
「薔薇」「撫子」「チューリップ」になるのも時間の問題だったでしょう。(たぶん)

もしかしたら、松型駆逐艦の名前を付ける担当の部署は、
この点に関してだけは戦争が終わってほっとしていたかもしれません。


さて、先日、「雪風は死なず」という項において「好運艦雪風」に対して「不運艦」を挙げました。
そのときにこのフネを挙げても良かったと思うほど、「梨」もまた不運でした。

「梨」は第11水雷戦隊所属で、そののち第一遊撃部隊に編入されています。
この部隊は、大和出撃のとき沖縄に突入することになった部隊です。
しかし、「梨」はじめ「雑木林」は、ことごとくこの作戦から外されてしまったそうです。
訓練もろくにできていない「雑木林」では役に立たないと判断をされたのは明白です。

もし天一号作戦に参加していたとしたら「梨」の命運は確実に沖縄で尽きていたでしょうから、
この瞬間は「好運」と言えたのかもしれません。

しかし、「梨」の不運はここからでした。
訓練といっても燃料不足のため、まともな戦闘訓練などできないまま(水泳訓練などをしていた)
「梨」は運命の7月28日を迎えます。

これは、冒頭漫画に描いた、「カタリナ飛行艇目の前で着水」の屈辱からわずか3日後。
国内で、米軍の攻撃により沈められたフネは多々ありますが、「梨」が不運だったのは、
この時攻撃したのが爆撃機ではなく、グラマンF6F戦闘機であったことです。

「梨」は戦闘機に沈没させられた珍しいフネ、という不名誉な記録を担うことになったのでした。

さて。

「梨」の運命はここで終焉を迎えたわけですが、この話にはまだまだ続きがあります。

戦後、スクラップを取るつもりで引き揚げたところ、なんと、「梨」は、ほぼ使用に耐える形のまま
海底にあったことが判明し、日本はこれを護衛艦として再利用することにしました。

しかし、平常であれば引き継がれる旧艦名は使用されませんでした。
なぜだかわかりますね?

「なし」

漢字なら問題のないこの艦名が、あら不思議、ひらがなにすることでネガティブで不吉な二文字に。
そこで「梨」には「わかば」という(一応木シリーズ)新しい名前が与えられました。

護衛艦「わかば」DE-261は、旧軍に存在した戦闘艦艇で、
戦後自衛隊で使用された、これも唯一のフネとなったのです。

しかし、「わかば」としての第二の人生は、必ずしも輝かしいものではなかったようです。
まず、もし時間があればこのような国会審議に目を通していただきたいのですが、

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/028/0106/02801130106003a.html

この国会で、「梨」が一度民間の会社に払い下げられていたのを、国が買い戻した経緯を、
野党が批判する、という出来事がありました。
再デビューにもケチがついたというわけです。


デビューにこぎつけた後も、半年も潮水に浸かっていた「梨」は機関部に凄まじい異音が絶えず、
また、同型艦がないため、運用にはなかなか苦労が絶えなかったといわれています。

また、乗員の多くを「わかば」は旧「梨」乗り組みから採用しました。
沈没の記憶のなせる業か、「わかば」では、しばしば「略帽を被った旧軍乗員を目撃した」
というような幽霊騒ぎが起こったそうです。

「梨」はその沈没時に60名以上の戦死者を出しています。


国会で追求されてまで「梨」のレストアと運用が推し進められたのは、
戦後の海上自衛隊が旧軍を受け継ぐものであるという意志表明の下に、
旧軍艦をその表明のあかしとして持っていたかったのではないか、という説があるそうです。

「わかば」がすでに解体され、その高角砲と魚雷発射管を術科学校内に残すのみ、
ということになってしまった今になっては、本当のところを知る者はもういないのかもしれません。



「大和です」
という漫画を描いたとき、こんなお便りを戴きました。

「大和一隻で戦ったわけではないですから・・・」
「大和」でなかったらこの海自の人達は、どうしたのだろうか?と思ってしまう」

確かに、もしあの話が

「お爺様は何に乗っておられたのだ」
「梨です」

であったら、

「なし?」
「はあ、モモ、クリ、ナシの梨です」
「あったっけなあー、そんなフネも」
(一同)「ほー」

などという展開になり、盛り上がらないことおびただしい。

しかし、「梨」に乗って亡くなった60名の命も、「大和」戦死者となんら変わりない命です。
「大和の物語」がいつまでも人の心をつかんで離さないように、人々が戦争を語るとき、
そこに悲壮な、或いは勇壮な物語を求めるのは世の常かもしれません。

しかし、何に乗って、どんな戦い方をしたとしても、
英霊の死にざまに上下を付けることだけはあってはならないことでしょう。



「ながせばはないことながら」~海兵67期の青春

2012-07-29 | 海軍

  

