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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海上保安制度創設70周年記念観閲式

2018-05-20 | お出かけ

ここのところ頂いたコメントに全く返事ができない状態が続いておりますが、
その理由は、またしてもイベントがいくつも重なってしまったからです。

その中にわたしにとって未知の世界、海上保安庁の観閲式&訓練展示がありました。


海上保安庁。

自衛隊とは方向性は違えども同じ海の防人であるこの組織に、
このわたし、興味がないどころではなかったのですが、
残念ながらこれまで全くといっていいほどご縁がありませんでした。


ところがこの度、ある重要人物からチケットをいただいたことがきっかけで、
(色々とありましたがそちらは本編で)参加がかなった海保観閲式です。

今日はまだ体験航海シリーズの途中でもありますし、まさに今日、
横須賀から練習艦隊をお見送りしてきたこともすぐにお話ししたいので、
例によって今日はダイジェストと参ります。

海保の観閲式が行われるのは平成25年以来、つまり5年ぶりです。
尖閣諸島問題やサミットなどが行われた関係で中止していたのですが、
今年は海上保安制度が制定されて70周年の節目ということで、
国民に広く業務に対する理解を訴えることを目的に行われることになりました。

観閲式は自衛隊より小規模となる巡視船四隻が単縦陣となり、
東京湾を航行する間、受閲部隊が逆行してくる形で行われます。

わたしの船は(艦じゃない、これだけでも新鮮!)いわゆる先導船で、
ここ横浜所属の「いず」となりました。

他の三隻はいずれも晴海からの出港となります。

乗船して出航を待っていると、横浜所属のFL01「ひりゆう」が出港していきました。
放水展示で大活躍する予定です。

しかし「ひりゆう」・・・なんと大胆なネーミング(笑)
「ゆ」を小さくしていない辺りにちょっと遠慮が見える気がします。

海保は消防船(フローティング・ボート)にあの飛龍を使ってしまっているのか。

出航の時にはわたしは船橋前部の、前甲板が見えるところから見ていました。
この出航作業も、海自と全く違って大変興味深いものでした。

同じ海の警備を行う組織で、しかも出自は同じ海軍でありながら、
海自と海保には文化の違いが多いこともこの日知ったことでしたが、
同じであることも発見。

例えば「帽振れ」です。

そして出航は1200。

「いず」船体が岸壁を離れて行くと、いつもドラマや映画などで
「横浜」を説明する時に必ず現れる景色がそのまま現れます。

総合訓練ならびに観閲式が行われる東京湾に行く「いず」は
出航後ベイブリッジの下を通過します。

羽田空港を左に見ながら航行していくことしばし、晴海から出航した
巡視船「やしま」「そうや」「だいせん」がいつの間にか後ろに。
訓練海域まで「いず」を先頭に、四隻でしばらく航行していきます。

二番船の「やしま」船橋上部に設えられた観閲台。
わかりやすくするため紅白の幕を張っています。

この日は防衛大臣政務官だったような気がします。

1400、観閲が始まりました。
関係機関など、船艇のパレードです。

これは石垣所属1,000トン型巡視船PL84「ざんぱ」。

登舷礼の行い方も、もちろん海自と一緒です。
海の儀礼は世界共通だからですね。

PL13「もとぶ」(横浜所属)。

PLとは巡視船を意味する「patrol vessel」のことです。
海保のことになるとこんなことすら調べないとわかりません。

ちなみに「もとぶ」はこの4月に就役したばかり、パリパリの新造船です。

右手観閲船隊、左が受閲船隊です。

そ こ に !

ああ、なんだかものすごく見慣れた光景。
ネイビーブルーのセーラー服が登舷礼に立っている灰色の艦体、
それは・・・・!

横須賀地方総監部から、我らが「はたかぜ」さんの登場です。
あーなんだろ、この、アウェイでいきなり知り合いにあったような安心感。

続いて、わたしにとっては懐かしい(アメリカで見たので)、アメリカ合衆国の
沿岸警備隊、コーストガードの「カッター」がゲストでパレードを行います。

Alex Haleyというこの名前、どこかで聞いたことがあると思ったら、あの
「ルーツ」の作者であるアフリカ系作家と同一人物でした。

若き日に沿岸警備隊に入り、CPOまで昇進したそうです。

船艇の後は航空機のパレードも行われました。

ガルフストリームVのLAJ501「うみわし」。
高速道路横羽線の羽田付近を通ると海保の格納庫が見えますが、
「うみわし」はそこの所属のようです。

海保の観閲式ではこんなこともやるんですね。
消防船が水を盛大に撒き散らしながら通り過ぎる放水展示です。

まず先ほど横浜から一足先に出航した「ひりゆう」。

なんとびっくり、「はまぐも」は赤い水を出してるぞ。

川崎市消防局の消防艇「第6川崎丸」はド派手な蛍光色の緑。

市川市消防局「ちどり」はオレンジ色。

色とりどりの水を撒きながら進む消防船団の姿はなかなかシュールです。

続いて、人命救助訓練です。
まず、海に落ちた人をリペリング降下で救出するという訓練展示。

少し前に海に落ちたという設定の人が、オレンジの浮きの近くに浮かんでいます。

吊り上げ救助なう。

もう一回吊り上げ救助が行われました。
さっきと違ったアプローチでへローキャスティングを行います。

この要救助者は、ヘリに揚収された後、ヘリ搭載艦「とさ」に搬送されました。

息つく暇もなく、次の訓練展示が始まります。

今度はケミカルタンカー(のつもり)で火災に続く爆発発生(という想定)。

先ほどのカラー船団が寄ってたかって消火活動を行ってます。
あまりに水の量が多くて燃えている船が全く見えません。

続いて、訓練展示のハイライト(多分)、テロ容疑船捕捉、
制圧訓練が始まりました。

海賊のマークをわかりやすくつけた「はまかぜ」がアグレッサー?です。

ゴムボートで海面を飛び回るように走って不審船に警告し、
動きを止めるのが複合艇。

もうこれが凄いんだ。

複合艇というのはつまりゴムボートなんですが、これが凄まじいスピード。
この機動が半端じゃありません。

複合型ゴムボートに乗ってテロ容疑船を追いかけるのは
特別警備隊、略称特警。

この展示は高速機動連携訓練といいます。

容疑船は追いかけられて武力攻撃してきました。
「専守防衛」いただきました!

巡視船による正当防衛射撃がおこなわれます。

監視艇、警備艇が周りを取り囲み、移乗などを行い、
容疑者を取り押さえ、ついに容疑船は制圧されました。

海自の観艦式でもおこなわれる高速機動連携訓練です。
一斉回頭などを行いました。

大型巡視船と護衛艦「はたかぜ」が連携して行われるこの訓練には、
もう見ているこちらの心臓は高鳴りっ放し。

続いては小型の巡視船隊の機動訓練です。
「ひざん」「あかぎ」(なに、赤城だと・・・?)「つくば」が
空砲射撃を行いました。

というところで総合訓練は終了です。
ここからは楽しい「フェアウェル」の時間。

関係船艇艦艇が観閲船にお別れの挨拶をしてくれます。

ご当地色豊かに、各船工夫を凝らしたフェアウェルを行います。
例えばこの巡視船「ふどう」は神戸の・・・・あれ???

岡山の水島からはPC43「おきなみ」。

PS35「ともり」の船尾にいるこの怖い人は誰・・・・?
((((;゚Д゚)))))))

PS15「びざん」がどこの船かもうお分かりですね?

で、出た〜〜〜!

ああ、なんたる安定感。(個人の感想です)
我らが「はたかぜ」の艦尾には・・・・。

ピクルス王子とパセリちゃんが!

今日一番目立っていた気がする「ひりゆう」さんは水撒きながら最後のご挨拶。

この日「いず」の後ろをずっと警護してくれていた巡視船「のげかぜ」。
頼もしかったです。

横浜港に向かう「いず」に、挨拶してくれる「にじかぜ」。

こうして12時に出航、2時から約1時間の観閲式と訓練を終え、
4時半に「いず」は横浜港に無事帰ってきました。

 

次回からは詳しく、初めて見た海保の観閲式についてお話ししていきます。

 

続く。

 


平成30年、東京のお正月

2018-01-02 | お出かけ

みなさま、初詣は元旦に行く派?午後に出かける派?
それとも大晦日の夜から出かけて年が変わると同時派ですか?

我が家は今年息子の受験もあってどこにもいかないことになったので、
王道の元旦参りを決行しました。

遡って2017年クリスマスの夜。
我々は工事が完成した(やっとだよ)東京駅近くでこの夜を過ごしました。

丸の内のイルミネーションにはまるで誘蛾灯に引き寄せられるかのように
カップルや家族連れ、観光客が押しかけていましたが、それらは
走る車から見ただけです。

駅前は樹々も軒並みライトアップされて大変華やか。

いつもの駅前ホテルでクリスマスのディナーをいただきました。
これがなかなか斬新だったのでご紹介します。

メニューは何々のナントカ添え何々風、といったよくある名前ではなく
「ユリ根」「ホタテ」「鹿肉」とだけ書かれていて、それがどんなものかは
出てきてからのお楽しみ。

これは、帆立貝に何か挟んだものをきっちり海苔で包み、二つに割ったもの。
手でつまんでいただきます。

枯れ枝と石の上に乗っていますが、ジオラマではありませんので念のため。
色々出てきましたが、ユリ根とこのホタテが抜群でした。

この日メインの鹿肉。
運ばれてくるときにもモミの木(あ、クリスマスだからか)に乗せてあり、
香ばしい香りが肉に纏わり付いてなかなかこれがよろしい。

お皿にセットされた状態。
左上はビーツ、白い球体はホワイトチョコではなく・・・あれ、なんだっけ(笑)

いろんな食材やソースと一緒にお召し上がりください的なコンセプトです。

デザートの後、最後に出てきたトリュフ。

「姫林檎は食べられますか」

「姫林檎は飾りでございます」

このディナーをいただいたのと同じ駅前ホテルで、元旦のおせちをいただいてみました。
今やコンビニでもお節は買えますが、基本的におせち料理の定番、
数の子に昆布煮しめ、伊達巻にごまめというようなものが実はかなり苦手なので、
(その心は辛いから)気に入ったダイニングを持つホテルで
ちょっと洋風入ったおせちを楽しむのが最近のお正月となっています。

カモがネギ背負って、じゃなくてネギ(リーク)がカモを背負ったもの、
ローストビーフにガランティーヌが入ってくるのがホテルのおせち。

泊り客はほとんどが外国人で、おせちはまず出ないらしく、今年から
予約制で元旦のみ20食限定になりました。

お雑煮は鴨肉でおすまし仕立てでした。

 

おせちをいただき、早速初詣に出かけました。
実は息子は昨晩鎌倉の友人宅に泊まって皆でお詣りに行こうとするも
あまりの人の多さに途中で諦めたそうです。

まあ鶴岡八幡宮ではねえ・・・。

ナビを入れると銀座を避けて案内が出たのですが、あえてそれに逆らい
中央通りを突っ切って行くことにしました。

今年はデパート始めお店も元日は休業することになったので、
銀座に来ているのは何も知らない中国人だけ。

三越とニッサンのビルの間の横断歩道の人待ちがこんなに少ない。

お店が開いていないガラガラの銀座はある意味珍しくて見る価値ありです。

和光の前もこの通り。
誰もいない銀座をバックに自撮りしている人多数。
こんなときにも虚無僧が辻立ちしていました。

行き先は虎ノ門なので、和光の角を左折。

今日の最初の参詣はここ!
え?高層ビルじゃないかって?

この虎ノ門琴平タワーはですね・・。

こんな具合に、昔からここにある金刀比羅宮と融合した作りになっているのです。

参道がビルのエントランスを兼ねているという斬新な作り。
日本に神社は数多くあれど、こんなのが見られるのは東京だけでしょう。

そのせいか、外国人の観光客の姿がいつも見える神社です。

参道沿いにはこのような立派な神楽殿も新築されているわけですが・・、

ビルの駐車場からの出口スロープの上に建っていたりします。

参詣のために列に並びました。
鳥居は青銅製で、文久4年(1864)の建造だと裏側に彫ってあります。

金毘羅宮といえば琴平というくらいで、当然四国のあの金毘羅のことですが、
こちらの金毘羅宮は、讃岐丸亀藩主だった京極さんという人が、
1660(万治3)年に邸内神社として金比羅山を勧請(かんじょう・
神仏の分霊を請じ迎えること)して創建したものが始まりだそうです。

いわば四国の金比羅山の支店みたいな感じでしょうか。

大東亜戦争時、社殿は消失したそうですが、鳥居もお百度石も
昔のものがそのまま残されています。

今回はお酒も奉納いたしました。

稲荷神社と結(むすび)神社もあります。

結神社は縁結びの神ということで、赤の結び紐を買い、
ここに結びつけて良縁を願うんだそうです。

その昔、良縁祈願に訪れた女性たちは、この結神社の前で自らの黒髪を一部切り取り、
或いは折り紙を持参し、社殿の格子や周りの木々にそれらを結んだのだとか。

受験を控えたMKに「学校に入るのも縁結びだから」という理由でやらせようとしたら、
800円也の「良縁セット」は女性にしか売ってもらえないとのこと。

参道から鳥居越しに見た神社外側。
シュールです。

神社の横にあったカップ、メダル製造会社のショーウィンドに錨のマーク発見。
隣は「日本傷痍軍人妻の会」の50周年記念メダル。

神社の向かいに旭日旗が!

と思ったら「ちょい飲み福ちゃん」の看板でした。

MKは鎌倉の友達の家に荷物を置いて来たというので東京駅まで送ることに。
お堀端のいつも車が混雑しているところもガラガラです。
第一生命ビルのまえを走っているのは黄色いはとバスのみ。


東京駅前広場の改修が終わり、駅から皇居まで、まっすぐ道が繋がりました。

つまり新任の外国大使が天皇陛下に自国からの信任状を捧呈する
「信任状捧呈(ほうてい)式」に向かう際の
丸の内駅舎から皇居までの馬車ルートが復活したのです。

捧呈式に参内する際の交通には車か馬車を選ぶことができますが、
大半の大使は(いわゆる反日とされる国大使も)馬車を選ぶそうです。

これは・・・乗ってみたいよね。(リハーサル画像)

大使が乗る「二頭引き座ぎょ式」の儀装馬車は、駅前広場の工事のため、
2007年から出発地点が東京・丸の内の明治生命館前に変わっていました。

ずっと工事中の駅前ばかり見ていたので、完成後にこんな
すっきりとした広場になるとは想像していませんでした。

「音楽大進軍」という戦時映画でここを走り回るロッパの写真をご紹介しましたが、
ほとんどその頃のままという感じで、感激です。

なんでも壊してゼロから新しい駅舎を作るのの10倍くらいの費用がかかっていて、
それというのも駅舎を「高層ビル」にしないために「空中権」も買ったためだとか。

「あの銅像、だれ?」

「東京駅に関係あるとしたら・・・後藤象二郎?」

後藤象二郎にしてはスマートすぎるような・・・。

「東京駅を見てるね」

日本鉄道の父と言われた、井上勝先生の銅像でした。

と言われてもピンと来ない方、「長州ファイブ」の一人で、井上馨、
伊藤博文とともに留学したといえば思い出されるでしょうか。

銅像は昔皇居を向いていたそうですが、駅前広場の工事完成に伴い
東京駅を向いて立つように設置されたということです。

広場ではありますが、車が人や荷を降ろすために一時停車する車道があります。

そして毎年恒例の靖国神社参詣へ。
昇殿参拝して来ました。

驚いたのですが、参集殿から本殿へと渡る廊下と本殿の床になんと

床暖房が設置されていました!

