ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

初夏の味覚・鮎料理と明王院の太鼓回し

2017-06-19 | お出かけ

表題とは関係ないのですが、息子が今学校で募集したボランティアに参加していて、
その写真が引率者から送られてきたのでちょっとご紹介します。

場所はカンボジア。
プロジェクトは現地の家族のために家を建てること。

一週間で、しかも経験のない青少年が作る家というのも驚きですが、
ボランティアに家を建てて欲しいと申し込む人もいるのだそうです。

作業はリヤカーで建材を運ぶところから。

現地の大工さん?に作り方を指導されながら。

窓がつきました。
ガラスをはめるのか、網戸かはわかりません。

日中の作業の合間には、現地の人々との交流活動が持たれたようです。
説明はありませんでしたが、古老の知恵を知る会、みたいな?

地元学校への慰問もあり、すっかり仲良くなって最終日には泣いてしまう子もいるとか。

しかも家は予定より一日早く落成したとか・・・。
落成祝いに新居をデコレーションし、家族に引き渡し。
家を受け取る家族は祖父母と息子夫婦と孫という構成だそうです。
男たちは畑を耕して糧を得ているものの、貧しくて家を建てられませんでした。

ボランティアは今週で終わり、息子は羽田に帰国してきますが、話を聞くのが楽しみです。

 

さて本題、初夏の味覚、鮎を楽しむために京都に行ってまいりました。

まず前日夜、とある小料理屋が企画した「蛍を見ながらハモ鍋」のお席に。
坪庭に130匹の蛍を放つために前もって客から「蛍基金」を募り、
窓に乱舞する蛍を見ながらお酒と鍋をいただくという企画です。

水を打つたびに蛍の光が窓の外を乱舞する様子は大変風情がありました。

「こんなに一生懸命光っても、メスはこの中に1匹もいないんだよね」

「・・・で、目的を果たせないまま・・・」

「なんで蛍すぐ死んでしまうん?」

「そのセリフは禁止!」

その晩は市内のホテルに泊まりました。
ホテルの前にあった元小学校。
廃校になってしまった後も、趣のある校舎は市民のコミュニティの場として、
企画展を行うスペースやカフェになっているそうです。

校庭では盆踊り大会も行われるとか。

向かいの幼稚園跡では清掃局が資源物の回収を行っていました。

さて、この日は朝からレンタカーで郊外に遠出することになっています。
四条の角にあるレストラン菊水の建物、角の窓が昔は鏡だったんですよねー。

この日借りたのはアウディ。
国産の小型車に比べると、随分出足が鈍いなという印象でしたが、
京都の小路を走る時に威力を発揮しました。

で、市内を走ったのですが、京都ナンバー、特にタクシーの運転マナーがひどい。

関東ではウィンカーを出したらたいていの車は前に入れてくれますが、
京都の車は逆にスピードを出して、間に入れまいと前の車との距離を詰めるわけ。

右折するために車線変更しようとして3台の車にそれを立て続けにやられ、
こちらはウィンカーを出す車を普通に前に入れていたら、
先導してくれるはずの地元の人の車とあっという間にはぐれてしまいました。

まあナビがあったのでなんてことないんですけどね。

目的地となる料亭の横には神社があり、そこの境内に車を止めました。

これが本日鮎をいただく予定の料亭「比良山荘」でございます。
料亭の前の溝には清流といってもいい綺麗な水の流れが走っていました。

夏は鮎、秋は松茸、冬は熊料理がここの売り。

まずは冷たいジュンサイの一品が出されました。

「あの人ジュンサイみたいな人ですね、っていうことがあるらしいですね」

「してその心は」

「捉えどころのないというか、ようわからん人というか」

「少なくとも褒め言葉ではないね」

八寸では”なれ鮨”、筍や梅の蜜煮など。
右下は鯉こくの卵部分でしたが、これが意外なくらい鯉という感じがしませんでした。

ハモの焼き物(焦げ目が香ばしくてまた美味しい)と鯉の洗い。
弾力があり噛み応えのある刺身でした。

そしていよいよみなさんお待ちかねの鮎。

箱の蓋をとると、竹の木片を燻す煙が立ち上り、皆は一斉に歓声をあげました。

一人3匹づつ、と言われて、皆熱いうちに我先にと箸を延ばします。
実はこの前の晩の蛍ナイトでも鮎が出されたのですが、うちのTOは頭を残し、
女将さんに

「鮎の頭残すなんて勿体無い!」

と怒られ、わたしが彼女に

「明日の鮎では頭も食べるように、ちゃんと見張っておきます」

と、とりなしたという前振りがありました。
しかし、ここにきて鮎の頭を残すなんてことは、罰当たり以前に
本当に鮎を食べたことにすらならないのだと、彼も実感したようです。

鮎は器と趣向を変えて次々と出てきます。

頭から齧る鮎は、ほろ苦さはあっても、さっきまで清流を泳いでいたため、
コケ臭いなどということは全くあり得ません。

ひたすら清浄で、パリッとした皮の下に馥郁たる香りの柔らかな白身があり、
それらの食感も手伝ってえも言われぬ至福の味わいです。

同行した同好の士は、わたしたち夫婦をのぞいて全員が日本酒をガンガン飲みながら
盛んにうまいうまいと口の端に乗せながら鮎を楽しみました。

メンバーはその業界では誰でも知っている IT関係の会社の社長とその社員や、
Nのつく銀行から民間に出向し京都生活をエンジョイしている人などで、
つまりやたら口の肥えた美味しいもの好きの飲兵衛さんばかりだったのですが、
その人たちが一様にボキャ貧となって(笑)ひたすら鮎にかぶりついています。

結局、一人が大ぶりの鮎を7匹ずつ食べたことになるのですが、
誰も多いといったり残したりしませんでした。

そしてメインイベントというべき、シメの鮎ご飯登場。
板さんが直接土鍋を持ってきてくれます。

焦げ目がついているので後から乗せたものかもしれません。
ご飯には炊き込んだような味がついていました。

頭と尻尾を取ってしまい、(ご飯には頭は入れない方がいいらしい)
身だけをご飯に混ぜ込んでいただきます。

お味噌汁は鯉こく。
お汁の表面に脂が浮かぶほど、脂が乗っている身はとにかく甘かったです。
ご飯の美味しさは言わずもがな。

デザートがまた一風変わっていました。
木の芽の味のアイスクリームの上に、甘みのない道明寺を乗せて一緒にいただきます。
赤い実は山いちご。

部屋の床の間には、清流を泳ぐ鮎の姿が描かれた額がかけられていました。

掛け軸の下にはガラスの熊さん。
これはこの比良山荘の冬の名物が、熊肉の料理であることからです。

「クマー?」(AA略)

最初に聞いた時にはびっくりしましたが、冬眠前の熊は美味しいらしいですね。
ここでは熊鍋のことを「月鍋」(月の輪熊の月)と称するそうです。
この辺りの熊は害獣でもあるので、肉や漢方薬の(胃とか)材料にするために
年間に決められた数を捕獲することが許されています。

同行の方々はこういった味覚を求めて、年に何度もここに足を運ぶのだとか。

 

食後は一同で近隣の神社仏閣に足を向けてみました。
まずこの料亭の隣の「神主(じしゅ)神社」。

狛犬さんの苔むし方が神社の古さを物語っております。

案内によると、貞観(じょうがん)元年、つまり859年の創建だということで、
なんと1158年前にできたことになります。

貞観というと富士山が噴火し、貞観の大地震が起こったという頃ですね。

この社殿は文亀2年(1502)の建立ということですが、重要文化財と言いながら
祭礼が行われている様子がなく、神殿も舞台も虫食いだらけになっていました。

「こんなので大丈夫なんかね」

「保存しようってつもりが全く感じられませんね

ここで神楽などしようものなら、床を踏み抜くか、天井が落ちてきても不思議ではないような・・。

近くの渓流には足を水につけたり、山菜採りをしている人たちがいました。
この川は琵琶湖に向かって流れていく上流にあたります。

話を聞いた時はなんとなく京都だと思い込んでいたのですが、実は滋賀だったのです。

地主神社はこの奥にある「明王院」の鎮守だということで、
ここにもお参りさせていただくことに。

寺の鎮守が神社って、普通のことなんでしょうか。

手水を使おうとして体長2mくらいの蛇がいたのでびっくり。
どうも蛇は水を飲みにきていたようです。

「蛇は不動明王の使いだっていうね」

そういえばここは「明王院」・・・・。

本堂にもその周辺にも人の姿はなく、見学者は照明のスイッチを自分で点けます。

歴史ある寺院らしく奉納されたされた古くからの板絵を見ることができます。
右側の色褪せた合戦の絵は延長か延喜か・・・。
とにかく、鎧をつけた武士が合戦をしていた頃に奉納されたもの。

右で鬼と相撲取りが首に縄をつけて引き合いをしている絵は、
万治2年(1659)に奉納されました。

左は安政2年(1855)、京都の井筒屋小兵衛という人の奉納。
美術品のように保存をする気もないらしく、掛けっぱなしにするうちに
次第に描かれた絵が消えてしまった右側の額は、人々の服装から平安時代のものです。

これもほとんど消えかけていますが、天保15年(1844)の寄進。
元号が変わる頃、変わった直後に行われた奉納が多いのですが、気のせいでしょうか。

本堂の片隅に、時間があれば写経を行ないお納めください、というコーナーがありました。
ただし、持って帰らないように、とのことです。

本堂の床が、こういう無数の傷跡のようなもので覆われているのに気づきました。
まるで鎌倉彫の表面みたいです。

明王院は「葛川太鼓回し」という儀式を行うことで有名なのだそうです。

太鼓をとにかくぐるぐる回すのですが、太鼓の胴を床に付けてはいけないとか。
よくわかりませんが、回すだけ回したら上にお坊さんが乗って床に飛び降りるらしいです。

回廊の外側に太鼓回しに使う太鼓が収納してありました。

隣のラック?には回しすぎて縁が破れた御用済みの太鼓が。
きっと歴史のある(太鼓回しの初代太鼓とか)ものに違いありません。

なんのために太鼓を回すのか?

というとそれは修行のためらしいです。
なぜそれが太鼓でなくてはいけないのか、
とか、
太鼓とは叩いて音を出すものだと思うのだけど、なぜ叩かず回すのかとか、

疑問をいい出したらキリがないのですが、そういうことも含め、地元には
理由については詳しい話は伝えられていないようです。

わたしとしては最初にやりだした人の単なる思いつきだった、に1和同開珎。


無理やり最初の話題にこじつけると、息子の学校のボランティアにも特に理由はありません。
そこに助けを求めている人がいるから、わざわざ飛行機でカンボジアまで行き、
一週間を費やして家を建てる意味があるのです。たぶん。

というわけで、初夏の鮎を楽しんだついでに、比叡山の僧の
伝統の荒行(ってか奇習)を知ることになった小旅行でした。

 

 

 

 

 

 


葉山の休日

2017-05-07 | お出かけ

大型連休も終わりですが、皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。
わたしは知人にお誘いいただき、葉山でヨットに乗ってきました。

有名人、著名人の別荘を海岸線に多数もち、御用邸があり、
日本で初めてヨットレースが行われたということもあって、
別荘とマリンスポーツの街、という、なにやらセレブなイメージのある葉山。

今回お誘いいただいたヨットオーナーは葉山マリーナのクラブ会員です。

駐車場にはとりあえず全ての信号旗がディスプレイされ、
看板にはクルージング(石原裕次郎灯台クルージングとか)や
クルージングの時間チャーターのお知らせがあります。

逗子駅から一本のバス通り沿いに、帆檣が林立する光景が見えたら、
そこが葉山マリーナ。

レストランやショップには観光客も入れますが、ヨット置き場には
クラブの会員と一緒でないと立ち入ることはできません。

サンフランシスコのヨットハーバーは、海上にオーナーがヨットを繋留してあり、
東部ボストンのハーバーの周りは、自宅からヨットに乗れるうちが多数あります。
関西では西宮に昔からヨットハーバーがありますが、ここも海上に繋留式。

しかし葉山、逗子は施設に対して隻数が多いらしく、ヨットは全てこのように
陸上で管理しています。

「どうやって海に入れるんだろうね」

「あのデリックから出航するんだと思うけど」

見ていると、ヨットの乗った台ごと専用の重機?で移動させています。

海に下ろすためのベルトを船体にかけてそのまま下ろす。
結構大変な作業のようですが、あっという間にヨットは海に。

船上には岸壁から渡された20センチくらいの幅のラッタルで渡ります。

「♪ドミソド〜ドミソド〜ドミソドッミソッソソ〜〜(移動ド)」

出航にあたっては先日水雷士を任命された不肖わたくしが、
口で出航ラッパを吹鳴させていただきました。

マリーナを出ると、連休であることもあって結構な数のヨットがいました。
こちら、慶應大学のヨット。

防衛大学校ヨット部のヨットもこの辺でクルーズするそうです。

ミズスマシみたいなヨット。これどうなってんの。
一旦乗ったらずっとこの姿勢のまま帰ってこないといけないわけだ。

ところどころ水鳥の群が漂っていましたが、この鳥が
飛び立つ時には、このように水かきで海面を助走していることが判明。

本日のコースは江ノ島の裏まで行って帰ってくるというもの。
江ノ島を海上から眺めるのも初めての体験です。

この日のクルージングにはオーナーを入れて六人が参加。
一人ずつ舵をとって江ノ島を目指します。

「目標はあの海保の船ヨーソロで」

警備のため錨泊している海保の大型船を目指します。
いつもならこのクラスの船を見ることはないそうですが、
この日は御用邸に宮様がおられたということで、海上警備を厳となしていたのです。

海保の船は海上警察ですので、例えばヨットの上で飲酒していると、
哨戒艇などで指導してきます。

「お酒か水かなんてどうやって見分けるんだろう」

「ものすごい倍率の望遠鏡で見てるんじゃない?」

今まで見えなかった江ノ島の先端が見えてきてびっくり。
連休ということで、びっしりと人がいます。

回廊があるので稚児ケ淵という島の西端だと思われます。

海保の船が近づいてきました。
海保の船ヨーソロで目標にしたものの、

「怒らせない程度に」(笑)

距離を取りつつ後ろを帆走していきます。

このPL31巡視船「いず」は3500トン、就役は1997年。

「でも、ダメ。白い船では全くときめかない。グレイじゃないと」

同乗の

「その瞬間(海上自衛隊に)恋をしてしまったんですよねー」

と初対面の挨拶でもためらいもなく言ってしまう”ネイ恋な女性”が呟きます。
ネイ恋本家である?わたしですが、元々のとっかかりが旧海軍だったこともあり、
実は海保の白い船にも結構ときめきます。

海保の制服も冬服に限りこれも結構ときめきますが、こういう場では黙っています。

しかし、白い船は汚れが目立ちやすいのに、メンテがあまりされてないような。
海保は海自ほどせっせと塗装の塗り直とかしないんでしょうか。

アップにすると塗装がが結構ボロボロなのが目立ちます。

「作業艇の吊るし方が海自とは全く違いますよねー」

「救難のために秒速でおろせるような体制にしてるんじゃないですか」

海自出身のオーナーのヨットなので、乗客も海自視点です。
海自と海保の船の決定的な違いは色々ありますが、一番大きな違いは搭載武器。

これは国防が目的と、救難警戒が目的である違いでもありますが、
海保の船は魚雷や水雷ではなく、ガトリング砲(M61バルカン)くらいしか積んでいません。

それから、独力での出入港のために船にバウスラスターも付いているのも違います。

甲板に海猿くんらしき人影発見。

「なぜ上半身裸・・・・」

「昼休みなんじゃないですか」

いずれにしても海自の艦船ではまず見られない姿です。

海保の船のお尻を見てからヨットをUターンさせ、ハーバーに戻りました。
このころから動揺が激しくなり、左舷に傾いて真ん中に座っていたわたしは
完全に左に滑り落ちる形に。

前方のヨットの傾き具合でお分りいただけるかと思います。
オーナーは右舷舷側に腰掛けて「生けるバラスト」となりました。

「もう少し傾くともう一人座ってもらわないといけないのですが、
お客さんに潮を被らせるわけにはいかないので・・・。
(錘になるのが)一人で間に合ってよかったです」

ちなみにこの後我々のヨットはこの前方のヨットに追いつき、追い越しました。
後から

「私としてはあのヨットを抜かせたのが嬉しかったです」

とメールが来ていました。
昔、この方からヨットを持つことになった、という最初のお知らせをいただいた時、
葉山マリーナにヨットを持つなんてゴージャスでリッチ、と思ったのですが、
この日実際に乗って、わたしが思い込んでいた、船上でパーティをするようなのではなく、
この方のヨットは完全に体育会系だったことがこれで判明しました。

誰も乗らない真冬にも週末は必ず海に出る、
というのを聞いてさらにその確信を深めた次第です。

マリンスポーツのメッカ三浦半島には、いろんなレジャーが存在します。
水上バイクが集団でかっ飛ばしています。

もちろん釣りを楽しむ船も。
突堤にもこの日は釣り客がぎっしりと並んで釣竿を下ろしていました。

この日のランチはこの時後から駆けつけたオーナーの知人女性を加え、
クラブハウスのイタリアンレストラン(ブルーのピアノ付き)でいただきました。
この女性もまた海上自衛隊のファンで、まだ「ネイ恋歴1年」にも関わらず
精力的に艦艇見学などに足を向けておられる方です。