記事が書きたくてアップする項と、絵が描きたくてアップする項があります。
そして今日はお分かりのように後者です。

この笹井醇一少尉の写真は、ブログ開設間もないころ、
鉛筆で画像を作成していた頃に一度描いています。

描きながらそのとき、おそろしく綺麗な眼をしたひとだなあ、と思ったのですが、
今回この画像を描いているときもそのときの感激を思い出しました。
このブログはもともと、というか当初、笹井中尉のことが書きたくて始めたようなものなんですよね。
始めてみれば他に書きたいことが多すぎて、特に最近すっかり忘れていましたが(笑)

今日は、笹井中尉のいた海軍兵学校67期が、どのような少尉生活、
主に航空学生生活を送ったかをお送りしましょう。

兵学校生活について書かれた本には、いかに戦争中の、しかも軍人であっても、
青春を謳歌する溌剌とした様子、「箸が転げても可笑しい」といった風の若者らしい明朗さ、
そして時には、自分がどう見えるかを気にする「お年頃の男の子」ぶりがうかがえて、
なかなか微笑ましいのですが、たとえば。

兵学校の最初の夏休み。
純白の白い第二種軍装、腰に短剣姿で颯爽と帰郷することになるわけです。
「海軍兵学校に入って本当に良かった」と、彼らは入校以来おそらく初めて実感したでしょう。

兵学校生徒の短ジャケットと錨のマークは、世間の、特に女性の憧れの的でした。
帰郷途中にすれ違う人々は、ほぼ例外なく彼らの凛凛しい生徒姿に目を留め、
はっきりとした羨望や憧憬の様子を浮かべるのですから。
これが、青年たちにとって晴れがましく誇らしい瞬間でなくて、なんでしょうか。

これを、67期のある生徒は
「エリート的な気分に浸った一カ月」
と称しています。
しかし、浮かれまくって、「休暇日誌の記載を慌ててしたが、不完全なままで列車に乗り込む」
こういうところは、エリートというより、夏休みの子供です。

そして、冬休みの帰郷をするときは「ネイビーブルーの外套と白手袋」を着用します。
このマントも、本当に素敵ですよね。

先日、知覧の特攻平和記念館の一室に、旧軍の軍服がずらりと飾ってありました。
エリス中尉の近くで、数人のグループが見学していましたが、その中の最も年配のおばあちゃまが

「これこれ!このマントがねえ!これきてる人が素敵でね~!」

と、海軍外套の前で立ち止まって、うっとりと呟きました。

わかる!わかるわおばあちゃん。もっとその話聴きたい!
と思いながら耳をダンボにしていたのに、彼女の連れ(戦後世代)が
「へえー」の一言で話を終わらせてしまったので、そこまででしたが。
皆さん・・・・もうちょっと、お年寄りの話に耳を傾けましょうよ・・。

「あの外套と白手袋が、故郷の人たちに、また若い男女に印象的だったらしい」

非常に人事のような、恬淡とした書きぶりですが、実は、

「特に女学生に憧れの眼差しで見つめられてしまうこと多数で、実に誇らしかった」

というのが実際ではなかったかと、僭越ながら勝手に解釈してみました。

因みに、白手袋は海軍士官のトレードマークでしたが、都会出身のスマートを自認する生徒は
「いつでも白手袋をしているのは地方出身者(田舎者)」などと言っていたようです。(某海軍士官談)
何が粋なのか、って、どのあたりで決まるんでしょうね。

因みに笹井中尉は都心も都心、東京の青山生まれ。
現在プラダ始め、ブランドショップがずらりと並ぶ南青山の青南小学校卒です。
ちなみに、学校の向かいにあるのはヨウジ・ヤマモトです。(どうでもいいけど)

この後兵学校卒業、艦隊乗り組み、そして少尉候補生からめでたく少尉任官と相成るのですが、
この笹井少尉の写真は、少尉任官記念に撮られたものであろうと思われます。

さて、少尉任官と言えば!
そう、レス(料亭)への出入りと、エスプレイ(芸者遊び)が許されるのです。

「任官祝いには母港で初めてレスの酒を味わい、エス(芸者)なる者の存在に、
目の前に花が咲いた思いをするなど、生まれて初めての経験を」

遊び堂々解禁の、ヤング・オフィサーにとって最も楽しい季節が始まるわけです。
そして、笹井中尉67期の場合は、任官から半年後の昭和15年11月に、飛行学生となります。

勿論、訓練は厳しいのですが、給料をもらいながら飛行機の勉強をする毎日。
責任ある配置でもないし、なんといっても独身ですから、俸給と航空加棒は使い放題。
三人部屋の個室には従兵がつき、週末は東京その他へ外泊も自由です。

そして何より、
「シナ事変その他で海軍航空隊の盛名愈々高く、
我々のモテ方はご想像に任せよう」

ちょっと言ってみました風ですが、これもきっと、控えめに言っているに違いありません。
ただでさえモテる海軍士官、さらにモテたのが飛行機乗りと言われているではありませんか。
モテの相乗効果でMMKです。

