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ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「高松から京都まで車で1時間半」

2016-06-04 | お出かけ

高松は金刀比羅神社境内において行われた掃海殉職者追悼式も
無事に終了しました。
前日の予行演習のとき、わたしは自衛隊広報の方に説明を受けていたのですが、

「5月の最終土曜日にこうやって追悼が行われているということを
少しでも多くの人に知っていただきたいのですけどね」

とおっしゃったので、わたしも微力ながらここでお伝えできることもあろうかと
追悼式の様子もできるだけ写真に撮り掲載いたしました。
無論、黙祷や追悼の言葉、国旗掲揚や儀仗隊の弔銃発射の間は列席者に徹し、
写真も献花のときに撮るなど、近くに座っている人たちと同じようにしたつもりでしたが、
某雷蔵さんから「正式な追悼式列席者が写真を撮るのは如何なものか」とのご意見を賜り、
それもごもっともなご指摘であると思った次第です。

後から考えると式の間は海自のカメラマンやふりかけさんが写真を撮っておられましたし、
何人かの追っかけ?的な人も式の間ずっとあちらこちらで撮影をしていたわけですから、
何もわたしが無理をしておじさんたちの頭越しに写真を撮る必要もなかったのですが、
そこでつい立場を弁えずに頑張ってしまい、反省することしきりです。



さて、式終了後車を停めていた観光センターまで自衛隊のバスで送ってもらい、
そのあとはわたし、会長、ふりかけさん、自衛官の母4人でお昼を食べました。
昨日タクシーで連れて行ってもらった「神椿」ですが、ナビに入れると
このナビがとんでもない農道みたいな細道を走らせた上、遠回りをさせるので
2回も現地の人に道を聞く羽目になりました。

写真は神椿に行くためだけにある細い道で、車がすれ違えないので
5分くらいの信号で交互通行しています。

イノシシが出没いたします、ご注意くださいと書いてありますが、
イノシシが出たからといってどう注意せよというのか。



駐車場から神椿に行くのにはこの「えがおみらい橋」を渡っていきます。
どう考えても神椿のためだけにあとから山の山麓同士をつないだらしい橋。
よくまあ一軒のレストランのためにここまでするものだと思います。

入り口にも書いてありましたがここは車の通行は禁止されています。
空中にワイヤで吊ってある橋らしいので重量をかけられないのでしょう。



橋の途中から下を眺めると、道のない深い森の緑が鬱蒼としています。



新日鐵とサカコーという会社が施工を行ったというプレートあり。

「COR-TEN鉱床材」(コルテンこうしょうざい)

なる耐候性鉱床(鉱物の濃集隊)を「奉納」したとあります。
つまりここも金刀比羅神社の関係ということになりますね。
ちなみにコルテンというのは無塗装で使用しても天候によって錆びることがないので、
塗装がいらず補修費用の多大な節約になるというのが謳い文句です。



昨日海自の幹部がここで食事をしていましたが、それは追悼式の恒例だそうです。
ここでは資生堂オリジナルのレトルト食品など物販も行っており、
ふりかけさんは「ここでしか買えない」というオリジナル香水を購入しておられました。

「階段を上がって汗をかいたしお風呂に入れなかったので・・」

「・・・その香水の使い方は少し間違ってると思う・・」

香りをかがせてもらったところ、昔母親の使っていた化粧品のような
懐かしい雰囲気の匂いがしました。



金刀比羅神社との関係をなにやら放映していましたが、食事をしていて
ほとんど見ることはできませんでした。
ただ、この金刀比羅宮の権宮司、琴陵泰裕氏は先ほどの追悼式において
背広姿で追悼の辞を述べたばかりだったのですぐに気づきました。

大変お若い方です。
調べたところ権禰宜は日本水難共済会という会にも関係しておられるようで、
というのも金刀比羅宮は昔より海の神様とされているからでしょう。
それが広く認知されるようになったのは、塩飽の廻船が金毘羅大権現の旗を掲げて

諸国を巡ったことに由来するといわれています。

境内には古来から海自関係者の奉納物が多く見られ、これこそが
海上自衛隊総会殉職者の追悼式の場としてここが選ばれた理由だと思われます。

ちなみに、これはふりかけさんがお聞きになったそうですが、
この式典が「慰霊祭」ではなく「追悼式」であるというのも厳格には間違いで、
 「慰霊祭」は、慰霊式とは別に、非公開で前日に行われているのだそうです。

「慰霊祭」とは別に「追悼式」を行うようになった経緯には

「海上自衛隊が神式の慰霊祭を行うのは如何なものか」

との指摘があったから(どこから?)ということだそうです。



さて、ここは資生堂パーラーでありますので、壁には創業当時の
銀座の資生堂パーラーの写真がかけられています。
こちら、大正8(1919)年の外観。
この年、第1次世界大戦の終結に関するパリ会議が行われ、ローザ・ルクセンブルグが
虐殺され、日本では関東軍が設置され、やなせたかしが生まれています。

開業1902年と言いますから、日本海海戦のまえにはもうあったんですね。



昭和10(1935)年の内観。
1928年(昭和3年)には「資生堂アイスクリームパーラー」と改称し、
本格的な洋食レストランとなりました。
メニューには、カレーライスやオムライスなどがあり、モボ・モガや新橋芸者衆など、
当時のイケてる若者が集まる一方、いわゆる昔からの上流階級を顧客に持ち、
「成功率の高いお見合いの名所」でもあったそうです。



ビーフカツレツ(昔の人はビフカツといった)やチキンライス、
カレーライスなどいかにも洋食屋といったメニューの中から、
本日のランチを選択しました。



サラダ、肉、魚に小さなカレーライスという組み合わせ。


 
デザートは二種類から選べたので、クリームブリュレを選びました。

ブリュレが緑に見えるのは、確かオリーブオイルの関係だったと思います。 



わたしと自衛官母、自衛官母と会長、会長とふりかけさんは初対面でしたが、
追悼式に出席(自衛官母は”息子が参加したこともあるので是非一度見てみたかった”とのこと)
するという目的を同じくする者同士で話は弾み、あっという間に時間が過ぎました。

入るときに地面を濡らしていた小雨もすっかり止んでいます。



レストランの敷地内にあるお寺のような建物に皆が注目しました。
ふりかけさんがわざわざ前まで見にいったところ倉庫だったそうです。



「なぜこんな立派な、というかお寺の御堂のような倉庫が・・」

とそのときは訝しんだのですが、この写真を見て謎が解けました。
「神椿」は金刀比羅宮の本殿まで上がる坂道の途中に位置し、
山道を登っていく人からこの倉庫はよく見えるのです。
そこに倉庫然として無粋な建物を建てることを良しとせず、
わざわざこのような、しかも年代を経ているかのような建築にしたのでしょう。

もともと「神椿」を金毘羅宮の中に建てるということは、金毘羅宮の中の人が
資生堂に依頼する形で決まったということらしいので、ここまでの気配りも
当然かと思われます。



その後はわたしと会長、ふりかけさんと自衛官母の二台の車に分かれ、
わたしは会長を琴平駅で降ろしてそのまま瀬戸大橋を渡りました。

なぜか。

実はこの後わたしは1年前から予約を取っていた京都の宿に
夜までに行かねばならなかったのです。
白河沿いにある料理旅館で、一年前のホタルの季節に泊まったTOが
大変良かったので家族で泊まるためにその頃から予約をしていたのでした。

当初追悼式の出席はこのため諦めていたのですが、

「ホタルを見るのが目的だから追悼式が終わってから一人で来ればいい」

と言われて、あまり考えもせず車が便利だろうとレンタカーを借りました。
ふりかけさんが、

「京都までなら電車で瀬戸大橋を渡って新幹線で行ったら早くて楽じゃないですか」

というので、わたしは

「車で行くと案外早いらしいので。1時間半くらい?」

と軽く答えました。
この「1時間半」というのがいったいどこから出てきてそう思ったのか、
後からわたしは自分でも悩むはめになるのですが、この辺の地理に詳しい方なら
高松市から京都市まで車で1時間半で行けるわけがない、と驚かれるでしょう。

わたしがその1時間半が5時間の間違いであることに気がついたのは、
瀬戸大橋を渡りきってすぐにでてきた道路標識に

「神戸まで160キロ」

と書いてあったのを見たときでした。
家族にも料亭の女将さんにも笑われ呆れられたのですが、
どうやらわたしは四国と淡路島の距離感を取り違えていたようです。
(淡路島でも1時間半は無理だという説もありますが)

しかもたったひとりで5時間高速をレンタカーで運転する(おまけに車はインプレッサ)
という自分の運命に絶望した途端、運転する人ならお馴染み、
あの、高速走行中における「耐えられない眠気」が襲ってきました。

一瞬ふっと意識が飛んで恐ろしくなったわたしはつぎの休憩所に飛び込み、
駐車場で10分仮眠を取り、その後は不思議なくらい元気になって
無事日が暮れると同時に京都に到着したのです。



瀬戸大橋を車で渡ったのは初めてでした。
当たり前ですが延々と海の上を高速道路が連なっています。
日本の橋梁技術ってすごいなあと感動しつつも、一方で
橋のガードレールがあまりにも低いので、

「もし今地震が来たら、まず確実に車ごと海に落ちるであろう」

という不安が拭いきれず、一応海側ではなく内側の車線を走りました。
瀬戸大橋の地震対策ってどうなってるんでしょうね。 




 


栗林公園動物園のシロクマと再会する〜「ぶんご」艦上レセプション

2016-05-31 | お出かけ

次の日の掃海慰霊式の予行演習が終わったので、わたしたちは
階段をさらに降りて車を停めた「海の秘宝館」の駐車場に向かいました。



下から高校生の群れが押し寄せてくる予感。
そういえばわたし、中学の修学旅行でここに来てるんですよね。
バスケットボール部でしごかれていたせいか、本殿までの750段(だっけ)を
息も切らさず登りきった記憶があります。



商店街にはうどん県副知事の要潤等身大ポスターが。
この人のデビュー作、仮面ライダーアギトをDVDで見ていました。
確かこの劇中でも「香川に帰る」というシーンがあったような・・。



来てみて確かにここはうどん県だと思いますが、それだけじゃないそうです。



これらのポスターは惧れ多くも皇太子陛下の賜宿泊であった元旅館の門
(もう営業していないらしい)に貼ってありました。



ふりかけさんがここで「へそまんじゅう」なるお菓子を買い求めている間、
わたしは商品の中に「キョンシー変身セット」を発見。
今時キョンシーに変身したがる日本人の子供がどこにいるというのか。



お店の人がネコ好きだった場合、この辺に生息している野良ネコを
写真に撮ってポスターにしたりします。



見たら幸せになるという金目銀目の白猫さん。

 

そして車を停めた「海の秘宝館」駐車場に帰ってきました。
車を出そうとして、船のプロペラが屋外展示してあるのに気付き、
カメラを渡してふりかけさんに撮ってもらいました。 
寄贈したのはナカシマプロペラだそうです。



少し車を走らせると、なんと駐車場の隅でつがいの孔雀が飼われていました。

「この狭いカゴではろくに羽を広げることもできませんねー」

「もう求愛する必要ないからいいんじゃないですか? 」



伊勢もそうでしたが、こういう観光地でもある大きな神社の周りの地域には
独特の、「いつも人がいるのに寂れた感じ」があるのはなんでなんでしょうか。
昔ながらの建物を、結構いいかげんな改装でつぎはぎにしつつ使っている
風情のあるような無いような家並みがその感じに輪をかけています。 



アイデアは「かに道楽」だけど、経年劣化に耐えない仕様のため、
とっても怖いことになってしまった「たこ道楽」。
こんなものがあっては客寄せどころか逆効果だと思うのはわたしだけ?

ともあれ、それもこれも含めて日頃見られないものを発見する地方の旅は楽しいものです。

この後香川に向かう高速道路に乗ったら、掃海隊御一行様を乗せた
マイクロバス2台と女性自衛官二人の公用車とが一緒に走っていました。
わたしがバックミラーを見ながら、

「あ、後ろの車自衛隊だ!追い抜かせますから誰が乗ってるか見てください」

自衛隊の車というのは陸海(空は見たことない)問わず、法定速度を
わりときっちり守って運転するので、抜かせるのに苦労しましたが、
追い越し車線でスピードを落として抜いていく車を覗き込んでもらったら、

「・・・・全員寝てるし」(ふりかけさん)

わたしもちらっと確認したところ、ほとんどの頭ががっくりと陥没しています。

「まあ、朝早かったんでしょうから無理もないですよ」

「いや、あれは昨日の夜宴会をしていたからです」(きっぱり)




お昼ご飯が「神椿」のバケットつきスープだったので、うどん県に来たからには
一度くらい「その辺のうどん」を食べるべきである、と二議一決し、
栗林公園のあるあの妙に広い官公庁通りの商店街に入りました。

セルフサービス方式の店でカウンターに注文するのですが、お勘定でこれが
380円だと聞いて耳を疑い、お店の人に聞き返しました。

「・・1380円かと思った」

まあそれだと高すぎですけどね。



この通りを海に向かっていくと、高松城址があります。
ここは現在玉藻公園といって有料で公開されているそうですが、ふりかけさんによると、
お堀には潮水が入れられていて鯛が生息しているんだそうです。

「人から餌をもらって生きてるんだそうですよ」

「鯛がですか?鯛ともあろうものがというか鯛の風上にも置けないというか」

これぞまさに「家畜の安寧」というやつですな。
そうそう、家畜の安寧で思い出したのですが、昔栗林公園には動物園がありまして、
昔友達と学生のノリで無計画にここにやって来たとき見たことがあります。

無計画なので友達の誰もがお金を持っておらず、何も食べられないので、
わたしが母に電話して
ATMにお金を振り込んでもらい、銀行で引き出しました。
ATMの営業が土曜日の12時にばしっと終了してしまうという時代で、
振り込まれたお金を引き出した時、12時1分前というスリリングな展開でした。

そのときに栗林公園の動物園を見ました。
今調べたところ、昭和5年にオープンして、2002年に閉園していました。
閉園前の動物園はそのとき閑散として人影もまばら。

栗林動物園

写真を見てもおわかりのように、へたすると動物虐待ではないのか?というくらい
その環境は劣悪に見え、中でも狭い檻を激しく苛立ちがならうろうろしていた
シロクマは、檻の前に人が立つと、水の中に飛び込んで水をかけるのです。

「あれわざとやってない?」 

一人が言い出し、皆で人が通るのを待って観察していたところ、
シロクマは向かいの檻に人が背中を向けて立ったところを狙って、 
それをわざとやって楽しんでいることが判明しました。

「かわいそうに。こんな暗くて狭いところにいたらストレスたまるよね」

と言い合ったことを思い出し、ふりかけさんに話していたのです。
その後うどんを食べるために駐車場に車を停め歩いていくと、
通り沿いのお店のウィンドーに
シロクマの剥製があるのに気付きました。

「シロクマだ」

「なぜこんなところにシロクマの剥製が・・・・・はっ!」

「もしかしたら栗林公園のあいつ?」

高松市のお店がシロクマの剥製をわざわざどこかで買い求めるとは思えないので、
この剥製があの水かけシロクマである可能性は高い、とこれも二議一決。 

「だとしたら、劣悪な環境で一生を終え、死してなおさらしものに・・」

「うっ・・・(´;ω;`)」

数少ない高松市の思い出と、わたしはこんな形で再会を果たすことになった
・・・・のかもしれません。(違ってたらごめん)

ちなみに、上に貼ったページでシロクマの生息を確認したところ、
閉園の時点でもうすでにお亡くなりになっていたことが判明しました。
このときすでに彼は商店街のウィンドーにいた可能性高し。



今夜のお宿は城址の向かいにあるJR系のホテルクレメント。
飛行機代と宿泊がセットになっているプランで取ったのですが、
チェックインするとフロントの方が

「いいお部屋をご用意させていただきました」



たしかにいいお部屋だ〜!


なんと、これから艦上パーティの行われる「ぶんご」が停泊している
港を一望できる角部屋でした。
せっかくいい部屋なのにほとんど寝て荷物を置くだけだったのが残念です。
出入りする船を見ながらこの窓際でゆっくりしたかったなあ・・。



瀬戸大橋で繋がって電車も通るようになり、すっかり四国は
本州への通勤圏となったわけですが、やはりフェリーに乗る人もあります。

さて、チェックインして1時間でシャワーを浴びたり着替えたり、
カメラの電池を充電したりして過ごし、駐車場で待ち合わせて
わたしたちは「ぶんご」に艦上レセプションに出席するために向かいました。



指定された駐車スペースに行こうとすると、自衛官が制止します。
なんだなんだ、と見ていると、横から黒塗りの車が追い越し、
呉地方総監が乗艦するところでした。

わたしたちは盛り上がり車の中からこうやって写真を撮っていたのですが、
制止している自衛官がそれはそれは申し訳なさそうでした。

まあ、自衛隊にすればレセプション出席者は「お客様」。
そのお客様を自分のところのボスの通行のために制止したら、中には
「俺を誰だと思ってるんだ!」とキレる危ない人だっているかもしれませんしね。




サイドパイプの「ほひーほー」が鳴り響く中階段を上る呉地方総監。
前総監には表敬訪問でご挨拶しましたが、こちらの方にお目にかかるのは初めてです。



今感じた疑問。

ラッタルに上がったとき、自衛官が艦尾に向かって敬礼するのは
自衛艦旗に敬意を表しているということですが、それでは夜になって
自衛艦旗が降納されてから偉い人が船に乗る時、この敬礼は行われるのでしょうか。 

わたしたちもこの後お迎えの敬礼のなか乗艦したわけですが、
わたしは今回初めてこの位置から、軽くではありますが艦尾の旗に向かって
頭を下げるという偉業(わたしのなかで)を成し遂げました。

今までやろうやろうと思っていたけど、大抵乗員たちが注目しているので
恥ずかしくてできなかったのです。

場慣れの賜物というやつですか。


続く。


 


「外人石工」の彫った狛犬〜横須賀歴史ウォーク

2016-05-08 | お出かけ

以前、コメント欄でさんぽさんに「蜜柑の碑」を教えていただいたとき、
よこすかシティガイドのHPを貼っていただきました。
ふと興味を惹かれるツァーを見つけ、参加したのでそのご報告です。

NPO法人よこすかシティガイド協会は、平成14年発足したボランティアガイドの
団体で、去年法人化してNPOとなったばかりです。

横須賀の観光案内を企画して行っており、シーズンには週1〜2回の割で
ツァーが行われているようです。
こういうツァーに参加するのも米軍基地内ツァーだけだったので、
その雰囲気も含めてどんなものか大変興味がありました。



集合場所は横須賀中央駅前コンコース。
この日は初夏といってもいい晴天でした。
ツァーは基本雨天の時には中止になるようです。



防衛団体のロナルドレーガン見学、そして術科学校見学と
最近横須賀づいていますが、前回から横須賀周辺にはこのような
ジャズを演奏しているおじさんの像がそここにあるのに気付きました。
なぜ上半身裸でサックス吹いているのか教えてくれるかね?



