ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

インチ宣言

2012-05-21 | 海軍

「ネイヴイーに惚れちゃってどう仕様もない」
の項で、海軍の裏話につきものの「S」つまり芸者さんについて少しお話ししました。

以前「笹井中尉 芸者」という検索で来られた方、ご覧になりましたか?
笹井中尉ら若い士官がどういうSプレーをしておられたか、その片鱗が伝わりましたでしょうか。

今日はさらに核心に迫って、エスさんとインチになってしまった場合のお話を。

あらためて言うまでもありませんが、インチとは英語のintimateの隠語。
お馴染み、中でも「特にお馴染み」となるとインチ認定です。


江田島の海軍兵学校は一切女人禁制。
純粋培養で教育され、万が一「止むにやまれぬ衝動にかられ」てしまったら即刻放校、
という厳しい規則がありましたが、さらに江田島を卒業したばかりの少尉候補生も、
そのジャケットの短さが示すように「まだまだひよっこ」な保護観察期間であるわけです。
彼ら海軍士官が、レス「解禁」になるのはめでたく少尉任官のあかつき。
解禁になったらそこはさばけた海軍さんですから、さっそくレスデビュー。
いきなり彼らはレス(料理屋)に来るのは勿論、ストップ(宿泊)も許されるのです。
ストップとはただ料理屋に泊るだけではなく、あくまでも双方自由意思の上に立ってですが、
エスさんとのお泊りのことでもあります。


ここから士官さんとなれば大手を振ってこれらの遊びOK、となるわけですから、
皆さぞこのときは解放感を味わったのではないでしょうか。

しかし、上の方もかつて来た道。
いきなりめくるめく自由の世界に放り出されて解放感をエンジョイし過ぎた若者が、
決して道を誤ることが無いように、その遊び方も上意下達の御指導御鞭撻が入ります。

あるガンルームで新少尉にお達示された「遊び方のルール」です。

一つ、上陸して料理屋に行くときはケプガン先頭、自分が先頭に立って行く。

二つ、楽しむときは皆一緒に楽しむ。飲みに行くときは一緒に行く。
一人でこそこそ飲みに行くことはしない。

三つ、飲む場所は一流の料理屋、例えば横須賀ではパイン、佐世保ではヤマ(万松楼)
のような所を選び、一流の芸者を呼んで公然と遊べ。
そして、パッと遊んで、さっと引き揚げよ。



艦の夕食は、四時四五分。やたら早いですね。
これは、夕食後上陸があるからです。
兵隊は、夕ご飯を食べてから半舷上陸とか入湯上陸に出かけたりします。
ご飯がやたら早いと、士官としては困ったこともあります。
夜の時間を持て余してしまうのです。
そこで勉強でもすれば立派ですが、凡人の哀しさでついついオカの灯が恋しくなってくる。
そこで

「よし、運動一旒!」と一声。

運動一旒とは、艦隊運動に用いる信号旗のこと。意味は
「我が通跡を進め、旗艦の通った跡をついてこられたし」

この号令で、約十人が背広に着替え、待ってましたとぞろぞろ旗艦の跡をついてくる、
というわけです。

短剣詰襟に萌えるネービー・エスさんはたいそう多かったのですが、
実は、こういうとき、海軍将校はあまり軍服で行きませんでした。
公務と遊びの切り替えをし、心ゆくまで楽しみたいときですね。
しかし、レス用の背広をまず誂えることで、当初少ない少尉のお給料は吹っ飛んでしまった、
といいます。

しかし、勿論パインあたりになるとホームグラウンドですから、軍服でもOK。
夏は二種軍服のズボンはそのままで、上着だけ麻のグレーの背広に着替える、というように
お洒落をしたようです。

全くの私事ですが、去年
「オペラ鑑賞のあと、渋谷ハチ公前で待ち合わせして東●見×録で会合」
というスケジュールは、ファッションTPO的にはかなり上級の応用問題でした。

どちらにも浮かない恰好、というのはこういうとき、海軍さんの様に上着を着替えるに限ります。
二種ズボンならぬジーンズに、ジャケットからカーディガンに着替えて飲み会に駆けつけました。
着る服というのも気分の切り替えには大きな意味を持ちますから。


さて、背広に着替えてレスに到着しました。
芸者さん、つまりSを「玉代」を払って、呼んでみましょう。

芸者を指すSとは、singer、 sister、どちらの意味もあったと言います。
芸者さんを妹のように(まあ、それは若い妓でしょうが)扱っていた、ということでもあります。
芸者たちも士官を「兄さん」と親しみをこめて呼んだそうです。

勿論、酒の席につかの間の交わりを持つ男女ですから、親しくなり、好き合うこともあります。
これをインチと言い、士官の方ではその妓の了解を得てから、なんと
「インチ宣言」
をするのだそうです。
つまり、公認の仲を宣言するのです。

これは、主に士官同士のトラブルを未然に防ぐ意味が大でした。
公認にすることで、たとえば彼女はあいつのインチだ、と皆でそれなりに気を遣うわけです。
しかーし。
芸者の方は、それが商売ですから、インチを一人の士官に限る必要はありません。
何人ものインチを持っている売れっ子芸者などは、連合艦隊が入港したりすると、
インチ士官同士がバッティングしてしまいます。

これをコリジョン(衝突)と海軍では称しました。

しかし、そのあたりは粋を旨とする海軍のこと、お互い何となくそれを察し、女中さんが
「今日は誰だれが来ているから・・・」
と言うと
「ああそうか、じゃあ今日は豆太(仮名)抜きで一杯だけ飲んで帰る」
などと、実にあっさりしていました。

Sを取り合ってトラブル、なんて野暮は、
スマートをモットーとする海軍士官にとって最も恥ずべきことであり、
のみならず若い士官は「インチは(本気の恋愛ではなく)あくまでも料理屋での遊びである」
と厳しく教育されていたのです。


エスプレイ(芸者遊び)に熱心なのは、しかし、遊び解禁になった少尉と、せいぜい中尉まで。
中尉の二、三年目で皆大抵結婚しましたから、
一般的には、大尉になってまで「レス交じり」はあまりなかったようです。

そして、大佐、将官くらいになると、またレスに来るようになる。
しかし、この頃はどういうわけか年頃のSよりも、「ハーフ」といわれる半玉、
つまり15、6の、まるで孫のような妓を侍らせだします。

もう、こうなると色恋沙汰というより
「若い子はええのおー」
という、何と言うか、回春剤のような役目ですね。
そういうハーフちゃんを膝の上に乗せたりして愛でるのです。

本日画像のパイン芸者衆の一人、栄香さんも、半玉時代は皆の膝で可愛がられました。
つぶし島田に結っていると「なんだ貴様、髪もつぶして、顔もつぶして」とからかわれたそうです。
きっと可愛くて放っておけないタイプだったのでしょうね。
野村吉三郎大将のお座敷で居眠りしてしまい、
大将に眠ったのを自宅に連れて帰ってもらったこともあるそうです。

また酒豪で聞こえた米内長官はパインで芸者と飲み比べをして、
酔いつぶれたその妓に膝枕をしてやったとか。
(聯合艦隊司令長官山本五十六では、米内長官を女好きであるかのように描写しています)
みんな、余裕で遊んでるなあ・・・。

ところで、実際にそうやってエスプレイをした士官はどんなふうに往時を回顧しているのでしょうか。

「今の世の中の男女関係とは違ってましたね。雰囲気が。
ほのぼのとしたものがありましたね」


「何か豊かさがありましたですよね。殺伐としてなくて、
本当に、何とも言えない暖かさがあって」


そこで彼女の酌に心行くまで飲み、論じ、語り合い、歌うというのは、
彼ら士官にとって至福のひとときでもあったのでしょう。


士官のレスでの「お支払」についても、またそのうちお話ししましょう。




映画「最後の特攻隊」

2012-05-17 | 海軍




白黒映画なのでてっきり1960年代の映画だと思っていたら、1970年度作品。
タイトルの後、いきなり

「この物語は宇垣纏中将とはなんら関係ありません」

とお断りがでます。
最後の特攻、というと宇垣中将を思い浮かべてしまう人が多いのは分かるけど、
何のためにこんなに大書きしなくてはいけなかったのでしょうか。
なにか、関係筋からのクレームでもあったんでしょうか。
それとも「宇垣中将の映画だと思って観に行ったのに、騙された!」
と騒ぐ人に向けての予防策でしょうか。

そんな不穏さを感じさせる波乱の出だしです。

「連合艦隊」のような豪華セットや鳴り物入りの宣伝があったわけでもなさそうなこの映画、
全ての予算をキャスティングにつぎ込むべく、豪華男優陣が登場しています。
どれくらい豪華かというと、当時すでにスター級の俳優が、ほとんどチョイ役扱いされていて、
名前だけ見ると「これ誰?」って俳優があまりいないというくらい。
笠智衆が、宗方大尉の父親役でちょいと顔を出したりしています。

その他、JJサニー千葉こと千葉真一、菅原文太、渡瀬恒彦、梅宮辰夫
千葉真一なんて、一体どこに出ているのかさえわからないくらいの扱い。
当時売出し中だった渡部篤史は、準々主役といった役どころですが、
ちょうど同時期に「海兵4号生徒」で、はつらつとした兵学校生徒を演じた渡辺が演じるのは、
母親を置いて死ぬことができない「悩める特攻隊員」。

そしてこの映画は、特攻隊の隊長、宗方大尉(鶴田浩二)の姿を通して、
そんな若者に特攻を命じなければならない者の苦悩を描きます。

航空隊に新しく転任してきた矢代中尉(高倉健)は、実は前司令、矢代中将の息子。
特攻に反対しながらも、それだからこそ自らが真っ先に出撃した父矢代中将の遺志を継いで、
自らも特攻隊を志願します。
国のために死することを最初から目的としている矢代中尉の目には、
父が出撃したときの直掩隊隊長でありながら、自身が生きて帰ってきたうえ、
零戦の故障を偽って特攻を免れた吉川二飛曹(渡辺篤史)を庇う宗方大尉のやり方は
全く納得いきません。

宗方大尉は「覚悟ができていない者が行っても失敗するのがオチで、
そんな死に方をして命を粗末にするべきではない」と考えているため、
吉川二飛曹のような隊員の心情を冷徹に看過することが、どうしてもできないのです。

それは宗方大尉が、軍人として死ぬ覚悟ができている一方で、また自分の心の裡にもある
「生への執着」「死への恐怖」を素直に認めているからでもあるのでした。

そんな温情を、若い矢代中尉は「卑怯」として見ることしかできず衝突を繰り返しますが、
吉川二飛曹の零戦に故障が無く、宗方大尉がテスト時に結果を偽って彼を庇っていたことで
二人は殴り合いになります。(画像)

これ・・・・。
理由はどうあれ大尉と中尉が、下士官兵の前で殴り合い。
飛行長が「士官が下士官兵の前で殴り合いをするとは何事か!」って怒っていましたが・・・、
いくら大尉が「かかってこい」と言ったからって、挑発される中尉なんて、いるかしら。

その殴り合いを見ながら
「お前のせいで二人はこんなことになっているんだぞ!」
と吉川二飛曹を叱りつける整備下士官、荒牧上整曹(若山富三郎)
整備の腕に自信ありで、部下に秘所の病気の手当てをさせるような「牢名主」的オヤジですが、
吉川二飛曹のダメダメぶりはきっと「遊び」を知らないからだ!とばかり、
無理やり酒を飲ませ、女郎屋に引きずって行く「男塾指南」で何とかしてやろうと張り切ります。

しかし、吉川二飛曹が特攻を怖れる全ての原因は、眼の見えない老母に対する愛情ゆえのこと。
脱柵して自殺まで企てた吉川二飛曹ですが、宗方大尉の尽力によって隊に戻ることになり、
謹慎中の空襲の際、事故機を駆って邀撃にあがったものの、自爆戦死します。

この隊に特攻志願して新しく赴任してきた堂本予備少尉(梅宮辰夫)は、
飛行下士官に偶然兄堂本上飛曹(山本麟一)がいることに驚きます。
弟を大学にやるために給料の多い飛行機乗りになった兄。

弟は歴戦の搭乗員で、撃墜王とまで言われた兄が、飛行兵に向かって
「偶数番号は前に!前列は明朝マルハチサンマル特攻出撃!」
と命令するのにショックを受け
「あれじゃまるで品物扱いだ」となじります。
しかし、兄には彼なりの理由があるのです。

「お前が俺の立場だったらどうする?
一人一人の家庭の事情を聞いて、懇々と説得するのか?
お前たちのように大学を出た予備学生と違って、相手は自分の意見さえろくに言えない、
まだはたち前の子供だ。
誰もかれも親にとってはかけがえのない大事な息子だ。
お前はあの中から、何を基準にして選び出すつもりだ?

一人一人の名前を呼んでみろよ。
返事をされてみろよ。
それだけで胸がいっぱいになって、とても命令なんて出来やしねえ!
何時かお前に言ったろう。
戦争に学問や知識は役に立たねえって。
俺は長い軍隊生活で知ったんだ。
命を捨てるか、心を捨てるか、どっちかを選ばなければならねえってことをな」


荒牧上飛曹の達した境地に、言わば宗方大尉は到達し得なかったということでしょうか。
宗方大尉が吉川二飛曹の死をきっかけに和解した矢代中尉の直掩に飛ぶ日がきました。

愈々のとき、銃撃で眼をやられた矢代中尉を、
敵艦に体当たりさせるため誘導する宗方大尉・・・。


ところで、特攻に出撃する何人かが、飛行場の扉を破って乱入してきた家族たちを見て、
はっとするシーンがあります。

 

これ誰ですか?
伊吹吾朗、右菅原文太

 

左、街田京介?右は

冒頭、俳優陣が豪華すぎると書きましたが、このキャスティング、少し、というかかなり不思議。
なんだか、主演の士官たちが落ち着きすぎてるんですよね。
だいたい、二人とも大尉と中尉にしては老け過ぎではないか?
当時、鶴田浩二46歳、高倉健39歳。
本来二人とも佐官の年齢ですよね。

いくらエイジレスが俳優の本領といえども、この年齢で終戦時の大尉中尉、
終戦時は進級が早かったのでせいぜい大尉でも27歳程度の士官を演じるのは、
無理っていうか、不自然な気がするんですが・・・。

まあこれは、当時「男は黙って・・・」で人気絶頂、渋い高倉健と、実際海軍士官であった鶴田の、
「最後の特攻映画」として、無理を(かなり)押して企画されたと考えれば納得いきます。


戦後、海軍軍人であった俳優鶴田浩二に「特攻崩れ」という噂が立ちました。
特攻崩れとは、生きて帰ってきた特攻隊員が、世間の目や、「俺は一回死んだ身」という
デスペレートな価値観から、ともすれば反社会的分子となって世間に白い目で見られたという、
戦争の哀しき忘れ形見のような存在です。
本当に特攻隊員でなかった者が、しばしば己を誇示する為にそう偽るケースも多かったようです。

勿論、鶴田に対して投げかけられたこの言葉が、好意的であるはずはなく、
このことはかれの俳優としてのイメージさえも大きく損なうものとなりました。

実際に整備士官であった鶴田は特攻隊員でもなかったわけですから、
これは映画関係者から生まれたと思しき「ヒール的アオリ」のようなものではなかったかと
今では言われているようですが、
鶴田はこのバッシングと、元特攻隊の生存者たちの抗議に対し一切抗弁せず、
「黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、
日本遺族会にも莫大な寄付金をした。
この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった」
(ウィキペディア)
という話があります。


