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ある海軍軍人の(笑)終戦後

2012-06-02 | 海軍

ある海軍軍人の(笑)シリーズ、その2です。

冒頭画像文中の「中馬」とは、真珠湾攻撃の軍神となった中馬大尉です。
この中島艦長がブログをやっていたらこんなだったかな、と創作してみました

伊潜艦長、少佐で迎えた昭和20年8月14日。
中島氏は「1m長い潜望鏡が着荷したので喜々として?元の潜望鏡を引きぬいて」いました。
(お断りしておきますが、上記はエリス中尉の脚色でも何でもなく、原文ママです。
画像の文章も、顔文字以外は原文通りです)
しかしそのとき、中島少佐はすでに同期の艦長から、15日に無条件降伏の噂を聞いていました。
嬉々として潜望鏡を抜いている場合じゃないようにも思えます。

とりあえず少佐は厚木航空隊に行き15日の御詔勅を聞きました。
噂を聞いていたので、そこにいた誰もが敗戦を理解こそしましたが、同時に全員が戦争継続を決意。
その準備に少佐は武器の確保にあたります。
その日軍需部に行くと魚雷、陸戦用兵器、とにかく頼めば何でもくれたということです。
軍需部も継続の意思を持ってその日を迎えたということだったのでしょうか。


というわけで、引きぬいてしまった潜望鏡を新しいのに付け替えなくてはいけません。
しかし抜くことはできてもつけることはできない中島少佐でした。

光学部に頼みに行くも、「もう終戦だから」と彼らは仕事を拒否。
こちらには抗戦の様子は全くなし。
軍内部でも、現在言われるように、いろんな動きがあり、部署の受け止め方も様々であったようです。
中島艦長は技術士官を軍刀で脅かし、←直ちに取り付け復旧作業を完了し(させ)ます。

ところが、8月17日、横空に行ってみると、そこにいた皆にもう戦意は全くなく

ガックリ(しつこいようですが本当にこう書いてある)。

厚木の徹底抗戦への動きから、横空も当然そうなっているものと思っていたら、
こちらは全くそうではなかったので拍子抜けしてしまった、ということでいいでしょうか。
実に淡々と書かれているのでつい何の気なしに読んでしまうのですが、
実はこの中島少佐は厚木からなんの指示もなければ伊潜での単独行動まで覚悟していたようなのです。

しかし、この方にかかっては、全てが不思議に牧歌的に見えてしまうのは何故でしょうか。

この頃より毎夜、付近艦艇から衣類を頭に結び、泳ぎ着き同行を懇願する者多し

徹底抗戦を望むものが個人的にそういう動きを持つ部署に集結し、動こうとしていた、
という当時の空気を伝える貴重な証言のはずなのですが、

だめだ・・・この「衣類を頭に結び」が余計だ・・・。
なぜこのことをわざわざこの緊迫した状況の描写に加えなくてはいけないのでしょうか。
そもそも冒頭の「潜望鏡を引き抜いていた」というのも、なんだか余計じゃないですか?

やっぱり、この方、少し、皆とモノの見方が違うんじゃないでしょうか。

中島少佐はその後「降伏は海軍では習わなかった」と司令部に陳情に行ったものの、
説得され、乗員を道連れにする艦での単独行動を断念。
中島少佐はやっと敗戦の事実を受け入れました。

「戦争に負けて帰ってまいりました。あげてもらえますか」

親戚の家に身を寄せることになった中島氏の玄関での第一声です。
この頃、NHKのラジオではベートーヴェンの「運命」と歌謡曲「誰か故郷を思わざる」が
しきりに流されたということです。

さて、ここからが問題です。

中島少佐は陸戦隊として南方に従事していたときも、相変わらず飄々と激戦を戦い抜いていました。
例えばこんな具合です。

迫撃砲の集中射撃を受け、幹部全滅し、最高司令官になったかと心配するも、
司令部はいち早く後退しており、浦部参謀より大尉に進級したかと思ったと「ニコニコ」して言われる