当ブログにも目を通してくださっていると聞いて、つい動揺しました(笑)


さて、というわけで体育会系ヨット体験の1日が終わり、
半分寝ながら葉山から渋滞の道を運転して帰ってきたわたしは、
荷物を降ろして潮だらけの顔を洗うなり、夜8時まで寝てしまいました。

起きてさて写真でも整理するか、とバッグを開けると

カメラがありません。

なんとイタリアンレストランに置いて来てしまったと分り、
お店に確かめて、次の日ドライブがてらTOと取りに行きました。

せっかくまたわざわざ葉山に行くのだから、と大好きなホテル、
音羽の森のダイニングを予約しました。

葉山御用邸をすぐ近くに控え、やんごとなき方々にお料理を供することもある
ここのダイニングは味にも定評があります。

プリフィックスランチでメインにアワビのステーキを選びました。

沖合にはここにも海保の巡視船「たかとり」が錨泊しています。
写真を撮っているとホテルのマネージャーが近づいて来て、

 

「御用邸の警備のためにあそこにいます」

 

と教えてくれました。
葉山御用邸は海上からの接近にも目を光らせていて、
ヨットでも近づくとすぐさま監視が警告してくるそうです。

 


海保の監視船は消防設備として放水銃、粉末放射銃、自衛用として噴霧ノズルを装備しています。
尖閣海域に侵入した台湾の漁船に放水する映像が有名ですね。

こういうのを見ると、船がグレイだろうが白だろうが、
日本を守ってくれる海の防人たちに感謝せずにはいられません。


警備艇の向こうに通過している船は、宮崎県のカツオ漁船宮崎県のカツオ船、
第八十一由丸(よしまる)です。

第八十一由丸はカツオの生き餌となるイワシを捕獲するために
神奈川県の佐島(自衛隊武山駐屯地の近く)に出没するそうですが、
ぐぐっていたら、4年前には気仙沼で横転事故を起こしていました。

上架中にかつお船が横転

造船作業中に傾いて行き横転したようですが、今は元気にお仕事しているようで
よかったよかった。

帰りはせっかくなので、三浦半島の先までドライブしました。
折しもこどもの日、海岸沿いの駐車場にたくさんの鯉のぼりが。

 

こうしてたまに海で遊ぶと、確かに非日常的な体験は十分楽しいのですが、
反面、海に関わる仕事の肉体的な苦労を実感せずにはいられません。

実際に波に揺られ、潮の飛沫をあび、直射日光に炙られ・・・・。
自分の意思ではどうしようもない状況に肉体を翻弄されるのはそれだけで
十分に重労働であることを思い知ります。

岸壁から見たり停泊している船を見学したり、たまに体験航海で乗艦するだけでは
所詮上っ面しかわからないものなんだなと思うとともに、
改めて海自、海保の現場の皆さんへの感謝の気持ちが増した、わたしの連休でした。

 

 
 

 


京都お花見(+グルメ)旅行

2017-04-10 | お出かけ

全国的に桜が満開になった先週末、恒例の京都お花見に行ってきました。
朝の「のぞみ」に乗って、昼前にはもう京都着。

新幹線に乗る前もすでに関東地方は雨でしたが、こちらも降ったり止んだり。
ということでタクシーでまず向かったのは、同志社大学。

ワンパーパスドーシシャでございます。

重要文化財になっている建物もいくつかある同志社キャンパスですが、
最近建築されたものも統一性をもたせて全てが煉瓦造りの洋風です。

この「寒梅館」が完成したのは2004年のことでまだ14年しか経っていませんが、
煉瓦造りのせいで大変風格を感じさせるたたずまいとなっています。

なぜわたしたちがここにやってきたかというと・・・、

法科大学院(つまりロースクール)などが入っている寒梅館の最上階には
「WILL」という名前のフレンチレストランがあるのです。

近隣や卒業生の主におばさまがたで週末は予約がなかなか取れないくらい
隠れた人気スポットとなっているレストランですが、
今回は早めに予約しておいたので窓際の上席に案内してもらえました。

眼下には同志社大学のキャンパス越しに雨に煙った京都の山々が見えます。

予約の時に頼んであったコースの前菜は菜の花のキッシュ。
ほろ苦さがキッシュと意外なマッチングをしています。

肉か魚か選べたのでスズキのメインディッシュを選びました。
肉厚で脂がよく乗った美味しいスズキでした。

食事の後、雨が降っているのでタクシーを捕まえ、

「桜の咲いているところを走ってください」

と頼んでお花見をしました。
運転手さんが走ってくれたのはまず鴨川から分かれる高野川の河原沿い。

川沿いの信じられないくらいの桜並木をお目当てに車が大渋滞しているので
窓を開けて桜を撮ることができます。 

ちょうど望遠レンズを持っていたので対岸のサギも撮れました。

高野川は東側に桜並木があり、西側の住宅沿いにはほとんどありません。

タクシーは高野川沿いを上っていき、北大路通りで左折し、もう一度鴨川の西岸を下りました。

河原にはお天気の怪しいのにもかかわらず、桜を見に来る人たちがいっぱい。
着物でキメて河原を歩くカップルもいました。

運転手さんによると、来週の火曜日までが見ごろだそうです。
つまり今日が今年最後の週末花見。

今や世界の人々が「京都の桜」を見にやって来るので、街全体が
外国人観光客で埋め尽くされていましたが、河原でシートを広げているのは
間違いなく日本人ばかりです。

河原では雨と雨の間隙を縫って、無理やりシートを広げ、お花見パーティをしているグループもあり。
楽しそうで何よりです。

桜の下をそぞろ歩く人、お弁当を広げる人。

個人宅の前の桜ですが、目をみはるほど見事。

着物を着て歩いている人もちらほら。
いつもは川の流れに向かって座るベンチも、今日は逆向きに座ります。

桜そのものを撮るのもいいですが、わたしは桜を楽しむ人が入っている構図が好き。

ここにも鷺がいました。

ご自慢のカメラを持ったご主人と奥さん。
走る車の中からの花見でしたが、すっかり満足です。

TOは用事があったため、もう一度乗ったところに戻り、
わたしと息子だけがホテルに向かいました。

梅田雲濱(うめだ・うんぴん)の屋敷跡の碑を車から発見。

梅田雲濱は幕末の儒学者で、安政の大獄の時逮捕され、
箒尻での笞打の拷問を受けても口を割らず、獄中で死亡しました。

そして夕食は、昨年秋オープンしたフォーシーズンズ京都へ。

近年世界中から観光客が詰めかけている京都ですが、それを受けて
大小のホテルがオープンしています。
フォーシーズンズ京都はリッツに続く5つ星ホテルのオープンです

隣接地域には一部屋5億円のレジデンスもオープンしたそうですが、
売り出されるたびに売り切れていくのだとか。

食事に付いて来るパンのセットすらここではこの通り。
フォカッチャに桜味のバゲット、桜のバターを添えて。

家族で一番美味しいと意見が一致したモッツァレラチーズとトマト、マンゴーのお皿。

牛肉のタルタルは、乗せられた卵の黄身の色からして只者ではない感じ。

わたしが迷いなく選んだのは鴨のコンフィ。
リゾットとパリパリした食感のごぼうのフライが添えられています。
昼は魚だったので大丈夫!と思ったのですが、案の定多すぎました・・。

ホテルのロビーには何か石でできた花の形のオブジェが。
今回花見にいくことを思いついたのが直前だったので、
もちろんながらこのホテルは取れなかったのですが、ハイシーズンなので
そう大きくない部屋でも一泊15万円というお値段がついていたそうです。

明けて次の日。
わたしは一旦6時過ぎにiPadのアラームで起きたもののすぐに二度寝して、
今度起きたら10時という立派な朝寝坊でした。

起きてチェックアウトしていたらお昼になってしまったので、
昨日夜でしかも雨が降っていてよく見えなかった庭を見にもう一度フォーシーズンズへ。

オープンにあたっては贔屓にしていた東京のフォーシーズンズからたくさん
ホテルマンが移動していて、あちらこちらにおなじみの人がいましたので、
外のテラス席を取ってもらうこともできたのでした。
持つべきものはホテルマンの知り合い。

フォーシーズンズの敷地はずっと病院だったそうです。
ハイアットリージェンシー京都も昔病院だったそうですが、
病院跡というのはあまり家を建てたがらないため、ホテルが買い取ることが
多いということなのかもしれません。 

ゴミが投棄されていた元沼地、しかも空港騒音の緩衝地帯だったところに
学校が建つとロンダリングになって土地の価格が上がる、ということを
期待して学校法人に便宜を図って土地を売るようなもんですかね(棒)

 

しかしこの庭は、名のある(忘れた)人物の屋敷の一部で、実に800年昔に造られたものだそうです。

「そんな庭なのに、桜が一本もなかったんだ・・・・」

「桜をあえて植えないというのもポリシーがあってのことだったんだろうね」

ホテルができてから、建物側にホテルが植えた桜の木がかろうじて一本あります。
池の向こう側に見えるのは茶室。

ここでは軽いコースを取りました。
ポーチドエッグを潰してその黄身を絡めるマグロのサラダ。

デザートはざくろのメレンゲとキウイの乗ったパンナコッタ。
これは最高でした。

息子が隣で横で読んでいた本。

「The Sailor Who Fell From Grace With The Sea 」

こんな三島由紀夫の小説あったっけ?と思ったら「午後の曳航」でした。

「こんなの読んでんだ・・」

「英語の宿題で読まないといけないんだよ」

宿題・・・・だと? (驚愕)

テラス席は今日のような曇りで暑くも寒くもない日には最適です。

日曜の午後でテラス席はこの通り満席です。

帰りに顔見知りのマネージャーとばったり会い、館内のスパを案内してもらいました。

「さっきご飯食べてたら庭を猫が横切りましたよ」

この写真で見える石の橋を猫が渡っているのを見たのでそういうと、

「あ、黒い猫じゃないですか」

「いえ、シマシマの」

「黒猫が住み着いているのは確認されているんですが、シマもいましたか」

「池の鯉を狙っていたのではなさそうでしたが・・・
鯉は1匹しか見ませんでした」 

「はあ、ホテルが落成した時、大成建設さんの方から鯉を50匹いただいて
放流したのですが、サギが来てほとんど食べてしまいました」

「あらら」

「じゃ、あの鯉はその生き残りだったんだ」

大きな鯉になってしまえばもう狙われることもないのですが、
大成建設からもらった時には稚魚だったため、ほとんど鷺が
美味しくいただいてしまったということのようです。

 

当初食後は疎水に桜を見に行こうと思っていたのですが、ホテル見学に時間を使ってしまい、
タクシーの運転手さんが

「道が混むので新幹線の時間が決まっているんだったらやめたほうがいい」

というのでそこからは京都駅にむかいました。

智積院前を通り・・・、

博物館を右に見て、「うぞうすい」の前を通り過ぎ・・・。
七条通りの小さな和菓子屋さんの写真を撮りながら

「こういう店もちゃんとお客さんがきて生業が成り立っているのかな」

などと考えていると、女の子が二人店に入っていって
おばちゃんから桜餅を買って行きました。

暗くなりかかった頃帰宅。
週末一泊家を空けている間に、自宅の窓から見る桜がすごいことになっていました。

「京都の桜もすごいけど、実はうちの桜って最高だって帰ってくると思うよね」

なんか去年とその前の年も全く同じことをいった記憶が・・・・。 

 

 

 

 

 


「愚直たれ」メニュー食べ歩き〜呉

2017-04-06 | お出かけ

自衛隊の観桜会というものは桜の下で宴会をするのが目的なので、
今回のように雨天で体育館でやることになると、
文字通り華がないというか、味気ないことこの上ないのですが、
その中で呉地方総監オリジナルの「愚直たれ」が紹介されたことは、
メインイベントのないこの日の「観桜会」の目玉となったのは確かです。

何十もの応募作品の中から最終的に残ったレシピだけあって
それが本当に美味しいということを確かめたわたしたちは、

会終了後送っていただいた呉駅から再びタクシーに乗り込みました。

行き先は「愚直たれ」レシピ提供店の一つである「利根」。
TOは行く前に予約の電話で

「愚直たれメニューがあると聞いたのですが」

とアピールするのを忘れません。

「こう言ってから行くと、お店の方もこれを扱ってよかったって思うでしょ」

 

「利根」は金曜夜ということで、ほぼ満席の賑わいです。 

三笠舞子さんというのは呉在住の漫画家さんのようです。

「利根」の来歴はどこを探してもわからなかったのですが、
それが軍艦「利根」から取られたことは間違いないでしょう。

重巡「利根」は昭和20年7月24日と28日の空襲の時には海軍兵学校の
練習艦となっていたため、能見島の海岸に係留されていました。

当時兵学校生徒だった知人から、「利根」がその時攻撃を受けながらも
飛来する米軍機を撃ち落し、墜落した飛行機のパイロットの遺体が
兵学校のポンツーン(先日卒業式でランチがメザシになっていたところです) 
のところに流れ着いたという話を聞いたことがあります。

28日の空襲で「利根」は最終的に着底しました。

 

今では護衛艦「とね」をイメージとして、自衛官の御用達になっており、
カレーラリーにはもちろん「とね」カレーを出品しています。 

この写真によると、「とね」の調理室に居酒屋利根のスタッフが赴き、
そこで給養長から作り方指導を受けて認定されたようです。

カレーを認定するのは艦長であることが判明。
当時の「とね」艦長である前久保和彦2佐。(男前!)

余談ですが、「とね」の艤装艦長は上田勝恵2佐とあります。
この方、「女王陛下のキス」で有名になった練習艦隊司令官ですよね。

来店した芸能人のサイン色紙を店内に飾るのが普通の店ですが、
ここにあるのは自衛官のサインばかり。

「とね」艦長始め乗組員有志、隊司令、伊藤元呉地方総監の色紙もありました。

在日米陸軍からの感謝状もあり。
そういえば、この日の観桜会にもおなじみ米陸軍のムーア中佐のお姿がありました。 

「愚直メニュー」を食べに来たのですが、やはり「とねカレー」も食べてみたい。
ということで味見のためにミニサイズを頼んでみました。

お茶碗一杯ぶんですが、ちゃんと

「海原を進撃する護衛艦をイメージした盛り付け」

に手を抜いていないのには感動しました。
ご飯が「とね」でカレーが海ってことね。
ちゃんと自衛艦旗に艦番号「234」が書いてあるのに注意。 

ミンチの入ったキーマカレーで、大変結構なお味だったのはいいのですが、
お勘定の時に

「シールください」

というと、 

「カレーラリー、今日で終わりなんですよ」

な、なんだってー。
4月1日からは「シールラリー」として別のラリーが始まるんだとか。
この日のカレーを入れて結局わたしはシール3枚という結果に終わったのですが、
2枚でもオリジナルバッジがもらえるそうなので、今度交換しようっと(−_−) 

シリアルナンバー234の鉄板!
これは自衛艦の食堂で使われている食事トレイではないですか。

普通の人には少し使いにくそうだけど、もしかしたら
元自衛官が現役時代を懐かしがるためのアイテムだったりして。

 

さて、「愚直たれ」採用レシピを呉地方総監部に認定してもらった店舗は
呉地方総監署名入りの認定証とポスターが授与されます。

「華麗なる」とついているのは、カレー味だからでしょう。

黒板のメニューには

「池総監の愚直タレ」として、

諦めない揚げ盛り

侮らないサラダ

欺かないむしどり

とあります。
早速一皿ずつ頼んでみることにしました。 

ポスターにあった「三つの”あ”」を冠したわけですね。

それではまず「諦めない揚げ盛り」を。
ごぼうとイカリングの揚げ物に愚直たれをつけて食す。

TOは「この世の食べ物でイカリング揚げが一番嫌い」
と昔言っていたような気がしますが、文句も言わず食べて

「美味しい!」

ごぼうの揚げたのにも愚直たれはよく合います。

「侮らないサラダ」。
ごまドレ、マヨネーズがレシピに使われているため、サラダに合うのは当然とはいえ、
これをかけるだけで「侮れないサラダ」 になりました。

「欺かないむしどり」もメニューとして完成度高し。
カレーの味って飽きないものだなあと三皿を食べて思いました。 

それにしても一皿560円って安いですよね。

 

呉地方総監が「愚直たれ」メニューを試食し、認定証を授与した時の写真。
やはりこれも任務の一環ということで、海将、制服でここに来られたんですね。


さて、ミニカレーと愚直三点メニューを二人で食べたところで

「ねえねえ、ラーメン食べてもいい?」

量的に物足りないと見えてTOがこんなことを言いだしました。

「いや、せっかくだから他のお店の愚直たれメニューを食べに行くべきでしょう」

きっぱりと言い切るわたし。

「どこにする?」

「池さんが広報ビデオで食べてたおうどんがいい!」

 