直掩から帰ってきたその日、終戦を知った宗方大尉は、止める飛行長を振り切って、
たったひとり、最後の特攻へと出撃していきます。
1945年、8月15日の燃えるような最後の太陽に向かって。

全編白黒映画のこのラストシーンだけが、カラーで撮影されているのが印象的です。

あらゆる戦争映画の中に鶴田浩二の姿を見てきましたが、
この映画における演技には、彼自身の見送ってきた特攻隊員への、
身を裂くような哀切の気持ちと、鎮魂がこめられていると思えます。

矢代中尉の突入を見届けた鶴田浩二の目から、ほとばしるように流れる涙を見て、
ただの演技者のそれではないと感じるのは、きっとわたしだけではないでしょう。








海の男の洗濯任務

2012-05-15 | 海軍

     

皆さん、洗濯はお好きですか?
好きも嫌いも、洗濯ものをぽいっと洗剤と共に放り込んだら、後は皆洗濯機がやってくれるので、
歯磨きのようにルーチンとして何も考えずにやってるよ、という方がほとんどでしょうか。

わたしもその一人ですが、それなりのこだわりもあって、
「新聞の勧誘が配るようなア●ックやア●エールなどの合成洗剤は断じて使わない」
「EM発酵物質でできた洗剤の働きをするモノ(マザータッチ)を使う」
というもの。

環境に優しいマザータッチは部屋干ししても決して臭ったりしませんが、
襟袖の汚れが取れませんので、予備洗いが必要です。
そして無臭なので、時々ファブリックミストを入れて、かすかな香りを楽しみます。

こだわっているといっても、家事のうちに入らないほどお手軽。
本当に良い時代になったものです。


電気洗濯機が日本で販売されたのは1930年のことです。
一般家庭向きに製品化されるのが戦後1953年(昭和28年)のことですから、
一台あたりの値段が高かったとはいえ、さすが最新先取の海軍、洗濯機搭載のフネもありました。

戦艦、巡洋艦(妙高型、高雄型、最上型、利根型)航空母艦、水上機母艦(千歳型)、
潜水母艦(韓崎、駒橋除く)特務艦間宮

こうしてみると結構な数のフネが洗濯機を乗せていたようですが、
全体の数から言うとごくごく少数派。
ほとんどの日本の主婦がそうであったように皆洗濯は手で行っていたのです。

映画「ああ江田島海軍兵学校」には、兵学校の洗濯シーンが挿入されています。
もちろん冬でもお湯など出ませんから、水道の蛇口の下にオスタップ(wash tub=洗濯桶)
を置いて手でごしごしやって、手で絞って広げて干すわけです。

干す時はしっかりパンパン叩いて皺を伸ばして干すと、乾く頃にはアイロンをかけたように
ピンと伸びています。今も昔もこれは同じ。

アメリカに住んでいると、どこの乾燥機も馬鹿でかいので仕上がりが良いのですが、
日本の乾燥機はどうしても丸まってシワっぽくなってしまうので、わたしは、ほとんどのものは
家事コーナーに部屋干しして、タオルなどふわっとさせたいものだけ、8分くらい乾いたところで
乾燥機にシートと共に放り込んで、仕上げます。

わたしの洗濯はともかく、今日は、洗濯機のないフネの洗濯についてお話しましょう。

フネの規模によっても違ったのかもしれませんが、洗濯日は週に二回。
大型艦では火曜と金曜は洗濯日、と決まっていました。
明日は洗濯、という前の日には全員下着から靴下にいたるまで取り換えて待機。
その朝には当直員が食事の前に洗濯ラインを張っておきます。

フネでは水は貴重品。
洗濯用の水を配給によって受け取るのですが、一人あて二升(約3.6リットル)が割り当て。
しかし、きっちり一人一人が二升ずつもらってくるのではなく、
二升かける分隊の総員数を、隊で手分けして持ち帰り、皆で仲良く使用します。
「水配給!」の号令一下、各分隊食卓番の若年兵が、水配給所までオスタップをかかえて走り、
分隊ごとに決められた露天甲板に運びます。

オスタップは亜鉛製で、高さ40センチくらい、円筒形で、入れ子にして収納できるように、
大(60センチ)中(50センチ)小(40センチ)の三種類がワンセットになっています。
木でできたオスタップもありました。

フネの中で使用される水飲料水は真水ですが、洗濯に使う雑用水は海水を蒸留して作ります。
雑用と言えども無駄にできるものではありません。
こぼさないように細心の注意を払って洗濯場所に運びます。

洗濯板の上に洗濯ものを重ねて乗せ、揉み洗いで水を極力使わずに洗います。
洗濯板の支給されない艦は、甲板が直接洗濯板。
手でこすったり、足で踏んだりして洗い、オスタップですすぎをします。
これも、下士官からで、古参兵、兵の順番はきっちり守られます。
「新三」にたどり着く頃には、すすぎに使うには少し・・・、という状態になっていたそうです。

南洋を航海するフネは、遠くに雨雲を発見すると「雨雲ようそろ」でそちらに向かって舵を切り、
シャワーと洗濯をしたそうです。

このように、なかなか希望通りに洗濯ができるものではないフネの上では、
水を盗んででも洗濯をしたーい!と渇望する潔癖症や綺麗好きが、時には事件を起こしました。

ある艦の食器消毒室の水タンクが毎晩盗まれていることが発覚しました。
バルブを、まるで「あしたのジョー」の白木葉子さんのように、針金で厳重に縛ってみましたが、
減量でへなへなになっている力石徹と違い、元気一杯で水のためなら何のそのの犯人、
たちどころに針金を切ってしまいます。

消毒用ですから、水の種類としては上等のもの。貴重な貴重な水です。

「許さ~ん!医務科の科学捜査力を駆使して犯人捕まえちゃる!」


このタンクの所管は軍医長です。
その日の朝、甲板士官と医務科下士官によってこっそりタンクに仕込まれたのは着色剤。
よくはわかりませんが、おそらく石鹸のアルカリ性と反応して赤くなるものでも入れたのでしょうか。
(リトマス試験紙はアルカリが青、でしたよね?・・・うーん、何だったんだろ)

たちまちホシは挙がりました。
倉庫のロッカー裏の物陰に、赤い下着、赤い手ぬぐい、赤い褌に赤い靴下が、
恥ずかしさに赤面するかの如く干されていたということです。
そして犯人の二水がこの後どのようなお仕置きを受けたのか、それは語る者さえなく・・・。
(合掌)


井上成美大将の比叡艦長時代、従兵がバスタブで洗濯をして、という話をしたことがありますが、
このクラスの偉い人は勿論士官には従兵が付き、洗濯、繕いもの、被服の手入れ一般、
皆やってくれます。
しかし、いくらそれが仕事とはいえ、士官将官は褌まで従兵に洗わせていたのだろうか?
かねがね、気になって仕方がなかったこの一点について書かれた記述を見つけました。

どんがめ乗りの潜水艦勤務について書かれた本で、これによると
「士官は普通は褌は使い捨てだが、ここではそんなことをする士官はいない」

つまり、潜水艦という、フネの中でも身分の上下に差のないアットホームな運命共同体では、
士官も使い捨てにできない褌を始め、洗濯を自分でするのだということなのですが、

そうかー、使い捨てだったのか。

三四三空の菅野大尉が、ここぞという出撃には皆新しい下着で臨むのに、
「また帰ってくるからな」
と言って、本当か嘘かチェンジ無しで出撃していた、という話もありましたが、
何日か着用、洗濯せずにポイ、というのが士官次室士官以上の褌事情だったようです。

下着は他人に洗わせるな、というのが昔の日本人の嗜みというものでしたから、
これを読んでほっと胸をなでおろした次第です。


さて、ドライクリーニングとはご存じのように油で以て油を制す方法、
つまり水では落ちない油汚れを油で落とすクリーニング法です。
これをなんと、当時ガソリンでやっちまっていた部門があります。

整備科です。

余りのガソリンをチンケース(ガソリンタンクを半分に切ったもの)に入れて、
油だらけの作業着を入れ、ちょいちょいと棒でつついて、クリーニング終了。
こんなことにその一滴は血の一滴とまで言われた貴重なガソリンを使っていいものか?

しかし、彼らはそれをよくよく知りつつも「皆でやればこわくない」とばかり、
若干の後ろめたさを感じながらもついついやってしまっていたそうです。


そういえば搭乗員の着る飛行つなぎ、あれも相当ごわごわして、手洗い洗濯が大変そうですが、
一部の噂によると、搭乗員の皆さんは「やたらガソリン臭かった」とのこと。
もしかしたら「ドライクリーニング」してたのかしら、と勘ぐってみましたが、
まさか飛行機乗りがそんなガソリンの使い方をするわけありませんよね。

それに、ドライクリーニングは水溶性の汚れ(汗とか)は落とせないんですよ。
エリス中尉愛用のマザータッチならどちらもある程度落とせますけど。
ご参考までに。










「三笠」を救った人々

2012-05-11 | 海軍



昨年、横須賀にある記念艦「三笠」を訪ねたとき、意外なほどシルバー世代の見学者が多く、
NHKの「坂の上の雲」効果かなあ、と思ったわけですが、
その後、第4部が放映された後、一層訪れる人は増えたようで、なんと先日は
三越お客様対象の「坂の上の雲の舞台を訪ねて!記念艦三笠見学ツアー」
なんてプランを見つけてしまいました。

あの番組の放映によって「日本海海戦」「東郷」「秋山真之」「広瀬中佐」「バルチック艦隊」
こんな言葉に魅かれた人々が、ドラマに描かれたころの痕跡を求めて立ち寄る場所がある。
記念艦「三笠」の存在は、まさに我々にとって歴史的遺産です。

今でこそその姿を静かにそこにとどめている「三笠」ですが、ここに至るまでに、
なんどもその存続については危機が訪れています。
前回三笠について書いたときに、敗戦後、ソ連政府によって、バルチック艦隊に屈辱を与えた
三笠を廃棄せよという申し出があったこと、そしてその後も進駐軍によって、
水族館や「キャバレー・トーゴー」などの遊行施設となる辱めを受けたことをお話ししました。

このとき、戦後の三笠を救ったのは、この惨状を見た
イギリス人の新聞記者ジョン・S・ルービン
でした。
若き日に時計を扱う商人であったルービンは、日本の回航員を相手に商売をするうちに、
日本の将兵と親しくなりました。
イギリスで建造中の三笠の姿を知っていたルービンは、1902年、三笠がイギリスの港を
辞するとき、艦影の霞むまで埠頭に立ちつくして涙ぐみ、別れを惜しんだと言われます。

日本を敵国と呼ばなければならなかった第二次世界大戦中、
ルービンの住居に飾られていた三笠の写真は、ひっそりと奥にしまわれこそしましたが、
平和な世になり、新聞記者として日本を訪れることになったルービンは、
旧友、いや、恋人に会うような気持で、横須賀の「三笠」との再会を果たしました。

彼はそこで半世紀の間脳裏にあった三笠に接し、アドミラル・トウゴウの霊に語り、
日本破れたりといえども、三笠と東郷の精神ある限り、
大国への復活もまた速やかならんことを祈ろうとしたのでした。

・・・ところが。
そこに三笠は見えませんでした。
再び探すと、そこに裸になって残骸を横たえている三笠がありました。
執拗なソ連の要求によって、マスト、砲塔、煙突、艦橋を撤去された、まるで河馬のような三笠が。

憤然としたルービンは、筆をとり、火を吐く激しさでジャパン・タイムズにこれを訴えます。
日本人はこの国辱的仕打ちを看過するのか。精神まで汚されて平気なのか。
日本人の忘恩と無自覚を問責したこの記事が書かれたのは、昭和30年のことです。
これを見て、アメリカ人ハロルド・ロジャース、オーストリア人ボール・ド・ジャルマスイが、
その文責で
「三笠の復活は日本国民の精神復興の試金石である」
と説きました。

アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官、チェスター・ニミッツも、三笠を救った一人です。
「出てこいニミッツ、マッカーサー」
と、鬼畜米英の象徴として戦中の日本国民にその名をうとまれたニミッツですが、
もともと彼は若き士官候補生時代、日露戦争の戦勝園遊会で東郷元帥と握手し、
言葉を交わして以来の熱烈な「トーゴー・ファン」。
アメリカ軍のアジア艦隊旗艦の艦長として、東郷の葬列にも参加しています。

ニミッツは自著の売り上げを原宿の東郷神社再建や、三笠の保存のために投じ、
さらに保存会の立ち上げに奔走し、米海軍にも協力を呼びかけました。

ルービン氏が国内に、かつて三笠の回航員であった日本人に呼び掛け、名乗りを上げた中に、
退役後学習院の院長として、その人柄を広く慕われた海軍大将山梨勝之進がいます。
山梨とルービンのつながりを示す文献は見つかりませんでしたが、23歳のときに回航員として
英国に二年渡り、のちに英国から「サー」の称号を受けた山梨の若き日が
「時計商人ルービン」の親しかった回航員ではないかなどと、ふと考えてみます。


話は遡りますが、ここまで三笠が荒廃したのにはこんなわけがあります。
昭和23年、三笠を観光用に使うことが、米軍と横須賀市の間で話がついて、Sという会社が
引き受けて経営することになりました。
この社長もまた元新聞人であって、三笠の廃棄を惜しみこそすれ、
この記念艦を汚そうなどとは思っていませんでした。
しかし、S社は、逼迫した会社の経営のために、背に腹は代えられずというところでしょう、
艦上の鉄類をはぎ取って売却したと言われています。
S会社が、観光遊覧を生業とする個人の会社であることが裏目に出たというわけです。
軍艦の神聖維持など二の次三の次、というわけでついには三笠は、
ダンスホール、映画館として利用されることになってしまったのです。

「バー・トウゴウ」「カフェー・カトウ」は、さすがに悪質な風評ではあったようですが。

日本が独立後、昭和27年に、三笠は大蔵省の財産目録に加えられました。
そこで国の庇護のもとに入るかと思われた三笠ですが、実際は大蔵省は、三笠の艦側に
保全されていたマスト、砲塔、煙突、艦橋の鉄類が、スクラップ業者に売られていくのを
阻止することをしませんでした。
知らなかったのか、知っていて(何らかのキックバックをもらって?)見逃したのかは、謎です。

時は朝鮮戦争のころ、クズ鉄の値段が高騰し、戦艦に使われた高品質な鉄材を安価に
払い下げたこの業者は、さぞぼろ儲けができたことと想像します。

いずれにしても、ソ連の要請により取り外されたものの
「いつかその時がきたら復元するために」と梱包して保存していたオリジナルの部分は、
日本人みずからの手によって永遠に葬り去られてしまったのです。



日本海海戦において輝かしい武勲を飾り故国に凱旋してきた三笠。
日露戦争から一年後の1905年、佐世保港内で弾薬庫の爆発のため沈没します。
死者339名(多くが軍楽兵)を出す大事故でした。
その後、ウラジオストックで、今度は座礁して、満身創痍となって日本に帰ってきました。

次いで1921年(大正10年)、ワシントン会議の結果、三笠は廃棄処分が決まります。
このとき廃棄になったのが香取、薩摩、安芸、摂津、生駒、伊吹、鞍馬など。
三笠の主要部分は着々と取り外しが進み、あとはスクラップになって溶鉱炉行き、
というところで、「三笠保存運動」が起こります。