集合時間の30分前から皆集まっていたようです。
来た順に3つのグループになって時差をつけて出発。
わたしはもちろん一番最後の組になりました。

ところで、平日の昼間、朝9時半から2時までのツァーに参加できる
となると、いきおい参加する年齢層は決まってくるわけで、
16歳の息子がいるわたしが文句なく一番若くて、
ツァーガイドのおじさんがわたしを「こちらのおじょうさん」と
呼んだくらい全員が高齢層、おそらく平均年齢65くらいと思われました。
(ちなみにこのおじさんはみのもんたではない)



で、駅から商店街を15〜6人がぞろぞろ移動するわけ。
狭い商店街のアーケードなので、当然普通に歩いている人が
この団体に迷惑しているようすがわたしなど気になって仕方ないのですが、
なんかみんな片側に寄らないんだな。 



なんか見たことあるなあと思ったら、つい先日横須賀鎮守府庁舎の公開で
帰り歩いて帰った商店街でした。

商店街の中にも昔ながらの建物がそのまま残されていることがあり、
これなど外壁に青銅を使っている古い建物です。
昔は旅館だったとガイドの方が言っていました。



このツァーの最初の案内地が「平塚貝塚」。
貝塚とともに全身を伸ばした「伸展葬」で発見された
男性の人骨などが発見されたそうですが、
今そこ近辺は開発されてすっかり住宅地になっています。

つまりその住宅地を見たわけです(笑)

そこを臨むアーケード沿いに、この民家があって、
確かガイドは「発見者の自宅」と言っていたような気がするのですが、
発見者って、当時小学校5年の子供だったっていうし・・。

あ、その子供がここに住んでたってことかな?



このツァーの面白いところは、見学するところが「歴史的名所」に
限らず、一般住宅の建築様式も含むことです。
これも商店街のなかのカメラ屋さんなのですが、この装飾タイルの床が
古いものなのだとか。



同じカメラ屋さんのステンドグラスは、先日旧長官庁舎で見た
同じ作家の手によるものにも見えます。
これも古いものだそうですから、可能性はありますね。



次に訪れたのは小さな鳥居のある中里神社。
天照大神と宇賀御霊尊がご祭神で、1817年に創建されました。



明治41年(1909)に再建されたという本殿。



お鈴を取り替えたのか、古いのがただポツンと置かれていました。



拝殿の軒下に、すっかり風雨にさらされて文字の消えた額がありましたが、
これは大正11年にかけられたもので、当時の歌人、松竹庵梅月の弟子が
当地をテーマに詠んだ詠の俳額なんだそうです。

わたしが解説でピンと引っかかったのは、この梅月という歌人が

海軍工廠に勤めていた

という一言。

「海軍工廠で何の仕事をやってたんですか」

とガイドの人に聞いたのですが、

「・・・あまり詳しく聞かないように」

とのことでした。orz
そこで独自に調べた結果(ツァーの間もiPadでも調べられる)


●梅月の句作は数万、門弟は、全国に七千人近くいた
●明治7年(1864)、本県中郡に生まれ、本名は石井広吉
●21歳で立机(りゅうき=宗匠つまり師匠)となる
●日清戦争直後、横須賀に来た梅月は、田浦町三丁目の静円寺近くに住み、
海軍工廠へ務める傍ら、門下の指導に専念
●工廠で働きながら、門弟の指導や全国的な仲間づくりに励むー方、
隣近所の子供たちの育成に尽した

ということまではわかりましたが、肝心の『工廠で何をしていたか」

はどこにも出てこず全くわかりませんでした。
技術者や工員ではなく、事務職だったのではないかと思われます。

ちなみに梅月の出版していた俳誌は

「軍港の友」

その最後は、昭和14年(1939)、日中戦争で北中支に転戦する
将兵の慰問を行うため中国に渡りましたが、彼地でマラリヤを病み、
それが元で3年後、68歳で亡くなったというものです。

この慰問というのも何をもって将兵の慰めとしていたのかわかりません。
このころは俳句も歌舞謡曲のような「慰問」のカテゴリだったのでしょうか。

いずれにせよ、かつて海軍工廠に勤めていたことと、この戦地慰問には
それを志願するにあたって何らかの因果関係があったと思われます。

梅月が中支に渡る前の壮行会で撮られたらしい写真が
このページの真ん中ほどにあります。

ふるさと横須賀 松竹庵梅月

このような老人を慰問のためとはいえ戦地に送るというのは
無謀というか無茶にしか見えませんが、
ご本人の固い意志からだったのだろうなと思わされます。



横須賀の街には京都とは全く違う、このような廃屋が結構たくさんあります。
ガラスの感じから見て昭和2〜30年の間の築でしょうか。
同行の参加者が、右端の出っ張りを指して

「こういう家は廊下の端に必ずトイレがあったんだよな」

などと懐かしがっていました。



次の見学地は「横須賀上町教会」。
現在は幼稚園として使われているので中を見ることはできませんが、
昭和6年に建てられたこの教会本堂は国の登録有形文化財になっています。

昭和6年というとまだ100年も経っていません。
ヨーロッパはもちろん、アメリカでもボストンなどでは
200年前に建った教会が街ごとにあって、特に文化保護もされていないわけですが、
日本という国は、その歴史の長さの割に、特に建築が残されない国だと思います。

もちろん地震や戦争で多くが喪失したという面はありますが、
それ以上に
「土地がない」「財政がそれを支えられない」というだけの理由で
この世から永遠に消えてしまった歴史的な建築物がどれほどあることか・・。

建築ではありませんが、冒頭の「平坂貝塚」にしても、現在は
民家の敷地内にあるらしく、すでに一般人が見ることはできなくなっています。



この教会は家具や照明器具にいたるまでが当時のもので、
オルガンもそのまま置かれているのだそうです。



教会の建っている造成地の壁も昔のまま。
当時は砂利をそのまま入れて使ったんですね。



そのまま上町商店街の裏道を歩いていきます。
こういう昔からの家にも普通に人が住んでいます。



ここも思いっきり築年数の経った家ですが、現在ITサポートセンター。

建物の横にカギ型の釘が幾つも突き出していますが、
これはガイドさんによると「火伏せ」といって「火除け」だそうです。

「具体的にどう役に立つのか知ってます?」

と逆にガイドさんに皆が聞かれてしまったのですが、検索しても
「火伏せ」とは火除けのまじないという意味しかでてきません。



こちらの青銅の外壁を持つ家の側壁にもたくさんのカギが。

わたしの想像ですが、建物が密集しあった当時の街では、
一旦火事になったら建物を倒してでも延焼を防ぐしかなく、
そのため外壁にカギをつけておいていざとなったら倒壊させたのかな、と・・。

どなたかこのカギについてご存知の方がいたら教えてください。

 

次の予定地は「深田台神明社」ですが、
山門?に建てられている石柱にはなんか別の文字が・・・。


で、この石柱を寄贈した人の名前が「小泉又市」とあるので、
皆が「小泉さんの親戚だ!」と断定的に言い切っていたわけです。
確かに小泉元首相のおじいさんは「小泉又次郎」という政治家で
飛び職人から横須賀市長、逓信大臣にまでなった「豪傑」でした。



一番左小泉純一郎、その右又次郎。
一番右の男前は婿の小泉純也
小泉家のイケメン血筋はこの純一郎のパパによってもたらされた模様。

で、調べてみたんですが、小泉又市という人、小泉家の家系に出てきません。
又次郎さんの名前からみて、こちらがお兄さんだったのかなという気もしますが・・。



さて、この神社、横須賀独特の住宅街の中の細い道の石段を
登って行ったところにあり、その手前に

「納 御神燈」

とありますが、肝心の御神燈はどこにあるかわかりませんでした。
この神社は1871年、もとあった米が浜に陸軍の砲台が作られることになったので、
ここに移転してきたのだそうです。



で、この鳥居の手前、片側にだけ鎮座する狛犬さん。
気のせいかそのシェイプもユニークですが、それもそのはず、
この狛犬、台座には英文で作者名が刻まれているのです。



ガイドの方にライトで照らしてもらったのを撮りました。
現地では暗くて全く読めなかったのですが、こうしてみると

Carved by B. Chifiyei (ーB.以下まったくの推測ーによる彫刻)


と読めないこともありません。
当時石を彫るのは大変だったらしく、最初の彫り始めと最後では
まったく気合の入り方が違うのが哀しいですが(笑)
とにかく、これを彫刻したのはこの外人さんだったということらしいです。

彫ったは彫ったけど、芸術家ではなく単なる「石工」だったらしく、
とにかく今では作者についてわかる何の資料も残されていません。

言われてみると、狛犬の風情が「バタ臭い」という気がしないでもありません。 
横須賀の有力者がちょっと変わった狛犬を置いてみようと 依頼したのでしょうか。 



そして、この台座には又次郎の名前がちゃんと刻まれています。

でもおかしなことに気づきました。
神社移転の1871年というと、又次郎さんはまだ6歳のはずなんですよね。

狛犬の設置は少なくとも小泉又次郎が横須賀市長になった
1907年前後でないとおかしなことになってしまいます。

というわけで、これもわたしの想像ですが、この狛犬は当時
明治政府が採用していた「お雇い外人」の関係者が、何らかの縁で
移転に際して作ったもので、ずっとここにぞんざいに置かれていて、
30年経ってから、横須賀地元の有力者が何かの記念にあたり
あらたに台座を作って現在に至る、という経緯だったのではないでしょうか。


続く。


 


たたらの里を訪ねて〜島根県出雲

2016-05-01 | お出かけ

さて、「たたらと刀剣館」の展示、続きです。
 



はめ込み式のテレビのようなガラスをのぞくと、ジオラマがあり、
最新式のバーチャル映像によってたたらを解説する仕組みでした。

ボタンを押して説明をスタートすると、音声とともにたたらに火がついたり、



人が現れたりして、たたら製鉄の実際を解説してくれます。
実際に見るともっとリアルです。




鍛治場を再現した精巧なジオラマもありました。



顔に前垂れのついた頭巾をかぶって鉄を持つ人、
そしてそれを数人の男たちが叩いて延べていきます。
ふいご番の前垂れは顔が焼けてしまうのを防ぐためです。



ここには再現された実物大の「たたら炉」の断面模型があります。
何層にもわたって積み重ねられた土やスミ、石には
長年の経験から得られた知恵が凝縮された全く無駄のない造りです。
すべて、保温・保湿のために工夫された複雑な構造です。



ここから「鞴(ふいご)」で風を送り込み、安定した火力を確保します。



ふと向こうを見たら息子が独自に「ふいご」を踏んでいました(笑)



この真ん中に立って片足ずつ踏みしめることで風が送られるのですが、
問題はそれをどれくらい続けなくてはいけないかです。
だいたいひとりが一時間、三日三晩交代でこの「番子」を踏みました。
これを交代しながら行うことが「かわりばんこ」の語源となっています。

一つ二つは赤児も踏むが 三つ四つは鬼も泣く」

はまさにこの労働の厳しさを歌ったものだったのです。



こちら「踏み鞴(ふいご)」。
写真のように二人が両端を踏んでシーソーのようにし、風を作ります。
これを踏む人を「地団駄」といい、これが「地団駄を踏む」の語源ですが、
地団駄は「踏む人」であり踏むものは「踏みふいご」なのに、なんか変ですね? 



これは天秤ふいご。
レバーを引っ張ると、右下から空気が出ます。
不思議なのですが、押しても引いても同じところから空気が出ます。



さて、隣の鉄打ち場では実演が始まりました。
刀鍛冶が玉鋼に火を入れ、刀にしていく過程を見せてくれます。
火に入れる前に玉鋼を藁と布で包み、泥をまぶしていました。

これは酸化を防ぐためなのだそうです。
この火床を「ほど」と読みます。



火から出した鉄には藁を混ぜます。
これも酸化を防ぐための工夫でしょう。



そしてあとは「鉄は熱いうちに打て」そのままです。
これを鍛錬といいますが、叩くことで不純物や空気が飛び、
硬度の高い鋼を伸ばし練り上げることができるのです。



ここでは観光客に説明するためにやっているので、
本来何日もかけてする作業はすぐに終了して、

「そうやってできたのがこの刀です」

まるで3分間クッキングのようです。
もちろんこのあと刃を研いでいく重要な過程があるわけですが。

鍛治師にも「国家資格」があって、文化庁の試験を受けるのだそうですが、
毎年12人くらい受けてそのうち合格は一人だそうです。



1年前のお正月、備前の刀打ち始めをし、ここでお話ししましたが、
ここでも見学者に鉄を打たせてくれるということで何人かが挑戦しました。

「スーツとかネクタイとか、火花が飛んだら穴が空くかもしれませんがいいですか」

散々脅かされてから打つのはのは我々の同行者。



もう一人、ということでこの女性も我々一行の一員。
わたしたちはやったことがあるので遠慮しましたが、二人とも
あまりに重いので驚いていました。

この刀鍛冶さんはとても面白い方で、

「夏場来て頂いたら、暑さでやせ細ったわたしを見ていただけます」

と言って場を笑わせていました。



次の異動までの間にお土産店に連れて行かれました。
主催者の気配りが身にしみます。

いきなりシュールな絵柄になっている「どじょうすくいまんじゅう」の
広告にウケましたが、これは買ってません。

そういえばここは「安来節」のふるさとなんですね。

 

山陰銘菓 - どじょう掬いまんじゅう - CM



次に連れて行かれたのは「鉄の歴史博物館」。
昔からおそらく変わっていない街並みにわたし歓喜。



博物館、といいながら、ここは地元のお医者さんの家だったそうです。
中は一切写真禁止でしたが、たたらの道具や過去帳、帳簿などがありました。

ここで昭和47年に再現された「たたら製鉄」のNHK製作ドキュメンタリーを
鑑賞したのですが、音楽が、もしかしたら武満徹?という感じのおどろおどろしさで、
(ひゅ〜♪ カーン♪ ど〜〜〜ん、って感じ)見ていた一人が

「いまから殺人事件でも起こるんですかね」

と呟いておられました。
この時に出演して実際にたたら製鉄を再現した「最後の村下(むらげ)」たちは
現在全員この世にはいません。

このビデオで知ったのですが、たたら師たちは、製鉄が始まったら4日3晩、

仮眠だけで作業を続けなくてはなりません。

さらには火を両眼で見ると目をやられるので、まず片目で作業し、
その片目が疲れると目を交代して行うのですが、それも限度があり、
引退の頃には視力がほとんど失われる宿命を免れることはできなかったということです。

そしてこれらの作業は女性を一切排して行われました。
女性は神事にもつながる作業に「穢れ」を持ち込む、という意味もありますが、

女性の神様がやきもちを焼くからという説もあります。
「もののけ姫」で女たちがたたらを踏んでいましたが、現実にはありえないことだそうです。



この博物館になった家の母屋は藁葺きでした。
鳥が屋根の隙間から入っていくのを見ましたが、いい巣になっているようです。
なんといっても藁は取り放題ですしね。




博物館前の街並み。いい感じです。
自民のポスターがありますが、このあたりはかつて竹下登の選挙区だったみたいですね。

今念のために家系図を見たら、縁戚に米内光政の娘、そして三島由紀夫がいます。
ミュージシャンのDAIGO、漫画家の影木栄喜は孫、口癖は出雲弁の「だわな」。

自身が東大出で留学経験もある宮澤喜一
「あなたの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」
と言い放った時、「あれは許せないよ」と怒っていたそうですが、
その話を聞いた佐々淳行が、

「でも早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」

と尋ねたところ、竹下は

「それがね、無試験だったんだよ」

と答えたという話があります。
ボケてどうする(笑)





ひっそりと営業していた和菓子屋さんが気になって入ってみました。
招き猫に福助、不二家のペコちゃんはアンティークで高値がつきそう。



鑪カステラというのを購入してみました。
季節がら、桜の味を販売していました。



そして店の片隅にはそのとき咲き初めた桜の枝が一抱え、
無造作な様子で手桶に活けてありました。


わたしたちはこのあと、実際にかつての姿のまま保存されている
「たたらの里」のかつてのたたら炉を見ることになりました。

続く。 

 


島根の旅〜原子力発電所を見学

2016-04-29 | お出かけ

わけあってかなり前のことになりますが、週末、またしても旅をしてきました。
朝から晩まで一泊二日次々とスケジュールをこなす旅行で、
こういうのは「温泉にのんびりしに行く」 のとはまた違う楽しみがありますが、
とにかくこの時は疲れました・・・。

淡々と写真を貼りつつお話しさせていただきます。



行き先は島根。
空から見た島根県は本当に山の多い地方で、しかもその山の中に集落がポツポツとあります。
この理由も今回の見学で明らかになりました。
「縁結び空港」とあだ名された島根空港に降り立ち、迎えのマイクロバスに乗り込みます。