落下傘が元で、陸軍伊藤支隊との仲悪く、全く困る。そののちスリアワセ良好となる

これ、陸軍との仲が悪かったのが落下傘のせい、ということなんですが、どういった理由でしょうか。
このあたりも何気なく言っていますが「歴史的証言」ですね。そして、

セレベス軍司令官直率部隊に先回りし、夜襲で捕虜にする

そう、戦後、このころの戦歴が問われることとなったのです。

巣鴨大学に入校、成績優秀につき、22年2月「セレベス」島「マカツサル」大学に留学、
重労働学を実地に専攻する


BC級戦犯では、当時やられた側の「復讐のために」中隊長クラスが捕虜の死を問われ、
多くの将兵が「公務死」しました。
資料によると5700人が裁判を受け、そのうち1000人弱という多数が死刑になっているのです。
ひょうきんな言い方で当時を振り返る中島氏ですが、不起訴になり帰国したのが何と2年半後。
その間裁判を受け、毎日のように仲間が処刑されていく刑務所で重労働に就いていたというのです。


しかも帰って来てから、戦犯を免れた元軍人に対し、世間はどんな扱いをしたか。
この方がどんな想いをしながら戦後を生きてきたのかが慮られます。

しかし。

御安心ください。
最後まで「こんな人」であった中島氏、またこんな風に手記を結んでいるのです。

花も実もある余世が楽しめそう。

おそらく、戦後の混乱期を通じて、この方は持ち前の明るさとユーモアでそのときそのときを
精一杯生き抜いてこられたのでしょう。
そして老境に差し掛かり、人生を振り返って、やっぱり何となく人とは一味違うとぼけた、しかし
考えようによっては最も強力な、何でも笑い飛ばしてしまうその精神で切り開いた人生を
・・・やっぱりこういう人間は、こんな風に語るものなのでしょう。

ボケを少なくし、美しく老いたい。
「死ぬまで健康」が目標。

まだ「ぽっくり寺」には祈願していない。

きっと、祈願せずとも中島氏は希望通りに美しく老い、ぽっくりと幸せに旅立たれたに違いありません。

おっと、まだ生きておられたりして。

 


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4 Comments

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Unknown (Unknown)
2013-10-11 21:10:19
とても素敵な方ですね。。。
本のタイトル等教えてほしいです
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残念ですが・・・ (エリス中尉)
2013-10-11 23:18:36
兵学校の回想録ですので、非売品です。
今は古書店にも滅多に出ないようですね。
この手記は確か66期の同窓会が編纂したものに収録されていました。
こういう回顧録は、まれにインターネット書店に入荷することがあって、
わたしはそれで何冊か手に入れました。

わたしもこんな方にお会いしてぜひ実際にお話を聞いてみたかったです。

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貴重な情報ありがとうございます (フリーマン大佐)
2020-09-24 21:23:07
エリス中尉殿
この中島氏、今回の記事でシドニ湾攻撃の中馬大尉を「中馬」と呼び捨てにしている記載があり、これはきっと同期だろうと名簿を確認したところ66期に1名だけ中島氏がおられ確定し一人悦にいっていた後、コメントを読んだらしっかり66期と書いてありました。問題は最後まで読みましょうとはよく言ったものです。(^^;)
さて、終戦時の様子、これはなかなか貴重な記述です。
これまで終戦前後の横須賀の様子は高松宮日記から探っていましたが、こんな貴重な記載があるとは、これはおそらく66期発行の「江田島の契り」かと推察いたします。
市ヶ谷の防衛研究所の戦史資料室か江田島の教育参考館にこの資料が保管されていますので、こんど中島氏の記載を是非確認したいと思っています。
こんな貴重な資料を8年も前に探し当てられていたとはさすがです。今回もありがとうございました。また、66期ネタありましたらよろしくお願いします。
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書き忘れ (フリーマン大佐)
2020-09-24 21:27:49
66期は大正6年前後の生まれなので、このブログを書かれた時点で中島氏は95歳前後と思われます。ご存命だったかもしれませんね。
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