というわけで、「利根」を後にし、(ちなみにお勘定は1000円台でびっくり)
タクシーで向かったのはクレイトンベイホテル。

運転手さんに言わせると、呉で一番ランクの高いホテルだそうです。 
星の数は4つ。 

お店の中に生簀があって、カニと鰻がこのように対峙している、
そんなクレイトンベイホテルの和食レストランにやって来ました。

ここに来る前にもTOはマメにお店に予約を取り、

「愚直たれを使ったメニューをいただきたいんですが」

などとわざわざアピールしておりました。

「愚直たれ」認定証と一緒に補給艦「とわだ」グッズが展示してあります。

クレイトンベイホテルでは4月1日から新たに始まるシールラリーで
「とわだカレー」を提供することになっているようです。

「とわだカレー」は

隠し味に桃とりんごをすりおろしたピューレ
まろやかさを出すためにチーズも入っている

スパイシーの中にも甘味とコクの深さを味わえるカレー

だそうです。

クレイトンベイ「とわだカレー」認定に至るまで

↑なんか皆さんすごい真剣な様子です。

早速「愚直たれ」うどんを頼んでみました。

お盆に添えられた小皿に少しだけあるのが「愚直たれ」です。
うどんは細うどんで、さすがはプロと感心したことは、
うどん汁にはすでにカレーの味がつけられていること。

普通のすまし汁のうどんにカレー味の「愚直たれ」では合わない、
とおそらくですがここの料理長が判断したのでしょう。

すまし汁のカレーうどんに「愚直たれ」を少しずつ入れて、
自分なりに味を調整しながら食べる、というのがここの愚直メニュー。

運んで来たマネージャーが

「いきなり全部入れたりしないでくださいね。辛いので」

とわざわざ注意するくらいたれは辛く仕上がっていました。
細麺で喉越しの良いツルツルした、上品な感じの麺で、
カレー味とたれがよく絡んでなかなかの絶品であったことを
ここにご報告しておきます。

試食して認定証を渡した時の写真がメニューになっています。
マネージャーがサービスでデザートを出してくれたのですが、
その時こんな話を聞きました。 

「総監、試食されたときに、たれを全部入れてしまわれたんですよ」

「あらー、辛かったでしょうに」

「撮影が入っていたせいか何もおっしゃいませんでしたが、
食べ終わってしばらくしたらものすごい汗をかかれて・・」


それで、全部いっぺんに入れないようにと注意することになったわけですか。

 

今回の呉訪問、おまけ。

「とね」でもらってきたイベントのポスター。
艦隊これくしょんとありますが、艦これとは直接関係なく、
要するに同人誌即売会だそうです。

第17駆逐隊限定、ってことは 呉鎮守府籍の駆逐艦、
浦風磯風浜風谷風雪風初霜 ですね。

戦艦「大和」戦没72年の追悼式は今週金曜日、
長迫公園(海軍墓地)で行われるそうです。

同人誌イベントに名前のあった駆逐艦「磯風」に乗っていて、
「武蔵」「大和」「信濃」そして「磯風」の最後を見届けたという
歴史の証人である元海軍上等兵曹が講話を行うことになっています。


今回はお土産も買ってみました。

前々から気になっていた広島土産。
なんか広島土産グランプリで一般投票賞も獲得しているようです。 

潜れ!僕らの潜水艦ケーキ(!が潜望鏡の形)

 

ちゃんと自衛艦旗のシールで封がされています。

中を開けたらあらびっくり、箱の中には個別包装の潜水艦乗員がぎっしりと。

水兵さんが7人、艦長が一人です。
他に士官はおらんのか士官は。 副長とか。砲雷長とか。

艦首から乗務員室、作戦室、指揮室、機関室、階下は燃料タンク。
魚雷発射室も食堂もキッチンもないんですけど?

と思ったら小さく

「これは想像図です」

そうきたか。
まだ食べてないので中がどんなものかはわかりません。 

 

さて、観桜会の日に「愚直たれ」提供店をはしごして
いち早くその味を確認することに成功したわけですが、
身びいきでもなんでもなく、マジ美味しいです。愚直たれ。


呉に立ち寄った際には、カレーのラリーもいいですが、
ぜひ一度どこかでこのメニューを試してみられることを熱烈にお勧めします。

 

 

 

 


龍崎先生の殉職〜横須賀歴史ウォーク

2017-01-25 | お出かけ

もう去年の夏前のことなので自分でも記憶が薄れているくらいですが、
横須賀市の観光協会のようなところがボランティアのガイドによる
歴史ツァーを行なっておりまして、わたしはコースに含まれている

「料亭小松」

という言葉に激しく反応し、参加をしたということがありました。
わたしがこのツァーに参加し、それについて調べているまさにそのときに、
料亭小松は不審火によって全焼してしまったというショッキングな
結末?を迎えたという話を覚えておられる方もおられるでしょうか。

ツァーについて、その後一つだけアップしていない記事があったので、
今更、という気もしますがお話しておきたいと思います。

まずはお昼休憩をした横須賀自然博物館と文化会館の周辺から。



横須賀文化会館の正面に立つブロンズの日本にしては巨大な像。

「この感じ、どこかでみたような気がしませんか」

ガイドに言われてもはて、と皆が首をかしげるだけだったのですが、
これは長崎の平和祈念像の作者でもある北村西望(せいぼう)の作品なのだそうです。

そう思ってみるとそう見えないこともないけど・・・って感じですね。
長崎の像にもあのポーズにはいちいち意味があるそうなので、
(垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、
横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表し
軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている)
この自由の女神にも
そのポーズに何か意味があるのかもしれません。



ちなみにこの女神、アップにすると口を開けており、
いかにも何か雄叫びをあげている風です。

この像隣には説明のためにわざわざ立派な黒曜石の碑があり、それによると

● この像は西村西望先生の作で名作である
● 昭和52年市制施行施行70周年祈念に所有者が寄付した
● 台座は広島産の御影石で30トンである

ということですが、自由の女神そのものについては全く書かれていませんでした。
長崎の祈念像ですら税金の無駄遣いだといってわーわー騒ぐ人がいたくらいなので、
きっとこれにも文句をつける人がいたかもしれません。

まあ、中央公園の核兵器廃絶の碑なんかよりはまともな使い道だと思いますが。



次に歩いて到着したのは通称「赤門」。
ここは、先日訪れた旧横須賀鎮守府、田戸台庁舎の近くです。
鎮守府の見学の帰りに写真を撮った古いつくりの八百屋を右手に見ながら
京急のガードを一旦くぐってもういちどガード手前に戻ったところにあります。

赤門の由来はこの門が昔はもっと鮮やかな朱色で塗られていたからです。
それにしても、こういった文化財(ぽいもの)の前に民家風のフェンスはいったい・・・。
と思って調べてみたら、この門に変える前にもブロック塀の上に金網を立てた、
ごく普通の「当時の民家の塀」でした。

ここは代々永島家の家屋であり、今でもつまり「民家」なのです。


「自由の女神」設置の市制70周年のとき、この古くから伝わる
(江戸時代に作られたと言われる)民家の門が横須賀市の
「風物百選」に選ばれたので、ローカルツァーにも組み込まれているんですね。


今でもこの後ろ側には永島家の子孫が住んでいて、ガイドさん(自称後期高齢者)は

「ここの人が幼稚園の先生で私の子供が教えてもらっていた」

というような話をしていました。
江戸時代にこういう門を作るだけのことはあって、永島家は名主であり、
浜代官であり、
(このあたりは昔海岸だった)庄屋でもあったという地元の名家です。

こういう、門でありながら住居部分を持っている形式の建築を「長屋門」といいます。
昔の武家屋敷では、外郭に家来のための長屋があり、警備を兼ねてそこに住んでいました。
門の脇の格子の窓からは入る人をチェックしていたのかもしれません。

ちなみに、赤門そのものは江戸時代のものですが、その他の部分は
長年の間に幾度となく手が入れられているということでした。

冒頭の苔むした墓石などは、このあたりにあった供養塔や墓を
整地する時にまとめてここに祀ることにしたもののようです。
まだ比較的新しくはっきり刻字が読めるものもありますが、
経年の剥落により全くなんのためのものかわからなくなってしまったものも。



そこから少し歩いたところに、横須賀市立田戸小学校があります。
その校門の一角に、こんな石碑がありました。

「噫龍崎訓導の碑」

んどう、を変換しても教師を表す「訓導」という漢字は出てきませんでした。
ガイドの人も、

「先生のことを”訓導”なんて言ったんですね」

などと全く聞いたこともないような口ぶりで言っていましたが、 
昔親の本棚にあった石坂洋次郎とか有島武郎とか、山本有三あたりの
昭和の学校ものを読んだことのあるわたしには珍しい言葉ではありません。

龍崎ヒサ先生は戦前、ここにあった田戸国民小学校の「訓導」でした。
昭和17年11月19日、4年の生徒202名が校外学習のために学校を出発したのですが、
龍崎先生の組が東京急行電鉄(今の京浜急行電鉄)の踏切にさしかかったとき、
右手のトンネル内から浦賀行きの下り電車が来たので一同はその通過を待ちました。

悲劇はその次の瞬間起こりました。
下電車が通過したあと、反対側の線路に上りの特急がやってきているのに
一人の生徒が飛び出して踏切を渡ろうとしたのです。

「危ない!」

先生は叫びながら線路に飛び込み、生徒をを向こう側に突き飛ばしましたが、
自分自身はやってきた上り電車に接触し、死亡しました。 


先生の殉職は大きく報じられ、その学校葬には、文部大臣をはじめとして、
神奈川県知事、横須賀市長、帝国教育会長、
神奈川県女子師範学校長、
横須賀教育会長、市会議長から追悼文が寄せられました。


中には横須賀鎮守府司令長官海軍大将古賀峯一からのものもあったそうです。
近隣を歩いて知りましたが、横須賀鎮守府とこの田戸国民学校、
そして事故現場となった
線路は大変近いところにあります。

龍崎先生は享年30歳。
兄は陸軍士官学校を経て当時少尉として戦線にあり、母を前年度亡くしており、
さらに弟は病床にあったため、彼女が家の働き手であったということです。


「今の先生にも立派な方はおられるんでしょうけどね」


ガイドさんは彼女の殉職の様子を説明した後、こんな風に言いました。
かつて教師は「聖職」と呼ばれ、教師は矜持と使命感なしでは務まらない、
というのが一般的な認識だったのですが、確かにいまでは
先生が「聖職」なんて、
なにやらタチの悪い冗談のような気すらしてきます。

確かに志の高い先生も世の中にはたくさんおられるでしょう。
誰だって夢と使命感を持って教師になるのですし、わたし自身、
ごくわずかですが、
あの先生は人間的にも尊敬できた、
と思える先生に出会ったこともなかったわけではありません。


しかし、いざとなった時に身を呈して生徒の命を守るような行動が
とっさに取れる先生がどれだけいるかというと、
それは残念ながら限りなくゼロに近いのではないでしょうか。

わたしはこのことを嘆いたり非難するつもりで書いているのではありません。

龍崎先生が亡くなった昭和17年頃の、もっと言えば戦前の日本人と今の日本人は、
政治家から末端の庶民まで、全く人間の「質」というものが
違ってしまっているのではないか、そしてその原因とは、
「個」というものが「公」あってのことであるという考え方を
失うような戦後の価値観の変化に実は原因があるのではないか、
ということを龍崎先生の死から感じ、かすかに絶望しこそすれ・・。




龍崎先生は即死ではなく、その後病院に運ばれて夕方に亡くなったそうですが、
最後の瞬間までうわごとで救った児童の安否を案じていたそうです。



このあと、お龍さん終焉の地を案内してもらい、横須賀中央駅に向かって
最後のガイド地に向かう途中にあった小さな祠。
三浦帝釈天だそうです。

ガイドさんが、「この祠を立てるのに私費を投じた人がいて」
(だったかな)という説明をしたとき、一人の参加者が

「その人は県会議員にでも立候補するつもりだったの」

と揶揄するように聞きました。
このおじさんは何かとこういう目立つ「決め台詞」を言いたがる人で、砲台では

「B29が来ても一つも落とせなかったんだろう」

とバカにしたように言ったり、古い建物などを見ても

「これ、どこかから補助出ているの?出てない?じゃあダメだな。もう持たないね」

といってみたりって感じでした。
一味違う穿ったことを言っちゃう俺、ただ者じゃねーんだぜ?みたいな?
現役時代、会社ではさぞウザがられ・・・・おっと。




ごちゃごちゃと飲み屋が連なるところの隙間に、
「米浜」と台座にある日蓮上人霊場の碑がありました。
これももともとここにあったのを動かせずに、このようなところに設置した模様。



最後の見学地、諏訪神社に到着。この時午後2時です。
朝の9時半から、50分の休憩を挟んでずっと歩いていたことになります。

全国の諏訪神社というのは、信濃の国、長野県にある諏訪神社から
ご祭神を頂いてきて創建したものですが、ここもまた1573年に

「諏訪明神の御分霊を勧請す」と伝わっているそうです。
享和元(1801)年本殿・拝殿の造替があり、現在の社殿は大正12年造営のものです。



本殿脇の倉庫のような建物も、大正時代の建築なのかもしれません。



同行者がまたまた「小泉」という名前を見つけてきて
あの小泉家の親類だろうか、とかわいわいやっていました。

大正時代のご造営のときに寄進した名前が刻まれています。

「尾張屋」「大工 小林弥助」「八百秀」「理髪店 加地勇」

「待合 千代田」「待合 三河亭」・・・・・。

 ガイドは

「ほら、ここに待合もあるんですよ!」

とワケありげにいうのですが、どうもその口ぶりから、
「待合」というのを娼館かなにかと勘違いしているように見えました。


一言で待合といっても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、
小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、
その格にも相当な違いがあった(wiki)わけですが、どうも最近の人たちは
待合を「下の方」だというようなイメージで捉えている人が多いようです。

格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であったそうで、
まるで京都の店のような格を保っていましたが、少なくともこの時代
名前を刻むほど神社の造営に寄進するからには、よほど流行った、
しかも格式の高い方の待合であったことは確かだと思います。


余談ですが、海軍士官は海軍兵学校を卒業し少尉候補生となって
遠洋航海に出発する前、皇居遥拝や明治神宮参拝などの行事をこなすため
しばらくの間東京近辺に宿泊します。

関東にある候補生の実家に彼の仲のいい級友を泊めることが普通に行われ、
昼間の行事をこなせば夜は皆で連れ立って銀座などに繰り出したのだそうですが、
そのときに少尉候補生では禁じられている待合に行った、という話を
戦後に書かれた追想記で読んだことがあります。

海軍さんの隠語では待合のことを「チング」(待つ=ウェイチングから)
といったそうですが、このときも地方出身の候補生が

「かねてから(つまり卒業前から)約束していたチングに案内しろ」

と言い出し、皆でこわごわと「初めてのS(芸者)プレイ(遊び)」を
してみたものの、もし見つかったらえらいことになるので、(芸者さんと)泊まる、
と言い張る一人を引きずって連れて帰った、という話でした。

当時の海軍士官は、遊ぶならブラック(玄人)と一流のレス(料亭、レストラン)
でさっぱりと遊べ、ただし一人前になってから、と教育されていたので、
待合は待合でも怪しげな方に、しかも候補生がいるのが見つかったら大事だったのです。




横須賀界隈の飲み屋さんでは、ブランデーとジンジャーエールをミックスした
「横浜ブラジャー」という目眩のしそうな名前のドリンクをやたら推していて、
今やどこにいってもこれが飲めるそうですが、美味しいかどうかという以前に、
このネーミングセンスと、シンボルとなっている絵があまりに酷いと思います。

そこで焼きそばとご飯を化学調味料で味付けし、ソースでマゼマゼして食す

「そばめし」なる下品な食べものを、わたしの郷里神戸で広めようとする
動きが(知る人ぞ知る長田地区辺りに)あったのを思い出しました。

こんな志の低いもの勝手に神戸名物にするな!