この中心になった人物というのが、不思議なことにこれもまたジャパン・タイムズの関係者。
アメリカ在住が長く、日本語より英語の方が上手いといわれた、元社長芝染太郎氏その人です。
氏は長い間ハワイで新聞社の社長として活躍した人ですが、母国を離れたからこそ、
生まれた国の良さを知ることになった、烈々たる愛国者でもありました。
(僭越ですが、わたしも日本を離れていた時期に日本の良さを知った口です)

日本海海戦の旗艦であった三笠を、歴史の証人として保存すべく、芝は立ちあがります。

「トラファルガル開戦のヴィクトリア号も、南北戦争のコンスティチューション号も、

皆記念艦として大切に保存されているのに、等しく嚇嚇たる武勲に輝く我が三笠だけが
無残にもスクラップ・ダウンされるなどという不合理なことがあってよい筈はない」

芝は毎日のようにこういう論陣を張って、自分の新聞で啓蒙に努めました。

そして、内外の賛同者の意見を紹介し、世論の喚起に懸命の努力をしたのです。
その熱意は人々を動かし、東郷大将が芝社長を訪ない、意見を交わすこともありました。
芝の不退転の熱意はついに天に通じ、スクラップ寸前の三笠は廃棄処分を免れ、
晴れて記念館として永久保存することが決定したのでした。

芝に対して、この功績を称えるための叙勲が打診されました。
しかし芝は
「私は日本人として当然の務めを果たしただけなので、叙勲など滅相もないことです。
それに、一介の民間の新聞人は新聞人らしい無位無勲が似つかわしいと思いますので」
と固辞し続けました。

その態度にいたく感銘を受けた東郷大将は、非常に大きな三笠の写真に、例の

「接敵艦見之警報
欲聯合艦隊直出撃撃滅之
本日天気晴朗波高」

「皇国興廃在此一戦
各員一層奮闘努力」

の言葉を墨痕も鮮やかに大書して署名花押し、贈呈しました。
老提督と芝社長は感激して上気し手を取り合ったということです。

そして、その後前述の、屈辱のときをくぐり抜けた三笠でしたが、
またしても危機が訪れます。

記念艦として一時仮据え付けをしたものの、最初の設置場所の海底の状況が悪くて、
現在据え付けてある位置まで移動させる必要に迫られました。
しかし、長年の就役期間に度重なる爆破、座礁、地震(関東大震災のとき岸壁に衝突)のため
損傷、腐食、漏水が甚だしく、浮揚移動させることが難しく、ヘタすると沈没の危険もあり、
艦橋だけ残してあとはスクラップ、という話がでます。

しかしながら、横鎮参謀長、宇川少将(日本海海戦参加者)や港務部員らの苦心によって、
滞りなく現在の位置に据え付けることができ、ここでも三笠は救われます。

そして冒頭の終戦後の荒廃が「二度あることは三度」目の危機であったわけです。


たくさんの人々の熱意と努力によって存えた三笠は、いまはそのかつての雄姿を埠頭に留め、
軍艦旗は今日も横須賀の空に翩翻と翻って、往時へと訪れる人々をいざなっているのです。







映画「パール・ハーバー」間違い探し第一次攻撃

2012-05-06 | 海軍

あまりに書くことが多い「パール・ハーバー」、全くネタの宝庫でした。
今日は、最初から書くのを控えていた「あまりにも奇妙な日本軍と日本人」の描写について、
思いつく限りの突っ込みどころをたんたんと列挙していくことにします。

ところで、冒頭の赤城から出撃した日本機の映像なんですが・・・。
ここでやる気を失っては先が続かないのですが、一目見ただけで目が点に・・・。
まず、これは編隊飛行なんでしょうか。
先頭は緑色ですが、零戦?
二機は97式艦攻?

零戦だとしたら、これは52型ですよね?
97式艦攻だとしたら、真珠湾攻撃に参加した淵田少佐の乗り機、三号型は緑色だったはず。
零戦もこの時はまだ21型で、緑ではなかったはず。

それよりなにより、どうしてこんないろんな色の飛行機が編隊を組んでいるのか?
艦攻二機は小隊長機のマークをつけているし・・・。

 この映画には、プレインズ・オブ・フェイムで保存されている零式艦攻五二型の実機と、
ロシアで復元された二二型の飛行可能なレプリカ使用されています。
つまり、実機を飛ばしているわけで、その意気やよし、なんですが、いかんせん実際に
攻撃に参加した零戦とは色からして全く違っているという・・・・・・。

この件に対してのマイケル・ベイの言い訳。

「零戦のイメージは、緑だから」

おい・・・。
イメージっていうより、飛ばせる実機がたまたま緑だったからじゃ?

このいい加減さは、軍事考証のみにとどまるものに非ず。
この映画がちゃんと史実を描いてリアリティを出すことを放棄していることは、同時に
マイケル・ベイの学校時代の成績をいたるところで如実に表わす結果になっており、
本人にとってこの映画を撮ったことは生涯の汚点となって、
これからも彼の評価を落とし続けることを確信するものです。

 

日本公開のときにここで大爆笑にならなかったんでしょうか。
わざわざ松林のゴルフ場に風よけにも日よけにもなっていないおかしなテントを立てて、
しかもでかでかと馬鹿でかい字の(しかも白抜き)スローガンの幟を・・・・。

「尊王」「憂国」「皇国」これはまあ意味は分かるとして「勇我」ってのは何ですかい?
あんたら、現地の中国人スタッフにこの幟作らせましたね?

そして、なにより、この見張の兵隊の佇まい、これは何ですか?
何でこの兵隊はこんな股下の長い、みっともないサルエル・パンツを着用しているんですか?
そして、脚を開いているのはまあいいとして、なぜ銃口を手で握りしめているのですか?
そもそも、この軍服は、海軍兵でも陸軍兵でもなく、まるで中国兵ではないですか?
あんたら、現地の中国人スタッフにこの衣装を(略)



日本軍が作戦会議を野っぱらでしている横には、着物の子供たちが、
妙な形の凧をあげて遊んででいます。
この凧は・・・日本のものじゃありませんね。
あんたら現地の中国人に(略)



いろんな映画評でやり玉に挙がっていた不思議な大本営会議の図。
まず、この妙な形の中国式鳥居の下に海軍旗を吊るしている表現を、マイケル・ベイはどこで
インプットしたのか。
少しわかりにくいですが、皆が見おろしているのはプールで、そこには船の模型が浮かんでおり、
褌に海水帽を被った兵が、その舟を手に持った棹竹で動かして、会議をしているという・・。
そして、プールの正面には黒々でかでかと

「軍極秘」

ってあなた・・・・。これ、誰に向かって表明しているの?「軍極秘」。
そもそも軍極秘なら、子供が凧上げしている野外で会議はせんだろうと。

この最大に皆に突っ込まれていた会議シーン、なぜこんなことになったかについては面白い
話が(全く面白くはありませんが)ウィキペディアにありました。

戦時中に制作された「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)の特撮中の宣伝用スチル写真
(特撮用プールに入り、攻撃を受ける米戦艦の模型を準備している)を見て、
作戦会議の写真だと勘違いしたものと推測されている



山本長官を演じるのはマコ岩松。日系の役者です。
昔「ソニーがアメリカに攻め込んで~」みたいなミュージカルをやってたような気がしますが、
69歳のマコ、しわくちゃで貧乏くさく、さらにわざわざカメラは室内では下からライトを当てられ、
実に老獪そうで老醜の山本司令を日本語も怪しく演じています。
司令部の日本人は全て選んで、どうしようもない爺さんばかり。
アメリカ側はドゥーリトル中佐を始め、キンメルですらムンムンなばかりに精力的で、
しかも、真珠湾のあった12月にもかかわらず夏の白い軍装でパリッと登場。

日本側のあくまでも地の底から呪術でも行いそうな不気味な描写は徹底しており、
この対比の持たせかたに何の悪意も感じられないのなら、あなたはこの映画の意図を
全く理解していないと言わざるを得ません。



日本海軍の、老人ばかりを使った(平均年齢70くらい)シーンの後にくるのがこれ。
これなど対比の意図が露骨過ぎて、怒りで体が震える気さえしました。
美しい娘たち、彼女らを歓迎してデッキを走る水兵たち。

日本人に対する露骨な人種差別を押し出していることへの言い訳として、この映画は
どうでもいいところにやたら黒人の出演者を挿入して、アリバイを作っています。
アリゾナのコックで、艦長に信頼される水兵(黒人で初めて賞をもらったらしい)。
ルーズベルトの車いすを押しているのが黒人の執事。
前者はともかく、これ、実話ですか?
人種交配論をぶち上げ、実は差別主義で公民権運動勃興の妨害をしたルーズベルトが、
自分の車いすを黒人に押させるとは、とても信じられないのですが・・・・。

この頃のアメリカでの黒人差別は半端でなく、そもそも人間扱いすらされていなかったはず。
そして虐げられていた黒人社会では「日本人が白人をやっつけた」と
むしろ真珠湾を喜ぶ声もあったというくらいだったのですが、
この映画における世界では、アメリカは人種差別をしたことは無いと言い張っています。
この、ディズニーの世界では。

実は、あれからドナルド・ダックが日本軍をせん滅させて大笑いする動画を見つけてしまいました。
戦闘機に旭日旗がついているので、ディズニーも言い訳できません。
ある意味「東京上空30秒前」より露骨で、現在のディズニーの見せている顔が
全く信用できなくなるしろものです。

だからわたしはディズニーが嫌いなの。
戦時中はこうやって、子供に人種差別を刷り込んでいたことを隠し、
平和になったら素知らぬ顔で、愛だの友情だの、お安い理想社会を売るディズニーが。


そして、この映画は、ディズニーらしく、こうやってアリバイ操作をしながらも露骨です。
このありえない前時代的な日本軍の姿、敢えて醜悪な人選をしたとしか思えない司令部、
(トラ!トラ!トラ!の山村聡のような男前など意地でも使うもんかという意志が見えます)
スパイの日本人は、とても日本人に見えない、しかも佇まいの醜いしわくちゃの爺さんで、
加えてこのろくに考証をしていない日本軍の総じてカッコ悪いことといったら・・・。

「トラ!トラ!トラ!」における日本軍のシーンがやたら凛凛しく、何も知らない息子すら
「かっこいいよねえ」とつぶやいたという、あのような描写はここでは全く無視されます。
(スタッフは絶対にこの映画を観ていると思うのですが)

どこかで、「この最低の映画の良い点とは」という問いの答えに
「あまりに酷いので、他の戦争映画、ことに『トラ!トラ!トラ!』の評価が爆上がりした」
というのがありましたっけ。
あれもあれで、いろいろとあったようですが、このアメリカ側のファンタジーだけで作られた、
奇怪な映画に比べると、超リアリズムに思えてくるから不思議です(笑)

意外と?書くことが多くて、間違い探しを一回で終わることができませんでした。
残りは第二次攻撃に回します。



それにしてもこれ・・・。
レイフがイヴリンの気を引こうとして「6時間かけて作ったんだ」と手渡す折りヅル。
ここでなぜ使われる小物が「オリガミ」なのか?
わざわざ日本伝統のものにしたのか?
しかも、この折りヅルは、6時間かけた割に作り方が間違っていないか?

仕込みも小物の製作をするスタッフにも日本人など勿論一人もいなかったってことですかね。


(怒りを貯め込みつつ続く)


映画「パール・ハーバー」の恋人たち

2012-05-05 | 海軍


続きまして、「パール・ハーバー」です。
昨日、大上段から「911に向けての民意懐柔の準備ではないか」
などと書き殴ってみましたが、まあ、あまり本気になさらずに。

アメリカは常にどこかと戦争している国。
国としては、戦い続けることに国民が疑問を持たないような安直なアメリカ正義論を、
常にエンタメに紛らせて投入しておく必要があって、この映画もその目的で作られ、
たまたまそれが911の直前になっただけのことかもしれませんし(棒読み)

もう少し問題を卑小に見れば、この映画を製作したのはディズニーです。
どうせ失敗するだろうと日本におけるディズニーランドの経営権を、本国ではなく
オリエンタルランドに丸投げして、蓋を開けてみたらその大成功ぶりに歯ぎしりをした、
あのディズニーです。

日本人はディズニーが好きですが、ディズニーは日本が好きじゃないのです。これ本当。

「ライオン・キング事件」(手塚治虫のジャングル大帝を丸ごとパクった)をご存知ですよね?
なぜか、やたら中国を持ちあげていたムーラン、そしてこの「パール・ハーバー」。

強烈なレイシストで、反共産主義、反日思想の持ち主であったウォルト・ディズニーの、つまり
創業者の意志を受け継ぎ、ついでに当時ビッグな市場として今後の中国に資金投入するための
意向をくんだ自然な流れ、と観ることができるかもしれません。

つまり、国家というより「ディズニーの反日映画」なのだと。

ウォルト・ディズニーは、第二次世界大戦中や冷戦中、自ら版権を持つキャラクターを
軍や政府に無償で提供していましたし、当時製作された映画にはミッキーマウスが戦闘機に乗り、
零戦を射ち落とすシーンもあるそうです。(・・・・観てみたいけど)

ディズニーランドの日本進出に手を出さなかったのも、
「ウォルトが生きていたら絶対に反対した」という一事によるものだとわたしは思うのですが。

さて、今日は政治関係の話をそっちに置いておいて、この映画の人間模様について。

え?こんなどうしようもない恋愛ドラマの話なんぞ聞きたくない?
まあそう言わずに。

評判、悪いです。
ヒロインのイヴリン。
彼女の美点って、まず、なんですか?

美人?

おそらく、レイフもダニーも、彼女の美貌が好きだったわけです。
レイフは彼女に一目ぼれして、もう一度診察してもらうために人のカルテを使って診察を受けます。
ありがちなアメリカン・ムービーの手口です。
おかげで、お尻を彼女に見せる羽目になり、注射を二本もばっつりと打たれます。
そしてこの看護婦のイヴリンも、男が実はどんな奴なんだか、何にも考えちゃいません。

ただ目の前に現れては注射の作用で昏倒したり、シャンパンのコルクを鼻にぶち当てて泣く、
という間抜けぶりを披露する男に、いきなりキスを、それも自分からするのです。

このあたりがまずもってとんでもなくカルい。待ってた感満載です。

軍に看護婦として勤務することを、他の看護婦連中もそうですが、
「アーミーのボーイフレンド探し」程度にしか思っていない、という感じです。
取りあえず、あたくしの美貌に引っ掛かってきた気の良さそうな男がいたのでゲット、みたいな。

おまけに、恋人と元恋人がそろって東京空襲に参加することになったとき、この看護婦のしたこと。
自分が真珠湾攻撃のときに助けた通信将校に、
「ドゥーリトル隊の情報がわかる部署に連れて行って」と頼み、相手が渋ると、
「あなたの激動脈を指でつまんで止血をし、命を救ったのよ!わたしは」

・・・なんなんだこのヤクザ看護婦は?
自分の当然の任務を恩に着せて強請るつもりですか?
あなたは何のために看護婦になり、何のために任務に付いているのですか?