毎年冬の昇殿参拝はストッキング履きの足には辛く、
相当な覚悟をしていったのですが、ありがたかったです。
本殿の奥にはエレベーターも設置(違和感のないデザイン)
されていましたし、この一年で改修工事は完成したようです。

参詣客の多さは、首相が参拝した時には遠く及びませんが、
元日ということで今年もなかなかの賑わいです。

昇殿参拝をする参集殿で、陸自の制服を着た男性とその恋人らしい
カップルが人目を引いていたのと、あとは境内を歩いている
「NHKから国民を守る党」の人もお見かけしました。

お獅子舞と山門脇の写真屋さんも健在です。

ご祈祷料に応じて神社からはお返しがいただけますが、
「ご神菓」はご覧のような可愛らしい犬があしらわれた月餅でした。

 

しかし帰って年賀状を見ていたら、地本勤務の自衛官からの賀状に気になる一文が・・。

「海自の採用が危機的状況です」

これは現在の国際情勢が影響していると考えるべきでしょうか。
おかげで今年の初夢は、海自の採用を増やすべく奔走するわたしを題材にした
混沌とした壮大なドラマ仕立てになってしまいました(笑)

とにかく今年も粛々と、ここから発信することによって
微力ながらそれが自衛隊、特に海上自衛隊の応援になればという気持ちで
真摯にやっていきたいと思っておりますので、どうかよろしくお願いします。

 

 

 

 


海底軍艦!〜第五十七回全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト

2017-10-02 | お出かけ

 

はてなブログに移転しました


痛バスと痛トラック〜第五十七回 全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト

2017-10-01 | お出かけ

 

先週末、お台場のビッグサイトで開催された模型ホビーショーに、
またしてもご招待を受けて行ってまいりました。

本当は業者招待の金曜日に行けば駐車場も空いていたのですが、
どうしても外せない用事があって一般招待の土曜日に行くことになりました。

車を近隣のビルの駐車場に入れたので、初めてこのエントランスから入場しました。

年一度秋に行われる模型玩具の見本市であるホビーショー、
今年でなんと57年目を迎えるということになります。

会場は今回二箇所に別れていて、まずイベントステージのある方に進むと、
ガールズパンツァーらしきコーナーがありました・・・・が、
これはどう見ても旧ソ連のそり。

ガルパンコーナーにはなぜか果物とか野菜を売る店が出ていました。

去年も展示されていたプロモデラー奥川泰弘氏のジオラマ作品展から
見学することにしました。

これ自体が壁掛けになっている小さなジオラマ。
カリフォルニア州旗がペイントされている木の壁がいい具合に剥げています。

オート三輪のあるイギリスのパブの光景。
後ろが一輪で前が二輪の車です。

手前をぼかして本物っぽく撮る工夫をしてみました。
建物は公衆トイレではなく「バードソング」というバーです。

手前をぼかす設定のまま撮ってしまってこれは失敗(笑)

いかにもアメリカの農場主、なおじさんとトラクター。

フレームアームズガールというのはコトブキヤが出しているロボットの
プラモデルの「スピンオフ」というか擬人化イラストで、それを
バスに塗装した「痛バス」がそのまま展示されていました。

痛バスをバックに自分のモデル(ガンダムらしい)を
記念撮影していた人。

 

これでふと思い出したのですが、最近、自衛隊のイベントや研修会で、
自分のシンボルというか、トレードマークとしているらしいぬいぐるみ、
(あるいは自分のアバター?)をこういう場所に持参し、
自衛官に持たせて写真を撮っている人(100%女性)をよく見かけます。

わたしも、SNSにアップするために、自分の食べるものをすべて
小さなぬいぐるみと一緒に記録している人を一人知ってますが、
一人で楽しみとしてやっているだけならともかく、自己承認欲求のために
頼まれるとノーと言えない自衛官を顔出しでそんなことに使うのはどうなんだろう。

見て見て!
自衛官とわたしの〇〇(ぬいぐるみの名前)の取り合わせ!
このギャップが微笑ましいでしょ!

なんて嬉しがるのは自衛官に対する敬意が感じられないというか、
むしろ失礼?と思うのは、わたしのアタマがお堅いんでしょうか。



あきらかに戦記物の単行本の表紙で見覚えのあるタッチです。
ミリタリーアートの画家、生頼範義氏の原画ギャラリーがありました。

プラモにそう興味がなくても、こういうコーナーがあるので
十分楽しめるのが模型ホビーショーです。

会場でいただいたパンフレットに男性の顔があり、さらにカウンターに
そっくりな人が座っていたのでその人を生瀬氏だと思い込んでいたのですが、
ご招待くださったハセガワの方に聞くと、生瀬氏はもう2年前に他界されたこと、
生瀬氏の自画像だと思っていたのはジャンボ尾崎の肖像画だったことを知りました。

あっぶねー。
もう少しでその人にサインくださいっていうところだったぜ。

というくらい素晴らしい作品群だったのですが、アクリルのケース越しでは
写真もうまく写らず、ここにアップすることは断念しました。

さて、通路を隔てて反対側の会場は、各社展示となります。
入るとすぐ東京マルイというエアガンの会社の展示があります。

男子(とか元男子)が群がるようにお試しをしていました。
各展示ブースの上空に的があってそれに向かって撃つことができます。

製品のポスターを展示してあるコーナーから。

豆戦車って何!

とワクワクしながらググったら、

「軽戦車よりさらに小型・軽量・軽装備な戦車。
タンケッテ(Tankette)や豆タンクとも呼ばれる」

ということがわかりました。
ソフトスキンなのでガチンコで戦った場合には生存率は大変低かったようですが、
この九四式軽装甲車は、九二式重装甲車、九七式軽装甲車とともに
日中戦争でかなり有効だったとされています。

わたしはこれも一種の豆戦車?と思っていたのですが、
上に乗るんじゃ装甲の意味全くないですよね。

鹵獲したドイツ軍の自走地雷「ゴリアテ」で遊ぶアメリカ軍の人。

ゴリアテは11センチくらいの段差すら越えることができず、
しかも遠隔とはいえケーブル式なのでそれ切られたら終わり。
しかも費用が結構高く、ドイツでもなんのために作ったの?感満載だったとか。

まあ可愛いから許してあげよう。

ピットロードという会社の「真実の大和」というモデル。

模型会社で大和を出していないところはないと思いますが、
当社は呉市が行った海底の大和の調査結果を製品に反映させているそうです。

手前の「はるな」来年の三月に竣工、就役予定の「あさひ」のモデルがもう出ています。

「あきづき」の体験航海が終わって上陸するとき、工事中の「あさひ」の横に
メザシ状態で接舷してくれたので、甲板を通って岸壁に降りました。

おかげでわたしは「あさひ」の甲板を歩いた最初の民間人のうちの一人になれました。
(結構自慢)

このホビーショーに来ると、世の中にはどんなマイナーに見えることでも興味を持ち、
それを趣味にしている人が一定数いるんだなと改めて感心します。

エンジンの模型(もちろん実際に動く)専門店。

会場の片隅には、模型パーツのバラ売りコーナーがあり、多くの人が
熱心に「お宝」を商品に入れていました。

このコーナー、その名も

「お宝発見!ジャンク市2017」

模型業界大手、タミヤのコーナー。

コルセアの大型モデル。

眼下に見えているのはラバウルのタブルブル山ではないでしょうか。
ラバウル攻撃をして意気揚々と帰還するところかもしれません。

F4U はこの夏見学した「ミッドウェイ」の艦載機でもあります。
キットで14,800円って結構いいお値段ですね。

ドイツ国防軍戦車兵セット。

戦車兵と士官のモデルは双眼鏡やホルスターなど細部まで表現され、
士官の帽子も野戦帽とサイドキャップから選べてお得です。

電波安全協会のコーナーには、何をするわけでもなく暇そうな感じで
左下に見えているキャップをかぶったおじさんが座っていました。

電波のルールを守るようにデーモン小暮閣下が熱く訴えているのは
総務省がこの6月に打ち出した

電波利用環境保護周知啓発強化期間

の周知ポスターです。
主に不法無線局を取り締まるのが目的みたいです。

模型といえばジオラマ。
息子と一緒に学校の課題であるジオラマを作るために、
ジオラマ模型専門の会社訪問までしたわたしとしては、未だに
風景ジオラマを発見すると細部までまじまじと見てしまいます。

たいていのジオラマは鉄道模型のためのもので、メインではないのですが。

あのー、学校の校庭に人が転々と倒れているんですが・・・・。

新旧色々並んだ車のコーナー。確かABCホビーだったかと思います。
右上のパトカーはライトが点滅していました。

ハセガワさんに聞いたところ、模型を作るには基本車なら車の会社に
デザイン使用料の支払いが発生しますが、パトカーなども
トヨタならトヨタにその許可を得るんだそうです。

お城の模型を主力商品にしている会社(ウッディ・ジョー)もあります。

今息子が江戸時代のことをペーパーに書いていて、資料の中から
当時の城の設計図を見せてくれましたが、これどうやって書いたの?ってくらい
線が緻密で間違いがないので驚いてしまいました。

同社商品、浅草浅草寺の雷門。

日本化線というワイヤアートの専門会社の商品で、「仮面ライダー」。

針金工場としてスタートした同社は産業用だけでなく、このような
カラーワイヤーでのクラフトを提案しているそうです。

ブースの前では

「今ワイヤーがお安いです〜」

とお店の人が叫んでいましたが、安いと言われてワイヤー買う人がいるかしら。
これとんでもなく敷居が高いものなんじゃないのか。

この会社ではなんと盆栽を模型にして売っております。
ちっちゃな剪定ばさみが付いているということは、
剪定を自分でするってことなんだろうなあ・・・。

動物のフィギュアをメイン商品にしている会社も。

そうりゅう型潜水艦塗装前。

バンダイのコーナーはいつもスクリーン展示が多い。
ガンダムシリーズの新作らしいビデオが流れていて、ファンらしい男性が
ずっと熱心に見ていました。

スターウォーズのコーナーもここです。

模型にデコトラというジャンルがあるとは知らなんだ。

このキンキラキンのデコトラは、「女のなんとか〜」「あなたのために〜」
「耐えて尽くします〜」みたいな内容の演歌をBGMにぐるぐる回っていました。

警察が電飾などの取り締まりを強化したり、またこういうデコレーションが
ヤクザっぽいとか反社会的という目で見る傾向のある企業などが
眉をひそめたことから、デコトラのブームは下火になりましたが、最近では
こういうのがキッチュで面白いと模型業界では受け入れられているようです。

最近は「萌え」を取り入れた「痛トラック」も出現しているそうです。
これば別の意味で眉をひそめられそうだなあ。

模型ショーに来る楽しみは、こういう妙なコンセプトの模型に遭遇できることです。

昔は日本のどこでも見ることができたエレベーターなしアパート。
JRの職員住宅がちょうどこんな感じで、何人か友達が住んでいたりしました。
それを、自転車置き場付きで模型にしてしまうという・・・。

はっきり言って、皆同じ種類の布団ばさみで干した布団がリアリティを損ねてます。
わたしとしては人が退去して廃墟となった建物を再現して欲しいです。

 

 

後半に続く。

 



 


初夏の味覚・鮎料理と明王院の太鼓回し

2017-06-19 | お出かけ

表題とは関係ないのですが、息子が今学校で募集したボランティアに参加していて、
その写真が引率者から送られてきたのでちょっとご紹介します。

場所はカンボジア。
プロジェクトは現地の家族のために家を建てること。

一週間で、しかも経験のない青少年が作る家というのも驚きですが、
ボランティアに家を建てて欲しいと申し込む人もいるのだそうです。

作業はリヤカーで建材を運ぶところから。

現地の大工さん?に作り方を指導されながら。

窓がつきました。
ガラスをはめるのか、網戸かはわかりません。

日中の作業の合間には、現地の人々との交流活動が持たれたようです。
説明はありませんでしたが、古老の知恵を知る会、みたいな?

地元学校への慰問もあり、すっかり仲良くなって最終日には泣いてしまう子もいるとか。

しかも家は予定より一日早く落成したとか・・・。
落成祝いに新居をデコレーションし、家族に引き渡し。
家を受け取る家族は祖父母と息子夫婦と孫という構成だそうです。
男たちは畑を耕して糧を得ているものの、貧しくて家を建てられませんでした。

ボランティアは今週で終わり、息子は羽田に帰国してきますが、話を聞くのが楽しみです。

 

さて本題、初夏の味覚、鮎を楽しむために京都に行ってまいりました。

まず前日夜、とある小料理屋が企画した「蛍を見ながらハモ鍋」のお席に。
坪庭に130匹の蛍を放つために前もって客から「蛍基金」を募り、
窓に乱舞する蛍を見ながらお酒と鍋をいただくという企画です。

水を打つたびに蛍の光が窓の外を乱舞する様子は大変風情がありました。

「こんなに一生懸命光っても、メスはこの中に1匹もいないんだよね」

「・・・で、目的を果たせないまま・・・」

「なんで蛍すぐ死んでしまうん?」

「そのセリフは禁止!」

その晩は市内のホテルに泊まりました。
ホテルの前にあった元小学校。
廃校になってしまった後も、趣のある校舎は市民のコミュニティの場として、
企画展を行うスペースやカフェになっているそうです。

校庭では盆踊り大会も行われるとか。

向かいの幼稚園跡では清掃局が資源物の回収を行っていました。

さて、この日は朝からレンタカーで郊外に遠出することになっています。
四条の角にあるレストラン菊水の建物、角の窓が昔は鏡だったんですよねー。

この日借りたのはアウディ。
国産の小型車に比べると、随分出足が鈍いなという印象でしたが、
京都の小路を走る時に威力を発揮しました。

で、市内を走ったのですが、京都ナンバー、特にタクシーの運転マナーがひどい。

関東ではウィンカーを出したらたいていの車は前に入れてくれますが、
京都の車は逆にスピードを出して、間に入れまいと前の車との距離を詰めるわけ。

右折するために車線変更しようとして3台の車にそれを立て続けにやられ、
こちらはウィンカーを出す車を普通に前に入れていたら、
先導してくれるはずの地元の人の車とあっという間にはぐれてしまいました。

まあナビがあったのでなんてことないんですけどね。

目的地となる料亭の横には神社があり、そこの境内に車を止めました。

これが本日鮎をいただく予定の料亭「比良山荘」でございます。
料亭の前の溝には清流といってもいい綺麗な水の流れが走っていました。

夏は鮎、秋は松茸、冬は熊料理がここの売り。

まずは冷たいジュンサイの一品が出されました。

「あの人ジュンサイみたいな人ですね、っていうことがあるらしいですね」

「してその心は」

「捉えどころのないというか、ようわからん人というか」

「少なくとも褒め言葉ではないね」

八寸では”なれ鮨”、筍や梅の蜜煮など。
右下は鯉こくの卵部分でしたが、これが意外なくらい鯉という感じがしませんでした。

ハモの焼き物(焦げ目が香ばしくてまた美味しい)と鯉の洗い。
弾力があり噛み応えのある刺身でした。

そしていよいよみなさんお待ちかねの鮎。

箱の蓋をとると、竹の木片を燻す煙が立ち上り、皆は一斉に歓声をあげました。

一人3匹づつ、と言われて、皆熱いうちに我先にと箸を延ばします。
実はこの前の晩の蛍ナイトでも鮎が出されたのですが、うちのTOは頭を残し、
女将さんに

「鮎の頭残すなんて勿体無い!」

と怒られ、わたしが彼女に

「明日の鮎では頭も食べるように、ちゃんと見張っておきます」

と、とりなしたという前振りがありました。
しかし、ここにきて鮎の頭を残すなんてことは、罰当たり以前に
本当に鮎を食べたことにすらならないのだと、彼も実感したようです。

鮎は器と趣向を変えて次々と出てきます。

頭から齧る鮎は、ほろ苦さはあっても、さっきまで清流を泳いでいたため、
コケ臭いなどということは全くあり得ません。

ひたすら清浄で、パリッとした皮の下に馥郁たる香りの柔らかな白身があり、
それらの食感も手伝ってえも言われぬ至福の味わいです。

同行した同好の士は、わたしたち夫婦をのぞいて全員が日本酒をガンガン飲みながら
盛んにうまいうまいと口の端に乗せながら鮎を楽しみました。

メンバーはその業界では誰でも知っている IT関係の会社の社長とその社員や、
Nのつく銀行から民間に出向し京都生活をエンジョイしている人などで、
つまりやたら口の肥えた美味しいもの好きの飲兵衛さんばかりだったのですが、
その人たちが一様にボキャ貧となって(笑)ひたすら鮎にかぶりついています。