しかし、モテて遊んでいるばかりが航空士官ではありません。
この間も、着々と訓練は進みますが、楽なことばかりでは勿論無いのです。

例えば筑波颪の吹きすさぶ寒さの中。
飛行機を手入れするときは、揮発油でまるで手が切れそうな辛い思いをします。
あるいは初めての単独飛行、皆が最初のそのときは解放感に両手を離して万歳したり、
大声でわけのわからないことをわめいてみたりするのですが、わめいているうちに、
筑波山ヨーソロで飛んでいるつもりが、よく見たら富士山だったなどという失敗も多数。

肥田大尉の後ろの偵察専攻学生が飛行中「肥田、ここはどこだ」とのたまい、
「バカッ!貴様が偵察ではないか」と喧嘩した話も、この頃の出来事です。



そしていよいよ卒業飛行は、赤トンボの「全員による大編隊飛行訓練」です。
それが終われば機種決定となるわけで、戦闘機志望の多い飛行学生は悲喜こもごもで
この結果を聞きます。

「数十機を撃墜してエースの名に輝き、ガ島上空に散った笹井が
機種決定の日に小躍りして喜んだ姿が今も眼に浮かんでくる」

筆者(同級生だった田中一郎氏)は、そのときの様子をこう書き記しています。
そして、このようにも。

「今思い出しても、一生にあんなに楽しい生活はなかった」

目の前に迫る戦雲、時局の不穏さは、少尉の彼らにもじゅうぶん察せられたでしょうが、
そういった「戦いの秋」を控え、真剣な訓練に励みながらも、彼らは若者らしく、
「酒保のうどん屋のナイス(美人)に、学生舎までうどんを運ばせる秘訣」や
「霞ヶ浦のカモを飛行機の脚の張線に引っ掛けて取る方法」や、
「利根川の鉄橋の下を中錬で通れるか」
などといった問題について、真剣に?討論したりしていました。

「不安定な赤トンボで高高度の宙返りができるかどうか」が討論されたとき、笹井少尉一人が
クラスでたった一人、できる!と言い張り、クラス全員と五銭の賭けをして見事成功したものの
教官には油をしぼられた、という「宙返り事件」も、この頃のことです。

クラスの誰かが「ながせばはないことながら・・」と失言するや、
それが瞬く間に流行語になったりするようないかにも伸び伸びとした日々、
それが六七期飛行学生の送った少尉生活でした。


飛行機乗りは戦死や事故による殉職が特に多い配置です。
67期の飛行学生には、プロペラに頭を刎ねられ死亡した者が一名います。

そして開戦するや、笹井中尉のいた三十五期戦闘機班は全員が戦死、
艦攻乗りの肥田真幸大尉のいた陸上機班も、45名中40名が戦死しています。



しかし、このような青春を思う存分満喫する時間が、若い彼らにあったのです。
平和の時代に歳を重ねたかつての67期生徒たちが、
「それでも人生で最もあのころが楽しかった」と口を揃えていう、輝くようなときが。








雪風は死なず(初心者向け)

2012-07-27 | 海軍












少しでも海軍の艦船というものに興味を持っている方なら、一度は
「世界の歴史上もっとも好運な不沈艦」としての駆逐艦「雪風」の名を聞いたことがあるでしょう。

大東亜戦争中、主要作戦のほとんどに参加し、いつも第一線で戦いながら生き残った、
まるで奇跡のようなこの駆逐艦。

デビュー戦は1941年、12月8日。
そう、大東亜戦争開戦の日です。
パラオ基地を出撃し、フィリピンのレガスピーへの急襲でした。
その後、スラバヤ、ミッドウェー、ガダルカナル、ソロモン、ニューギニア、マリアナ、レイテ、
そして昭和20年4月の天一号作戦の大和特攻。
これだけの激戦を戦い抜き、終戦を迎えたとき、81艦の寮艦たる駆逐艦(特型、甲型)は、
ことごとく沈没し、「雪風」だけが残ったのでした。

第三次ソロモン海戦では至近弾を喰うが、これがもし1mずれていたら、沈んでいた。

この後、艦上機を含む大艦隊に襲われたが、ちょうどスコールの黒雲が現われ、
その中に飛びこんで逃げのびた。

この時、爆撃機が艦橋をかすめるように墜落してきた。
何十分の一秒の違えば、
甲板中央に墜ちているところであった。

天一号作戦では艦体に地響きのようなものを感じたものの、

誰ひとりとして全く気にせず、激しい戦闘を続けた。
後から調べたら、上部甲板に穴が開いており、艦内には不発弾があった。

ダンビール海峡の「スキップ・ボミング」
(爆弾を超低空から落とし、海面で跳ね返らせ艦船の横腹を狙う)

の嵐と化した悪夢の海を駆け回り、海上にいた将兵を助けて、無傷で戦場を去った。

艦底に魚雷が当たったが、そのまま通過していた。

終戦間近(7月30日)の空襲で、ロケット弾が命中したがこれも不発。

終戦後、舞鶴に回航される途中機雷に接触。
今度こそ駄目だと覚悟を決めるも、それが「回数機雷」で、爆発せず。
後ろにいた「初霜」が、同じ機雷に接触し、今度は作動したため暴発し、沈没。