この、恋愛至上だか何だか知らないけど、公私混同を当たり前のようにやってのけるなど、
実際の従軍看護婦への侮辱でもあるし、こういういい加減さを何より嫌う日本人には
全く共感のできないシーンだったのではないでしょうか。


さて、このレイフとイヴリン、出会いがそんななので、愛したの何のと当人たちが言っても
「しょせんお尻がかわいかったからだろ」
程度の意味しか、この恋愛には認められないのです。
いや、実際の恋愛も、こんな他愛の無いものが大半なんでしょうけど。

だから、レイフが戦死したとたん、声をかけてきたレイフの親友ダニーをコロっと好きになります。

またこの映画の恋愛表現が、お定まりのアメリカ映画の踏襲。
わたくし、「愛している」なんて主人公がまじで言いあう映画を久しぶりに見ましたよ。
そして、後ろめたさもあって、なかなか素直になれない女を、男はもうひと押しするため、
軍規を破って無断で上空飛行に連れ出すのです。
戦闘機で。(げんなり)

所詮お尻でふらふらするようなレベルの女ですから、飛行機なんぞに乗せた日にはもうイチコロ。
見つからないように二人でパラシュート倉庫に逃げ込んだあたりでこの後の展開が読め、
(スリルがまた女を大胆にさせるってね)お約束のラブシーンが始まった頃には、
もう百回くらい観た映画のような気さえしてしまいました。

まあ「バック・ドラフト」の消防車のホースの上、みたいなラブシーンが欲しかったんでしょうねえ・・。


そんなこんなで大はしゃぎしていると、生きていたレイフが欧州戦線から帰還。
生きていたとはお釈迦様でも知らぬ仏のレイフ登場。
三すくみの三人。

いちばんここで可哀そうなのはレイフくんでしょう。
かれにしても、彼女のどこに惹かれたかと言えば綺麗だったからとしか言いようがないけど、
それにしても、こんなにあっさりと自分のことを忘れて、しかもちゃっかり親友とくっつくような、
その程度の女であった、と知ったことが最大のショックだったと思われます。

でも、レイフくん、これは仕方がないのよ。
イヴリンにとっては男性はこの世を生きていくための大事な命綱。
切れてしまえば次のを探すしかないのですよ。
ちょっと忘れるのが早すぎるけど、そんなこと言ってたらチャンスは無くなってしまうし。

可哀そうなレイフ、自分が彼女のことを思って、最後の夜を共にしなかったのに、
ダニーの野郎はしっかり彼女を妊娠までさせたことを知り、二重にショックを受けます。

いや、これは怒っていいよ。

「死んだと思ったから」っていうのは、実に狡猾な言い訳に過ぎない。
レイフのことをネタに盛り上がってしまった、ただし本人の意向はあっちに置いておいて、
というのが本当のところですからね。

男性二人が三角関係で殴り合ったりしていると、おあつらえ向きに真珠湾攻撃が起こり、
問題は一時棚上げに。(もしかしてそのための『パール・ハーバー』?)
この際二人で日本機を多数撃墜したので、ドゥーリトル大佐からスカウトされ、東京の空襲に
参加することになります。

・・・って、戦闘機乗りがいきなり艦爆に?

まあいいや、この程度のおかしなことを指摘していたら、次回で指摘する予定の「ヘンなこと」
はそれこそきりがありませんから。


そして、その出撃が決まったとき、最後に会いに来たイヴリンの腹黒さときたら・・・・。
まずレイフに向かってうらみがましく、
「ワタシを愛したことを忘れたみたい」
そりゃ忘れたいだろうよ。そしてその原因を作ったのはあんただ。
そして、「妊娠が分かった日にあなたが帰ってきた」などと、言わなくてもいいことを、
わざわざ父親であるダニーには言わず、レイフに言うのです。

わからん。彼女の意図がわからん。

「心はダニーに捧げるけど、夕陽を見たらあなたを思い出すわ。
あなたをこれからも愛してる」

って、何をしっかりコナかけてるんですかこのビッ●は?
そして、その直後ダニーと二人きりになって熱い抱擁を・・・・。
こっちにももちろん「愛してるわ」

はいはい。(げんなり)

これは、どっちが死んでも、生き残った方とどうにかなろうって下心満点じゃないですか。
結果、子供の父親であるダニーは戦死。
(因みにわたしはレイフが生きて帰って来たとたん、最終的にダニーが死ぬのを確信しました)

当然のようにイヴリンは生き残った方をむりやり父親にして子供を育てさせることになり、
後味の悪いハッピーエンドでこの映画は終わります。

レイフに対して最後まで同情が続かないのは、これですよ。
こんな調子でしっかりどちらをも確保している女の手のうちにまんまと嵌って、
自分の子でもない女の心変わりの結晶を唯々諾々と押し付けられている。
「歯がゆいやつだな。もうこんな女、フッちゃえばいいのに」と映画を観ているうちの、
52パーセントくらいはそう思ったのではないかと予想します。

思うに、この映画は帰ってきたレイフとイヴリンを結婚させるべきではなかったね。
イヴリンに同情と共感を得させようとしたら、ここは思いっきり男前に、

「一時でもあなたを忘れたとき、あなたは私の中で死んだの。
卑怯者になりたくないから、ダニーの子は一人で育てるわ」

そしてみんなが一人ぼっち、の方が、少なくとも悲恋としては受け入れられたと思うんですが。


さて、もし、二人とも生きて帰ってきて、ダニーとイヴリンは結婚したとしましょう。

こういう女性はね・・・・必ず夫婦が倦怠期になって喧嘩にでもなったとき、もう一方の男の
ところに行って「最近彼とうまくいっていないの」などといいつつちゃっかり浮気します。

これは確実。
だから、この映画の男二人、お互いのためにも、どちらかが死んで良かったんですよ。
死んだ方も子供だけは残せたわけだしね。

独身の方々、子供の日だっていうのに?夢のない感想ですみません。


海軍軍楽兵の憂鬱

2012-05-03 | 海軍




相変わらず気の毒ないかつい水兵さんです。
あれから三年経過し、かれも今や善行章一本の上等水兵。
少しは大きな顔もできるようになったとはいえ、まだまだ上にはたくさんの上官がいます。
下士官には無条件で先んじて敬礼をする立場なのですが、今日は
下士官そっくりの軍服である軍楽兵(下っ端)に間違えて敬礼してしまいました。
よくあることなので、軍楽兵はこんなこともあろうかと、上官水兵を見かけるとマッハの素早さで敬礼します。

「なんだお前軍楽兵じゃないか」
「間違えたのはそちらでしょう」
「ぬあにぃいいい」

という、どう考えてもそれ以上責めようのない口答えをされて

「ぐぬぬぬ」

と引き下がる慌て者の水兵は結構多かったそうです。

軍楽兵は、兵のうちから7つボタンのスマートなジャケットの制服を与えられておりました。
軍帽も下士官のものとそっくり。
「オケラの羽みたいな短い上着」も、ネオンなど無い頃で今ほど夜が明るくなく、
さらに一杯入っている目には見逃されがち。
軍楽兵は人数が少ないので、実態が一般の兵にとっては謎、と言うのもあったでしょう。

それでは一般の兵は軍楽兵をどう見ていたのか。
ただでさえ音楽なんぞ女子供のするもの、という風潮だった当時、
「笛吹いて国に御奉公できるんなら、按摩だってできらー」
と陰口を叩かれても不思議ではありません。
案の定「ラッパ吹いてりゃいいんだから楽じゃのー」
などと言われ、ムカつく軍楽兵はたくさんいたようです。

しかし、そういう揶揄はともかく、万人の認めるところであったのは

「軍楽兵に醜男はいない」

というこの一事でした。
「海軍上層部はもちろん皇族、外国使節列席の場でも演奏し、
練習艦隊と共に諸外国訪問の機会がある軍楽隊」ですから、
鬼瓦のようなのや超個性的な楽員がいて、注目を集めてしまっては困ります。
それになんといっても、軍楽兵の仕事の一つに「電報の取次」があり、司令長官と直接接するわけですから、
人相は悪いよりいいにこしたことはない、と人選をした結果、一般兵からは
「ハンサムばかり」
という評価を得ていました。

事実、楽団員の写真を見ると、見事に平均以上の容姿で、しかも体型も揃っています。
そして必ず何人かはかなりの「眉目秀麗」が混じっています。
このようなイケメン軍団が繰り広げる軍楽行進のかっこよさににひとたまりもなくしてやられ、
軍楽隊に入団をアツーく希望する青年もいました。

・・・・・楽器など全くできもしないのに。

しかし、以前も書きましたが、今とは違い、一部富裕階級の子息ならともかく、
ほとんどの日本人はハーモニカ以外のちゃんとした楽器など見たこともない、という時代です。
やる気と熱意さえあれば、あとは容姿チェック、そして楽器に向いているかのチェック。
歌を歌わせて音痴でなければそれで合格させてもらえました。
そして、歯並びや指の長さ、唇の厚さや身体の大きさに応じて楽器を決めるわけです。

「木下!」と呼ばれた。いや、怒鳴られたと言った方が当たっている。
「立ってみろ」「歯を見せろ」「以前の学歴は」・・・そんな質問の後、Gベース・トロンボーンと決められた。
実に教員一名、被教育者一名という隊内でも珍しい存在となった。(中略)
それは一対一で「気をつけ」「敬礼」に始まり「気をつけ」「敬礼」に終わる日課であった。

音楽どころか、気を付けと礼の繰り返し。
これも、躾がまずできていないと話にならない配置であることからでした。

新兵教育中の6か月は、他兵科と同様、一般陸戦はもちろん、カッター漕法、銃剣術、剣道、
体育
の教育課程を受け、同時に週一回筆記試験(楽典、音感、英語、数学、国語、常識問題)もあります。

全くの私事ですが・・・・・音楽大学を受験していた高校時代を思い出しました。
学校の勉強と受験勉強に加えて、本科の勉強、そして副科のピアノを一日3時間。
(休日は8時間)
我ながらよくやったけど、まあ、わたくしの場合、海軍精神注入棒は飛んでこなかったわけで。

その後、新兵としての訓練は
楽典、唱歌(コールユーブンゲン。うわあああ、このころからやってたのか)
専修楽器奏法、手旗信号、手先信号、艦内応急訓練法(フネの中では応急看護もする)、
遠泳を主体とする海上訓練(フネに乗りこむからですね)

そしてようやく、楽器を配布されます。
海軍のマークが燦然と刻み込まれたこの楽器を
「軍楽器は兵器である。取り扱いは兵器と同様特に細心の注意を払うように」
と厳かな命令と共に受け取るのです。

しかし、決められた楽器が必ずしも簡単に習得できるものとは限らない、
と言うことを以前「楽器決定」の日にお話ししました。

ジョンベラのK氏は、同郷で軍楽兵になった幼馴染に再会します。
野良着しかみたことのない幼馴染の7つボタン姿に、見違えたなあ、と感心するも、
クラリネットを割り当てられたその友達は
「えらいところに来てしまったよ・・・・見てくれ、この唇を」
見れば下唇の内側に前歯がそっくり入るような傷があり、出血しています。
「痛いだろう」
「当たり前だよ、痛いよ。でも、俺だけじゃなくてみんなこんなもんだよ」

文字通り軍隊式で楽器を習得させるのですから、楽器の咥え過ぎで血が出るくらいは当たり前、
へまをしたりいつまでも音が出ないと
「練習室の防音壁が血で染まる」くらい、バッターで殴られます。

罰直は例えば「各自の楽器を頭の上に捧げ持ったまま直立」。
フルートやオーボエはまあいいとして、チューバやユーフォニウム奏者はさぞわが身の不運を嘆いたことでありましょう。

トロンボーンを割り当てられた某氏はスライドで音程を作るこの楽器は初体験。
竹を拾ってきて針金の押さえをを作り、釣り床の中でこっそり練習しているところを見つかり、
「この意気を見習え!」とおおいに褒められます。
しかし、これを見習った班の全員が竹の棒を釣り床に持ち込んだまま寝てしまったそうで、
結果はお分かりですね。

あるいは軍人精神を以てすればできるはず、と軍楽行進曲のパート譜を渡され、
「1番から10番までの行進曲のパートを、一週間で暗記せよ」

って、軍人精神を以てしてもそれ無理ちゃいますか?

だって、パート譜だけ吹いたって、曲がどんなのか知らなければ覚えようがないっていうか。
このような不条理な無理難題も海軍精神で何とかしなくてはいけないわけですが、
案の定1週間後
「各自自分の楽器を頭の上に挙げ、膝を半ば曲げ」

・・・・うわー。チューバやユーフォニウム奏者は(略)
「覚えられたものは楽器を降ろせ」
一人降ろした男がいました。
「お前全部覚えたか」
「ハイッ」

何故か教員は「では吹いてみよ」とは言いませんでした。
彼がチューバかユーフォニウム奏者であった、に1円50銭。


ことほどさように、軍楽兵の生活とは、一般兵並みに、
いや、ある意味音楽という厄介なものが対象であるだけに、過酷でその訓練は苛烈でした。

「現代も日本のブラスバンドに体育会的厳しさが横溢しているのは、軍楽隊の名残り」
と、以前、半ば予測で述べてみましたが、こうしてみるともう間違いない事実に思えます。

このせいなのかどうなのか、日本の音楽教師には、たとえピアノであっても
「叩く」
先生がいるのです。
怖い先生に間違った指をぴしゃり、とされてピアノが嫌いになりやめてしまった人はいませんか?
体罰は、日本以外の、欧米ではまず考えられないことだそうです。
音楽芸術を指導するのに暴力などありえない、という理由で。

この末端のピアノ教師にまで見られる、日本クラシック音楽教育の妙な体育会的体質は、
どうやらクラシック音楽の演奏そのものが軍楽隊経由で日本に入ってきたという由来にあるようです。



因みに、唇を怪我して弱々しく笑っていたクラリネット新兵ですが、
4、5年のち、K氏はかれに再会します。
その時K氏が見たのは、素晴らしいハーモニーを支える海軍軍楽隊の一員として、
自信にあふれた様子で分列行進をリードする幼馴染の雄姿でした。








海軍兵学校名簿

2012-04-28 | 海軍




苦労の末、海軍兵学校名簿を手に入れました。
兵学校を卒業した全生徒の氏名出身地がクラス別に書かれているのものなのですが、
なんと、恐るべきことに!

氏名がハンモックナンバー順に掲載されているのです。

これを編纂にあたった元海軍出身者は「完全な名簿である」とあとがきで語っています。
いわく、

「しかしてこの名簿の特徴は、卒業序列名簿であることである。
クラス・ヘッドという言葉が通用した海軍では当然のことかもしれぬ」

海兵で成績がいいからといって出世したわけではないのは、勿論、
いろんな軍人のストーリーに照らしても皆さん御承知のこととは思いますが、
だからと言って、一番最後に名前が書かれている名簿が未来永劫人の眼にふれ続ける、
というのも、元海兵生徒にとってあまりこころ楽しからんことに違いありません。

歴史に名を残す人間であれば「成績は何人中何番、決して良くは無かった」
しかし、と続けてもらえるのでしょうが、ただそのとき兵学校にいたというだけで、成績表が
皆に回覧され続ける海軍士官には、この点全く「予想外の落とし穴」であったと言えましょう。

だって、もし戦争に負けず(仮の話ですよ、仮の)海軍が消滅しなかったら、兵学校の成績は
「歴史資料」ではなく、いまだに学校内に保管されたままだったんでしょうし。

軍神広瀬中佐だって、
「兵学校じゃ80人中64番だった」(49番説もあるそうですが、これはまた別の日に)
と日本国民全員が知ったら、その神話に当時水を差した可能性さえあります。


これが全国からもの凄い倍率の試験を潜り抜けてきた秀才集団で、たとえその中の
最下位であってもたいしたものあるということを念頭においても、かれも人の子、そしてわれも。
ついつい興味半分でこういうのを見てしまう、という俗はやはり人の子であるゆえに。



まあ、そんな風にこの名簿をつらつらと見て考えていたところ、ふと、
以前どこかで読んだ、在る海軍軍人のハンモックナンバーが、
この「完全バージョン」とは違う数字であるのに気がつきました。
はて。
もしかしたら、年度途中のものも出回っていて、こういう間違いが起こるのかな?