今回の見学先は、島根原発。

原子力発電所はどこも広報館を持っており、一般の人々に

原発とはなにかを周知させるための広報活動をしていますが、
今回の見学は関係各位のご尽力により、一般見学の見られない
ディープなところまで見せていただけることになっていました。


現在島根原発には3つの炉があり、1号機は運転終了、2号機は停止中。
我々が見学できるのは稼働予定を控えて炉心を入れる前の3号機です。

しかし当然ながら内部は一切写真撮影禁止。
見学に際して、前もって名前を通知し、現地ではパスポートナンバーと顔写真まで
きっちりと確認するという、アメリカ入国並みの厳しいチェックを受けました。



まず最初に広報館の応接室に通され、レクチャーを受けます。
ここで、原子力発電の仕組みを全く知らずにきた人も、たちまち

「僕は原子力に詳しいんだ」

と豪語できるレベルにはなれます。(たぶん)
わたしも、原子力で発電するということは、さっくりというと

「ウランが核分裂する熱エネルギーで水を沸騰させ、その蒸気でタービンを回す」

そして発電する、というシンプルなものであることを再確認しました。
タービンの冷却水と蒸気のために海水を取り込むので、原発施設が海辺にあるということも。

こうして限定的とはいえ一般人に内部を見学させるというのは
とりもなおさず、原発施設が現在進行形で安全、ことに災害のときの安全を
いかに担保するかについての取り組みを行っているかということを
世間に知らしめるためであろうと思われます。

われわれが強調されたのもそのことでした。

たとえば万が一地震が起きた時に原子炉を緊急停止させるための制御棒、

放射性物質を何重にも閉じ込めた容器をさらに頑強な建物で覆い、
海岸線には東北震災以降、15mを想定した防波堤が作られているなどです。

加えて発電所の放射線を測定監視し、データをモニタリングし、
情報を市民にあまねく公開周知させることを徹底しています。

原発が稼働していない現在、当発電所では安全対策のための工事
(竜巻が来た時に車を収納するための立体駐車場とか)や、
徹底的な模擬訓練(シチュエーションは前もって公開されない)
が実施されているということです。



福島第一原子力発電所事故では、地震が起こった段階で
制御棒は抑制し、原子炉を停止させることには成功しています。
しかし、想定外の津波に襲われ、冷やす機能そのものが喪失してしまったわけです。
そして、段階的に放射性物質を閉じ込める機能も失ってしまったので、
それらが爆発によって放出されてしまったという経緯があります。

ちなみに、東北から関東の太平洋側には5箇所、計15基の原発があります。

地震発生と同時にその全部の原子炉は自動停止し、冷却水、電源の確保、
放射性物質を閉じ込める機能も健全でした。

今回の熊本の地震でもぐらっとくるなり原発を止めろと野党議員の一部が
川内原発に電話をしてきたそうですが、川内原発は地震による影響は全くないとして

これらの勧告には対応しない構えです。

無事だったと発表されており、モニタリングポストも確認できるのにもかかわらず

「政府と電力会社の発表は信用できないからガイガーカウンターを持っている人は測れ!」

といたずらに不安を煽るツィートをした議員もいましたね。

「99%無事でも最後の1%で事故ったらおしまいだからゼロにすべき」

というのが反原発の理屈で、東北の件で「目に見えない恐怖」に脅かされた
経験者としてはそれもまあわからないでもありません。


ただ、”福島”以降、それを教訓として積み重ねられてきた各原子力発電所の取り組みを
全く無視してただただゼロにしろ、というのは、「子供の理屈」という気がします。

一旦稼働を始めた原子炉というのは、これも廃止派が常にいうことですが
廃炉、解体はできないものなのだそうですね。
全国にすでにある原発を廃炉解体できないまま、しかも停止状態であっても
ランニングコストをかけ続けるというのは、素人考えにも超無駄としか思えません。

だったらこのまま安全対策を多重に積み重ねていって災害やテロに備えつつ、
原発と付き合い続けていくしか方法はないんじゃないでしょうか。

わたしはこの見学でまるで子供レベルの感想ですが、安心しました。
日本人、日本の技術者は当たり前ですが決して馬鹿ではありません。
震災後、その安全対策は福島を教訓として、それどころか
あれ以上の規模の災害を想定し、
安全を確保する手段が講じられ、実現化されているのが確認できたからです。

例えば津波対策一つとっても、


まず東北以降設置された海抜15mの防波壁で止める。

もし防波壁を越えても、水密扉を閉めて建物に水を入れない。

建物内に侵入しても水密扉を閉めて遮断する。

という三段階の防護策が取れます。
しかしそれにもかかわらず冷却設備が壊れてしまったらどうするか?
福島では設備も電源も失われたので冷却ができなくなりましたが、
それを教訓に、今ではその時には代替冷却手段が使えるようにしています。

ガスタービン発電機、高圧、直流給電ができる車の常駐、
貯蔵タンクの設置、海水をくみ上げる各種ポンプなどの設置です。

「僕は原子力に詳しいんだ」の人がベントを遅らせて爆発した、
というのは今では語り草になっていますが、あのときはベントを行うことによって
爆発は防げても放射性物質の拡散は抑えることはできませんでした。
(結果として爆発したのでさらに悪い結果になったわけですが)
いまではフィルターがベントに付けられているため、将来ベントを行うことになっても
少なくとも放射性物質の拡散は最低限に抑えることができます。


福島では冷却水が途絶えたため、今にして考えれば

いたずらに自衛隊員の命を危険にさらすだけで”やってますパフォーマンス”以外の
何ものでもないヘリによる放水をしたり、放水車の提供を申し出た企業が
民主党の岡田の選挙区での自民支持知事候補の後援企業だったことから
政府が返答を3日間引き伸ばし、その間に横浜港に停泊していたドイツ企業の
放水車を「徴用」して行ったりと、政府民主党のこの期に及んで政局しかない
無能さがこの放水という一事を通してだけでも露わになりましたね。

これを受けてこの島根原発では原子炉や燃料プールを確実に冷却できるよう、
手段を多重化し、なおかつ電源が失われた場合にも水素爆発防止対策として
電源のいらない静的触媒式の水素処理装置を建屋内に設置すること、
そして外部には放水砲を固定設置し、放水車を多数常駐させています。

建屋周辺には、これでもかと赤い車が周りを取り囲むように駐車していました。
まるでこの世には赤い車しかないような眺めでした(笑)



「一般の人が見られないコアなところ」の見学については

安全対策にも関わる部分があるかもしれないのであまり細かく話せませんが、
印象に残ったことが2つあるので書きます。

まず、炉心棒というのは炉横の燃料プールに貯蔵してあって、
それを炉に移すときには上にわたしたレールを移動させる方式の機械で
真上に移動し、さらにガチャっとつかんで移動させること。

「それは・・・まるでUFOキャッチャーじゃないですか!」

と皆が驚きました。
もちろん運転は目視とか職人技に頼るということではなく(当然だ)
全自動コンピュータ制御で行うので「あ、落としちゃった」はありえません。


もうひとつは、炉をガラス越しに見学できるところに入るには、
まるで金庫の様な二重ドアを越えていかなくてはいけなかったのですが、
これはまずゆっくりと一つが開き、進むとそれが閉じ、
一旦完璧に狭い空間(広いエレベータくらい)に閉じ込められてから
炉につながるドアがゆっくりと開くわけです。

で、このときに鳴る音楽が「明日があるさ」なんですわ。
皆ドアが開閉している間神妙にその音楽を聴いていましたが、全員の表情に

「なぜこの曲・・・」

という疑問マークが浮かんでいました(笑)
この日の見学でいろいろな質問をぶつけていく中でわかってきたのですが、
原発関係者としては


「数年以内にはなんとか稼働できれば」

が悲願であるようです。
そこでふと、だからこそ「明日があるさ」の選曲なのか、などと考えた次第です。





さて、いろんなことを考えさせられた原発のコア見学でしたが、見学が終わり

レクチャーを受けた部屋に戻って、その部屋の前になぜか移されてきた
1号機運転開始20周年記念と25周年記念兼2号機運転10周年記念の植樹を
感慨深く眺めているとき、ふとここには売店とレストランもあると
説明の方がおっしゃっていたのを思い出し聞いてみました。

4時半まで、というので時計を見たらあと10分。
急いでみんなで駆けつけてみれば、なかなかいろんなお土産ものが充実しており、
わたしはりんごバターと豆腐にかけるだし入り醤油、ミルクジャムなどをお買い上げ。

ちなみに、説明の袋にはお土産として藻塩のパックが添えられており、
うちは家族三人分藻塩をゲットしてしまいました。
もう一生藻塩は買わなくて済みそうです。



案内の方(偉い人らしい)が


「わたしが作ってるわけではありませんが、大変好評なので是非」

とお勧め下さったみそソフトクリーム。略してみそクリ。(略すなw)
こういうことは率先するTOが早速一つ買い求めると、同行者は我も我もと。
わたしは息子と一つシェアしました。

みその存在感はあまりなく、どちらかというとキャラメルみたいな味がしました。
どこに味噌が練りこまれていたかは謎です。



さて、これでいつ見学をしたかばれてしまったわけですが(笑)

売店にはレストランも併設されており、美味しそうなメニューがありましたし、
とても香ばしいお茶なども無料でサービスされております。

大変景色のいいところですし、家族サービスついでにでいいから、
原子力の現場が
いまの日本でどのような取り組みをしているか、
原発行政の実際を見てこられることをおすすめします。




舞妓さんの花簪〜京都・旅淡シリーズ

2016-04-24 | お出かけ

京都にはなんども来ていますが、高瀬川沿いに歩いてみたのは初めてです。




「サクラの仲間」・・・・・・

ソメイヨシノでないことはわかった。しかしあとはわからない。
というわけで「サクラの仲間」。
別にこれならわざわざ札をつけることもないと思うがどうか。




「サクラの仲間」が満開です。



河原にいきなりあった「友愛」の石碑。
民主党と鳩山のせいで、胡散臭さしか感じねー。(笑)



さきほどの「サクラの仲間」とはまた違う「サクラの仲間」。
(もう、すべての種類を『サクラの仲間』で乗り切る気満々)



元和キリシタン殉教の地、と書かれています。
日本のキリシタン弾圧事件として大きなものは三つあり、「元和キリシタン」事件は
幼い子供を交えた50名が火あぶりにされるという大規模なものでした。



江戸幕府のキリシタン弾圧は慶長17(1612)年に始まりました。
翌年には京都にも波及し、二回目の弾圧は元和年間に激しくなりました。
「元和キリシタン」の名前の由来です。

豊臣秀忠はキリシタン投獄者に対し老若男女の区別なく火あぶりの刑を命じ、
元和9年(1623年)10月31日、52人が大八車に積み込まれてここに運ばれ、
この写真の正面橋から下流を望む河原で一人残らず処刑されたといわれています。

元和キリシタンの殉教:橋本ジョアン、テクラとその子供たち




少しその辺を一周しただけでこんな歴史の痕跡が残っているなんて、
さすがは京都としか言いようがありません。
宣伝のつもりなのか放置してあるのか、正面橋のたもとにはお寺の鐘が・・。



カメラを持って写真を撮って歩いている人もたくさんいました。
ところで橋の向こうにあるいかにもな建物はなんでしょうか。



なんでもインターネットで調べられる便利な世の中になりました。
「本家 三友」とありますが、ここ、京都に残るお茶屋さんで、
いまだに営業を行っているそうです。

お茶屋、というのは芸妓を呼んで客に飲食させる店という定義があります。
料亭との違いは、料理をそこで作るか、仕出しを呼ぶか。
芸妓さんは料亭でも呼べますが、いったんお茶屋を通すことになっており、
花代(芸妓と遊んだお料金)は後日お茶屋に支払うことになっています。

よく言われるのは京都のお茶屋は一見さんお断り。
だから、いくら中国人観光客が所望しても、一般的にはお茶屋で芸妓は不可能です。

ただし、昨今では京都のお茶屋業界も貧すればなんとやらなのか、
外国人向けのお茶屋遊びという企画もあるそうです。
もちろん、中国人の中でもかなりのリッチな人や政府関係者むけだそうですが。

チャン・ツィイーが芸者の役をした「サユリ」という映画がありましたね。
あれを見て、芸者=娼婦だと勘違いした中国人が、このお茶屋遊びで
芸者さんに触ったり着物を脱がせようとするなど信じられない狼藉を働き、
顰蹙を買っているのに締め出すこともままならない、という構図もあるとか。

「粋」などという言葉はおそらく霊的に生まれ変わっても理解できない
文化の人々、ただでさえ、舞妓さんや芸妓さんを呼びとめたり触ったり、
写真を強制して眉を顰められているわけですが、これが超金持ちとなると、
金を出しているのだから何をしてもいい、とさらにやりたい放題に・・。

比叡山より高い京都人の誇りはどこに行った。



ついでですが、銀座の超有名なビルの関係者からTOが直接聞いたところによると、
彼らは階段で腰をかけてものを食う、トイレでは紙を流さずその辺に捨てる、
(掃除の人が日々泣いているそうです)ところ構わずトランクを広げて荷物の整理を始める。

なにより肝心の日本人の顧客がそれを嫌がって来なくなるのが打撃だそうです。



銀座も京都の花柳界も、日本人の中では「敷居の高い場所」であり続けてきたし、
またわたしなど日本のどこかにそういうところがあってもいいと思っていたわけですが、
昨今の遠慮を知らない中国人観光客によって、それらはただの「観光地」へと価値を下げてしまい、
そういう場所を必要とするような層が逃げ出してしまうという現象を生んでいます。

某老舗デパートに来るクレームにも、

「そんなに中国人客が大事なら専用のデパートに鞍替えなさってはいかがか」

というものがあると聞きました。




さて、鴨川沿いの道を歩くことにした、というところからもう一度。



京都の青春。
デートの最中、河原に座って語っていたところ、女の子がいきなり靴を脱ぎ
水に入って行ってしまい、男が慌てる。

「裸足で水に入ったりして危ないでー!」
「うふふ、気持ちいいからトモくんも入り」
「えー、俺ええわ」
「あかんたれやなー」

京都で学生生活をしたものなら誰でも一度は経験・・・しねーよ!



謎の物体。灯篭の土台かなんかでしょうか。



河原の高さにも歩道が整備されているので、ゆっくり散策したい人は
降りて川面を見ながら歩きます。



これも「サクラの仲間」なのですが、
まるで幼稚園でつくるティッシュのお花みたいです。
桜というよりシャクナゲのような咲きっぷりですね。



光源氏のモデルだとかの「源融」さんの在所にあった榎。
苔むした様子を見てもかなりの樹齢だと思われます。 



かなりの樹齢といえばこれも。
京都市博物館の敷地に立っているらしい、この傘型の木は何?
あまりに立派で大きいので目を引きました。



晩御飯を食べるためにハイアット(旧都ホテル)まで歩きました。
おなじみの京都市バス。
全く変わっていないようで時代の流れによって少しずつ変化しています。
最新のタイプはハイブリッド式ですが、時々企画として古いタイプを走らせる、
ということもやっており、そうなるとどこで知るのか「撮りバス」が
どこからともなく現れて、血相変えてバスを追いかけるのだそうです。


なんの世界にも「撮り」っているのねー。



今夜の夕飯はハイアットの和食にしました。



いわゆる懐石風の和食を息子が嫌うので(まあ気持ちはわかる)、
単品で注文できるということを前もって確かめてから来ました。

この鴨のローストはおいしかったです。



鍋焼きうどんを頼んだら、てんぷらと冷凍でないエビが入っていました。



寿司も単品で頼めたため、これに少し付け足して大満足。
それはいいのですが、デザートのフルーツ・・・・。

わたしたちがなんでも三人でシェアしていたためか、
イチゴが6つに切れていたのには驚きました。



石庭をイメージした粉砂糖の上に乗ったブッセ。
これは正直イマイチでした。ふわふわしていてフォークで切れないし。



わたしたちが美味しいご飯に舌鼓を打っていると、
いきなり横に舞妓はんが降臨!
なんと京都のホテル、ディナーを取っている客に「舞妓サービス」を行うのです。
どこぞのお茶屋さんに頼んで毎晩呼んでるんでしょうか。

これは中国人でなくても(笑)嬉しいサービス。
早速お断りして写真を撮らせていただきました。

とりたてて会話はしませんでしたが、
聞いたら色々とインタビューさせてもらえたんでしょうか。

舞妓さんの実態には当方全く詳しくないのですが、彼女はまだ修行中の
いわゆる「半玉さん」ではないかと思われました。
かんざしに「ぶら」と言われる文字通りブラブラがついていて、
これはまだなって1年未満の舞妓さんを表しているということだからです。


彼女のかんざしには桜の花があしらわれていますね。
舞妓が付ける花簪の意匠は月ごとに決まっており、四季の移り変わりを表現し、
その舞妓の芸歴・趣味を反映させるものなのだそうです。



他のテーブルで写真を撮られている舞妓さんの後ろ姿を見ると、
だらりの帯が比較的短いのもそう思った理由のひとつ。

彼女と一緒にお店の人にシャッターを押してもらって写真に収まる客もいました。



さて、明けて翌日。

前日はつい鴨川に靴を脱いで入ってしまっても仕方ないというくらい
気温が高く、まるで初夏のようでしたが、
夜、寝ながらすごい雨音がしているなあと思ったら、朝も降り続いていました。

雨の合間に、任天堂の屋根にはこの辺にたくさんいるらしいカラスが集まって羽繕いしています。



8時に朝ごはんを運んでもらうように注文しておいたら、
若い男性が雨の中これだけのものを持ってバイクでやってきて
ちゃんとセッティングして行ってくれました。
煮豆や御新香、ぬたなどいかにも京都の朝ごはんという感じ。

焼き魚やましてや納豆などというものは決して付いてきません(笑)
(関西人、特に京都人って納豆が嫌いな人が多いのです)
味噌汁のかわりにポットに入れられた薄いだし汁を、お椀に注いでいただきます。

わたしは関西で育って京都の薄味には馴染みがありますが、
知り合いの東北人など、京都出身の奥さんの実家に行くと
何を食べても「味がない」と感じるのだそうです。


これらは料亭の仕出しなので、宿泊費は結構なお値段になってしまいましたが、
昨今、京都のホテル代は高騰しているので、三人で泊まったと考えると
町屋の宿泊は決して高すぎるというわけではありません。
朝食を外に食べに行くつもりなら、ホテルよりも安いくらいです。



メッセージを書くノートをパラパラと見てみると、中国語のメッセージもありましたが、
ほとんどが台湾からの観光客でした。

というわけで初めて経験した京都町屋の宿泊、皆様にも熱烈お勧めします。


京都 町屋の宿


花籠京都

 


「マイバケットリスト・ニンテンドー」京都・旅淡シリーズ

2016-04-22 | お出かけ

さて、わたしたちが京都駅から乗ったタクシーの運転手さんは、
町屋を改装したお宿のオーナーに道を聞きながら走っていたのですが、
小路に入ったとき、

「今任天堂の横きてるんやけど。え?どんつき(突き当たり)の右?」

と言ったのをわたしは耳にしました。
どんつき・・・京都やねえ・・・え?任天堂・・・・?
今や世界に有名な日本の企業のひとつ、おそらく子供から大人まで 
その名を知っている人間の数で言えばトップではないかと思われる
「ニンテンドー」がここに?