戦争中を通じて、戦闘による死者は10人以下であった。

戦時中の艦長4人(飛田健二郎、菅間良吉、寺内、古要桂次)は戦後も健在であった。



最後の方になると乗組員も、他の艦の乗員を助けながら「当たり前の光景」のように
思えてきたというから、幸運もここまで来るとむしろ不気味というレベルです。

現に、「雪風は沈まない」=「雪風と一緒に出撃すると沈む」
というネガティブな解釈から(船乗りは、何かとげんを担ぐ)
「疫病神」「死神」とまで言われることすらあったそうです。

歴代艦長はそれまで「不沈艦長」と言われていたような人ばかりが就任し、全員が
「どんな激戦場に出ても、雪風だけは絶対に沈まない」
と、全くその気になってしまっていたそうですから、全員の超ポジティブな「プラシーボ効果」が
実際にも好運さえも呼び寄せたのでしょうか。

「駆逐艦な野郎たち」という小林たけし氏の漫画で、新任の中尉がスリッパで出てきた艦長に
驚き、軍帽を斜めに被る艦員に怒り、「どうなってるんだ!」と呆れる話がありますが、
まさにこれは「雪風」をモデルにしており、そのラフな態度が戦前は「田舎者」扱いされていました。

この「駆逐艦気質」を最も体現していたと思われるのが第五代艦長の寺内正道少佐で、
天一号作戦、ご存じ戦艦大和が海の藻屑と消えたあの激戦中、艦橋に椅子を置き、
その上に立って天蓋から鉄兜も被らないまま頭を出し、三角定規で雷跡を読みながら、
航海長の右肩、左肩と蹴りながら操舵を指示し続けました。

この豪胆な艦長の姿に、総員が奮い立ったのは言うまでもありません。
元々、日本の駆逐艦の操艦、ことに「爆弾除けの秘術」はお家芸の域まで達していたと言われ、
ある駆逐艦長のそれなどはまるで名人芸で、あるいはスポーツのようにそれを楽しんだ、
とまで言われていましたが、この寺内少佐も、第4代艦長の菅間良吉中佐も、
この「芸」は超一流であったということです。

そういった「職人技」に加え、この駆逐艦は名技術にその幸運を支えられてもいました。
一般に駆逐艦は造るのが非常に難しいと言われました。
船体を作るのに制限があったからで、それは2千トンから一トン増してもダメ、というくらいでした。
その小さな艦体ゆえに操舵の敏捷性を持つ駆逐艦ですが、また同時に戦艦を撃沈せしめる攻撃力、
あるいはどんな荒波の中も艦体を叩かれることのない安定性が要求されるのです。

雪風は、造船界の天才、「大和」をも手掛けた牧野茂技術大佐によって設計されました。


ところで、日本一の好運艦が雪風なら、日本一の不運艦は?
聯合艦隊が壊滅してしまったわけですから、幸運も何もほとんどのフネは「不運」であった、
としか言いようもないのですが、その中でもワーストの例を三つ。

巡洋艦「畝傍」(うねび)。
フランスで建造され、日本に回航される途中行方不明。

これは明治時代の出来事だそうですが、当時の科学技術では、畝傍が一体どこでどうなったのか
全く分からないまま、とにかく彼女は痕跡も残さず消えてしまったのだそうです。
これは、不運というより生まれる前に消えてしまった、という感がありますが、

空母「信濃」
1961年「エンタープライズ」が生まれるまでは、世界最大の排水量を持つ空母であった。
未完成のまま横須賀から呉まで回航中に、米潜水艦の攻撃により沈没。

雪風は、この回航に「磯風」「浜風」とともに参加しています。
信濃には貨物として特攻機「桜花」、あるいは震洋が乗せられていたといい、これをもって

「信濃の回航が特攻にならなければいいが」

と冗談を言うものがいたということですが・・・・・。

むやみにポジティブであった雪風が幸運を否が応でも引きつけた感があるのに対し、
冗談でもこのようなことを言わない方がいい、という見本のような話だと思いませんか?

空母「大鳳」
魚雷命中ではなく、密閉された艦内の気化ガソリンに、胴体着陸した戦闘機の衝撃で引火、
大爆発を起こし、沈没。

全海軍の期待をになってデビューした空母でしたが、初陣で戦闘開始直後に沈んでしまったのです。
それまで大鳳は何発かの魚雷を受けていたのですが、それにはびくともしていませんでした。


戦後、雪風は戦利品引き渡しとなり、中華民国海軍の旗艦「丹陽」となりました。
その舵輪と錨は、日本に送られ、江田島の海軍兵学校跡に展示されています。








戦後、我が国が軍艦の所有を許されたとき、その最初の艦の名前を決定することになり、
「雪風」乗り組みであった旧軍人たちは、この好運艦の名を引き継ぐことを強く提案しました。

その栄光の名前は、戦後の警備艦第一号「ゆきかぜ」となって刻まれることになったのです。







「大和です」を漫画化してみた

2012-07-25 | 海軍











この話を知ったのはいつのことでしたか。

私がホテル勤めをしていた頃の話。

ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。

自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には
苦労を掛けていると思う事。
たとたどしくですが話されました。