というわけで、もし、気になる軍人の「真実の」ハンモックナンバー、是非知りたい!という方。
こんなわたしにしか聴くところがなければ、お教えしましょうとも。
ただし、返事は非公開にしてgooメールで送りますのでご安心ください。


ところで、この名簿、兵学寮時代から74期までの全卒業生の名簿なのですが、最後の
卒業生である74期の総人数、何と1024人。

これが当然のことながらきっちり成績順に名前が並んでいます。
本当だろうか?
もしかしたら、同率同位が何十人単位でいるのではないだろうか?
この名簿で30番目に書いてある人と、42番目に名前のある人は、実は同じ点数ではないのか?

そんな不安に胸を掻き立てられる想いすらします。(←嘘)

そして、これだけの人数のクラスの首席ともなると、
真のクラスヘッド!最強のクラスヘッド!って感じで、ラスボス感満載なのですが、

逆に、この1024人の明らかに一番最後に名前を書かれた人って・・・・・。

(T人T)ナムー


注*本日画像は、74期のものではありません。


あゝ江田島羊羹

2012-04-27 | 海軍




羊羹、という漢字に何故「羊」という字が使われているのか、不思議に思ったことはありませんか?
もともと、羊羹とは、中国の羊料理。
羊のスープのようなものですが、冷めると煮こごりができる、そういう料理です。
日本に伝わって、よくある話ですがお坊さんがこれをアレンジし、アズキを使った「煮こごり状の菓子」
にこの名前を拝借したのだという説があります。

海軍関係の読み物や映画には、この羊羹がよく登場します。
甘いもの、といえば羊羹、ぜんざい、蜜豆和菓子の餡子ものであったころ、持ち運びができてお土産にもなる、
この羊羹は今よりずっと人気があったようです。
一度話題にした「給糧艦間宮」では名物「間宮羊羹」というものがありまして、これは
「虎屋にも匹敵するくらい美味い」と評判であったとの由。
ここでお菓子を作っていたのは海軍の軍属職人たちなのですが、なんだか
「その辺の菓子屋なんぞに負けてたまるか!」みたいな渾身の羊羹作りをしてたみたいですね。

本日タイトルを一部拝借した「あゝ江田島」と言う映画では、主人公だかそうでないんだかわからない
(この映画についてもまた書きます)村瀬生徒が、東京の実家へのお土産に買っていました。
「海兵4号生徒」では、ボーイをしながら兵学校に入った秀才生徒が、
(クラスヘッドの山岸計夫生徒がモデル)夏季休暇に小用の港に向かう途中で
「おまえ羊羹買ってこい」とパシリをさせられる、というエピソードにも登場。

この江田島羊羹、前回(2月末)旧兵学校跡見学のとき、お土産に買ってきました。

 

塩羊羹の方は人に差し上げて、この包み紙が欲しかったので、左の小さい方を家で頂きましたが、
甘いもの、餡子のカナーリ苦手なエリス中尉に、この羊羹を食べるのははっきり言って「苦行」でした。
家族はわたし以上にアンコ嫌いときているし・・・。

兵学校でお土産にされていた当時は、砂糖が潤沢でないというのもあって、
現在のものよりもかなり甘さ控えめのあっさり味だったそうです。

この羊羹を製造している会社扇屋は、創業明治33年。
当然のことながら、兵学校内で売られていたのと同じ製法で作られています。勿論添加物なし。
虚心坦懐に味わえば、美味しい羊羹なのでしょう。
羊羹の味を論評する資格はわたしにはないので、一応そのように言っておきます。

昔は今のようにスイーツなんぞと言ってバラエティに富んだ甘いものが溢れていませんから、
甘党が選ぶお菓子と言えば餡子一択。
甘いもの好きの生徒さんなどは、酒保で何本も羊羹を購入し、毎日のように一本喰いするのでしょうが、
そこで本日冒頭の漫画です。

はたして、羊羹の喰いすぎは、兵学校生徒として、否海軍軍人として、咎められるべきか?


「海軍兵学校の平賀源内先生」と言う稿でご紹介した兵学校の英語担当教授、
平賀春二先生は、教材用として江田内に停泊していた軍艦「平戸」の艦長室に居住していました。
ある日曜の朝九時。
甲板掃除も済み、上陸する者たちも全て巷へと散った閑散とした空気の中、
平戸の艦長室を訪ねてくる生徒が一人ありました。

かれ、山田生徒(仮名)は、学業成績こそ地味ではありましたが、豪放磊落、天衣無縫、
教官からも上級生からも親しまれる、いわば兵学校の「名物男」であったそうです。

その山田生徒、礼儀正しく室外で手袋、帽子、外套を取り入室。
氏名を名乗ったのち正しく挨拶をして、それらを帯剣と共に帽子掛けにかけ、ソファーに座ると

「わたしは本日から向こう三週間、上陸止め、酒保止め、官舎止めになりました」

官舎止め、とは、週末教官のお宅を訪問してご馳走になることを言います。
つまり、酒保で好きなものを買ったり、外で美味しいものを食べたり、これが一切禁止されたというのです。
こんな重い罰を科せられた山田生徒、いったい何をやらかしたというのでしょうか。

「実はわたしの分隊のうち、イヤ、全二号生徒のうち、イヤ、全校生徒のうち、
酒保の伝票でわたしの羊羹代が先月末最高で、しかも!
第二位をグウーーーーンと引き離していたからです」

羊羹を食べて何が悪いのだろう、とおそらく、本人どころか、周りの生徒、それを糾弾する上級生すら、
全員が心のどこかで思っていたに違いないのですが、
何しろ、海軍軍人たるものが女子供のように甘いものを喜ぶ、という構図そのものがいただけないと、
まあそういう判断であろうと思われます。
そう、そういう時代であった、ということです。

今でこそ男であろうがおじさんであろうが、甘いものが好きで何が悪い、というのが常識ですし、
一流のパティシエは皆男。
しかし、昔は「男が甘いものが好きだなんて恥ずかしい」という風潮がマジで色濃くあったのです。
エリス中尉がまだ幼いころにもその傾向はあり「甘いものが好き」と公言する男の人が出てきた頃、
「へえー」
と周りが軽く驚くような風土がまだ日本にはあったと記憶します。

そのあたりがわからないと、もしかしたらこの「羊羹喰いすぎて罰直」も、理解できないかもしれません。
しかし、男が甘いもの好きで何が悪いのか?
というと現代の我々には「かっこ悪いから」くらいしか理由が見つかりません。

そして、誰にも「何が悪いのか」ということに明確な答えが出せないわけですから、
上級生としては教官官舎やクラブや酒保でのエチケットについて長々と、歯切れも悪くお達示するしかない。
あげくに「判決」の言い渡しには伍長は笑いをこらえきれず(画像)、一度は後ろを向いて気を取り直し、
再度回れ右をして言い渡しにかかったのですが、


となってしまい、伍長補に「言い渡しは貴様に頼む」
ところが、もう全員(笑)をずっとこらえていたので

ブ─(;゜;ж(;゜;ж;゜;)ж;゜;)─!!

ともあれ、上記山田生徒が言うところの厳しい罰をニヤニヤしながら言い渡すという仕儀になり申し候。

クラブや官舎のの美味しいご馳走まで禁じられてしまい、ただでさえ甘いものジャンキーの傾向のある山田、
さぞわが身の不運を嘆き、羊羹喰いを反省したのか?
いや、追い詰められたものは窮鼠猫を噛まんばかりの知恵をひねり出すものです。

山田生徒が思いついたのが源内先生の居住している軍艦平戸艦長室。
「官舎でも(一応官舎ですが)クラブでもなく、ここで先生に頼めば酒保からの調達もOK」
おまけに源内先生は、有名な生徒好きです。

「一号生徒は集まってみんなで知恵を絞って、あらゆる手を打ったつもりでしょうが、
まさか軍艦平戸の艦長室と言う抜け穴があろうとは、さすがの一号も気づかなかったと」


愉快愉快、わっはっはー!!と山田一人で盛り上がり、先生はあわてて水兵さんを酒保に走らせ、
艦長室で大いに喰らい大いに語り、挙句は二人で昼寝三昧。
このひそかな宴席が三週間にわたって繰り返されたのかどうかまでは源内先生も書いてはいません。


ところで、我が家の冷蔵庫の片隅には、いまだに手を付けられていない江田島羊羹の残りが、
カビも生えずにひっそりと今も息づいております。
あまりにも見た目に変化が無いので、捨てられもせず、ずっとそこに存在しているのです。
砂糖には防腐作用がありますが、羊羹も一種の砂糖漬けだったのだとあらためて認識しました。

このブログのネタのため、今(2011年12月)おそるおそる端っこを食べてみたら、少し固いだけで
全く大丈夫でした。
買って10カ月経ってるんですけど。
なにこれ、こわい・・・・。








「海戦」~作家の見た士官たち

2012-04-22 | 海軍

 

報道班の一人として海戦に赴く鳥海に乗ることが決まってから、
作家、丹羽文雄はまず自分が自ら望んで死に近づいていくという事実と、
みずからの死に対する覚悟を直視せざるを得なくなります。
周りにいる鳥海乗り組みの海軍軍人のそれを目の当たりにする度に、
それは波のように恒常的に、否応もなく繰り返し訪れる想念となったのでした。

「どこにいますか、江田大尉?」
「山の飛行場です。逢わなかったのですね。今頃は死んでるかも知れません」
死の衝動よりも、死と無造作にいってしまう飛行長の口調にびっくりした。
(中略)
飛行長の断定は慰めとか、否定とか、それに類した答えを求めてはいなかった。
それに応じる答えはすでに自分の内にこもっているのである。
私はこの二十六歳の青年大尉をほんとうに理解していなかった。


死に対する覚悟は、一応付いているつもりだ。(中略)
私はすでに自己放棄をやっている。然し、死に関しては現実的に軍人にかなわないのだ。
軍人の示す完全な、おそろしいほどな自己放棄には、時間がかかっていた。偉大な訓練の結果であった。


報道班員は、士官待遇で士官と行動を共にするので、彼らの言動を間近で見聞きすることによって、
軍人という特殊な職業の者と、自分のような「娑婆の人」との認識の違いをあらためて知るのです。
そして一般人とは全く対極にある完全な死の覚悟を持つ軍人の、「ある部分」を発見します。


日本機が堂々とゆっくりと飛んでいく。
無声映画のように爆音が聞こえないので、もどかしいが、見ていると胸が熱くなった。(中略)

「こんなのを見ていると、泪が出てくる」
水雷長の率直さに私はうたれた。水雷長は私の名を呼んだ。
「書いてくださいよ。この気持ちを是非書いてくださいよ」
水雷長は泪をためていた。


戦いの合間にもかかわらず、一口ずつゆっくりと味噌汁を味わう副長。
参謀長は、非軍人であればきっとこのようなものもありがたいであろうとばかり、
クジラを見つけたことを教えてくれます。
「思いがけない珍客です」

全てが彼らのうちには「平常に」行われることなのでした。
さらに夜戦を間近に控えているにもかかわらず、ぐっすり眠る乗員たちの大胆さに、
「もっとも素直にふるまっているにすぎず、あらためて指摘すればきっと照れるに違いない」
と、感嘆するのです。

作家がさらに感銘を受けたのが、軍人としての厳しい訓練を受ける段階で、
かれらが青春の日々を共にした「クラス」に対する思いの特別さでした。

「この艦隊には僕の同期生が五人ものりこんでいるんですよ。心丈夫です」
同期生が五人もいるといった時の副官の顔は、子供のようにうれしそうであった。


「青葉の飛行長はわしのクラスです」
クラスの一人がほめられていることが、うれしくて耐らないというきれいな表情であった。
私はためらいながら、飛行長の真実に近着こうとした。
どのような青春のすごし方をすれば、このような美しい共鳴が持てるのか。
私たちのもった青春の日は、いたずらにくだらなく、僭越で過ぎてしまったようである。

「補丁されることもなく、接触もない」、友情に若い彼らが浮身しているのが非常に良く似合う。
丹羽氏はその傍から見て一見理解しがたい、面映ゆいまでに純粋な結びつきを羨みます。


丹羽氏はその後の海戦で、右上膊部に砲弾の破片を受けたものの、
「これだけのことか。これだけの傷ですんだのか」という命長らえた奇妙な安堵を感じます。


苛烈な海軍の階級社会の中では、問答無用で鍛え上げられる下士官、兵は、
いつも絶対的な権力の上に立つ士官に対して不満を持っていた、といった記述が
戦後の本では百出しています。
それも真実の一面でありましょう。

しかし、士官の側に立った第三者の眼で海軍を見つめる作家は、
決してその歪んだ、暗い部分を見ることはありませんでした。
むしろ、海戦という特殊な事態を総員で受け止め、外敵に向かっていくための、
悲しいほどに美しくすらある結束と団結だけをその目に留めることになったのです。


自らがそこへ這っていくこともできないくらいの重傷を負いながらも、
ピクリとも動かない戦死した分隊長の名を何度も呼び続ける兵。
戦いの後に兵たちに噛んで含めるように応急員の心得を説く、母親のような若い甲板士官。
それを兵たちが「素直な子供たちのように任せきって」聞く姿。
お互いの非常時におけるふかい共鳴に、丹羽氏は、
「偶然に日本海軍の力をなす主要な特質の一端にふれた思い」を持ちます。

海戦後に丹羽氏が見た副官とその従兵の姿を、最後に記しましょう。


「従兵、篠崎はどこだ、篠崎?」
負傷者の顔を一つずつ見て歩いた。
「副官、自分はここにいます」声だけがあった。割合元気が良かった。
「どこだ、篠崎?」

「どうだ、具合は?」

 

返事はなかった。あたりはしいんとした。やがて
「申訳ありません」
と言った。副官は微笑をうかべた。右手を失った篠崎は絶対安静が必要であった。
「しかし、自分には左手が残っています。長官のお給仕は左手で立派にやれると思います」
「うん、やってくれ。自分もそう思っているんだ」

副官は何かを抑えるようにして、朗らかに応えた。顔から微笑が消えそうになった。
副官は黙った。高いところから見下ろしていた。従兵も無言であった。
副官はわざわざ篠崎を見舞いに来たのであったが、そんな気配は示さなかった。

どれだけか副官は見下ろしていたが、
「何も考えずに、くよくよしないで、十分養生しろよ」
「はい」
副官が枕許をはなれた。五六歩歩いた時であった。
「わあっ」
叫びともつかず、よびかけともつかない奇声を従兵があげた。

「何だ。篠崎?」
「魔法瓶がみんなこわれました。申訳ありません」
副官は引き返そうとしてためらった。そのままの姿勢で、
「なに、代りはあるぞ」
副官はそう言うと、大股に部屋を出ていった。


(「海戦」丹羽文雄 中公文庫)




冒頭画像:重巡洋艦鳥海 ウィキペディアより
原典 海軍雑誌「空と海」第二巻第六号
作者 海と空社:The Air and Sea Co.