と、わたしは神戸出身の一人として糾弾しこれを阻止しようとするものですが、
きっと横須賀にもこの飲み物推しを
快く思っていない人もいるに違いありません。


 

ちなみに駅周辺の小道にはこのようなスナックとカバーとかが林立しており、
どれもこれも築年数の古そうな、地震に耐えられるのかと心配になるような
建物にギュウギュウという感じで立ち並んでしました。

その並びで発見した「赤レンガ」と「錨」という店の並びに何かを感じたので、
カメラに収めておきました。


これをもちまして、横須賀歴史ウォークシリーズ、思い出したように
最終回とさせていただきたく存じます。

またこのような企画があったら参加してみることにしましょう。

 


 


枕でアレルギー騒ぎ〜直島・ベネッセハウス

2017-01-05 | お出かけ

戸内海に浮かぶアートの島、直島旅行記、三日目です。

夜になりました。
「オーバル」に居ることそのものが楽しくて、わたしたちは
暗くなってからも写真を撮りまくりました。 

 

夜のオーバルは、そのプールの部分が黒々とした黒曜石のようです。
照明が水に映る様子もまた面白きかな。 

 

夕食はミュージアム棟のレストランで和食をいただきました。
こんなところを歩いてご飯を食べに行きます。 

こちら、この日のお夕食で最も印象的であった一皿、
オコゼのお造り、顔面添えでございます。

あまりにも魚身が薄すぎて見にくいですが、タイより歯ごたえがあり、
味の濃い実に美味しいお刺身でした。

しかしオコゼの顔をわざわざ飾ってあるのは、外国人客にとっては
なかなかチャレンジングというか、通過儀礼的な一品というか。

彼ら、魚の目がマジで怖いらしいですね。 

ここは文字どおりミュージアムなので普通に作品がゴロゴロしていて、
大抵それらは写真禁止ですが、これだけは禁止されてなかったので撮りました。

床に廃材の木切れを円形に置いただけのアイデア作品。
(その心は手間いらず、 材料費いらず、どこでも設置、いつでも撤去可)

 

次の日には地中美術館という、崖部分の土を掘って、本来地中だったところに
作られた美術館にも行きましたが、全作品もちろん撮影禁止。

地中美術館 

サイト先にあるウォルター・デ・マリアの作品は、教会のような空間の
階段の途中に直径2・2mの巨大な球が 置いてあって、外光を映すというもの。
鑑賞者はそこに足を踏み入れ、自由に歩き回ることができます。

現代美術といってもここの作品は理屈抜きで「くる」ものが多く、
やはりアーティストの創造を満たすだけの空間がふんだんにあるからこそ
説得力のあるものが生まれてくるんだろうなと思います。


ところで、こういうところに来ると写真を撮らないと損したように思うのか、
多くの中国人観光客は人(係員)の見ていない隙に携帯で写真を撮っていました。
いくらiPhoneのカメラが良くても、盗み撮りした画像なんかどうするんだろう、
と呆れながら横目でそれを見ていました。

地中美術館は手前に駐車場とチケット売り場の建物があり、
200mくらいの道を歩いて入館することになっていますが、
小川の道沿いには色とりどりの花が植えられていました。

「こんなところも写真に撮ることができないのかしら」

入り口で写真禁止を言い渡されていたので、歩きながら話していると、
近くを歩いていたおじさんが、

「この花は撮っていいんですよ。どうぞ撮ってください」

と声をかけてきました。
どうもこの花を手入れして居る方だったようです。

昔ガーデニングにはまった経験があるので、自分が手塩にかけた花を
写真に撮ってもらうのは嬉しいものだというのはよく分かります。

花咲く小川沿いの道の向かいには小さなお地蔵様がいました。
第三十八番金剛福寺とあります。

四国八十八箇所霊場の第三十八番札所である立派なお寺ですが、
ここにおられるのは「出張お地蔵様」なのかもしれません。

ホテル内で発見。

コンクリートの隙間から草が芽を出しています。
てっきり手が届かなくて掃除をしていないせいだと思ったのですが、
驚いたことに、これもまたアート的装飾だったのでした。 

夜、オーバル棟に帰るためにボタンを押して呼ぶと、
モノレールが真っ暗な山道を降りてくる様子も見ものです。 

部屋に戻る前に屋上の庭園に上がってみました。

明けて翌日、天候は雨でした。
オーバルに灰色の空から雨が降り注ぎ、中央のプールに
雨だれの作る輪ができる様子を見られたのはむしろラッキーでした。 

オーバルの客のためだけに(この日は3部屋に合計7人半が宿泊)
小さなラウンジがあって、コンチネンタルブレックファーストが取れます。

部屋に食べ物を持ち帰るのはご遠慮ください、ということでしたが、
隣の部屋の白人の男性は寝て居るらしい連れのために堂々と?
食べ物を持って帰っていました。

ラウンジには係の女性がいましたが、見て見ぬ振りを・・。

雨は朝のうちだけで、空が晴れてきました。
チェックアウトを1時間延ばしてもらい、最後まで部屋を堪能します。
 

いよいよオーバルともお別れです。
最後に乗るモノレールがやってきました。 

その夜はそのミュージアム棟に宿泊です。

一応コーナースイートだったりするのですが、
あのオーバルの後では全く平凡な部屋に思えてしまい、
そのことがちょっと残念でした。

部屋から見える向かいの崖の下に、廃屋がありました。
ホテルの人が

昔人が住んでいたようですが、今は無人です」

といっていたのを聞いて、部屋から望遠レンズで撮ってみたのがこれ。 

もやいをつなぐ杭のようなものが見えるので、ヨットかボートか、
自分の船をつないで、ここから出勤でもしていたのでしょうか。

ろくな道もなさそうなここにどうやって家を建てたのかとか、
ライフラインの水やガス、電気にトイレはどうしていたんだろうとか、
誰も近寄ることができないらしい場所で朽ち果てているこの家で
どんな人がどんな暮らしをしたんだろう、などとしみじみ考えてしまいました。

 

この写真では何も運命を知らずに呑気そうにして居る息子ですが、
この部屋に泊まった最終日、夜中にアレルギーの発作を起こしました。

枕に彼がアレルギーを持つそばがらが入っていたのかと思い
次の日確かめて見たのですが、そばではなく、肌触りのために
羽毛の
羽の根元の部分を表面に入れた枕だったそうです。

息子は台湾のホテルでそば粉入りのガレットを食べてしまい、
(ホテルの人がそば粉を使って居ると知らなかったらしい)
その時には全身に湿疹が出てえらい目にあったことがあります。

遡れば、新宿のレピシエ本店だったところで試食のクッキーを食べたら
どうやらそば粉が入っていたらしく、目が土偶のようになったのが
彼の人生初のアレルギー受難でした。 

その後の検査で、そば以外に動物のアレルギーもあることも知っていましたが、
まさか鳥の羽で人生3度目の発作が起きるとは夢にも思っていませんでした。

気道が腫れて咳き込み、二重まぶたの線が腫れでなくなって
別人のような人相になってしまうという大惨事だったのですが、
実はわたしはその夜、熟睡していてその騒ぎに気づきませんでした。

次の朝起きたら、息子がソファーに枕無しで寝ていたので、

「なんでソファーで寝てるの」

「MK、昨日の晩大変だったんだよ」

息子をお風呂に入れ、顔を拭いて水を飲ませ、
ソファにシーツを敷いてやったのは全て父親でした。

わたしは夢の中で誰か咳をしているなあとは思っていたのですが、
彼らは寝ているわたしを起こしても

「別に何もしてもらうことはないから」

ということで放置されていたのでした。
こんな母親ですまん息子。そしてありがとうTO。 

ホテルからフェリー乗り場までは、昨日きた方向とは反対に
ほんの数分くらい走ったところにありました。 

フェリー乗り場にも草間彌生のカボチャがいます。

ここから岡山までは通勤通学、買い物でフェリーが島民の足です。
もしかしたら島民はフェリー料金は無料なのかもしれません。

降りてくる人々を見ると、都会の通勤電車に乗って居る人たちと
何も変わらない服装雰囲気ですし、島から乗り込む人たちは
自転車に後ろカゴをつけたおばちゃんとか、学生服の子とか。
フェリーはここではバスや移動する橋みたいなものなのでしょう。

昔リゾート地だったもののその後低迷していた直島が
アートの街として再出発したのは1980年代後半のことです。

当時の町長と、福武書店の創業者との間でコンセプトが生まれ、以降
「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための
直島文化村構想の一環として「ベネッセハウス」などが建設されました。

当初はいきなり現れた現代アートに島民も引き気味だったそうですが、
その後の島全体を「壊さず生かす」という基本理念の上に行われた改革によって、
徐々に理解が得られるようになってきたそうです。 

人口3000人の島にある飲食業や観光業、美術館などの職場に
本土から多くの人が毎日通勤してきたり、あるいは
この島での活動のために都会から若い人が移住してきたり。

特異なアイデアだったかもしれませんが、町おこしとしては
もっとも成功した例がこの直島なのかもしれません。 

 

ベネッセハウス、近代アートに興味のない皆様にも是非オススメです。

 

 

 


「オーバル」に宿泊〜瀬戸内海・直島

2017-01-03 | お出かけ

今回の旅行のハイライトは二日目に安藤忠雄氏設計の
「ベネッセハウス」内でも最も有名な「オーバル」に泊まることでした。

わたしは全く計画に関わっていないので後から聞いたのですが、
どうして3泊4日の旅行の中日に一番いい部屋にしたかというと、
最終日の朝、仕事の関係で午前中には東京に帰らないといけなかったからです。

まずは昨日泊まった「パーク」から引っ越しです。
とはいえ、荷物は部屋に置いておけば次の部屋に入れて置いてもらえます。

この棟は「ミュージアム」と言い、本当にここには美術館があります。
最終日にはここに泊まることになっています。

フロントからはこんな吹き抜けの回廊付き広場が見渡せます。
中央にあるものもアートで、電光掲示板にいろんな言葉が現れるというもの。

下のスペースに降りて作品を間近で見ることも可能です。

オーバルと言われるゾーンに行くには、特設モノレールに乗ります。
ミュージアム棟からルームキーを入れると、モノレール乗り場に入ることができ、
そこで可愛らしいモノレールを呼んでやってくるのを待ちます。

モノレールのドアは自分で開け閉めします。
トーンを落としたセージ色にペイントされています。

モノレールが斜面をちんたらと(本当に遅い)登って行くと、
眼下には島の端の小さな半島が見えてきます。

上の駅に到着。
走行時間は約5分といったところでしょうか。
モノレール脇には山道があって、ホテルの人はそこを上り下りしていました。

「ふおおおお」

「はええええ」

エレベーターから降りるなり声にならない声を上げるわたくしども。
文字通りオーバルに切り込まれた空間の中央には水が湛えられ、
その周りのスカイブルーの壁とひっそり同化して、各部屋のドアがありました。 

ベネッセハウスのシンボルのようになっているオーバルですが、
ここにはたった6部屋しかありません。

今回泊まる部屋は、大きなテラスのついた2部屋のうちの一つ。
壁にある三重丸もアート作品ですが、これを見ることができるのは
この部屋に泊まった人だけです。

部屋には支配人からプレゼントされたシャンパンのボトル有り。

絶景をテラスから見ながらシャンパンを開けてください、
というホテル側からのお心遣いなのですが、
残念なことに誰もお酒が飲めないわたしたちには猫に小判。

ちなみにこれは持って帰ってきて未だにうちにあります。

設計者の意図を反映してドアはなく、テラスに出るためには、
壁のボタンを押すとウィーンとガラスそのものが下がっていき、
そのままその部分が全開きになる仕組み。

全部ガラスを開けないと外に出られないというのもびっくりです。

「すご〜い」「おもしろ〜い」

モノレールからはしゃぎまくっていたわたしたち、ボタンを押しつつ
「サンダーバードのテーマ」を歌ったりしてもう絶好調です。

ベッドに寝ていても海が見えるように、周りの木は低く刈り込まれています。

テラスに出てみる。
テラスの外には柵はなく、断崖のように見えますが、
万が一テラスから落ちても下に転がることはないようになっています。

隣の小さな島は「柏島」と言って、ここも直島町です。

直島町の面積は14.22㎢、人口はわずか3126名(2016年10月現在)。
こんな小さな島が、世界中のツーリストの知るところとなっています。 

ここには人が立ち入ることはできません(物理的に)。
「オカメノハナ」という岬です。

部屋から海岸線を見ていて、こんなテント村を発見しました。
モンゴルのテント「パオ」とか「ゲル」みたいですが、ここも
素泊まり3000円台で泊まることができる施設なんだとか。

もちろんお風呂なんてないしテントだから冬はやってないと思います。

ここから眺めると至る所にアート作品。
これもおそらく井戸と洗面器ではなく、アート。 

「オーバル」の、テラス付きスイート宿泊者だけの特権。
テラスから前庭に降りて前を歩き回ることができます。 

宿泊者の特権?「オーバル」を上から見てみることにしました。

一旦外に出て、オーバル沿いの階段を上っていきます。
オカメヅタが茂って階段を半分隠してしまっています。

ここ屋上庭園もオーバルの宿泊者だけが立ち入りを許された場所。

縦に入ったスリット状のものが、各部屋のドアです。
わたしたちの部屋のドアは右から三番目。

6部屋の宿泊客のために朝食用のラウンジがあります。
ルームサービスがないので、さすがに朝ごはんは
簡単にここで食べられるようにしてあるのです。

そのほかにも、部屋には夜食のおにぎりが差し入れられました。

オーバルの周りにはこのように滝が注ぎ込み・・・、

 

建物の下を流れていくという設計になっています。

下界に降りるときには」、上からボタンを押して呼ぶと、
5分かけてゆっくりとモノレールが上ってきます。

6部屋の宿泊客のためだけにモノレールまで作ってしまうという・・・。

下のミュージアム塔に、「オーバル」建築中の写真がありました。
右から2枚目の写真は、わたしたちが泊まっている部屋のテラスです。

これが安藤忠雄による「オーバル」建築模型。

オーバルの中央の水溜りは、その日の天気によって様々な形を映し出します。

 

写真を撮ったり探検したりして部屋を楽しんでいたら、日が暮れてきました。

息子は「定点定時撮影」ができるカメラで日没の動画を撮っています。

 

空の色の移り変わりを見ているだけでこんなに楽しい場所があるとは。

二日目に初めて気がついたのですが、ここの部屋にはテレビはありません。
テレビや映画など見ず窓の外を見てください、というところでしょう。

夕日に光る海に見える瀬戸大橋のシルエット、その手前の大槌島は
地図で見てもまん丸い島で、まるで甘食みたい。  

直島での二日目の太陽が、今山の端に沈んでいきます。

 

        

 


瀬戸内に浮かぶアートの島、直島

2017-01-02 | お出かけ

 

さて、年明け早々の話題に、年末の旅行記をお届けします。

今回の旅行はわたしは全く計画に参与することなく、
TOとMKがごにょごにょと相談し、いつの間にか決まっていました。
MKは基本旅行が嫌いなのですが、今回は乗り気。
それというのも旅行のテーマが

「瀬戸内に浮かぶ島の現代建築作品でもあるホテルに泊まる」

というもので、建築に興味のある彼のツボだったからです。

まず、羽田から飛行機で向かったのは岡山空港。
はて、つい最近もこの空港に降り立ったような気が・・・。

空港で車を借りて、家内で唯一の免許保持者であるわたしが
ドライブして島まで行くことになっておりました。

空港から、これも先日進水式で行ったばかりの玉野の宇野港に向かう途中、
両備交通の路線バスが走っているのに気づきました。

 

これもネタで取り上げたばかりですが、貴志駅の初代猫駅長、
故たまを大々的にキャラクターにしているのが両備グループ。

なぜ和歌山の駅の駅長猫を岡山の会社が?というと、
もともと経営難だった貴志線を、南海電鉄から経営を引き継いだのが
両備グループであり、岡山電気軌道の子会社である「和歌山電鐵」だったからです。

この路線バスは「スーパー駅長たま」「たまバス」
とペイントされております。

わたしは運転していたので、家族に頼んで写真を撮ってもらいました。

あのー、バスに耳とヒゲがついてるんですけど・・・。

両備グループではこのほかにも関連車両として「たま電車」、
車体を三毛にペイントした「TAMA-VAN」なども走らせています。

自分が計画したわけではないので、時間のことなど何も気にせず、
ちんたら運転していたらフェリー乗り場に到着しました。
船着き場にちょうどフェリーがいて、係の人が

「乗りますか?」

と声をかけてきました。
予定より一本早い便の出航にギリギリ間に合ったようです。

 

宇野港から直島までフェリーでわずか15分。
通勤や仕事らしい車の人は乗ったままでした。

直島に行く観光客は意外なくらい多く、中国人観光客もたくさんいました。


 
あとで地図を確認したら名前のついていない無人島でした。
地元の人は「亀島」などと呼んでいるに違いありません。 

 

熊本船籍の貨物船、新益栄という船です。

こちらはパナマ船籍の TTM HARMONY。 
バルクキャリアー、ばら積み船だそうです。

ここはもう直島の先端の「獅子渡ノ鼻」。
航空写真を見ると、手前が土壌の整備中のようなので、
ここに必要な土か何かを運んできたのかもしれません。 

このあと船はすぐ直島に到着しました。

お昼を食べるところも、TOが前もって決めていました。

島にはコインパーキングなどというものはなさそうですが、
邪魔にならなければどこに停めてもおk、という感じ。
駐車場所を探して少し走ると、巨大なオブジェが出現しました。

頭から煙が出ていてドアがあるので中は飲食店のようです。 

「何このぶどう」

「島全体がアートなんですよ」

あまりに何の予備知識もなくやってきたわたし、ここで初めて

「島全体をアートにしてそれで町おこしをしている」

らしいことに気づいたのです。

道の脇にはかつての防空壕らしき痕跡が。

その「アート」とはこの島のありのままの姿でもあり、
従って古くからの建物も取り壊したりせず残しています。

巨大なオブジェがあるかと思ったら、焼杉の壁に
塩小売所の鉄看板が昔のままに残されていたり。

TOが選んだお昼ご飯のお店も、古い民家そのものです。
手前にあるのは使われていない(多分)井戸。

圧力鍋で炊いたらしい弾力のある噛み応えの玄米と甘い味噌汁、
豆腐に付け合わせと、実に滋味深いお昼ご飯です。

食後にミルクティーを頼んだら、牛乳はないと言われました。
ヴィーガン(アニマルフード禁止)のお店だったのです。

わたしは昔マクロビオティックもやってみたことがありますが、
色々実践している人を見てきた結果必ずしも完璧がいいわけではない
という考えに至ったので、今は菜食寄りの普通食をしています。