結局、一人が大ぶりの鮎を7匹ずつ食べたことになるのですが、
誰も多いといったり残したりしませんでした。

そしてメインイベントというべき、シメの鮎ご飯登場。
板さんが直接土鍋を持ってきてくれます。

焦げ目がついているので後から乗せたものかもしれません。
ご飯には炊き込んだような味がついていました。

頭と尻尾を取ってしまい、(ご飯には頭は入れない方がいいらしい)
身だけをご飯に混ぜ込んでいただきます。

お味噌汁は鯉こく。
お汁の表面に脂が浮かぶほど、脂が乗っている身はとにかく甘かったです。
ご飯の美味しさは言わずもがな。

デザートがまた一風変わっていました。
木の芽の味のアイスクリームの上に、甘みのない道明寺を乗せて一緒にいただきます。
赤い実は山いちご。

部屋の床の間には、清流を泳ぐ鮎の姿が描かれた額がかけられていました。

掛け軸の下にはガラスの熊さん。
これはこの比良山荘の冬の名物が、熊肉の料理であることからです。

「クマー?」(AA略)

最初に聞いた時にはびっくりしましたが、冬眠前の熊は美味しいらしいですね。
ここでは熊鍋のことを「月鍋」(月の輪熊の月)と称するそうです。
この辺りの熊は害獣でもあるので、肉や漢方薬の(胃とか)材料にするために
年間に決められた数を捕獲することが許されています。

同行の方々はこういった味覚を求めて、年に何度もここに足を運ぶのだとか。

 

食後は一同で近隣の神社仏閣に足を向けてみました。
まずこの料亭の隣の「神主(じしゅ)神社」。

狛犬さんの苔むし方が神社の古さを物語っております。

案内によると、貞観(じょうがん)元年、つまり859年の創建だということで、
なんと1158年前にできたことになります。

貞観というと富士山が噴火し、貞観の大地震が起こったという頃ですね。

この社殿は文亀2年(1502)の建立ということですが、重要文化財と言いながら
祭礼が行われている様子がなく、神殿も舞台も虫食いだらけになっていました。

「こんなので大丈夫なんかね」

「保存しようってつもりが全く感じられませんね

ここで神楽などしようものなら、床を踏み抜くか、天井が落ちてきても不思議ではないような・・。

近くの渓流には足を水につけたり、山菜採りをしている人たちがいました。
この川は琵琶湖に向かって流れていく上流にあたります。

話を聞いた時はなんとなく京都だと思い込んでいたのですが、実は滋賀だったのです。

地主神社はこの奥にある「明王院」の鎮守だということで、
ここにもお参りさせていただくことに。

寺の鎮守が神社って、普通のことなんでしょうか。

手水を使おうとして体長2mくらいの蛇がいたのでびっくり。
どうも蛇は水を飲みにきていたようです。

「蛇は不動明王の使いだっていうね」

そういえばここは「明王院」・・・・。

本堂にもその周辺にも人の姿はなく、見学者は照明のスイッチを自分で点けます。

歴史ある寺院らしく奉納されたされた古くからの板絵を見ることができます。
右側の色褪せた合戦の絵は延長か延喜か・・・。
とにかく、鎧をつけた武士が合戦をしていた頃に奉納されたもの。

右で鬼と相撲取りが首に縄をつけて引き合いをしている絵は、
万治2年(1659)に奉納されました。

左は安政2年(1855)、京都の井筒屋小兵衛という人の奉納。
美術品のように保存をする気もないらしく、掛けっぱなしにするうちに
次第に描かれた絵が消えてしまった右側の額は、人々の服装から平安時代のものです。

これもほとんど消えかけていますが、天保15年(1844)の寄進。
元号が変わる頃、変わった直後に行われた奉納が多いのですが、気のせいでしょうか。

本堂の片隅に、時間があれば写経を行ないお納めください、というコーナーがありました。
ただし、持って帰らないように、とのことです。

本堂の床が、こういう無数の傷跡のようなもので覆われているのに気づきました。
まるで鎌倉彫の表面みたいです。

明王院は「葛川太鼓回し」という儀式を行うことで有名なのだそうです。

太鼓をとにかくぐるぐる回すのですが、太鼓の胴を床に付けてはいけないとか。
よくわかりませんが、回すだけ回したら上にお坊さんが乗って床に飛び降りるらしいです。

回廊の外側に太鼓回しに使う太鼓が収納してありました。

隣のラック?には回しすぎて縁が破れた御用済みの太鼓が。
きっと歴史のある(太鼓回しの初代太鼓とか)ものに違いありません。

なんのために太鼓を回すのか?

というとそれは修行のためらしいです。
なぜそれが太鼓でなくてはいけないのか、
とか、
太鼓とは叩いて音を出すものだと思うのだけど、なぜ叩かず回すのかとか、

疑問をいい出したらキリがないのですが、そういうことも含め、地元には
理由については詳しい話は伝えられていないようです。

わたしとしては最初にやりだした人の単なる思いつきだった、に1和同開珎。


無理やり最初の話題にこじつけると、息子の学校のボランティアにも特に理由はありません。
そこに助けを求めている人がいるから、わざわざ飛行機でカンボジアまで行き、
一週間を費やして家を建てる意味があるのです。たぶん。

というわけで、初夏の鮎を楽しんだついでに、比叡山の僧の
伝統の荒行(ってか奇習)を知ることになった小旅行でした。

 

 

 

 

 

 


葉山の休日

2017-05-07 | お出かけ

大型連休も終わりですが、皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか。
わたしは知人にお誘いいただき、葉山でヨットに乗ってきました。

有名人、著名人の別荘を海岸線に多数もち、御用邸があり、
日本で初めてヨットレースが行われたということもあって、
別荘とマリンスポーツの街、という、なにやらセレブなイメージのある葉山。

今回お誘いいただいたヨットオーナーは葉山マリーナのクラブ会員です。

駐車場にはとりあえず全ての信号旗がディスプレイされ、
看板にはクルージング(石原裕次郎灯台クルージングとか)や
クルージングの時間チャーターのお知らせがあります。

逗子駅から一本のバス通り沿いに、帆檣が林立する光景が見えたら、
そこが葉山マリーナ。

レストランやショップには観光客も入れますが、ヨット置き場には
クラブの会員と一緒でないと立ち入ることはできません。

サンフランシスコのヨットハーバーは、海上にオーナーがヨットを繋留してあり、
東部ボストンのハーバーの周りは、自宅からヨットに乗れるうちが多数あります。
関西では西宮に昔からヨットハーバーがありますが、ここも海上に繋留式。

しかし葉山、逗子は施設に対して隻数が多いらしく、ヨットは全てこのように
陸上で管理しています。

「どうやって海に入れるんだろうね」

「あのデリックから出航するんだと思うけど」

見ていると、ヨットの乗った台ごと専用の重機?で移動させています。

海に下ろすためのベルトを船体にかけてそのまま下ろす。
結構大変な作業のようですが、あっという間にヨットは海に。

船上には岸壁から渡された20センチくらいの幅のラッタルで渡ります。

「♪ドミソド〜ドミソド〜ドミソドッミソッソソ〜〜(移動ド)」

出航にあたっては先日水雷士を任命された不肖わたくしが、
口で出航ラッパを吹鳴させていただきました。

マリーナを出ると、連休であることもあって結構な数のヨットがいました。
こちら、慶應大学のヨット。

防衛大学校ヨット部のヨットもこの辺でクルーズするそうです。

ミズスマシみたいなヨット。これどうなってんの。
一旦乗ったらずっとこの姿勢のまま帰ってこないといけないわけだ。

ところどころ水鳥の群が漂っていましたが、この鳥が
飛び立つ時には、このように水かきで海面を助走していることが判明。

本日のコースは江ノ島の裏まで行って帰ってくるというもの。
江ノ島を海上から眺めるのも初めての体験です。

この日のクルージングにはオーナーを入れて六人が参加。
一人ずつ舵をとって江ノ島を目指します。

「目標はあの海保の船ヨーソロで」

警備のため錨泊している海保の大型船を目指します。
いつもならこのクラスの船を見ることはないそうですが、
この日は御用邸に宮様がおられたということで、海上警備を厳となしていたのです。

海保の船は海上警察ですので、例えばヨットの上で飲酒していると、
哨戒艇などで指導してきます。

「お酒か水かなんてどうやって見分けるんだろう」

「ものすごい倍率の望遠鏡で見てるんじゃない?」

今まで見えなかった江ノ島の先端が見えてきてびっくり。
連休ということで、びっしりと人がいます。

回廊があるので稚児ケ淵という島の西端だと思われます。

海保の船が近づいてきました。
海保の船ヨーソロで目標にしたものの、

「怒らせない程度に」(笑)

距離を取りつつ後ろを帆走していきます。

このPL31巡視船「いず」は3500トン、就役は1997年。

「でも、ダメ。白い船では全くときめかない。グレイじゃないと」

同乗の

「その瞬間(海上自衛隊に)恋をしてしまったんですよねー」

と初対面の挨拶でもためらいもなく言ってしまう”ネイ恋な女性”が呟きます。
ネイ恋本家である?わたしですが、元々のとっかかりが旧海軍だったこともあり、
実は海保の白い船にも結構ときめきます。

海保の制服も冬服に限りこれも結構ときめきますが、こういう場では黙っています。

しかし、白い船は汚れが目立ちやすいのに、メンテがあまりされてないような。
海保は海自ほどせっせと塗装の塗り直とかしないんでしょうか。

アップにすると塗装がが結構ボロボロなのが目立ちます。

「作業艇の吊るし方が海自とは全く違いますよねー」

「救難のために秒速でおろせるような体制にしてるんじゃないですか」

海自出身のオーナーのヨットなので、乗客も海自視点です。
海自と海保の船の決定的な違いは色々ありますが、一番大きな違いは搭載武器。

これは国防が目的と、救難警戒が目的である違いでもありますが、
海保の船は魚雷や水雷ではなく、ガトリング砲(M61バルカン)くらいしか積んでいません。

それから、独力での出入港のために船にバウスラスターも付いているのも違います。

甲板に海猿くんらしき人影発見。

「なぜ上半身裸・・・・」

「昼休みなんじゃないですか」

いずれにしても海自の艦船ではまず見られない姿です。

海保の船のお尻を見てからヨットをUターンさせ、ハーバーに戻りました。
このころから動揺が激しくなり、左舷に傾いて真ん中に座っていたわたしは
完全に左に滑り落ちる形に。

前方のヨットの傾き具合でお分りいただけるかと思います。
オーナーは右舷舷側に腰掛けて「生けるバラスト」となりました。

「もう少し傾くともう一人座ってもらわないといけないのですが、
お客さんに潮を被らせるわけにはいかないので・・・。
(錘になるのが)一人で間に合ってよかったです」

ちなみにこの後我々のヨットはこの前方のヨットに追いつき、追い越しました。
後から

「私としてはあのヨットを抜かせたのが嬉しかったです」

とメールが来ていました。
昔、この方からヨットを持つことになった、という最初のお知らせをいただいた時、
葉山マリーナにヨットを持つなんてゴージャスでリッチ、と思ったのですが、
この日実際に乗って、わたしが思い込んでいた、船上でパーティをするようなのではなく、
この方のヨットは完全に体育会系だったことがこれで判明しました。

誰も乗らない真冬にも週末は必ず海に出る、
というのを聞いてさらにその確信を深めた次第です。

マリンスポーツのメッカ三浦半島には、いろんなレジャーが存在します。
水上バイクが集団でかっ飛ばしています。

もちろん釣りを楽しむ船も。
突堤にもこの日は釣り客がぎっしりと並んで釣竿を下ろしていました。

この日のランチはこの時後から駆けつけたオーナーの知人女性を加え、
クラブハウスのイタリアンレストラン(ブルーのピアノ付き)でいただきました。
この女性もまた海上自衛隊のファンで、まだ「ネイ恋歴1年」にも関わらず
精力的に艦艇見学などに足を向けておられる方です。

当ブログにも目を通してくださっていると聞いて、つい動揺しました(笑)


さて、というわけで体育会系ヨット体験の1日が終わり、
半分寝ながら葉山から渋滞の道を運転して帰ってきたわたしは、
荷物を降ろして潮だらけの顔を洗うなり、夜8時まで寝てしまいました。

起きてさて写真でも整理するか、とバッグを開けると

カメラがありません。

なんとイタリアンレストランに置いて来てしまったと分り、
お店に確かめて、次の日ドライブがてらTOと取りに行きました。

せっかくまたわざわざ葉山に行くのだから、と大好きなホテル、
音羽の森のダイニングを予約しました。

葉山御用邸をすぐ近くに控え、やんごとなき方々にお料理を供することもある
ここのダイニングは味にも定評があります。

プリフィックスランチでメインにアワビのステーキを選びました。

沖合にはここにも海保の巡視船「たかとり」が錨泊しています。
写真を撮っているとホテルのマネージャーが近づいて来て、

 

「御用邸の警備のためにあそこにいます」

 

と教えてくれました。
葉山御用邸は海上からの接近にも目を光らせていて、
ヨットでも近づくとすぐさま監視が警告してくるそうです。

 


海保の監視船は消防設備として放水銃、粉末放射銃、自衛用として噴霧ノズルを装備しています。
尖閣海域に侵入した台湾の漁船に放水する映像が有名ですね。

こういうのを見ると、船がグレイだろうが白だろうが、
日本を守ってくれる海の防人たちに感謝せずにはいられません。


警備艇の向こうに通過している船は、宮崎県のカツオ漁船宮崎県のカツオ船、
第八十一由丸(よしまる)です。

第八十一由丸はカツオの生き餌となるイワシを捕獲するために
神奈川県の佐島(自衛隊武山駐屯地の近く)に出没するそうですが、
ぐぐっていたら、4年前には気仙沼で横転事故を起こしていました。

上架中にかつお船が横転

造船作業中に傾いて行き横転したようですが、今は元気にお仕事しているようで
よかったよかった。

帰りはせっかくなので、三浦半島の先までドライブしました。
折しもこどもの日、海岸沿いの駐車場にたくさんの鯉のぼりが。

 

こうしてたまに海で遊ぶと、確かに非日常的な体験は十分楽しいのですが、
反面、海に関わる仕事の肉体的な苦労を実感せずにはいられません。

実際に波に揺られ、潮の飛沫をあび、直射日光に炙られ・・・・。
自分の意思ではどうしようもない状況に肉体を翻弄されるのはそれだけで
十分に重労働であることを思い知ります。

岸壁から見たり停泊している船を見学したり、たまに体験航海で乗艦するだけでは
所詮上っ面しかわからないものなんだなと思うとともに、
改めて海自、海保の現場の皆さんへの感謝の気持ちが増した、わたしの連休でした。

 

 
 

 


京都お花見(+グルメ)旅行

2017-04-10 | お出かけ

全国的に桜が満開になった先週末、恒例の京都お花見に行ってきました。
朝の「のぞみ」に乗って、昼前にはもう京都着。

新幹線に乗る前もすでに関東地方は雨でしたが、こちらも降ったり止んだり。
ということでタクシーでまず向かったのは、同志社大学。

ワンパーパスドーシシャでございます。

重要文化財になっている建物もいくつかある同志社キャンパスですが、
最近建築されたものも統一性をもたせて全てが煉瓦造りの洋風です。

この「寒梅館」が完成したのは2004年のことでまだ14年しか経っていませんが、
煉瓦造りのせいで大変風格を感じさせるたたずまいとなっています。

なぜわたしたちがここにやってきたかというと・・・、

法科大学院(つまりロースクール)などが入っている寒梅館の最上階には
「WILL」という名前のフレンチレストランがあるのです。

近隣や卒業生の主におばさまがたで週末は予約がなかなか取れないくらい
隠れた人気スポットとなっているレストランですが、
今回は早めに予約しておいたので窓際の上席に案内してもらえました。