上海海軍特別陸戦隊

2012-04-19 | 海軍

1939年(昭和14年)東宝作品、上海陸戦隊を鑑賞しました。
上海海軍特別陸戦隊とは、海軍が上海に権益保護のために駐留させていた陸戦隊のことです。
通称「しゃんりく」。
何でも二音節に縮めて言うのが我われ日本人の伝統と習性ですが、
この通称はあまりセンスが良くないというか、強そうに思えないのはわたしだけでしょうか。

それはともかく皆さん!あまり歴史に詳しくない方は、ここで勘違いしないように。
上海陸戦隊は、「南京侵攻」で言われているように侵攻して占領して、悪の限りを尽くしたことも、
村を焼き払ったり、訳もなく無辜のあわれな中国市民を何万人も殺戮したこともありません。


そもそも、戦況がどうあれ兵力もお金もそんなに無いのに、何のために日本が全軍力を結集して
女子供を殺さねばならんのかと、機会があれば南京肯定派の皆さんとひざを突き合わせて
聞いてみたい気もしますが、その話はともかく。

20世紀前半、日本は他の列強と同じく、上海にある共同租界に居留民を住まわせていました。
住民の権益の保護が目的で最初の頃は簡単な警備隊を派遣していましたが、
1920年ごろから上海周辺の情勢悪化が目立ち始め、1927年には国民党軍の北伐
(一言で言うと中国国内のごたごた)が始まると、1400人の五個大隊が海軍から派遣され、
上海クーデター(しつこいようですがこれも国民党vs共産党ね)の間、租界を防衛しました。

このクーデターのあと、警備強化目的で派遣された陸戦隊の一部は上海陸戦隊の名で、
この地に駐留することになります。
その後第一次上海事変で日中の衝突が起こり、しゃんりくは租界防衛を果たしますが、
この際に鎮守府から独立した常設の部隊となり、その名を
上海海軍特別陸戦隊とあらためることになりました。

前置きが長くなりましたが、この映画「上海陸戦隊」は、この昇格した後の特別陸戦隊、特陸
(勝手に縮めてるし)が、第一次上海事変を戦う様子をセミドキュメンタリータッチで描いたもの。

言っておきますが、全く面白くありません

おそらく、レンタルショップにも置いていないでしょうし、購入するにも密林では3600円。
この、貴重は貴重だが、果たして買うほどのものか、とつい思ってしまうであろう映画を、
今日はそんな皆さんのためにアップします。



ちゃんとサブタイトルには正式名が書いてありますね。
どうして面白くないかというと、これは海軍省によって作られた「戦況報告映画」だからです。
第二次上海事変が終息した約一年後、「あの時我かく戦へり」を、
国民の皆様にちょいとドラマチックにお伝えする、国策映画とでも言いましょうか。



おお!指揮内藤清五、演奏海軍軍楽隊
ただしこの映画、挿入BGMは一切なく、映画の始まりに「紀元二六〇〇年」(多分)、
この海軍葬のシーンでなんだか妙な葬送ファンファーレを演奏する軍楽隊が出るシーン、
あとは喇叭とラストしか音楽が入りません。
あざとい音楽演出されるよりは、すっきりしていていいんですけどね。
儀仗兵の向こうに見える小さいほうのおじさんが内藤軍楽少佐です。



映画は、中国側保安隊によって殺害された陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉
斎藤興蔵三等兵曹の葬儀から始まります。
この事件がきっかけで第二次上海事変がはじまるのですが、これ以前にも日本兵の
拉致殺害事件は起きており、映画では
「我々日本はあくまでも平和的解決を求め紳士的に対応を迫ったが、
中国側の態度は不誠実で・・・なんたる屈辱!」
とナレーションが入っていました。



大山中尉の海軍兵学校同期という設定の中隊長、主人公岸中尉(大日方傳)
おびなた・でんと読むんですが、おびなたと入力したら一発で出てきたのでびっくりしました。
昔のスターさんなので、当時長身のイケメンと言われていても、
今の感覚で言うと若干、いやかなりの「舞台顔」。
全身像を見ると何かしらバランスが、という感じは否めません。
時代劇には映えるタイプですね。



剣呑な空気に、市民は避難を始め、中国人なのに租界に保護を求めてきます。←注目
租界の日本人は、取りあえず学校に避難。
わんちゃんは哀れおいてけぼり。
というか、中国においてこの状況、この犬にとって大変残酷なのではと思うがどうか。
知り合いの上海出身男性は
「犬や猫なんて、上海の人間は絶対食べないよ!」
と息巻いていましたが・・・・・どうだか。



包囲され、ドンパチ撃たれているのに上からの許可が出ないため、反撃できない部隊。
悔しいからせめて石投げてやるぅー!(右)



ここで事件発生。
ひとりの女性が制止する兵を振り切って、バリケードの外に出ていきます。
そして、命からがら帰ってくるのですが、なんと彼女の取りに行ったのは「哺乳瓶」。
いや・・・、これ美談じゃないでしょ?
どうしてそんなもののために危険を冒してみんなに迷惑と心配かけるかね。
そもそも赤ちゃんに授乳するなら自前でしろと。

このお母さんは手を怪我して、避難先の学校で新聞記者のインタビューを受けるのですが、
マスコミがこういう人を持ちあげるから、危機の際行動を誤って犠牲になる人がでてくるのでは?
実話かどうかは知りませんが。
盛り上がりが無いとは言え一応映画なので、演出だと信じたいですがね。



やらせ発見。がれきの中を駆け抜ける猫。



監督のキュー待ちをしてこちらを覗っている証拠映像。



戦闘ではさっそく犠牲者が出ます。
死者に日本の国旗を掛け、自らも後に続くことを誓う中隊長。



部隊に保護を求めてきた中国人たちに、自分たちの糧食を分ける日本兵。
「怪しくないよ~!美味しいから、ほら」とおにぎりをかじってみせます。
皆、喜んで空腹を満たすのですが、ここで反抗分子が登場。



仲間のもらったおにぎりを「日本人なんかからそんなものもらっちゃいけない!」
と叩き落とす反日娘。
これ、誰だと思います?
あまりうまくない中国語でお芝居しているのですが、なんと原節子(当時一九歳)。
一緒に日本の陣地に逃げて来ながら、なぜここまで反抗する?
この中国娘のエピソードが、戦闘シーン以外での唯一のこの映画の見せ場となっています。



膠着し、兵数の多い相手に苦戦する海軍は、四人の決死隊を送り込みます。
決死隊の編成にあたって訓示をする大山傳七少将(実在の人物)。
このときあらためて気づいたのですが、海軍兵なので、陸戦隊なのに「水兵」と呼ぶんですね。
この様子も全く淡々としていて、決死隊が自分の戒名を胸に抱いているのを見て、
小隊長が「そんな下手な字では冥土に行けんぞ」「はい、へたですみません」などという
会話をします。

盛り上がるシーンの筈なのに、ここに限らず全編、いかんせん音声と俳優の発声が悪すぎて、


何を言っているのか全く分からない。

これが、この映画を全く面白くなくしている大きな原因の一つです。
集音マイクなんてまず使っていないので、機銃の音声や爆音が響き渡り、
戦闘中の会話などもう壊滅的に意味不明。



戦闘で傷つくも、後方に下がることを拒否し、尊敬する中隊長と運命を共にせんとする部下。
その覚悟を知り、目を潤ませる隊長。
優勢な敵勢力に、次々日本軍は人員を失っていきます。
弾薬を運ぶ途中で狙撃されるも、命が尽きるまで任を果たさんとする者。
最後の一人になっても基地を守り抜こうと奮戦する者。



日本人が避難している学校では、戦線に不足している食料を送るため、
租界民が必死でおにぎりを握ります。
日頃そんなことを全くしたことのないダンサーまでもが、いてもたってもいられず参加。
「あつー!」と叫びながらも、隣のおじさんにやり方を教わりながら奮闘。

自らは必死で戦いながらも、保護している中国人の生命すら気遣う日本軍。
「良民につき日本軍が保護する」と避難所に貼られた紙を見て、皆感激します。



日本兵って、なんて親切なの!
皆のそんな声を聞くうち、だんだん彼女の心に変化が訪れます。



どうしてこの人たちは戦っているの?
中国人と戦っているのに、わたしたちにはなぜこんなに優しくしてくれるの?
彼女にはわからないことだらけです。
救いを求めるように、仏の姿を仰ぎ見る娘。



最後まで死を覚悟して戦い続けた岸隊長も、遂に敵弾に斃れます。
しかし、そのとき、戦線からの一報が。



海軍航空隊が南京を大爆撃したぞ!
それまで銃を持っていた在郷軍人と一般人、報道記者は、皆でバンザイをします。
軍艦旗が高々とあがります。



自らを犠牲にしていった日本の兵隊の姿を見、何を思うのか。
思わず仏に祈りをささげる娘。

映画の最後のナレーションは次のようなものです。

かくて上海陸戦隊の勇士たちは、陸軍部隊がこう何の敵を掃討しつつ
南下してくるまでの二ヶ月間、以然数十倍の敵を相手にして、
断固虹口(ホンキュウ)を守り通したのでありました。
この二ヶ月間、いかに激しい戦いが行われ、いかに尊い犠牲が払われたか、
この戦跡を見ただけでも生々しく想像することができます。
海陸両軍相呼応して敵をザホクのポケット地帯に追い込んで、これをせん滅し、
上海を全く陥落させたのは一〇月二七日でありました。
爾来一年有三、上海には復興の気漲り、いまや新東亜建設の黎明は、
大陸の空に仄々と明け初(そ)めています。
わたしたち(?)は無限の感謝を(?)て、
我が上海陸戦隊の不滅の偉業を(?)に伝えたいと思います。

はてなの部分は、不自然に音が飛んでしまって、聞き取れませんでした。


さて、今、川村市長の南京発言をめぐって色々ありますね。
もともと証拠として非常に不明かつ怪しい点のある南京大虐殺について、
ここ何年か、正面切って「ここがおかしい」とする本が多数出だしたのは、いい流れだと思います。

しかし、やはりその流れを必死で元に戻そうとする人々もいるようで、私が最近見たサイトは
「南京の証拠写真の捏造を検証する意見に、悉く反論する」というものでした。
たとえば「人口二十万の南京でどうやって三十万虐殺するのか」
という疑問に対しては
「当時の南京が人口二十万であったという証拠がそもそもないので、
その仮説は成り立たない」

・・・・・・・・・・・。

いや、これ本気で言ってます?
そんなこと言いだしたらどんな議論も無に帰してしまうではないですか。
世の中には何とかして日本がアメリカの落とした原子爆弾による総犠牲数を超える
一般人大殺戮をしたことにしないと、具合が悪い人がいるみたいですね。

そのサイトにはなんと「中国に便衣兵などいない」という文言さえありましたが、
この映画でも「シナの便衣兵によって我が上海陸戦隊の宮崎一等水兵が拉致され」
って言ってるんですよね。
便衣兵はいたんですよ。

こういうことを言っている人は(何国人か知りませんが)取りあえず南京に行ってみれば?
三十万殺されたのがもし本当なら日本人など八つ裂きにされてしまうはず。

わたしは行ったことがありますが、南京大学には日本語専攻科があり、市内には
孫文の遺体がある中山寺もあります。中山は孫文の日本名です。
三十万殺されたのが本当なら、南京に日本名の寺を造るでしょうか。
地元のインテリは「南京虐殺記念館」など知らないし興味もなく、わたしが行こうとしたら
「あんなもの見なくていい(どうせ嘘っぱちだから)」なんて言われましたよ。

この映画は、南京大虐殺はあった!と言い張る人たちに是非観ていただきたい。
上海における日本軍の戦闘のきっかけはあくまでも海軍軍人の拉致、殺害であり、
中国人を抹殺する必要など全く無かったことが、まずわかるでしょう。
南京においてだけ日本軍が凶暴化しなくてはならなかった理由も、全く読み取れません。

この映画が日本のプロパガンダであることを否定するものではありませんが、
この映画に流れるテーマの真意ですら理解できず捏造であると決めつける人がいたら、
それはおそらく日本人ではないとわたしは断言してもいいくらいです。

そして、敵国民であっても無益な殺生はしない、という、日本人特有のメンタリティは、
映画の中で中国人たちを保護するシーンや、彼らに食料を与えるシーンに現れています。
この同じ軍隊が、三十万もの無実の人間をどうやって殺したのか、何のために殺したのか、
主張していることが不合理で整合性が取れないことに、よほど馬鹿でなければ気づくでしょう。

川村市長は「南京について不審な点を日中両国で話し合いたい」と言っただけだそうです。

これ自体は決して面白くも、映像作品としてよくできているとも思えない映画ですが、
対話が実現したあかつきには、日本軍の当時の精神的アリバイ証拠としてこれを共に鑑賞し、
さらに中国側には、証拠を耳を揃えて出していただいたうえ、
この状況から同じ軍隊が三十万人殺戮するに至った経緯などを
じっくり解き明かしていただきたいものです。










甲板士官のお仕事

2012-04-09 | 海軍

       

全く画像とは雰囲気の異なる話からお付き合いください。
芥川龍之介が「ショート・ショート」とでもいう一口小話のような三篇の短編小説を、
海軍の艦船に乗りこむ若い中尉を主人公に書いているのをご存知でしょうか。

「三つの窓」という題です。

その一つの話に、甲板士官が下士官に懲罰を与える際、
「善行章を取り上げてもいいから、部下の手前ここに立たせるのはやめてほしい」
と懇願するのを無視して(そちらの方が合理的な罰だと信じて)いたところ、
下士官はそれを恥じて煙突に垂れる鎖で頸を吊ってしまったいうものがあります。

下士官の死にショックを受けたらしい甲板士官は何度も繰り返すのでした。

「俺はただ立っていろと言っただけなんだ。それを何も死ななくったって・・・・・」

(「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房)

このように、甲板で起こる様々なことを仕切り、ねじを巻き、逸脱するものに罰を与え・・。
それが甲板士官の仕事です。

海軍では「尉官は勤勉、佐官は判断、将官は人格」と言われました。
どの世界でも同じですが、経験のない若いモンは、脚を使って身体で仕事を覚え、
ベテランとしてアブラが乗ってくると現場の的確な判断によって部下を動かし、そして、
それで結果を出して偉くなり、皆がへーこらしてくれるようになると、物事を俯瞰で見、そして
時には情も汲みつつ戦略的政治的判断をする「将器」、大きくは人格が必要、というわけです。

現場を知らない少尉中尉、つまり「初級士官」は、何より身体をまめに動かしてナンボ、
というのが、特にフネの上の海軍的常識となっていました。
甲板士官は、それこそガンルームの席を温める暇もなく甲板を朝から晩まで飛び回り、
「ニワトリ」とあだ名されるが如く、甲板のあっちこっちをつついてまわるのがお仕事。

兵67期、第三〇二空の零夜戦隊長であった荒木俊士大尉について書いたことがありますが、
荒木大尉が甲板士官であったとき、「髭の荒木」と怖れられた、という話をしました。
猛烈果敢に下士官兵をシゴいたことからついたあだ名です。
勿論のこと問答無用で鉄拳制裁も行ったのでしょう。

余談ですが、戦後下士官であった人の手によって書かれた海軍ものは、
士官のそれとは違った「下から目線」が、非常に面白い読み物が多いのですが、
必ずと言っていいほど「問答無用で殴る士官」への恨み、
ひいては海軍組織そのものに対する繰り言がどこかに入ってきます。

逆は決してあり得ないわけですから、
上意下達、階級絶対の「下」に行くほど、感情的不満が渦巻くのは当然のこと。
どんな理由があっても殴られて、
「ありがてえありがてえ」と無条件で思えるほど悟りきった人はめったにいないでしょうし、
「鍛えるのが仕事、恨まれて上等」の初級士官たちも辛い立場には違いありません。
・・・が、その話はまた別の日に。


こちらは元士官さん。
戦後、温かみのある闊達な文章で作家として成功した松永市郎氏(兵68期)は、甲板士官でした。
その海軍生活記「思い出のネイビーブルー」では、甲板士官としてしなければいけないことが、
これを読めばすぐわかる、といった具合に、そのお仕事ぶりが描かれています。