同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが
段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。
挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」
と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり
直立不動で敬礼を送りました。

おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。

いわゆるコピー&ペーストですみませんが、もしかしたら皆さまもインターネット検索の合間に
このちょっとした話を眼にされたことがあるかもしれませんね。

わたしは、最初に読んだとき、眼がうるんできてしまいました。
しかし、漫画にしてしまうとなぜか感動的ではない!なぜだ。

それだけでなく、「せっかくの話を台無しにするな!」
というお怒りの言葉が聞えてきた気がする・・・。

しかし、実はこの「大和編」は、あるパロディのための「マクラ」のつもりで描いたのです。
というか、パロディを描くためには「オリジナル」がないと、というので描かざるを得なかったのですが、
それがため、感動的な話がなんだかいつもの調子になってしまいました。



というわけで、何の愛相もない本文ですが、近々掲載予定の「雪風編」、(こちらがメイン)
どうぞお楽しみに!







海兵生徒小沢昭一~最後の兵学校生徒

2012-07-23 | 海軍

俳優、エッセイスト、俳人、歌手、そして博物館明治村の館長小沢昭一氏が、
終戦時海軍兵学校生徒であったことをご存知でしょうか。

(なぜ明治村の館長かと言うと、あそこに展示されている写真館が、
小沢氏の父上が若いとき修業した建物であるという縁からだそうです)

小沢氏は海軍兵学校78期、即ち入校してわずか4カ月で終戦を迎えた最後の海兵生徒です。

・・・・?
「先日、海軍と77の因縁についての記事で、77期を『最後の海兵生徒』といっていたじゃないか」
と思われた方、あなたの記憶力ならびに注意力は素晴らしい。
確かに、正規の海軍兵学校生徒は77期が最後の入学となりましたが、この項における
「最後の」というタイトルは、「最後に海軍兵学校に入学することを許された学年」という意味です。



新人物往来社から出版された「江田島海軍兵学校」という本には、
写真家真継不二夫氏の兵学校の写真、娘の美沙さんによる海上自衛隊の写真と、
実に見応えのある写真の数々が掲載されているのですが、巻末の「資料編」、
海軍兵学校生徒卒業者、というコーナーを見ると、各期の代表的な軍人―山本権兵衛に始まり、
広瀬武夫、山口多聞、源田実、野中五郎、関行男が挙げられた顔写真の最後に、
なぜかこの小沢生徒の写真が・・・・・。

78期には財界、政界、文学、音楽、その他戦後有名になった人物がいます。
それもそのはず、なんとこの期の生徒数は4062名。

この学年が正規学生ではなく、
「いずれ正規学生になる予定で、基礎学習を済ませておくべく早めに入学した予科学生」
であるということは「帝国海軍と七十七」という項で説明しました。

従来、兵学校は旧制中学の4年、あるいは5年から進むものでしたが、
戦争が熾烈さを増すとともに中学校の就業年限が4年になり、
兵学校も4年生から3年となり、しかも2年半で繰り上げ卒業、というような事態になりました。
そして兵学校は終戦直前には採用年齢を下げ、中学二年修了程度から採用をすることにし、
これを新しく海軍兵学校予科生徒としたのです。

78期生徒は最初で最後の予科生徒として、終戦後の10月、卒業資格を得ています。
兵学校生徒にしては幼く見える小沢生徒、なんとこの時16歳だったのです。

この78期募集に対しては全国から2万人を超す応募がありました。
戦況が苛烈で色々な日本不利の情報は、はっきりとでは無くても、
中学生にもじゅうぶんに察せられたと思われるのですが、なんと言っても、

「どうせ徴兵に取られるのなら海軍士官となって戦地に行った方がましかもしれない」


と考えた優秀な青少年が多かったということでしょうし、やはり時勢、多くの若者が

「国のために戦う」

ということを当然のこととして「尽忠報国」に突き動かされたからこそのこの数字でしょう。

小沢少年もまた熱心な愛国少年でした。
小さいころから「大きくなったら兵隊さんになる」と決め、軍艦カードで遊んできた少年は、
麻布中学に受験勧誘に現れた先輩兵学校生徒の短剣姿に胸をときめかせ、
朝日新聞連載の岩田豊雄作「海軍」の世界に憧れ、そして、重大動機のひとつは

海軍士官は、ことに兵学校生徒は女にもてた

ことであった、ということも正直に告白しています。

紺のホック留めのジャケットが腰でピタッとしまって、そこに金色の短剣、そして白手袋。
日本中がずだ袋を被って暮らしているような時代に、あれはカッコ良すぎて、
誰が着ても「MMK」(モテてモテて困る)だった。
(「わた史発掘」小沢昭一著より)

毎日合格を願い眠れぬ夜を過ごし、郵便局まで合格通知の到着を待って通い、
その結果合格を知ったとき、天にも昇る心地であった小沢少年。
しかし、実際に入校して、厳しい課業の日々を過ごすうち、どころか実際は入学直後に

しまった!えらいところへ来てしまった
―大失敗だった―間もなく死ぬんだなあ―死ぬのは怖い!