眼下には同志社大学のキャンパス越しに雨に煙った京都の山々が見えます。

予約の時に頼んであったコースの前菜は菜の花のキッシュ。
ほろ苦さがキッシュと意外なマッチングをしています。

肉か魚か選べたのでスズキのメインディッシュを選びました。
肉厚で脂がよく乗った美味しいスズキでした。

食事の後、雨が降っているのでタクシーを捕まえ、

「桜の咲いているところを走ってください」

と頼んでお花見をしました。
運転手さんが走ってくれたのはまず鴨川から分かれる高野川の河原沿い。

川沿いの信じられないくらいの桜並木をお目当てに車が大渋滞しているので
窓を開けて桜を撮ることができます。 

ちょうど望遠レンズを持っていたので対岸のサギも撮れました。

高野川は東側に桜並木があり、西側の住宅沿いにはほとんどありません。

タクシーは高野川沿いを上っていき、北大路通りで左折し、もう一度鴨川の西岸を下りました。

河原にはお天気の怪しいのにもかかわらず、桜を見に来る人たちがいっぱい。
着物でキメて河原を歩くカップルもいました。

運転手さんによると、来週の火曜日までが見ごろだそうです。
つまり今日が今年最後の週末花見。

今や世界の人々が「京都の桜」を見にやって来るので、街全体が
外国人観光客で埋め尽くされていましたが、河原でシートを広げているのは
間違いなく日本人ばかりです。

河原では雨と雨の間隙を縫って、無理やりシートを広げ、お花見パーティをしているグループもあり。
楽しそうで何よりです。

桜の下をそぞろ歩く人、お弁当を広げる人。

個人宅の前の桜ですが、目をみはるほど見事。

着物を着て歩いている人もちらほら。
いつもは川の流れに向かって座るベンチも、今日は逆向きに座ります。

桜そのものを撮るのもいいですが、わたしは桜を楽しむ人が入っている構図が好き。

ここにも鷺がいました。

ご自慢のカメラを持ったご主人と奥さん。
走る車の中からの花見でしたが、すっかり満足です。

TOは用事があったため、もう一度乗ったところに戻り、
わたしと息子だけがホテルに向かいました。

梅田雲濱(うめだ・うんぴん)の屋敷跡の碑を車から発見。

梅田雲濱は幕末の儒学者で、安政の大獄の時逮捕され、
箒尻での笞打の拷問を受けても口を割らず、獄中で死亡しました。

そして夕食は、昨年秋オープンしたフォーシーズンズ京都へ。

近年世界中から観光客が詰めかけている京都ですが、それを受けて
大小のホテルがオープンしています。
フォーシーズンズ京都はリッツに続く5つ星ホテルのオープンです

隣接地域には一部屋5億円のレジデンスもオープンしたそうですが、
売り出されるたびに売り切れていくのだとか。

食事に付いて来るパンのセットすらここではこの通り。
フォカッチャに桜味のバゲット、桜のバターを添えて。

家族で一番美味しいと意見が一致したモッツァレラチーズとトマト、マンゴーのお皿。

牛肉のタルタルは、乗せられた卵の黄身の色からして只者ではない感じ。

わたしが迷いなく選んだのは鴨のコンフィ。
リゾットとパリパリした食感のごぼうのフライが添えられています。
昼は魚だったので大丈夫!と思ったのですが、案の定多すぎました・・。

ホテルのロビーには何か石でできた花の形のオブジェが。
今回花見にいくことを思いついたのが直前だったので、
もちろんながらこのホテルは取れなかったのですが、ハイシーズンなので
そう大きくない部屋でも一泊15万円というお値段がついていたそうです。

明けて次の日。
わたしは一旦6時過ぎにiPadのアラームで起きたもののすぐに二度寝して、
今度起きたら10時という立派な朝寝坊でした。

起きてチェックアウトしていたらお昼になってしまったので、
昨日夜でしかも雨が降っていてよく見えなかった庭を見にもう一度フォーシーズンズへ。

オープンにあたっては贔屓にしていた東京のフォーシーズンズからたくさん
ホテルマンが移動していて、あちらこちらにおなじみの人がいましたので、
外のテラス席を取ってもらうこともできたのでした。
持つべきものはホテルマンの知り合い。

フォーシーズンズの敷地はずっと病院だったそうです。
ハイアットリージェンシー京都も昔病院だったそうですが、
病院跡というのはあまり家を建てたがらないため、ホテルが買い取ることが
多いということなのかもしれません。 

ゴミが投棄されていた元沼地、しかも空港騒音の緩衝地帯だったところに
学校が建つとロンダリングになって土地の価格が上がる、ということを
期待して学校法人に便宜を図って土地を売るようなもんですかね(棒)

 

しかしこの庭は、名のある(忘れた)人物の屋敷の一部で、実に800年昔に造られたものだそうです。

「そんな庭なのに、桜が一本もなかったんだ・・・・」

「桜をあえて植えないというのもポリシーがあってのことだったんだろうね」

ホテルができてから、建物側にホテルが植えた桜の木がかろうじて一本あります。
池の向こう側に見えるのは茶室。

ここでは軽いコースを取りました。
ポーチドエッグを潰してその黄身を絡めるマグロのサラダ。

デザートはざくろのメレンゲとキウイの乗ったパンナコッタ。
これは最高でした。

息子が隣で横で読んでいた本。

「The Sailor Who Fell From Grace With The Sea 」

こんな三島由紀夫の小説あったっけ?と思ったら「午後の曳航」でした。

「こんなの読んでんだ・・」

「英語の宿題で読まないといけないんだよ」

宿題・・・・だと? (驚愕)

テラス席は今日のような曇りで暑くも寒くもない日には最適です。

日曜の午後でテラス席はこの通り満席です。

帰りに顔見知りのマネージャーとばったり会い、館内のスパを案内してもらいました。

「さっきご飯食べてたら庭を猫が横切りましたよ」

この写真で見える石の橋を猫が渡っているのを見たのでそういうと、

「あ、黒い猫じゃないですか」

「いえ、シマシマの」

「黒猫が住み着いているのは確認されているんですが、シマもいましたか」

「池の鯉を狙っていたのではなさそうでしたが・・・
鯉は1匹しか見ませんでした」 

「はあ、ホテルが落成した時、大成建設さんの方から鯉を50匹いただいて
放流したのですが、サギが来てほとんど食べてしまいました」

「あらら」

「じゃ、あの鯉はその生き残りだったんだ」

大きな鯉になってしまえばもう狙われることもないのですが、
大成建設からもらった時には稚魚だったため、ほとんど鷺が
美味しくいただいてしまったということのようです。

 

当初食後は疎水に桜を見に行こうと思っていたのですが、ホテル見学に時間を使ってしまい、
タクシーの運転手さんが

「道が混むので新幹線の時間が決まっているんだったらやめたほうがいい」

というのでそこからは京都駅にむかいました。

智積院前を通り・・・、

博物館を右に見て、「うぞうすい」の前を通り過ぎ・・・。
七条通りの小さな和菓子屋さんの写真を撮りながら

「こういう店もちゃんとお客さんがきて生業が成り立っているのかな」

などと考えていると、女の子が二人店に入っていって
おばちゃんから桜餅を買って行きました。

暗くなりかかった頃帰宅。
週末一泊家を空けている間に、自宅の窓から見る桜がすごいことになっていました。

「京都の桜もすごいけど、実はうちの桜って最高だって帰ってくると思うよね」

なんか去年とその前の年も全く同じことをいった記憶が・・・・。 

 

 

 

 

 


「愚直たれ」メニュー食べ歩き〜呉

2017-04-06 | お出かけ

自衛隊の観桜会というものは桜の下で宴会をするのが目的なので、
今回のように雨天で体育館でやることになると、
文字通り華がないというか、味気ないことこの上ないのですが、
その中で呉地方総監オリジナルの「愚直たれ」が紹介されたことは、
メインイベントのないこの日の「観桜会」の目玉となったのは確かです。

何十もの応募作品の中から最終的に残ったレシピだけあって
それが本当に美味しいということを確かめたわたしたちは、

会終了後送っていただいた呉駅から再びタクシーに乗り込みました。

行き先は「愚直たれ」レシピ提供店の一つである「利根」。
TOは行く前に予約の電話で

「愚直たれメニューがあると聞いたのですが」

とアピールするのを忘れません。

「こう言ってから行くと、お店の方もこれを扱ってよかったって思うでしょ」

 

「利根」は金曜夜ということで、ほぼ満席の賑わいです。 

三笠舞子さんというのは呉在住の漫画家さんのようです。

「利根」の来歴はどこを探してもわからなかったのですが、
それが軍艦「利根」から取られたことは間違いないでしょう。

重巡「利根」は昭和20年7月24日と28日の空襲の時には海軍兵学校の
練習艦となっていたため、能見島の海岸に係留されていました。

当時兵学校生徒だった知人から、「利根」がその時攻撃を受けながらも
飛来する米軍機を撃ち落し、墜落した飛行機のパイロットの遺体が
兵学校のポンツーン(先日卒業式でランチがメザシになっていたところです) 
のところに流れ着いたという話を聞いたことがあります。

28日の空襲で「利根」は最終的に着底しました。

 

今では護衛艦「とね」をイメージとして、自衛官の御用達になっており、
カレーラリーにはもちろん「とね」カレーを出品しています。 

この写真によると、「とね」の調理室に居酒屋利根のスタッフが赴き、
そこで給養長から作り方指導を受けて認定されたようです。

カレーを認定するのは艦長であることが判明。
当時の「とね」艦長である前久保和彦2佐。(男前!)

余談ですが、「とね」の艤装艦長は上田勝恵2佐とあります。
この方、「女王陛下のキス」で有名になった練習艦隊司令官ですよね。

来店した芸能人のサイン色紙を店内に飾るのが普通の店ですが、
ここにあるのは自衛官のサインばかり。

「とね」艦長始め乗組員有志、隊司令、伊藤元呉地方総監の色紙もありました。

在日米陸軍からの感謝状もあり。
そういえば、この日の観桜会にもおなじみ米陸軍のムーア中佐のお姿がありました。 

「愚直メニュー」を食べに来たのですが、やはり「とねカレー」も食べてみたい。
ということで味見のためにミニサイズを頼んでみました。

お茶碗一杯ぶんですが、ちゃんと

「海原を進撃する護衛艦をイメージした盛り付け」

に手を抜いていないのには感動しました。
ご飯が「とね」でカレーが海ってことね。
ちゃんと自衛艦旗に艦番号「234」が書いてあるのに注意。 

ミンチの入ったキーマカレーで、大変結構なお味だったのはいいのですが、
お勘定の時に

「シールください」

というと、 

「カレーラリー、今日で終わりなんですよ」

な、なんだってー。
4月1日からは「シールラリー」として別のラリーが始まるんだとか。
この日のカレーを入れて結局わたしはシール3枚という結果に終わったのですが、
2枚でもオリジナルバッジがもらえるそうなので、今度交換しようっと(−_−) 

シリアルナンバー234の鉄板!
これは自衛艦の食堂で使われている食事トレイではないですか。

普通の人には少し使いにくそうだけど、もしかしたら
元自衛官が現役時代を懐かしがるためのアイテムだったりして。

 

さて、「愚直たれ」採用レシピを呉地方総監部に認定してもらった店舗は
呉地方総監署名入りの認定証とポスターが授与されます。

「華麗なる」とついているのは、カレー味だからでしょう。

黒板のメニューには

「池総監の愚直タレ」として、

諦めない揚げ盛り

侮らないサラダ

欺かないむしどり

とあります。
早速一皿ずつ頼んでみることにしました。 

ポスターにあった「三つの”あ”」を冠したわけですね。

それではまず「諦めない揚げ盛り」を。
ごぼうとイカリングの揚げ物に愚直たれをつけて食す。

TOは「この世の食べ物でイカリング揚げが一番嫌い」
と昔言っていたような気がしますが、文句も言わず食べて

「美味しい!」

ごぼうの揚げたのにも愚直たれはよく合います。

「侮らないサラダ」。
ごまドレ、マヨネーズがレシピに使われているため、サラダに合うのは当然とはいえ、
これをかけるだけで「侮れないサラダ」 になりました。

「欺かないむしどり」もメニューとして完成度高し。
カレーの味って飽きないものだなあと三皿を食べて思いました。 

それにしても一皿560円って安いですよね。

 

呉地方総監が「愚直たれ」メニューを試食し、認定証を授与した時の写真。
やはりこれも任務の一環ということで、海将、制服でここに来られたんですね。


さて、ミニカレーと愚直三点メニューを二人で食べたところで

「ねえねえ、ラーメン食べてもいい?」

量的に物足りないと見えてTOがこんなことを言いだしました。

「いや、せっかくだから他のお店の愚直たれメニューを食べに行くべきでしょう」

きっぱりと言い切るわたし。

「どこにする?」

「池さんが広報ビデオで食べてたおうどんがいい!」

 

というわけで、「利根」を後にし、(ちなみにお勘定は1000円台でびっくり)
タクシーで向かったのはクレイトンベイホテル。

運転手さんに言わせると、呉で一番ランクの高いホテルだそうです。 
星の数は4つ。 

お店の中に生簀があって、カニと鰻がこのように対峙している、
そんなクレイトンベイホテルの和食レストランにやって来ました。

ここに来る前にもTOはマメにお店に予約を取り、

「愚直たれを使ったメニューをいただきたいんですが」

などとわざわざアピールしておりました。

「愚直たれ」認定証と一緒に補給艦「とわだ」グッズが展示してあります。

クレイトンベイホテルでは4月1日から新たに始まるシールラリーで
「とわだカレー」を提供することになっているようです。

「とわだカレー」は

隠し味に桃とりんごをすりおろしたピューレ
まろやかさを出すためにチーズも入っている

スパイシーの中にも甘味とコクの深さを味わえるカレー

だそうです。

クレイトンベイ「とわだカレー」認定に至るまで

↑なんか皆さんすごい真剣な様子です。

早速「愚直たれ」うどんを頼んでみました。

お盆に添えられた小皿に少しだけあるのが「愚直たれ」です。
うどんは細うどんで、さすがはプロと感心したことは、
うどん汁にはすでにカレーの味がつけられていること。

普通のすまし汁のうどんにカレー味の「愚直たれ」では合わない、
とおそらくですがここの料理長が判断したのでしょう。

すまし汁のカレーうどんに「愚直たれ」を少しずつ入れて、
自分なりに味を調整しながら食べる、というのがここの愚直メニュー。

運んで来たマネージャーが

「いきなり全部入れたりしないでくださいね。辛いので」

とわざわざ注意するくらいたれは辛く仕上がっていました。
細麺で喉越しの良いツルツルした、上品な感じの麺で、
カレー味とたれがよく絡んでなかなかの絶品であったことを
ここにご報告しておきます。

試食して認定証を渡した時の写真がメニューになっています。
マネージャーがサービスでデザートを出してくれたのですが、
その時こんな話を聞きました。 

「総監、試食されたときに、たれを全部入れてしまわれたんですよ」

「あらー、辛かったでしょうに」

「撮影が入っていたせいか何もおっしゃいませんでしたが、
食べ終わってしばらくしたらものすごい汗をかかれて・・」


それで、全部いっぺんに入れないようにと注意することになったわけですか。

 

今回の呉訪問、おまけ。

「とね」でもらってきたイベントのポスター。
艦隊これくしょんとありますが、艦これとは直接関係なく、
要するに同人誌即売会だそうです。

第17駆逐隊限定、ってことは 呉鎮守府籍の駆逐艦、
浦風磯風浜風谷風雪風初霜 ですね。

戦艦「大和」戦没72年の追悼式は今週金曜日、
長迫公園(海軍墓地)で行われるそうです。

同人誌イベントに名前のあった駆逐艦「磯風」に乗っていて、
「武蔵」「大和」「信濃」そして「磯風」の最後を見届けたという
歴史の証人である元海軍上等兵曹が講話を行うことになっています。


今回はお土産も買ってみました。

前々から気になっていた広島土産。
なんか広島土産グランプリで一般投票賞も獲得しているようです。 

潜れ!僕らの潜水艦ケーキ(!が潜望鏡の形)

 

ちゃんと自衛艦旗のシールで封がされています。

中を開けたらあらびっくり、箱の中には個別包装の潜水艦乗員がぎっしりと。

水兵さんが7人、艦長が一人です。
他に士官はおらんのか士官は。 副長とか。砲雷長とか。

艦首から乗務員室、作戦室、指揮室、機関室、階下は燃料タンク。
魚雷発射室も食堂もキッチンもないんですけど?