前に京都に来た時、南区の本社を息子が発見したのですが、
ここにも何かあるのかな、と思って降りてから確かめると、



あったよ任天堂旧社屋が。


旅館の真向かいには、なにやらレトロなレンガ造りのビルが。
任天堂は、1889年、ここで花札の製造業を興しました。
1947年に創業者の息子が「任天堂骨牌株式会社」という会社にしたというので、
おそらくですがそのときに建てられたのではないでしょうか。



誰に見せるつもりなのか全くわからないところに「任天堂」の立派な看板が。

「ニンテンドーって変な名前」

とアメリカ人の子供などは思ったりするそうですが、この名前、
当社が花札製造業であったため、創業者の息子、山内溥氏が

「運を天に任せる」

という意味のこの名前を考案したのだそうです。
創業時は個人営業だったため会社名などはありませんでした。

しかし、現在の社業もまた、「運を天に任せる」という意味では同じ側面を持つ
ゲームを扱っているんですよね。



創業者が山内氏ということで「山内任天堂」。
この社名に変える前には「丸福」だったので、そのときの
トレードマークである丸に「福」はそのまま残しています。

一番下には「京都正面大橋西」とありますが、その「正面橋」とは

ここに来るときにタクシーが入っていった、鴨川にかかる橋のことです。
正面橋の道沿いに、「任天堂」旧本社の入り口があります。

 

ところで少し不思議なのですが、そのまま任天堂前を通り過ぎると、
あの「高瀬川」が流れています。
そこに架かっているこの橋の名前もどうやら「志よめんはし」、
つまり「正面橋」のようなのです。 

この「正面」というのは、地図で見ると「お東さん」、東本願寺の正面から
東山の方向にまっすぐ伸びているのが「正面通り」なので、
どちらの橋も「正面橋」ってことになっているみたいです。
「鴨川の正面橋」「高瀬川の正面橋」で区別するんでしょうか。



ちなみにこの正面通り、間にお寺やなんや障害物があって途切れ途切れですが、
とりあえずその延長にある道はすべてそう呼ぶようです。 




今では任天堂は「ニンテンドー・オブ・アメリカ」があるくらいですが、
当時も輸出を行っていたようです。



トレードマークの「丸福」が窓の外ワクにあしらってあります。
どこをどう見ても錆びた形跡がないのですが、よっぽど長年手入れしてきたのでしょう。
この社屋、驚くことについ最近、といっても16年前ですが、
2000年まで使い続けていたようなのです。
こう見えて中は結構改装が行き届いて近代的だったのかもしれません。



チェックイン後、わたしたちは自転車でその辺を探索することにしました。
ところが、二台ある自転車のうち一台のサドルが高すぎて
(おそらく前の宿泊者の身長は190センチ以上あったと思われる)
調節する道具も見つからなかったため、息子が乗ってわたしは歩きました。

息子は、撮った写真をすぐさまインスタグラムにアップしています。



わたしたちが写真を撮っていると、欧米系の白人男性が一人でやってきて、
やはり熱心に写真を撮っています。
ガイドブックにおそらく「ニンテンドー発祥の地」として載っているのでしょう。



任天堂前から歩き出すと、すぐにわたしが目の色を変える博物館がありました。

「眼科・外科医療器具歴史博物館」

ただし、見学は前もってメールで・・・ってこんなの知らんかったし。



実際に奥沢眼科というのがあった場所みたいですね。
なおさら見てみたいじゃないかー。



そこからすぐ、高瀬川にぶつかります。
ここを上流に向かって川沿いに歩くことにしました。



息子の国語の教科書に載っていたので「高瀬舟」を読んだばかりです。
高瀬舟に乗せた罪人を護送する役目の役人と、弟を殺して
なおかつ晴れ晴れとした顔をしている不思議な罪人との舟の上での会話。

医師である森鴎外が安楽死を扱ったこの短編は、安楽死の是非を
問うというより、むしろ作者の肯定をより表しているように思われました。

そして改めて読むと、特に高瀬舟が川を下っていく情景描写の精緻さに魅かれます。

其日は暮方から風が歇やんで、空一面を蔽つた薄い雲が、
月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、
川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。
下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、
只舳
に割かれる水のささやきを聞くのみである。(高瀬舟)

この日は奇しくもこの情景に描かれたような、初夏を思わせる一日でした。



京都の街はほとんど角ごとにお地蔵さんがあります。
昔のままの姿のこともありますが、このようにケースで囲われたものも。



早速廃墟マニアの血が騒ぐ物件ハケーン。
廃墟なのに住人の使っていた簾やカーテンがそのままあるのがたまらんわー。

こういうところが買い上げられて町屋旅館になるんでしょうね。



高瀬川にはあちこちに人が往来するための橋が渡されています。
大きな橋のところまで歩けばすむことなのに、京都人は案外いらちです。



なんと、このお風呂屋さん現役です。
自転車が止まっていますが、京都は学生の街でもあるので、未だに
お風呂のない下宿暮らしをする学生もたくさんいるのです。
夜になったら提灯は灯るのでしょうか。




高瀬川って、人工の川だったってご存知ですか?
江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、
京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削されたのです。
大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられました。

ここは昔「船回し場」だったところで、昔はもっと広かったそうです。
なんか逆みたいですが、ここを通行する舟が「高瀬舟」だったことから、
川の名前が後から「高瀬川」になりました。



任天堂本社と同じ時代の雰囲気を持つ当時はモダンだった長屋。
今は廃屋となっているようなので、おそらくこの共産党のポスターは
誰にも
許可を取らずに勝手に貼っているんじゃないでしょうか。

各地で前回の選挙の時に起こった開票の不正や沖縄の米軍基地の前で
犯罪行為を繰り返すこの手の人たちですが、
憲法を守れと人にいう前に、まず法律を守れとわたしはいいたい。



それはともかく、その建物の反対側がこれ。
うーん、このシュールな玄関の形状、いいねいいねー。
どっちからでも外に出られて便利かもしれない。
あるいは中は2軒に分かれていたりとか?



そしてこの角に置かれた車避けの石はさらにシュール。
京芸の学生でも住んでいたのかな?



源融(みなもとのとおる)という人ご存知ですか。
わたしも知らなかったのですが、どうも光源氏のモデルだったらしいです。
ということはきっと男前だったってことなんでしょうね。

その男前がここに「六条河原院」というのを建てて住んでいたそうです。
なんでも夕顔と一夜を過ごしたというのがこの「河原イン」じゃなくて
「河原院」であった、という設定なんだとか。

源氏オタクなら聖地巡礼で訪れるべき場所でしょう。(適当)



鴨川沿いにひっそりと残る地蔵跡。
祀られている様子はないですが、取り壊されもしないでここにあります。



五条の橋を「牛若丸と弁慶の像」を見ながら渡り、
鴨川沿いに南に下ることにしました。


ところで、息子がインスタグラムに任天堂の写真をあげた途端に、
こんなリプライが来ていたそうです。

「マイ・バケットリスト!」

バケットリスト、すなわち一生のうち一度は行ってみたい場所です。
なぜ「死ぬまでにやりたいことのリスト」が「バケツリスト」かというと、

首を吊るときに立っているバケツを蹴るから、らしいですね。

それはともかく、世界的にはここを「聖地」としてバケットリストに入れる
熱心な信者さえいる任天堂も、京都人にかかると


「へえ、そいうたらそんな会社もありましたかなあ」

という感じで冷ややかにみられているのだそうです。
理由、お分かりですか?

それは任天堂が任侠が仕切っていた賭場の花札を作っていたということにあります。
そないな「下賎なもん」で身を起こした素性の悪い会社、いくら有名になったかて
京都の会社の代表やゆうてもろたら困ります、というところかもしれません。

ちなみに京都人的に「京都企業」として最も誇るべきはというと、
それはあの「島津製作所」なのだそうです。

創立は1875年、決して京都基準では「由緒正しい」というわけではありませんが、
日露戦争の三六無線の電池に多大な貢献をしたり、昨今では従業員から
ノーベル賞を出すなど、(田中耕一氏)超有名優良企業であり続けており、
なにより創業者が京都出身でありながら大名家の薩摩島津の名と家紋を拝領した、
というあたりが、権威主義の京都人を喜ばせるのかもしれません。




町屋体験と「幸せの黄色い新幹線」〜旅淡シリーズ

2016-04-20 | お出かけ

染井吉野がすっかり終わったある週末、京都に行くことになりました。
人と会う約束で行ったのですが、家族三人の旅であったので、
町屋に泊まるという体験にトライすることにしました。

せっかく京都に来たのだから、京都らしい宿に泊まりたい、という旅行者の
ニーズに応え、最近は町の角角に残る「町屋」、つまり昔ながらの
住宅を改装して一軒の家をホテルとして借りるという形態が増えています。
今回泊まったのはそんな町屋のひとつ。
さて、どんな体験ができるのでしょうか。



新幹線を待っていたら、「回送」と掲示がでてやってきたのは
ご覧のように黄色い新幹線。

「黄色い新幹線なんてあったっけ?」

その場でiPadを検索してみたら、これが「ドクターイエロー」という
異名を持つ、新幹線型点検車両であることがわかりました。
正式名称は新幹線電気軌道総合試験車
通常の新幹線と同じ車両数、重量を再現しており、その役割は

線路のゆがみ具合や架線の状態、信号電流の状況などを検測しながら走行し、
新幹線の軌道・電気設備・信号設備を検査線路とパンタグラフを走行しながら
チェックするという特別車両です。

当初口を開けて見送っていたので、ボディを撮り損ねましたが、
黄色い車体にはブルーのラインが入っていました。

なぜ黄色いかというと乗客が間違って乗らないように、ということですが、
ホームにいても戸が開かないので、乗る人はまずいないと思いました。



わたしはこの瞬間までこういうものの存在すら知らなかったわけですが、
このドクターイエロー、
旧車両の時からすでにあったんだそうですね。

写真のタイプは2000年(つまり16年も前)にはすでに導入されていたという
923系で、なんでもその内容は

1号車:通信・信号・電気測定車
2号車:データ処理・架線摩耗測定車
3号車:電源車(観測ドームあり)
4号車:倉庫
5号車:軌道検測車(921形、3台車で短車体)
6号車:救援車(観測ドームあり)
7号車:休憩室

だということです。
うーん、乗れないけど乗ってみたい!特に7号車。

この写真では探照灯の下に赤い光の見えるウィンドウがありますが、
これは前方監視カメラであり、赤い光は尾灯となります。
今映っているのは後後尾となります。




「へー、ドクターイエローって言うんだって」

と話しながらみていたら、後ろの方からどどどどっと人が走ってきました。
皆携帯を構えて、写真を撮るためにホームに群がっています。
なんでも、このドクターイエロー、「幸せの黄色いハンカチ」のイメージからか、

「見ると幸せになれる」

とも言われているのだそうです。
まあそれだけレアだってことでしょう。
わたしだってこの人生で初めて遭遇したくらいだし。

なんでもドクターイエロー、月4回、東京-博多間を2日がかりで往復してるとか。
一日目は東京駅から博多へ向かい、次の日に東京へ帰ってきます。

「のぞみ」停車駅のみを停車して走る「のぞみ検測」が3回、
全駅停車する「こだま検測」が1回の合計4回だそうです(最近の実績より)。


たまたまそのときにホームにいた人しか見られない「幻の新幹線」。
今回世の中にはこの黄色い新幹線の「追っかけ」をしている人たちがいたり、
「ドクターイエローの目撃情報を投稿するサイト」まであるということがわかりました。 

撮り鉄的にもこの新幹線は格好の好餌らしく、この後に発車した
広島行きののぞみに乗って進行方向側の窓から外を見ていたら、
田んぼのあぜ道のようなところに撮り鉄集団がずらっと鈴なりになっていました。

いずれにしても、めったに見ることのできない車両なので、そのとき
ホームにいた人たちが色めき立ったのも当然です。
発車までの時間、「柵から乗り出さないでください」のアナウンスが
なんども流れておりました。

このときのドクターイエローが「定期点検」だったのか、それとも
その前に起こった地震の影響を調査するために臨時運行されたものかはわかりません。




さて、そんなこんなで京都着。
ここ何年か、いつ行っても観光客でごった返している感のある京都ですが、
桜が一段落し、わずかですが喧騒がましになっている気がします。

京都駅からタクシーに乗って、「花籠旅館」というと、

運転手さん、全く知りまへんなー、と言います。
後から知ったのですが、最近雨後の筍のようにこのような
町屋を改装したタイプの旅館が増えているので、多すぎて名前だけでは
どこにあるのかわからないものなんだそうです。



運転手さん、電話で旅館と連絡を取りつつ、五条と七条のあいだにある
(つまり六条?)この「正面橋」から鴨川を渡りました。



「ここですわ」

言われてみれば、門のところに小さく「花籠旅館」と書かれたプレートが。
どうやらこの小道を入っていったところのようです。



そのとき左を見ると・・・
首輪をつけたお嬢さん猫にちょっかいかけていた野良っぽいトラ。
(お嬢さんはすっかり怯えておりました)

この辺は入り組んだ小路なので猫も住みやすそうです。



ガレージの向こうの4軒が並んだ長屋の一番左端が今夜のお宿です。

「昨今はこういうところを旅館にしてしまうのね」

この町屋タイプ、国内旅行者よりも、外国人に人気なのだとか。
普通のホテルは世界どこに行っても同じような部屋ですが、
こういうところだと、まるでつかの間京都人になった気分を味わえます。

旅館の右隣は現在空き家で、右端二軒は居住者がいるのだそうです。



というわけで、4軒長屋の一番端。
こちらが「花籠旅館」でございますえ。
躯体はもちろん長屋ですからそのままですが、内装も外装も
変えられる限りの部分を新しくしています。
オープンは昨年9月ということなのでまだ半年しか経っていません。



部屋の前に立って長屋の右側を眺めると、こんな感じ。
だいたい80年くらい前に建てられた物件だということでした。
お地蔵さんもその頃からあるのでしょうか。
きっちり80年前だとして1936年、昭和11年建築。
そんな古くからある建物に未だに人が普通に住み続けているのが京都です。

大きな地震に遭ったこともなく、小規模の空襲があったとはいえ、
一旦は原子爆弾の投下目標として「効果を明らかにするため」
あるときから爆撃を一切受けなくなったという土地ですから、
こういう戦前からの「町屋」がそこここにいまだ残されているのです。

廃墟マニアのわたしとしては(廃墟ではありませんが)そんな家が
まだ隣に繋がっているこのような家屋に住めるというだけでも大興奮でした。



しかし、いかに廃墟が好きでも、実際に古いままの家では色々と
生理的に辛いものがあります。
昨今の「町屋旅館」は古いテイストのインテリアを残しているものの、
あとは海外から来る旅行客のためにも、設備はホテル並みに整って

とにかく小綺麗で清潔で水回り完璧、というのが基本です。

スケルトンリフォームをしたということなので、古い家屋にありがちな
臭いの問題も全くありません。


土間にある自転車はチェックアウトしてからも4時間は借りることができます。
京都ではよく旅行者が自転車に乗ってうろうろしていますが、
ほとんどがこういう経緯で借りた自転車だったのかもしれません。

土間は左の「客間」と、奥の「台所」に繋がっています。



並びの他の三軒も、このような土間玄関のしつらえなのでしょうか。



入ってすぐの間は、窓際に長い作り付けのデスクがしつらえてありました。
小型のアクオス、そして小さいけど性能のいいBOSEのスピーカーは
Bluetooth対応でこの空間にジャズを流すといかにもな雰囲気です。
もちろんWiFiは完備、息子が速度を測ったらシリコンバレー並みの早さでした。



飾ってある花は、鉢植えも生花も本物です。
百合の花が馥郁たる香りを放っていました。



ここがいわゆる居間兼食堂。リビングダイニングというやつです。
ここにテレビを置かないあたりがいいセンスだと思いました。



居間から廊下を望む障子は雪見障子となっていて、坪庭が臨めます。
まだあまり時間が経っていないですが、もう少しすればツワブキやウルイが
落ち着いて、秋には色づいた紅葉が楽しめるのでしょう。



細い階段ももちろん全て新しく作ったものでした。



階段を上ると、ホールのようなスペースがあり、



その左と右には寝室があります。
この日TOが風邪なのか咳が止まらない状態だったので、わたしと息子が
こちらで寝ましたが、次の日の朝、障子からの光があまりに眩しくて目覚めました。

昔の人は日の出と共に起きていたから無問題?