紅茶にはミルクを入れるし卵も魚も、外では牛豚も食べます。 

昼ごはんがすんで、いよいよホテルにチェックイン。
ゲートではバックミラーにI.D.タグをつけてもらいます。

本日の宿泊所である「ベネッセハウス」は、
無人だった島の海岸線の広範囲そのものがゲートで囲まれたホテル敷地で、
また全体が美術館でもあるのです。

内部の地図をもらって車を走らせて行くと、
ものすごく見覚えのあるデザインのカボチャが突堤に見えてきました。

当ブログで MOMA、ニューヨーク近代美術館を扱ったとき、
その数奇な半生についてお話ししたこともある草間彌生の作品で、
ベネッセハウスのシンボル的存在でもあります。

皆がこの前に立って写真を撮るので、繁忙期には

「カボチャの前に長蛇の列ができることもある」

ということでした。

ベネッセハウスはいくつかのゾーンに分かれていますが、
ここが初日の宿泊施設のある「パーク」棟です。

わたしは全くその存在をこの日まで知らなかったベネッセハウスですが、
もうオープンして26年になるのだそうです。

ロビー前のエントランスもまるで美術館のよう。

宿泊客に欧米系の外国人客が多いのには驚きました。
彼らが喋っている言葉も英語、ロシア語、ドイツ語・・・・。
実に世界中から観光客が訪れているようです。

著名な世界の旅行雑誌の「次に見るべき世界の七か所」特集で取り上げられ、
それ以降世界各地の新聞や雑誌で紹介されており、
海外での注目度も高い施設であることがよくわかりました。

この打ち込みコンクリートの丸い「打ち跡」ですら、
ここではアートの一環なんだそうです。
熟練の職人が手がけた打ち跡なのでここまで整然と同じ大きさなのだとか。 

初日の部屋は、「パーク」棟のコーナースイートです。

ベランダで朝食をいただきたいところですが、このホテル、
ルームサービスがありません。 

パーク棟には、10部屋がこのように並んでいます。
TOがいうには、本当は三泊のうち一日は「ビーチ棟」という
海沿いの部屋を取りたかったのだけど、空いていなかったそうです。 

ベッドボードの後ろはウォークインクローゼットでした。
うちのクローゼットより大きいかも。

不自然なくらい?大きなお風呂は明かり取りの窓が切ってあります。
ガラス戸のこちら側は洗面所です。

 

この宿泊棟にはいたるところに現代アートが展示されていて
「美術館に宿泊」できるというのが謳い文句です。

部屋に向かう廊下はまるで美術館の回廊。

廊下の窓ガラスの外にも作品。

これらは宿泊客しか鑑賞できません。

部屋からは別の角度からこの作品が見えます。

客室の前には海が広がっています。
自転車が走り回っていますが、中で借りることができるようです。

敷地のそこここにも作品。

夕食の時間まで、部屋から海を眺めたりしてのんびり過ごしました。
八幡丸という漁船らしき船が往き過ぎます。

クレーンを積んだ船と貨物船。
瀬戸内は波がなく、海面は穏やかです。
船の往来は多く、ここが「幹線航路」なのでしょう。 

レストランは「テラス」という別棟にありますが、そこには
このような
それ自身が芸術作品である渡り廊下を通って行きます。

 

この日のディナーの内容までTOが選んでくれていました。

アミューズとして出てきたのは小さな小さなチーズクロワッサンとパン。

小さきことは可愛いこと哉。

コースの魚はタイ。盛り付けがすでにアートです。
ソースは確かケールだったかな。 

メインディッシュは煮込んだビーフの頬肉。
手前の黄色いのはポレンタです。
日本でポレンタはあまり見ませんが、すりつぶしたコーンで、
これをこのようにまとめて揚げたりして食します。

青梗菜は、わざわざ細いものを選んでいたのですが、
なぜか葉っぱの部分を固結びしてあって、しかもこれが
ナイフで切れず、食べるのに大変苦労しました。

アートを優先して食べやすさが犠牲になった例。

翌日の朝ごはんも同じレストランでいただきました。

レストランの前には砂浜が広がっているのですが、海岸線まで
一色に見えるように、デッキが全て灰色に塗装されていました。

「瀬戸内のエーゲ海」と称してギリシャ風の柱を立て白いヨットを浮かべた
バブル時代のホテルが岡山のどこやらにあったと記憶しますが、
どう頑張ってみてもエーゲ海とは全く違う瀬戸内海のくすんだ海の色が
その光景を一層寒々しいものにしていたことを思い出すと、
この海の色を熟知した色選びのセンスは大したものだと感心しました。

「どこそこのエーゲ海」「どこそこの銀座」「どこそこのハワイ」

こういう二番煎じ根性ではなく、そこが「どこそこ」であることを認め、
それから出発しないことには、そこは永遠に「本物」にはなりえません。 

世界中から観光客がこの小さな島を目指してやってくるのは、
ここが「瀬戸内のMOMA」(仮称)だからではなく「NAOSHIMA」だからなのです。

朝の光が作る窓枠の影も作品です。

パーク棟には無料のラウンジがあり、グランドピアノが置いてありました。
アメリカのホテルではよく廊下の隅にピアノが置いてあって、
練習したりしたものですが、日本で鍵をかけずに置いてあるのはまれです。 

わたしはここを通るたびに中を覗き込んで、人がいない時だけ
思う存分ピアノの練習をさせてもらいました。

左手を動かすための練習曲としてショパンのエチュード「革命」、
右を動かすために同じく「幻想即興曲」を弾きながら、
この海の色には合わないなあと感じたので、最後はジャズで締めて。 

わたしにとっては何よりの娯楽となりました。

 

さあ、明日はいよいよ本命の部屋に移動です。

 

 

 

 


横須賀のカウントダウン 2017年

2017-01-01 | お出かけ

みなさま、明けましておめでとうございます。

2010年4月20日から始まった「ネイ恋」も、気づけば今年で
7年目に突入しようとしております。
海軍に興味を持つとほぼ同時に、何もわからないままブログを始めた、
ということは、わたしの「海軍歴」はほぼ7年。
少し遅れて海自に興味を持ち出し、海自歴はほぼ6年というところです。

日記のようにほぼ毎日エントリを重ねてきて、その間、ブログを通じて
様々な人に出会い、様々な土地を訪ねて見たものや感じたことを
心の赴くままに語ってきましたが、「ネイ恋以前」と「ネイ恋以降」では
明らかにわたし自身のものの見方、考え方は変わってきたと思います。

もし「ネイ恋」なしで7年歳をとっていたとしたら・・・?

そのわたしがどんな人間だったのかは確かめる術もありませんが、
もし両者を比べることができたとしたなら、

今の自分の方が少しは人間的にマシで、かつ満たされていることでしょう。

そうであれば、それはブログ上で知り合い、様々なご意見を頂き、
刺激を受け、時にはチャンスをくださった皆さま方のおかげに他なりません。

今年も真摯に精進してまいりますので、どうぞよろしく願い申し上げます。

 

さて、今横須賀メルキュールホテルの16階でこれを作成しています。
先ほどここでのカウントダウンによって無事に年越しを迎えました。

2日前、偶然車を運転していてふりかけさんことミカさんを目撃、
すぐに車を止めて久しぶりに(掃海隊慰霊式以来)話をしたところ、
横須賀のカウントダウンにお誘いいただいたのです。

せっかくなので家族で行こうと思い、TOパワーで前日にホテルを取りました。
が、息子が急遽鎌倉の友達のうちに泊まりに行くことになり、
ディナー付きの部屋をミカさんに供出し、一緒に年越しをすることに。

縁は異なものと言いますが、3日前までは思いもよらなかった展開です。

まずはメルキュールホテルの年越しディナーから始まりました。
最初に出てきたハマグリの上に泡が乗ったアミューズ。

マグロが乗っているのは餃子の皮ではなく、カリフラワーのペースト。
緑色のドットは職人芸の細かさですが、ブロッコリーペーストで描いたもの。

コースの中で一番美味しいと思ったカモのフォアグラ。
フォアグラは苦手な方ですが、絶妙の焼き加減と、
緑野菜をメレンゲにして粉砕した粉とのマッチングが最高な一品でした。

部屋では何年振りかに紅白を見ながら準備をし、
9時過ぎにヴェルニー公園に出ました。

苦手だった夜景の撮影ですが、本日はプロのカメラマンと一緒です。
アドバイスを受けた後の写真はこの通り。 

確か手前は「やえしお」だと通りがかりのミカさんの知り合いが
教えてくれました。
潜水艦のセイルに「2016」と電光で書いてあります。

隣の「ステザム」さんは、アメリカの国旗の色、
赤白青を使っておしゃれしています。

 

横須賀基地の方に向かって歩いて行きました。
「いずも」も艦番号107の「いかづち」も電飾が美しく光っています。
 

いずもの艦腹が見えるところまで歩いてきました。

JMSDFの電飾もこの日だけの特別だそうです。

午前0時1分前に全ての明かりが消えて真っ暗になりました。
港に泊めた船から花火が打ち上がります。

花火は約5分続きました。

わたしはレリーズを持っていなかったので、アドバイスに従って
写真を撮ることをハナから諦め、動画を撮っていました。

そして、先ほどの潜水艦を見てみると、年が明けて
「2017年」に変わっていた(冒頭写真)というわけです。

 

さて、あと4時間で夜が明けるわけですが、今から寝て
(現在午前3時)初日の出は見られるかな?

 

 

 



わたし+呉+自衛隊=雨〜地方総監部訪問記

2016-12-16 | お出かけ

前回からそう間も分かたず、またもや今回、
正式な訪問の機会を得て呉に行ってまいりました。

まず、飛行機で岡山入りしてそこで所用を済ませ、呉まで移動。
当然岡山から広島まで新幹線に乗るのが妥当なのですが、
ここで岡山在住の方に

「明るいうちだと、三原から呉線で行けば海を見ながら行けますよ」

とわりと無責任に言われてその気になったのが運の尽き。
後から呉在住の知人にこの話をしたら、

「えっ、三原から各停で来たんですか」

と絶句されてしまいました。
他所者の悲しさで、そもそもわたしは広島と岡山の距離を
せいぜい車で30分くらいのような感覚を持っており、
三原からなら呉線とやらで車窓を楽しんでいるうちにすぐ着くだろう、
と甘く見てしかも各駅停車に乗り込んでしまったのでした。 

四国から瀬戸大橋を渡って京都まで行くのにせいぜい2〜3時間だと思い込み、
車を借りたあの初夏の1日を思い出しますですね。 

 

まず電車の扉が自動ではなく「自分で開ける」方式なのに驚きます。
さらに入った後は自分で戸を閉めないといけないのにも驚き、 
(後から来た人がわたしの代わりに閉めてくれたので気がついた)
駅に着くたびに通過待ちのため長時間停車するのに驚き、
さらには1時間くらい行ったところでスマホの地図を見たら
まだ呉まで半分も来ていなかったのには驚きました。

オススメしてくれた人が言っていたような「海」も、
急激に曇ってきた上、呉に近づく頃にはすっかり陽が落ちて見えず、
一体何のためにこんな線に乗ったのかわけわからんことに。

2時半くらいに岡山を出て、呉到着は6時半。
おまけに長時間座っている電車のシート下部から噴き出してくる暖房が熱い。
暑いではなく「熱い」です。
この路線の利用者はよく文句も言わずに乗っているものです。

おかげで到着した時には外に出る気力も体力も残っていませんでした。 

次の朝、起きてカーテンを開けたわたしは絶句しました。
またもや雨です。
昨日あんなにお天気が良かったのに、雨。

今までなんども「わたしが中国地方に自衛隊行事でくると雨になる」
ということをネタにしてきましたが、今回はさすがに
前日の快晴からそんなことを考えもせずやってきて、次の日。

やっぱり雨。

ざっと思いつくだけでも呉教育隊見学、「さみだれ」見学、
ふゆづきの引き渡し式、いせの慰霊式、
ちよだの進水式、前回の自衛隊員慰霊式。

ここまで念が入っていると何かあるのではないかと思わざるを得ません。

 

さて、わたしが呉に行くことを報告したとき、知人からメールで

「せっかくだから高田帽子店に行ってみてはどうか」

とご提案をいただきました。 
山本五十六の帽子を作ったことでも有名で、現在でも
海上自衛隊の特約店として、こだわり派の自衛官に帽子を作っているところです。

調べてみると泊まっている呉阪急ホテルからは歩いて10分のところにあります。
グーグル先生のありがたい情報によると休業日となっていましたが、
どちらにしてもわたしは帽子を買うわけではないので、関係ありません。

呉地方総監部からのお迎えの車が来るまでの間の時間を利用して
散歩がてら行ってみることにしました。

呉というのは昔からのお店が多く、駅前といっても
一筋入ればこんなのんびりした街並みになります。

最初に来た時にはまだ駅前にはデパートが営業していたのですが、
その後閉店してしまっていまだにビルは放置されており、
そのため随分雰囲気が寂れた感じになってしまって久しい呉。

後に話をした呉地方総監も、呉は昔からの個人商店が多く、
新たに増えていくことがないようだとおっしゃってましたっけ。

ちなみに冒頭の写真は、「大和ミュージアム」の展示の模型ですが、
これは当時呉の市民オーケストラだった

呉ロンバルディア管弦楽団

昭和9年から昭和16年(つまり開戦)まで活動していました。
この幕に書かれている「中山楽器店」ですが、まだ営業をしているそうです。

ストリートビューによるとこんな感じ。
ここも定休日だったようです。
いまはヤマハの特約店みたいです。

 

 

しかし昔、ここに呉海軍工廠があり、そこで多くの人々が働いていた頃、
広島市よりも人口が多く「日本八大都市」の一つであったといわれています。
戦艦がここで作られていたのですから当然だったかもしれません。 

知人のメールによると、

”当時の科学技術の粋を集めた戦艦大和を生み出した呉海軍工廠は、
今の航空宇宙産業とも言える、最先端工業都市でした。
それを支える海軍士官、技術者及びその家族は当然
文化的教養も高い人々であったと思われます。”

呉の人々はその点昔から(現在も)町にプライドを持っているといいますね。
ちなみに現在の呉市長とは何度もお会いしていますが、
広島県の他地域の長とは違って、中道保守の考えを持つ政治家です。 



さて、そんな街に流れる川を渡る橋、「かえで橋」を渡ってすぐ、
看板が見えてきました。

ちゃんと海上自衛隊の御用達であることを示す、
自衛隊旗のマークの看板には、

「防衛共済組合 呉支部特約店」

もう防衛庁から省に昇格して10年(来年の1月9日が10年目)
なのですから、文字を書き換えてもいいような気がするのですが・・・。

そんなことには全くこだわりがないっていうか。

定休日であることは前もって知っていたので驚きませんでしたが、
ありがたいことにシャッターが半開きになってい
ました。

こだわり派自衛官はここで注文し、官品ではなく
2〜3週間で出来上がる手作りの正帽を着用しているのだそうです。

帽子置きに置かれた海自の制帽は実に個体差がある、と
前回の玉野造船所での宴会で考察したものですが、こういうお店があって
なおかつ選択が自由だからと言う理由だったんですね。


自衛隊の制帽はもちろん購入にあたって自衛官であるという身分証明が必要です。

しかし、一般人のあなたにも問題なく買えるのが旧海軍の軍帽。
そして、直径12センチくらいの可愛いミニチュア帽子なら、
自衛隊仕様であっても買うことができます。

「あきづき」「日本国練習艦隊」と書かれた水兵さん用の制帽であれば3950円、
金の細工が多くなるほど少しずつ高くなっていって、
スクランブルエッグ(自衛隊では’カレー’ですね)がつくと5千円台、
将官用のになると一挙に7千円台に跳ね上がります。

もしお店が営業していたら、わたしはついふらふらと、このうち何か
(自分が’中尉’なので幹部用とか)を買って、出入りの外猫に無理やりかぶせて
写真を撮ろうとして引っかかれるところまで一挙に想像できました。

お店が開いていなくてよかったと思います。

ここは軍帽・制帽だけでなく普通の帽子もあるので、今度立ち寄った時には
何かいいのがないか、みてみることにしましょう。

電気がついていたのでもしかしたら人が出てきてくれないかと
しばらく前に立っていたのですが、人気はないままでした。

あの山本五十六も帽子を買うためにここに立ったのだなあ・・
としばし感慨にふけります。
当時の店内には木製の棚や柱時計などがあったのでしょうか。

寝坊して朝ごはんを食べ損なったので、ホテルに帰って
早めに昼ごはんをいただくことにしました。

呉では海自カレーのラリーを行っており、こうやって各艦艇の
オリジナルカレーをお店を回って食べ、スタンプを集めれば
景品がもらえるというイベントを行っています。 

たとえばこの呉阪急ホテルは護衛艦「うみぎり」認定店。
「うみぎり」の調理長がホテルのシェフにレシピを直伝し、
その通りに作ってあるという「認定書」を授与して認定店となります。