と思ったら小さく

「これは想像図です」

そうきたか。
まだ食べてないので中がどんなものかはわかりません。 

 

さて、観桜会の日に「愚直たれ」提供店をはしごして
いち早くその味を確認することに成功したわけですが、
身びいきでもなんでもなく、マジ美味しいです。愚直たれ。


呉に立ち寄った際には、カレーのラリーもいいですが、
ぜひ一度どこかでこのメニューを試してみられることを熱烈にお勧めします。

 

 

 

 


龍崎先生の殉職〜横須賀歴史ウォーク

2017-01-25 | お出かけ

もう去年の夏前のことなので自分でも記憶が薄れているくらいですが、
横須賀市の観光協会のようなところがボランティアのガイドによる
歴史ツァーを行なっておりまして、わたしはコースに含まれている

「料亭小松」

という言葉に激しく反応し、参加をしたということがありました。
わたしがこのツァーに参加し、それについて調べているまさにそのときに、
料亭小松は不審火によって全焼してしまったというショッキングな
結末?を迎えたという話を覚えておられる方もおられるでしょうか。

ツァーについて、その後一つだけアップしていない記事があったので、
今更、という気もしますがお話しておきたいと思います。

まずはお昼休憩をした横須賀自然博物館と文化会館の周辺から。



横須賀文化会館の正面に立つブロンズの日本にしては巨大な像。

「この感じ、どこかでみたような気がしませんか」

ガイドに言われてもはて、と皆が首をかしげるだけだったのですが、
これは長崎の平和祈念像の作者でもある北村西望(せいぼう)の作品なのだそうです。

そう思ってみるとそう見えないこともないけど・・・って感じですね。
長崎の像にもあのポーズにはいちいち意味があるそうなので、
(垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を、
横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は救った命を表し
軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っている)
この自由の女神にも
そのポーズに何か意味があるのかもしれません。



ちなみにこの女神、アップにすると口を開けており、
いかにも何か雄叫びをあげている風です。

この像隣には説明のためにわざわざ立派な黒曜石の碑があり、それによると

● この像は西村西望先生の作で名作である
● 昭和52年市制施行施行70周年祈念に所有者が寄付した
● 台座は広島産の御影石で30トンである

ということですが、自由の女神そのものについては全く書かれていませんでした。
長崎の祈念像ですら税金の無駄遣いだといってわーわー騒ぐ人がいたくらいなので、
きっとこれにも文句をつける人がいたかもしれません。

まあ、中央公園の核兵器廃絶の碑なんかよりはまともな使い道だと思いますが。



次に歩いて到着したのは通称「赤門」。
ここは、先日訪れた旧横須賀鎮守府、田戸台庁舎の近くです。
鎮守府の見学の帰りに写真を撮った古いつくりの八百屋を右手に見ながら
京急のガードを一旦くぐってもういちどガード手前に戻ったところにあります。

赤門の由来はこの門が昔はもっと鮮やかな朱色で塗られていたからです。
それにしても、こういった文化財(ぽいもの)の前に民家風のフェンスはいったい・・・。
と思って調べてみたら、この門に変える前にもブロック塀の上に金網を立てた、
ごく普通の「当時の民家の塀」でした。

ここは代々永島家の家屋であり、今でもつまり「民家」なのです。


「自由の女神」設置の市制70周年のとき、この古くから伝わる
(江戸時代に作られたと言われる)民家の門が横須賀市の
「風物百選」に選ばれたので、ローカルツァーにも組み込まれているんですね。


今でもこの後ろ側には永島家の子孫が住んでいて、ガイドさん(自称後期高齢者)は

「ここの人が幼稚園の先生で私の子供が教えてもらっていた」

というような話をしていました。
江戸時代にこういう門を作るだけのことはあって、永島家は名主であり、
浜代官であり、
(このあたりは昔海岸だった)庄屋でもあったという地元の名家です。

こういう、門でありながら住居部分を持っている形式の建築を「長屋門」といいます。
昔の武家屋敷では、外郭に家来のための長屋があり、警備を兼ねてそこに住んでいました。
門の脇の格子の窓からは入る人をチェックしていたのかもしれません。

ちなみに、赤門そのものは江戸時代のものですが、その他の部分は
長年の間に幾度となく手が入れられているということでした。

冒頭の苔むした墓石などは、このあたりにあった供養塔や墓を
整地する時にまとめてここに祀ることにしたもののようです。
まだ比較的新しくはっきり刻字が読めるものもありますが、
経年の剥落により全くなんのためのものかわからなくなってしまったものも。



そこから少し歩いたところに、横須賀市立田戸小学校があります。
その校門の一角に、こんな石碑がありました。

「噫龍崎訓導の碑」

んどう、を変換しても教師を表す「訓導」という漢字は出てきませんでした。
ガイドの人も、

「先生のことを”訓導”なんて言ったんですね」

などと全く聞いたこともないような口ぶりで言っていましたが、 
昔親の本棚にあった石坂洋次郎とか有島武郎とか、山本有三あたりの
昭和の学校ものを読んだことのあるわたしには珍しい言葉ではありません。

龍崎ヒサ先生は戦前、ここにあった田戸国民小学校の「訓導」でした。
昭和17年11月19日、4年の生徒202名が校外学習のために学校を出発したのですが、
龍崎先生の組が東京急行電鉄(今の京浜急行電鉄)の踏切にさしかかったとき、
右手のトンネル内から浦賀行きの下り電車が来たので一同はその通過を待ちました。

悲劇はその次の瞬間起こりました。
下電車が通過したあと、反対側の線路に上りの特急がやってきているのに
一人の生徒が飛び出して踏切を渡ろうとしたのです。

「危ない!」

先生は叫びながら線路に飛び込み、生徒をを向こう側に突き飛ばしましたが、
自分自身はやってきた上り電車に接触し、死亡しました。 


先生の殉職は大きく報じられ、その学校葬には、文部大臣をはじめとして、
神奈川県知事、横須賀市長、帝国教育会長、
神奈川県女子師範学校長、
横須賀教育会長、市会議長から追悼文が寄せられました。


中には横須賀鎮守府司令長官海軍大将古賀峯一からのものもあったそうです。
近隣を歩いて知りましたが、横須賀鎮守府とこの田戸国民学校、
そして事故現場となった
線路は大変近いところにあります。

龍崎先生は享年30歳。
兄は陸軍士官学校を経て当時少尉として戦線にあり、母を前年度亡くしており、
さらに弟は病床にあったため、彼女が家の働き手であったということです。


「今の先生にも立派な方はおられるんでしょうけどね」


ガイドさんは彼女の殉職の様子を説明した後、こんな風に言いました。
かつて教師は「聖職」と呼ばれ、教師は矜持と使命感なしでは務まらない、
というのが一般的な認識だったのですが、確かにいまでは
先生が「聖職」なんて、
なにやらタチの悪い冗談のような気すらしてきます。

確かに志の高い先生も世の中にはたくさんおられるでしょう。
誰だって夢と使命感を持って教師になるのですし、わたし自身、
ごくわずかですが、
あの先生は人間的にも尊敬できた、
と思える先生に出会ったこともなかったわけではありません。


しかし、いざとなった時に身を呈して生徒の命を守るような行動が
とっさに取れる先生がどれだけいるかというと、
それは残念ながら限りなくゼロに近いのではないでしょうか。

わたしはこのことを嘆いたり非難するつもりで書いているのではありません。

龍崎先生が亡くなった昭和17年頃の、もっと言えば戦前の日本人と今の日本人は、
政治家から末端の庶民まで、全く人間の「質」というものが
違ってしまっているのではないか、そしてその原因とは、
「個」というものが「公」あってのことであるという考え方を
失うような戦後の価値観の変化に実は原因があるのではないか、
ということを龍崎先生の死から感じ、かすかに絶望しこそすれ・・。




龍崎先生は即死ではなく、その後病院に運ばれて夕方に亡くなったそうですが、
最後の瞬間までうわごとで救った児童の安否を案じていたそうです。



このあと、お龍さん終焉の地を案内してもらい、横須賀中央駅に向かって
最後のガイド地に向かう途中にあった小さな祠。
三浦帝釈天だそうです。

ガイドさんが、「この祠を立てるのに私費を投じた人がいて」
(だったかな)という説明をしたとき、一人の参加者が

「その人は県会議員にでも立候補するつもりだったの」

と揶揄するように聞きました。
このおじさんは何かとこういう目立つ「決め台詞」を言いたがる人で、砲台では

「B29が来ても一つも落とせなかったんだろう」

とバカにしたように言ったり、古い建物などを見ても

「これ、どこかから補助出ているの?出てない?じゃあダメだな。もう持たないね」

といってみたりって感じでした。
一味違う穿ったことを言っちゃう俺、ただ者じゃねーんだぜ?みたいな?
現役時代、会社ではさぞウザがられ・・・・おっと。




ごちゃごちゃと飲み屋が連なるところの隙間に、
「米浜」と台座にある日蓮上人霊場の碑がありました。
これももともとここにあったのを動かせずに、このようなところに設置した模様。



最後の見学地、諏訪神社に到着。この時午後2時です。
朝の9時半から、50分の休憩を挟んでずっと歩いていたことになります。

全国の諏訪神社というのは、信濃の国、長野県にある諏訪神社から
ご祭神を頂いてきて創建したものですが、ここもまた1573年に

「諏訪明神の御分霊を勧請す」と伝わっているそうです。
享和元(1801)年本殿・拝殿の造替があり、現在の社殿は大正12年造営のものです。



本殿脇の倉庫のような建物も、大正時代の建築なのかもしれません。



同行者がまたまた「小泉」という名前を見つけてきて
あの小泉家の親類だろうか、とかわいわいやっていました。

大正時代のご造営のときに寄進した名前が刻まれています。

「尾張屋」「大工 小林弥助」「八百秀」「理髪店 加地勇」

「待合 千代田」「待合 三河亭」・・・・・。

 ガイドは

「ほら、ここに待合もあるんですよ!」

とワケありげにいうのですが、どうもその口ぶりから、
「待合」というのを娼館かなにかと勘違いしているように見えました。


一言で待合といっても、政治家も出入りするような格式の高い店もあれば、
小待合、安待合と呼ばれ、連れ込み宿同様に使われる店もあり、
その格にも相当な違いがあった(wiki)わけですが、どうも最近の人たちは
待合を「下の方」だというようなイメージで捉えている人が多いようです。

格式ある待合・料亭は「一見さんお断り」が当然であったそうで、
まるで京都の店のような格を保っていましたが、少なくともこの時代
名前を刻むほど神社の造営に寄進するからには、よほど流行った、
しかも格式の高い方の待合であったことは確かだと思います。


余談ですが、海軍士官は海軍兵学校を卒業し少尉候補生となって
遠洋航海に出発する前、皇居遥拝や明治神宮参拝などの行事をこなすため
しばらくの間東京近辺に宿泊します。

関東にある候補生の実家に彼の仲のいい級友を泊めることが普通に行われ、
昼間の行事をこなせば夜は皆で連れ立って銀座などに繰り出したのだそうですが、
そのときに少尉候補生では禁じられている待合に行った、という話を
戦後に書かれた追想記で読んだことがあります。

海軍さんの隠語では待合のことを「チング」(待つ=ウェイチングから)
といったそうですが、このときも地方出身の候補生が

「かねてから(つまり卒業前から)約束していたチングに案内しろ」

と言い出し、皆でこわごわと「初めてのS(芸者)プレイ(遊び)」を
してみたものの、もし見つかったらえらいことになるので、(芸者さんと)泊まる、
と言い張る一人を引きずって連れて帰った、という話でした。

当時の海軍士官は、遊ぶならブラック(玄人)と一流のレス(料亭、レストラン)
でさっぱりと遊べ、ただし一人前になってから、と教育されていたので、
待合は待合でも怪しげな方に、しかも候補生がいるのが見つかったら大事だったのです。




横須賀界隈の飲み屋さんでは、ブランデーとジンジャーエールをミックスした
「横浜ブラジャー」という目眩のしそうな名前のドリンクをやたら推していて、
今やどこにいってもこれが飲めるそうですが、美味しいかどうかという以前に、
このネーミングセンスと、シンボルとなっている絵があまりに酷いと思います。

そこで焼きそばとご飯を化学調味料で味付けし、ソースでマゼマゼして食す

「そばめし」なる下品な食べものを、わたしの郷里神戸で広めようとする
動きが(知る人ぞ知る長田地区辺りに)あったのを思い出しました。

こんな志の低いもの勝手に神戸名物にするな!

と、わたしは神戸出身の一人として糾弾しこれを阻止しようとするものですが、
きっと横須賀にもこの飲み物推しを
快く思っていない人もいるに違いありません。


 

ちなみに駅周辺の小道にはこのようなスナックとカバーとかが林立しており、
どれもこれも築年数の古そうな、地震に耐えられるのかと心配になるような
建物にギュウギュウという感じで立ち並んでしました。

その並びで発見した「赤レンガ」と「錨」という店の並びに何かを感じたので、
カメラに収めておきました。


これをもちまして、横須賀歴史ウォークシリーズ、思い出したように
最終回とさせていただきたく存じます。

またこのような企画があったら参加してみることにしましょう。

 


 


枕でアレルギー騒ぎ〜直島・ベネッセハウス

2017-01-05 | お出かけ

戸内海に浮かぶアートの島、直島旅行記、三日目です。

夜になりました。
「オーバル」に居ることそのものが楽しくて、わたしたちは
暗くなってからも写真を撮りまくりました。 

 

夜のオーバルは、そのプールの部分が黒々とした黒曜石のようです。
照明が水に映る様子もまた面白きかな。 

 

夕食はミュージアム棟のレストランで和食をいただきました。
こんなところを歩いてご飯を食べに行きます。 

こちら、この日のお夕食で最も印象的であった一皿、
オコゼのお造り、顔面添えでございます。

あまりにも魚身が薄すぎて見にくいですが、タイより歯ごたえがあり、
味の濃い実に美味しいお刺身でした。

しかしオコゼの顔をわざわざ飾ってあるのは、外国人客にとっては
なかなかチャレンジングというか、通過儀礼的な一品というか。

彼ら、魚の目がマジで怖いらしいですね。 

ここは文字どおりミュージアムなので普通に作品がゴロゴロしていて、
大抵それらは写真禁止ですが、これだけは禁止されてなかったので撮りました。

床に廃材の木切れを円形に置いただけのアイデア作品。
(その心は手間いらず、 材料費いらず、どこでも設置、いつでも撤去可)

 

次の日には地中美術館という、崖部分の土を掘って、本来地中だったところに
作られた美術館にも行きましたが、全作品もちろん撮影禁止。

地中美術館 

サイト先にあるウォルター・デ・マリアの作品は、教会のような空間の
階段の途中に直径2・2mの巨大な球が 置いてあって、外光を映すというもの。
鑑賞者はそこに足を踏み入れ、自由に歩き回ることができます。

現代美術といってもここの作品は理屈抜きで「くる」ものが多く、
やはりアーティストの創造を満たすだけの空間がふんだんにあるからこそ
説得力のあるものが生まれてくるんだろうなと思います。


ところで、こういうところに来ると写真を撮らないと損したように思うのか、
多くの中国人観光客は人(係員)の見ていない隙に携帯で写真を撮っていました。
いくらiPhoneのカメラが良くても、盗み撮りした画像なんかどうするんだろう、
と呆れながら横目でそれを見ていました。

地中美術館は手前に駐車場とチケット売り場の建物があり、
200mくらいの道を歩いて入館することになっていますが、
小川の道沿いには色とりどりの花が植えられていました。