案内には浴衣完備と書いてあったので、何も持たずに行ったら
どこを探しても浴衣もパジャマも見当たりませんでした。
仕方がないので京都駅前まで車を飛ばし、ヨドバシカメラビルの中にある
UNIQLOで適当なものを買ってきてそれを着て寝ました。

次の日聞いたところ、従業員が浴衣を入れるのを忘れていたそうです。



土間に吹き抜け。
チェックインの時には案内の方が迎えてくれてお抹茶を淹れてくれ、
お勘定をすませて説明もしてくれたのですが、そのときに

「京都の底冷えする冬にはここは寒そうですね」

とつい言うと、

「できるだけ各所にヒーターを置いて対処させていただいています」

とのことでした。
まあ、底冷えと暑いのは京都名物でもあったりするわけですから(笑)
それも含めて楽しむのが京都旅行というものなのかもしれません。



トイレはもともとそうだったのかどうかわかりませんが、
一階と二階に一つづつありました。
で、これが二階のトイレなのですが、夜寝る前に行こうと思い、
左奥にある照明のスイッチをつけようとしたところ、
真っ暗だったので床の段差に気づかず見事に躓きました。
もう少しわたしがドンくさかったら、そのまま両手を
ドアのガラスについて大惨事となっていたかもしれません。
幸いつまづいた反対の足でバランスをとり倒れることはありませんでしたが、
そのときにザラザラした壁に手の甲を擦って怪我をしました。

足元に常夜灯をつけてはどうですか、と次の日お節介ながら提案したところ、
帰ってから女将さん直々のお手紙と共に、お詫びの品が送られてきました。

手紙によると早速センサーを取り付けられたとのことです。

寝巻きの件も、電話では「(ユニクロで買った商品代を)返金いたします」
というお申し出は辞退し、お詫びも一切無用、と告げていたのですが、
お菓子と共に商品券が同封されていたのには恐縮してしまいました。

クレームに対する対応の早さとこの気遣い。
さすが世界の観光首都京都の旅館だと舌を巻いた次第です。




さて、家の中の探検も済んだので、わたしと息子は
TOが来るまでの間自転車に乗って外に出てみることにしました。



 


新潟 津南雪まつり

2016-03-14 | お出かけ

去年のまだ暑くなる前、いやほとんど1年前に、新潟県の津南町で
年に一度行われる紙提灯をあげるお祭りに参加することが決まりました。
台湾で「平渓天灯(ランタン)祭り」という紙のランタンに火を灯して
皆で飛ばすという行事があることを知り、ぜひ参加したいと思っていたのですが、
タイミングを合わせるのが難しく、ほとんど諦めかけていたのでした。

ところが、なんと国内で同じようなイベントが5年前から行われていることを、
例によってTOが地元の知り合いの方から聞きつけ、ぜひにとお願いして
参加資格の取得をしていただいたのでした。

台湾のランタン祭りは春節の行事で、町の人が一斉に赤い提灯を飛ばすのですが、
津南のランタン祭りは、その発祥に意味はなく、会場は単なるスキー場。
何事も「まつり」というものには起源に込められた意味があると思うのですが、
とりあえずそこまではあまり深く考えていない模様。
しかし、スキー場とはいえ一面の雪の中、ランタンを飛ばすなんて、
それだけで幻想的ではないですか



問題は雪国に行くための防寒対策です。


わたしは掃海隊訓練に参加したときの防寒グッズを活用できたのですが、
TOと息子は、雪でも滑らない靴や、ゲートル状のカバーや、手袋その他、
モンベルとLLビーンの通販でこの一日のために(ってか半日)一式揃えました。

そして当日朝8時20分東京発の新幹線で、越後湯沢に向かったのであります。




東京もこの日は大変寒かったのですが、わずか1時間半で、
トンネルをくぐったらそこは雪国だった。

と、今思いついて書きながらもしかして、と調べてみたら、
川端康成先生の「雪国」の舞台はなんとここ越後湯沢でしたー!

実際、トンネルをひとつ越えたら、いきなり雪が地面と平行に降っていて、
息子とわたしが「おおおおおお!」と驚いていたら、次のトンネルでは
雪がやんでいたり、とにかくトンネル出るごとに様子が違ってるんですよ。
あらためて文豪とは凄い文章を書くものだと感心しました。



それにしても都会から1時間、トンネルを越すだけでこの変化。
かつて新幹線の越後湯沢近辺が都会から近いスキーリゾートとして

バブリーに持て囃された(わたしをスキーに連れてっての時代)のも、
この近さが大きな理由だったのでしょう。



駅から津南に向かうバスの中、わたしと息子は早速雪景色を撮りまくります。
彼はiPhoneで、わたしは、iPadで・・・。

Nikon1はいったいどうしたんだ、とおっしゃるあなた、聞いてくださいまし。
いつも旅行には必ず転がしていくヴィトンのキャリーバッグには、
ちゃんと各種レンズとカメラ本体、コンデジはバッグに入れて持っていたのです。
ただしSDカードの入っていない状態で。

現地に入る前にどこかの駅のコンビニでSDカードくらい買えるだろう、
何しろ越後湯沢は都会人のリゾートだし、と甘く見ていたら、
新幹線駅のコンビニにはAppleのギフトカードはあってもSDカードはなし。

一応津南の「ニュー」のつく名前のホテルの売店の人に聞いてみたら、

「山を降りて国道まで出ていただくしか・・」

と予想通りの返事をされました。
コンビニが街角ごとにあって各種ギガのSDカードが買えるなんて、都会だけ。
このことを知っただけでも貴重な教訓となった今回の旅行でした。

そういえばこれと全く同じことが去年丹後地方の旅行であったような気もしますが、
まったくその教訓が生かされていなかったと知ったのも今回の教訓でした。



しかし、その時にも同じことを書いたのですが、
iPadでもなんとなく、そこそこ普通の写真が撮れてしまうんですよねー。





これなど、走るバスの窓から撮ったわりには、なかなかですよね?



撮る場所によってはこんな写真も。
iPadがそれなりに役に立っているのは喜ばしいけど、
それだけに、カメラ一式を入れたキャリーの虚しい重さが堪えます。



越後湯沢から津南まで、車で1時間少々という感じでしょうか。
ホテルのロビーからなんとスキー場に直結。
というかホテルの前が、そのまんまゲレンデです。

今日のランタンフェスティバルは、このホテルの前で行われる模様。



ホテルロビーの真ん中にあった「つるし雛」。

「もっともたくさんのぬいぐるみ(11,655点)を使った世界最大のディスプレイ」


としてなんとギネスブックに載っているそうです。
それがどうしたって感じですが、そもそもギネスレコードというのが

「それがどうしたの集大成」みたいなものだしな。



これが雪まつりのポスター。

客室はチケット販売の日から満室で、駐車場代はフェスティバル参加込みで

5,000円というものが半日で完売してしまったそうです。
そしてこの当日には駐車場の権利が4万円で取引されていたとか。

転売目的で手に入れオークションで売る、観艦式の乗艦券と同じ構図ですね。 

このランタン祭りの「元祖」はタイのコムローイという祭りだそうですが、
有名になったのはディズニーの「ラプンツェル」のアニメだそうです。

観てない方、忘れた方、これでどうぞ。


TANGLED - I See The Light [Official Movie Scene][HQ]


冒頭のポスター風のものは、このビデオの一シーンのようですが、
実は息子がiPhone6で撮って加工した画像にロゴを付けたものです。


津南のランタン祭りは最初にも書いたように5年ほど前からごく小さな規模で始まり、 

最初は街だけのイベントだったのが、ツィッターで急激に広まり、
特に今年の参加人数は、去年と比べ物にならないくらいになりました。

このポスターに書かれているニューグリンピア津南というホテルの
前の広いスペースでやることになったのも、最近だそうです。

さて、このホテルに到着したのは11時。
ホテルは1時に部屋に入れることにしてくれたので、お昼を食べることにしました。



食券式のラーメン屋さんがあったので、担々麺を頼んだら、
こんな真っ赤っかなものが出てきました。

「あ・・・赤い」

恐る恐る食べてみると、辛い、辛すぎる。
担々麺ってこういう唐辛子汁みたいな辛いものだっけ。
あまりに辛そうに(つらそうと読んでね)食べているのを見かねて、
普通のラーメンを頼んでいたTOが交換してくれました。



トリハムのポスターの鳥さんがサムアップしております。



こちらも。なかなかの絵心というか画力についシャッターを切りました。



部屋に入るまでまだ1時間あるので、外に出てみました。
土曜日ですが、スキーしている人はそんなに多くありません。
ちなみに積雪量は例年に比べ3分の1くらいしかなかったそうです。


豪雪地帯として有名なこの地方ですが、降る年で9mいくこともあるのに、
今年はせいぜい3mなのだとか。
このホテル前の景色も、「去年と全然違う」ということでした。



ポスターにある「SNOW WAVE」は、スノボの大会。
雪まつりとコラボして行われていました。
テントではDJがノリノリの音楽をやっていましたが、
(どうもスノボでは
音楽があるのがディフォルトらしい)
息子は去年からコンピュータで作曲をしていて、
DJについても詳しく、

「今のミックスのつなぎ方、かっこいい!わかる?」

などと、賛同を求めていました。(わたしの返事はいつも”へーそうなんだー”)



さすがにこういう写真はiPadでは絶対無理です。
あーせっかく望遠レンズ持ってきてたのにな。
ちなみに、この様子を”白レンズな人たち”が二人くらい撮っていました。

スノボの試合には普通なのかもしれませんが、下で解説者が跳躍ごとに
説明を行っていまして、このノリが実に軽い。

「おーっと、今のはハーフパイプかあ?!」「いえ〜、決まったッ!」

みたいな(ほとんど)感じ。

 

こういうのを望遠レンズで撮りたかったのよ・・・・。

後から関係者の方に聞いたら、鎖骨骨折で救急搬送された選手が一人いたそうですが、
もしかしてこの人だったのかしら。

この日の夜、ランタン飛ばしのあと、このジャンプ台に登ってみましたが、
ジャンプするところが二段になっていて、スロープの傾斜は上から見たらほぼ垂直。

よくこんなところを飛べるものだと背中がゾクゾクしました。
ちなみに選手の中には15歳の少年もいました。



会場ではいろんな楽しみが用意されています。
雪の上を走るスノーバイク体験。
このほか、スノーモービルの体験乗車や、スノーーモービルがけん引する
バナナボートに乗るコーナーなどがありました。



ん?なんか雪で作られた山があるぞ。



前には雪で作られた灯籠が並べられています。



なんと、かまくらの「神社」でした。
鳥居をこんな風に作って・・・・おもわずいいのか?と思ってしまいましたが、
HPを見ると、どうやらご祭神をいただいたちゃんとしたもののようです。

 

縁結びの神ということで、なぜか入り口にはハート型の目口をした雪だるま。
このハート型の目がさり気なくキモい。



こちら御本尊(絶句)

御本尊の周りのタイヤ状のものは実は龍のお腹だったりします。



申年ってことで、龍にしがみつく猿の親子。
かまくらの内壁に彫刻されています。



ぶら下がっているお猿さんも。



灯籠から覗いた「女雪だるま」。
いろいろと微妙な「神社」ですが、まあしょせん観光地の客のための、
つまり
雪が溶けたら溶け去ってしまうものということで。



ホテルの部屋で時間を潰し、ホテル内のレストランに行ったら、その階の廊下には
まるで難民キャンプか観艦式の護衛艦甲板のように人が座り込んでいました。

ホテルに泊まっていない人は、まずプレミアム駐車券5000円(ランタン付き)を
半年前に買うか、普通の駐車券を予約して、その駐車券の下番号が
「あたり」であれば、ランタンを1000円で購入しなければなりません。

このために、イベント開始の前に会場にきた人は、用事が済んだ後
いつまでも外にいるわけにいかず、ホテルのレストランにでも行こう!となるのですが、
どっこい、この日のホテルは宿泊客しかレストラン利用ができませんから、
皆しかたなくロビーか廊下で時間を潰していたのでした。

しかし、参加人数が急激に増えたのは今年からなので、
主催者もことそのような状況になるとは、全く予想していなかったということです。



外に出てみると、テントで抽選で当たった人にランタンを配っていました。
壊れやすく、濡れると飛ばないので、会場ではランタンを開けるのは
飛ばす直前にしてください、となんども注意がありました。



ちなみにうちの家族はホテルに泊まる権利を得た時点でランタン一個確保。




スノボのDJブースがあった所の横には、ステージが組まれ、バンドが
交代で演奏をしていましたが、スキーとかスノボとかのウィンタースポーツが
いつのまにか(わたしが最後にスキーをしたのは大学生の時)
レゲエっぽい雰囲気をよしとするイベントになっていたことを改めて知りました。

ロックでも、Jポップでもなく、「レゲエ」なんですよ。

写真は、バンド演奏の後でてきて挨拶をする運営の偉い人。
割とみんな聞いていませんが、わたしはちゃんと聞いていましたよ?
「ふるさと納税」に米どころで農作物の生産が盛んな当地を
お願いいたします、みたいなことも言っておられた気もします。
 


いよいよイベント開始の時間が近づいてきました。
打ち上げは全部で三回行われ、わたしたちは二回目にあげます。

冷たい雪の上に人々が集まり出し、皆の熱い期待がふくらんでいきます。


続く。



「達人」と行く伊勢神宮参拝

2016-02-21 | お出かけ

伊勢湾で行われる掃海隊機雷戦訓練の参加が決まったとき、
それならぜひ伊勢神宮を参拝しようということになりました。
大人になってから参拝したのは一回だけで、それがこのブログでも
お伝えした遷宮のときだったわけですが、今回、わたしたちには
大変頼もしい案内人がいました。

農作物を扱ったりする全国規模の団体(っていったらわかっちゃうか)の
職員の方で、10年くらい前から必ず毎週、「正しい参拝」を行っており、
ご自身でも祝詞を奏上することができるという、参拝の「達人」です。

達人に連れられて、正しい順番で社をめぐり、ときにはその方が長々と
祝詞をあげるのを瞑目しながら聞くというのはどんなものでしょうか。




新幹線で名古屋まで行ったら、あとは近鉄で伊勢まで一本です。
近鉄に乗り込む前に、ホームのコーヒースタンドでラテを注文しました。
追加料金でラテアートをしてくれるというので、この「名古屋嬢」を頼んだら、
なんと型からポン、と粉をふるい入れるやり方でした。



伊勢駅前の街並み。
近年首都圏ではあまりお目にかからなくなったこの茫漠とした感じが、
廃墟ファンのわたしにはたまりません。(廃墟じゃないけど)



伊勢駅の駅舎そのものは割と最近建て替えられたような感じです。
2010年に大改修が行われたと言いますので、伊勢神宮の遷宮を控え
そのためにエレベーター設備を取り付けたという感じでしょうか。



伊勢参拝はまず外宮から始めるのが正しい参拝だそうです。
外宮の入り口近くには神馬がいました。

前回は一頭も見ることなく終わったので嬉しかったです。
神馬は神様の使いなので、必ず白馬と決まっています。



厩舎の上には「笑智号」(えみともごう)という名前とともに、
この馬が平成18年、宮内庁御料牧場のやんごとない生まれであることが書かれています。

御料というのは「御料池」という言葉にもあるように、
天皇や貴人のためのもの、という意味を持っています。



神の馬である笑智号さんに掛けられている馬カバーにも
このように菊の御紋章が付いているのです。



式年遷宮でうつされた神殿のあとは、このように注連縄を貼って
次の遷宮まで休ませます。



外宮参拝も「正宮」から行うのが決まり。
伊勢神宮のさまざまな祭事も外宮から内宮の順で行われています。
天皇陛下をはじめ、皇族の方々、内閣総理大臣も外宮から内宮へ参拝をされます。

なぜそうなのかというと、天照大神がそうせよとおっしゃったからだそうです。
誰が聞いていたのかは知りませんが。

鳥居をくぐるたびに挨拶しますが、その度に俗世から神様の領域に歩み寄っていきます。

そのため、神宮に参る時には必ず手と口を清めてから上がるのです。



前回、この大きな岩を使った橋に穿たれたくぼみに、
五円玉などがきっちり埋め込まれていたのを目撃しましたが、
今日はありませんでした。

ディズニーランドでもそれらしいところがあるとお金を投げ入れてしまう
習性のある日本人(多分イタリア人も)ですが、伊勢神宮では
どこでもここでもお金を投げていいというものではありません。
なぜって、ここは神様の「お住まい」だからです。



ここも、遷宮前の敷地には注連縄が貼られ、その一隅には
その一角を守るための小さなお社が建てられています。



土の宮、風の宮、多賀宮の三つの社があるところに登っていく階段ですが、
ここでまず達人のご指導が入りました。

「できるだけ真ん中は歩かず、端を歩いてください」

真ん中は神様がお通りになる道でもあるから?