「うみぎりカレー」は季節の野菜(素揚げしたカボチャなど)をトッピングしてあるのが
特徴で、さらにすごいことは、野菜で作ったスープをベースにしていること。
ジャガイモは一緒に煮込まず、別に蒸したものを添えるのだそうです。

つまり大変手間がかかるということなのですが、ここは一流ホテルなので
この通りのレシピでカレーを作ることは大した負担ではありません。

しかし、これも呉総監から聞いた話ですが、やはり小さい店ではこれを
ちゃんとレシピ通り作って常備しておくというのが大変なこともあり、
今まで連綿と行われてきた(っていつからしているのか知りませんが)
カレーグランプリも、見直しが検討されているのだとか。

「うみぎり」カレーはロビーのカフェやルームサービスでも食べられますが、
わたしは夕飯を和食で、ランチはビュッフェと知らずにレストランに入ってしまい、
ついに今回食べ損ないました。

スタンプラリーでシールを30枚集めたらもらえる海自マーク入りの
コーヒーカップ、というのに目が釘付けになってしまいましたが、
呉在住でもないのにそれは物理的に無理というやつです。

ホテルではバイキングの際お酒を飲む方に千福フェアを行っていました。
特別メニューとして「千福酒なべ」を(どんなんだろう)出しているほか、
1500円で飲み放題などの企画です。

千福と海軍の関係については一度ならずここで書いたことがありますが、
本当に呉は海軍の町だなあとこういうのを見ても実感します。

最初にここに来た時、ケーキ職人がマジパンで作った大和がありましたが、
それだと技術的に細かい部分が作れないということで、
あらためて発泡スチロールで精巧なものを作り直したようです。

記憶にあるのとは格段に再現度の違う「大和」がそこにはありました。
がんばったね呉阪急ホテル調理部の皆さん。

 

さて、昼ごはんをゆっくり食べ終わり、身支度してロビーで待っていると
まず本日一緒に呉地方総監部見学をするTOが到着。
二人で話していると、予定の時間より早く、今日エスコートしてくださる
広報の自衛官が黒のレインコートを着て颯爽とやってこられました。

そうそう、これなんですよね。
わたしが来ると雨が降るというジンクスは、もしかしたらわたしの
自衛官の黒いレインコートを見たいという深層心理のなせるわざでは?
とこのとき一瞬考えてしまいました。


最初はわたしたちが時間になったら呉地方総監部に出向く、
ということになっていたのですが、少し前に電話で
ホテルまで自衛隊がお迎えの車を差し向ける、ということを
副官の一尉が連絡してこられたのです。

ホテルまで黒塗りの自衛隊の車が来てくれるなんてVIP待遇?
わーいわーい。 (とはしゃぐ小物)

まず、潜水艦基地にいって見学というスケジュール。
車で潜水艦桟橋門に向かう途中に、呉音楽隊が練習している
桜松館のある一角があります。
前回の呉地方総監表敬訪問のときにはここの見学をさせていただいたので、
桜松館をこの目で見ることができました。
桜松館は自衛隊から呉市に譲渡され、昔下士官クラブだったこの建物は
老朽化のため取り壊されるということが決まっています。

そして呉音楽隊はいま新築中のこちらの建物に移ることが決まっています。
車の窓ガラスの水滴にピントが合ってしまったので、
目を細めて写真をみてください(笑)

 


前日に副官からわたされた予定表には、
5分刻みできっちりと行程、そしてこちらの名前と肩書きまで書かれています。

呉地方総監への表敬訪問だけでしたらそんなに厳しくはないのですが、
何しろ今日は潜水艦の中を見学するというミッションがあるため、
予定表の名前のところにも「立ち入り申請済み」の記載あり。

ちなみにわたくしの肩書きは「地球防衛協会日本支部(仮名)顧問」 
となっております。

やはり自衛隊に潜入するには個人名だけではダメで、
なんらかのもっともらしい肩書きがないと向こうも正式に呼びにくいのです。
実質何もしていないわたしもそれなりの肩書きを持っているからこそ、
自衛隊側から初めてちゃんとした人間として扱ってもらえるというわけです。

さあ、それではこの有名無実な肩書きを引っさげて(笑)
呉地方総監部に乗り込んでいきます。

おっと、最初は潜水艦見学からね。

 

続く。 


京都夢芝居・蛍と鷺の宿

2016-06-06 | お出かけ

さて、前回、金毘羅宮から京都に向かう途上、瀬戸大橋を渡り、
その耐震構造についてふと疑問を呈したところ、さっそく詳しい方から
瀬戸大橋の耐震性についてコメントをいただきました。

瀬戸大橋の耐震性については、まず、過去に起こったM8.0の地震
(昭和21年の南海地震)を想定した耐震設計基準が構造に取り入れられており、
さらには兵庫県南部地震のような直下型地震や東北地方太平洋沖地震クラスの地震についても、
発生後すぐに検討に入り、損傷を想定して補修がなされているということです。

さすがに損傷が全くないということではないようですが、
少なくとも倒壊など重篤な損害によって通行が不可能になることだけはなく、
またわたしが不安を感じた「海に車が投げ出される」という可能性も、
ちゃんと車の重心などを考慮したシミュレーションによるとまず心配ないそうです。

今の日本で地震に対して安全なところなどないわけですが(岡山くらいかな)、
このように日本の企業がいざというときに際しての備えを
持てる技術の粋に留まらずたゆまぬ進化を怠らないということを知ると、
どんな災害に襲われて傷ついても日本は必ず立ち上がる、と頼もしく思いますし、
地震災害国である日本がここまで発展したのも、こういった技術に表される
生存のための知恵を昔から重ねてきた先人の努力の賜物であろうと誇らしくもあります。



さて、無理矢理話をつなげると、日本の誇り、といえば京都ですね。
少なくとも誇り高い京都の人たちはそう思っているに違いありません。
昨今では観光客が増えすぎて風情がなくなったと言われている京都ですが、
まだまだ京都の人はその誇り高さゆえに「京都らしい頑固さ」を守り抜いていて、
それがまた京都が愛される理由となっているように思えます。

前回は町屋の宿という、逆説のようですが「新しい京都」に宿泊したのですが、
今回は直球も直球、ど真ん中の老舗料理旅館に泊まりました。
今なお美しい水の流れを誇る白川沿いの宿です。

白川というのは比叡山に源があり、その流れはちょうど祇園で鴨川に合流します。
前回の京都でお話しした「高瀬川」ほどの水深はなく、せいぜい5〜10センチで、
「白川」の名前の由来は、流域一帯が花崗岩を含む礫質砂層で構成されており、
川が白砂(石英砂)に敷き詰められているように見えるからと言われています。

追悼式の後、5時間の高速運転の末に京都にたどり着いたとき、
わたしは疲労困憊して口を聞くのも億劫なくらいでしたが、
到着してからすぐにお風呂をいただいてさっぱりしたところで、
ここの自慢の京料理が部屋に運ばれてきました。



メニューはまだ若い女将さんが毛筆で手書きしたもので、
一品ずつ一枚の紙に書かれており、運んでくるたびにそれをめくっていきます。
京都といえば鱧、ということで最初に出てきた刺身と鱧の湯通し。



説明を聞いたけどなんだったか忘れました。
「冷たい味噌汁」のようなもので、真ん中の豆板のような寒天のようなのは
麩的なものであったという気がします。



賀茂茄子をくりぬいて入れ物にした茄子と牛ロースの「炊いたん」。
外国人客も多いので肉も普通に使います。
外側の茄子の皮は苦味があり美味しくなかったので残しました。
実は疲労のせいであまり食欲がなかったというのもあります。

こういうのがダメな外国人には専用メニューもあるそうですが、
この辺も京都が変えざるをえなかった部分かもしれません。



竹をくりぬいた入れ物の底1センチにジュンサイ的なものが入っていました。
おちょこ1杯で足りるものをわざわざ竹の筒二本に入れる。遊び心ってやつですか。



蛍が見られるのは夜9時ごろからということだったので、夕食後
浴衣に羽織姿のままで外に出てみました。



白川沿いの店は古い料亭あり、カウンター式に新しくしつらえた小料理屋あり、
カラオケ店まであるようで、外に音が聞こえてきていたのがご愛嬌でした。
これが昔なら三味の音であったりしたのでしょうか。



外国人が増えたというのは少し街を歩いただけで実感されます。
たとえばこの神社の裏手には、白人系の若いカップルがバックパックを背負ったまま
この時間だというのに地面に座り込んでいました。
まさかホテルを取らずに来たのでしょうか。



しばらく歩いて行くと橋の上から川面に鷺の姿を発見。
鷺だけでなくよく見ると川面を無数の蛍が飛び回っています。
残念ながら蛍の写真などどうやってとって良いか分からず、
この写真も真っ暗なところに当てずっぽうでカメラを向けてシャッターを押したら
なんとか写っていたといういい加減なものなですが、それでもよくみると
水面に幾つかの「蛍の光」が認められます。

「鷺って蛍食べちゃわないのかな」

「料亭の魚の切れ端もらって食べてるんだから虫なんか食べないだろ」

後から聞くと、鷺は魚の他には貝などを見つけて食べるそうです。




そのあと、すっかり最近京都の夜に詳しくなったTOが、この並びにある
一軒の町屋のようなところに入っていきます。



お座敷に通されて出てきたのは果物のジュースでした。
なんと京都のバーというのはこういう町屋だったりします。



芸者さんの名札が玄関先に並べてある置屋の玄関。



明けて翌日、早速部屋の窓から外を見てみます。



声明のような声が聞こえたのでみてみると、虚無僧のような姿の一団が
一人一人の間を空けながら歩いてゆっくり通り過ぎるところでした。
朝、こんな光景が見られるのは日本でも京都だけでしょう。



虚無僧の写真を撮っていてふと気づくと、部屋のすぐ下に
鷺が一羽、もの待ち顏で待機していました。
鷺には「おーちゃん」という名前があって、名前の由来は一本足で立っていることから
一本足打法の王選手の「おー」なんだそうです。

「鷺って何羽いるの」

「五羽くらいいるらしいよ」

「どれが”おーちゃん”とか、どうやってわかるんだろう」

「とりあえず全員”おーちゃん”って呼ばれてるらしい」

なぜ5羽いるということがわかったかというと、ある日ある時、
5羽の鷺が一堂に会しているところが目撃されたのだそうです。

女将さんによると、くちばしや脚の色が年齢によって違うので、
ある程度は見分けられるということでした。



魚の身の切れ端をやるようになってからおーちゃんたちは口が肥え、
他のものなど見向きもしない贅沢な鳥になってしまったそうです。
というわけで、彼らの仕事は朝に夕に、時間通りに餌をくれる旅館の前で
こうやって時間を潰すこととなって現在に至ります。



厚かましいおーちゃんになると、勝手口にヅカヅカと入ってきて
「魚おくれやすー!」と主張するツワモノもいるそうです。

また、川岸から川床、川床から人家の屋根と、縦横無尽に飛び回るのですが、
そのときなんとも言えない禍々しい鳴き声をあげるのでした。

「鷺いうのは姿は美しいですが声があまりよろしおまへんなあ」

とは女将さんのお言葉。



その女将さんのお給仕で朝ごはんを頂きました。
その時に出た話題ですが、京都の小麦消費量は全国一高く、
特にパン好きな市民なのだそうです。
京都の料亭などで出るこのような食事とはうらはらに、京都人は
どんな年配の人であっても朝ごはんはパンとコーヒーか紅茶。
早起きして近くの行きつけのパン屋にパンを買いに行くところなど
まるで姉妹都市であるパリっ子みたいです。

ここだけの話ですが、京都人とパリ人はプライドが高く「いけず」なところもそっくり。



おーちゃんのいた川がカウンター越しに見える部屋で、晩にはバーにもなります。
朝ごはんは前日に白飯かおかゆかが選べます。

 

ランチョンマットには女将さんが朝方したためた一筆が。
こういう気遣いが京都に泊まる楽しみでもあります。



部屋に帰って簾越しに外を見ていたら、結婚式のフォトセッションらしく、
着物姿の男女がポーズを取っていました。

「いつも通り気楽にお願いします」

という声に、すかさず女性がVサインしていました。
今の女の子というのはVサインしないと写真が撮れないのか(笑)



そうかと思ったらだらりの帯の舞妓さんコスプレも通ります。
なぜ本物でなくコスプレといいきるかというと、本物の舞妓さんが街を歩くのは
お座敷の仕事がかかった夜だけで、こんな朝から人前に出没しないものだからです。
また「一見さんお断り」のお店にいることが多いので、京都市内で普通に見かけるのは
観光客の扮した「なんちゃって舞妓」。

そもそも京都市民でも、本物の舞妓を見かけることはほとんどないといわれます。



チェックアウトは11時。
このあと夜の大阪空港発の飛行機に乗るまで、わたしと息子は
わたしの神戸の実家に車で、TOは京都で用事という段取りです。

八坂神社は遠目に見ても中国人とわかる団体で溢れかえっています。



北白川のドンクでお茶にしました。
女将さんいうところの「京都人はパン好き」を表すかのように、
日曜の朝のひと時をベーカリーフェで楽しむ人たちでいっぱい。

ドンクの駐車場の監視カメラにはツバメが巣を作っており、
巣の上からぽわぽわした頭が二つ三つ出たり入ったりしていました。
お客さんの頭に”落し物”をしないように、お店はおしゃれなカゴを設置(笑) 



TOを進々堂の近くで降ろし、高速に向かいます。
久しぶりに京大の前を通ってみたら、妙に綺麗な建物が〜!!!
なんでも近年、(というか前に来てからすぐ)食堂の補修と新棟の建設が完成したそうです。



さて、もういちど「おーちゃん」のことについて書いておきます。
チェックアウトのころ、なんとなく玄関先でおーちゃんを眺めていたら、
板さんが中から出てきて黙ったままぽいぽいと魚の切れ端を放り込み始めました。

板さんは客に愛想をしない決まりでもあるのか、「おはようございます」といっても
何の返事もなく、おーちゃんについての説明もなし。
さすがは京都の名門料亭の板前である、と妙なところで感心しつつも見ていたら、
通りがかりの中国人のおばちゃんにえさやりが見つかってしまいました。

またこの人たちの格好がすごいのよ。
赤、黄、青、緑、黒、ピンクが体のそこかしこに配された洋服を全員が
まったく同じような着こなし?で纏っていて目がチカチカするうえ、
実際にも口々に何かを口走り、うるさいのなんの。

わたしたちは鷺を見ると鷺の写真を撮るわけですが、この人たちはなぜか
鷺をバックに必ず自分たちが写っている写真を撮りたがります。

突進してくる電車の線路に足を乗せて自撮りしていて、

その電車にはねられた中国人の女の子がいたそうですが、
彼らの自撮り好きをみると、さもありなんと納得してしまいました。



おーちゃんに投げられた魚の切れ端を狙ってカラスもやってきて
横から魚身をかすめ取るのですが、おーちゃんはおっとりしているのか
魚身の多くが下流に流れて行ってしまいます。

案外白川の流れって早いんだなあ、とふと下流を見ると、なんとそこには
『おーちゃん2号」がいて、流れてきた魚身をおいしくいただいていました。



おーちゃん1号とともに写っているのは鴨の親子。
彼らもおーちゃんに投げられた魚を当てにしているようです。



みていると、誰が合図を出したのか全員で下流に流れていきました。

「おー流れてる流れてる」

「省エネモードで移動してるわけね」


蛍と鷺、ついでに鴨の川流れと京都の初夏を満喫する旅。
いつも京都に来ると、なにかとてもよくできた舞台装置のなかに紛れ込んだような、
唯一無二の「京都」(外国人からみると”日本”)という名の芝居に
エキストラ出演しているような、
非日常感を味わうことになります。

「なんちゃって舞妓体験」を試みたり、結婚式でまるでドレスのような色合いの
着物を着て紋付袴の彼氏とVサインで写真を撮る人たちも、
その登場人物となって芝居に積極的に加担しようとしているのに違いありません。



 


「高松から京都まで車で1時間半」

2016-06-04 | お出かけ

高松は金刀比羅神社境内において行われた掃海殉職者追悼式も
無事に終了しました。
前日の予行演習のとき、わたしは自衛隊広報の方に説明を受けていたのですが、

「5月の最終土曜日にこうやって追悼が行われているということを
少しでも多くの人に知っていただきたいのですけどね」

とおっしゃったので、わたしも微力ながらここでお伝えできることもあろうかと
追悼式の様子もできるだけ写真に撮り掲載いたしました。
無論、黙祷や追悼の言葉、国旗掲揚や儀仗隊の弔銃発射の間は列席者に徹し、
写真も献花のときに撮るなど、近くに座っている人たちと同じようにしたつもりでしたが、
某雷蔵さんから「正式な追悼式列席者が写真を撮るのは如何なものか」とのご意見を賜り、
それもごもっともなご指摘であると思った次第です。