松永氏いわく、甲板士官とはいわば「事務長」でありかつ、港湾荷役業務と清掃業の作業管理者。
フネの中で何か・・・例えば食糧品買付のための人選が必要だとか、何処かの排水が詰まったとか、
そういったことが起これば、必ず誰かが呼びに来るので、すぐさま飛んでいきます。
フネの外でも、下士官兵が問題を起こせば、たとえ女郎屋でも頭を下げに行かなければなりません。

甲板掃除の監督は勿論のこと、
散々話題にした「ネズミ上陸」ですが、この際ネズミの再利用防止のためネズミのひげを切ったり、
まじまじとネズミの鼠相風体を観察して「輸入」(持ち込んだ)ネズミではないかの判断を下すのも、
実は甲板士官の重要な役目だったのです。
(先の『三つの窓』の第一話はネズミ上陸のこの輸入が話題になっています。
芥川は『軍艦金剛乗艦記』なども書いており、この経験から彼の中で『海軍ブーム』があったのかも)

時には兵たちの心をぐっと掴む「ご褒美」を与えたり、大岡裁きによって不満をなだめたり、
つまり、部下を鍛え上げながら、自分自身も否が応でも鍛え上げられる職場と言えましょう。

松永氏は練習艦隊で、ある甲板士官から「甲板士官は五感を働かせろ」と講義されたそうです。
眼で見て耳で聞き鼻で嗅ぎ、裸足で歩いて(画像)甲板の掃除の出来を判断する。
ここまではわかる。
「では、味覚はどんな場合に使いますか?」
この甲板士官は、あまり深く考えずに五感という言葉を使ってしまったと見え、
(おそらく苦しまぎれに)こんなことを言ったそうです。


「最初に兵員厠に行ったら、便器の中を指でこすりつけ、その指を舌で味わってみろ。
この後、放っておいても艦はいつもきれいになる」


・・・・松永中尉は、その後あくまでも四感で甲板士官の任務を乗り切りました。

しかし、前述の如く、いざ厠の汚水管が詰まってしまったら。
管を取り外して頭から色々なものをかぶることを覚悟の「特別作業隊」を編成の際には、
「わたしにやらせて下さい」と言う(しかない)のも、また甲板士官(これは候補生)の役目。
そして一人がこう言えば「わたしも行きます」と言う(しかない)のも残りの候補生甲板士官。

中甲板士官であった松永中尉は、彼ら一人一人を挙手の礼でマンホールに見送ります。
かくして作戦成功のあかつきに、頭からいろいろな汚水管の内容物を被った決死隊の
二目とは見られぬ、しかし神々しい姿を、涙のうちに迎えたそうです。

(この本、本当に面白いので、ぜひ一読をお奨めします)

さて、戦争末期にそれどころではなくなるまで、フネは、一般人も見学することができました。
どういう手続きを踏むのかは分かりませんが、
「その辺で遊んでいる子供を連れてきて案内した」林谷中尉のような例もありますし、
Sをガンルームに連れ込んでこっそり合コン?ということもあったそうですから、
比較的簡単にそれはできたのかもしれません。

松永甲板士官が候補生のとき、退役した老大佐が美人の孫娘を伴って見学に訪れました。
相手が元海軍軍人と言うので、あまりふざけたことも言えず、調子の出ないままに案内していたら、
「候補生、艦長のお名前は」
「はい、艦長は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
いつも艦長、艦長と呼んでいるので直ぐに出てきません。
仕方が無いので何か言おうとして
「これは残飯捨て口です。スカッパーと言います」
老大佐「・・・・・・・」
孫娘「・・・・・・・・・」
松永候補生「・・・・・・・・・・」

老大佐、今度は
「ところで候補生、副長は何とおっしゃるか」
いつも副長、副長と呼んでいるので(以下略)

その後すぐ、そそくさと「用事を思い出して」帰って行った二人を見て
「もしかしたら、あの孫娘(繰り返しますが美人)のお婿さん探しだったのか・・・・」
と純真な胸を痛めた松永候補生でした。


松永候補生が応対した老人のように、海軍軍人とお見合いさせるため、
お相手を抜き打ちでいきなりフネに連れてくる人がいました。

海軍軍人であれば、フネの上が一番輝いて、普段の数倍男前に見えるに違いない!
そういう判断のもとになされたゲリラ型お見合いでありましょう。
余談ですが、エリス中尉の卒業大学では、学内コンサートにお見合いの相手を招待し、
そのステージ上で光り輝く己が演奏姿を相手に見せつけ、その結果、
「卒業したら結婚するのー」
と指輪を見せびらかしていた級友(ピアノ科と声楽科)が何人かいましたが、
まあ、そういった計略、じゃなくて趣向ですね。

ところが。

もうお分かりでしょうが、甲板士官は散々述べてきたように、便利屋さんの親玉みたいなものですから、
一日中、如何なる事態にも迅速に対応するべく、フネの中ではそれなりのスタイルで職務に当たります。
ズボンの裾は膝までまくり上げ、裸足が基本。肩には懐中電灯、手には甲板棒。

白やネイビーブルーの軍服に短刀吊った粋な海軍士官を夢見ていそいそ乗艦してきたのに、
相手は棒きれ持った小汚い作業服の男だったので
おぜうさんは、すっかり幻滅してこの話を断ってしまいました。
馬子にも衣装の逆ですね。

そんな恰好に身をやつしていても
「この姿でこんな素敵な方なら、士官の姿になればさぞかし・・・・・」
と思ってもらえるほど「実力のある」士官さんではなかったということでございましょうか。








「男たちの大和」と「戰艦大和」

2012-04-07 | 海軍

昭和20年の今日4月7日14時23分。
戦艦大和が沖縄沖に沈没しました。
今日は、二つの大和映画について書いてみます。

テレビのなかったうちにディスプレイが届き、大画面で最初に観たのが「戰艦大和」であった、
という話をさせていただいたのですが、この映画「戰艦大和」、1953年作品の、勿論白黒です。

「連合艦隊」「山本五十六」「ミッドウェイ」・・・・・。
戦艦大和の出てくる映画は数あれど、「大和」とタイトルにつけ、大和が主人公の映画は、
「宇宙戦艦ヤマト」をのぞけば、この「戰艦大和」「男たちの大和」二つです。


かねがねこのブログを読んで下さっている読者の方は、
エリス中尉が2006年作品の「男たちの大和」にいかに点が辛く、逆に、
終戦後すぐに作られた白黒の戦争映画に評価が甘いかよくご存じだと思いますので、
この二つの映画をタイトルに選んだ時点で、だいたい結果ありきの、
「前者下げ、後者上げ」の内容ではないか?と思われたでしょうが、
誤解のないように言っておくと、「男たちの大和」は、良い映画だと思います。
ドラマとして。

戦争を舞台にした人間ドラマとして、この映画が感動的であることを否定はしません。
でも、それは普遍的なドラマとしてであって、
「大和を描く」「戦争そのものを描く」とはまた違う観点のものだと思うわけです。
「男たちの大和」の監督は、反戦をテーマにしている、とはっきり言い切っています。

といいつつ今日の企画は

「男たちの大和」と「戰艦大和」徹底というか一部比較!(今考えた)

もしかしたら語って行くうちに「男たち」のいいところも見つかるかもしれない(笑)
ということで、あまり偏見を持たずに粛々と比較をしていきたいと思います。

<原作>
誰の目を通して、映画という媒体で大和を語っているか、ということでもあると思うのですが、

「戰艦大和」は吉田満の小説「戦艦大和ノ最後」
吉田氏は若手士官として実際に大和に乗りこんでおり、
大和沈没時には駆逐艦「冬月」に救助された生還者です。
主人公といった役割の「吉村少尉」が、吉田氏をモデルにされて、
物語は吉村の独白と共に、吉村の見た戦艦大和の最後という形で進められます。

「男たちの大和」は、それが題名でもある辺見じゅん氏のノンフィクション。
戦後世代で、女性でもある作者が、生存者の証言聴きとりをまとめ上げたものです。

もうすでに、このあたりから両者の立ち位置というか語り口が、
全く別の次元になってしまっていることにご注意ください。

<主人公>
前者が、吉村少尉(吉田満)がそのまわりに起こったことを述べる視点なのに対し、
後者は、たくさんの聴きとり対象者の体験をまんべんなく語ることを目的にしており、
創作された架空の人物に、実際の証言にみられたエピソードを間配る、というもの。
かなりの変更がなされているので、原作をイメージして観た場合、混乱させられるという話も。

その中心的人物は、「戰艦」が士官、「男たち」が下士官と水兵
「男たち」は、インタビュー対象者が圧倒的に下士官兵が多かったらしく、
自然とこうなってしまったようです。
主人公は、特別年少兵の神尾一水
生き残った老神尾が往時を語る、という形でドラマは進められます。


<舞台>
「戰艦」は、ほとんどが大和の中に終始。
巡検の様子や、吊り床などのほか、大和の日常は士官室が多い。

「男たち」は、現代の人物と大和のかかわりから説明しなくてはならず、ただでさえ、
主人公の故郷やら幼馴染との何やかややら、描くことが多いので、大和の中のシーンは、
「舷門」「炊事場」「砲座」「士官室」「下士官の罰直コーナー」
が、ほんの少しずつ登場します。

先発の「戰艦大和」の表現を、どうしても意識せざるを得なかったと見えて、
「男たち」では、「戰艦」とのバッティングを避け、
「デッキ磨き」「海軍体操」など、「戰艦」とは違うシーンを盛り込んでいます。

「男たち」は前の項でも書いたように、25ミリ対空銃座が主な舞台。
実物大の模型セットを作ってしまったので、それを使わないと勿体ないとばかり、
戦闘シーン、訓練シーン、あの広い大和艦上の、ここばかりが画面に登場。
「男たちの大和」あらため「男たちの対空銃座」という方がふさわしい展開になっています。
「戰艦」のほうは、艦橋基部と、高角砲が実物大の屋外セットで作られたそうです。

「戰艦」が、機銃、高角砲、主砲が最後まで沈黙せず撃ち続けたという表現をしており、
各部署配属の士官たちを追う関係で、まんべんなく各配置の戦闘を語っているのに対し、
「男たち」はあくまで銃座優先。 (高角砲の持ち場が一瞬映りますが) 
神尾はじめ配置員は、最後の瞬間まで銃座を離れず敵機を攻撃し続けます。

<大和の最後>
「戰艦大和」は左に傾斜した大和が完全に転覆、大爆発を起こす様子を描写しています。
お金もなく、当時の稚拙な技術で、涙ぐましいほど史実に忠実であろうとするその姿勢に、
大和そのものにに対する愛を感じます。
模型まる分かりですが。

「男たち」の大和の最後は、左に傾いた大和の全体像が一瞬現れ、艦橋の皆の姿勢などから、
注意して見れば左に傾いていることがわかります。
(注意して観なければ勿論気付きません)
さらに、爆発も、爆発光と衝撃音だけで表現され、カメラが引くとすでに大和は沈んで、
爆発のあとの黒煙を噴き出しているシーン。
現代の技術を駆使していますから、このあたりは比べ物になりません。



<乗組員の人間模様>
「戰艦」は、いずれ死ぬ運命だからと婚約を破棄し、婚約者に「別の男性と幸せになれ」という
乗り組み士官の別れのシーンだけが唯一の「からみ」。
いつも妹の写真を恋人だと言いながら見せていた士官も戦死しますが、最後のシーンで、
その妹が兄の死を知らず手紙を読みながらはしゃいだりします。

軍医長の若い妻は、夫の帰りを待つ自宅で衣替えの真っ最中。
大切にたたんだ第一種軍装を夫が着ることは永遠にない、
ということを夢にも思わない幼な妻の姿に皆が涙をそそる、という演出。

「戰艦」の「親しいものも誰一人大和の死を知ることがない」という表現方法に対し、
「男たち」はご存じのとおり。

ここが、わたしがこの映画に良い点を上げられないポイントなんですよ。
乗組員と彼らにまつわる人々とのかかわり、これが実はつまり「男たち」のテーマですから、
主人公の神尾、内田、森脇はもちろん、脇役の西、唐木、常田(一水)、全員のエピソードが
複雑な家庭事情も含め、細々と描写されるわけです。

しかし、不思議なのは、乗員はともかくとして、最後の上陸をしたとき、
家族やら恋人やらが、全員「大和は死にに行く」って知っているんですよ。

神尾の幼馴染が「大和は沖縄にいくんやろ?かッちゃんも死ぬるんか?」
内田のなじみ芸者も「あんた、沖縄に行くつもり?」

お嬢さん、お姐さん方、ちょっと待った。

沖縄特攻は極秘行動。
大和に限らず、軍人には軍の作戦や行き先について何人たりとも口外してはいけない、
という軍機守秘義務があったはず。

なぜ二人とも死にに行くどころか、大和の行き先まで知っているんです?


<有賀艦長>

二つの映画で、この有賀艦長の最後の描き方は違います。

「戰艦」・・・部下に命じて羅針儀に体を縛りつけさせ、艦と共に沈む。
    「お供します」という部下に「生きて日本を造れ」と諭す。
「男たち」・・・指揮所に上がって戦闘を続けている間に、負傷し、沈没時羅針儀にしがみつく。
    周りの乗組員は全員戦死している。最後まで「総員離艦」を叫び続ける。

まさに巷間伝えられる有賀艦長の最後の姿はこの二通り。
前者は「戰艦大和ノ最後」から取られていますが、吉田氏はこれを見たわけではありません。
吉田著書中には、噂や未確認情報等、出版直後から抗議を受けたものも含め、
史実ではないことが含まれているそうですが、だからこそ「小説」と断っているわけで・・。

いくつかの証言によると、鉄兜を被り白手袋をした有賀艦長が羅針儀を握りしめていたこと、
そして第一艦橋まで降りてきてその後姿を消したことなどが伝わっています。
「男たち」の有賀艦長(奥田瑛二)は、こちらの説にそった最後を遂げています。


ところで本日画像に何の説明もないまま最後まで引っ張ってしまいましたが、
<臼渕磐大尉>
画像は、大和ミュージアムに展示されている臼渕大尉の肖像です。

今まで、臼渕大尉が映画に登場したのは二回。
まさにこの二つの映画であったわけですが、ちょっと、これどう思います?