「こんなところも写真に撮ることができないのかしら」

入り口で写真禁止を言い渡されていたので、歩きながら話していると、
近くを歩いていたおじさんが、

「この花は撮っていいんですよ。どうぞ撮ってください」

と声をかけてきました。
どうもこの花を手入れして居る方だったようです。

昔ガーデニングにはまった経験があるので、自分が手塩にかけた花を
写真に撮ってもらうのは嬉しいものだというのはよく分かります。

花咲く小川沿いの道の向かいには小さなお地蔵様がいました。
第三十八番金剛福寺とあります。

四国八十八箇所霊場の第三十八番札所である立派なお寺ですが、
ここにおられるのは「出張お地蔵様」なのかもしれません。

ホテル内で発見。

コンクリートの隙間から草が芽を出しています。
てっきり手が届かなくて掃除をしていないせいだと思ったのですが、
驚いたことに、これもまたアート的装飾だったのでした。 

夜、オーバル棟に帰るためにボタンを押して呼ぶと、
モノレールが真っ暗な山道を降りてくる様子も見ものです。 

部屋に戻る前に屋上の庭園に上がってみました。

明けて翌日、天候は雨でした。
オーバルに灰色の空から雨が降り注ぎ、中央のプールに
雨だれの作る輪ができる様子を見られたのはむしろラッキーでした。 

オーバルの客のためだけに(この日は3部屋に合計7人半が宿泊)
小さなラウンジがあって、コンチネンタルブレックファーストが取れます。

部屋に食べ物を持ち帰るのはご遠慮ください、ということでしたが、
隣の部屋の白人の男性は寝て居るらしい連れのために堂々と?
食べ物を持って帰っていました。

ラウンジには係の女性がいましたが、見て見ぬ振りを・・。

雨は朝のうちだけで、空が晴れてきました。
チェックアウトを1時間延ばしてもらい、最後まで部屋を堪能します。
 

いよいよオーバルともお別れです。
最後に乗るモノレールがやってきました。 

その夜はそのミュージアム棟に宿泊です。

一応コーナースイートだったりするのですが、
あのオーバルの後では全く平凡な部屋に思えてしまい、
そのことがちょっと残念でした。

部屋から見える向かいの崖の下に、廃屋がありました。
ホテルの人が

昔人が住んでいたようですが、今は無人です」

といっていたのを聞いて、部屋から望遠レンズで撮ってみたのがこれ。 

もやいをつなぐ杭のようなものが見えるので、ヨットかボートか、
自分の船をつないで、ここから出勤でもしていたのでしょうか。

ろくな道もなさそうなここにどうやって家を建てたのかとか、
ライフラインの水やガス、電気にトイレはどうしていたんだろうとか、
誰も近寄ることができないらしい場所で朽ち果てているこの家で
どんな人がどんな暮らしをしたんだろう、などとしみじみ考えてしまいました。

 

この写真では何も運命を知らずに呑気そうにして居る息子ですが、
この部屋に泊まった最終日、夜中にアレルギーの発作を起こしました。

枕に彼がアレルギーを持つそばがらが入っていたのかと思い
次の日確かめて見たのですが、そばではなく、肌触りのために
羽毛の
羽の根元の部分を表面に入れた枕だったそうです。

息子は台湾のホテルでそば粉入りのガレットを食べてしまい、
(ホテルの人がそば粉を使って居ると知らなかったらしい)
その時には全身に湿疹が出てえらい目にあったことがあります。

遡れば、新宿のレピシエ本店だったところで試食のクッキーを食べたら
どうやらそば粉が入っていたらしく、目が土偶のようになったのが
彼の人生初のアレルギー受難でした。 

その後の検査で、そば以外に動物のアレルギーもあることも知っていましたが、
まさか鳥の羽で人生3度目の発作が起きるとは夢にも思っていませんでした。

気道が腫れて咳き込み、二重まぶたの線が腫れでなくなって
別人のような人相になってしまうという大惨事だったのですが、
実はわたしはその夜、熟睡していてその騒ぎに気づきませんでした。

次の朝起きたら、息子がソファーに枕無しで寝ていたので、

「なんでソファーで寝てるの」

「MK、昨日の晩大変だったんだよ」

息子をお風呂に入れ、顔を拭いて水を飲ませ、
ソファにシーツを敷いてやったのは全て父親でした。

わたしは夢の中で誰か咳をしているなあとは思っていたのですが、
彼らは寝ているわたしを起こしても

「別に何もしてもらうことはないから」

ということで放置されていたのでした。
こんな母親ですまん息子。そしてありがとうTO。 

ホテルからフェリー乗り場までは、昨日きた方向とは反対に
ほんの数分くらい走ったところにありました。 

フェリー乗り場にも草間彌生のカボチャがいます。

ここから岡山までは通勤通学、買い物でフェリーが島民の足です。
もしかしたら島民はフェリー料金は無料なのかもしれません。

降りてくる人々を見ると、都会の通勤電車に乗って居る人たちと
何も変わらない服装雰囲気ですし、島から乗り込む人たちは
自転車に後ろカゴをつけたおばちゃんとか、学生服の子とか。
フェリーはここではバスや移動する橋みたいなものなのでしょう。

昔リゾート地だったもののその後低迷していた直島が
アートの街として再出発したのは1980年代後半のことです。

当時の町長と、福武書店の創業者との間でコンセプトが生まれ、以降
「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための
直島文化村構想の一環として「ベネッセハウス」などが建設されました。

当初はいきなり現れた現代アートに島民も引き気味だったそうですが、
その後の島全体を「壊さず生かす」という基本理念の上に行われた改革によって、
徐々に理解が得られるようになってきたそうです。 

人口3000人の島にある飲食業や観光業、美術館などの職場に
本土から多くの人が毎日通勤してきたり、あるいは
この島での活動のために都会から若い人が移住してきたり。

特異なアイデアだったかもしれませんが、町おこしとしては
もっとも成功した例がこの直島なのかもしれません。 

 

ベネッセハウス、近代アートに興味のない皆様にも是非オススメです。

 

 

 


「オーバル」に宿泊〜瀬戸内海・直島

2017-01-03 | お出かけ

今回の旅行のハイライトは二日目に安藤忠雄氏設計の
「ベネッセハウス」内でも最も有名な「オーバル」に泊まることでした。

わたしは全く計画に関わっていないので後から聞いたのですが、
どうして3泊4日の旅行の中日に一番いい部屋にしたかというと、
最終日の朝、仕事の関係で午前中には東京に帰らないといけなかったからです。

まずは昨日泊まった「パーク」から引っ越しです。
とはいえ、荷物は部屋に置いておけば次の部屋に入れて置いてもらえます。

この棟は「ミュージアム」と言い、本当にここには美術館があります。
最終日にはここに泊まることになっています。

フロントからはこんな吹き抜けの回廊付き広場が見渡せます。
中央にあるものもアートで、電光掲示板にいろんな言葉が現れるというもの。

下のスペースに降りて作品を間近で見ることも可能です。

オーバルと言われるゾーンに行くには、特設モノレールに乗ります。
ミュージアム棟からルームキーを入れると、モノレール乗り場に入ることができ、
そこで可愛らしいモノレールを呼んでやってくるのを待ちます。

モノレールのドアは自分で開け閉めします。
トーンを落としたセージ色にペイントされています。

モノレールが斜面をちんたらと(本当に遅い)登って行くと、
眼下には島の端の小さな半島が見えてきます。

上の駅に到着。
走行時間は約5分といったところでしょうか。
モノレール脇には山道があって、ホテルの人はそこを上り下りしていました。

「ふおおおお」

「はええええ」

エレベーターから降りるなり声にならない声を上げるわたくしども。
文字通りオーバルに切り込まれた空間の中央には水が湛えられ、
その周りのスカイブルーの壁とひっそり同化して、各部屋のドアがありました。 

ベネッセハウスのシンボルのようになっているオーバルですが、
ここにはたった6部屋しかありません。

今回泊まる部屋は、大きなテラスのついた2部屋のうちの一つ。
壁にある三重丸もアート作品ですが、これを見ることができるのは
この部屋に泊まった人だけです。

部屋には支配人からプレゼントされたシャンパンのボトル有り。

絶景をテラスから見ながらシャンパンを開けてください、
というホテル側からのお心遣いなのですが、
残念なことに誰もお酒が飲めないわたしたちには猫に小判。

ちなみにこれは持って帰ってきて未だにうちにあります。

設計者の意図を反映してドアはなく、テラスに出るためには、
壁のボタンを押すとウィーンとガラスそのものが下がっていき、
そのままその部分が全開きになる仕組み。

全部ガラスを開けないと外に出られないというのもびっくりです。

「すご〜い」「おもしろ〜い」

モノレールからはしゃぎまくっていたわたしたち、ボタンを押しつつ
「サンダーバードのテーマ」を歌ったりしてもう絶好調です。

ベッドに寝ていても海が見えるように、周りの木は低く刈り込まれています。

テラスに出てみる。
テラスの外には柵はなく、断崖のように見えますが、
万が一テラスから落ちても下に転がることはないようになっています。

隣の小さな島は「柏島」と言って、ここも直島町です。

直島町の面積は14.22㎢、人口はわずか3126名(2016年10月現在)。
こんな小さな島が、世界中のツーリストの知るところとなっています。 

ここには人が立ち入ることはできません(物理的に)。
「オカメノハナ」という岬です。

部屋から海岸線を見ていて、こんなテント村を発見しました。
モンゴルのテント「パオ」とか「ゲル」みたいですが、ここも
素泊まり3000円台で泊まることができる施設なんだとか。

もちろんお風呂なんてないしテントだから冬はやってないと思います。

ここから眺めると至る所にアート作品。
これもおそらく井戸と洗面器ではなく、アート。 

「オーバル」の、テラス付きスイート宿泊者だけの特権。
テラスから前庭に降りて前を歩き回ることができます。 

宿泊者の特権?「オーバル」を上から見てみることにしました。

一旦外に出て、オーバル沿いの階段を上っていきます。
オカメヅタが茂って階段を半分隠してしまっています。

ここ屋上庭園もオーバルの宿泊者だけが立ち入りを許された場所。

縦に入ったスリット状のものが、各部屋のドアです。
わたしたちの部屋のドアは右から三番目。

6部屋の宿泊客のために朝食用のラウンジがあります。
ルームサービスがないので、さすがに朝ごはんは
簡単にここで食べられるようにしてあるのです。

そのほかにも、部屋には夜食のおにぎりが差し入れられました。

オーバルの周りにはこのように滝が注ぎ込み・・・、

 

建物の下を流れていくという設計になっています。

下界に降りるときには」、上からボタンを押して呼ぶと、
5分かけてゆっくりとモノレールが上ってきます。

6部屋の宿泊客のためだけにモノレールまで作ってしまうという・・・。

下のミュージアム塔に、「オーバル」建築中の写真がありました。
右から2枚目の写真は、わたしたちが泊まっている部屋のテラスです。

これが安藤忠雄による「オーバル」建築模型。

オーバルの中央の水溜りは、その日の天気によって様々な形を映し出します。

 

写真を撮ったり探検したりして部屋を楽しんでいたら、日が暮れてきました。

息子は「定点定時撮影」ができるカメラで日没の動画を撮っています。

 

空の色の移り変わりを見ているだけでこんなに楽しい場所があるとは。

二日目に初めて気がついたのですが、ここの部屋にはテレビはありません。
テレビや映画など見ず窓の外を見てください、というところでしょう。

夕日に光る海に見える瀬戸大橋のシルエット、その手前の大槌島は
地図で見てもまん丸い島で、まるで甘食みたい。  

直島での二日目の太陽が、今山の端に沈んでいきます。

 

        

 


瀬戸内に浮かぶアートの島、直島

2017-01-02 | お出かけ

 

さて、年明け早々の話題に、年末の旅行記をお届けします。

今回の旅行はわたしは全く計画に参与することなく、
TOとMKがごにょごにょと相談し、いつの間にか決まっていました。
MKは基本旅行が嫌いなのですが、今回は乗り気。
それというのも旅行のテーマが

「瀬戸内に浮かぶ島の現代建築作品でもあるホテルに泊まる」

というもので、建築に興味のある彼のツボだったからです。

まず、羽田から飛行機で向かったのは岡山空港。
はて、つい最近もこの空港に降り立ったような気が・・・。

空港で車を借りて、家内で唯一の免許保持者であるわたしが
ドライブして島まで行くことになっておりました。

空港から、これも先日進水式で行ったばかりの玉野の宇野港に向かう途中、
両備交通の路線バスが走っているのに気づきました。

 

これもネタで取り上げたばかりですが、貴志駅の初代猫駅長、
故たまを大々的にキャラクターにしているのが両備グループ。

なぜ和歌山の駅の駅長猫を岡山の会社が?というと、
もともと経営難だった貴志線を、南海電鉄から経営を引き継いだのが
両備グループであり、岡山電気軌道の子会社である「和歌山電鐵」だったからです。

この路線バスは「スーパー駅長たま」「たまバス」
とペイントされております。

わたしは運転していたので、家族に頼んで写真を撮ってもらいました。

あのー、バスに耳とヒゲがついてるんですけど・・・。

両備グループではこのほかにも関連車両として「たま電車」、
車体を三毛にペイントした「TAMA-VAN」なども走らせています。

自分が計画したわけではないので、時間のことなど何も気にせず、
ちんたら運転していたらフェリー乗り場に到着しました。
船着き場にちょうどフェリーがいて、係の人が

「乗りますか?」

と声をかけてきました。
予定より一本早い便の出航にギリギリ間に合ったようです。

 

宇野港から直島までフェリーでわずか15分。
通勤や仕事らしい車の人は乗ったままでした。

直島に行く観光客は意外なくらい多く、中国人観光客もたくさんいました。


 
あとで地図を確認したら名前のついていない無人島でした。
地元の人は「亀島」などと呼んでいるに違いありません。 

 

熊本船籍の貨物船、新益栄という船です。

こちらはパナマ船籍の TTM HARMONY。 
バルクキャリアー、ばら積み船だそうです。

ここはもう直島の先端の「獅子渡ノ鼻」。
航空写真を見ると、手前が土壌の整備中のようなので、
ここに必要な土か何かを運んできたのかもしれません。 

このあと船はすぐ直島に到着しました。

お昼を食べるところも、TOが前もって決めていました。

島にはコインパーキングなどというものはなさそうですが、
邪魔にならなければどこに停めてもおk、という感じ。
駐車場所を探して少し走ると、巨大なオブジェが出現しました。

頭から煙が出ていてドアがあるので中は飲食店のようです。 

「何このぶどう」

「島全体がアートなんですよ」

あまりに何の予備知識もなくやってきたわたし、ここで初めて

「島全体をアートにしてそれで町おこしをしている」

らしいことに気づいたのです。

道の脇にはかつての防空壕らしき痕跡が。

その「アート」とはこの島のありのままの姿でもあり、
従って古くからの建物も取り壊したりせず残しています。

巨大なオブジェがあるかと思ったら、焼杉の壁に
塩小売所の鉄看板が昔のままに残されていたり。

TOが選んだお昼ご飯のお店も、古い民家そのものです。
手前にあるのは使われていない(多分)井戸。

圧力鍋で炊いたらしい弾力のある噛み応えの玄米と甘い味噌汁、
豆腐に付け合わせと、実に滋味深いお昼ご飯です。

食後にミルクティーを頼んだら、牛乳はないと言われました。
ヴィーガン(アニマルフード禁止)のお店だったのです。

わたしは昔マクロビオティックもやってみたことがありますが、
色々実践している人を見てきた結果必ずしも完璧がいいわけではない
という考えに至ったので、今は菜食寄りの普通食をしています。

紅茶にはミルクを入れるし卵も魚も、外では牛豚も食べます。 

昼ごはんがすんで、いよいよホテルにチェックイン。
ゲートではバックミラーにI.D.タグをつけてもらいます。

本日の宿泊所である「ベネッセハウス」は、
無人だった島の海岸線の広範囲そのものがゲートで囲まれたホテル敷地で、
また全体が美術館でもあるのです。

内部の地図をもらって車を走らせて行くと、
ものすごく見覚えのあるデザインのカボチャが突堤に見えてきました。

当ブログで MOMA、ニューヨーク近代美術館を扱ったとき、
その数奇な半生についてお話ししたこともある草間彌生の作品で、
ベネッセハウスのシンボル的存在でもあります。