後から考えると式の間は海自のカメラマンやふりかけさんが写真を撮っておられましたし、
何人かの追っかけ?的な人も式の間ずっとあちらこちらで撮影をしていたわけですから、
何もわたしが無理をしておじさんたちの頭越しに写真を撮る必要もなかったのですが、
そこでつい立場を弁えずに頑張ってしまい、反省することしきりです。



さて、式終了後車を停めていた観光センターまで自衛隊のバスで送ってもらい、
そのあとはわたし、会長、ふりかけさん、自衛官の母4人でお昼を食べました。
昨日タクシーで連れて行ってもらった「神椿」ですが、ナビに入れると
このナビがとんでもない農道みたいな細道を走らせた上、遠回りをさせるので
2回も現地の人に道を聞く羽目になりました。

写真は神椿に行くためだけにある細い道で、車がすれ違えないので
5分くらいの信号で交互通行しています。

イノシシが出没いたします、ご注意くださいと書いてありますが、
イノシシが出たからといってどう注意せよというのか。



駐車場から神椿に行くのにはこの「えがおみらい橋」を渡っていきます。
どう考えても神椿のためだけにあとから山の山麓同士をつないだらしい橋。
よくまあ一軒のレストランのためにここまでするものだと思います。

入り口にも書いてありましたがここは車の通行は禁止されています。
空中にワイヤで吊ってある橋らしいので重量をかけられないのでしょう。



橋の途中から下を眺めると、道のない深い森の緑が鬱蒼としています。



新日鐵とサカコーという会社が施工を行ったというプレートあり。

「COR-TEN鉱床材」(コルテンこうしょうざい)

なる耐候性鉱床(鉱物の濃集隊)を「奉納」したとあります。
つまりここも金刀比羅神社の関係ということになりますね。
ちなみにコルテンというのは無塗装で使用しても天候によって錆びることがないので、
塗装がいらず補修費用の多大な節約になるというのが謳い文句です。



昨日海自の幹部がここで食事をしていましたが、それは追悼式の恒例だそうです。
ここでは資生堂オリジナルのレトルト食品など物販も行っており、
ふりかけさんは「ここでしか買えない」というオリジナル香水を購入しておられました。

「階段を上がって汗をかいたしお風呂に入れなかったので・・」

「・・・その香水の使い方は少し間違ってると思う・・」

香りをかがせてもらったところ、昔母親の使っていた化粧品のような
懐かしい雰囲気の匂いがしました。



金刀比羅神社との関係をなにやら放映していましたが、食事をしていて
ほとんど見ることはできませんでした。
ただ、この金刀比羅宮の権宮司、琴陵泰裕氏は先ほどの追悼式において
背広姿で追悼の辞を述べたばかりだったのですぐに気づきました。

大変お若い方です。
調べたところ権禰宜は日本水難共済会という会にも関係しておられるようで、
というのも金刀比羅宮は昔より海の神様とされているからでしょう。
それが広く認知されるようになったのは、塩飽の廻船が金毘羅大権現の旗を掲げて

諸国を巡ったことに由来するといわれています。

境内には古来から海自関係者の奉納物が多く見られ、これこそが
海上自衛隊総会殉職者の追悼式の場としてここが選ばれた理由だと思われます。

ちなみに、これはふりかけさんがお聞きになったそうですが、
この式典が「慰霊祭」ではなく「追悼式」であるというのも厳格には間違いで、
 「慰霊祭」は、慰霊式とは別に、非公開で前日に行われているのだそうです。

「慰霊祭」とは別に「追悼式」を行うようになった経緯には

「海上自衛隊が神式の慰霊祭を行うのは如何なものか」

との指摘があったから(どこから?)ということだそうです。



さて、ここは資生堂パーラーでありますので、壁には創業当時の
銀座の資生堂パーラーの写真がかけられています。
こちら、大正8(1919)年の外観。
この年、第1次世界大戦の終結に関するパリ会議が行われ、ローザ・ルクセンブルグが
虐殺され、日本では関東軍が設置され、やなせたかしが生まれています。

開業1902年と言いますから、日本海海戦のまえにはもうあったんですね。



昭和10(1935)年の内観。
1928年(昭和3年)には「資生堂アイスクリームパーラー」と改称し、
本格的な洋食レストランとなりました。
メニューには、カレーライスやオムライスなどがあり、モボ・モガや新橋芸者衆など、
当時のイケてる若者が集まる一方、いわゆる昔からの上流階級を顧客に持ち、
「成功率の高いお見合いの名所」でもあったそうです。



ビーフカツレツ(昔の人はビフカツといった)やチキンライス、
カレーライスなどいかにも洋食屋といったメニューの中から、
本日のランチを選択しました。



サラダ、肉、魚に小さなカレーライスという組み合わせ。


 
デザートは二種類から選べたので、クリームブリュレを選びました。

ブリュレが緑に見えるのは、確かオリーブオイルの関係だったと思います。 



わたしと自衛官母、自衛官母と会長、会長とふりかけさんは初対面でしたが、
追悼式に出席(自衛官母は”息子が参加したこともあるので是非一度見てみたかった”とのこと)
するという目的を同じくする者同士で話は弾み、あっという間に時間が過ぎました。

入るときに地面を濡らしていた小雨もすっかり止んでいます。



レストランの敷地内にあるお寺のような建物に皆が注目しました。
ふりかけさんがわざわざ前まで見にいったところ倉庫だったそうです。



「なぜこんな立派な、というかお寺の御堂のような倉庫が・・」

とそのときは訝しんだのですが、この写真を見て謎が解けました。
「神椿」は金刀比羅宮の本殿まで上がる坂道の途中に位置し、
山道を登っていく人からこの倉庫はよく見えるのです。
そこに倉庫然として無粋な建物を建てることを良しとせず、
わざわざこのような、しかも年代を経ているかのような建築にしたのでしょう。

もともと「神椿」を金毘羅宮の中に建てるということは、金毘羅宮の中の人が
資生堂に依頼する形で決まったということらしいので、ここまでの気配りも
当然かと思われます。



その後はわたしと会長、ふりかけさんと自衛官母の二台の車に分かれ、
わたしは会長を琴平駅で降ろしてそのまま瀬戸大橋を渡りました。

なぜか。

実はこの後わたしは1年前から予約を取っていた京都の宿に
夜までに行かねばならなかったのです。
白河沿いにある料理旅館で、一年前のホタルの季節に泊まったTOが
大変良かったので家族で泊まるためにその頃から予約をしていたのでした。

当初追悼式の出席はこのため諦めていたのですが、

「ホタルを見るのが目的だから追悼式が終わってから一人で来ればいい」

と言われて、あまり考えもせず車が便利だろうとレンタカーを借りました。
ふりかけさんが、

「京都までなら電車で瀬戸大橋を渡って新幹線で行ったら早くて楽じゃないですか」

というので、わたしは

「車で行くと案外早いらしいので。1時間半くらい?」

と軽く答えました。
この「1時間半」というのがいったいどこから出てきてそう思ったのか、
後からわたしは自分でも悩むはめになるのですが、この辺の地理に詳しい方なら
高松市から京都市まで車で1時間半で行けるわけがない、と驚かれるでしょう。

わたしがその1時間半が5時間の間違いであることに気がついたのは、
瀬戸大橋を渡りきってすぐにでてきた道路標識に

「神戸まで160キロ」

と書いてあったのを見たときでした。
家族にも料亭の女将さんにも笑われ呆れられたのですが、
どうやらわたしは四国と淡路島の距離感を取り違えていたようです。
(淡路島でも1時間半は無理だという説もありますが)

しかもたったひとりで5時間高速をレンタカーで運転する(おまけに車はインプレッサ)
という自分の運命に絶望した途端、運転する人ならお馴染み、
あの、高速走行中における「耐えられない眠気」が襲ってきました。

一瞬ふっと意識が飛んで恐ろしくなったわたしはつぎの休憩所に飛び込み、
駐車場で10分仮眠を取り、その後は不思議なくらい元気になって
無事日が暮れると同時に京都に到着したのです。



瀬戸大橋を車で渡ったのは初めてでした。
当たり前ですが延々と海の上を高速道路が連なっています。
日本の橋梁技術ってすごいなあと感動しつつも、一方で
橋のガードレールがあまりにも低いので、

「もし今地震が来たら、まず確実に車ごと海に落ちるであろう」

という不安が拭いきれず、一応海側ではなく内側の車線を走りました。
瀬戸大橋の地震対策ってどうなってるんでしょうね。 




 


栗林公園動物園のシロクマと再会する〜「ぶんご」艦上レセプション

2016-05-31 | お出かけ

次の日の掃海慰霊式の予行演習が終わったので、わたしたちは
階段をさらに降りて車を停めた「海の秘宝館」の駐車場に向かいました。



下から高校生の群れが押し寄せてくる予感。
そういえばわたし、中学の修学旅行でここに来てるんですよね。
バスケットボール部でしごかれていたせいか、本殿までの750段(だっけ)を
息も切らさず登りきった記憶があります。



商店街にはうどん県副知事の要潤等身大ポスターが。
この人のデビュー作、仮面ライダーアギトをDVDで見ていました。
確かこの劇中でも「香川に帰る」というシーンがあったような・・。



来てみて確かにここはうどん県だと思いますが、それだけじゃないそうです。



これらのポスターは惧れ多くも皇太子陛下の賜宿泊であった元旅館の門
(もう営業していないらしい)に貼ってありました。



ふりかけさんがここで「へそまんじゅう」なるお菓子を買い求めている間、
わたしは商品の中に「キョンシー変身セット」を発見。
今時キョンシーに変身したがる日本人の子供がどこにいるというのか。



お店の人がネコ好きだった場合、この辺に生息している野良ネコを
写真に撮ってポスターにしたりします。



見たら幸せになるという金目銀目の白猫さん。

 

そして車を停めた「海の秘宝館」駐車場に帰ってきました。
車を出そうとして、船のプロペラが屋外展示してあるのに気付き、
カメラを渡してふりかけさんに撮ってもらいました。 
寄贈したのはナカシマプロペラだそうです。



少し車を走らせると、なんと駐車場の隅でつがいの孔雀が飼われていました。

「この狭いカゴではろくに羽を広げることもできませんねー」

「もう求愛する必要ないからいいんじゃないですか? 」



伊勢もそうでしたが、こういう観光地でもある大きな神社の周りの地域には
独特の、「いつも人がいるのに寂れた感じ」があるのはなんでなんでしょうか。
昔ながらの建物を、結構いいかげんな改装でつぎはぎにしつつ使っている
風情のあるような無いような家並みがその感じに輪をかけています。 



アイデアは「かに道楽」だけど、経年劣化に耐えない仕様のため、
とっても怖いことになってしまった「たこ道楽」。
こんなものがあっては客寄せどころか逆効果だと思うのはわたしだけ?

ともあれ、それもこれも含めて日頃見られないものを発見する地方の旅は楽しいものです。

この後香川に向かう高速道路に乗ったら、掃海隊御一行様を乗せた
マイクロバス2台と女性自衛官二人の公用車とが一緒に走っていました。
わたしがバックミラーを見ながら、

「あ、後ろの車自衛隊だ!追い抜かせますから誰が乗ってるか見てください」

自衛隊の車というのは陸海(空は見たことない)問わず、法定速度を
わりときっちり守って運転するので、抜かせるのに苦労しましたが、
追い越し車線でスピードを落として抜いていく車を覗き込んでもらったら、

「・・・・全員寝てるし」(ふりかけさん)

わたしもちらっと確認したところ、ほとんどの頭ががっくりと陥没しています。

「まあ、朝早かったんでしょうから無理もないですよ」

「いや、あれは昨日の夜宴会をしていたからです」(きっぱり)




お昼ご飯が「神椿」のバケットつきスープだったので、うどん県に来たからには
一度くらい「その辺のうどん」を食べるべきである、と二議一決し、
栗林公園のあるあの妙に広い官公庁通りの商店街に入りました。

セルフサービス方式の店でカウンターに注文するのですが、お勘定でこれが
380円だと聞いて耳を疑い、お店の人に聞き返しました。

「・・1380円かと思った」

まあそれだと高すぎですけどね。



この通りを海に向かっていくと、高松城址があります。
ここは現在玉藻公園といって有料で公開されているそうですが、ふりかけさんによると、
お堀には潮水が入れられていて鯛が生息しているんだそうです。

「人から餌をもらって生きてるんだそうですよ」

「鯛がですか?鯛ともあろうものがというか鯛の風上にも置けないというか」

これぞまさに「家畜の安寧」というやつですな。
そうそう、家畜の安寧で思い出したのですが、昔栗林公園には動物園がありまして、
昔友達と学生のノリで無計画にここにやって来たとき見たことがあります。

無計画なので友達の誰もがお金を持っておらず、何も食べられないので、
わたしが母に電話して
ATMにお金を振り込んでもらい、銀行で引き出しました。
ATMの営業が土曜日の12時にばしっと終了してしまうという時代で、
振り込まれたお金を引き出した時、12時1分前というスリリングな展開でした。

そのときに栗林公園の動物園を見ました。
今調べたところ、昭和5年にオープンして、2002年に閉園していました。
閉園前の動物園はそのとき閑散として人影もまばら。

栗林動物園

写真を見てもおわかりのように、へたすると動物虐待ではないのか?というくらい
その環境は劣悪に見え、中でも狭い檻を激しく苛立ちがならうろうろしていた
シロクマは、檻の前に人が立つと、水の中に飛び込んで水をかけるのです。

「あれわざとやってない?」 

一人が言い出し、皆で人が通るのを待って観察していたところ、
シロクマは向かいの檻に人が背中を向けて立ったところを狙って、 
それをわざとやって楽しんでいることが判明しました。

「かわいそうに。こんな暗くて狭いところにいたらストレスたまるよね」

と言い合ったことを思い出し、ふりかけさんに話していたのです。
その後うどんを食べるために駐車場に車を停め歩いていくと、
通り沿いのお店のウィンドーに
シロクマの剥製があるのに気付きました。

「シロクマだ」

「なぜこんなところにシロクマの剥製が・・・・・はっ!」

「もしかしたら栗林公園のあいつ?」

高松市のお店がシロクマの剥製をわざわざどこかで買い求めるとは思えないので、
この剥製があの水かけシロクマである可能性は高い、とこれも二議一決。 

「だとしたら、劣悪な環境で一生を終え、死してなおさらしものに・・」

「うっ・・・(´;ω;`)」

数少ない高松市の思い出と、わたしはこんな形で再会を果たすことになった
・・・・のかもしれません。(違ってたらごめん)

ちなみに、上に貼ったページでシロクマの生息を確認したところ、
閉園の時点でもうすでにお亡くなりになっていたことが判明しました。
このときすでに彼は商店街のウィンドーにいた可能性高し。



今夜のお宿は城址の向かいにあるJR系のホテルクレメント。
飛行機代と宿泊がセットになっているプランで取ったのですが、
チェックインするとフロントの方が

「いいお部屋をご用意させていただきました」



たしかにいいお部屋だ〜!


なんと、これから艦上パーティの行われる「ぶんご」が停泊している
港を一望できる角部屋でした。
せっかくいい部屋なのにほとんど寝て荷物を置くだけだったのが残念です。
出入りする船を見ながらこの窓際でゆっくりしたかったなあ・・。



瀬戸大橋で繋がって電車も通るようになり、すっかり四国は
本州への通勤圏となったわけですが、やはりフェリーに乗る人もあります。

さて、チェックインして1時間でシャワーを浴びたり着替えたり、
カメラの電池を充電したりして過ごし、駐車場で待ち合わせて
わたしたちは「ぶんご」に艦上レセプションに出席するために向かいました。



指定された駐車スペースに行こうとすると、自衛官が制止します。
なんだなんだ、と見ていると、横から黒塗りの車が追い越し、
呉地方総監が乗艦するところでした。

わたしたちは盛り上がり車の中からこうやって写真を撮っていたのですが、
制止している自衛官がそれはそれは申し訳なさそうでした。

まあ、自衛隊にすればレセプション出席者は「お客様」。
そのお客様を自分のところのボスの通行のために制止したら、中には
「俺を誰だと思ってるんだ!」とキレる危ない人だっているかもしれませんしね。




サイドパイプの「ほひーほー」が鳴り響く中階段を上る呉地方総監。
前総監には表敬訪問でご挨拶しましたが、こちらの方にお目にかかるのは初めてです。



今感じた疑問。

ラッタルに上がったとき、自衛官が艦尾に向かって敬礼するのは
自衛艦旗に敬意を表しているということですが、それでは夜になって
自衛艦旗が降納されてから偉い人が船に乗る時、この敬礼は行われるのでしょうか。 

わたしたちもこの後お迎えの敬礼のなか乗艦したわけですが、
わたしは今回初めてこの位置から、軽くではありますが艦尾の旗に向かって
頭を下げるという偉業(わたしのなかで)を成し遂げました。

今までやろうやろうと思っていたけど、大抵乗員たちが注目しているので
恥ずかしくてできなかったのです。

場慣れの賜物というやつですか。


続く。


 


「外人石工」の彫った狛犬〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-08 | お出かけ

以前、コメント欄でさんぽさんに「蜜柑の碑」を教えていただいたとき、
よこすかシティガイドのHPを貼っていただきました。
ふと興味を惹かれるツァーを見つけ、参加したのでそのご報告です。

NPO法人よこすかシティガイド協会は、平成14年発足したボランティアガイドの
団体で、去年法人化してNPOとなったばかりです。

横須賀の観光案内を企画して行っており、シーズンには週1〜2回の割で
ツァーが行われているようです。
こういうツァーに参加するのも米軍基地内ツァーだけだったので、
その雰囲気も含めてどんなものか大変興味がありました。



集合場所は横須賀中央駅前コンコース。
この日は初夏といってもいい晴天でした。
ツァーは基本雨天の時には中止になるようです。



防衛団体のロナルドレーガン見学、そして術科学校見学と
最近横須賀づいていますが、前回から横須賀周辺にはこのような
ジャズを演奏しているおじさんの像がそここにあるのに気付きました。
なぜ上半身裸でサックス吹いているのか教えてくれるかね?