伊沢一郎、41歳。
長嶋一茂、39歳。


いずれも、映画上で臼渕大尉を演じた俳優のその当時の年齢なんですが、
臼渕大尉が大和特攻時何歳であったかというと、

21歳

ですよ?
なんでそろいもそろって年齢が実際のダブルスコアな二人を使うかな。
昭和20年ころ、士官は兵学校を3年で卒業し、卒業後もあっという間に進級しましたから、
昔は年齢的にまだ少尉候補生であったはずの海兵70期はすでに大尉。

長嶋一茂の方は妙に若く見えるので、見た目30歳くらいかな?って感じでしたが、
この伊沢さんが・・・・。
どう見ても41歳以上でも以下でもない臼渕大尉で、本日画像の、
まだ幼さの残る、眉目秀麗白皙の秀才の面影、まったくなし。
一茂も、こちらはどこをどう見ても秀才に見えないし(←失礼?)。

臼渕大尉問題に関しては、どちらの映画にもダメ出しさせていただきたい。

そしてそう考えてみると、ガンルームで言いあいをしているガンルーム士官も、
「男たち」の方はどう見てもおじさんばっかり。
臼渕大尉よりも階級が下ってことは、士官、予備士官共に全員20歳そこらであったはずなのに。


「戰艦」の方は無名の丹波哲郎が少尉役で顔を出しています。
このとき丹波はすでに29歳なので、これも少尉にしては老け過ぎです。
(遅咲きの新人だったんですね、丹波さんって)
しかも、大和で最年少だった73期の海兵卒士官はこの直前中尉に昇進していたので、
つまり「少尉」は大和に乗っていなかったわけ。
吉田満はこのことも知っていたと思うのですが・・・・。

どちらの映画でも臼渕大尉は、吉田本に著される通り、士官と予備士官の間の争いを止め、
「日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」ということを言いますが、
「男たち」で使用されたこの場面に対して、吉田氏の遺族が「エピソードの無断借用だ」
とする抗議をしたとかしないとかの話を、どこかで読みました。

実はこのセリフは、吉田氏が「大和乗員の想い」を代表して臼渕大尉に言わせた、
つまり、結局「吉田氏の創作」ではないかとの説もあるそうです。

あらら。・・・・ってことは、創作物の無断借用、ってことになるのかしら。


「戰艦」で教導を務めた大和副官、能村大佐の役をするのが、藤田進
役名も能村大佐で、この映画でのもう一人の主人公でもあります。
能村大佐が実際に体験したことも盛り込まれており、沈没後、
浮遊物につかまって漂う乗員の中で、この能村大佐が大声で「生存者は姓名申告!」
と叫んでいるところに、米軍機の機銃掃射が襲ってくる様子も描かれていました。


<敵愾心>

敵に対する気持ち、例えば米英撃滅やら本土攻撃の敵やらのセリフはどちらも全く無し。
そもそも反戦目的に作ったと監督が公言している「男たち」は勿論、「戰艦」の方も、
戦いに赴く個人、死ににゆく大和に焦点があり、そこに「敵」は見えません。

「男たち」敵愾心に燃えて狂ったように銃座に座り続ける乗員が描かれていますが、
何に対して、という感じではなく、まるで「自然災害」と戦ってでもいるような粛々とした様子。
これは実際に戦争を経験した方たちが、不思議と「米英を憎む」というより
漠然とした敵、まさに災害としか言いようのない大きなものと戦っているようだったと、
一様に言っていることにも通じる気がします。

(勿論沖縄や、原子爆弾の投下された広島や長崎の被災者は除きます)


<描きたかったもの>

「戰艦大和」が大和とその最後を描きたかった、というのは万人の認めるところ。
では「男たち」は?
これはどう見ても「大和に乗っていた人間のドラマ」でしょう。

後者において、人間ドラマを優先したため省略された「大和ならではの逸話」があります。

菊水作戦発令の際、第二艦隊司令伊藤整一中将の命令で、
少尉候補生、傷病者、古残兵が艦隊から降ろされました。
実戦経験も配置もない、実質足手まといになりかねない候補生はともかく、
「大和の主」を自任していたある古残の下士官兵は、直接有賀艦長に談判に乗りこみ、
抵抗するも、結果的に説得されて涙ながらに艦を降りたそうです。

「戰艦」では、この様子がこのように描かれます。

艦を降りる古残兵に少尉が
「おやじのような年齢のお前に命令するようなことになったが、これも軍隊だ、許せ」
といい、言われた老兵が涙をこらえ、
「武運長久をお祈りします」と答える・・・。

これですよ。
こういうシーンを描いてこそ、戦争映画なの!

今回、この項を書くためにどちらの映画もじっくり観直してみたのですが、
「男たち」が映画として感動的であればあるほど、
「死なんといて!」やら「俺だって死ぬのは怖い」やら、「帰ってきたらお嫁さんにして!」やら、
戦争そのものでなく、それをまるで「災害」として捉えているかのような表現が多ければ多いほど、
「こんなもん、戦争映画じゃないやい!」
と反発してしまう自分がいる・・・。

「真珠湾からの帰還 捕虜第一号と呼ばれて」(でした?)というNHKのドラマに感じたように、
戦争そのものを、その通りに描くことと、
感動的なドラマを描いて感情的に反戦を訴えることを
、混同しないでいただきたい!

つまり、このテの映像創作物全てに対する不満が、結局確認できる結果に終わりました。

それから、もうひとつ。
<軍艦行進曲が劇中で使われたかどうか>。
これだけで、わたしは「戰艦大和」を評価したいです。音楽は芥川也寸志。


<結論>

最近の戦争映画って、どうして必ず「現代」とオーバーラップさせるんでしょうか。

もともと重傷でさらに戦闘で負傷した内田兵曹がなぜか生きていて、戦後養女をもらい、
その娘が父の死後、偶然出遭った神尾一水と一緒に、大和沈没地点で骨撒き。


この展開、ご都合主義も度が過ぎませんか?
だいたいもし生きていたなら、内田兵曹、絶対戦後神尾に連絡を取りませんか?
あらためて思うんですが「男たちの大和」の現代部分って、本筋に必要ですか?
無理して現代部分を創って、ほころびも出るし、全体が薄い感じは否めないし。
つまり、脚本が○○。(←適当な二文字を略)

「戰艦大和ノ最後」は戦後すぐ書かれましたがGHQの検閲に遭い、1952年に出版されました。
映画はそのわずか一年後、1953年に公開されています。
米国艦を撮影に貸し出そうという話もあったそうですが、「菊の御紋」をつけたいと言ったら
米側はつむじを曲げて話はなくなった、というくらい、まだ何かとピリピリしていた頃です。

しかし資料も情報も資金も限られた状況下で、この入魂ぶりは驚くべきだと思います。
稚拙な模型の戦闘シーンや、考証の甘さ、役者の演技の稚拙さもさほど気にならない
「現実を超えた映画」と言えましょう。

<各映画を一言で>
 
「戰艦大和」・・・大和に対する愛が、全てを超えた名作。
いわば愛国無罪、じゃなくて愛大和無罪映画。

「男たちの大和」・・歳をとって、海軍式の敬礼もきれいさっぱり忘れてしまうような
ボケた神尾一水の老後の描写などいらないから、その分「戦艦大和」を描くことに
専念していただきたかったと思います。

一言になってない





 


重巡「鳥海」の見た零戦

2012-04-03 | 海軍

この画像を描いていて、ふと気付いたことがあります。
この写真に写る搭乗員たちは、ほとんど全員が傷ついた坂井一飛曹を心配そうに見つめています。
しかし、おそらくこの中の誰よりも帰還した部下の身を案じていたにに違いない笹井中尉は、
まるで自分が坂井三郎であるかのように、目を伏せているのです。

このため、二人だけが周りから隔離され、あたかも濃密な空気に閉ざされているかのようです。


この白黒の写真では怪我の悲惨さが伝わってこない、と以前書いたことがあります。
そう、なんといってもかれが流した血の色が全くわからないのです。
というわけで、以前アップした
「1943年8月7日、ラバウル東飛行場に帰還し自力で歩く坂井三郎と台南空搭乗員」
を血の色を再現する為だけに、カラーで描いてみました。
血は、おそらく航空眼鏡の周りにこびりついていたのではないかと、
また元写真の坂井氏の様子から想像してこのように付着していたのではないかと想像します。


丹羽文雄著、「海戦」の伏字復刻版を読みました。
一日で一気呵成に読み終え、読後は何かとてつもなく心の深いところでしんと響くような、
冷たく冴え冴えとしたなにものかが次第に波紋を広げてくるような、そんな感動でした。

丹羽文雄が報道班員として、新聞記者ではなく作家として旗艦重巡「鳥海」に乗りこみ、
第一次ソロモン沖海戦をその目で見たのは、8月7日のことです。
日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示したと言われるこの海戦については、
ご存じの方も多いでしょうから、ここであらためての説明は避けますが、
この「海戦」は、軍人ではない、作家の目を通してこの戦いを描写した言わば「参戦文学」。

本質を見抜く濁りのない目、そしてその目で見たものを余すことなく掬いあげ、
従軍記者の筆では到底到達し得ない磨き抜かれた表現で文字にし伝え、
さらには、そこにあって本人すら気付かない心理の襞までを描き、真実を超える表現で、
戦争の何たるかを考えさせられずにはいられない境地にまで昇華させています。

これは「従軍作家」の目から見た戦況を国民に伝えるという目的を持ったものです。
しかし、この作家の筆は、戦後数十年を経た今日の価値観を以てしても全く矛盾の無い真理、
すなわち戦争の悲惨さとひいては虚しさまでもを、読む者に突き付けてやみません。

優れた小説はリアリティにおいても凡人の手によるノンフィクションを超える、
という例の嚆矢といえるかもしれません。
ましてやここに描かれた全ては、戦争に参加した人間自らの手によるものなのです。



私は祈った。
祈りながら、手が震えた。当たってくれと祈った。

やがて甲巡の艦尾の方も燃えはじめた。まん中が黒く切れている。煙であろう。
燃える艦首が海に映る反射であろう。
白みをおびた赤い油絵具をどろりと海上に落としたようであった。
すきとおる紅蓮の焔であった。生涯忘れられない色であった。
生涯思い出すたびに、心臓の一部が針を立てられるような痛みを覚えるであろう鮮やかな色の印象であった。
燃えながら敵は討っていた。

「つっこんでくる。つっこんでくる」
そう言われてみると、左舷に向かいサンフランシスコ型甲巡が艦首をこちらに向けて、
ぐんぐん接近してきた。
すでに敵艦は後半身を火焔につつまれていた。(中略)
操舵の自由を失っていたのであろう。
体当たりに突っ込んでくるより他に舵がとれない、悲しい身振りであった。
討ってきた。泣くばかりに討ってきた。私は奇妙な瞬間を待った。
討たれることが判っているのに身動きをしないのだ。無抵抗に最後を待っていた。


「これこそアメリカ海軍がかつて被った最悪の敗北の一つである」
とアメリカ人に言わしめたこの海戦。
鳥海上で戦死34名。負傷48の被害があったにもかかわらず、
その手ごたえに「勝利」を確信し、皆でラジオから流れる大本営発表に耳をすませます。
そして、「子供のようなきれいな笑顔で」静かに微笑みながらその喜びを皆が反芻する様子を、
丹羽はまた書きとめています。


今日は冒頭画像とこの「海戦」との関係について、お話します。

このソロモン沖海戦が行われたのが8月7日。
この鳥海を旗艦とする第八艦隊の出撃と相前後して、同日8時、
ラバウルから坂井三郎機を含む台南空の零式艦上戦闘機17機が出撃しました。

その空戦中、ドーントレスの銃撃で傷ついた坂井が、
不自由な視力、そして流血と戦いながらラバウルに帰還ました。

この帰路のできごとを坂井はこう記しています。

(「一万トン級の巡洋艦らしい」艦二隻を認め)
「列機と別れてから初めて味方を見た。わたしは泣き出しそうにうれしくなった。
助かった。
すぐ着水したら、助けてくれるかもしれない」
「わたしは高度を下げ、この二隻の軍艦の上を旋回し、すんでのところで着水しようとした」


一方、鳥海にいた丹羽が、同日このような出来事に遭遇しました。

「爆音じゃないか」
「敵機か」
辺りが騒がしくなった。私の耳にも、闇の中からかすかな爆音が聞こえてきた。
音のありかが判らなくていらいらした。
「味方の戦闘機が一機、かえりつつあります。傷ついています」
見張員が怒鳴った。彼の双眼鏡は空の闇まで見透かせるようであった。爆音が近づいた。
艦橋にぶつかりそうに唸り声が迫った。

「無事に基地まで戻ってくれよ」
爆音がさっと艦全体を包んだように聞えた。夜目にもはっきりと機体が見えた。
びっくりするほど低いところをとび、艦とゆきちがえた。
「よたよたしてる。飛行士は傷ついているのではないか」
「基地まではかえれないだろう。不時着だ」
「水艇でないから、さあ、うまくとび出せるかな」

私は胸の中で手を合わせた。
無事に基地まで戻ることが無理であろうと、戻ってくれと祈らずにはいられなかった。
私の瞼は熱くなった。それは暗かった。


いかがでしょうか。
これを読んだとき、わたしはこれが坂井機であることを信じて疑わなかったのですが、
肝心の坂井は「我が零戦の栄光と悲劇」(だいわ文庫)で、
「それは(重巡ではなく)巡洋艦で、青葉と衣笠だったことを知った」と書いています。
この記述ゆえ、丹羽のいた鳥海とすれ違ったのが坂井機であったという見解が、
その後どこからも出て来ないのだと思われます。

しかし、その時の坂井の視力がどんな状態であったかを考えてみましょう。
片目がまったく見えない状態で、しかも出血してから相当時間がたっており、
まさにたった一人で自分の体力と気力の極限に挑んでいた坂井が、
艦の種類(全長200mの鳥海に対して青葉、衣笠は185m)を見間違えたとしても、
何の不思議もありません。

もっとも、鳥海とすれ違ったころすでに夜になっていたのに、ラバウルに着いたときには、
画像を見てもお分かりのようにまだ陽は高く、明るくさえあり、
これも丹羽が見たのが坂井機と断定するには疑わしい材料です。


しかし「傷つきながらよろよろ飛んできて艦にぶつかりそうになるまで低空飛行をした」
というこの一文から、どう考えてもわたしにはそれが坂井機であるとしか思えないのです。

これが仮にこの推測通り坂井三郎の零戦だったとしましょう。

だが、わたしは思いとどまった。
この二隻の軍艦は、ガダルカナル沖の戦場へ急いでいるのだ。
もし彼らが、わたしを拾いあげるために止まったら、
わたし一人のために、戦場に急いでいる何千人もの足を止めることになるのだ。

この坂井の判断はまさに正鵠を誤らなかったと言えます。
坂井機が着水したら、その救助のために艦船は止まったかもしれませんが、
もしかしたらこの日の夜戦に大きな後れをとっていた可能性もあるのですから。


それでは、世間と坂井の認識の如く、これが坂井機でなかったとしましょう。

「水艇でない単機の飛行機」が、零戦であるとは、素人の丹羽は判断できなかったのか、
あるいは零式の名を知らなかったのか、機種については述べられていません。
因みにこの日出撃したのは
零戦17機、一式陸攻27機、九九式艦爆9機。
この機体が零である確率は高いと思われます。

この日、台南空からは河合四郎大尉の二番機吉田元綱一飛曹
大木一飛曹の三番機西浦國江二飛曹が行方不明になっています。


鳥海とすれ違ったこの飛行機の操縦士が、この日行方不明となったこの両人のどちらかで、
かれはやはり坂井三郎のように傷つき、ラバウルを目指して必死に飛んでいたが、
この後、誰にもその最後を看取られることなく、ひっそりと漆黒の海に消えて行った・・・・・。


この考えも、そう突飛な想像でもない気がしているのですが、いかがお考えでしょうか。


 

 





秋水くんとコメートくん

2012-03-31 | 海軍








「秋水」と「Me163(コメート)」への愛が高じて、マンガにしてしまいました。
調べてもあまり分からなかったのですが、秋水とコメートの技術開発って、その後継承され、
今日なにかの形に受け継がれている、っていうようなことはないんですか?
まさか、ドイツも日本も、これっきりで終わってしまった「無駄な研究」なの?

もしこれをお読みの方で、「秋水(コメート)の研究技術は、こんなことに生きている!」
という話をご存じの方がいたら、ぜひ教えていただきたく存じます。

だって、あれっきり無駄花のように散ってしまったのだとしたら、
この超絶可愛らしい機体のかれらが浮かばれないじゃないですか・・・。