皆がこの前に立って写真を撮るので、繁忙期には

「カボチャの前に長蛇の列ができることもある」

ということでした。

ベネッセハウスはいくつかのゾーンに分かれていますが、
ここが初日の宿泊施設のある「パーク」棟です。

わたしは全くその存在をこの日まで知らなかったベネッセハウスですが、
もうオープンして26年になるのだそうです。

ロビー前のエントランスもまるで美術館のよう。

宿泊客に欧米系の外国人客が多いのには驚きました。
彼らが喋っている言葉も英語、ロシア語、ドイツ語・・・・。
実に世界中から観光客が訪れているようです。

著名な世界の旅行雑誌の「次に見るべき世界の七か所」特集で取り上げられ、
それ以降世界各地の新聞や雑誌で紹介されており、
海外での注目度も高い施設であることがよくわかりました。

この打ち込みコンクリートの丸い「打ち跡」ですら、
ここではアートの一環なんだそうです。
熟練の職人が手がけた打ち跡なのでここまで整然と同じ大きさなのだとか。 

初日の部屋は、「パーク」棟のコーナースイートです。

ベランダで朝食をいただきたいところですが、このホテル、
ルームサービスがありません。 

パーク棟には、10部屋がこのように並んでいます。
TOがいうには、本当は三泊のうち一日は「ビーチ棟」という
海沿いの部屋を取りたかったのだけど、空いていなかったそうです。 

ベッドボードの後ろはウォークインクローゼットでした。
うちのクローゼットより大きいかも。

不自然なくらい?大きなお風呂は明かり取りの窓が切ってあります。
ガラス戸のこちら側は洗面所です。

 

この宿泊棟にはいたるところに現代アートが展示されていて
「美術館に宿泊」できるというのが謳い文句です。

部屋に向かう廊下はまるで美術館の回廊。

廊下の窓ガラスの外にも作品。

これらは宿泊客しか鑑賞できません。

部屋からは別の角度からこの作品が見えます。

客室の前には海が広がっています。
自転車が走り回っていますが、中で借りることができるようです。

敷地のそこここにも作品。

夕食の時間まで、部屋から海を眺めたりしてのんびり過ごしました。
八幡丸という漁船らしき船が往き過ぎます。

クレーンを積んだ船と貨物船。
瀬戸内は波がなく、海面は穏やかです。
船の往来は多く、ここが「幹線航路」なのでしょう。 

レストランは「テラス」という別棟にありますが、そこには
このような
それ自身が芸術作品である渡り廊下を通って行きます。

 

この日のディナーの内容までTOが選んでくれていました。

アミューズとして出てきたのは小さな小さなチーズクロワッサンとパン。

小さきことは可愛いこと哉。

コースの魚はタイ。盛り付けがすでにアートです。
ソースは確かケールだったかな。 

メインディッシュは煮込んだビーフの頬肉。
手前の黄色いのはポレンタです。
日本でポレンタはあまり見ませんが、すりつぶしたコーンで、
これをこのようにまとめて揚げたりして食します。

青梗菜は、わざわざ細いものを選んでいたのですが、
なぜか葉っぱの部分を固結びしてあって、しかもこれが
ナイフで切れず、食べるのに大変苦労しました。

アートを優先して食べやすさが犠牲になった例。

翌日の朝ごはんも同じレストランでいただきました。

レストランの前には砂浜が広がっているのですが、海岸線まで
一色に見えるように、デッキが全て灰色に塗装されていました。

「瀬戸内のエーゲ海」と称してギリシャ風の柱を立て白いヨットを浮かべた
バブル時代のホテルが岡山のどこやらにあったと記憶しますが、
どう頑張ってみてもエーゲ海とは全く違う瀬戸内海のくすんだ海の色が
その光景を一層寒々しいものにしていたことを思い出すと、
この海の色を熟知した色選びのセンスは大したものだと感心しました。

「どこそこのエーゲ海」「どこそこの銀座」「どこそこのハワイ」

こういう二番煎じ根性ではなく、そこが「どこそこ」であることを認め、
それから出発しないことには、そこは永遠に「本物」にはなりえません。 

世界中から観光客がこの小さな島を目指してやってくるのは、
ここが「瀬戸内のMOMA」(仮称)だからではなく「NAOSHIMA」だからなのです。

朝の光が作る窓枠の影も作品です。

パーク棟には無料のラウンジがあり、グランドピアノが置いてありました。
アメリカのホテルではよく廊下の隅にピアノが置いてあって、
練習したりしたものですが、日本で鍵をかけずに置いてあるのはまれです。 

わたしはここを通るたびに中を覗き込んで、人がいない時だけ
思う存分ピアノの練習をさせてもらいました。

左手を動かすための練習曲としてショパンのエチュード「革命」、
右を動かすために同じく「幻想即興曲」を弾きながら、
この海の色には合わないなあと感じたので、最後はジャズで締めて。 

わたしにとっては何よりの娯楽となりました。

 

さあ、明日はいよいよ本命の部屋に移動です。

 

 

 

 


横須賀のカウントダウン 2017年

2017-01-01 | お出かけ

みなさま、明けましておめでとうございます。

2010年4月20日から始まった「ネイ恋」も、気づけば今年で
7年目に突入しようとしております。
海軍に興味を持つとほぼ同時に、何もわからないままブログを始めた、
ということは、わたしの「海軍歴」はほぼ7年。
少し遅れて海自に興味を持ち出し、海自歴はほぼ6年というところです。

日記のようにほぼ毎日エントリを重ねてきて、その間、ブログを通じて
様々な人に出会い、様々な土地を訪ねて見たものや感じたことを
心の赴くままに語ってきましたが、「ネイ恋以前」と「ネイ恋以降」では
明らかにわたし自身のものの見方、考え方は変わってきたと思います。

もし「ネイ恋」なしで7年歳をとっていたとしたら・・・?

そのわたしがどんな人間だったのかは確かめる術もありませんが、
もし両者を比べることができたとしたなら、

今の自分の方が少しは人間的にマシで、かつ満たされていることでしょう。

そうであれば、それはブログ上で知り合い、様々なご意見を頂き、
刺激を受け、時にはチャンスをくださった皆さま方のおかげに他なりません。

今年も真摯に精進してまいりますので、どうぞよろしく願い申し上げます。

 

さて、今横須賀メルキュールホテルの16階でこれを作成しています。
先ほどここでのカウントダウンによって無事に年越しを迎えました。

2日前、偶然車を運転していてふりかけさんことミカさんを目撃、
すぐに車を止めて久しぶりに(掃海隊慰霊式以来)話をしたところ、
横須賀のカウントダウンにお誘いいただいたのです。

せっかくなので家族で行こうと思い、TOパワーで前日にホテルを取りました。
が、息子が急遽鎌倉の友達のうちに泊まりに行くことになり、
ディナー付きの部屋をミカさんに供出し、一緒に年越しをすることに。

縁は異なものと言いますが、3日前までは思いもよらなかった展開です。

まずはメルキュールホテルの年越しディナーから始まりました。
最初に出てきたハマグリの上に泡が乗ったアミューズ。

マグロが乗っているのは餃子の皮ではなく、カリフラワーのペースト。
緑色のドットは職人芸の細かさですが、ブロッコリーペーストで描いたもの。

コースの中で一番美味しいと思ったカモのフォアグラ。
フォアグラは苦手な方ですが、絶妙の焼き加減と、
緑野菜をメレンゲにして粉砕した粉とのマッチングが最高な一品でした。

部屋では何年振りかに紅白を見ながら準備をし、
9時過ぎにヴェルニー公園に出ました。

苦手だった夜景の撮影ですが、本日はプロのカメラマンと一緒です。
アドバイスを受けた後の写真はこの通り。 

確か手前は「やえしお」だと通りがかりのミカさんの知り合いが
教えてくれました。
潜水艦のセイルに「2016」と電光で書いてあります。

隣の「ステザム」さんは、アメリカの国旗の色、
赤白青を使っておしゃれしています。

 

横須賀基地の方に向かって歩いて行きました。
「いずも」も艦番号107の「いかづち」も電飾が美しく光っています。
 

いずもの艦腹が見えるところまで歩いてきました。

JMSDFの電飾もこの日だけの特別だそうです。

午前0時1分前に全ての明かりが消えて真っ暗になりました。
港に泊めた船から花火が打ち上がります。

花火は約5分続きました。

わたしはレリーズを持っていなかったので、アドバイスに従って
写真を撮ることをハナから諦め、動画を撮っていました。

そして、先ほどの潜水艦を見てみると、年が明けて
「2017年」に変わっていた(冒頭写真)というわけです。

 

さて、あと4時間で夜が明けるわけですが、今から寝て
(現在午前3時)初日の出は見られるかな?

 

 

 



わたし+呉+自衛隊=雨〜地方総監部訪問記

2016-12-16 | お出かけ

前回からそう間も分かたず、またもや今回、
正式な訪問の機会を得て呉に行ってまいりました。

まず、飛行機で岡山入りしてそこで所用を済ませ、呉まで移動。
当然岡山から広島まで新幹線に乗るのが妥当なのですが、
ここで岡山在住の方に

「明るいうちだと、三原から呉線で行けば海を見ながら行けますよ」

とわりと無責任に言われてその気になったのが運の尽き。
後から呉在住の知人にこの話をしたら、

「えっ、三原から各停で来たんですか」

と絶句されてしまいました。
他所者の悲しさで、そもそもわたしは広島と岡山の距離を
せいぜい車で30分くらいのような感覚を持っており、
三原からなら呉線とやらで車窓を楽しんでいるうちにすぐ着くだろう、
と甘く見てしかも各駅停車に乗り込んでしまったのでした。 

四国から瀬戸大橋を渡って京都まで行くのにせいぜい2〜3時間だと思い込み、
車を借りたあの初夏の1日を思い出しますですね。 

 

まず電車の扉が自動ではなく「自分で開ける」方式なのに驚きます。
さらに入った後は自分で戸を閉めないといけないのにも驚き、 
(後から来た人がわたしの代わりに閉めてくれたので気がついた)
駅に着くたびに通過待ちのため長時間停車するのに驚き、
さらには1時間くらい行ったところでスマホの地図を見たら
まだ呉まで半分も来ていなかったのには驚きました。

オススメしてくれた人が言っていたような「海」も、
急激に曇ってきた上、呉に近づく頃にはすっかり陽が落ちて見えず、
一体何のためにこんな線に乗ったのかわけわからんことに。

2時半くらいに岡山を出て、呉到着は6時半。
おまけに長時間座っている電車のシート下部から噴き出してくる暖房が熱い。
暑いではなく「熱い」です。
この路線の利用者はよく文句も言わずに乗っているものです。

おかげで到着した時には外に出る気力も体力も残っていませんでした。 

次の朝、起きてカーテンを開けたわたしは絶句しました。
またもや雨です。
昨日あんなにお天気が良かったのに、雨。

今までなんども「わたしが中国地方に自衛隊行事でくると雨になる」
ということをネタにしてきましたが、今回はさすがに
前日の快晴からそんなことを考えもせずやってきて、次の日。

やっぱり雨。

ざっと思いつくだけでも呉教育隊見学、「さみだれ」見学、
ふゆづきの引き渡し式、いせの慰霊式、
ちよだの進水式、前回の自衛隊員慰霊式。

ここまで念が入っていると何かあるのではないかと思わざるを得ません。

 

さて、わたしが呉に行くことを報告したとき、知人からメールで

「せっかくだから高田帽子店に行ってみてはどうか」

とご提案をいただきました。 
山本五十六の帽子を作ったことでも有名で、現在でも
海上自衛隊の特約店として、こだわり派の自衛官に帽子を作っているところです。

調べてみると泊まっている呉阪急ホテルからは歩いて10分のところにあります。
グーグル先生のありがたい情報によると休業日となっていましたが、
どちらにしてもわたしは帽子を買うわけではないので、関係ありません。

呉地方総監部からのお迎えの車が来るまでの間の時間を利用して
散歩がてら行ってみることにしました。

呉というのは昔からのお店が多く、駅前といっても
一筋入ればこんなのんびりした街並みになります。

最初に来た時にはまだ駅前にはデパートが営業していたのですが、
その後閉店してしまっていまだにビルは放置されており、
そのため随分雰囲気が寂れた感じになってしまって久しい呉。

後に話をした呉地方総監も、呉は昔からの個人商店が多く、
新たに増えていくことがないようだとおっしゃってましたっけ。

ちなみに冒頭の写真は、「大和ミュージアム」の展示の模型ですが、
これは当時呉の市民オーケストラだった

呉ロンバルディア管弦楽団

昭和9年から昭和16年(つまり開戦)まで活動していました。
この幕に書かれている「中山楽器店」ですが、まだ営業をしているそうです。

ストリートビューによるとこんな感じ。
ここも定休日だったようです。
いまはヤマハの特約店みたいです。

 

 

しかし昔、ここに呉海軍工廠があり、そこで多くの人々が働いていた頃、
広島市よりも人口が多く「日本八大都市」の一つであったといわれています。
戦艦がここで作られていたのですから当然だったかもしれません。 

知人のメールによると、

”当時の科学技術の粋を集めた戦艦大和を生み出した呉海軍工廠は、
今の航空宇宙産業とも言える、最先端工業都市でした。
それを支える海軍士官、技術者及びその家族は当然
文化的教養も高い人々であったと思われます。”

呉の人々はその点昔から(現在も)町にプライドを持っているといいますね。
ちなみに現在の呉市長とは何度もお会いしていますが、
広島県の他地域の長とは違って、中道保守の考えを持つ政治家です。 



さて、そんな街に流れる川を渡る橋、「かえで橋」を渡ってすぐ、
看板が見えてきました。

ちゃんと海上自衛隊の御用達であることを示す、
自衛隊旗のマークの看板には、

「防衛共済組合 呉支部特約店」

もう防衛庁から省に昇格して10年(来年の1月9日が10年目)
なのですから、文字を書き換えてもいいような気がするのですが・・・。

そんなことには全くこだわりがないっていうか。

定休日であることは前もって知っていたので驚きませんでしたが、
ありがたいことにシャッターが半開きになってい
ました。

こだわり派自衛官はここで注文し、官品ではなく
2〜3週間で出来上がる手作りの正帽を着用しているのだそうです。

帽子置きに置かれた海自の制帽は実に個体差がある、と
前回の玉野造船所での宴会で考察したものですが、こういうお店があって
なおかつ選択が自由だからと言う理由だったんですね。


自衛隊の制帽はもちろん購入にあたって自衛官であるという身分証明が必要です。

しかし、一般人のあなたにも問題なく買えるのが旧海軍の軍帽。
そして、直径12センチくらいの可愛いミニチュア帽子なら、
自衛隊仕様であっても買うことができます。

「あきづき」「日本国練習艦隊」と書かれた水兵さん用の制帽であれば3950円、
金の細工が多くなるほど少しずつ高くなっていって、
スクランブルエッグ(自衛隊では’カレー’ですね)がつくと5千円台、
将官用のになると一挙に7千円台に跳ね上がります。

もしお店が営業していたら、わたしはついふらふらと、このうち何か
(自分が’中尉’なので幹部用とか)を買って、出入りの外猫に無理やりかぶせて
写真を撮ろうとして引っかかれるところまで一挙に想像できました。

お店が開いていなくてよかったと思います。

ここは軍帽・制帽だけでなく普通の帽子もあるので、今度立ち寄った時には
何かいいのがないか、みてみることにしましょう。

電気がついていたのでもしかしたら人が出てきてくれないかと
しばらく前に立っていたのですが、人気はないままでした。

あの山本五十六も帽子を買うためにここに立ったのだなあ・・
としばし感慨にふけります。
当時の店内には木製の棚や柱時計などがあったのでしょうか。

寝坊して朝ごはんを食べ損なったので、ホテルに帰って
早めに昼ごはんをいただくことにしました。

呉では海自カレーのラリーを行っており、こうやって各艦艇の
オリジナルカレーをお店を回って食べ、スタンプを集めれば
景品がもらえるというイベントを行っています。 

たとえばこの呉阪急ホテルは護衛艦「うみぎり」認定店。
「うみぎり」の調理長がホテルのシェフにレシピを直伝し、
その通りに作ってあるという「認定書」を授与して認定店となります。