その踊り場に来た時、達人は立ち止まって踊り場に一礼しました。
ここには三つの宮を守る護衛の神様が立っているのだそうです。



伊勢神宮に来て個人的なお願いは止めましょう、といわれていますが、
土の宮、風の宮などであれば、私利私欲の(?)お願いも「一応は」
聞いてくださるということでした。
(ただしお金儲けなどのお願いは聞いてもらえるとは限らない)

この多賀の宮では、自分自身の決意表明、つまり「誓い」を唱えます。

 

木の根元にある苔むした岩にもお金が備えられています。
これも決して「正式」ではありません。

前回も、皆が触りまくる木の幹がつるつるになっているのを
如何なものか、と書いた覚えがありますが、達人によると、
やはりそれは好ましくない慣習であるようです。

この参拝の時も、見ているとわざわざ道の端を歩きながら
木の幹にかたっぱしから触っている人が少なからずいましたが、
木はそれを決して歓迎していないことを、皆さんも是非覚えておいてください。



神宮のなかはどこも空気が清澄で、この場に身を置くだけで
改まった厳粛な気持ちに全身が満たされます。

「達人」は週1回、2時間かけてお参りをしておられるそうですが、
毎日朝開門とともに参拝を行っている女性(医師らしい)の知り合いがいるとか。



だからなぜ方角盤にお供えをする(笑)
イワシの頭も信心からというものの、神宮にあるものにかたっぱしから
小銭を置いたり触りまくったりするのは決して「正しいお参り」ではないのです。



このように、注連縄が張られているということは、それによって
神の世界と現生を分けるという意味があるのですから、
この岩には「神様が宿っている」と考えて手を合わせていいのです。



さて、外宮の参拝が終わってから、「達人」は猿田彦神社に
車を回して参拝することを提案しました。

このときわたしは飛蚊症の症状に悩んでいたのですが、
当神社が交通安全、方位除けの神様であることから、治癒を
お願いするという名目で、特に長い祝詞を上げてくださったのです。

このときはいつもの二拝二拍手一拝ではなく、四拍手を行いました。

先日の診察では飛蚊症の原因である
出血部分が随分小さくなっており、
このままうまくいけば
手術はしなくてもよいという診断でしたが、
これも参拝のおかげさまであったと考えるようにしています。



そしていよいよ内宮への参拝です。
鳥居をくぐると五十鈴川に架かる宇治橋を渡っていきます。
いつ見ても澄明な空気が凛と張り詰めたような川面です。
ここが、俗世と神域をつなぐ橋となっています。



古いお札を持って来ればよかった、と思いました。
さすがは大昔から「お参りの一大アミューズメントパーク」であったお伊勢。



五十鈴川のほとり、御手洗場(みたらしば)にやってきました。
内宮に参る前に皆ここで手を清めます。



舞鶴の地方総監で海軍記念館に併設された大講堂を見学したとき、
この御手洗場を描いた「戦争画」があったのを思い出します。
伊勢神宮の遷宮で出された木材が額に使われていたというものです。



神職と、手を洗い終え手ぬぐいで手を拭う水兵と、その母親が
画面の隅に小さく描かれていました。



ここに立ったとき、あの絵を描いた画家は、向こう岸の
石垣のところでキャンバスを広げていたのだろうと想像しました。



川底にはところどころにお金が落ちていました。
だからここにはお金を入れるところではないと何度言ったら(略)
御手洗場に降りる手前には「お金を投げないでください」と
立て札まであるのに・・・。


まあ、この後ろで赤ん坊のオムツを替えていた中国人に比べれば
なんてことはない気がしてきますけどね(鬱)

しかし今やどこにいっても見る中国人観光客ですが、伊勢神宮ほど
神に祈る心を持たぬ彼らにとって意味のない場所はないと思うし、そもそもろくに
マナーも守れないのなら物見遊山で来るな!と内心ムカムカしてしまうのも事実。

案内の人もはっきりとではありませんが、外国人が増えると「気が悪くなる」
というようなことを言っていたような・・。



目にも清々しい青と緑の袴をつけた若い神職が歩いていました。



実は大変「力のある」神であると案内人の方がおっしゃるところの
「瀧祭神」。
祈る人に力があるとき、この社の上空には龍が舞う、のだそうです。

 

この階段の途中から写真撮影は禁じられています。

ここでも自分の願い事はしてはいけません。
正宮には、天照大御神が祀られています。

多賀の宮だったか、2〜30歳に見える女性が一人、熱心に手を合わせていました。
彼女の様子はどちらかというと地味で慎ましやか、仕立ての良さそうな
ワンピースにちゃんとした靴を履いて、まるで昭和初期の「令嬢」という感じです。
彼女の足元にある、手をあわせるために地面に置かれた本物のケリーバッグと、
ついでそこにいる誰よりも長い時間手を合わせ瞑目している様子に目を奪われました。

どんな人で、どこから来て、何をこんなに熱心に手を合わせているのか。

まるで白黒写真の時代からやってきたような雰囲気の女性に、
わたしは自分のお参りが済んだ後もずっと見とれてしまいました。



遷宮の時に作り変えられた新しい祭具収納倉庫。



しばしの休憩のために休憩所に立ち寄り、遷宮のDVDを見ていましたが、
閉館時間となってしまいました。
モニターに「世界の亀山ブランド」と書かれているのが栄枯盛衰を感じます。



橋の最後の欄干(16番目)には 宇治橋の守り神である
饗土橋姫(あえどはしひめ)神社のお札「萬度麻(まんどぬさ)」
が納められているので、ここでも手を合わせました。

一万回分の宇治橋を渡られる方の安全を祈願しているそうです。
一万回はもう余裕で超えているはずだけどそれはいいのか。



参道の「おかげ横丁」に初めて行ってみました。



なぜかここにある「スヌーピー専門喫茶店」のメニュー。
スヌーピー好きにはたまらない。ってか?



休憩するために入ったカフェで焼きドーナツをいただいてみました。



ちなみに、関係ないですがこのあと夕ご飯に行ったところで食べたアワビのバター焼き。
伊勢志摩はやはりシーフード(特に貝とエビ)ですよね。



去年も猫がいましたが、猫はおかげ横丁中心に住み着いているようです。
看板には「餌をやるな」と書いてありましたが、
タクシーの運転手によると「お店が餌をやっている」ということです。



この辺の猫の模様は圧倒的にトラが多いように見受けられました。


 
生垣の近くを通ったら中からみーみーと声が聞こえてきたので、
カメラだけ差し入れて撮ったら、こんな写真が撮れました。 
子猫が集まって母猫の帰りを待っているようです。



というわけで、最後に猫見学もセットになった2時間の参拝は終了。
神への祈りは自分の道をお示しくださいとむしろ自分の心に問うのが正しく、
商売繁盛やなんかをお祈りする神社は他に行くべきなんだそうです。

そもそも伊勢神宮の最も重要な規定は「私幣禁断」。
つまり、個人的な願いをかなえようと手を合わせることはご法度です。


数千年もの間、多くの人々の尊信を集め、清められ続けてきた場所は、
もはや穢れたものを受けつけないこの世の真空地帯のようになっており、
そのパワーも超絶なので、本人の心根というか調子が悪いと、
かえってよくないことが起きるとも言われているそうです。

参拝しても効果が得られなかった、かえって運気が乱れたという人は
自身のあり方に疑問を投げかけてみるべき、というお話を伺い、伊勢神宮とは
まるで鏡を見るように己の心を写す場所でもあるのだなあと思いました。





初めての山形 歯医者と足湯とイタリアン

2015-09-09 | お出かけ

週末、山形に2泊3日で行ってきました。
わたしは関西生まれのせいで東北には数えるほどしか行ったことはなく、
山形と福島には一度も足を踏み入れたことすらなかったのですが、
この度ひょんな用事ができたからです。

それは、歯医者。

歯科衛生は、実は体の健康そのものを左右する重大時であると知ってから、
我が家では歯のケアには最大限の注意を払ってきました。
保険適応はしない代わりに、1日ですべての治療を終わらせてくれる歯医者を見つけ、
ずっとお世話になってきたのですが、その先生が心臓病で倒れ、復活してきた後に
自分の体がうまく動かないことへの苛立ちか、スタッフを怒鳴ったり、
あるいは治療にミスをするなどということが相次いだため、
そろそろ医院を替え時かなと家族で話していた矢先、見つかった先生は、

「悪くなってからくるのではなく、悪くしないための治療」

をすることで全国的にも有名になった山形の歯科医院でした。

TOが見つけてきてわたしも共感したこの先生のポリシーについては
もしご興味があればこちらを見ていただくことにして、

予防歯科 日吉診療所

とりあえず最初の診察のために、わたしは一人で東北新幹線に乗りました。

 

東京駅から東北新幹線「とき」で終点新潟まで。
実はわたしはこの路線に乗ったのも生まれて初めてです。
越後湯沢ってここだったんだーと思いながら日本列島を横断し、
新潟からは「いなほ」に乗り換えます。
「いなほ」はご覧の通り、大変ゆったりしたシート。



しばらく走っていたら日本海が見えてきてびっくり。
山形に行くのに、まず日本海まで突っ切るとは知りませんでした。
やはり太平洋とは海の色が違う気がします。



山形県の酒田駅に到着。
台湾の台南駅に佇まいがそっくりです。
というか、向こうがこちらにそっくりに作ったんですね。




酒田駅前には駅モールはもちろんスターバックスなどありません。



タクシーの運転手さんは「日吉歯科」と言っただけで連れて行ってくれます。
それだけこの歯科医院のために酒田まではるばる遠くからやってくる人が多いのです。



まず診察に入る前に、20分くらいのビデオを見せられます。
おもに虫歯と歯周病になる原因について、そして口中にどれくらい菌がいるか、
調べることから治療は始まるということを説明します。

ミュータンス菌は知っていましたが、このラクトバチラス菌は知りませんでした。



第一回目は治療らしきことはしてもらえません。

「歯が痛いのに何もしてくれなかった」

と昔は怒る患者さんもいたそうです。
この日にするのは、レントゲンを撮り、詳細な歯の写真を撮り、
(専門のカメラはニコン製で、黄色いNikonロゴ入りのカメラケース入り)
検査のために唾液を採取します。



唾液が多ければそれだけで虫歯になりにくいそうで、小さなビーカーに
パラフィンの味のないガムを噛んでは唾液を吐きだしては溜めてゆき、
その量、pH、そして菌の有無を測るためにそれをしてこの日は終わりです。

それだけのために、というか、そもそも山形まで歯医者のために通うというのは
大変なことですが、来年には汐留に診療所分院ができる予定であることで
この医院にお世話になることを決めました。

先生がレントゲンと写真を見て初診をしてくれたのですが、ショックだったのは
虫歯の治療のために神経を抜いてしまい、セラミックの歯を被せるというやり方は、
うまくいっていればいいけれど、わたしのはレントゲンを見る限り形が合っていず、
そこから新たな虫歯になる可能性がある上、神経を抜いてしまっているので
もしそうなったら痛みもないまま進行してしまうかもしれないという言葉でした。

今のところわたしには一本も欠損した歯はないのですが、
このままでは将来どうだろうかといったところです。

かぶせたブリッジのやり直しを含めて見てもらうことになり、次の予約を取って、
近くのビジネスホテルに泊まりました。



ホテルの窓から見た周りの景色。
いやー、本当に何にもないっす。
街並みも、わたしが子供の頃の神戸の住宅地そのままの懐かしさを感じさせます。



次の日、前日深夜に到着した家族と合流しました。
息子の診察予約時間まで、郷土出身の写真家、土門拳の美術館を見学です。



まるで水の上に浮いているかのような美術館の建物はおそらく安藤忠雄。



本当に田舎、という酒田ですが、それだけにこんな素晴らしい景色が広がっています。



土門拳の作品、ことに戦前の海兵団や従軍看護婦、出征兵士たち、そして広島の原爆被害者、
そんな写真を見ていると、戦前の日本人の方が人間が上等だったというか、
一人一人が貧しいけれど美しい佇まいをしていた気がしてなりません。

昔の人にはあって、今の日本人が失ってしまったものって、それではなんなのだろう・・。
そんなことを、帰ってきた時東京駅の雑踏でも思わずにはいられませんでした。



土門拳の作品の中でも「子供」は重要なモチーフです。
炭鉱街で遊ぶ子供達、着物を着て傘を回す子供達。
子供の持っている目の輝き、これだけは現代も同じであると思いたい。

お母さんと池の鯉のためにわざわざパンの耳をやりにきた姉弟。




彼らがやってきただけで全鯉が集まってきました。
ここに落ちたらピラニアのように食われるのではないかというくらいの勢い。



ここの鯉に餌をやるのは、近隣の子供達の楽しみの一つのようで、
いくつかのグループが現れては餌を与えていました。




お昼ご飯は、地元銀行の方に酒田で一番美味しいフレンチをご紹介していただきました。
サザエのつぼ焼きがある!とおもったら、これはエスカルゴ風に、
バターとブイヨンで味付けしてあり意外なおいしさでした。



メインはマトウダイを選びました。
さすがにグルメな方の推薦だけあって、なかなかのお味でした。



息子の診察が終わり、わたしたちは本日のお宿に向かいます。
これから何度となく来ることになる山形ですが、この日は初めてのため、
家族旅行をついでにすることにしたのです。

まず、酒田からあつみ温泉(温海とかくらしい)に移動。
このときに乗ったのがこのとおり超カラフルな列車。



カフェ付きの列車で、カフェ車両にはこんなコーナーがありました。
「きらきらうえつ」というのが、驚くなかれこの列車の名前です。
 テーブルでお茶のセット500円など頼み、田園の景色を見ながら行くこと40分。 



THE日本の温泉街、という感じの、どこかで見た景色。
お宿もどこかで見たことのあるような大きな温泉ホテルです。



街中には無料の足湯と、



このような足湯カフェがあります。



足湯カフェで足を温めながら(というか、ずっと浸けていられないくらい熱い)
お茶を飲んでいると日が暮れてきました。

 

どうせ巨大温泉旅館の料理なんてどれも同じなので、 今回は夕食は頼んでいません。
足湯カフェでロコモコプレートやお子様ランチならぬ「大人様ランチ」
といったノリのもので済ませました。



温泉街の夜は風情のあるものです。



こちらは街の無料足湯。
足湯というものができたのは割と近年のことだと思いますが、
このちょっとした楽しみがあるとないのでは、若い人の集客が
全く違ってきそうです。

カフェの物販コーナーでこんな素材のバッグや小物を売っていました。



これらは「しな布」といい、シナの木の樹皮を使って作った日本最古の布でできていて、
手織りしかできないため大変高価です。
写真のバッグはどれも3万円!

わたしはバッグではなくシナ布で作った小さな花のブローチを記念に買ってもらいました。




ホテルの売店で見つけた「つや姫」のパッケージ、これは!

今大変巷を騒がせているデザイナー、佐野研二郎さんのデザインではありませぬか。
このデザインの良し悪しはさておいて、これは代理店に依頼したら
佐野氏が代理店経由で「勝手に」デザインしたもの、ということらしいですね。



さて、次の日、あつみ温泉から2両のローカル線に乗ります。
この写真を撮っていたら大きな汽笛を鳴らされました。
こういう路線の運転手さんは、さぞ日頃「鉄オタ」の行動に悩まされていると思われ。



目的は鶴岡。
徳川四天王の筆頭、酒井忠次の酒井家が約250年にわたり統治した城下町です。



駅前に米を担いだ男性とその家族、的なモニュメントがありました。
それが、このほとんど人通りのないロータリーで、(左のモールらしき建物は使われておらず無人)
大音響の民謡みたいなのを鳴らしながら回転しています。

「あの・・・うるさいんですがこの音は」

しばらく我慢していましたが、あまりの耳障りさに呟いたとたん音楽は止みました。

「あ、止んだ」

「時報かな」 

周りに住んでる人から文句が出ないのかと心配するレベルでしたが、後から調べると
どうも電車が来るたびに鳴っているとのこと。



駅前から目的地までタクシーで向かいます。
ブティック「ジョン・デリンジャー」、閉店セール。
稀代の強盗、パブリックエネミーNo. 1を店の名前にしてしまいますか。
まあ、パスタ屋に大泥棒の名前をつけてる例もありますが。



わたしたちの目的地はここ。
山形のみならず美味しいことで有名という話のイタリアン、アル・ケッチァーノ
・・・・のデフュージョンライン、イル・ケッチァーノ



こちらが第一号の「アル」の方ですが、予約多過ぎで、
並んで待つ「イル」に挑戦することになったのです。

ちなみに、ここの物販は「ウル・ケッチァーノ」といいます。 
・・・・物販だから。 



山形の新鮮で美味しい食材を使ってのイタリアン、という触れ込みの割には、
周りの環境はこんな感じ。
産廃工場が目の前にあるのに地元のNo. 1イタリアン店とは、よほど実力があるのでしょう。
立地条件には全く頼らず味だけで勝負!ということですね。



幸い全く待たずに席に着くことができました。
ここの売りは「野菜がとにかく新鮮で美味しい」こと。




家族で1つ注文したピザ。



アンチョビとキャベツのパスタ。



辛めのペンネ・アラビアータ。
どれも大変美味でしたが、わたしの住んでいる地域はイタリアンの激戦区で、
これは美味しい、というピザを食べさせるお店がたちどころに数カ所挙げられるほど。
ここがそれらのどこよりも勝ると言う風には思えませんでした。



一番感心したのがジェラート。
山形ならではの「ずんだ」を使ったジェラートは絶品でした。



鶴岡は城下町ならではの遺跡を多くのこす趣のある街です。
そんな史跡が移築され一堂に集められた致道博物館に行きました。
庄内藩主酒井家の御用屋敷だったものを博物館として公開したものです。
重要文化財の西田川郡役所。中は博物館になっています。




指定重要文化財の「田麦俣の多層民家」。
豪雪地帯特有の「かぶと造り」と言われる建築様式で、
1822年に建てられたものであることがわかっています。



中の写真は暗かったのでほとんどが失敗でした。
「長話無用」とあるのは電話台でしょうか。
昔は公衆電話も10円で何時間でも話せた時代があったそうですね。



家の主人夫婦が寝ていた部屋、と言うことですが、冬は寒そうです。



ここには酒井氏入国前の最上家時代から高級武士の屋敷がありました。
旧藩主御隠殿北面には庭園があります。
庭園脇に立っていた松の木がどう見ても何かの顔。




致道博物館には和風お食事処があり、なんと偶然にも

「庄内藩 しるけっちぁーの」

であることが判明。
アルケッチァーノの一味?で、ラーメンなどの汁物を出すので「汁」けっちぁーの。
お茶をいただいてついでに名物らしいロールケーキを三人で一つ頼んでみました。
まるで厚焼き卵のようなスポンジケーキは味にコクがあって滋味深かったです。



というわけで二泊三日の旅、帰りはMAXとき(二階建て)に乗って帰ってきました。
これから歯医者のために何度か通うことになる山形にご挨拶といったところです。

 


2015年度大曲花火大会 SONY RX-100、頑張る

2015-08-24 | お出かけ


今年も恒例の秋田県大曲花火大会に行ってまいりました。
雨に降られながら地面に座って耐えた総火演から帰ってきて、
1日の休憩を挟んだのみで、またしても野外イベント。

天気予報は雨(笑)。

実は先日裏米において、

忘れたチケットを慌てて取りに戻るなど(勝手ながら)事故でも起こしたら?と心配です。
ブログの為ばかりでは無いのでしょうけど、UPなど休んだら如何でしょうか?
花火会場の方も台風が影響して来るのでは無いでしょうか?
余り頑張り過ぎない様に、と思いますが」

というご心配をいただきました。


・・・・自分で思うよりずっと、わたし、疲れてる?