と急に突然、思い始めてしまったのでした。

一瞬の気の休まる間もない訓練、江田島ではなく防府分校の急ごしらえ校舎の
(針生分校よりさらに設備は劣っていたと言われる)ノミ・シラミ、得体の知れない皮膚病を始め
赤痢や流行性脳炎すら発生する衛生環境の悪さで入院患者続出。
そんな中で毎日のように米軍艦載機の来襲を受け、のべつ裏山に逃げ込む毎日。


兵学校で過ごした生徒と一口で言っても、4年間を空襲の無い江田島で過ごした者と、
小沢生徒のような末期的最悪な環境で過ごした者の間には、はっきり言って海軍、そして戦争、
そこに軍人として身を投じて行くことに対する心構えからして全く違っていて当然と思われます。

案の定、入校して4カ月目の夏、兵学校で終戦の勅を聞いた小沢生徒は、
地面を拳で叩いて号泣する教官を横目で見ながら「シメタ!」としか思わなかったそうです。

それも当然で、「陸軍に行くのがいや」「徴兵はもっといや」「海軍はモテるから」という理由で
大量採用の海軍士官採用に応募したと言うだけの16歳の健康な少年が、
上記のような環境の中でもまだ「国に命を捧げること」を本望と心から思えるか。
無理です。

おそらく、78期生徒の誰一人として、そのような覚悟や使命感など持たぬまま、
あれよあれよと戦争が終わって行くのを見ていた、というのが本当のところではないでしょうか。

小沢昭一は、この体験から戦後はっきりとした「軍嫌い」となります。
例えば78期、小沢氏の同期生氏家睦夫氏は戦後、兵学校在学時を追想する本を出版し、そこに

最も暗澹たるべき敗戦前の五カ月の兵学校生活のそこだけが
ぽっかりのぞいた青空のように
懐かしく思いだされるのはなぜだろうか。
一身の栄達も利害の打算も無く、ただひたすらに厳しい規律の中で
自己の能力の限界を
とことんまで鍛え抜くと言った純粋さと、
たとえ自分は捨てても自己以外の他人、ひいては
祖国のために
よりよい自己を形成しようとする人間の美しさがあった


と記しているのですが、これに対する小沢氏の感慨は

「人それぞれの想いでとらえられてしかるべき」

としながらも

「私にとってはどんより曇った灰色の空のように重苦しく思いだされる」


小沢氏にとって兵学校を選び、職業軍人への道を踏み出したこと自体がつまり
「戦争に行って罪を犯していたかもしれない」という、犯さざる罪、即ち
「一生抱えて行く後ろめたさ」となってしまったのでした。

かくして戦後の小沢氏は徹底した反戦、反国体の思想に傾倒したようです。
昭和51年の国会で当時の福田赳夫首相

「教育勅語はこれからも生かして行かねばならない正しい人間の道」


と発言し、それを野党から反論された際

「父母や兄弟への愛、夫婦相和し朋友相信じてどこが悪いのか」

と言ったことを

(福田首相はこう)居直った。正体見たりである。

と著書で言っています。
つまり、教育勅語に書かれているもっともらしいこと全て、最後の文章

「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」
(非常事態には、国の平和と安全に奉仕しなければならない)

これを強制するための「地ならし」に過ぎない、騙されるな、というのが小沢氏の考えです。

戦後、左翼が教育勅語を目の敵にした、最も核心といわれる部分もここで、
「戦争があれば天皇のために命を捧げるべし」
と解釈したためのGHQによる「教育勅語廃止」理由の根本と言うべき問題の部分なのですが、
教育勅語ができた時代の流れを冷静に考えると

「徳川家や主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった。
これからは国家に忠誠を尽くしなさい」


という、当たり前といえば当たり前
のことを言っているとわたしは思います。

小沢氏はなまじ中途半端に暗部を覗き見て、そこで終わってしまった「軍体験」から、
むしろ極端な「反国家意識」が呼び覚まされてしまったように思えます。

そして、この傾向はいわゆる「アプレ・ゲ―ル」に始まって「団塊左翼」へとつながる共通の、
「国家に対して自分を奉仕するのは馬鹿」→「天皇制反対」の思想と同じです。

「国の安全と平和に公的な奉仕をすることを奨める」ことのどこが
「正体見たり」とまで言い募らなくてはならないことか、若干理解に苦しむのですが・・・。

小沢氏はここで
「そんなこと(教育勅語の中身)はあんたに言われなくたっていい、
そんなことは『民』が『主』になって『自由』に考え、得心するものです。
それが、あの時、我々の父や兄の命と引きかえに得た民主主義と言うものでしょう」
「(福田内閣は)東条内閣とものの考え方においてほとんど変わりはない」