「うみぎりカレー」は季節の野菜(素揚げしたカボチャなど)をトッピングしてあるのが
特徴で、さらにすごいことは、野菜で作ったスープをベースにしていること。
ジャガイモは一緒に煮込まず、別に蒸したものを添えるのだそうです。

つまり大変手間がかかるということなのですが、ここは一流ホテルなので
この通りのレシピでカレーを作ることは大した負担ではありません。

しかし、これも呉総監から聞いた話ですが、やはり小さい店ではこれを
ちゃんとレシピ通り作って常備しておくというのが大変なこともあり、
今まで連綿と行われてきた(っていつからしているのか知りませんが)
カレーグランプリも、見直しが検討されているのだとか。

「うみぎり」カレーはロビーのカフェやルームサービスでも食べられますが、
わたしは夕飯を和食で、ランチはビュッフェと知らずにレストランに入ってしまい、
ついに今回食べ損ないました。

スタンプラリーでシールを30枚集めたらもらえる海自マーク入りの
コーヒーカップ、というのに目が釘付けになってしまいましたが、
呉在住でもないのにそれは物理的に無理というやつです。

ホテルではバイキングの際お酒を飲む方に千福フェアを行っていました。
特別メニューとして「千福酒なべ」を(どんなんだろう)出しているほか、
1500円で飲み放題などの企画です。

千福と海軍の関係については一度ならずここで書いたことがありますが、
本当に呉は海軍の町だなあとこういうのを見ても実感します。

最初にここに来た時、ケーキ職人がマジパンで作った大和がありましたが、
それだと技術的に細かい部分が作れないということで、
あらためて発泡スチロールで精巧なものを作り直したようです。

記憶にあるのとは格段に再現度の違う「大和」がそこにはありました。
がんばったね呉阪急ホテル調理部の皆さん。

 

さて、昼ごはんをゆっくり食べ終わり、身支度してロビーで待っていると
まず本日一緒に呉地方総監部見学をするTOが到着。
二人で話していると、予定の時間より早く、今日エスコートしてくださる
広報の自衛官が黒のレインコートを着て颯爽とやってこられました。

そうそう、これなんですよね。
わたしが来ると雨が降るというジンクスは、もしかしたらわたしの
自衛官の黒いレインコートを見たいという深層心理のなせるわざでは?
とこのとき一瞬考えてしまいました。


最初はわたしたちが時間になったら呉地方総監部に出向く、
ということになっていたのですが、少し前に電話で
ホテルまで自衛隊がお迎えの車を差し向ける、ということを
副官の一尉が連絡してこられたのです。

ホテルまで黒塗りの自衛隊の車が来てくれるなんてVIP待遇?
わーいわーい。 (とはしゃぐ小物)

まず、潜水艦基地にいって見学というスケジュール。
車で潜水艦桟橋門に向かう途中に、呉音楽隊が練習している
桜松館のある一角があります。
前回の呉地方総監表敬訪問のときにはここの見学をさせていただいたので、
桜松館をこの目で見ることができました。
桜松館は自衛隊から呉市に譲渡され、昔下士官クラブだったこの建物は
老朽化のため取り壊されるということが決まっています。

そして呉音楽隊はいま新築中のこちらの建物に移ることが決まっています。
車の窓ガラスの水滴にピントが合ってしまったので、
目を細めて写真をみてください(笑)

 


前日に副官からわたされた予定表には、
5分刻みできっちりと行程、そしてこちらの名前と肩書きまで書かれています。

呉地方総監への表敬訪問だけでしたらそんなに厳しくはないのですが、
何しろ今日は潜水艦の中を見学するというミッションがあるため、
予定表の名前のところにも「立ち入り申請済み」の記載あり。

ちなみにわたくしの肩書きは「地球防衛協会日本支部(仮名)顧問」 
となっております。

やはり自衛隊に潜入するには個人名だけではダメで、
なんらかのもっともらしい肩書きがないと向こうも正式に呼びにくいのです。
実質何もしていないわたしもそれなりの肩書きを持っているからこそ、
自衛隊側から初めてちゃんとした人間として扱ってもらえるというわけです。

さあ、それではこの有名無実な肩書きを引っさげて(笑)
呉地方総監部に乗り込んでいきます。

おっと、最初は潜水艦見学からね。

 

続く。 


京都夢芝居・蛍と鷺の宿

2016-06-06 | お出かけ

さて、前回、金毘羅宮から京都に向かう途上、瀬戸大橋を渡り、
その耐震構造についてふと疑問を呈したところ、さっそく詳しい方から
瀬戸大橋の耐震性についてコメントをいただきました。

瀬戸大橋の耐震性については、まず、過去に起こったM8.0の地震
(昭和21年の南海地震)を想定した耐震設計基準が構造に取り入れられており、
さらには兵庫県南部地震のような直下型地震や東北地方太平洋沖地震クラスの地震についても、
発生後すぐに検討に入り、損傷を想定して補修がなされているということです。

さすがに損傷が全くないということではないようですが、
少なくとも倒壊など重篤な損害によって通行が不可能になることだけはなく、
またわたしが不安を感じた「海に車が投げ出される」という可能性も、
ちゃんと車の重心などを考慮したシミュレーションによるとまず心配ないそうです。

今の日本で地震に対して安全なところなどないわけですが(岡山くらいかな)、
このように日本の企業がいざというときに際しての備えを
持てる技術の粋に留まらずたゆまぬ進化を怠らないということを知ると、
どんな災害に襲われて傷ついても日本は必ず立ち上がる、と頼もしく思いますし、
地震災害国である日本がここまで発展したのも、こういった技術に表される
生存のための知恵を昔から重ねてきた先人の努力の賜物であろうと誇らしくもあります。



さて、無理矢理話をつなげると、日本の誇り、といえば京都ですね。
少なくとも誇り高い京都の人たちはそう思っているに違いありません。
昨今では観光客が増えすぎて風情がなくなったと言われている京都ですが、
まだまだ京都の人はその誇り高さゆえに「京都らしい頑固さ」を守り抜いていて、
それがまた京都が愛される理由となっているように思えます。

前回は町屋の宿という、逆説のようですが「新しい京都」に宿泊したのですが、
今回は直球も直球、ど真ん中の老舗料理旅館に泊まりました。
今なお美しい水の流れを誇る白川沿いの宿です。

白川というのは比叡山に源があり、その流れはちょうど祇園で鴨川に合流します。
前回の京都でお話しした「高瀬川」ほどの水深はなく、せいぜい5〜10センチで、
「白川」の名前の由来は、流域一帯が花崗岩を含む礫質砂層で構成されており、
川が白砂(石英砂)に敷き詰められているように見えるからと言われています。

追悼式の後、5時間の高速運転の末に京都にたどり着いたとき、
わたしは疲労困憊して口を聞くのも億劫なくらいでしたが、
到着してからすぐにお風呂をいただいてさっぱりしたところで、
ここの自慢の京料理が部屋に運ばれてきました。



メニューはまだ若い女将さんが毛筆で手書きしたもので、
一品ずつ一枚の紙に書かれており、運んでくるたびにそれをめくっていきます。
京都といえば鱧、ということで最初に出てきた刺身と鱧の湯通し。



説明を聞いたけどなんだったか忘れました。
「冷たい味噌汁」のようなもので、真ん中の豆板のような寒天のようなのは
麩的なものであったという気がします。



賀茂茄子をくりぬいて入れ物にした茄子と牛ロースの「炊いたん」。
外国人客も多いので肉も普通に使います。
外側の茄子の皮は苦味があり美味しくなかったので残しました。
実は疲労のせいであまり食欲がなかったというのもあります。

こういうのがダメな外国人には専用メニューもあるそうですが、
この辺も京都が変えざるをえなかった部分かもしれません。



竹をくりぬいた入れ物の底1センチにジュンサイ的なものが入っていました。
おちょこ1杯で足りるものをわざわざ竹の筒二本に入れる。遊び心ってやつですか。



蛍が見られるのは夜9時ごろからということだったので、夕食後
浴衣に羽織姿のままで外に出てみました。



白川沿いの店は古い料亭あり、カウンター式に新しくしつらえた小料理屋あり、
カラオケ店まであるようで、外に音が聞こえてきていたのがご愛嬌でした。
これが昔なら三味の音であったりしたのでしょうか。



外国人が増えたというのは少し街を歩いただけで実感されます。
たとえばこの神社の裏手には、白人系の若いカップルがバックパックを背負ったまま
この時間だというのに地面に座り込んでいました。
まさかホテルを取らずに来たのでしょうか。



しばらく歩いて行くと橋の上から川面に鷺の姿を発見。
鷺だけでなくよく見ると川面を無数の蛍が飛び回っています。
残念ながら蛍の写真などどうやってとって良いか分からず、
この写真も真っ暗なところに当てずっぽうでカメラを向けてシャッターを押したら
なんとか写っていたといういい加減なものなですが、それでもよくみると
水面に幾つかの「蛍の光」が認められます。

「鷺って蛍食べちゃわないのかな」

「料亭の魚の切れ端もらって食べてるんだから虫なんか食べないだろ」

後から聞くと、鷺は魚の他には貝などを見つけて食べるそうです。




そのあと、すっかり最近京都の夜に詳しくなったTOが、この並びにある
一軒の町屋のようなところに入っていきます。



お座敷に通されて出てきたのは果物のジュースでした。
なんと京都のバーというのはこういう町屋だったりします。



芸者さんの名札が玄関先に並べてある置屋の玄関。



明けて翌日、早速部屋の窓から外を見てみます。



声明のような声が聞こえたのでみてみると、虚無僧のような姿の一団が
一人一人の間を空けながら歩いてゆっくり通り過ぎるところでした。
朝、こんな光景が見られるのは日本でも京都だけでしょう。



虚無僧の写真を撮っていてふと気づくと、部屋のすぐ下に
鷺が一羽、もの待ち顏で待機していました。
鷺には「おーちゃん」という名前があって、名前の由来は一本足で立っていることから
一本足打法の王選手の「おー」なんだそうです。

「鷺って何羽いるの」

「五羽くらいいるらしいよ」

「どれが”おーちゃん”とか、どうやってわかるんだろう」

「とりあえず全員”おーちゃん”って呼ばれてるらしい」

なぜ5羽いるということがわかったかというと、ある日ある時、
5羽の鷺が一堂に会しているところが目撃されたのだそうです。

女将さんによると、くちばしや脚の色が年齢によって違うので、
ある程度は見分けられるということでした。



魚の身の切れ端をやるようになってからおーちゃんたちは口が肥え、
他のものなど見向きもしない贅沢な鳥になってしまったそうです。
というわけで、彼らの仕事は朝に夕に、時間通りに餌をくれる旅館の前で
こうやって時間を潰すこととなって現在に至ります。



厚かましいおーちゃんになると、勝手口にヅカヅカと入ってきて
「魚おくれやすー!」と主張するツワモノもいるそうです。

また、川岸から川床、川床から人家の屋根と、縦横無尽に飛び回るのですが、
そのときなんとも言えない禍々しい鳴き声をあげるのでした。

「鷺いうのは姿は美しいですが声があまりよろしおまへんなあ」

とは女将さんのお言葉。



その女将さんのお給仕で朝ごはんを頂きました。
その時に出た話題ですが、京都の小麦消費量は全国一高く、
特にパン好きな市民なのだそうです。
京都の料亭などで出るこのような食事とはうらはらに、京都人は
どんな年配の人であっても朝ごはんはパンとコーヒーか紅茶。
早起きして近くの行きつけのパン屋にパンを買いに行くところなど
まるで姉妹都市であるパリっ子みたいです。

ここだけの話ですが、京都人とパリ人はプライドが高く「いけず」なところもそっくり。



おーちゃんのいた川がカウンター越しに見える部屋で、晩にはバーにもなります。
朝ごはんは前日に白飯かおかゆかが選べます。

 

ランチョンマットには女将さんが朝方したためた一筆が。
こういう気遣いが京都に泊まる楽しみでもあります。



部屋に帰って簾越しに外を見ていたら、結婚式のフォトセッションらしく、
着物姿の男女がポーズを取っていました。

「いつも通り気楽にお願いします」

という声に、すかさず女性がVサインしていました。
今の女の子というのはVサインしないと写真が撮れないのか(笑)



そうかと思ったらだらりの帯の舞妓さんコスプレも通ります。
なぜ本物でなくコスプレといいきるかというと、本物の舞妓さんが街を歩くのは
お座敷の仕事がかかった夜だけで、こんな朝から人前に出没しないものだからです。
また「一見さんお断り」のお店にいることが多いので、京都市内で普通に見かけるのは
観光客の扮した「なんちゃって舞妓」。

そもそも京都市民でも、本物の舞妓を見かけることはほとんどないといわれます。



チェックアウトは11時。
このあと夜の大阪空港発の飛行機に乗るまで、わたしと息子は
わたしの神戸の実家に車で、TOは京都で用事という段取りです。

八坂神社は遠目に見ても中国人とわかる団体で溢れかえっています。



北白川のドンクでお茶にしました。
女将さんいうところの「京都人はパン好き」を表すかのように、
日曜の朝のひと時をベーカリーフェで楽しむ人たちでいっぱい。

ドンクの駐車場の監視カメラにはツバメが巣を作っており、
巣の上からぽわぽわした頭が二つ三つ出たり入ったりしていました。
お客さんの頭に”落し物”をしないように、お店はおしゃれなカゴを設置(笑) 



TOを進々堂の近くで降ろし、高速に向かいます。
久しぶりに京大の前を通ってみたら、妙に綺麗な建物が〜!!!
なんでも近年、(というか前に来てからすぐ)食堂の補修と新棟の建設が完成したそうです。



さて、もういちど「おーちゃん」のことについて書いておきます。
チェックアウトのころ、なんとなく玄関先でおーちゃんを眺めていたら、
板さんが中から出てきて黙ったままぽいぽいと魚の切れ端を放り込み始めました。

板さんは客に愛想をしない決まりでもあるのか、「おはようございます」といっても
何の返事もなく、おーちゃんについての説明もなし。
さすがは京都の名門料亭の板前である、と妙なところで感心しつつも見ていたら、
通りがかりの中国人のおばちゃんにえさやりが見つかってしまいました。

またこの人たちの格好がすごいのよ。
赤、黄、青、緑、黒、ピンクが体のそこかしこに配された洋服を全員が
まったく同じような着こなし?で纏っていて目がチカチカするうえ、
実際にも口々に何かを口走り、うるさいのなんの。

わたしたちは鷺を見ると鷺の写真を撮るわけですが、この人たちはなぜか
鷺をバックに必ず自分たちが写っている写真を撮りたがります。

突進してくる電車の線路に足を乗せて自撮りしていて、

その電車にはねられた中国人の女の子がいたそうですが、
彼らの自撮り好きをみると、さもありなんと納得してしまいました。



おーちゃんに投げられた魚の切れ端を狙ってカラスもやってきて
横から魚身をかすめ取るのですが、おーちゃんはおっとりしているのか
魚身の多くが下流に流れて行ってしまいます。

案外白川の流れって早いんだなあ、とふと下流を見ると、なんとそこには
『おーちゃん2号」がいて、流れてきた魚身をおいしくいただいていました。



おーちゃん1号とともに写っているのは鴨の親子。
彼らもおーちゃんに投げられた魚を当てにしているようです。



みていると、誰が合図を出したのか全員で下流に流れていきました。

「おー流れてる流れてる」

「省エネモードで移動してるわけね」


蛍と鷺、ついでに鴨の川流れと京都の初夏を満喫する旅。
いつも京都に来ると、なにかとてもよくできた舞台装置のなかに紛れ込んだような、
唯一無二の「京都」(外国人からみると”日本”)という名の芝居に
エキストラ出演しているような、
非日常感を味わうことになります。

「なんちゃって舞妓体験」を試みたり、結婚式でまるでドレスのような色合いの
着物を着て紋付袴の彼氏とVサインで写真を撮る人たちも、
その登場人物となって芝居に積極的に加担しようとしているのに違いありません。