と少しハッとせずにはいられませんでした。
ブログのためというより、最近はお付き合いとかで、今年はしんどいからパス、
というわけでも行かなくなってきたというのが実情です。

この花火大会なんてまさに「お付き合い」(しかも仕事がらみ)
の最たるものですが、だからといって別に嫌々ってわけでもないんですよねー。
まじで。

今更、そんな事を気にする上官では無いのは承知しておりますが(^^)

というこの方のコメントの最後の言葉どおりでございますが、
とにかくご心配ありがとうございます。




さて、2年連続で駐車場がフルのため、飛行機に間に合わず、わたし一人が後の便で追いかける、
という愚をおかした我が家ですが、去年からはさすがにちょっとは学習して、
空港で車を預かって到着したら持ってきてくれるサービスを利用しました。

一泊4千円を高いと考えるかどうかですが、飛行機代と現地までの新幹線代を

無駄にすることを考えれば、傷害保険のようなものです。

9時過ぎの便に乗って秋田まで無事に到着し、駅ビルの比内地鶏の専門店で
親子丼のコースをお昼にいただきました。
しっかりした味の鶏肉とふわトロたまごの丼はもちろんですが、
付け合わせのジュンサイがとても美味しかったです。



秋田駅での集合時間まで間があったので、ホテルにチェックインできるまでの間、
買い物をした後茜屋珈琲店というレトロな雰囲気のお店で休憩しました。



甘いもの好きのTOが頼んだオリジナル手作りテョコレートケーキ。
ブラウニーより粉が少なくて生っぽいケーキでした。
わたしは久しぶりにスターバックスのではない「本格的なコーヒー」を飲みましたが、
このお店は秋田では有名な「老舗」だそうで、チェーンの店に人が流れ、
次々と潰れていくその他の喫茶店の中で唯一生き残っているのだとか



さて、待ち合わせ場所に集合したのは主催者の家族を入れて全部で8人。
1年前から予約してあった「こまち」に乗って大曲まで30分くらいでしょうか。
「ジャパンレッド」と自称する新幹線の赤が美しい。

やはり日本を象徴する色、それは「赤」ですよね。

オリンピックのロゴも、ボランティアの制服も、なぜそうしないのか。
わざわざ黒で喪章みたいにしたり、青を基調にしたがるのか(棒)



前日、「昼には雨は止んで夜の花火大会には支障なし」と聞いていたため、
それならばと総火演で活躍した「雨の野外イベントセット」、特にゴアテックスのコートと
陸自迷彩の完全防水ポンチョを洗濯して干したまま置いてきてしまったのですが、
その情報と判断は全く間違っていました。

最悪の場合を予想して、「世界一楽な靴」を目指して生体力学的に研究された
ミッドソールを使用しているというのが売りの「フィットフロップ」を、
アメリカで安く(50ドルくらい?)手に入れておきこれを履いていったわけですが、
いかにサンダルでも、おろしたての靴で河原の泥の中を歩くのは心が痛みました。

タクシーの中で、

「あーあ、この靴濡らしたくなかったなー」

とぼやくと、その他2名が同時に

「じゃ履いてこなきゃいいのに」

と責めるので、

「だって昼から止むってデマを流す人がいたんだもん」

と口答えすると、運転手さんが噴き出しました。
これだけコンピューターで天気が予報できる時代になっても、本当に正確に
時刻までを予報することは雲が実際に動く直前までできないんですね。



昼で止むどころか、雨は会場に着いても酷くなる一方。
幸い主催者の方が今回は升席の一番後ろ、審査員席の並びを取ってくださっていたため、
傘をさすのも立ち上がるのも自由。
さすがに自衛隊イベントとは違い、皆傘をさしています。

その間も昼花火の部の打ち上げは粛々と続いていました。
大曲の花火は土砂降りでも中止になったことはありません。
「よほどの場合」、つまり台風直撃とかいう事態にもならない限り。

この1日のために大曲という町は存在しているようなものですし、(多分)
「全国花火競技会」という名目が示すように、これは「コンテスト」、
総理大臣賞などが出される権威のある競技会であり、また、花火会社にとっては
翌年の仕事を獲得するための「宣伝活動」でもあるのです。




雨をざーざーと受けながらも、同行の方がアプリで雲の位値を逐一、

「今雲が右手に動いているからもうすぐ晴れます」

などと報告してくださっていたのですが、なんと奇跡的に
夜花火が始まる寸前に雨は完璧に止みました。


とたんに同行の人々は、黙々とタオルでシートの上を拭いては、後ろの通路外に
絞って捨てるという作業に取り掛かりました。
こんなところでも「最後列でよかった」と思わされました。



どうして主催者の方が今年最後列を選んだかというと、
開始と同時に現れるこの「ナイアガラ」全景が見られるからだそうです。
だてに審査員席と並んでいるわけではないのです。



しかも、最後列なので立ってもOK。
小さなパイプ椅子に座っていても後ろの迷惑になりません。



というわけで始まったのですが、まだ雲が切れていないときに上げた花火は、
上がガスで切れたり(左)下に雲が残っていたり(右)。
花火そのものを評価しようにもこの状態ではわかりませんよね。



例年何処かが行う「小花の散る様子」。



こういうのも実際に見ているのと、写真に撮ったのでは
花火師の「意図」の伝わり方が全く違うことに気がつきました。



大曲の花火大会は「日本三大花火」、(大曲、土浦、長岡)のひとつで、
明治43年に最初の大会が行われてから今年で第89回を迎えました。

三大花火の中でも規模、権威共に日本一の花火大会だそうです。

5年前に「始まってから100年」を迎えており、つまりこれは「よほどの場合」の中止と、
戦争の間中止された大会が15回あったということになります。
戦後大会は再開されましたが、特に戦後の混乱期、わざわざ見に来るのは

地元民、花火業者と、よほどの花火通を自認するような花火愛好家だけだったそうです。

しかし大曲が「町おこし」としてこれを宣伝したところ、近年になって観光客が激増しました。

毎年この1日のためにキャンプで場所取りをする人々すらでる始末。

wiki

付近住民とのトラブルが相次ぎ、抽選での整理券制度にしたり、
対応をしているそうですが、無断駐車の問題を含め、全く追いついていないそうです。

わたしたちはスポンサー会社のご招待の桟敷席という待遇なので
毎年ありがたく利用させていただいていますが、もしこんなことまで
しなくてはならないのなら、まず行こうという気すらおきないでしょう。



ところで、競技会であるこの花火大会、一つの業者は演技に際して
最初に「規定」となる10号割物といわれる10号玉を2発あげます。
真っ芯円に美しく開くこととその形を競うわけです。



見ている人の中には大きな声で「ああ〜残念」「形がどうこう」などと
論評する人が必ず周りに一人はいるのですが、その人たちがいうように、
「残念な花火」は写真に撮るとそれが一層よくわかるのです。



シャッターの解放が短くて開ききっていませんが、たとえばこれ。
明らかに歪んでいるのがお分かりでしょうか。

実は今回、終わってから、新幹線待ちの時間に町が提供している「休憩所」にいると、

「最近の演技者は、小手先の技術ばかりで、10号玉を丸くあげることもできないのが多い」

などと、お怒りの花火愛好家がいたそうです。
去年に比べて、三角や四角、動物といった変わった形を上げたり、
見た目に面白い(が、美しいというわけではない)花火がぐっと減りましたが、
それでも
こういう「通」の方には本道を忘れている、と見えたのかもしれません。



写真を撮って初めてわかった、花びらが散る様子の表現。

ともかく、その方の嘆く「年々質が低下している」わけがあるとしたら、
NYの寿司屋の花板さんが嘆いていたところの

「職人を目指す若い人が続かない」「結果が出ないとすぐに辞める」
「怒られたり殴られでもしたらすぐに親が出てくる」

というあたりではないかとわたしは思います。
ブラック企業、などといって企業のモラハラ、パワハラ、労働環境の悪さが
糾弾される現代においては、徒弟制度における職人の扱いなどを、
ブラックそのものに捉えて、これを忌避する若い人が増えているといいます。

さらに、親方から口だけでなく手や脚を出されて鍛えられてきた職人自身が、
辞められるのを恐れて(そして世間的に悪いことになっているため)、
弟子を叱責することさえはばかるような傾向が、どんな職人の世界にも蔓延しているとか。

個人の人権みたいなことを考えると、どちらがいいのかはわかりかねますが、
そういった厳しさで鍛えられることの減ってきた職人の世界から生まれてくるものが、
昔とは
変質してきているとしても、それはごく当然のことのように思われます。



ところで、写真について。
わたしは今回いつものNikon1に三脚ではなく、1脚を持参しました。
シャッターをバルブにして、F8から13くらいの間をうろうろ、
その都度いろいろ試しながら撮っていたのですが、何しろ最後の花火の撮影は
ちょうど1年前、という状態なので、悲しいことにすっかり
要領を忘れてしまい、
前半これすべて悪戦苦闘でした。




これなんか、形が歪んで色がはみ出しているのもよくわかりますね。
それはともかく、なかなか決まらないなあとイライラしながら撮っていたわけです。

まったく、花火は撮影などせずに、この目で見るものだと毎回思うんですけどね(笑)

しかも、またしてもわたしならではのミスをしてしまいました。
何かの手違いで、充電したはずのバッテリーが充電されてない(汗)

当然早い段階で電池がなくなり、スペアを入れ替えたところ、
こちらも充電したはずなのに
なぜか(なぜ?)残り三分の一しかないのです。(大汗)

すぐにスペアのバッテリーは切れてしまい、わたしは仕方なく、
ソニーのコンデジRX-100を投入しました。
一脚をNikon1から付け替えて、ほとんどしたことのない
設定調整をマニュアルでしながら撮る覚悟です。

戦艦の砲弾を補給し忘れ、それも尽きて、駆逐艦を単騎敵艦隊に突っ込ませるみたいな?
ところが・・、




これ、Nikon1の画像よりうまく撮れてないか?



これは花が羽の付いた種子を飛ばしている様子を表現していて、
花から放たれた種についている羽の細部まで再現してあるのですが、
明らかにこちらの方がそういった部分をきっちりと捉えることができているのです。



このデジカメのマニュアル設定などいままでしたことがなかったのですが、
急いで確認したところISO感度80という設定ができることに気がつきました。
Nikon1の最低ISO感度は120が下限です。



Nikon1でなかなかうまくいかなかったのはもしかしてISO感度の下限のせい?
自分の不勉強を棚に上げて、そんなことを考えました。

それにしても、花火がどんどん進行する
時間との戦いの中で、遂に最後まで「bulb」、
つまり
押している間だけシャッターが開く設定を見つけることができないまま、
撮りまくった(しかも絞りの変え方もわからずF5.6のままorz)わりには、
明らかに花火らしい写真が撮れている気がするの。

冒頭の写真など、開ききった先端まで綺麗に写っていて、
自分で言うのもなんだけど、まるでパンフレットの写真みたいでしょ? 



これは、今年の流行りというか、中央の光を中心に、花びらがだんだん開いていき、
円になる途中過程ですが、これも・・・・。



このように先端のふくらみの部分まで綺麗に撮れたのはNikon1では一つもありませんでした



これは確かガーベラの花を再現していたプログラムです。



規定とちがって、自由演技は打ち上げられる範囲が広く、
カメラをあちこちに動かさなくてはいけないので、一脚を使ってみましたが、
特にコンデジだとブレやすいのは否めませんでした。

これはぶれずに三重に開いた花が撮れた例。

1脚はぶれる、3脚は動かすのが大変、手持ちは論外。
本当に花火の撮影って難しいですね。
しかも当方、一年に一度、大曲でしか撮らないので余計に・・・。



企業提供花火は前年度優勝者が請け負います。
今年のわたしたちのツァー主催者の企業提供花火は、同業2団体での
呉越同舟提供花火であったわけですが、
欲目なしで大変素晴らしい演技だと思われました。

演技終了後、主催者の方がつぶやいた一言。

「どちらも300万ずつ、計600万円の花火です」

同業他社で共同打ち上げというのは、金額を競争でエスカレートさせないためにも
いい案なのかもしれません。




うーん・・・・やはりISO感度80設定のあるRX-100の勝利?



あまりのことにショックを受け、帰りの飛行機の中でコンデジを仔細に点検したら(笑)
なんとおまかせシーンに「花火」というのがあったのに気づきました。
そういえば最初の年はこれで撮ったんだった。


それを見ると、たまたま偶然、その設定と全く同じ露出と
シャッタースピード
(スピード2”、F5.6)で撮っていたことが判明しました。


まあ要するに、苦心しながら現場で短期間に設定したのが、
まぐれ当たりだったってことです。

仕方なく投入した駆逐艦の照準が敵戦艦の急所を撃破したって感じ?
しかもこの駆逐艦、「島風」か「涼風」なみの火力であったと・・。


弘法筆を選ばずと申しますが、カメラの質ばかりが写真を決めるわけでもない、
とわたしはあらためて思ったのでした><




というわけで特にわたしにとっては全プログラムあっという間に終わり、
恒例の「花火師たちとのエール交換」の時間。

最後の演技で「秋田県民歌」を織り込んだ「いざないの街」は
もうすっかり歌詞も・・・まあ、ところどころ歌えるくらいおなじみです。

いざないの街 /津雲 優

「秀麗無比なる 鳥海山よ
狂瀾吼え立つ 男鹿半島よ
神秘の十和田は 田沢と共に
世界に名を得し 誇の湖水
山水皆これ 詩の国秋田」



本日の観客は去年より1万人も少なかったそうですが、それでも71万人。
1万人の違いは、たとえば終わってから会場を出るまでの時間の短さや、
休憩所でのお手洗いの列の少なさなどに現れていました。

というわけで、今年もこれで「〆」のババヘラアイス。
ババがヘラですくわないといけないので、売り子さんは年齢制限あり。
見たところ「若いババ」より、「いかにも婆なババ」の売り子さんには
長い列ができているようでした。
売り手が老けていれば老けているほどお値打ちが出る、特殊な商品です。



休憩所に花火の資料と共にあった「鑑定士名鑑」。
大曲が主催する講義を受け、ペーパーと実技(映像を見て種類を当てる)の
試験を受け、合格すればこの資格がもらえ、名前を記載してもらえます。
持っていたからといって競技会の審査には全く関与できませんが、
花火大会で蘊蓄を語って周りを感心させるくらいの役には立ちそうです。

何と言っても、知識があれば花火を観る楽しみも一層増すでしょう。


大曲の花火の終了を待っていたかのように台風がやってきそうです。
いつの間にか夏の終わりを総火演とこの花火で迎えるようになった我が家です。







台湾的現在~「わたしの名はミミ」

2015-08-09 | お出かけ

台湾旅行記、続きです。
この写真は、九份からの帰り、タクシーの中から撮ったのですが、
台湾では信号待ちをしていると、徒歩、あるいはバイクの人が窓越しに
チラシを配りに来るのです。

ここアメリカでは信号待ちのときに来るのは物乞いと相場が決まっていますし、
確かイタリアでは信号待ちの車に「窓を拭かせろ」とブラシを持って迫ってくる
ビジネスがあったと記憶しますが、台湾ではチラシ配り。

日本のティッシュ配りというのは世界的に見て画期的名宣伝活動だそうですが、
台湾のこの方法も受け取ってもらえる確立はともかくとして、
アイデアとしてはなかなかです。



ところで、本日のタイトルを読んで

「お、エリス中尉は台湾でオペラでも観てきたのかな」

と思われた方、違います。




わたしたちは三つ目のホテルに移りました。
改装して五つ星となった(らしい)日航ホテルです。
ドアマンはもちろん、フロントからお掃除のおばちゃんに至るまで日本語がしゃべれました。
面白かったのがこのお掃除のおばちゃんで、最終日にドアをノックして、

「これ。書いてくださーい:)ありがとございましたー」

と、ホテルアンケート用紙を差し出し、

「わたしの名前ミミいいます~!ミミですから~!
ありがとう!せんきゅーべりまっち~!ミミです~!」


と連呼していきました。
なるほど、見ると「心に残ったサービスをした従業員の名前」とあります。

「確かに心に残ったから(笑)名前を書いといてあげよう」

とわたしたちはその欄に彼女の名前を書いておきました。
名前が書かれるごとにお給料が上がるとか、金一封が出るとか、
彼女にとってきっといいことがあるのに違いありません。



蛇足ですが、ご存知ない方のために元ネタを。



・・・・さて。



日航ホテル台湾の基調色はどうやら白らしく、インテリアや従業員の制服が白。
そのせいで全体的にゴージャスながら清潔で明るい雰囲気。



リネン類が上質でとても安眠できました。



ロビーの隅に飾られている巨大なアレンジメントもフェイクなどではなく生花です。



さすがは日系のホテルだけあって、日本酒をずらりと並べたレストランがありました。
台湾人は日本酒も好きだそうですが、そういえば李登輝氏は
日本酒が大変お好きだと今回伺いましたっけ。