などと言っていますが、うーん・・・・。

民が主になって、自分で道徳や社会規範を自由に考え、得心することを皆が選んだ結果、
今の日本人はどうなってしまったと思います?
小沢氏、現在80を過ぎてご健在のようですが、皆が『私の自由』ばかりを要求して
経済ばかり優先した揚句バブルに踊り、その後、今の体たらくに陥った日本を、
どうご覧になるのか、ぜひ、氏に聞いてみたい気がします。

兵学校78期であった人物の中には、前にも話したことのある「火垂るの墓」の音楽を担当した
作曲家の間宮芳生、漫画家の佃公彦、小説家の佐野洋、などがいますが、
「オレンジ共済事件」で悪名高かった、政治家でオレンジ共済組合理事長、友部達夫
先日亡くなった電通の帝王、成田豊(朝鮮京城中出身、異常な最近のメディアでの
韓国押しの張本人と言われる)、これらの人物もまた78期在籍組です。


それにしても、海軍は敗戦も明らかになってきた昭和20年になって、
なぜ4000人もの兵学校生徒を集めることにしたのか。
全てこれらの人員を使い捨てのように消費するつもりだったのか。

当時、戦争を終結させたがっていたのは海軍の上層部でした。
このことからも、この「鉄砲玉養成」としての大人数採用説は、あたっていないと思います。


実は、既に敗戦を予期していた海軍は、勤労動員中の中学生を4千名も集めることで、
敗戦後の日本のための学業専一の教育をしたのだと言われています。

ここで考えを当時の日本軍の状況にやれば、そこには戦うべき船も、飛行機も、
その材料の鉄さえも、何にも無かったのです。
なのに海軍は4千名もの若者を集めた。
これは海軍の予算で、将来の日本の人材を確保しておこうとする考えだったというのです。

戦後、最後の兵学校副校長、大西新蔵中将が、このように語ったそうです。

「つまり、(4千名もの募集は)敗戦後に向けたものだった。
だから精神主義的教育はできるだけ排した。
最後まで伸び伸びとした教育を続けることができた」

終戦工作を続けた鈴木貫太郎が、当時の校長であった井上成美にこう言いました。

「井上君、兵学校教育の効果があらわれるのは二十年後だよ。
いいか、二十年後だよ」

二十年後の日本のために残す人材として、海軍が自分たちを集めたことを、
4026名のうち何人が知ったかはわかりません。
必ずしもその真意を理解して戦後の日本に貢献した生徒ばかりではなかったでしょう。

しかし、彼ら自身が恩義に思おうと、逆に国家に嫌悪すら抱こうと、終戦に際して、
海軍が、彼らに日本をこれからも存続させていくために働いてほしいという
「望みをかけた」、これだけは確かなのです。







江田島村の人々と兵学校の「兵隊さん」

2012-07-19 | 海軍

先日、呉に行き三度目の旧兵学校見学を果たしました。
呉が「海軍と共にあり、海軍と共に発展した街」であることも肌で感じました。
今日は、その中でもおひざ元として、その名が即ち「海軍兵学校」を意味するようになった、
江田島の人々と、兵学校の結びつきについてお話します。

冒頭画像は明治百年史蔵書の付録?に付いてきた、兵学校の往時の地図です。
20分の一位の縮尺なので字が全く読めませんが、この地図には教育参考館がありません。
大講堂(水色)の近くにある長細い二つの建物、その手前(赤)が赤レンガの生徒館、
上部に位置するオレンジ色で囲ったのが第二生徒館ですが、
それまで同居していた海軍機関学校が舞鶴に移転し、この校舎が空いたため、
ここに兵学校の貴重な資料を展示することになったのです。

ですから、旧兵学校の見学をした人は、この地図の下三分の一、
この地図では空白に見える部分だけを建物に添って歩いて見学したことになります。
見学コースを黄色の線で書いておきました。
全体のほんの少ししか公開していないというのがわかりますね。

その後、ここに現在も残る教育参考館が完成したのが昭和11年三月。
その直後の昭和11年四月には、67期生徒が入学してきます。(笹井醇一中尉の期です)
この67期240名の学生は、入校特別教育として、第一種軍装を着用の上、教育参考館において
東郷元帥の遺髪、ならびに戦死者、公死者の名碑に参拝することを最初に行いました。
以降、兵学校生徒は、入学して最初の海軍教育を、参考館の参拝から始めることになったのです。

因みに、この地図で緑で囲った部分には剣術道場、砲術教授所、事務所などがあるのですが、
この後これを移転して、そこに現在も残る新生徒館が建てられました。
完成は12年4月で、68期(鴛渕孝大尉、酒巻和男少尉、大野竹好中尉)からの生徒は、
このできたばかりの生徒館に入った最初の生徒です。

余談ですが、大野中尉は卒業時のハンモックナンバーは36位、その大野中尉を「秀才だ」と
自著で誉めていた作家の豊田穣氏ですが意外や意外?288名中の69位で上位。
優等生タイプに見える鴛渕大尉も、52番と、予想通り上位に位置しています。