集合時間の30分前から皆集まっていたようです。
来た順に3つのグループになって時差をつけて出発。
わたしはもちろん一番最後の組になりました。

ところで、平日の昼間、朝9時半から2時までのツァーに参加できる
となると、いきおい参加する年齢層は決まってくるわけで、
16歳の息子がいるわたしが文句なく一番若くて、
ツァーガイドのおじさんがわたしを「こちらのおじょうさん」と
呼んだくらい全員が高齢層、おそらく平均年齢65くらいと思われました。
(ちなみにこのおじさんはみのもんたではない)



で、駅から商店街を15〜6人がぞろぞろ移動するわけ。
狭い商店街のアーケードなので、当然普通に歩いている人が
この団体に迷惑しているようすがわたしなど気になって仕方ないのですが、
なんかみんな片側に寄らないんだな。 



なんか見たことあるなあと思ったら、つい先日横須賀鎮守府庁舎の公開で
帰り歩いて帰った商店街でした。

商店街の中にも昔ながらの建物がそのまま残されていることがあり、
これなど外壁に青銅を使っている古い建物です。
昔は旅館だったとガイドの方が言っていました。



このツァーの最初の案内地が「平塚貝塚」。
貝塚とともに全身を伸ばした「伸展葬」で発見された
男性の人骨などが発見されたそうですが、
今そこ近辺は開発されてすっかり住宅地になっています。

つまりその住宅地を見たわけです(笑)

そこを臨むアーケード沿いに、この民家があって、
確かガイドは「発見者の自宅」と言っていたような気がするのですが、
発見者って、当時小学校5年の子供だったっていうし・・。

あ、その子供がここに住んでたってことかな?



このツァーの面白いところは、見学するところが「歴史的名所」に
限らず、一般住宅の建築様式も含むことです。
これも商店街のなかのカメラ屋さんなのですが、この装飾タイルの床が
古いものなのだとか。



同じカメラ屋さんのステンドグラスは、先日旧長官庁舎で見た
同じ作家の手によるものにも見えます。
これも古いものだそうですから、可能性はありますね。



次に訪れたのは小さな鳥居のある中里神社。
天照大神と宇賀御霊尊がご祭神で、1817年に創建されました。



明治41年(1909)に再建されたという本殿。



お鈴を取り替えたのか、古いのがただポツンと置かれていました。



拝殿の軒下に、すっかり風雨にさらされて文字の消えた額がありましたが、
これは大正11年にかけられたもので、当時の歌人、松竹庵梅月の弟子が
当地をテーマに詠んだ詠の俳額なんだそうです。

わたしが解説でピンと引っかかったのは、この梅月という歌人が

海軍工廠に勤めていた

という一言。

「海軍工廠で何の仕事をやってたんですか」

とガイドの人に聞いたのですが、

「・・・あまり詳しく聞かないように」

とのことでした。orz
そこで独自に調べた結果(ツァーの間もiPadでも調べられる)


●梅月の句作は数万、門弟は、全国に七千人近くいた
●明治7年(1864)、本県中郡に生まれ、本名は石井広吉
●21歳で立机(りゅうき=宗匠つまり師匠)となる
●日清戦争直後、横須賀に来た梅月は、田浦町三丁目の静円寺近くに住み、
海軍工廠へ務める傍ら、門下の指導に専念
●工廠で働きながら、門弟の指導や全国的な仲間づくりに励むー方、
隣近所の子供たちの育成に尽した

ということまではわかりましたが、肝心の『工廠で何をしていたか」

はどこにも出てこず全くわかりませんでした。
技術者や工員ではなく、事務職だったのではないかと思われます。

ちなみに梅月の出版していた俳誌は

「軍港の友」

その最後は、昭和14年(1939)、日中戦争で北中支に転戦する
将兵の慰問を行うため中国に渡りましたが、彼地でマラリヤを病み、
それが元で3年後、68歳で亡くなったというものです。

この慰問というのも何をもって将兵の慰めとしていたのかわかりません。
このころは俳句も歌舞謡曲のような「慰問」のカテゴリだったのでしょうか。

いずれにせよ、かつて海軍工廠に勤めていたことと、この戦地慰問には
それを志願するにあたって何らかの因果関係があったと思われます。

梅月が中支に渡る前の壮行会で撮られたらしい写真が
このページの真ん中ほどにあります。

ふるさと横須賀 松竹庵梅月

このような老人を慰問のためとはいえ戦地に送るというのは
無謀というか無茶にしか見えませんが、
ご本人の固い意志からだったのだろうなと思わされます。



横須賀の街には京都とは全く違う、このような廃屋が結構たくさんあります。
ガラスの感じから見て昭和2〜30年の間の築でしょうか。
同行の参加者が、右端の出っ張りを指して

「こういう家は廊下の端に必ずトイレがあったんだよな」

などと懐かしがっていました。



次の見学地は「横須賀上町教会」。
現在は幼稚園として使われているので中を見ることはできませんが、
昭和6年に建てられたこの教会本堂は国の登録有形文化財になっています。

昭和6年というとまだ100年も経っていません。
ヨーロッパはもちろん、アメリカでもボストンなどでは
200年前に建った教会が街ごとにあって、特に文化保護もされていないわけですが、
日本という国は、その歴史の長さの割に、特に建築が残されない国だと思います。

もちろん地震や戦争で多くが喪失したという面はありますが、
それ以上に
「土地がない」「財政がそれを支えられない」というだけの理由で
この世から永遠に消えてしまった歴史的な建築物がどれほどあることか・・。

建築ではありませんが、冒頭の「平坂貝塚」にしても、現在は
民家の敷地内にあるらしく、すでに一般人が見ることはできなくなっています。



この教会は家具や照明器具にいたるまでが当時のもので、
オルガンもそのまま置かれているのだそうです。



教会の建っている造成地の壁も昔のまま。
当時は砂利をそのまま入れて使ったんですね。



そのまま上町商店街の裏道を歩いていきます。
こういう昔からの家にも普通に人が住んでいます。



ここも思いっきり築年数の経った家ですが、現在ITサポートセンター。

建物の横にカギ型の釘が幾つも突き出していますが、
これはガイドさんによると「火伏せ」といって「火除け」だそうです。

「具体的にどう役に立つのか知ってます?」

と逆にガイドさんに皆が聞かれてしまったのですが、検索しても
「火伏せ」とは火除けのまじないという意味しかでてきません。



こちらの青銅の外壁を持つ家の側壁にもたくさんのカギが。

わたしの想像ですが、建物が密集しあった当時の街では、
一旦火事になったら建物を倒してでも延焼を防ぐしかなく、
そのため外壁にカギをつけておいていざとなったら倒壊させたのかな、と・・。

どなたかこのカギについてご存知の方がいたら教えてください。

 

次の予定地は「深田台神明社」ですが、
山門?に建てられている石柱にはなんか別の文字が・・・。


で、この石柱を寄贈した人の名前が「小泉又市」とあるので、
皆が「小泉さんの親戚だ!」と断定的に言い切っていたわけです。
確かに小泉元首相のおじいさんは「小泉又次郎」という政治家で
飛び職人から横須賀市長、逓信大臣にまでなった「豪傑」でした。



一番左小泉純一郎、その右又次郎。
一番右の男前は婿の小泉純也
小泉家のイケメン血筋はこの純一郎のパパによってもたらされた模様。

で、調べてみたんですが、小泉又市という人、小泉家の家系に出てきません。
又次郎さんの名前からみて、こちらがお兄さんだったのかなという気もしますが・・。



さて、この神社、横須賀独特の住宅街の中の細い道の石段を
登って行ったところにあり、その手前に

「納 御神燈」

とありますが、肝心の御神燈はどこにあるかわかりませんでした。
この神社は1871年、もとあった米が浜に陸軍の砲台が作られることになったので、
ここに移転してきたのだそうです。



で、この鳥居の手前、片側にだけ鎮座する狛犬さん。
気のせいかそのシェイプもユニークですが、それもそのはず、
この狛犬、台座には英文で作者名が刻まれているのです。



ガイドの方にライトで照らしてもらったのを撮りました。
現地では暗くて全く読めなかったのですが、こうしてみると

Carved by B. Chifiyei (ーB.以下まったくの推測ーによる彫刻)


と読めないこともありません。
当時石を彫るのは大変だったらしく、最初の彫り始めと最後では
まったく気合の入り方が違うのが哀しいですが(笑)
とにかく、これを彫刻したのはこの外人さんだったということらしいです。

彫ったは彫ったけど、芸術家ではなく単なる「石工」だったらしく、
とにかく今では作者についてわかる何の資料も残されていません。

言われてみると、狛犬の風情が「バタ臭い」という気がしないでもありません。 
横須賀の有力者がちょっと変わった狛犬を置いてみようと 依頼したのでしょうか。 



そして、この台座には又次郎の名前がちゃんと刻まれています。

でもおかしなことに気づきました。
神社移転の1871年というと、又次郎さんはまだ6歳のはずなんですよね。

狛犬の設置は少なくとも小泉又次郎が横須賀市長になった
1907年前後でないとおかしなことになってしまいます。

というわけで、これもわたしの想像ですが、この狛犬は当時
明治政府が採用していた「お雇い外人」の関係者が、何らかの縁で
移転に際して作ったもので、ずっとここにぞんざいに置かれていて、
30年経ってから、横須賀地元の有力者が何かの記念にあたり
あらたに台座を作って現在に至る、という経緯だったのではないでしょうか。


続く。


 


たたらの里を訪ねて〜島根県出雲

2016-05-01 | お出かけ

さて、「たたらと刀剣館」の展示、続きです。
 



はめ込み式のテレビのようなガラスをのぞくと、ジオラマがあり、
最新式のバーチャル映像によってたたらを解説する仕組みでした。

ボタンを押して説明をスタートすると、音声とともにたたらに火がついたり、



人が現れたりして、たたら製鉄の実際を解説してくれます。
実際に見るともっとリアルです。




鍛治場を再現した精巧なジオラマもありました。



顔に前垂れのついた頭巾をかぶって鉄を持つ人、
そしてそれを数人の男たちが叩いて延べていきます。
ふいご番の前垂れは顔が焼けてしまうのを防ぐためです。



ここには再現された実物大の「たたら炉」の断面模型があります。
何層にもわたって積み重ねられた土やスミ、石には
長年の経験から得られた知恵が凝縮された全く無駄のない造りです。
すべて、保温・保湿のために工夫された複雑な構造です。



ここから「鞴(ふいご)」で風を送り込み、安定した火力を確保します。



ふと向こうを見たら息子が独自に「ふいご」を踏んでいました(笑)



この真ん中に立って片足ずつ踏みしめることで風が送られるのですが、
問題はそれをどれくらい続けなくてはいけないかです。
だいたいひとりが一時間、三日三晩交代でこの「番子」を踏みました。
これを交代しながら行うことが「かわりばんこ」の語源となっています。

一つ二つは赤児も踏むが 三つ四つは鬼も泣く」

はまさにこの労働の厳しさを歌ったものだったのです。



こちら「踏み鞴(ふいご)」。
写真のように二人が両端を踏んでシーソーのようにし、風を作ります。
これを踏む人を「地団駄」といい、これが「地団駄を踏む」の語源ですが、
地団駄は「踏む人」であり踏むものは「踏みふいご」なのに、なんか変ですね? 



これは天秤ふいご。
レバーを引っ張ると、右下から空気が出ます。
不思議なのですが、押しても引いても同じところから空気が出ます。



さて、隣の鉄打ち場では実演が始まりました。
刀鍛冶が玉鋼に火を入れ、刀にしていく過程を見せてくれます。
火に入れる前に玉鋼を藁と布で包み、泥をまぶしていました。

これは酸化を防ぐためなのだそうです。
この火床を「ほど」と読みます。



火から出した鉄には藁を混ぜます。
これも酸化を防ぐための工夫でしょう。



そしてあとは「鉄は熱いうちに打て」そのままです。
これを鍛錬といいますが、叩くことで不純物や空気が飛び、
硬度の高い鋼を伸ばし練り上げることができるのです。



ここでは観光客に説明するためにやっているので、
本来何日もかけてする作業はすぐに終了して、

「そうやってできたのがこの刀です」

まるで3分間クッキングのようです。
もちろんこのあと刃を研いでいく重要な過程があるわけですが。

鍛治師にも「国家資格」があって、文化庁の試験を受けるのだそうですが、
毎年12人くらい受けてそのうち合格は一人だそうです。



1年前のお正月、備前の刀打ち始めをし、ここでお話ししましたが、
ここでも見学者に鉄を打たせてくれるということで何人かが挑戦しました。

「スーツとかネクタイとか、火花が飛んだら穴が空くかもしれませんがいいですか」

散々脅かされてから打つのはのは我々の同行者。



もう一人、ということでこの女性も我々一行の一員。
わたしたちはやったことがあるので遠慮しましたが、二人とも
あまりに重いので驚いていました。

この刀鍛冶さんはとても面白い方で、

「夏場来て頂いたら、暑さでやせ細ったわたしを見ていただけます」

と言って場を笑わせていました。



次の異動までの間にお土産店に連れて行かれました。
主催者の気配りが身にしみます。

いきなりシュールな絵柄になっている「どじょうすくいまんじゅう」の
広告にウケましたが、これは買ってません。

そういえばここは「安来節」のふるさとなんですね。

 

山陰銘菓 - どじょう掬いまんじゅう - CM



次に連れて行かれたのは「鉄の歴史博物館」。
昔からおそらく変わっていない街並みにわたし歓喜。



博物館、といいながら、ここは地元のお医者さんの家だったそうです。
中は一切写真禁止でしたが、たたらの道具や過去帳、帳簿などがありました。

ここで昭和47年に再現された「たたら製鉄」のNHK製作ドキュメンタリーを
鑑賞したのですが、音楽が、もしかしたら武満徹?という感じのおどろおどろしさで、
(ひゅ〜♪ カーン♪ ど〜〜〜ん、って感じ)見ていた一人が

「いまから殺人事件でも起こるんですかね」

と呟いておられました。
この時に出演して実際にたたら製鉄を再現した「最後の村下(むらげ)」たちは
現在全員この世にはいません。

このビデオで知ったのですが、たたら師たちは、製鉄が始まったら4日3晩、

仮眠だけで作業を続けなくてはなりません。

さらには火を両眼で見ると目をやられるので、まず片目で作業し、
その片目が疲れると目を交代して行うのですが、それも限度があり、
引退の頃には視力がほとんど失われる宿命を免れることはできなかったということです。

そしてこれらの作業は女性を一切排して行われました。
女性は神事にもつながる作業に「穢れ」を持ち込む、という意味もありますが、

女性の神様がやきもちを焼くからという説もあります。
「もののけ姫」で女たちがたたらを踏んでいましたが、現実にはありえないことだそうです。



この博物館になった家の母屋は藁葺きでした。
鳥が屋根の隙間から入っていくのを見ましたが、いい巣になっているようです。
なんといっても藁は取り放題ですしね。




博物館前の街並み。いい感じです。
自民のポスターがありますが、このあたりはかつて竹下登の選挙区だったみたいですね。

今念のために家系図を見たら、縁戚に米内光政の娘、そして三島由紀夫がいます。
ミュージシャンのDAIGO、漫画家の影木栄喜は孫、口癖は出雲弁の「だわな」。

自身が東大出で留学経験もある宮澤喜一
「あなたの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」
と言い放った時、「あれは許せないよ」と怒っていたそうですが、
その話を聞いた佐々淳行が、

「でも早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」

と尋ねたところ、竹下は

「それがね、無試験だったんだよ」

と答えたという話があります。
ボケてどうする(笑)





ひっそりと営業していた和菓子屋さんが気になって入ってみました。
招き猫に福助、不二家のペコちゃんはアンティークで高値がつきそう。



鑪カステラというのを購入してみました。
季節がら、桜の味を販売していました。



そして店の片隅にはそのとき咲き初めた桜の枝が一抱え、
無造作な様子で手桶に活けてありました。


わたしたちはこのあと、実際にかつての姿のまま保存されている
「たたらの里」のかつてのたたら炉を見ることになりました。

続く。