こんな色々な日本酒が飲めるホテルはおそらく台湾随一ではないでしょうか。



獺祭というのは有名なのでわたしでも知ってます。



台湾滞在の最終日、ちょうど台風が直撃しました。
その日は台南に行って「軍艦神社」を見てこようと思っていたのに・・。
新幹線どころか外に出るのもはばかられる暴風雨が吹き荒れたので、
わたしたちは仕方なくその日1日ホテルで過ごすことにしました。



退屈なのでホテルを探検しました。
屋上にジムとプールがありましたが、もちろん誰も泳いでません。

「なんか、5つ星にするために無理やり作ったプールって感じだね」




ホテルで傘を借りて隣のビルに行くくらいはできるので、
一流ブランドのテナントが入っていることで有名なホテルの地下を
ウィンドウショッピングしていると、おしゃれなお茶の店を発見。



入ってみると、台湾茶を洒落たパッケージに入れて売っています。



お茶だけでなく台湾名物のゼリーもこんなパッケージに入れて。
TOはここでまとめてお土産を買うことにしました。



「大物」へのお土産は竹に入れられたお茶。
いかにもありがたそうなサテンの布で包まれています。

大量に買い込んでそのすべてをギフト用に包み、リボンをかけるのを
お店の若い女の子二人は一生懸命やってくれています。

ちょうど昼時で、実はわたしたちがいるときに若い男性が店に入ってきたのですが、
彼はどちらかの彼氏らしく、休憩時間に彼女を誘いに来たようでした。
しかしわたしたちのせいで時間通りに終わらないので、かれは梱包した商品を袋に入れ、
さらに雨に濡れないようにビニールをかける彼女の仕事を手伝ってあげていました(笑)

丁寧で誠実な応対といい、気の利いた接客といい、この店には日本でおなじみの
ホスピタリティを感じましたが、最後に英語で

「あなたの友達を待たせたみたいで悪かったわね」

といったとき、彼女が大丈夫です、とにっこり笑う様子もまるで日本人のようでした。
まあ、日本人ならボーイフレンドがお店の仕事を手伝うことはないかもしれませんが。



その日の夜は外に出られないのでホテルのレストランでいただくことにしました。



高級料理、フカヒレが入ったスープ。
わたしたちは頂上鱶鰭という台湾の「最高のフカヒレ」を食べたことがあるため、
ここのフカヒレも「ん~~~イマイチ」と言い放つほど、
フカヒレに関してだけは口が肥えているのですが、
もしかしたら頂上フカヒレが特別で、ここのも悪くなかったかもしれません。



向こうのテーブルは、大学生らしい美少女の一人娘を交えたリッチそうな家族。
食事が進むと全員が自分のスマホを見ていました。



セロリと魚介類の野菜炒めにはなぜか梅の花が飾り書きされています。
緑の丸いのはメロンで、これがなかなか味に一癖を与えていました。



こんなのが食べたかった、なレタス包み。
最初の一皿はボーイさんがレタスに入れてサーブしてくれます。



デザートは・・・なんか忘れました。



この前の晩は、まるでサウナの中を歩くような蒸し暑い中、
扶輪社のメンバーにお誘いを受けて、町のレストランに行きました。
このあいだの電気ラケットで虫を叩いていた店と、日航ホテルのレストランの
ちょうど間くらいのランクのレストランです。

足元にご注意。と日本語でも一段高くなった部分に書いてあるレストラン。



現地に大隈大学(仮名)から派遣されて留学業務を担当している日本人の方、
現地で新島大学(仮名)の同じく業務をしている台湾人女性、その同僚、
そしてわたしたちの5人で食卓を囲みました。

大隈大学の方は大陸でも何年か仕事をされていたそうで、
中華圏に関しては単身赴任4年目というベテラン、女性はやはり新島大学出身で、
留学時代は天神橋に住んで京都まで通ったというディープ関西を知り尽くした人。
ここでも会話は全て日本語です。

現地の人しか行かないような台湾料理店で台湾人や現地在住日本人と
珍しい台湾独特の料理を囲むひととき。

こういうのも文化交流というものかもしれないと思いながらカラスミを
大根に載せたものに舌鼓を打ちます。



これは台湾風オムレツのような感じ。カニ玉という感じの味でした。



台湾はエビの料理の仕方が上手いと思いました。
プリプリした歯ごたえのエビをオレンジソースと絡めてあります。



ご飯の上にいきなり真っ二つに切断されたカニのご遺体が!
なんども言うようですが、わたしはカニも蟹味噌もどちらかというと苦手です。
胴体の部分はありがたくいただきましたが、脚の肉までせせるような
そんな根気はとても持ち合わせません。カニさんごめんなさい。



ここでも空芯菜。
中が空洞になっているので空芯菜ですが、くせがなく食べやすいので
緑のものというとこの空芯菜のニンニク炒めが出てきます。



たくさんでいただくと、たくさんの種類の料理が食べられるのがよろしい。
唐辛子でピリリと辛くした鳥料理。



そしてデザートはピーナツ餅と、(これはおいしかったよ~)



おそらく日航ホテルのレストランで出たのと同じデザート。

このレストランでも周りは全て集団の台湾人ばかりで、
どういうのか、全員がものすごく大きな声で談笑するので、
テーブルの会話が聞き取りにくくて大変苦労しました。



このメンバーでも話題はそのうち政治に移りました。

女性の母親はいわゆる台湾の部族出身だそうで、やはりその出自からも
台湾の国の在り方や中国との関係に無関心でいられるはずがないのです。
そして日本に留学した台湾人は例外なく「日本派」になり「台湾独立」派となるようです。

日本留学で大陸からの留学生とは、同じ中国語が喋れるにもかかわらず、
向こうがその手の話題になった途端、

「独立なんかしたら(台湾を)許さない」

なんてことを平気で言うので、必要以上の接触をしたくなかったし、留学生の間では
むしろ韓国からの学生とつき合うほうが気が楽だった、と彼女は語っていました。




さて、先日日本に台風がきたことがありましたが、わたしたちが台湾にいたのがまさにそのとき。
こちらでは台風はほぼ直撃したので、それなりに爪痕を残したようです。
このニュースは

友達を訪ねるために出かけたらに台風のせいで車に石が落ちてきて、運転手は軽傷を負った。

でいいのかな?



こちらはわかりやすい。

街路樹が台風で倒れてきたとき、樹にあった蜂の巣が頭に直撃して人が怪我をした。

ですよね。
という感じでこの日1日中こういうほのぼのした?ニュースをやっていましたが、
人が亡くなったり重傷を負うような深刻な被害は全くなかったようで何よりです。




言っていることはわからないけど、画面を見るとニュースの内容もわかってしまう世界。

日本語は普通にあちらこちらで通じるし、万が一住むことになったとしても、
(紙を捨ててはいけないトイレが時々あること以外は)全然大丈夫だと思います。


台湾の「現在」は、モダンとオシャレと、政治に熱い関心を持つ台湾人と、
ラケットで虫を退治するレストランと、たくましいホテル従業員、
そしてどこにいっても値段なりに決して裏切られない美味しさの料理でした。


またぜひ機会があれば訪れてみたいと思います。




 


台湾的現在~ロー・ファームと小籠包

2015-08-07 | お出かけ

台湾で李登輝元総統の講演を聞くという予定以外、なにもなしで
台湾に行ったわたしたちですが、計画せずともあちこちからお誘いが入り、
イベントにも食事の場所にも頭を悩ませる必要はありませんでした。

まず、TOが日本ですでにお会いしたことのある女性弁護士、
京都大学の法学部に留学していて日本の法律を勉強し、
現在は台湾の法律事務所で日台の企業法務にかかわっている張先生が、
事務所見学とそのあとの昼ごはんにお誘いくださいました。

張先生は「かおり」という日本名も(仕事上)持っていて、日本人からは
「かおり先生」と、まるで幼稚園の先生のように呼ばれています。 
京都大学に留学したのは実務のためでなく学者になるためだったそうですが、
いろいろあって、’弁護士ではないのに’法律業務をしているということでした。

日本でTOと出会ったのは、彼女が東北大震災のあとのボランティアに、
台湾の扶輪社を通じてやってきて、TOの所属する扶輪社と交流をしたからです。



わたしたちはホテルからタクシーで事務所のあるビルに向かいました。
台湾のタクシー運転手は、日本語も英語もしゃべれる人はほとんどいませんが、
住所を見せるだけで間違いなく目的地をわかってくれます。
ニューヨークのように、タクシーは皆「イエローキャブ」で見つけやすく、
町中を走り回っているのですぐ捕まえることができ、おまけに安い。



大理石の床の、大変立派な金融ビルのフロア4階をその法律事務所が占めています。
テナントはなく、回転ドアのフロアには受付があるだけの典型的なオフィスビル。



エレベーターを降りると受付のカウンターがあり、映画で見るアメリカの法律事務所と
全く同じような作りでした。

「常在」というのは何か意味があるのではなく、単に「常」さんと「在」さんが
創立した事務所という意味だろうと思われます。

ここで「かおり先生」を呼び出してもらいました。



所属弁護士の名前が金文字で記された重厚な名簿。

ジム、ジェニファー、ウェリントン、スティーブ、ジャッキー、ショーン。
ルーシー、ウェンディ、パメラ、イーサン、エディ、モニカ。ケヴィン。
「エイブラハム」なんて名前もあります。

こんなイングリッシュネームがほぼ全員に付けられています。
他の国の国民には発音できない音が多いので、中華系はこのような名前を公式に持ちますが、
上海のホテルで支配人をしていた人から聞いたところによると、ホテル従業員の名前は
重ならないようにいくつも用意されていて、たとえば「ヴィンセント」が辞めたら、
次に入ってきた従業員が「ヴィンセント」となるのだということでした。

この事務所でもある程度そういう配慮の元に、他の人と重ならないような名前を
入所した時に選ぶのかと思われます。
ただし、留学などですでに自分の通名を持っている人はそれを踏襲するため、
同名の人も何人かはいます。

しかし中には断固として通名を持たないという主義の人もいて、
イチェンとかシンヤン、ランヤなどという名前もありました。
かおり先生はこの名札にも「KAORI」と記名されています。



かおり先生は「法学士」というタイトルで雇用されており、法学士だけでも何人かがいます。
この名札の「カリフォルニア・バー」「ニューヨーク・バー」「メリーランド・バー」
は、それぞれの州で行われる弁護士資格試験に合格し、資格を持っている弁護士です。

この中でもニューヨーク・バーは全米で最も難関で、アメリカ人の法学部出身者でも
3~40%が不合格になるというものです。
JFKの息子のジョン・ケネディ・ジュニア(飛行機事故で死んだ人)が受けても受けても通らず、
国民は息を飲んで注目していたということがありました。
結局彼は資格切れになるのを待たず受験をやめてしまったということでしたが。

この後わたしたちは会議室に通され、この事務所の大ボスの蔡先生、そして
かおり先生としばらく歓談に興じました。
法律関係の話は残念ながらよくわかりませんでしたが、話はすぐに政治関係に移りました。
台湾人は、地勢的にも歴史的にも否応でも「国のアイデンティティ」を自ら
問わなくてはいけない国に生まれたものの宿命として、政治に大変関心を持っています。

ボス弁の蔡先生もかおり先生も、お話を伺っている限り民族独立派であり、
大陸よりの国民党馬政権の施策には問題を感じているように見えました。
前回の総統選のときわたしたちはたまたま台湾にいましたが、
民進党の「台湾自治・平和的融和」を主張する蔡英文女史と「一つの中国」を目指す
馬英九氏の対決は僅差で馬英九が勝利し、総統になったわけです。

この選挙の時の投票率は70%以上であったと言いますが、年々減少する投票率、
とくに20歳代の若者のそれが30パーセント代という我が日本と比べれば、
台湾人の政治に対する関心の強さ(というかこちらが本当だと思うのですが)
がお分かりいただけるかと思います。

ところで、この事務所のビルの近くで「ポール」というパリ発のパン屋を見かけました。
昔パリに滞在したとき、朝焼きたてのクロワッサンを食べるために
アパルトマンから散歩がてら30分近く歩いて通った店です。
その後日本にも進出して今やどこでも食べられるようになったわけですが、
台湾にもあるのかと少しばかりびっくりしました。

雑談の中でそのことを言うと、蔡先生は

「ポールはわたしがやっているんですよ。マレーシアで業務を行いました」

この会社の法務を請け負っているということのようです。
ちなみに京大に留学していたかおり先生も蔡先生も日本語は超堪能。
この法律事務所には「日本語チーム」、つまり日本に留学していた関係で
日本語がしゃべれて日本との法務を仕事にしている弁護士・法学士が10人いるそうです。


かおり先生はわたしたちを、そんな「日本チーム」、日本語が喋れる弁護士の中から
若手の二人といっしょにランチに誘ってくれました。

「小籠包の美味しいお店」

ということで、意外なことにタクシーに乗って連れて行ってくれたのはSOGO。
 


なんというお店なのかこれを見ても全くわかりませんが’(笑)
これが台湾人が美味しいと認める小籠包がある店です。
SOGOの上の方のレストラン街にありますのでどうぞご参考までに。



ここから下界を眺めたのが冒頭写真ですが、高層ビルの下には
信じられないくらい広い範囲のバラック屋根が広がっていました。
おそらく庶民的な店の連なる市場だったりするのでしょう。



台湾の食堂というのはどこにいっても人で賑わっています。
皆たくさんで食べるのが好きなようで、ふたり連れより4人かそれ以上で
ワイワイ言いながらテーブルを囲むのを好むようです。



何が食べたいかメニューを見ている時に聞かれましたが、日本人のわたしたちには
何をどう頼むのがいいのかさっぱりわからなかったので、台湾チームにお任せしました。

三角のケーキのようなのは大根もち、蒸し鶏、空芯菜。



チキンスープは生姜が効いていてあっさり、しかし旨味があります。



そしてここにきたからには小籠包は外せないということで、一人二つづつ。


かおり先生が連れてきたアソシエイトの男性の方は、東京大学に留学していたそうです。
日本で知り合った留学生仲間と結婚して、今は「愛妻家」で有名な呉先生。
女性はそのまま丸の内を歩いていそうなおしゃれで可愛らしい独身の王先生。
王先生は留学していないそうですが、そのわりに日本語うますぎ。

中国語圏の人々の語学能力の高いのにはいつも驚かされます。


食事をしながら彼ら若い法律家たちの「今」をお聞きしましたが、
台湾でも弁護士はなるのが難しく、仕事も大変であるのにもかかわらず、
お給料はそんなに高いというわけではないということでした。

もちろんそれはアソシエイトの間だけのことで、パートナーになって
法律事務所でも持てば話はだいぶ違ってくるのかもしれませんが。

さて、楽しくランチを終えた後、わたしたちは仕事に戻る三人と再会を約束して別れ、
暇に任せてSOGOの中をぶらぶら歩いてみました。



上から1731年、1810年、1850年、1875年、1900年、そして1969年に制定された
現在のと同じヘンケルスの商標。
ヘンケルスが創業300年近い企業とは知りませんでした。
ヘンケルスの正式名は「ツヴァイリング・JA・ヘンケルス」で、ツヴァイリングとは双子の意。

1850年の二人はまるで飲み会のあと酔って放吟しながら歩くおじさんたちみたいです。




家具売り場の高級イタリア製の椅子に付けられた注意の札。
高額商品なので損壊しないようにご注意ください、みたいな?
高額商品でなければ壊してもいいのか、って話なんですが、
こういう札を付けておかないと、大陸の旅行者が座って休憩するからなんでしょう。
(それが証拠になんでも日本語表記を欠かさない台湾で日本語がありませんね)

たまたま昨日の記事で、中国本土に何を思ったか(儲かると思ったからでしょうけど)
出店してしまったIKEAの展示品のベッドで寝る中国人のフリーダムな姿を見ましたが、

基本的に中国人というのは上から下までああいう民度の人達なんで、
台湾の人達もかなり以前から手を焼いているのかと思われます。 





わざわざ空港の近くの閑静な住宅街に車を走らせたのは、
台湾に来ることになってから見た映画「台湾カフェストーリー」の舞台になった
カフェがここにあるから是非お茶を飲んでみたいというTOの希望によるものです。

道の向かいには合格者の写真などデカデカと掲げていない小さな学習塾があり、
音楽教室などもあって、見るからに落ち着いた中流以上高級住宅街といった感じ。

 

街路樹が道を屋根のように覆っている光景は南国の台湾では珍しくありません。
蒸し暑く日差しが強烈なので、このような通りは少しだけですがほっとします。

「台湾カフェストーリー」はあの「非情城市」の監督、ホウ・シャオチェンの作品。
カフェで始めた「物々交換」によってオーナーの美人姉妹がいろんな人生模様と出会う、
という一種のロードムービーみたいな作りの映画だそうです。

タクシーの運転手に住所をいうと、「ここだ」と指差したところはカフェではなく靴屋。
おしゃれなトレーニングウェアのブティックです。
TOが中で聞いてきたところによると、三ヶ月前にオーナーはこの店を買ったとのことでした。



映画の舞台をあっさり売却してしまうのも勿体無い話ですが、
そんなことで儲けようともしないのは都会人だからなのかもしれません。 


仕方がないのでその代わりに近くのカフェに入ってみました。
自由が丘にありそうな、洒落た雰囲気の構えで、内部もおしゃれでした。
客層はこれも日本と同じ、近隣のおしゃれな奥さんたちや若い女性のふたり連れ多し。



手書きではないかと思われる作品が壁に飾られていました。



オレンジティーを注文したら、紅茶の中に本当にオレンジが入ったのが出てきました。
なんかこれじゃないってかんじの味でしたが、まあいいや。


続く。