さて、それまで何もなかった瀬戸内の漁村だった江田島に海軍兵学校ができて以来、
江田島の人々は兵学校と共にその生活を営んできました。

近隣の人々は、兵学校の始まりと共に起き、生徒が総員起こしの直後に行う号令練習が
まだ明けやらぬ朝の風に乗って聞えてくるのを時報のように聞き、
やがて空が白んでくると兵学校にある唯一本の煙突からまっすぐ煙が上がるのを認め、
「生徒さんたちは食事をしておられる」などと思いをはせたものだそうです。

先日の江田島訪問のとき、いまだに「下宿制度」が士官候補生たちの間に受け継がれている、
と聞いて、心から驚きました。
それを今日も「倶楽部」と称するのかどうかまでは、聞きそびれました。

下宿制度は、週末の休暇となったとき、江田島の民家が家を兵学校の生徒のために開放し、
我が家にいるように寛いですごすためにもてなした制度で、そこを倶楽部と呼びました。

兵学校の生徒は通常許可なく外出することができず、休暇日でもでかけられるのは江田島と
能美島だけ、買い物で商店に入る以外には、倶楽部しか立ち入ることができませんでした。

この倶楽部は学校が厳密に調査をした学校周辺の民家が指定され、生徒たちはそこで
囲碁や将棋に興じたり、読書をしたりして過ごします。
残された写真を見ると、みんなきちんと軍服のままで、なぜかアルバムを見ている人多数。

アルバムを見るのが面白い、というよりなにより、学校内の緊張から解き放たれて一息つける、
こういう時が、彼らにとって何よりの楽しみだったのでしょう。
そして、何と言っても下宿となった民家心づくしの食べ物。
食べざかりの彼らには、それだけでもありがたいものだったようです。

この倶楽部に「お金を払った」という話を一度どこかで読んだことがあるのですが、
それは後期のことで、最初の頃は島民の「好意」だけで賄われていたのではないでしょうか。
ある江田島島民で、家を倶楽部に解放していた人の話です。

「取り決めがあったわけではないが、いつの間にかそうなって、
そこで土曜日にはその準備で大変じゃった。
うどんを打ったり豆腐を作ったり、すし、汁粉、ぜんざい、餅、ミカン、芋、卵、白いご飯、
勿論お金なんかもらったことは無い。
分かるか。あの生徒さんたちは皆、将来日本の柱になるひとじゃからの。
楽しく食べてもらうのがただただ嬉しかった」

このように接待してもらう生徒も、礼儀正しく、島民に感謝を欠かしませんでした。
それだけではなく、例えば村に火災が発生すると、村民は手押しポンプで消火活動をしながらも
今に兵学校が来てくれるぞ、もう来るぞと待ち望んだものだそうです。
決して彼らは兵学校に救援を要請などしないのですが、何も言わなくとも彼らがそのうち
助けに来てくれることを固く信じていました。
そして、村民の信頼を裏切らず、兵学校の屈強の若者たちが隊列を組み、喇叭の音と共に
まさに地響きを立てて乗り込んでくると、皆は歓声をあげて道をあけ、
「もう大丈夫だ。兵隊さんが来てくれた」
といって、頼もしい彼らに全てを任せたのだそうです。

兵学校は日頃から地元の人々と緊密な信頼関係で結びついており、
当然のこととしてこのような時は後片付けまで完全に処理し、我がことのように誠心誠意、
村民のために働いたのです。

台風の季節には、江田島は被害を受けることが多々ありましたが、そんなときも、
翌朝には兵学校では必ず内火艇を出して海岸線を見て回り、島民の姿を認めると
「おーい、大丈夫か。変わったことは無いか」と声をかけました。
村民はまたも兵学校が来てくれたといって、海岸にたくさんが走り出てきます。
そして手を振り、声をからして「ありがとう」を繰り返し、そこに立ちつくしたのでした。




江田島の人々はこのように兵学校と共に在り、その存在を愛しました。
この地で幼少期を過ごした人の話によると、その卒業式の日になると、母親は、
参列することは勿論、中を垣間見ることもできないのに、子供に一番良い着物を着せ、
「静かにしているように」
と言い聞かせたのだそうです。

「いくら騒いだって兵学校まで聞えはしないのに」
内心子供心にそう思っていると

「今日は兵学校の卒業式のために天子様がこの江田島においでになるんじゃ。
もう少ししたら白い軍艦に乗られて、それを迎える練習艦が21発ずつの礼砲を撃つぞ。
びっくりせんように静かにここで見ておれ。
わしは式の終わる昼まで畑にも出んのじゃ。
鍬や鎌の音をガチャガチャさせては申訳ないからの」


明治生まれのこの父親の言は、当時の江田島の村民の、
兵学校に対する気持ちの一端を表わしているともいえましょう。

呉の駅前を写した一枚の写真には、たった一つ、どこかの菓子店が建てたと思われる
大きな看板があり、それに「海兵団子」と書かれていて微笑ましく感じます。

江田島だけではなく、呉の人々にとってもここに海軍兵学校があることが、
彼らの、そして郷土の誇りであったことが覗い知れます。